彼女の音色は、ネガティブな気分に囚われる私に気力を与えてくれた。
あの子の音色は、私の落ち着かない情緒を安らげてくれた。
あいつの音色は、優秀な姉に劣等感を抱く私を励ましてくれた。
あの音色をもう一度聞けたなら、どんなに幸せだろう。
つい先日まで喧しく鳴き散らしていた蝉が数を減らし、人々の耳が若干の平穏を手に入れた頃。空を覆っている分厚い雲を吹き飛ばすような甲高い声が、その館のエントランスに響いた。
「二人とも聞いて!レイラが帰ってくるよ!」
プリズムリバー三姉妹の次女、メルラン・プリズムリバーのその声を聞き、長女のルナサ・プリズムリバーと三女のリリカ・プリズムリバーが顔を出す。
「珍しく里に遊びに行ったかと思えば、突然どうしたのさ?」
リリカが尋ねると、メルランは躁状態なようで、些か興奮した面持ちで説明する。
曰く、人間の里には初秋のこの時期にはお盆という行事があるらしく、そのお盆の間は地獄の窯の蓋が開き、あの世の者たちが現世に帰ってくるのだそうだ。
その話を聞いて、レイラも現世に帰ってくるのではと、急いで館へ戻ってきたのだという。
「いや、地獄の、って、あの子が地獄に落ちてるとでも言うつもり?」
ルナサがムッとした様子で聞き返すが、メルランは急いで首を振った。
「違う違う、そういう言い伝えなだけで、実際は家族とか先祖とか、亡くなった人皆が帰ってくるってことになってるらしいよ。詳しくはわかんないけど。」
「なんだか適当だなぁ」
リリカが呟く。
「とにかく!このお盆って行事、私たちもやってみようよ!最近はレイラのお墓の管理もできてなかったし、丁度いいじゃない!」
「ん、そういうことなら一度やってみましょうか」
「…まあ、ルナ姉もそう言うなら私もいーよ」
二人の同意を得てますます興奮が加速したメルランは、お盆についての詳細を知るのと、必要な道具を買い揃えるため、二人を連れ立って里の方角を向き浮遊する。
秋が近くなり、また陽が落ちてきたために冷えてきた誰そ彼時の空気を、夏のにおいを残した暖かな風がそよ吹く。
空に拡がる雲が夕焼けで朱く染められた頃、里から戻った三人は、遠くに人里を見ながら、レイラの墓へ向かっていた。
レイラの墓があるのは人里とも霧の湖とも離れた、幻想郷を一望できる高い丘の頂上だ。
里の人が言うには、お盆にはまず墓参りに行き、それからお盆の行事内容を行うのだそうだ。
「墓参りもお盆も私たちはしたことないけど、具体的にはどういうものなの?」
メルランが尋ねた。
「あんた里で聞いてきたから提案したんじゃないの?」
「いやー、お盆っていう行事の時に亡くなった人が帰ってくる、っていうとこだけ聞いて、飛んで帰ってきちゃった」
てへぺろっ。そんな音が聞こえた気がする。
「それにさっきまでは何が必要かを聞いて回って、それを買い集めるのに夢中になっちゃって~」
「まったくメル姉は、躁状態になるといっつも周りが見えなくなるんだから。まあそんなことだろうと思って、私たちがバッチリ聞き込みしておいたから、感謝して聞きなさーい?」
三人はレイラによって創りだされて以降、基本的に館から出ることはなかった。
レイラ亡き後も、プリズムリバー楽団として楽器の鍛錬に時間を費やし、里に出向くのは、ライブや生活用品の買い出しくらいのもので、人間の行事というものには疎いままだ。
また、外の世界を知っているレイラも、当時の身の回りには墓参りやお盆の習慣が無かったために、3人にとっては里で聞いた話が初耳だった。
「えっと、まず私が聞いたのは、お墓はあの世と一番近い場所だから、ご先祖様が帰ってくるための玄関口みたいなものなんだって。だから定期的にお墓に行って、お墓をきれいに掃除して整えるのが墓参りらしいよ」
「それから墓参りの時には祈りを捧げて、先祖を悼み感謝を伝えるという目的もあるそうね」
リリカがざっくり答え、ルナサが補足を入れる。
「そうなんだ、じゃあ私たちが定期的にお墓の管理に行ってたのは正しかったわけだ。私たちが生まれた直後はまだ外の世界にいたじゃない?あそこにはお墓参りの習慣とか、死者が帰ってくるなんて逸話も無かったから、こっちに来てから、『綺麗な方がいいから』って始めたレイラのお墓の管理も、ちょっと違和感があったのよね~」
「確かに、お墓に死者の魂がやってくるなんて、考えもしなかったなぁ。でもルナ姉は結構お墓の管理に積極的だよね?」
「あのお墓は、レイラが逝った直後に建てたものだから。…死という形ではあるけど、私にレイラを一番強く感じさせるものなのよ」
レイラの墓を建てるとき、場所を館から離れた丘の上に決めたのはルナサだった。レイラが死去したときに最も憔悴したのはルナサで、しばらくは妹たちとまともに口すらきけなかったほどだ。そして、この墓の前まできてレイラのことを思い出すときは、天に昇ったレイラの魂になるべく近づいていたい、と言ってこの場所にレイラの墓を建てたのだった。
「ふーん………あ、それでお盆については?何をするの?」
「お盆は三日間あってね、初日の夜は迎え盆、三日目の夜は送り盆っていうんだって。迎え盆にはお墓参りをした後、そこで迎え火っていう火を焚く。その火と煙を目印に先祖が帰ってくるから、その後はお迎え提灯に迎え火を移して、その明かりで家まで案内するらしいよ」
「家に着いたら今度はその火を家に置いた盆提灯に移して、送り盆まで絶やさないようにする。そうして送り盆の日には、迎え盆と逆の順序で同じことをしてお見送りするのよ」
「それで手持ちの提灯と部屋置きの提灯があったのかぁ」
「まあ時代によって若干内容も変わってるみたいだから、多少アバウトでもいいとは思うんだけどね、折角だし本格的にやりたいなって」
「なるほどねー」
「お、あれ人里の共同墓地かな?明かりが点き始めた」
メルランがぼんやり見える里の方を指さす。
「あれが迎え火かしら」
「ぽいね。私たちも早く行こ!」
太陽が山の向こうに顔を隠し、世界から赤みが失われてから少しして。三人は、十字架と、名前の刻まれたプレートで構成された簡素な墓の前に到着した。
「まずはお墓の掃除ね。期間が空いたせいで結構汚れてるわ」
持参していた水入りの桶から柄杓で水をすくい、墓石にかけていく。横に置かれた「Layla Prismriver」の刻印が入った石のプレートにも水をかけ、積もった虫の死骸などを洗い流す。
「ここに来てこうする度に、あの頃が懐かしくなるなー」
墓石の周囲に溜まった落葉を蹴って掃きながら、リリカが呟いた。
「そうね~。でも今日は、その懐かしかった頃が戻ってくるかもしれないのよ?懐かしんでばかりいないで、期待しましょ?」
「でも、今日はこれだけ厚く雲がかかっているのに、死者は帰ってくる場所を見失ってしまわないのかしら?」
「そのための迎え火じゃない。私たちが、レイラが無事に家に帰れるように導くのよ!」
「さて、迎え火の準備をしましょうか。確か、まずはこれを地面に置くんだったわね」
墓の掃除が終わり、ルナサの主導で道具をセットしていく。
「それ何?陶器の…器?、にしては真っ平だけど」
「これは焙烙(ほうろく)といって、この上で火を焚くのよ。それから、燃やすものはオガラっていう、麻の茎を乾燥させたものね」
「麻は神聖な植物なの。悪いものを祓い清めて、燃やすと清浄な空間を作るらしいわ」
人里では墓参りについてのみを調べていたリリカに、使用する道具について教えながら、着々と準備を整えていく。焙烙にオガラを着火しやすいように裂いて乗せ、近くには火を持ち帰るためのお迎え提灯を置く。
「それじゃあ、火を点すわよ」
ルナサがマッチに火を点けオガラに近づける。
と、その時、空を覆っていた雲が割れ、丘に銀白色の光のカーテンが下りた。思わず見上げたメルランがそれに見入ったように瞠目し言葉を漏らす。
「―ッ、今日は満月だったんだ………。まるでレイラが帰ってくるための道ができたみたい……」
やがてオガラに火が点き、煙が出始める。
段々と空へ昇っていく煙の細い筋が月光に照らされ、天と地とを繋ぐ青白く光る道が映し出された。
リリカが、その様子に半ば呆然としながら一言、レイラ、と呟き、眼を閉じ、祈るように手を合わせる。
念入りに手入れをされ汚れ一つ無い墓は、月光に照らされ輝いており、その前で静かに燃える火を映し出して、静謐な雰囲気を作り出している。
リリカが手を合わせるのを見て、二人もそれに倣い眼を閉じ手を合わせる。
『『『おかえりなさい、レイラ』』』
満月のスポットライトを浴びながら、火を焚いて墓の前で少女たちが祈るその様は、本当に死者が帰ってきたのであろうことを信じさせるに足る、幻想的な光景だった。
彼女等が眼を開けた時には、既に迎え火は小さくなり、煙も細々と上るのみになっていた。
メルランが燃え尽きそうになっているオガラに気づき、灯が絶えてしまわないよう、慌てて火種を追加し、火の大きさが安定したことを確認してお迎え提灯に移す。
新たに火の点ったお迎え提灯を掲げ、メルランが高らかに宣言した。
「さあ、4人で家に帰ろう!」
墓から離れるにつれ、月光の差す範囲から外れていき再び視界が閉ざされようとする中、メルランの掲げる提灯の明かりが姉妹達の足元を照らしている。
「……!おっと、危ない危ない……、」
「そんなにおっかなびっくり掲げなくても、提灯の火はそう簡単に消えやしないわよ」
間違っても提灯の火を消してしまわないよう、必要以上に慎重になるメルランを、ルナサが呆れたように諭す。
「だって、レイラはこの光を頼りに来るんでしょう?絶対にあの子を迷わせないようにしないと!それにこの提灯、持ち手が長いせいで結構重く感じるのよ」
「それなら私が持ちましょうか?私の方が力は強」「ダメ!レイラは私が案内するんだから!……でもやっぱり重い……」
「浮かばせればいいじゃん」
「「あっ」」
「今夜は私たちが霊を迎える側だからって、自分たちも騒霊(ポルターガイスト)だってこと忘れてない?……それと、レイラを案内するのは私だよ」
自分たちの最も得意な能力を忘れていた二人、特にアドバイスをしたはずが逆に呆れられたルナサは、耳を赤くして眼を逸らす。
と、その隙にリリカは提灯を浮遊させると、自分の側まで寄せ、まるで自分が提灯を持っているかのように掲げた状態で固定した。
「ちょっ⁉ むぅー、しょうがないなぁ…。けど提灯は私たちの真ん中に移動させてよ、その状態だとレイラがリリカ一人に占有されてるみたいでなんかずるい」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら歩くうちに、やがて見慣れた館の輪郭がうっすらと見えてくる。
心なしか3人の足取りが軽くなる。それに合わせて、次第に館がよりくっきりと視界に映し出され、そして門の前までたどり着く。
門をくぐり玄関扉を開ける。
3人は示し合わせたように後ろを振り向き、その目線の先に浮遊する提灯と、きっとそこにいるであろう妹に、改めて、言葉にする。
「「「お帰り、レイラ!」」」
館の大部分の照明はついておらず、回廊となっている廊下の大窓からは、微かに月光が差し込むのみとなっている。
唯一暖かな光に満たされた区画の、その一室から、四つの揺れる影が外に伸びる。
テーブルには四人分の食事が用意されており、そのうちの一つ、手の付けられていないものの席の後ろには、部屋置き型の提灯が置かれていた。
ルナサ・メルラン・リリカの三人は、その日までに起こった様々な出来事を振り返るように話を広げていく。
レイラと別れた後、プリズムリバー楽団を結成したこと。
ある年には春が来なくなり、妙に長い冬になったかと思えば、お祓い棒を持った紅白の少女がやってきて片手間に蹴散らされたこと。
現在では人里やとある紅い館に冥界の屋敷など、幻想郷中の様々な場所で演奏を披露していること。
そんな過去の話をしていると、自然と遡ってレイラの生前の記憶も蘇ってくる。
時折リリカがレイラの席に目を向けて、昔の空気を懐かしむように眼を細めると、ルナサがそれを見て微笑む。そこでメルランが「ね!レイラ!」と話をレイラに振ると、満面の笑みを向けた。
普段纏っている「騒」とは違う「想」が、彼女等を包み込んでいた。
日は高く昇り、湖とその周辺を覆う霧を裂いて光を落とす。
なびく光のカーテンを浴びる湖畔の館からは、何度も繰り返されるピアノの曲の一部が漏れ出していた。
「やっぱりレイラの音とは違うね~。その音色が悪いっていうんじゃないけど、なんか違うって感じ」
「レイラの弾き方の癖なんかは全部覚えてるし、再現もしてるつもりなんだけど、自分でも感じるわ。…うーん、なんて言えばいいんだろう。とにかく、これじゃない。
……以前から大分上達したと思っていたけど、やっぱりこれだけはできないのかなぁ……」
三人は、レイラが生前よく弾いていたグランドピアノの音を再現しようと、記憶から彼女の奏でる音を引き出しながら格闘していた。
「やっぱり、あの子の音はあの子にしか出せないのかしら。せっかくの機会だし、レイラのピアノをまた聞きたかったんだけど………。まあ、仕方ないわ、リリカも、無理言ってごめんなさいね」
「いいよルナ姉、私が胸張って、今ならできるって言ったんだし」
「できないものはできない!うだうだ言っても何にもならないんだから、せめて今の私たちの演奏がどんなもんか、レイラに披露しようよ!
………じゃあ始めるよ?まずはいつもの音合わせから~………」
三人はグランドピアノから視線を外し、各々の楽器を鳴らしていつものように、次に控えたライブで演奏する曲の練習を始める。
練習するのは、彼女たちの代表曲だ。幽霊楽団と名の付けられたその曲は、レイラを含めた四人で考えた、しかしレイラの生前に完成することの叶わなかった曲である。
~♪、…~
サビが終わって間奏に入り、次の曲へ繋げようとした、その時。
ピン、と。
全ての音が途切れ、静寂となった一瞬。
グランドピアノの弦が震えた。
三人ははじかれたようにピアノの方を向き、顔を見合わせ。そして泣きそうな笑みを浮かべる。
次の瞬間、それまで楽譜で決められた通りに再現していた曲は途端に複雑になり、もう1音分、入る余地が生まれる。
プリズムリバー楽団として幻想郷でそれまで作曲・披露してきた曲の数々を、騒霊としての能力をフル活用し、人間の身にはとても再現できないような狂想曲に、即興でアレンジしながら弾いていく。
幻想郷に来てからの長い時を共に過ごし、音楽に触れてきた四姉妹には、最早即興の協奏ごとき、言葉による意思疎通など必要ない。
これは、三人の姉が一人の妹に捧げる再会の喜びの曲であり、プリズムリバー楽団への加入の歓迎の曲。
彼女等の顔からは、先程まで浮かんでいた諦めや寂しさはとうに消え失せ、代わりに悦びに満たされていた。
もし館の外に音楽に携わる誰かがいて、漏れ出る音を聞いていたならば、ピアノがなくバランスも悪い重奏なのに、どこか満ち足りたように感じさせるその音に首を傾げたことだろう。
しかし、流れるように演奏を行う3人の騒霊には、グランドピアノの鍵盤の上に指を滑らせアンサンブルを完成させる、四人目の奏者によって生み出される懐かしい音が、はっきりと聞こえていた。
眼下に広がる郷はその姿を朱く染めており、山々は長い影を落として、一面の朱を宵闇色に塗り替えようとしている。
十字架の向こうのその景色を眺めながら、ルナサはヴァイオリンの弓を弾いていた。
ふと弓を弾く手が止まり、伏し目になる。その瞳には零れそうな憂いを湛えながら、脳裏にはレイラが逝った時の情景が思い返されていた。
ベッドに横たわるレイラから段々と生気が失われていくのを感じていると、大切な妹であり生みの親でもある彼女を失うことへの喪失感が押し寄せてくる。
もともと三人は、レイラの寂しさの穴埋めをするために生まれた存在だった。その後はものの、行動原理がレイラにあるということに変わりはない。
精神体である三人にとって、レイラ、即ち己の存在理由を失うということは、自分たちの消失と同義だったが、ルナサはそれと同等か、もしくはそれ以上に、もう二人の妹を失うことにも恐怖していた。
それに加え、彼女はなまじ三人の中で最も力量があっただけに、どうしようもないとは知りつつも、自責の念にとらわれていた。自分がどうにかできなかったのかと。
そんなネガティブな思いが、彼女の鬱の気質によって増幅された結果、あれほど取り乱してしまったのだろう。
かろうじて、「墓を作りレイラを供養する」という目的を作ることで三人の存在理由を増やし延命措置はしたものの、その後しばらくは何事も手につかなくなってしまった。
「明日の夜には、また………」
そう言葉を漏らしたルナサの手は微かに震えている。
足元の石板を濡らしたそれを見て、苦笑し、呟く。
「やっぱり、貴女の前では、強い姉ではいられないわね……」
眼を閉じ、深呼吸をする。
再び近づく別れにより浮かび上がってきたその思いを、息とともに吐きだす。
レイラ、私たちが今こうして音を奏でられているのは、貴女のおかげ。
正直な話、あのとき…貴女に別れを告げた時、私はあのまま消えてもいいと思ってたわ。
でも、私一人の望みに、あの二人まで巻き込むわけにはいかないから……。
そんなときに、貴女のピアノの音色を思い出したの。
あの音色が、私に新たな命を吹き込んでくれた。プリズムリバー楽団という、新しい存在理由のできるきっかけになった。
私たちが音を奏でるとき、心は貴女を見ている。
それに、貴女ももう、この楽団の一員なのよ。
………だから。これからも、私たちを見守っていて頂戴ね……?
ゆっくりと眼を開く。その瞳には過去ではなく、未来が映っていた。
レイラの部屋は、姉たちの手によって、彼女の生前から変わらずそのままの光景を保たれていた。鏡面台には家族の古い銀板写真が飾られており、その隣には、幻想郷に来てから撮られた、四姉妹のカラー写真も鎮座している。ベッドは毎日丁寧にメイキングされ、その部屋の主がいかに大切に思われているかを窺わせる。
メルランがその部屋を訪れた頃には、飾られた写真などは傾いた陽に照らされ、紺桔梗の影を作り出していた。
ドアをノックしてから静かに開け、懐かしむように見回しながらベッドの横に背中を預けて座り込む。
妹が床に伏していたとき、メルランはよくベッドの横で座って妹と話していた。
彼女の生前と同じふるまいをしていると、まだ彼女は生きていて、自分の背後で眠っているのではないかと思えてくる。
だが昔も今も、それを確認するために振り返ることはなかった。
昔は、ふと振り向いたら息をしていないのではないかという不安から。
今は、そこに彼女の実体は無くても、近くで見守ってくれているであろうことを確信していたから。
こうしてると、レイラと夢について話してた時のことを思い出すなぁ。
レイラがまた元気になったら、あなたのピアノと私たちの練習中の楽器ですっごい合奏をたくさん作ろうって。
あんまり目をキラキラさせて言うもんだから、ルナ姉が焦って練習しようとして、気力が保たなくなってぶっ倒れちゃったこともあったっけ。
リリカはリリカで突然やる気を漲らせて、「全部の楽器をマスターする」とか言って、最後には有言実行しちゃったし。
…結局曲を作る途中であなたは逝っちゃったけど、今日。やっと「幽霊楽団」、完成させられて良かったよ。あれが、私たち4人の、「新生プリズムリバー楽団」の、代表曲だね。
私たちがあのとき音楽を始めたのも、今騒霊の楽団として活動できるのも、そして今楽団が完成したのも。みんな、レイラと、レイラの弾くピアノのおかげだ。
天井を見上げていた視線を下げ、おもむろにベッドの方を向いて枕の横に頭を沈める。
そうして、心底幸せそうに、眼を閉じて、囁いた。
「レイラ、貴女のくれた「躁」は、私にぴったりだったよ。この「躁」の力で、私はみんなをハッピーにできる。でも今日は私を、みんなとの思い出のハッピーに、浸らせて……」
リリカは、ピアノ部屋の隣にある、楽器の保管室に足を運んでいた。その部屋には、以前から館の当主が蒐集していた楽器が保管されており、姉妹たちにより定期的に整備されるそれらは、あたかも当時から時が経っていないかのような良好な状態を保っていた。
余計な日光を浴びせないよう部屋のカーテンが閉め切られ、空いた扉から光が差すのみとなって、空間は薄闇に支配されている。
部屋の中央に立ち、眼を細めて記憶を辿り始める。
そして、楽団の活動を始めた頃を追憶するように、鍛えた順に楽器に念を飛ばし音を響かせる。
ひとつひとつ音を発する楽器達を見ているうちに、かつて自分の心を占めていた曇天と、そこに陽光を垂らしてくれたあいつの声を思い出す。
レイラがピアノを弾きこなすのにつられて3人で楽器を練習し始めたとき、姉たちは早々に己に合った楽器を見つけて鍛錬を重ね、みるみるうちにその腕を磨いていった。対して私は、いつまでたっても「自分の楽器」というものが見つからず、いまいち音楽にのめりこめていなかった。
どんどん姉たちとの差がついていく。そんな状況に私は焦りを憶え、ますます練習に身が入らなくなる悪循環。あまつさえ優秀さを発揮している彼女等と自分を比較し劣等感にも苛まれていた。
ある日一人で楽器を練習していると、あいつがやってきて声を掛けられた。
あのとき何と言われたのかはあまり憶えていない。途中から泣き出してしまい、話を聞くどころではなかったから。
でも、彼女の言葉に救われた気分になって、ひどく安心したことだけは憶えている。
その後、私はある一つの目標を立てた。そのゴールはあまりに遠くて、周りから見れば、何なら姉妹達でさえ馬鹿な奴だと思ったに違いない。実際、3人の前で目標を宣言したときはみんな、目を丸くして、それから呆れた様子だったしね。
でも、私は後悔してはいないし、一度言ったからには全力でやる。そうしてこれまで努力を続けてきた。今や幻想郷にある楽器で苦手なものなどない。
みんなは私が優秀なんだと囃し立てるけど、そんなことはない。わたしはただ、無謀な目標を決めて、そこに向かって愚直に突っ走ってきただけだ。
そしてそれを成せたのは、他ならぬレイラの、あのときの言葉のおかげだ。何と言われたのか、「私」は憶えていないけど。きっと心の奥深い場所、私自身も認識できない核の部分に、ずっと、響いているんだろう。
どれだけ厳しい鍛錬でも、疲れていても。心の中の何かに体を突き動かされて、楽器から手を離すことをやめなかった。今になって思えば、その「何か」こそが、レイラの声、レイラの「音」だったのだとわかる。
今の私があるのは間違いなくレイラのおかげだ。レイラの死を目の当たりにしたときは呆然自失してしまい、何も伝えることができなかった。
きっとこの声は、今も届いているんでしょう?
だから、今、伝えるよ。
ありがとう。
数日間その素顔を晒していた夜空は薄雲に覆われはじめ、少し欠けた月が段々とその輝度を落としている。
眼下の里では灯篭流しが行われているようで、付近を流れる川が暖かい光の帯となっていた。
二日前と同じ場所、同じ時間。三姉妹は墓前で、送り火の準備をしていた。
ルナサが焙烙を地面に置き、オガラを裂いて乗せる。
火を点すため、レイラを導くため再び持ってきていたお迎え提灯から蝋燭を取り外す。
そしてオガラに近づけようとしたとき、リリカが声を発した。
「あっルナ姉、その火をつけるの、私にやらせてくれない?」
「ん、いいけど、なぜ?」
「今度のお別れは、私の手で送ってあげたくて。火をつけたところで何にもならないかもしれないけどね……」
「……わかった。それじゃあ、お願いね。」
「うん」
蝋燭をルナサから受け取り、その火をオガラに移す。
やがてオガラがパチパチと音を立てだし、ぼやけた月に向かって煙が立ち昇っていく。
きっと、レイラは今この煙に乗って、月光を道標に、あの世へ向かっているのだろう。
レイラが逝くときに十分お別れはしたし、十分悲しんだのに。
こうしてレイラの魂が再び天に還ろうとしているのであろうその光景を見て、流し切ったはずの涙が込み上げてくるような気がする。
眼を閉じ、レイラが無事に帰れるよう祈りながら、この幻のような数日間を思い出す。
リリカは思う。このお盆という行事には危ういものだ。一年に一度だけ死者が現世に帰ってくるという話はとても魅力的だ。特に、大切な人を失ってからそれほど時間の経っていない人には良い慰めにはなるだろう。
でも、その人への想いが大きければ大きいほど、直面する二度目の別れの辛さも比にならないもののはずだ。
ちょうど私が今、あの時以降忘れていたはずの喪失感を再び覚えているように。
メルランがお盆の話を持ってきたとき、一年に一度死者が帰ってくるというのは、肉体が脆弱で寿命も短い人間たちの、ただの妄想の産物でしかないと思っていた。
しかし、メルランがやってみようと言い出して、折角だからと賛成して。
あの月光と迎え火の煙を見た時から、私はすぐそばにレイラの気配を感じるような気がしていた。その後の夕食の時にはもう、レイラがこの館に帰ってきたんだということを疑ってはいなかった。
それからの二日間はとても懐かしくて、楽しくて。
どうしてだろう。そうして迎えたこの別れが、一度目のあの別れとは、比べ物にならないほどに辛い。
今更泣いたところで仕方がないけど。
願わくば、来年もまた、レイラに会えますように。
そして、次こそは、笑顔で見送ってあげられますように……
秋の到来を告げる、寒々しい風が吹き抜けた。
いつしか送り火はその熱を失っており、昇っていた煙が霧散してもなお、騒霊たちはその場から動かず、祈りを続けている。
月から垂らされた光の道が揺らぐ。
暗然とした雲が流れて月にかかり、その光の帯を断ち切った。
三人の姉のレイラに向ける想いが丁寧に描かれていてとても良かったです。