コポコポとビーカーの中で泡がはじける。カチカチと秒針が進んで行く。長針が一周するその瞬間、刻んだ茸を入れた。上手く行けばその液体は黄色く輝くはずだった。しかし、その透明な液体は少し濁っただけで相変わらずコポコポと音をたてる。結局今回も失敗したわけだ。
新しい魔法を考え始めてから三カ月、成功の気配は一向に見えず、毎日毎日同じことを繰り返しているだけだ。時間は一秒だって無駄には出来ない。自分で調合した薬湯を飲みながら、もう一度ビーカーを火にかける。
四回目、採ってきた最後の茸を入れると液体が鈍く光る。しかし光ったのはその瞬間だけで、数秒したあとにすぐに元の濁った液体に戻ってしまった。あまりにも味気ない成功体験だったが、次に繋がると思えばそれも大きな一歩だった。
一度休憩しようと窓を開くと、森の中の冷えた空気が部屋の中に入り込んできた。肌を撫でる冷風が焦燥を少し和らげる。
少しだけ眠ることにした。そのままベッドへと倒れ込む。埃のせいで鼻の奥が痒かった。
はっと目を覚ますと少しだけ木漏れ日が窓枠に映り込んでいた。時計はてっぺんを示している。あまり深く眠れはしなかったが、のそりとベッドから立ち上がると背中が軋んだ。このまま呆けていても仕方ないから茸を採りに行くことにした。軽く着替えを済まし、玄関に立てかけておいた箒を手にする。ドアノブに手を掛けようとしたとき、見計らっていたようにコンコンとノックの音が響いた。そのままドアを開ける。
「わっ、びっくりした。もしかして出かけるところだった?」
ドアの先にはアリスが小さなバスケットを持って佇んでいた。
「そうだぜ。実験材料を採りに行こうと思って」
「あらそう。というかあなた生きてたのね。珍しいじゃない、宴会に顔も出さないなんて」
「宴会? あぁ、昨日やってたのか」
「そうよ、昨日は珍しくパチュリーも来てたのよ。誰か探しているようですぐに帰っちゃったけど」
へぇ、珍しいこともあるもんだな。と声を漏らしながらそのまま箒に跨る。たまには顔出してあげなさいよ、とアリスが言っていたが無視して地面を蹴る。そのまま風を感じながら空を目指した。
実験材料を集めようともしたが、なんとなく気分が乗らない。なにか異変でも起これば気分も紛れるだろうか。いや、異変が起こるのはダメだな。平和が一番。
そんなことを考えていると、遠くに紅い屋敷が見えてきた。そういえばこの頃あいつに顔を出していなかったな。いや、とにかく私には時間が無いんだ。どうにかして新しい魔法を完成させなきゃいけない。材料は間違っていないはずだ。もっと試行を重ねて……。
突如、身体から力が抜けていく感覚がした。深い睡眠に入る寸前のような甘い痺れが体中に染みわたる。直感で分かった。これはまずいやつだと。脳みそを限界まで回し、意識を保つ。鼓動が逸る、風を切る音がなっている、視界が真っ白になっていく。箒を持つ両手に力を込め速度を落とす。今の自分にはそれしか考えられなかった。とにかく、落ちないように。
クスクスと笑い声が聞こえる。小さな妖精たちの声だ。泥臭さで目が覚めると、固い地面を全身に感じた。どうにか墜落は免れたようだが、それでも体中がズキズキと痛んだ。無理やり膝をついて立ち上がろうとするが、思うように力が入らない。仕方なくその場に座り込んで辺りを確認した。辺りでは妖精たちがこちらを伺っている。思うように動かない手をポケットに突っ込んだ。幸いにも持っていた魔道具たちに大きな傷はついていない。横に落ちている箒も折れていないようだし、大切なものは無事だったらしい。
ふと自分の手を見る。落ちる寸前、無意識のうちに両手から受け身を取っていたのだろう。手の平全体から血が出ていた。爪も割れている。それを認識した途端に痛みが出てきた。しかしそんなことを気にしている余裕は無いようだ。太陽が徐々に沈み始め、辺りが暗くなり始めている。このまま陽が沈んでしまうといよいよまずい状況になってくる。
どうにか立ち上がり、痛む体を引きずりながら森を歩く。ざわめく木々に不安を覚えながら、ゆっくりと歩き続けた。ポケットの中からミニ八卦炉を取り出し、万が一に備えて辺りを見回す。ただでさえ暗い森の中、けがをしている状態でナニカに鉢合わせれば無事では済まないだろう。久しぶりにしっかりとした恐怖を感じた。
月が頭上に昇り始めた頃、ようやく家に着いた。いつも以上に重たいドアノブを回し、そのままベッドへと倒れ込む。もう服を脱ぐ気力も無かった。
ゆっくりと沈みこんでいくような感覚を味わいながら、何度も意識が覚醒した。どうにも眠ることが出来ない。体の痛みもそうだが、味わったことのない焦燥と孤独感が私を襲う。無理矢理実験をしてきたツケが今になって巡ってきたのか。
何度も浅い眠りを繰り返し、気が付けばカーテンの隙間から木漏れ日が射し込んでいた。腕の痛みは増している。手のひらの皮は破け黒々とした血が固まっていた。とにかく応急処置をしなければならない。無理やり体を起こし洗面所へと向かう。
蛇口をひねるのですら一苦労したが、どうにか痛みをこらえて血を洗い流した。そのまま木箱を開き包帯を手に持つ。手首が思うように曲がらない。それでも曲がらない手首でどうにか包帯を巻き終えた。ついでにボロボロになった服を脱ぎ新しい服に着替える。腕の痛みでだいぶ手間取ったが、なんとか清潔な服に着替えることができた。
今はとにかく傷を治さなくては。そのためには向かわかなくてはいけない場所がある。
紅魔館の入り口には門番が居た。器用に立ったまま眠っている。こちらが横を通り過ぎても目を覚まさないってことは、今の私は有害だと判定されていないということだろう。そのまま門を通り館の重苦しいドアを開けた。
扉を開けると赤いカーペットが広がっていた。その真ん中に一人、瀟洒なメイドが立っている。そいつはこちらを一瞥すると、フンと鼻を鳴らして姿を消した。今の私じゃ問題を起こす力も無いと見たんだろう。嫌味な奴だ。
メイド妖精たちを横目に、長い階段を昇っていくと少しだけ息が切れた。廊下を進み重厚な扉の取っ手に手を掛ける。少し違和感を感じて手を離すと、私の行動が見えているように「入りなさい」と声がした。
仕方なく扉を開ける。広い部屋の中には数え切れないほどの本棚が並んでいた。埃っぽさとかびた香りのする部屋だが、不思議と不快感の無い心地よい感覚がする。その奥に長机に向かって本を読む少女の姿が見えた。
「珍しいじゃない。今日は玄関から入ってきたのね」
「ようパチュリー、今日はちょっとそういう気分でな」
「嘘おっしゃい。その手じゃ箒も乗れないんでしょう?」
言葉が見つからなくてそのまま少女の顔を見る。紫色の髪がさらりと揺れると、少女も私の顔をのぞき込んだ。
「まぁいいわ。それで? あんた何しに来たのよ。その怪我じゃ魔法だって使えないでしょうに」
「あー、まぁな。いや、なんでもない。やっぱり家で休むことにする」
「嘘」
彼女はきつく口を尖らせた。私の目をまっすぐに見つめながら口を開く。
「あんた、最近根詰めすぎ。少しは休まなきゃ死ぬわよ」
そんなことは分かっている。それでも今の私には休んでる暇なんかない。いや、そんなことは口には出せないが。喉元まで浮かび上がった言葉を飲み込む。彼女は見透かしたような目線を送ってくる。私はそんな視線に耐え切れずに床に目を落とした。
「はぁ、まぁいいわ。腕、出しなさい。そこ座って」
ふよふよと椅子が飛んできたかと思うと、それは彼女の真横に着地した。ほら、と椅子に手をやりながら私を呼んでいる。そこに座る以外の選択肢は無いようだった。
彼女は包帯をほどくと私の手を見つめた。
「あんた手首動かなかったでしょ。よく自分で包帯なんか巻けたわね」
そのまま小さく呟きながら手に触れていく。じんわりとした温かみが触れられている部分から広がっていく。それが心地よくて涙が出そうになる。目に力を込め、涙が零れないように眉をひそめた。
「痛む?」
「いや、なんでもない」
「そう」
少しの会話を挟み淡々と治療は進んでいく。痛みは完全に消え失せ、破けた皮も元通りになった。
「あんた、治してあげたんだから一つ私の話を聞きなさい」
視線を彼女の眼もとに寄せる。
「あんたがいくら魔法の研究をしようが私は止めない。でも絶対に無茶はしないで」
「それは無理な話だな。むしろ今でも足りないんだ」
「そこまでして魔女になって、それからどうするの? 何が変わるのよ」
「さぁな、だけどやるしかないんだ。魔女になってどうするかなんてその時考えればいい」
「じゃあそのために死んでもいいってわけ!? あんたは今目的と過程がすり替わってんのよ。自分でも気づかない内にね! 本当に今のまま無茶し続けるつもり? 言うけどね、今の生活続けてたら冗談じゃなくあんた死ぬわよ」
初めてパチュリーが声を荒げるのを聞いた。肩を震わせ、感情を露わにしている。私はその姿を見て後悔した。ここに来るべきじゃなかった。腕を治すだけなら里の薬屋にでも頼んでゆっくりと治すべきだった。そっちの方が今よりも全然マシだ。
両手を握りしめこちらを睨む彼女の目から涙が零れ落ちた。ぐしぐしと袖で顔を拭うと強引に私の手を掴んでそのまま部屋の外へと向かい始める。
「お、おいどこ行くんだ? 治療はしてもらったし、もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃない!」
私の言葉を遮ってパチュリーが叫ぶ。これで声を荒げたのは二度目だ。
「そのまま帰らせるわけないじゃない」
そう呟いた彼女の目を見てしまうと私もついていくほかなかった。
「なぁ、どこまで行くんだ? もう結構歩いてるけど」
「いいから」
館を出てから半刻は歩いている。手を握られたまま振りほどくことも出来ずにそのままついてきたが、この先には霧の湖があるだけのはずだ。
そういえば門番は相変わらず居眠りしていたな。いや、薄目を開けてこちらを窺っていたがまた目を閉じていたな。
「ここね」
結局到着したのは霧の湖だった。今日は一段と霧が濃い。そういう日なのだろう、いつもなら群れている妖精も今日は一匹たりとも姿を見せなかった。
彼女は湖畔に座り込むと私の顔を見上げながら口を開いた。
「座って」
そう言うと自身の横に手を置く。
仕方なく私も座り込むと肩を思い切り引かれた。
墜落した時のことを思い出した。あの時も地面に吸いこまれるように落ちていった。あの時感じた衝撃を思い出して固く目を瞑った。
しかし頭に感じたのは質の良い服と柔らかな感触だった。
「いきなり何するんだ?」
「いいでしょ別に。私の言うことを聞かないあんたなら、私もあんたの言うことなんて聞かない」
今の体勢はまさしく膝枕のそれだった。柔らかな甘い香りが鼻腔に入り込む。顔に手を置かれた私の目に映るのは霧と水面だけだった。
上を向こうと首を回すのと同時にグイっとした力強さを感じる。彼女は私の頬を両手で押さえたまま無言を貫いていた。
はぁと溜息を吐きながら口を開く。
「悪かったよ。分かったから口を開いてくれよ」
少しの沈黙の後でやっと声が聞こえた。震えて掠れた声だ。
「分かってなんか、ないでしょ」
「いや、まぁ。話を聞くから顔を開放してくれないか? このままじゃ面と向かって話せないだろ」
「逃げたら許さない」
「分かってるよ」
そう言ってからやっと息がしやすくなった。あぐらをかいてからパチュリーの顔を見る。口をへの字に結びながら私の目を見ている。耐え切れなくて目を逸らすとまた声がした。
「逸らさないで。ちゃんと私の目を見て」
「そうは言っても、そんな目されたら見れるものも見れないぜ」
重たい空気の中、もう一度彼女が口を開く。
「私は、あんたに死んでほしくない。それだけ。あんたが魔女になるために努力してるのも知ってる。私もその感覚を知ってる。魔法に没頭して周りが見えなくなるのも、自分に足りないものばかりって思うのも」
「いや、わたしはそんなこと……」
「うん。そこはあなたに任せる。自分のことは自分が一番知ってるって言いたいんでしょ。でも本当に辛いときは私を頼ってほしい。それだけでいい。あとは……もう言わないわ」
消え入るような声でそう呟くとパチュリーは口を閉じた。私はもう一度彼女の顔を見ようと視線を動かす。次に話す自分の言葉が伝わるように、しっかりと伝えられるように。
しかし、彼女の顔を見るとそんなことはどうでも良くなった。
一粒、また一粒と涙が零れ落ちる。彼女はまっすぐに私を見つめていた。
「パチュリー、もう一回膝貸してくれるか? 少し眠たくなってきた」
「どうぞ」
そのままゆっくりと頭を下ろしていく。柔らかさを感じながら目を閉じた。ぽたりと頬に水滴が落ちてきたが、それすらも心地よい感触だった。ゆっくりと意識が微睡んでいく。
どこか温かさを感じながら、今度こそはぐっすりと眠れるように思えた。
久しぶりに感じるスッキリとした感覚で目が覚めた。
「ぐっすり眠れた?」
「おかげさまでな」
「そ、よかった」
「はは、パチュリーありがとうな」
「珍しいじゃない。あんたが素直なんて」
「私はいつも素直だぜ。遠回りな言葉を選んでるだけでな」
「それを素直じゃないって言うのよ」
「どうかな」
頭の上でくすくすと笑い声がする。勢いで出かけた言葉を出さずに飲み込む。いや、言葉にするか。今回は遠回りせずに。
「なぁパチュリー、私は……―」
新しい魔法を考え始めてから三カ月、成功の気配は一向に見えず、毎日毎日同じことを繰り返しているだけだ。時間は一秒だって無駄には出来ない。自分で調合した薬湯を飲みながら、もう一度ビーカーを火にかける。
四回目、採ってきた最後の茸を入れると液体が鈍く光る。しかし光ったのはその瞬間だけで、数秒したあとにすぐに元の濁った液体に戻ってしまった。あまりにも味気ない成功体験だったが、次に繋がると思えばそれも大きな一歩だった。
一度休憩しようと窓を開くと、森の中の冷えた空気が部屋の中に入り込んできた。肌を撫でる冷風が焦燥を少し和らげる。
少しだけ眠ることにした。そのままベッドへと倒れ込む。埃のせいで鼻の奥が痒かった。
はっと目を覚ますと少しだけ木漏れ日が窓枠に映り込んでいた。時計はてっぺんを示している。あまり深く眠れはしなかったが、のそりとベッドから立ち上がると背中が軋んだ。このまま呆けていても仕方ないから茸を採りに行くことにした。軽く着替えを済まし、玄関に立てかけておいた箒を手にする。ドアノブに手を掛けようとしたとき、見計らっていたようにコンコンとノックの音が響いた。そのままドアを開ける。
「わっ、びっくりした。もしかして出かけるところだった?」
ドアの先にはアリスが小さなバスケットを持って佇んでいた。
「そうだぜ。実験材料を採りに行こうと思って」
「あらそう。というかあなた生きてたのね。珍しいじゃない、宴会に顔も出さないなんて」
「宴会? あぁ、昨日やってたのか」
「そうよ、昨日は珍しくパチュリーも来てたのよ。誰か探しているようですぐに帰っちゃったけど」
へぇ、珍しいこともあるもんだな。と声を漏らしながらそのまま箒に跨る。たまには顔出してあげなさいよ、とアリスが言っていたが無視して地面を蹴る。そのまま風を感じながら空を目指した。
実験材料を集めようともしたが、なんとなく気分が乗らない。なにか異変でも起これば気分も紛れるだろうか。いや、異変が起こるのはダメだな。平和が一番。
そんなことを考えていると、遠くに紅い屋敷が見えてきた。そういえばこの頃あいつに顔を出していなかったな。いや、とにかく私には時間が無いんだ。どうにかして新しい魔法を完成させなきゃいけない。材料は間違っていないはずだ。もっと試行を重ねて……。
突如、身体から力が抜けていく感覚がした。深い睡眠に入る寸前のような甘い痺れが体中に染みわたる。直感で分かった。これはまずいやつだと。脳みそを限界まで回し、意識を保つ。鼓動が逸る、風を切る音がなっている、視界が真っ白になっていく。箒を持つ両手に力を込め速度を落とす。今の自分にはそれしか考えられなかった。とにかく、落ちないように。
クスクスと笑い声が聞こえる。小さな妖精たちの声だ。泥臭さで目が覚めると、固い地面を全身に感じた。どうにか墜落は免れたようだが、それでも体中がズキズキと痛んだ。無理やり膝をついて立ち上がろうとするが、思うように力が入らない。仕方なくその場に座り込んで辺りを確認した。辺りでは妖精たちがこちらを伺っている。思うように動かない手をポケットに突っ込んだ。幸いにも持っていた魔道具たちに大きな傷はついていない。横に落ちている箒も折れていないようだし、大切なものは無事だったらしい。
ふと自分の手を見る。落ちる寸前、無意識のうちに両手から受け身を取っていたのだろう。手の平全体から血が出ていた。爪も割れている。それを認識した途端に痛みが出てきた。しかしそんなことを気にしている余裕は無いようだ。太陽が徐々に沈み始め、辺りが暗くなり始めている。このまま陽が沈んでしまうといよいよまずい状況になってくる。
どうにか立ち上がり、痛む体を引きずりながら森を歩く。ざわめく木々に不安を覚えながら、ゆっくりと歩き続けた。ポケットの中からミニ八卦炉を取り出し、万が一に備えて辺りを見回す。ただでさえ暗い森の中、けがをしている状態でナニカに鉢合わせれば無事では済まないだろう。久しぶりにしっかりとした恐怖を感じた。
月が頭上に昇り始めた頃、ようやく家に着いた。いつも以上に重たいドアノブを回し、そのままベッドへと倒れ込む。もう服を脱ぐ気力も無かった。
ゆっくりと沈みこんでいくような感覚を味わいながら、何度も意識が覚醒した。どうにも眠ることが出来ない。体の痛みもそうだが、味わったことのない焦燥と孤独感が私を襲う。無理矢理実験をしてきたツケが今になって巡ってきたのか。
何度も浅い眠りを繰り返し、気が付けばカーテンの隙間から木漏れ日が射し込んでいた。腕の痛みは増している。手のひらの皮は破け黒々とした血が固まっていた。とにかく応急処置をしなければならない。無理やり体を起こし洗面所へと向かう。
蛇口をひねるのですら一苦労したが、どうにか痛みをこらえて血を洗い流した。そのまま木箱を開き包帯を手に持つ。手首が思うように曲がらない。それでも曲がらない手首でどうにか包帯を巻き終えた。ついでにボロボロになった服を脱ぎ新しい服に着替える。腕の痛みでだいぶ手間取ったが、なんとか清潔な服に着替えることができた。
今はとにかく傷を治さなくては。そのためには向かわかなくてはいけない場所がある。
紅魔館の入り口には門番が居た。器用に立ったまま眠っている。こちらが横を通り過ぎても目を覚まさないってことは、今の私は有害だと判定されていないということだろう。そのまま門を通り館の重苦しいドアを開けた。
扉を開けると赤いカーペットが広がっていた。その真ん中に一人、瀟洒なメイドが立っている。そいつはこちらを一瞥すると、フンと鼻を鳴らして姿を消した。今の私じゃ問題を起こす力も無いと見たんだろう。嫌味な奴だ。
メイド妖精たちを横目に、長い階段を昇っていくと少しだけ息が切れた。廊下を進み重厚な扉の取っ手に手を掛ける。少し違和感を感じて手を離すと、私の行動が見えているように「入りなさい」と声がした。
仕方なく扉を開ける。広い部屋の中には数え切れないほどの本棚が並んでいた。埃っぽさとかびた香りのする部屋だが、不思議と不快感の無い心地よい感覚がする。その奥に長机に向かって本を読む少女の姿が見えた。
「珍しいじゃない。今日は玄関から入ってきたのね」
「ようパチュリー、今日はちょっとそういう気分でな」
「嘘おっしゃい。その手じゃ箒も乗れないんでしょう?」
言葉が見つからなくてそのまま少女の顔を見る。紫色の髪がさらりと揺れると、少女も私の顔をのぞき込んだ。
「まぁいいわ。それで? あんた何しに来たのよ。その怪我じゃ魔法だって使えないでしょうに」
「あー、まぁな。いや、なんでもない。やっぱり家で休むことにする」
「嘘」
彼女はきつく口を尖らせた。私の目をまっすぐに見つめながら口を開く。
「あんた、最近根詰めすぎ。少しは休まなきゃ死ぬわよ」
そんなことは分かっている。それでも今の私には休んでる暇なんかない。いや、そんなことは口には出せないが。喉元まで浮かび上がった言葉を飲み込む。彼女は見透かしたような目線を送ってくる。私はそんな視線に耐え切れずに床に目を落とした。
「はぁ、まぁいいわ。腕、出しなさい。そこ座って」
ふよふよと椅子が飛んできたかと思うと、それは彼女の真横に着地した。ほら、と椅子に手をやりながら私を呼んでいる。そこに座る以外の選択肢は無いようだった。
彼女は包帯をほどくと私の手を見つめた。
「あんた手首動かなかったでしょ。よく自分で包帯なんか巻けたわね」
そのまま小さく呟きながら手に触れていく。じんわりとした温かみが触れられている部分から広がっていく。それが心地よくて涙が出そうになる。目に力を込め、涙が零れないように眉をひそめた。
「痛む?」
「いや、なんでもない」
「そう」
少しの会話を挟み淡々と治療は進んでいく。痛みは完全に消え失せ、破けた皮も元通りになった。
「あんた、治してあげたんだから一つ私の話を聞きなさい」
視線を彼女の眼もとに寄せる。
「あんたがいくら魔法の研究をしようが私は止めない。でも絶対に無茶はしないで」
「それは無理な話だな。むしろ今でも足りないんだ」
「そこまでして魔女になって、それからどうするの? 何が変わるのよ」
「さぁな、だけどやるしかないんだ。魔女になってどうするかなんてその時考えればいい」
「じゃあそのために死んでもいいってわけ!? あんたは今目的と過程がすり替わってんのよ。自分でも気づかない内にね! 本当に今のまま無茶し続けるつもり? 言うけどね、今の生活続けてたら冗談じゃなくあんた死ぬわよ」
初めてパチュリーが声を荒げるのを聞いた。肩を震わせ、感情を露わにしている。私はその姿を見て後悔した。ここに来るべきじゃなかった。腕を治すだけなら里の薬屋にでも頼んでゆっくりと治すべきだった。そっちの方が今よりも全然マシだ。
両手を握りしめこちらを睨む彼女の目から涙が零れ落ちた。ぐしぐしと袖で顔を拭うと強引に私の手を掴んでそのまま部屋の外へと向かい始める。
「お、おいどこ行くんだ? 治療はしてもらったし、もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃない!」
私の言葉を遮ってパチュリーが叫ぶ。これで声を荒げたのは二度目だ。
「そのまま帰らせるわけないじゃない」
そう呟いた彼女の目を見てしまうと私もついていくほかなかった。
「なぁ、どこまで行くんだ? もう結構歩いてるけど」
「いいから」
館を出てから半刻は歩いている。手を握られたまま振りほどくことも出来ずにそのままついてきたが、この先には霧の湖があるだけのはずだ。
そういえば門番は相変わらず居眠りしていたな。いや、薄目を開けてこちらを窺っていたがまた目を閉じていたな。
「ここね」
結局到着したのは霧の湖だった。今日は一段と霧が濃い。そういう日なのだろう、いつもなら群れている妖精も今日は一匹たりとも姿を見せなかった。
彼女は湖畔に座り込むと私の顔を見上げながら口を開いた。
「座って」
そう言うと自身の横に手を置く。
仕方なく私も座り込むと肩を思い切り引かれた。
墜落した時のことを思い出した。あの時も地面に吸いこまれるように落ちていった。あの時感じた衝撃を思い出して固く目を瞑った。
しかし頭に感じたのは質の良い服と柔らかな感触だった。
「いきなり何するんだ?」
「いいでしょ別に。私の言うことを聞かないあんたなら、私もあんたの言うことなんて聞かない」
今の体勢はまさしく膝枕のそれだった。柔らかな甘い香りが鼻腔に入り込む。顔に手を置かれた私の目に映るのは霧と水面だけだった。
上を向こうと首を回すのと同時にグイっとした力強さを感じる。彼女は私の頬を両手で押さえたまま無言を貫いていた。
はぁと溜息を吐きながら口を開く。
「悪かったよ。分かったから口を開いてくれよ」
少しの沈黙の後でやっと声が聞こえた。震えて掠れた声だ。
「分かってなんか、ないでしょ」
「いや、まぁ。話を聞くから顔を開放してくれないか? このままじゃ面と向かって話せないだろ」
「逃げたら許さない」
「分かってるよ」
そう言ってからやっと息がしやすくなった。あぐらをかいてからパチュリーの顔を見る。口をへの字に結びながら私の目を見ている。耐え切れなくて目を逸らすとまた声がした。
「逸らさないで。ちゃんと私の目を見て」
「そうは言っても、そんな目されたら見れるものも見れないぜ」
重たい空気の中、もう一度彼女が口を開く。
「私は、あんたに死んでほしくない。それだけ。あんたが魔女になるために努力してるのも知ってる。私もその感覚を知ってる。魔法に没頭して周りが見えなくなるのも、自分に足りないものばかりって思うのも」
「いや、わたしはそんなこと……」
「うん。そこはあなたに任せる。自分のことは自分が一番知ってるって言いたいんでしょ。でも本当に辛いときは私を頼ってほしい。それだけでいい。あとは……もう言わないわ」
消え入るような声でそう呟くとパチュリーは口を閉じた。私はもう一度彼女の顔を見ようと視線を動かす。次に話す自分の言葉が伝わるように、しっかりと伝えられるように。
しかし、彼女の顔を見るとそんなことはどうでも良くなった。
一粒、また一粒と涙が零れ落ちる。彼女はまっすぐに私を見つめていた。
「パチュリー、もう一回膝貸してくれるか? 少し眠たくなってきた」
「どうぞ」
そのままゆっくりと頭を下ろしていく。柔らかさを感じながら目を閉じた。ぽたりと頬に水滴が落ちてきたが、それすらも心地よい感触だった。ゆっくりと意識が微睡んでいく。
どこか温かさを感じながら、今度こそはぐっすりと眠れるように思えた。
久しぶりに感じるスッキリとした感覚で目が覚めた。
「ぐっすり眠れた?」
「おかげさまでな」
「そ、よかった」
「はは、パチュリーありがとうな」
「珍しいじゃない。あんたが素直なんて」
「私はいつも素直だぜ。遠回りな言葉を選んでるだけでな」
「それを素直じゃないって言うのよ」
「どうかな」
頭の上でくすくすと笑い声がする。勢いで出かけた言葉を出さずに飲み込む。いや、言葉にするか。今回は遠回りせずに。
「なぁパチュリー、私は……―」
実は過去に根を詰め過ぎて取り返しのつかない結末を迎えた仲間がいたのかもとか、色々考えさせられました。
面白かったです。
個人的に、ほうきで空を飛ぶとき一回地面を蹴るとは自転車かなとクスリとしましたね。
ふらふらになってる魔理沙に膝を貸すパチュリーがとてもよかったです
なんだかんだ大事にしてるんだと伝わってくるようでした
でも甘さ加減は非常に好みなので次回作を楽しみにしております