Coolier - 新生・東方創想話

デミウルゴス

2024/06/23 11:12:28
最終更新
サイズ
91.04KB
ページ数
1
閲覧数
1000
評価数
9/13
POINT
1090
Rate
15.93

分類タグ

「しかし、私に火刑を宣告した貴方たちの方こそ真理への恐怖に震えているではないか!」

(Giordano Bruno)


 ◯


 00:The Oracle


「大丈夫、大丈夫だよ。おまえが殺したわけじゃない……」

 神様は告げる。耳あたりの良い言葉を私に告げる。

「おまえが悪いわけじゃないんだよ」

 神様は告げる。私の望む言葉を私に告げる。
 それは神様による御託宣。それは神様によるお告げ。
 デルフォイのオラクル。国津神との宇気比。あるいは、ただの……。

「おまえは人々を救おうとしただけだ」
「そうさ。そして事実、沢山の人を救ったじゃないか……」

 神とは人を救うもの。
 救いを求める人々の祈りが、信仰が、やがて誰かを神にならしむ。
 だけど私は、人を救えなかった私は、いったい、何者なのだろう?

「ちがうよ」
「そうではないでしょう」
「おまえは立派に務めを果たした」
「そんな風に思ってはいけない」

 御神々が口にする言の葉の、そこに載せられた想いのあたたかさを、私は知っている。
 知っていればこそ、私は。

「私が、殺してしまった……」

 御神々が遠ざかっていく。
 その御姿が、御言葉が、遠ざかっていく。
 でもそれは、きっと、私のせいなんだわ。


 ◯


 01:デミウルゴス


 春の暮れかけの頃合い。まだ夏の到来に心備えるには少し早い昼下がり。
 閑散とした守矢神社の境内を履き清める巫女、東風谷早苗は、もう何度目かもわからぬため息を吐いた。
 竹箒の先に履き清められた石畳には、初夏の先ぶれという時期もあって、枯葉一つ見当たらない。
 なれども早苗は箒を握る手を止めようとしない。そもそも彼女の眼中には、すでに輝かしく清められた境内も、気持ちの良い青空も、なにもかもが見えていない。

「はぁ……」

 また、ため息を吐き出すその理由は、やはり憂鬱な掃除のためではない。いやむしろ、掃除のする必要さえない輝かしい石畳。それこそがこの当代風祝の最大の悩み事と、浅からぬ関係があった。
 参拝客の減少。
 初めこそ物珍しさで耳目を集めた守屋神社だった。しかし仏道、道教と後を追うように出現した対抗勢力の勃興。この頃は市場の神などというものも出てきて、人心は分裂する一方だと、神奈子たちがぼやいていたのを早苗は思い出す。
 そこにきて守矢の神社は妖怪の山の頂にある。立地上の不利。それは最後の一押し程度かもしれないが、簡便な救いを求める民草には大きな問題の一つだった。
 静けさは流行り病のように静かに確かに広がっている。

――これじゃ霊夢さんのとこと変わらない……って、こんな風に比べるのは良くない良くない! しっかりしろ早苗! おー!

 から元気に身を奮い立たせるも、長くは続かず。
 いやむしろ、博麗神社は参拝客こそ少ないが、妖怪退治稼業の本家本元は未だあそこだというのが人々の概ねの共通見解。守矢神社はナンバーツーはおろか、普通の魔法使いを間に挟んで三枚目から動いていない。

――うーん、私も頑張ってるのになぁ……神様だって二柱もいらっしゃるのに。どうしてうまくいかないんだろう? それに最近は……
 
 思考のめぐりが、ふと止まる。最近は……その先が出てこない。参拝客はちっともで、ずっとこんな調子である。何か神々が素晴らしい手を打ってみたり、したはずだろうに。

――ま、いいか。それより参拝客を集められる方法を私も考えないと! 何かないかなぁ、何か素晴らしいアイデア……すべてを解決してくれるスーパーミラクルアイデアよ、出てこい、出てこい……。

 そんなものをすぐさま思いつけるのであれば、しかし、何も苦労することはない。
 玉虫色の解決策は遥か霞む雲の向こうで、代わりに出てくるものといえば、やはり、
 
「はぁ~~……」

 冥界の陰気な風よりもなお陰鬱げな溜息吐息が吐き出された。
 ちょうど、その時だった。

――おや!

 早苗の伏し目がちだった瞳が突如かがやく。
 竹箒を放り置き、妖怪の山ロープウェイの乗降口から長々長々続く一千段階段の方へ、神社の大鳥居の方へと向かって、彼女は既に駆け出していた。
 その先には、小柄な女性の参拝客。早苗は心からの笑顔と元気でもって、それを出迎える。

「こんにちは! 御参拝でしょうか! ご用件がありましたら、わたくし当代風祝の東風谷早苗になんなりと……」

 はしゃぎ気味だった早苗の語気は、しかし、とん、とん、とんと、どんどんと、トーンダウンしていく。
 階段を登ってきた参拝客がちらと早苗の方を見やった。あの一千段階段(本当に一千段あるのかは早苗は知らない)を昇ってきたわりに、汗一つかいていない。息も切らしていない。もっとも早苗からは参拝客の表情はよく伺えなかったが。目深に被った頭巾のすそが顔の大半を覆い隠していたから。

――おばあさん、だよね……?

 背丈は早苗と同じくらいか、少し低い程度。身なりは率直に言ってボロ布に近く、あまり良い生活をしている風体ではない。
 なにより、その客の身に纏った落ち込んだ暗い雰囲気が、早苗の眉根をわずかながらにしかめさせた。

――ううん、ダメよ早苗! 巫女がそんな暗い顔しちゃダメ! 笑顔、笑顔!

 早苗が自らに喝を入れている一方で、しゃがれた声が、ぼそりと尋ねる。

「随分と……寂しいところなのですね」
「え」

 思いもよらぬ一言に今度こそ早苗の眉根が歪む。
 が、やはり素晴らしい精神力とプロ意識でもって笑顔を取り戻して彼女は、むしろ溌剌に声を張り上げて、応対を続けた。

「え、ええ! 今ちょうど空いておりますから、快適ですよ! 本殿にご案内しましょうか? こちらです!」
「すみません、足が不自由でして」
「あ……失礼しました! お荷物お預かりしましょうか?」
「お構いなく。荷物は、この病んだ身一つでございますから……」

 そう言って客は早苗の手助けを拒むと、片足を引きずりながら、履き清められた石畳をゆらゆらと歩いていく。
 どこか泥濘んだ場所を歩いてきたのだろうか。その客が一歩進むごとに、べしゃ、べちゃ、と、草履型の赤黒い泥の跡が真っ白い石畳に残されていく。
 一方で早苗はそれを、付かず離れずの距離からじっと見守ることしかできない。手助けは不要と言われた手前、できることは何もない。かといって他にすることもなかった。ゆっくりとした足取りを、数歩後からついていく。

「あぁ」

 客が足を止める。
 早苗もそれにならう。
 客は息をもらし、守矢神社の誇る偉大で巨大な列柱を見上げている。

――少し変わったお客様だけど、神奈子様の配した御柱には感じいるところがあるのね。当然、麓の他のどの神社でも、これだけの光景は見られないはずだものね!

 来歴の説明をして差し上げようと、早苗が口を開こうとする。
 が、客のぼそりとしゃがれた声が先んじた。

「このように威圧的な装飾を並べ立てること。神様は質素と節制を美徳とはなされないのでしょうか……」

 問いかけではない。ただ心より思ったことを口にした、というようである。
 早苗はまたしても言葉を失う。
 もちろん、神を敬わない不遜な客というものは、彼女とて幾度も見てきた。こと幻想郷の人間たちにおいては珍しいが、彼女の故郷、幻想郷の外の日本国において、信仰は失われて久しいもの。
 しかし外の世界の無神論者は、その名の通り神が無いと論する者たちを指す。はなから超越的存在に思いを馳せることを辞めた者たち。
 悲しいが、彼らは早苗とは履いてる靴が違う。まずもって神は不在と仮定する彼らに対して早苗にできることといえば、適当に微笑み返して、丁重にお帰り願う程度のものだ。そちらについては、早苗はすでに抗体を有している。
 この参拝客はしかし、外の無神信者たちともまた異なっていた。

――どうしてそんなこと言うのかしら。神奈子様も、諏訪子様も、なにも放蕩を是としてるわけじゃないのに……。

 そう口にしかけて、しかし咄嗟のことである。早苗が考えをまとめられないうち、客は更に進んでいく。荘厳な列柱にはもう目も止めず、客はゆっくりと、だが着実に足を進めては、ついに本殿の前に立っていた。
 無意識の所作。左手の指先を右の手首に添えながら、早苗はその様子を見守っていたが、客は遅々とした所作で二礼二拍一礼を済ませた。それから思い出したように濁った鈴の音を鳴らして、早苗のところへと戻ってきた。
 その表情は、やはり頭巾の影になって早苗には伺えない。

「えぇと、すみません。たしか、最初に鈴を鳴らした方が、良いのですよね。間違ってしまったかしら……」
「あ、いえ! 大切なのは神様に願う気持ちですから。きっと神様は聞き届けてくださいますよ!」
「そうですか。でも、私はさっき神様に失礼なことを言ってしまったでしょう。その上で参拝の作法も正しく行えなかったでしょう。きっと神様も私には怒りと軽蔑をもって向かうに違いないのではと、思いますが……」
「そんなことありません! ぜんぜん大丈夫です!」
「信仰心さえあれば問題ないと、そう仰っていただけるのですか」
「はい! 神様は音によって聞かず、光によってものを見ず、心によって人を捉えるものです。だから大切なのは信じ、敬う、真っ直ぐな心なのです」
「では……例えば私が足だけでなく全身の指先に至るまで失って、貴方様の仰る心だけとなったとしても、やはり神様は願いを聞き届けてくださると、そういうことでしょうか」
「え、ええ……間違ってはいませんけど」
「では、」

 その時、わずかに参拝客が首を傾げたようだった。頭巾の角度がほんの少しずれた束の間、萎んだ灰色の瞳が覗く。虚無を宿した淀んだ瞳。
 一瞬だけれど確かに早苗は、参拝客のその瞳を捉えた。交錯した視線。二者はたしかに目を合わせた。
 時間にして一秒にも満たない僅かな出来事。だというのに、いつも早苗の胸を満たしているあたたかな空間の、その隙間に生じた僅かな領域を、極めて冷たいものが刹那に駆け抜けていった。
 だが時の歩みが止まることはなく、客が言葉を続ける。

「では、あらゆる信仰を証明するための行為には、意味などないのですね」
「はぇ……」

 早苗には投げかけられた言葉の意味がわからなかった。
 外の世界の頃ならば、はなから取り合わず聞き流したような言葉の並びでは、ある。しかし今、この時、たしかに早苗の心は開かれていた。そして人は誰でも、意識の外からの一突きにはよろめかずにはいられないものだから。

「先ほど、例え私が何をも為さなくとも、その心の内を神様は見守ってくださると、そう仰ってくださいましたよね。そうなのですから、私は、私たちは、信仰を証明するためのいかなる具体的な行為も不要であると、そのようになりませんか。であれば、まったく信仰を証明するためのあらゆる具体的な行為も無駄であるとそのように、なりませんか」
「な、なりませんかって言われても」
「すみません、私はあなた様の仰ってくれた説明のとおりに考えているだけなのですが……どこか、間違っていましたでしょうか」

 たじろぎながらも早苗は必死に頭を巡らす。なぜ。なぜこの人はこんなことを言うのだろう? この人は暇そうな冷やかしとは違う。切なる神への接続の希求を感じる。確かに。
 それに彼女の言葉は確かに、先ほど早苗が説明したことでもある。

――え、あれ、じゃあ私が間違ってるの……? でも私、なにもおかしなこと言ってない! それに、信仰のための行動に意味がないなんて、そんな、そんな哀しいこと……間違ってる……でも私の言ったことと矛盾は、してない……えっと……あれ……?

 ぐらり。今まで頼りにしていた地面が突如揺るがされる感覚。
 眼前の者が口にしたことは、正しくない。正しくないような気がする。早苗の前歯が下唇を浅く噛む。
 しかしその言葉は他ならぬ早苗自身の言葉に端を発する。であればやはり、間違っているのは自分自身なのか? 信仰を証明する如何な行為も不要だと、それは直感的には間違っているはずなのに、理論的には正しく響く。早苗自身の理論に依拠した理解なのだから当然のこと。
 堂々巡りの思考に立ち尽くす早苗に向け、参拝客はあくまで遠慮がちな声で問う。

「すみません、困らせてしまいましたか」
「……あ、いえ」
「すみません、本当に……ただ、もう私には、神様にお願いするより他にないのです。不安で仕方がないのでございます。どうかご覧ください、この腕を」

 そう言って参拝客はボロ布の袖に当たる部分をまくった。だぼつく上着に隠されていた左腕が、日差しの下に明らかになった。
 早苗の息を呑む音。
 ケロイド状に焼け爛れた皮膚、固く縮こまった五本指。尋常でない様子が伺える。訥々とした語り口が耳に入り込んでいく。

「先日、火事にあい、この通りの様となりました。腕だけでなく全身がこの通りです」
「火事……」
「ご存知ありませんか。つい、この間のことですから」
「い、いえ、私はこの神社にいることが、多いですから……」

 ぞわぞわと心のあちらこちらが震えるのは、痛々しい火傷の様子のせいだけだろうか?
 なにかが胸の奥に引っかかっている。引っかかって、鋭利なものでカリリと心を切り開かれているような、痛み。
 早苗は自分の呼吸が浅く早くなっていることに気が付かない。参拝客の重症とは対照的に傷一つない巫女の頬を、つつと冷や汗がつたっていく。

「もうどのお医者様も見放しました。夜毎にひどく痛み、木桶いっぱいの膿を吐き出すのです。なのに死ぬこともできない。勇気がないのです。しかしもう生きる意味も見出せない……いったい、人の生とはなんの意味があるのでしょうか……このような、理不尽ばかりが」
「それは……」
「だけれども、このお山の神社であれば、信仰篤き者に対して神様は奇跡を起こしてくださると聞きました。ですから私は、どうしても知りたいのでございます。いったい信仰とはどのように抱き、どのように示すことで、神様に通じるのか……」

 動悸のする胸元をぎゅっと抑え、不可思議に呼び起こされた恐怖をぐっとこらえ、早苗がまた顔を上げる。
 冷や汗は止まらない。息が苦しい。なぜそうも動揺するのか彼女には判然としない。
 それでも、東風谷早苗は守矢神社の風祝だ。
 奇跡を願い、神を信じ、頼り、救いを求めて来た人の前で、正体もわからぬ動揺に震えるわけにはいかなかった。
 むしろ嗚咽の入り混じる参拝客の独白を聞いて、早苗は一瞬でも相手を疑わしく思ったことを恥じいる。
 陰りかけていた表情が、再び微笑みに彩られる。

「あの、少しお待ちいただけますか? 私が神様にお伺いを立ててみます。あなたの願いがちゃんと聞き届けられたかどうか、確認いたしますよ!」

 そうだ、私はいったいなにを不安がっていたんだろう? と、早苗は苦笑する。信仰の形がどうあれ、神とはそこに居るものだ。そこに在るものだ。早苗にとって神様はいつだってそこにいる。なにも疑うべきことはないじゃないか……。
 
――にしても神様に直に「確認します」なんて、向こうじゃぜったいできない御業ね。

 しかし幻想郷であれば問題もないだろうと、早苗は本殿に駆け寄る。
 そして……彼女は祈った。口から出る言葉を媒介する必要はなかった。ただ早苗の信じる神を、神奈子様と諏訪子様のことを思い描けばそれで心が、信じ仰ぐ心が、すなわち信仰心が通じるのだから。

――神奈子様、諏訪子様、いかがでしょうか?

 目を閉じ、問いかける。当然、二柱は早苗と参拝客とのやりとりを見ていたはずだ。ましてここは本殿の真ん前で、二柱にとっては家の軒先で起きていたも同然なのだから。
 早苗自らの言葉通り、神は耳によって聞かず、目によって見ず、人々の心を捉えているはずだから。

「……?」

 そのはずだった。
 
「……神奈子様? 諏訪子様?」

 例えるなら、真昼の雲の切れ目から太陽も青空も覗かなかったかのような違和感。
 早苗にとっては、神奈子も諏訪子もそこにいて当たり前の存在。鏡を覗き込めばそこに自分の顔が映るように、自分の部屋が、世界が映り込むように、八坂神奈子と洩矢諏訪子がそこにいることはあまりに自明のこと……だったはず。なれども、

「神奈子様? 諏訪子様!? わ、私です! 早苗です! なぜ何も仰ってくださらないのですか……!?」

 聞こえない。
 神々の声が。
 神奈子の魂の頼もしい響き。諏訪子の魂の雄大な響き。
 そのどちらもが聞こえてこない。
 朝目が覚めて、そこに家がない。大地がない。空気がなく、空がなく、なにもない。
 そんな喪失感が駆け抜けていく。
 それでも振り返ると、やはり参拝客が早苗の方を向いている。表情はまた、伺えない。それでも早苗はその内心を予測する。予測してしまう。神でなくとも人は人の心を読み取るのをやめられない。その精度はともかくとして。

「あ、あの! えっと、実は……」

 釈明の言葉を発しかけた早苗が息を呑む。
 釈明するといって――いったい何を告げれば?
 また当然、参拝客は聞き返す。

「どうか、されたのでしょうか」
「いえ違うんです」
「大丈夫です。すみません、お気を使わせてしまって。やはり神様は、私の願いなど聞いてはくれなかったのですよね」
「違います!」

 声を大にして叫ぶ早苗の右腕は震えているが、やはり震える左手でぎゅっと握り込んで、押し留める。
 神様はいない。問うても応えてくれない。どういうわけか今、それが事実としてある。
 ありえないことが起きている。強固な結界の中とか、地獄のような完全なる異界であるならともかく、ここは、神を祀る社そのものだというのに。
 だからといって、

「大丈夫です」

 だからといって、人間に見捨てられた者を神までもが見捨てれば、その先は虚無しかない。
 だから、歩み寄る。

「大丈夫ですよ」

 無論、早苗とて理解している。
 もとより神道とは、というより八百万の神々を奉ずる行為とは、絶対の救いが約束される一神教のシステムとは根本的に異なるものだ。当然早苗には、神奈子や諏訪子には、ただ一人の参拝客を救ってやる義務も義理もない。
 一方で早苗はまた、生まれ持っての巫女である。巫女はまた神の威光をよく知らしめるための存在であり、巫女はまた民と神とをつなぐための存在である。少なくとも、早苗はそう理解していた。
 だから、今まさに神様にすら見捨てられたと感じているであろう人を見捨てておくなどということは、できるはずもなかった。
 たとい力の源である神々のバックアップが無かったとしても、東風谷早苗という少女はただそうせずにはいられない。人を救い、導く、神の巫女として生まれついたのだから。

――御二柱の声が聞こえなくたって、御二柱の力そのものが無くなるわけじゃない。声を聞かせてくださらないのは、きっと何か事情があるんだ。そうに決まってる!

 きっとそれは神々の事情。であれば早苗には知る由もない事情。
 仰ぎ信じるからこそ、早苗はそれを疑うことをしない。疑うなど考えるにも至らない。
 もとより、自らの奉ずる神を疑うその時とは、信仰が死んで落ちる時だけなのだから。

「神様の御力は、巫女である私の中に宿っています。だから大丈夫です。大丈夫ですよ。さあ、腕を診せてください」

 参拝客は少し逡巡するような、戸惑うような、なにか考え込むような一拍を置いてから、ただれた腕を差し出した。
 早苗が一歩前に出る。
 参拝客が身じろぎし、目深に被っていた頭巾を手に掛ける。
 早苗が一歩前に出る。
 頭巾が引き剥がされ、隠されていた参拝客の両腕が、表情が、露わになる。
 早苗の足が止まる。

「治して、くださるのですか。さっきも申し上げました通り、私の火傷は全身に及んでいるのです。それでも治してくださいますか……」

 言葉通り、その腕だけでなく、顔や、頭部、首周りから全身の肌という肌が酷くただれ、半ば以上は赤い肉すら露出しているのを、早苗は目にした。
 また……参拝客の嗄れ声から早苗は彼女を老婆と勝手に思っていたが、そうではなかった。火傷痕によって崩れてこそいるが、参拝客は早苗よりずっと幼い少女に見える。高温の煙によって喉をやられたのかもしれない。
 医者に匙を投げられるのも不思議ではない重症。いくらロープウェイがあるとはいえ、山の上まで自力で登ってきたことすら驚異的でさえある。
 もしこれだけの怪我を治せるとすれば、それはまさしく、神の奇跡と呼ばれるものだ。早苗の見開かれた瞳が、ゆっくり、ゆっくり、細まっていき、閉じる。また開かれる。翡翠を写した深緑の双眸。

――大丈夫。

 再び早苗が一歩を踏み出す。
 握る左手の爪が右の手首に食い込んで、じわりと血の滴が滲む。
 参拝客の少女の灰色の瞳は希望を失った澱みを浮かべて早苗を見つめていた。あくまで、柔らかな微笑みを浮かべる早苗を。

――大丈夫だ。

 ぼんやりと境内を掃き清めていたのが、今よりほんの十分たらず前のこと。
 その穏やかで退屈な時の流れは、けれど早苗には、もうはるか二百万由旬の彼方に思えた。

――大丈夫、大丈夫、大丈夫よ早苗! 私ならきちんとやれる! だってどんな時も神様はお見守りくださっている。例え声が聞こえなくったって、側にいるはずだもの!

 信仰心。早苗の胸に満ちる輝かしきアムリタ。
 ただれた火傷の腕に早苗は、そっと手をかざす。一子相伝の儀式は行わない。二柱の声が聞こえない以上、神との交信に意味もないだろう。
 しかし、であれば。早苗はいったいなにに依拠して奇跡を起こそうとしているのか。
 あらゆる信仰の実践に意味などない。あるいはそうなのだろうか?
 けれど彼女は、もう、いちいちそんなことを考えてもいなかった。

――神奈子様、諏訪子様、どうか御見守りください……!

 そよ風がおこり、火傷を負った少女を取り巻いていく。灰色の瞳がじっと早苗を見つめている。その瞳は確かに少女のそれに見える。見えるが……早苗はふと、灰色の濁った光の向こう側に、人らしからぬ妙な輝きが渦巻いているのを見た。
 先ほども胸のあたたかな領域の狭間に割り入ってきたあの、腐臭をおびた冷たい気配。これで二度目だ。瞬間、早苗の注意が僅かに逸れる。苦悶のうめき声がそこに重なった。

「あぁあっ……いたい、いたいっ……」

 我に帰った早苗の瞳が捉えたものは、今まさに、糸の寸断されて崩れ落ちていく浄瑠璃人形のような、少女の姿。
 その全身の火傷痕は癒えるどころかいっそう痛々しく焼け爛れている。
 なぜ? どうして?
 早苗の胸中に困惑の波が押し寄せてくる間にも、傷痕から吐き出され続ける赤黒い液体。血の入り混じった膿。風祝の顔色から血の気が引いていく。

「そんな、だ、大丈夫ですかっ!?」
「ああっいたいよ、いたいっ……この嘘吐きっ……! やっぱり神様は私を見捨てたんだ……いたい、いたいよお……いたいいたいいたいいたい……」

 失敗した? なぜ……いやそもそも、火傷が治らないどころか悪化するなんて、どうして?
 しかしその疑問にオラクルを与える神は、相変わらず沈黙を保っている。早苗は孤立無援だった。わかることは唯一つだけ……奇跡の業は使えない。
 それでも苦しみ喘ぐ少女を放置するわけにはいかない。パニックになりながらも早苗は、社務所にいくらかの薬剤を備蓄してあることを思い出す。祈りが届かない以上、頼れるものは素晴らしき人類のテクノロジーだけだ。

「す、すぐに薬を取ってきますから!」

 うずくまる少女に背を向け駆け出した早苗の足が、はたと止まる。

――え。

 痛みにあえぐ声が、いつの間にか止んでいた。
 風のように素早く早苗はまた少女の元へ駆け戻る。
 回復した? そうではなかった。境内中に聞こえそうなほど大きな音をたて、彼女の鼓動がドクリと跳ねる。

「うそ……」

 冗談みたいにあっという間の出来事。早苗の震える視線の先で、少女はもう呼吸をしていない。
 ただ全身の火傷痕から垂れ流され続ける血混じりの膿の流れだけが、履き清められた境内の石畳に染み込んでいく。
 早苗が咄嗟に腕を取ってみても、静まり返った風のそよぐ感触以外、もう、何も伝わってこない。

「なんで」

 提示される疑問符に枯れ葉の散る音が応える。
 そこに入り混じって、響く言の葉は。

――大丈夫。

 はっとして風祝は天を仰ぎ見る。天を……嘘のような青空を。そこには誰もいない。無辺の虚無が広がっている。
 その虚無が手を伸ばすようにまた、響く声。それは早苗のよく知る声。待ち望んだ神の声……のはずだ。

――大丈夫だよ。おまえが殺したわけじゃない。

 手を伸ばし、叫ぶ。救いを求めるように、一呼吸を求めて水面を目指すように、早苗は口を開け放ち、声を張り上げて、

「諏訪子様!? いらっしゃるのですか!? わ、わたしなにを、ど、どうしたら――」

 張り上げてから気がつく。そこにあるのはやはり虚無だ。そこに神はいないと。

――たしかに今のは諏訪子様の声だった。でも、諏訪子様の気配、感じない……どうなってるの。いったいなにが、諏訪子様、私……。

 もう託宣は聞こえない。
 呆然としてただ数秒か、数分か。早苗の体感ではおそろしく引き伸ばされた時間のようでもあったし、なれども一瞬のことのようでもあった。
 それからふと彼女は、横たわる少女の肢体に目を落とした。

「できること、しないと……人工呼吸……ううん、心臓マッサージ……」

 精神の許容量を超えて逆に冷静さが舞い戻ったのか、あるいは単に東風谷早苗という少女の強靭な精神力のなせる業か。
 「外の世界」の保健体育の授業で習った記憶を手繰り寄せながら、早苗は、少女の胸元に手を添え、全身の力を込める。
 肋骨が折れても死ぬよりはマシだと、筋肉でできた丸太みたいな見た目の体育教師が熱のこもった口調で話していた。そんな場面に遭遇するはずないと軽口を叩いていた同輩たち。早苗もその輪の中にいたが、そんな授業態度でも記憶には残るものなんだと、妙に人ごとのように感心する。
 両手の向こうから、ギシ、ギシ、ベキ、と肋骨の軋む音。たしか何かの音楽に合わせてやるのが良いと、そう習ったはず。しかしそれが何の曲であったか、早苗のシナプスは再現できなかった。もっとちゃんと聞いておけばよかったかなと、思いながら、ギシ、バキ、ギシ、メギと、単調な音、単調な感触、顎を汗がつたっていく。
 ふっと息を吐くと、束の間静寂が戻った。かと思うと、鼓膜を金属の棒で突き刺されるみたいな、強烈な耳鳴り。
 
「……つっ……はっ、はぁ……はっ、はっ……」

 耳鳴りに混じって聞こえる荒い吐息は、早苗自身のもの。
 額の汗を拭う。それからもう一度、少女の胸元に手を当てて、力を込めようとした。

「……はっ、はぁー、はぁーっ……だめよ、だめ、諦めちゃ……ここじゃ、医者も呼べないんだから……せめて息だけは……」

 指先が震える。汗がつたってやまない。力が入らない両手を、それでも風祝の少女は、全身の体重を使うようにして胸骨圧迫の作業を再開する。
 そして。
 鬼気迫る救命作業を続けるのに手一杯の彼女は、己の背後に音もなく降り立った黒い影に気が付かない。
 気が付かないから、影の方が声を出した。

「これはこれは、大変なものを見てしまいましたかね」
「誰!」

 振り返らず叫ぶ声に、影が応じる。

「この山にいくらでもいるつまらない妖怪の一匹です」
「え、あれ、射命丸さん……? そんな気配はちっとも……ううん、ちょうど良かった! 麓から医者を呼んできてください! この子、突然に倒れてしまって、呼吸も脈も」
「いやぁ無理でしょう」

 影は、かつかつかつかつと神経質な高下駄の音を響かせ歩み寄ると、早苗の汗ばんだ腕を鷲掴みにした。救命行為を中断された早苗が食ってかかる。

「なにするんですか!?」
「だってさ、その子もう死んでるじゃん」
「え……」

 食ってかかって……強張っていた目元が、するりと解ける。その腕を掴んでいる二つおさげの妖怪が、小首を傾げた。

「ね。とっくに死んでるでしょ?」
「あ、あなたは……あれ、射命丸さんだと……」

 早苗は先ほど確かに、山の鴉天狗・射命丸の声を聞いた気がした。しかし眼前にいるのは同じ鴉天狗でも、姫海棠の姓で知られる別の人物。
 射命丸の姿はどこにも見えない。気が動転していて聞き違えたのか。切羽詰まった早苗には気にする余裕もない。

「と……とにかく、お医者様を呼んでほしいんです」

 そして再び、息のない少女に目を向けた。
 激しい非難の声がそこに重なる。

「おい守矢の! 我々の盟友になんてことをしてくれたんだ!」

 ぎょっと早苗の身がこわばる。
 鴉天狗ではない。そこにいるのは……河童?

「え、にとりさ――」
「ここは人殺し神社だね」

 またしても別の声がした。震える翡翠色の瞳に映った水棲技師のだぼつくライトブルーな作業着が、丸みのある童顔の輪郭が、夜の湖に跳ねた波紋のように揺らいだかと思うと、さらなる似姿を映す。
 三脚を片手に持った彼女はまた天狗のように見えるが、先ほどの二人に比べても一層に威厳のある立姿をしている。
 その、ゆっくりゆっくり細まっていく蒼い星空のような二つの瞳。

「その少女はすでに息を引き取っている。とうに気づいているんでしょう? 救命措置なんかしても無駄よ」
「あなたは……山の大天狗……?」
「我々としてはね、」

 少なくとも大天狗・飯綱丸に見える女性はゆっくりと早苗に向けて、言葉を続ける。

「あなたたちを、守矢神社を受け入れたのは、こちらに益があったからにすぎない。山の神への信仰は、結局は我々への畏怖にもなるから」
「今は、そんな話……」
「けれども今、神の使徒たる風祝いの巫女が、罪のない参拝客の命を奪った。一昔前ならいざ知らず、これは山の立場全体が揺るがされる、大きな問題と言わざるを得ない」

 ちがう、奪ったわけじゃない。そう早苗が反論しようとして、飯綱丸が手で制する。

「あなたは神が不在と知りつつ儀式を行い、その失敗の帰結によって少女は命を落とした。これは事故かもしれない。しかしあなたの過失による事故なのだから、やはりあなたは、少女の命を奪った。あなたが殺したようなものだ。いや……あなたが殺したのよ。そのうえでまだなにか言いたことがあるのなら、慎重にね」

 早苗は口を噤む。飯綱丸の言葉は正論だった。それは彼女自身がいちばんよく理解していた。
 飯綱丸は頷き、ため息を短いては考え込む素振りを見せる。

「ふむ。しかしなぜ、神々はあなたに力を貸さなかったのか……風祝たるあなたは、言うなればあの二柱の第一の信徒。なぜそれを見限ったのか……」
「見限ってなどいません! なにか、事情が」
「どんな事情が?」
「それは……わ、私への試練です、きっと……」
「だとしても、そのためにいたいけな参拝客が死んでしまったのよ」

 今や亡骸となった少女を、飯綱丸が抱き抱える。
 くたりと力の抜けた四肢が垂れ下がるのを、早苗はじっと見つめるしかできない。

「かわいそうに。これだけの火傷では、山を上がってくるだけで地獄の苦しみだったでしょうに。そのうえ神様にまで見捨てられるなんてね」

 震える腕。早苗はまた、もう片方の手でそれを握り込む。滲んだ赤い血が石畳にしたたってゆく。

「なぜ神々は応えなかったのか、教えてあげましょうか」
「え」
「なぜ信徒を救うはずの神々があなたたちを助けなかったのか、教えてあげましょうか?」
「い、いえ……」

 早苗は確かに首を横に振ってはいたが、それはひどく弱々しく、飯綱丸の勢いは削がれない。むしろ力強く、確固たる口調で、彼女は続ける。

「簡単な話よ。つまりね、とどのつまり、神などという存在は欺瞞の産物だってことなのよ」
「なにを急に、そんな、なにを根拠に……」
「根拠は目の前にあるでしょう。根拠はそこにある。あなたの体験したこと。今ここに彼女らが現れないということそのものが証拠じゃない。どんな事情があるのか? それはまさに神のみぞ知る……ふふ、でもね、どんな事情があるにせよ、命を賭した信徒に応えない理由など神の側には無いでしょう。ならばなぜ? いったいなぜなのか?」
「でも」
「それはね」

 無風。
 風の神を奉る巫女と、風の妖である天狗の長の一人が今この場にいるというのに、境内にはそよ風一つも流れない。
 この神社だけが世界から切り離されているような感覚。早苗の両腕は泡立ってやまない。飯綱丸の言葉は途切れない。

「それは、やはり、神などこの世にいないという証左なのです。神であれば救えたはず。救わなかったのは、いや、救えなかったのは、あなたの崇めてきた存在が神ではなかったから……ただのそれだけなんですよ」
「ちがう!」
「いいえ事実ですよ。考えてもみたらいい。いったい神々と、我々妖怪変化と、なにが違うのです? 神風を起こす? 私だってできますよ。そもそも昔は、天狗だって神々の末席と言われた。が、今は妖怪です。信仰を失えば神も妖怪も変わりはしない。しかし……いったいそこの線引きはどこの誰がするのでしょうね?」
「それは」
「それは、結局のところは、あなたたち人間が恣意的に行うに過ぎないのです。願望によって。欲望によって。そう、あなたは……ただ妖怪変化のうちほんのちょっぴり人間に友好的な存在を、神と崇めているに過ぎないのですよ」
「神奈子様と諏訪子様は、妖怪とはちがう」
「善人……いや、善神だからですか? 善妖だからかな。あなた方のロジックと言えば、洋の東西を問わず似たり寄ったりだ。古代ギリシアの賢人プラトーンが想起した善なる創造主デミウルゴスは、世界に充つるイデアの何たるかを規定した。だがこの世には未だ尽きぬ悲劇と苦しみが充ちている。それこそ神の不在証明の輝かしき論拠の一枚目なのです。神様なんて偽りだってことの」
「あなたは……」

 後ずさり、石畳にこすりつけられた早苗の体重が、じゃり、と乾いた音を立てる。

「あなた……誰なんですか……」
「おや」

 飯綱丸の口元がすうっと三日月めいて弧を描く。その輪郭は夜の湖面に映ったように不確かだ。
 たしかに大天狗のようにも見える。なれども全く別の妖怪にも見える。時に唐傘の妖怪になり、時に鼠に、寅に、大百足になる。早苗の知る妖怪たちの、魑魅魍魎の醜悪なコラージュ。
 風祝の震える足がさらに半歩、後ろに下がった。

「あ、あなたは、飯綱丸さんじゃない。射命丸さんでも、他の天狗や河童のみなさんでもない! 誰でもない! 私の知ってるあの人たちは、そ、そんな酷いこと言ったりしない!」
「……だったら?」
「神様はいます」
「いませんよ。妖怪のちょっぴり高級なヴァージョンに過ぎない」
「神様は私が産まれた時からずっと見守ってきてくださった!」
「あなたの側にいたのは単なる信仰心を喰らう魔物に過ぎない」
「ちがう! 神奈子様は、諏訪子様は、ずっと私の側にいてくれる、私を守ってくれている! 魔物なんかじゃない!」
「ああそう……でもその割には全然来ないですよね。守ってくれているはずなのに、ちっともあなたを助けようとしない……あなたが少女を殺してしまうのさえ黙ってみていた……」
「う……」
「あはは……もしかして知りませんでした? いや、知らないなら教えてあげます。死んだんですよ、神様って。いまだ残ってるのは偽物だけなんです」
「……それは別の世界の話でしょ」
「西方の国の話? いやぁ同じですよ。だってそうじゃないですか。あなたの崇めた神様は、もう外の世界じゃ生きられないからここまで逃げてきたんでしょう。本物の神様ならそんな無様にはならない」
「か、神奈子様も、諏訪子様も、切支丹の神様みたいな万能の存在じゃないんです。失敗だってするし、上手くいかないこともある! あなたの言ってることは、あれなんです。あれ、あの、論点のすり替えで、」
「じゃなにをもって神と名乗ってるんです。堂々巡りですね、あなたと話すのは」
「それは……人間を……儚い私たちを、守って、そのために、」
「守る。あなたはそればっかりだ。しかしでは、この、火事で焼け死んだ少女はどうです? この子はなぜ守られなかったんですか? 痛む体を引きずってここまで来たのに! 信仰を示したのに! なぜ見捨てられたんですか?」
「それは……それは…………」
「ねえ、いい加減聞き分けましょうよ」

 もはやそれは、早苗に相対するそれは、蠢く不定形な人型の影としか形容できないものとなって、そっと耳元で囁いた。

「あなたも見捨てられたんですよ」

 もちろん。
 それはただのくだらない、取るに足らない、意味のない、つまらない、なんの力もない戯言なのだと、早苗は理解している
 嘘っぱちの、欺瞞に満ちた、相手を貶めるだけの、蔑みと嘲りに満ちた、馬鹿馬鹿しい、下賤で卑しい言いがかりに過ぎないと、早苗は理解できている。
 しかし理解とは、その実、ひどく願望に依拠した頼りの無いものだと、その時、早苗はふと理解した。
 よく似た感覚を知っている気がした。
 例えばそれは、信仰のような。

――神奈子様、諏訪子様、どうしてなにも応えてくださらないのですか……?

 早苗は神に向けて祈った。文字通り。
 実のところ彼女が本当の意味で神頼みをしたのは、これが初めてのことだった。
 頼むまでもなく、願うまでもなく、神様とはそこにいるものだったから。これまでは祈り願う必要なんて無かったから。

――わかってます。わかってるんですよ。こんな言葉に耳を貸す必要なんてないって! わかってるんですよ!? だからお願いします。お願いです。たった一言。たった一言でいいんです。そこにいるって、私を見守ってるよって、そう言ってください! そうしたらこんなのくだらない悪口だって、そんなの全然嘘ばっかだって、そう確信できるから、だから、声を聞かせてください! 神奈子様! 諏訪子様!

 そして、早苗は天を仰ぐ。
 
 神を仰ぐ。

 そうして。

 無言。

 膨大無辺な沈黙があった。神の声は返らなかった。

 はたして、その一瞬の後先でいったいなにが変化したのか。いったいなにが失われたのか。

 あるいはなにも、なにも変わってなどいないのかもしれない。

 しかし確かにその時に、ほんの刹那の風向きの間だけだとしても、東風谷早苗は神を疑った。
 三千世界を隔てた胡蝶の羽ばたく風のそよぎが現世に破滅をもたらすように、ただそれだけで、世界が変わるのには十分すぎる事だった。

「あは……」

 カオティックにぐしゃぐしゃ醜くブレていた影が、その像が、一つ所に結ばれる。
 薄ら笑みを浮かべる翡翠色の髪と瞳の少女がいた。東風谷早苗がそこにいた。
 愉悦の声が、一つ、転がる。

「勝った」

 そっくりな声。自分にそっくりな声に早苗・・は、己の気管を泥に塗れた手で鷲掴みにされたような悪寒に抱かれる。
 それからまた、百万匹の毒虫に両腕を這い回られているような感覚に目を落とす。
 悲鳴。
 分を上回るほど酒を飲みすぎた時と同じだった。両腕の輪郭がブレて、揺らいで、定まらない。ほつれていくようだ。ほどけていくようだ。おどけているようだ。悪い冗談、つまらないジョーク、益体のない冷笑話。
 両の足もまたぶれて、ずれて、くずれていく。もはや立っていられずに早苗は両膝から倒れ込む。横倒しになった視線の中で、自分を見下ろす自分の冷めた視線を仰ぎ見る。
 その視線だ。
 その途方もなく無感動な視線。
 それを見て、ようやく早苗は気がついた。自分が相対する者の正体。自分がいったい誰と話していたのか。

「あ、あなたは……あなたのようなものを、わ、私、知っている」
「うん」
 
 ずっと昔に、まだ幼かった時分に、聞いたことがあった。御伽噺代わりに神奈子様から聞かされた、この世を彷徨う魔物たちの話。
 例えば、アダムとイヴを唆した、エデンの毒蛇。
 例えば、世界を欺く他化自在天魔王波旬。釈迦牟尼尊者を堕落させんと這い寄った邪悪なる魔神マーラ。
 
「知ってる、知っているわ」

 それは餓鬼。悪鬼。悪魔と呼ばれる者。
 絶望に歪む早苗を見下ろした早苗がまた愉しげに笑う。だがそれも表情筋を見様見真似で動かしているのだろうと、早苗にはわかる。ただ笑いによってもたらされる攻撃性と心理効果を引き出すための、醜悪な取り繕い。

「そう、そう! ようやく気が付きましたか、私?」

 いうなればそれは、人の心を喰らう者。神への献身と信仰を喰らう者。
 太古の昔より猜疑と裏切りの影に潜み、利己と孤独の闇に身を窶す者。
 イスカリオテのユダを、政務官ブルートゥスを、惟任日向守を、また歴史書に名を残すことすらなく塵芥に消え去っていった数多の哀れな愚者たちを唆し続けてきた者。
 たしかにそういう者がいる・・ということは早苗も知っていた。知識では。しかしあくまで御伽噺。逢魔ヶ時に木桶と骨の足を鳴らして現れ子供を連れてさっていく、恐るべきバーバ・ヤーガと同じ程度の存在。
 いやしかし、早苗は知っている。御伽噺の妖怪は実在するのだと。神話に語られる神が実在するのと同じように。
 とはいえそれは、よしんばこの世に現れるにしても……闇夜に踊る妖怪たちとも違う、もっと恐ろしい、まさしく悪魔のように恐ろしい形相と気配を持ってやってくるのだろうと、呑気にも考えていた。
 そうではなかった。
 例えるなら隙間風のようなもの。隙間風に乗って入り込む病んだ空気のようなもの。
 気がつけばそこにいて、気がつけば手のつけようもないほどに、家中へ、広まっている。

「返して……」

 早苗は早苗の足首を今、かろうじて見ることが出来ている。だがやがてはその視界も闇にほつれる。
 光を取り戻そうにも開かれる目蓋がない。
 立ち上がろうにも立ち上がるための腕と足がない。
 両腕を、両足を返してと叫ぼうとしても、もう、叫ぶための肉体がない。

「それじゃさようなら、私」

 曙光のような闇が輝き全てを呑み込んでいった。


 ◯


 02:幕間


――東風谷早苗が神隠しにあった。

 その話を聞いて最初、博麗霊夢は冗談を言われてるのかと思った。

「神隠しって、あいつ神様に連れられてここに来たんじゃないの」

 淡白な返事に、伝令に来た鴉天狗が焦りながらも律儀にため息を吐き出す。

「絶対に言われると思ってた反応ありがとうございます! でもそうじゃないんですよ!」
「そもさ、神隠しならあんたら天狗の得意分野じゃない」
「八坂神奈子と洩矢諏訪子でも行方が掴めないんです」

 鴉天狗――射命丸の言葉の意味するところ。
 遅ればせながら(と言っても、相当に素早い理解ではあったが)霊夢の顔に深刻な影が宿った。
 同じ巫女だからこそ霊夢にはよく分かる。東風谷早苗はただの巫女とは違う。いや、あるいは、同じ「ただの巫女とは違う」巫女同士だからこそ、よく分かる。

「……早苗と、あの二柱の存在は、深いところで繋がり合っているのよ。もちろん四六時中居場所を捕捉してるってわけじゃないだろうけど……完全に行方がわからないなんて、考えにくい」

 たとえ、たとえ何かの間違いで早苗が命を落としていたとしても、神々にはその居場所がわかるだろう。もちろん霊夢はそんなことを口にしなかったが、射命丸の方でも同じ理解はしているらしい。

「お山はパニック状態です。今、飯綱丸様指揮下で上から下の大捜索を行っていますが……」
「神奈子と諏訪子はどうしてんの?」
「社に篭って早苗ちゃんの気を探っているとか」
「無駄かもしれない」
「やっぱり、そう思いますか」
「だから私のとこに来たんでしょ」

 射命丸が首肯するのを見て、霊夢は懐からお祓い棒を抜く。
 ぽつり、ぽつりと振り始める天の涙。神社に咲いた薄青い紫陽花に大粒の雫が叩きつけられては、流れ落ちていく。

「あの二柱の目が届かないとなると、理由は二つしかありません」
「早苗が自分の意思で隠れているか、あるいは……」
「神の目すら欺くほどの、強力な結界」
「今さら反抗期ってこともないでしょ。早苗は何らかの結界に囚われている。そういうことになるわね」
「だからあなたに頼みに来たんです。結界術の専門家であるあなたに。これ、結構大変なことなんですよ。山社会はプライドが高いので、私の独断専行です」
「一応聞いてあげるけど、ネタのため?」
「友達がいなくなったら心配でしょ」
「うん。で、目星はついてるの?」
「お山としては、全く。個人的には、少しだけ」
「話して」
「飛びながら話します。着いてきてくださいよ!」
「あっ! ちょっと!」

 水飛沫を散らして飛び去っていく射命丸の背中を、霊夢は慌てて追いかけた。
 天狗の足は速すぎる。それでも、霊夢は口に出しかけた文句を呑み込んで、強まる土砂降りの中、いっそうますます速度を上げた。

――友達がいなくなったら心配でしょ。

 そんなことは、言われるまでもない話だった。


 ◯


 03:似非救世神話と子守唄


「ちがうんです」

 誰もいない廊下の隅に、震え声の言い訳が儚く発された。

「ちがうんです、いやなわけじゃないんです」

 少女は、ただ少女は、天井に巣を張った恰幅の良い女郎蜘蛛が見下ろす中、両の目蓋をギュッと降ろし、神様への祈り言を吐き出し続けていた。
 
――ちがうんです、ちがうんです、ごめんなさい、おゆるしください、どうかおゆるしください……。

 廊下の隅っこに忘れ去られた物置がある。扉を閉めると、木造格子の嵌った小さな明かり取り窓を除いて一切の光源が失われてしまう。もしも懺悔室という言葉を彼女が知っていたのなら、そのように表現したかもしれない。しかし生憎とそうした仕事は、彼女の神々の領分ではなかった。
 ようは名付けの問題である。
 実際のところ確かにそこは、東風谷早苗という少女にとっての懺悔室だった。
 薄暗くて、埃っぽい、夏場だというのにいつも薄ら寒い空気の満ちた、寂しい空間。だがいつだって懺悔は苦しく、また、自罰的でなくてはならない……早苗は幼いながらも直感的にそれを理解していた。「神様」から逃げまわるような悪い自分には、相応の罰が必要なんだ、と。
 もっとも懺悔を聞く役はシスターではなく、いつからか物置の天井に住み着いている女郎蜘蛛の他には見当たらない。もっとも神に仕える身分は他ならぬ早苗自身であったが。
 そして女郎蜘蛛の方では、早苗がどれほど長い告白をしてみたところで、うんともすんとも答えない。狭い天井の角の空間にシャカシャカと動き回っては死の罠の拡張工事を継続し、拙い命を奪える時をただ待っている。
 そして、

「早苗っ!」

 稲妻のような怒声は、また神による託宣でもある。
 早苗はいっそう顔を青くして、息を殺して、縮こまってまたか細い息を吐く。
 ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ……と、木造の廊下を軋ませる足音。徐々に近づいてくる。薄壁一枚を挟んだ向こうに早苗は、紛れもない神の存在を感じていた。

――どうかおすぎさりくださいませ、どうかおみのがしくださいませ……。

 己というたった一人の民のために祈る巫女は涙を滲ませ、だが願いを聞き届ける神様は今まさに荒魂と化し、まさにその巫女を探しまわっている。早苗はもう生きた心地がしなかった。

「早苗! そうやって修行をサボってばかりいるといつか神通力を失って、私たちの声も聞こえなくなっちゃうよ! いつでも私たちが側にると思ったら、大間違いなんだからね! それでもいいの!」

 ちがうんです、ちがうんです、いいわけないんです、よくないんです、そうじゃないんです。
 いっそ飛び出して土下座し、そうやって泣きついてみることを想像して……自らの夢想に早苗は身を震わす。できるわけがない、そんなこと。
 だって。
 だって……神様は、私を御拾いくださった神様は、私に期待をかけてくださっている。
 それなのに! 言えるわけがない! 
 修行から逃げ出したのは、辛いからじゃなかった。いつだって御神々の崇高な御期待に報いられないこと。才能が無いこと。祈り、念じても、微動だにしない世界の頑健な現実と、弱っちい自分の神通力が情けなかったからだ――なんて。
 もっとも、実のところ、「神の目を逃れられること」つまり神に通じないことそれ自体が逆説的に早苗の神通力を示しているのだが、そのようなネガティブな才能もあるなど彼女には想像だにできなかった。
 加えて早苗は、まだ幼い。ちょうど前歯がぐらぐらし始めたばっかりだ。混乱する鬱屈した自我を表現するボキャブラリーも、ちょうどいいストレス発散の手段も、軽妙に使いこなすには彼女はまだまだ子供すぎた。よく言えば真面目だった。悪く言えば……

「はぁ、まったくあの子も頑固だねぇ。いつもいつもどこに隠れてるんだか」

 ひとりごち、呆れて嘆息する神様は悪いことにその場を動こうとしない。
 その間も早苗は自分の心臓が狂ったようにだくだく怯える音を聞いていた。その音があまりに大きいものだから、神様の聡い御耳に届いてしまうのではといっそうますます怖くなる。
 せめて恐怖から逃れようとなお固く瞳を閉ざす。だが、かえって、闇という闇が総出で早苗を押し潰そうとするばかりだった。
 恐怖は吐き気に変わり、鏡張りの箱に封ぜられた蝦蟇のごとくにじむ脂汗。

――とん、とその肩に何かが触れた。

「ひゃっ……」

 細い声が漏れ出た。
 ピタリ……歩き去ろうとしていた神様が再び立ち止まり、不審げに「早苗!? いるのかい! もういいから出ておいで!」と。「まさか、この奥の物置?」と……そのままゆっくりした足取りで近づいてくる。

――ああ、だめだ、みつかっちゃう……!

 早苗の恐怖と吐き気が頂点に達しかけたころ、もう一度、何者かの指先が肩を撫でた。
 恐る恐る振り返る。と、暗がりの中、肘から先、腕だけがひらひらと手を振っている。ぎょっとして見守る早苗をよそにその手は印を結ぶように踊り、木造の壁をすすすとなぞった。

 瞬間、どん詰まりのはずの物置にふわり、爽やかな初夏の風が吹き込んだ。

 まるで悪戯好きの神様が壁をカーテンに変えてしまったかのよう。硬くて冷たかったはずのそれが、明け方の風に押し開かれるように軽々開く。
 その先は、裏庭――早苗は目を丸くする。木々の隙間から差し込む木漏れ日と、狭き青空。入道雲の遥かな高み。
 超自然の神の業。もちろん早苗にそんなことはできない。呆然と外界を眺める彼女の視界いっぱいに――ひょこり、稲穂色の髪の少女が顔を出す。

「さーなえ。また神奈子に怒られてるのかい?」
「す、諏訪子さま!? だめです! 見つかっちゃいます!」
「あっはは。大丈夫、だいじょーぶ」

 慌てふためく早苗を、諏訪子の手がぐいと引っ張る。優しいが有無を言わさぬ手付きでもある。見た目は早苗とさして変わらない少女だというのに――怯える幼い体躯は軽々と床を離れ、カーテンを押し通るように、物置の外へと引っ張り出された。

「きゃっ」

 すわ、土の上に落っこちる! と焦るのも束の間で、優しいぬくもりが早苗のことを抱きとめた。
 恐る恐る顔を上げる。微笑む少女と――早苗の家族、早苗の崇める神様のうちの一柱、洩矢諏訪子と目が合った。

「いまのは……」

 早苗が振り返り見ても、もう、あの寒々しい物置の暗がりはどこにも見当たらない。カーテンのように揺らいでいたその空間はもう、元の通りそっけない、融通の効かないただの木の壁に戻っていた。明り取りの小窓からわずかに、不思議そうな神様の声が聞こえ……去っていった。

「ほら、もう大丈夫」

 そのまま裏庭を通り、早苗は縁側へと招かれる。にこりと微笑んだ諏訪子がトンと地を蹴り、蛙の飛び跳ねるように、軽やかに縁側へと飛び戻った。まだ湯気のたつ湯呑みを手に取ると、そのまま愉悦げに一服する。

「神奈子のやつ、今度はなにを怒ってたんだい?」
「神奈子さまのせいじゃないんです……」
「そうかいそうかい。じゃあ、なにがあったのかな?」

 諏訪子の声質は日向の大地のように優しく響く。どこまでも穏やかで、しかし胸をあつくする雄大さを併せ持っている。その声の波長は、いつだって早苗の心をあたたかく解きほぐしてくれる。
 一方で早苗は、怒った諏訪子が先ほど追ってきた神様――神奈子よりも遥かに恐ろしいことを知っている。幸いその怒りが自分に向けられたことは未だかつて無かったが、それでも諏訪子にものを尋ねられるたび、早苗はいい知れぬ緊張に口が乾く思いがした。
 財布の中からたった一枚の五円玉を探す時のように、賢明に自分の心の内側をまさぐって、おっかなびっくり口を開く。

「私がしゅぎょうを逃げ出したから……」
「そっか。どうして早苗は逃げたりしたの?」
「いや……だったから……」
「友だちと遊んだり、げえむ・・・をしたりできないで、修行に連れ出されることが?」
「それもあるけどぉ……」

 もじもじと言葉を濁す早苗に対して、諏訪子は促すでもなく、急かすでもなく、ただ瞳だけは逸らさずに、熱い茶をすする。それにしても、神様の御飲みになった食べ物や飲み物はどこへ行くのだろう……と、早苗にはいつでも不思議だった。

「神奈子さまは私のこと、すごいっておっしゃるんです」
「うん」
「でも私すごくないから」

 一つ、一つ、言葉を探しながら、なんとか「自分」を表現しようとする早苗を、諏訪子はじっと見守り続ける。愛娘を抱きとめるような瞳。一方で、ふらふらと飛ぶ蝶々を見つめる蛙のような瞳。
 ぎゅ、と早苗は服の裾を握りしめる。

「早苗がもっと良い子ならよかったのに」
「早苗は良い子じゃないのかい。ちゃんと自分で食べたお皿は洗えるし、朝寝坊だってしなくなった」
「そうじゃないんです。神奈子さまのおっしゃるとおりにできないんです。きせきの風を呼んだりできないし、カエルやヘビもこわいんです……」
「なるほどねぇ。神奈子のやつも何を焦ってるんだか」
「ちゃんと修行しないと、神奈子さまのこと見えなくなっちゃうって」
「そんなことないさ」
「でもぉ、ちゃんと修行しないと、こわいおばけにねらわれるって……」
「お化けねえ…………ま、たしかに早苗はかわいいからなぁ。食べちゃいたいくらいだもん」
「そーですかぁ……」
「そうとも。ほうら、おいで」

 とんとんと隣を示す諏訪子に促され、早苗もまた縁側に腰掛ける。茶葉の香りに意識をとられた少女の頭を、諏訪子の手が優しく撫でた。

「神奈子のことを嫌いになったかい」
「ううん」

 即答に諏訪子がからからと笑う。
 いったいなにが可笑しいのだろう、と首を傾げる早苗の前に差し出される菓子皿。
 やしょうま・・・・・だ! 
 早苗の表情に子供らしい喜色が蘇り、考えるよりも先に手が伸びる。怯える内にすっかり脳の糖分を使い尽くしていたらしい。鷲掴みにする指先にはみ出すもちりと柔らかな触感。練り込まれた胡麻の香りに堪えきれず口に放り込む。甘い味が口いっぱいに広がった。

「おいひいです!」
「早苗はやしょうまが好きだねぇ」
「諏訪子さまのあじがします」
「あっはは……そりゃどういう意味だい」
「あ、えっと、そういうふうに言いますよね? お母さんの味だって。私のお母さんはいないけど、でも諏訪子さまなので、諏訪子さまの味なんです」

 もじもじと顔を赤らめる早苗に対して、諏訪子が瞳を細める。それがどういう意味なのか……早苗がそれに気がつくことはなかった。「んあ」と間抜けな声と共に、少女は不快な味わいに口を歪める。

「……どうしたの?」
「は」
「え……」
「はが、すわこはま、はが」
「歯?」

 食べかけのやしょうま・・・・・でいっぱいの口をもごもごさせるながら早苗は、ぷ……と手元にそれを吐き出す。抜けた乳歯を。怯えたようにそれを見つめる早苗とは裏腹、大したことでもないとわかって安心したのか諏訪子がどっと息を吐く。

「おめでとう。初めてだったかな?」
「ふぁい」
「ちゃんと喋って」
「んぇえ……で、でもどうしましょう。はがぬけちゃいました」
「誰にでもあることさ。早苗も少し大人になったんだよ」
「おとな? 大人になるとどうしてがぬけるんでしょう?」
「どうしてって、人間の体はそういうふうに出来てるんだ。少しずつ子供の歯が生え変わっていくんだよ」
「でもぉ……わるくなったわけでもないのに。早苗のなのにぃ……」

 小さな手のひらに乗せられた小さな乳歯。それが喚起した早苗の感情は、祝辞を述べる諏訪子のような喜びというよりもむしろ、恐怖に近かった。
 子供の歯が抜けて、大人の歯になる。もちろん知識では知っていること。だがこうも唐突に自分の体の一部が抜け出ていった衝撃。それが伝播して、御神の表情までもが薄曇る。

「早苗、そう怯えなくてもいいんだよ。故いものは追い出され、新しいものに取って代わる。そういうものなのさ」

 慰めようとする諏訪子の言葉が一層に少女の顔色を暗くさせる。
 そのまま愚図り始める早苗には、自分の涙の理由がわからない。なぜ私は泣いてるの。なぜこんなに悲しいの?
 ただ少なくとも、初に早苗が抱いた感情は、悲しみよりもむしろ……漠然とした、恐れ。そしてその原因はきっと、諏訪子の何気ない一言にあった。
 
――故いものは追い出され、新しいものに取って代わる。そういうものなのさ。

 リフレイン。
 長い年月を生きてきた諏訪子にとってそれは、身に染み付いたただの常識。ありふれた世界の理だったのかもしれない。
 それでも早苗は、早苗には、その感覚は……とても新鮮でみずみずしい恐怖を呼び覚ますものだった。
 故い歯が抜け、新しい歯が生えてくる。

――早苗の歯だったのに。

 故いもの。早苗は新しいものより故いもののほうが好きだった。
 特に彼女が世界で一番大好きで大切な二つの存在は、やはり早苗の知る他の何よりも故く旧く太古の偉大な世界から来たものなのだから。

「じゃあ……」

 おそるおそる早苗は、故い故い神様に向けて尋ねる。

「諏訪子さまも、いなくなっちゃうんですか……」
「あはは……こりゃ失言だったかな。怖がらせるつもりはなかったんだけどね」

 諏訪子の細い指先が、早苗の髪を優しく梳いていく。
 いつの間に響き始めた蛙たちの声。
 青空の向こうから広がり始める茜色。

「ねえ、早苗。どうして私たち神様が、神様でいられると思う……」
「それは、諏訪子さまや、神奈子さまのこと、みんなが信じてるからだって、前に」
「うん、それは正しい。ちゃんとおぼえていて、えらいね」
「えへへ……」
「でもそれだけじゃないのさ。それだけじゃ足りない。篤く信仰を集めるだけじゃあ神にはなれない。畏怖だけなら妖怪でも集められる。恐怖と束縛だって盲信を呼べる。そんなのは、神よりむしろ人間の領分だ。でもそれだけじゃあ、神様とは呼べない」

 諏訪子が夕暮れた天を仰ぐ。蛇のように鋭くなった瞳の先を、早苗もまた見上げたが、数羽の鴉が山へ向け飛び去っていくだけだった。

「うん、そうだ……たとい世界のすべてがそれを神と認めても、姫川の砂粒よりも大勢の信徒が神と崇めても、神風を起こし、大地の形を変え、天地創造と宇宙開闢の理を唱えても……やっぱりそいつぁ、神じゃない。その時点じゃまだ、ただの化けもんでしかない。どうしてか、わかるかい」
「えっと……」
「あはは、ごめんごめん。ちょっと難しかったね。そんな一生懸命考えなくっていいんだよ」

 崇め奉る神の託宣をいっしょうけんめに咀嚼する早苗を、その土着神の頂点はそっと抱きしめる。和霊の暖かさに風祝の少女もまた両目をとろんと細めさせた。

「私たちが神様でいられるのは、おまえがいてくれるからなんだよ」
「わたしが……」

 神様とかくれんぼをした疲労がいまさらやって来たのか、その表情は半ば睡魔に呑まれかけている。
 この世でもっとも穏やかな魔。
 それに包まれていく遠い遠い自分の子孫を、諏訪子は慈愛の眼差しでもって、見守っている。

「守ってくれと、救ってくれと願われるから、神になるんじゃない」
「すわこさまぁ……」
「誰かを守りたい、救いたいと願うから、神でいられるんだよ」
「んん……あったかい……」
「早苗もよおく憶えておいで。だっておまえは……おまえもまた、現人神なのだから。たとい私たちがいなくったって……神奈子が言うみたいに、私たちの言葉が聞こえなくなっちゃったとしても……なんにも心配はいらない。神様に願うより、神様神様と誰かに願われるより……誰かを守りたいと、救いたいと願う気持ちこそが、いつだっておまえの力になってくれるんだ。ゆめゆめ忘れてはいけないよ」
「はぁい……」
「ふふ……早苗は優しい子だから、きっと大丈夫さ。おやすみ」
「おやすみ……なさぁ……い……」

 瞳を閉じる。あたたかな闇がある。
 ここは世界で一番安全な場所。きっとそうなのだろう、と、早苗は瞳を閉じる。世界の悪意など何も知らないまま、眠りに落ちていく。
 蛙の遊ぶ声だけが、聞こえていた。


 ◯


 04:幕間・続


「それで! どこへ向かってるの!?」

 横殴りの雨に打たれながら霊夢が叫ぶ。先導する射命丸は振り返らず、雷鳴にかき消されぬようやはり力強く叫び返した。

「先日の! 人間の郷でおきた火災! ご存知ですよね!」

 思っても見なかった言葉に霊夢が面食らう。鴉天狗の速度で飛んできたおかげでもう人郷は目前だ。突然の驟雨に右往左往する人々の姿が小さく見える。

「それって長屋から出火したやつ!?」
「ええ! 幸い広がり切る前に消し止められましたが! 誰が最初に駆けつけたか、知ってましたか!」
「火消しの人たちじゃないの!」
「守谷神社ですよ! 東風谷早苗です!」
「そうだったの?」

 人郷上空。宙空で静止した射命丸に霊夢が追いつく。鴉天狗の呆れた瞳がそちらに向いた。

「あやや。やっぱり知らなかったんですか? 競合他社でしょ」
「べつに。他社は他社よ」
「……まあ、それ自体はいいですよ。そりゃ信仰集めのパフォーマンスという面もあるでしょうが、慈善活動を腐すようなタイプの記事なんて、記者の美学に悖るというものです。そんなのは最低の人気取りですよ!」
「あんたの美学の話は後でいくらでも聞いてあげるから、それより早苗の神隠しと火事と、なんの関係が? なにか問題があったの?」
「守矢神社の対応は素早かったです。が、残念なことに完璧とはいきませんでした」
「それって」
「彼女たちのせいじゃありません。古い長屋だったみたいで、火の回りが速かったんです。駆けつけた時には既に、というやつで」
「犠牲者が出たのね」
「ええ、まあ」

 驟雨の降り注ぐ先、二人は目を落とす。
 表通りから細い路地に入り込んで、その先に広がる痛ましい火災の傷痕。焼け落ちた長屋の残骸がまだ片付けられずに残っていた。
 その立地からみて、もし早苗たちが迅速に消火していなければ更なる被害が出ていただろう――防災については素人の霊夢が見た限りでも、そうとわかる。射命丸もまた、霊夢の考えを読み取ったように首肯した。

「もちろん早苗ちゃんに瑕疵はないでしょう。でも、本人はそうと思わなかったかもしれない」
「ありうる」
「亡くなったのは一人だけです。まだ小さい女の子だったみたいで」
「自責の念……」
「それは心の弱みにつながります。そして彼女は山の神の寵愛を受けている。信仰に篤い人間はある種の存在にとって最上級の魂となる」

 射命丸の言わんとすることを霊夢もまた理解する。
 まだ幼い頃、修行の隙間に紫から聞いたことがあった。

「猜疑と裏切りの影に潜み、利己と孤独の闇に身を窶す者たち……」
「我々天狗もルーツの一つを辿っていけば、天魔波旬と呼ばれた極めて強大な虚無の魔物に行き着く……とされています。人間が大昔は猿だった、というレベルの話ですが」
「虚無か」
「こじつけかも知れません。でも、あの八坂神奈子と洩矢諏訪子ほどの存在に悟られることなく、早苗ちゃんを神隠しにしてしまえる相手です。無論幻想郷ここにはそのレベルのお偉方も居ないではないですが……彼女たちにはそんなことをする理由がない」
「そんな事するやつがいたら、とっくにぶっ飛ばしてるわ」
「ええ。しかし虚無とは、幻想郷にも外の世界にも、いいえ、どこにも存在しない存在・・・・・・・・・・・。だからこそ連中はどこからでも忍び寄ってくる。そして連中に目をつけられた者は――どこにも存在しなくなる」
「……ありうる」
「霊夢さんも、目をつけられたことがあるのでは?」
「さあね。妖怪なんて年がら年中寄ってくるんだから、何回か妖怪ですらない・・・・・ものが混じってたとして、気がつきゃしないわ。それよりも、早苗を」
「ええ」

 焼け跡に降り立つと、炭化した木材が霊夢の靴の下で虚しい音をたてた。
 しとど雨に降られて今はもう、残火の煙さえ消え去っている。
 もちろんこの場所に何か具体的な手がかりがあるとは、霊夢も思っていない。
 それでも、例えそれが虚無と呼ばれるものであっても――あるいはだからこそ――神隠しなど大掛かりなことを行って、なんらの痕跡も残さないことは不可能である。そのはずだ。

「なにか、わかりますか」
「……わからない。ここには早苗の痕跡も、それ以外の痕跡もなにも無い。ただの焼け跡でしかない」
「じゃあ――」
「でも」

 霊夢がかざしたお祓い棒がはためき、白い波の痕跡を残しているのは、ただ、吹き荒ぶ雨風のせいでしかない。
 それでも彼女は静かな確信を秘めた目でもって、射命丸を振り向いた。

「ここにはなにかがある。見落としてはいけないなにか……」
「……それは、勘ですか?」
「勘よ」
「博麗の巫女としての勘ですね」
「さあね。友達としての勘かも」
「……まあいいでしょう。私、皆を呼んできます。頭数は多い方がいいから」
「ちょっとあくまで勘だって……行きやがった」

 取り残された霊夢は、遠ざかっていく天狗の背中を諦めたように一瞥すると、焼け跡へと向き直る。
 すうぅと息を吸い込み、震える手を抑え、またゆっくりと、吐き出した。


 ◯


 05:ナシング・ゼア


 落ちていく。
 ただ落ちていく感覚だけを東風谷早苗は知覚している。
 とはいえ、普通の落下につきもののあの轟々という風を切る音、無重力にざわめく臓器の感触が無い。
 それならなぜ落ちていくとわかるのか……早苗の世界には今、上もなく、下もなく、右も左もなかった。故に彼女の三半規管が安定を得ることが出来ず「落ちていく」と知覚していた……のかもしれない。

 そんなことを考える余裕は彼女になかった。

 落ちていく。ただただ落ちていく。早苗にはどうすることもできない。真夜中の時化た海に飛び込んだらこんな感じかな、とぼんやり思いながら、永遠に続く落下の感覚に身を任せていた。
 その無気力は、落下のせいだけではない。
 世界は暗黒。未来は真っ暗。

――私は神様を疑った。これはきっと、その罰なんだ。

 無間地獄に堕ちた者はまず二千年間只管に落下し続けるという。であればきっと、ここは無間に続くその縦穴だろう。
 自らの運命と命運の尽きたるを受け入れようと早苗は目蓋を降ろそうとするが、やはりその目蓋がない。
 ただ、ただ、落ちていく。それがあと二千年間も続く。虚無と絶望が最後に残っていた心さえ呑み込もうと忍び寄っていた。彼奴らに抵抗する力はしかし、早苗にはもう残されていない。

「地を足につけよ。若いの」

 声が響いた。聞き覚えのある声だった。悠々余裕に満ちた声。しかし一方で妙に空疎で無感情な声。
 その声が再度、早苗に呼びかける。

「此処では想像が現実に先んずる。幻想はお主らの領分であろう? さあ足を地につけよ!」

 全くもって意味不明な指示だが、早苗の魂に残された生命力と希望の力がたちまち凝集し、その指示を解釈しようと焔を燃やす。
 地に足をつけよ。しかし地につける足がない。だが声は、想像が現実に先んずるとも言っている。

「願え!」

 だからその通りにした。両足が柔らかな闇を踏みしめた。
 ぐらり、重力をおぼえて半身が傾く。両腕が両脚を貫通し、270度近い回転運動を取った。

――いやっ! 私の身体はこんなぐにゃぐにゃじゃない!

 生理的嫌悪感から早苗が咄嗟に願うと上半身も安定した。相変わらず世界は真っ暗だが、パチンと指が鳴り、されかうべの山がいびつな月光に照らされている。
 その人骨――否、明らかに人ならざる骨も多数混じっていた――の山に腰掛けていた人物が、ゆるりと早苗に向かって微笑んだ。

「急拵えにしては上出来だ。ちょいと不格好だが……いや、よかろう。さすがは幻想郷の住人だな」
「ぶあ……た……な……み!」
「あっはは! 声が出とらんぞ。言ったろう、此処では想像が現実に先んずる。まったく脳みそという器官は便利なもんじゃのぉ、日狭美。斯様に想像力に乏しい者でも何ら問題なく歩き、話し、生きて、死んでゆける……」
「似姿を急造できただけ優秀だと思いますわ。普通は存在が散逸してそれっきりですもの。もちろん残無様ほどではございませんが」
「うむ。儂は初めっからこの姿を取れたからな」
「素敵ですわ」
「ぼも……ば……あ……あお……あの……!」
「おお! なかなかに筋がいい。もう適応しおった」
「ええ、まったく素敵ですわ。やっぱり残無様ほどではございませんが」

 置いてけぼりにされて口をとがらせながらも早苗は、眼前の二人についての記憶をなんとか呼び起こす。
 ドクロの山に腰掛けている小柄な人物は、日白残無。地獄に住む鬼だったはず。もう片方、するりと背の高い女性は、豫母都日狭美という曰く形容しがたい得体のしれぬ残無の部下だ。
 睨めつける早苗の不機嫌な視線に気がついたのか、残無はひとしきりからからと笑って、その瞳を細めた。

「おまえ、此処が何処だか知っておるのか?」
「……あなたが居るということは、地獄でしょう」
「だとさ」

 目配せされた日狭美が「呑気なものですね」と肩をすくめる。
 早苗にはわけがわからなかったが、まったく馬鹿にされていることだけは理解できた。

「ここは儂の個人的な箱庭じゃ。と言っても、間借りしとるだけだが」
「私は死んだんですか」
「どう思う?」
「私は……」

 瞬間、早苗の魂が過去に引きずり込まれる。なんてことのない昼下がり、奇妙な参拝客、火傷の少女、そして飯綱丸に化けた――

「……虚無」
「それよ。よく憶えておるではないか」

 出来の良い生徒を褒め称える老教師のような、残無の柔らかな目元。しかし薄く開かれた口元からは酷薄なほど鋭利な牙が覗いている。
 またその様を、日狭美は実に愉快げに眺めていた。目元を隠す髪飾りのせいで早苗からは伺い知れないが、日狭美の瞳には先程から日白残無しか映っていない。

「おまえさんは虚無に食われた」
「そ、それはつまり……あなたの仕業ってことですか」
「あんなのと一緒くたにしてもらっちゃ困るなぁ。ちなみにここは虚無のはらわた。場所に非ざる場所。何処にも在らざる処……地獄にさえも見捨て果てられた金輪際の際の際……」
「わ、私は死んだわけではないんですか!? 私を幻想郷に帰してください! 神奈子様と諏訪子様に謝らないと!」
「だとさ」
「呑気なものですね」
「っ……いい加減にしてください!」

 声を荒らげた早苗が二人に詰め寄る。
 べしゃっ。水っぽい音。残無の瞳がすっと横にそれる。早苗もまたそちらに目をやった。
 溶けたゴムのようにでろりと融解した右腕が、振りかざした衝撃のまま数メートル先に転がっていた。

「え……」
「あらら。やっぱり残無様のようにはいきませんねぇ」

 痛みはない。どころか、早苗が動かそうと思うに合わせ、その歪に伸びきった腕がもぞもぞと蠢めいていた。
 恐怖よりも困惑に硬直する早苗に残無はため息一つ吐き出して、人骨の山からゆるり立ち上がる。

「時間が無いか。ちと無駄話に興じすぎたな」
「そこもまた素敵ですわ」
「私になにをしたんですか……」
「なんにも。ここはそういう場所なんでな。水が低きに流れるように、『有る』は『無い』へと流れ出す。べつに理解できなくても構わん。が、人の尺度で言ってあと数分で、その仮初の肉体も無に還るだろう」
「そん……な……わたし、どうすれば」
「そう辛気臭い顔をするな。おまえさんはまだ死んじゃおらん。肉体を虚無に奪われただけだ。覚えがあるだろう」
「……はい」
「そんなら難しい話じゃない。奪われたなら、奪い返せばよい」
「な、なにか方法があるんですか? お願いします! 教えてください! 私、神奈子様と諏訪子様のところへ帰りたい。信仰に疑いを持ってしまったこと……ちゃんと謝りたいんです!」

 食って掛かる早苗の勢いにまた残無が、髑髏を転がすような笑い声をたてる。その小刻みに震える肩を日狭美は愛おしげに見つめ、やはり早苗には目もくれない。

「方法など無い」
「っ……」
「だが道はある。たといその先になにがあろうとも人は、ただ己の道に沿ってのみ進むことを許されている。くっくっく……聞こえていないのか? 先程からずっとおまえさんを呼ぶ声がするだろうに」

 そう言われて早苗は耳を澄ましてみるが、この空間では自分の息遣いさえ聞こえてこない。残無が口を閉じ、完全な無音。
 焦燥が胸を焦がしていく処、残無の叱責が飛んだ。

「誰が音を聞けなどと言うたか! おまえさん、一応神様んとこで修行しとるんじゃろ。さぼってんじゃないの?」
「そ、そんなことありません!」

 確かにこの頃はサボリ気味だったかもしれない……などと真面目な悔恨に囚われつつも、早苗は再び目をつむる。
 言われてみればなるほど、こんな突拍子もない空間である。耳などいくら澄ましても意味は無さそうだ。

――そういえば神奈子様に昔、怒られたな。修行をサボってると神様が見えなくなっちゃうって……その通りになっちゃったな……。

 耳を澄ますよりも、意識を研ぎ澄ますこと。
 早苗はまだ幻想郷に来る前の、神奈子からつけられた修行のことを思い出していた。
 暗く狭い修行用の社が幼い時分には大嫌いだったが、今ではそれも懐かしく思える……。

――神に通ずるは目のみに非ず、耳のみに非ず、口のみに非ず。信仰とは心の所作。身を捨てて神を思うこと。心を尽くし神を思うこと。然れど思うを思わざること。ここに身犠と心技の一体をもって神儀と為し、これをもって三心三技の一体を成し、即ち現にあって人、神と生る秘術なり……。

 故くより伝わる呪文グレイソーマタージを心中で唱え唱えるほどに早苗の意識は深く底へと降りていく。そこには残無も日狭美もなく、虚無の中にあってさらに早苗は無心の中へと降りていく。

「ほぉー。やはり筋がいいな」
「残無様ほどではございませんわ」
「おまえそればっかじゃのぅ」

 残無たちの茶化す声も聞こえなくなる。
 早苗の心から彼女自身の意識も失せる。
 そして――東風谷早苗という存在もまた、消え失せる。存在の根拠たる心の質量が零となったためだが、それを知覚するための心も既に無い。
 残された残無はただ苦笑混じりに骨の玉座に腰を下ろすと、日狭美に向けて疲労の滲む視線を投げかけた。

「礼も言わずに行きおったわ。まったく若い。若いなぁ。憎たらしいほど若く眩しい」
「あら、残無様もまだまだお若いでしょう。知った顔が虚無に呑まれたことを察するや、存在が零に散逸する前に助けに来た……私、惚れ直してしまいました」
「うむ。儂は優しいからな」
「ええ、知っていますとも。優しいから鬼に成られた」
「うむ」
「遍く衆生を救うなどと傲慢を叶えるために、自ら鬼と成るを選ばれた……素敵ですわ。本当に素敵ですわ」
「ふふ……まったく、褒めておるのやら馬鹿にしとるのやら……ふふふ……」

 その時の残無の表情は愉悦とも達観とも取りうるニヒルな色合いを宿していた。
 が、その笑い声もやがて消える。
 後にはなにも残らない。
 ただ無限の虚無と無辺の暗黒が広がっているのみだった。


 ◯


 06:プルガトリオ


 漆黒の曇天。
 真夜中に舞い上がる、炎。
 曲がりくねった蛇のように細い路地の向こうで燃え盛る紅蓮色のうねりと熱波が、早苗の意識を急速に確かなものとさせていく。

「あ、あれ……」

 先ほどまで誰かと話していたはずだが、記憶にもやがかったように判然としない。
 立ち尽くす彼女の横を、郷の人々が大声を上げながら駆けていく。

「奥は長屋だろ!? 全員避難したのか!」
「原因はなんだ!」
「誰か火消しを呼べ! このままじゃ燃え移るぞ! 周辺住人も避難させるんだ馬鹿野郎!」

 口々に飛び交う罵声怒声が交錯入り混じって判然としない。
 そこは色とりどりのカオスの場。
 体格の良い者たちが木桶に水を満載して次々運んでくるが、どうにも路地が狭すぎるのか、押し合いへし合いを続けている。
 その近くでは煤けた複数人の集まり――避難した住人たちだろう――が、互いの無事を喜び合い、家財の焼けるのを嘆き、出火元についてあることないことを議論している。

――この光景、私、見たことがある。

 いっそ憧憬にも似た記憶の濁り気に早苗が薄く顔をしかめた。
 ちょうど、その時。
 つんざく悲鳴が大喧騒の火災現場を引き裂いた。

「姪っ子が! 姪っ子がまだ中に……私、わた、自分の子供たちのことで、あ、あ、頭がいっぱいで! ごめんなさい姉さんっ……ねえさあっ……」

 慟哭に胸を打たれる暇もない。めいめい危機意識とアドレナリンによって行動力の矢印の剣山のようであった現場に、波紋のように、津波のように、広がってゆく。恐怖が。

「まだ誰かいると」
「なんで皆気が付かなかったんだ」
「誰か助けに入れねえのか!? まだ女の子がいるらしい!」
「無理だよ! 先に煙にまかれて死んじまう!」
「くそっ……神も仏も無えのかよ!」
「馬鹿言うな! いま守矢神社んとこの巫女様が来てくれてるそうだ、それまでなんとか持ち堪えてくれりゃ」
「持ち堪えるったって……」

 ダメだ。それでは間に合わない。記憶の連続性は途切れているにも関わらず、早苗は直感する。
 頼もしい神風を携えた風祝が着く頃のは、きっと、全ての悲劇が済んだ後。助けの手を掴むこと叶わず、その女の子はもうじきに死ぬ。炎にまかれ、命から切り離された黒焦げの炭の塊となって、死に至る。
 そんな残酷な冷静さが早苗の心中にじわりと広がる。

 あるいはそれが普通なのかもしれない。

 酷薄な運命を所与のものとして受け入れること。
 それが普通の人間なのかもしれない。
 普通の、善良で罪のない、その冷静さを……けれども早苗は、受け容れることはできなかった。それを良しとしてしまえたら、自分は自分をひどく憎しむだろうと、理解した。

 それは……普通ではないのかもしれない。

 傲慢。驕り。善人気取りの不遜な態度。
 あるいはそうなのかもしれない。
 思い上がり。思慮浅薄。耳に障らぬ綺麗事。
 あるいは、そう詰られてもしかたないのかもしれない。
 それでも、早苗は。

――聞こえる。

 神に通ずるは、目のみにあらず、耳のみにあらず、口のみにあらず。だがそれは、人に通ずる時も同じことだ。

――聞こえるんだもの。

 人々の喧騒。炎と酸素の破滅的なデュエット。焼け落ちる梁と柱のメキメキと崩れ落ちる悲鳴。
 その中にあっては消え入りそうなほど頼りない声音。
 
――たすけて。

 いったいその声を聞くためにどれほどの神通力が必要なのだろう?
 途方もない神に通じる長い長い修業の果てに得られる境地なのかも知れない。あるいは、この場の誰もがその声を聞くことができるのかも知れない。
 早苗にはわからない。他の人々がどうであるかなど。
 わかるのは、自分のことだけだ。自分にはその声が聞こえるということだけ。助けを求める声が聞こえたという、事実だけがある。

――たすけて、かみさま……。

 震える息を吐き出して、早苗は、強張る右腕を逆の手で強く、強く、抑えつける。
 怖くないわけではない。逃げ出したくないわけではない。他の人々がどうであるかなどわからない。わかるのは、恐怖に吐き気すら催す自分の肉体と魂のことだけだ。
 それでも、また、息を吸い込み、吐き出し、消火のために集められた水をたっぷり溜めた木桶の一つをつかみ、ひったくる。

「すみません! 借ります!」
「あっおい!」

 大人の男でも運ぶのに苦心するほどたっぷりのジハイドロゲンモノオキサイドがちゃぷちゃぷと揺れる木桶を早苗は、渾身の膂力で持ち上げると、灰の浮かんだなまぬるい内容物を頭からかぶる。そのまま勇み足に飛び出そうとして、慌てて立ち止まってつんのめり、愛用の蛙と蛇のイラストされたハンカチを別の桶に素早く浸してから、口元を覆った。

「え……あんたなにする気だい……」

 付近の者らが呆気に取られているうちに、今度こそ早苗は弾かれたように燃え盛る路地の奥へと駆け出した。
 その姿が灼熱の陽炎にするりと消えてから、人々はようやく我を取り戻し、互いに顔を見つめ合わせる。

「……今の、守矢の巫女さんじゃなかった?」
「馬鹿言え! 巫女様が身一つで突っ込んでくもんか。しかし止める間もなかったがあの子……大丈夫なのか……?」

 あるいは真夜中の獄炎が揺らめく最中に見えた蜃気楼だったのかも知れぬ、と、人々はすぐにまた当座の問題に関心を戻していった。命知らずのことなど気にする暇は無かった。兎にも角にも、周囲の家屋に燃え広がらぬよう手を講じなければならなかったから。

 しかし。

 無論炎の渦中へ飛び込んだ早苗は幻覚などでは無かったし、早苗自身にとっては尚の事、迫りくる灼熱と崩壊間際の木造長屋は現実だった。
 荒れ狂う紅色の悪鬼。その舌先が代わる代わる早苗に殺到するのを、彼女はみを低くして駆け抜けていく。当然、生身の人間なら即座に炎に呑まれて進むどころでは無かったろう。水など被ったところで焼け石に水の少々上等な版に過ぎない。
 それでも進めるのは、炎の波を縫うようにして早苗が火達磨にならずに済んでいるのは、やはり神の加護に他ならない。

――神奈子様と諏訪子様の声、やっぱり聞こえない。どこにもいない。世界から御二柱が消えてしまったみたい。

 故に今の早苗に残されているものは、東風谷早苗自身の加護。神風を起こし、大地の形を変え、天地創造と宇宙開闢の理にさえ匹敵する偉大なる二柱の力と比べればまったく話にもならない、弱々しい神の加護。
 それでも全身全霊でもって風の流れを繰り、自身の周囲に空気の層を作って灼熱の舌を退けることで、早苗は黒焦げになることを免れていた。空気製の即席防護服。しかしそれもいつまで保つか、という間に合わせの奇跡の類でしかない。

「どこですか! 逃げ遅れた方がいると! 助けに来ました!」

 取り残された少女の名前を聞いておけばよかったと、歯噛みしても既に遅い。そんな初歩的なことも今の早苗にはままならない。そもそも早苗は、早苗の仕える神々は救済の専門家ではあっても、救助活動の専門家ではない。
 火の手に突っ込む前に水を被ってみたのだって神の御託宣ではなく、幼い頃に見たアニメでやっていた方法だ。ハンカチを巻いて来たのも同じく。しかしそれもどれほど効果があるものか、彼女にはわからない。
 とどのつまり早苗の使える物は今、彼女自身の過去と経験が大半を占めていた。もっとも大半の人間はそのようにして生きている。だからこそ、燃え盛る家屋に飛び込んで哀れな少女を救ったりはしない。それは人の身に余る行為。神の領分なのだから。

「どこにいるの!? 返事を! 今、助けに行きますから! お願い、返事をして!」

 あまり叫ぶと灼熱の空気をもろに吸い込むから、どうしても抑えた声量にならざるを得ない。さらには空気の防護服も有限、呼びかけるほどに新鮮な空気は失われていく一方。
 加えて視界を常に遮る死神の吐息のような暗黒の煙。
 早苗は風の流れを作ってなんとか道を拓いてはいる。が、海を割る奇跡のようにはとてもならない。残骸に蹴躓いて炎の海に倒れ込まぬよう微かな進路を確保するのが今の彼女には限界だった。
 そしてまた、メキメキと音をたてて屋根の一角が崩れていく。二階にも火の手は回っているのだろう。時間がない。建物全体が倒壊するのも時間の問題に見えた。

――ダメだ、ダメ、このまま一部屋ずつ回ってたら間に合わない。でもどうすれば、どうすれば……。

 無力。人の身のなんと無力なものだろう。早苗は痛いほど思い知った。同時にまた、神々のなんと偉大なることだったろう、とも。
 立ち止まる余裕はないが、行く宛もない。足を止めればたちまち煉獄の焔と有毒の黒煙が彼女を喰らわんと迫る。
 外から見るとさして広く見えない長屋だが、大小多数の部屋と二階建ての構造、更には黒煙も相まって中はほとんど迷宮さながらだ。
 どっちへ行けばいい? 上を探すべきかどうか。空気の防護服の消耗を顧みずに呼びかけ続けるべきだろうか?
 選択肢は無数無限にある。このままでは焼死体がもう一つ増えるだけ。
 焦りが広がっていく。
 最初に被った水分はとっくに干上がって、頼りない空気の層を容易く貫通した灼熱が早苗の身を生殺しに炙り続けている。滝のような汗が流れ落ちて止まらない。

「ちがう……」

 肩で息をしながら、霞む目元を拭う。水分を奪われてひび割れた唇が、うわ言のような――されど、力強い声を、紡いで。

「音を聞いちゃ、ダメだ。残無さんも言ってた。私だって、知ってるはず。神は、目で見ない。耳で聞かない。口で言わない……神は……」

 目蓋を降ろす必要は無かった。どうせなにも見えやしない。
 そして耳を澄ます代わりに早苗は、心を、心の感応領域を押し広げていく。自らを押し広げていく。それはある種の傲慢な独善性が必要な御業。そんなことをしたのは初めてだったが、意外とすんなりうまくいく。

――昔の私なら、できなかった。

 はたして、昔と今でいったいなにが変化したのか。いったいなにを得たのか。
 あるいはなにも、なにも変わってなどいないのかもしれない。
 しかし三千世界を隔てた胡蝶の羽ばたく風のゆらぎ・・・が現世に福音をもたらすように、ただ生きているというそれだけで、世界が変わるのには十分すぎる事だった。
 そして、

――かみさま……たすけて、おねがいします、たすけてっ……!

 聞こえた。
 たしかに早苗は神を呼ぶ声を聞いた。今度こそ。
 もう、迷う必要はなかった。

「今、助けに行くから」

 どうせ聞こえるわけもないと承知の上でそう呟かずにはいられない。
 つい先程までラビュリントスに惑う奴隷のようだった覚束ない足取りは、アリアドネーの糸を見つけたテセウスのごとく覚悟と確信に満ちたものに変わる。
 そして一陣の風のように早苗は煉獄のさなかを走り抜けると、迷いなく、最奥の一区画へと飛び込んだ。

「もう大丈夫ですよ! もう――」

 その時その瞬間、紅蓮色と暗黒の奇妙な舞踏が行われる舞台の中で、早苗はようやく、ようやくにして救うべき少女を目にすることができた。
 空気の防護服はもはや限界を超えている。早苗自身も少なくない火傷を負っていた。とはいえ時間がかかったのは長屋の複雑な構造に迷わされたからで、一直線に脱出すれば命だけは持って帰れるだろう。この火災の中に突っ込んでの被害としてはまったく奇跡のような代価の少なさ。
 そう、後は、少女を連れて煉獄より脱出する。
 ただのそれだけ。それだけのこと。

――それだけ……なのに……。

 それだけのことが叶わないと――少女の姿を一目みた瞬間に、早苗には理解できてしまう。
 いったいなにがあったのか、逃げようとする最中にそうなってしまったのか、もはや理由は知る由もない。が……一つ確かなこと。助けを求める少女の濁った瞳。その向こう側。彼女の体の腰から下が、崩れた二階部分の梁の下敷きとなっていた。
 煙にまかれて喉をやられているのか少女の方はうめき声も上げず、細く小さな手を伸ばす。

「大丈夫、だいじょうぶ……きっと助けるから」

 早苗の両足にはまだ決意が満ちている。
 駆け寄り、手を握る。灼熱の世界にあってなおまだ、命の温度が宿っている。梁の下敷きから引きずり出せないか力を込めるが、少女の顔が苦悶に歪むだけだった。
 さらには梁さえも炎の蛇に絡め取られ、慈悲なき灼熱が今まさに少女の命を焼き尽くそうとしている。
 引き剥がすしかない。そうとわかっていても、早苗が近づく度に巣を守らんとする炎竜が牙を剥く。高熱に飛び退く人体の基礎的な防衛反応。もっとも仮に身の焼けるのを食いしばれたとして、既に疲弊しきった肉体だ。おそらく数十キロ程度の材木、平時ならかろうじて動かせもするだろうが、今は。

「はっ……はぁっ……」

 急ごしらえだった神の加護も限界を迎えた。押し寄せる黒煙を退けることもできない。まずもって呼吸がままならない。
 とっくに体中の水分が干上がったのか、もはや汗も流れなくなっていた。
 その場に膝をつく、早苗は、肉体の自然な本能に追い立てられて空気を求め、地にへばりつくような姿勢となる。それは荒れ狂う炎の神に土下座でもって降伏を示すような様。

――少し休むだけ、少し休むだけ、少しだけよ、少し休んだら、こんな邪魔な柱どけて、この子を助けて、出てったら、いっぱいに息を吸ったらいいから、そしたら、そのためにちょっと休むだけ、休むだけ……。

 堂々巡りをする思考は酸欠のため。判然としない意識の中、ただ救済への覚悟だけがぐるぐるとまわる。
 なぜ、そうまでするのだろう。
 喉を、気管を、肺を、体の内側という内側を数百本の錆びた釘の先で引き裂き回されているような痛みの中、ぼんやりとした疑念が早苗の心中に渦を巻く。
 なぜ、そうまでして誰かを助けようとしたのだろう。

――助けたいから。

 他に理由は出てこない。助けたいから。救いを求める目の前の誰かに、目の前にいない誰かにも、手を差し伸べたいから。
 ではなぜそう思うのか。
 その理由は出てこない。けっきょくそのような性分なのだろう、と早苗は混濁する意識の中で自嘲気味に思う。
 しかし――その気持だけだったな、と、早苗の後悔はそれだけだった。手を差し伸べることはできても、それ以上のことはついにできなかった。御二柱の力を借りなければ、神の力を借りなければ、自分はその程度なのだろう。
 とどのつまりは人の身に余る願望だったのだろう。それはきっと、神にのみ許された我儘だったのだろう。

――こんなことなら……もっとちゃんと、修行……やっておけばよかったなぁ……神奈子様の仰るとおりに……。

 薄れてゆく世界。その中で早苗はふと、すぐ先に少女の瞳があるのに気がついた。自分を見つめる濁った灰色の双眸。
 震える小さな手が伸ばされる。それが早苗の頬に触れる。

「ごめ……なさい……」

 微睡みかけた世界に稲妻が落ちる。
 なぜ?
 早苗には少女の謝罪の言葉の意図が理解できない。否、理解はできる。できてしまう。

「わた……しの、せいで……おね……さん、まで……」

 引き裂かれる。身の引き裂かれるような痛み。
 それはけして炎に焼かれた皮膚がめくれ上がっていく痛みではなかった。
 数百度の大気が体の外と内とをずたずたに爛れさせる痛みではなかった。
 十数年を生きた自らの命が失われていく痛みなどではけしてなかった。
 忸怩たる思い。

「そんなこと、言わないで」
「ごめ……さ……ごめん、なさ……」
「私は、あなたを助けられなかったのに」
「……な……さぁ……」

 もう声も聞こえなくなる。
 早苗は奥歯が砕けるほどに歯を食いしばる。
 わずか生命に残された最後の最後の力を振り絞って、彼女は両腕を動かす。何百キロもある鎖を全身に巻き付けられているようだった。それも真紅に熱された棘だらけの鎖を。
 それでもなお、彼女は這い進む。もはや意味などない。そうしたところで二人の命が救われる可能性は万に一つもない。それでも早苗には、そうしないではいられなかった。
 亀の歩みよりなお遅く少女の元へとにじり寄り、そして、力の抜けた少女の体を、早苗は、初学者の人形使いに操られているような震える腕でもって、抱きしめる。
 剣山を飲み込まされたように痛む喉を震わして発する、声にならない声。

「だい……じょうぶ、だいじょうぶだよ……ひとりにしないから……わたし、も、そばにいるから……」

 無論、早苗にとって彼女はまったく見ず知らずの少女。少女からしても、早苗のことなど知らないだろう。
 それでも、死の運命から救えなかったとしても、一人で死んでゆくなんてあまりに寂しいことだから。
 最後の一滴の力まで抱きしめる両腕に込め続け、言葉が出なくとも心を尽くし語りかけ続ける。
 だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
 そうして無心で呼びかけ続けながら、終わりの瞬間が来るのを待った。
 苦痛は無かった。救いきれなかった後悔だけがあった。その中にふと芽生える、光の種。

――ああ。

 逃れられぬ死の宿命を前にして早苗の心に宿ったのは、恐怖でもなく、もはや後悔でもなく、ただ、ただの、一片の、それは信仰心だった。

――神様って、なんて偉大なんだろう。

 自分は人一人救うのにこの様だ。たかだか数十キロの木片に窮して、一夜と保たず消えてゆく炎のために、膝をつき、哀れな少女に謝罪の言葉を述べさせて、できることはただ、共に死んでやる程度のもの。
 それが人間の限界。救済のなんたる困難で険しい道のりであることか!
 しかし神々は一人に留まらず、無数の命を救ってみせる、そのなんて偉大なことだろう。
 ついに煉獄に落ち、命尽き果てる間際に早苗は、遠い昔に聞いた諏訪子の言葉を思った。

――誰かを守りたい、救いたいと願うから、神でいられるんだよ。

 今ようやくその言葉の意味が理解出来た気がした。

――嗚呼! まったく人の命のなんと偉大で儚いことだろう! それを救いたいと願うならもう、神にでもなるより他に無いじゃない!

 その瞬間を最期に、少女を抱きしめていた両の腕からするりと力が抜ける。
 二人分の少女の亡骸を、煉獄の浄化の炎が恐ろしい速さで呑み込んでいった。


 ◯


 07:空っぽの席にディッシュは要らない


 虚無は困惑していた。
 誰もいない守矢神社で一人、投げ置かれた竹箒を見下ろす。
 ここは虚無が東風谷早苗という人間の心象風景から作り出した偽物の結界。故に参拝客が来ることも永遠に無いし、山の妖怪がふらりと冷やかしに来ることもない。言うまでもなく、八坂神奈子と洩矢諏訪子が現れることもない。もちろん虚無自身がその似姿を取って演じれば別だが。

――なぜ。

 そんなもの寂しい無人の神社にあって、早苗の姿を奪った虚無は困惑していた。
 彼女は身をかがめ、竹箒におっかなびっくり触れる。東風谷早苗の心に残されていた物理的な感触が指先に当たり、その右手が素早く引っ込められる。

――なぜ、こんなにも満たされない?

 肉体を奪うという悲願。それも、神への強い信仰を持つ人間の肉体を奪うという悲願だ。それを達成した。そのはずだ。
 虚無は、ずっと昔から東風谷早苗という少女に目をつけていた。彼女が幻想郷に訪れるよりもずっと昔から、幼すぎる彼女が成長し、信仰心と自我を発達させるのを待っていた。
 虚無は知っていたからだ。生まれ持っての神の使徒はたいてい、ちょっとしたきっかけで呆気なく信仰を疑いうると。自らの意思で手にした信仰では無い以上、それは必然。そうならざるを得ない。
 だから虚無は待った。そして機会が訪れた。信仰集めのパフォーマンスだかなんだか知らないが、火災を神の奇跡でもって鎮めるという慈善事業。

――はは。あれは愚かしい決断だったなぁ。

 自らの困惑を棚に上げ、早苗の肉体が嘲笑を浮かべる。明らかに欺瞞と偽善に満ちたそんな行為がいずれ破滅をもたらすのは、わかりきったことだった。
 タケミナカタの二柱も老境差し掛かって勘が鈍ったに違いない。
 虚無は一見愉しげに肩を震わせるも、やはり長く続かない。すぐにまたあの困惑が戻ってくる。そもその愉悦すら本心であったのかどうか。

――満たされない。なぜ。なぜだ? 奪ってやったのに。あの愚かな神々の大切な使徒を奪ってやったのに。肉体を手に入れたのに! なぜ!

 しかし火災から逃げおくれて死んだガキがいたのは行幸だった、と虚無は自らの不安から逃れようと回顧を続ける。
 東風谷早苗の悪夢に夜な夜な現れては、それが彼女のせいだと糾弾した。おまえが殺したのだと! そして弱りきったところを、この結界を作り出し、囚えた。後は簡単な仕事だった。既に信仰を揺らがせていた早苗は簡単に転んだ。ほんの一瞬とはいえ、虚無にはその一瞬があれば十分すぎた。
 今ごろあの愚かな少女の魂は、大いなる虚数の暗い海に還元されて、零と消えているだろう。
 しかしその事実もなんら虚無の心を満たすことはない。
 空っぽだ。
 肉体を奪い取ったにもかかわらず虚無は空っぽだった。
 愉悦も、満足も、感動も、なにもない。空っぽの席。虚無はずっとずっとずっとずっとそうだった。自分の座る席にあたたかな料理の皿が配されること。それはついぞ無かったし、だから他人の席を奪い取ってみた。最も素晴らしい神々の料理の配されるはずの席を奪い取ってみた。そのはずだ! そのはずだった。

――ならば! どうして満たされない!

 東風谷早苗の胸の奥に満ちるのはただ、怒り、困惑、不安、それと、恐れ。
 実のところ虚無はずっとその恐れに気がついていた。
 もしかして自分が満たされることは永久に無いのか……?

「違う! そんなはずはない! そんな理不尽なことがあるものか!」

 怒りに任せて叫び声をあげる。すると少しだけスッとした。
 そうだ、ありえるはずがない。虚無はどこにも存在しない存在。ゆえにどこにでも存在しうる。どんなことだってできる。
 夢の世界の支配者の目を潜り抜け、人の悪夢に干渉することもできる。人間の心象風景から本物そっくりの結界を生み出すことだってできる。様々な妖怪の似姿を取ってみせることもできる。神の使徒を堕落させることもできる。ついにその肉体を奪い取ることだってできる。欲しいものはなんでも手に入れられる! そのはずだ。そのはずなのに。なのに、本当に欲しいものは、いつだって……。

「満たされるわけ……無いですよ……」

 ひどく物悲しげな声に虚無はぎょっとして振り返る。
 早苗の翡翠色の瞳が驚きに見開かれ、彼女の肉体は後ずさった。
 その先には、胎児のように丸まった黒焦げの焼死体があった。顔も、両手両足もひどく炭化している。はじめ虚無が取ったあの少女の火傷痕の比ではない。
 それは死体そのものだ。だというのに、声を発する。ひどく虚無にとって不愉快な声を。

「満たされるわけ無いんです……だって、あなたは……」
「黙れ! 貴様なぜ生きている!? おまえは虚数の海に突き落としたはずだ! 母さんがお前を食らったはずだ! なのになぜ戻ってこれた!?」

 早苗の表情がたちまち当惑と恐怖に歪む。その視界の中で、ギシギシと耳障りな音をたてながら炭化した焼死体が立ち上がっていく。それは真っ黒い影が立ち上がるようでもある。さらに二歩、三歩と虚無が退いた。

「人の抱く奇跡のような心が……誰かを救おうとする気持ちが……私をあの寂しい場所から帰してくれた……」
「い、意味がわからないな! だがおまえはなんの意味もない虚無だ。今や私が東風谷早苗なんだ、おまえは私のずっと掴まされてきたヘタを掴んだんだよ! もう誰もお前の席に皿を運んじゃ来ない!」
「構いません」
「え……」
「私は……同じ机の誰かに料理が配られなかったら、きっと自分の分を差し上げるでしょう……あなたが空腹だというのなら、私は、」
「欺瞞だ! それは余裕があるから言える偽善だ! いずれ耐えきれないほど飢えて死を前にすればどうせ、おまえだって他人の席を奪おうとするんだ!」
「しません」
「し……」

 その言葉のあまりに確固たる迫力に虚無は言葉を失う。
 パキリと軽妙な音がして、炭化した肉体の表面が一部、剥がれ落ちた。そして翡翠色の双眸が覗く。早苗の喉が恐怖に縮こまり、息を漏らした。

「悲しいけれど、あなたの言ったことは正しさも含んでいます。人の身にできることは限界がある。自分の席に配された料理を誰かのために分け与え続ければ、いずれ、飢えて死んでしまう。そして次に自分の席に座る誰かが、同じように他人に分け与えるとは限らない」
「そ、そうだ……そうやっていずれ貴様らは、泥沼の虚無の闘争に身を浸す……」
「だから人は願うんです。神になりたいと」

 瞬間、虚無の早苗が獰猛な牙をむき出しにする。たじろぎながらも再び早苗を殺す機会を伺っていたのだろう。虚無の奥底に潜むのは残忍で尽きることのない執念だけなのかもしれない。

「……は、はは! その言葉は命取りだぞ! 言っただろう前にも! 神は死んだんだよ! 今残ってるのは嘘っぱちの出来損ないだけだ! お前もそう認めたはずだ! 認めたから今! こうして私に肉体を奪われてるんだから!」

 しかし。
 
 早苗は怯まなかった。

「私は間違っていました」
「上っ面の言葉だけで言い繕おうなんて――」
「違うんです。そうじゃないんです。救われたいから神に祈るんじゃないんです。救いたいと祈るから……人は神になるんです。そうならざるを得ないんです」

 虚無が色を失う。
 パキ、パキリ、パキリと、炭化した表面が剥がれ落ちていく。東風谷早苗は自らの姿を取り戻しつつある。それはとりも直さず、恐怖に怯んだ虚無が肉体の主導権を握りきれなくなっていることの証左だった。

「悲しいことなんです。誰も神になんてならなくてよければ、すべての席にあたたかなパンとスープが運ばれれば、誰も炎に灼かれる必要はなかったんです」
「神が、か、悲しいだって……なにを、貴様、そんなふてぶてしいことをよくも」
「あなたには、わからないと思います」

 翡翠色の瞳が、物悲しげに細まってゆく。
 焼け焦げ、ひび割れた早苗と、やはり急速に歪んでいく虚無の輪郭。自分の流出を抑えようと早苗があちこちを必死に抑えるが、早苗はさらに前へと歩み出て、言葉を、続ける。

「わからないと思いますよ。誰かを救いたいと願えない、あなたには」

 一歩踏み出す度に肉体が取り戻されていく。だが、早苗の口元には喜びも安堵も愉悦も浮かばない。底なしの悲しみだけがある。この世のすべての悲しみを引き受けたような藍色だけがある。

「神は死んだとおっしゃいましたね」
「う、やめろ……もうやめろ……! 私から奪うな! また私から! 私から奪ってゆくな!」
「死んでも……また生まれるんです。人の心に救いを求める気持ちがある限り。人が誰かを救いたいと願う限り、何度でも、何度でも、たとえ虚無の軍勢が神々をひとり残らず殺したとして、きっとまた生まれてくる。あなたたち虚無の魔物が絶望と悲しみの中に人々を引きずり落としては嘲笑い続ける限り、私達もまた神を求め続けるんです。神になることを願い続けるんです」
「やめろ……やめてくれ……おまえは……ちくしょう、ちくしょう! おまえはなんなんだ!」

 かろうじて虚無が再び飯綱丸の姿を取ろうとするも、叶わない。それもほどけ、初めの少女の姿に戻る。それは、煉獄の中で早苗が救おうとした少女の姿そのものだった。しかしそれも崩れ、散逸しかかっている。

「私は……現人神。こんな悲しい称号、他にありませんよね」

 そして、最期に虚無はなにごとか叫ぼうと口を開いたが、ついぞその断末魔が放たれることはなかった。

 早苗は雨音を聞いた。

 現実の雨の音だった。
 美しく立派な花を咲かせた紫陽花の大きな緑の葉の上に、しとどに降る雨滴が尽きること無く注がれ続けているのが、妙に早苗の意識に留まった。
 それから、

「……うそ」

 ずぶ濡れになった巫女装束の少女が早苗を見定めている。
 早苗もまた、突然に切り替わった世界の様子に驚いて、ただ両目をぱちくりさせることしかできない。

「……早苗?」
「霊夢さん。それに、皆さんも? いったいなんの集まりですか? こんな雨の中、宴会ですか?」

 霊夢の背後には早苗のよく知ってる者、知らない者、その他大勢の人妖および神々が詰めかけていた。
 その視線が一様に早苗の方を向いているので(さらにはひどく驚いて、泣き出しそうな者もいたので)、おぼろげながらも早苗は状況を理解する。

「あー……もしかして、私を探してくれて……ました? あはは……」

 気まずい沈黙に相好を崩した早苗の視界が、突如、90度回転して夜空を向く。子供くらいの体躯が飛び込んできた衝撃に、濡れた土の上へと倒れ込んだらしかった。
 なれども、あたたかい。ただあたたかい感触。

「早苗ーーっ! 早苗が帰ってきた! 早苗が帰ってきたよぅ!」
「す、諏訪子様……」
「このばか! 悪い子だ! 神様に内緒でどこへ行ってたんだよぉ! あ゛ーーっ!」
「申し訳ありません、私もなにがなんだかで……」
「早苗」

 へばりつく蛙さながらの諏訪子の泣き声に重なって、もう一つの、ずっと早苗の聞きたかった声が響く。

「あ、神奈子様……すみません」
「いいよ、もう。おまえが帰ってきてくれたら、それでいい」
「私は……えぇー……そんなにいなくなってました?」

 いったいいつからあの虚無の世界に囚われていたのだろう? どうにも皆のテンションについていけない自分がなんだか申し訳なかった。
 首をひねる早苗に、神奈子が苦笑する。

「その様子だと、無事だったみたいね」
「た、たぶんだいじょぶです!」
「おかえり」
「……はい。はい! ただいま!」

 そう微笑みながらも、早苗の心にはまだ冷たい温度が残っている。
 そのことを見透かしたかのように、また耳元で薄寂しい虚無がそっと囁いた。

――この光景がまだ虚ろな幻にすぎないと、そうは思わないのかしら? いったいなにを根拠にこれが本当の現実だと信じているのかしら?

 雨音に混じるそれに、早苗は静かに応じる。

――私を抱きしめてくださる諏訪子様のぬくもり。この心のあたたかさ。それが根拠です。

 ふ、と嘲るような笑い声を最後に残し、以降虚無が早苗の前に姿を現すことは無かった。
 また早苗にとってもそれどころではなかった。
 どういうわけかその場に詰めかけていた飯綱丸を含む山の天狗たち、河童たち、その他大勢たちに揉みくちゃにされて、再びの命の危機を感じざるを得なかったのだから。


 ◯


 08:エピローグ


 あれからいったい、なにが変わったのか。
 あるいはなにも変わっていないのか。
 関係各所への謝罪行脚と二柱への説明、長い長いお説教――と言っても、早苗には心休まる時間だった。正座に痺れきった両足を除けば――を終え、ようやく人心地ついた頃。
 早苗は人間の郷の焼け跡に足を運んでいた。
 既に大半の瓦礫が片付けられながらも、まだいくらか残る残骸の中、梅雨の長雨を浴びた草花がそこかしこに芽吹いている。
 その少し手前に、菊の花と、香る線香、それに子供の好きそうな甘菓子類がまとまって置かれていた。
 概ね仏教形式の弔われ方にどうしたものかと思案した後、早苗はただ、亡き少女に祈りを捧げるに留めた。

――私が帰ってこられたのは、きっとあなたのおかげです。ありがとうございます。どうか安らかに。

 そして踵を返そうとした、ちょうどその時。路地をやってくる一人の女性が早苗をみとめた。
 早苗には一目みて、あの少女の母親だとわかった。目元のあたりが瓜二つだったから。
 当然向こうも早苗が守矢神社の風祝だと気がついただろう。救いに現れながらも唯一、自分の娘だけは助けられなかった相手だと。

「……」
「……」

 どうにも気まずい沈黙。
 同時に口を開く二人。早苗は咄嗟に道を譲ったが、曖昧に微笑まれ、結局は先に言葉を発することになった。

「あの……この度は、ご愁傷さまです」

 出てきたのは月並みな言葉。しかし心からの言葉だ。
 年齢よりも不相応に老け込んでみえる女性の視線が痛い。早苗は一礼して路地を進もうとする。が、

「ありがとうございます」

 思いもよらぬ言葉に、後ろ髪を引かれた。
 振り返ると、女性もまた自らの言葉に驚いているようだった。

「守矢神社の、巫女さん……ですよね?」
「……はい」
「私、あなたのこと恨んでいました」
「……仰りたいことは、よく、わかります。私の業の至らぬばかりに、」
「いえ! いえ……事情は皆さんから聞きました。あの子が死んだのは、きっとあなたのせいじゃ無いと、それは理解しています」
「……」
「理解できても、思っちゃうじゃないですか。どうしてって。どうしてあの子だけ、って。いっそ、いっそもっとたくさん死んだ人がいれば、こんなふうには思わなかったのにねぇ」

 早苗は無言を保つ。
 その泣き崩れそうな言葉尻に同意すべきで無いことは、明らかだった。それは虚無の誘い水。そしてこの人もまた虚無の心と戦っているとわかった。きっといい人なのだろうとわかった。なんら悲劇に見舞われるいわれのない善良な人のはずだと、わかった。

「でもね」

 早苗がふと顔を上げる。細い路地の向こうから切ない音を響かせて、初夏の風が通り抜けていく。

「あの子がね、夢に出てきたんです。それで、巫女のお姉さんが助けに来てくれたって、言うんですよ。そのお姉さんが、泣きながら抱きしめてくれたんだって……ねえ、これ、あなたのことなのかしら。許してやりなさいって神様のメッセージかしら……ねえ、どう思う……」
「どう……」
「あの子……………………あなたに感謝してたみたいだったから。あなたを許してやれってことなのかしらねぇ」

 ああ、この人はきっと私を恨みたいんだ。どうしようもなく早苗には理解できた。私を、世界を、恨んでいたかったんだ。
 そうすれば束の間ながらも凄惨な死別を忘れられるから。
 恨んで欲しいと、早苗は思った。恨むことで楽になれるなら自分はいくらでもその恨みを受け止めると。
 でも、そうするべきではないことも、わかっていた。

「……私の口からこんなことを申し上げるのも、非常に差し出がましいのですが」
「……いいわ」
「どうか恨まないでください」
「……」
「どうか虚無に身を委ねようとしないでください」
「…………」
「娘さんは、べつに、私の無罪の証言のために夢に現れたのでは無いと思います。私にはそんな価値もありません。それよりも人が奇跡を起こすのはいつだって、誰かを救おうとする時だけです」

 その時人は束の間ながらも神になるのだろう。現人神に生まれついたかどうかなど、関係なく。

「娘さんはきっと、あなたを救いたくて、夢に現れたのだと思います。あなたの心が虚無に囚われてしまわないように……」
「私のために……」
「だから、どうか恨まないでください」

 女性は言葉を失っているようだった。しかし静かなその表情とは裏腹に、きっと彼女の胸中では相克する感情が肉体を奪い合っているのだろう。
 数分か、数十分か、早苗もそれに付き合っていたが、もう女性の瞳が自分を見ていないことに気が付き、一礼してその場を後にする。
 狭い路地を抜ける。その時に早苗は、湿った空気の中にわずかに夏の匂いを嗅いだ気がした。
 じきに梅雨も明ける。






読んでいただきありがとうございます。
ひょうすべ
https://twitter.com/hyousubesube
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.200簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
自分の思いを言語化するのは難しいけれども、少なくとも・・・ 読んでまだ頑張ってみようと思えたのはたしか。
3.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。人の悩みをちゃんと持っている早苗だからこそ、虚無という概念に向き合ってしまい信仰を疑ってしまうけれども、神を知る早苗だからこそ元のさやに収めることができたのかなと思いました。恨みや信仰が形を成す幻想郷だから、虚無感にも形がついて解決に向かうのだろうなとも。
フレーズひとつひとつが印象的で「とどのつまりは人の身に余る願望だったのだろう。それはきっと、神にのみ許された我儘だったのだろう。」この一文が心に強く残っています。ありがとうございました。
4.100東ノ目削除
フランス革命で理性崇拝により一度神の存在が否定されながらも「最高存在の祭典」という奇妙な形で神が復活したように、神というのはいるいないではなく「要る」存在なのだろうと改めて思いました。そのうえで神であることを願って本物の神であれるのは幻想郷的であり願っても神たれないこちら側の世界に少し物足りなさのようなものを感じたり
5.100南条削除
とてもおもしろかったです
早苗が苦しみや後悔を乗り越えて行く様が素晴らしかったです
人を助けるには神様になるしかないという思想が染み入ってくるようでした
7.100たこもこ太削除
結果的に早苗は虚無より恐ろしい何かとも、現人神として成り立つ器として上のステージに行けたとも言えて。神の描き方としても人間の成長の書き方としても強く印象付けられました。焼死体が喋るシーンと最後の少女の母親と話すシーンの二面性に恐れ慄きました。ありがとうございました!
8.100名前が無い程度の能力削除
性癖ブッ刺さりで一億点です。
9.100植物図鑑削除
私の中で東風谷早苗というキャラの解像度が明確に上がった作品でした。とある漫画のセリフに、誰からも必要とされないことが、この世で一番の苦しみだ、というものがあります。多かれ少なかれ、私たちは孤独という苦しみを癒すためなのか、誰かと関係を結びます。しかし、死ぬ瞬間は誰しもが孤独です。神様というものはもしかしたらその孤独を埋め合わせるために存在するのかもしれません。この世界は残酷です。今日もきっと誰かが死んだり傷ついたりしていると思います。それも一人で。おそらくは幻想郷という閉じられた、それゆえ場合によってはより関係を強要される世界においてもそれは同様でしょう。しかしそれでも私たちは生きていかなければなりません。それはとても不条理なことのように思えます。それが幻想郷に生きる名もなき人であれ、ネームドのキャラであれ、あるいは外の世界の人間であれ。作中でも述べられていたとおり、現人神という早苗の称号は悲しいものなのかもしれません。それでも家族や仲間を持つ早苗が力強く生き、そして神として人を救っていくであろうことは強く確信することができました。ありがとうございました。
10.100めそふ削除
とても面白かったです。虚無をきっかけに自分の在り方、神様の在り方を見つめ直し、成長に至れた早苗を見ることができて良かったです。
ここでいう虚無とは、文字通りのものではなくて思考があり、悪意を持った一妖怪のようで、虚無に至らせるという明確な敵対ポジであるからこそ、早苗が成長に至るきっかけとして優秀だったのかなと思います。早苗にとっては精神的に辛い出来事があった後にこの敵に襲われた訳ですから、本来は多分大丈夫そうなところを結構な敗北をしてしまって、読んでて早苗にもどかしくも思いました。
また、早苗が火事現場の再現を通して成長にいたり、人を救いたいという気持ちが神を求めるという文言が非常に良かったです。読んでいてとても楽しく感じられました。ありがとうございます。