金髪緋眼の少女が闇の中をふよふよと漂っている。
その真っ暗いスカートが風を孕み揺れるように、一見して目的もなく彷徨っているふうでもある。
夜の木立の隙間隙間をすり抜けて、闇の奥へ奥へと進んでいく、その間に、時折しめった腐葉土の上を野ネズミの一家が駆けていき、羽虫の集団が虚空を行き交うが、彼らの誰も少女に意識を向けることはない。彼らが追い求めるのは生存と繁殖に利するものに限られている……であるから、不可思議に奇妙に闇の中でなお暗い闇をまとうこの少女を、ネズミや羽虫たちは自分等の生存競争への一片の関連性も無いものと理解しているから、違う位相に生きる者だと理解しているから、わずかばかりの本能的な敬意を差し向ける程度で、やはりみるみるうちに駆け抜けていく。
少女もまた彼らのことを気にはかけない。
苔むした岩屋の前で立ち止まり(あるいは浮き止まり)緋色の瞳をすっと細めた。
「ここかな」
すとん、と地に足をつけると、群がっていた羽虫の群が夜霧の消え去るように飛び去った。
残された人骨にはまだ生々しい血肉がこびりついている。それと鋭い牙か爪の痕跡。人を容易く引き裂く恐るべき力の跡だ。
熊か? 狼か? あるいは……。
「こんばんは」
少女は臆さず岩屋の闇の奥へと声をかける。
物音が返った。驚きに身を震わせるような物音が。それから間髪入れず悲鳴に似た叫びも、返った。
「誰!?」
「怪しい者じゃごぜーません……って、ますます怪しい?」
「さ、さっきの白黒人間!? 来たら殺すわ! 脅しじゃないのよ!?」
「ふーん……そっちを引いたんだ。運が良かったね? でも初見殺しって意味ならあっちの方がひどいか。あの馬鹿みたいなレーザー砲、喰らったでしょ」
「ああ喰らったわよ! なにが弾幕ごっこなの!? 死ぬかと思った! ううんマトモに当たったら絶対死んでた! ていうかあなたなんなのよぶつぶつ言って!? さっきの奴じゃ無いの!?」
「半狂乱だなぁ。私は妖怪だよ。あなたの同胞!」
少女の言葉に、狂乱した吠え声がなりを潜めた。赤い靴がすっと進み出て、森と岩屋の境界を軽々に越える。超えてから彼女は、
「入っていい?」
そう尋ね終えた時にはもう、少女はすっかり岩屋の奥に向かっている。夜辺からも切り離された真の闇。月光も、星の煌めきも届かない、どこにでもある普通の奇しい愛おしい闇。
けれどその闇の中であってなお、少女の緋眼は確かに洞穴の曲がりくねった構造を見通している。先ほどとはまた別の意味で驚いたような、感心したような声が響いた。
「あ、あなた、この暗いのに夜眼が効くのね……」
「私が見通せない闇は私が作った闇だけなの」
「闇を作る? もしかして、あなた、すごい妖怪……?」
「ううん? 私はそんじょそこらの宵闇の妖怪。ルーミアって呼んでいいよ」
「ルーミア。え、でも、闇の妖怪? やっぱりそれってすごいんじゃ」
「すごくないんだなぁ、これがさ」
もはや狭い岩屋の最奥までルーミアは辿り着いている。
肩で浅く息をしている妖怪が一匹、そこに蹲ったまま、震える瞳で訪問者を見上げていた。
「たしかにさっきの人間じゃない……逃げきれたのね……」
「今はね。でも明日にはここを見つけてるよ」
「っ!? 私を売るつもり!?」
「やだなぁ。あなたも、私も、売り払ったところで値段なんかつかないよ」
「じゃあ」
「ただね。人間を殺したのは、まずかったね」
「う……」
湿った石の上に腰を下ろし、ルーミアは改めて妖怪の姿を捉えた。
まずあまり強そうな風体ではない。衣装の裾のあたりが焼けこげているのは、なるほど確かにあの魔法使いのレーザーを避け損ねたらしい。少なくとも、容易く襲撃者を蹴散らせるようななにか曰くのある妖怪ではないことは、確かだった。
そんなしげしげと観察する視線に気がついているのかいないのか、妖怪は口を尖らせて、また声を荒らげる。
「仕方ないじゃない! お腹空いて空いてしかたなかったのよ! あなただって人間くらい食べるでしょ!?」
「とって食べてもいいやつだけね。あなたは、知らなかったとはいえ、人様の牧場に入り込んでそこの牛に手を出したのよ。あの魔法使いは猟犬。あなたは追われる雌狐ってわけ」
「でも! 妖怪なんだから人くらい襲うわ! それに私が好き好んで入り込んだみたいに言うけど、気がついたらここにいたのよ! もうわけわかんないっ!」
「そうヒステリックに叫ばなくてもわかってるってば。あなたどう見ても新参だもん」
「うぅ……ここはどこなの……お家に帰りたい……」
「お家があったんだ?」
「もちろんあったに決まって……」
「どうしたの?」
「……思いだせない」
「流浪の妖怪だって珍しくはないわ」
「そうじゃない! 私はずっと同じ場所に住んでた!」
「んじゃ、どっかの土地由来の怪異だったんだ」
「わ、わかんない……」
頭を抱え込んだ妖怪の気配が、さらにひとまわり縮こまる。闇の中で瞳が見開かれ、虚無を見つめている。
「どうしたの?」
「思いだせない」
「べつにどこから来たのかなんてどーでも……」
「そうじゃないの! 家のことだけじゃない! 名前! 自分の名前が思いだせないのよ! なんで、どうして……」
うわごとめいて或れ其れと名前をあげては否定するを繰り返す妖怪の、その手から伸びた鉤爪に血の跡がべったり残されていることに、ルーミアはもう気がついている。最初から気がついているし、べつにどうでもよいことだった。
「あなたさ、ここがどこか知ってるの?」
ルーミアが話題を変えると、妖怪はすぐさま飛びついた。
「知らない。どこなの!? すごく変な場所……妖怪や妖精なんてこれまで一度も見たことなかったのに……それに人間が魔法を使うなんて!」
「ここは幻想郷。噂くらいは、聞いたことがない?」
「……ううん」
「そう」
おそらく彼女はかなり新しい妖怪なのだろう。ルーミアはそう当たりをつける。
妖精や妖怪を一度も見たことがなかったり、幻想郷の名前も知らなかったり……きっと怪異が大いに衰退した後の時代に発生した世代に違いない。
妖怪の誕生。
それ自体は、今でも珍しいことでもなかった。未知なる者はいつの世も産まれる。人の心に恐れと畏れがある限り。しかし昔と違って長持ちはしない。産まれた側から消えていく。この妖怪のように姿かたちを保てているだけでも、かなりの上澄みなのだ。
「あなた詳しいのね? 教えてよ! げんそーきょってなに? 何県にあるの?」
「何県ねえ……」
これで府県制制定以降の妖怪だとわかった。最大限見積もっても100歳と少し。実際はもっと若いだろう。背はルーミアよりも高かったが、過ごした時間は比べるべくもない。
「どこにあるか、なんてどーでもいいのよ。重要なのは、ここがどんなところかなんだから」
「どんなところなの?」
「言いようは色々あるけどねー。一言でいえば、忘れられた者たちの避難場所、かな?」
「ぜんぜんわかんないわ」
「妖怪は認識に依拠した存在。それくらいは、わかってるでしょ?」
「なんとなくは……」
ため息。しかし仕方のないことでもある、とルーミアは諦念を抱いた。
人間だって同じことだ。なぜ産まれ、なぜ生きて、なぜ死ぬのか。大半の連中はその一片すら理解できぬまま輪廻の渦に流されていく。
であれば、同胞の一匹にも巡りあえなかったろうこの若い妖怪が無知であることも、彼女のせいと責めることはできない。
「人は忘れられた時に死ぬ、なんてつまらない言葉もあるけれど、私たちの場合はもっとシリアス。妖怪は忘れられた時に死ぬ。間違いなく。でも、誰だって死にたくは無い」
「私だって死にたくない!」
「そう。でも人間たちはどんどんと神秘への畏怖を、未知への恐怖を忘れつつある。だから頭の良い連中は考えたのよ。妖怪が安心してセカンドライフを送れる避難場所を作ろうってね」
「……じゃあ、私がここに来たのは、私が人間に忘れられたから……?」
「うん。そういう連中をひとりでに招き入れる結界なんだと思うよ」
「私がどこから来たのか思い出せないのも、人間に忘れられたから?」
「うん」
「私が私の名前を思い出せないのも……」
「人間があなたの名前を忘れてしまったから」
「私は……私は誰なの?」
「さあ」
沈黙が降りてくる。
妖怪は自分の膝を抱え込んで、顔をうずめたまま動かない。
ルーミアはただ口を一文字に結んでそれを眺めていた。
ぐぅう、と情けない音が響く。
「お腹すいた……」
「人間を喰らったんでしょ?」
「……うん」
「お腹はふくれた?」
「……ううん」
「でしょうね」
「なんでなの……妖怪は人を喰らう者よ……」
「そう。でもそれは妖怪のありふれた所業であって、あなたを確かにしてくれるものじゃないね。あなたはただの、ありふれた、人を襲い喰らうだけのモンスターに自分を貶めただけ。ほら見て、肩が透けてるよ。もう存在を保てなくなってる」
「ひっ」
妖怪が慌てて肩のあたりを押さえたが、その指先が空を切る。
暗がりでなければ青ざめた表情がよく見えたに違いなかった。
それから――不意に赤い鉤爪のついた指が伸びて、ルーミアを掴もうとする。彼女はひょいと身を躱し、それを退けた。
「あなた言ったじゃない! ここは忘れられた者たちの避難場所だって! どうして私は消えかけてるの! なぜあなたは消えないの!」
「ぐずって消えたがらないからじゃない?」
「意味わかんない!」
「さっさと忘れられきっちゃえばいいだけよ」
「忘れられたからここに引きずり込まれたんでしょ!? じゃあ、」
「まだ一匹だけ、あなたを忘れようとしない存在が残ってるじゃない」
「ぜんぜん理解できない、なんなのよ……なんなのよ! あなたさっきから私のこと馬鹿にしてるでしょ!? そうよね、だってあなた闇の妖怪だもん! どんなに人間が変わったって闇を恐れなくなることは無いもんね!? 私の気持ちなんかわかるわけない! 安全なところから馬鹿にしてるんだ!」
「えー? なんでそーなるかなー」
「おまえを取り込めば私が闇!」
「あーらら」
鉤爪が空を切り、洞穴の岩壁を打ち砕く。立て続けに振るわれる致死の一撃を、しかしルーミアは軽くステップを踏むように、とん、ととん、と避けていく。
「私だって夜目は効くのよ!」
「そーなんだー」
「笑ってなさい! そっちは行き止まりだよ!」
とん……と、ルーミアの背が土に触れた。もう逃げ場はない。妖怪は金切り声を上げて迫る。ルーミアのため息。彼女の細い指先がタクトのように振るわれ、途端、妖怪の姿勢が崩れた。ぶぅんと振るわれる必殺の一撃は、けれど狙った獲物のすぐ脇の岩場に吸い込まれ、衝撃、轟音、ジャリ粒が舞う。
「あああっ……見えない! どこよ! どこっ――」
なおもぶんぶんと虚空に向けて爪を振り回し続ける妖怪のザマ、それを、ルーミアはもう安全圏から眺めている。
だが必死の妖怪はそれにすら気づいていない。彼女の目元には、真夜中の洞穴にあってなお真っ暗い闇の欠片がへばりついている。
その後も彼女は虚しい掘削作業を続けていたが、やがて無意味だと悟ったのか、単に疲れ切ったのか、泣きべそをかきながらその場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい。ルーミア、ルーミア! もう行っちゃった……?」
「いるよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、私怖くて」
「べつに怒ってないよ」
「……ありがとう。でもどうしてそんなに優しくしてくれるの。私のことなんて知りもしないはずなのに……」
「うーん……どうしてって言われても。強いていえば、趣味かな?」
「え?」
「私、人間って嫌いなの。ほら、あいつのお気に入りの被造物でしょ?」
「あ、あいつって?」
「神」
打ち解けかけていた妖怪の表情が、凍りつく。ルーミアのやわらかな微笑み。
「それに引き換え妖怪は好きよ。だって大半の妖怪は闇から来てるんだもの。情けは妖怪の為ならずだわ。つまり、われらみな同胞なりや!」
「え、えっと」
「あなたを助ければ世界の闇の濃度が少しだけ、濃くなるよね。それってあの野郎が創った光の世界をほんの少し押し戻すってことだわ。もちろん意味なんてない差だけど。だから趣味なの。あいつへの嫌がらせなの」
くすくすと鋭い牙を覗かせるルーミアに、妖怪は二の句を継げなかった。代わりにしばしの沈黙を挟んで、短く応えた。
「えっと、ルーミアは、生きる目的があるんだね……」
「そーなのかもね」
「……ねえ、教えて。お願い。私もまだ死にたくないの。どうすればいいの。どうすれば、私は」
「受け入れたらいいよ」
「えっ……」
「言ったでしょ。あなたを忘れようとしない存在が残ってるって」
「それは」
「あなたよ」
「わ、わたし?」
「そ。あなたは、まだ、自分が忘れられた存在だってことを、受け入れられていない。自分はまだなんとかなると思ってる。でもね、なんともならないんだよ。なんともならないから、ここに流れてきたんだもの」
「う……で、でも! あなたは闇の妖怪でしょ!? あなただって――」
「懐事情は各々違う。あなたはあなたの問題を受け入れなきゃ」
「でも……」
「認めるのよ」
「っ……」
「もう向こうに自分の居場所はないんだって」
「いやよ、そんな」
「さもなければ、消えるだけ。それにここは良いところだよ。特に妖怪にはね。あなたが、ただ、自分はもう滅び去った存在の一匹だって認めれば、毎日呑めや歌えやの日々に生きることだってできる……かもね?」
ルーミアの言葉が真実なのかどうか、妖怪に判断する術はない。
それでも長いこと彼女は沈黙していた。あんまり沈んでいるものだからか、ルーミアが肩をすくめた。
「そんなに難しいことかな?」
「……あなたには、わからないわ。闇の妖怪のあなたには……」
「わからないねー」
「私は、私だって……私にだって誇りはある……」
「生きればこそだと思うけどね。私は……」
深く自らの内側へと潜っていく妖怪の少女をもう、ルーミアは引き戻そうとはしなかった。
懐事情は各々違う。
ルーミアは大きなあくびを一つすると、ごろりとその場に横になった。
「ま、ゆっくり考えなよ……久々に力を使ったから疲れちゃった……おやすみ」
先ほど襲われたことなどすっかり忘れた様子でルーミアは瞳を閉ざす。
ぶつぶつと半透明の妖怪がうわ言つぶやくのも意に介さず、彼女は夢の世界へと潜り込んでいった。
◯
朝焼けを背負って飛ぶ少女がいる。
白黒の衣装と金色の巻き毛をなびかせる、霧雨魔理沙の瞳がふと、森の中の小さな岩屋を捉えた。
妖力を捉えるマジックアイテムの反応に従い彼女は、上品ささえ纏う緩やかな速度で高度を下げていく。そしてすとんと地に足をつけると、群がっていた羽虫の群が朝露の弾けるように飛び去った。
「……熊や狼じゃあないな」
足元に散らばる人骨を一瞥し、胸元で小さく十字を切る。白黒帽子のつばをきゅっと押し下げて彼女は、ミニ八卦炉を油断なく構えて闇の奥へと踏み入れた。
(なんだ? 反応が二匹分? 昨日仕留めそこねたのは、たしか一匹だけのはずだが)
あまり良くない兆候だ。特に今回追っている妖怪は人里近くにも関わらず殺しをやってのけた。おまけにスペルカードルールもよく理解していない。まず間違いなく新参者だろう。ルールを知らない新参妖怪はある意味で、鬼や吸血鬼よりよっぽど危険だ。
(引き返したほうが良いかな? でも珍しく霊夢に先んじてるしなぁ……実を取るか、プライドに従うか……ってわけだ)
朝焼けは洞穴の曲がりくねった構造に遮られ、進む先は闇の暗さで満ちている。
しばし魔理沙の足が止まるが、やがて彼女はミニ八卦炉に小さな灯りをともさせる。ほの明るい炎が闇を切り払って道を開いた。
(……べつに増上慢になったわけじゃない。妙なほど敵意を感じない。昨日あれだけ追い詰めたんだ、もう少し警戒されてると思ったが)
闇の奥、ここには鳥の声さえ届かない。かわりに、かつーん、こつーん、かつーんと忍ぶ足音が大きく響く。
押し殺した吐息。魔理沙の頬を一筋の汗がつたう。
(ふふん……そういや妖怪ってのは恐ろしい存在だっけ。こんな気持ちも久方ぶりだな)
一歩ずつ足を進める魔理沙がふと、壁に身を寄せる。
殺した息を更に殺して耳をそばだてる、向こうからは、物音。妖怪の息遣い。
この先にいる。間違いなく。
ミニ八卦炉を構え直し、胸の中でゆっくりと数を刻み、
(いち……に……)
そして、靴底が地を蹴りつけた。
「さんっ!」
飛び出した勢いのままミニ八卦炉をすかさずかざす。ひらめく閃光、その眩さに照らされた相手の眠たげな表情を、魔理沙は見た。
「ルーミア!?」
「ふあぁ……」
「やばっ――避けてくれ!」
「んえ?」
ピチュン――とミニ八卦炉の吐き出した光線が岩壁を撃ち抜く。そこにはかつて、何者かがえぐり取った鉤爪の痕跡が残されていたのだが、そんなことは顧みられず豪快な大穴が穿たれた。
途端、洞穴にぱっと光が満ちる。
ミニ八卦炉の炎よりもさらにずっとまばゆく、神々しい光。すなわち朝の太陽の光が差し込んでいた。
「なんだ、思ったより浅いとこだったんだな」
ぼやく魔理沙の側で、ぎりぎり射撃を躱したルーミアがのたうち回り、悲鳴を上げていた。
「ぎゃーっ! ちょっとなにすんのよ!」
「あ、すまん……そういやおまえ闇の妖怪だっけ?」
「まぶしい~! お肌に悪い~!」
「そうなのか……」
そのまま転がるように逃げ去っていくルーミアを一瞥して、魔理沙は改めて周囲を調べてまわる。
しかしいくら探してみても、ここにはルーミアの寝ていた跡以外に何も残ってはいなかった。
「おかしいな……確かに二匹分の妖力を感じたんだが……」
そうぼやく魔理沙はふと、不思議そうに首をひねった。
「……あれ? そもそも私、なんでここに居るんだっけ?」
確かにさっきまでは覚えていたはず。明確な目的を持ってこの洞穴に入り込んだはずだった。
だがもう今は、記憶にモヤがかかったように判然としない。どんなに壮大な夢を見ていても、目を覚ますともうすっかり忘れてしまうのと同じ感覚。
穿たれた穴の向こうから鳥の声が響く。ちゅんちゅんという目覚めの歌を魔理沙はしばらくぼんやりと聞いていたが、やがてハッと我に返ると、洞窟の入口へと踵を返した。
「ルーミアだ! ここにはあいつしかいなかった……ならきっと私は、ルーミアを追いかけて来たんだ! 他に考えられん!」
なにか摩訶不思議な術で記憶を混乱させられたに違いない、と魔理沙は息巻いて走り出す。
走り出そうとする。
その瞳がふと、洞窟の岩壁に刻まれた妙な模様をみとめる。
模様ではない。文字だ。なにか鋭利なもの(例えば猛獣の鉤爪のような)で刻まれた文字。ひどく震えた線は読みづらかったが、魔理沙の持ち前の好奇心が捨て置かずにはいさせない。
「――忘れられても生きるべきか、誇りを胸に死すべきか……ルーミアが書いたのか? まさかだよな」
しばし彼女は立ち止まって考えていた。が、それも長くは続かなかった。
「当然、生きるさ。生きればこそだ。生きてりゃどうとでもなる。忘れられたって、次は二度と忘れられないくらいに記憶を刻み込んでやればいいだろ」
それでおわり。それでおしまい。もう霧雨魔理沙の強烈な好奇心も、夢の世界の残り香も、なにも彼女を止められない。
人は現実の中で生きている。現実とは今は、ルーミアを追うことだ。彼女が何かを知っているだろう。
少女が一人走り去り、静けさが岩屋に取り戻された。
その真っ暗いスカートが風を孕み揺れるように、一見して目的もなく彷徨っているふうでもある。
夜の木立の隙間隙間をすり抜けて、闇の奥へ奥へと進んでいく、その間に、時折しめった腐葉土の上を野ネズミの一家が駆けていき、羽虫の集団が虚空を行き交うが、彼らの誰も少女に意識を向けることはない。彼らが追い求めるのは生存と繁殖に利するものに限られている……であるから、不可思議に奇妙に闇の中でなお暗い闇をまとうこの少女を、ネズミや羽虫たちは自分等の生存競争への一片の関連性も無いものと理解しているから、違う位相に生きる者だと理解しているから、わずかばかりの本能的な敬意を差し向ける程度で、やはりみるみるうちに駆け抜けていく。
少女もまた彼らのことを気にはかけない。
苔むした岩屋の前で立ち止まり(あるいは浮き止まり)緋色の瞳をすっと細めた。
「ここかな」
すとん、と地に足をつけると、群がっていた羽虫の群が夜霧の消え去るように飛び去った。
残された人骨にはまだ生々しい血肉がこびりついている。それと鋭い牙か爪の痕跡。人を容易く引き裂く恐るべき力の跡だ。
熊か? 狼か? あるいは……。
「こんばんは」
少女は臆さず岩屋の闇の奥へと声をかける。
物音が返った。驚きに身を震わせるような物音が。それから間髪入れず悲鳴に似た叫びも、返った。
「誰!?」
「怪しい者じゃごぜーません……って、ますます怪しい?」
「さ、さっきの白黒人間!? 来たら殺すわ! 脅しじゃないのよ!?」
「ふーん……そっちを引いたんだ。運が良かったね? でも初見殺しって意味ならあっちの方がひどいか。あの馬鹿みたいなレーザー砲、喰らったでしょ」
「ああ喰らったわよ! なにが弾幕ごっこなの!? 死ぬかと思った! ううんマトモに当たったら絶対死んでた! ていうかあなたなんなのよぶつぶつ言って!? さっきの奴じゃ無いの!?」
「半狂乱だなぁ。私は妖怪だよ。あなたの同胞!」
少女の言葉に、狂乱した吠え声がなりを潜めた。赤い靴がすっと進み出て、森と岩屋の境界を軽々に越える。超えてから彼女は、
「入っていい?」
そう尋ね終えた時にはもう、少女はすっかり岩屋の奥に向かっている。夜辺からも切り離された真の闇。月光も、星の煌めきも届かない、どこにでもある普通の奇しい愛おしい闇。
けれどその闇の中であってなお、少女の緋眼は確かに洞穴の曲がりくねった構造を見通している。先ほどとはまた別の意味で驚いたような、感心したような声が響いた。
「あ、あなた、この暗いのに夜眼が効くのね……」
「私が見通せない闇は私が作った闇だけなの」
「闇を作る? もしかして、あなた、すごい妖怪……?」
「ううん? 私はそんじょそこらの宵闇の妖怪。ルーミアって呼んでいいよ」
「ルーミア。え、でも、闇の妖怪? やっぱりそれってすごいんじゃ」
「すごくないんだなぁ、これがさ」
もはや狭い岩屋の最奥までルーミアは辿り着いている。
肩で浅く息をしている妖怪が一匹、そこに蹲ったまま、震える瞳で訪問者を見上げていた。
「たしかにさっきの人間じゃない……逃げきれたのね……」
「今はね。でも明日にはここを見つけてるよ」
「っ!? 私を売るつもり!?」
「やだなぁ。あなたも、私も、売り払ったところで値段なんかつかないよ」
「じゃあ」
「ただね。人間を殺したのは、まずかったね」
「う……」
湿った石の上に腰を下ろし、ルーミアは改めて妖怪の姿を捉えた。
まずあまり強そうな風体ではない。衣装の裾のあたりが焼けこげているのは、なるほど確かにあの魔法使いのレーザーを避け損ねたらしい。少なくとも、容易く襲撃者を蹴散らせるようななにか曰くのある妖怪ではないことは、確かだった。
そんなしげしげと観察する視線に気がついているのかいないのか、妖怪は口を尖らせて、また声を荒らげる。
「仕方ないじゃない! お腹空いて空いてしかたなかったのよ! あなただって人間くらい食べるでしょ!?」
「とって食べてもいいやつだけね。あなたは、知らなかったとはいえ、人様の牧場に入り込んでそこの牛に手を出したのよ。あの魔法使いは猟犬。あなたは追われる雌狐ってわけ」
「でも! 妖怪なんだから人くらい襲うわ! それに私が好き好んで入り込んだみたいに言うけど、気がついたらここにいたのよ! もうわけわかんないっ!」
「そうヒステリックに叫ばなくてもわかってるってば。あなたどう見ても新参だもん」
「うぅ……ここはどこなの……お家に帰りたい……」
「お家があったんだ?」
「もちろんあったに決まって……」
「どうしたの?」
「……思いだせない」
「流浪の妖怪だって珍しくはないわ」
「そうじゃない! 私はずっと同じ場所に住んでた!」
「んじゃ、どっかの土地由来の怪異だったんだ」
「わ、わかんない……」
頭を抱え込んだ妖怪の気配が、さらにひとまわり縮こまる。闇の中で瞳が見開かれ、虚無を見つめている。
「どうしたの?」
「思いだせない」
「べつにどこから来たのかなんてどーでも……」
「そうじゃないの! 家のことだけじゃない! 名前! 自分の名前が思いだせないのよ! なんで、どうして……」
うわごとめいて或れ其れと名前をあげては否定するを繰り返す妖怪の、その手から伸びた鉤爪に血の跡がべったり残されていることに、ルーミアはもう気がついている。最初から気がついているし、べつにどうでもよいことだった。
「あなたさ、ここがどこか知ってるの?」
ルーミアが話題を変えると、妖怪はすぐさま飛びついた。
「知らない。どこなの!? すごく変な場所……妖怪や妖精なんてこれまで一度も見たことなかったのに……それに人間が魔法を使うなんて!」
「ここは幻想郷。噂くらいは、聞いたことがない?」
「……ううん」
「そう」
おそらく彼女はかなり新しい妖怪なのだろう。ルーミアはそう当たりをつける。
妖精や妖怪を一度も見たことがなかったり、幻想郷の名前も知らなかったり……きっと怪異が大いに衰退した後の時代に発生した世代に違いない。
妖怪の誕生。
それ自体は、今でも珍しいことでもなかった。未知なる者はいつの世も産まれる。人の心に恐れと畏れがある限り。しかし昔と違って長持ちはしない。産まれた側から消えていく。この妖怪のように姿かたちを保てているだけでも、かなりの上澄みなのだ。
「あなた詳しいのね? 教えてよ! げんそーきょってなに? 何県にあるの?」
「何県ねえ……」
これで府県制制定以降の妖怪だとわかった。最大限見積もっても100歳と少し。実際はもっと若いだろう。背はルーミアよりも高かったが、過ごした時間は比べるべくもない。
「どこにあるか、なんてどーでもいいのよ。重要なのは、ここがどんなところかなんだから」
「どんなところなの?」
「言いようは色々あるけどねー。一言でいえば、忘れられた者たちの避難場所、かな?」
「ぜんぜんわかんないわ」
「妖怪は認識に依拠した存在。それくらいは、わかってるでしょ?」
「なんとなくは……」
ため息。しかし仕方のないことでもある、とルーミアは諦念を抱いた。
人間だって同じことだ。なぜ産まれ、なぜ生きて、なぜ死ぬのか。大半の連中はその一片すら理解できぬまま輪廻の渦に流されていく。
であれば、同胞の一匹にも巡りあえなかったろうこの若い妖怪が無知であることも、彼女のせいと責めることはできない。
「人は忘れられた時に死ぬ、なんてつまらない言葉もあるけれど、私たちの場合はもっとシリアス。妖怪は忘れられた時に死ぬ。間違いなく。でも、誰だって死にたくは無い」
「私だって死にたくない!」
「そう。でも人間たちはどんどんと神秘への畏怖を、未知への恐怖を忘れつつある。だから頭の良い連中は考えたのよ。妖怪が安心してセカンドライフを送れる避難場所を作ろうってね」
「……じゃあ、私がここに来たのは、私が人間に忘れられたから……?」
「うん。そういう連中をひとりでに招き入れる結界なんだと思うよ」
「私がどこから来たのか思い出せないのも、人間に忘れられたから?」
「うん」
「私が私の名前を思い出せないのも……」
「人間があなたの名前を忘れてしまったから」
「私は……私は誰なの?」
「さあ」
沈黙が降りてくる。
妖怪は自分の膝を抱え込んで、顔をうずめたまま動かない。
ルーミアはただ口を一文字に結んでそれを眺めていた。
ぐぅう、と情けない音が響く。
「お腹すいた……」
「人間を喰らったんでしょ?」
「……うん」
「お腹はふくれた?」
「……ううん」
「でしょうね」
「なんでなの……妖怪は人を喰らう者よ……」
「そう。でもそれは妖怪のありふれた所業であって、あなたを確かにしてくれるものじゃないね。あなたはただの、ありふれた、人を襲い喰らうだけのモンスターに自分を貶めただけ。ほら見て、肩が透けてるよ。もう存在を保てなくなってる」
「ひっ」
妖怪が慌てて肩のあたりを押さえたが、その指先が空を切る。
暗がりでなければ青ざめた表情がよく見えたに違いなかった。
それから――不意に赤い鉤爪のついた指が伸びて、ルーミアを掴もうとする。彼女はひょいと身を躱し、それを退けた。
「あなた言ったじゃない! ここは忘れられた者たちの避難場所だって! どうして私は消えかけてるの! なぜあなたは消えないの!」
「ぐずって消えたがらないからじゃない?」
「意味わかんない!」
「さっさと忘れられきっちゃえばいいだけよ」
「忘れられたからここに引きずり込まれたんでしょ!? じゃあ、」
「まだ一匹だけ、あなたを忘れようとしない存在が残ってるじゃない」
「ぜんぜん理解できない、なんなのよ……なんなのよ! あなたさっきから私のこと馬鹿にしてるでしょ!? そうよね、だってあなた闇の妖怪だもん! どんなに人間が変わったって闇を恐れなくなることは無いもんね!? 私の気持ちなんかわかるわけない! 安全なところから馬鹿にしてるんだ!」
「えー? なんでそーなるかなー」
「おまえを取り込めば私が闇!」
「あーらら」
鉤爪が空を切り、洞穴の岩壁を打ち砕く。立て続けに振るわれる致死の一撃を、しかしルーミアは軽くステップを踏むように、とん、ととん、と避けていく。
「私だって夜目は効くのよ!」
「そーなんだー」
「笑ってなさい! そっちは行き止まりだよ!」
とん……と、ルーミアの背が土に触れた。もう逃げ場はない。妖怪は金切り声を上げて迫る。ルーミアのため息。彼女の細い指先がタクトのように振るわれ、途端、妖怪の姿勢が崩れた。ぶぅんと振るわれる必殺の一撃は、けれど狙った獲物のすぐ脇の岩場に吸い込まれ、衝撃、轟音、ジャリ粒が舞う。
「あああっ……見えない! どこよ! どこっ――」
なおもぶんぶんと虚空に向けて爪を振り回し続ける妖怪のザマ、それを、ルーミアはもう安全圏から眺めている。
だが必死の妖怪はそれにすら気づいていない。彼女の目元には、真夜中の洞穴にあってなお真っ暗い闇の欠片がへばりついている。
その後も彼女は虚しい掘削作業を続けていたが、やがて無意味だと悟ったのか、単に疲れ切ったのか、泣きべそをかきながらその場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい。ルーミア、ルーミア! もう行っちゃった……?」
「いるよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、私怖くて」
「べつに怒ってないよ」
「……ありがとう。でもどうしてそんなに優しくしてくれるの。私のことなんて知りもしないはずなのに……」
「うーん……どうしてって言われても。強いていえば、趣味かな?」
「え?」
「私、人間って嫌いなの。ほら、あいつのお気に入りの被造物でしょ?」
「あ、あいつって?」
「神」
打ち解けかけていた妖怪の表情が、凍りつく。ルーミアのやわらかな微笑み。
「それに引き換え妖怪は好きよ。だって大半の妖怪は闇から来てるんだもの。情けは妖怪の為ならずだわ。つまり、われらみな同胞なりや!」
「え、えっと」
「あなたを助ければ世界の闇の濃度が少しだけ、濃くなるよね。それってあの野郎が創った光の世界をほんの少し押し戻すってことだわ。もちろん意味なんてない差だけど。だから趣味なの。あいつへの嫌がらせなの」
くすくすと鋭い牙を覗かせるルーミアに、妖怪は二の句を継げなかった。代わりにしばしの沈黙を挟んで、短く応えた。
「えっと、ルーミアは、生きる目的があるんだね……」
「そーなのかもね」
「……ねえ、教えて。お願い。私もまだ死にたくないの。どうすればいいの。どうすれば、私は」
「受け入れたらいいよ」
「えっ……」
「言ったでしょ。あなたを忘れようとしない存在が残ってるって」
「それは」
「あなたよ」
「わ、わたし?」
「そ。あなたは、まだ、自分が忘れられた存在だってことを、受け入れられていない。自分はまだなんとかなると思ってる。でもね、なんともならないんだよ。なんともならないから、ここに流れてきたんだもの」
「う……で、でも! あなたは闇の妖怪でしょ!? あなただって――」
「懐事情は各々違う。あなたはあなたの問題を受け入れなきゃ」
「でも……」
「認めるのよ」
「っ……」
「もう向こうに自分の居場所はないんだって」
「いやよ、そんな」
「さもなければ、消えるだけ。それにここは良いところだよ。特に妖怪にはね。あなたが、ただ、自分はもう滅び去った存在の一匹だって認めれば、毎日呑めや歌えやの日々に生きることだってできる……かもね?」
ルーミアの言葉が真実なのかどうか、妖怪に判断する術はない。
それでも長いこと彼女は沈黙していた。あんまり沈んでいるものだからか、ルーミアが肩をすくめた。
「そんなに難しいことかな?」
「……あなたには、わからないわ。闇の妖怪のあなたには……」
「わからないねー」
「私は、私だって……私にだって誇りはある……」
「生きればこそだと思うけどね。私は……」
深く自らの内側へと潜っていく妖怪の少女をもう、ルーミアは引き戻そうとはしなかった。
懐事情は各々違う。
ルーミアは大きなあくびを一つすると、ごろりとその場に横になった。
「ま、ゆっくり考えなよ……久々に力を使ったから疲れちゃった……おやすみ」
先ほど襲われたことなどすっかり忘れた様子でルーミアは瞳を閉ざす。
ぶつぶつと半透明の妖怪がうわ言つぶやくのも意に介さず、彼女は夢の世界へと潜り込んでいった。
◯
朝焼けを背負って飛ぶ少女がいる。
白黒の衣装と金色の巻き毛をなびかせる、霧雨魔理沙の瞳がふと、森の中の小さな岩屋を捉えた。
妖力を捉えるマジックアイテムの反応に従い彼女は、上品ささえ纏う緩やかな速度で高度を下げていく。そしてすとんと地に足をつけると、群がっていた羽虫の群が朝露の弾けるように飛び去った。
「……熊や狼じゃあないな」
足元に散らばる人骨を一瞥し、胸元で小さく十字を切る。白黒帽子のつばをきゅっと押し下げて彼女は、ミニ八卦炉を油断なく構えて闇の奥へと踏み入れた。
(なんだ? 反応が二匹分? 昨日仕留めそこねたのは、たしか一匹だけのはずだが)
あまり良くない兆候だ。特に今回追っている妖怪は人里近くにも関わらず殺しをやってのけた。おまけにスペルカードルールもよく理解していない。まず間違いなく新参者だろう。ルールを知らない新参妖怪はある意味で、鬼や吸血鬼よりよっぽど危険だ。
(引き返したほうが良いかな? でも珍しく霊夢に先んじてるしなぁ……実を取るか、プライドに従うか……ってわけだ)
朝焼けは洞穴の曲がりくねった構造に遮られ、進む先は闇の暗さで満ちている。
しばし魔理沙の足が止まるが、やがて彼女はミニ八卦炉に小さな灯りをともさせる。ほの明るい炎が闇を切り払って道を開いた。
(……べつに増上慢になったわけじゃない。妙なほど敵意を感じない。昨日あれだけ追い詰めたんだ、もう少し警戒されてると思ったが)
闇の奥、ここには鳥の声さえ届かない。かわりに、かつーん、こつーん、かつーんと忍ぶ足音が大きく響く。
押し殺した吐息。魔理沙の頬を一筋の汗がつたう。
(ふふん……そういや妖怪ってのは恐ろしい存在だっけ。こんな気持ちも久方ぶりだな)
一歩ずつ足を進める魔理沙がふと、壁に身を寄せる。
殺した息を更に殺して耳をそばだてる、向こうからは、物音。妖怪の息遣い。
この先にいる。間違いなく。
ミニ八卦炉を構え直し、胸の中でゆっくりと数を刻み、
(いち……に……)
そして、靴底が地を蹴りつけた。
「さんっ!」
飛び出した勢いのままミニ八卦炉をすかさずかざす。ひらめく閃光、その眩さに照らされた相手の眠たげな表情を、魔理沙は見た。
「ルーミア!?」
「ふあぁ……」
「やばっ――避けてくれ!」
「んえ?」
ピチュン――とミニ八卦炉の吐き出した光線が岩壁を撃ち抜く。そこにはかつて、何者かがえぐり取った鉤爪の痕跡が残されていたのだが、そんなことは顧みられず豪快な大穴が穿たれた。
途端、洞穴にぱっと光が満ちる。
ミニ八卦炉の炎よりもさらにずっとまばゆく、神々しい光。すなわち朝の太陽の光が差し込んでいた。
「なんだ、思ったより浅いとこだったんだな」
ぼやく魔理沙の側で、ぎりぎり射撃を躱したルーミアがのたうち回り、悲鳴を上げていた。
「ぎゃーっ! ちょっとなにすんのよ!」
「あ、すまん……そういやおまえ闇の妖怪だっけ?」
「まぶしい~! お肌に悪い~!」
「そうなのか……」
そのまま転がるように逃げ去っていくルーミアを一瞥して、魔理沙は改めて周囲を調べてまわる。
しかしいくら探してみても、ここにはルーミアの寝ていた跡以外に何も残ってはいなかった。
「おかしいな……確かに二匹分の妖力を感じたんだが……」
そうぼやく魔理沙はふと、不思議そうに首をひねった。
「……あれ? そもそも私、なんでここに居るんだっけ?」
確かにさっきまでは覚えていたはず。明確な目的を持ってこの洞穴に入り込んだはずだった。
だがもう今は、記憶にモヤがかかったように判然としない。どんなに壮大な夢を見ていても、目を覚ますともうすっかり忘れてしまうのと同じ感覚。
穿たれた穴の向こうから鳥の声が響く。ちゅんちゅんという目覚めの歌を魔理沙はしばらくぼんやりと聞いていたが、やがてハッと我に返ると、洞窟の入口へと踵を返した。
「ルーミアだ! ここにはあいつしかいなかった……ならきっと私は、ルーミアを追いかけて来たんだ! 他に考えられん!」
なにか摩訶不思議な術で記憶を混乱させられたに違いない、と魔理沙は息巻いて走り出す。
走り出そうとする。
その瞳がふと、洞窟の岩壁に刻まれた妙な模様をみとめる。
模様ではない。文字だ。なにか鋭利なもの(例えば猛獣の鉤爪のような)で刻まれた文字。ひどく震えた線は読みづらかったが、魔理沙の持ち前の好奇心が捨て置かずにはいさせない。
「――忘れられても生きるべきか、誇りを胸に死すべきか……ルーミアが書いたのか? まさかだよな」
しばし彼女は立ち止まって考えていた。が、それも長くは続かなかった。
「当然、生きるさ。生きればこそだ。生きてりゃどうとでもなる。忘れられたって、次は二度と忘れられないくらいに記憶を刻み込んでやればいいだろ」
それでおわり。それでおしまい。もう霧雨魔理沙の強烈な好奇心も、夢の世界の残り香も、なにも彼女を止められない。
人は現実の中で生きている。現実とは今は、ルーミアを追うことだ。彼女が何かを知っているだろう。
少女が一人走り去り、静けさが岩屋に取り戻された。
新参妖怪たちはみんなこれを乗り越えて行ったんでしょうか
そう思うとちょっと悲しくなりました
面白かったです。