Coolier - 新生・東方創想話

同じ月

2024/09/28 20:59:56
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守矢神社

 天に最も近く、神の風が流る地にて大きく呼吸をしてもなお、赤蛮奇にはつまらぬ荒涼さがつきまとっていた。彼女は守矢神社参拝ツアーに参加していた。職場で参道ロープウェイの乗車チケットをもらったのだ。好奇心と気まぐれとほんの少しの高揚を胸に、行きのロープウェイに乗り込んだはいいものの、車内は満員であり、若抜き老若男女のざらついた肌にさらされたせいで、心が摩耗しきっていた。さらに蛮奇は、彼らの皮膚が桃の薄皮のようにはがれやすいことを、あかすりの仕事で失敗した経験から知っていたので、なるべく刺激を与えないよう縮こまるしかなかったのである。体力のほとんどを自分よりも若いはずの老骨たちに吸い取られ、神社に着くころには彼女に斜めの構えをとらせていた。それでもツアーからは離脱しなかった。見様見真似の柏手を打ち、神風の加護を受け、可愛らしいと自他ともに称する巫女さんの演説を聞き流し、いざ帰宅せんと客たちが神社をあとにする。
 乗り場までやってきて、蛮奇は小さく「歩いて帰るのでいいです」と口にした。それと同時に、なぜかついてきていた早苗が堂々とした声色で「はいはい! 私用事があるんで乗ります!」と意気揚々とロープウェイに乗り込んだ。乗り場担当の河童が少し戸惑っていたが、彼らは守矢神社に逆らえない。蛮奇は下っていくロープウェイを見送った。
(はん、尻でも揉まれるがいいや)
 悪態を胃の腑に留めながら、踵を返し、がらんとした神社を見渡した。少しばかり散策する。裏の湖は夕日を反射してきらきらと輝いており、時折ばしゃばしゃと魚たちが波を立てていた。水面を眺めていると蛮奇はずいぶんと癒された。落ち着きを取り戻したところで、立派な鳥居から風景を眺めると、秋めく山稜の佇まいが染み入った。
「なんだ、いい景色じゃん」
 十分すぎるほどの土産を見つけたと彼女は思った。
 巣に帰るために飛行する。夕日に混じる紅葉が、轟々とうなる滝を彩り、さながら登り龍の雄大さを思わせた。ゆっくり落ちる木の葉と同じ速度で、赤い髪をなびかせながら下っていく。流れ落ちる水は永遠を想起させた。深山颪に吹かれて、一枚の葉が滝つぼへと飲まれた。蛮奇は見えなくなったその葉と自分を重ね合わせ、混沌の縮図を思い描いた。これらの景色は行きにも見たはずで、群衆が苦手な蛮奇はそのことを残念に思った。
(ああ、ひとりで来れたならすべてが新鮮だっただろうに)
 とはいえひとりで山に登ることはなかっただろう。彼女の足は未踏の地を拒むのである。ロープウェイのような強制的に移動するものがなければ、底流に寄り添って、悔しくもないのに地団太を踏み続けるばかりだ。赤蛮奇とはそういう妖怪であった。


無縁塚

「今泉影狼は虫である。頭上をやかましく飛び回る羽虫に過ぎず、屍肉と束の間の安息と享楽を貪り食らう餓鬼である。だが真の自由を謳歌するには腹を満たすばかりでは足りぬのだ」
 影狼日記より抜粋。
 今や私は本の虫であった。活字を求め、あちこちを飛び回る羽虫であった。外の世界の本が流れ着いていると聞いたので無縁塚に来た。掘り出し物を探している最中、死人かと錯覚するほど生気を欠いた人間がうろついているのを見かけた。身体はやせ細り、髪の毛はぼさぼさのまま伸びていて、半開きの口元は乾ききってひび割れている。性別さえ判然としなかった。無縁塚は本来そういう場所である。幽鬼のひとりふたりいても不思議ではない。その者はにおいもひどく、虫がたかっていた。それを見て、私は筆をしたためた。筆をしたためると言っても、経済から切り離された影狼の生活様式に紙とペンを買う予算などなかったので、そこらで拾った滑石などのやわらかい石を爪でがりがりと掘るのである。スカートのポケットには昨日までがたくさん入っている。石日記を書き終えたのち、ほとんど隙間のない空間に今日を押し込んだ。
「重いなぁもう」
 少し捨てるか迷った。けれどもこの地に置いていくのは、あまりに薄情なようで躊躇した。このまま池に飛び込めば溺れてしまうのは必至だ。洒落にもならない。
 しばし散策して本を見つけた。それを拾おうとかがんだとき、咎めるような声が聞こえた。
「僕の店の商品なんだ。持っていかれては困る」
 振り返ると眼鏡をかけた、長身痩躯で銀髪の男性がいた。彼はほとんど無表情であった。
 私は答えに窮した末、こう聞いた。
「なんでここにばらまいてるんですか」
「それはこれらに所有者がいないからだ。僕がここの墓掃除をして供養の対価として頂戴している。道具に価値を見出すのは商人の役目だ」
「でもさ、それだったら、まだ誰のものでもないってことでしょ」
「そうだね、いうなれば」
「じゃあ私がもらってもいいじゃない」
「それだと困る。落ちているものを拾うという行為は咎められるべきではないけれども、ここに流れ着くのはかつて所有者がいて、その記憶やあるいは歴史がこびりついているものが大半だ。適切に扱わなければ付喪神の発生や呪いの蔓延にもつながる。それらは可能な限り防がなくてはならない。僕の生業だからね。労働という対価を払って得たものを別の人に売る、そういう商人として生きているんだ。まあ君が、それを横から強奪するというなら泣き寝入りするしかないが」
 この男の真意や思考はまったく理解ができないけれども、平和的な交渉をしているつもりのようだ。ある程度の秩序やルールがあって、彼はそれに準拠している。一種の縄張り争いみたいなものだと推測した。においはしなかったが、おそらくこの辺一帯には彼の尿がまき散らされているに違いない。月夜の晩ならいざ知らず、縄張りを土足で踏み荒らすほど、影狼は好戦的でも飢えてもいなかった。
 それにどのみち読んだら捨ててしまう。所有という観念は私には持て余すものだった。
「じゃあ、ここで読むわ。それならいいでしょ。終わったら持っていけば」
 霖之助は考え込む仕草をして、仕方がないとつぶやいた。そして一旦香霖堂へと帰宅した。
 一晩経った。読み終えた影狼は戻って来た霖之助に本を渡していた。しっかりと目を通したはずだけれども、この本にも「私」を表す言葉は書いていなかったように思う。本を受け取りながら彼は聞いた。
「本が好きなのかい」
「うーん、うん、今はそう」
「ならば紅魔館へ行くといい。あそこの蔵書は幻想郷一だ」
「そうしよっかな」
「ついでにこれも届けてくれ。君の方が力はあるだろうし、報酬はその本でどうかな」
 彼の会話はよどみなかった。
「いらないわ。もう読んだもの。あんたが届ければいいじゃない」
「動かないというのは僕の矜持なんだよ。ああ自己紹介が遅れたね、僕は森近霖之助、古道具屋の店主だ」
 霖之助はそう言いながら、いくらかの金銭を渡した。私は「ふーん」と適当な返事をして受け取った。この瞬間に経済が発生したのだとわかった。


湖底

 そこには水があった。わかさぎ姫は澄んだ麗句に住んでいた。
 湖底にはきらきらがありふれていた。
 きらきらには形がある。そのなかでも彼女は丸いものが好きだった。
 昼下がりにすてきな形を見つけた。ほとんどは沈んでいるか、浮かんでいるのに、それはまるで彼女を待っているようだった。
 丸い形、鋭利な先端。水の流れに遊ばれながら、ずっとそこにあった。
「お姫さん、そいつは危険だ。あんたのような美人が触れるもんじゃねぇよ」
 棘まみれのギルがやってきた。荒くれてむくれて、けれども悩ましい顔つき。
 ふむとわかさぎ姫。友達の話を聞くのが好きだった。
 ギルと出会ったのは半年ほど前。山から下りて来たらしく、はじめましての時から遠慮がなく、姫たちには「俺は外界にいてよ、七つの川を統べる猛者だったのさ」と言う。だけどほんとうは諏訪湖でのんびり暮らしていた。こっちにきてびっくり。
 ちなみに彼は特定外来生物なので、生きたまま運んだ守矢神社はだめだった。だめだけど、神様は裁かれない。ギルも姫もそんなことは知らないから、あたらしい友達ができたとしか思っていなかった。
 ギルは言う。自信満々に。
「へへ、だがまあ、食らいついてみるのも一興さ。案外なんとかなるもんだ」
 わかさぎ姫はある友達を思い出した。老境の旅たにしだ。里の水田から流れて来たらしい。「なにも生まれた地で死なにゃならんわけでもあるまい、この世は仮宿、流されるのも悪かない。やどかりのように転々と、まあ儂はたにしなんだがね」とからから笑う。その友達はギルが食べてしまってもういないけれども。
 ギルはにやりと笑ってその針先を咥えこんだ。少しすると彼のからだはぐんぐん水面へと引き寄せられていった。ギルは知っていた。釣り人というのは食いたいわけではなく、ただ釣りに身を寄せた者であることを。彼はなんどもリリースされていた。
 だが、わかさぎ姫も知っていた。釣られた魚は帰ってこない。紅魔のメイドがさばいてしまう。毒を持っていても関係ない。どうやらお嬢様は毒喰らいらしい。
 たくさんの友達がいなくなってしまった。さみしいけれども仕方がない。食べたり食べられたり、それは当たり前のことだから。
 彼女は歌った。
「~♪」
 言葉のない鎮魂歌。泡音がおたまじゃくしになる。五線譜を泳ぐ自由なメロディが湖底に響いていた。


コーヒー屋

 ある日の夕刻、風呂屋の清掃業務を終えた蛮奇は、里の中心からすこし離れた場所にある行きつけのコーヒー屋に立ち寄った。その建物は二階建てであり、コーヒー屋はその二階部分にあたるのだが、どこにも階段がなく、さらには一階の正門はいつも閉まっている。その昔、この建物のちょうどうしろの地面が隆起したらしく、二階はその隆起したところから直接入れるようになっていた。蛮奇はこの不自然に自然に共生したような店の形が気に入っていた。
 扉を開ける。店内は少し暗くてそこそこに広い。どこで手に入れたのか大型の蓄音機があって、いつも同じ曲がかかっている。入ってすぐ右側に六人掛けのカウンター、左側にテーブル席がふたつあり、蛮奇は最も奥の二人掛けの席に、入り口に背を向けて座った。そこが指定席だった。注文し、壁に掛けてある奇妙なお面をじっと見つめた後、頬杖をついて窓の外を眺めながらコーヒーを待つのが彼女のルーティンだった。
 ポケットから黄色に染まったイチョウの葉を取り出した。神社の帰り足に拾ったものだった。葉柄をつまんでくるくると弄ぶ。考えていたのは集会のことだった。草の根ネットワーク定例会と称して不定期に催される飲み会は、いつも蛮奇を悩ませた。言葉で表すなら酒、酒、アルコールであった。行くべきか、行かざるべきか。行くのは面倒くさい。だがしこたま酒を飲む機会としてこれほど優れた口実があるだろうか。いやいや妖怪ならばへべれけになる動機など酒を飲みたかったからで十分ではないか。人間じゃあるまいし、悩むのは馬鹿だ。
「ブレンドコーヒーです」
 ひとすすりしてから、蛮奇はまた壁の面を一瞥した。この面はアクロバティック能楽の第一人者である秦こころのものであり、熱心なファンである店主が彼女に無理を言って、使わなくなった品を譲ってもらったのである。蛮奇は決して尋ねなかったが、ほかの客と店主が会話しているのを盗み聞きしていた。経緯を知ったうえでなお、受け入れがたかった。
 蛮奇は背景になりたかった。白と黒が主な色彩のありふれた風景画。それを邪魔するものは気に入らない。この店ではお面がそうだった。それとお品書き、コーヒーをわざわざ珈琲と書いているのに、パフェやアラモードなんてものがある。パフェもあんみつに近く、ならば洋風白玉と書けばよろしいのではないか。
(変だ。この店は。全部)けれども蛮奇はその歪さを好ましく思っていた。
 ふとカウンター席での会話が耳に入って来た。店主がこの店を畳むことにしたという話だった。蛮奇はがっかりしながらも、思いのほかすんなりと受け入れていた。隙間に挟まりながら生きてきた者たちは、いずれ別の住処を探さなければならない。蛮奇はよく理解していた。
(ここはよくある静かな一日だ)
 また良い店がみつかるだろう。それまではここに居ようではないかと、そう思った。
 コーヒーを飲み干したのち、会計を済ませた蛮奇は店を出て、お気に入りの柳の木の下へ向かった。里の外れにあるお堀のような川、そして古くて誰も渡ろうとしない橋、その近くにとても良い木がある。しっかりとした一本の幹と、やや右側に寄った青々とした枝葉、その真下に立つと顔がわずかに隠れるのだ。蛮奇は夜の間、そこに佇む習慣があった。日中に眠らせておいた別の頭と取り換えて、ひたすら立ち続ける。蛮奇の場合、分裂しようとも魂は揺るがないため、意識が乱れたり遠のいたりすることはなかった。柳の下に佇み、時が去るのを待つ。夜が明ければそれでよし、人が来れば暴かれないように身を隠す。この行為が安寧な生活を脅かすことは承知のうえで、妖怪とはかくあるべしと己の位置を守っていた。人の視線を恐れながら、正体が露見する瞬間を待っているのである。
 だがこの日は先客がいた。木に近づいていくにつれ、その影が人間であることがわかった。木に梯子をかけ、縄を結んでいる。蛮奇は焦ったが走らなかった。普段の歩幅で寄っていく。その影は自身の首に縄をかけ、梯子から飛び降りた。蛮奇は目を凝らした。どさりと影が地に落ちる。柳の枝はぽきりと折れていた。落ちた人はよろよろと立ち上がると、やおらあたりを見回して、そこで近づいてくる蛮奇に気づいたらしく、そそくさと逃げてしまった。
 蛮奇が木の根元にたどり着くころには、折れた枝と梯子だけが残されていた。
(ふざけんな、私の場所をとるなよ)
 この木はもう使えない。枝の折れた柳など枯れ木にも劣る。お気に入りの場所を失った蛮奇は枝を蹴り飛ばして川に落としたのち、ため息を吐いてから帰路についた。


紅魔館

「今泉影狼は犬である。大いなる主に飼いならされ、芸を覚えたばかりの愛玩物である。偉大なる破壊に備え、自衛を心得なければならない」
 影狼日記より抜粋。
 私は紅魔の図書館に来ていた。妖怪である自分がメイドに丁重にもてなされたことを不思議に思っていると、図書館の主であるパチュリーが「あの子は従順な犬よ。人間の真似がうまいでしょう」と言ったので思いついたフレーズである。
 図書館についてすぐ、ノストラダムスの大予言を読んだ。正確には予言の解説本である。破壊への答えが乗っていると期待したが、その予言はとっくに古くなっていることを読み終えてから知り、愕然とした。
 私が本を漁るようになったそもそものきっかけは、竹林でのんべんだらりと隠者のような生活を送っていた折に、同じく竹林に住む藤原妹紅が貸してくれた一冊の本である。やたらと分厚く、つるつるとした表紙には恐竜図鑑と書かれていた。ページを捲ると古代の竜のイラストと化石の写真、そして注釈が記載されていた。かつての影狼はたいそう興奮し、熱心に読み進めた。なにか、特別なことをしたかったらしい。獣たちの異変に参加できなかったから拗ねていた。「これも神さびた歴史の一項だ。古代の竜は確かに存在した。それを知るだけでよい。教養こそが今日の人間を人間足らしめるのだ」と妹紅は言ったが、そのときの影狼の耳には届かなかった。最も心を打たれたのは、氷河期が訪れてこれらの竜が絶滅したという文章であった。なんと言うことだ、どんなに強大な者でも滅びてしまう! 栄枯盛衰、盛者必衰、米寿も白寿も沙羅双樹。待っているのはどのみち破滅なのだ! ならば私は何者か。何のためにここにいるのか。わかるものか、考えたこともなかったのだから。満月の夜というのも相まって、昂っていた。
 それからは寺子屋の蔵書を昼夜問わずひたすらに読み漁った。何か答えが書いてあると信じていた。人の書いた書物は知見と空想に満ちており、いささか刺激的すぎた。影狼には和を重んじ、状況や力に流されやすいという性質があった。だが私の自我もそれなりに強固であり、すべては自由意思で選んだ結果であるという自覚もあった。影狼は木っ端妖怪の中では聡明であり、元来の穏やかな気質が相まって、道を外れた言動はしなかった。が、私は根本的なところで我を見失っていたので、とうとう日記なんぞを書きはじめるに至ったのである。記録を残せば何か自分らしさみたいなものが見えてくる気がしたのだ。今のところ、わからなさに拍車がかかるばかりであった。
「なかなかに面白い本よね。少し前だけどその文章をきっかけに巨大な幻想を信じる信仰が生まれたわ。予言というものは空想と統計と直感すべてのバランスが重要で、融和を見せた作品はまさしく世界を変えてしまう。予言が当たるというのはそういう側面もあるわけよ」
 私が放心しているのを、パチュリーは余韻に浸っていると受け取ったらしく、短い舌をくねらせて語った。読書家という生物は得てして孤独に耐性を持つが、同時に極度のさみしがり屋である。まるで犬のように縄張りを主張するのはそういう業なのだ。
「ここまで壮大なものは少ないけれども、予言書はたくさんあるわ。見方を変えれば占星術や宇宙の終焉論なんかもその区分に入るわね。まあこれは論文だけど。そもそも仏教説話だって似たようなのはあるし、あと件の語りをまとめた本なんかもあるわね。よければ読む?」
「あ、ありがとう。読んでみるわ」
「そうしなさいな。良き読書になりますように」
 パチュリーの語り口は淡々としていて、まるで機械のようであった。だが熱暴走した機械だった。ゆえに影狼は押し黙りながら本を受け取るしかなかった。タイトルはヨハネの黙示録、しかも日本語訳。私はページを開いた。
 そして三日が過ぎた。パチュリーも本を読んでいるというのに、読み終わったタイミングで絶妙に次の本を勧めてくるものだから、切れ間がなかった。聖書にはじまり、月世界旅行や宇宙の旅シリーズといったSFを読み、壮大さにくらくらした。余韻に浸る間もなく次の本が渡される。私は犬だった。思考する犬だった。餌を咀嚼しきれず腹を下した犬だった。パチュリーが反応を窺うようにおずおずとドグラ・マグラを渡し、わけもわからず読み終えた直後、期待感のにやにやを隠しもせずにヴォイニッチ手稿を渡してきたとき、この人はだめな読書家だと確信した。彼女は腹の底から善意で溢れた魔女である。孤独な探求に、まったくの善意から、他者を巻き込まずにいられない。にたにたとした醜悪な笑いは、真摯さと他を貶めようとする無意識の愉悦の同一性を、智慧によって裏付けた結果であり、彼女の矜持を守る仮面でさえあったのだ。
「物語はすべて目次で始まり黙示で締めくくられる。すべてが予言とも言えるわ。得も言われぬ余韻が残るのはそのせいなのよ」
「へえ、なんだか格言めいてるじゃない。素敵」
 パチュリーがうれしそうに語る。けれども覚えているのはメイドが淹れてくれた紅茶とスコーン、そして昨晩もてなしの夕餉でいただいた魚の棘が口内に刺さって滲んだ、自身の血の味だけだった。ここには読書という行為しか存在しない。蓄積した知識は次々抜け落ちていくのだ。


湖底

 ぴたぴたと雨音が。
 湖はにごる。それでも針はある。青くにごっていて、きらきらは少ないけれども、確かにある。そんな日、わかさぎ姫は釣り針に長靴をひっかけてあげることにしていた。釣り人が喜んだ顔を想像しながら。コレクションがなくなるのは悲しいけれども、もとは誰かのおとしもの、だから誰かに返すのだ。
 それに、きっと、長靴は湖底よりも雨中が好きなはず。
 ちゃぷちゃぷぴちゃん。彼のメロディは彼だけのもの。
 それからわかさぎ姫は痩せぎすのイモリに会いに行った。彼は自分のことを巨漢のオオサンショウウオだと思っていた。浅瀬の岩屋に住んでいて、そこから動かない。流れてきた柳の枝が玄関になっていて、イモリはちらりと顔を見せた。
「僕は太りすぎて穴から抜け出せないんだ。ほっといてくれ」と言う。
 それでも家の前で鼻歌でも歌っていると、彼はぽつぽつとしゃべりはじめる。
「僕の母さんは真っ二つにされたんだ。父さんも。二つが真っ一つになって生まれたのが僕だ。いやだ。僕は真っ二つになんてなりたくない」
 わかさぎ姫はにこにこしながら聞いていた。彼は陰気なオルタナティブロック、彼女は人魚ではなくドクターフィッシュだった。
「カエルがさ、カエルが鳴いたんだ。そしたら凍って死んでしまった。僕のところにやってきて、危ないからここにいろって言ったのに、そいつは僕なんて無視して浮上したんだ。鳴いたんだ。そしたら凍った。だから鳴いちゃいけない」
 わかさぎ姫は歌った。友達の友達のカエルのために歌った。ぴたぴたと雨音が。
「歌うな、歌うなよ」
 わかさぎ姫は歌った。ずっと。祈るように。
 ぴたぴたと雨音が、止む。凪の湖に波紋のようなメロディが。
 イモリは泣いていた。岩屋に光が差し込んで、彼はもっと泣きたくなった。
 耐えきれなくなった彼は、雨を求めてどこかへ行ってしまった。彼を見送ってからわかさぎ姫もどこかへ泳いでいった。岩屋には誰もいなくなった。


風呂屋

 裸足で濡れた木を踏みしめる感触は不快だが、蛮奇はすでに慣れていた。蒸し風呂の熱りがまだ残るなか、汗をぬぐいながら髪の毛が散らばった床を磨き、皮脂の浮いた浴槽を見やる。
(よくもまあこんな汚い場所に好き好んで入ってくるものだ。川で行水したほうがよほど綺麗になるし絵にもなる)
 風呂の水は丸一日そのままなので、夜は汚れがこびりついて惨澹たる有様である。掃除は彼女の仕事であったが、取り掛かる前は必ずいやな気分になった。しかし、それも慣れというもので、着物を膝上までまくり、石榴口をくぐると自然と身体は動いた。この風呂屋は江戸の伝統的な不潔さをそのままに、混浴のみを排斥した粋なものである。蛮奇は「お赤」という名で湯女という立場をとっていたが、客の相手をすることはほとんどなく、業務は清掃や風呂焚きが主である。以前あかすりや髪梳きの仕事をして、けがをさせてしまった苦い経験があった。
 掃除を終え、給金を受け取るときに店主から二階に上がってみないかと誘われた。二階は遊郭である。なんでも人気の湯女が失踪したらしく、いまだに行方知らずとのこと。詳しい話は聞いていないが、客の一人に騙されて、病気になったとか、乱心したとかいう話であった。蛮奇は二階に上がったことを空想する。
(たった一夜の夢芝居、すべてあぶくと消えたとて、好きでもないのに手が触れて、好きでもないのに恋をして、なんてね。そして服を脱いで私が化け物だと知り、私はそこに居られなくなると)
 ずいぶんと劇的ではないか、想像するのは愉快だった。この仕事には飽いていたし、契機かもしれない。そう思考しつつも、やめるつもりなどさらさらなかった。蛮奇は二階の掃除中にみかけた、食べかけのイモリの黒焼きを思い浮かべた。上半分だけかじり取られた首のないイモリ、それが己と重なった。店主の誘いを丁重に断ったのち、なけなしの給金をポケットに無造作に突っ込んでから、外を散策した。
 金を身につけているという事実は蛮奇の足をわずかに軽くした。どこにでも行ける切符を持っているようだった。そしてふと、例のつぶれたコーヒー屋に立ち寄ってみようと思った。
目に映る他の人より少し遅く歩いた。余裕を誇示するように、そしてそれを誰にも悟られないように歩いた。さびれたコーヒー屋とそれを眺める自分の姿を思い浮かべる。それは蛮奇にとってひとつの理想的な風景画であった。見えてきたのはかつてのコーヒー屋、だがかつては想像もできぬほどの人だかり。言葉にするなら大繁盛である。登り旗には「ランチタイムやってます」の文言と、オムライスの絵があった。かつて孤高のうらさびしさを語らずに謳ったコーヒー屋は、経済に討ち果たされ、かつての外観をそのままにハイカラなレストランへと転生していた。集う群衆は濁流のごとく店になだれ込み、人工太陽のような活気をつくりだしていた。妖怪には毒かもしれぬ。蛮奇は決して騒がしい場所がきらいなわけではなかったが、それらにあてられて否応なしに気分が高揚してしまうのがいやだった。
(世界は私のことがきらいなんだな。私はそうでもないのに)
 蛮奇はやにわに悲しくなって、踵を返し、酒屋に向かった。盃だけが今の蛮奇のやるせなさを受け止めてくれる器だった。


鈴奈庵

 鈴奈庵には本があるだけでなく、人間の声があった。図書館には素晴らしい魔女がいて、読書に没頭するには最適だけれども、場所そのものに飲み込まれてしまう。地縛霊のように、私の意思が薄弱になり、行為そのものだけが残るような錯覚に陥ってしまうのは欠点である。その点、貸本屋は人の流れと時間がわかるから、陶酔は少ない。けれどもここに居られるのは、金が尽きるまでのわずかな間である。会話が聞こえてきた。
「首吊りらしいわよ。梯子があってさ、ほらあそこの柳の木、首無し霊が出るって噂の」
「へえ、こわ。あ、でもさ、もしかしたらほら、飛頭蛮。本に書いてあったじゃん。あれじゃないの」
「いやぁそれならむしろいいんだけどね。人影が二人いたらしいから心中じゃないかって」
 ひとりは知らない人、もうひとりはこの店の看板娘、小鈴である。話を聞いていて無縁塚で見かけた幽鬼みたいな人を思い出した。
 本をいくつか持っていき、霖之助から頂戴した小銭で支払いを済ませる。この店では椅子の貸し出しもしていて、家に帰らずとも読むことができる。ここではじめて「山椒魚」を読んで、私はずいぶんと孤独への共感をしたものだった。
 それからは「西遊記」「狐物語」「山月記」「ジャータカ」……とかく動物の出てくる物語を読み漁った。わかったのは、すべて人であるということ。物語に登場する彼らは獣でありながら、人なのだ。そして私も、おそらくは。私は妖怪だ。間違いなく。そして狼だ。半分は。だが、人の道に生きている。天井にも地の果てにも縁はなく、ただ人の世の円環をめぐり続ける。幾たび姿が変われども、輪に挟まり生きる者、それが妖怪。我ら妖は陽炎、うつろいやすく、もろい。
「ほほう、はるばる竹林からおいでなさったようじゃが、こんな里の貸本屋に妖怪がなにようじゃ」
「え、妖怪だったんですか。全然気づかなかった」
「まったくおぬしは、危機感が足りん」
 どうやら話しかけられたようなので顔をあげた。先ほどの知らない人は帰っていて、代わりに別の知らない人がいた。どうやら変装を看破されたようだが、この人も妖怪だ。においが獣臭い。
「本を読むためよ。そっちこそ、狐か狸か知らないけど、人に化けるのがうまいものね」
 そう言うと文字通りしっぽを見せた。小鈴は驚く様子もない。
「いかにも、儂は化け狸の親分、二ツ岩マミゾウと申す。以後お見知りおきを。そちらは影狼じゃったか。草の根の、下剋上を志す者どもよ」
 なぜ故にこんな木っ端妖怪のことを知っているのか。マミゾウはにこりと笑っていた。人間みたいな笑みだった。
「儂は穏健派で通っておるでのう、もめごとは好かぬ。じゃがこの場所にはいさかいの種がわんさか転がっておるでのう」
 威嚇、威圧といえばよいのか、けれども闘志はないように見える。おそらくだが、マミゾウはこの縄張りを守っているのだろう。人間流のやり方で。考えてみれば、私のような里にあまり立ち寄らぬ妖怪が、金銭を持ち、ずかずかと人の店の、しかも酒や食い物屋ではなく本屋の門をくぐるなど、ずいぶんと不可解ではないか。たくらみがあると誤解されてもいたしかたあるまい。
 彼女の言い分は感覚的にだが、好ましいものだった。威圧されているのにも関わらず。この狸は人の世に縄張りがあり、人と共生している。そのことがわかった。それに比べて、私は根無し草。獣のくせに。野良犬だって縄張りはあるというのに。私は命乞いをするように言った。
「なにも邪魔はいたしません。金を払った分だけ本を読み、去ります。もう少しで小銭も尽きます。それまでここに居させてください」
 マミゾウはばつが悪くなったらしく、頭をかいてこう言った。
「あ、いや、すまぬ。いじわるをする気はなかったんじゃ。侘びと言っては何じゃが、今日の支払いは儂が立て替えておこう」
「いえ、結構です」と口をついて出た。それはほとんど無意識の一言だった。怒りや意地ではなかった。「そ、そうか」とマミゾウ。彼女はそれきり黙ってしまった。
 私はようやく気づいた。影狼に金などいらない。なぜなら里の外で暮らす妖怪だから。けれども手にした以上、捨てるのではなく、しきたりに則って使い切らなければならない。そして無一文になったら、今まで読んだ本も全部忘れてしまおう。面白かったという読書の思い出だけを残して。記憶は残光とかげろう。それでいい。また金を手にしたら来ればいい。
 ひさしぶりに狩りでもしてみるか。竹林の兎とか。私は石を取り出してがりがりと削った。
「今泉影狼は人である。縄張り争いを続ける修羅である。狼であるためには孤独を愛し、書を捨て、狩りをしなければならない」


湖底

 湖のいちばん深いところには酒池がある。どこからか流れてきたやまなしやきいちご、お米や肉や骨までもが、ぜんぶ醸されて、酒たまりになっていた。わかさぎ姫は湖で一番濃いきらきらだと言う。あまいにおいがして、目の見えない友達でもそのきらきらがわかるほどだった。夜になるとみんながお酒を飲みにやってくる。もちろんわかさぎ姫も。
「この酒はおれんだ。なぜならおれはうわばみだからな」
 湖へびがやってきて、だいじな酒池をひとりじめ。ごくごく。ごくごく。けれども酒池は尽きることなく、湧き出る酒はとうとうと、へびはうとうと、酔っぱらって、とうとう起きることはなかった。わかさぎ姫はへび酒になった酒池を汲み取り、おみやげにした。
 とぷん。
 水面の波紋が耳に届いた。はじめて聞く音だった。今日はみんながお酒を飲む日だから、そのとぷんの正体も、流れてくるだろうと思った。わかさぎ姫は待った。歌いながら。
 ぶくぶくぶく。泡の音に耳を澄ませて。
 けれども、どんなに待っても新しい友達はやってこなかった。
 わかさぎ姫は探しに行った。とぷんを。
 それから二度の朝を越えて、ようやく見つけた。
 それは人間だった。大きな石にからだをくくりつけて、酒池から遠くはなれた湖底に沈んでいた。
「こんな深いところに何のようかしら。もしもーし。すてきな石ですね。私もたくさん持ってるんですよ」
 返事はなかった。顔は膨れて、何を思っているのかわからない。よくみると小さな友達に食べられていた。もうそこにはいないのだろうか。わかさぎ姫は歌った。はじめましても言えないけれど、自分と同じ石が好きな友達。せめてしゃべれなくなるまえに、コレクションを見せたかった。歌い終えたわかさぎ姫はすてきな石を飾ってある岩穴に戻った。いくつかは流れて、なくなっていた。酒池に向かったのだ。
 たいせつなものはみなそこにある。なのにいつのまにか泡のように消えてしまう。わかさぎ姫は涙のかわりに歌うのだった。


望月の下

 今宵は草の根定例会、集うは影狼、わかさぎ姫、蛮奇の三人である。それぞれが酒やつまみを持ち寄り、ぐだぐだと夜を過ごしていた。わかさぎ姫は酒池から汲んだ酒を、影狼は竹林で捕らえた兎を燻製にしたものを、そして蛮奇は里で買いそろえていた盃やら蒸留酒やらを持ってきていた。
 湖の周りには背の高いすすきが茂っていた。穂は月明かりに照らされて、薄暗く黄金色に輝いている。雲ひとつない満月であった。それゆえ影狼はいやに饒舌であった。狼は月に吠えるが、ただいたずらに叫ぶというのもいささか下品なような気がしていた彼女は、その本能をある種の美しいものとして飾り立てるため、酒に頼り、さながら言葉を得たばかりの赤子のようなやかましさでしゃべり続ける。
「いい月。満月、あまねくあやかし、いや、人間でさえ、この闇夜を照らす明滅することのない光には跪くしかないわけよ。うん、風情がある。昂っちゃう。それを抑えるために彼奴らは団子をこねたりなんぞするわけですよ。本当に丸いものを見ると気が狂っちゃうから、だから不細工な団子をこねるわけですよ。風情だねえ、そうは思わないかしら」
 頷きながら笑顔で話を聞いていたわかさぎ姫に対し、蛮奇はたしなめるように「何言ってるかよくわかんないよ」と言った。月見酒は情緒に浸るべきと考えていた蛮奇にしてみれば、影狼の言動は粋な呑み方を忘れ、著しく酔っ払った阿保の戯言に過ぎなかった。しかしながら、静寂こそが粋であるという主張をするために、相手と同じだけ言葉を重ねてしまうのは、それこそ無粋ではないか。ゆえに蛮奇はわざとらしく呆れてみせるしかなかった。嗜める者がいない限り影狼はしゃべり続けた。影狼が話し、わかさぎ姫が頷き、蛮奇がため息を吐く。この三人が野外で酒を飲むときはたいていこの流れだった。とはいえ蛮奇はこの流れを様式美として受け入れてからはむしろ好ましく思うようになっていた。日中はまるで人のようにふるまう蛮奇にとって、この飲み会は停滞の象徴であり、妖怪らしさを取り戻しつつも気負いのない気楽な時間となっていた。それゆえ同じ話ばかりを繰り返しても飽きることはなかった。
 いつもの酒で濁った流れに棹さしたのはわかさぎ姫だった。彼女はいつの間にか髑髏を大事そうに抱えていて、ひびの入った頭蓋をなでながら言った。
「ねえ、満月っていえば、この人さ。いやどこの人だかわかんないんだけど、きっとね、月が大好きだったんだよ」
「へえ、なんでそうだと思ったの」
 話し足りなそうな影狼を遮って蛮奇がそう促した。
「大きな丸い石を持っていたから。きっと月の石よ。きらきらしていたから。だいじそうに。私のコレクションの一番大きいのよりも大きいのよ。たぶんだけど、湖の底に石を取りに来て溺れちゃったんじゃないかなって思うの。私に言ってくれたら、手伝ったのに」
 蛮奇はこの頭蓋の正体が、職場から姿を消した二階の住民かもしれないと思った。夢の帳に隠れた蝶は月明かりと人魚の唄に誘われて、浮世から旅立ってしまったのだ。そのふたつには人をかどわかす魔力がある。それは劇的なことで、きっと素敵なことだ。蛮奇は小さく「良かったんだよ」と言った。遮るように影狼が口をはさむ。火照った舌を犬のように振り回したくてうずうずしていた。
「満月願望っていうんだよ、それ」
「なにそれ」
「きっとさ、その子は湖に映る大きな月に惹かれたの。欲しくて欲しくてたまらなくなって、夢中で手に入れようとしたの。そしてどこまでも潜って、掴んだのよ」
 影狼はしゃべりながらも、その頭蓋は里で噂になっていた情死した者ではないかと推測していた。柳の木で首を吊ったのち、川に落ちてこの湖にたどり着いたのだ。そのほうが現実的ではないか。しかし影狼はその憶測を濁した。今は酒気を帯びた言葉の方が大事だった。わかさぎ姫が首をかしげて聞いた。
「なんでそんなことするんだろう。今は骨だけどさ、顔がさ、すごく腫れてたんだよ。巫女にやられたときだってそんなにはならないくらいに。大変だっただろうなって」見た光景とは少しばかり違う説明ではあったが、わかさぎ姫はそれを訂正する役目を買わない。相手が心地よく話せるように相槌を打つばかりである。得意げに影狼は答える。
「月への信仰、つまりムーンフェイスはあまねくいきものに存在するわ。さっきも言ったけど、否応なしに昂るわけよ。ホルモンがどばどば出まくるの。丸くしたいホルモンが。そんで団子なんぞをこねるわけですよ」
「じゃあさ、私が丸い石をたくさん集めているのもその満月願望ってやつなの?」
「そうだよ、間違いない。全部そう、太陽か月を信仰していて、それはみんなの中にある! 妖怪も、人間も、それ以外の動物も! それだけで十分なんだ。意味も知識も個性も自我だってなくてもいいんだ。欠けているから、なくしているから丸い月を望むんだ。それだけでいいんだ」
 影狼はスカートのポケットに手を突っ込んで石日記を出した。それを見せながら「だからさ、これ、もういらないから。ぜんぶあげる!」そう言って影狼は日記を湖に映る月めがけて投げはじめた。
「いらないから、ぜんぶもういらないから!」
ぴちゃん、ぴちゃんと透徹に響く音、そのたびに水面に映る月光は笑ったように歪むのだった。
 ポケットが空っぽになると、影狼はしぼんだ紙風船のようにうなだれてしまった。
「ありがとう。拾っておくね」
「うん……」
 それから沈黙が訪れた。わかさぎ姫はぼんやりと空を見上げ、月を思いながらハミングをはじめた。湖底のメロディは放心した影狼の耳に心地よく届き、彼女の饒舌な口をなだめすかしてしまった。空を眺める人魚と、水面に首を垂れる獣、ふたりを尻目に蛮奇は手元に視線を落とし、盃に映る月をじっと見た。揺らめく月明かりを飲み干して、ひとり悦に浸った。これは孤独だ。絵に書いたような孤独だ。
 静寂はずいぶんと長かったが、以外にもこの沈黙を破ったのは蛮奇であった。酒をぐいとあおり、絞り出すように言った。
「しゃべれよ。もっと、しゃべったらいいんだよ、何も言わない月にさぁ! どうせ誰も聞いちゃいないんだから!」
 それは草の根の妖怪たちどころか、蛮奇本人ですら聞いたことのない叫びだった。影狼たちは一瞬ぎょっとしたが、すぐに熱を取り戻し、呼応するように叫んだ。
「わ、私吠えるわ。月に吠えるわ! だって、だって狼だから。私は狼だから! あおーん、あおーん!」
「うるさいよ」
「じゃあ歌うわ私。人魚だから!」
「うるさいって」
 獣は吠え、人魚が歌う。大声で、悲しくもないのに。火をつけたはずの蛮奇は気恥ずかしさと酒の火照りで真っ赤になっていた。
 蛮奇はこの光景を花にたとえた。(月下美人、酒と光浴び、乱れ咲き。なんて、違うか、あははは)わけがわからぬほどの高揚が腹の底で酒と混ざっていた。
 感極まったわかさぎ姫が「ねえ、私たち、友達だよねぇ!」と言った。影狼は抱擁で応じた。そのまま遠吠えと歌声が重なった。蛮奇はそのやり取りが腹立だしくてたまらなかった。愚の骨頂、そういうのは言葉にせず、盃を交わすべきなのだ。
(こうやるんだ)蛮奇はくいと酒を呑んだ。
 ああ忌々しい。絵にならない。花にたとえるなんてできやしない。枯れ尾花だ。そこらに生えてる枯れ尾花! 彼女らは蛮奇の矜持や心情を理解する日はこないだろう。いつの日もただやかましく歌うのだ。
 ――なのに蛮奇はこのひとときが楽しくて仕方がなかった。うるさいほどの輪唱に混じれないことが少しだけ寂しく、これからこの寂しさがずっと続いてほしいと願った。調和の欠片もない素晴らしきコンサート、そのためには場所が必要だと思った。
「ねえ、今度さ。山に登ろうよ。すごく景色が、景色がさ、きれいだったんだ。湖があってさ、風が吹いているんだ。おそらくは神代からある湖畔で、空気が澄んでいるんだ。きっと霊験あらたかで酒がうまくなるんだ。みんなで、みんなでさぁ、呑みにさぁ!」
 蛮奇は泣いていた。目尻が熱を帯びている。なのに言葉は濁流のごとくとめどなくあふれた。理由はわからなかった。悲しいわけでも苦しいわけでもない。燻ぶっていた律動が、がらんどうの腹の中で暴れまわり、とうとう吐き出されるに至ったのだ。
「新天地だ! うん、行こう、絶対に、約束だよ」
「行こう行こう、次の夜に!」
 ふたりは大声で応じた。そのとき、一陣の風が山の方から吹きぬけた。すすきが揺れてかさかさと不協和音が奏でられた。夜話は終わらない。底流に沿ってどこまでも続いていく。
読んでいただきありがとうございました。
灯眼
https://twitter.com/tougan833
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
ほとんど人間的な生活、人間的と動物的の間で揺れ動く生活、それからほとんど動物的な生活。それぞれの生活を比較すると一番とんちんかんで不安定なのは影狼の生活だなと思うのですが(客観的に見た自分と主観的な自分がごっちゃになって整理がついていないくらいには)、でも三人で集まると一番安定性が高いかのように見えた蛮奇が熱暴走して理由もわからず叫びだしてしまうのが面白いと思いました(きっと宴会が終わると記憶が飛んでいるのでしょう)。実際、もっとも不安定な環境下で生きているのはわかさぎ姫だろうに、突き抜けた不安定が何故か静謐さを感じさせるのが不思議でした。
3.100ひょうすへ削除
すごく良かったです
時止め能力者と釣りの相性は最悪だろうなと思った
4.100福哭傀のクロ削除
間違いなく面白かったけどどこがどう面白かったのかと言われるとなんかうまく説明できない話という意味で私には少し難しかったかもしれないです。かといって雰囲気作品(決して悪口ではない)というのもなんか違う気がして、自分の読解力不足がががが……。ばんきちゃんの気持ちはわかるけど面倒くさいところとか、影狼さんのわかるか微妙な……悩み?もわかさぎ姫の視点が違いすぎるからわかる見方と。それぞれ合わなさがうまいこと噛み合ってる感じなんだろうなぁと。
6.100東ノ目削除
結構そこらじゅうに死を思い起こす要素が散りばめられている(読んでいるときに『城崎にて』を想起しました)のに陰鬱な作品というわけではなく、むしろそれぞれの哲学で草の根の三人が生きているという側が印象に残る作品でした。よかったです
7.100のくた削除
何だろう、三人の噛み合ってないのに噛み合ってる不思議な感じ。三人だけでなく、他の人間や動物たちとも。
面白かったです
8.100めそふ削除
とても面白かったです。3人とも全く属性が違くてなんも共通点がないようなのに上手く一緒呑めて楽しめてるのが本当に良いなあと思いました。死生観も人との関わり方も、趣味嗜好すら違うのにこうも仲良くやれているというのが最後にまとめとして書かれるのがよかったです。終盤に入る前に丁寧に3人の生活を書いていたからこそ、このまとめ方が心に響いたのだなと思います。あと蛮奇と首吊り遭遇させるのめっちゃ良かったです。
9.100南条削除
とても面白かったです
わかさぎ姫の倫理観があまりにも独特で素晴らしかったです
みんなずっとこのままでいてほしいと思いました
10.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
11.100ローファル削除
面白かったです。
三人それぞれの違った日常・思想が違和感なく
最後の「ねえ、私たち、友達だよねぇ!」につながるのが良かったです。