自室で1人、書物を読みつつ筆を走らせ始めたのは夕食後。夜空に映える淡い月と、仙術によって灯される光がぼんやりと照らす暗い部屋で、ふと顔を上げて時計を見る。短い針が1と2の間をさしている。私としたことが、布都と屠自古がいないのをいいことに、思っていたよりも没頭してしまっていたらしい。疲れた頭が糖分を求めたところで、昼間の出来事を思い出す。
陽気な空気に当てられて、人里を散歩していたところに甘味屋の娘に声をかけられた。素朴な雰囲気を纏う看板娘は、仙人に興味があるやら為政者として尊敬しているやら。特に中身のない言葉を重ねていたが、その目は幼くも色を帯びていた。話の終わりに、お店の新作なので良ければ、なんていって渡してきたのは丁寧にラッピングされたお饅頭。少し形の歪んだそれを笑顔で受け取って礼を言えば、花が咲いたような笑顔を浮かべていた。安いものだが、そういう年相応に素直な姿はかわいらしくも思う。後で食べようと机の中にしまっておいたはずだ。
……そんなこと思い出しながら、軽い準備運動として伸びをすると、背骨がぽきりぽきりと気持ちのいい音を立てる。さっそく今しがた覚えた術を試してみる。簡単な結界術。自分を中心として青白く光る東洋風の陣が形成されて、そこからさらに掌印で私好みに式を加えて編み込んでいく。最後に調整して見栄えよく整えてやれば、あっという間に完成。我ながら自分の才能に惚れ惚れとする。これならそう簡単に部屋に入ることは
「できますよ」
音も気配も痕跡もなく、白く美しい手に後ろから抱きしめられる。もしその手が首元ではなく、胸元に触れていれば、鼓動によって私の動揺はすぐにばれてしまっただろう。けれども彼女は自称淑女、そんな破廉恥な真似はしない。だからこそ、こちらも態度に出すことなく、いつも通りに呆れた様子で応える。
「私の術式は杜撰でしたか」
「いいえまさか。私程度の仙人が、かの豊聡耳様の術式に口出しできることなどありますでしょうか」
「むしろ私の師匠である貴女だけが、その権利を持っていると思いますがね」
肩を竦める私に、青娥はあらあらと楽しそうに笑う。青娥のことを凡人だなんて思ってはいないが、それでも彼女が100の時間を費やして身に着ける術を、私は5~10の時間でより完璧に身に着ける自信がある。生きてきた年月が違うといっても、既に彼女との差はそれほど大きくはない。それどころか、むしろ超えてしまっている部分も少なくないだろう。もちろんそれは倫理や道徳という人として超えるべきではない一線の内側に限定した話にはなるけれど。残念ながら、師匠としても反面教師としても、未だ学ぶことは多い。
「術式はいつもと変わらず見事でした。ではなぜ私があっさりとこの部屋に入り込めたでしょう」
「それを今まさしく尋ねているのですが、まあいいでしょう」
こちらも名ばかりとはいえ弟子を取り、教え導くことが多い立場となった。だから簡単に答えを与えるだけではなく、時には考えさせることの重要性も理解している。それに青娥はちゃんとヒントも与えている。
「破られた形跡がなく、師匠からも見事だというお墨付きがあったので、強度の問題じゃない。つまり反応しなかった、すり抜けたと」
「結界はものにもよりますが、全てを隔ててしまうわけではありません。空気や光などまで通さなければそれはあまりにも不便、なので通過できるものとそうでないものの区別を式として組み込む必要があります」
「結界術の基礎中の基礎ですね。しかしそれはそれで問題があります」
「どのような?」
「私は魔を拒む式を打ち込んだはずなのですが」
「それはそれは。つまり私は聖徳太子お墨付きの善なるものであると」
「ご冗談を」
青娥は首筋に抱きつくようにして大層楽しそうに笑う。今宵の半月はいつのまにか雲に隠れてしまったらしい。ぼんやりと薄暗い視界の代わりに鼻をくすぐるのは、青娥の香水と煙草と酒の匂い。なんとも俗世の欲にまみれた香りだが、不思議と不快感はない。
「それで要件は何でしょうか」
「要件がなければ会いに来てはいけない関係でしたか?」
「師弟以上の関係は記憶にないですね」
「いけずぅ」
「そういうのは芳香にお願いします」
「そうなんですよぉ。芳香ちゃんです」
待っていましたとばかりに、私から離れた青娥は、芝居かかった所作でくるりと回ると、そのまま我が物顔で私の膝の上に腰かける。それを許したつもりはないが、あまりにも自然な所作に止める間もなかった。世界広しといえども聖徳太子の膝の上を座る不届き物は彼女しかいない。
「今朝の話なんですけど……あ、ご存知の通り、私は寝る時に何も身に着けませんよ?」
「……何がご存知の通りなのかさっぱり理解できませんが、その情報は今からする話に必要なんですか?」
「解像度が増すかと思いまして」
「お気遣いは感謝しますが、別に必要ありませんよ」
「そうですわよね。別に神子様が望むなら」
そういって胸元を開けて見せる彼女に、思わず頭痛がしてくる。彼女はとびきりの毒、身体に害があると理解した上でも多くの人が飲んでしまうような、魅力的な女性ではあるのだろう。しかし、色で満たせるほど私の欲は浅はかではないし、それは彼女も承知の上。ただのお巫山戯。なんの意味もない。
「たいした内容ではないにしても、本題はまだでしょうか」
「せっかちですねぇ。私との他愛のない戯れはお嫌いですか?」
「時間は有限。有意義に使ってこそです」
「さすがは人の寿命では満足できない聖徳太子様。言うことが違いますね」
それを持ち出されると弱いところがある。基本的に青娥の悪行には毅然とした態度をとるし、それは彼女も承知している。それでも彼女は、恐れ多くも全能道士の膝の上で愉快に酔っぱらっている不届き物の邪仙は、私の師匠であり、恩人であることには変わりない。
「わかりましたよ。いつか貴女を打ち倒さなくてはならなくなるその日まで、多少の戯れには付き合いますよ」
「そう来なくては」
楽しそうに笑う青娥は、背中を預けるようにこちらにもたれかかると、自然な動作で取り出した煙管に火をつける。付き合うとは言ったが、聖徳太子云々以前に、よくもまあ人様の膝の上でここまで寛げるものだと感心さえする。
「今朝起きた時に、いつものように芳香ちゃんにキスをしたのです。おはようのキス」
「仲がよろしいことで」
「あら?もしかして嫉妬なさっています?」
「私に前言を撤回させる気ですか?これ以上話を脱線させていくのであれば、日を改めてお願いします」
「これ以上の言葉は不要であると?太子様にならこのまま押し倒されても構いませんよ」
「必要であるなら暴力による解決でも」
「女性に手をあげるのですか?」
「顔以外にしておきましょう」
「まあ怖い。では話を戻しましょうか。その時、芳香ちゃんに言われたのです」
甘い煙をほぅっと吐き出した後、青娥は2.3度こほんと咳払いをする。
「青娥のお口にがい~……」
「……今のは芳香の声真似でしょうか」
「そこが本題ではありません」
青娥にぴしゃりと窘めなれる。せっかく素直に褒めようと思ったのに。
「別に芳香は貴女の悪口を言ったのではなく」
「えぇもちろん、わかっておりますとも。……念のために補足しておきますが、キスの前に咥えていたのは」
「その煙管でしょう。わかっていますよ」
私の言葉に悪戯っぽく笑って。そのまま気怠そうに再び煙管を咥えると、風呂上がりなのかしっとりとした薄紅色の唇から甘い香りをゆっくりと吐き出す。青娥をそういう物差しで見ることはあり得ないといったうえで、その姿は妖艶という言葉の意味を、耳元で囁かれるような錯覚に陥るほど、実に様になっている。
「それなら簡単な話ですね」
「いーやーでーすー」
「芳香と喫煙とどちらが大事なのですか」
「私の欲望が満たされることが何よりも大事です。芳香ちゃんとのキスも、この煙管の苦みも、お酒による高揚も、豊聡耳様とのお戯れも、ぜんぶぜーんぶ大事です。手放すなんて論外ですわ」
私たちの中には妥協や諦めは存在しない。私はそんなものを必要としないほどの器を持っているから。彼女はそのために手段を選ばないから。パンが食べたいときにケーキで妥協するような真似はしない。
「ならそのままでいいじゃないですか。芳香は苦いと思ったところで、貴女の望みを拒否しないでしょう」
「そんな鬼畜じみた真似をするなんて」
「どの口が言う」
「こちらが甘美な快楽に堕ちる最中、相手に苦いなんて思われては悲しいではありませんか」
「おはようのキスの話ですよね?朝から何をしているんですか……」
青娥の芳香に対する思いは、愛なんて言葉で定義できるほど単純ではない。それでも、もし定義するのであれば、それは間違いなく愛であると思う。彼女は欲と同じくらいに愛が深い。たとえそれが身勝手であろうと、歪んでいようと。
「少しでも相手を思いやる気持ちがあるのなら、素直に禁煙する。我を通すのであれば、相手が味に慣れるのを待つ。私としては前者を支持します」
「その心は」
「知っているでしょう。私もあまり煙を好みません」
吐き出される煙に対して、嫌そうな顔をするのを隠さない。先程からまるでマーキングをするように、私の上で煙管を吹かせる青娥だが、為政者として振舞うにあたって、この匂いが自分につくのはあまりにもふさわしくない。
「神子様って自分の女を好みに変えるタイプでしたっけ」
「そんなことはありませんし、もし仮にそうだとするなら、もう少し大人しく謙虚になっていただきたいですね」
「他人を導く神子様には、意外と振り回すタイプが似合うと思いますよ」
「誰にでもそう言ってそうですね」
「なんのことやら」
誤魔化すように煙管に口をつけようとする青娥だったが、ここで自分の手に煙管がないことに気づいたようで。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。実に気分がいい。
「これ以上はこちらにも匂いが移ってしまいますので」
「あらいつの間に」
隙をついて掠め取った煙管の火を消して、くるくると弄ぶように指で回す。適当に話し相手にもなって義理も果たしたし、何よりやり返したところで満足もした。このあたりで本格的に追い返してもいいだろう。今ならまだ明日には匂いも消えているだろうから。
「弟子に不覚をとるとは、落ちぶれましたね青娥娘々。こんなことでは」
術によって灯されていた明かりが消えて、目の前が真っ暗になる。ほんの一瞬。感じるのは距離がゼロになったゆえの鼓動、香水と酒と煙管の匂い。ほのかな甘さと、そして苦さ。
「……いきなりとは淑女らしからぬ振舞ではありませんか」
「そうでなければさせてくれないでしょう?」
「当然です」
先ほどとは違い、密着した身体から鼓動が伝わっている時点で既に勝敗はついている。それでも精一杯の強がりとして、かき集めた不快感を吐き出そうとするも、出たのは色を帯びた吐息交じりの声。
「1000年以上もの時間、ずっと貴女を待ちました。もう待ちません」
そういって膝から降りて、雲から顔を出した月明りの元、くるくると楽しそうに舞う姿はどこまでも無邪気で純粋で。たとえ彼女を討ち倒さなくてはいけないその日が来ても、きっと彼女を憎むことはないのだろうなと思ってしまうほどに。
「しかし今宵はこれにてお開き。おやすみなさい神子様。よき夢を」
芝居がかった仰々しい所作で一礼すれば、たとえその顔が見えなくてもどんな表情をしているかはわかる。満足した青娥の気配が部屋からなくなったのを感じ、無意識にひき出しを開けると、お饅頭の代わりに煙管が入っていた。
「困った人だ」
指を鳴らせば窓が閉まって、再び部屋が真っ暗になる。否。ぼんやりとした灯りが浮かび上がり、しばらくするとそれも消えてしまって。
陽気な空気に当てられて、人里を散歩していたところに甘味屋の娘に声をかけられた。素朴な雰囲気を纏う看板娘は、仙人に興味があるやら為政者として尊敬しているやら。特に中身のない言葉を重ねていたが、その目は幼くも色を帯びていた。話の終わりに、お店の新作なので良ければ、なんていって渡してきたのは丁寧にラッピングされたお饅頭。少し形の歪んだそれを笑顔で受け取って礼を言えば、花が咲いたような笑顔を浮かべていた。安いものだが、そういう年相応に素直な姿はかわいらしくも思う。後で食べようと机の中にしまっておいたはずだ。
……そんなこと思い出しながら、軽い準備運動として伸びをすると、背骨がぽきりぽきりと気持ちのいい音を立てる。さっそく今しがた覚えた術を試してみる。簡単な結界術。自分を中心として青白く光る東洋風の陣が形成されて、そこからさらに掌印で私好みに式を加えて編み込んでいく。最後に調整して見栄えよく整えてやれば、あっという間に完成。我ながら自分の才能に惚れ惚れとする。これならそう簡単に部屋に入ることは
「できますよ」
音も気配も痕跡もなく、白く美しい手に後ろから抱きしめられる。もしその手が首元ではなく、胸元に触れていれば、鼓動によって私の動揺はすぐにばれてしまっただろう。けれども彼女は自称淑女、そんな破廉恥な真似はしない。だからこそ、こちらも態度に出すことなく、いつも通りに呆れた様子で応える。
「私の術式は杜撰でしたか」
「いいえまさか。私程度の仙人が、かの豊聡耳様の術式に口出しできることなどありますでしょうか」
「むしろ私の師匠である貴女だけが、その権利を持っていると思いますがね」
肩を竦める私に、青娥はあらあらと楽しそうに笑う。青娥のことを凡人だなんて思ってはいないが、それでも彼女が100の時間を費やして身に着ける術を、私は5~10の時間でより完璧に身に着ける自信がある。生きてきた年月が違うといっても、既に彼女との差はそれほど大きくはない。それどころか、むしろ超えてしまっている部分も少なくないだろう。もちろんそれは倫理や道徳という人として超えるべきではない一線の内側に限定した話にはなるけれど。残念ながら、師匠としても反面教師としても、未だ学ぶことは多い。
「術式はいつもと変わらず見事でした。ではなぜ私があっさりとこの部屋に入り込めたでしょう」
「それを今まさしく尋ねているのですが、まあいいでしょう」
こちらも名ばかりとはいえ弟子を取り、教え導くことが多い立場となった。だから簡単に答えを与えるだけではなく、時には考えさせることの重要性も理解している。それに青娥はちゃんとヒントも与えている。
「破られた形跡がなく、師匠からも見事だというお墨付きがあったので、強度の問題じゃない。つまり反応しなかった、すり抜けたと」
「結界はものにもよりますが、全てを隔ててしまうわけではありません。空気や光などまで通さなければそれはあまりにも不便、なので通過できるものとそうでないものの区別を式として組み込む必要があります」
「結界術の基礎中の基礎ですね。しかしそれはそれで問題があります」
「どのような?」
「私は魔を拒む式を打ち込んだはずなのですが」
「それはそれは。つまり私は聖徳太子お墨付きの善なるものであると」
「ご冗談を」
青娥は首筋に抱きつくようにして大層楽しそうに笑う。今宵の半月はいつのまにか雲に隠れてしまったらしい。ぼんやりと薄暗い視界の代わりに鼻をくすぐるのは、青娥の香水と煙草と酒の匂い。なんとも俗世の欲にまみれた香りだが、不思議と不快感はない。
「それで要件は何でしょうか」
「要件がなければ会いに来てはいけない関係でしたか?」
「師弟以上の関係は記憶にないですね」
「いけずぅ」
「そういうのは芳香にお願いします」
「そうなんですよぉ。芳香ちゃんです」
待っていましたとばかりに、私から離れた青娥は、芝居かかった所作でくるりと回ると、そのまま我が物顔で私の膝の上に腰かける。それを許したつもりはないが、あまりにも自然な所作に止める間もなかった。世界広しといえども聖徳太子の膝の上を座る不届き物は彼女しかいない。
「今朝の話なんですけど……あ、ご存知の通り、私は寝る時に何も身に着けませんよ?」
「……何がご存知の通りなのかさっぱり理解できませんが、その情報は今からする話に必要なんですか?」
「解像度が増すかと思いまして」
「お気遣いは感謝しますが、別に必要ありませんよ」
「そうですわよね。別に神子様が望むなら」
そういって胸元を開けて見せる彼女に、思わず頭痛がしてくる。彼女はとびきりの毒、身体に害があると理解した上でも多くの人が飲んでしまうような、魅力的な女性ではあるのだろう。しかし、色で満たせるほど私の欲は浅はかではないし、それは彼女も承知の上。ただのお巫山戯。なんの意味もない。
「たいした内容ではないにしても、本題はまだでしょうか」
「せっかちですねぇ。私との他愛のない戯れはお嫌いですか?」
「時間は有限。有意義に使ってこそです」
「さすがは人の寿命では満足できない聖徳太子様。言うことが違いますね」
それを持ち出されると弱いところがある。基本的に青娥の悪行には毅然とした態度をとるし、それは彼女も承知している。それでも彼女は、恐れ多くも全能道士の膝の上で愉快に酔っぱらっている不届き物の邪仙は、私の師匠であり、恩人であることには変わりない。
「わかりましたよ。いつか貴女を打ち倒さなくてはならなくなるその日まで、多少の戯れには付き合いますよ」
「そう来なくては」
楽しそうに笑う青娥は、背中を預けるようにこちらにもたれかかると、自然な動作で取り出した煙管に火をつける。付き合うとは言ったが、聖徳太子云々以前に、よくもまあ人様の膝の上でここまで寛げるものだと感心さえする。
「今朝起きた時に、いつものように芳香ちゃんにキスをしたのです。おはようのキス」
「仲がよろしいことで」
「あら?もしかして嫉妬なさっています?」
「私に前言を撤回させる気ですか?これ以上話を脱線させていくのであれば、日を改めてお願いします」
「これ以上の言葉は不要であると?太子様にならこのまま押し倒されても構いませんよ」
「必要であるなら暴力による解決でも」
「女性に手をあげるのですか?」
「顔以外にしておきましょう」
「まあ怖い。では話を戻しましょうか。その時、芳香ちゃんに言われたのです」
甘い煙をほぅっと吐き出した後、青娥は2.3度こほんと咳払いをする。
「青娥のお口にがい~……」
「……今のは芳香の声真似でしょうか」
「そこが本題ではありません」
青娥にぴしゃりと窘めなれる。せっかく素直に褒めようと思ったのに。
「別に芳香は貴女の悪口を言ったのではなく」
「えぇもちろん、わかっておりますとも。……念のために補足しておきますが、キスの前に咥えていたのは」
「その煙管でしょう。わかっていますよ」
私の言葉に悪戯っぽく笑って。そのまま気怠そうに再び煙管を咥えると、風呂上がりなのかしっとりとした薄紅色の唇から甘い香りをゆっくりと吐き出す。青娥をそういう物差しで見ることはあり得ないといったうえで、その姿は妖艶という言葉の意味を、耳元で囁かれるような錯覚に陥るほど、実に様になっている。
「それなら簡単な話ですね」
「いーやーでーすー」
「芳香と喫煙とどちらが大事なのですか」
「私の欲望が満たされることが何よりも大事です。芳香ちゃんとのキスも、この煙管の苦みも、お酒による高揚も、豊聡耳様とのお戯れも、ぜんぶぜーんぶ大事です。手放すなんて論外ですわ」
私たちの中には妥協や諦めは存在しない。私はそんなものを必要としないほどの器を持っているから。彼女はそのために手段を選ばないから。パンが食べたいときにケーキで妥協するような真似はしない。
「ならそのままでいいじゃないですか。芳香は苦いと思ったところで、貴女の望みを拒否しないでしょう」
「そんな鬼畜じみた真似をするなんて」
「どの口が言う」
「こちらが甘美な快楽に堕ちる最中、相手に苦いなんて思われては悲しいではありませんか」
「おはようのキスの話ですよね?朝から何をしているんですか……」
青娥の芳香に対する思いは、愛なんて言葉で定義できるほど単純ではない。それでも、もし定義するのであれば、それは間違いなく愛であると思う。彼女は欲と同じくらいに愛が深い。たとえそれが身勝手であろうと、歪んでいようと。
「少しでも相手を思いやる気持ちがあるのなら、素直に禁煙する。我を通すのであれば、相手が味に慣れるのを待つ。私としては前者を支持します」
「その心は」
「知っているでしょう。私もあまり煙を好みません」
吐き出される煙に対して、嫌そうな顔をするのを隠さない。先程からまるでマーキングをするように、私の上で煙管を吹かせる青娥だが、為政者として振舞うにあたって、この匂いが自分につくのはあまりにもふさわしくない。
「神子様って自分の女を好みに変えるタイプでしたっけ」
「そんなことはありませんし、もし仮にそうだとするなら、もう少し大人しく謙虚になっていただきたいですね」
「他人を導く神子様には、意外と振り回すタイプが似合うと思いますよ」
「誰にでもそう言ってそうですね」
「なんのことやら」
誤魔化すように煙管に口をつけようとする青娥だったが、ここで自分の手に煙管がないことに気づいたようで。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。実に気分がいい。
「これ以上はこちらにも匂いが移ってしまいますので」
「あらいつの間に」
隙をついて掠め取った煙管の火を消して、くるくると弄ぶように指で回す。適当に話し相手にもなって義理も果たしたし、何よりやり返したところで満足もした。このあたりで本格的に追い返してもいいだろう。今ならまだ明日には匂いも消えているだろうから。
「弟子に不覚をとるとは、落ちぶれましたね青娥娘々。こんなことでは」
術によって灯されていた明かりが消えて、目の前が真っ暗になる。ほんの一瞬。感じるのは距離がゼロになったゆえの鼓動、香水と酒と煙管の匂い。ほのかな甘さと、そして苦さ。
「……いきなりとは淑女らしからぬ振舞ではありませんか」
「そうでなければさせてくれないでしょう?」
「当然です」
先ほどとは違い、密着した身体から鼓動が伝わっている時点で既に勝敗はついている。それでも精一杯の強がりとして、かき集めた不快感を吐き出そうとするも、出たのは色を帯びた吐息交じりの声。
「1000年以上もの時間、ずっと貴女を待ちました。もう待ちません」
そういって膝から降りて、雲から顔を出した月明りの元、くるくると楽しそうに舞う姿はどこまでも無邪気で純粋で。たとえ彼女を討ち倒さなくてはいけないその日が来ても、きっと彼女を憎むことはないのだろうなと思ってしまうほどに。
「しかし今宵はこれにてお開き。おやすみなさい神子様。よき夢を」
芝居がかった仰々しい所作で一礼すれば、たとえその顔が見えなくてもどんな表情をしているかはわかる。満足した青娥の気配が部屋からなくなったのを感じ、無意識にひき出しを開けると、お饅頭の代わりに煙管が入っていた。
「困った人だ」
指を鳴らせば窓が閉まって、再び部屋が真っ暗になる。否。ぼんやりとした灯りが浮かび上がり、しばらくするとそれも消えてしまって。
タバコのつかめない煙で、
かけたんですかぁ~?
(純粋に良かった。それだけは言える)
青娥のつかみどころのなさがとても素敵でした
存分に浸らせてもらいました!