御射鹿池は長野県茅野市豊平にある溜池である。横谷渓谷に流れ込む冷鉱泉を一時的に留めることにより温度を上げて、農地用水として使えるようにしたのが元々の目的だった。日本画家である東山魁夷の「緑響く」のモチーフとされ観光地として人気が高い。
盆休み、遥々東京から長野に観光にやってきた某鉄鋼企業に務めているこの男の目的地もそこだった。偶然見ていたNHKの特集で一目惚れしたのがきっかけだった。ただし男はまるっきりの旅行初心者で、ディズニーランドに遊びに行くような心持ちで出発したのがいけなかった。男は公共交通機関というのをまるっきり便利な魔法の絨毯か何かだと信用しきっていたのである。
東京駅から茅野駅までは特急あずさのお陰で簡単だった。指定席で寛ぎながら懸賞雑誌のクロスワードパズルを六問続けて解いて、居眠りをしていたら到着した。後は茅野駅から出ている奥蓼科渋の湯線に乗車して明治温泉入り口のバス停留所で下車すれば、テレビでみたあの神がかり的な絶景、大自然と御射鹿池に映り込む大自然の鏡面世界、あの神秘的なシンメトリーの境界線を堪能することができる筈だった。
男の乗車している特急あずさが茅野駅に到着したのが正午過ぎだった。そこから男は折角の旅行だし何か美味いものでも食べようかとうろうろする。結局駅構内の定食屋で馬刺しの三種盛り定食を平らげる。想像以上の量に重たくなった腹をさすりながら、そこからやっと一番のバス乗り場に向かった。男が最終のバスを逃したことを知ったのはすぐだった。
一
どんなに物ぐさな人でも、ふとした拍子に、目についたものから片っ端に棄てたくなるような衝動に駆られることがある。この理由は多岐にわたる。誤って箪笥の裏側にボールペンを落としてしまい、その禁断の裏側を覗いてしまった時だったり、部屋の隅に拳大の埃を見つけた時だったり、はたまたやりたくもない仕事からの逃避の口実だったり。
そして、例のごとく東風谷早苗も熱にうかされるように、自室の押し入れから片っ端に中の物を出していた。机の上はすでに綺麗に片付いている。生来の潔癖な性格が働いて、彼女もまた徹底的に掃除をする腹である。
畳の上にはまたたく間に敷布団や布団乾燥機、ティッシュペーパーの束、その他諸々の雑貨で溢れかえった。汗だくになりながら押入れの中を空にすると、出したものを大きく三つのグループに分けていく。すなわち、「使うもの」「使わないがとって置きたいもの」「使わないもの」の三つである。ちなみに、掃除が苦手な人はさらにもう一つのグループ「使うかもしれないもの」という九割無意味な選択肢が出現する。
早苗はてきぱきと作業を進めた。自分のことながら、よくもまあこんなに貯め込めるもんだと、次から次へとガラクタを仕分けしてビニール袋につめこんでいく。漫画本の誘惑にも気がつかず、殆どの作業を終わらせてしまう。
一息つくと、何気なくガムテープで封がされたみかん箱が目に入った。これってなんだっけ、と早速中身を改めてみると、途端に彼女の胸中は懐かしさでいっぱいになった。けん玉やおはじき、遊び方が分からないが何故か集めていたビー玉。シナモンロールの絵の本や、綿が出かかったフシギダネのヌイグルミなど子供時代の宝物がぎっちりと詰まっていた。
彼女はけん玉を手に取る。ひとつ試しに大皿に玉をのせてみようとしてみたが、これが何度やっても皿が玉を跳ね返してしまう。これが十年前ならば、中皿と大皿に玉を、それこそうさぎとかめの童謡を唱和しながらに自在に行き来させられた。彼女は何だか過去の自分を裏切っているような気持ちにさせられ、ダンボール箱にけん玉を押し込む。
その時ふと、ダンボールの底にあったとあるものが早苗の目にとまった。手のひら大ほどの立方体である。鉄か何かでできているのか表面は銀色一色。こんな玩具持っていたっけと、首を傾げながら早苗はその物体に手を伸ばす。ずしりとした重さに驚きながらも、ダンボールから取り出してみて、なんとか思い出そうとよくよく見てみる。しかし、どう頭を捻ってみても全く覚えがない。そもそも用途が全く分からない。何か大型の機械の部品にも思えるし、何かSFチックな部屋のオブジェにも思える。何れにしても子供の玩具にしては上等な代物に思えた。
それでも何か手がかりがある筈だと、両手でくるくるとこの謎の物体を回してみる。しかし見れば見るほどこの立方体の面妖なこと。表面にはちょうど方眼用紙のような四角形が、凝視せねばと分からない程の細さでびっしりと掘られている。もし人の手によってこの模様が拵えられたものならば、きっとその人物は狂ってるのだろう。そして現実で狂気の存在を示唆するものなど、子供の玩具であるはずも無い。
また、振ってみて分かったことだが、どうにもこの立方体の中に何か入っているらしい。というのも、傾けると内部で何か転がるような感触が伝わってくるからだ。となればこれは箱ということになる。だが、それにしては蓋らしきものはどこにもない。六面全て同じ面に見える。加えて蝶番らしきものも見当たらない。一体どうやって入れたのだろうか。
この摩訶不思議な物体は早苗の好奇心を強く刺激した。一体中にどんな素晴らしいものが入っているのだろう。この箱の厳重な造りからして、中のものは更に常軌を逸した珍品に違いない。早苗は早速開封しようと試みる。余りにも手がかりが無いのが、箱根土産の寄木細工を思わせた。ならば当然何か仕掛けがあるのだろう。どこか動かせるところがないか細かく調べてみる。箱のあちこちを叩いてみて音が変わるところがないか調べてみる。押すと凹むところがないか、親指の腹で押しまくってみる。転がしてみる、投げてみる……。彼女の苦労とは裏腹に、窓から差し込む西日は部屋の温度を無慈悲に上げ続ける。
そして、一時間ほどこねくり回したところで、早苗はとうとう音を上げた。こんなの開く訳がない、もう壊してしまおう。
早苗は箱を携えて台所に向かった。早足で廊下を歩くと、洩矢諏訪子と出会い頭で危うく衝突しそうになった。
「わあ、すみません」
「いいって、いいって。ほら、私のアイスは無事なんだし」
諏訪子は手のひらをヒラヒラさせて、片手に持っていた水色のアイスキャンディーを指差した。
「それで、そんなに慌ててどうしたのさ」
「はあ、それがですね」
早苗は掃除中に見つけた不思議な箱について説明する。諏訪子にこの箱について見覚えがないか聞いてみたが、案の定空振りだった。
「でも、壊しちゃうの? なんか勿体なくない? こんなに綺麗なのに!」
「でも諏訪子様、この箱の中身気になりません? 私はとんでもなく高価なもののように思えるんですよ。とりあえず、入れ物より中身が安い何て話は聞いたことがないですし。だから缶切りか何かでこうやって……」
そう言って早苗は箱を開けるジェスチャーをした。
「ふうん、ねえちょっと貸してよ」
「別にいいですけど壊さないでくださいよ。あれ、壊してもいいのか」
早苗は首を傾げながら箱を手渡した。
背の低い諏訪子は箱を頭の上に掲げて、お札の透かしを確認するような格好でじろじろと箱を観察する。ひっくり返して指で弾く。耳を箱にくっつけて音を聞いてみる。
「あのう、何か分かりましたか?」
あまりに真剣な諏訪子に対して、早苗は恐る恐る質問する。
「ん-? これ缶切りじゃ無理だよ。超頑丈」
諏訪子は箱を手のひらで何度か叩いた。
「ええっ、本当ですか?」
「うん、プロに任せた方がいいんじゃない?」
「はあ、プロですか? 箱開けの?」
「そうそう。餅は餅屋、箱開けは技術屋だよ」
二
河城にとりが渓流釣りに持ってきたその釣り竿は素人目からしても恐るべきものだった。間違いなく全長は十メートルをゆうに超えている。それにも関わらず華奢な体躯の彼女が軽々と振り回しているのだから、きっとその釣り竿は羽のように軽いことが伺える。きっとカーボンか何かでできているのだろう。だが釣り竿から彼女の足元のバケツに目を移してみると、全く釣れていないことが分かる。おそらく彼女は形から入るタイプなのだろう。リアリストのメカニックらしからぬ性格に思えたが畑違いの領域であることを鑑みると特に不思議なことではない。
にとりは腹立たし気に空のバケツを蹴っ飛ばした。バケツは綺麗な弧を描いて陸地に着地してそのまま坂道を転がり始める。にとりはしまったと思い、河の流れに足をとられながら慌てて川辺に戻る。どうして技術屋の私が腹の虫と格闘しながらこんな惨めな気分にならないといけないのか。にとりはへとへとになってようやくバケツに追いついた。再び川に戻って釣り始める気にもならなかったので、ひっくり返して椅子代わりにした。頬杖をついて川の流れが速いのをぼうっと眺める。
しばらくそうしてると、東風谷早苗が対岸をうろうろしてるのが見えた。珍しいこともあるもんだと、にとりは立ち上がって大きく手を振ってみる。すると驚くべきことに早苗が靴下を脱ぎ始め、足先を水の中に入れて川を渡ろうとする。にとりは慌てて手で制して、自分がそっちに行くと身振り手振りで指示をした。
「ちょっと。この辺、川の流れ速いんだから危ないよ。流されちゃったら洒落にならないでしょ」
にとりはやっとの思いで向こう岸にたどり着くと、くたくたになりながら早苗に言った。
「いや、あの、すみません。ずっとにとりさん探してて、見つけたら嬉しくなっちゃいまして」
「私を探してた? そりゃ何でまた。居間のテレビでも壊れたの?」
早苗は押し入れで発見した不思議な箱について、それから自分の力ではどうやっても開きそうにないことをにとりに説明した。
「それで、これが問題の箱なんですけど」
早苗が巾着から取り出そうとするのをにとりが遮る。
「いいって、ここで出さなくても。私はプロ中のプロだよ。話を聞けば大方想像が出来るもんだよ。材料も性質も開け方も。さあ、早速私の工房に行こうか。付いてきて! 開けゴマって感じて簡単に開けてあげる」
今年の夏は病的に暑かった。殺人光線が頭上から容赦なく降り注ぐ。この悪魔の光線によって私の身体が溶けている! 大量に吹き出す汗は、自身の身体がバターか何かでできてるのでは無いかと早苗に錯覚させるほどだった。足下の木漏れ日の模様も、夏らしさを遥かに通り越してサタニストが好んで描く魔法陣か何かに見えた。息苦しくなるような熱風が、時折顔に直撃した。それでもにとりの背を追っていくと道は次第に険しくなる。鉄鍋のごとき岩場を超えると、古めかしい石橋が現れた。その向こうに工房の煙突が煙を、儀式めいた調子で煙を天に送り込んでいる。やっと到着したと早苗がため息をつくが、先を歩いているにとりの歩調は緩まなかった。
「ねえ、ちょっと!」
と早苗が悲鳴をあげる。
「いったいどうしたっていうのさ」
にとりは正面を向いたまま返事をする。
「にとりさんの言ってた工房ってここじゃないんですか?」
「いやまだまだ先だよ。あれ、言ってなかったっけ。最近独立したんだよ、私。身内のゴタゴタとか、天狗に上前をはねられるのが癪でね。それにほら、こういう何か一芸を軸にした共同生活のコミューンってちょっとカルト的じゃない? ジョーンズタウンとかヘブンズゲートみたいで」
「はあ?」
「つまり、閉鎖的な空間にいると、視野が狭くなるってこと。私みたいな発明家にとっては致命的でしょ?」
「はあ、そういうものですかね」
「いいから、とりあえず付いてきてよ。って言ってもすぐそこだけど」
それから再び山道に入り、しばらく歩くとようやくにとりの言う工房らしきものが見えてきた。ただその姿は先程あった権威的な石造りの工房とは似ても似つかない。建物の外壁は色あせやひび割れが目立ち、所々塗装が剥げていた。木製の部分は腐りかけており、触れたところから崩れそうだった。扉の蝶番は片方が外れかかっておりその隙間から暗闇がこちらを覗いている。
「まあ、見てくれは悪いけどさ」
にとりは早苗の心を見透かしたように素早く早苗の言葉を牽制をする。おかげて彼女は何かポジティブな感想を述べる機会を見逃した。
ボロの中身は早苗の想像どおりである。腐った木片が散らばっている。錆びた万力が申し訳なさそうに作業台に固定されている。床が所々抜けてており、床下に生えているのであろう雑草が飛び出している。恐らく雨漏り対策なのだろう、マグカップが不自然に床に並べられている。ふいに早苗の頭に社会科の授業で習った日本国憲法の例の心強い文言「健康で文化的な最低限度の生活」が浮かんだ。
にとりは立て掛けてあったパイプ椅子の一つを広げると早苗に座るように勧めた。
「お茶でもいる? 貰い物だけど美味しいよ」
「それではいっぱいだけ」
手渡された湯呑には水出しの緑茶がはいっている。早苗はそれを一息で飲んでしまうと、ようやく生き返った心地になった。
「ありがとうございます」
「うんうん、川が近いから水は無料なのは有り難いよ。それじゃあ早速問題のブツを見せてよ」
早苗から受け取ったものを手に取ると、にとりは最初こそぺたぺたと両の手で触っていたが、やがて食い入るように見つめ、そのまま石像のように動かなくなってしまった。そのまま五分、十分。早苗は声をかけるべきか迷ったが、河童というのは徹底的に技術屋であることを思い出した。触らぬ神に祟りなしと、とにかく刺激しないように放っておく。
退屈してきたので窓の外でも眺めようと思ったが、浴室でもないのに曇りガラスが嵌め込まれていた。窓枠にハエトリグモがくっついていたので、気味が悪いと思いながらもその動向を眺ようと目を向けた。しかしその蜘蛛もにとり同様に動こうとしない。もしかしたら、既に死んでいるのかもしれない。早苗が恐る恐る手を近づける。
「あー、まあ、大丈夫でしょ」
にとりの間延びした声で早苗は我に返った。
「えっ、何がです?」
「何がって、これ開ける話でしょ。壊しちゃってもいいんだよね。もしかしたら、中のものがちょっとダメージ負うかもだけど。いや、そこは上手くやるつもりだけど万が一ってのがあるからさ」
「その時はしょうがないと思って諦めますよ。これ開けられるの幻想郷じゃにとりさんぐらいだと私思ってますし」
「うんうん。早苗はやる気にさせるのがうまいね。よし、任せてよ」
にとりは万力で箱を固定すると、机の下の工具箱から細長いノズルのようなものを取り出す。
「何ですかそれ」
「んーまあ見ててくれよ。それより早苗は南京錠の開け方って知ってる? あれって頑丈そうにみえて実は簡単に開くんだよ。こう、スパナを二つ引っ掛けて、てこの原理でこうやって捻じ切っちゃうんだよ」
にとりはそう言って両手で鋏を開くような格好をする。
「ふーん。鍵をなくしちゃった時は便利そうですね」
「まあね。でも高いやつはそのやり方じゃうまくいかないんだ。だからそういう時は温めるんだよ」
にとりはノズルの下にカセットボンベを取り付けた。
「こいつのマックスの火力でしばらく炙り続けたら、原型を留められるやつなんてまずいないね。しばらく時間かかるし将棋でもやって気長に待とうよ」
ガスバーナーの轟音、それと駒の音の小気味よい音が殺風景な部屋を満たした。にとりは技術屋らしく変化を好む振り飛車党で、得意の四間飛車で早苗を抑えこもうとする。それを見て早苗は穴熊囲いを目指していく。一度穴熊が完成すれば崩すのは至難の技である。にとりにとって真綿で首を絞められるような苦しい展開。じわじわにとりの玉が追い詰められて捕まった。そしてこの展開が三回。同じ負け方を三度も味わえば誰だって嫌になる。
「ねえ、ずるだよずる。ルール改正でイビアナ禁止にしてくれよ」
にとりは盤上の駒を腹立たしげにかき混ぜた。
「意味不明なこと言わないでくださいよ。大体、にとりさんが呑気に銀冠まで囲うからですよ。急戦だったらこっちもキツいでのに。四間飛車に拘るのでしたら、藤井システムやってみればいいじゃないですか」
「居玉のまま戦うやつ? 私、早仕掛けやなんだよ。将棋の醍醐味って、ガチガチに囲まれた相手の壁を木っ端微塵に破壊するところでしょ? 私は暗殺じゃなくて戦争がしたいの」
「その割には受け一辺倒でしたけど」
「うるさいなあ、もう。いいよ、私の本来の仕事は相手の陣地じゃなくて、早苗の持ってきた箱をぶっ壊すことでしょ? ぼちぼちいい頃合いじゃない? どうなってるのか見てみようよ」
にとりは逃げるようにして立ち上がる。早苗も慌ててそれに続く。ガスバーナーの燃焼音が聞こえなくなったと思えば、次いでにとりの間の抜けた声。
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもないよ。ほら!」
にとりは高温になった箱を素手のまま掴んてしまい、悲鳴を上げる。軍手をはめて万力から箱を取り出して早苗に見せる。
驚くべきことにあれほどの業火に長時間晒されたにも関わらず、箱にはほんの僅かに薄っすらと黒い焼け跡がついただけで、特に形状に変化は見られなかった。
「ありゃ、駄目っぽいですね。他に開ける方法あります?」
しかし早苗の質問は耳に入らないようで、にとりは何か一心不乱に考えを巡らしている様子だった。やがてにとりは気味が悪いほど丁寧に箱を作業台に置くと、引き出しから算盤を出してパチパチと弾き、その後軽くうめき声を上げた。
「ねえ、早苗、一つ相談何だけどさ」
「何ですか?」
「この箱売ってくれない? 開けられたら中のものはちゃんと渡すからさ」
「えー、だって、そんなの。大体にとりさんお金あるんですか?」
「そこは何とかするよ、労働金庫からまとまった金額は借りられると思うし」
「でもにとりさんって今はフリーランスなんでしょう?」
「あ、じゃあ、昔の仲間からカンパでもなんでもして集めるからさ、ねえ、いいだろ」
あまりににとりが必死に懇願するので、早苗は譲ってやってもいいように思えた。しかし、プライドの高いにとりがここまで食い下がるということは相当なオーバーテクノロジーなものに違いないぞと、打算的な心理が早苗の決断に働いた。同時に神事に携わる巫女として神秘の解明に対する反目という潔癖な心理も働いた。
「とりあえず、一旦持ち帰っていいですか?」
早苗が素早く箱を手ぬぐいで包んでしまうと、巫女服の袖口にいれてしまう。
「じゃあじゃあ、手形でもなんでも切るからさ。ねえ、お願いだよ」
「ちょっと、袖掴まないでくださいよ。開けるの失敗しちゃいましたけど、今度お礼に行きますから。だから離してください!」
早苗はにとりを振り払うと早足で工房を後にした。にとりが後ろで何か言っていた言っていたが悪いと思いながらも聞こえないふりをした。足元を掠める草花の湿った香りがやたらと彼女の鼻についた。
やっとの思いで神社につくと、早苗は自室に飛び込んで勢いよく襖を閉めた。周りに人がいないのを何となく確かめた後、心臓の鼓動が落ち着くのを待ってから、袖付けから例の箱を取り出した。どうしようかと考えて、結局置物にすることにした。早苗はとりあえず、箪笥にのせたポストを模した貯金箱の隣に並べてみた。離れて眺めてみると、旅行先で衝動買いしたお土産を飾った時のような何となく場違いな感じがある。
早苗はふと机の引き出しに兎のシールが入っていたことを思い出した。とりあえず適当に貼ってみると銀色の上に白い兎と、月を彷彿とさせる妙な置物になった。彼女はこれをとても気に入ったようで、ニマニマと暫く眺めた後にそのまま片付けを再開する。殆ど片付いてしまうと、タイミングよく階下から夕飯が出来たという早苗を呼ぶ声。彼女は勢いよく返事をした。
三
翌日の天気も焼けるような快晴だった。天然サウナ内で元気なのは油蝉ぐらいはもので、宙に漂う空気ですら動くことを拒むように、重く湿っていた。
昼飯の冷や麦のおかげで多少涼しくなったと思えば、廊下に出た途端にそうした貯蓄は破滅的な暑さに蒸発させられた。早苗は早足で階段を登り、唯一クーラーのある自室に向かう。
午後の予定は特に何もなかった。延喜式の勉強でもしようかと思って学習机に向かう早苗だったが、貸本屋で借りてきた漫画本についつい手が伸びてしまい、気がつけば畳に寝転がっていた。結局一冊丸ごと端から端まで読んでしまい、本を閉じる頃には若干の後悔に囚われた。しかしそれはすぐに「常識に囚われなかった」というあまりにも能天気な事実として置換された。早苗の生来の生真面目な性格はありとあらゆる怠惰に対して感情論以外の理由を要求する。この無理難題に対して、幻想郷に蔓延する一種のタオイズムめいた思想は、彼女にとって絶好の自己暗示の材料となった。
早苗は漫画本を棚に戻そうと起き上がった。そこでふと、不思議な光景を目の当たりにする。あのどうやっても開かなかった銀色の金庫、すなわち例の箱がどういう訳か上の面を蓋にしてぱかりと開いていたのである。
早苗は不安から胃に痛みを感じた。これは一体どういうことだろう。昨夜の時点では間違いなく閉まっていた。今日の朝は覚えていない。ならば夜中のうちにひとりでに開いたのか。しかし、そんなことは起こりうるのか。いくらにとりの操作が後をなしたとしても、飲み込み辛い結論であった。となれば考えられるのはひとつ。夜のうちに誰かが部屋に忍び込み、どうやってかは不明だがともかく箱を開けたのだ。外部からの干渉なしに箱が開くはずがない。
早苗は恐る恐る箱の中を覗き込む。箱の底が見えるのみで中身は空。持ち上げてみると昨日と比べて明らかに軽くなっている。彼女は身震いをした。これを開けた謎の人物が盗ったに違いない。
若干の吐き気をこらえながら早苗はのろのろと部屋の窓に向かっていく、これで鍵が開いたままだったら泥棒に入られたのはほとんど確定のように思われた。
呼吸を整えながら目を瞑る。窓枠についたクレセント錠に触れてそっと回転させてみる。すると小さなカチリという音。
早苗は困惑しつつもう一度慎重に錠を引っ張ってみる。わずかな抵抗を感じて、彼女はようやく安堵の息をついた。鍵は確かにかかっている。それでも、彼女はもう一度、そしてもう一度と同じ動作を繰り返し、何度も確認せずにはいられなかった。
ようやく早苗は冷静さを取り戻した。とにかく寝ている間に泥棒が忍び込んだという線は薄くなった。あと考えられるとすれば、悪戯好きの諏訪子が寝ている間に解錠したというものだが、こちらの可能性もやはり薄い。というのも、早苗にはこうした悪ふざけをした時特有の、常時ニヤニヤしている諏訪子の得意げなあの顔を確実に看破できる自信があったからである。
それでは真相はどうなのか。どう頭を捻っても考えつきそうにない。先程まで感じていた恐怖心はもう欠片も残っていなかったので、早苗は次第にまあいいかという気分になっていった。水は下まで落ちきれば後は貯まるばかりである。この箱だけ河童に売り払ったら、しばらく小遣いに困らないぞと気分が明るくなる。早苗は早速キャンバスノートを広げて、まだ得てもいないお金の使い道を思案した。里で流行りのスイーツから旅行計画まで触手が伸び、気が付けばノートのページは鉛筆で黒くなっていた。
完成するとしばらく満足げな調子で早苗はこの成果物を眺めていたが、ふと適当にあしらってしまったにとりのことを思い出した。彼女はばつの悪そうにノートを閉じて引き出しにしまった。
四
子供以外、必然的に持つことを余儀なくされる秘密という重り。どれだけ日向を歩こうとしても、雇用形態における金銭の授受が発生した時点で秘密の大小はさておき、そこには必ず何かしらの口止め料が含まれてしまう。
しかし、こと創作に関する秘密はこれらとは全く種類が異なってくる。あれは一種の自罰的な性格を持った秘密であり、同じだけ人に言いふらしたいという気持ちが生まれてしまう。それらが半永久的に内面でせめぎ合うので質が悪い。この時間が長ければ長いほど、秘密は熟成され、意図しないところで秘密が漏れたときのダメージはひとしおである。そしてこの類の秘密は早苗も持っていた。
早苗が毎晩少しだけ夜ふかししてやっていたのは詩作である。これは本居小鈴の影響で、貸本屋で借りた詩集の趣味が偶々あったからである。時折集まって書いた詩を見せあって、お互いの解釈を共有した。
といっても、彼女達が気に入って読んでいたのは年頃の女学生が好むような、現実の延長という感じがするフロストやディキンソンではなくポーやボードレールといった幻想的な退廃美を追求した暗いものが殆どであった。この世間を挑発するような作品群は、作品をそれ自体の魅力から、次第に彼女達の結束をより強く固めるという主題とはずれた地球平面説的な副作用の方が彼女らの間で重視されていった。勿論、この事は互いに感じつつも絶対に口には出さなかったが。
空気の澄んだ夜の時間、早苗は詩作をするのに大変な注意を払った。だがその情熱は執筆ではなく、まるで犯罪者のように諏訪子や加奈子に隠匿することに注がれた。
彼女らが寝静まったのを確認した後、完全に寝入るまで念の為にさらに少し待つ。自室の二階に向かう階段の踊り場に古新聞の山を置く。自室の襖は完全に閉まっているか強迫めいた執拗さで何度も確かめる。さらに念のために箒の柄をつっかえ棒にする。ここまでやって初めて安心して書くことができた。
だがいくら環境を整えても、詩作とは非常に繊細な種類の作業である。その日の気分によって出来高が完全に異なってくる。その証拠にこの日の早苗は全くと言っていいほど捗らなかった。散々頭を悩ませてようやく一行書き終わると、もういいやと席を立つ。漢字辞典のカバーに詩集とノートを入れてそっと本棚に戻すと、寝る前に水でも飲もうかと襖に手をかける。早苗はふと異変に気が付いた。すっかり閉め切ったと思っていた襖が数センチだけ開いていたのだ。
傍から見れば酷く些細な事なのだが早苗はパニックになりかけた。それほど毎晩、彼女は敬虔に証拠の隠滅に従事していたのである。彼女の脳内にはこの僅かな数センチの隙間から覗き見る血走った巨大な眼の幻想がありありと浮かんだ。
早苗は風のように部屋を飛び出し階段を駆け降りる。そこで自分で置いた古新聞に足をとられ危うく足を踏み外しそうになった。この実質的な身の危険が、逆に早苗を冷静にした。私は何を心配しているのだろう。新聞紙が動いてないなら開けたのは諏訪子様たちじゃないことは明白じゃないか。私が単に閉じていなかっただけじゃないか。
台所で冷えた麦茶を飲むと、早苗は完全に落ち着きを取り戻した。自分の記憶を辿る余裕も出てきた。ところで今日の私はどうだっけ。ちゃんと襖を閉めただろうか。いや、私は確かに今日も蟻一匹通さないように気を遣った気がするぞ。ならば一体どういう訳か。ひとりでに開いたとでもいうのだろうか。「何もしていないのに勝手に開いた」この文言が頭に浮かんだ途端、例の箱のことを意識せざるを得なかった。一度不可解が起きれば、その後に起きた不可解は前者の体系に組み込まれる。それ故にこの襖の出来事も何か箱が関係しているのではないかと早苗が疑うのは殆ど必然であった。
もしかしたら箱が勝手に開いたのは、誰かが外から開けたのではなく、何者かが内から開けたのではないか。つまり何がきっかけか分からないが、その生物が覚醒して
箱から飛び出して、この家のどこかに隠れてるのではないか。そしてこの襖を開けるという悍しいことをしでかしたのではないか。あの月刊ムーでしばしば言及される、謎のオーパーツから訳のわからない生物の封印を解いてしまったのではないか。
想像力の逞しい早苗はこのように思考を組み立てた。これならば全て説明できるぞと、早苗はこの説が正しいことだと自信を深めた。こうしちゃいられないと、早苗は立ち上がったのも束の間、急に睡魔に襲われる。壁掛け時計は丑三つ時をさしていた。ちょっとの間、睡魔と格闘してみた早苗だったが、程なく敗北を喫しまた明日でいいやと横になった。ゴキブリを家の中で発見してそのまま逃げられ見つからないような気持ちの悪さを感じていたが、そのうち彼女は死んだように眠りに落ちた。
五
早苗が組み立てた疑心暗鬼めいた推理は日に日に真実味を帯びていくように思えた。
例えば、早苗が写真立ての裏に置いておいた日記帳がいつもと上下逆さまに立て掛けてあったこと、夕食を摂っていたら、ふと背後から視線を感じたこと。この時、諏訪子や神奈子にも何か気配を感じるか聞いてみたが、早苗の期待していた返答は得られなかった。彼女の内には若干の実存的な不安が現れたが、それは程なくして神秘体験がもたらす僅かながらの優越感へと変換された。
この家を襲う不可解な霊障は私が原因なんだから、私が解決しないといけないぞ。この悪霊を祓ってやると早苗は決意を固める。だがその方法が分からない。彼女は博麗霊夢に相談することも考えたが、自分が洩矢神社の風祝であり実際的には同じ職でなのを思い出し、可能な所まで自力でやろうと考え直す。
では一体どうすれば。散々頭を悩ました挙げ句一時はベランダから家中に塩を散布しようとも考えた彼女だったが、やはり、物事には必ず原因があるのだから、そこから解決方法を導くべきだと、外からやって来た人間らしい折衷的な結論に至った。彼女にとって科学と信仰は相反しない。ただ光源が違うだけの二つの光に過ぎなかった。
早苗は例の箱を机において、学者のような目つきでまじまじと観察する。道具箱から虫眼鏡を引っ張り出してきて、封印の呪文かまたは何か説明書きか何か書かれてないか探してみる。
しかしながら改めて観察すると、この箱を構成する金属は、その光沢といい、硬度といい、完全に常軌を逸していた。拡大して見てみると、金属板の中央部分にはフラクタルめいた幾何学模様が浮かび上がっている。催眠めいたこの模様は、見る角度によって色が変わった。蛍光灯の光を受けて反射する色は、虹色に輝き、この箱自体が未来的な活動力を内包していることを示唆しているように思われた。
ほとんど畏怖の念を抱きながらこの魔術的な箱を手の中で弄っているうちに、早苗はこれまでの不可解な事象の原因が箱の内容物ではなく、この奇妙な恐るべき箱そのものにあるのではないかとふと思った。一番初めのように、きちんと箱を閉めておもちゃの海に沈めてやり、押し入れに封印してやれば万事解決するのでは無いか。彼女は昔夢中になっていた紋切型恐怖映画の数々を思い出していた。心霊現象における特効薬は劇中で何度も紹介されている。
それに加え、こうした全く根拠に欠ける漠然とした思いつきを早苗が実行に移したのには理由がある。幻想郷に来て以来彼女の価値観は徹底的にやっつけられたが、その比重の多くを占めていたのは似たような神職に携わる博麗霊夢の存在である。彼女に殆ど予知めいた勘の鋭さが備わっていることは、誰もが認めるところだが、初めてあの神がかりを目の当たりにした早苗の心境は驚きより嫉妬に近かった。こうした悪感情は当時読んでいたドーキンスのあの有名な本について早苗流の機械論的な解釈をすることによって、一応抑圧できた気がしたが、この胡乱な処方薬は一週間とは持たなかった。驚異的な霊感は早苗にとって巫女の必須条件の一つとなったのである。
早苗は箱を儀式めいた調子で持ち上げると、片方の手でゆっくりと箱のふたに手を伸ばす。この時何となく緊張していたのがいけなかった。支えていた方の手から箱がするりと抜けて机にぶつかる。そのまま弾んで畳へ落ちた。
「あっ!」
箱は畳の縁に落ちるや、鈍い金属的な音を立てながら段階的に崩れていった。早苗が慌てて拾い上げると、箱はもはや整然としたかつての形状ではなく、平たくT字に展開された形に変貌していた。
取り返しのつかないことをしてしまったと焦りながら、かつての箱を拾い上げる。何とか元の形に戻そうと、展開面の端を指で摘み上げて、慎重に折り目を辿りながら、もう一方の面に近づけてみる。
謎の引力と共にバチンという音。箱の面と面は何事もなかったかのようにそのまま接着した。異常に頑強だった各面は実は初めから磁力によって結合していたのだろうか。早苗は胸を撫で下ろすと当初の予定通りに箱を組み立てていった。
これで完成! 早苗は最後の面を箱に近づける。
しかしその時彼女は、にとりがガスバーナーによってつけた薄い黒い焼け跡が、今度は箱の内側にあるのに気が付いていなかった。
早苗が箱を閉じた途端、彼女の視界は闇に覆われた。
「一体なんなのよ。急に夜になったじゃない。何というかデジャブよ! デジャブ!
「はあ」
「……取り乱してゴメンナサイね、状況報告を」
「紫様、それが、なんといいましょうか、突如として外との境界部分に丁度重なるように、未知の金属で構成された壁が出現したようなのです。天井も地面も四方八方です。とりあえず橙に原因究明を任せましたが、現在調査中で全く手がかりなし。また、同時進行で壁への攻撃も試みていますが、こちらも不可能のように思われます。鬼の怪力でもビクともしません。河童の技術屋連中は何が楽しいのか嬉々として分析、破壊方法を模索中です」
「あなたの予想は?」
「未知の金属と聞くとやはり月を思い浮かべずにはいられません。また、これは明らかに幻想郷への攻撃のように思われます。こうした鳥の羽を毟るがごとき陰惨極まる理解不能な手法はあの強迫観念じみた潔癖を患ってる哀れなイカれ連中の好みそうな手のように思われます」
「何か根拠は?」
「すみません、特には」
「……まあいいわ。他に何も思いつかないし。駄目元で月連中に一筆したためてみるわ。誰かに届けさせて頂戴。それと、試しに一人潜り込ませてみて。分かってると思うけど居なくなっても構わない子ね」
「承知しました」
その日、全てが蒸発しそうな悪魔じみた気温なのも相まって、男は叫びながら駆けずり回りたい病的な衝動に襲われた。しかし程なくして男はショックから立ち直る。貼られたバスの時刻表を見るに、どうやら明治温泉入口までは大体半時間程でつくらしい。ならば徒歩でも充分日の入りまでにはつくだろう。旅は進んで非日常に揉まれるということ。ならばこうした苦労も旅の醍醐味ではないか。この試練を乗り越えた後に相対する、御射鹿池の水鏡に姿を写す夕日の橙色はさぞや素晴らしいに違いないと、男は張り切った。駅の売店でポカリスエットとスニッカーズを二本ずつ買って、モンベルのボストンバッグに入れると駅に置かれていた地図を一部手に取り、それを頼りに歩を進めた。
ところが長野の山道は凄まじかった。鉄鋼業という仕事柄、一日中歩き回ることも少なくはなかったが、だからといって炎天下の中上り坂を淡々と登り続けるわけではない。特に目印のない曖昧な地図を頼りに、孤独感と闘う必要もない。猛暑の中一時間程ぶっ続けで歩くと、男は肉体的にも精神的にも参ってしまう。しかし男の生真面目な性格が休憩することを許さなかった。男は黄泉を歩く亡者のような心持ちでどんどん山奥に入っていく。
さて一体どこで間違ったのか。いくら進んでも、地図に描かれた茅野市尖石縄文考古館が見えてこない。あるのは太く青々とした木々と蝉の死骸ばかり。ひょっとしたら俺は道に迷ったのかもしれないぞ。そう思った時には、男は殆ど舗装されていない道に足を踏み入れていた。
知らない土地に一人放りだされる。その上飲み水や食料は限られている。男の頭に浮かんだのは先程男を癒やした例の教訓「旅行かくあるべき」ではなく、死ぬかもしれないという恐怖感であった。現実の死に相対した途端、先程まで死に体だった身体はとっさに力を取り戻し、気が付けば男は走っていた。だがその決死の努力も志向性が正しくなければ意味がない。男はどんどんどつぼに嵌っていく。訳も分からず道なき道を風のように進んでいた。頭では冷静になろうと言い聞かせているのだが、身体が全くいうことを聞かない。恐怖の反対には死が待っている。そんな気配をひしひしと感じる。俺は猟師に追い詰められつつある獣と変わらない。誰か俺を止めてくれ!
こうした願いを神が聞き届けたのか、男は何かに足をとられ物凄い勢いで転んだ。
「ぎゃっ」
男は受け身もとれずに、顔から地面に叩きつけられた。その時口内を切ったらしく血液の生臭いのが口中に広がった。切れた箇所を舌で舐めていると急速に落ち着きを取り戻していった。
危ない危ない、俺は錯乱していたようだ。しかし一体何に躓いたのだろうかと、男は顔を擦りながら訝しげに振り向く。そこにあったのを見てギョッとした。黄昏の草山に座していたのは、山中の自然とは明らかに対極の人工物であった。脳が混乱をきたすほどの完全なる立方体。偏執的に思えるほど加工された表面の鉄色。締結部品はどこにもなく鉄板一枚を未知の力で折り曲げて作ったように思われた。
この立方体は男に対して信号を発する。私を見ろ! 私を見ろ!
仕事中毒のこの男はこの金属の箱を手にとり、飽きるまで散々眺めた後、丁寧にタオルでくるんでボストンバッグに収めた。
そうだ、これは予知であり暗示に違いない。この常軌を逸した箱を手に入れた以上、俺はここでは絶対に死ぬことはないだろう。この物質を人間社会に持ち込むことがこの旅の使命だったのだ。そうだ、そうに違いない。振り返ってみると俺の行動はどこか妙だったように思える。テレビの自然風景を見て感動した? そんなことが生まれてこの方一度たりともあっただろうか。観察より想像。自然より人工物。だから俺は鉄鋼業の仕事をやってるんじゃないのか。全てはこの為、ここで俺が発見する為に何か神がかり的な作用によって俺はこの地に訪れたのではない
のか。
極度の疲労からくる神経過敏だろうか。男は急に愉快になった。先程まで感じていた不安など妄念の後ろ盾によって吹き飛んでいた。それどころか、彼の悲観は完全に反転したようで、体中から満ち溢れる絶大な歓喜の波。真の喜びというものは直前の徹底的な不幸と偶然によってもたらされる相対物質であるのだと男は思った。
しかし、肉体的な疲労は精神でどうこうなるレベルを超えて深刻なものだった。気持ちではこのまま走って帰宅もできそうな塩梅だったが、どうしてもこれ以上一歩も歩けそうにない。いっその事ここで仮眠をとってしまおうか。夏なのだから凍死する心配もない。暑さも木陰に入れば幾分ましだ。
男はふらふらと吸い寄せられるように、一本のしっかりとした木の幹に身を預ける。鞄に入れた例の箱の所在を再度確認する。被っていたトレッキングハットを目元までおろすと、先程までボストンバッグで塞がっていた手持ち無沙汰な両手を頭の後ろに組んであてる。すると急激に体が沈み込んでいくような感覚に襲われ、殆ど暴力的な睡魔に襲われた。
男は久しぶりに夢をみた。偶然に未知の金属を入手したせいだろう。男は作業服を着ており、正面のベルトコンベアから次々に流れてくる金属片をぼうっと眺めている。身体は石の様に重く動かない。だがそれも束の間、光り輝く立方体が視界に入るとその麻酔の効果は嘘のようになくなってしまう。男は機械的にその箱を掴み、横にあった見慣れた機械に乗せる。
プレス機に無理に押し付けられて、渋々ながらもその形を変貌させる白銀の箱。
歪んだ裂け目から、男はその中身を覗き見た。
盆休み、遥々東京から長野に観光にやってきた某鉄鋼企業に務めているこの男の目的地もそこだった。偶然見ていたNHKの特集で一目惚れしたのがきっかけだった。ただし男はまるっきりの旅行初心者で、ディズニーランドに遊びに行くような心持ちで出発したのがいけなかった。男は公共交通機関というのをまるっきり便利な魔法の絨毯か何かだと信用しきっていたのである。
東京駅から茅野駅までは特急あずさのお陰で簡単だった。指定席で寛ぎながら懸賞雑誌のクロスワードパズルを六問続けて解いて、居眠りをしていたら到着した。後は茅野駅から出ている奥蓼科渋の湯線に乗車して明治温泉入り口のバス停留所で下車すれば、テレビでみたあの神がかり的な絶景、大自然と御射鹿池に映り込む大自然の鏡面世界、あの神秘的なシンメトリーの境界線を堪能することができる筈だった。
男の乗車している特急あずさが茅野駅に到着したのが正午過ぎだった。そこから男は折角の旅行だし何か美味いものでも食べようかとうろうろする。結局駅構内の定食屋で馬刺しの三種盛り定食を平らげる。想像以上の量に重たくなった腹をさすりながら、そこからやっと一番のバス乗り場に向かった。男が最終のバスを逃したことを知ったのはすぐだった。
一
どんなに物ぐさな人でも、ふとした拍子に、目についたものから片っ端に棄てたくなるような衝動に駆られることがある。この理由は多岐にわたる。誤って箪笥の裏側にボールペンを落としてしまい、その禁断の裏側を覗いてしまった時だったり、部屋の隅に拳大の埃を見つけた時だったり、はたまたやりたくもない仕事からの逃避の口実だったり。
そして、例のごとく東風谷早苗も熱にうかされるように、自室の押し入れから片っ端に中の物を出していた。机の上はすでに綺麗に片付いている。生来の潔癖な性格が働いて、彼女もまた徹底的に掃除をする腹である。
畳の上にはまたたく間に敷布団や布団乾燥機、ティッシュペーパーの束、その他諸々の雑貨で溢れかえった。汗だくになりながら押入れの中を空にすると、出したものを大きく三つのグループに分けていく。すなわち、「使うもの」「使わないがとって置きたいもの」「使わないもの」の三つである。ちなみに、掃除が苦手な人はさらにもう一つのグループ「使うかもしれないもの」という九割無意味な選択肢が出現する。
早苗はてきぱきと作業を進めた。自分のことながら、よくもまあこんなに貯め込めるもんだと、次から次へとガラクタを仕分けしてビニール袋につめこんでいく。漫画本の誘惑にも気がつかず、殆どの作業を終わらせてしまう。
一息つくと、何気なくガムテープで封がされたみかん箱が目に入った。これってなんだっけ、と早速中身を改めてみると、途端に彼女の胸中は懐かしさでいっぱいになった。けん玉やおはじき、遊び方が分からないが何故か集めていたビー玉。シナモンロールの絵の本や、綿が出かかったフシギダネのヌイグルミなど子供時代の宝物がぎっちりと詰まっていた。
彼女はけん玉を手に取る。ひとつ試しに大皿に玉をのせてみようとしてみたが、これが何度やっても皿が玉を跳ね返してしまう。これが十年前ならば、中皿と大皿に玉を、それこそうさぎとかめの童謡を唱和しながらに自在に行き来させられた。彼女は何だか過去の自分を裏切っているような気持ちにさせられ、ダンボール箱にけん玉を押し込む。
その時ふと、ダンボールの底にあったとあるものが早苗の目にとまった。手のひら大ほどの立方体である。鉄か何かでできているのか表面は銀色一色。こんな玩具持っていたっけと、首を傾げながら早苗はその物体に手を伸ばす。ずしりとした重さに驚きながらも、ダンボールから取り出してみて、なんとか思い出そうとよくよく見てみる。しかし、どう頭を捻ってみても全く覚えがない。そもそも用途が全く分からない。何か大型の機械の部品にも思えるし、何かSFチックな部屋のオブジェにも思える。何れにしても子供の玩具にしては上等な代物に思えた。
それでも何か手がかりがある筈だと、両手でくるくるとこの謎の物体を回してみる。しかし見れば見るほどこの立方体の面妖なこと。表面にはちょうど方眼用紙のような四角形が、凝視せねばと分からない程の細さでびっしりと掘られている。もし人の手によってこの模様が拵えられたものならば、きっとその人物は狂ってるのだろう。そして現実で狂気の存在を示唆するものなど、子供の玩具であるはずも無い。
また、振ってみて分かったことだが、どうにもこの立方体の中に何か入っているらしい。というのも、傾けると内部で何か転がるような感触が伝わってくるからだ。となればこれは箱ということになる。だが、それにしては蓋らしきものはどこにもない。六面全て同じ面に見える。加えて蝶番らしきものも見当たらない。一体どうやって入れたのだろうか。
この摩訶不思議な物体は早苗の好奇心を強く刺激した。一体中にどんな素晴らしいものが入っているのだろう。この箱の厳重な造りからして、中のものは更に常軌を逸した珍品に違いない。早苗は早速開封しようと試みる。余りにも手がかりが無いのが、箱根土産の寄木細工を思わせた。ならば当然何か仕掛けがあるのだろう。どこか動かせるところがないか細かく調べてみる。箱のあちこちを叩いてみて音が変わるところがないか調べてみる。押すと凹むところがないか、親指の腹で押しまくってみる。転がしてみる、投げてみる……。彼女の苦労とは裏腹に、窓から差し込む西日は部屋の温度を無慈悲に上げ続ける。
そして、一時間ほどこねくり回したところで、早苗はとうとう音を上げた。こんなの開く訳がない、もう壊してしまおう。
早苗は箱を携えて台所に向かった。早足で廊下を歩くと、洩矢諏訪子と出会い頭で危うく衝突しそうになった。
「わあ、すみません」
「いいって、いいって。ほら、私のアイスは無事なんだし」
諏訪子は手のひらをヒラヒラさせて、片手に持っていた水色のアイスキャンディーを指差した。
「それで、そんなに慌ててどうしたのさ」
「はあ、それがですね」
早苗は掃除中に見つけた不思議な箱について説明する。諏訪子にこの箱について見覚えがないか聞いてみたが、案の定空振りだった。
「でも、壊しちゃうの? なんか勿体なくない? こんなに綺麗なのに!」
「でも諏訪子様、この箱の中身気になりません? 私はとんでもなく高価なもののように思えるんですよ。とりあえず、入れ物より中身が安い何て話は聞いたことがないですし。だから缶切りか何かでこうやって……」
そう言って早苗は箱を開けるジェスチャーをした。
「ふうん、ねえちょっと貸してよ」
「別にいいですけど壊さないでくださいよ。あれ、壊してもいいのか」
早苗は首を傾げながら箱を手渡した。
背の低い諏訪子は箱を頭の上に掲げて、お札の透かしを確認するような格好でじろじろと箱を観察する。ひっくり返して指で弾く。耳を箱にくっつけて音を聞いてみる。
「あのう、何か分かりましたか?」
あまりに真剣な諏訪子に対して、早苗は恐る恐る質問する。
「ん-? これ缶切りじゃ無理だよ。超頑丈」
諏訪子は箱を手のひらで何度か叩いた。
「ええっ、本当ですか?」
「うん、プロに任せた方がいいんじゃない?」
「はあ、プロですか? 箱開けの?」
「そうそう。餅は餅屋、箱開けは技術屋だよ」
二
河城にとりが渓流釣りに持ってきたその釣り竿は素人目からしても恐るべきものだった。間違いなく全長は十メートルをゆうに超えている。それにも関わらず華奢な体躯の彼女が軽々と振り回しているのだから、きっとその釣り竿は羽のように軽いことが伺える。きっとカーボンか何かでできているのだろう。だが釣り竿から彼女の足元のバケツに目を移してみると、全く釣れていないことが分かる。おそらく彼女は形から入るタイプなのだろう。リアリストのメカニックらしからぬ性格に思えたが畑違いの領域であることを鑑みると特に不思議なことではない。
にとりは腹立たし気に空のバケツを蹴っ飛ばした。バケツは綺麗な弧を描いて陸地に着地してそのまま坂道を転がり始める。にとりはしまったと思い、河の流れに足をとられながら慌てて川辺に戻る。どうして技術屋の私が腹の虫と格闘しながらこんな惨めな気分にならないといけないのか。にとりはへとへとになってようやくバケツに追いついた。再び川に戻って釣り始める気にもならなかったので、ひっくり返して椅子代わりにした。頬杖をついて川の流れが速いのをぼうっと眺める。
しばらくそうしてると、東風谷早苗が対岸をうろうろしてるのが見えた。珍しいこともあるもんだと、にとりは立ち上がって大きく手を振ってみる。すると驚くべきことに早苗が靴下を脱ぎ始め、足先を水の中に入れて川を渡ろうとする。にとりは慌てて手で制して、自分がそっちに行くと身振り手振りで指示をした。
「ちょっと。この辺、川の流れ速いんだから危ないよ。流されちゃったら洒落にならないでしょ」
にとりはやっとの思いで向こう岸にたどり着くと、くたくたになりながら早苗に言った。
「いや、あの、すみません。ずっとにとりさん探してて、見つけたら嬉しくなっちゃいまして」
「私を探してた? そりゃ何でまた。居間のテレビでも壊れたの?」
早苗は押し入れで発見した不思議な箱について、それから自分の力ではどうやっても開きそうにないことをにとりに説明した。
「それで、これが問題の箱なんですけど」
早苗が巾着から取り出そうとするのをにとりが遮る。
「いいって、ここで出さなくても。私はプロ中のプロだよ。話を聞けば大方想像が出来るもんだよ。材料も性質も開け方も。さあ、早速私の工房に行こうか。付いてきて! 開けゴマって感じて簡単に開けてあげる」
今年の夏は病的に暑かった。殺人光線が頭上から容赦なく降り注ぐ。この悪魔の光線によって私の身体が溶けている! 大量に吹き出す汗は、自身の身体がバターか何かでできてるのでは無いかと早苗に錯覚させるほどだった。足下の木漏れ日の模様も、夏らしさを遥かに通り越してサタニストが好んで描く魔法陣か何かに見えた。息苦しくなるような熱風が、時折顔に直撃した。それでもにとりの背を追っていくと道は次第に険しくなる。鉄鍋のごとき岩場を超えると、古めかしい石橋が現れた。その向こうに工房の煙突が煙を、儀式めいた調子で煙を天に送り込んでいる。やっと到着したと早苗がため息をつくが、先を歩いているにとりの歩調は緩まなかった。
「ねえ、ちょっと!」
と早苗が悲鳴をあげる。
「いったいどうしたっていうのさ」
にとりは正面を向いたまま返事をする。
「にとりさんの言ってた工房ってここじゃないんですか?」
「いやまだまだ先だよ。あれ、言ってなかったっけ。最近独立したんだよ、私。身内のゴタゴタとか、天狗に上前をはねられるのが癪でね。それにほら、こういう何か一芸を軸にした共同生活のコミューンってちょっとカルト的じゃない? ジョーンズタウンとかヘブンズゲートみたいで」
「はあ?」
「つまり、閉鎖的な空間にいると、視野が狭くなるってこと。私みたいな発明家にとっては致命的でしょ?」
「はあ、そういうものですかね」
「いいから、とりあえず付いてきてよ。って言ってもすぐそこだけど」
それから再び山道に入り、しばらく歩くとようやくにとりの言う工房らしきものが見えてきた。ただその姿は先程あった権威的な石造りの工房とは似ても似つかない。建物の外壁は色あせやひび割れが目立ち、所々塗装が剥げていた。木製の部分は腐りかけており、触れたところから崩れそうだった。扉の蝶番は片方が外れかかっておりその隙間から暗闇がこちらを覗いている。
「まあ、見てくれは悪いけどさ」
にとりは早苗の心を見透かしたように素早く早苗の言葉を牽制をする。おかげて彼女は何かポジティブな感想を述べる機会を見逃した。
ボロの中身は早苗の想像どおりである。腐った木片が散らばっている。錆びた万力が申し訳なさそうに作業台に固定されている。床が所々抜けてており、床下に生えているのであろう雑草が飛び出している。恐らく雨漏り対策なのだろう、マグカップが不自然に床に並べられている。ふいに早苗の頭に社会科の授業で習った日本国憲法の例の心強い文言「健康で文化的な最低限度の生活」が浮かんだ。
にとりは立て掛けてあったパイプ椅子の一つを広げると早苗に座るように勧めた。
「お茶でもいる? 貰い物だけど美味しいよ」
「それではいっぱいだけ」
手渡された湯呑には水出しの緑茶がはいっている。早苗はそれを一息で飲んでしまうと、ようやく生き返った心地になった。
「ありがとうございます」
「うんうん、川が近いから水は無料なのは有り難いよ。それじゃあ早速問題のブツを見せてよ」
早苗から受け取ったものを手に取ると、にとりは最初こそぺたぺたと両の手で触っていたが、やがて食い入るように見つめ、そのまま石像のように動かなくなってしまった。そのまま五分、十分。早苗は声をかけるべきか迷ったが、河童というのは徹底的に技術屋であることを思い出した。触らぬ神に祟りなしと、とにかく刺激しないように放っておく。
退屈してきたので窓の外でも眺めようと思ったが、浴室でもないのに曇りガラスが嵌め込まれていた。窓枠にハエトリグモがくっついていたので、気味が悪いと思いながらもその動向を眺ようと目を向けた。しかしその蜘蛛もにとり同様に動こうとしない。もしかしたら、既に死んでいるのかもしれない。早苗が恐る恐る手を近づける。
「あー、まあ、大丈夫でしょ」
にとりの間延びした声で早苗は我に返った。
「えっ、何がです?」
「何がって、これ開ける話でしょ。壊しちゃってもいいんだよね。もしかしたら、中のものがちょっとダメージ負うかもだけど。いや、そこは上手くやるつもりだけど万が一ってのがあるからさ」
「その時はしょうがないと思って諦めますよ。これ開けられるの幻想郷じゃにとりさんぐらいだと私思ってますし」
「うんうん。早苗はやる気にさせるのがうまいね。よし、任せてよ」
にとりは万力で箱を固定すると、机の下の工具箱から細長いノズルのようなものを取り出す。
「何ですかそれ」
「んーまあ見ててくれよ。それより早苗は南京錠の開け方って知ってる? あれって頑丈そうにみえて実は簡単に開くんだよ。こう、スパナを二つ引っ掛けて、てこの原理でこうやって捻じ切っちゃうんだよ」
にとりはそう言って両手で鋏を開くような格好をする。
「ふーん。鍵をなくしちゃった時は便利そうですね」
「まあね。でも高いやつはそのやり方じゃうまくいかないんだ。だからそういう時は温めるんだよ」
にとりはノズルの下にカセットボンベを取り付けた。
「こいつのマックスの火力でしばらく炙り続けたら、原型を留められるやつなんてまずいないね。しばらく時間かかるし将棋でもやって気長に待とうよ」
ガスバーナーの轟音、それと駒の音の小気味よい音が殺風景な部屋を満たした。にとりは技術屋らしく変化を好む振り飛車党で、得意の四間飛車で早苗を抑えこもうとする。それを見て早苗は穴熊囲いを目指していく。一度穴熊が完成すれば崩すのは至難の技である。にとりにとって真綿で首を絞められるような苦しい展開。じわじわにとりの玉が追い詰められて捕まった。そしてこの展開が三回。同じ負け方を三度も味わえば誰だって嫌になる。
「ねえ、ずるだよずる。ルール改正でイビアナ禁止にしてくれよ」
にとりは盤上の駒を腹立たしげにかき混ぜた。
「意味不明なこと言わないでくださいよ。大体、にとりさんが呑気に銀冠まで囲うからですよ。急戦だったらこっちもキツいでのに。四間飛車に拘るのでしたら、藤井システムやってみればいいじゃないですか」
「居玉のまま戦うやつ? 私、早仕掛けやなんだよ。将棋の醍醐味って、ガチガチに囲まれた相手の壁を木っ端微塵に破壊するところでしょ? 私は暗殺じゃなくて戦争がしたいの」
「その割には受け一辺倒でしたけど」
「うるさいなあ、もう。いいよ、私の本来の仕事は相手の陣地じゃなくて、早苗の持ってきた箱をぶっ壊すことでしょ? ぼちぼちいい頃合いじゃない? どうなってるのか見てみようよ」
にとりは逃げるようにして立ち上がる。早苗も慌ててそれに続く。ガスバーナーの燃焼音が聞こえなくなったと思えば、次いでにとりの間の抜けた声。
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもないよ。ほら!」
にとりは高温になった箱を素手のまま掴んてしまい、悲鳴を上げる。軍手をはめて万力から箱を取り出して早苗に見せる。
驚くべきことにあれほどの業火に長時間晒されたにも関わらず、箱にはほんの僅かに薄っすらと黒い焼け跡がついただけで、特に形状に変化は見られなかった。
「ありゃ、駄目っぽいですね。他に開ける方法あります?」
しかし早苗の質問は耳に入らないようで、にとりは何か一心不乱に考えを巡らしている様子だった。やがてにとりは気味が悪いほど丁寧に箱を作業台に置くと、引き出しから算盤を出してパチパチと弾き、その後軽くうめき声を上げた。
「ねえ、早苗、一つ相談何だけどさ」
「何ですか?」
「この箱売ってくれない? 開けられたら中のものはちゃんと渡すからさ」
「えー、だって、そんなの。大体にとりさんお金あるんですか?」
「そこは何とかするよ、労働金庫からまとまった金額は借りられると思うし」
「でもにとりさんって今はフリーランスなんでしょう?」
「あ、じゃあ、昔の仲間からカンパでもなんでもして集めるからさ、ねえ、いいだろ」
あまりににとりが必死に懇願するので、早苗は譲ってやってもいいように思えた。しかし、プライドの高いにとりがここまで食い下がるということは相当なオーバーテクノロジーなものに違いないぞと、打算的な心理が早苗の決断に働いた。同時に神事に携わる巫女として神秘の解明に対する反目という潔癖な心理も働いた。
「とりあえず、一旦持ち帰っていいですか?」
早苗が素早く箱を手ぬぐいで包んでしまうと、巫女服の袖口にいれてしまう。
「じゃあじゃあ、手形でもなんでも切るからさ。ねえ、お願いだよ」
「ちょっと、袖掴まないでくださいよ。開けるの失敗しちゃいましたけど、今度お礼に行きますから。だから離してください!」
早苗はにとりを振り払うと早足で工房を後にした。にとりが後ろで何か言っていた言っていたが悪いと思いながらも聞こえないふりをした。足元を掠める草花の湿った香りがやたらと彼女の鼻についた。
やっとの思いで神社につくと、早苗は自室に飛び込んで勢いよく襖を閉めた。周りに人がいないのを何となく確かめた後、心臓の鼓動が落ち着くのを待ってから、袖付けから例の箱を取り出した。どうしようかと考えて、結局置物にすることにした。早苗はとりあえず、箪笥にのせたポストを模した貯金箱の隣に並べてみた。離れて眺めてみると、旅行先で衝動買いしたお土産を飾った時のような何となく場違いな感じがある。
早苗はふと机の引き出しに兎のシールが入っていたことを思い出した。とりあえず適当に貼ってみると銀色の上に白い兎と、月を彷彿とさせる妙な置物になった。彼女はこれをとても気に入ったようで、ニマニマと暫く眺めた後にそのまま片付けを再開する。殆ど片付いてしまうと、タイミングよく階下から夕飯が出来たという早苗を呼ぶ声。彼女は勢いよく返事をした。
三
翌日の天気も焼けるような快晴だった。天然サウナ内で元気なのは油蝉ぐらいはもので、宙に漂う空気ですら動くことを拒むように、重く湿っていた。
昼飯の冷や麦のおかげで多少涼しくなったと思えば、廊下に出た途端にそうした貯蓄は破滅的な暑さに蒸発させられた。早苗は早足で階段を登り、唯一クーラーのある自室に向かう。
午後の予定は特に何もなかった。延喜式の勉強でもしようかと思って学習机に向かう早苗だったが、貸本屋で借りてきた漫画本についつい手が伸びてしまい、気がつけば畳に寝転がっていた。結局一冊丸ごと端から端まで読んでしまい、本を閉じる頃には若干の後悔に囚われた。しかしそれはすぐに「常識に囚われなかった」というあまりにも能天気な事実として置換された。早苗の生来の生真面目な性格はありとあらゆる怠惰に対して感情論以外の理由を要求する。この無理難題に対して、幻想郷に蔓延する一種のタオイズムめいた思想は、彼女にとって絶好の自己暗示の材料となった。
早苗は漫画本を棚に戻そうと起き上がった。そこでふと、不思議な光景を目の当たりにする。あのどうやっても開かなかった銀色の金庫、すなわち例の箱がどういう訳か上の面を蓋にしてぱかりと開いていたのである。
早苗は不安から胃に痛みを感じた。これは一体どういうことだろう。昨夜の時点では間違いなく閉まっていた。今日の朝は覚えていない。ならば夜中のうちにひとりでに開いたのか。しかし、そんなことは起こりうるのか。いくらにとりの操作が後をなしたとしても、飲み込み辛い結論であった。となれば考えられるのはひとつ。夜のうちに誰かが部屋に忍び込み、どうやってかは不明だがともかく箱を開けたのだ。外部からの干渉なしに箱が開くはずがない。
早苗は恐る恐る箱の中を覗き込む。箱の底が見えるのみで中身は空。持ち上げてみると昨日と比べて明らかに軽くなっている。彼女は身震いをした。これを開けた謎の人物が盗ったに違いない。
若干の吐き気をこらえながら早苗はのろのろと部屋の窓に向かっていく、これで鍵が開いたままだったら泥棒に入られたのはほとんど確定のように思われた。
呼吸を整えながら目を瞑る。窓枠についたクレセント錠に触れてそっと回転させてみる。すると小さなカチリという音。
早苗は困惑しつつもう一度慎重に錠を引っ張ってみる。わずかな抵抗を感じて、彼女はようやく安堵の息をついた。鍵は確かにかかっている。それでも、彼女はもう一度、そしてもう一度と同じ動作を繰り返し、何度も確認せずにはいられなかった。
ようやく早苗は冷静さを取り戻した。とにかく寝ている間に泥棒が忍び込んだという線は薄くなった。あと考えられるとすれば、悪戯好きの諏訪子が寝ている間に解錠したというものだが、こちらの可能性もやはり薄い。というのも、早苗にはこうした悪ふざけをした時特有の、常時ニヤニヤしている諏訪子の得意げなあの顔を確実に看破できる自信があったからである。
それでは真相はどうなのか。どう頭を捻っても考えつきそうにない。先程まで感じていた恐怖心はもう欠片も残っていなかったので、早苗は次第にまあいいかという気分になっていった。水は下まで落ちきれば後は貯まるばかりである。この箱だけ河童に売り払ったら、しばらく小遣いに困らないぞと気分が明るくなる。早苗は早速キャンバスノートを広げて、まだ得てもいないお金の使い道を思案した。里で流行りのスイーツから旅行計画まで触手が伸び、気が付けばノートのページは鉛筆で黒くなっていた。
完成するとしばらく満足げな調子で早苗はこの成果物を眺めていたが、ふと適当にあしらってしまったにとりのことを思い出した。彼女はばつの悪そうにノートを閉じて引き出しにしまった。
四
子供以外、必然的に持つことを余儀なくされる秘密という重り。どれだけ日向を歩こうとしても、雇用形態における金銭の授受が発生した時点で秘密の大小はさておき、そこには必ず何かしらの口止め料が含まれてしまう。
しかし、こと創作に関する秘密はこれらとは全く種類が異なってくる。あれは一種の自罰的な性格を持った秘密であり、同じだけ人に言いふらしたいという気持ちが生まれてしまう。それらが半永久的に内面でせめぎ合うので質が悪い。この時間が長ければ長いほど、秘密は熟成され、意図しないところで秘密が漏れたときのダメージはひとしおである。そしてこの類の秘密は早苗も持っていた。
早苗が毎晩少しだけ夜ふかししてやっていたのは詩作である。これは本居小鈴の影響で、貸本屋で借りた詩集の趣味が偶々あったからである。時折集まって書いた詩を見せあって、お互いの解釈を共有した。
といっても、彼女達が気に入って読んでいたのは年頃の女学生が好むような、現実の延長という感じがするフロストやディキンソンではなくポーやボードレールといった幻想的な退廃美を追求した暗いものが殆どであった。この世間を挑発するような作品群は、作品をそれ自体の魅力から、次第に彼女達の結束をより強く固めるという主題とはずれた地球平面説的な副作用の方が彼女らの間で重視されていった。勿論、この事は互いに感じつつも絶対に口には出さなかったが。
空気の澄んだ夜の時間、早苗は詩作をするのに大変な注意を払った。だがその情熱は執筆ではなく、まるで犯罪者のように諏訪子や加奈子に隠匿することに注がれた。
彼女らが寝静まったのを確認した後、完全に寝入るまで念の為にさらに少し待つ。自室の二階に向かう階段の踊り場に古新聞の山を置く。自室の襖は完全に閉まっているか強迫めいた執拗さで何度も確かめる。さらに念のために箒の柄をつっかえ棒にする。ここまでやって初めて安心して書くことができた。
だがいくら環境を整えても、詩作とは非常に繊細な種類の作業である。その日の気分によって出来高が完全に異なってくる。その証拠にこの日の早苗は全くと言っていいほど捗らなかった。散々頭を悩ませてようやく一行書き終わると、もういいやと席を立つ。漢字辞典のカバーに詩集とノートを入れてそっと本棚に戻すと、寝る前に水でも飲もうかと襖に手をかける。早苗はふと異変に気が付いた。すっかり閉め切ったと思っていた襖が数センチだけ開いていたのだ。
傍から見れば酷く些細な事なのだが早苗はパニックになりかけた。それほど毎晩、彼女は敬虔に証拠の隠滅に従事していたのである。彼女の脳内にはこの僅かな数センチの隙間から覗き見る血走った巨大な眼の幻想がありありと浮かんだ。
早苗は風のように部屋を飛び出し階段を駆け降りる。そこで自分で置いた古新聞に足をとられ危うく足を踏み外しそうになった。この実質的な身の危険が、逆に早苗を冷静にした。私は何を心配しているのだろう。新聞紙が動いてないなら開けたのは諏訪子様たちじゃないことは明白じゃないか。私が単に閉じていなかっただけじゃないか。
台所で冷えた麦茶を飲むと、早苗は完全に落ち着きを取り戻した。自分の記憶を辿る余裕も出てきた。ところで今日の私はどうだっけ。ちゃんと襖を閉めただろうか。いや、私は確かに今日も蟻一匹通さないように気を遣った気がするぞ。ならば一体どういう訳か。ひとりでに開いたとでもいうのだろうか。「何もしていないのに勝手に開いた」この文言が頭に浮かんだ途端、例の箱のことを意識せざるを得なかった。一度不可解が起きれば、その後に起きた不可解は前者の体系に組み込まれる。それ故にこの襖の出来事も何か箱が関係しているのではないかと早苗が疑うのは殆ど必然であった。
もしかしたら箱が勝手に開いたのは、誰かが外から開けたのではなく、何者かが内から開けたのではないか。つまり何がきっかけか分からないが、その生物が覚醒して
箱から飛び出して、この家のどこかに隠れてるのではないか。そしてこの襖を開けるという悍しいことをしでかしたのではないか。あの月刊ムーでしばしば言及される、謎のオーパーツから訳のわからない生物の封印を解いてしまったのではないか。
想像力の逞しい早苗はこのように思考を組み立てた。これならば全て説明できるぞと、早苗はこの説が正しいことだと自信を深めた。こうしちゃいられないと、早苗は立ち上がったのも束の間、急に睡魔に襲われる。壁掛け時計は丑三つ時をさしていた。ちょっとの間、睡魔と格闘してみた早苗だったが、程なく敗北を喫しまた明日でいいやと横になった。ゴキブリを家の中で発見してそのまま逃げられ見つからないような気持ちの悪さを感じていたが、そのうち彼女は死んだように眠りに落ちた。
五
早苗が組み立てた疑心暗鬼めいた推理は日に日に真実味を帯びていくように思えた。
例えば、早苗が写真立ての裏に置いておいた日記帳がいつもと上下逆さまに立て掛けてあったこと、夕食を摂っていたら、ふと背後から視線を感じたこと。この時、諏訪子や神奈子にも何か気配を感じるか聞いてみたが、早苗の期待していた返答は得られなかった。彼女の内には若干の実存的な不安が現れたが、それは程なくして神秘体験がもたらす僅かながらの優越感へと変換された。
この家を襲う不可解な霊障は私が原因なんだから、私が解決しないといけないぞ。この悪霊を祓ってやると早苗は決意を固める。だがその方法が分からない。彼女は博麗霊夢に相談することも考えたが、自分が洩矢神社の風祝であり実際的には同じ職でなのを思い出し、可能な所まで自力でやろうと考え直す。
では一体どうすれば。散々頭を悩ました挙げ句一時はベランダから家中に塩を散布しようとも考えた彼女だったが、やはり、物事には必ず原因があるのだから、そこから解決方法を導くべきだと、外からやって来た人間らしい折衷的な結論に至った。彼女にとって科学と信仰は相反しない。ただ光源が違うだけの二つの光に過ぎなかった。
早苗は例の箱を机において、学者のような目つきでまじまじと観察する。道具箱から虫眼鏡を引っ張り出してきて、封印の呪文かまたは何か説明書きか何か書かれてないか探してみる。
しかしながら改めて観察すると、この箱を構成する金属は、その光沢といい、硬度といい、完全に常軌を逸していた。拡大して見てみると、金属板の中央部分にはフラクタルめいた幾何学模様が浮かび上がっている。催眠めいたこの模様は、見る角度によって色が変わった。蛍光灯の光を受けて反射する色は、虹色に輝き、この箱自体が未来的な活動力を内包していることを示唆しているように思われた。
ほとんど畏怖の念を抱きながらこの魔術的な箱を手の中で弄っているうちに、早苗はこれまでの不可解な事象の原因が箱の内容物ではなく、この奇妙な恐るべき箱そのものにあるのではないかとふと思った。一番初めのように、きちんと箱を閉めておもちゃの海に沈めてやり、押し入れに封印してやれば万事解決するのでは無いか。彼女は昔夢中になっていた紋切型恐怖映画の数々を思い出していた。心霊現象における特効薬は劇中で何度も紹介されている。
それに加え、こうした全く根拠に欠ける漠然とした思いつきを早苗が実行に移したのには理由がある。幻想郷に来て以来彼女の価値観は徹底的にやっつけられたが、その比重の多くを占めていたのは似たような神職に携わる博麗霊夢の存在である。彼女に殆ど予知めいた勘の鋭さが備わっていることは、誰もが認めるところだが、初めてあの神がかりを目の当たりにした早苗の心境は驚きより嫉妬に近かった。こうした悪感情は当時読んでいたドーキンスのあの有名な本について早苗流の機械論的な解釈をすることによって、一応抑圧できた気がしたが、この胡乱な処方薬は一週間とは持たなかった。驚異的な霊感は早苗にとって巫女の必須条件の一つとなったのである。
早苗は箱を儀式めいた調子で持ち上げると、片方の手でゆっくりと箱のふたに手を伸ばす。この時何となく緊張していたのがいけなかった。支えていた方の手から箱がするりと抜けて机にぶつかる。そのまま弾んで畳へ落ちた。
「あっ!」
箱は畳の縁に落ちるや、鈍い金属的な音を立てながら段階的に崩れていった。早苗が慌てて拾い上げると、箱はもはや整然としたかつての形状ではなく、平たくT字に展開された形に変貌していた。
取り返しのつかないことをしてしまったと焦りながら、かつての箱を拾い上げる。何とか元の形に戻そうと、展開面の端を指で摘み上げて、慎重に折り目を辿りながら、もう一方の面に近づけてみる。
謎の引力と共にバチンという音。箱の面と面は何事もなかったかのようにそのまま接着した。異常に頑強だった各面は実は初めから磁力によって結合していたのだろうか。早苗は胸を撫で下ろすと当初の予定通りに箱を組み立てていった。
これで完成! 早苗は最後の面を箱に近づける。
しかしその時彼女は、にとりがガスバーナーによってつけた薄い黒い焼け跡が、今度は箱の内側にあるのに気が付いていなかった。
早苗が箱を閉じた途端、彼女の視界は闇に覆われた。
「一体なんなのよ。急に夜になったじゃない。何というかデジャブよ! デジャブ!
「はあ」
「……取り乱してゴメンナサイね、状況報告を」
「紫様、それが、なんといいましょうか、突如として外との境界部分に丁度重なるように、未知の金属で構成された壁が出現したようなのです。天井も地面も四方八方です。とりあえず橙に原因究明を任せましたが、現在調査中で全く手がかりなし。また、同時進行で壁への攻撃も試みていますが、こちらも不可能のように思われます。鬼の怪力でもビクともしません。河童の技術屋連中は何が楽しいのか嬉々として分析、破壊方法を模索中です」
「あなたの予想は?」
「未知の金属と聞くとやはり月を思い浮かべずにはいられません。また、これは明らかに幻想郷への攻撃のように思われます。こうした鳥の羽を毟るがごとき陰惨極まる理解不能な手法はあの強迫観念じみた潔癖を患ってる哀れなイカれ連中の好みそうな手のように思われます」
「何か根拠は?」
「すみません、特には」
「……まあいいわ。他に何も思いつかないし。駄目元で月連中に一筆したためてみるわ。誰かに届けさせて頂戴。それと、試しに一人潜り込ませてみて。分かってると思うけど居なくなっても構わない子ね」
「承知しました」
その日、全てが蒸発しそうな悪魔じみた気温なのも相まって、男は叫びながら駆けずり回りたい病的な衝動に襲われた。しかし程なくして男はショックから立ち直る。貼られたバスの時刻表を見るに、どうやら明治温泉入口までは大体半時間程でつくらしい。ならば徒歩でも充分日の入りまでにはつくだろう。旅は進んで非日常に揉まれるということ。ならばこうした苦労も旅の醍醐味ではないか。この試練を乗り越えた後に相対する、御射鹿池の水鏡に姿を写す夕日の橙色はさぞや素晴らしいに違いないと、男は張り切った。駅の売店でポカリスエットとスニッカーズを二本ずつ買って、モンベルのボストンバッグに入れると駅に置かれていた地図を一部手に取り、それを頼りに歩を進めた。
ところが長野の山道は凄まじかった。鉄鋼業という仕事柄、一日中歩き回ることも少なくはなかったが、だからといって炎天下の中上り坂を淡々と登り続けるわけではない。特に目印のない曖昧な地図を頼りに、孤独感と闘う必要もない。猛暑の中一時間程ぶっ続けで歩くと、男は肉体的にも精神的にも参ってしまう。しかし男の生真面目な性格が休憩することを許さなかった。男は黄泉を歩く亡者のような心持ちでどんどん山奥に入っていく。
さて一体どこで間違ったのか。いくら進んでも、地図に描かれた茅野市尖石縄文考古館が見えてこない。あるのは太く青々とした木々と蝉の死骸ばかり。ひょっとしたら俺は道に迷ったのかもしれないぞ。そう思った時には、男は殆ど舗装されていない道に足を踏み入れていた。
知らない土地に一人放りだされる。その上飲み水や食料は限られている。男の頭に浮かんだのは先程男を癒やした例の教訓「旅行かくあるべき」ではなく、死ぬかもしれないという恐怖感であった。現実の死に相対した途端、先程まで死に体だった身体はとっさに力を取り戻し、気が付けば男は走っていた。だがその決死の努力も志向性が正しくなければ意味がない。男はどんどんどつぼに嵌っていく。訳も分からず道なき道を風のように進んでいた。頭では冷静になろうと言い聞かせているのだが、身体が全くいうことを聞かない。恐怖の反対には死が待っている。そんな気配をひしひしと感じる。俺は猟師に追い詰められつつある獣と変わらない。誰か俺を止めてくれ!
こうした願いを神が聞き届けたのか、男は何かに足をとられ物凄い勢いで転んだ。
「ぎゃっ」
男は受け身もとれずに、顔から地面に叩きつけられた。その時口内を切ったらしく血液の生臭いのが口中に広がった。切れた箇所を舌で舐めていると急速に落ち着きを取り戻していった。
危ない危ない、俺は錯乱していたようだ。しかし一体何に躓いたのだろうかと、男は顔を擦りながら訝しげに振り向く。そこにあったのを見てギョッとした。黄昏の草山に座していたのは、山中の自然とは明らかに対極の人工物であった。脳が混乱をきたすほどの完全なる立方体。偏執的に思えるほど加工された表面の鉄色。締結部品はどこにもなく鉄板一枚を未知の力で折り曲げて作ったように思われた。
この立方体は男に対して信号を発する。私を見ろ! 私を見ろ!
仕事中毒のこの男はこの金属の箱を手にとり、飽きるまで散々眺めた後、丁寧にタオルでくるんでボストンバッグに収めた。
そうだ、これは予知であり暗示に違いない。この常軌を逸した箱を手に入れた以上、俺はここでは絶対に死ぬことはないだろう。この物質を人間社会に持ち込むことがこの旅の使命だったのだ。そうだ、そうに違いない。振り返ってみると俺の行動はどこか妙だったように思える。テレビの自然風景を見て感動した? そんなことが生まれてこの方一度たりともあっただろうか。観察より想像。自然より人工物。だから俺は鉄鋼業の仕事をやってるんじゃないのか。全てはこの為、ここで俺が発見する為に何か神がかり的な作用によって俺はこの地に訪れたのではない
のか。
極度の疲労からくる神経過敏だろうか。男は急に愉快になった。先程まで感じていた不安など妄念の後ろ盾によって吹き飛んでいた。それどころか、彼の悲観は完全に反転したようで、体中から満ち溢れる絶大な歓喜の波。真の喜びというものは直前の徹底的な不幸と偶然によってもたらされる相対物質であるのだと男は思った。
しかし、肉体的な疲労は精神でどうこうなるレベルを超えて深刻なものだった。気持ちではこのまま走って帰宅もできそうな塩梅だったが、どうしてもこれ以上一歩も歩けそうにない。いっその事ここで仮眠をとってしまおうか。夏なのだから凍死する心配もない。暑さも木陰に入れば幾分ましだ。
男はふらふらと吸い寄せられるように、一本のしっかりとした木の幹に身を預ける。鞄に入れた例の箱の所在を再度確認する。被っていたトレッキングハットを目元までおろすと、先程までボストンバッグで塞がっていた手持ち無沙汰な両手を頭の後ろに組んであてる。すると急激に体が沈み込んでいくような感覚に襲われ、殆ど暴力的な睡魔に襲われた。
男は久しぶりに夢をみた。偶然に未知の金属を入手したせいだろう。男は作業服を着ており、正面のベルトコンベアから次々に流れてくる金属片をぼうっと眺めている。身体は石の様に重く動かない。だがそれも束の間、光り輝く立方体が視界に入るとその麻酔の効果は嘘のようになくなってしまう。男は機械的にその箱を掴み、横にあった見慣れた機械に乗せる。
プレス機に無理に押し付けられて、渋々ながらもその形を変貌させる白銀の箱。
歪んだ裂け目から、男はその中身を覗き見た。
ちょっと不思議な謎のアイテム化と思いきや想像以上にヤバい代物でした
早苗の心情もそうでしたが、冒頭と最後の旅行者の心理描写に鬼気迫るものを感じられて素晴らしかったです