Coolier - 新生・東方創想話

月のおとがいを噛む

2024/06/30 12:46:15
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夏の夕暮れ。竹林から青々しい香りを含んだ風が永遠亭へと吹き込んでいる。笹葉がカサカサと音を立てて揺れ、滑らかなキューティクルに包まれた銀髪を弄ぶ。髪留めの赤い札が、波打つ水面を舞う蝶の如くはためいていた。

「暑い……」

縁側に胡座をかき、手にした湯呑みを傾けた。下唇に厚い口縁が触れると、しっとり蒸れた茶葉の香気が鼻腔を満たしていく。嗅ぎ飽きた竹林の青臭さが霧散し、とろみを帯びた旨味が舌を喜ばせる。嚥下した喉から胃の腑にかけて、じんわりと温かい。ほんのひと時、暑さを忘れて深い息を吐いた。

「身体から炎を放つ時は平気な顔してるのに、夏の暑さには耐えられないなんて不思議な生き物ね。永琳に頼んで生きたまま腑分けして調べてもらいましょうか。寺子屋の生徒の夏休みの課題にうってつけよね」

隣に腰掛けていた不思議な生き物第一号、蓬莱山輝夜が医療機関の関係者とは思えぬ倫理観の狂った台詞を口にする。清々しい気分が一瞬にして吹き飛び、鬱陶しさへと変調した。

「客には熱い茶を出して、自分だけ冷たい麦茶を飲むのが永遠亭のもてなしなのか?」

傍らに置かれた和盆へ目を遣りながら嫌味で返す。盆には真鍮製のヤカンと氷の浮かんだグラスが載せられている。キンキンに冷えているのだろう。麦茶がなみなみと注がれたグラスの表面は結露し、夕陽を受けて茜色の水滴を実らせていた。

「さっき出したお茶一杯だけで、妹紅の食費を三日は賄える高級品なのよ。施しを受けておきながら不満を口にするとは驚きね」

打てば響く様に、蔑みを含んだ嫌味ったらしい言葉が返ってくる。これ以上やり合っても腹が立つだけだ。弱い犬ほどよく吠える。存分に吠えるがいいさ。腕を組んでそっぽを向き、無視を決め込むことにした。

「無視するんじゃないわよ妹紅。構いなさい。反論がないなら私の勝ちよ?」

背中を指でツンツンと突きながらウザ絡みし、勝利宣言で煽りたててくる。顔はとびきり良い癖に、どうしてこんなに性格がひん曲がっているんだろう。やっぱり美人は駄目だ。いや、美人じゃなく輝夜の性格が駄目なんだ。

「はー、おしゃべりしてたら喉が渇いちゃった。勝利の祝杯で喉を潤しましょうか」

「フン」

鼻を鳴らし、底意地の悪い姫君を手で仰いであしらう。視線も合わせない。ただでさえ暑いのに、鬱陶しいやり取りでこれ以上、喉が渇くのは御免だった。

直後、カランコロンと涼やかな響きが耳を打ち、喉がゴクリと鳴った。自らそっぽを向いたのも忘れ、音の鳴る方へと視線を向けてしまう。音の出処は、ヤカンだった。溶けた氷同士がぶつかる音が、真鍮で形作られた丸い空間内で反響したのだ。傍らには輝夜が座っている。茜さす空を見つめながら、ほっそりとした指を盆上のグラスへと伸ばす。

絹のように白く滑らかな指先が、表層に浮かんだ水滴を撫でた。手首を傾け、やや下向かせた指がグラスを掴む。僅かに浮かび上がらせた小指の先端、まるく整えられた桜貝色の爪が濡れたように艶めいている。

紅色を帯びた柔らかな下唇に薄張りの口縁が寄りかかる。張力を失った赤銅色の液体が唇を濡らし、舌を潤わせる。こくり、こくり。白い喉を鳴らして麦茶を嚥下する。縁側に座って茶を喫しているだけなのに、その所作のひとつひとつから眼を離すことができないでいた。

視線に気づいた輝夜と目があった。深いグラデーションを重ねた黒曜石の瞳がスッと細まる。涙袋がふっくらと丸みを帯び、眉がやわらかな弧を描く。白い歯列が薄い紅唇に縁取られ、おとがいの上に三日月が浮かぶ。老若男女を問わず誰もを惹きつけてやまない、蓬莱山輝夜の微笑。

だが知っている。コイツが私に対して、こういう笑みを向けてくる時は大抵、碌でもない嫌がらせを思いついて実行に移す直前の合図だということを。

手にしたグラスを見せつけるように顔の高さまで掲げてみせる。真っ赤な舌をちろりと覗かせながら悪戯っぽく微笑んで、手首を左右に傾けた。麦茶に浮かんだ氷片がぶつかり合い、カランコロンカランコロンカランコロンと神経を逆撫でする音色を奏でた。

「なぁに?ねっとりした視線で物欲しそうにこちらを見つめちゃって。このヒエヒエの麦茶が飲みたいのかしら?さっきの非礼を詫びるというなら、分けてあげてもいいけれど」

ニタニタと意地の悪い笑みを浮かべて、冷えた麦茶を飲み干した。黙っていれば絶世の美女なのに、口を開けばこれだ。今度の殺し合いで負かした時には、舌を念入りに焼いて唇を糸で縫いつけてやろう。

心中で物騒なプランを計画しながら、傍らに置かれた茶請けの串団子を手に取る。三個串で、真ん中の淡い桜色の団子を挟み込むように白い団子が串通しされている。人里の老舗店の名物で、品薄のために手に入れるのが難しい逸品らしい。

串の先端に通された白団子をやさしく咥えると、纏わりついていた粉が落ちて紅唇を白く彩った。串を摘んだ指を横へスライドさせる。解放された団子を口内へ招き入れ、唇をぺろりと舐めた。きめの細かな上新粉の舌触りに茶のお代わりが欲しくなるが、先ほどの輝夜の反応を見るに期待は出来なかった。

やわらかな団子を噛むと、中に詰まっていた餡が甘味と共に口内に溢れ出す。唾液の分泌が促され、粒餡と団子の異なる食感が舌を楽しませる。品の良い味わいに頬が緩んでいくのを感じる。竹林暮らしでは滅多に味わえない高級品だ。瞳を閉じ、もちゅもちゅと甘美な味わいを噛みしめた。

「クチャ音立てながらお団子食べるなんて行儀が悪いわよ、妹紅。いったいどんな躾を受けてきたのかしら……親の顔が見てみたいわ」

「父上のことなら何度も顔見て振っただろ、お前は」

団子串の先端を輝夜に向けて反論する。以前なら父を引き合いに出して侮辱する輝夜に激昂し、胸ぐらを掴んで押し倒し、血で血を洗う闘争に発展していただろう。

それが今や、買い物に付き合わされて人里を訪問したり、話題の新作を賞味する為に甘味処へ足を運んだりしている。世間一般では、私たちの関係は「友人」と定義されるのだろう。上白沢慧音も「あんなに激しく仲違いをしていた輝夜と交友を深める関係に落ち着いてくれて嬉しいよ」と笑っていた。友人である慧音がそう言うのだから、私と輝夜は友人なのだろう。

いつからだろうか、こうして軽口を叩き合う関係に落ち着いたのは。父に恥をかかせ、自業自得とはいえ不死者になるきっかけを作った女。憎かった。己の身に起きる苦しみや不幸は、すべて輝夜が原因だと憎悪を募らせた千余年。寝ても覚めても輝夜のことを考えない日はなかった。

◇◇◇

再会して初めての殺し合い。私は不意をついて輝夜を焼き殺した。燃え盛る遺体を眺めながら、積年の恨みと父の恥辱を晴らした達成感に打ち震えていた。無価値だった人生にようやく意義を見出すことが出来た喜びに笑いが止まらなかった。

でも、すぐに気づいたんだ。仇敵の死とともに、私の中から恨みと怒りの感情が去っていったことに。残されたのは、熱を失った不死の肉体だけ。

失って初めて実感する「生きる目的」の尊さ。それらは輝夜への殺意によって支えられていた。ここに至るまでの千余年、寂しい日々も、耐え難い痛みに苛まれた時も、夜空を見上げればいつでも月は輝いていた。

誰もが愛し、歌に詠まれる月。系図に名を記されることもなく、人から忌み嫌われながら地を這う私。許せなかった。心の底から渇望した父の愛を袖にして貶めたあの女。人としての優しさを与えてくれた岩笠を殺させたあの女。未来永劫、ひとりぼっちで生き続ける原因を作ったあの女。

月を見るたび、心凍らせる寂しさは怒りを燃やす燃料となり、渦巻く恨みの感情が激しい痛みを麻痺させる鎮痛剤となって私を生かしていた。その輝きを、私は消し去ってしまったのだ。

伽藍堂になった心に、真の孤独が忍び寄る。暗闇を払う火光の輝きは、既に失われていた。身を守る術も道標もなく、この闇の中を永遠にさまよい続けるのか。

「あっ、ああぁ……」

情けない呻きが漏れる。脂汗が滲み、背中をじっとりと濡らした。幾多の死線を潜り抜けてなお、感じたことのなかった恐怖が脚元から這いあがってくる。

「うっ、あああぁああっ!」

笹擦れを掻き消す慟哭が竹林に響き渡る。膝がガクガクと震え、立っていられなくなる。崩れ落ち、雨で濡れた柔らかな泥土に四つん這いに突っ伏した。眼下の水溜りに、黒い断髪の少女が映り込んでいた。

これは、私だ。蓬莱の薬を飲む前の、罪に穢れていない無垢な少女。親の愛を知らない可哀想な少女。人々の記憶にも歴史にも残らない名もなき少女。

この頃に戻りたいとは思わない。だけど、こんな結末はあんまりじゃないか。私はただ、父に認めて貰いたかった。よくやったと頭を撫でて褒めて欲しかった。たったそれだけで良かったのに、どうしてこんなに苦しまなければならない?

熱い液体が頬を伝う。私は己の過去と現在、未来を想い泣いていた。おとがいから滴り落ちた涙が、水溜りに波紋を広げる。波打つ水面が黒髪の少女を消し去り、茶色い泥水に長い銀髪の女の顔が浮かび上がる。その紅玉の瞳は輝きを失い、鈍くくすんでいた。

死にたい。死ねない。殺してほしい。寂しい。苦しい。助けて、誰か、誰か。

髪を振り乱し、狂人のように喚き散らす。泥に塗れた両の掌で、己の側頭部を挟み込んで締めあげる。頭蓋を握りつぶして脳漿を掻き出せば、この感情の奔流は消えるのだろうか。心臓が肋骨を突き破って破裂しそうな勢いで脈を打つ。呼吸ができない。指の先から力が抜けていく。明滅する視界の端に、消し炭にした筈の輝夜が立っていた。

爛々と輝く黒い瞳に視線が釘付けになる。涙袋がふっくらと丸みを帯び、切れ長の眉がやわらかな弧を描いた。風になびいた長い毛髪の一本一本が、まるで意志を持った生物であるかのように宙を踊り、華奢な体躯を何倍にも大きく見せた。

「手伝ってあげるわ」

涼やかな声。薄い紅唇の端が吊り上がり、おとがいの上に三日月が浮かびあがった。

微笑とともに、横薙ぎに振り払った爪先が私の喉を掠めた。ヒリヒリと焼きつく熱さを感じた次の瞬間、世界が反転した。目眩を起こした時みたいに、くるりくるりと目がまわる。ぼとりと鈍い音を立てて、私の頭は地面に転がった。

「いきなり炎で焼き殺してくるから吃驚してしまったじゃない。顔色悪くして震えてるから、どこか具合が悪いのかと心配してあげたのに酷いわ。しくしく」

袖で目元を拭うジェスチャーで戯けてみせるが、瞳はまったく濡れていない。血を垂れ流す私の首を拾い上げると、目線の高さまで持ち上げてしげしげと眺める。視線がかち合った瞬間、切り離されて機能を停止した筈の心臓が高鳴るのを感じた。

「綺麗な顔してるわね。それに若い。身なりからして野盗ではないようだし、私に恨みを抱く者の子女といったところかしら?心当たりが多すぎて、貴女がどなた様なのか見当もつかないけれど、たった一人でよくここまで辿り着いたものね」

滴る血で着物が汚れることも厭わず、私の生首を胸に抱き締める。先ほど私の首を掻き切った手が頭頂部をやさしく撫でる。

「貴女の炎から、とても強い想いが渦巻いているのを感じたの。その能力は生まれついてのものじゃない。身も心も焦がす苦しい歳月を経て、編み出された術なのでしょう?恨みと怒りを原料に、心という名の樽で熟成を重ねた可燃性の玉液。芳醇で、とても情熱的な味わいだったわ」

恍惚とした表情で腹の底から深い息を吐く。泥に塗れた私の銀髪を、手櫛で丁寧に梳いていく。

「永い時を刺激もなく過ごしていると、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなるわ。不死者にとって退屈というのは何よりも辛く、痛みや苦しみを与えてくれる相手は、どんな宝物より得難い存在なの」

薄れゆく意識の中で、なんとか輝夜の言葉を聴き漏らすまいと舌を噛んだ。激しい痛みと鉄の味わいが口内に広がり、喉に流れ込んだ血に溺れる苦しさが意識を現世に繋ぎ止める。

「今日は貴女が殺してくれたお陰で、とても楽しい時間を過ごせたわ。こんなに熱い炎なんですもの、次はもっといろんな殺され方を経験してみたいの。生まれ変わったら、また殺しにきて頂戴ね?ずっとずうっと、何百年でも何千年でも待っていてあげるから」

霞んでいく視界と意識の中、輝夜の言葉が消えた筈の心の蝋燭に火を灯す。そうか、こいつも私と同じ不死者だったのか。数えきれないほどの罪を重ねておきながら、永遠の退屈を貪る咎人。だったら与えてやる。私が味わってきた地獄の苦しみを。その綺麗な顔を血と泥に塗れさせ、四肢を八つ裂きにして燃やし尽くしてやる。何百年も待たずとも、今すぐに。

「お友達になりましょう?」

今際の際に見上げた月は、渦巻く憎悪などどこ吹く風といった風情で穏やかな笑みを浮かべていた。血が沸き立ち、頭の中でプツンと何かが切れる音がした。瞳をぐるんと上向かせ、私は事切れた。

「そう、眠ってしまったのね。お疲れ様」

憂いを帯びた瞳がゆっくりと閉じていく。それに合わせ、やさしく生首を抱えていた両の手に力がこもる。熟れ腐った桃を潰すように、細い腕の中で私の頭部がぐしゃりとひしゃげた。頭蓋と脳漿と血飛沫が爆ぜ、淡い装束を紅く染める。

「胴体は、ちゃんと埋葬してあげるわ……あら?」

輝夜が左右をキョロキョロと見回す。傍らに倒れていた筈の、首のない遺体が見当たらない。微笑をたたえていた口元から、三日月が消えた。

「これはどういうことかしら……あっ!?」

背後から、突然の衝撃。背中が弓なりに反り、爪先立ちになる。角度を失いつつあった口端から、呻き声と鮮血が漏れた。

「あ、ふっ、うぁ……ぅ」

首を失った遺体が、幽鬼のごとく輝夜の背後に立っていた。背に突き立てた貫手が心臓を抉り、胸を刺し貫いている。熱い血潮が噴き出し、白い装束を紅く染めあげていく。

「くふっ、ふ、ふふ……これまで数えきれないほど命のやり取りを繰り返してきたけれど、首のない相手に殺されるのは初めての経験だわ。長生きはするものね」

串刺しにした腕が高々と掲げられ、輝夜の爪先が宙に浮く。握りつぶされた頭部の残骸、装束にべったりと付着した血や骨、脳漿が火種となって燃え上がり、吊し上げられた咎人の身を焼く。

「あぁ……とても痛くて苦しくて涙がこぼれてしまいそう。さっき不意打ちで放った炎よりずっと熱い。こんなに強い恨みの炎を燃やす貴女はいったい誰なのかしら」

輝夜の言葉に化学反応を起こしたように、遺体の全身が激しく燃え上がる。肉と髪が焼ける匂いが漂い、血が沸騰する。互いの身を焦がしながら火勢はとどまることを知らない。背中から一対の巨大な炎柱が噴き出し、血のように赤い羽根が舞いあがる。

火の海と化した竹林に、一片の骨も残さず燃え尽きた遺灰が火の粉と共に風に薙ぎ払われる。首のない不死鳥が、轟轟と燃え盛る両翼を羽ばたかせて再誕の産声をあげた。

「私の名前は、藤原妹紅。不意打ちで二度も殺して悪かったよ。随分、ヤワな身体してるんだな。火加減が分からなくてあっという間に焼き尽くしてしまったよ。次は中火でじっくり焼いてやるから、さっさとかかってきな」

啖呵を切った直後、燃える竹林から炎のカーテンを潜って色とりどりの光球が雨霰と降り注いだ。避けようと地面を蹴った脚が、何者かの手に絡め取られて顔から地面に倒れ込んでしまう。

「くっ、格好つかないなぁ、もう!」

赤く腫れた鼻先を押さえながら、足首を掴んだ手を蹴り払う。立ち上がりながら、間近に迫る光球を睨みつける。

「ああ、そう。そうなの、藤原の娘。私に求婚してきたあの貴族の……そして蓬莱の薬を飲んで千年以上も私のことを恨み続けて、とうとう本懐を果たしたのね。ふ、ふふ」

背後から、輝夜の声と共に掌が私の肩を掴んだ。桜貝色の爪先が皮膚に食い込み、肉を裂いて鮮血が噴き出す。ぼきりぼきりと骨が砕ける音が響いた。

「ぐっ、痛った!こ、この!放せって!このままじゃ二人まとめて吹き飛ぶぞ!」

「貴女だって、さっき自分ごと私のことを焼き殺したじゃない。これはその意趣返し」

輝夜が私を抱き寄せ、羽交締めにする。振り解こうともがくが、この細い腕のどこにそんな力が秘められているのか、びくともしない。

「どうせすぐに蘇るのだし、初めては二人一緒に逝きましょう?」

「お前と心中なんか死んでも御免だ。一人で焼け死んでろ!」

掴まれた腕を最大火力で燃焼させる。炎が白魚のような細い指を焼き、拘束が緩んだ。両椀をめいっぱいの力で払いのけ、振り向きざまのローキックで輝夜の左脚を蹴り折った。あとは全速力でこの場から離脱すれば、コイツは自らが放った光球の直撃を受けてお陀仏だ。

「あはっ、そんなに熱くならないで頂戴。貴女のお父様が恋文で歌に詠んで褒めてくれた黒髪や、指一本触れることも叶わなかった珠の肌が焼け爛れてしまったじゃない」

背を向け駆けようとした瞬間、またも足元を掬われる。物理ではなく言葉で。千余年越しに知る、父親の片恋慕。嘲笑するような輝夜の口調。頭がカッとなり、着弾まであと三秒と迫った光球群が眼前から消え失せた。

「輝夜ぁああああああ!!!」

振り向き、顔を鷲掴みにして黙らせる。そのまま怒りに任せて締め上げ、五指の先端から炎を燃えあがらせた。焼け爛れる頬の柔らかな肉が、指の下で盛り上がるのを感じる。笑っているのか?

「馬鹿ねえ」

輝夜の嘲笑と共に、光球が背中に着弾して私たち二人は爆発四散した。こうして私たちは互いの血を浴び、臓物を引きずり出して笑いあう永遠の宿敵となった。

◇◇◇

それも今や昔。私たちはここ半年、殺し合いをしていない。休戦協定を結んだわけじゃない。ただ、互いになんとなくそういう血生臭い諍いに至るほどの熱量を失っていた。異変や道案内の仕事を通して知り合った人々との交流を経て、私の恨みや怒りといった負の感情は薄まっていたし、輝夜の胸中は分からないが、煽りに反応する私を揶揄うことで満足している節があった。

恋仲になった男女の間では、こういう状態を「倦怠期」と呼ぶらしい。付き合い始めた当初の胸のときめきが失われ、一緒にいることが当たり前になって刺激が失われることを指す。私たちは女同士だし、断じて恋仲などではないが、確かに今の関係は倦怠期と言って差し支えない状態だ。

自分を責めることも人を憎むこともない、退屈で心地よい日々。生まれて初めて味わう安らぎを享受しながら、どこか釈然としないものが胸の奥で燻っていた。その火元がどこにあるのか、私はいまだに測りかねている。

「〜♪」

輝夜が鼻歌混じりに団子を頬張る。私のように串に齧りつくことはしない。菓子楊枝を団子に這わせて串から外すと、皿の上で二つに割り切って口まで運ぶ。掌で口元を隠し、音も立てずに味わうと頬をほころばせた。

団子を口に運ぶ仕草はゆったり優雅で実に美味そうに茶を喫する。同性の私でも、その愛嬌と品の良い所作には見惚れてしまう。異性ならば、尚更だろう。父が輝夜に惹かれた理由も、今ならば少し理解できる気がする。

「ん……?」

物思いに耽っていると、輝夜のおとがいに一匹の蚊が停まった。小指の爪ほどのサイズしかない小さな蚊には、この白い肌はどう映っているのだろうか。薄い皮膚の下に流れる血を探り当てるように、長い吻が絹肌を何度も擦る。

寺子屋に置かれていた書物によると、蚊はストロー状の針とノコギリ状の二本針を微細に上下振動させながら皮膚を切り裂き、吸血用の針を皮膚の中へと差し込んで血を吸うらしい。いかにも痛そうな吸血方法だが、この針は髪の毛一本分の細さしかなく、皮膚の痛点を避けることができるために痛みを感じることはない。

狙いを定めた蚊が、長い針を輝夜の皮膚へと突き刺した。黒く細い腹へ、吸い上げられた血が流れ込んでいく。

「よし……!」

血を吸われていることにも気づかず団子を頬張る輝夜の間抜けぶりと、蚊の健闘に思わず声が漏れた。

「私の顔を見ながら「良し」なんて、そんな当たり前のこと褒めなくてもいいのよ。今更ね」

当の輝夜は自分が褒められたと勘違いしているらしい。長い黒髪を指で梳いて、己の美を誇るように風に靡かせる。さっきまで口喧嘩してたのに、いきなり顔の良さ褒める訳ないだろ。どれだけ自己肯定感が高いんだろう。確かに顔は良いけどさ。

「そうだな、こんな美味いものしょっちゅう食べてるから頬がぷくぷくに膨れて市松人形みたいで可愛いな」

顎下で吸血を続ける蚊から気を逸らすために、輝夜の頬を指で抓る。団子より柔らかく滑らかな肌がむにゅりむにゅりと心地よい感触とともに形を変えて指先を楽しませる。

「なにするのよ、痛いわね。引っ張るのをやめなさい!」

「涼しい顔してるけどお前も汗かくんだな」

頬を摘んでいた指を離し、濡羽色の小鬢を撫でてやる。汗を含んだ短い髪に拭かれて、親指の指紋がしっとりと湿り気を帯びる。絹肌に薄く纏わせた白粉と焚き込めた香の香り。輝夜の汗腺から分泌された汗にそれらが溶け込み、芳香が鼻腔をくすぐる。竹林から吹きつけていた熱く青臭い風が遠のいていく。

「大股開きでお餅くちゃくちゃ食べながら暑い暑いとボヤいていたら格好つかないもの。下々の者と違って大変なのよ、お姫様は」

いつもの調子で煽りをくれるが、腹も立たない。輝夜のおとがいの下にぶら下がった蚊を観察するのに忙しいからだ。私の策が功を奏し、蚊は吸血に成功してその腹をパンパンに膨らませていた。慧音いわく、血を吸う蚊は繁殖期のメスに限られるらしい。つまりこの雌の蚊は、輝夜の血を糧に卵を産むのだ。

「……っ」

なぜだろう、胸の奥がむずむずする。心の奥底で燻っていた何かに火が灯るのを感じる、舌打ちが口から飛び出しそうになるのをグッと堪えた。

昆虫の姿形や生態に対する嫌悪から湧き上がる感情ではない。むしろ、次の世代に生命を繋ぐために死の危険を冒してまで血を求める蚊の生態を知った時は、畏敬の念を抱いたほどだ。ではなぜ、私はこんなにもイライラしている?

夕陽を受けた蚊の腹が、燃えるようなルビーの輝きを放っている。見慣れた、見飽きた、懐かしい輝夜の血。口蓋垂が舌の根に張りつきそうな渇きが私を襲い、呻きが漏れた。

輝夜との殺し合いの中、幾度も浴びた血潮の熱さを想起する。錆びたヘモグロビンの香りに鼻の奥がツンと痛くなる。味蕾から口内へ広がる、しょっぱさの混じった鉄の味わい。粘ついた血液が睫毛に固着して瞼が重くなる。血のペンキをぶち撒けられた角膜を通して見る世界は赤く染まっていた。この蚊の腹のように。

ーーああ、そうか。
ーーー私は、蚊に嫉妬しているんだ。

肉体が無限に再生する蓬莱人同士の殺し合いは、単なる暇潰し以上の意味を持つ。互いの骨肉を裂き、血を浴び、臓腑の臭いに塗れながら脳漿を撒き散らす。苦痛は、永遠の退屈から逃れる一番の特効薬だ。そして死の直前には脳から大量の幸福物質、エンドルフィンが分泌される。多幸感に包まれながら、拮抗した勝負の末にもろともに肉片と化し、時には消し炭となって一つに混ざり合う恍惚。この濃密なコミニケーションを重ねることで、私と輝夜は相互理解を深めてきた。

だが人の理から外れた蓬莱人といえど、どれほど殺し合っても傷は残らず。幾千夜、臥所を共にしようと女同士では子を成すことはできない。

それをこの蚊は、病を媒介する穢らわしい口で蚕の繭のように白くきめ細やかな肌を切り裂き、私が与えることの出来ない痒みを輝夜に与えた。あまつさえ、私だけがその味わいを知る輝夜の血を啜り、それを基に生命のバトンを繋ごうとしている。苦痛を共有することなく、一方的に与え奪っていく。それが許せなかった。

私が輝夜に抱く感情は歪なエゴで、命懸けで子を残す蚊の方が生物として正しく、無償の愛を体現する尊い存在なのだろう。

腹拵えを済ませた蚊が、小さな羽根を広げて今まさに飛び立たんとしている。輝夜のおとがいへ、その下に停まった蚊へと手を伸ばす。ナイフのような鋭い殺気を指先にこめて。たかが虫螻を相手に、何をそんなに熱くなっている?頭では理解していても、嫉妬の炎に燃え上がる心が身体を突き動かす。

以前にも、激情に身を任せて他者の生命を奪った覚えがあった。蓬莱の薬を奪うために蹴落とした岩笠の顔が脳裏に蘇る。一瞬の躊躇。停止した指先を、輝夜の頬から流れ落ちた汗が掠めた。

蚊が羽根を伸ばしたままの姿で水球に絡めとられる。水牢に捕えられた哀れな囚人は、なめらかな肌を滑り落ち、重力に導かれるまま足元の踏石へ叩きつけられた。

蚊は生きていた。片翼は折れ曲がり、三対の脚を半分失ってはいたが、生きていた。汗の海で溺れもがく蚊の、宝石色の腹が夕陽を受けて爛々と輝いている。これから世に放たれる筈だった生命の輝き。落下の衝撃で徐々に衰弱するのが先か、汗で溺死するのが先か。どちらにせよ、ひどく無念だろう。

ふと頭に疑問がよぎる。蓬莱人の血を吸った蚊は、死ぬのだろうか?蓬莱の薬は肝に溜まるという。ならば肝臓で造られる血液を吸った蚊が、不死性を獲得する可能性が存在するのではないか。憐憫からか、荒唐無稽な考えが頭をよぎる。

もしも、この蚊が不老不死になって蘇ったのなら、ふたたび輝夜の血を求めて白い肌に縋りつくのだろう。何度死のうが殺されようが、飽くことなく。

「暑いわね」

白い頬をほんのり赤らめた輝夜が目線を逸らしながらつぶやく。蚊の観察と胸に渦巻く感情の整理に夢中で、額をぶつけそうなほどに顔の距離が近くなっていた。私が口づけを交わそうと唇を寄せたと勘違いしたらしい。語気には待ちぼうけを喰らわされたことに対する憤りと羞恥が含まれていた。

自らの汗が蚊を死に追いやることも、私が抱いていた歪んだ感情や殺意にも気づいていない様だった。時の帝や貴族たち、蚊に至るまで、貴賤や種族を問わず輝夜姫に恋焦がれた者たちの末路は全てこれだ。報われぬと分かっていても求めることを止められず、当の輝夜は非業のうちに生涯を終える者たちの辛苦に思いを馳せることはない。どこまでも残酷で、誰に対しても平等な女だった。

「喉が渇いたわ」

串団子の餡とは違う、甘い香りが輝夜の囁きと共に鼻腔をかすめる。蚊は人の体温や汗、吐息に引き寄せられるのだという。今の私も同じだった。輝夜の火照った頬に、芳しい香りを漂わせる唇に惹き寄せられていた。

「私も」

応えながら、うなじの後ろへ左手を回す。指の間からさらりと溢れる滑らかな黒髪と、汗で濡れた肌の感触。ふわりと香る扇情的なアロマに肌が粟立つ。ほっそりとした首へ、右の手をかける。きめ細やかな肌に、しっとりと指紋が吸いつく。あの蚊は全身でこの肌触りを味わったのだろう。唇を震わせながら親指を滑らせていく。

「あっ」

指先の指紋がわずかな膨らみを探り当てると、輝夜の口から吐息が漏れた。自分でも気づかなかった虫刺されの腫れに痒みが生じてきたのだろう。人差し指の爪先で、労わるように優しく掻いてやる。

「んぅっ、あぁ……」

官能的な呻きが漏れ、甘えの色を含んだ瞳が潤み、私を見つめている。唾液に濡れた舌先が誘うように上唇をひと舐めした。日頃の楚々とした雰囲気とは異なる、濃艶なる仕草。

「かぐ、や……!」

華奢な肩を抱き、縁側の上へと押し倒す。濡羽色の髪が薫香と共に床板に広がり、小さな宇宙に浮かんだ満月みたいに白い顔が、私を見上げながら穏やかに微笑んだ。黄昏時の月光。眩しくて、見据えた瞳が焼きついてしまいそうだ。

「妹紅」

桜色の袖が首筋を挟みこみ、ひんやりと冷たい指がうなじに絡む。引力を帯びた黒曜石の瞳が近づく。やわらかな感触とともに、輝夜の艶めく紅唇が私の乾いた唇を赤く色取った。

「んっ……」

熱くぬめる唾液を纏った舌先が、唇の境界をちろりと舐めてくる。淑やかさの中に抑えられない衝動を感じさせる舌使いがいじらしい。

「輝夜……ちゅっ、んぅ……」

「んぅ、はっ、あぁ……」

舌が唇を割り、誘い受けの舌を絡め取る。うっとりと瞳を潤ませたまま顔を傾け、鼻先を擦りあわせる。眼球に互いの瞳の色が映り込み、笹擦れの葉音が遠ざかっていく。

幾度も味わった輝夜の唾液。今日はより一層、甘く感じられた。先ほど口にした団子のせいか、それとも渇きがもたらす錯覚なのか。理由など、どうでも良かった。私はこの甘い唾液の海に溺れたいと思った。ピアノの白鍵を思わせる整った歯列へと、舌を這わせる。

「んんぅ、あっ、んちゅっ、も、もこ……妹紅……っ」

舌先で撫でる度、水音混じりの甘い旋律が響きを変化させていく。もっと私の舌で輝夜を鳴かせたい。いや、それだけでは足りない。

「んぁ……あっ、はぁ……」

唇を離す。互いの舌先から透明な唾液が糸を引き、キラキラと輝いて滴り落ちた。どんなに熱い口づけも、こうして離れた途端に繋がりを失ってしまう。私たちが今、胸に灯した恋慕も時が経てば冷めてしまうのだろう。輝夜のおとがいを指で上向かせる。

雪を欺く白肌に、寒椿のような赤みを帯びた腫れが目に飛び込んだ。私はそれを痛々しくも美しいと思った。蚊の健闘を讃える気持ちと、自分以外の者が輝夜を傷つけたことに対する怒り。そして気づき。

私は怖かったのだ。蓬莱山輝夜にとって、藤原妹紅が苦痛と快楽に満ちた殺し合いを繰り広げる永遠の宿敵から、永遠の退屈を心地よく過ごす友人へと変化するのが。

蓬莱の薬を服用してから今に至るまでの人生を思い起こす。泣きたいほどに寂しい夜も、死を願うほど苦しい夜も、空にはいつも輝く月が私のことを照らしていた。輝夜がいなければ慧音を始めとする人々との出会いも無かっただろう。月光に導かれて、私はここにいる。

月は今、目の前に横たわっている。この輝きを誰にも渡したくない。執着と嫉妬、永い憎しみの末に産声をあげた愛とは呼べぬ歪な感情。美しくなくとも、穢れていようとも、私にはお前が必要なんだ。

太陽は沈み、黄昏が訪れる。押し倒した輝夜の上へと倒れこんだ。床板に広がる黒髪の海へ、煌めく星々の輝きを帯びた銀の髪が重なった。強く吹き込んでいた風はもう、止んでいた。万感の想いをこめて、私は月のおとがいを噛んだ。
人生で初めて書いた健全SS作品になります。感想や誤字脱字等、ありましたらコメントしていただけると幸いです。
居独
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90東ノ目削除
蚊に嫉妬しちゃう妹紅、可愛いですね
3.100名前が無い程度の能力削除
蚊のメタファーが素晴らしく良く、どろどろの感情の濁流をしかとみることができました。
4.100夏後冬前削除
最初の方から文章がやたらエロかったので、ぜったいやってるな、と思いました。後書きで答え合わせが出来てニッコリしました。並みの文章書きは美しい女の形容のために爪を褒めないし、まして桜貝になぞらえないのです。耽美で美しく感じました。マクガフィンとしての蚊が出てくるの上手すぎて本当にヤバい。ぞわってきました。素晴らしい。私も生まれ変わったら蚊になって綺麗な女の血を吸う覚悟を決めました。
5.100南条削除
面白かったです
非常に丁寧な描写で彩られる情景がとても綺麗で圧倒されました
蚊に嫉妬してる妹紅もとてもよかったです