†
善は悪のことを知らない。
悪は善のことを知っている。
†
斯くて玩具は壊れた。
それは存外に呆気なく、見事なまでに神はいなかった。
哀れな少年に加護はなく、穏やかな日暮れに裁きの稲妻は降りそうもない。
僕は頬杖を突きながら少年が息を吹き返した場合の釈明について考えていた。
幸か不幸か、その難題を解く必要はなかった。少年は遂に僕らを糾弾することはなく、空ろに開いた唇は寡黙に蒼白を深めてゆく。
「それで、どうするのさ」
沈黙に耐えかねて僕は口火を切った。
彼女は死体となった少年を飽きることなく眺めており、ともすれば彼とともに腐敗を始めてしまいそうにさえ思えた。
僕が一人取り残される前に、彼女にはこちら側に戻ってきてもらわなければ。
呼びかけに、ようやく彼女は顔を上げる。
「キスで生き返るかな」
僕は思わず溜息を吐いた。人一人絞め殺しておいて彼女は顔色ひとつ変えていない。
「やめときなよ、証拠が残る」
語気を強めたのはひとえに彼女がそれをやりかねないからだった。その視線は遺体と強く結びついており、僕があと数秒言葉を詰まらせていたなら手遅れになっていたに違いない。
「それに今更生き返らせてどうするのさ」
「今度は胸を刺してみたいの」
彼女はそう言って微笑み、僕は肩を竦めた。
彼女の思考回路はいつだってこんな具合だ。その心はいつだって凪いでいて、果てない海溝に昏い混沌を飼っている。
だからこそ、僕は彼女に惹かれていた。
日蝕の空、洪水の前夜、夏の終わりの森の腐臭――彼女と違って年相応の僕は、そんな稀有な現象の数々に目を輝かせずにはいられない。
だから、いつかこんなことになる気はしていた。それは多分、花瓶を割るか人の首を絞めるかの違いだっただけだ。
計画性の欠片もない、手荒で無邪気な殺人。実際の捜査がどんな方法で行われるのか知らないけれど、指紋や毛髪、服の繊維なんかが手掛かりになると聞く。
無論そんなことに気を配る余裕はなく、いまさら素人による隠蔽が成立するとも思えなかった。
「帰ろう」
不思議と僕は落ち着いていた。
物言わぬ遺体とそれを見つめる彼女。ひどく静かなこの場所で一人狼狽えるのはなんだか恥ずかしいことのように思えたのだ。
「そうね」
彼女が立ち上がると同時、遠い窓から差し込む微風が僕らの頬を撫でた。
それは奇妙な肯定感に満ちており、秋へと続く空は血の匂いを帯びるには乾きすぎていた。
「今夜は胡桃の入ったパンが食べたい気分」
一度その場を離れると、彼女はもう振り向きもしなかった。まるでさっきまでの記憶を失くしたかのように、胡桃のパンと腐りかけのバターについて饒舌に話している。
僕もそれに倣い、その場所と出来事についての如何ともしがたい事実を忘れることにした。
それは存外にうまくいき、彼女が語る黒い黴は後ろめたさと曖昧な不安を都合よく覆い溶かしてくれた。
やがて僕の頭は腐って蕩けたバターでいっぱいになり、気が付けば何事もなかったかのようにいつもの帰路を辿っていた。
地面に溶けた夕日の色と青褪めた遺体の肌、それらの間に何の関係があるというのだろう。
「じゃあね」
「ええ、また明日」
いつもの岐路で僕らは分かれた。
水の涸れた噴水の中央、白磁の天使は今日も虚空を見上げており、その視線の先には季節外れの蔓花が力なく撓んでいた。
振り返って彼女の背を見送る。悠々とした歩みを見つめる僕を追い立てるように、肉屋の窓から時間外れの鶏が高鳴いた。
家に帰ると手を洗い、夕食に葉野菜と豚の燻製を食べ、錆の浮いた水で歯を磨く。何も知らない母は敬虔に祈り、僕もそれに倣った。
日課となった家業の手伝いは蝋燭が惜しくなる時間まで続き、一定の成果をあげた僕は母から気紛れの銅貨を授かった。
僕はそれをポケットに仕舞い、手持ち無沙汰になるとそれを弄んだ。それらの外周を擦り合わせると微細な振動が指先を伝い、妙な安心感を覚えるのだ。
明かりが消え、毛布に包まる。斑な黴が巣食う天井は星空に似て、けれども瞬くことはない。
あの冷たい廃墟に横たわる少年も、ともすればこんな夜を過ごしたのだろうか。
彼女の細く白い両手が縊る未来。知る由もない幾つかの連続性。彼にとって近しい誰かの不安と嘆き。空白の寝床と冷たいシーツ。
考えてみるものの、それらは到底興味深い答えに辿り着くとは思えず、自虐的な想像は長くは続かなかった。
毛布の熱が体に染みるにつれて思考が曖昧になり、睡魔の足音が古い時計の打刻音に乗って僕を覆う。
また明日。
そう言って微笑んだ彼女の姿を反芻して、やがて僕は滑り落ちるようにして眠りの淵に呑み込まれた。
†
一週間が過ぎた。
警察というのは案外役に立たないものらしい。おかげで僕らの日常は恙無く続いていた。
犯した罪が裁かれないというのは、左右にちぐはぐの靴下を履いている感覚に似ていた。誰も僕の裾を捲ろうとはしないけれど、何かの拍子に致命的な事実が露見するのではないかと気が気でない。
何かの拍子に、気紛れな誰かがそうしたならば、堰を切ったように平穏は砕かれて途方もない奈落の彼方へと流されてしまうだろう。
不意にあの日のことが脳裏を過ぎる。そのたびに胃が強く収縮し、闇雲な焦燥とむかつきを覚えた。
結局のところ僕は、善悪以前に単なる臆病者ということらしい。
「どうかしら?」
彼女はというと、新しく買った帽子を同級生たちに自慢して回っていた。
荊を模した飾りを添えた黒い羊毛は彼女のブロンドと痩細い体躯によく似合い、誰もが彼女の求めるがままにそのセンスと無邪気な仕草を称賛していた。
「似合ってると思うよ」
自分の順番が回ってくると、僕は鉛筆を研ぐ手を止めて、なるべく当たり障りのないように答えた。
彼女はそれが不満であるらしく、僕が無意識に逸らした目線に回り込んでさらに賛美の言葉を強請った。
「僕がそういうの上手く言えないの知ってるだろう」
「それじゃあ、とびきり下手な言葉を頂戴」
溜息を吐くと削いだばかりの新鮮な木の香りがその隙間を埋めた。
共犯者である以上、僕らはあまり頻りに関わるべきではない。そんな配慮を彼女が酌んでくれるとは思えず、昏い虹彩は頑なに僕へと引き絞られている。
僕は手の腹で机を掃き、薄い木屑を掌の中に収めて立ち上がった。
「人ひとり殺してるとは思えないくらい素敵だよ」
すれ違いざまの囁きに彼女は満足したらしく、屈託のない笑みを乗せてその場で一度回るなどする。蜂蜜に似た彩の髪が、空に甘い波紋を振り撒いた。
思うに、彼女の立ち振る舞いは見事だった。
彼女は生命力と輝きに溢れ、それを無防備に発露することができる。うまく言葉にできないけれど、とにかくそれは死と対極の気配で、殺人などとはまるで無縁であることを直感させる魔法を帯びていた。
後ろめたさのない彼女の姿は僕に歪な敬意と安心感をもたらし、僕の中の感覚を着実に麻痺させていた。
そんな毒気に曝され続けて二週間。僕は愚かにも例の現場に再び足を運ぶことにした。
もちろん、そうするべきでないことは重々承知していた。
けれども心のどこかで、少年の死が無垢な砂に変わっていることを期待してもいた。
あの日あの場所で、何事も起こらなかったのだと――あまりに平穏に続く日常と彼女の完全な振舞いは、そんな子供じみた妄想を無責任にも担保していた。
「…………!」
結果として、僕はひどく後悔することになる。
自分に繋がる決定的な証拠になってしまうという危機感が堰き止めなければ、盛大に嘔吐していたに違いない。
言葉にするのもおぞましい腐敗。蕩けた肉は名状しがたい色と歪な湿りに張り詰めて、それを貪る無数の蠢きがほとんどの外装を失った骸をまるで生きているかのように細かく揺すり、それらの孵卵と排泄が醜悪な死を絶望的なまでに生々しく彩っていた。
「あの馬鹿……」
吐瀉を辛くも飲み込み、頭を抱えて蹲る。さすがの僕もこれにはお手上げだった。
見覚えのない腐肉は少年のそれと仲睦まじく、手を繋ぐようにして横たえられていた。
腐敗の度合いからして彼らはごく近い日に並べられたのだと察せられる。あの日の帰路、僕の頭に黒いバターを詰め込む傍らで、彼女は何を考えていたのだろう。
新しい方の遺体は胸に刺し傷があった。小さな心臓からの流血は底を尽いて久しく、けれども執拗に刃物を突き立てたと思しき数多の創痕はなおも痛々しい。
『今度は胸を刺してみたいの』
彼女の言葉が再生される。まさか本当に、そしてこんなにも容易に実行に移すとは。
二人の間には蜥蜴の模型と薄汚れたボールが供えられていた。まるで屍となった彼らがそれを転がして遊んでいるかのように。
それは餞とも冒涜とも見てとれる。けれど彼女がそうしたのならば、もはや僕にその真意は測りかねた。
二人目の犠牲者。彼女にとってこの数字が何か意味を持つのだろうか。
溜息を吐くと続く吸気にひどい腐臭が肺にまとわりついて、いよいよ気分が悪くなる。それはまるで不条理に肉体を剝がされた魂が、僕を同じ闇の淵に引きずり落とそうとしているかのようだった。
元より来るべきではない場所だ。服の繊維がこの地獄めいた瘴気を帯びる前に、僕は廃墟を去ることにした。
その日は風がなく、許されることのない罪の蟠りはいつまでも、どうしようもなく僕の中に留まり続けた。
†
「見たよ、二人目」
次の日、人気の少ない帰路で彼女を問い質す。
不意を衝けば狼狽もするだろうかと期待したが、彼女がまとう祝福はその程度で綻びることはなかった。
夕陽をたっぷりと浴びた黄金の髪を棚引かせ、お気に入りの帽子の鍔を押さえて優雅に振り返った彼女は言う。
「三人目はまだなんだ」
二人も手にかけて――そう続けようとしていた僕は頭を抱えた。
彼女はいつだって僕の想像の先をいく。それは大抵ろくでもない方向に。
「今度は大人よ。あの廃墟の近くの樹に架けてあるから探してみるといいわ」
彼女は満面の喜色を浮かべて誇らしげに続けた。
この短い期間に三人は明らかに常軌を逸している。
今はまだ見つかっていないからいいものの、彼女の仕業だと発覚するリスクは日ごとに高まっていくはずだ。
それなのに彼女の飄々とした態度は一向に揺るがない。無辜の少年を息絶えさせた現場をこの目で見たという事実だけが、僕を正気たらしめていた。
「この調子で殺し続けるのかい」
僕は訊ねた。
彼女は他人事のように答える。
「どうだろう。死は気まぐれだもの」
彼女がもつ天性の素質。それは明らかに他人を蒙昧にする作用を持っていた。
あの場所に渦巻く隠しきれない腐臭に誰も気付かないのも、消えた少年たちについての話題が挙がらないのも、全て彼女の操る魔法によるものだと思えてしまうのだ。
どうやら僕もまたその影響下にあり、彼女を組み伏せてまで続く凶行を止めようとは思えなかった。
彼女は依然、僕にとって壮大な憧れであり、瞬く混沌の宇宙儀なのだ。
このまま何事もなかったかのように、全てが夢のように終息していけばいい。僕はいつしかそう願うようになっていた。
「僕は、君が逮捕されたら悲しいよ」
そう言うと彼女はきょとんとした。
それはあまりにも清らかで無防備な、心から漫然とした平穏を妄信している市民による、極めて自然な反応だった。
無実の砂などどこにもないことを僕は既に知っていたはずなのに。
「逮捕なんてされるわけないわ。私は正直者だもの」
罪に対する歪なまでの耐性。
その点において、僕は明確に彼女を恐ろしいと思った。
†
静寂を縫って、残響が耳に届く。それは死の気配に敏感になっていた僕の眠りを容易に貫いた。
闇に慣れた瞳で柱時計を見る。時刻は午前四時に差し掛かろうとしていた。
音の出処は遥か遠く、それでも僕の心臓に跳ね上がるような鼓動をもたらした。
それは彼女が四人目の犠牲者を撃ち抜く音だと根拠なく、けれども強く確信した。
神経を貫く落雷に、眠りの門は焼き払われていた。跳ねる心臓を抱きかかえて、見上げた天井に彼女の姿を浮かべてみる。
彼女は真夜中の森に蹲り、鉛玉で弾けた心臓の洞穴を覗いている。引き絞られた瞳は死者と同調するように暗く、好奇とも恍惚ともとれない闇だけがそこに揺蕩っている。
とめどない流血と砕かれた骨肉、破壊された魂に彼女は何を見るのだろう。
あの日、彼女の中に芽生えた悪魔の素質。名も知らぬ少年の首を絞める手を、僕は力づくにでも止めるべきだったのだろうか。
毛布を掴んで顔に寄せるといつかの腐臭が鼻の奥に蘇る。
本能的な忌避感に満ちた赤い縺れ。頬に触れる毛布の毛先のひとつひとつが白く蠢く蟲と重なって怖気立ち、僕は寝返りを打って寝台から毛布を蹴落とした。
あれが死だ。
前提なく忌避すべき醜悪な穢れ。決して相容れることのない生命の対。
人のあらゆる行動は死を遠ざけるためにあることに気付かされる。
食べて寝て、毒を避けて汚れを濯ぐ。他者を害しないことを誓い、穏便な取引のために日銭を稼ぐ。森を拓いて獣を弑し、炎を操り灌漑を敷く。……そうやって僕たちは不可視の城壁に数多の石を積み続けていく。
彼女は、その硬く鋭利な尖端が人の頭蓋に勝ることを知っている。それは一つの身体が二つの世界に等しく存在しているようなもので、僕らの城壁は内からの襲撃にひどく脆い。
柔らかな綿毛を寄せ合うばかりの羊たち。彼らは隣り合う相手の歯形が自分と同じだと理解している。蒙昧もまた、互いに頭蓋を砕き合わないための、先天的に結ばれた契約なのだろう。
僕は目を閉じて、再び睡魔に手を伸ばす。夏の終わりに腺毛の恋しいはずもなく、無形の悪魔は優しい微睡みで容易に僕の心を包んだ。
生温い安寧に乗せて明日が来る。穿たれた夜は窄まるように収束し、いつしかなだらかな平面となって過ぎていった。
†
やはりと言うべきか、僕の想像など外れるためにある。
新聞の見出しは昨夜の銃声と、その出処について大きく報じていた。
併せて先の三つの殺人についても同様で、その話題は彼女に問うまでもなく、否応なしに僕の耳にも入り込んできた。
紙面の端に長細く綴られたコラムを読むふりをして、件の記事に目を通す。
隠居暮らしの農夫が自らの妻を射殺したのち自殺したのだという。近隣の森と廃屋で腐乱した三つの遺体が発見され、当局は幾つかの断片的な証拠から自殺した男の犯行と断定。
彼は元来精神に疾患を抱えており、衝動的な暴力は周囲に目立って知られていたという。
被害者はいずれも彼と何らかの形で接点があり、そのうちの幾つかには怨恨の類が見られた。彼を弁護する物証はなく、複数の痕跡と状況は完全に物言わぬ農夫を包囲している。
擁護の余地はなく、無実を語る術もない。一連の事件は腑に落ちるシナリオのまま、発覚と同時に幕を下ろす形で締めくくられていた。
当然、僕や彼女の存在など掠りもしていない。彼女は一連の事件には何ら無関係な、無数の雑踏のひとつに過ぎない。結局全ては故も知らぬ農夫の狂気で片が付いてしまった。
僕は眩暈を覚えた。完全犯罪といってよく、魔法じみてさえいた。僕が遂に得ることのなかった砂の国を、彼女は難なく用意してしまったのだ。
あの飄々とした態度は、この結末に裏付けられたものだったのだろうか。
「これで五人ね」
その日の帰り道、僕の背後から忍び寄った彼女は耳元にそう囁いた。
連続殺人者に背後から首筋を取られるのは、なんだか奇妙な心地がした。周囲に人の気配はなく、彼女がその気になれば、僕も尤もな物語に組み込まれてしまうのだろうか。
僕が振り返ると、彼女は五本の指を口元に添えて立っていた。隙間から笑む血色のよい唇は、どこか誇らしげにそれが示唆する成果を主張している。
「呆れるよ、本当に」
僕は苦笑する。それは不思議な昂揚の顕れで、そんな感情を覚えたことに自分でも驚いた。
崩れた足場の上に、それでもなお立っているような感覚。危うい浮遊感と空ろな安堵。ともすれば、このような心持ちで風を掴むからこそ鳥は飛ぶのだろうか。
無論、僕もこの結末を願っていた。陰惨な事実、耐え難い腐臭、決して巻き戻ることのない血染めの罪を無に帰して、彼女の魔法が世界を書き換えてしまうことを。
僕の靴下は誰に捲られるまでもなく、最初からどちらも同じ長さと柄をしていた。なればこそ、何食わぬ道化た浮遊も許されよう。
「神様みたいなことをするんだね」
僕が揶揄すると、彼女は嘯く。
「生き返らせることはできなかったわ」
彼女はスカートの裾を翻し、小さな瓦礫をどこかへ蹴り飛ばす。それは三度ほど路面を転がり、路傍の砂利と一つになった。彼女にとって、どうも人の身は窮屈なものであるらしい。
僕は最初の、そして二度目の殺人現場を思い出す。腐敗に啄まれる少年たちは、赤黒い骨になる前に、憐れみと尊厳を与えられただろうか。
「ああ、そしたら彼らは真っ先に君を告発するだろうね」
「その時は庇って頂戴ね」
苦笑とともに竦めた僕の肩へ、彼女はおもむろに手を伸ばす。
世界は僕が思っているよりも複雑で、ゆえに単純な幸福に満ちている。
裁かれることのない罪、破られることのない秘密。それは善を妄信する僕ごときが覗くことのない深淵で、物事は果てしなく絡み合い、やがて妥当な実を結ぶ。それは毒を含まず適度に甘く、そういったことは事実、往々にしてあるようだ。
だから僕の舌が噛み千切られることはなく、鼓動は溢れることのない血液を強くどこまでも走らせる。それは僕の思う死の感覚とは程遠く、初めて知る感覚に焼けた頬の延長線上で目の焦点だけが狂ったように泳ぎ続けた。
凍り付くような感覚とは裏腹の接触は、僕の肩を支えに背伸びした彼女の身体から止め処なく注がれる。
錯乱する視界の端で殺人者の赫い瞳が、狼狽する僕を興味深げに観察している。逃げる先を失った僕は観念し、沈むように力を抜いて瞼を閉じた。脳裏を蠢く羊たちは黒く柔らかな腺毛を草原に漂わせながら、音のない世界へ向けて楽園の歌を嘶き続けている。
「……黄泉返った?」
やがて彼女は糸を引くような甘い香りを残して僕から離れた。その間に差し込んだ空気のなんと冷たいことだろう。
心臓は尚も激しく胸膜を叩き続け、僕の思考の整理を妨げている。濁流のような思考と情報の交響曲はひどく複雑に縺れ合い、不器用な僕が解くには絶望的な時間を要するだろう。
いっそ鋭利な切っ先で貫いてくれたなら、物事は驚くほど簡単だったに違いない。
「馬鹿言うなよ……」
へたり込んだ僕の傍らに彼女が座り、泳ぎ疲れた瞳を捉えて微笑んだ。
白磁の肌は夕陽の陰でなお朱く、それは皮肉にも自らの罪を饒舌に吐露していた。そこに朽ちゆく屍や染みつく腐臭のあるはずもなく、無垢な少女と僕だけが静穏な世界の只中に生きている。
僕は何かを確かめるように口を開き、まごつき、息を吸って、言葉を紡いだ。
そうして僕たちは恋人になった。
†
自分の内臓について知覚する機会はそう多くない。そしてそれは大概喜ばしいものではないだろう。反転する胃腸を抱えて僕は嗚咽した。
両手で挟めば軽々と持ち上がるような小さな身体。それは脈絡のない挙動と突発的な衝動で常に僕を翻弄し、今回は何の前後関係もなく寝転んでいた僕の腹部へ持てる限りの体重と慣性を叩き込んだ。
それはきゃっきゃと燥ぎながら、惨めに蹲る僕の覚束ない腕を擦り抜けて、軽やかに自らの巣へと帰っていく。
「どうしたの?」
それをひょいと持ち上げて、彼女は言う。それから蒼い顔で縮んだ僕を見て、くすくすと笑った。
「また怪獣さんにやられたのかな」
「そのまま押さえててよ。やられっぱなしじゃあ僕だって気が済まないんだ」
「ふふ、大人げないんだねぇ」
彼女は腕の中の小さな怪獣と一緒になって僕を明るく嘲った。
二人並んで同じような表情をすると、その目元がひどく似ていることに気付く。ぱっちりとした丸い目を引き絞る緩やかな曲線は、不思議な安堵と宿命めいた愛着で不条理にも僕の苦悶を和らげるのだった。
「君と同じだ」
「そっくりでしょう?」
彼女は怪獣と頬同士を寄せ合い、互いの白く柔らかな質感を誇示する。温かなそれらは何の障壁もなく触れ合い、僕を挑発するように小さく撓んだ。
「そうじゃなくて」
僕は憐れな鈍痛を擦りながら身を起こし、無邪気に自惚れる彼女らに呆れ顔で応える。
「他人を理由もなく壊そうとするってこと」
僕の皮肉に彼女は反論するでもなく、舌を出しておどけてみせた。おそろしいことに、怪獣もそれを真似ようとして口を円く開き、桜色の舌を不器用に泳がせる。
その件については、僕らの日常によく馴染んでいた。敢えて取り立てることもなく、時折揶揄しないでもなく。
あれ以来、彼女の凶行はすっかり鳴りを潜めることになった。
ただでさえ透明な殺意だ。こうなってしまえば、もはや誰にも、どうすることもできなかった。
あくまで僕が知る限り、と前置きしておくべきだろう。
けれどもそれについて、僕はさほど関心がなかった。少なくとも僕らの寝室に釘の植わった椅子などはなく、彼女の寝相は実に慎ましい。僕にとってはそれで充分だった。
そして僕がそうある限り、彼女にとってもそうなのだと思う。自惚れるわけではないが、全ては奇妙でありふれた童話に過ぎなかったのだ。
記憶というのは実に忠実な機構で、今もあの病んだ光景と穢れに澱んだ空気を鮮明に思い出すことができる。彼らの苦悶も付随する悲哀も、察するに余りある。
だから僕らも彼らと同じ。連綿と続く日々を妄信しながら歩いてゆく。真実に対する揺らぐことのない諦観を、秘密とともに抱えながら。
「ほら、行けっ」
彼女が怪獣を解放すると、それは一目散に座り直したばかりの僕めがけて走り出した。
先程とは違い、覚悟と重心を据えた僕にとってその襲撃は甚だ幼気で無害なものだ。広げた腕の中へ飛び込む体躯を両側から確固と抑え込む。
高い体温と柔らかな匂い、細やかな金の産毛が僕の鼻先を掠めた。
覗き込む瞳は赫く、同時に暗い藍を宿している。未だ見慣れぬ世界への憧憬は、僕らを合わせ鏡のように爛と瞬かせた。
僕はその両脇を抱きかかえ、軽やかに宙へと掲げる。ちょっとした浮遊感は目新しい感覚であるらしく、覚束ない声をあげて喜んだ。
「散歩にでも行こうか、僕が頭突きを喰らう前に」
「いい提案ね」
僕の切実な訴えに彼女は乗り気で、陽気に一回転したスカートが宙に丸い円を描く。
「神様はいつだって、私たちに生きることを望んでいるわ」
「そのようだね」
僕は怪獣を肩に背負い、空いた手で彼女の手を取る。彼女が言うのなら、概ね世界はそのように出来ているのだろう。
乱暴に僕の髪を毟る小さな手を窘めながら、春風の感触を先取りする。それは劫罰と呼ぶには眩しく、ひどく安らかだった。
正直者はもういない。温かな脈動は刻々と僕たちの間を巡り続ける。
願わくば、これからも数多の祝福が透明な日々に降り注ぎますように。
善は悪のことを知らない。
悪は善のことを知っている。
†
斯くて玩具は壊れた。
それは存外に呆気なく、見事なまでに神はいなかった。
哀れな少年に加護はなく、穏やかな日暮れに裁きの稲妻は降りそうもない。
僕は頬杖を突きながら少年が息を吹き返した場合の釈明について考えていた。
幸か不幸か、その難題を解く必要はなかった。少年は遂に僕らを糾弾することはなく、空ろに開いた唇は寡黙に蒼白を深めてゆく。
「それで、どうするのさ」
沈黙に耐えかねて僕は口火を切った。
彼女は死体となった少年を飽きることなく眺めており、ともすれば彼とともに腐敗を始めてしまいそうにさえ思えた。
僕が一人取り残される前に、彼女にはこちら側に戻ってきてもらわなければ。
呼びかけに、ようやく彼女は顔を上げる。
「キスで生き返るかな」
僕は思わず溜息を吐いた。人一人絞め殺しておいて彼女は顔色ひとつ変えていない。
「やめときなよ、証拠が残る」
語気を強めたのはひとえに彼女がそれをやりかねないからだった。その視線は遺体と強く結びついており、僕があと数秒言葉を詰まらせていたなら手遅れになっていたに違いない。
「それに今更生き返らせてどうするのさ」
「今度は胸を刺してみたいの」
彼女はそう言って微笑み、僕は肩を竦めた。
彼女の思考回路はいつだってこんな具合だ。その心はいつだって凪いでいて、果てない海溝に昏い混沌を飼っている。
だからこそ、僕は彼女に惹かれていた。
日蝕の空、洪水の前夜、夏の終わりの森の腐臭――彼女と違って年相応の僕は、そんな稀有な現象の数々に目を輝かせずにはいられない。
だから、いつかこんなことになる気はしていた。それは多分、花瓶を割るか人の首を絞めるかの違いだっただけだ。
計画性の欠片もない、手荒で無邪気な殺人。実際の捜査がどんな方法で行われるのか知らないけれど、指紋や毛髪、服の繊維なんかが手掛かりになると聞く。
無論そんなことに気を配る余裕はなく、いまさら素人による隠蔽が成立するとも思えなかった。
「帰ろう」
不思議と僕は落ち着いていた。
物言わぬ遺体とそれを見つめる彼女。ひどく静かなこの場所で一人狼狽えるのはなんだか恥ずかしいことのように思えたのだ。
「そうね」
彼女が立ち上がると同時、遠い窓から差し込む微風が僕らの頬を撫でた。
それは奇妙な肯定感に満ちており、秋へと続く空は血の匂いを帯びるには乾きすぎていた。
「今夜は胡桃の入ったパンが食べたい気分」
一度その場を離れると、彼女はもう振り向きもしなかった。まるでさっきまでの記憶を失くしたかのように、胡桃のパンと腐りかけのバターについて饒舌に話している。
僕もそれに倣い、その場所と出来事についての如何ともしがたい事実を忘れることにした。
それは存外にうまくいき、彼女が語る黒い黴は後ろめたさと曖昧な不安を都合よく覆い溶かしてくれた。
やがて僕の頭は腐って蕩けたバターでいっぱいになり、気が付けば何事もなかったかのようにいつもの帰路を辿っていた。
地面に溶けた夕日の色と青褪めた遺体の肌、それらの間に何の関係があるというのだろう。
「じゃあね」
「ええ、また明日」
いつもの岐路で僕らは分かれた。
水の涸れた噴水の中央、白磁の天使は今日も虚空を見上げており、その視線の先には季節外れの蔓花が力なく撓んでいた。
振り返って彼女の背を見送る。悠々とした歩みを見つめる僕を追い立てるように、肉屋の窓から時間外れの鶏が高鳴いた。
家に帰ると手を洗い、夕食に葉野菜と豚の燻製を食べ、錆の浮いた水で歯を磨く。何も知らない母は敬虔に祈り、僕もそれに倣った。
日課となった家業の手伝いは蝋燭が惜しくなる時間まで続き、一定の成果をあげた僕は母から気紛れの銅貨を授かった。
僕はそれをポケットに仕舞い、手持ち無沙汰になるとそれを弄んだ。それらの外周を擦り合わせると微細な振動が指先を伝い、妙な安心感を覚えるのだ。
明かりが消え、毛布に包まる。斑な黴が巣食う天井は星空に似て、けれども瞬くことはない。
あの冷たい廃墟に横たわる少年も、ともすればこんな夜を過ごしたのだろうか。
彼女の細く白い両手が縊る未来。知る由もない幾つかの連続性。彼にとって近しい誰かの不安と嘆き。空白の寝床と冷たいシーツ。
考えてみるものの、それらは到底興味深い答えに辿り着くとは思えず、自虐的な想像は長くは続かなかった。
毛布の熱が体に染みるにつれて思考が曖昧になり、睡魔の足音が古い時計の打刻音に乗って僕を覆う。
また明日。
そう言って微笑んだ彼女の姿を反芻して、やがて僕は滑り落ちるようにして眠りの淵に呑み込まれた。
†
一週間が過ぎた。
警察というのは案外役に立たないものらしい。おかげで僕らの日常は恙無く続いていた。
犯した罪が裁かれないというのは、左右にちぐはぐの靴下を履いている感覚に似ていた。誰も僕の裾を捲ろうとはしないけれど、何かの拍子に致命的な事実が露見するのではないかと気が気でない。
何かの拍子に、気紛れな誰かがそうしたならば、堰を切ったように平穏は砕かれて途方もない奈落の彼方へと流されてしまうだろう。
不意にあの日のことが脳裏を過ぎる。そのたびに胃が強く収縮し、闇雲な焦燥とむかつきを覚えた。
結局のところ僕は、善悪以前に単なる臆病者ということらしい。
「どうかしら?」
彼女はというと、新しく買った帽子を同級生たちに自慢して回っていた。
荊を模した飾りを添えた黒い羊毛は彼女のブロンドと痩細い体躯によく似合い、誰もが彼女の求めるがままにそのセンスと無邪気な仕草を称賛していた。
「似合ってると思うよ」
自分の順番が回ってくると、僕は鉛筆を研ぐ手を止めて、なるべく当たり障りのないように答えた。
彼女はそれが不満であるらしく、僕が無意識に逸らした目線に回り込んでさらに賛美の言葉を強請った。
「僕がそういうの上手く言えないの知ってるだろう」
「それじゃあ、とびきり下手な言葉を頂戴」
溜息を吐くと削いだばかりの新鮮な木の香りがその隙間を埋めた。
共犯者である以上、僕らはあまり頻りに関わるべきではない。そんな配慮を彼女が酌んでくれるとは思えず、昏い虹彩は頑なに僕へと引き絞られている。
僕は手の腹で机を掃き、薄い木屑を掌の中に収めて立ち上がった。
「人ひとり殺してるとは思えないくらい素敵だよ」
すれ違いざまの囁きに彼女は満足したらしく、屈託のない笑みを乗せてその場で一度回るなどする。蜂蜜に似た彩の髪が、空に甘い波紋を振り撒いた。
思うに、彼女の立ち振る舞いは見事だった。
彼女は生命力と輝きに溢れ、それを無防備に発露することができる。うまく言葉にできないけれど、とにかくそれは死と対極の気配で、殺人などとはまるで無縁であることを直感させる魔法を帯びていた。
後ろめたさのない彼女の姿は僕に歪な敬意と安心感をもたらし、僕の中の感覚を着実に麻痺させていた。
そんな毒気に曝され続けて二週間。僕は愚かにも例の現場に再び足を運ぶことにした。
もちろん、そうするべきでないことは重々承知していた。
けれども心のどこかで、少年の死が無垢な砂に変わっていることを期待してもいた。
あの日あの場所で、何事も起こらなかったのだと――あまりに平穏に続く日常と彼女の完全な振舞いは、そんな子供じみた妄想を無責任にも担保していた。
「…………!」
結果として、僕はひどく後悔することになる。
自分に繋がる決定的な証拠になってしまうという危機感が堰き止めなければ、盛大に嘔吐していたに違いない。
言葉にするのもおぞましい腐敗。蕩けた肉は名状しがたい色と歪な湿りに張り詰めて、それを貪る無数の蠢きがほとんどの外装を失った骸をまるで生きているかのように細かく揺すり、それらの孵卵と排泄が醜悪な死を絶望的なまでに生々しく彩っていた。
「あの馬鹿……」
吐瀉を辛くも飲み込み、頭を抱えて蹲る。さすがの僕もこれにはお手上げだった。
見覚えのない腐肉は少年のそれと仲睦まじく、手を繋ぐようにして横たえられていた。
腐敗の度合いからして彼らはごく近い日に並べられたのだと察せられる。あの日の帰路、僕の頭に黒いバターを詰め込む傍らで、彼女は何を考えていたのだろう。
新しい方の遺体は胸に刺し傷があった。小さな心臓からの流血は底を尽いて久しく、けれども執拗に刃物を突き立てたと思しき数多の創痕はなおも痛々しい。
『今度は胸を刺してみたいの』
彼女の言葉が再生される。まさか本当に、そしてこんなにも容易に実行に移すとは。
二人の間には蜥蜴の模型と薄汚れたボールが供えられていた。まるで屍となった彼らがそれを転がして遊んでいるかのように。
それは餞とも冒涜とも見てとれる。けれど彼女がそうしたのならば、もはや僕にその真意は測りかねた。
二人目の犠牲者。彼女にとってこの数字が何か意味を持つのだろうか。
溜息を吐くと続く吸気にひどい腐臭が肺にまとわりついて、いよいよ気分が悪くなる。それはまるで不条理に肉体を剝がされた魂が、僕を同じ闇の淵に引きずり落とそうとしているかのようだった。
元より来るべきではない場所だ。服の繊維がこの地獄めいた瘴気を帯びる前に、僕は廃墟を去ることにした。
その日は風がなく、許されることのない罪の蟠りはいつまでも、どうしようもなく僕の中に留まり続けた。
†
「見たよ、二人目」
次の日、人気の少ない帰路で彼女を問い質す。
不意を衝けば狼狽もするだろうかと期待したが、彼女がまとう祝福はその程度で綻びることはなかった。
夕陽をたっぷりと浴びた黄金の髪を棚引かせ、お気に入りの帽子の鍔を押さえて優雅に振り返った彼女は言う。
「三人目はまだなんだ」
二人も手にかけて――そう続けようとしていた僕は頭を抱えた。
彼女はいつだって僕の想像の先をいく。それは大抵ろくでもない方向に。
「今度は大人よ。あの廃墟の近くの樹に架けてあるから探してみるといいわ」
彼女は満面の喜色を浮かべて誇らしげに続けた。
この短い期間に三人は明らかに常軌を逸している。
今はまだ見つかっていないからいいものの、彼女の仕業だと発覚するリスクは日ごとに高まっていくはずだ。
それなのに彼女の飄々とした態度は一向に揺るがない。無辜の少年を息絶えさせた現場をこの目で見たという事実だけが、僕を正気たらしめていた。
「この調子で殺し続けるのかい」
僕は訊ねた。
彼女は他人事のように答える。
「どうだろう。死は気まぐれだもの」
彼女がもつ天性の素質。それは明らかに他人を蒙昧にする作用を持っていた。
あの場所に渦巻く隠しきれない腐臭に誰も気付かないのも、消えた少年たちについての話題が挙がらないのも、全て彼女の操る魔法によるものだと思えてしまうのだ。
どうやら僕もまたその影響下にあり、彼女を組み伏せてまで続く凶行を止めようとは思えなかった。
彼女は依然、僕にとって壮大な憧れであり、瞬く混沌の宇宙儀なのだ。
このまま何事もなかったかのように、全てが夢のように終息していけばいい。僕はいつしかそう願うようになっていた。
「僕は、君が逮捕されたら悲しいよ」
そう言うと彼女はきょとんとした。
それはあまりにも清らかで無防備な、心から漫然とした平穏を妄信している市民による、極めて自然な反応だった。
無実の砂などどこにもないことを僕は既に知っていたはずなのに。
「逮捕なんてされるわけないわ。私は正直者だもの」
罪に対する歪なまでの耐性。
その点において、僕は明確に彼女を恐ろしいと思った。
†
静寂を縫って、残響が耳に届く。それは死の気配に敏感になっていた僕の眠りを容易に貫いた。
闇に慣れた瞳で柱時計を見る。時刻は午前四時に差し掛かろうとしていた。
音の出処は遥か遠く、それでも僕の心臓に跳ね上がるような鼓動をもたらした。
それは彼女が四人目の犠牲者を撃ち抜く音だと根拠なく、けれども強く確信した。
神経を貫く落雷に、眠りの門は焼き払われていた。跳ねる心臓を抱きかかえて、見上げた天井に彼女の姿を浮かべてみる。
彼女は真夜中の森に蹲り、鉛玉で弾けた心臓の洞穴を覗いている。引き絞られた瞳は死者と同調するように暗く、好奇とも恍惚ともとれない闇だけがそこに揺蕩っている。
とめどない流血と砕かれた骨肉、破壊された魂に彼女は何を見るのだろう。
あの日、彼女の中に芽生えた悪魔の素質。名も知らぬ少年の首を絞める手を、僕は力づくにでも止めるべきだったのだろうか。
毛布を掴んで顔に寄せるといつかの腐臭が鼻の奥に蘇る。
本能的な忌避感に満ちた赤い縺れ。頬に触れる毛布の毛先のひとつひとつが白く蠢く蟲と重なって怖気立ち、僕は寝返りを打って寝台から毛布を蹴落とした。
あれが死だ。
前提なく忌避すべき醜悪な穢れ。決して相容れることのない生命の対。
人のあらゆる行動は死を遠ざけるためにあることに気付かされる。
食べて寝て、毒を避けて汚れを濯ぐ。他者を害しないことを誓い、穏便な取引のために日銭を稼ぐ。森を拓いて獣を弑し、炎を操り灌漑を敷く。……そうやって僕たちは不可視の城壁に数多の石を積み続けていく。
彼女は、その硬く鋭利な尖端が人の頭蓋に勝ることを知っている。それは一つの身体が二つの世界に等しく存在しているようなもので、僕らの城壁は内からの襲撃にひどく脆い。
柔らかな綿毛を寄せ合うばかりの羊たち。彼らは隣り合う相手の歯形が自分と同じだと理解している。蒙昧もまた、互いに頭蓋を砕き合わないための、先天的に結ばれた契約なのだろう。
僕は目を閉じて、再び睡魔に手を伸ばす。夏の終わりに腺毛の恋しいはずもなく、無形の悪魔は優しい微睡みで容易に僕の心を包んだ。
生温い安寧に乗せて明日が来る。穿たれた夜は窄まるように収束し、いつしかなだらかな平面となって過ぎていった。
†
やはりと言うべきか、僕の想像など外れるためにある。
新聞の見出しは昨夜の銃声と、その出処について大きく報じていた。
併せて先の三つの殺人についても同様で、その話題は彼女に問うまでもなく、否応なしに僕の耳にも入り込んできた。
紙面の端に長細く綴られたコラムを読むふりをして、件の記事に目を通す。
隠居暮らしの農夫が自らの妻を射殺したのち自殺したのだという。近隣の森と廃屋で腐乱した三つの遺体が発見され、当局は幾つかの断片的な証拠から自殺した男の犯行と断定。
彼は元来精神に疾患を抱えており、衝動的な暴力は周囲に目立って知られていたという。
被害者はいずれも彼と何らかの形で接点があり、そのうちの幾つかには怨恨の類が見られた。彼を弁護する物証はなく、複数の痕跡と状況は完全に物言わぬ農夫を包囲している。
擁護の余地はなく、無実を語る術もない。一連の事件は腑に落ちるシナリオのまま、発覚と同時に幕を下ろす形で締めくくられていた。
当然、僕や彼女の存在など掠りもしていない。彼女は一連の事件には何ら無関係な、無数の雑踏のひとつに過ぎない。結局全ては故も知らぬ農夫の狂気で片が付いてしまった。
僕は眩暈を覚えた。完全犯罪といってよく、魔法じみてさえいた。僕が遂に得ることのなかった砂の国を、彼女は難なく用意してしまったのだ。
あの飄々とした態度は、この結末に裏付けられたものだったのだろうか。
「これで五人ね」
その日の帰り道、僕の背後から忍び寄った彼女は耳元にそう囁いた。
連続殺人者に背後から首筋を取られるのは、なんだか奇妙な心地がした。周囲に人の気配はなく、彼女がその気になれば、僕も尤もな物語に組み込まれてしまうのだろうか。
僕が振り返ると、彼女は五本の指を口元に添えて立っていた。隙間から笑む血色のよい唇は、どこか誇らしげにそれが示唆する成果を主張している。
「呆れるよ、本当に」
僕は苦笑する。それは不思議な昂揚の顕れで、そんな感情を覚えたことに自分でも驚いた。
崩れた足場の上に、それでもなお立っているような感覚。危うい浮遊感と空ろな安堵。ともすれば、このような心持ちで風を掴むからこそ鳥は飛ぶのだろうか。
無論、僕もこの結末を願っていた。陰惨な事実、耐え難い腐臭、決して巻き戻ることのない血染めの罪を無に帰して、彼女の魔法が世界を書き換えてしまうことを。
僕の靴下は誰に捲られるまでもなく、最初からどちらも同じ長さと柄をしていた。なればこそ、何食わぬ道化た浮遊も許されよう。
「神様みたいなことをするんだね」
僕が揶揄すると、彼女は嘯く。
「生き返らせることはできなかったわ」
彼女はスカートの裾を翻し、小さな瓦礫をどこかへ蹴り飛ばす。それは三度ほど路面を転がり、路傍の砂利と一つになった。彼女にとって、どうも人の身は窮屈なものであるらしい。
僕は最初の、そして二度目の殺人現場を思い出す。腐敗に啄まれる少年たちは、赤黒い骨になる前に、憐れみと尊厳を与えられただろうか。
「ああ、そしたら彼らは真っ先に君を告発するだろうね」
「その時は庇って頂戴ね」
苦笑とともに竦めた僕の肩へ、彼女はおもむろに手を伸ばす。
世界は僕が思っているよりも複雑で、ゆえに単純な幸福に満ちている。
裁かれることのない罪、破られることのない秘密。それは善を妄信する僕ごときが覗くことのない深淵で、物事は果てしなく絡み合い、やがて妥当な実を結ぶ。それは毒を含まず適度に甘く、そういったことは事実、往々にしてあるようだ。
だから僕の舌が噛み千切られることはなく、鼓動は溢れることのない血液を強くどこまでも走らせる。それは僕の思う死の感覚とは程遠く、初めて知る感覚に焼けた頬の延長線上で目の焦点だけが狂ったように泳ぎ続けた。
凍り付くような感覚とは裏腹の接触は、僕の肩を支えに背伸びした彼女の身体から止め処なく注がれる。
錯乱する視界の端で殺人者の赫い瞳が、狼狽する僕を興味深げに観察している。逃げる先を失った僕は観念し、沈むように力を抜いて瞼を閉じた。脳裏を蠢く羊たちは黒く柔らかな腺毛を草原に漂わせながら、音のない世界へ向けて楽園の歌を嘶き続けている。
「……黄泉返った?」
やがて彼女は糸を引くような甘い香りを残して僕から離れた。その間に差し込んだ空気のなんと冷たいことだろう。
心臓は尚も激しく胸膜を叩き続け、僕の思考の整理を妨げている。濁流のような思考と情報の交響曲はひどく複雑に縺れ合い、不器用な僕が解くには絶望的な時間を要するだろう。
いっそ鋭利な切っ先で貫いてくれたなら、物事は驚くほど簡単だったに違いない。
「馬鹿言うなよ……」
へたり込んだ僕の傍らに彼女が座り、泳ぎ疲れた瞳を捉えて微笑んだ。
白磁の肌は夕陽の陰でなお朱く、それは皮肉にも自らの罪を饒舌に吐露していた。そこに朽ちゆく屍や染みつく腐臭のあるはずもなく、無垢な少女と僕だけが静穏な世界の只中に生きている。
僕は何かを確かめるように口を開き、まごつき、息を吸って、言葉を紡いだ。
そうして僕たちは恋人になった。
†
自分の内臓について知覚する機会はそう多くない。そしてそれは大概喜ばしいものではないだろう。反転する胃腸を抱えて僕は嗚咽した。
両手で挟めば軽々と持ち上がるような小さな身体。それは脈絡のない挙動と突発的な衝動で常に僕を翻弄し、今回は何の前後関係もなく寝転んでいた僕の腹部へ持てる限りの体重と慣性を叩き込んだ。
それはきゃっきゃと燥ぎながら、惨めに蹲る僕の覚束ない腕を擦り抜けて、軽やかに自らの巣へと帰っていく。
「どうしたの?」
それをひょいと持ち上げて、彼女は言う。それから蒼い顔で縮んだ僕を見て、くすくすと笑った。
「また怪獣さんにやられたのかな」
「そのまま押さえててよ。やられっぱなしじゃあ僕だって気が済まないんだ」
「ふふ、大人げないんだねぇ」
彼女は腕の中の小さな怪獣と一緒になって僕を明るく嘲った。
二人並んで同じような表情をすると、その目元がひどく似ていることに気付く。ぱっちりとした丸い目を引き絞る緩やかな曲線は、不思議な安堵と宿命めいた愛着で不条理にも僕の苦悶を和らげるのだった。
「君と同じだ」
「そっくりでしょう?」
彼女は怪獣と頬同士を寄せ合い、互いの白く柔らかな質感を誇示する。温かなそれらは何の障壁もなく触れ合い、僕を挑発するように小さく撓んだ。
「そうじゃなくて」
僕は憐れな鈍痛を擦りながら身を起こし、無邪気に自惚れる彼女らに呆れ顔で応える。
「他人を理由もなく壊そうとするってこと」
僕の皮肉に彼女は反論するでもなく、舌を出しておどけてみせた。おそろしいことに、怪獣もそれを真似ようとして口を円く開き、桜色の舌を不器用に泳がせる。
その件については、僕らの日常によく馴染んでいた。敢えて取り立てることもなく、時折揶揄しないでもなく。
あれ以来、彼女の凶行はすっかり鳴りを潜めることになった。
ただでさえ透明な殺意だ。こうなってしまえば、もはや誰にも、どうすることもできなかった。
あくまで僕が知る限り、と前置きしておくべきだろう。
けれどもそれについて、僕はさほど関心がなかった。少なくとも僕らの寝室に釘の植わった椅子などはなく、彼女の寝相は実に慎ましい。僕にとってはそれで充分だった。
そして僕がそうある限り、彼女にとってもそうなのだと思う。自惚れるわけではないが、全ては奇妙でありふれた童話に過ぎなかったのだ。
記憶というのは実に忠実な機構で、今もあの病んだ光景と穢れに澱んだ空気を鮮明に思い出すことができる。彼らの苦悶も付随する悲哀も、察するに余りある。
だから僕らも彼らと同じ。連綿と続く日々を妄信しながら歩いてゆく。真実に対する揺らぐことのない諦観を、秘密とともに抱えながら。
「ほら、行けっ」
彼女が怪獣を解放すると、それは一目散に座り直したばかりの僕めがけて走り出した。
先程とは違い、覚悟と重心を据えた僕にとってその襲撃は甚だ幼気で無害なものだ。広げた腕の中へ飛び込む体躯を両側から確固と抑え込む。
高い体温と柔らかな匂い、細やかな金の産毛が僕の鼻先を掠めた。
覗き込む瞳は赫く、同時に暗い藍を宿している。未だ見慣れぬ世界への憧憬は、僕らを合わせ鏡のように爛と瞬かせた。
僕はその両脇を抱きかかえ、軽やかに宙へと掲げる。ちょっとした浮遊感は目新しい感覚であるらしく、覚束ない声をあげて喜んだ。
「散歩にでも行こうか、僕が頭突きを喰らう前に」
「いい提案ね」
僕の切実な訴えに彼女は乗り気で、陽気に一回転したスカートが宙に丸い円を描く。
「神様はいつだって、私たちに生きることを望んでいるわ」
「そのようだね」
僕は怪獣を肩に背負い、空いた手で彼女の手を取る。彼女が言うのなら、概ね世界はそのように出来ているのだろう。
乱暴に僕の髪を毟る小さな手を窘めながら、春風の感触を先取りする。それは劫罰と呼ぶには眩しく、ひどく安らかだった。
正直者はもういない。温かな脈動は刻々と僕たちの間を巡り続ける。
願わくば、これからも数多の祝福が透明な日々に降り注ぎますように。
とても良かったです!
捉えどころのない彼女の言動が素晴らしかったです
翻弄されました
一次創作としても幅を広げれば傑作に仕上がりそうな予感がしました。
>二人目の犠牲者。彼女にとってこの数字が何か意味を持つのだろうか。
気に入った表現です。少なくとも自分には書けない。