逢蒙殺羿
。逢蒙は羿を殺した人物として記録されているが、逆に羿を殺した後の足取りは歴史に残されていない。
逢蒙による殺人そのものは記録されている。彼らがいた山で修行をしていた仙人見習いか誰かが、殺気に溢れた顔で桃の木の枝を持つ逢蒙と棒状の物で撲殺された羿の死体を見たらしい。だがその仙人見習いも例えば逢蒙が山のどの方角から降りていったとか、はたまた未だ山に籠もっているということは証言することができなかった。逢蒙の行方は地上人の誰も知らない。知らないことを記録に遺すことはできない。
逢蒙の行方は、一部の天上人だけが知っている。彼もまた、羿を殺した後ほどなくして殺害されたのだった。純狐という一柱の神霊に。
そもそも、羿を殺したのがどこまで本心だったのか疑わしい。なるほど確かに逢蒙殺羿の故事ではその動機は「羿を殺せば自分が天下一の弓の名手になると考えたから」と説明されていてこれは正しくはある。だが、一方でそれは「純化」された感情だった。結局逢蒙とは内心に秘めた野心から悪霊と呼ぶべき神霊に取り込まれて利用された走狗に過ぎなかったのであり、狡兎が死した後の走狗は煮らる運命だった。
逢蒙を殺した神霊の行方は、天上人すらも誰も知らない。
†
尭時十日並出 草木焦枯
尭命羿仰射十日 中其九日
日中九烏皆死 堕其羽翼
†
玉兎の特殊部隊が逢蒙及び羿の殺害現場に派遣され、羿の弓矢が回収された。
「貴方も飲むかしら」
その弓矢を献上しに来た使者に嫦娥は祝杯の提示で応えたが、仕事であることを理由に使者は申し出を拒否した。
嫦娥は落胆しつつ盃にがま口をつけた。嫦娥とは一匹の巨大なガマガエルである。かつては女神だったが、羿が賜った薬を盗み飲んで月に逃亡したことへの罰からそうなった。しかし嫦娥は変わらず自身が人型であるかのように振る舞い続けている。なので人が使うような、むしろ普通の人が使うよりも上等な、紫檀に金を象嵌した玉座に座していた。
使者は酒を押し付けられる危機を感じたのか弓矢を置いて足早に退出し、それと入れ替わりに永琳が入ってきた。嫦娥は永琳にも酒を勧めた。永琳なら断らないと確信しているかのようだった。
「あの使者にも酒を勧めましたね? それは無理ですよ。彼は仕事で来ていたんですから」
「そういうことでしょうね。貴方も仕事で?」
「ここで酒を飲むことができる者は二種類。仕事ではない者か、『仕事中に酒を飲んだ』という事実をもみ消すことができる立場にある者」
永琳は盃を自分の方へと寄せた。
「少し頂きましょう」
「重畳重畳」
嫦娥は盃二つに酒を注ぐが、途中で瓶が空になったので別のものを開けた。
「お酒は控えめに頼みますよ」
「相変わらず医者か薬師みたいなことを言うじゃない。ああ薬師か。でも不老不死の私にとっては酒害は存在しないのと同義なの」
「嫦娥様自身の御身体への懸念というより、穢れへの影響への懸念です。過度な飲酒はそれ自体が穢れの蓄積へと繋がるので」
「はいはい。だからこういう特別なハレのときにだけ飲酒するんじゃない。流石の私だってそのくらいはわきまえるわよ。じゃ、乾杯」
「乾杯」
月の古酒は澄んでいる。穢れが少ないということだ。ゼロではないが、ごくわずかに残った穢れは旨味となる。地上の酒は穢れが多い。だから月人は地上の酒を雑味まみれの不味い酒と考え月の酒こそ至高と考えている。
「弓矢も手に入ったことだし、これで月の都の防衛も安泰ね。『狡兎死して走狗烹らる』ということわざの類義語として『飛鳥尽きて良弓蔵
る』というのがあるけれど、この弓は死蔵させないわ。鳥は未だ墜ちていないからね。太陽を射落とせる矢ならば何人たりとも勝てないでしょう。それこそ純狐ですら」
「問題は射手ですね。羿を喪ったのは痛手です」
「どうせ生きていたところで私達月の民には靡きやしなかったわ。むしろ羿が死んだことで純狐が満足してくれるならそのほうが余程いい。万々歳よ」
嫦娥と羿は夫婦の関係にあった。嫦娥は夫の薬を私利私欲で盗み、その夫の死を喜び祝杯をあげている。とんだ悪女だ。もっとも羿は純狐にとっても夫なのであり、気狂いは彼女一人だけではないのだが。
「血も涙もない」
「正気の者には月の都
の権力者は務まらないの。貴方だってそうでしょう?」
「まあそうですが、もう一つ、純狐が羿を殺した程度で満足するだろうというのもいささか楽観的にすぎますね。状況証拠として、羿を殺した時点で復讐が終わっているならば逢蒙を殺害する必要性はないわけです。ところが純狐は逢蒙を始末した。行方をくらますための証拠隠滅が目的でしょう。つまり今あれは暗がりに隠れて獲物を狙っている姿勢にあるのです」
永琳は純狐が狙っているのであろう獲物に対して諌めるように推理を披露した。その獲物は桃をつまみにしていた。月の古酒との組み合わせは微妙だが、月は酒のつまみを選べる環境ではない。
「私だって運よくそうだったらいいなあというだけで、実際に純狐が復讐をやめるとは思っていないわ。重要なのはどのみち羿に代わる射手は見つけなければならなかったということよ」
嫦娥はふと閃いたかのように瞬きをし、「貴方も弓術を嗜んでいたわよね」と永琳に聞いた。
「それはそうですが、弓術において重要なのは強い弓を使うことではなく自分に合った弓を使うことです。思うに羿の弓は」
永琳は「試しに引いてみなさいと」嫦娥から渡された弓を持って腕を広げようとしたが、殆ど動かない弓に向かってただ一言「ですよねえ」とだけつぶやいた。
「無理?」
「無理ですね」
永琳はかぶりを振った。
「まあ貴方って怪力で鳴らしているわけではないしね。明日から兵舎を巡って力自慢の奴を探すか」
†
結論から言うと件の弓を引くことができる兵士は皆無だった。誰一人として永琳以上にすら弓を動かすことができず、射手を選抜するどころか長年の平和で任務に支障をきたすくらいに兵士の練度が下がり切っていることが判明するという皮肉に終わった。嫦娥はあきれ返って訓練の強化を命じた。
余談だが、嫦娥が管轄する玉兎の軍と彼女が弓を持ち込んだ月人の衛兵の軍は指揮系統が別で、これは越権行為だった。衛兵の総司令官は怒ったが本をただせば自身の怠慢が原因という嫦娥の反論には何も言えず、ただ真っ赤にした顔の耳から湯気を噴き出すだけだったという。
閑話休題。次に嫦娥は市井の人に射手を求め、中心街の大広間に弓とそれに長さだけそろえたおもちゃの矢(先が鳥もちで万一人に当たっても無害な代物である)、的を置いた。月の都の一時的な観光名所「射れずの弓矢」の誕生である。勇者伝説の定番「決して大地から抜けない剣」のように羿の弓はあらゆる一般月人の手を拒み続けた。
「現れましたか?」
永琳は釣人に話しかける通りすがりのような言葉を嫦娥に合うたびに投げかけた。言外に現れるはずもないという嘲笑が透けて見えて嫦娥にとっては面白くない。例えるならば水たまりに餌もつけず釣り糸を垂らしているような、自分がしていることはそのくらいに無意味と思えてきてならないのである。
十何回目かの「現れましたか」(無論現れていない)のときについに嫦娥の堪忍袋の緒が切れた。
「そんなに言うんならあんたが探してみなさいよ!」
唾の混ざった怒声を真正面から浴びながら、永琳は涼しい顔で一言「承知しました」と答えた。
煽って自分を怒らせることも計画のうちだったのだろうかと嫦娥は訝しんだ。もし弓を実用化することができれば、月の防衛を巡る政治力学の中で大きな発言力を握ることになる。
とはいえこの弓は毒饅頭だ。誰よりも弓を引ける者の出現を渇望している嫦娥自身ですら、羿以外には扱えない代物だったのではないかと薄々悟りつつあった。弓の実用化に失敗したとして、それで咎められて失脚するということはないだろう。だが仮に、この仮には相当蓋然性の大きい仮にである、仮に失敗すればその間投じた時間と労力は全て無駄になる。政治闘争において進展のないゼロは無限大のマイナスに等しい。
嫦娥という悪女にとって権力者の失墜ほど美味い飯のお供はないのだ。だから弓の引き手を探してみなさいという啖呵に永琳が乗ったことを怒りながらも認めた。なんなら終わった後に「自分を怒らせた結果がこれかい?」とでも強請れば月の頭脳が自身の手駒に収まる未来すらあるかもしれない。
もし万一永琳が射手を見つけたら? そもそも本来の目的はそちらなのだから、成功したとしても永琳の増長に目をつぶりさえすれば嫦娥の側にとっても吉報なのだ。
永琳は「射れずの弓矢」を広場から回収しどこかに持って行った。どこかは嫦娥すら知らなかった。彼女の研究室かどこかだろう。
嫦娥にとって唯一の懸念は永琳が弓矢を盗む可能性だった。自身がそうだったが故に盗人心理には詳しい。嫦娥は時折永琳に対し弓を見せるよう呼び出し、毎回彼女が引けない重さの弓を持ってくるのを見て安堵した。
「現れたかしら?」
そして少し前に自分が言われたことと同じ問いを投げかけて溜飲を下げようとするのだった。
「現れてはいませんが、万事順調です」
しかし永琳はいつもの人を食ったような顔でそんなことを返答するので嫦娥の溜飲は今一つ下がらないのだった。
数年後、少し前まで広場に弓矢の観光名所があったことを月人達も忘れかけてきた頃、嫦娥は永琳に呼び出された。
†
「貴方はいつから機械工になったのかしら」
嫦娥が訝しむのも無理はない。永琳から「例の弓を実戦運用する準備ができました」との報告を受けて演習場に足を運んだらそこには弓兵はおらず、代わりに巨大な兵器が一基だけあったのである。
兵器の構造は弩に準ずるものと思われた。弦を牙(弩における弦をかけて保持しておくための突起状の部品)に引っ掛けるように張って間に矢を置き、引き金を引くと牙から外れた弦が矢を押し出す。ただし歩兵用の弩に比べて縦横それぞれ十倍は大きく、攻城兵器の域に達したそれは鉄製の十字の台の上に、弩のような地面と平行な姿勢ではなく斜めにおよそ六十度上を向いて置かれていた。弦も手動で巻き上げ可能な重さを超えているらしくハンドクランクがついている。そしてどういうわけか、この「弩」の後方には望遠鏡がついていた。
「羿が持っていたシンプルな弓矢とは似ても似つかないわねえ」
「あれの本質は鏃
の素材と剛弓から高速で射出されるという物理エネルギーの二つです。その二要素は満たされています。というより、弓を扱える射手を育成するという方針が頓挫したので兵器化に至ったという方が正しいですね。やはり常人にはまともに引ける代物ではなく」
「羿も人間離れしていたが人間ではあった。であるならば弓を引く人を選抜するという方針も不可能ではなかったのでは?」
「軍人一万人に一人それができる人が現れることを祈る、というのは防衛の主軸にはなりえません。肝要なのは万人にできる手段を万人とは言わずともできるだけ多く用意するということです。その点この装置は照準の面においても優れています」
永琳は嫦娥を兵器の後ろの椅子に座らせ、模型の鳥を飛ばした。
「その望遠鏡で鳥を見てください。鳥を望遠鏡の中に入れたら安全装置を外し引き金を引いたら発射されます……。ああ、安全装置がどれか言っていませんでしたね。引き金の上にボタンがあります」
嫦娥は永琳の指示通りに兵器を操作する。カエルの指が引き金周りを使うのに支障がないことに感謝しつつ望遠鏡の中を飛ぶ紙風船のような白い小鳥に矢を命中させた。
撃墜を確認した嫦娥は望遠鏡から目を離した。意地の悪いことに永琳は相当遠く、下手したら一里は離れているのではなかろうかという場所に鳥を飛ばしていたらしく残骸は見えなかった。が、そのおかげで却ってそのような遠距離から命中を出せる兵器の性能に驚嘆することとなったのである。
「羿に匹敵する、あるいはそれ以上ね」
「ええ。望遠鏡に下の弓部分の台座と連動したジャイロがついていまして、安全装置を外すとジャイロの回転軸が固定され、そこから標的を望遠鏡内に捉え続けることで角速度が自動的に計算される仕組みとなっていて……」
「原理はどうでもいいわ。貴方も言っていたでしょう? 重要なのはこれが誰でも使えるものということ」
「その通りです」
「それに付け加えるなら、これが実用的かどうかというのも重要ね。注文をつけるような言い方になるけれど、純狐は鳥のおもちゃとはわけが違うわ」
「操作自体は万人が扱えるものにしているので量産して数を揃えれば対応できるものと考えています。四方八方に飛び回るのなら四方八方の全てを塞いでしまえばよいのです。当然ある程度の訓練も必要となるでしょうが」
永琳の目が武人の目から政治家の目になったのを嫦娥は感じ取った。
「貴方はこう言いたいのね? 『予算と権限の拡充を求めます』と」
「ええ。これで次の会議ではとりあえず二票得られそうですね」
†
「『ウジャトの右目』より警告。異常なエネルギー源を太陽の裏側二十天文里(天文里とは、宇宙スケールの長さを測るために月の都で用いられている長さの単位であり、一天文里は月の直径に等しい)から感知しました」
月の都の天文方と早期警戒部隊、文民と武人という別の立場から空を観測する部署が同じ警告を発した。
「まずは原因を特定せよ。太陽近傍ということはフレアか何かではないか」
上からの指令は「むしろフレアのような純粋な天体現象なら余程よい」という願望を多分に含むものだった。が、冷酷なまでに真実をそのまま伝えることを是とする現場の目はその願望を粉々に粉砕した。
純狐来たれり。混乱を避けるため必要最低限のごく一部にしか伝達されなかったその事実が月の権力と資源の大半を動かした。
†
「純狐の迎撃に成功した」。その知らせを嫦娥が聞いたのは始めて嫦娥があの兵器を見てから丁度一年が経過した頃のことだった。
量産、といってもこの時代の月の都の技術力と工業力の限界に挑む複雑さがあるものだったから八基だけ、それらが静かの海沿岸に並べられ純狐に向けて矢を射掛けたらしい。流石に一回目で命中を出すには至らなかったが数度目の斉射を経て命中を出し、墜落した純狐の体は沖合へと没し回収は不可能とのことだった。
嫦娥は事の顛末そのもの以上にそれが「らしい」「とのことだった」という推定の形で語られることが重要と考えていた。報告を受けた日も宮殿の一室で基本的に座っているだけの仕事をしていて楼観の見張り番からの報告もなかった。つまり宮殿の地平線よりも向こう側で全てはなされたのであり、自身が痛くも痒くもない距離で純狐が始末されたことは兵器の有用性を示すものだった。
ただ一方であまりにも上手く行き過ぎたことによる状況の不確定さは懸念でもあった。嫦娥はありとあらゆる可能性を想定せねばならない立場にある。
永琳が嫦娥に謁見するために部屋に入ってきた。作戦は成功したはずなのに通夜にでも来たかのような硬い表情が嫦娥の懸念を強めた。
「やはり、怪獣の如く海底を歩き上陸してくるというのも想定しなければならないかしら」
「何がやはりで何の如くかはさっぱり分かりませんが、純狐の安否が確認されるまで安心できないというのは全くもって同意します。軍人たるものある種の悲観主義であるべきと思うのですが、猫も杓子も浮かれていて今後が思いやられますね」
「喜ぶべきときは素直に喜ばないと士気に関わるわよ。もっとも貴方は喜ぶべきときとすら思っていないのね。そういう分析をしているということは心に留めておくわ」
嫦娥はまた職場に酒を持ち込んでいたが、この様子では今日の永琳は飲まなそうだと盃は一個だけ用意してそれに注いだ。最初の一杯を半分ほど消費した頃に、玉兎が一羽、息を切らしながら部屋に飛び込んできた。
「神域に足を踏み入れるときくらい礼儀正しくしなさい」
「いや、構わないわ。その様子だと相当急ぎなようね。右手の手紙が本題かしら」
嫦娥は手紙を読もうとした玉兎の手から、「自分で読んだほうが早いから」と言ってそれを奪った。
手紙を黙読した嫦娥はゲコッと鳴いてがま口をへの字に曲げた。あくまで人間であることを装うように振る舞う嫦娥がカエルになったので、よほどのことが書かれてているのだろうかと永琳は興味深く思った。彼女は手紙を覗き込むために立った。
「『月の民の武勇に満足したので引かせて頂く』。薄々分かっていたとはいえ、あいつ死んでないのね」
永琳が背後に回るより先に嫦娥が愚痴をこぼしたので虫の居所が悪い顔になった理由は理解した。が、永琳にとっても最悪でないにしろ相当悪い結果だったので険しい表情にならざるを得なかった。
「盃を」
「あら意外ね。貴方も飲むの」
「やけ酒ですよ」
永琳は手紙を見る代わりに二個目の盃を強奪するかのように取って酒を流し込んだ。その様子の荒れようを見て逆に嫦娥は平静を取り戻した。
「んまあ、あれが効果あると証明されたんだからまた来たらまた射抜いてやればいいのよ」
「それでは駄目なのです」
永琳は語気を強めた。
「駄目かしら? 戦果としてはともかく、効力という意味では悲観する結果というほどではないと思うけれど」
「仮に、純狐が一切学習せず同じことを繰り返す機械並かそれ以下の阿呆だったならば毎度あの巨大弩であの矢を使えばいいでしょう。しかしこの『仮』が実際の可能性としては絶対に存在しない仮であることは嫦娥様が一番ご存知のことでしょう。あれは非常に知能高く学習します。同じことをしては二回目で一回目以上を望めることは決してありません。そして最大値である一回目すら我々にとって満点とはならなかった。改良が必要です。差し当たっては誘導装置の改良と危害半径の拡大を……。愛宕権現の火、いや、穢れのリスクがあってなおプロメテウスの火が必要かも」
純狐はほぼ確実に再来する。永琳はそれに対処するためのさらなる兵器開発を望んでいる。この二手の先に高確率で起こり得る良くない事態を予想して嫦娥は眉間に皺を寄せた。
「永琳、貴方も堕ちたわね」
「堕ちた? 僭越ながら、月の危機に対して当事者であるにも関わらず他人事で真剣に向き合わない嫦娥様の方がよほど堕落していると存じますが」
「そういう意味ではなく。思い出しなさい、永琳。我々は穢れに満ちた血なまぐさい進化を続ける生物の星と化した地球を離れ月に来た」
「そうですね」
「然して、貴方が純狐への抵抗と評して行おうとしているそれは、進化ではないかしら」
嫦娥の突然の指摘に同様した永琳は盃を思いっきり噛んだ。閉じた歯に酒が弾かれて、口の横をつたって落ちる。
「そ、そんなことはありません。私はただ現状を維持するために」
「地上の生物が進化をするのも、究極的には種の生存のためである。我々は制御された停滞と無秩序な発展とを対立する概念として考えがちだけれど、それは結果であって過程の部分では両者に違いはないのかもしれないわ」
「……。しかし、対応への投資を怠れば結局純狐一名にこの浄土は滅ぼされるのです。それは本末転倒でしょう」
「分かっている。私が貴方と同じ立場でも堕ちて生き延びる道を進言したでしょうし非難するつもりもないわ。ただ、全ての可能性を想定する立場にあってなおこの状況は詰んでしまっているのよ」
嫦娥は物憂げに外を眺めた。一旦は嫦娥の破壊を免れた澄んだ都の風景の中で、優曇華の木が少しその蕾を膨らませているように見えた。
。逢蒙は羿を殺した人物として記録されているが、逆に羿を殺した後の足取りは歴史に残されていない。
逢蒙による殺人そのものは記録されている。彼らがいた山で修行をしていた仙人見習いか誰かが、殺気に溢れた顔で桃の木の枝を持つ逢蒙と棒状の物で撲殺された羿の死体を見たらしい。だがその仙人見習いも例えば逢蒙が山のどの方角から降りていったとか、はたまた未だ山に籠もっているということは証言することができなかった。逢蒙の行方は地上人の誰も知らない。知らないことを記録に遺すことはできない。
逢蒙の行方は、一部の天上人だけが知っている。彼もまた、羿を殺した後ほどなくして殺害されたのだった。純狐という一柱の神霊に。
そもそも、羿を殺したのがどこまで本心だったのか疑わしい。なるほど確かに逢蒙殺羿の故事ではその動機は「羿を殺せば自分が天下一の弓の名手になると考えたから」と説明されていてこれは正しくはある。だが、一方でそれは「純化」された感情だった。結局逢蒙とは内心に秘めた野心から悪霊と呼ぶべき神霊に取り込まれて利用された走狗に過ぎなかったのであり、狡兎が死した後の走狗は煮らる運命だった。
逢蒙を殺した神霊の行方は、天上人すらも誰も知らない。
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尭時十日並出 草木焦枯
尭命羿仰射十日 中其九日
日中九烏皆死 堕其羽翼
†
玉兎の特殊部隊が逢蒙及び羿の殺害現場に派遣され、羿の弓矢が回収された。
「貴方も飲むかしら」
その弓矢を献上しに来た使者に嫦娥は祝杯の提示で応えたが、仕事であることを理由に使者は申し出を拒否した。
嫦娥は落胆しつつ盃にがま口をつけた。嫦娥とは一匹の巨大なガマガエルである。かつては女神だったが、羿が賜った薬を盗み飲んで月に逃亡したことへの罰からそうなった。しかし嫦娥は変わらず自身が人型であるかのように振る舞い続けている。なので人が使うような、むしろ普通の人が使うよりも上等な、紫檀に金を象嵌した玉座に座していた。
使者は酒を押し付けられる危機を感じたのか弓矢を置いて足早に退出し、それと入れ替わりに永琳が入ってきた。嫦娥は永琳にも酒を勧めた。永琳なら断らないと確信しているかのようだった。
「あの使者にも酒を勧めましたね? それは無理ですよ。彼は仕事で来ていたんですから」
「そういうことでしょうね。貴方も仕事で?」
「ここで酒を飲むことができる者は二種類。仕事ではない者か、『仕事中に酒を飲んだ』という事実をもみ消すことができる立場にある者」
永琳は盃を自分の方へと寄せた。
「少し頂きましょう」
「重畳重畳」
嫦娥は盃二つに酒を注ぐが、途中で瓶が空になったので別のものを開けた。
「お酒は控えめに頼みますよ」
「相変わらず医者か薬師みたいなことを言うじゃない。ああ薬師か。でも不老不死の私にとっては酒害は存在しないのと同義なの」
「嫦娥様自身の御身体への懸念というより、穢れへの影響への懸念です。過度な飲酒はそれ自体が穢れの蓄積へと繋がるので」
「はいはい。だからこういう特別なハレのときにだけ飲酒するんじゃない。流石の私だってそのくらいはわきまえるわよ。じゃ、乾杯」
「乾杯」
月の古酒は澄んでいる。穢れが少ないということだ。ゼロではないが、ごくわずかに残った穢れは旨味となる。地上の酒は穢れが多い。だから月人は地上の酒を雑味まみれの不味い酒と考え月の酒こそ至高と考えている。
「弓矢も手に入ったことだし、これで月の都の防衛も安泰ね。『狡兎死して走狗烹らる』ということわざの類義語として『飛鳥尽きて良弓蔵
る』というのがあるけれど、この弓は死蔵させないわ。鳥は未だ墜ちていないからね。太陽を射落とせる矢ならば何人たりとも勝てないでしょう。それこそ純狐ですら」
「問題は射手ですね。羿を喪ったのは痛手です」
「どうせ生きていたところで私達月の民には靡きやしなかったわ。むしろ羿が死んだことで純狐が満足してくれるならそのほうが余程いい。万々歳よ」
嫦娥と羿は夫婦の関係にあった。嫦娥は夫の薬を私利私欲で盗み、その夫の死を喜び祝杯をあげている。とんだ悪女だ。もっとも羿は純狐にとっても夫なのであり、気狂いは彼女一人だけではないのだが。
「血も涙もない」
「正気の者には月の都
の権力者は務まらないの。貴方だってそうでしょう?」
「まあそうですが、もう一つ、純狐が羿を殺した程度で満足するだろうというのもいささか楽観的にすぎますね。状況証拠として、羿を殺した時点で復讐が終わっているならば逢蒙を殺害する必要性はないわけです。ところが純狐は逢蒙を始末した。行方をくらますための証拠隠滅が目的でしょう。つまり今あれは暗がりに隠れて獲物を狙っている姿勢にあるのです」
永琳は純狐が狙っているのであろう獲物に対して諌めるように推理を披露した。その獲物は桃をつまみにしていた。月の古酒との組み合わせは微妙だが、月は酒のつまみを選べる環境ではない。
「私だって運よくそうだったらいいなあというだけで、実際に純狐が復讐をやめるとは思っていないわ。重要なのはどのみち羿に代わる射手は見つけなければならなかったということよ」
嫦娥はふと閃いたかのように瞬きをし、「貴方も弓術を嗜んでいたわよね」と永琳に聞いた。
「それはそうですが、弓術において重要なのは強い弓を使うことではなく自分に合った弓を使うことです。思うに羿の弓は」
永琳は「試しに引いてみなさいと」嫦娥から渡された弓を持って腕を広げようとしたが、殆ど動かない弓に向かってただ一言「ですよねえ」とだけつぶやいた。
「無理?」
「無理ですね」
永琳はかぶりを振った。
「まあ貴方って怪力で鳴らしているわけではないしね。明日から兵舎を巡って力自慢の奴を探すか」
†
結論から言うと件の弓を引くことができる兵士は皆無だった。誰一人として永琳以上にすら弓を動かすことができず、射手を選抜するどころか長年の平和で任務に支障をきたすくらいに兵士の練度が下がり切っていることが判明するという皮肉に終わった。嫦娥はあきれ返って訓練の強化を命じた。
余談だが、嫦娥が管轄する玉兎の軍と彼女が弓を持ち込んだ月人の衛兵の軍は指揮系統が別で、これは越権行為だった。衛兵の総司令官は怒ったが本をただせば自身の怠慢が原因という嫦娥の反論には何も言えず、ただ真っ赤にした顔の耳から湯気を噴き出すだけだったという。
閑話休題。次に嫦娥は市井の人に射手を求め、中心街の大広間に弓とそれに長さだけそろえたおもちゃの矢(先が鳥もちで万一人に当たっても無害な代物である)、的を置いた。月の都の一時的な観光名所「射れずの弓矢」の誕生である。勇者伝説の定番「決して大地から抜けない剣」のように羿の弓はあらゆる一般月人の手を拒み続けた。
「現れましたか?」
永琳は釣人に話しかける通りすがりのような言葉を嫦娥に合うたびに投げかけた。言外に現れるはずもないという嘲笑が透けて見えて嫦娥にとっては面白くない。例えるならば水たまりに餌もつけず釣り糸を垂らしているような、自分がしていることはそのくらいに無意味と思えてきてならないのである。
十何回目かの「現れましたか」(無論現れていない)のときについに嫦娥の堪忍袋の緒が切れた。
「そんなに言うんならあんたが探してみなさいよ!」
唾の混ざった怒声を真正面から浴びながら、永琳は涼しい顔で一言「承知しました」と答えた。
煽って自分を怒らせることも計画のうちだったのだろうかと嫦娥は訝しんだ。もし弓を実用化することができれば、月の防衛を巡る政治力学の中で大きな発言力を握ることになる。
とはいえこの弓は毒饅頭だ。誰よりも弓を引ける者の出現を渇望している嫦娥自身ですら、羿以外には扱えない代物だったのではないかと薄々悟りつつあった。弓の実用化に失敗したとして、それで咎められて失脚するということはないだろう。だが仮に、この仮には相当蓋然性の大きい仮にである、仮に失敗すればその間投じた時間と労力は全て無駄になる。政治闘争において進展のないゼロは無限大のマイナスに等しい。
嫦娥という悪女にとって権力者の失墜ほど美味い飯のお供はないのだ。だから弓の引き手を探してみなさいという啖呵に永琳が乗ったことを怒りながらも認めた。なんなら終わった後に「自分を怒らせた結果がこれかい?」とでも強請れば月の頭脳が自身の手駒に収まる未来すらあるかもしれない。
もし万一永琳が射手を見つけたら? そもそも本来の目的はそちらなのだから、成功したとしても永琳の増長に目をつぶりさえすれば嫦娥の側にとっても吉報なのだ。
永琳は「射れずの弓矢」を広場から回収しどこかに持って行った。どこかは嫦娥すら知らなかった。彼女の研究室かどこかだろう。
嫦娥にとって唯一の懸念は永琳が弓矢を盗む可能性だった。自身がそうだったが故に盗人心理には詳しい。嫦娥は時折永琳に対し弓を見せるよう呼び出し、毎回彼女が引けない重さの弓を持ってくるのを見て安堵した。
「現れたかしら?」
そして少し前に自分が言われたことと同じ問いを投げかけて溜飲を下げようとするのだった。
「現れてはいませんが、万事順調です」
しかし永琳はいつもの人を食ったような顔でそんなことを返答するので嫦娥の溜飲は今一つ下がらないのだった。
数年後、少し前まで広場に弓矢の観光名所があったことを月人達も忘れかけてきた頃、嫦娥は永琳に呼び出された。
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「貴方はいつから機械工になったのかしら」
嫦娥が訝しむのも無理はない。永琳から「例の弓を実戦運用する準備ができました」との報告を受けて演習場に足を運んだらそこには弓兵はおらず、代わりに巨大な兵器が一基だけあったのである。
兵器の構造は弩に準ずるものと思われた。弦を牙(弩における弦をかけて保持しておくための突起状の部品)に引っ掛けるように張って間に矢を置き、引き金を引くと牙から外れた弦が矢を押し出す。ただし歩兵用の弩に比べて縦横それぞれ十倍は大きく、攻城兵器の域に達したそれは鉄製の十字の台の上に、弩のような地面と平行な姿勢ではなく斜めにおよそ六十度上を向いて置かれていた。弦も手動で巻き上げ可能な重さを超えているらしくハンドクランクがついている。そしてどういうわけか、この「弩」の後方には望遠鏡がついていた。
「羿が持っていたシンプルな弓矢とは似ても似つかないわねえ」
「あれの本質は鏃
の素材と剛弓から高速で射出されるという物理エネルギーの二つです。その二要素は満たされています。というより、弓を扱える射手を育成するという方針が頓挫したので兵器化に至ったという方が正しいですね。やはり常人にはまともに引ける代物ではなく」
「羿も人間離れしていたが人間ではあった。であるならば弓を引く人を選抜するという方針も不可能ではなかったのでは?」
「軍人一万人に一人それができる人が現れることを祈る、というのは防衛の主軸にはなりえません。肝要なのは万人にできる手段を万人とは言わずともできるだけ多く用意するということです。その点この装置は照準の面においても優れています」
永琳は嫦娥を兵器の後ろの椅子に座らせ、模型の鳥を飛ばした。
「その望遠鏡で鳥を見てください。鳥を望遠鏡の中に入れたら安全装置を外し引き金を引いたら発射されます……。ああ、安全装置がどれか言っていませんでしたね。引き金の上にボタンがあります」
嫦娥は永琳の指示通りに兵器を操作する。カエルの指が引き金周りを使うのに支障がないことに感謝しつつ望遠鏡の中を飛ぶ紙風船のような白い小鳥に矢を命中させた。
撃墜を確認した嫦娥は望遠鏡から目を離した。意地の悪いことに永琳は相当遠く、下手したら一里は離れているのではなかろうかという場所に鳥を飛ばしていたらしく残骸は見えなかった。が、そのおかげで却ってそのような遠距離から命中を出せる兵器の性能に驚嘆することとなったのである。
「羿に匹敵する、あるいはそれ以上ね」
「ええ。望遠鏡に下の弓部分の台座と連動したジャイロがついていまして、安全装置を外すとジャイロの回転軸が固定され、そこから標的を望遠鏡内に捉え続けることで角速度が自動的に計算される仕組みとなっていて……」
「原理はどうでもいいわ。貴方も言っていたでしょう? 重要なのはこれが誰でも使えるものということ」
「その通りです」
「それに付け加えるなら、これが実用的かどうかというのも重要ね。注文をつけるような言い方になるけれど、純狐は鳥のおもちゃとはわけが違うわ」
「操作自体は万人が扱えるものにしているので量産して数を揃えれば対応できるものと考えています。四方八方に飛び回るのなら四方八方の全てを塞いでしまえばよいのです。当然ある程度の訓練も必要となるでしょうが」
永琳の目が武人の目から政治家の目になったのを嫦娥は感じ取った。
「貴方はこう言いたいのね? 『予算と権限の拡充を求めます』と」
「ええ。これで次の会議ではとりあえず二票得られそうですね」
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「『ウジャトの右目』より警告。異常なエネルギー源を太陽の裏側二十天文里(天文里とは、宇宙スケールの長さを測るために月の都で用いられている長さの単位であり、一天文里は月の直径に等しい)から感知しました」
月の都の天文方と早期警戒部隊、文民と武人という別の立場から空を観測する部署が同じ警告を発した。
「まずは原因を特定せよ。太陽近傍ということはフレアか何かではないか」
上からの指令は「むしろフレアのような純粋な天体現象なら余程よい」という願望を多分に含むものだった。が、冷酷なまでに真実をそのまま伝えることを是とする現場の目はその願望を粉々に粉砕した。
純狐来たれり。混乱を避けるため必要最低限のごく一部にしか伝達されなかったその事実が月の権力と資源の大半を動かした。
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「純狐の迎撃に成功した」。その知らせを嫦娥が聞いたのは始めて嫦娥があの兵器を見てから丁度一年が経過した頃のことだった。
量産、といってもこの時代の月の都の技術力と工業力の限界に挑む複雑さがあるものだったから八基だけ、それらが静かの海沿岸に並べられ純狐に向けて矢を射掛けたらしい。流石に一回目で命中を出すには至らなかったが数度目の斉射を経て命中を出し、墜落した純狐の体は沖合へと没し回収は不可能とのことだった。
嫦娥は事の顛末そのもの以上にそれが「らしい」「とのことだった」という推定の形で語られることが重要と考えていた。報告を受けた日も宮殿の一室で基本的に座っているだけの仕事をしていて楼観の見張り番からの報告もなかった。つまり宮殿の地平線よりも向こう側で全てはなされたのであり、自身が痛くも痒くもない距離で純狐が始末されたことは兵器の有用性を示すものだった。
ただ一方であまりにも上手く行き過ぎたことによる状況の不確定さは懸念でもあった。嫦娥はありとあらゆる可能性を想定せねばならない立場にある。
永琳が嫦娥に謁見するために部屋に入ってきた。作戦は成功したはずなのに通夜にでも来たかのような硬い表情が嫦娥の懸念を強めた。
「やはり、怪獣の如く海底を歩き上陸してくるというのも想定しなければならないかしら」
「何がやはりで何の如くかはさっぱり分かりませんが、純狐の安否が確認されるまで安心できないというのは全くもって同意します。軍人たるものある種の悲観主義であるべきと思うのですが、猫も杓子も浮かれていて今後が思いやられますね」
「喜ぶべきときは素直に喜ばないと士気に関わるわよ。もっとも貴方は喜ぶべきときとすら思っていないのね。そういう分析をしているということは心に留めておくわ」
嫦娥はまた職場に酒を持ち込んでいたが、この様子では今日の永琳は飲まなそうだと盃は一個だけ用意してそれに注いだ。最初の一杯を半分ほど消費した頃に、玉兎が一羽、息を切らしながら部屋に飛び込んできた。
「神域に足を踏み入れるときくらい礼儀正しくしなさい」
「いや、構わないわ。その様子だと相当急ぎなようね。右手の手紙が本題かしら」
嫦娥は手紙を読もうとした玉兎の手から、「自分で読んだほうが早いから」と言ってそれを奪った。
手紙を黙読した嫦娥はゲコッと鳴いてがま口をへの字に曲げた。あくまで人間であることを装うように振る舞う嫦娥がカエルになったので、よほどのことが書かれてているのだろうかと永琳は興味深く思った。彼女は手紙を覗き込むために立った。
「『月の民の武勇に満足したので引かせて頂く』。薄々分かっていたとはいえ、あいつ死んでないのね」
永琳が背後に回るより先に嫦娥が愚痴をこぼしたので虫の居所が悪い顔になった理由は理解した。が、永琳にとっても最悪でないにしろ相当悪い結果だったので険しい表情にならざるを得なかった。
「盃を」
「あら意外ね。貴方も飲むの」
「やけ酒ですよ」
永琳は手紙を見る代わりに二個目の盃を強奪するかのように取って酒を流し込んだ。その様子の荒れようを見て逆に嫦娥は平静を取り戻した。
「んまあ、あれが効果あると証明されたんだからまた来たらまた射抜いてやればいいのよ」
「それでは駄目なのです」
永琳は語気を強めた。
「駄目かしら? 戦果としてはともかく、効力という意味では悲観する結果というほどではないと思うけれど」
「仮に、純狐が一切学習せず同じことを繰り返す機械並かそれ以下の阿呆だったならば毎度あの巨大弩であの矢を使えばいいでしょう。しかしこの『仮』が実際の可能性としては絶対に存在しない仮であることは嫦娥様が一番ご存知のことでしょう。あれは非常に知能高く学習します。同じことをしては二回目で一回目以上を望めることは決してありません。そして最大値である一回目すら我々にとって満点とはならなかった。改良が必要です。差し当たっては誘導装置の改良と危害半径の拡大を……。愛宕権現の火、いや、穢れのリスクがあってなおプロメテウスの火が必要かも」
純狐はほぼ確実に再来する。永琳はそれに対処するためのさらなる兵器開発を望んでいる。この二手の先に高確率で起こり得る良くない事態を予想して嫦娥は眉間に皺を寄せた。
「永琳、貴方も堕ちたわね」
「堕ちた? 僭越ながら、月の危機に対して当事者であるにも関わらず他人事で真剣に向き合わない嫦娥様の方がよほど堕落していると存じますが」
「そういう意味ではなく。思い出しなさい、永琳。我々は穢れに満ちた血なまぐさい進化を続ける生物の星と化した地球を離れ月に来た」
「そうですね」
「然して、貴方が純狐への抵抗と評して行おうとしているそれは、進化ではないかしら」
嫦娥の突然の指摘に同様した永琳は盃を思いっきり噛んだ。閉じた歯に酒が弾かれて、口の横をつたって落ちる。
「そ、そんなことはありません。私はただ現状を維持するために」
「地上の生物が進化をするのも、究極的には種の生存のためである。我々は制御された停滞と無秩序な発展とを対立する概念として考えがちだけれど、それは結果であって過程の部分では両者に違いはないのかもしれないわ」
「……。しかし、対応への投資を怠れば結局純狐一名にこの浄土は滅ぼされるのです。それは本末転倒でしょう」
「分かっている。私が貴方と同じ立場でも堕ちて生き延びる道を進言したでしょうし非難するつもりもないわ。ただ、全ての可能性を想定する立場にあってなおこの状況は詰んでしまっているのよ」
嫦娥は物憂げに外を眺めた。一旦は嫦娥の破壊を免れた澄んだ都の風景の中で、優曇華の木が少しその蕾を膨らませているように見えた。
「戦争」といえば最前線であり、どちらかといえば戦闘描写に文章を割きがちだと思っていたので、それが一切なくて新鮮でした。だからこそ指導者視点に徹することができ、銃後の緊張感が生じたのかなと思いました。面白かったです!!!
それはおいておいて逸話や言葉や何から何まで、お恥ずかしながら知らないまま読んだのですが、それでもちゃんと(多分)理解できて楽しめたあたり、さすが作者様がお上手。
それはそれとして嫦娥許すまじ。
元の持ち主が太陽を九つ落とした「神話的」存在であるにもかからず、その弓矢を「現実的」な範囲で使おうとする構図には、神秘が消え失せる寂しささえ感じました。
そこから、神話的アプローチを捨てて(意識的ではなく、効率的・現実的な手段として)弓を実用したあまり袋小路に落ち込んでしまったオチに繋がる構図が美しかったです。
有難う御座いました。