紙とも炭ともつかない香りが立ち込めている。例えるなら、タンスの奥に長い間閉まってある、毛皮のコートの匂いだ。
「ある猫がいました。動物病院が嫌いな猫です。」
空気は淀んでいるのに、声を発するのも躊躇いたくなる静けさが、空間一杯に
澄んだ波長を届かせた。
フランドールは、テーブルに肘をついて聞き返す。
「動物病院?」
パチュリーは僅かに詰まったが、適当に目線を寄こしたあと、すぐにまた俯いて言った。
「あなた、そのくらいは分かるはずよね。」
齢495にして、いくらかの年月をフランドールは外出しないまま過ごしてきたのは誰もが聞いた話だ。
たびたび大まかにしか日付が分からなくなる時はあるが、普通の感覚を失くすほどフランドールも呆けてはいない。
「動物病院ねえ。意味は分かるけど、そんなものあったような無かったような」
数百年単位で閉じこもるなんて、長命な種族にはよくあることだ。人外の者達は想像より暇を持て余している。
少なくとも、最後に見聞きした外界の情報に動物病院なる建物は存在しなかったはずだ。
それがレンガの壁で出来ているのか、木組みのログハウスなのか、大きいのか小さいのか、フランドールにはイメージできなかった。
「獣医師の集まりで、小動物ならではの病気や怪我を専門とする医院よ。体の構造が違えば、生活スタイルもまるで別物だから」
パチュリーの諭すような説明にも
フランドールの舌はとどまらず、半ば不自然な難癖を付け始めた。
「病弱な人間共のことだから、自分の食い扶持を支えるだけでも精一杯でしょう。一匹を治す暇があれば、一人を助ける方が効率的じゃない。私には、どいつも食べ物同然で、似たようなもんだけどさ」
15世紀に起こった疫病の到来と市民の困窮を、当時から小耳に挟んでいたフランドールにとって、切り詰めた生活をしていた人々が、あれこれ利益の薄そうな事業を展開できる余裕があったとは思えない。
なんなら、良き狩猟仲間であったはずの犬も、食べ物が無ければあっさり食ってしまうほどだった覚えがフランドールにはある。
それにしても、ただの雑談にしてはやり過ぎなくらい言い募るので、パチュリーは戸惑った。
「技術が進み、人間たちは健康なのが当たり前になりつつあるし、大昔とは違って重篤でなければ、医者も大忙しというほどでもないのよ。
近代化に伴ってペットが増えたというから、需要があるの。ある程度は人体からの応用も効くでしょうし」
フランドールの意図に思う所もあったが、パチュリーはひとまず弁明に注力した。
やっと納得したのか、フランドールは訝しみも鳴りを潜め、落ち着くと背もたれに体重を傾けて呟いた。
「ずいぶん贅沢な話じゃない。つくづく、平和になったんだね」
時代が進むにつれて、飼畜の管理体制も幾分か質が向上したのは事実だが、新しい業務が確立されると同時に、つられて悪化を辿った面もある。
鶏の一羽でも風邪に罹れば、鶏舎はすっからかんで、土に大量の鳥盤が骨塚を作る羽目になるし、誰かが犬猫を段ボールに閉まってしまって、路上に放置しようものなら、宛先はほとんどの場合保健所送りだ。
一部にとって都合の良い世界を平和と呼ぶかどうかは未だに難しい問題だ。
質問が一段落つくと、話の腰を折られた気分でパチュリーは溜息と一緒に不満を吐いた。
「まだお話の途中なんだけど。聞きたいことがあるのは分かってあげられるけど、そういうのは最後まで聞いてからにして下さる?」
なにも、フランドールだって常ならばここまで重箱の隅を突くような真似はしなかった。
あらぬ言葉が耳を過っても、単語の組み合わせから察せたろうし、文脈からなんとなしに汲み取ったり、あるいは聞き流したりしただろう。
ここまで名前一つに拘る必要性。というのも、原因は図書館に招かれた理由にある。
パチュリーが執筆した絵本の感想を、本人からお願いされたため、フランドールは設定の検閲に妙に精を出していた。
フランドールは如何にも、といった感じでうなづいてみせる。
「ふむ、ならばこの物語の舞台は中世ではなくて、割と最近になるわけねえ」
うんうんと相槌を打っているフランドールは
まるで、さも有意義な話し合いの末に導かれた答えを、じっくりと噛み締めているかのような口振りだ。
心なしか眼差しも生暖かい。
パチュリーはなんだかやりにくそうに口を開いた。
「まだあらましも終えてないのに気が早いのよ。こうなったら、小悪魔を呼んで、お菓子でも持ってこさせる。
パイかラスクでも片手間に摘まんでないと、気恥ずかしいたらなんの」
パチュリーが口ずさむと、小悪魔と呼ばれた使い魔が本棚の影からはつらつとスマイルを寄こした。
「今用意します、ちょっとだけお待ちください」
絨毯の上を蹴る鈍い足音は、ほのかに薄暗い談話室を抜けて戸の向こうに消えていく。
曲がり者で知られる魔女が他者の入室を許すどころか、誰かと語り合うなんて珍しい事だった。
先日、泥棒に盗みに入られた拍子に、窓の一部が吹き飛んで、少し風通しが良くなったせいだろうか。
もっとも、入室を許そうが許すまいが、箒乗りの鼠小僧には勝手にお邪魔されるし、メイドが頼んでもないうちにやたらと紅茶を勧めてくるし、親友のババ臭ぇ衣装が構ってほしそうに視界を行ったり来たりで、パチュリーの意思なぞ周りはお構いなしだ。
籠りがちな吸血鬼を向かいの椅子に座らせたのは、インドア派の共鳴を感じたからか、はたまた親友の妹であるから気にかけているのか。ただ単に友人同士、気まぐれに遊びたかっただけなのか。
メイドが息巻いて茶会の準備に当たっているのを他所に、先んじて団らんが開かれようとしていた。
「題名、ただこね、こねこ。
猫は病院に行きたくないと、駄々を捏ねていました。
飼い主は困り顔で子猫に言い聞かせます。
子猫や、お医者さんに診てもらわないとどんな病気がやってくるか分からないんだよ。
それは風邪かもしれないし、ノミやダニが毛の中でくずぶっているかもしれない。
お願いだから、言うことをお聞きよ。それもこれも、全部坊やの体のためだから。
子猫はタンスに登って飾りのお人形さんを落とすわ、机に飛び乗って食器をめちゃくちゃにするわで、あれもこれもとひっちゃかめっちゃかです。
成猫顔負けの暴れっぷりに、飼い主はほとほと困る一方でした。火事場の馬鹿力というやつです。
子猫はヤマアラシが乗り移ったというほど背中の毛を逆立てて言いました。
いやだいやだ。鼻の奥に引っかかる薬の臭いも、銀ギラで大きな音を立てるナイフも、荷物みたいに運ばれるのにも、全部こりごりニャ。
行きも帰りも15分はかかるじゃないか。車に揺られて酔い潰れるなんてもうごめんだニャん。
お医者さんへ行くのに比べたら、不健康になった方がいくらかマシニャ。
明日苦しまないために、今しんどくたって世話ないったら。
子猫は以前の嫌な思い出が蘇り、どうしても行きたがりませんでした。
それに、1時間後に始まるTVアニメ魔法少女ミラクルゆる早苗の放送時間に間に合うかどうかも不安です。
子猫は二足で立ち上がりました。
この通りニャ。こんなにはしゃぎ回るほど元気で、これのどこが不健康だって言うのニャ。
飼い主は最初こそ我が子可愛さに強く出れませんでしたが
等々腹をくくったようで、子猫の癇癪にも動じずに言い返しました。
ああ、これは重症だ。飼い主の言うことを聞けない、悪い悪い病気だ。
これは、なおさら早めに治療しないといけないね。
そう言うと飼い主は、強引に子猫を攫ってしまいました。
子猫がぐずったおかげで診察の時間に遅れてしまい、順番が空くまでさらに時間がかかります。
そして帰ってきたころにはとうとう1時間を越えて、見たいテレビも見逃してしまったのでした。
飼い主は言いました。
いいかい子猫や。坊やが駄々っ子しなければ、予定通りに帰れたのかもしれないよ。
こっちも余裕を持って終わるよう、考えていたのだから。
肩を落とした子猫の垂れ耳に小言を一つ。
頭の上には後悔が飛び交います。
もしも言いつけを守っていれば、時間に通りに帰ってこられた。
素直に返事ができていれば、ご褒美におやつを買ってもらえたかも。
今度から駄々はしないと、反省した子猫でしたが、どんなにお願いしたって魔法少女ミラクルゆる早苗ちゃんはもう帰ってきません。
本日のビックリドッキリオンバシラを見逃してしまっては、お隣のおりんちゃんと感想の共有もできないではありませんか。
飼い主は、落ち込んで丸くなる背を横目に、リモコンへ手を伸ばしました。
ピッ
項垂れる子猫にどこからか可愛らしい声が聞こえてきます。
そこのあなた、元気を出して下さい。私が来たからにはもう大丈夫です。信じる者は救われるのです。
子猫が頭を上げると、そこには過ぎ去ったはずの魔法少女ミラクルゆる早苗ちゃんが、テレビからこちらに笑いかけていました。
再放送でしょうか。それとも、時計を見間違えただけで、本当は間に合っていたのでしょうか。
飼い主は言いました。
なにも、やりたいことみんな差し置いて外に出ろとは言わないよ。
それこそ、どうしても外せないものだったり不都合があれば、それに見合った対策をする。
私だって、坊やには健やかにいてほしいのに、進んで泣かせたいわけないじゃないから。
今度出向くときは、わがままはよしておくれよ。わざわざ録画をしなくても済む様にさ。
こうして子猫のいやいや病は治療され通院騒動は終わりを告げましたとさ。
待ちに待ったテレビは、散らかった部屋を片付けた後で。
」
パチュリーは静かに瞳を閉じ、用紙を机に置いて一息吐いた。
流石、読書家仕立てだけあり、内容はまるで寺子屋の童話コーナーに置いてある一冊のミリオンセラー。無難でいてかつ、冴えた言葉選びが作中に書き手のインテリジェンスを映し出すよう。
これには、司書の小悪魔も小さく手を叩く。
さぞフランドールもお気に召したに違いない。パチュリーは自信ありげに薄目を開いた。
「長い!長いわ!」
聞き終わるやフランドールは我慢ならず声のボルテージを上げた。
「だいたい、この飼い主は上から目線なのよ。録画しておいたのも黙って、全部終わってから、ほら上手くいったでしょ?って。
命を預かる立場なら、医師に代わって診察するくらいの気概で勉強したらどうなの?結局、手間がめんどうで責任も無いから、嫌がる子猫の言い分も聞かずに、世話を他人に押し付けてるだけじゃない。アットホームだ、対等だ、家族だから大切にしたいなんて雰囲気を出しておいてその実、子猫を物のように管理したいのが見え透いてえづきそうよ。エゴもブルジョワジーも甚だしい。
私が子猫だったら、思い上がった面に一発、血で猫ひげを書いてあげるけどね。
ていうか、ミラクルゆる早苗ってなに」
ガッシャーン!
辺りに激突した金具の残響と、布を叩くような翼がはためく音がした。
一同が急激な高周波に驚いて振り向くと、図書館の入り口でメイド長が固まっているのが目に飛び込む。
足元に横転した鳥かごが揺れて、落下の余剰エネルギーを前後に分散している。
ショックを受けた咲夜は口をわなつかせながら進言する。
「言わせてもらいますけど、じゃあ例えば甘やかしたとして定期健診に行かなかった末、体調でも崩しちゃったらどうするんです。
結局通院することになるし、余計に手間と時間を食われる飼い主の身にもなって下さい。そんなの、子猫のためにもなりません。下手をすれば、危ない目に合う可能性もあるんですよ。
責任うんぬんと仰りますが、飼い主は費用の面々でばっちし工面してるじゃないですか。
仕事で忙しくて寄り添った教育にも手が回らず、そんな中でもなんとか健康に気遣った結果、お金という形でしか愛情を伝えられていないのかもしれません。
経験もない素人が自前で半端な判断を下せば見落としもあるかと思います。プロの目に診てもらい助言を仰いだ方がよっぽど責任ある行動ではありませんか。
当方、ミラクルゆる早苗なるものについては存じ上げませんが」
「いや、急になんなんですか。」
いきなり現れたと思えば内輪に参戦してきた咲夜のよく回る舌に対し、小悪魔は右手首でツッコミを入れた。
手から物が滑り落ちるも結構な事態だが、中に生き物が入ってるのも忘れて指の力を抜くなんて、コントでもあるまいに、どれほど動揺しているのか。どう考えても普通の人間の動きではない。
そもそも、いつから扉の前にいたのだろう。
「お嬢様直々にお茶へ誘って頂いてから私は、今の今までめくるめくティータイムに想いを馳せて、一層お給仕に勤しんでいたのですよ。それなのに、私というものがありつつ、よりによってパチュリー様と密会なんて、!
毎日お嬢様の謂れなきに八つ当たりの刃先を向けられようが耐え抜いてこれられたのも、ひとえに時折やってくる今夜というご褒美のおかげ。
しかし、お嬢様はその気にさせるだけさせるとけんもほろろ。私に散々いい顔振りまいておいて、あれやこれやと不満たらたらだった当の相手とは裏腹に逢引きする始末。甲斐甲斐しく健気に今日の今まであくせく働いてきたこのわたくしが可哀そうだと思いませんこと。浮気ですよ、浮気。
ああ、故郷のお母さま、ごめんなさい。咲夜はダメな子でした。使用人の分際で浅ましくも期待してしまった駄メイドです。哀れ田舎上がりの生娘は奔放な主人に弄ばれただけだったのです。かしこ」
咲夜は言うだけ口にすると、後半はなにやらブツブツと愚痴とナイフの弾幕をあちこちに飛ばして廊下へ下がっていった。
通りがかった妖精メイドにナイフが刺さりピチュるのを見て、弾幕ごっこでもないのに被弾する妖精メイドを小悪魔は不憫に思った。
突然の乱入者に呆気を取られていたパチュリーは、しばらくするといつもの調子に戻って言う。
「まったく、盗み聞きなんてお行儀の悪い。物を散らかすだけ散らかしてほっぽるなんて教育がなってないんじゃないの。図書館はペットの持ち込み禁止よ」
ドアのラッチも出っ張ったまま。ある落とし物が回収されずに、戸の進路を妨害していた。
扉を留めておくには大きすぎる戸当たりである。
フランドールは長方形の光が差し込む出口へ近寄ると、鳥かごを持ち上げた。もしも持ち手が銀で出来ていたなら火傷をするところだった。この時ばかりは安物で助かったとフランドールは一安心する。
天地がひっくり返されて興奮も収まらないセキセイインコは、縦に割れた瞳孔に射止められまたもや動悸を激しくする。思えば、咲夜はあれからインコを傍に置いていた。パチュリーの台本に思う所があったのだろうか。
「ごちそうさま、私はもう行くわ。感想だけど、絵本のプロットとしてはまあまあの出来だったんじゃない?強いて挙げるなら、飼い主の言い回しはいけ好かなかったけどね。
うちのメイドが仕事以外に無礼まで働いたみたいだから、後で注意してあげる。お仕置きは何がいいかな、いつもあの子が扱き使ってる下っ端の面前で泣かせてみせましょうか」
「いいわよ、そんなこと。私はもう気にしてない、どうでもいいし。
それより、そのオウムはどうするの?見たところ怪我を負った様子でもないけど、念のため永遠亭にでも連れて行ってみる?」
「あそこ、動物も取り扱っているのかしら。兎をたくさん飼っていると聞くから、人獣なんでも取り揃えてそうね。
どちらにせよ、異変でも起きなければわざわざ出向くつもりはないけど。もしも私がペットのことを大層可愛がっていたとしたら心配なばかりに連れていっちゃってたかもね。たらればの話だけどね。
あと、これはオウムじゃなくてインコ。冠羽の有無で区別するのよ」
受け売りが恥ずかしい行いだとすれば、ほとんどの知識は忘れ去られるべきである。
この世界は常に流動し続け、横から横へ伝達するものだから。
情報資源から、有限物資、ひいては自然物の何から何まで、誰かの土台によって支えられている。
木を紙に、鉛を鉛筆に線を描き、創造を形にする。作家の才能が称えられる一方で、道具が無ければなし得なかった成果だ。
道具を作る職人でさえ器具を使っているのだから、社会にひとつとしてオリジナリティなんてありはしないのだ。
「もうすぐ、魔法少女ミラクルゆる早苗が始まる時間だわ。小悪魔、お片付けよろしく。」
「あれ、フィクションじゃないんですか。というか、今深夜ですよね」
続く
「ある猫がいました。動物病院が嫌いな猫です。」
空気は淀んでいるのに、声を発するのも躊躇いたくなる静けさが、空間一杯に
澄んだ波長を届かせた。
フランドールは、テーブルに肘をついて聞き返す。
「動物病院?」
パチュリーは僅かに詰まったが、適当に目線を寄こしたあと、すぐにまた俯いて言った。
「あなた、そのくらいは分かるはずよね。」
齢495にして、いくらかの年月をフランドールは外出しないまま過ごしてきたのは誰もが聞いた話だ。
たびたび大まかにしか日付が分からなくなる時はあるが、普通の感覚を失くすほどフランドールも呆けてはいない。
「動物病院ねえ。意味は分かるけど、そんなものあったような無かったような」
数百年単位で閉じこもるなんて、長命な種族にはよくあることだ。人外の者達は想像より暇を持て余している。
少なくとも、最後に見聞きした外界の情報に動物病院なる建物は存在しなかったはずだ。
それがレンガの壁で出来ているのか、木組みのログハウスなのか、大きいのか小さいのか、フランドールにはイメージできなかった。
「獣医師の集まりで、小動物ならではの病気や怪我を専門とする医院よ。体の構造が違えば、生活スタイルもまるで別物だから」
パチュリーの諭すような説明にも
フランドールの舌はとどまらず、半ば不自然な難癖を付け始めた。
「病弱な人間共のことだから、自分の食い扶持を支えるだけでも精一杯でしょう。一匹を治す暇があれば、一人を助ける方が効率的じゃない。私には、どいつも食べ物同然で、似たようなもんだけどさ」
15世紀に起こった疫病の到来と市民の困窮を、当時から小耳に挟んでいたフランドールにとって、切り詰めた生活をしていた人々が、あれこれ利益の薄そうな事業を展開できる余裕があったとは思えない。
なんなら、良き狩猟仲間であったはずの犬も、食べ物が無ければあっさり食ってしまうほどだった覚えがフランドールにはある。
それにしても、ただの雑談にしてはやり過ぎなくらい言い募るので、パチュリーは戸惑った。
「技術が進み、人間たちは健康なのが当たり前になりつつあるし、大昔とは違って重篤でなければ、医者も大忙しというほどでもないのよ。
近代化に伴ってペットが増えたというから、需要があるの。ある程度は人体からの応用も効くでしょうし」
フランドールの意図に思う所もあったが、パチュリーはひとまず弁明に注力した。
やっと納得したのか、フランドールは訝しみも鳴りを潜め、落ち着くと背もたれに体重を傾けて呟いた。
「ずいぶん贅沢な話じゃない。つくづく、平和になったんだね」
時代が進むにつれて、飼畜の管理体制も幾分か質が向上したのは事実だが、新しい業務が確立されると同時に、つられて悪化を辿った面もある。
鶏の一羽でも風邪に罹れば、鶏舎はすっからかんで、土に大量の鳥盤が骨塚を作る羽目になるし、誰かが犬猫を段ボールに閉まってしまって、路上に放置しようものなら、宛先はほとんどの場合保健所送りだ。
一部にとって都合の良い世界を平和と呼ぶかどうかは未だに難しい問題だ。
質問が一段落つくと、話の腰を折られた気分でパチュリーは溜息と一緒に不満を吐いた。
「まだお話の途中なんだけど。聞きたいことがあるのは分かってあげられるけど、そういうのは最後まで聞いてからにして下さる?」
なにも、フランドールだって常ならばここまで重箱の隅を突くような真似はしなかった。
あらぬ言葉が耳を過っても、単語の組み合わせから察せたろうし、文脈からなんとなしに汲み取ったり、あるいは聞き流したりしただろう。
ここまで名前一つに拘る必要性。というのも、原因は図書館に招かれた理由にある。
パチュリーが執筆した絵本の感想を、本人からお願いされたため、フランドールは設定の検閲に妙に精を出していた。
フランドールは如何にも、といった感じでうなづいてみせる。
「ふむ、ならばこの物語の舞台は中世ではなくて、割と最近になるわけねえ」
うんうんと相槌を打っているフランドールは
まるで、さも有意義な話し合いの末に導かれた答えを、じっくりと噛み締めているかのような口振りだ。
心なしか眼差しも生暖かい。
パチュリーはなんだかやりにくそうに口を開いた。
「まだあらましも終えてないのに気が早いのよ。こうなったら、小悪魔を呼んで、お菓子でも持ってこさせる。
パイかラスクでも片手間に摘まんでないと、気恥ずかしいたらなんの」
パチュリーが口ずさむと、小悪魔と呼ばれた使い魔が本棚の影からはつらつとスマイルを寄こした。
「今用意します、ちょっとだけお待ちください」
絨毯の上を蹴る鈍い足音は、ほのかに薄暗い談話室を抜けて戸の向こうに消えていく。
曲がり者で知られる魔女が他者の入室を許すどころか、誰かと語り合うなんて珍しい事だった。
先日、泥棒に盗みに入られた拍子に、窓の一部が吹き飛んで、少し風通しが良くなったせいだろうか。
もっとも、入室を許そうが許すまいが、箒乗りの鼠小僧には勝手にお邪魔されるし、メイドが頼んでもないうちにやたらと紅茶を勧めてくるし、親友のババ臭ぇ衣装が構ってほしそうに視界を行ったり来たりで、パチュリーの意思なぞ周りはお構いなしだ。
籠りがちな吸血鬼を向かいの椅子に座らせたのは、インドア派の共鳴を感じたからか、はたまた親友の妹であるから気にかけているのか。ただ単に友人同士、気まぐれに遊びたかっただけなのか。
メイドが息巻いて茶会の準備に当たっているのを他所に、先んじて団らんが開かれようとしていた。
「題名、ただこね、こねこ。
猫は病院に行きたくないと、駄々を捏ねていました。
飼い主は困り顔で子猫に言い聞かせます。
子猫や、お医者さんに診てもらわないとどんな病気がやってくるか分からないんだよ。
それは風邪かもしれないし、ノミやダニが毛の中でくずぶっているかもしれない。
お願いだから、言うことをお聞きよ。それもこれも、全部坊やの体のためだから。
子猫はタンスに登って飾りのお人形さんを落とすわ、机に飛び乗って食器をめちゃくちゃにするわで、あれもこれもとひっちゃかめっちゃかです。
成猫顔負けの暴れっぷりに、飼い主はほとほと困る一方でした。火事場の馬鹿力というやつです。
子猫はヤマアラシが乗り移ったというほど背中の毛を逆立てて言いました。
いやだいやだ。鼻の奥に引っかかる薬の臭いも、銀ギラで大きな音を立てるナイフも、荷物みたいに運ばれるのにも、全部こりごりニャ。
行きも帰りも15分はかかるじゃないか。車に揺られて酔い潰れるなんてもうごめんだニャん。
お医者さんへ行くのに比べたら、不健康になった方がいくらかマシニャ。
明日苦しまないために、今しんどくたって世話ないったら。
子猫は以前の嫌な思い出が蘇り、どうしても行きたがりませんでした。
それに、1時間後に始まるTVアニメ魔法少女ミラクルゆる早苗の放送時間に間に合うかどうかも不安です。
子猫は二足で立ち上がりました。
この通りニャ。こんなにはしゃぎ回るほど元気で、これのどこが不健康だって言うのニャ。
飼い主は最初こそ我が子可愛さに強く出れませんでしたが
等々腹をくくったようで、子猫の癇癪にも動じずに言い返しました。
ああ、これは重症だ。飼い主の言うことを聞けない、悪い悪い病気だ。
これは、なおさら早めに治療しないといけないね。
そう言うと飼い主は、強引に子猫を攫ってしまいました。
子猫がぐずったおかげで診察の時間に遅れてしまい、順番が空くまでさらに時間がかかります。
そして帰ってきたころにはとうとう1時間を越えて、見たいテレビも見逃してしまったのでした。
飼い主は言いました。
いいかい子猫や。坊やが駄々っ子しなければ、予定通りに帰れたのかもしれないよ。
こっちも余裕を持って終わるよう、考えていたのだから。
肩を落とした子猫の垂れ耳に小言を一つ。
頭の上には後悔が飛び交います。
もしも言いつけを守っていれば、時間に通りに帰ってこられた。
素直に返事ができていれば、ご褒美におやつを買ってもらえたかも。
今度から駄々はしないと、反省した子猫でしたが、どんなにお願いしたって魔法少女ミラクルゆる早苗ちゃんはもう帰ってきません。
本日のビックリドッキリオンバシラを見逃してしまっては、お隣のおりんちゃんと感想の共有もできないではありませんか。
飼い主は、落ち込んで丸くなる背を横目に、リモコンへ手を伸ばしました。
ピッ
項垂れる子猫にどこからか可愛らしい声が聞こえてきます。
そこのあなた、元気を出して下さい。私が来たからにはもう大丈夫です。信じる者は救われるのです。
子猫が頭を上げると、そこには過ぎ去ったはずの魔法少女ミラクルゆる早苗ちゃんが、テレビからこちらに笑いかけていました。
再放送でしょうか。それとも、時計を見間違えただけで、本当は間に合っていたのでしょうか。
飼い主は言いました。
なにも、やりたいことみんな差し置いて外に出ろとは言わないよ。
それこそ、どうしても外せないものだったり不都合があれば、それに見合った対策をする。
私だって、坊やには健やかにいてほしいのに、進んで泣かせたいわけないじゃないから。
今度出向くときは、わがままはよしておくれよ。わざわざ録画をしなくても済む様にさ。
こうして子猫のいやいや病は治療され通院騒動は終わりを告げましたとさ。
待ちに待ったテレビは、散らかった部屋を片付けた後で。
」
パチュリーは静かに瞳を閉じ、用紙を机に置いて一息吐いた。
流石、読書家仕立てだけあり、内容はまるで寺子屋の童話コーナーに置いてある一冊のミリオンセラー。無難でいてかつ、冴えた言葉選びが作中に書き手のインテリジェンスを映し出すよう。
これには、司書の小悪魔も小さく手を叩く。
さぞフランドールもお気に召したに違いない。パチュリーは自信ありげに薄目を開いた。
「長い!長いわ!」
聞き終わるやフランドールは我慢ならず声のボルテージを上げた。
「だいたい、この飼い主は上から目線なのよ。録画しておいたのも黙って、全部終わってから、ほら上手くいったでしょ?って。
命を預かる立場なら、医師に代わって診察するくらいの気概で勉強したらどうなの?結局、手間がめんどうで責任も無いから、嫌がる子猫の言い分も聞かずに、世話を他人に押し付けてるだけじゃない。アットホームだ、対等だ、家族だから大切にしたいなんて雰囲気を出しておいてその実、子猫を物のように管理したいのが見え透いてえづきそうよ。エゴもブルジョワジーも甚だしい。
私が子猫だったら、思い上がった面に一発、血で猫ひげを書いてあげるけどね。
ていうか、ミラクルゆる早苗ってなに」
ガッシャーン!
辺りに激突した金具の残響と、布を叩くような翼がはためく音がした。
一同が急激な高周波に驚いて振り向くと、図書館の入り口でメイド長が固まっているのが目に飛び込む。
足元に横転した鳥かごが揺れて、落下の余剰エネルギーを前後に分散している。
ショックを受けた咲夜は口をわなつかせながら進言する。
「言わせてもらいますけど、じゃあ例えば甘やかしたとして定期健診に行かなかった末、体調でも崩しちゃったらどうするんです。
結局通院することになるし、余計に手間と時間を食われる飼い主の身にもなって下さい。そんなの、子猫のためにもなりません。下手をすれば、危ない目に合う可能性もあるんですよ。
責任うんぬんと仰りますが、飼い主は費用の面々でばっちし工面してるじゃないですか。
仕事で忙しくて寄り添った教育にも手が回らず、そんな中でもなんとか健康に気遣った結果、お金という形でしか愛情を伝えられていないのかもしれません。
経験もない素人が自前で半端な判断を下せば見落としもあるかと思います。プロの目に診てもらい助言を仰いだ方がよっぽど責任ある行動ではありませんか。
当方、ミラクルゆる早苗なるものについては存じ上げませんが」
「いや、急になんなんですか。」
いきなり現れたと思えば内輪に参戦してきた咲夜のよく回る舌に対し、小悪魔は右手首でツッコミを入れた。
手から物が滑り落ちるも結構な事態だが、中に生き物が入ってるのも忘れて指の力を抜くなんて、コントでもあるまいに、どれほど動揺しているのか。どう考えても普通の人間の動きではない。
そもそも、いつから扉の前にいたのだろう。
「お嬢様直々にお茶へ誘って頂いてから私は、今の今までめくるめくティータイムに想いを馳せて、一層お給仕に勤しんでいたのですよ。それなのに、私というものがありつつ、よりによってパチュリー様と密会なんて、!
毎日お嬢様の謂れなきに八つ当たりの刃先を向けられようが耐え抜いてこれられたのも、ひとえに時折やってくる今夜というご褒美のおかげ。
しかし、お嬢様はその気にさせるだけさせるとけんもほろろ。私に散々いい顔振りまいておいて、あれやこれやと不満たらたらだった当の相手とは裏腹に逢引きする始末。甲斐甲斐しく健気に今日の今まであくせく働いてきたこのわたくしが可哀そうだと思いませんこと。浮気ですよ、浮気。
ああ、故郷のお母さま、ごめんなさい。咲夜はダメな子でした。使用人の分際で浅ましくも期待してしまった駄メイドです。哀れ田舎上がりの生娘は奔放な主人に弄ばれただけだったのです。かしこ」
咲夜は言うだけ口にすると、後半はなにやらブツブツと愚痴とナイフの弾幕をあちこちに飛ばして廊下へ下がっていった。
通りがかった妖精メイドにナイフが刺さりピチュるのを見て、弾幕ごっこでもないのに被弾する妖精メイドを小悪魔は不憫に思った。
突然の乱入者に呆気を取られていたパチュリーは、しばらくするといつもの調子に戻って言う。
「まったく、盗み聞きなんてお行儀の悪い。物を散らかすだけ散らかしてほっぽるなんて教育がなってないんじゃないの。図書館はペットの持ち込み禁止よ」
ドアのラッチも出っ張ったまま。ある落とし物が回収されずに、戸の進路を妨害していた。
扉を留めておくには大きすぎる戸当たりである。
フランドールは長方形の光が差し込む出口へ近寄ると、鳥かごを持ち上げた。もしも持ち手が銀で出来ていたなら火傷をするところだった。この時ばかりは安物で助かったとフランドールは一安心する。
天地がひっくり返されて興奮も収まらないセキセイインコは、縦に割れた瞳孔に射止められまたもや動悸を激しくする。思えば、咲夜はあれからインコを傍に置いていた。パチュリーの台本に思う所があったのだろうか。
「ごちそうさま、私はもう行くわ。感想だけど、絵本のプロットとしてはまあまあの出来だったんじゃない?強いて挙げるなら、飼い主の言い回しはいけ好かなかったけどね。
うちのメイドが仕事以外に無礼まで働いたみたいだから、後で注意してあげる。お仕置きは何がいいかな、いつもあの子が扱き使ってる下っ端の面前で泣かせてみせましょうか」
「いいわよ、そんなこと。私はもう気にしてない、どうでもいいし。
それより、そのオウムはどうするの?見たところ怪我を負った様子でもないけど、念のため永遠亭にでも連れて行ってみる?」
「あそこ、動物も取り扱っているのかしら。兎をたくさん飼っていると聞くから、人獣なんでも取り揃えてそうね。
どちらにせよ、異変でも起きなければわざわざ出向くつもりはないけど。もしも私がペットのことを大層可愛がっていたとしたら心配なばかりに連れていっちゃってたかもね。たらればの話だけどね。
あと、これはオウムじゃなくてインコ。冠羽の有無で区別するのよ」
受け売りが恥ずかしい行いだとすれば、ほとんどの知識は忘れ去られるべきである。
この世界は常に流動し続け、横から横へ伝達するものだから。
情報資源から、有限物資、ひいては自然物の何から何まで、誰かの土台によって支えられている。
木を紙に、鉛を鉛筆に線を描き、創造を形にする。作家の才能が称えられる一方で、道具が無ければなし得なかった成果だ。
道具を作る職人でさえ器具を使っているのだから、社会にひとつとしてオリジナリティなんてありはしないのだ。
「もうすぐ、魔法少女ミラクルゆる早苗が始まる時間だわ。小悪魔、お片付けよろしく。」
「あれ、フィクションじゃないんですか。というか、今深夜ですよね」
続く
咲夜がフリーダムで笑いました
フランたちのやり取りがとても楽しかったです