彼女の家には二つの傘がある。
一つは質素な黒い傘であり、猫のしっぽのように曲がった持ち手には、彼女が他人の傘と間違わないように目印の黒いリボンが結び付けてある。これは私が彼女の家に置いて帰り、持ち帰る機会を逃し続けた結果、彼女の私物になった傘だ。
もう一つは生地が菫色で、上品な白いレースが幾つも縫い付けてある傘だ。一見すると日傘に見えるのだが、れっきとした雨傘らしい。これは彼女の誕生日プレゼントとして家族から送られたものらしく、普段から丁寧に扱っているので、使用している場面はあまり見たことがない。
私は彼女が残した菫色の傘を持って、石畳の階段を昇り三門をくぐる。玉砂利の踏みしめる音が響く境内を注視しながら歩いていると、大きな翳に覆われた大殿の方から、古い木の匂いと、仄かに鼻に着く獣の臭いがした。
何処かで雫がぽつりぽつりと滴る音が聞こえ、遠雷を孕む暗雲の気配を感じる。
大殿に繋がる段木を土足のまま上がり、廊下に足を置くと、鳥の鳴き声のような木のきしむ音が聞こえた。廊下を歩きながら臭いの元を辿ってみると、やがて内部に繋がる引き戸が開いている箇所を見つけた。どうやら臭いはその戸の奥から漂ってくるらしく、私は大殿の内部に足を踏み入れる。
本来であれば仏像が飾られているはずだが、今は照明も切られており、夜が大殿の中に満ちていて全貌は分からない。以前彼女と訪れた時の記憶と、窓から差し込む小さな外灯の光だけが、唯一の頼りであった。
外灯が差し込む淡い白々しい光の中に、寺院の翳から染み出てきたようにぬるりと這い出た一匹の獣が、私を見て身を翻す。獣の瞳孔が窓から差し込む外灯の光で、一瞬だけ光を帯びた。その眼は獣の細い輪郭に似つかわしくない程に大きく、まるで人の眼のようだ。獣は私を一寸眺めたかと思うと厭な顔で笑い、暗がりの中にさっと飛び込んだ。
私は透かさず、獣の着地点を予測して菫色の傘のハンドルを持って振りかぶり、獣の胴体をすくい上げるように振り抜くと、獣は人の声を思わせる悲鳴を上げて、板壁へと鈍い音と共に衝突した。
獣を仕留める為に、床に力なく横たわった獣を靴底で踏みつける。耳元まで裂けた口角からは、人の歯によく似た歯を覗かせ、そこから細い息の行き交いする音が聞こえる。抵抗する気力がないのか、白い毛並みが荒く波打つのが靴底からよく伝わってきた。
獣は水底のように暗い眼で私を睨みつけたかと思うと、人の笑みのように口角をあげる。それは幾度となく見た、下卑た笑みであった。
足の裏から伝わる嫌悪感を始末する為に、傘を直角に振り上げて、それの首元に狙いを定める。そして、鋭利な石突を勢いよく振り下ろす。
ダンッと、乾いた音が寺院の静寂に響く。石突が獣の喉元を突き抜けると同時に、私の靴底がひょろ長い胴体を踏みつぶす。足の裏から肉と骨が混ざるような、妙な感覚が足の裏から伝わった。
傘の石突を引き抜き、獣を足蹴にして壁の方に追いやってから大殿から外へ出ると、ぽつぽつと、雨が屋根を叩く音が聞こえた。私は傘に付着した血をどうしようかと思いながら、屋根のある外廊下を歩いていると、もう一つの建物に繋がる廊下橋が架かっており、その橋の上からは寺院の庭に設けられた濡縁と控えめな枯山水がみえた。橋を渡りながら濡縁を眺めていると、濡縁の隅に水道と桶を見つけたので、橋の欄干の隙間から、濡縁の柔らかな苔の上に降りて水場まで辿り着くと、石突と傘に付着した血を綺麗に洗い流した。
竹が風で揺れる音が深い翳りの中から響いて来る。陰雲は空を覆い、少しずつ雨を降らせている。壁面に付けられた外灯は、白々しく枯山水をぼんやりと照らす。
血を洗い流した傘を軽く振って水を掃うと、濡縁のそばにある大きな窓に映る私と目が合った。
そこには、白々しい外灯に照らされた私がうっすらと浮かび上がっている。自分の瞳は気付かない間に随分と大きく見開いていて、それはまるで、血走った蛇の目を思わせた。
〇
陰鬱とした仄暗い雲が空に停滞している空を眺めながら、熟れた果実のような少し甘い香りと、体に纏わりついた湿気に嫌気を感じながらも大学へ向かう。
私は叡山電車の元田中駅から少し離れた、白川疎水通りの住宅街にある「金月洋装アパートメント」というマンションに住んでいる。そこから大学までは歩いて二十分と少し。昔は元田中駅付近から百万遍交差点辺りまでバスが走っていたそうだが、私が生まれる少し前にバスは全面的に廃止されて以降、バスに変わる公共交通機関は存在しておらず、東京から引っ越して早々に「もう少し大学から近いマンションを借りれば良かった」と後悔した。
アスファルトが白い飛沫で煙る。傘の上を跳ねる雨粒の低い音を聞きながら、ざあざあと降りしきる雨の中を進む。雨が降るのは仕方のないことではあるが、それに伴い衣類が濡れてしまうのは、朝から不愉快にならざるを得ない。雨の日でも自転車が使えるように、雨合羽でも買おうかと思いながら、とぼとぼと東大路通を下る。
元田中駅の踏切を過ぎた頃から、雨脚は益々強くなった。
すれ違いざまに、傘をさして歩く人の横顔をちらりと覗いてみたが、一見愉快な丸い影を背負って歩く外見とは裏腹に表情は重い。それに釣られて、私の気持ちが更に重くなるのを感じた。
気分が乗らない。今日はもう大学を休んでやろうか。と思い始めた時、左の角にある道から鮮やかな色合いの雨具を身に着けた小学生ぐらいの子供たちが現れて、私の脇をすり抜けて行く。大雨だと言うのに、その表情は溌剌としており、誰一人として暗い表情の子供は居ない。カラフルな傘に、何かのキャラクターがプリントされた雨合羽。楽し気な色合いの長靴をはいて、水溜まりをものともせずに駆け抜ける子供たちを見送ると、私は「雨の子供たち」という絵本の挿絵が脳裏に浮かんだ。
「雨の子供たち」とは、梅雨間だけ雲の国から地上に遊びにやって来る子供たちの物語で、私が幼い頃から気に入っている本の一つだ。
「本物の雨の子供たちみたい」と私は呟き、鬱々とし心に少しだけ陽が射しこむ。
俄かに心が躍り出し、その子供たち倣って駆けだしたくなった。そして、気づけば自分の足は軽やかに動き始め、東大路通を走り出していた。
〇
大学の北門をくぐり、本日の講義が行われる南棟に到着する頃には、全身のあらゆる箇所が水分を含み、ぎゅっと絞れば水がしみ出しそうであったが、不思議と清々しさを感じていた。濡れた靴下の心地悪さを踏みしめながら、通いなれた南棟にある講義室に入ると、室内は随分と冷房が効いていて、濡れそぼった私の体には少し寒かった。
講義室を見渡すと、既に私の友人であり同じサークルに所属する、マエリベリー・ハーンが中段の席に座っていたので講義室の階段を幾つか下り、いつもと同じように彼女の隣に座る。
「おはよ、メリー」
メリーと言うのは、私が勝手につけた彼女への愛称だ。「マエリベリー」と思わず舌を嚙みそうになる名前を呼ぶのが難しいので、愛称と略称を込めて私は彼女のことを「メリー」と呼ぶことにしたのだが、呼び始めた当初は「そんなに発音が難しいのかしら」「それは蓮子が舌足らずだからじゃない?」と散々小馬鹿にされたのだが、弛まぬ努力の結果、現在ではマエリベリーと呼ぶと「なんだいきなり」と懐疑的な顔をされる程に、メリーと言う愛称を染み付かせることに成功したのだ。
彼女は鮮やかな金色の髪と瞳を持っており、異国情緒漂う見た目だが、日本人なのか帰国子女なのか、はたまた二世なのか定かではないし、今更つまびらかにする必要もないと思っている。彼女は私の方を見ると少しだけ言い淀み、怪訝そうな顔をする。
そして「なんで傘もあるのに、そんなに濡れてるの?」ともっともな疑問を口にした。
「雨の中を走ってきたから」
「走って来たって……」メリーは左手を翻し、腕時計を見た「講義が始まるまで、あと三十分以上あるけど」
「うん、まぁ、色々とね」
「色々ねぇ」
絵本の中に出てくるような子供たちに触発されて。とは言えず、適当に濁して答えると、彼女は何故か少しだけ恥ずかしそうに、鞄の中から一枚のストールを出して私の肩にかけた。
「とりあえず服が透けてるから、貸してあげるわ。服が乾くか、今日の放課後ぐらいにでも良いから返して」
その言葉を聞いて私は思わず自分の服を見ると、ブラウスが体に張り付き、明瞭ではないが滲むように下着が透けてみえていた。火が付いたかのように羞恥心が頭部から全身に広がり、すぐさまストールで胸元を隠すと上手く前で結び、外套を羽織っているような見た目ではあるが、とりあえず麗らかな女性としての尊厳は保てる状態にまで持ち直すことが出来た。
「……ありがとう」
「子供じゃないんだから、気を付けなさいよ」それにしても、と彼女は付け加える「どうして走って来たの?」
「それは、言えない」
「はあ」
まあ、別にいいけど。そう言うと、メリーはタブレット端末を眺めながら前回の講義内容を復習し始めた。ようやく彼女の追求の手が緩んだことに安堵しながら、私も彼女に倣って講義内容の復習を始める。
周囲の騒めきが遠のく、耳から取り入れる情報を無意識に脳が取捨選択して、思考の泉へと沈んでいく。騒めきは固まりから細かく小間切れになり、私たちの静寂へと向かう。周囲の声が不明瞭になり、声にモザイクがかかり始めた時、薄っすらと不思議な動物の話が聞こえた気がした。
〇
朝の講義が終わると、私は次の講義まで幾らか時間があった。
「メリー、この後は?」私たちは手際よく筆記道具やタブレット端末を鞄にしまうと、周囲の雑踏に紛れながら講義室を出た。
「三階の講義室に移動。蓮子は?」
「次は昼から。じゃあここで一旦お別れね」
「そうね。ちなみに、今日講義を終わるのは何時ぐらい?」
「十六時ぐらいかなぁ」
「私もそれぐらいだから、もし良かったらサークル部屋で合流しない?」
「良いよー」
そう言ってメリーに別れを告げて数歩歩いた時、何の気なしに後ろを振り向くと、廊下の角へと消える寸前のリネンワンピースの裾を揺らす彼女の後ろ姿が見えた。右手には帆布のトートバッグと、よく彼女の家で見かける菫色の傘を持っていて、私はその傘を持ち歩く彼女を初めて見た。
確かあの傘は彼女にとっては大切な傘だったはずだ。それなのに、このように雨脚が強い日に持ち歩くのは、なんだか妙に思えた。
「メリーになにかあったのかな?」
そんなことをぼうっと考えている間に、本日受けるべき講義が全て終わり、ようやく本日のタスクを解消したことを告げる雑談が教室に響き渡る。私は手早く教材とタブレットを片付けると、本部構内の一番隅に追いやられた東棟に向かう。
東棟とは本部構内の一番東の端にある、鉄筋コンクリート造の三階建ての建物であり、外見はシンプルに灰色の箱に正方形の窓をそれらしく張り付けたもの三つ重ねているような見た目で、特別特別な外見ではないものの、その箱の中身は如何にも活動内容が不明な得体の知れないサークルの巣窟であり、私が所属する「秘封俱楽部」というサークルは、東棟の三階、日夜素麵の甘辛い汁の匂いが漏れ出す「素麵研究会 おてもと」の隣に存在する。
秘封俱楽部とは、私とメリーで立ち上げた、所謂「霊能力サークル」である。
活動な主な内容は、この科学世紀でも解明することが困難とされている「結界」がある場所の調査だ。
基本的に余程大きなものでなければ、結界は肉眼で捉えることは出来ないが、私の友人であるメリーは、何故か大小関わらず結界を肉眼で目視出来ることが出来る。さらに特殊な磁場を使用した装置でなければ結界の中に入れないのだが、彼女は手ぶらで結界の中に入ることすら出来るのだ。まさに結界研究者たちにしてみれば、夢のような人材であるが、周囲には秘匿としていた。
一方私には、彼女のような如何にも「オカルト」の香ばしい匂いが漂う能力は持ち合わせてはいないが、「星を見れば時間が、月を見れば自分の現在地が分かる」と言う、私ですら使い道に困る微妙な能力がある。しかし、秘封俱楽部の活動上意外と使い道があり、少なくともこの能力が生かされ始めたのは秘封俱楽部の活動が始まってからだ。
この妙な能力が互いを引き合わせたのかは不明だが、メリーとは講義で同じグループに組まれた時から馬が合い、気付けばサークル活動がある時も暇な時も、時間が会えば秘封俱楽部のサークル部屋でだらだらと過ごすことが多くなった。
湿気と素麵のつけ汁が渾然一体となった空気が漂う部屋の前を通りすぎ、何気なく左にある窓から外を見下ろすと、百万遍交差点に向かう傘が連なり、まるで紫陽花のようであった。
窓の下の見送りながら更に東棟の奥に進むと、続いていた窓の列が途切れ、消火栓の放つ赤い光の筋と、非常階段の緑の光が煌々と照らす暗い廊下の隅に「秘封俱楽部」のサークル部屋はある。
雨で窓が開いていないせいか、三階の行き止まりに位置する部室付近の空気は芥のように濁っており、妙に鼻に着く埃っぽい匂いがした。
ドアの小さなフックに吊り下げられている「秘封俱楽部」と書かれた薄い掛札を揺らしながらドアを開けると同時に、乾いた音が人気のない廊下に響く。部室内は蒸篭のようなありさまで、立ち込める熱気と湿気に、玉のような汗が幾つか背中を滑り落ちる。部室に一足踏み込むと、早々にドアの右側にある空調のスイッチを押して、冷気を含んだ空気で居室内に蔓延る熱気を押し流す。
長方形の無機質な部屋の真ん中に存分に使い古された木製の長机に、ちらほらと錆が目立つパイプ椅子が等間隔で並んでおり、それの窓際の方の椅子に腰をかける。南側にある窓からは木々に遮られながらも本部構内の年中見栄えがない風景が広がり、角度によっては大学のシンボルである時計台の端が見えないこともないが、見えたところでどうにもならない程に立地は悪い。排出される冷気で、汗を吸ったシャツが肌に張り付くのを感じながら、右奥にある本棚の隣の壁に埋め込まれている棚に鞄を置いて、メリーに部室に居ることを伝えるメッセージを送ってから少しすると、彼女から短いメッセージが返信された。どうやら暫くこちらに来るまで時間がかかるらしい。
私は彼女が来るまでの間、去年「下鴨納涼古本まつり」で購入した本が無造作に詰め込まれている本棚から、まだ読み止しの色褪せた文庫本を抜き取り、しおりが挟んでいるところを開いた。
窓にぽつぽつと小突くようにして雨水がぶつかり、緩やかに窓の表面を伝う。その向こう側では、深緑を纏う木々が緑葉をぬらりと光らせていた。時折隣人である素麵研究会の論争が聞こえるものの、そんなことは日常茶飯事なのでわざわざ気にも止めることはなく、サークル部屋はいつも通りの孤独と静寂に包まれている。
数ページ本をめくった所で不意に部室のドアが開き「暑い暑い」と言いながら団扇で自分に風を送るメリーが現れた。絹のようなブロンズ色の髪を頬に張り付けた不快感に溢れたその顔は、部室に一歩踏み出すだけで「いやぁ、蓮子が先に居てくれて助かったわ」と安堵した様子で言った。
「お疲れ、今日の授業はどうだった?」
「微妙。知識を見せびらかすだけ講師の話を聞いて疲れる」
メリーはうんざりした顔で否定的に手を横に振りながら、棚に鞄と鮮やかな菫色の傘を置く。
「メリーがその傘使っているところ初めて見た」
「そう?たまに使ってるわよ。壊れる心配はない時はね」そう言うと彼女はその傘の緩やかな弧を描く持ち手を軽くなでる。「大切な物だけど、道具は使われるために生まれて来たんだから、使ってあげないと何だか可哀想だし」
「メリーの感覚、私には分からないなぁ」
「蓮子は精神的鍛練が足りないのよ」
それに。と少し呟き、メリーは話を止めて、棚に置いてある傘をジッと見つめた。
「それに?」
「それに、『雨の日は持っておいた方が良い』って言われてるの」
そらそうだろう。と私は思った。傘は雨が降れば使用する道具であるし、不思議なことではない。
「なにか別の意味があるの?」
「あるのよ、この傘には」
メリーは私の質問に対して嬉しそうに笑うと、頬に張り付いた髪を指先でいじりながら口を開いた。
これは、彼女が母親から聞いた話である。
〇
メリーの持つ傘は、彼女が母から貰ったものだが、元々は祖母から母に送られたものらしい。
彼女の祖母が菫色の傘を買ったのは大学生の頃で、場所は一乗寺辺りにある骨董屋。祖母は若いころから、骨董品を集めるのが趣味だったらしく、暇さえあれば骨董屋を巡っては、自分の鑑定眼と直観だけを頼りに、骨董品からガラクタと呼ばれる類まで様々な物を収集していた。それは年老いてからも変わらず、晩年住んでいた祖母の家には様々な骨董品が綺麗に飾られていて、今でもそれはメリーと祖母数少ない思い出の一つらしい。
季節は八月。日課の骨董屋を巡っていた時に、偶然立ち寄った一乗寺にある骨董屋に、菫色の傘はあった。お店には貝殻に掘られた龍のブローチ、気の抜けた狸のお面、桃色の手ぬぐい、他にも興味が惹かれるものが数多にあったけれど、最後に手に取ったのはやっぱりこの傘であった。
漆塗りで濡れたように光るハンドル、菫色の小間の縁には控えめなフリルが縫い付けてあって、広げれば紫陽花のようにきらめく。天紙より少し下に薄っすらと日輪の模様が添えられていて、骨組みと露先にも錆は見られない、ネームのしっかりと縫い付けられてあって、スラっと傘をまとめてくれる。「この傘を見抜いた自分はなんて素晴らしい鑑定眼なんだろう」と自らの才能を褒め称えたらしい。
そして、祖母がその傘を勘定場に持って行った時、そこに座る店主にこう言われたそうだ。
「京都は梅雨時期になると魔が訪れるから、この傘を魔除け代わりに持っていた方が良い」と。
祖母はその言葉の意味が上手く理解出来ず、思わず聞き返したが、それ以上は教えてくれなかった。後に冷静になって考えてみれば、からかわれたんじゃないかとも思ったが、それでも店主の言葉が妙に耳から離れず、祖母は京都から離れるまで、梅雨の時期になるとその傘を持って出かけていたそうだ。
その傘を買ってから突然奇妙なことが起こった。なんてことは無くて、むしろこの傘が縁となって、学生時代に知り合った祖父と付き合うきっかけになったらしい。そうして、この傘と何十年も共に過ごした祖母は、メリーの母親が結婚する際に「縁起物だから」と言って、菫色の傘と、その傘の逸話をまつわる逸話をプレゼントした。
母親は祖母の話を聞いて、「いつもの自慢のコレクションの話」だと思いながらも何となく聞いていたが、思いのほか不思議な話だけあって、鮮明に覚えていたらしい。
そして時は巡って、メリーが京都に旅立つと決まった日。彼女は母親から「京都には魔が居るそうだから」と言われ、菫色の傘と、その傘の逸話を誕生日プレゼントとして渡されたそうだ。
〇
メリーは話し終えると「ふぅ」と一息ついて、窓の外に目を向ける。
私もそれに釣られて、彼女と窓の外を見る。外の雨はいつの間にか軽雨となったが、灰が混じったような雲が空に堆積しているので、妙に小暗い景色が構内に広がっているのが見えた。
「魔ってなんだろう?」
「私にも分からない。言葉の響きからして、少なくとも良くはないものだと思うけど」
少し視線をそらして、部室の片隅でひっそりと佇む彼女の傘を盗み見る。話を聞いた後だからだろうか、その傘は普段よりも、やけに神聖なものに見えた。
「少しだけ触ってみても良い?」
「良いわよ」
そう言って、彼女の菫色の傘を手に取る。こう間近で見てみると、やはり美しい傘だと思う。
すらっとした外見に、瑞々しい菫色。ハンドルは手によく馴染み、石突きは凛としている。骨董品とは思えない程に骨もしっかりと組まれており、見た目以上に頑丈な作りであった。
試しにパッと傘を開いてみると、十二本の骨が緩やかなカーブを描きながら広がる。傘地は裏から見ると、はっきりとした菫色から淡い菫色に変わり、触れば手に付着するのではないかと錯覚してしまう。
「これは、本当に見事なものね」
「そうでしょう?」
「もしかしてメリーの祖母は、君と同じように良いもの見抜くような能力があったんじゃない?」
「親からも不思議な人だったと聞くし。もしかすると本当にそうかもね」
そうして暫く傘を眺めていると傘の中棒の部分に、うっすらと赤黒い汚れか錆か、見分けがつかないが物が付着しているのが見えた。私は無意識的にその汚れに手を伸ばし、感触を確かめる。表面はざらざらとしており、試しに爪先で削ると、それはすぐに取れた。爪に乗ったそれを指の腹で擦ると、指先がさび色に染まった。
「どうしたの蓮子?」
「いや、ここに汚れがついてたから」
メリーに先程汚れがついていた箇所を見せると「あ、ほんとだ」と言って、中棒の赤黒い部分に触れる。
「錆かな?」
「どうだろう。爪先で触れると取れたから、ただの汚れかも知れないけど」
「うーん、どうしよう。念のために見て貰おうかな」
傘の中棒をメリーが眺めている時、左手に生温いものを伝うのを感じた。
何だろうと、左手を見てみると、手の中央から生暖かい粘り気のある赤色が中指を通って、床にぽたぽたと滴り落ちていた。
私は思わず、わっと声を上げて驚くと、隣にいたメリーも同じ声を上げて、私の方をみる。
「どうしたの?」
「いや、血が」
左手を広げてメリーに見せると、彼女は朝の濡れた私をみるような目で、左手をジッと見つめた。
「何もついてないわよ?」
「え、そんなことは」
左手を見つめるも、そこには傷一つない手のひらがあった。
「どうしたの?蓮子、今日なんかおかしくない?」
「いや、でも確かにさっきまで」
しかし、何度見直しても、私の左手は綺麗なままだ。念のために左手全体を確かめてみても、血が出そうな箇所も、傷はふさがった痕も見当たらない。
サークル部屋の中に、沈黙が訪れる。窓を叩く雨音が部屋に響き、エアコンは冷ややかな空気を吐き出す。メリーは何か勘ぐるような眼で、私の方を見つめる。
「朝は傘を持っている癖に濡れて来るし、突然血が流れたと言って手のひらを見せて来るし」メリーは傘を畳んで棚の縁にかけると、私との距離をぐっと縮める「何かあったの?本当に大丈夫?」
メリーが心配そうに私を見上げる。どうやら彼女は私が何か厄介なことに巻き込まれていると思っているらしい。このまま勘違いさせるのも忍びないので、朝に濡れた状態で大学に来た理由を伝えると、呆れたように首を傾げた。
「つまり、朝のあれは、小学生に触発されて?」
「ええ、まあ」
「さっき手のひらから血が出たってのは?」
「それは私にも分からない。でも、本当にそう見えたの」
私の目を見ながら、メリーの両目が微かな光が灯る。これは彼女が「結界」を見ようとする時に起こる副作用のようなものだ。彼女は私の瞳をジッと眺めると、ゆっくりと質問をした。
「血は確か、傘の錆を触った時に見えたのよね?」
「えぇ、そうよ」
「今まで何かを触って『手のひらから血が流れる』ことを幻視したことはあった?」
「いいや、全く」
「血が流れるのを見た時、手のひらに痛みを感じた?」
「痛みはなかった」
メリーは私に対してのインタビューをさっと終わらすと、今度は菫色の傘をまじまじと眺め始めた。しかし、その確認は私を質問したときよりも手早くを終えた。
「結界の気配は、ないわね」
「それは良かった」
「良くないわよ」
そう言ってメリーは、何かをぷつぷつと呟きながら、パイプ椅子に腰を掛ける。私も追いかけるようにして、彼女の前にある椅子に腰をかけた。
「朝濡れて来た理由は、貴方の根底が随分無邪気だったからという理由で片付けられるけど。『血の幻視』は理由が明確でもないのに起こった。これが一番の問題よ」
「問題の発端が分からないということは、問題の解決方法も分からないからね」
「分かってるじゃない」
「でも、私の手のひらから出た血は、その傘を触って起こった。正確には中棒に付着していた錆のような何かかもしれないけれど。それが発端にはなりえない?」
「なりえる。かも知れないけど、私はこの傘を使ってきて一度もそんな現象は起こらなかったし、私も赤錆に触れたけど何もなかった。万が一、今まで偶然に起こらなかった可能性もあるけど。そんな幻視が見えるなら、私の母や、祖母が言い忘れることはないと思うの。それに、この傘から結界の気配が感じられなかった。これは、ただの綺麗な傘よ」
強い口調で傘の庇護をするメリーに対して私は何も言えず、これ以上「血の幻視」の原因を傘に求めることは一旦止めておいた。彼女と喧嘩するほど不本意なことはない。
「つまりメリーは、私に起きた現象には、別の要因が絡んでいると?」
「そういうこと」
「別の要因ねぇ……」
ここ数日のことを色々と思い返してみたが、不審な点は見受けられない。私の私生活は、基本的に大学と自宅を往復するか、大学の付属図書館や今出川通にある古本屋、もしくは大学の生協にしか立ち寄らないので、基本的に災いとは無縁であった。オカルト的な存在が絡んで来るのは、秘封俱楽部の活動か、メリーと一緒に居る時しかない。
その後も暫く「血の幻視」について色々と仮定してみたが、納得のいく答えが出ないまま、気づけば外は夕闇がちらつき始めていた。
〇
それじゃあ、また明日。そう言ってメリーと百万遍交差点で解散となった。
彼女の家は吉田上阿達町にある住宅街のほぼ中心にあり、私の住む白川疎水通りの自宅に比べればかなり大学に近い場所に住んでいる。
メリーの背中を見送ると、緩やかな坂になっている東大路通を北に進む。夕暮れの訪れと共に雨は止んだが、暗雲は相変わらず空に停滞しており、鞍馬山の向こうまで詰め込まれていた。濡れる心配はないのだが、その分蒸し暑く、汗の玉が私の背中を伝って降りていく。
空が厚い雲で蓋をされているせいか、空気がやけに重く、妙に息苦しい。まるでエアーレーションのない水槽の中に居るようだ。
緩やかな坂をのぼると、学生向けの食堂やカフェ、妙なスパイスの匂いが店先まで漂う異国料理屋や、店の喧騒が外まで響く居酒屋など、この辺は随分と賑わっている。しかし、元パチンコ屋の脇を通り過ぎて、元田中駅を渡った頃から、徐々に街から賑わいは消えていき、町の景観の一部と化した寂れた商店を幾つか横目に見ながら、街灯がぽつぽつと照らされる路地を進む。
時刻を確認すると、まだ十九時を過ぎて少し。暑いが雨の振り出す様子はなかったので、いつもの散策癖が働き、敢えて脇道に逸れて知らない道を歩きながら家に帰ることにした。
それにしても、メリーの祖母が骨董屋から聞いたという、梅雨の時期に訪れる「魔」とはなんだろうか。
無論、骨董屋の主人が作った単なる法螺話の可能性もある。信憑性はどれほどの物かは分からないが、それでも親子の間で口承され現代まで残っているということは、それだけ祖母がこの話に対して強い印象を持ったことに繋がる。
あの菫色の傘はメリーが言う通り、本当に「ただの綺麗な傘」なのだろうか。
私は自分の左手を見つめる。あの時、流れた血は何だったのか。もしかすると、私が魔だったから、傘を触った時に影響が出たのか。
「そんなわけ、ないよね」そう、夜を白々しく照らす街灯の明りの中で一人呟く。
なんと気なしに空を見上げると、そこには雨を抱えた雲が多く停滞している。その雲に反射した街の明かりのせいか、夜の底が少しだけ明るく、街全体が薄っすらと灰色に照らされていた。
ブロック塀で区切られた路地を抜けると、やがて小さな水路が脇を流れる道に出た。連日の雨で少し茶色く濁った水は南の方に流れており、その水路の奥の方からはごぼごぼと、やけに淀んだ重い音を響かせている。少しだけ水路に沿って東に進むと、水路の間にペンキの剥げた赤茶けた橋が見えたのでそれを渡り、住宅の明りを頼りに舗装されていない路地をすり抜けて行くと、いつしか通った覚えのある、自動販売機が数台並び、たばこの看板をかがけた元駄菓子屋のような小さな売店がある通りに出た。
元駄菓子屋の入り口はガラス戸になっているが、店内は随分と暗く伺い知ることはできず、そのガラス戸には私がぼんやりと映っている。やけに喉が渇いていた私は、自動販売機で適当な缶ジュースを買って一息つく。鞄からハンカチを取り出して額に溜まった汗を拭きながら、先程抜けた路地に目を向けると、街灯の下に何か白っぽい物が見えた。それは随分と細く、生き物が横たわっているようにも見えるし、何かの置物のようにも見える。
缶ジュースを飲みながらよくよく目を凝らしてみると、それは骨だけになった傘ということに気づいた。
長さは一般的な傘と同じような大きさだが、形状としては番傘のように見える。どこか外で飾られていたものが雨風に転がされて来たのか。それとも、ただ壊れたから捨てたのか判断はつかないが、メリーの持つ傘にまつわる話を聞いた後だったからか、その傘に対して特別な印象を持った。
じりじりと小さな音を立てながら灯る街灯、雨で湿る地面はその光を反射して水面のようにぬらりと光る。やけに息苦しい空気、止まらない汗。私は来た道を戻り、その骨ばかりになった傘に近づく。住宅街の路地には私の足音だけがこつこつと響いている。
傘の円柱状に並ぶ白い骨がありありと見えだし、あと一歩か二歩で傘が拾える距離に来た時、左手に鋭い痛みが走る。思わず左手に持っていた缶ジュースを手放してしまい、夜の街に高い音が響た。急いで左手を確認するも、特に変わったところはなく、昼間に見たような血の幻視もない。
その時、不意に周囲が暗くなる。
顔を上げると、そこには薄暗い路地が真っすぐ伸びており、その奥には先ほど渡ったペンキが剥げた橋が見えた。
私は自分が落とした缶ジュースの中身が地面に飲まれていくのを苦い顔で眺めると、缶を拾って先程の自動販売機の隣にあるごみ箱に捨てた。そうして、そろそろ帰ろうかと思い、自宅の方角に足を向けた時、遠くの方で白い胴の長い生き物が道を横切って行くのがみえた。
〇
ざっと降り出した雨が窓ガラスを叩き始めた頃、私たちは大学正門付近にあるカフェ「タリ・フォーラ」に来ていた。
店内は大変混雑しており、声がざわざわと波のように寄せては返す。「秘封俱楽部」の部室とは違い、空気は澄んでおり、外光も良く差し込む。カフェの北側は一面ガラス張りとなっていて、大学のシンボルである時計台がよく見える。時刻は十五時を少し過ぎていた。
私の目の前でブロンドの髪を後ろに結ったメリーが、円柱のロンググラスに入ったアイスティーをストローで少し飲んで顔を上げる。彼女の傍らには、元私の黒い傘が佇んでいた。どうやら今日は菫色の傘ではないようだ。
「ねえ蓮子。どうして同じ構内でも、部室とここでは、こんなに待遇が違うのかしら?」
「秘封俱楽部の部室が今更こんな洒落空間になっても違和感しかないけどね」
「まあ、そうだけどね。でも正直、めんつゆの匂いがしないのは羨ましいわ」
「……それはそうね」
「まあ、それは置いといて」メリーは秘封俱楽部の活動をまとめているノートを一冊鞄から取り出し、机の上に置く。「この前した、傘の話なんだけどね」
彼女はノートを幾つかめくり「傘について」と書かれた項目のページを開ける。
「もう一度お母さんに詳しく聞いてみたの」
そしてメリーは、再び菫色の傘の話をした。細部に多少変化はあったものの、大筋はあまり変わりない。傘の話を終えて彼女はひと段落付くと、一枚の写真を携帯端末に映してこちらに向ける。それはアルバムの一ページを撮られた鮮明とは言い難い、古い一軒家を改装したようなお店の写真で、ガラス戸の向こうには様々な道具が並び、店先には小さな大黒天が飾られて、ふくふくと笑っている。大きな屋号が書かれた看板を入り口の庇の上に掲げているが写真が薄れており読み取れず、写真の下には鉛筆で「京都 一乗寺付近にて」と書かれていた。
「これって、もしかしてあの傘を買ったところ?」
「ご名答」彼女は嬉しそうに笑う。「傘の話をした時に、祖母が買った骨董品や古道具屋の写真があったのをお母さんが思い出してくれたから、お願いして探し出してもらったの」
古道具屋の写真から、さっと地図アプリに切り替える。映し出された場所は一乗寺周辺であった。
「お母さんから貰った画像をネットで画像検索をしてみたら、このお店に外見が似ている所を幾つか見つけたのよ」
彼女は溌剌とした顔で、流れるように言葉を紡いでいく。話が終わる前に、凡そ言いたいことは既に予想がついていた。
「メリーは、そのお店を見つけたいってわけ?」
「ご名答。流石私の友人ね」そう言って彼女は、もう一度ストローに口をつける。私も倣うようにして、紅茶に口をつけた。
そう言えば私も傘について、一つメリーに質問したいことがあった。
「メリーは魔って何だと思う?」
「どうしたの、急に」
「いや、実はさ」
私はメリーに先日帰り道で考えていたことを話してみた。彼女は暫く沈黙したかと思うと、肩を震わせて吹き出すように笑った。
「貴方が魔? そんなわけないじゃない。正直で好奇心旺盛で、小学生に感化されて雨の中を走ってしまうような貴方が、そんな魔なんてことないわよ。まあ無邪気ゆえにお墓を動かす罰当たりなことはたまにするけど、少なくとも貴方の本質は純粋なはずよ」
「そんなに笑わなくても良いでしょ? 本当に悩んでるの。それに、お墓を動かすのは二人で考えたことじゃない」
「ふふ、そう言えばそうだったわね。その話はともかく、私は少なくとも蓮子は魔じゃないと思うわよ。魔とは言葉の通り、人ならざる者か、もしくは、私たちの理の外に居るルールで動く者たちのことでしょうね」
それに、と彼女は手元にあるノートをめくる。
「傘は元から魔除けとして使用される風習もあるみたいだし、傘に魔除けの効果があるってのは、そんなに突飛な話じゃない。あの傘はもしかすると、元々は雨の日に使用するんじゃなくて、家に飾る用途として作られたのかも知れないわね」
「なるほど」
「傘については追々調べるとして。それよりも、あれから何か変わったことはなかった?血の幻視とか」
「ないけど。強いて言うなら、昨日帰り道に左手が急に痛くなって缶ジュースを地面に落としちゃったぐらいかな」
「なにそれ、大丈夫だったの?」明らかにメリーが顔を顰めたので、慌てて左手を彼女に見せて、外傷がないことを伝える。
「うん、一瞬だけだったし。ほら、傷もないでしょ?たぶん筋違いか何かよ。そう言えば、あの日の帰り道にあれをみたわ、ほら噂の白い獣」
白い獣の噂とは。最近構内で囁かれている噂の一つだ。
噂によると、その生き物は、鼬のような細い胴体に、狐のような顔つきだが目と歯は人のようで気味が悪く、物陰から只々人をジッと眺め、時折厭な顔で笑うらしい。それらは、空き家、廃墟、人気のない路地、夜の公園、深夜の商店街、大学の構内等々、目撃情報は数多にあり。屋外であれば、どこにでも現れるそうだ。
「それって、あの白くて人の顔みたいな動物が居るって、一昔前の都市伝説みたいな奴よね?」
「そうそれ。昨日帰ってたら、それらしい生き物が道を横切ったの。遠かったから詳しくは見えなかったけど」
この噂に関してはメリーは「どうせ異種交配で生まれた動物か、外来種が京都に住み着いているだけ」と以前話していたので、それ以上話に踏み込んでくることはなかった。彼女はちらりと時計台を見るやいなや、慌てた様子でアイスティーを飲み干して席を立つ。
「ごめん、講義がもうすぐ始まるから。とりあえず明後日の土曜日に蓮子の家に行くから、また時間は連絡する」
そう言って彼女はアイスティー代を机の上に置いて、颯爽とカフェを後にした。雨はもう止んでおり、ガラス越しで構内を駆けて行く彼女の背中を見送った。
今日の講義を全て終えていた私は、大学に居てもやることがないので手早くぬるくなった紅茶を飲み干して外に出た。外はひんやりと心地いいカフェの店内とは違い、不快感を煽る湿気が蔓延っている。真っ直ぐ家に帰ろうかとも思ったが、次回の講義までに調べて置くことがあったので附属図書館に立ち寄ってから帰ることにした。
○
目を開けると、街灯もない夜の街に一人でぽつんと立っていた。それは、相変わらず蒸し暑い夜で、湿気が街を覆い、一歩足を踏み出す度に何処からか汗が流れる。空を見上げると、随分と久しい月と星々が雲間から顔を覗かせていた。
時間は一時二五分四十秒。場所は自分の夢の中。
夢の中でも見る月や星であっても時間と居場所が分かるのは違和感を覚えるが、私の友人曰く「夢と現実は一枚の膜を隔てて地続きに存在している」らしく、彼女からすれば何もおかしくはないらしい。
雲間から漏れる月明りが街を仄かに照らす。私は自分の夢だというのに、随分と飾り気のない、京都によく似た街並みをとぼとぼと歩いていく。
不快な電子音を漏らす古いネオン管の光を上げかけているスナックの店内から話声は聞こえるが、何処かおぼろげで、合成音声のような声に聞こえた。私の歩く道は随分と曖昧で、真っすぐ進んでいるだけなのだが、百万遍交差点ほどの広さがある道になったかと思うと、急に体を横にしなければ通れない程の道幅になる。幾つかの電柱が城壁のように連なって私を見下ろす道や、ブロック塀の代わりに書簡が永遠と積み重なっている道もあった。しかし、そのどれもが何処か胡散臭く、白けてしまう。
暫く道なりに歩いていると、やがて気が付けば道の両脇に人気のない祭りの屋台が並んでおり、色とりどりのりんご飴、湯気の出ているベビーカステラ、濛々と白い煙を吐き出す綿あめの機械が動いている。そこには私以外の人影は見えず、賑やかさだけが無理に街中に押し込まれたようだった。そのまま屋台街の中を歩いていると、やがて山のような駒形提灯が飾られている神社が見えたので試しに立ち寄ってみたが、そこにも矢張り人の気配はない。
とりあえずお祈りしようと思ったが、本殿らしき場所に近づくにつれて妙な生臭さが漂っているのに気付く。不快に思いながら、ようやく賽銭箱の前まで辿り着くと、肝心の賽銭箱は格子状の蓋が外されており、その中には大量の赤い金魚が泳いでいた。その内の一匹は、何かの拍子で賽銭箱から飛び出してしまったのか、賽銭箱の前で赤い体を痙攣させている。よく見ると、賽銭箱の周りには血が滴り落ちたかのように、赤い金魚の死骸が何匹も落ちていた。
どこか気味が悪く、急いで踵を返して参道を駆けていると、背後から軽快な音程で太鼓を打ち鳴らす音がした。
私は自分の居場所が分からないまま祭りの喧騒だけが漂う通りを抜けると、百万遍交差点に辿り着いた。
交差点から見える大学の西棟を見上げると、教室の全てに明かりがついており、多くの人影が窓越しで行き交うのが見える。西門の方まで回り込むと、本来であれば夜になると施錠される西門は開いており、その周りには駒形提灯の残骸と、高く積み上げられたガラクタが山と化していた。夜とは言え、勝手に大学構内に無断で入るのは面倒の元なので大学から聞こえてくる喧騒を見て見ぬふりをしながら東大路通を北に上がり、自宅を目指した。
夜の空気が私の足に纏わりつく。普段は飲食店で賑わう通りは閑散としており、いつもとは違う様相をしている。夢の中だから、と言えば説明はつくかも知れないが、明らかに私が何度か来た夢とは異なっている。
早く帰ろう。そう思い駆けてみるも、夜が足元を掬っているかのように上手く走れずに、あくせくしながらようやく元田中駅の踏切まで来た時、線路の中に白い何かが落ちていた。それは、一昨日帰り道で見つけた白い骨ばかりになった番傘であった。
なんで、忘れていたんだろう。あの日、傘を拾おうとしたのに。
そのことを思い出した時、踏切にあるスピーカーから甲高い音が出て、叡山電車の訪れを告げる。黄色と黒の遮断桿がゆっくりと下りるのを見ながら、急いで傘を拾おうと足を前に踏み出すも、水中に浸かっているかのように足が重い。
鼻先まで踏切に近づいた所で、東の方から訪れた電車がライトで夜を裂きながら目の前を横切っていく。車内はがらんどうであったが、きちんと元田中駅に停車して、暫らくしてから終着的である出町柳へと向かって行った。
電車が通過したあとだと、不思議と足は軽く、慌てて傘を確かめに行くと、そこには何もなく、ただ鈍い色をした線路が街灯の光を反射して、てらてらと輝いていた。念のため周囲を隈なく探してみたが何処にも見当たらず、もやもやとしたものを抱えながら、再び自宅へと向かう。
ようやく自宅のマンションに辿り着いた頃には、夢は綻びを見せて、私の周りにある風景が編まれた糸が解かれるように線となって消えていき、やがて足元も徐々に崩れて深い夢の谷底に引き込まれて行く。
そして、私が夢の中で眼を瞑った時、私は眠りから醒めた。
カーテンの向こう側には光が溢れ出ていて、時刻を確認すると正午五時過ぎ。クーラーをつけて寝たにもかかわらず、やけに寝汗が染み込んだ寝間着と下着にうんざりしながら、いつもの癖で携帯端末を手に取って電源を入れると、深夜にメリーからメッセージが届いていた。
そのメッセージには。
「明日。というよりも、もう今日だけど土曜日の十三時過ぎに蓮子の家に行くわ。それと、大学から帰った後って何かしてた?」と書かれていた。
妙なことを聞くものだと思いながら、大学で講義が終わった後は家に居たことを伝えると、私は汗で湿気た寝間着の上衣を乱雑に脱いで布団の隣に置くと、黒いブラトップのままタオルケットに包まりもう一寝入りした。
その後、目覚ましが鳴るまで目覚めることはなかった。
〇
待ち合わせの時間通りにマンションから出ると、大家が手入れをしている中庭があり、花壇に植えられた幾つかの花を眺めながら外に繋がる出入口に向かう、梅雨の時期だからか、蛙の鳴き声が庭にある林の奥からよく聞こえて来た。庭を越えた先にある入口の隣には、春になると引き込まれそうな程に妖艶なピンクに染まる枝垂れ桜があるのだが、今は新緑の葉をつけている。メリーはその新緑の影の下に立っていて「流石に家の前だと遅刻はしないのね」とすまし顔で言うと、少しだけ笑った。
「当たり前でしょ。というか、遅刻したのはあの一回きりなんだから、もう良いじゃない」
「はいはい」
そんな調子で私の批判をメリーは軽く受け流すと、私たちはマンションから左に進み、白川疎水を越えて一乗寺に向かう。私は京都に来て数年経つが、一乗寺に行くのは初めてであった。
雨は降らないと天気予報では言っていたが、今にも落ちてきそうな程に重たい雲が空に停滞している。雲と地上との間で蒸された空気は蒸し暑く、これなら雨が降っている方が幾分かマシに思えた。
灰色の街並みは休日だと言うのに、どこかまばらで人通りは少ない。
「そう言えばメリー、昨日のあれなんだったの?」
「あれ?もしかてメッセージのこと?」
「そうそれ、メリーが私に昨日何してたかって聞くの珍しくない?」
私がそう尋ねると、彼女は少し言い淀んだ。
「いや、実はね。昨日の十九時ぐらいに近所で蓮子を見た気がして、ちょっと聞いてみたの」
「なるほどねぇ。その時間は家にいたから、たぶん他人の空似でしょう」
そうやって適当に話しながら住宅街を歩いていると、一乗寺駅前に辿り着いた。
一乗寺駅周辺は、俗に言うベッドタウンであり、都心に比べると閑静な住宅街が立ち並び、科学世紀以前の街並みを色濃く残している。駅に併設された商業施設からは、休日と言うこともあってか、買い物客が頻回に出入りしているのが見えた。そんな買い物客を待ち構えるように、施設のすぐ前にあるロータリーには古い型の自動電気自動車が数台停止していて「空車」の赤い文字をフロントガラスに表示させている。
駅前の雰囲気は何処となく、私の実家である東京の雰囲気によく似ており、どこか懐かしさを覚えた。もしくは都心から少し離れると、このような風景はどこにでもあるのかもしれない。
一乗寺駅前でメリーは事前に用意しておいた、本日行く予定の場所に印がつけた地図と、以前私に見せてくれた祖母が傘を買ったとされる骨董屋の写真を私の携帯端末に送って来た。まず地図の方から確認してみると、印が付いている箇所はざっと十か十五程度。二人で手分けして探せば二、三時間で回り切れそうな気がした。写真の方は相変わらずどこかぼやけており、古い骨董屋の写真ということ以外は分からず、情報量は多くはない。しかし、この写真が唯一の手掛かりであることは確かだ。
「どうする、手分けして当たる? それとも一緒に行く?」
「別に歩きなれない土地でもないし、今日は二手に別れましょう」そう言って、メリーは自分の地図を手元の携帯機器に映し出すと、指先で地図をなぞって黒い線を引く。
「ここから上のお店は蓮子が、ここから下のお店は私が行く。お店に着いたら、先ずは店先とその周辺の写真を撮って後から二人で確認しましょう。とりあえず二時間程したら、一乗寺駅で合流、それでいい?」
「おっけー」
手短に打ち合わせを済ませると、私は北に、メリーは南に向かう。彼女と別れてから、もう一度地図を確認すると、店同士の距離がある程度離れているので、急がなければ二時間回り切れるのか少し怪しい。
一乗寺駅から離れて住宅街に一歩入ると、そこはもう随分と入り組んでおり、地図で確認しなければ迷子になってしまうだろう。複雑な路地を進みながら空を見上げると、軒に切り取られた細い雲が東に流れて行くのがみえた。
〇
地図に印が付けられた骨董屋と古道具屋に行ってみると、一見営業していそうな場所はあったが、休日ということもあり、シャッターや暗幕を下ろしている店が多く、判断が付きにくい。これは後になって分かったことだが、休日になると蚤市と言う、骨董屋や古道具屋が集まる市場が開催されることが多いので、土日祝は休みにするところが多いらしい。
とりあえずメリーから貰った地図を頼りに辿り着いたお店を写真に残してみたが、傍から見ると「店の外観が好きな人」として目に映ったであろう。だが、幸いなことに人通りが疎らだったので、不要に「外観マニア」と言う称号を貰わずに済んだ。
行ったお店の中には営業しているところもあったので、私は試しに何件か入ってみたが、特に写真に繋がるような情報も得られず、試しに主人にメリーから貰った写真を見せても直ぐに「知らないなぁ」と言われて、早々に門前払いを食らい悶々とすることも多々あった。しかし、メリーから貰った地図を頼りに骨董屋や古道具屋を巡っているうちに、私は彼女の祖母が骨董屋を巡っていた理由が何となく腑に落ちた。骨董屋や古道具屋の店内というのは、古きものが詰まった、同じものが二つとない宝箱のように感じがして非常に心地よいのだ。
店内に一歩入れば、私が生まれる遥か前から存在する道具や置物が幾つも並んでいる。価値は分からないが、そのどれもが時を超えて美しく商品棚に鎮座しており、謎の浮世絵、船の模型、こけし、茶わん、鍋、招き猫等々が私に向かって「買うなら実用的な方が良いんじゃないか?」「どうだ、私なんて買ってみてはいかがかな?」「買ってからどうすれば良いか考えればいいさ」「インスピレーションが全てヨ」と問いかけてくるようだ。恐らく彼女の祖母もこの感覚を楽しんでいたに違いない。
次はどんなお店なのか、少し楽しみしながら向かったのが「ハチロク商店」であった。
ガラス戸を開けると、店内からは乾燥した、どこか埃っぽい空気が私の傍らをすり抜ける。これらは恐らく棚に並べられた品々から滲み出ているのだろう。後ろ手に戸を閉めると、そこの店の主人らしき禿頭の恰幅の良い体型の男性が勘定場から私の方を一瞥すると、すぐに視線を手元にある雑誌に目を戻した。
店内は雑多としており、商品一つ一つに値札はついていない。ふと商品が置いてある棚に目を向けると「この棚 千円より」と書かれていた。どうやら棚ごとに値段が決められているらしい。
私の目は肥えていないので、千円と五千円の棚にある商品がどのような違いがあるのかは皆目見当が付かない。少しだけ好奇心がくすぐられた私は、棚に置いてある商品を凝視して、その美術的価値の違いを見比べていると、棚の隙間からこちらをジッと眺めている骨董屋の主人と目が合った。私は何だか悪戯を仕掛ける前に見つかってしまった子供のような気まずさを感じて慌てて目を逸らすと、それが不信を買ったのか「お嬢さん、何か探しているかい?」と訝しげな顔で尋ねられた。
「い、いや。実はですね」
特に何もないんです。と正直に言えば「冷やかしなら帰りな」と言われそうな剣呑な雰囲気が店内に立ち込める。どうしたものかと思いながら、咄嗟に「私の祖母が、傘を買った場所を探しているんです」と嘘をついた。そうすると主人は妙な顔をして立ち上がり、私の元へと来た。
「どんな傘なんだい?」
「す、菫色でフリルがついた、如何にも高そうな洋傘です」
「へえ、写真とかはある?」
「傘の写真はないんですが、祖母が行ったお店の写真なら」メリーから貰った写真を主人にみせると「これは、随分と古い写真だね」と彼は少し笑った。
「写真のお店で買ったらしく、私も祖母が持っていた傘が欲しいので探してるんですが、心当たりとかないですか?」
「そうだねぇ、その写真にあるお店って、恐らくだいぶ古いだろうから、もうないかもね。少なくとも、私は見たことがないなぁ。それに、こう言ったお店は同じ店でも同じ商品が置いてあるとは限らないし、もし古い傘を探しているなら傘を専門に取り扱う店でも紹介しようか?」
「いいんですか?」
「良いよ、何だか熱心に探しているみたいだしね」
少し待っててね。と言い残し、店の主人は一度店の奥に引っ込んだ。暫く店内を物色しながら待っていると、店の奥から眼鏡をかけた主人が戻ってきて、幾つかの店の住所と電話番号を書いた紙を私に差し出した。
「とりあえず思いつく範囲だけど、これどうぞ」
「すみませんわざわざ、ありがとうございます」
ここまで良くしてくれるとは想定してなかったので、初めに嘘をついたことを少しだけ後悔した。
そんな思いも込めて、何度もお礼と頭を下げながら店から出ると、既に約束の二時間後は迫っていたので、とりあえずメモは鞄の中のスケジュール帳に挟み、待ち合わせの際にメリーに言ってみることにした。
〇
メリーの地図を頼りに全て骨董屋、古道具屋を巡り回り、きっちり二時間後に一乗寺駅前に着くと、やはり彼女が先に駅前にあるベンチに座っており、何処となく遠い場所を眺めながら、足をぱたぱたとさせていた。
「メリーやっほー」と声をかけると、彼女は微笑みながら立ち上がり「やっほー」と和した。
「おかえり。収穫はどうだった?」
「まあぼちぼち。それよりもお腹すいたから、取り敢えずどっか入ろう、ぜ」
そうしてメリーと歩き出すと、彼女の左手には紙袋が二つほど握られており、表情も二時間前よりも何処かイキイキとしている。
「……メリー、それは?」
「これ?」と言い、彼女は少し照れたようにニコニコしながら「いや、素敵な物が多くって、つい衝動買いを、ね?やっぱり血筋かしら?」
「たぶんそうだろうね」
少しだけ照れるメリーに、私は笑いながら鞄の中に入れてあった一つの陶器のコップを取り出して彼女に見せる。
「私も、つい買っちゃった」
〇
私は商業施設の中にあるフードコートを提案したのだが「騒がしいし、混んでるのは嫌」と言うメリーの意見を渋々尊重した結果、一乗寺駅の近くにあった喫茶店「るのー」に入った。
真四角な店内は思いのほか客が入っていたが、どの席も年齢層が高く、ささやかな話声だけかが行き交っている。店内を見渡し、とりあえず空いていた薄い茶色の一人掛けソファーが四つ並んだボックス席を選んだ。そして各々注文を終えると、メリーは「さぁさぁ」と言った様子で机にノートと携帯端末を置いて、イキイキとした表情をみせる。私も彼女に合わせて携帯端末とメモ帳兼スケジュール帳を机の上に並べた。
「結論から言うと、写真のお店はあった。だけど、そこはもうお店じゃなくて、古民家風カフェになっていたわ。でもね、少し面白いものがあったの」
そう言って、メリーは一枚の写真を携帯端末に表示させる。それは、木製のハンドルに、少し色褪せた赤い生地と、その縁に黒い刺繍が施された、一本の傘であった。
「カフェのオーナーが不動産屋からこの店を買い取った時には、もう屋号の書かれた看板もなくて、元の持ち主の名前が『ナツメさん』ということ以外は分からなかったんだって。元骨董屋と言うこともあって、面白いと思ったオーナーは直ぐにここを買うことを決めたそうよ」
メリーは出されたお水を一口飲むと、嬉々とした表情で話を続ける。
「内見した時は思ったより小奇麗だと思ったそうだけど、いざ購入して色々調べてみると、一部の柱や梁が痛んでいたからどうしても修復が必要だったそうで、友人や知り合いの業者とリノベーションをしたんだって。その時に天井の一角から、この傘が出て来たそうよ。最初は誰もが気味が悪がって近寄らなくて、思い倦ねていたそうなんだけど、彼の友人の一人が「忘れ傘みたいで良いじゃないか」って言ったんだって」
「忘れ傘って、あの知恩院にある傘よね?」
「そう、あの忘れ傘」
忘れ傘。それは、京都の東山区にある知恩院にあるという、骨だけになった傘だ。
それは知恩院が建設された頃に存命していた名工が魔除けの為に置いていったとも、知恩院に御影堂を建立する際に、その付近に住んでいた白狐が「ここに建てられると棲居がなくなるので新しい棲居をつくってほしいと」言われたので、約束通り棲居を作るとそのお礼に知恩院を守るという約束と共に置いて行った傘とも言われている。
以前、その忘れ傘を見る為に、わざわざ知恩院に行ったのだが「保存状態の確認の為、現在は公開されていない」と言われてしまい、二人して肩を落としながら帰ったのを今でもよく覚えている。
「それで『忘れ傘として、この屋根裏に残しておこう』『何なら一階から、この傘が見えるようにしよう』となって、今では一階のカフェスペースから屋根にある『忘れ傘』が見えるように屋根裏の床の一部を格子状にしていたわ」
「鰯の頭もってやつね」
「でも、傘の方も気味悪がられるより良いでしょう?」
「それはそうだけど。メリーはその傘に、何か見た?」
「いいや、何も。あれはただの綺麗な傘ね。まさに蓮子の言う通りよ」
丁度話が途切れた時、見計らったかのように注文したランチセットが運ばれて来たので、暫し昼食の時間となった。その間も特に重要ではない、骨董屋や古道具屋の話や、そこで買った品物の話をした。特に彼女が気に入ったのは、小さな醤油瓶に入ったボトルシップらしく「モダンで胡乱で、最高じゃない?」とわざわざ紙袋の中から取り出して見せつける程であった。
そうして互いに巡った骨董屋や古道具屋の話をしながら昼食を食べ終わり、食後のアイスティーを飲む頃に、私はハチロク商店の話をした。
「傘の専門店ねぇ」メリーはそう言いながら、ハチロク商店の主人が書いたメモにある、傘の専門店の情報を探したが、どれも私たちが求めるものとは程遠い。強いて言うなら、「雨見道」と言う店は、一乗寺で何年も続く傘専門の骨董屋らしく、調べてもお店のある場所と、一部の更新が止まっている個人ブログで「珍しい傘専門の骨董屋」と紹介さていること以外の情報は出てこない。しかし、個人ブログに乗っている傘写真はどれも美しく、骨董の品々とは思えない程に鮮やかで、彼女の持つ傘の特徴と似通ったものを感じた。
「雨見道の傘って、どこかメリーの傘に特徴が似ていない?」
「まあ写真で見る限りはって感じだけどね」
「でしょ?解散するのにもまだ早いし、最後に雨見道に寄ってから帰ってみようよ」
「このまま骨董屋巡って終わるのも少し物足りないしね。行きましょうか」
そうして私たちは、食後のアイスティーを飲み終わると雨見道に向かうことにした。
〇
白川通から狸谷山不動院に向かう道を一本逸れた住宅街に、雨見道はある。
外観はメリーの祖母が撮った写真の骨董屋とよく似た風貌をしている。店先には色とりどりの番傘が並べられおり、庇の下に「雨見道」と大きく書かれた暖簾が微風でゆらゆらと揺れていた。それを捲ると店の入り口であるモザイクガラスの引き戸があり「営業中」と手書きで書かれた普段が釣られており、人気はないが戸の向こうからぼんやりと照明の明かりがついていることが分かる。
店内の様子が読み取れないので入るのに躊躇したが、ここまで来て引き下がるわけにも行かず、思い切って戸を開けてみると、店内から豊潤で乾いた匂い、いわば珈琲豆の香りが私たちの鼻腔をくすぐった。店内の壁一面にはあらゆる年代の傘が畳んで吊るされており、まるで萎んだ朝顔のようだ。飾られている傘は、そのどれもが美しい色合いをしていて、店内の照明により濡れているように光を反射している。傘の知識はないが、ここにある傘が全て高価な物だということだけは分かった。
私とメリーは暫し大量の傘を茫然と見惚れていると「すみません。今、行きます」と聞こえたので、私は声がした方を見ると、式台と店の奥に続く入り口があり、そこには大文字山を描いた渋柿色の暖簾が下がっている。その入り口の右隣りにある三畳ほど小上がりは、座卓と座布団、それと作業台と思われる古い木製の机と、見慣れない道具が綺麗に整頓されており、小さな工房と応接間が押し込まれたようになっていた。
興味本位で小上がりをまじまじと眺めていると、作業台の隣には生地が中途半端に張られている、まだ内側の骨が見える傘が幾つか置かれていた。そんな傘の中に、一本だけ真っ白な骨だけの番傘が置かれていた。
みつけた。そう思い手を伸ばしたが、瞬時に見間違えだと気付き、伸ばした手を戻す。そうして少しすると、暖簾の奥から足音が響かせながら、やけに濃い顔をした眼鏡の男性がぬっと顔を出した。
「ごめんなさいね、今焙煎中だったので」と男性は柔和な笑顔を浮かべると、肩からかけているタオルで汗まみれの額を拭う。
店は傘屋だが、主人らしき人は珈琲豆の焙煎中。これは何故?
混乱する私を他所に、メリーは怯む様子を見せず「ここって、傘の骨董屋であってますよね?」と聞いた。すると眼鏡の男性は「あってますよ、良く勘違いされますけどね」とニコニコとしていた。
彼は「雨見道」の店主で、雨宮さんという。彼は傘の骨董屋をしながら、不定期ではあるが週末にイベントスペースで喫茶店を開いているらしく、今日はその仕込みをしていたそうだ。
雨宮さんは私たちを小上がりに案内すると、ガラスのコップに入った冷たい麦茶を私たちの目の前に置いた。
「それにしても、お若いのに傘の骨董品に興味があるなんて珍しいですね。ところで、今日はどんな傘をお探しで?」
「実は祖母の傘と同じ物を探していまして。こんな傘知りませんか?」
メリーは携帯端末の中にある、菫色の傘の写真を雨宮さんに見せる。彼はその傘をまじまじと眺めると、目を大きく見開き感嘆の声を漏らした。
「これはスバラシイ傘ですね。ご家族様はどこでこれを?」
「それが、一乗寺周辺の骨董屋で買ったようなんです」
「なるほど、だからここに来たんですね」
しばしお待ちを。と言い、雨宮さんは暖簾の奥に引っ込み、少しすると広辞苑を少し大きくしたような本を机の上に置く、幾らかページを捲ると「これかな?」と言い、あるページを私たちに見せた。そこには、西暦の順番にメリーの持っている傘と同じような傘が幾つも並んでいる。
「大体見た目から言うと、この時期の傘をベースに作られたものですね」
「作られた?現物ではなくて?」
「もし、ハーンさんの持っている傘が、このページに載っている傘と同じ代物であれば、それは美術館に飾られている傘と同等の物になります」雨宮さんは快活な笑顔を浮かべる「だからと言って、ハーンさんが持っている傘が、偽物や贋作と言うわけではありません」
そう言うと雨宮さんは附箋だらけのページをめくる。
「こちらの傘をご覧ください」彼が指した場所を見ると、先程のページで見た傘よりも、更にメリーの傘に特徴が似ている傘がずらりと並んでいた。
「これは、先程見た傘を復刻したシリーズなんです。恐らくハーンさんの傘はこちらになるかと思われます」
その傘が販売されたのは年を確認すると、今から凡そ百年程前。そしてメリーの祖母が傘を買ったのは、概ね販売から約三十年後。もし、彼女が持つ傘がカタログに載っているものなら、あの菫色の傘は途轍もない大物ということになる。
「これって、本当なんですか?」
「正直なところ、直接見て見ないと分かりませんが、見たところカタログに載っている傘と同じような物には見えますね」
メリーは困っているようにも、驚いているようにも見える表情で、目をぱちぱちとしながら、私の方に顔を向ける。
「じゃあ、もしこれをここに持ってくれば、本物か分かるんですか?」
「うーん。恥ずかしながら、私は傘が好きで先代から雨見道を引き継ぎましたが、実はそこまで目が肥えていないので、何とも言えませんね。先代、と言っても私の父親であれば分かるかも知れませんが、生憎父は洛外に住んでいるので、すぐには戻って来られませんし、どうしてもと言うならお受けしますが、どうされますか?」
それを聞いて、メリーは暫くうんうんと考え込んだ結果「しばらく、考えます」と言った。雨宮さんも「まあ、物の価値は値段ではなく、人の思いで幾らでも変動しますから。気になったらまた連絡を下さい」と骨董屋としては本末転倒のことを言った。恐らく彼は、本当に傘が好きで傘の商売をしているのだろう。
二人の話が終わったのを見計らって、私も一つ気になること聞いてみた。
「雨宮さんは、ご自身でも傘は作るんですか?」
「置物の傘なら作れます。使用する傘に関しては、一応簡単な修理は出来ますが、一から作ることは出来ません」
「じゃあ、あれも置物の傘ですか?」そう言って私は、部屋の隅にある白い骨の傘を指さす。
「えぇ、あれも置物の傘ですが。まだ布は貼っていませんが。どうかされました?」
「何となく気になっただけです。ありがとうございます」
雨宮さんは「いえいえ」と言い、傘のカタログを閉じて暖簾の奥へと消える。出された麦茶を一口飲んで、何気なくメリーの方に視線を向けると、彼女は少しだけ不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「どうしたの、メリー?」
「いいや、別に」彼女はさっと視線を逸らし、私と同じように麦茶に口をつけた。
〇
「傘のことなら、またいつでもどうぞ」と雨宮さんに見送られながら、私たちは雨見道を後にした。外に出ると何処からか蛙の声が聞こえた。夕暮れが近づき、空を覆う雲が少しだけ茜色に染まっている。今日は天気予報通り、このまま雨を降らないことを願いながら、一乗寺駅に向かう。
「メリー、とりあえずあの傘の鑑定はどうする?」
「ううん。それは別に今は良いかなぁ。でも、あの錆が気になるから、それだけちょっと見て欲しいかも」
街並みは徐々に影にゆっくりと沈んでいき、気付けば街灯の明りがつく頃合いになって来た。影が細く伸びて、私を先導する。どこからか良い匂いが漂い、無性にお腹が空くのを感じた。今日の晩御飯はメリーと食べようか、それとも家に帰るか、模索しながらメリーに歩幅を合わせて歩いていると、彼女は急に話を切り出した。
「ねぇ、蓮子。昨日の夜は、家にいたのよね?」
「そうだけど。どうしたの?」
「……少し聞いて欲しいのだけど、良い?」
少し躊躇うように、メリーは昨夜の話をした。
〇
それは今のような夕暮れ時。南棟の一階でメリーは受けるべき講義が終わり、タブレットやノートを片付けていると、水が何かに当たるような音や、水が濁る音が聞こえたので「外は雨が降ってるんだな」と思い、傘をさす準備をしながら外に出てみると、雨などは一滴も降っておらず、雲間から浅い夜空に浮かぶ月が見えたという。
少し不審に思いながらも「まあ、聞き間違えたのだろう」と思いながら、持って来た傘を片手に西門か東大路通に出ると、特に買い物する用事もなかったので、真っすぐ家を目指していたそうだ。
百万遍交差点を超えて、今出川通を歩いていると、また何処からか水が何かに当たる音が聞こえた。その日は昼頃まで雨が降っていたので、わざわざ夕方に草木に水をやる人も、曇っているので道路に打ち水をする人もいるわけがない。もし、そのような不必要なことをする人がいたとしても「これは水を撒いてる音だな」と分かるし、聞き間違えるわけがない。
その水が何かに当たる音を表現するならば「雨が傘を叩く音」であったが、メリー自身も含めて、周囲に傘をさしている人は誰もいない。何故なら雨が降っていないからだ。その辺りから、何かおかしなことに巻き込まれていることに気付き、眼で周囲を見てみたが、結界の気配はどこにもない。
気味が悪い。そう思った彼女は早足で、夕闇が満ちようとしている路地を抜けていく。
雨が降る前に漂う、熟した果物を思わせる甘い匂いがする。何処からか雨足が訪れて、地面を雨が跳ねる音が聞こえたが、雨は降っていない。
もしかすると、これが「魔」なのでは?
今日持っている傘は、元々は私の黒い傘であり、あの菫色の傘ではない。だから彼女の元に「魔」が訪れたのかもしれない。
そう思うと、今度はその正体が少し気になり始めた。
冷静に考えると、今メリーの身に起こっているのは「音の怪異」であり、もしこれが「魔」の引き起こす能力一つであれば、結界が関係しているどうか判別は出来ない。彼女の目は結界と、それに属する存在が見えるだけであり、結界に属するものが引き起こす怪異を見ただけでは、これを引き起こしている者の正体は掴めないらしい。
雨は何処で降っているのか。試しに振り返って見ても、矢張り雨は降ってはいない。しかし雨が降る音はしている。
メリーはどうしようかと思いながら歩いていると、気付けば自宅のマンションの下に到着していた。
もう一層のこと菫色の傘を持ってくればいいのではないか?そう思った矢先、木の幹のようなものが折れる音と同時に、雨が激しく打ち付ける音が背後から聞こえた。
振り返って見ると、先程歩いて来たT字路の周辺だけ濡れており、水たまりも出来ている。まるで、その一帯だけに雨が降ったかのようだ。
T字路まで戻って周囲を見渡してみると、濡れている地面のあちらこちらに、白い何かの残骸があった。白い欠片を手に取って見ても、表面がざらざらして固いものと言うことしか分からない。試しに眼で見てみたが、それらは結界に属するものではないようだ。
暫く状況を整理していると、先程まで聞こえていた雨の降るような音は聞こえなくなっていることに気付いた。
メリーは足元の濡れたアスファルトを見る。これが「魔」だったのか?もしそうなら、状況からして「魔は居なくなった」と判断して良いのかもしれない。
だが、どうして? 自宅にある、菫色の傘に近づいたから?
この道から、部屋までは少なくとも五十メートル以上はある。そんなにも、あの傘の「魔を祓う」という効力は有効なのだろうか。
道の真ん中で考え込んでいるとき、視界の端に何か白いものがちらりと光った。無意識に光った方に視線を向けると、白くて胴がひょろりと長い獣が街灯の下で、こちらをジッと眺めていた。その瞳は人の目を思わせる大きさをしていて、こちらと目が合うと身を翻して、何処かに去って行った。
メリーは無意識に、その獣を眼で追っていた。
あれは。
〇
メリーはそこで言葉を区切り、暫く沈黙が続いた。陽は傾き、街灯の光が私たちを煌々と照らす。それは一寸ほどだったかも知れないし、数分だったかも知れない。けれども、彼女の表情が硬くなるのを見て、私は彼女が何かを引き当ててしまったことを実感する。
「あれは、あの白い獣は、一般的な生き物でも、結界に関係ある生き物でもない」
「それってつまり『正体のわからない生き物が、京都に住み着いている』ってこと?」
「そう。あれは恐らく、元々京都に住み着いている神秘、または妖と呼ばれるもの一つだと思う」
この話がメリーの口から語られたものでなければ、私はこの話を信じなかっただろう。
「つまり、都市伝説の生き物は実在するってこと?」
「そうなるわね」そこで彼女は一旦言葉を切って、私の方を見る「この話しには、まだ続きがあるのよ」
そうして彼女は話を続ける。
「その獣を眼で追っている時、丁度その獣が去っていく方向にね。貴方を見た気がするの」
一瞬、私は世界がぐらつくのを感じた。メリーの発言した言葉の意味が、上手く理解出来なかったからだ。
「それって、確証はあるの?」
「確証はない。でもあの人影は蓮子によく似ていたの。背丈とか帽子とか、私も偶然だと思ってた……ねえ、一つ聞いても良い? どうして、雨見道であの白い骨の傘に興味を持ったの?」
「それは」私はそこで、一旦言葉が詰まった。私は、あの傘によく似た傘を探していた気がする。しかし、その理由まではよく覚えてはいなかった。
「別に、何となくだよ」答えの見つからなかった私は、その場しのぎの言葉で返すと、彼女は少し強張った顔で話を続ける。
「その昨日見た蓮子の『ような人』の手には、細長い棒状のものに、本体よりも細い物が幾つか付いている物を持っていたの。それが何なのか今まで分からなかった。でも、雨見道で大量の傘と、貴方が興味を示した白い傘を見た時に確信したの。あれは、生地が貼られていない傘だって」
彼女はそう言うと、少し震えながら、私の手をそっと握る。
「ねえ、蓮子。何か隠してない? 本当に大丈夫?」
懇願するような顔で、メリーは私の顔を見上げた。
「大丈夫だって、何かあればちゃんと連絡するからさ」
私の記憶は揺らぎつつあった。私は本当に何も隠していないのだろうか。
メリーに心配されながら一乗寺駅についた頃には、既に夜の帳が落ち切っていた。
自分の記憶に自信が持てず、微かな頭痛と軽い眩暈に襲われた。ふらつくのを必死にこらえながら、適当な言い訳をして彼女と別れると、自動運転のタクシーに乗って帰路に着いた。
窓の向こうでは、街並みがコマ送りのように過ぎ去っていく。
彼女の言葉が、強く響く。私は玉のような汗をかきながら、必死に昨日の出来事を思い返していた。
大学から家に帰ると、シャワーを浴びて、オーディオブックを聞きながら晩御飯を食べた。晩御飯が終わり、私は机の前に座って専攻する学科の予習していたはずだ。
それから。確か、ふと甘い香りがしたから、私は。私は何をしていたのだろうか。
そう考えた時、私の左手に鋭い痛みが走る。手のひらからは血が滴り落ちて、乗っている座席に染み込んでいく。
激痛に喘ぎながら、窓の外をみる。そこにはコマ送りになった街並みではなく、深い闇が広がっていて、苦痛に歪む私の顔が映っていた。
先程からマエリベリー・ハーンの声が頭の中で響き、私の心と記憶を揺るがす。
痛みと記憶の混濁。私は思わず瞼を閉じた。すると、自分が瞼の裏側で、手足の先端から心臓に向かってゆっくりと溶けていくような感覚に襲われる。私はこの感覚に身に覚えがあった。
あぁ、そうか。と私は確信する。
これは、夢の中だ。
夢の中の自分が眠りにつき、現実の私が目を覚ます。
目の前には左右に天と地が平行に並んでいた。蛙の声がやけに響き、おどろおどろしい雲が京都の夜に蓋をしている。梢が微風に吹かれて騒がしく揺れ、何処からか水の流れている音が聞こえた。
初めはどこに居るのか見当もつかなかったが、周囲をよく見渡すと、そこは糺の森にある馬場であった。
ぬかるんだ泥が顔にへばりつくのに嫌悪感を覚えながら立ち上がると、後頭部に鈍い痛みが走った。
そう言えば、私はメリーの家の近くで。
一先ずこれまでの経緯を思い出していると、糺の森の翳の中から、ざらざらと何かを引きずる音が聞こえた。音のする方に目を向けると、馬場の北の方からシャベルを引きずってこちらに近づいて来る男性の姿が目に入った。
〇
私は受けるべき講義が終わり、図書館で用事が済む頃には、メリーの講義が終わる時間になっていたので、彼女が登校の際に通る西門付近で待ち伏せすることにした。
空は曇っているが、雨が降り出しそうな様子はない。自転車が幾つも並ぶ駐輪場の横にあるベンチに座り、部室から持って来た本を読んでいると、何処からともなく、ぽつぽつと傘に雨が当たる音が聞こえた。思わず顔を顰めながら、周囲を確認してみるが、雨が降っている様子はなく、行き交う学生も傘をさしている者は一人もいない。
聞き間違えだろう。そう思いながら、本に目を落とすと、また何処からか雨が傘を叩く音が聞こえた。それはどうやら私の左側から聞こえるらしい。どうせ、学生が何かしているのだろうと。と思い、特に確認することもなく、私は本を読むのに注力していた。
それが、いつまで聞こえただろうか。いつまで経っても雨が傘を叩く音は鳴りやまない。不審に思った私は、横目で音がする方に目を向けると、そこには白い骨ばかりの傘が、南棟の一階にある丁度講義室のある窓の前に落ちていた。
やっとみつけた。そう思いながら私は本を閉じて、その傘の元へ向かう。
不思議と先程まで賑わっていたはずの構内は、静まり返り、行き交う学生もいない。私は今度こそ、誰にも邪魔をされることなく白い傘を手に取る。そうすると、白い獣が構内にある低木隙間から這い出てくると、私の前に現れてこちらをジッと眺めていた。
「これは、貴方たちの物ね」
そう言うと、獣は頷いたような動作を見せて、大きな目を三日月のように弛ませて笑う。
私はやっと見つけたその傘を持って、構内の人気のない場所に向かい、白い獣も私の横に沿って歩く。そうして東棟の非常階段付近にまで辿り着くと、私は「この傘を、メリーに渡せば良いんだよね?」と白い獣に聞いた。彼はまたも、頷いた動作をみせる。
「やっぱりね」と私は呟き。白い獣に見せつけるように、白い傘を剣道の竹刀のように大きく頭頂まで振りかぶる。そして、勢いよく東棟の壁に叩きつけた。
傘は丁度真ん中から折れ、白い破片が宙を舞う。私の隣にいた白い獣は、すぐさま私から距離を取ろうとしたが、それよりも私の蹴りが獣の腹に当たる方が早く、獣の体も白い傘と同様に東棟の壁に激突した。
白い獣が逃げないように、傘だった物を片手に持ちながら急いで獣の元に近づき、その腹を踏みつける。顔だけを上げてこちらを睨みつける獣に向かって、私は。
「彼女には手を出すな」
と言った。それは自分でもゾッとする程低く、恐ろしい声であった。
私は獣の体を踏みつけたまま、砕けて先端が鋭利になった傘を獣の首元にグッと押し込んだ。動かなくなるのを確認すると、白い獣の遺体を東棟の近くにある林に捨てた。
時間を確認すると、既にメリーが受けている講義の終了時間を少し超過していたので、思わずため息が出た。「まあ、また会えるし」と思いながら百万遍交差点に向かい、北に上がろうとすると、右目の目尻が裂けるように痛み、思わず足を止める。
まだ終わりではない。
直感がそう囁き、私は進路を北から西に変えて今出川通を進み、適当な所で左に折れて、彼女の住むマンションに向かう。暫くすると、先程と同じような、雨が傘を叩く音が聞こえた。しかし、その音は先程と違い、時間が経つと私の元から離れていくのが分かった。つまり、移動しているのだ。
もしやと思い、急いでメリーの住む家の方角に進んでいくと、雨が傘を叩く音が近づき、彼女のマンションが見え始めたころ、白い傘と木刀を持った男性が、何かを伺いながら電信柱の影に隠れているのが見えた。
「メリーを狙っている」そう確信した私は、目に付いた住宅の庭に置かれているシャベルを手に取ると、走りながらその男の後頭部に向かって振り下ろした。
シャベルが後頭部にめり込むと同時に、パンっと水風船が弾けたような音が聞こえた。その瞬間、男の体から大量の水が噴き出し、私は大量の水に殴られた感覚と共に後方に吹き飛ばされる。勿論、受け身なんて取れるはずもなく、一旦宙に浮いた体は、人形が床に落ちるようにして地面に叩きつけられた。
アスファルトの上を転がり、全身の様々な箇所が痛みを訴えた。どこが重症なのかも分からないまま顔だけを上げると、遠目から半分に折れた白い傘が道に落ちているのが見えた。
私は傘を壊そうと思い立ち上がろうとしたとき、左の角からメリーが現れ、白い傘に手を伸ばそうとする。「それに触れないで!」と叫ぼうとした時、頭上から大きな鐘の音が響く。その瞬間、自分の神経が全て切れたかのように体は地面に崩れ落ちる。
鐘の音と共に訪れた頭部の違和感は、少しすると激痛に変わった。数秒程して、ようやく私は後頭部を誰かに殴られたことに気付いた。
痛みが意識を蝕み、世界が暗転していく。視界が闇に沈む前に見た光景は、メリーが白い傘を持ち、白い獣と何処かに歩いて行く姿であった。
獣は横目で私を見ると、少しだけ眼を弛ませた。その顔はまるで、笑ったようにみえた。
〇
頭部の痛みに耐えながら林の中に逃げ込むと、先程私が居た場所にシャベルを持った人は立ち止まり、地面にそれを突き立てた。
遠目から様子を窺っていると、それは人ではないことに気付く。
一見すると、人の形をしているが、顔のような部分には、あるべき眉、鼻、口がなく、のっぺらぼうのような風貌をしている。体は上手く立つことが出来ないのか、軟体動物のように体をくねらせながらバランスを取って立っている。その姿を見て、ゴムで作られた人形に水を入れて無理に動かすと、このような動きになるのではないか。と考えた。
メリーのもとに傘を運んだのは、恐らくこのゴム人形だろう。それに、彼が手に持っているシャベルは、恐らく私が殴りかかった際に使用した物とよく似ている。状況からして、白い獣の仲間に違いないが、獣より知能は劣っているようだ。実際に、草陰から彼の様子を観察しているが、先程から私が倒れていた場所で右往左往するばかりで、それ以外の行動は一切しない。まるで出来の悪いロボットのようだ。
ここで始末していた方が良いかもしれない。
草むらの中から周囲を見渡すと、北の方に青白い光が微かにみえた。音を立てないように草をかき分けて慎重に光の元に行ってみると、光の正体は屋根付きの自転車置き場に設置してある蛍光灯のものであった。そこで何か役に立つものがないか探してみると、自転車置き場の裏に、野ざらしにされた鉄杭の束を幾つか見つけた。試しに束の中から一本鉄杭を引き抜くと、長さは凡そ一メートルぐらいだろうか。錆と泥だらけだが、杭としてはまだ使えるように見える。
幾つかある鉄杭の中から、一番丈夫そうなものを選び、私はもう一度ゴム人形のところが見える場所まで戻った。彼は相変わらず私の倒れていた場所で、一人呆然と佇んでいる。感情が読み取れないが、恐らく困っているのだろう。
手の中でひんやりと存在感を放つ鉄の杭を握りしめて、襲い掛かる機会を待つ。彼の動きは極めて愚鈍に見えるが、この杭を彼に突き立てるまでは油断は出来ない。
風が止むと同時に音を立てないように草陰から馬場に足を踏み入れる。
ゴム人形と私の距離はほぼ十メートル。普段は意識することのない距離は、今日ばかりはやけに長くみえた。馬場に響く蛙の声が、やけに煩い自分の鼓動をかき消してくれていることを祈りながら、じりじりと距離を詰める。あと少し、あと少しが、永遠に伸びていく。
彼は背後から迫る私に気付くことなく、ふるふると体を不快な方向にくねらせている。その動きを見ているだけでも気がおかしくなりそうだ。
そして空気が張り詰めた馬場にパンっと、風船の割れた音が響き渡る。
ゴム人形に鉄杭を突き立てると同時に、彼の内側に内包されていた大量の水が噴き出し、またもや吹き飛ばされたが、雨でぬかるんだ地面の上なので、先程のアスファルトと比べるとまだ痛みは少ない。痛む後頭部に、擦りむいた膝。泥だらけのワイシャツとスカートを抱えながら立ち上がり、割れた男の元に行きシャベルを回収した。。
「私は、生き残ったんだ」
死中から開放された途端、死の恐怖が全身を包み、馬場に尻もちをつくように座り込んだ。あそこで目を覚まさなかったらと思うと、恐らく幸せな夢を見たまま死んでいたのだろう。
いつもの癖で夜空を見上げるも、そこにあるのは重々しい暗雲ばかりで、星も月も見えない。熟れた甘い香りが、糺の森に満ちている。葉はさらさらと風に煽られる。そして、今か、今かと雨が降りそうな気配だけが募っていく。
気絶しそうな程の疲労感に襲われながら、震える体を抱きしめて立ち上がる。
彼女を救わなければ。
その時、糺の森に流れる小川の近くにある草陰から、白い獣が木の間を縫って、鴨川の方へと向かうのが見えた。私は満身創痍の体を引きずりながら、覚束ない足取りで獣の後を追う。
彼女はどこだ。
深夜の京都の街に残響が残る程の声で獣に問いかけるも、それは振り向きながら厭らしい笑みを浮かべるばかりで、何も言わない。獣は秀穂舎を過ぎ、一之鳥居を超えた辺りで闇に溶けるように姿を消した。
私は足取りで鴨川デルタにあるベンチに座り込んだ。
鴨川は長雨によって酷く濁り、塵芥が加茂大橋の橋脚に纏わりつくのが見えた。濁流はごうごうと橋を揺らしながら、南へと下っていく。
彼女の行方を調べる手立てを考えたが、先程から目尻が裂けるような痛みに耐え切れず、前のめりで目を抑える。
何かが手遅れになっていくような焦燥感と、泥のように重い体。顔を伝う鬱陶しい汗を拭うことすらできない程に、上手く頭が働かない。早くメリーのもとに行かなければ、何もかも終わってしまう。
私は変わってしまった。何時からかは分からない、けれども変わってしまったのだ。
その発端は何時だったか。
ここ数日の記憶が纏まらず、夢と現実の記憶が入り混じり、万華鏡の中にあるガラスの欠片のように、頭の中でかちりかちりと、出鱈目に組み合わさる。
手足を縛られたまま、真っ暗闇の海に沈んでいくかのように、思考は精細を欠いていく。痛み、疲れ、恐れが混じり合い、何かを考えることすら儘ならない頭の中で、最後に思い浮かんだのは、秘封俱楽部のサークル部屋で、彼女が私に手渡した菫色の傘であった。
〇
私は出町柳駅に放置されていた自転車の鍵をシャベルで壊すと、それに乗ってメリーの自宅へと向かった。彼女の住むマンションは、今出川通にある路地を一本曲がった所にあったので、ものの五分足らずで到着した。
マンションの下に自転車を止めると、先ず彼女が傘の破片に接触した場所に向かう。そこには彼女がいつも使用している、見慣れた帆布生地のトートバックが落ちており、その中身が地面に散乱していた。私は落ちている彼女の私物をバックの中に戻しつつ、マンションの鍵を回収すると、それを使用して彼女が住むマンションの一室へと向かった。
彼女が住む五〇二号室の鍵を開けると、左側にあるシューズケースの上に、例の菫色の傘はあった。私はその傘を手に取り、念のため施錠をしてから家の中を見て回るも、当然のことながら彼女の姿はない。
私はメリーが使っている座椅子に腰を掛けて、菫色の傘を握りながら深く眼を瞑る。
訪れた魔。骨だけの傘。彼らは何処に彼女を連れ去ったのか。
魔の正体はあの白い獣であり、その近くに白い傘は現れる。つまり、獣と傘は一つの形なのだろう。
獣と傘が結びつく場所は、この京都では恐らく知恩院しかないはずだ。
私は何になったのか。
「私は、傘になった。彼女の傘に」
全身に感じていた疲労感と痛みが引いて行き、獣に対する怒りと憎しみが私の四肢を支える。
菫色の傘を片手に、私は部屋を飛び出した。一刻も早くメリーを救い出す為に。
空には暗雲が垂れ込めている。そして街には熟した甘い果実の匂いが漂っていた。
〇
何故目が蛇のようになったのだろう。そう思いながら、窓に映る自分をジッと見つめる。
「蛇の目でお迎えって、こういう意味じゃないよね」と思いながら、傘を片手に大殿から繋がる集会堂に来てみたが、獣やメリーの気配はどこにもない。
私は一度大殿から出ると、今度は境内の東にある、濡神大明神に向かった。にわかに降り出した雨は本降りに変わり、景色は雨で白く煙る。雷が暗雲の向こうで蠢いているのが見えたかと思うと、低い唸り声のような音が響く。
その音はよく聞くと、獣の物であった。
何処から連れ出したのだろうか、濡髪大明神に続く石畳の階段には、複数の人たちが座り込んでいる。初めは先ほどのゴム男かと身構えたが、どうやら意識を無くしている本物の人間らしい。その近くに獣は座り込んでいて、こちらを気味の悪い眼で睨みつけていた。
私は倒れている人の中にメリーの姿はないか注視しながら階段を上がるも、彼女の姿は見つからない。そうして階段を登りきると、左手の門をくぐった先にある勢至堂が、夜の中にぬっとあらわれた。日中だとさぞ荘厳な風格を漂わせているのだろうが、獣臭い香りが雨の匂いと混じり、厭な匂いが漂っているのも一役買って、この状況では怪談の一幕にでも登場しそうな不吉な寺院にしか見えない。
そんな勢至堂の庇の下に、メリーは白い傘を大事そうに抱えながら寝そべっていた。
急いで彼女の元に駆け付けて、その手から白い傘を引きはがす。そして先程から感じていた視線の方向、彼女の背後に広がる深い暗がりに白い傘の石突を向けて、勢いよく投擲した。
傘の先端は真っすぐ暗い翳の中に吸い込まれ、深い翳の底からぐもった呻き声が微かに聞こえると、板の廊下を歩く小さな足音が私たちから離れていくのが聞こえた。
私は平たい石の上に倒れているメリーを優しく抱く。どうやら深く眠っているようで起きる気配はない。どうやら外傷もないようだ。
庇の向こうでは雨が降っている。東にある山からは、葉の上を愉快そうに跳ねる雨の音と、雷がその身をうねらせて響かせる轟音が聞こえてくる。
それでも、私の耳に深く残るのは。私の膝を枕にして眠る、メリーの寝息だけであった。
「安心しておやすみなさい、メリー」
微かに感じていた複数の獣の気配も、気が付けば消え失せ。彼女の目が覚めるまで、傘は与えられた役目を全うした。
〇
京都に垂れ込める雨雲は人の気持ちを顧みることなく、ざあざあと雨を降らせている。
飛沫で煙る街中を人々は丸い傘を背負いながら、大雨に対して勇猛果敢に立ち向かう学生、教員、近隣住民等々の姿を、私とメリーは大学の近くにある進進堂の中からぼうっと眺めていた。
メリーは手癖で、手元にある紅茶を匙でかき混ぜると、ちらりと私の顔を申し訳なさそうに見る。
「ねえ、蓮子。眼の端っこのところ、本当に大丈夫なの?」
「うん。だから大丈夫だってば」
メリーはあの夜の記憶が殆どないらしく、私の膝の上で目覚めた時には、状況を把握するのに数分を要した。そして「とりあえず、全部私のせいで何かが起こった」と早合点すると、すぐさま膝の上から離れ「ごめんなさい!」と、朝の知恩院に彼女の声が響いた。
私の目尻に出来た裂傷も自分に原因があると思っているようで、何度も「メリーには関係のない傷だ」と説明しても信じてもらえず、仕舞には「薬代をださせてくれ」と言うようになり、暫くの間、私にお金を渡したいメリーとの不毛な争いが数日間続いた。最終的に「怪我が治るまで、喫茶店かカフェで私に一杯奢る」と言う、自分でもイマイチ理解し難い条件で話は落ち着いたが、今となっては良い話の着地点だったと思う。
メリーを「魔」から救い出してから、早二週間。白い傘と獣の気配は完全に消え失せ、蛇のように大きく見開いていた眼も以前と同様の形に戻った。個人的に「蛇の眼に似た眼特殊メイクみたいで素敵だったのに」と思っているのだが、口外はしていない。
雨の日の進進堂は、まるで湖の底にあるかのように店内は暗く、ゆったりとした時間が流れて行く。そんな店内で雨が小雨になるまで、たっぷり二時間程話尽くしてから、外に出た。
そうして私たちは、二人で菫色の傘の下に入り、雑談しながら今出川通を歩いて行った。
一つは質素な黒い傘であり、猫のしっぽのように曲がった持ち手には、彼女が他人の傘と間違わないように目印の黒いリボンが結び付けてある。これは私が彼女の家に置いて帰り、持ち帰る機会を逃し続けた結果、彼女の私物になった傘だ。
もう一つは生地が菫色で、上品な白いレースが幾つも縫い付けてある傘だ。一見すると日傘に見えるのだが、れっきとした雨傘らしい。これは彼女の誕生日プレゼントとして家族から送られたものらしく、普段から丁寧に扱っているので、使用している場面はあまり見たことがない。
私は彼女が残した菫色の傘を持って、石畳の階段を昇り三門をくぐる。玉砂利の踏みしめる音が響く境内を注視しながら歩いていると、大きな翳に覆われた大殿の方から、古い木の匂いと、仄かに鼻に着く獣の臭いがした。
何処かで雫がぽつりぽつりと滴る音が聞こえ、遠雷を孕む暗雲の気配を感じる。
大殿に繋がる段木を土足のまま上がり、廊下に足を置くと、鳥の鳴き声のような木のきしむ音が聞こえた。廊下を歩きながら臭いの元を辿ってみると、やがて内部に繋がる引き戸が開いている箇所を見つけた。どうやら臭いはその戸の奥から漂ってくるらしく、私は大殿の内部に足を踏み入れる。
本来であれば仏像が飾られているはずだが、今は照明も切られており、夜が大殿の中に満ちていて全貌は分からない。以前彼女と訪れた時の記憶と、窓から差し込む小さな外灯の光だけが、唯一の頼りであった。
外灯が差し込む淡い白々しい光の中に、寺院の翳から染み出てきたようにぬるりと這い出た一匹の獣が、私を見て身を翻す。獣の瞳孔が窓から差し込む外灯の光で、一瞬だけ光を帯びた。その眼は獣の細い輪郭に似つかわしくない程に大きく、まるで人の眼のようだ。獣は私を一寸眺めたかと思うと厭な顔で笑い、暗がりの中にさっと飛び込んだ。
私は透かさず、獣の着地点を予測して菫色の傘のハンドルを持って振りかぶり、獣の胴体をすくい上げるように振り抜くと、獣は人の声を思わせる悲鳴を上げて、板壁へと鈍い音と共に衝突した。
獣を仕留める為に、床に力なく横たわった獣を靴底で踏みつける。耳元まで裂けた口角からは、人の歯によく似た歯を覗かせ、そこから細い息の行き交いする音が聞こえる。抵抗する気力がないのか、白い毛並みが荒く波打つのが靴底からよく伝わってきた。
獣は水底のように暗い眼で私を睨みつけたかと思うと、人の笑みのように口角をあげる。それは幾度となく見た、下卑た笑みであった。
足の裏から伝わる嫌悪感を始末する為に、傘を直角に振り上げて、それの首元に狙いを定める。そして、鋭利な石突を勢いよく振り下ろす。
ダンッと、乾いた音が寺院の静寂に響く。石突が獣の喉元を突き抜けると同時に、私の靴底がひょろ長い胴体を踏みつぶす。足の裏から肉と骨が混ざるような、妙な感覚が足の裏から伝わった。
傘の石突を引き抜き、獣を足蹴にして壁の方に追いやってから大殿から外へ出ると、ぽつぽつと、雨が屋根を叩く音が聞こえた。私は傘に付着した血をどうしようかと思いながら、屋根のある外廊下を歩いていると、もう一つの建物に繋がる廊下橋が架かっており、その橋の上からは寺院の庭に設けられた濡縁と控えめな枯山水がみえた。橋を渡りながら濡縁を眺めていると、濡縁の隅に水道と桶を見つけたので、橋の欄干の隙間から、濡縁の柔らかな苔の上に降りて水場まで辿り着くと、石突と傘に付着した血を綺麗に洗い流した。
竹が風で揺れる音が深い翳りの中から響いて来る。陰雲は空を覆い、少しずつ雨を降らせている。壁面に付けられた外灯は、白々しく枯山水をぼんやりと照らす。
血を洗い流した傘を軽く振って水を掃うと、濡縁のそばにある大きな窓に映る私と目が合った。
そこには、白々しい外灯に照らされた私がうっすらと浮かび上がっている。自分の瞳は気付かない間に随分と大きく見開いていて、それはまるで、血走った蛇の目を思わせた。
〇
陰鬱とした仄暗い雲が空に停滞している空を眺めながら、熟れた果実のような少し甘い香りと、体に纏わりついた湿気に嫌気を感じながらも大学へ向かう。
私は叡山電車の元田中駅から少し離れた、白川疎水通りの住宅街にある「金月洋装アパートメント」というマンションに住んでいる。そこから大学までは歩いて二十分と少し。昔は元田中駅付近から百万遍交差点辺りまでバスが走っていたそうだが、私が生まれる少し前にバスは全面的に廃止されて以降、バスに変わる公共交通機関は存在しておらず、東京から引っ越して早々に「もう少し大学から近いマンションを借りれば良かった」と後悔した。
アスファルトが白い飛沫で煙る。傘の上を跳ねる雨粒の低い音を聞きながら、ざあざあと降りしきる雨の中を進む。雨が降るのは仕方のないことではあるが、それに伴い衣類が濡れてしまうのは、朝から不愉快にならざるを得ない。雨の日でも自転車が使えるように、雨合羽でも買おうかと思いながら、とぼとぼと東大路通を下る。
元田中駅の踏切を過ぎた頃から、雨脚は益々強くなった。
すれ違いざまに、傘をさして歩く人の横顔をちらりと覗いてみたが、一見愉快な丸い影を背負って歩く外見とは裏腹に表情は重い。それに釣られて、私の気持ちが更に重くなるのを感じた。
気分が乗らない。今日はもう大学を休んでやろうか。と思い始めた時、左の角にある道から鮮やかな色合いの雨具を身に着けた小学生ぐらいの子供たちが現れて、私の脇をすり抜けて行く。大雨だと言うのに、その表情は溌剌としており、誰一人として暗い表情の子供は居ない。カラフルな傘に、何かのキャラクターがプリントされた雨合羽。楽し気な色合いの長靴をはいて、水溜まりをものともせずに駆け抜ける子供たちを見送ると、私は「雨の子供たち」という絵本の挿絵が脳裏に浮かんだ。
「雨の子供たち」とは、梅雨間だけ雲の国から地上に遊びにやって来る子供たちの物語で、私が幼い頃から気に入っている本の一つだ。
「本物の雨の子供たちみたい」と私は呟き、鬱々とし心に少しだけ陽が射しこむ。
俄かに心が躍り出し、その子供たち倣って駆けだしたくなった。そして、気づけば自分の足は軽やかに動き始め、東大路通を走り出していた。
〇
大学の北門をくぐり、本日の講義が行われる南棟に到着する頃には、全身のあらゆる箇所が水分を含み、ぎゅっと絞れば水がしみ出しそうであったが、不思議と清々しさを感じていた。濡れた靴下の心地悪さを踏みしめながら、通いなれた南棟にある講義室に入ると、室内は随分と冷房が効いていて、濡れそぼった私の体には少し寒かった。
講義室を見渡すと、既に私の友人であり同じサークルに所属する、マエリベリー・ハーンが中段の席に座っていたので講義室の階段を幾つか下り、いつもと同じように彼女の隣に座る。
「おはよ、メリー」
メリーと言うのは、私が勝手につけた彼女への愛称だ。「マエリベリー」と思わず舌を嚙みそうになる名前を呼ぶのが難しいので、愛称と略称を込めて私は彼女のことを「メリー」と呼ぶことにしたのだが、呼び始めた当初は「そんなに発音が難しいのかしら」「それは蓮子が舌足らずだからじゃない?」と散々小馬鹿にされたのだが、弛まぬ努力の結果、現在ではマエリベリーと呼ぶと「なんだいきなり」と懐疑的な顔をされる程に、メリーと言う愛称を染み付かせることに成功したのだ。
彼女は鮮やかな金色の髪と瞳を持っており、異国情緒漂う見た目だが、日本人なのか帰国子女なのか、はたまた二世なのか定かではないし、今更つまびらかにする必要もないと思っている。彼女は私の方を見ると少しだけ言い淀み、怪訝そうな顔をする。
そして「なんで傘もあるのに、そんなに濡れてるの?」ともっともな疑問を口にした。
「雨の中を走ってきたから」
「走って来たって……」メリーは左手を翻し、腕時計を見た「講義が始まるまで、あと三十分以上あるけど」
「うん、まぁ、色々とね」
「色々ねぇ」
絵本の中に出てくるような子供たちに触発されて。とは言えず、適当に濁して答えると、彼女は何故か少しだけ恥ずかしそうに、鞄の中から一枚のストールを出して私の肩にかけた。
「とりあえず服が透けてるから、貸してあげるわ。服が乾くか、今日の放課後ぐらいにでも良いから返して」
その言葉を聞いて私は思わず自分の服を見ると、ブラウスが体に張り付き、明瞭ではないが滲むように下着が透けてみえていた。火が付いたかのように羞恥心が頭部から全身に広がり、すぐさまストールで胸元を隠すと上手く前で結び、外套を羽織っているような見た目ではあるが、とりあえず麗らかな女性としての尊厳は保てる状態にまで持ち直すことが出来た。
「……ありがとう」
「子供じゃないんだから、気を付けなさいよ」それにしても、と彼女は付け加える「どうして走って来たの?」
「それは、言えない」
「はあ」
まあ、別にいいけど。そう言うと、メリーはタブレット端末を眺めながら前回の講義内容を復習し始めた。ようやく彼女の追求の手が緩んだことに安堵しながら、私も彼女に倣って講義内容の復習を始める。
周囲の騒めきが遠のく、耳から取り入れる情報を無意識に脳が取捨選択して、思考の泉へと沈んでいく。騒めきは固まりから細かく小間切れになり、私たちの静寂へと向かう。周囲の声が不明瞭になり、声にモザイクがかかり始めた時、薄っすらと不思議な動物の話が聞こえた気がした。
〇
朝の講義が終わると、私は次の講義まで幾らか時間があった。
「メリー、この後は?」私たちは手際よく筆記道具やタブレット端末を鞄にしまうと、周囲の雑踏に紛れながら講義室を出た。
「三階の講義室に移動。蓮子は?」
「次は昼から。じゃあここで一旦お別れね」
「そうね。ちなみに、今日講義を終わるのは何時ぐらい?」
「十六時ぐらいかなぁ」
「私もそれぐらいだから、もし良かったらサークル部屋で合流しない?」
「良いよー」
そう言ってメリーに別れを告げて数歩歩いた時、何の気なしに後ろを振り向くと、廊下の角へと消える寸前のリネンワンピースの裾を揺らす彼女の後ろ姿が見えた。右手には帆布のトートバッグと、よく彼女の家で見かける菫色の傘を持っていて、私はその傘を持ち歩く彼女を初めて見た。
確かあの傘は彼女にとっては大切な傘だったはずだ。それなのに、このように雨脚が強い日に持ち歩くのは、なんだか妙に思えた。
「メリーになにかあったのかな?」
そんなことをぼうっと考えている間に、本日受けるべき講義が全て終わり、ようやく本日のタスクを解消したことを告げる雑談が教室に響き渡る。私は手早く教材とタブレットを片付けると、本部構内の一番隅に追いやられた東棟に向かう。
東棟とは本部構内の一番東の端にある、鉄筋コンクリート造の三階建ての建物であり、外見はシンプルに灰色の箱に正方形の窓をそれらしく張り付けたもの三つ重ねているような見た目で、特別特別な外見ではないものの、その箱の中身は如何にも活動内容が不明な得体の知れないサークルの巣窟であり、私が所属する「秘封俱楽部」というサークルは、東棟の三階、日夜素麵の甘辛い汁の匂いが漏れ出す「素麵研究会 おてもと」の隣に存在する。
秘封俱楽部とは、私とメリーで立ち上げた、所謂「霊能力サークル」である。
活動な主な内容は、この科学世紀でも解明することが困難とされている「結界」がある場所の調査だ。
基本的に余程大きなものでなければ、結界は肉眼で捉えることは出来ないが、私の友人であるメリーは、何故か大小関わらず結界を肉眼で目視出来ることが出来る。さらに特殊な磁場を使用した装置でなければ結界の中に入れないのだが、彼女は手ぶらで結界の中に入ることすら出来るのだ。まさに結界研究者たちにしてみれば、夢のような人材であるが、周囲には秘匿としていた。
一方私には、彼女のような如何にも「オカルト」の香ばしい匂いが漂う能力は持ち合わせてはいないが、「星を見れば時間が、月を見れば自分の現在地が分かる」と言う、私ですら使い道に困る微妙な能力がある。しかし、秘封俱楽部の活動上意外と使い道があり、少なくともこの能力が生かされ始めたのは秘封俱楽部の活動が始まってからだ。
この妙な能力が互いを引き合わせたのかは不明だが、メリーとは講義で同じグループに組まれた時から馬が合い、気付けばサークル活動がある時も暇な時も、時間が会えば秘封俱楽部のサークル部屋でだらだらと過ごすことが多くなった。
湿気と素麵のつけ汁が渾然一体となった空気が漂う部屋の前を通りすぎ、何気なく左にある窓から外を見下ろすと、百万遍交差点に向かう傘が連なり、まるで紫陽花のようであった。
窓の下の見送りながら更に東棟の奥に進むと、続いていた窓の列が途切れ、消火栓の放つ赤い光の筋と、非常階段の緑の光が煌々と照らす暗い廊下の隅に「秘封俱楽部」のサークル部屋はある。
雨で窓が開いていないせいか、三階の行き止まりに位置する部室付近の空気は芥のように濁っており、妙に鼻に着く埃っぽい匂いがした。
ドアの小さなフックに吊り下げられている「秘封俱楽部」と書かれた薄い掛札を揺らしながらドアを開けると同時に、乾いた音が人気のない廊下に響く。部室内は蒸篭のようなありさまで、立ち込める熱気と湿気に、玉のような汗が幾つか背中を滑り落ちる。部室に一足踏み込むと、早々にドアの右側にある空調のスイッチを押して、冷気を含んだ空気で居室内に蔓延る熱気を押し流す。
長方形の無機質な部屋の真ん中に存分に使い古された木製の長机に、ちらほらと錆が目立つパイプ椅子が等間隔で並んでおり、それの窓際の方の椅子に腰をかける。南側にある窓からは木々に遮られながらも本部構内の年中見栄えがない風景が広がり、角度によっては大学のシンボルである時計台の端が見えないこともないが、見えたところでどうにもならない程に立地は悪い。排出される冷気で、汗を吸ったシャツが肌に張り付くのを感じながら、右奥にある本棚の隣の壁に埋め込まれている棚に鞄を置いて、メリーに部室に居ることを伝えるメッセージを送ってから少しすると、彼女から短いメッセージが返信された。どうやら暫くこちらに来るまで時間がかかるらしい。
私は彼女が来るまでの間、去年「下鴨納涼古本まつり」で購入した本が無造作に詰め込まれている本棚から、まだ読み止しの色褪せた文庫本を抜き取り、しおりが挟んでいるところを開いた。
窓にぽつぽつと小突くようにして雨水がぶつかり、緩やかに窓の表面を伝う。その向こう側では、深緑を纏う木々が緑葉をぬらりと光らせていた。時折隣人である素麵研究会の論争が聞こえるものの、そんなことは日常茶飯事なのでわざわざ気にも止めることはなく、サークル部屋はいつも通りの孤独と静寂に包まれている。
数ページ本をめくった所で不意に部室のドアが開き「暑い暑い」と言いながら団扇で自分に風を送るメリーが現れた。絹のようなブロンズ色の髪を頬に張り付けた不快感に溢れたその顔は、部室に一歩踏み出すだけで「いやぁ、蓮子が先に居てくれて助かったわ」と安堵した様子で言った。
「お疲れ、今日の授業はどうだった?」
「微妙。知識を見せびらかすだけ講師の話を聞いて疲れる」
メリーはうんざりした顔で否定的に手を横に振りながら、棚に鞄と鮮やかな菫色の傘を置く。
「メリーがその傘使っているところ初めて見た」
「そう?たまに使ってるわよ。壊れる心配はない時はね」そう言うと彼女はその傘の緩やかな弧を描く持ち手を軽くなでる。「大切な物だけど、道具は使われるために生まれて来たんだから、使ってあげないと何だか可哀想だし」
「メリーの感覚、私には分からないなぁ」
「蓮子は精神的鍛練が足りないのよ」
それに。と少し呟き、メリーは話を止めて、棚に置いてある傘をジッと見つめた。
「それに?」
「それに、『雨の日は持っておいた方が良い』って言われてるの」
そらそうだろう。と私は思った。傘は雨が降れば使用する道具であるし、不思議なことではない。
「なにか別の意味があるの?」
「あるのよ、この傘には」
メリーは私の質問に対して嬉しそうに笑うと、頬に張り付いた髪を指先でいじりながら口を開いた。
これは、彼女が母親から聞いた話である。
〇
メリーの持つ傘は、彼女が母から貰ったものだが、元々は祖母から母に送られたものらしい。
彼女の祖母が菫色の傘を買ったのは大学生の頃で、場所は一乗寺辺りにある骨董屋。祖母は若いころから、骨董品を集めるのが趣味だったらしく、暇さえあれば骨董屋を巡っては、自分の鑑定眼と直観だけを頼りに、骨董品からガラクタと呼ばれる類まで様々な物を収集していた。それは年老いてからも変わらず、晩年住んでいた祖母の家には様々な骨董品が綺麗に飾られていて、今でもそれはメリーと祖母数少ない思い出の一つらしい。
季節は八月。日課の骨董屋を巡っていた時に、偶然立ち寄った一乗寺にある骨董屋に、菫色の傘はあった。お店には貝殻に掘られた龍のブローチ、気の抜けた狸のお面、桃色の手ぬぐい、他にも興味が惹かれるものが数多にあったけれど、最後に手に取ったのはやっぱりこの傘であった。
漆塗りで濡れたように光るハンドル、菫色の小間の縁には控えめなフリルが縫い付けてあって、広げれば紫陽花のようにきらめく。天紙より少し下に薄っすらと日輪の模様が添えられていて、骨組みと露先にも錆は見られない、ネームのしっかりと縫い付けられてあって、スラっと傘をまとめてくれる。「この傘を見抜いた自分はなんて素晴らしい鑑定眼なんだろう」と自らの才能を褒め称えたらしい。
そして、祖母がその傘を勘定場に持って行った時、そこに座る店主にこう言われたそうだ。
「京都は梅雨時期になると魔が訪れるから、この傘を魔除け代わりに持っていた方が良い」と。
祖母はその言葉の意味が上手く理解出来ず、思わず聞き返したが、それ以上は教えてくれなかった。後に冷静になって考えてみれば、からかわれたんじゃないかとも思ったが、それでも店主の言葉が妙に耳から離れず、祖母は京都から離れるまで、梅雨の時期になるとその傘を持って出かけていたそうだ。
その傘を買ってから突然奇妙なことが起こった。なんてことは無くて、むしろこの傘が縁となって、学生時代に知り合った祖父と付き合うきっかけになったらしい。そうして、この傘と何十年も共に過ごした祖母は、メリーの母親が結婚する際に「縁起物だから」と言って、菫色の傘と、その傘の逸話をまつわる逸話をプレゼントした。
母親は祖母の話を聞いて、「いつもの自慢のコレクションの話」だと思いながらも何となく聞いていたが、思いのほか不思議な話だけあって、鮮明に覚えていたらしい。
そして時は巡って、メリーが京都に旅立つと決まった日。彼女は母親から「京都には魔が居るそうだから」と言われ、菫色の傘と、その傘の逸話を誕生日プレゼントとして渡されたそうだ。
〇
メリーは話し終えると「ふぅ」と一息ついて、窓の外に目を向ける。
私もそれに釣られて、彼女と窓の外を見る。外の雨はいつの間にか軽雨となったが、灰が混じったような雲が空に堆積しているので、妙に小暗い景色が構内に広がっているのが見えた。
「魔ってなんだろう?」
「私にも分からない。言葉の響きからして、少なくとも良くはないものだと思うけど」
少し視線をそらして、部室の片隅でひっそりと佇む彼女の傘を盗み見る。話を聞いた後だからだろうか、その傘は普段よりも、やけに神聖なものに見えた。
「少しだけ触ってみても良い?」
「良いわよ」
そう言って、彼女の菫色の傘を手に取る。こう間近で見てみると、やはり美しい傘だと思う。
すらっとした外見に、瑞々しい菫色。ハンドルは手によく馴染み、石突きは凛としている。骨董品とは思えない程に骨もしっかりと組まれており、見た目以上に頑丈な作りであった。
試しにパッと傘を開いてみると、十二本の骨が緩やかなカーブを描きながら広がる。傘地は裏から見ると、はっきりとした菫色から淡い菫色に変わり、触れば手に付着するのではないかと錯覚してしまう。
「これは、本当に見事なものね」
「そうでしょう?」
「もしかしてメリーの祖母は、君と同じように良いもの見抜くような能力があったんじゃない?」
「親からも不思議な人だったと聞くし。もしかすると本当にそうかもね」
そうして暫く傘を眺めていると傘の中棒の部分に、うっすらと赤黒い汚れか錆か、見分けがつかないが物が付着しているのが見えた。私は無意識的にその汚れに手を伸ばし、感触を確かめる。表面はざらざらとしており、試しに爪先で削ると、それはすぐに取れた。爪に乗ったそれを指の腹で擦ると、指先がさび色に染まった。
「どうしたの蓮子?」
「いや、ここに汚れがついてたから」
メリーに先程汚れがついていた箇所を見せると「あ、ほんとだ」と言って、中棒の赤黒い部分に触れる。
「錆かな?」
「どうだろう。爪先で触れると取れたから、ただの汚れかも知れないけど」
「うーん、どうしよう。念のために見て貰おうかな」
傘の中棒をメリーが眺めている時、左手に生温いものを伝うのを感じた。
何だろうと、左手を見てみると、手の中央から生暖かい粘り気のある赤色が中指を通って、床にぽたぽたと滴り落ちていた。
私は思わず、わっと声を上げて驚くと、隣にいたメリーも同じ声を上げて、私の方をみる。
「どうしたの?」
「いや、血が」
左手を広げてメリーに見せると、彼女は朝の濡れた私をみるような目で、左手をジッと見つめた。
「何もついてないわよ?」
「え、そんなことは」
左手を見つめるも、そこには傷一つない手のひらがあった。
「どうしたの?蓮子、今日なんかおかしくない?」
「いや、でも確かにさっきまで」
しかし、何度見直しても、私の左手は綺麗なままだ。念のために左手全体を確かめてみても、血が出そうな箇所も、傷はふさがった痕も見当たらない。
サークル部屋の中に、沈黙が訪れる。窓を叩く雨音が部屋に響き、エアコンは冷ややかな空気を吐き出す。メリーは何か勘ぐるような眼で、私の方を見つめる。
「朝は傘を持っている癖に濡れて来るし、突然血が流れたと言って手のひらを見せて来るし」メリーは傘を畳んで棚の縁にかけると、私との距離をぐっと縮める「何かあったの?本当に大丈夫?」
メリーが心配そうに私を見上げる。どうやら彼女は私が何か厄介なことに巻き込まれていると思っているらしい。このまま勘違いさせるのも忍びないので、朝に濡れた状態で大学に来た理由を伝えると、呆れたように首を傾げた。
「つまり、朝のあれは、小学生に触発されて?」
「ええ、まあ」
「さっき手のひらから血が出たってのは?」
「それは私にも分からない。でも、本当にそう見えたの」
私の目を見ながら、メリーの両目が微かな光が灯る。これは彼女が「結界」を見ようとする時に起こる副作用のようなものだ。彼女は私の瞳をジッと眺めると、ゆっくりと質問をした。
「血は確か、傘の錆を触った時に見えたのよね?」
「えぇ、そうよ」
「今まで何かを触って『手のひらから血が流れる』ことを幻視したことはあった?」
「いいや、全く」
「血が流れるのを見た時、手のひらに痛みを感じた?」
「痛みはなかった」
メリーは私に対してのインタビューをさっと終わらすと、今度は菫色の傘をまじまじと眺め始めた。しかし、その確認は私を質問したときよりも手早くを終えた。
「結界の気配は、ないわね」
「それは良かった」
「良くないわよ」
そう言ってメリーは、何かをぷつぷつと呟きながら、パイプ椅子に腰を掛ける。私も追いかけるようにして、彼女の前にある椅子に腰をかけた。
「朝濡れて来た理由は、貴方の根底が随分無邪気だったからという理由で片付けられるけど。『血の幻視』は理由が明確でもないのに起こった。これが一番の問題よ」
「問題の発端が分からないということは、問題の解決方法も分からないからね」
「分かってるじゃない」
「でも、私の手のひらから出た血は、その傘を触って起こった。正確には中棒に付着していた錆のような何かかもしれないけれど。それが発端にはなりえない?」
「なりえる。かも知れないけど、私はこの傘を使ってきて一度もそんな現象は起こらなかったし、私も赤錆に触れたけど何もなかった。万が一、今まで偶然に起こらなかった可能性もあるけど。そんな幻視が見えるなら、私の母や、祖母が言い忘れることはないと思うの。それに、この傘から結界の気配が感じられなかった。これは、ただの綺麗な傘よ」
強い口調で傘の庇護をするメリーに対して私は何も言えず、これ以上「血の幻視」の原因を傘に求めることは一旦止めておいた。彼女と喧嘩するほど不本意なことはない。
「つまりメリーは、私に起きた現象には、別の要因が絡んでいると?」
「そういうこと」
「別の要因ねぇ……」
ここ数日のことを色々と思い返してみたが、不審な点は見受けられない。私の私生活は、基本的に大学と自宅を往復するか、大学の付属図書館や今出川通にある古本屋、もしくは大学の生協にしか立ち寄らないので、基本的に災いとは無縁であった。オカルト的な存在が絡んで来るのは、秘封俱楽部の活動か、メリーと一緒に居る時しかない。
その後も暫く「血の幻視」について色々と仮定してみたが、納得のいく答えが出ないまま、気づけば外は夕闇がちらつき始めていた。
〇
それじゃあ、また明日。そう言ってメリーと百万遍交差点で解散となった。
彼女の家は吉田上阿達町にある住宅街のほぼ中心にあり、私の住む白川疎水通りの自宅に比べればかなり大学に近い場所に住んでいる。
メリーの背中を見送ると、緩やかな坂になっている東大路通を北に進む。夕暮れの訪れと共に雨は止んだが、暗雲は相変わらず空に停滞しており、鞍馬山の向こうまで詰め込まれていた。濡れる心配はないのだが、その分蒸し暑く、汗の玉が私の背中を伝って降りていく。
空が厚い雲で蓋をされているせいか、空気がやけに重く、妙に息苦しい。まるでエアーレーションのない水槽の中に居るようだ。
緩やかな坂をのぼると、学生向けの食堂やカフェ、妙なスパイスの匂いが店先まで漂う異国料理屋や、店の喧騒が外まで響く居酒屋など、この辺は随分と賑わっている。しかし、元パチンコ屋の脇を通り過ぎて、元田中駅を渡った頃から、徐々に街から賑わいは消えていき、町の景観の一部と化した寂れた商店を幾つか横目に見ながら、街灯がぽつぽつと照らされる路地を進む。
時刻を確認すると、まだ十九時を過ぎて少し。暑いが雨の振り出す様子はなかったので、いつもの散策癖が働き、敢えて脇道に逸れて知らない道を歩きながら家に帰ることにした。
それにしても、メリーの祖母が骨董屋から聞いたという、梅雨の時期に訪れる「魔」とはなんだろうか。
無論、骨董屋の主人が作った単なる法螺話の可能性もある。信憑性はどれほどの物かは分からないが、それでも親子の間で口承され現代まで残っているということは、それだけ祖母がこの話に対して強い印象を持ったことに繋がる。
あの菫色の傘はメリーが言う通り、本当に「ただの綺麗な傘」なのだろうか。
私は自分の左手を見つめる。あの時、流れた血は何だったのか。もしかすると、私が魔だったから、傘を触った時に影響が出たのか。
「そんなわけ、ないよね」そう、夜を白々しく照らす街灯の明りの中で一人呟く。
なんと気なしに空を見上げると、そこには雨を抱えた雲が多く停滞している。その雲に反射した街の明かりのせいか、夜の底が少しだけ明るく、街全体が薄っすらと灰色に照らされていた。
ブロック塀で区切られた路地を抜けると、やがて小さな水路が脇を流れる道に出た。連日の雨で少し茶色く濁った水は南の方に流れており、その水路の奥の方からはごぼごぼと、やけに淀んだ重い音を響かせている。少しだけ水路に沿って東に進むと、水路の間にペンキの剥げた赤茶けた橋が見えたのでそれを渡り、住宅の明りを頼りに舗装されていない路地をすり抜けて行くと、いつしか通った覚えのある、自動販売機が数台並び、たばこの看板をかがけた元駄菓子屋のような小さな売店がある通りに出た。
元駄菓子屋の入り口はガラス戸になっているが、店内は随分と暗く伺い知ることはできず、そのガラス戸には私がぼんやりと映っている。やけに喉が渇いていた私は、自動販売機で適当な缶ジュースを買って一息つく。鞄からハンカチを取り出して額に溜まった汗を拭きながら、先程抜けた路地に目を向けると、街灯の下に何か白っぽい物が見えた。それは随分と細く、生き物が横たわっているようにも見えるし、何かの置物のようにも見える。
缶ジュースを飲みながらよくよく目を凝らしてみると、それは骨だけになった傘ということに気づいた。
長さは一般的な傘と同じような大きさだが、形状としては番傘のように見える。どこか外で飾られていたものが雨風に転がされて来たのか。それとも、ただ壊れたから捨てたのか判断はつかないが、メリーの持つ傘にまつわる話を聞いた後だったからか、その傘に対して特別な印象を持った。
じりじりと小さな音を立てながら灯る街灯、雨で湿る地面はその光を反射して水面のようにぬらりと光る。やけに息苦しい空気、止まらない汗。私は来た道を戻り、その骨ばかりになった傘に近づく。住宅街の路地には私の足音だけがこつこつと響いている。
傘の円柱状に並ぶ白い骨がありありと見えだし、あと一歩か二歩で傘が拾える距離に来た時、左手に鋭い痛みが走る。思わず左手に持っていた缶ジュースを手放してしまい、夜の街に高い音が響た。急いで左手を確認するも、特に変わったところはなく、昼間に見たような血の幻視もない。
その時、不意に周囲が暗くなる。
顔を上げると、そこには薄暗い路地が真っすぐ伸びており、その奥には先ほど渡ったペンキが剥げた橋が見えた。
私は自分が落とした缶ジュースの中身が地面に飲まれていくのを苦い顔で眺めると、缶を拾って先程の自動販売機の隣にあるごみ箱に捨てた。そうして、そろそろ帰ろうかと思い、自宅の方角に足を向けた時、遠くの方で白い胴の長い生き物が道を横切って行くのがみえた。
〇
ざっと降り出した雨が窓ガラスを叩き始めた頃、私たちは大学正門付近にあるカフェ「タリ・フォーラ」に来ていた。
店内は大変混雑しており、声がざわざわと波のように寄せては返す。「秘封俱楽部」の部室とは違い、空気は澄んでおり、外光も良く差し込む。カフェの北側は一面ガラス張りとなっていて、大学のシンボルである時計台がよく見える。時刻は十五時を少し過ぎていた。
私の目の前でブロンドの髪を後ろに結ったメリーが、円柱のロンググラスに入ったアイスティーをストローで少し飲んで顔を上げる。彼女の傍らには、元私の黒い傘が佇んでいた。どうやら今日は菫色の傘ではないようだ。
「ねえ蓮子。どうして同じ構内でも、部室とここでは、こんなに待遇が違うのかしら?」
「秘封俱楽部の部室が今更こんな洒落空間になっても違和感しかないけどね」
「まあ、そうだけどね。でも正直、めんつゆの匂いがしないのは羨ましいわ」
「……それはそうね」
「まあ、それは置いといて」メリーは秘封俱楽部の活動をまとめているノートを一冊鞄から取り出し、机の上に置く。「この前した、傘の話なんだけどね」
彼女はノートを幾つかめくり「傘について」と書かれた項目のページを開ける。
「もう一度お母さんに詳しく聞いてみたの」
そしてメリーは、再び菫色の傘の話をした。細部に多少変化はあったものの、大筋はあまり変わりない。傘の話を終えて彼女はひと段落付くと、一枚の写真を携帯端末に映してこちらに向ける。それはアルバムの一ページを撮られた鮮明とは言い難い、古い一軒家を改装したようなお店の写真で、ガラス戸の向こうには様々な道具が並び、店先には小さな大黒天が飾られて、ふくふくと笑っている。大きな屋号が書かれた看板を入り口の庇の上に掲げているが写真が薄れており読み取れず、写真の下には鉛筆で「京都 一乗寺付近にて」と書かれていた。
「これって、もしかしてあの傘を買ったところ?」
「ご名答」彼女は嬉しそうに笑う。「傘の話をした時に、祖母が買った骨董品や古道具屋の写真があったのをお母さんが思い出してくれたから、お願いして探し出してもらったの」
古道具屋の写真から、さっと地図アプリに切り替える。映し出された場所は一乗寺周辺であった。
「お母さんから貰った画像をネットで画像検索をしてみたら、このお店に外見が似ている所を幾つか見つけたのよ」
彼女は溌剌とした顔で、流れるように言葉を紡いでいく。話が終わる前に、凡そ言いたいことは既に予想がついていた。
「メリーは、そのお店を見つけたいってわけ?」
「ご名答。流石私の友人ね」そう言って彼女は、もう一度ストローに口をつける。私も倣うようにして、紅茶に口をつけた。
そう言えば私も傘について、一つメリーに質問したいことがあった。
「メリーは魔って何だと思う?」
「どうしたの、急に」
「いや、実はさ」
私はメリーに先日帰り道で考えていたことを話してみた。彼女は暫く沈黙したかと思うと、肩を震わせて吹き出すように笑った。
「貴方が魔? そんなわけないじゃない。正直で好奇心旺盛で、小学生に感化されて雨の中を走ってしまうような貴方が、そんな魔なんてことないわよ。まあ無邪気ゆえにお墓を動かす罰当たりなことはたまにするけど、少なくとも貴方の本質は純粋なはずよ」
「そんなに笑わなくても良いでしょ? 本当に悩んでるの。それに、お墓を動かすのは二人で考えたことじゃない」
「ふふ、そう言えばそうだったわね。その話はともかく、私は少なくとも蓮子は魔じゃないと思うわよ。魔とは言葉の通り、人ならざる者か、もしくは、私たちの理の外に居るルールで動く者たちのことでしょうね」
それに、と彼女は手元にあるノートをめくる。
「傘は元から魔除けとして使用される風習もあるみたいだし、傘に魔除けの効果があるってのは、そんなに突飛な話じゃない。あの傘はもしかすると、元々は雨の日に使用するんじゃなくて、家に飾る用途として作られたのかも知れないわね」
「なるほど」
「傘については追々調べるとして。それよりも、あれから何か変わったことはなかった?血の幻視とか」
「ないけど。強いて言うなら、昨日帰り道に左手が急に痛くなって缶ジュースを地面に落としちゃったぐらいかな」
「なにそれ、大丈夫だったの?」明らかにメリーが顔を顰めたので、慌てて左手を彼女に見せて、外傷がないことを伝える。
「うん、一瞬だけだったし。ほら、傷もないでしょ?たぶん筋違いか何かよ。そう言えば、あの日の帰り道にあれをみたわ、ほら噂の白い獣」
白い獣の噂とは。最近構内で囁かれている噂の一つだ。
噂によると、その生き物は、鼬のような細い胴体に、狐のような顔つきだが目と歯は人のようで気味が悪く、物陰から只々人をジッと眺め、時折厭な顔で笑うらしい。それらは、空き家、廃墟、人気のない路地、夜の公園、深夜の商店街、大学の構内等々、目撃情報は数多にあり。屋外であれば、どこにでも現れるそうだ。
「それって、あの白くて人の顔みたいな動物が居るって、一昔前の都市伝説みたいな奴よね?」
「そうそれ。昨日帰ってたら、それらしい生き物が道を横切ったの。遠かったから詳しくは見えなかったけど」
この噂に関してはメリーは「どうせ異種交配で生まれた動物か、外来種が京都に住み着いているだけ」と以前話していたので、それ以上話に踏み込んでくることはなかった。彼女はちらりと時計台を見るやいなや、慌てた様子でアイスティーを飲み干して席を立つ。
「ごめん、講義がもうすぐ始まるから。とりあえず明後日の土曜日に蓮子の家に行くから、また時間は連絡する」
そう言って彼女はアイスティー代を机の上に置いて、颯爽とカフェを後にした。雨はもう止んでおり、ガラス越しで構内を駆けて行く彼女の背中を見送った。
今日の講義を全て終えていた私は、大学に居てもやることがないので手早くぬるくなった紅茶を飲み干して外に出た。外はひんやりと心地いいカフェの店内とは違い、不快感を煽る湿気が蔓延っている。真っ直ぐ家に帰ろうかとも思ったが、次回の講義までに調べて置くことがあったので附属図書館に立ち寄ってから帰ることにした。
○
目を開けると、街灯もない夜の街に一人でぽつんと立っていた。それは、相変わらず蒸し暑い夜で、湿気が街を覆い、一歩足を踏み出す度に何処からか汗が流れる。空を見上げると、随分と久しい月と星々が雲間から顔を覗かせていた。
時間は一時二五分四十秒。場所は自分の夢の中。
夢の中でも見る月や星であっても時間と居場所が分かるのは違和感を覚えるが、私の友人曰く「夢と現実は一枚の膜を隔てて地続きに存在している」らしく、彼女からすれば何もおかしくはないらしい。
雲間から漏れる月明りが街を仄かに照らす。私は自分の夢だというのに、随分と飾り気のない、京都によく似た街並みをとぼとぼと歩いていく。
不快な電子音を漏らす古いネオン管の光を上げかけているスナックの店内から話声は聞こえるが、何処かおぼろげで、合成音声のような声に聞こえた。私の歩く道は随分と曖昧で、真っすぐ進んでいるだけなのだが、百万遍交差点ほどの広さがある道になったかと思うと、急に体を横にしなければ通れない程の道幅になる。幾つかの電柱が城壁のように連なって私を見下ろす道や、ブロック塀の代わりに書簡が永遠と積み重なっている道もあった。しかし、そのどれもが何処か胡散臭く、白けてしまう。
暫く道なりに歩いていると、やがて気が付けば道の両脇に人気のない祭りの屋台が並んでおり、色とりどりのりんご飴、湯気の出ているベビーカステラ、濛々と白い煙を吐き出す綿あめの機械が動いている。そこには私以外の人影は見えず、賑やかさだけが無理に街中に押し込まれたようだった。そのまま屋台街の中を歩いていると、やがて山のような駒形提灯が飾られている神社が見えたので試しに立ち寄ってみたが、そこにも矢張り人の気配はない。
とりあえずお祈りしようと思ったが、本殿らしき場所に近づくにつれて妙な生臭さが漂っているのに気付く。不快に思いながら、ようやく賽銭箱の前まで辿り着くと、肝心の賽銭箱は格子状の蓋が外されており、その中には大量の赤い金魚が泳いでいた。その内の一匹は、何かの拍子で賽銭箱から飛び出してしまったのか、賽銭箱の前で赤い体を痙攣させている。よく見ると、賽銭箱の周りには血が滴り落ちたかのように、赤い金魚の死骸が何匹も落ちていた。
どこか気味が悪く、急いで踵を返して参道を駆けていると、背後から軽快な音程で太鼓を打ち鳴らす音がした。
私は自分の居場所が分からないまま祭りの喧騒だけが漂う通りを抜けると、百万遍交差点に辿り着いた。
交差点から見える大学の西棟を見上げると、教室の全てに明かりがついており、多くの人影が窓越しで行き交うのが見える。西門の方まで回り込むと、本来であれば夜になると施錠される西門は開いており、その周りには駒形提灯の残骸と、高く積み上げられたガラクタが山と化していた。夜とは言え、勝手に大学構内に無断で入るのは面倒の元なので大学から聞こえてくる喧騒を見て見ぬふりをしながら東大路通を北に上がり、自宅を目指した。
夜の空気が私の足に纏わりつく。普段は飲食店で賑わう通りは閑散としており、いつもとは違う様相をしている。夢の中だから、と言えば説明はつくかも知れないが、明らかに私が何度か来た夢とは異なっている。
早く帰ろう。そう思い駆けてみるも、夜が足元を掬っているかのように上手く走れずに、あくせくしながらようやく元田中駅の踏切まで来た時、線路の中に白い何かが落ちていた。それは、一昨日帰り道で見つけた白い骨ばかりになった番傘であった。
なんで、忘れていたんだろう。あの日、傘を拾おうとしたのに。
そのことを思い出した時、踏切にあるスピーカーから甲高い音が出て、叡山電車の訪れを告げる。黄色と黒の遮断桿がゆっくりと下りるのを見ながら、急いで傘を拾おうと足を前に踏み出すも、水中に浸かっているかのように足が重い。
鼻先まで踏切に近づいた所で、東の方から訪れた電車がライトで夜を裂きながら目の前を横切っていく。車内はがらんどうであったが、きちんと元田中駅に停車して、暫らくしてから終着的である出町柳へと向かって行った。
電車が通過したあとだと、不思議と足は軽く、慌てて傘を確かめに行くと、そこには何もなく、ただ鈍い色をした線路が街灯の光を反射して、てらてらと輝いていた。念のため周囲を隈なく探してみたが何処にも見当たらず、もやもやとしたものを抱えながら、再び自宅へと向かう。
ようやく自宅のマンションに辿り着いた頃には、夢は綻びを見せて、私の周りにある風景が編まれた糸が解かれるように線となって消えていき、やがて足元も徐々に崩れて深い夢の谷底に引き込まれて行く。
そして、私が夢の中で眼を瞑った時、私は眠りから醒めた。
カーテンの向こう側には光が溢れ出ていて、時刻を確認すると正午五時過ぎ。クーラーをつけて寝たにもかかわらず、やけに寝汗が染み込んだ寝間着と下着にうんざりしながら、いつもの癖で携帯端末を手に取って電源を入れると、深夜にメリーからメッセージが届いていた。
そのメッセージには。
「明日。というよりも、もう今日だけど土曜日の十三時過ぎに蓮子の家に行くわ。それと、大学から帰った後って何かしてた?」と書かれていた。
妙なことを聞くものだと思いながら、大学で講義が終わった後は家に居たことを伝えると、私は汗で湿気た寝間着の上衣を乱雑に脱いで布団の隣に置くと、黒いブラトップのままタオルケットに包まりもう一寝入りした。
その後、目覚ましが鳴るまで目覚めることはなかった。
〇
待ち合わせの時間通りにマンションから出ると、大家が手入れをしている中庭があり、花壇に植えられた幾つかの花を眺めながら外に繋がる出入口に向かう、梅雨の時期だからか、蛙の鳴き声が庭にある林の奥からよく聞こえて来た。庭を越えた先にある入口の隣には、春になると引き込まれそうな程に妖艶なピンクに染まる枝垂れ桜があるのだが、今は新緑の葉をつけている。メリーはその新緑の影の下に立っていて「流石に家の前だと遅刻はしないのね」とすまし顔で言うと、少しだけ笑った。
「当たり前でしょ。というか、遅刻したのはあの一回きりなんだから、もう良いじゃない」
「はいはい」
そんな調子で私の批判をメリーは軽く受け流すと、私たちはマンションから左に進み、白川疎水を越えて一乗寺に向かう。私は京都に来て数年経つが、一乗寺に行くのは初めてであった。
雨は降らないと天気予報では言っていたが、今にも落ちてきそうな程に重たい雲が空に停滞している。雲と地上との間で蒸された空気は蒸し暑く、これなら雨が降っている方が幾分かマシに思えた。
灰色の街並みは休日だと言うのに、どこかまばらで人通りは少ない。
「そう言えばメリー、昨日のあれなんだったの?」
「あれ?もしかてメッセージのこと?」
「そうそれ、メリーが私に昨日何してたかって聞くの珍しくない?」
私がそう尋ねると、彼女は少し言い淀んだ。
「いや、実はね。昨日の十九時ぐらいに近所で蓮子を見た気がして、ちょっと聞いてみたの」
「なるほどねぇ。その時間は家にいたから、たぶん他人の空似でしょう」
そうやって適当に話しながら住宅街を歩いていると、一乗寺駅前に辿り着いた。
一乗寺駅周辺は、俗に言うベッドタウンであり、都心に比べると閑静な住宅街が立ち並び、科学世紀以前の街並みを色濃く残している。駅に併設された商業施設からは、休日と言うこともあってか、買い物客が頻回に出入りしているのが見えた。そんな買い物客を待ち構えるように、施設のすぐ前にあるロータリーには古い型の自動電気自動車が数台停止していて「空車」の赤い文字をフロントガラスに表示させている。
駅前の雰囲気は何処となく、私の実家である東京の雰囲気によく似ており、どこか懐かしさを覚えた。もしくは都心から少し離れると、このような風景はどこにでもあるのかもしれない。
一乗寺駅前でメリーは事前に用意しておいた、本日行く予定の場所に印がつけた地図と、以前私に見せてくれた祖母が傘を買ったとされる骨董屋の写真を私の携帯端末に送って来た。まず地図の方から確認してみると、印が付いている箇所はざっと十か十五程度。二人で手分けして探せば二、三時間で回り切れそうな気がした。写真の方は相変わらずどこかぼやけており、古い骨董屋の写真ということ以外は分からず、情報量は多くはない。しかし、この写真が唯一の手掛かりであることは確かだ。
「どうする、手分けして当たる? それとも一緒に行く?」
「別に歩きなれない土地でもないし、今日は二手に別れましょう」そう言って、メリーは自分の地図を手元の携帯機器に映し出すと、指先で地図をなぞって黒い線を引く。
「ここから上のお店は蓮子が、ここから下のお店は私が行く。お店に着いたら、先ずは店先とその周辺の写真を撮って後から二人で確認しましょう。とりあえず二時間程したら、一乗寺駅で合流、それでいい?」
「おっけー」
手短に打ち合わせを済ませると、私は北に、メリーは南に向かう。彼女と別れてから、もう一度地図を確認すると、店同士の距離がある程度離れているので、急がなければ二時間回り切れるのか少し怪しい。
一乗寺駅から離れて住宅街に一歩入ると、そこはもう随分と入り組んでおり、地図で確認しなければ迷子になってしまうだろう。複雑な路地を進みながら空を見上げると、軒に切り取られた細い雲が東に流れて行くのがみえた。
〇
地図に印が付けられた骨董屋と古道具屋に行ってみると、一見営業していそうな場所はあったが、休日ということもあり、シャッターや暗幕を下ろしている店が多く、判断が付きにくい。これは後になって分かったことだが、休日になると蚤市と言う、骨董屋や古道具屋が集まる市場が開催されることが多いので、土日祝は休みにするところが多いらしい。
とりあえずメリーから貰った地図を頼りに辿り着いたお店を写真に残してみたが、傍から見ると「店の外観が好きな人」として目に映ったであろう。だが、幸いなことに人通りが疎らだったので、不要に「外観マニア」と言う称号を貰わずに済んだ。
行ったお店の中には営業しているところもあったので、私は試しに何件か入ってみたが、特に写真に繋がるような情報も得られず、試しに主人にメリーから貰った写真を見せても直ぐに「知らないなぁ」と言われて、早々に門前払いを食らい悶々とすることも多々あった。しかし、メリーから貰った地図を頼りに骨董屋や古道具屋を巡っているうちに、私は彼女の祖母が骨董屋を巡っていた理由が何となく腑に落ちた。骨董屋や古道具屋の店内というのは、古きものが詰まった、同じものが二つとない宝箱のように感じがして非常に心地よいのだ。
店内に一歩入れば、私が生まれる遥か前から存在する道具や置物が幾つも並んでいる。価値は分からないが、そのどれもが時を超えて美しく商品棚に鎮座しており、謎の浮世絵、船の模型、こけし、茶わん、鍋、招き猫等々が私に向かって「買うなら実用的な方が良いんじゃないか?」「どうだ、私なんて買ってみてはいかがかな?」「買ってからどうすれば良いか考えればいいさ」「インスピレーションが全てヨ」と問いかけてくるようだ。恐らく彼女の祖母もこの感覚を楽しんでいたに違いない。
次はどんなお店なのか、少し楽しみしながら向かったのが「ハチロク商店」であった。
ガラス戸を開けると、店内からは乾燥した、どこか埃っぽい空気が私の傍らをすり抜ける。これらは恐らく棚に並べられた品々から滲み出ているのだろう。後ろ手に戸を閉めると、そこの店の主人らしき禿頭の恰幅の良い体型の男性が勘定場から私の方を一瞥すると、すぐに視線を手元にある雑誌に目を戻した。
店内は雑多としており、商品一つ一つに値札はついていない。ふと商品が置いてある棚に目を向けると「この棚 千円より」と書かれていた。どうやら棚ごとに値段が決められているらしい。
私の目は肥えていないので、千円と五千円の棚にある商品がどのような違いがあるのかは皆目見当が付かない。少しだけ好奇心がくすぐられた私は、棚に置いてある商品を凝視して、その美術的価値の違いを見比べていると、棚の隙間からこちらをジッと眺めている骨董屋の主人と目が合った。私は何だか悪戯を仕掛ける前に見つかってしまった子供のような気まずさを感じて慌てて目を逸らすと、それが不信を買ったのか「お嬢さん、何か探しているかい?」と訝しげな顔で尋ねられた。
「い、いや。実はですね」
特に何もないんです。と正直に言えば「冷やかしなら帰りな」と言われそうな剣呑な雰囲気が店内に立ち込める。どうしたものかと思いながら、咄嗟に「私の祖母が、傘を買った場所を探しているんです」と嘘をついた。そうすると主人は妙な顔をして立ち上がり、私の元へと来た。
「どんな傘なんだい?」
「す、菫色でフリルがついた、如何にも高そうな洋傘です」
「へえ、写真とかはある?」
「傘の写真はないんですが、祖母が行ったお店の写真なら」メリーから貰った写真を主人にみせると「これは、随分と古い写真だね」と彼は少し笑った。
「写真のお店で買ったらしく、私も祖母が持っていた傘が欲しいので探してるんですが、心当たりとかないですか?」
「そうだねぇ、その写真にあるお店って、恐らくだいぶ古いだろうから、もうないかもね。少なくとも、私は見たことがないなぁ。それに、こう言ったお店は同じ店でも同じ商品が置いてあるとは限らないし、もし古い傘を探しているなら傘を専門に取り扱う店でも紹介しようか?」
「いいんですか?」
「良いよ、何だか熱心に探しているみたいだしね」
少し待っててね。と言い残し、店の主人は一度店の奥に引っ込んだ。暫く店内を物色しながら待っていると、店の奥から眼鏡をかけた主人が戻ってきて、幾つかの店の住所と電話番号を書いた紙を私に差し出した。
「とりあえず思いつく範囲だけど、これどうぞ」
「すみませんわざわざ、ありがとうございます」
ここまで良くしてくれるとは想定してなかったので、初めに嘘をついたことを少しだけ後悔した。
そんな思いも込めて、何度もお礼と頭を下げながら店から出ると、既に約束の二時間後は迫っていたので、とりあえずメモは鞄の中のスケジュール帳に挟み、待ち合わせの際にメリーに言ってみることにした。
〇
メリーの地図を頼りに全て骨董屋、古道具屋を巡り回り、きっちり二時間後に一乗寺駅前に着くと、やはり彼女が先に駅前にあるベンチに座っており、何処となく遠い場所を眺めながら、足をぱたぱたとさせていた。
「メリーやっほー」と声をかけると、彼女は微笑みながら立ち上がり「やっほー」と和した。
「おかえり。収穫はどうだった?」
「まあぼちぼち。それよりもお腹すいたから、取り敢えずどっか入ろう、ぜ」
そうしてメリーと歩き出すと、彼女の左手には紙袋が二つほど握られており、表情も二時間前よりも何処かイキイキとしている。
「……メリー、それは?」
「これ?」と言い、彼女は少し照れたようにニコニコしながら「いや、素敵な物が多くって、つい衝動買いを、ね?やっぱり血筋かしら?」
「たぶんそうだろうね」
少しだけ照れるメリーに、私は笑いながら鞄の中に入れてあった一つの陶器のコップを取り出して彼女に見せる。
「私も、つい買っちゃった」
〇
私は商業施設の中にあるフードコートを提案したのだが「騒がしいし、混んでるのは嫌」と言うメリーの意見を渋々尊重した結果、一乗寺駅の近くにあった喫茶店「るのー」に入った。
真四角な店内は思いのほか客が入っていたが、どの席も年齢層が高く、ささやかな話声だけかが行き交っている。店内を見渡し、とりあえず空いていた薄い茶色の一人掛けソファーが四つ並んだボックス席を選んだ。そして各々注文を終えると、メリーは「さぁさぁ」と言った様子で机にノートと携帯端末を置いて、イキイキとした表情をみせる。私も彼女に合わせて携帯端末とメモ帳兼スケジュール帳を机の上に並べた。
「結論から言うと、写真のお店はあった。だけど、そこはもうお店じゃなくて、古民家風カフェになっていたわ。でもね、少し面白いものがあったの」
そう言って、メリーは一枚の写真を携帯端末に表示させる。それは、木製のハンドルに、少し色褪せた赤い生地と、その縁に黒い刺繍が施された、一本の傘であった。
「カフェのオーナーが不動産屋からこの店を買い取った時には、もう屋号の書かれた看板もなくて、元の持ち主の名前が『ナツメさん』ということ以外は分からなかったんだって。元骨董屋と言うこともあって、面白いと思ったオーナーは直ぐにここを買うことを決めたそうよ」
メリーは出されたお水を一口飲むと、嬉々とした表情で話を続ける。
「内見した時は思ったより小奇麗だと思ったそうだけど、いざ購入して色々調べてみると、一部の柱や梁が痛んでいたからどうしても修復が必要だったそうで、友人や知り合いの業者とリノベーションをしたんだって。その時に天井の一角から、この傘が出て来たそうよ。最初は誰もが気味が悪がって近寄らなくて、思い倦ねていたそうなんだけど、彼の友人の一人が「忘れ傘みたいで良いじゃないか」って言ったんだって」
「忘れ傘って、あの知恩院にある傘よね?」
「そう、あの忘れ傘」
忘れ傘。それは、京都の東山区にある知恩院にあるという、骨だけになった傘だ。
それは知恩院が建設された頃に存命していた名工が魔除けの為に置いていったとも、知恩院に御影堂を建立する際に、その付近に住んでいた白狐が「ここに建てられると棲居がなくなるので新しい棲居をつくってほしいと」言われたので、約束通り棲居を作るとそのお礼に知恩院を守るという約束と共に置いて行った傘とも言われている。
以前、その忘れ傘を見る為に、わざわざ知恩院に行ったのだが「保存状態の確認の為、現在は公開されていない」と言われてしまい、二人して肩を落としながら帰ったのを今でもよく覚えている。
「それで『忘れ傘として、この屋根裏に残しておこう』『何なら一階から、この傘が見えるようにしよう』となって、今では一階のカフェスペースから屋根にある『忘れ傘』が見えるように屋根裏の床の一部を格子状にしていたわ」
「鰯の頭もってやつね」
「でも、傘の方も気味悪がられるより良いでしょう?」
「それはそうだけど。メリーはその傘に、何か見た?」
「いいや、何も。あれはただの綺麗な傘ね。まさに蓮子の言う通りよ」
丁度話が途切れた時、見計らったかのように注文したランチセットが運ばれて来たので、暫し昼食の時間となった。その間も特に重要ではない、骨董屋や古道具屋の話や、そこで買った品物の話をした。特に彼女が気に入ったのは、小さな醤油瓶に入ったボトルシップらしく「モダンで胡乱で、最高じゃない?」とわざわざ紙袋の中から取り出して見せつける程であった。
そうして互いに巡った骨董屋や古道具屋の話をしながら昼食を食べ終わり、食後のアイスティーを飲む頃に、私はハチロク商店の話をした。
「傘の専門店ねぇ」メリーはそう言いながら、ハチロク商店の主人が書いたメモにある、傘の専門店の情報を探したが、どれも私たちが求めるものとは程遠い。強いて言うなら、「雨見道」と言う店は、一乗寺で何年も続く傘専門の骨董屋らしく、調べてもお店のある場所と、一部の更新が止まっている個人ブログで「珍しい傘専門の骨董屋」と紹介さていること以外の情報は出てこない。しかし、個人ブログに乗っている傘写真はどれも美しく、骨董の品々とは思えない程に鮮やかで、彼女の持つ傘の特徴と似通ったものを感じた。
「雨見道の傘って、どこかメリーの傘に特徴が似ていない?」
「まあ写真で見る限りはって感じだけどね」
「でしょ?解散するのにもまだ早いし、最後に雨見道に寄ってから帰ってみようよ」
「このまま骨董屋巡って終わるのも少し物足りないしね。行きましょうか」
そうして私たちは、食後のアイスティーを飲み終わると雨見道に向かうことにした。
〇
白川通から狸谷山不動院に向かう道を一本逸れた住宅街に、雨見道はある。
外観はメリーの祖母が撮った写真の骨董屋とよく似た風貌をしている。店先には色とりどりの番傘が並べられおり、庇の下に「雨見道」と大きく書かれた暖簾が微風でゆらゆらと揺れていた。それを捲ると店の入り口であるモザイクガラスの引き戸があり「営業中」と手書きで書かれた普段が釣られており、人気はないが戸の向こうからぼんやりと照明の明かりがついていることが分かる。
店内の様子が読み取れないので入るのに躊躇したが、ここまで来て引き下がるわけにも行かず、思い切って戸を開けてみると、店内から豊潤で乾いた匂い、いわば珈琲豆の香りが私たちの鼻腔をくすぐった。店内の壁一面にはあらゆる年代の傘が畳んで吊るされており、まるで萎んだ朝顔のようだ。飾られている傘は、そのどれもが美しい色合いをしていて、店内の照明により濡れているように光を反射している。傘の知識はないが、ここにある傘が全て高価な物だということだけは分かった。
私とメリーは暫し大量の傘を茫然と見惚れていると「すみません。今、行きます」と聞こえたので、私は声がした方を見ると、式台と店の奥に続く入り口があり、そこには大文字山を描いた渋柿色の暖簾が下がっている。その入り口の右隣りにある三畳ほど小上がりは、座卓と座布団、それと作業台と思われる古い木製の机と、見慣れない道具が綺麗に整頓されており、小さな工房と応接間が押し込まれたようになっていた。
興味本位で小上がりをまじまじと眺めていると、作業台の隣には生地が中途半端に張られている、まだ内側の骨が見える傘が幾つか置かれていた。そんな傘の中に、一本だけ真っ白な骨だけの番傘が置かれていた。
みつけた。そう思い手を伸ばしたが、瞬時に見間違えだと気付き、伸ばした手を戻す。そうして少しすると、暖簾の奥から足音が響かせながら、やけに濃い顔をした眼鏡の男性がぬっと顔を出した。
「ごめんなさいね、今焙煎中だったので」と男性は柔和な笑顔を浮かべると、肩からかけているタオルで汗まみれの額を拭う。
店は傘屋だが、主人らしき人は珈琲豆の焙煎中。これは何故?
混乱する私を他所に、メリーは怯む様子を見せず「ここって、傘の骨董屋であってますよね?」と聞いた。すると眼鏡の男性は「あってますよ、良く勘違いされますけどね」とニコニコとしていた。
彼は「雨見道」の店主で、雨宮さんという。彼は傘の骨董屋をしながら、不定期ではあるが週末にイベントスペースで喫茶店を開いているらしく、今日はその仕込みをしていたそうだ。
雨宮さんは私たちを小上がりに案内すると、ガラスのコップに入った冷たい麦茶を私たちの目の前に置いた。
「それにしても、お若いのに傘の骨董品に興味があるなんて珍しいですね。ところで、今日はどんな傘をお探しで?」
「実は祖母の傘と同じ物を探していまして。こんな傘知りませんか?」
メリーは携帯端末の中にある、菫色の傘の写真を雨宮さんに見せる。彼はその傘をまじまじと眺めると、目を大きく見開き感嘆の声を漏らした。
「これはスバラシイ傘ですね。ご家族様はどこでこれを?」
「それが、一乗寺周辺の骨董屋で買ったようなんです」
「なるほど、だからここに来たんですね」
しばしお待ちを。と言い、雨宮さんは暖簾の奥に引っ込み、少しすると広辞苑を少し大きくしたような本を机の上に置く、幾らかページを捲ると「これかな?」と言い、あるページを私たちに見せた。そこには、西暦の順番にメリーの持っている傘と同じような傘が幾つも並んでいる。
「大体見た目から言うと、この時期の傘をベースに作られたものですね」
「作られた?現物ではなくて?」
「もし、ハーンさんの持っている傘が、このページに載っている傘と同じ代物であれば、それは美術館に飾られている傘と同等の物になります」雨宮さんは快活な笑顔を浮かべる「だからと言って、ハーンさんが持っている傘が、偽物や贋作と言うわけではありません」
そう言うと雨宮さんは附箋だらけのページをめくる。
「こちらの傘をご覧ください」彼が指した場所を見ると、先程のページで見た傘よりも、更にメリーの傘に特徴が似ている傘がずらりと並んでいた。
「これは、先程見た傘を復刻したシリーズなんです。恐らくハーンさんの傘はこちらになるかと思われます」
その傘が販売されたのは年を確認すると、今から凡そ百年程前。そしてメリーの祖母が傘を買ったのは、概ね販売から約三十年後。もし、彼女が持つ傘がカタログに載っているものなら、あの菫色の傘は途轍もない大物ということになる。
「これって、本当なんですか?」
「正直なところ、直接見て見ないと分かりませんが、見たところカタログに載っている傘と同じような物には見えますね」
メリーは困っているようにも、驚いているようにも見える表情で、目をぱちぱちとしながら、私の方に顔を向ける。
「じゃあ、もしこれをここに持ってくれば、本物か分かるんですか?」
「うーん。恥ずかしながら、私は傘が好きで先代から雨見道を引き継ぎましたが、実はそこまで目が肥えていないので、何とも言えませんね。先代、と言っても私の父親であれば分かるかも知れませんが、生憎父は洛外に住んでいるので、すぐには戻って来られませんし、どうしてもと言うならお受けしますが、どうされますか?」
それを聞いて、メリーは暫くうんうんと考え込んだ結果「しばらく、考えます」と言った。雨宮さんも「まあ、物の価値は値段ではなく、人の思いで幾らでも変動しますから。気になったらまた連絡を下さい」と骨董屋としては本末転倒のことを言った。恐らく彼は、本当に傘が好きで傘の商売をしているのだろう。
二人の話が終わったのを見計らって、私も一つ気になること聞いてみた。
「雨宮さんは、ご自身でも傘は作るんですか?」
「置物の傘なら作れます。使用する傘に関しては、一応簡単な修理は出来ますが、一から作ることは出来ません」
「じゃあ、あれも置物の傘ですか?」そう言って私は、部屋の隅にある白い骨の傘を指さす。
「えぇ、あれも置物の傘ですが。まだ布は貼っていませんが。どうかされました?」
「何となく気になっただけです。ありがとうございます」
雨宮さんは「いえいえ」と言い、傘のカタログを閉じて暖簾の奥へと消える。出された麦茶を一口飲んで、何気なくメリーの方に視線を向けると、彼女は少しだけ不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「どうしたの、メリー?」
「いいや、別に」彼女はさっと視線を逸らし、私と同じように麦茶に口をつけた。
〇
「傘のことなら、またいつでもどうぞ」と雨宮さんに見送られながら、私たちは雨見道を後にした。外に出ると何処からか蛙の声が聞こえた。夕暮れが近づき、空を覆う雲が少しだけ茜色に染まっている。今日は天気予報通り、このまま雨を降らないことを願いながら、一乗寺駅に向かう。
「メリー、とりあえずあの傘の鑑定はどうする?」
「ううん。それは別に今は良いかなぁ。でも、あの錆が気になるから、それだけちょっと見て欲しいかも」
街並みは徐々に影にゆっくりと沈んでいき、気付けば街灯の明りがつく頃合いになって来た。影が細く伸びて、私を先導する。どこからか良い匂いが漂い、無性にお腹が空くのを感じた。今日の晩御飯はメリーと食べようか、それとも家に帰るか、模索しながらメリーに歩幅を合わせて歩いていると、彼女は急に話を切り出した。
「ねぇ、蓮子。昨日の夜は、家にいたのよね?」
「そうだけど。どうしたの?」
「……少し聞いて欲しいのだけど、良い?」
少し躊躇うように、メリーは昨夜の話をした。
〇
それは今のような夕暮れ時。南棟の一階でメリーは受けるべき講義が終わり、タブレットやノートを片付けていると、水が何かに当たるような音や、水が濁る音が聞こえたので「外は雨が降ってるんだな」と思い、傘をさす準備をしながら外に出てみると、雨などは一滴も降っておらず、雲間から浅い夜空に浮かぶ月が見えたという。
少し不審に思いながらも「まあ、聞き間違えたのだろう」と思いながら、持って来た傘を片手に西門か東大路通に出ると、特に買い物する用事もなかったので、真っすぐ家を目指していたそうだ。
百万遍交差点を超えて、今出川通を歩いていると、また何処からか水が何かに当たる音が聞こえた。その日は昼頃まで雨が降っていたので、わざわざ夕方に草木に水をやる人も、曇っているので道路に打ち水をする人もいるわけがない。もし、そのような不必要なことをする人がいたとしても「これは水を撒いてる音だな」と分かるし、聞き間違えるわけがない。
その水が何かに当たる音を表現するならば「雨が傘を叩く音」であったが、メリー自身も含めて、周囲に傘をさしている人は誰もいない。何故なら雨が降っていないからだ。その辺りから、何かおかしなことに巻き込まれていることに気付き、眼で周囲を見てみたが、結界の気配はどこにもない。
気味が悪い。そう思った彼女は早足で、夕闇が満ちようとしている路地を抜けていく。
雨が降る前に漂う、熟した果物を思わせる甘い匂いがする。何処からか雨足が訪れて、地面を雨が跳ねる音が聞こえたが、雨は降っていない。
もしかすると、これが「魔」なのでは?
今日持っている傘は、元々は私の黒い傘であり、あの菫色の傘ではない。だから彼女の元に「魔」が訪れたのかもしれない。
そう思うと、今度はその正体が少し気になり始めた。
冷静に考えると、今メリーの身に起こっているのは「音の怪異」であり、もしこれが「魔」の引き起こす能力一つであれば、結界が関係しているどうか判別は出来ない。彼女の目は結界と、それに属する存在が見えるだけであり、結界に属するものが引き起こす怪異を見ただけでは、これを引き起こしている者の正体は掴めないらしい。
雨は何処で降っているのか。試しに振り返って見ても、矢張り雨は降ってはいない。しかし雨が降る音はしている。
メリーはどうしようかと思いながら歩いていると、気付けば自宅のマンションの下に到着していた。
もう一層のこと菫色の傘を持ってくればいいのではないか?そう思った矢先、木の幹のようなものが折れる音と同時に、雨が激しく打ち付ける音が背後から聞こえた。
振り返って見ると、先程歩いて来たT字路の周辺だけ濡れており、水たまりも出来ている。まるで、その一帯だけに雨が降ったかのようだ。
T字路まで戻って周囲を見渡してみると、濡れている地面のあちらこちらに、白い何かの残骸があった。白い欠片を手に取って見ても、表面がざらざらして固いものと言うことしか分からない。試しに眼で見てみたが、それらは結界に属するものではないようだ。
暫く状況を整理していると、先程まで聞こえていた雨の降るような音は聞こえなくなっていることに気付いた。
メリーは足元の濡れたアスファルトを見る。これが「魔」だったのか?もしそうなら、状況からして「魔は居なくなった」と判断して良いのかもしれない。
だが、どうして? 自宅にある、菫色の傘に近づいたから?
この道から、部屋までは少なくとも五十メートル以上はある。そんなにも、あの傘の「魔を祓う」という効力は有効なのだろうか。
道の真ん中で考え込んでいるとき、視界の端に何か白いものがちらりと光った。無意識に光った方に視線を向けると、白くて胴がひょろりと長い獣が街灯の下で、こちらをジッと眺めていた。その瞳は人の目を思わせる大きさをしていて、こちらと目が合うと身を翻して、何処かに去って行った。
メリーは無意識に、その獣を眼で追っていた。
あれは。
〇
メリーはそこで言葉を区切り、暫く沈黙が続いた。陽は傾き、街灯の光が私たちを煌々と照らす。それは一寸ほどだったかも知れないし、数分だったかも知れない。けれども、彼女の表情が硬くなるのを見て、私は彼女が何かを引き当ててしまったことを実感する。
「あれは、あの白い獣は、一般的な生き物でも、結界に関係ある生き物でもない」
「それってつまり『正体のわからない生き物が、京都に住み着いている』ってこと?」
「そう。あれは恐らく、元々京都に住み着いている神秘、または妖と呼ばれるもの一つだと思う」
この話がメリーの口から語られたものでなければ、私はこの話を信じなかっただろう。
「つまり、都市伝説の生き物は実在するってこと?」
「そうなるわね」そこで彼女は一旦言葉を切って、私の方を見る「この話しには、まだ続きがあるのよ」
そうして彼女は話を続ける。
「その獣を眼で追っている時、丁度その獣が去っていく方向にね。貴方を見た気がするの」
一瞬、私は世界がぐらつくのを感じた。メリーの発言した言葉の意味が、上手く理解出来なかったからだ。
「それって、確証はあるの?」
「確証はない。でもあの人影は蓮子によく似ていたの。背丈とか帽子とか、私も偶然だと思ってた……ねえ、一つ聞いても良い? どうして、雨見道であの白い骨の傘に興味を持ったの?」
「それは」私はそこで、一旦言葉が詰まった。私は、あの傘によく似た傘を探していた気がする。しかし、その理由まではよく覚えてはいなかった。
「別に、何となくだよ」答えの見つからなかった私は、その場しのぎの言葉で返すと、彼女は少し強張った顔で話を続ける。
「その昨日見た蓮子の『ような人』の手には、細長い棒状のものに、本体よりも細い物が幾つか付いている物を持っていたの。それが何なのか今まで分からなかった。でも、雨見道で大量の傘と、貴方が興味を示した白い傘を見た時に確信したの。あれは、生地が貼られていない傘だって」
彼女はそう言うと、少し震えながら、私の手をそっと握る。
「ねえ、蓮子。何か隠してない? 本当に大丈夫?」
懇願するような顔で、メリーは私の顔を見上げた。
「大丈夫だって、何かあればちゃんと連絡するからさ」
私の記憶は揺らぎつつあった。私は本当に何も隠していないのだろうか。
メリーに心配されながら一乗寺駅についた頃には、既に夜の帳が落ち切っていた。
自分の記憶に自信が持てず、微かな頭痛と軽い眩暈に襲われた。ふらつくのを必死にこらえながら、適当な言い訳をして彼女と別れると、自動運転のタクシーに乗って帰路に着いた。
窓の向こうでは、街並みがコマ送りのように過ぎ去っていく。
彼女の言葉が、強く響く。私は玉のような汗をかきながら、必死に昨日の出来事を思い返していた。
大学から家に帰ると、シャワーを浴びて、オーディオブックを聞きながら晩御飯を食べた。晩御飯が終わり、私は机の前に座って専攻する学科の予習していたはずだ。
それから。確か、ふと甘い香りがしたから、私は。私は何をしていたのだろうか。
そう考えた時、私の左手に鋭い痛みが走る。手のひらからは血が滴り落ちて、乗っている座席に染み込んでいく。
激痛に喘ぎながら、窓の外をみる。そこにはコマ送りになった街並みではなく、深い闇が広がっていて、苦痛に歪む私の顔が映っていた。
先程からマエリベリー・ハーンの声が頭の中で響き、私の心と記憶を揺るがす。
痛みと記憶の混濁。私は思わず瞼を閉じた。すると、自分が瞼の裏側で、手足の先端から心臓に向かってゆっくりと溶けていくような感覚に襲われる。私はこの感覚に身に覚えがあった。
あぁ、そうか。と私は確信する。
これは、夢の中だ。
夢の中の自分が眠りにつき、現実の私が目を覚ます。
目の前には左右に天と地が平行に並んでいた。蛙の声がやけに響き、おどろおどろしい雲が京都の夜に蓋をしている。梢が微風に吹かれて騒がしく揺れ、何処からか水の流れている音が聞こえた。
初めはどこに居るのか見当もつかなかったが、周囲をよく見渡すと、そこは糺の森にある馬場であった。
ぬかるんだ泥が顔にへばりつくのに嫌悪感を覚えながら立ち上がると、後頭部に鈍い痛みが走った。
そう言えば、私はメリーの家の近くで。
一先ずこれまでの経緯を思い出していると、糺の森の翳の中から、ざらざらと何かを引きずる音が聞こえた。音のする方に目を向けると、馬場の北の方からシャベルを引きずってこちらに近づいて来る男性の姿が目に入った。
〇
私は受けるべき講義が終わり、図書館で用事が済む頃には、メリーの講義が終わる時間になっていたので、彼女が登校の際に通る西門付近で待ち伏せすることにした。
空は曇っているが、雨が降り出しそうな様子はない。自転車が幾つも並ぶ駐輪場の横にあるベンチに座り、部室から持って来た本を読んでいると、何処からともなく、ぽつぽつと傘に雨が当たる音が聞こえた。思わず顔を顰めながら、周囲を確認してみるが、雨が降っている様子はなく、行き交う学生も傘をさしている者は一人もいない。
聞き間違えだろう。そう思いながら、本に目を落とすと、また何処からか雨が傘を叩く音が聞こえた。それはどうやら私の左側から聞こえるらしい。どうせ、学生が何かしているのだろうと。と思い、特に確認することもなく、私は本を読むのに注力していた。
それが、いつまで聞こえただろうか。いつまで経っても雨が傘を叩く音は鳴りやまない。不審に思った私は、横目で音がする方に目を向けると、そこには白い骨ばかりの傘が、南棟の一階にある丁度講義室のある窓の前に落ちていた。
やっとみつけた。そう思いながら私は本を閉じて、その傘の元へ向かう。
不思議と先程まで賑わっていたはずの構内は、静まり返り、行き交う学生もいない。私は今度こそ、誰にも邪魔をされることなく白い傘を手に取る。そうすると、白い獣が構内にある低木隙間から這い出てくると、私の前に現れてこちらをジッと眺めていた。
「これは、貴方たちの物ね」
そう言うと、獣は頷いたような動作を見せて、大きな目を三日月のように弛ませて笑う。
私はやっと見つけたその傘を持って、構内の人気のない場所に向かい、白い獣も私の横に沿って歩く。そうして東棟の非常階段付近にまで辿り着くと、私は「この傘を、メリーに渡せば良いんだよね?」と白い獣に聞いた。彼はまたも、頷いた動作をみせる。
「やっぱりね」と私は呟き。白い獣に見せつけるように、白い傘を剣道の竹刀のように大きく頭頂まで振りかぶる。そして、勢いよく東棟の壁に叩きつけた。
傘は丁度真ん中から折れ、白い破片が宙を舞う。私の隣にいた白い獣は、すぐさま私から距離を取ろうとしたが、それよりも私の蹴りが獣の腹に当たる方が早く、獣の体も白い傘と同様に東棟の壁に激突した。
白い獣が逃げないように、傘だった物を片手に持ちながら急いで獣の元に近づき、その腹を踏みつける。顔だけを上げてこちらを睨みつける獣に向かって、私は。
「彼女には手を出すな」
と言った。それは自分でもゾッとする程低く、恐ろしい声であった。
私は獣の体を踏みつけたまま、砕けて先端が鋭利になった傘を獣の首元にグッと押し込んだ。動かなくなるのを確認すると、白い獣の遺体を東棟の近くにある林に捨てた。
時間を確認すると、既にメリーが受けている講義の終了時間を少し超過していたので、思わずため息が出た。「まあ、また会えるし」と思いながら百万遍交差点に向かい、北に上がろうとすると、右目の目尻が裂けるように痛み、思わず足を止める。
まだ終わりではない。
直感がそう囁き、私は進路を北から西に変えて今出川通を進み、適当な所で左に折れて、彼女の住むマンションに向かう。暫くすると、先程と同じような、雨が傘を叩く音が聞こえた。しかし、その音は先程と違い、時間が経つと私の元から離れていくのが分かった。つまり、移動しているのだ。
もしやと思い、急いでメリーの住む家の方角に進んでいくと、雨が傘を叩く音が近づき、彼女のマンションが見え始めたころ、白い傘と木刀を持った男性が、何かを伺いながら電信柱の影に隠れているのが見えた。
「メリーを狙っている」そう確信した私は、目に付いた住宅の庭に置かれているシャベルを手に取ると、走りながらその男の後頭部に向かって振り下ろした。
シャベルが後頭部にめり込むと同時に、パンっと水風船が弾けたような音が聞こえた。その瞬間、男の体から大量の水が噴き出し、私は大量の水に殴られた感覚と共に後方に吹き飛ばされる。勿論、受け身なんて取れるはずもなく、一旦宙に浮いた体は、人形が床に落ちるようにして地面に叩きつけられた。
アスファルトの上を転がり、全身の様々な箇所が痛みを訴えた。どこが重症なのかも分からないまま顔だけを上げると、遠目から半分に折れた白い傘が道に落ちているのが見えた。
私は傘を壊そうと思い立ち上がろうとしたとき、左の角からメリーが現れ、白い傘に手を伸ばそうとする。「それに触れないで!」と叫ぼうとした時、頭上から大きな鐘の音が響く。その瞬間、自分の神経が全て切れたかのように体は地面に崩れ落ちる。
鐘の音と共に訪れた頭部の違和感は、少しすると激痛に変わった。数秒程して、ようやく私は後頭部を誰かに殴られたことに気付いた。
痛みが意識を蝕み、世界が暗転していく。視界が闇に沈む前に見た光景は、メリーが白い傘を持ち、白い獣と何処かに歩いて行く姿であった。
獣は横目で私を見ると、少しだけ眼を弛ませた。その顔はまるで、笑ったようにみえた。
〇
頭部の痛みに耐えながら林の中に逃げ込むと、先程私が居た場所にシャベルを持った人は立ち止まり、地面にそれを突き立てた。
遠目から様子を窺っていると、それは人ではないことに気付く。
一見すると、人の形をしているが、顔のような部分には、あるべき眉、鼻、口がなく、のっぺらぼうのような風貌をしている。体は上手く立つことが出来ないのか、軟体動物のように体をくねらせながらバランスを取って立っている。その姿を見て、ゴムで作られた人形に水を入れて無理に動かすと、このような動きになるのではないか。と考えた。
メリーのもとに傘を運んだのは、恐らくこのゴム人形だろう。それに、彼が手に持っているシャベルは、恐らく私が殴りかかった際に使用した物とよく似ている。状況からして、白い獣の仲間に違いないが、獣より知能は劣っているようだ。実際に、草陰から彼の様子を観察しているが、先程から私が倒れていた場所で右往左往するばかりで、それ以外の行動は一切しない。まるで出来の悪いロボットのようだ。
ここで始末していた方が良いかもしれない。
草むらの中から周囲を見渡すと、北の方に青白い光が微かにみえた。音を立てないように草をかき分けて慎重に光の元に行ってみると、光の正体は屋根付きの自転車置き場に設置してある蛍光灯のものであった。そこで何か役に立つものがないか探してみると、自転車置き場の裏に、野ざらしにされた鉄杭の束を幾つか見つけた。試しに束の中から一本鉄杭を引き抜くと、長さは凡そ一メートルぐらいだろうか。錆と泥だらけだが、杭としてはまだ使えるように見える。
幾つかある鉄杭の中から、一番丈夫そうなものを選び、私はもう一度ゴム人形のところが見える場所まで戻った。彼は相変わらず私の倒れていた場所で、一人呆然と佇んでいる。感情が読み取れないが、恐らく困っているのだろう。
手の中でひんやりと存在感を放つ鉄の杭を握りしめて、襲い掛かる機会を待つ。彼の動きは極めて愚鈍に見えるが、この杭を彼に突き立てるまでは油断は出来ない。
風が止むと同時に音を立てないように草陰から馬場に足を踏み入れる。
ゴム人形と私の距離はほぼ十メートル。普段は意識することのない距離は、今日ばかりはやけに長くみえた。馬場に響く蛙の声が、やけに煩い自分の鼓動をかき消してくれていることを祈りながら、じりじりと距離を詰める。あと少し、あと少しが、永遠に伸びていく。
彼は背後から迫る私に気付くことなく、ふるふると体を不快な方向にくねらせている。その動きを見ているだけでも気がおかしくなりそうだ。
そして空気が張り詰めた馬場にパンっと、風船の割れた音が響き渡る。
ゴム人形に鉄杭を突き立てると同時に、彼の内側に内包されていた大量の水が噴き出し、またもや吹き飛ばされたが、雨でぬかるんだ地面の上なので、先程のアスファルトと比べるとまだ痛みは少ない。痛む後頭部に、擦りむいた膝。泥だらけのワイシャツとスカートを抱えながら立ち上がり、割れた男の元に行きシャベルを回収した。。
「私は、生き残ったんだ」
死中から開放された途端、死の恐怖が全身を包み、馬場に尻もちをつくように座り込んだ。あそこで目を覚まさなかったらと思うと、恐らく幸せな夢を見たまま死んでいたのだろう。
いつもの癖で夜空を見上げるも、そこにあるのは重々しい暗雲ばかりで、星も月も見えない。熟れた甘い香りが、糺の森に満ちている。葉はさらさらと風に煽られる。そして、今か、今かと雨が降りそうな気配だけが募っていく。
気絶しそうな程の疲労感に襲われながら、震える体を抱きしめて立ち上がる。
彼女を救わなければ。
その時、糺の森に流れる小川の近くにある草陰から、白い獣が木の間を縫って、鴨川の方へと向かうのが見えた。私は満身創痍の体を引きずりながら、覚束ない足取りで獣の後を追う。
彼女はどこだ。
深夜の京都の街に残響が残る程の声で獣に問いかけるも、それは振り向きながら厭らしい笑みを浮かべるばかりで、何も言わない。獣は秀穂舎を過ぎ、一之鳥居を超えた辺りで闇に溶けるように姿を消した。
私は足取りで鴨川デルタにあるベンチに座り込んだ。
鴨川は長雨によって酷く濁り、塵芥が加茂大橋の橋脚に纏わりつくのが見えた。濁流はごうごうと橋を揺らしながら、南へと下っていく。
彼女の行方を調べる手立てを考えたが、先程から目尻が裂けるような痛みに耐え切れず、前のめりで目を抑える。
何かが手遅れになっていくような焦燥感と、泥のように重い体。顔を伝う鬱陶しい汗を拭うことすらできない程に、上手く頭が働かない。早くメリーのもとに行かなければ、何もかも終わってしまう。
私は変わってしまった。何時からかは分からない、けれども変わってしまったのだ。
その発端は何時だったか。
ここ数日の記憶が纏まらず、夢と現実の記憶が入り混じり、万華鏡の中にあるガラスの欠片のように、頭の中でかちりかちりと、出鱈目に組み合わさる。
手足を縛られたまま、真っ暗闇の海に沈んでいくかのように、思考は精細を欠いていく。痛み、疲れ、恐れが混じり合い、何かを考えることすら儘ならない頭の中で、最後に思い浮かんだのは、秘封俱楽部のサークル部屋で、彼女が私に手渡した菫色の傘であった。
〇
私は出町柳駅に放置されていた自転車の鍵をシャベルで壊すと、それに乗ってメリーの自宅へと向かった。彼女の住むマンションは、今出川通にある路地を一本曲がった所にあったので、ものの五分足らずで到着した。
マンションの下に自転車を止めると、先ず彼女が傘の破片に接触した場所に向かう。そこには彼女がいつも使用している、見慣れた帆布生地のトートバックが落ちており、その中身が地面に散乱していた。私は落ちている彼女の私物をバックの中に戻しつつ、マンションの鍵を回収すると、それを使用して彼女が住むマンションの一室へと向かった。
彼女が住む五〇二号室の鍵を開けると、左側にあるシューズケースの上に、例の菫色の傘はあった。私はその傘を手に取り、念のため施錠をしてから家の中を見て回るも、当然のことながら彼女の姿はない。
私はメリーが使っている座椅子に腰を掛けて、菫色の傘を握りながら深く眼を瞑る。
訪れた魔。骨だけの傘。彼らは何処に彼女を連れ去ったのか。
魔の正体はあの白い獣であり、その近くに白い傘は現れる。つまり、獣と傘は一つの形なのだろう。
獣と傘が結びつく場所は、この京都では恐らく知恩院しかないはずだ。
私は何になったのか。
「私は、傘になった。彼女の傘に」
全身に感じていた疲労感と痛みが引いて行き、獣に対する怒りと憎しみが私の四肢を支える。
菫色の傘を片手に、私は部屋を飛び出した。一刻も早くメリーを救い出す為に。
空には暗雲が垂れ込めている。そして街には熟した甘い果実の匂いが漂っていた。
〇
何故目が蛇のようになったのだろう。そう思いながら、窓に映る自分をジッと見つめる。
「蛇の目でお迎えって、こういう意味じゃないよね」と思いながら、傘を片手に大殿から繋がる集会堂に来てみたが、獣やメリーの気配はどこにもない。
私は一度大殿から出ると、今度は境内の東にある、濡神大明神に向かった。にわかに降り出した雨は本降りに変わり、景色は雨で白く煙る。雷が暗雲の向こうで蠢いているのが見えたかと思うと、低い唸り声のような音が響く。
その音はよく聞くと、獣の物であった。
何処から連れ出したのだろうか、濡髪大明神に続く石畳の階段には、複数の人たちが座り込んでいる。初めは先ほどのゴム男かと身構えたが、どうやら意識を無くしている本物の人間らしい。その近くに獣は座り込んでいて、こちらを気味の悪い眼で睨みつけていた。
私は倒れている人の中にメリーの姿はないか注視しながら階段を上がるも、彼女の姿は見つからない。そうして階段を登りきると、左手の門をくぐった先にある勢至堂が、夜の中にぬっとあらわれた。日中だとさぞ荘厳な風格を漂わせているのだろうが、獣臭い香りが雨の匂いと混じり、厭な匂いが漂っているのも一役買って、この状況では怪談の一幕にでも登場しそうな不吉な寺院にしか見えない。
そんな勢至堂の庇の下に、メリーは白い傘を大事そうに抱えながら寝そべっていた。
急いで彼女の元に駆け付けて、その手から白い傘を引きはがす。そして先程から感じていた視線の方向、彼女の背後に広がる深い暗がりに白い傘の石突を向けて、勢いよく投擲した。
傘の先端は真っすぐ暗い翳の中に吸い込まれ、深い翳の底からぐもった呻き声が微かに聞こえると、板の廊下を歩く小さな足音が私たちから離れていくのが聞こえた。
私は平たい石の上に倒れているメリーを優しく抱く。どうやら深く眠っているようで起きる気配はない。どうやら外傷もないようだ。
庇の向こうでは雨が降っている。東にある山からは、葉の上を愉快そうに跳ねる雨の音と、雷がその身をうねらせて響かせる轟音が聞こえてくる。
それでも、私の耳に深く残るのは。私の膝を枕にして眠る、メリーの寝息だけであった。
「安心しておやすみなさい、メリー」
微かに感じていた複数の獣の気配も、気が付けば消え失せ。彼女の目が覚めるまで、傘は与えられた役目を全うした。
〇
京都に垂れ込める雨雲は人の気持ちを顧みることなく、ざあざあと雨を降らせている。
飛沫で煙る街中を人々は丸い傘を背負いながら、大雨に対して勇猛果敢に立ち向かう学生、教員、近隣住民等々の姿を、私とメリーは大学の近くにある進進堂の中からぼうっと眺めていた。
メリーは手癖で、手元にある紅茶を匙でかき混ぜると、ちらりと私の顔を申し訳なさそうに見る。
「ねえ、蓮子。眼の端っこのところ、本当に大丈夫なの?」
「うん。だから大丈夫だってば」
メリーはあの夜の記憶が殆どないらしく、私の膝の上で目覚めた時には、状況を把握するのに数分を要した。そして「とりあえず、全部私のせいで何かが起こった」と早合点すると、すぐさま膝の上から離れ「ごめんなさい!」と、朝の知恩院に彼女の声が響いた。
私の目尻に出来た裂傷も自分に原因があると思っているようで、何度も「メリーには関係のない傷だ」と説明しても信じてもらえず、仕舞には「薬代をださせてくれ」と言うようになり、暫くの間、私にお金を渡したいメリーとの不毛な争いが数日間続いた。最終的に「怪我が治るまで、喫茶店かカフェで私に一杯奢る」と言う、自分でもイマイチ理解し難い条件で話は落ち着いたが、今となっては良い話の着地点だったと思う。
メリーを「魔」から救い出してから、早二週間。白い傘と獣の気配は完全に消え失せ、蛇のように大きく見開いていた眼も以前と同様の形に戻った。個人的に「蛇の眼に似た眼特殊メイクみたいで素敵だったのに」と思っているのだが、口外はしていない。
雨の日の進進堂は、まるで湖の底にあるかのように店内は暗く、ゆったりとした時間が流れて行く。そんな店内で雨が小雨になるまで、たっぷり二時間程話尽くしてから、外に出た。
そうして私たちは、二人で菫色の傘の下に入り、雑談しながら今出川通を歩いて行った。
怪異との出会い、過去の捜索、襲撃とその解決、それらが綺麗に噛み合っていてとても素晴らしかったです
鳥天ざるうどん思う存分食べてください