幽明結界の門が見えてきたところでスピードを緩め、空中に静止した。
足元では乳白色の雲が形を刻一刻と変えている。
時折吹きつける風がびゅうびゅうと音を立てる。
うん、気持ちのいい風。
頬が緩んでいるのが自分でも分かる。
風景を占める雲海の割合もまた程好い。
少な過ぎると空ばかりで殺風景だし、かと言って多すぎると今度は圧迫感が窮屈に感じる。
我儘だって?
芸術家はいつだって自分の感性に正直であるべきなんだよ。
手元に視線を向けるとそこでは私愛用の赤色のキーボードが白い羽根をぱたぱたと動かしている。
まるではしゃいでるみたいに。
ふふ、あんたも分かってるじゃん。
さて、どこかにいい音はないかと目を閉じて意識を集中させようとしたその時。
後方からの風、そこから生み出される音が僅かに変化した。
誰かが近くにいる。
振り返ると、やはり人影があった。
細身で背が高い、見覚えのある顔。
特徴的なツインテールが風で横に靡いている。
間違いない、前にライブで共演した付喪神。
名前は九十九弁々、だったはず。
知人であったことに安心しつつ視線を交わすと、彼女は僅かに目線を逸らした。
なんだか気まずそうにしている。
どうしたのかな。
近づいてみると、まるで引っ張られるように向こうもこちらに接近してきた。
視線は相変わらず一点に定まらず、あちこちを泳いでいる。
変だな、こんなに自信のなさそうな子だったっけ。
先日のライブの風景が追想される。
彼女達の出番は私達の一つ前で、その様子は控室からでもよく見えた。
ステージでの立ち振る舞いは堂に入っていたし、演奏にミスがあったようにも思えない。
終わった後の打ち上げでルナ姉から「あの子達、今日が初ライブだったのよ」って聞いた時にはちょっとびっくりしたっけ。
生まれて間もないのに初舞台をあれだけそつなくこなせるのは大したものだ。
しかも扱っていたのは私達の使う物とは違う、未知の楽器。
二人が琵琶と琴の付喪神であることはその時に知ったけど、彼女達のそれは楽器であると同時に身体の一部にも見えた。
勿論負けるつもりはなかったけど、あの姉妹はいずれ手強いライバルになるかもしれない。
そんな理由もあって、私は少なからず彼女達姉妹に関心を持っている。
気付けばお互いの声がはっきり届くところまで距離が縮まり、私達はほぼ同時に動きを止めた。
目の前の彼女、九十九弁々はどこか緊張した様子ながら、背筋は真っすぐにして佇んでいた。
はー、やっぱり背高いなあ。
メル姉と同じぐらいありそう。
小柄なせいで何かと子ども扱いされることが多い私からすれば、羨ましいことこの上ない。
それはさておき、とりあえず声をかけてみる。
「やっほー、ひさしぶり」
「あ、うん……。ひさしぶり」
んー、やっぱり明らかに前と違うなあ。
まさか私、嫌われてる?
この前一緒にいた時はお互いに元気に挨拶したし、そんなことないと思ってたんだけど。
少し探りを入れてみようか。
「この辺、いつもなら誰もいないんだけどよく来るの?」
弁々は少し言葉に詰まりながらも、私の問いに答えた。
「……ううん、今日が初めて」
「そうなんだ、散歩かなにか?」
「……そんな、ところ」
当たり前のことだけど、私達騒霊は年を取らない。
私も姉さん達も、その見た目以上に多くの時間をこの幻想郷で過ごしてる。
たくさんの出会いと別れを経験しながら。
だからそれなりに洞察力はある方だと思ってる。
多分今の弁々の意識は私に向いていない。
なにか他に気になっていることがある、そんな風に思えた。
数拍、無言の時間が流れる。
別に、ここで会話を打ち切ってしまってもよかった。
しかし、弁々は散歩でここに来たと言う割に自分から立ち去ろうとはしなかった。
思い切って、一歩踏み込んでみる。
「何か悩み事?」
私の言葉を聞いた途端、弁々はすっと視線を下げ足元を見つめる。
どうやら図星のようだ。
「私でよかったら、聞くけど」
返事はない。
代わりに下を向いたまま両手の指を絡ませている。
ここまで分かりやすい反応、今時人里の子どもでもしない気がする。
でも、考えてみるとそう不自然なことでもないかもしれない。
外見の大人っぽさからつい忘れがちだけど、彼女は先日逆さのお城が現れた時に生まれたばかり。
その異変が解決してからまだ一カ月ぐらいしか経っていない。
知り合いだって少ないだろうし、心のコントロールもまだ出来ないのかもしれない。
それに気付いた途端、ライバルだと思っていた目の前の彼女に急に庇護欲のような物が湧いてくる。
「話してみたら、楽になるかもしれないよ。それに心の乱れは音にも出るってよく言われてるからね」
ルナ姉の受け売りだけど、と心の中で付け足す。
弁々は相変わらず黙ったままだったけど、やがて慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
私は時折相槌を打ちながらそれを聞いた。
「あー、なるほどね」
「私、どうしていいか分からなくて……。お願い、誰にも言わないで」
全てを話し終えた彼女は私の手を握り懇願する。
手の震えがそのまま彼女の不安を表しているようだ。
「大丈夫だよ、言わない言わない」
私がそう言うと一応は安心したのか、ゆっくりと手を離した。
要するに悩みはうちの長女、ルナサ・プリズムリバーのことらしい。
きっかけはルナ姉が同じ弦楽器の奏者であること。
そして演奏する姿やその音に強く惹かれたこと。
何より、規模の大きなイベントに慣れていない自分達に気を遣ってくれたこと。
それ以来ずっとルナ姉のことが気になっているらしい。
「で、後日一対一で話せるチャンスがあったけど上手く会話が出来なかったと」
「うん、それで……嫌われたかもしれないと思って」
声が次第に小さくなっていく。
まるで悪いことをして叱られた子どものようだ。
しばし頭の中で考えを巡らせる。
少なくともルナ姉が弁々を嫌う理由はないはずなんだけど。
目の前の本人はみるみる顔色を悪くしていく。
一体何があったのだろうか。
「嫌じゃなかったら教えて欲しいんだけど、どんなこと話したの?」
「音楽にかける気持ちとかこだわりとか……」
相槌を打ちながら続きを促す。
「うんうん、それに対してルナ姉はどんな反応だった?」
「素敵ねとか、いいと思うとか、返事はしてくれたんだけど……」
ああ、もしかして。
「その時のルナ姉ってどんな顔してた?」
「あんまり表情が変わってなかった、と思う。だからつまらないこと話してしまったかな、って……」
「あー、それ多分いつものルナ姉だよ」
「え、でも……」
思わず溜息をつきたくなる。
今に始まったことじゃないけど、ルナ姉ももうちょっと大げさに反応してあげればいいのに。
相手は生まれたばかりで人付き合いもろくにしたことがないんだから。
本人の前では絶対言わないけど、身内の贔屓目抜きでもルナ姉はいいお姉ちゃんだと思ってる。
普段はしっかりしてるのに変なところで抜けてたり、家ではだらしがないところもあるけど。
ただ、真面目で曲がったことが嫌いな性格だから少なくとも後輩を無下に扱うようなことはしないと言い切れる。
問題なのはポーカーフェイスが過ぎるのとある程度打ち解けた相手じゃないと口数が極端に少ないことだ。
このせいで損をしてるというか、ルナ姉は結構誤解されやすい。
仕事の時も交渉事自体はいつも難なくこなすんだけど、後日相手の人から「あの、もしかしてルナサさん怒ってましたか?」って心配そうに探りを入れられたこともある。
これについては本人に言ったことあるし、申し訳なさそうにしてたから悪気がないのも分かってる。
とはいえ、弁々達は寺子屋に通う子どもほどの年数すら生きていないのだ。
このままにしておいてもいい方向に行くとは思えない。
仕方がない、これじゃ可哀想だし一肌脱ぐとしますか。
「うちの姉さん、普段はあんまり感情を顔に出さないんだよ。
それにここだけの話、この前のライブの後弁々達のことはいい意味で気にしてたよ」
「本当?」
弁々の表情がようやく少し明るくなった。
彼女の紫色の瞳に光が宿る。
「嘘なんかつかないよ。で、弁々はもっと色々話をしてみたいんだよね?」
弁々は小さな声量とは裏腹に、はっきりと頷く。
「……うん」
「そっか。ちなみになんだけどさ」
彼女の耳元に小声で囁く。
ここには私たち二人しかいないから、誰かに聞かれる心配なんかないんだけど。
予想通り、彼女は一瞬躊躇っただけで私の問いに対して喜んで首を縦に振った。
「オッケー、じゃ一緒に行こうか」
「えっ……これから?」
提案を聞いた途端弁々はその場で恥ずかしそうにもじもじし始める。
この子、見た目は明らかに私より年上のお姉さん、って感じなのにこういうところを見てると本当にまだ生まれて間もないんだというのがよく分かる。
いつもと違って妹が傍にいないから、これが素顔なのかな。
私は間髪入れずに言葉を紡ぐ。
こういう時は多少強引にでも、引っ張った方がいい。
「うん、今日なら家にいるし」
「でも……」
相変わらず俯いたまま視線を下方向、雲海に向けたままの彼女。
私は静かに半歩分の距離を詰め、頭一つ分ぐらいある身長差を利用して下から見上げるような体勢を取る。
さらに彼女の琵琶を抱く手の甲に自分の手をそっと重ね、もう一言。
「大丈夫、ね?」
弁々は急に手を触れられたことに驚いたのかうっすらと頬を染め、身体をびくんと震わせる。
私と目を合わせざるを得ない状況にしばし逡巡していたけど、やがて決心したように表情を引き締めて言った。
「……うん、分かったわ」
それから私が先導する形で雲海を渡り切ると、見慣れたいつもの霧の湖が見えてくるまで高度を下げる。
そのまま湖を囲む森の奥に向かって飛行を続けると、ひっそりと佇む我が家に帰って来た。
玄関の少し手前に着地すると、館の外までヴァイオリンの音が聴こえてくる。
ルナ姉は多分一階かな。
「じゃ、ちょっと待っててね。後で呼びに来るから」
「う、うん。あの……」
「どうしたの?」
「なんでもない、その……よろしくお願い、します」
「リラックスリラックス、弁々なら大丈夫だよ」
相変わらず不安そうな顔の弁々の肩を軽く叩き、彼女を扉の外で待たせて館に入る。
玄関、廊下を抜けてリビングに足を踏み入れると予想通りルナ姉がヴァイオリンを弾いていた。
表情をちらりと窺うと、普段より細く閉じられた糸目から音に集中しているのが伝わってくる。
部屋の隅、奏者の視界に入らない位置で立ったまま耳を傾ける。
演奏が一段落するまで邪魔はしない。
私達姉妹の、半ば暗黙のルール。
それから一分ほど待ったところで音は止んだ。
演奏を終えたルナ姉が表板に軽く指を滑らせると、ヴァイオリンの霊は音もなくその姿を消した。
「おかえり」
「ただいまルナ姉」
「なにか新しい音、見つかった?」
ルナ姉は私に問いかけながらキッチンで紅茶の用意を始めた。
カップが二つ、私の分も淹れてくれるらしい。
「んー、ぼちぼちかな。それよりルナ姉」
「なに?」
「前一緒のイベントにいた付喪神の子なんだけどさ」
「九十九姉妹のこと?」
ルナ姉は特に表情を変えるでもなく、ポットを傾けながら落ち着いた口調で応える。
カップから香ばしい匂いと湯気が立ち上る。
「そうそう、そのお姉ちゃんの方がルナ姉とお話したいんだってさ」
「いいけど、場所や時間は言ってた? あの子達の家、どこにあるのか全然知らないのよ」
「大丈夫、もう連れてきてるから」
これは予想していなかったのか、ルナ姉は危うくポットを取り落としかけた。
明らかに困惑した様子でこちらに視線を向けてくる。
「え、随分急ね……」
「さっき上空でばったり会って、立ち話したの。
そしたら、ルナ姉にすごく会いたそうだったから連れてきちゃった」
基本的に押しに弱いルナ姉はこういう時、断れない。
それに私はある意味、ルナ姉の願いも叶えてあげたようなものなのだ。
何か言われる前にすかさず畳みかける。
「それにルナ姉、前イベントで初めて見た時言ってたじゃん。
あの子の楽器、弾いたらどんな音がするのかしら、って。
ルナ姉のお願いなら聞いてくれるかもよ?」
ルナ姉は怪訝そうに顔をしかめる。
「それは確かに言ったけど、無理に弾かせてもらおうなんて思ってないわ」
「いいじゃない、弁々にとってきっとルナ姉は憧れの先輩みたいなものなんだよ。
それに二人とも長女で、弦楽器の奏者でもあるじゃん」
ルナ姉は渋る様子を見せながらも、ふと窓の外を見る。
「そんなこと言われても……え、もう来てるのよね?」
「うん、外で待ってる」
「……客人をこれ以上待たせるわけにはいかないわね」
結局、ルナ姉は折れた。
所要時間、約四分。
予想通り。
あとで文句を言われるかもしれないけど、その時はその時でいいや。
普通なら今日は約束だけ取り付けて、後日場所や時間を指定して会わせるんだけど。
それをやると多分前と同じことになりそうだし。
あえてルナ姉に心の準備をさせずに、いきなり対面させてしまう。
好きな人の素の部分が少しでも見えてくれば、弁々も話しやすくなるはず。
テーブル周りの家具の位置をチェックし始めたルナ姉を横目に、自分用のカップに口をつける。
普段から交代で掃除してるから必要ない気もするけど、ルナ姉はこういうのすごく気にするからなあ。
そんなことを考えていると、私が何も言わずに紅茶を飲んでいることに気付いたルナ姉がかすかに非難めいた視線を向けてくる。
私が誤魔化し笑いを浮かべると小さい溜息とともに何か言おうとした。
すかさず窓の外を指差しながら先んじて言葉を被せる。
「二人の紅茶とお茶請けは私が準備してるからさ」
「……早くしなさいよ」
「分かってるって」
ルナ姉が玄関から出て行ったのを見届け、来客用のカップを出す。
さて、お茶菓子だけ出したら後はさっさと退散しないと。
***
玄関扉を開けて外に出るとすぐに来客、九十九弁々の姿が視界に入った。
何やら神妙な様子で琵琶と手首のリングを繋ぐ細い鎖を撫でている。
リリカが急に取り付けた話とはいえ結構待たせてしまったし、急がないと。
傍まで近づくと、彼女は琵琶を両手で支えながら丁寧に頭を下げて礼をした。
「あの、えっと……急にお邪魔してごめんなさい」
「いいのよ、待たせてしまったわね。さ、どうぞ」
彼女を先導して館に入り、リビングに案内する。
四人掛けの長方形のテーブルの長辺に向かい合う形で席につく。
するとその直後、キッチンからリリカがティーセットを乗せたトレイを持って現れ、
白い歯を見せて楽しそうにてきぱきとお茶菓子を並べていく。
いつもの茶葉で淹れたであろうベージュ色の紅茶。
クッキーとスコーンが等間隔に並べられた白いプレート。
姉妹でお茶をする時はなかなか自分で準備しようとしないのに、やけに手際がいい。
普段からやってほしいものだ。
正面に座る弁々との間にうっすらと紅茶の湯気が立ち昇る。
最後に白い角砂糖が入ったシュガーポットがテーブルの中心に置かれた。
「それ入れると甘くなるからよかったら入れてみてね。それじゃ、ごゆっくり」
リリカはトレイを下ろし、弁々に向けてウインクをして去って行く。
玄関から出て行くところを見ると、また音を探しに出かけるのだろうか。
弁々はというと、慌ててリリカに頷くだけだった。
それにつられて、彼女の紫色のツインテールが軽く跳ねる。
やがて、玄関扉の閉まった音がリビングに響いた。
さて、どうしようか。
私は積極的に話題を出すのが得意な方ではない。
弁々のこともまだほとんど知らないし、どこから話を転がしていこうか。
そんなことを考えていると、正対する彼女がそわそわと落ち着きのない様子で何かを言いたそうにしていた。
何か悩み事でもあるのかもしれないし、こういう時は相手が話し出すのを待った方がいいだろう。
私で力になれればいいのだけど。
そんなことを思料していると、彼女が口を開いた。
……これは一体、どういうことなのだろうか。
私がこれまでに弁々から受け取った印象は、ちょっと頑固そうだけど真面目な頑張り屋さん。
加えて、これは直感だけど冗談を真に受けそうな危うさもある。
でも今目の前にいる彼女は、第一声からして全てがおかしかった。
なんとか平静を装って聞き返す。
「……ごめん、ちょっとボーっとしてて聞き逃してしまったの。
もう一度言ってもらってもいいかしら?」
弁々は特に気を悪くするでもなく、丁寧に応える。
「はい、えっと……私を弾いてください!」
頭がくらくらしてくる。
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
それにしても「私を弾いて」とはどういう意味だろうか。
正しくはその手に持っている琵琶を弾いて欲しい、のはず。
この話が一体どこに転がっていくのか、言い知れぬ不安を覚えながらもとりあえず会話を続ける。
「それは……どうして?」
すると目の前の彼女は急に表情を引き締め、軽く息を吸い込む。
なにか重大な告白でもするかのように。
私からすれば今のこの状況だけで既に理解が追い付いていないのだけど。
それから十秒ほど間隔を空けた後、はきはきと語り始める。
紫の眸で真っすぐにこちらを見つめながら。
「私、初めてのライブでルナサさんに色々気にかけてもらえたの……すごく嬉しかったんです。
それに演奏する姿もかっこいいし、ルナサさんのこと、もっとたくさん知りたいって思いました」
はっきりした物言いと声の張りに思わず腰かけている椅子ごと押されそうになる。
私自身、弁々のことは少なからず気になっていたし、仲を深めることを望まれているのは嬉しい。
しかし、それとさっきの提案がどう結びつくのだろうか。
努めて速やかに心を沈め、ゆっくりと応える。
「……ありがとう。
私も貴女のことは気になっていたし、そう言ってもらえるのはとても嬉しいわ」
続く言葉の途中で、弁々が膝上の琵琶をぎゅうと抱きしめる。
まるで年端もいかない子どものような仕草。
ステージに上がっている時とはまるで違う、これが彼女の素顔なのだろうか。
ライブの風景が追想される。
確か出番前に「規模の大きいイベントは初めてで緊張している」旨の不安を吐露していた。
それに対して私は「挨拶から一曲が終わるまでの間に勢いをつけられればあとは練習の通りにするだけできっと大丈夫」と月並みのアドバイスしかしてあげられなかった。
尤も、実際の彼女は妹と二人で数百人の観客を相手にミスの一つもなく、堂々と演目をやり切った。
特に楽器を演奏しながら物語の語りを合間合間に挟む「弾き語り」は初めて目にしたこともあり、強く印象に残っている。
この細い身体のどこから伸びのある音が出るのか、きっと地道なトレーニングの賜物なのだろう。
そして結果は見事、観客からは拍手喝采。
あの演奏を見て熱を滾らせない音楽家はいないだろう。
事実、リリカとメルランもライブ終わりに明らかに彼女達のことを意識していた。
けれど、彼女はまだ生まれたばかりの妖怪だ。
ある意味で普段以上に言葉選びに注意しないといけない相手かもしれない。
当たり前だけど、この世の中には真実と嘘がある。
人も妖怪も、自分たちのような騒霊も、皆が生きていく中で様々な経験を経てそれを学んでいく。
少し悪い言い方をすれば、「騙されることで真贋を見極める力が養われていく」とも言えるかもしれない。
そうして成長するにつれて、次第に会話の中で目の前の相手が言っていることが本当か嘘かを無意識のうちに考えるようになる。
あるいは発言の内容自体は真でも、それが「本音」なのか「建て前」なのか。
少なくとも、今の自分はそれが当たり前になっている。
では、目の前の彼女はどうだろうか。
見ると、弁々は私の次の言葉を待ち遠しそうに見つめ返してくる。
その双眸を微かに震わせながら。
ただ真っすぐに素直な気持ち、好意をぶつけてくる少女。
紅茶を一口だけ飲み、一呼吸置いてから続く言葉を紡いだ。
「それで……私に貴女の琵琶を弾いて欲しいのは、どうして?」
「そうすることで奏者と楽器、ルナサさんと私はよりお互いを理解し合えるんです!
だから……お願いします!」
弁々が勢いよく頭を下げると彼女の琵琶と手首のリングをつなぐ鎖がテーブルに当たりしゃん、と音を立てた。
私は慌てて頭を上げさせる。
「うん、ありがとう。とりあえず、頭を上げて?」
「はい!」
いい返事。
なにかと口答えばかりする妹達にも見習わせたい。
直後、子憎たらしい三女のしてやったりな顔が脳裏を過る。
どう考えても、弁々をここに連れてくるまでに吹き込んだ嘘以外にあり得ない。
リリカは私達姉妹の中でも特に話し好きだ。
音集め以外でもよく一人でいろんな場所に足を運んでいる。
それだけならいいのだけど、しばしば嘘をついたり悪戯をしたりするのが困った子でもある。
本人は「音楽家たるもの世情にも通じ常に新しい情報、刺激を取り入れないといけないから」と、虫のいい理屈を並べ立てていたけど。
私に言わせればそれは単に外で遊び歩く口実が欲しいだけではないのか、と思う。
さて、どうするか。
それはうちの妹がついた嘘だから真に受けちゃだめよ、と諭すのは簡単なことだ。
でも、彼女の期待に満ちた朗らかな笑みを見るとその一言が言えない。
紅茶を飲んだばかりなのに喉がしきりに渇きを訴えてくる。
ああ、もう。
何故こんなにも面倒なことになっているのか。
またもリリカの声が勝手に、まるで幻聴のように聞こえてくる。
悪戯を企んでいる時のように、愉快そうにくすくす笑いながら。
『いいじゃん、弾かせてもらえば』
三女の幻影を無理矢理脳内から追い出し、気を静める。
今この子が話していることは、きっと冗談ではなく全てが本気。
もっとお互いのことを理解し合いたい、自分を弾いてもらえばそれが出来る、と。
私自身も弁々とは同じ音楽を愛する者としていい関係を築いていきたい。
彼女がここまで直線的なアプローチをする子だとは思っていなかったから、すっかり気圧されてしまったけど。
一応、大抵の弦楽器は演奏出来ると自負している。
琵琶も以前寺子屋の教師に頼まれて子ども達の前でほんの少しだけ弾いて見せたことはある。
ただ、これから演奏しようとしているのは世界にただ一つの楽器、彼女そのもの。
視線をやると、特徴的な赤い光の弦が先刻話し始めた時よりも微かにその光を強めていた。
普通の琵琶は四本か五本の弦を都度指で押さえることでその音色を変化させる。
しかし彼女の抱くそれには覆手も転手もなく、弦に張力がかかっているようには見えない。
全てが未知の楽器。
でも、彼女の本気の想いにはこちらも本気で応えなければいけない。
それに、初めて彼女の楽器をはっきりと間近で見たせいだろうか。
膝の上に置いた手が好奇心に震えている。
握った手を解き、穏やかな声を作る。
「……うん、分かったわ。じゃあその……よろしくお願いします?」
私の答えを聞いた途端、目の前の彼女が今度は両手の指を絡ませる。
鎖が再びしゃらん、とさっきよりも大きな音を立てた。
「……ありがとうございます!」
うん、本当にいい返事。
でも、これからは他人の言うことをなんでもかんでも信じたらだめよ?
私がリビングの床に腰を下ろすと、彼女も私の隣に座り込んだ。
長い紫色のツインテールが床の茶褐色に重なり、その髪先が溶けるように広がる。
「……貴女の琵琶は、どうやって弾けばいいの?」
「思えば、いいんです」
「え?」
「ルナサさんが奏でたい音をイメージしながら弦を弾いてもらえれば、私がその音を響かせます」
普通の人妖がこれを聞けば、きっと首を傾げることだろう。
でも、既に私の中に疑念が入る余地はない。
彼女ほどの奏者が言うのなら、きっとそうなのだ。
気付けば、彼女の顔は落ち着いた静かな表情へと変わっている。
出番を待つ演奏家が集中力を高めている、凛々しい姿。
「髪、痛めるといけないから……ちょっといいかしら?」
「……はい」
許可を得て彼女の髪に触れるとその手触りはとても柔らかかった。
この長さを手入れするのは相当大変だろう。
演奏中に誤ってひっかけることがないよう、指で梳いた髪を弦の反対側に向かって下ろす。
途中、弁々が耳をぴくりと震わせた。
「ごめんなさい、痛かったかしら?」
「いえ、その……ちょっとくすぐったかっただけです」
「ごめんね、もう終わるわ」
「はい……」
彼女が消え入りそうな声で返事をしたところで、言葉通り髪を整え終える。
さて、後は彼女の琵琶を借りるのだけど。
弁々は自分の琵琶と手首をつなぐ鎖を外す気はないようだ。
鎖の長さは大体五十センチというところ。
薄々予想は付いていたけど、この状態で琵琶を抱えようとすると。
「弁々、その……」
近い、近すぎる。
彼女は当たり前のように琵琶を抱える私のすぐ後ろで白い脚を崩している。
さらに、時折口元から漏れる呼吸音が耳朶に響き渡る。
リングを外さない理由が気になる。
付喪神の彼女にとってこの琵琶は大切な半身だからたとえ一時でも手放したくないということなのか、それとも。
そんなことを考えていると耳元から微かな熱を帯びた声がした。
「……ルナサさん」
「……なあに?」
「……お願いします」
もう考えている時間はない。
視線は動かさないまま、静かに答える。
「……うん」
弁々が体勢はそのままに、覗き込むように視線を横からこちらに向けてきた。
その目はまるでこのまま眠ってしまうのではないかというぐらい、細く閉じかけている。
「じゃあ……いくわね」
「……はい」
返事と同時に彼女の髪が僅かに揺れた。
合図と共に、いよいよ弦に指をかける。
指の腹を乗せると、見た目とは裏腹に程よくかかった張力が指先を押し返してくる。
後は彼女が言った通り、私のイメージする音を奏でるのだ。
覚悟を決め、横に滑らせた指で弦を弾く。
ピン、と濁りのない澄んだ音が鳴る。
その後は考えるよりも先に、手が光の線をかき鳴らしていく。
曲は弁々も好きだと言ってくれた私達三姉妹の曲、『幽霊楽団』。
ただしテンポは普段よりもずっと遅い、静かな曲調のヴァイオリンソロアレンジ。
ライブには全く向かないし、一人でいる時以外は弾いたことがない。
初めは弦の微妙な高低を探ろうと試みたけど、それは最初だけだった。
彼女が言った通り私のイメージがほぼそのままに、琵琶の鋭い音として放出されている。
まるで楽器を通して二人の精神がつながっているように。
余裕が出てきたので、一瞬だけ視線を横に走らせる。
弁々は眼睛を潤ませながら頬を紅く染めていた。
自身の動悸が激しくなるのが分かる。
思わず弦をかき鳴らす指が空を切りそうになるも手首のスナップを利かせカバーした。
思考が霧散する。
勿論、今手を止めることは出来ない。
この心音の高まりは私の中のどこから来ているものなのか。
不慣れな楽器を演奏している緊張から?
下手なことをして彼女にショックを与えたくないから?
失望されたくないから?
多分、全部違う。
今心中を駆け巡っているのはきっと理屈で説明できるものじゃない。
弁々の真っすぐ過ぎる感情と奏でられる音の奔流。
それが文字通り私の心を震わせている。
半ば密着している身体だけじゃない、琵琶の方からも彼女の熱が伝わってくる。
彼女と一緒に音を奏でるのが、この時間が、楽しい。
無意識のうちに言葉が出てくる。
「……楽しいわ、とっても」
その直後、耳元に嗚咽にも似た声がした。
「ルナサさん、やっと、笑ってくれた……」
同時に安定していた音が急に震え始め、かすれたような音が響く。
直後、先程まで弦にかかっていたはずの私の指は何もない空間を引っ掻いた。
はっとして彼女の方を見ると、今にも涙が零れそうなほど目元を赤く腫らしている。
そうか、この子は今までずっと……。
琵琶を片手で抱いたまま、もう片方の手で腰に手を添え、そっと抱き寄せる。
彼女の熱い涙がベストに染み込んでいく。
服を濡らしたことを言っているのか、身体を震わせながら「ごめんなさい」と囁く声が聞こえる。
私は聞こえないふりをして今度は強く、離さないように彼女を抱きしめる。
ごめん、ごめんね、弁々。
まだまだ子どもなのは、私の方だった。
貴女のことをより知ろうとする前に、やらなきゃいけないことが、あったのに。
思えば、貴女はリリカやメルランに対しては最初から対等語で話していた。
私と一対一で話をした時には、敬語。
最初に話をしたのはライブの相談を持ち掛けられた時だったから、その時の流れで今も敬語なのかなと、深く考えていなかった。
「……弁々」
「……ルナサさん」
気持ちをはっきりと言葉で。
「……私、貴女と一緒にいるの、すごく楽しいわ」
表情を上手く作れている自信がないけど、それでも精一杯笑って。
「嬉しい、嬉しいです……」
たったこれだけのことを言うのでも、彼女の話に笑顔で応えるのでも。
出来ることはいくつでもあった、なのにそれをしなかった。
相手がまだ生まれて間もない子であること、優れた奏者であること。
事実だけを見て、自分自身が本当にすべきこと、相手が何を考えているのかを私は全然分かっていなかった。
そんな、想ってくれる子を泣かせてしまうような私にも。
この子はまだ嬉しそうに微笑みかけてくる。
「弁々、また……貴女を弾かせてもらってもいいかしら」
「はい!」
彼女が返事とともに目元を拭うと、ライブの時と同じ明るい表情が顔を出す。
思わず眩しく感じるほどの、素敵な笑顔。
「ありがとう。それからその、私のこともリリカやメルランみたいに、呼び捨てにしてくれたら嬉しいな、なんて……」
言葉の最後は声が小さくなってしまった。
弁々は一瞬きょとんとしていたけど、すぐに元気な声で返事をする。
「はい!」
もう一度、彼女をそっと抱きしめようとすると。
弁々は手首のリングを外し、私が片手で抱えている琵琶をそっと床に下ろさせた。
そして身体をこちらに預け、上目遣いで見つめてくる。
まるで先程まで弾いていた琵琶のように、彼女の躯体が斜めに傾いた形。
「……えへへ、ルナサ、好き」
「……私も」
しばしの間、そのまま見つめ合った。
窓から差し込む斜陽光が私達を明るく照らしている。
翌朝、一階のリビングに降りるとしてやったり顔の三女に出迎えられた。
しかも普段はなかなか自分で準備をしないのにきっちり朝食の支度までして席についている。
こんがり焼けたトーストが紅茶とともにいい香りを漂わせている。
黙ってテーブルに座り、紅茶を一口啜る。
これまた程よい熱さが乾燥した喉に沁みていく。
「ねえねえ、昨日どうだった?」
きっかけを作ってくれたリリカには感謝しているけど、さすがに昨日の出来事をそのままは話せない。
なんとか心中を落ち着かせ、曖昧に答える。
「そうね、いろんなことを話せて楽しかったわ。本当にあの子の琵琶を弾くことになったのは少し驚いたけど」
「よかったじゃん、いいなー。私も今度弾かせてもらおっかな」
「えっ」
反射的に声を出してしまう。
しまった、と思ったがもう遅い。
目の前には赤の楽士服を纏った小さな悪魔が邪悪な笑みを浮かべている。
熱心なファンにはこれが天使の微笑みに見えるらしいが、こんな天使がいてたまるかと全力でノーを突きつけたい。
「そっかー、欲張りさんなルナ姉はあの子を独占したいんだねえ、私も弦楽器弾けるのになー」
「誰もそんなこと」
これはまずい。
このままメルランや外の人妖にもばらされたら。
焦って席を立とうとしたところで、リリカが急に真面目な口調になって続ける。
「冗談だよ、でもさ」
先程までの笑みは鳴りを潜め、普段の表情に戻っている。
「ルナ姉にもし伝えたい気持ちがあるなら、もっと意識して表に出さなきゃきっと伝わらないよ」
「そうね。……その、昨日はありがとう、リリカ」
「えー、なんのこと? さて、今日も音探しに行ってくるから、じゃあねー」
リリカはとぼけたままそれ以上は昨日のことについて何も聞いてこなかった。
……ありがとう。
……今日は私も、散歩にでも行こうかな。
誰かに会う機会があるかどうか、分からないけれど。
足元では乳白色の雲が形を刻一刻と変えている。
時折吹きつける風がびゅうびゅうと音を立てる。
うん、気持ちのいい風。
頬が緩んでいるのが自分でも分かる。
風景を占める雲海の割合もまた程好い。
少な過ぎると空ばかりで殺風景だし、かと言って多すぎると今度は圧迫感が窮屈に感じる。
我儘だって?
芸術家はいつだって自分の感性に正直であるべきなんだよ。
手元に視線を向けるとそこでは私愛用の赤色のキーボードが白い羽根をぱたぱたと動かしている。
まるではしゃいでるみたいに。
ふふ、あんたも分かってるじゃん。
さて、どこかにいい音はないかと目を閉じて意識を集中させようとしたその時。
後方からの風、そこから生み出される音が僅かに変化した。
誰かが近くにいる。
振り返ると、やはり人影があった。
細身で背が高い、見覚えのある顔。
特徴的なツインテールが風で横に靡いている。
間違いない、前にライブで共演した付喪神。
名前は九十九弁々、だったはず。
知人であったことに安心しつつ視線を交わすと、彼女は僅かに目線を逸らした。
なんだか気まずそうにしている。
どうしたのかな。
近づいてみると、まるで引っ張られるように向こうもこちらに接近してきた。
視線は相変わらず一点に定まらず、あちこちを泳いでいる。
変だな、こんなに自信のなさそうな子だったっけ。
先日のライブの風景が追想される。
彼女達の出番は私達の一つ前で、その様子は控室からでもよく見えた。
ステージでの立ち振る舞いは堂に入っていたし、演奏にミスがあったようにも思えない。
終わった後の打ち上げでルナ姉から「あの子達、今日が初ライブだったのよ」って聞いた時にはちょっとびっくりしたっけ。
生まれて間もないのに初舞台をあれだけそつなくこなせるのは大したものだ。
しかも扱っていたのは私達の使う物とは違う、未知の楽器。
二人が琵琶と琴の付喪神であることはその時に知ったけど、彼女達のそれは楽器であると同時に身体の一部にも見えた。
勿論負けるつもりはなかったけど、あの姉妹はいずれ手強いライバルになるかもしれない。
そんな理由もあって、私は少なからず彼女達姉妹に関心を持っている。
気付けばお互いの声がはっきり届くところまで距離が縮まり、私達はほぼ同時に動きを止めた。
目の前の彼女、九十九弁々はどこか緊張した様子ながら、背筋は真っすぐにして佇んでいた。
はー、やっぱり背高いなあ。
メル姉と同じぐらいありそう。
小柄なせいで何かと子ども扱いされることが多い私からすれば、羨ましいことこの上ない。
それはさておき、とりあえず声をかけてみる。
「やっほー、ひさしぶり」
「あ、うん……。ひさしぶり」
んー、やっぱり明らかに前と違うなあ。
まさか私、嫌われてる?
この前一緒にいた時はお互いに元気に挨拶したし、そんなことないと思ってたんだけど。
少し探りを入れてみようか。
「この辺、いつもなら誰もいないんだけどよく来るの?」
弁々は少し言葉に詰まりながらも、私の問いに答えた。
「……ううん、今日が初めて」
「そうなんだ、散歩かなにか?」
「……そんな、ところ」
当たり前のことだけど、私達騒霊は年を取らない。
私も姉さん達も、その見た目以上に多くの時間をこの幻想郷で過ごしてる。
たくさんの出会いと別れを経験しながら。
だからそれなりに洞察力はある方だと思ってる。
多分今の弁々の意識は私に向いていない。
なにか他に気になっていることがある、そんな風に思えた。
数拍、無言の時間が流れる。
別に、ここで会話を打ち切ってしまってもよかった。
しかし、弁々は散歩でここに来たと言う割に自分から立ち去ろうとはしなかった。
思い切って、一歩踏み込んでみる。
「何か悩み事?」
私の言葉を聞いた途端、弁々はすっと視線を下げ足元を見つめる。
どうやら図星のようだ。
「私でよかったら、聞くけど」
返事はない。
代わりに下を向いたまま両手の指を絡ませている。
ここまで分かりやすい反応、今時人里の子どもでもしない気がする。
でも、考えてみるとそう不自然なことでもないかもしれない。
外見の大人っぽさからつい忘れがちだけど、彼女は先日逆さのお城が現れた時に生まれたばかり。
その異変が解決してからまだ一カ月ぐらいしか経っていない。
知り合いだって少ないだろうし、心のコントロールもまだ出来ないのかもしれない。
それに気付いた途端、ライバルだと思っていた目の前の彼女に急に庇護欲のような物が湧いてくる。
「話してみたら、楽になるかもしれないよ。それに心の乱れは音にも出るってよく言われてるからね」
ルナ姉の受け売りだけど、と心の中で付け足す。
弁々は相変わらず黙ったままだったけど、やがて慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
私は時折相槌を打ちながらそれを聞いた。
「あー、なるほどね」
「私、どうしていいか分からなくて……。お願い、誰にも言わないで」
全てを話し終えた彼女は私の手を握り懇願する。
手の震えがそのまま彼女の不安を表しているようだ。
「大丈夫だよ、言わない言わない」
私がそう言うと一応は安心したのか、ゆっくりと手を離した。
要するに悩みはうちの長女、ルナサ・プリズムリバーのことらしい。
きっかけはルナ姉が同じ弦楽器の奏者であること。
そして演奏する姿やその音に強く惹かれたこと。
何より、規模の大きなイベントに慣れていない自分達に気を遣ってくれたこと。
それ以来ずっとルナ姉のことが気になっているらしい。
「で、後日一対一で話せるチャンスがあったけど上手く会話が出来なかったと」
「うん、それで……嫌われたかもしれないと思って」
声が次第に小さくなっていく。
まるで悪いことをして叱られた子どものようだ。
しばし頭の中で考えを巡らせる。
少なくともルナ姉が弁々を嫌う理由はないはずなんだけど。
目の前の本人はみるみる顔色を悪くしていく。
一体何があったのだろうか。
「嫌じゃなかったら教えて欲しいんだけど、どんなこと話したの?」
「音楽にかける気持ちとかこだわりとか……」
相槌を打ちながら続きを促す。
「うんうん、それに対してルナ姉はどんな反応だった?」
「素敵ねとか、いいと思うとか、返事はしてくれたんだけど……」
ああ、もしかして。
「その時のルナ姉ってどんな顔してた?」
「あんまり表情が変わってなかった、と思う。だからつまらないこと話してしまったかな、って……」
「あー、それ多分いつものルナ姉だよ」
「え、でも……」
思わず溜息をつきたくなる。
今に始まったことじゃないけど、ルナ姉ももうちょっと大げさに反応してあげればいいのに。
相手は生まれたばかりで人付き合いもろくにしたことがないんだから。
本人の前では絶対言わないけど、身内の贔屓目抜きでもルナ姉はいいお姉ちゃんだと思ってる。
普段はしっかりしてるのに変なところで抜けてたり、家ではだらしがないところもあるけど。
ただ、真面目で曲がったことが嫌いな性格だから少なくとも後輩を無下に扱うようなことはしないと言い切れる。
問題なのはポーカーフェイスが過ぎるのとある程度打ち解けた相手じゃないと口数が極端に少ないことだ。
このせいで損をしてるというか、ルナ姉は結構誤解されやすい。
仕事の時も交渉事自体はいつも難なくこなすんだけど、後日相手の人から「あの、もしかしてルナサさん怒ってましたか?」って心配そうに探りを入れられたこともある。
これについては本人に言ったことあるし、申し訳なさそうにしてたから悪気がないのも分かってる。
とはいえ、弁々達は寺子屋に通う子どもほどの年数すら生きていないのだ。
このままにしておいてもいい方向に行くとは思えない。
仕方がない、これじゃ可哀想だし一肌脱ぐとしますか。
「うちの姉さん、普段はあんまり感情を顔に出さないんだよ。
それにここだけの話、この前のライブの後弁々達のことはいい意味で気にしてたよ」
「本当?」
弁々の表情がようやく少し明るくなった。
彼女の紫色の瞳に光が宿る。
「嘘なんかつかないよ。で、弁々はもっと色々話をしてみたいんだよね?」
弁々は小さな声量とは裏腹に、はっきりと頷く。
「……うん」
「そっか。ちなみになんだけどさ」
彼女の耳元に小声で囁く。
ここには私たち二人しかいないから、誰かに聞かれる心配なんかないんだけど。
予想通り、彼女は一瞬躊躇っただけで私の問いに対して喜んで首を縦に振った。
「オッケー、じゃ一緒に行こうか」
「えっ……これから?」
提案を聞いた途端弁々はその場で恥ずかしそうにもじもじし始める。
この子、見た目は明らかに私より年上のお姉さん、って感じなのにこういうところを見てると本当にまだ生まれて間もないんだというのがよく分かる。
いつもと違って妹が傍にいないから、これが素顔なのかな。
私は間髪入れずに言葉を紡ぐ。
こういう時は多少強引にでも、引っ張った方がいい。
「うん、今日なら家にいるし」
「でも……」
相変わらず俯いたまま視線を下方向、雲海に向けたままの彼女。
私は静かに半歩分の距離を詰め、頭一つ分ぐらいある身長差を利用して下から見上げるような体勢を取る。
さらに彼女の琵琶を抱く手の甲に自分の手をそっと重ね、もう一言。
「大丈夫、ね?」
弁々は急に手を触れられたことに驚いたのかうっすらと頬を染め、身体をびくんと震わせる。
私と目を合わせざるを得ない状況にしばし逡巡していたけど、やがて決心したように表情を引き締めて言った。
「……うん、分かったわ」
それから私が先導する形で雲海を渡り切ると、見慣れたいつもの霧の湖が見えてくるまで高度を下げる。
そのまま湖を囲む森の奥に向かって飛行を続けると、ひっそりと佇む我が家に帰って来た。
玄関の少し手前に着地すると、館の外までヴァイオリンの音が聴こえてくる。
ルナ姉は多分一階かな。
「じゃ、ちょっと待っててね。後で呼びに来るから」
「う、うん。あの……」
「どうしたの?」
「なんでもない、その……よろしくお願い、します」
「リラックスリラックス、弁々なら大丈夫だよ」
相変わらず不安そうな顔の弁々の肩を軽く叩き、彼女を扉の外で待たせて館に入る。
玄関、廊下を抜けてリビングに足を踏み入れると予想通りルナ姉がヴァイオリンを弾いていた。
表情をちらりと窺うと、普段より細く閉じられた糸目から音に集中しているのが伝わってくる。
部屋の隅、奏者の視界に入らない位置で立ったまま耳を傾ける。
演奏が一段落するまで邪魔はしない。
私達姉妹の、半ば暗黙のルール。
それから一分ほど待ったところで音は止んだ。
演奏を終えたルナ姉が表板に軽く指を滑らせると、ヴァイオリンの霊は音もなくその姿を消した。
「おかえり」
「ただいまルナ姉」
「なにか新しい音、見つかった?」
ルナ姉は私に問いかけながらキッチンで紅茶の用意を始めた。
カップが二つ、私の分も淹れてくれるらしい。
「んー、ぼちぼちかな。それよりルナ姉」
「なに?」
「前一緒のイベントにいた付喪神の子なんだけどさ」
「九十九姉妹のこと?」
ルナ姉は特に表情を変えるでもなく、ポットを傾けながら落ち着いた口調で応える。
カップから香ばしい匂いと湯気が立ち上る。
「そうそう、そのお姉ちゃんの方がルナ姉とお話したいんだってさ」
「いいけど、場所や時間は言ってた? あの子達の家、どこにあるのか全然知らないのよ」
「大丈夫、もう連れてきてるから」
これは予想していなかったのか、ルナ姉は危うくポットを取り落としかけた。
明らかに困惑した様子でこちらに視線を向けてくる。
「え、随分急ね……」
「さっき上空でばったり会って、立ち話したの。
そしたら、ルナ姉にすごく会いたそうだったから連れてきちゃった」
基本的に押しに弱いルナ姉はこういう時、断れない。
それに私はある意味、ルナ姉の願いも叶えてあげたようなものなのだ。
何か言われる前にすかさず畳みかける。
「それにルナ姉、前イベントで初めて見た時言ってたじゃん。
あの子の楽器、弾いたらどんな音がするのかしら、って。
ルナ姉のお願いなら聞いてくれるかもよ?」
ルナ姉は怪訝そうに顔をしかめる。
「それは確かに言ったけど、無理に弾かせてもらおうなんて思ってないわ」
「いいじゃない、弁々にとってきっとルナ姉は憧れの先輩みたいなものなんだよ。
それに二人とも長女で、弦楽器の奏者でもあるじゃん」
ルナ姉は渋る様子を見せながらも、ふと窓の外を見る。
「そんなこと言われても……え、もう来てるのよね?」
「うん、外で待ってる」
「……客人をこれ以上待たせるわけにはいかないわね」
結局、ルナ姉は折れた。
所要時間、約四分。
予想通り。
あとで文句を言われるかもしれないけど、その時はその時でいいや。
普通なら今日は約束だけ取り付けて、後日場所や時間を指定して会わせるんだけど。
それをやると多分前と同じことになりそうだし。
あえてルナ姉に心の準備をさせずに、いきなり対面させてしまう。
好きな人の素の部分が少しでも見えてくれば、弁々も話しやすくなるはず。
テーブル周りの家具の位置をチェックし始めたルナ姉を横目に、自分用のカップに口をつける。
普段から交代で掃除してるから必要ない気もするけど、ルナ姉はこういうのすごく気にするからなあ。
そんなことを考えていると、私が何も言わずに紅茶を飲んでいることに気付いたルナ姉がかすかに非難めいた視線を向けてくる。
私が誤魔化し笑いを浮かべると小さい溜息とともに何か言おうとした。
すかさず窓の外を指差しながら先んじて言葉を被せる。
「二人の紅茶とお茶請けは私が準備してるからさ」
「……早くしなさいよ」
「分かってるって」
ルナ姉が玄関から出て行ったのを見届け、来客用のカップを出す。
さて、お茶菓子だけ出したら後はさっさと退散しないと。
***
玄関扉を開けて外に出るとすぐに来客、九十九弁々の姿が視界に入った。
何やら神妙な様子で琵琶と手首のリングを繋ぐ細い鎖を撫でている。
リリカが急に取り付けた話とはいえ結構待たせてしまったし、急がないと。
傍まで近づくと、彼女は琵琶を両手で支えながら丁寧に頭を下げて礼をした。
「あの、えっと……急にお邪魔してごめんなさい」
「いいのよ、待たせてしまったわね。さ、どうぞ」
彼女を先導して館に入り、リビングに案内する。
四人掛けの長方形のテーブルの長辺に向かい合う形で席につく。
するとその直後、キッチンからリリカがティーセットを乗せたトレイを持って現れ、
白い歯を見せて楽しそうにてきぱきとお茶菓子を並べていく。
いつもの茶葉で淹れたであろうベージュ色の紅茶。
クッキーとスコーンが等間隔に並べられた白いプレート。
姉妹でお茶をする時はなかなか自分で準備しようとしないのに、やけに手際がいい。
普段からやってほしいものだ。
正面に座る弁々との間にうっすらと紅茶の湯気が立ち昇る。
最後に白い角砂糖が入ったシュガーポットがテーブルの中心に置かれた。
「それ入れると甘くなるからよかったら入れてみてね。それじゃ、ごゆっくり」
リリカはトレイを下ろし、弁々に向けてウインクをして去って行く。
玄関から出て行くところを見ると、また音を探しに出かけるのだろうか。
弁々はというと、慌ててリリカに頷くだけだった。
それにつられて、彼女の紫色のツインテールが軽く跳ねる。
やがて、玄関扉の閉まった音がリビングに響いた。
さて、どうしようか。
私は積極的に話題を出すのが得意な方ではない。
弁々のこともまだほとんど知らないし、どこから話を転がしていこうか。
そんなことを考えていると、正対する彼女がそわそわと落ち着きのない様子で何かを言いたそうにしていた。
何か悩み事でもあるのかもしれないし、こういう時は相手が話し出すのを待った方がいいだろう。
私で力になれればいいのだけど。
そんなことを思料していると、彼女が口を開いた。
……これは一体、どういうことなのだろうか。
私がこれまでに弁々から受け取った印象は、ちょっと頑固そうだけど真面目な頑張り屋さん。
加えて、これは直感だけど冗談を真に受けそうな危うさもある。
でも今目の前にいる彼女は、第一声からして全てがおかしかった。
なんとか平静を装って聞き返す。
「……ごめん、ちょっとボーっとしてて聞き逃してしまったの。
もう一度言ってもらってもいいかしら?」
弁々は特に気を悪くするでもなく、丁寧に応える。
「はい、えっと……私を弾いてください!」
頭がくらくらしてくる。
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
それにしても「私を弾いて」とはどういう意味だろうか。
正しくはその手に持っている琵琶を弾いて欲しい、のはず。
この話が一体どこに転がっていくのか、言い知れぬ不安を覚えながらもとりあえず会話を続ける。
「それは……どうして?」
すると目の前の彼女は急に表情を引き締め、軽く息を吸い込む。
なにか重大な告白でもするかのように。
私からすれば今のこの状況だけで既に理解が追い付いていないのだけど。
それから十秒ほど間隔を空けた後、はきはきと語り始める。
紫の眸で真っすぐにこちらを見つめながら。
「私、初めてのライブでルナサさんに色々気にかけてもらえたの……すごく嬉しかったんです。
それに演奏する姿もかっこいいし、ルナサさんのこと、もっとたくさん知りたいって思いました」
はっきりした物言いと声の張りに思わず腰かけている椅子ごと押されそうになる。
私自身、弁々のことは少なからず気になっていたし、仲を深めることを望まれているのは嬉しい。
しかし、それとさっきの提案がどう結びつくのだろうか。
努めて速やかに心を沈め、ゆっくりと応える。
「……ありがとう。
私も貴女のことは気になっていたし、そう言ってもらえるのはとても嬉しいわ」
続く言葉の途中で、弁々が膝上の琵琶をぎゅうと抱きしめる。
まるで年端もいかない子どものような仕草。
ステージに上がっている時とはまるで違う、これが彼女の素顔なのだろうか。
ライブの風景が追想される。
確か出番前に「規模の大きいイベントは初めてで緊張している」旨の不安を吐露していた。
それに対して私は「挨拶から一曲が終わるまでの間に勢いをつけられればあとは練習の通りにするだけできっと大丈夫」と月並みのアドバイスしかしてあげられなかった。
尤も、実際の彼女は妹と二人で数百人の観客を相手にミスの一つもなく、堂々と演目をやり切った。
特に楽器を演奏しながら物語の語りを合間合間に挟む「弾き語り」は初めて目にしたこともあり、強く印象に残っている。
この細い身体のどこから伸びのある音が出るのか、きっと地道なトレーニングの賜物なのだろう。
そして結果は見事、観客からは拍手喝采。
あの演奏を見て熱を滾らせない音楽家はいないだろう。
事実、リリカとメルランもライブ終わりに明らかに彼女達のことを意識していた。
けれど、彼女はまだ生まれたばかりの妖怪だ。
ある意味で普段以上に言葉選びに注意しないといけない相手かもしれない。
当たり前だけど、この世の中には真実と嘘がある。
人も妖怪も、自分たちのような騒霊も、皆が生きていく中で様々な経験を経てそれを学んでいく。
少し悪い言い方をすれば、「騙されることで真贋を見極める力が養われていく」とも言えるかもしれない。
そうして成長するにつれて、次第に会話の中で目の前の相手が言っていることが本当か嘘かを無意識のうちに考えるようになる。
あるいは発言の内容自体は真でも、それが「本音」なのか「建て前」なのか。
少なくとも、今の自分はそれが当たり前になっている。
では、目の前の彼女はどうだろうか。
見ると、弁々は私の次の言葉を待ち遠しそうに見つめ返してくる。
その双眸を微かに震わせながら。
ただ真っすぐに素直な気持ち、好意をぶつけてくる少女。
紅茶を一口だけ飲み、一呼吸置いてから続く言葉を紡いだ。
「それで……私に貴女の琵琶を弾いて欲しいのは、どうして?」
「そうすることで奏者と楽器、ルナサさんと私はよりお互いを理解し合えるんです!
だから……お願いします!」
弁々が勢いよく頭を下げると彼女の琵琶と手首のリングをつなぐ鎖がテーブルに当たりしゃん、と音を立てた。
私は慌てて頭を上げさせる。
「うん、ありがとう。とりあえず、頭を上げて?」
「はい!」
いい返事。
なにかと口答えばかりする妹達にも見習わせたい。
直後、子憎たらしい三女のしてやったりな顔が脳裏を過る。
どう考えても、弁々をここに連れてくるまでに吹き込んだ嘘以外にあり得ない。
リリカは私達姉妹の中でも特に話し好きだ。
音集め以外でもよく一人でいろんな場所に足を運んでいる。
それだけならいいのだけど、しばしば嘘をついたり悪戯をしたりするのが困った子でもある。
本人は「音楽家たるもの世情にも通じ常に新しい情報、刺激を取り入れないといけないから」と、虫のいい理屈を並べ立てていたけど。
私に言わせればそれは単に外で遊び歩く口実が欲しいだけではないのか、と思う。
さて、どうするか。
それはうちの妹がついた嘘だから真に受けちゃだめよ、と諭すのは簡単なことだ。
でも、彼女の期待に満ちた朗らかな笑みを見るとその一言が言えない。
紅茶を飲んだばかりなのに喉がしきりに渇きを訴えてくる。
ああ、もう。
何故こんなにも面倒なことになっているのか。
またもリリカの声が勝手に、まるで幻聴のように聞こえてくる。
悪戯を企んでいる時のように、愉快そうにくすくす笑いながら。
『いいじゃん、弾かせてもらえば』
三女の幻影を無理矢理脳内から追い出し、気を静める。
今この子が話していることは、きっと冗談ではなく全てが本気。
もっとお互いのことを理解し合いたい、自分を弾いてもらえばそれが出来る、と。
私自身も弁々とは同じ音楽を愛する者としていい関係を築いていきたい。
彼女がここまで直線的なアプローチをする子だとは思っていなかったから、すっかり気圧されてしまったけど。
一応、大抵の弦楽器は演奏出来ると自負している。
琵琶も以前寺子屋の教師に頼まれて子ども達の前でほんの少しだけ弾いて見せたことはある。
ただ、これから演奏しようとしているのは世界にただ一つの楽器、彼女そのもの。
視線をやると、特徴的な赤い光の弦が先刻話し始めた時よりも微かにその光を強めていた。
普通の琵琶は四本か五本の弦を都度指で押さえることでその音色を変化させる。
しかし彼女の抱くそれには覆手も転手もなく、弦に張力がかかっているようには見えない。
全てが未知の楽器。
でも、彼女の本気の想いにはこちらも本気で応えなければいけない。
それに、初めて彼女の楽器をはっきりと間近で見たせいだろうか。
膝の上に置いた手が好奇心に震えている。
握った手を解き、穏やかな声を作る。
「……うん、分かったわ。じゃあその……よろしくお願いします?」
私の答えを聞いた途端、目の前の彼女が今度は両手の指を絡ませる。
鎖が再びしゃらん、とさっきよりも大きな音を立てた。
「……ありがとうございます!」
うん、本当にいい返事。
でも、これからは他人の言うことをなんでもかんでも信じたらだめよ?
私がリビングの床に腰を下ろすと、彼女も私の隣に座り込んだ。
長い紫色のツインテールが床の茶褐色に重なり、その髪先が溶けるように広がる。
「……貴女の琵琶は、どうやって弾けばいいの?」
「思えば、いいんです」
「え?」
「ルナサさんが奏でたい音をイメージしながら弦を弾いてもらえれば、私がその音を響かせます」
普通の人妖がこれを聞けば、きっと首を傾げることだろう。
でも、既に私の中に疑念が入る余地はない。
彼女ほどの奏者が言うのなら、きっとそうなのだ。
気付けば、彼女の顔は落ち着いた静かな表情へと変わっている。
出番を待つ演奏家が集中力を高めている、凛々しい姿。
「髪、痛めるといけないから……ちょっといいかしら?」
「……はい」
許可を得て彼女の髪に触れるとその手触りはとても柔らかかった。
この長さを手入れするのは相当大変だろう。
演奏中に誤ってひっかけることがないよう、指で梳いた髪を弦の反対側に向かって下ろす。
途中、弁々が耳をぴくりと震わせた。
「ごめんなさい、痛かったかしら?」
「いえ、その……ちょっとくすぐったかっただけです」
「ごめんね、もう終わるわ」
「はい……」
彼女が消え入りそうな声で返事をしたところで、言葉通り髪を整え終える。
さて、後は彼女の琵琶を借りるのだけど。
弁々は自分の琵琶と手首をつなぐ鎖を外す気はないようだ。
鎖の長さは大体五十センチというところ。
薄々予想は付いていたけど、この状態で琵琶を抱えようとすると。
「弁々、その……」
近い、近すぎる。
彼女は当たり前のように琵琶を抱える私のすぐ後ろで白い脚を崩している。
さらに、時折口元から漏れる呼吸音が耳朶に響き渡る。
リングを外さない理由が気になる。
付喪神の彼女にとってこの琵琶は大切な半身だからたとえ一時でも手放したくないということなのか、それとも。
そんなことを考えていると耳元から微かな熱を帯びた声がした。
「……ルナサさん」
「……なあに?」
「……お願いします」
もう考えている時間はない。
視線は動かさないまま、静かに答える。
「……うん」
弁々が体勢はそのままに、覗き込むように視線を横からこちらに向けてきた。
その目はまるでこのまま眠ってしまうのではないかというぐらい、細く閉じかけている。
「じゃあ……いくわね」
「……はい」
返事と同時に彼女の髪が僅かに揺れた。
合図と共に、いよいよ弦に指をかける。
指の腹を乗せると、見た目とは裏腹に程よくかかった張力が指先を押し返してくる。
後は彼女が言った通り、私のイメージする音を奏でるのだ。
覚悟を決め、横に滑らせた指で弦を弾く。
ピン、と濁りのない澄んだ音が鳴る。
その後は考えるよりも先に、手が光の線をかき鳴らしていく。
曲は弁々も好きだと言ってくれた私達三姉妹の曲、『幽霊楽団』。
ただしテンポは普段よりもずっと遅い、静かな曲調のヴァイオリンソロアレンジ。
ライブには全く向かないし、一人でいる時以外は弾いたことがない。
初めは弦の微妙な高低を探ろうと試みたけど、それは最初だけだった。
彼女が言った通り私のイメージがほぼそのままに、琵琶の鋭い音として放出されている。
まるで楽器を通して二人の精神がつながっているように。
余裕が出てきたので、一瞬だけ視線を横に走らせる。
弁々は眼睛を潤ませながら頬を紅く染めていた。
自身の動悸が激しくなるのが分かる。
思わず弦をかき鳴らす指が空を切りそうになるも手首のスナップを利かせカバーした。
思考が霧散する。
勿論、今手を止めることは出来ない。
この心音の高まりは私の中のどこから来ているものなのか。
不慣れな楽器を演奏している緊張から?
下手なことをして彼女にショックを与えたくないから?
失望されたくないから?
多分、全部違う。
今心中を駆け巡っているのはきっと理屈で説明できるものじゃない。
弁々の真っすぐ過ぎる感情と奏でられる音の奔流。
それが文字通り私の心を震わせている。
半ば密着している身体だけじゃない、琵琶の方からも彼女の熱が伝わってくる。
彼女と一緒に音を奏でるのが、この時間が、楽しい。
無意識のうちに言葉が出てくる。
「……楽しいわ、とっても」
その直後、耳元に嗚咽にも似た声がした。
「ルナサさん、やっと、笑ってくれた……」
同時に安定していた音が急に震え始め、かすれたような音が響く。
直後、先程まで弦にかかっていたはずの私の指は何もない空間を引っ掻いた。
はっとして彼女の方を見ると、今にも涙が零れそうなほど目元を赤く腫らしている。
そうか、この子は今までずっと……。
琵琶を片手で抱いたまま、もう片方の手で腰に手を添え、そっと抱き寄せる。
彼女の熱い涙がベストに染み込んでいく。
服を濡らしたことを言っているのか、身体を震わせながら「ごめんなさい」と囁く声が聞こえる。
私は聞こえないふりをして今度は強く、離さないように彼女を抱きしめる。
ごめん、ごめんね、弁々。
まだまだ子どもなのは、私の方だった。
貴女のことをより知ろうとする前に、やらなきゃいけないことが、あったのに。
思えば、貴女はリリカやメルランに対しては最初から対等語で話していた。
私と一対一で話をした時には、敬語。
最初に話をしたのはライブの相談を持ち掛けられた時だったから、その時の流れで今も敬語なのかなと、深く考えていなかった。
「……弁々」
「……ルナサさん」
気持ちをはっきりと言葉で。
「……私、貴女と一緒にいるの、すごく楽しいわ」
表情を上手く作れている自信がないけど、それでも精一杯笑って。
「嬉しい、嬉しいです……」
たったこれだけのことを言うのでも、彼女の話に笑顔で応えるのでも。
出来ることはいくつでもあった、なのにそれをしなかった。
相手がまだ生まれて間もない子であること、優れた奏者であること。
事実だけを見て、自分自身が本当にすべきこと、相手が何を考えているのかを私は全然分かっていなかった。
そんな、想ってくれる子を泣かせてしまうような私にも。
この子はまだ嬉しそうに微笑みかけてくる。
「弁々、また……貴女を弾かせてもらってもいいかしら」
「はい!」
彼女が返事とともに目元を拭うと、ライブの時と同じ明るい表情が顔を出す。
思わず眩しく感じるほどの、素敵な笑顔。
「ありがとう。それからその、私のこともリリカやメルランみたいに、呼び捨てにしてくれたら嬉しいな、なんて……」
言葉の最後は声が小さくなってしまった。
弁々は一瞬きょとんとしていたけど、すぐに元気な声で返事をする。
「はい!」
もう一度、彼女をそっと抱きしめようとすると。
弁々は手首のリングを外し、私が片手で抱えている琵琶をそっと床に下ろさせた。
そして身体をこちらに預け、上目遣いで見つめてくる。
まるで先程まで弾いていた琵琶のように、彼女の躯体が斜めに傾いた形。
「……えへへ、ルナサ、好き」
「……私も」
しばしの間、そのまま見つめ合った。
窓から差し込む斜陽光が私達を明るく照らしている。
翌朝、一階のリビングに降りるとしてやったり顔の三女に出迎えられた。
しかも普段はなかなか自分で準備をしないのにきっちり朝食の支度までして席についている。
こんがり焼けたトーストが紅茶とともにいい香りを漂わせている。
黙ってテーブルに座り、紅茶を一口啜る。
これまた程よい熱さが乾燥した喉に沁みていく。
「ねえねえ、昨日どうだった?」
きっかけを作ってくれたリリカには感謝しているけど、さすがに昨日の出来事をそのままは話せない。
なんとか心中を落ち着かせ、曖昧に答える。
「そうね、いろんなことを話せて楽しかったわ。本当にあの子の琵琶を弾くことになったのは少し驚いたけど」
「よかったじゃん、いいなー。私も今度弾かせてもらおっかな」
「えっ」
反射的に声を出してしまう。
しまった、と思ったがもう遅い。
目の前には赤の楽士服を纏った小さな悪魔が邪悪な笑みを浮かべている。
熱心なファンにはこれが天使の微笑みに見えるらしいが、こんな天使がいてたまるかと全力でノーを突きつけたい。
「そっかー、欲張りさんなルナ姉はあの子を独占したいんだねえ、私も弦楽器弾けるのになー」
「誰もそんなこと」
これはまずい。
このままメルランや外の人妖にもばらされたら。
焦って席を立とうとしたところで、リリカが急に真面目な口調になって続ける。
「冗談だよ、でもさ」
先程までの笑みは鳴りを潜め、普段の表情に戻っている。
「ルナ姉にもし伝えたい気持ちがあるなら、もっと意識して表に出さなきゃきっと伝わらないよ」
「そうね。……その、昨日はありがとう、リリカ」
「えー、なんのこと? さて、今日も音探しに行ってくるから、じゃあねー」
リリカはとぼけたままそれ以上は昨日のことについて何も聞いてこなかった。
……ありがとう。
……今日は私も、散歩にでも行こうかな。
誰かに会う機会があるかどうか、分からないけれど。
ところで……「私を弾いてください!」と弁々が言ったのにルナサは強く引っかかりを覚えていた(「第一声からして全てがおかしかった」と思うくらい)そうですが以後言及がなくて「あれ」となりました。
──ああ、そうか。弁々はそれこそ琵琶と一体になって奏でるから。あのとき「私を弾いて」と頼んだんだ。
とかそうでなくても
──弁々は琵琶の付喪神だからか。
などとたとえば述べられる方が自然かと思いました。ローファルさんだと全体的に心情は満遍なく地の文に落としていくスタイルなので……まあ、ささいすぎますし、個人が楽しく執筆してれば無問題ですし、何よりそんな思慮がどうっでもいいほどほほえましいストーリーでしたからね! 踏み込み過ぎたことを申してすみません。とっても楽しめました。
全体的には作者様の癖を感じて楽しめました。