ここは楽園だった。夏だろうが冬だろうがこの場所は暑くなり過ぎる事も寒くなり過ぎることも無いし、汚したり爪を研いだりしてもいつの間にか綺麗に直っているし、食べ物も時間がたてば勝手に補充されるという、正に天国の様な場所だった。妙な結界こそあったがあんなもの私からすれば籠の目を抜けるよりもずっと簡単で、私は仲間に会うたびにこの場所へと案内して自慢していた。その度に仲間は私のことをすごいと褒めてくれ、三尾の者でさえ私でも抜けられなかったのにと一目置かれたりするようになった。私はそれが嬉しくてどんどんと見せびらかしていると、生来怠け者の多い猫故か、やがて居付く物が出てくる様になり、その数は日増しに増えていった。
「うわっ」
二十を超えた頃だろうか。そいつは私の案内無しにやってきて、こちらを見るなりそう口にした。他の者達はそんなことも露知らず、いつもの調子でまた新入りが来たと思い口々に話し出す。
「なんだ?」「新入りだ」「新入りだって?」「よく来たね」「俺の方が先輩だぞ」「おい、ヒト型だぞ」「ヒト型だって?」「ヒト型も来るようになったのかい」「世知辛くなったもんだ」「いいか虎吉、いい雌ってのはな脚で決まるんだよ」「だから俺は虎吉じゃねえってクロのじぃちゃん」「クロもそろそろかねぇ」「待てよ、あいつ尻尾多くないか?」「本当だ。何本だ?」「ちょっとこっちに尻向けてくれよ」「なな、はち、九本だ」「九尾じゃないか!」「九尾だって?」「いちいちオウム返しすんじゃないよ!」「ひえぇ」「初めて見たよ」「そりゃそうでしょ」
「ちょっと静かにして!……あんたどうやって入ってきたんだい?私の案内無しで入れる奴なんて今まで居なかったよ」
私は若干睨みつけながらそう聞いた。そいつはこちらに向き直り、なんてこと無いという風に澄ました顔で答える。
「どうやっても何も。ここは私達の家ですからね」
「なるほど、そういうことね。あんたのお陰で大分助かってるよ」
「それで、寛いでいる所申し訳ないのですが、皆さんには退去して頂きたい」
「なんだって!?」「それは困る」「嫌だぁ」「そんなこと言わずに」「ルームシェアでいいじゃん」「俺だけでも見逃してくれよ」「抜け駆けはずるいぞ」「許してにゃん」「九尾様ぁ~足でも舐めますからそれだけはぁ~」「あんたが舐めたいだけじゃないの?」
「うるさいよあんたたち!まあでも、出てけと言われてはいそうですかなんて素直には聞けないね。こんな良い所独り占めなんてずるいじゃない。そんなに嫌なら力ずくで追い出してみなよ」
「盗人がなんとやら……いや、猫なんかが所有権なんて知っている方が無理と言うものか。まったく……面倒くさいけど、猫に所有権を理解させるよりは簡単か」
そういってそいつは組んでいた腕を解き、腕を捲る。それは構え、と言うより掃除でもするかという様にしか見えなくて、余計に私の神経を逆なでした。
「昔はお前の場所だったんだろう。でも今は私の場所だ。奪い返してみなよ。できるものならね!行きな!あんたたち!」
「……」
勢いよく啖呵を切ってみたものの、猫たちは互いにきょろきょろと顔を見たり、様子を伺うばかりで誰も飛びかかろうともしない。
「……なんで誰も行かないのよ」
「いやあ、だって相手はあの九尾だよ?あたしらが束になったって適うわけないじゃん」
「う、うるさーい!どのみちやんなきゃ追い出されんだよ!行けったら行けぇー!」
そこまで言ってやっと猫たちはゆっくりと立ち上がり伸びをしてやる気なくばらばらと飛びかかる……が、そのどれもが九尾に掠る事も無く空を切る。飛びかかったものはその勢いのまま空高く放り投げられ、警戒して様子見しているものはそのまま掴まれて放り投げられ、避けようとしたものは避けた先を掴まれて放り投げられ、まるで未来でも見えているかのような正確さでこちらの動きを先読みして一匹、また一匹と外へと放り投げられていく。そうして、全ての猫(服の中を覗こうとして蹴り飛ばされた一匹を除いて)が放り出され、とうとう私だけになってしまう。
「さて、後はあなただけですかね」
「く、くそー!なんとかなれー!」
やけっぱちで突っ込んではみるが、他の者と全く同じ様に空を切った私を着地する前にそいつに首根っこを掴まれてしまう。
「ちくしょう!離せ!」
やたらめったらに暴れてみるが、文字通り手も足も出ない。
「あなただって畜生でしょうに」
「うぅ、ちくしょう。ちくしょう」
ぽろぽろと目から大粒の涙が零れてくる。こいつは手を抜いているのだ。私が生きているのはまさか妖怪のこいつが博愛主義者だから――なんて訳が無いだろう。殺したら掃除が面倒くさいとか、ここを汚したくないとか、どうせそんな程度の理由でしかないに決まっている。そんな程度の理由で、私は今生かされているのだ。九尾になんて勝てない事くらいわかりきっていたけれども、勝負にすらならずただただ一方的に駆除されたという事実が、私にはもうどうしようもなく悔しくて、惨めで、溢れ出る涙を止められなかった。こんな思いをするくらいなら切り裂かれてひき肉にでもなる方がよっぽどましだった。
「ちくしょーちくしょー!私が、私が見つけた家なのにー!」
「見つけたってねえ……家ってのは勝手に建つわけじゃ無いんですよ」
「ちくしょーちくしょー!私が、私が見つけた家なのにー!」
「なら、うちの主人に会ってみますか?」
「ちくしょーちく……え?」
「それで、この子がそうなの?」
「ええ、そうです。弱い結界とはいえ、二尾なんぞに抜けられるようには作っておりませんでしたので。何かに使えるかと」
「ふぅ~ん」
九尾が連れてきた金髪の女はそう言って品定めをする様にじろじろとこちらを眺めている。その視線で私の心臓は早鐘の様に早く鳴り、呼吸は切れるように浅く短くさせられていた。見られている。この女に見られているからという話ではない。全身から感じるのだ。横から、後ろから、上から、机の下から、箪笥の隙間から、畳の目から、ありとあらゆる方向から私を観察している。もしかしたら腹の中まで見透かされているのではないかと錯覚するほどの強烈な視線。いや、もしかしたら本当に見えているのかもしれない。九尾だって果てしなく遠い存在だがまだこいつの強さは理解することが出来た。だが目の前にいるこいつはなんだ?強いとか弱いとかの話では無い。私達とは根本から違う圧倒的な何かが人の皮を被ってそこに居る。もうこんな場所どうだっていい。死にたくない。どうすればこの化け物から逃げられる?考えろ。考えろ。私は恐怖と焦燥に塗れた脳から必死に絞り出し、息も絶え絶えの渇ききった口を開ける。
「あ、あの……命だけは」
「ねえ」
「はい!」
「別にそんなことしないけど、あなたには何が出来るの?」
その女は口元を扇子で隠し、何の感情も見えない硝子玉のような瞳で私を見下ろしながらそう聞いてくる。ああ、駄目だ。助からない。私には命を懸けて自尊心を守ることも、自尊心を捨てて命を守ることもできないのか。胸に穴が開いたような、足場が無くなって落っこちるような、とにかく、自分が拠り所にしていた大事な何かがごっそりと心から無くなったことを感じた。口角が吊り上がっていくのを感じる。はは、そうか。本当の絶望とは笑えるのか。ちくしょう。あいつさえこなければ。その時にやっと、九尾がその女の隣に居ることに気づき、ふと九尾の方を見てみる。あいつの顔はつまらなさそうな、道端の石ころでも見るような目でこちらを見ていた。そうだ。あいつだ。あいつが悪いんだ。どうせ死ぬなら駄目で元々だ。私は前足で九尾の方を差す。
「私がいつかこいつを殺して成り代わりますから、どうか見逃してください」
ひゅう、という風の音。そしてかさかさと木の葉がすれる音。そんな音しかしない程の静寂がたっぷり十秒ほど続き、その静寂はぷっ、という吹き出す音とその後の笑い声で壊される。笑っているのはまるで人形の様に感情の見えない金髪の女だった。
「あははははは。ねえ聞いた藍。あなたを殺すんですって」
「そりゃあ聞こえますよ」
九尾の方はその時点で既に苦虫を噛み潰した様な、これから絶対に何か面倒事が起こるぞとでも言うように顔をしかめている。
「面白いじゃない。決めたわ、あなたこの子を式にしなさい」
「ええ!?私がですか?いくらなんでも殺す気で居る奴を式にするのは流石にちょっと」
「だからよ藍。あなたなんでも出来ちゃうんだからあえて面倒くさいことしないと」
「なんですかそれー。なんの理屈にもなってないですよ」
「決定事項よ。ねえあなた名前は……いや、次の時にでも名前を考えておきましょう。いいわ。私は八雲紫よ。あなたにはこの家の管理をさせてあげる。明日また来るから、私たちを持て成してみなさい。ほら帰るわよ藍」
「あー……めんどくさいなぁ……なんでよりによって……」
そう言った後こちらの返事も聞かずに女はその部屋から出ていく。九尾はまだぶつぶつと何か言いながらもその女の後をとぼとぼと付いていった。後には何がどうなったのか訳が分からないままの私だけが部屋に置いてけぼりにされている。そして、どうやら生き延びれたらしいという事に気づくのはしばらく経ってからだった。
「うわっ」
二十を超えた頃だろうか。そいつは私の案内無しにやってきて、こちらを見るなりそう口にした。他の者達はそんなことも露知らず、いつもの調子でまた新入りが来たと思い口々に話し出す。
「なんだ?」「新入りだ」「新入りだって?」「よく来たね」「俺の方が先輩だぞ」「おい、ヒト型だぞ」「ヒト型だって?」「ヒト型も来るようになったのかい」「世知辛くなったもんだ」「いいか虎吉、いい雌ってのはな脚で決まるんだよ」「だから俺は虎吉じゃねえってクロのじぃちゃん」「クロもそろそろかねぇ」「待てよ、あいつ尻尾多くないか?」「本当だ。何本だ?」「ちょっとこっちに尻向けてくれよ」「なな、はち、九本だ」「九尾じゃないか!」「九尾だって?」「いちいちオウム返しすんじゃないよ!」「ひえぇ」「初めて見たよ」「そりゃそうでしょ」
「ちょっと静かにして!……あんたどうやって入ってきたんだい?私の案内無しで入れる奴なんて今まで居なかったよ」
私は若干睨みつけながらそう聞いた。そいつはこちらに向き直り、なんてこと無いという風に澄ました顔で答える。
「どうやっても何も。ここは私達の家ですからね」
「なるほど、そういうことね。あんたのお陰で大分助かってるよ」
「それで、寛いでいる所申し訳ないのですが、皆さんには退去して頂きたい」
「なんだって!?」「それは困る」「嫌だぁ」「そんなこと言わずに」「ルームシェアでいいじゃん」「俺だけでも見逃してくれよ」「抜け駆けはずるいぞ」「許してにゃん」「九尾様ぁ~足でも舐めますからそれだけはぁ~」「あんたが舐めたいだけじゃないの?」
「うるさいよあんたたち!まあでも、出てけと言われてはいそうですかなんて素直には聞けないね。こんな良い所独り占めなんてずるいじゃない。そんなに嫌なら力ずくで追い出してみなよ」
「盗人がなんとやら……いや、猫なんかが所有権なんて知っている方が無理と言うものか。まったく……面倒くさいけど、猫に所有権を理解させるよりは簡単か」
そういってそいつは組んでいた腕を解き、腕を捲る。それは構え、と言うより掃除でもするかという様にしか見えなくて、余計に私の神経を逆なでした。
「昔はお前の場所だったんだろう。でも今は私の場所だ。奪い返してみなよ。できるものならね!行きな!あんたたち!」
「……」
勢いよく啖呵を切ってみたものの、猫たちは互いにきょろきょろと顔を見たり、様子を伺うばかりで誰も飛びかかろうともしない。
「……なんで誰も行かないのよ」
「いやあ、だって相手はあの九尾だよ?あたしらが束になったって適うわけないじゃん」
「う、うるさーい!どのみちやんなきゃ追い出されんだよ!行けったら行けぇー!」
そこまで言ってやっと猫たちはゆっくりと立ち上がり伸びをしてやる気なくばらばらと飛びかかる……が、そのどれもが九尾に掠る事も無く空を切る。飛びかかったものはその勢いのまま空高く放り投げられ、警戒して様子見しているものはそのまま掴まれて放り投げられ、避けようとしたものは避けた先を掴まれて放り投げられ、まるで未来でも見えているかのような正確さでこちらの動きを先読みして一匹、また一匹と外へと放り投げられていく。そうして、全ての猫(服の中を覗こうとして蹴り飛ばされた一匹を除いて)が放り出され、とうとう私だけになってしまう。
「さて、後はあなただけですかね」
「く、くそー!なんとかなれー!」
やけっぱちで突っ込んではみるが、他の者と全く同じ様に空を切った私を着地する前にそいつに首根っこを掴まれてしまう。
「ちくしょう!離せ!」
やたらめったらに暴れてみるが、文字通り手も足も出ない。
「あなただって畜生でしょうに」
「うぅ、ちくしょう。ちくしょう」
ぽろぽろと目から大粒の涙が零れてくる。こいつは手を抜いているのだ。私が生きているのはまさか妖怪のこいつが博愛主義者だから――なんて訳が無いだろう。殺したら掃除が面倒くさいとか、ここを汚したくないとか、どうせそんな程度の理由でしかないに決まっている。そんな程度の理由で、私は今生かされているのだ。九尾になんて勝てない事くらいわかりきっていたけれども、勝負にすらならずただただ一方的に駆除されたという事実が、私にはもうどうしようもなく悔しくて、惨めで、溢れ出る涙を止められなかった。こんな思いをするくらいなら切り裂かれてひき肉にでもなる方がよっぽどましだった。
「ちくしょーちくしょー!私が、私が見つけた家なのにー!」
「見つけたってねえ……家ってのは勝手に建つわけじゃ無いんですよ」
「ちくしょーちくしょー!私が、私が見つけた家なのにー!」
「なら、うちの主人に会ってみますか?」
「ちくしょーちく……え?」
「それで、この子がそうなの?」
「ええ、そうです。弱い結界とはいえ、二尾なんぞに抜けられるようには作っておりませんでしたので。何かに使えるかと」
「ふぅ~ん」
九尾が連れてきた金髪の女はそう言って品定めをする様にじろじろとこちらを眺めている。その視線で私の心臓は早鐘の様に早く鳴り、呼吸は切れるように浅く短くさせられていた。見られている。この女に見られているからという話ではない。全身から感じるのだ。横から、後ろから、上から、机の下から、箪笥の隙間から、畳の目から、ありとあらゆる方向から私を観察している。もしかしたら腹の中まで見透かされているのではないかと錯覚するほどの強烈な視線。いや、もしかしたら本当に見えているのかもしれない。九尾だって果てしなく遠い存在だがまだこいつの強さは理解することが出来た。だが目の前にいるこいつはなんだ?強いとか弱いとかの話では無い。私達とは根本から違う圧倒的な何かが人の皮を被ってそこに居る。もうこんな場所どうだっていい。死にたくない。どうすればこの化け物から逃げられる?考えろ。考えろ。私は恐怖と焦燥に塗れた脳から必死に絞り出し、息も絶え絶えの渇ききった口を開ける。
「あ、あの……命だけは」
「ねえ」
「はい!」
「別にそんなことしないけど、あなたには何が出来るの?」
その女は口元を扇子で隠し、何の感情も見えない硝子玉のような瞳で私を見下ろしながらそう聞いてくる。ああ、駄目だ。助からない。私には命を懸けて自尊心を守ることも、自尊心を捨てて命を守ることもできないのか。胸に穴が開いたような、足場が無くなって落っこちるような、とにかく、自分が拠り所にしていた大事な何かがごっそりと心から無くなったことを感じた。口角が吊り上がっていくのを感じる。はは、そうか。本当の絶望とは笑えるのか。ちくしょう。あいつさえこなければ。その時にやっと、九尾がその女の隣に居ることに気づき、ふと九尾の方を見てみる。あいつの顔はつまらなさそうな、道端の石ころでも見るような目でこちらを見ていた。そうだ。あいつだ。あいつが悪いんだ。どうせ死ぬなら駄目で元々だ。私は前足で九尾の方を差す。
「私がいつかこいつを殺して成り代わりますから、どうか見逃してください」
ひゅう、という風の音。そしてかさかさと木の葉がすれる音。そんな音しかしない程の静寂がたっぷり十秒ほど続き、その静寂はぷっ、という吹き出す音とその後の笑い声で壊される。笑っているのはまるで人形の様に感情の見えない金髪の女だった。
「あははははは。ねえ聞いた藍。あなたを殺すんですって」
「そりゃあ聞こえますよ」
九尾の方はその時点で既に苦虫を噛み潰した様な、これから絶対に何か面倒事が起こるぞとでも言うように顔をしかめている。
「面白いじゃない。決めたわ、あなたこの子を式にしなさい」
「ええ!?私がですか?いくらなんでも殺す気で居る奴を式にするのは流石にちょっと」
「だからよ藍。あなたなんでも出来ちゃうんだからあえて面倒くさいことしないと」
「なんですかそれー。なんの理屈にもなってないですよ」
「決定事項よ。ねえあなた名前は……いや、次の時にでも名前を考えておきましょう。いいわ。私は八雲紫よ。あなたにはこの家の管理をさせてあげる。明日また来るから、私たちを持て成してみなさい。ほら帰るわよ藍」
「あー……めんどくさいなぁ……なんでよりによって……」
そう言った後こちらの返事も聞かずに女はその部屋から出ていく。九尾はまだぶつぶつと何か言いながらもその女の後をとぼとぼと付いていった。後には何がどうなったのか訳が分からないままの私だけが部屋に置いてけぼりにされている。そして、どうやら生き延びれたらしいという事に気づくのはしばらく経ってからだった。
この後頑張って頑張って、今の橙なんでしょうね
かわいらしい橙でよかったです
まばらに襲い掛かって放り投げられるモブ猫たちに笑いました
しかし藍も自分を殺しかねないのを嫌々雇ったという感じだったのに、この後の原作時間軸では溺愛しちゃってるんですからお猫様は最強ですわ