神子と布都、屠自古の三人は霊廟の一室で茶を飲んでいた。
「世は並べて事もなし」
穏やかな仙界のいつもの日。
「事件の起きようもないさ。こう平和な世の中では」
暦がもはや意味を持たないほど未来。
「最後の最後まで騒々しい世界でしたな。地球を放棄して系外惑星に脱出するときもてんやわんや」
仙界から一歩外に出ると、そこは灼熱地獄だ。太陽が老化して少し大きくなり、その少しのせいで植物は絶滅し、海や川も蒸発してしまった。植物が絶滅したときまではテラフォーミングで生きながらえようとしていたが、水が消えては流石に無理だったらしい。幻想郷も今頃は宇宙船の中である。
「我々にはあまり影響のないことさね。青娥のやつは人がいないとつまらんとか言って宇宙船に行ったっきり帰ってこないが」
「死神にやられたか……。そんなはずはないか。あの人のことだからうまくやっているんだろう。『向こう』の方が楽しいと思われているのは複雑だが」
神子は茶をすすり、渋い顔をした。屠自古はまさか自分の淹れた茶の味に問題があったのかと不安になり自分の湯呑みに口をつけたがそんなことはなく、太子様の顔が渋いのは青娥のせいと理解した。
「太子様がおっしゃるならそうなんでしょうね。布都、向こうといえば、命蓮寺の連中はどうなんだ」
「なぜ我に聞く」
「時々行っているんだろ」
「まあ行っているが。特に変わらんよ。弥勒菩薩の降臨までまだまだあるとか言って座禅を組み続けておるわ。気の長い奴らじゃよ」
布都の顔は少し悲しげだった。
「なんだ、淋しいのか?」
「そういうわけではないが……」
「手持ち無沙汰、あるいは倦怠感」
神子は布都の心境を、本人に可能な以上に正確に言語化してみせた。
「仏教の最終到達点は死ぬことか世界が終わることかのどっちかだ。有余涅槃という概念もあるが、生きながらにして悟ることなど聖人にだって無理なのだから、結局『どう終わるか』が目標となり、逆説的に生きているうちは常に道筋が示される。が、我々道教の目指すところは究極であり、究極とはなんぞやという問題がつきまとう。特に事実上の不老不死を得てこのように億年単位で生きている現状では。例えるならば仏教とはクリアに重点を置いた長編ゲームであり、道教とはクリア後のやり込みをどこまでするかというゲームなのだ。現状に飽きがきたとき、仏教のスタンスを羨むのも分からんではない」
「……。そのあまりに俗物的な例え。太子様も倦怠期に入ってますね?」
「そういう屠自古も。今は転換を図るべき時期だ」
「宇宙船に拠点を作りましょうか?」
布都は堅実な提案をする。この一見思慮に欠けた雰囲気から実直な提言がなされるという落差こそが布都が聖徳太子の右腕にして政治の影の操り主で有り続けることができた理由ではあるのだが、その聖徳太子とは堅実な政治家を装ったオーラから突飛な改革案を出す偉人なのであり、布都の提言には満足しなかった。
「もっと楽しいことを。ときに布都、宇宙に方角はあると思うか?」
「中々に難しい問いですな。原則として、宇宙には北極がない以上方角はありませぬ。恣意的に何らかの基準を作れば可能でしょうが」
「じゃあ仮に、中心点を地球、北極を天蓋の北極の位置を無限遠に引き伸ばしたものとする。これなら方角はあるな? 方角なんてのはそもそもが恣意的なものだ。例えば家の鬼門を塞ぐ場合、丑寅の方角の彼方に障害を置くのではなくあくまでその家にとっての鬼門に処置をする。斜め向かいの家から見て南西の方角だったとしても機能するだろ?」
「太子様のおっしゃることが見えてまいりました。つまり、宇宙にも風水はあるのかと、そういうことですね?」
「うむ。少なくとも地球内にはあるので、それを拡張させて上手くいく可能性は十分あると思う。だがこのことばっかりは布都の方が専門だからな」
「太子様にそう言われるとなんだか気恥ずかしいですな……」
布都は頭を掻いた。
「おい、にやけてないで答えろよ。どうせイエスかノーかの二択なんだから」
「屠自古よ、急かすな。……正直なところ分かりませぬ。風水において地脈というのが存外重要ですが、宇宙には地が希薄。しかし、虚空に見えて無ではない以上、地球で風水を成立させているのに相当する気脈の流れがあると考えるのは確かに妥当です。盲点でした」
「仮に宇宙にも風水があるとして、宇宙船の同胞が向かっている新たな惑星に対して、我々が何かできることがあるのではないだろうか」
「到着まで百年。宇宙基準では一瞬だな」
屠自古は懐疑的な意見を表明した。
「一瞬だが、不可能ではあるまい。数十億年の研鑽を経て、我々がどれほど道
を理解したのかというのを宇宙に対して試すのだ」
「おお」
二対一の多数決。もっとも屠自古とて、積極的に反対するつもりもなかったのだ。三人は仙界と目的の惑星系の接続を作り改良を始めた。
***
観測の結果、「第二の地球・幻想郷」となるべき惑星は残念ながら元の地球よりも風水において大幅に劣っていることが明らかとなった。運とは不確実なものなので厳密な予測はできないが、確率的には残り数億年のうちに何らかの破局を迎える可能性が高いものと思われた。
風水の流れを改善するためには星を新たにいくつか作る必要もあったし既に周辺にある恒星の色を変える必要もあった。布都が図案を作り、神子が天体を並べ、屠自古が天体の作成や改良に必要なエネルギーを提供した。
流石に宇宙船組が到着する百年での計画完遂とはならなかったが当座の安定が確保できるまでには改良された。あとは一年で寿命を二年引き伸ばすようなペースで続ければ理論上無限に存続できる。実際には百年に一度ほどのある程度周期的な行事として一手を打ち星系の寿命を二百年前後伸ばすようになった。
三人の行いは神にも等しい所業だったが神を自称することよりも道士と扱われることを望んだ。あるいは為政者と。第二幻想郷が安定し管理ではなく政治が求められるようになるとまた幻想郷に積極的に姿を現すようになった。これはかつて本当にそうであったような聖人の復活劇として宣伝された(命蓮寺の面子は復活も何も自分達にはずっとちょっかいをかけ続けていたでないかと苦笑いしたが、律儀にもこの物語に付き合ってくれた)。その代わりに天を改良しているということは全く喧伝しなかった。
一度だけ星座の書き換えが異変という騒ぎになって巫女が退治しに来たことがあった。そのときはさしもの霊廟組もたじたじで「罪」を認めざるを得なかったが結局は自分達の世界の存続に必要なことなのだと巫女、もとい幻想郷多数の側が霊廟三人の言い分を受け入れて終わった。
やがてそれが異変扱いだったことがあるということすら御阿礼の子の記録以外からは忘れられてこの世界の理の一つということになった。本来の意味での太陽を喪った後になってから神子は天道となったのだった。
***
「終局ですな」
永劫に値する時間が経過した。霊廟の三人――仙界での永遠を望んだのが三人しかいなかったのでこれは仙界の全人口と同義だった――はこの日もお茶を飲んでいた。
布都と神子はそれに加えて碁を打っていた。囲碁は有史以来発明された盤上遊戯の中で最も複雑なものの一つだった。そのことと三人がたまにしか碁を打たなかったことから必勝手順が未だ発見されておらず、碁は未だ遊戯としての地位を保っている。盤上の多くは白と黒で埋まっていて、観戦していた屠自古は微差だが白側が勝っていそうだなというようなことを考えていた。
布都の言う終局には二つの意味が込められている。一つは目の前の盤面の状況。そしてもう一つは仙界の外側。
宇宙は比喩抜きに真っ暗になりつつある。新たに星を生み出すのに必要な物質が枯渇した。今はまだ老人の星が多少残っているが、遠からず自分の水素を食い尽くして死ぬのだろう。あとは霊廟の三人のような不死者しか残らない。もっともそういう不死者は神子達がそうしているように安定した異界を作ってそこに籠もっているのだろうが。
同じ終局でも十九路盤に充填された終局と膨張に膨張してスカスカになった宇宙の終局では真逆だ。ある仏教に半端にかぶれた地獄の人鬼が「未来とは虚無なのじゃ」ともっともらしく言っていたことが想起される。三人がこの世界の果てに一つ抱く心残りがあるとするならば、あいつの言っていたことが結局正しかったということだ。仙人は鬼を敵とみなすので、敵が正しかったというのは面白くない。
なんにせよ星が新しく作れなくなったということは風水に基づく宇宙の改良ができなくなったということだから三人はお役御免。物質の枯渇は必然だから運気をいくら高めようとどうしようもない。最後に生き残った恒星の一つは第二の地球の主星だった。ここまで運命を引き伸ばすことに成功したことを誇るべきなのだろう。
今日を世界の命日と定義して葬式めいたことをしようかという提案が三人のうちの誰かから出された。が、残り二人が乗り気でなかったので平日のように茶を飲んでいる。この提案をした一人が誰かは重要ではない。その一人もなんとなく言ってみただけで、ある一日を特別な日とする感覚はとうの昔に喪失していたのだから。
「そういえば、命蓮寺はどうなったんだ」
だから唐突に大昔の話題になる。
「弥勒菩薩が降臨したから極楽に行くとか言って、とっくの昔に消えたではないか。屠自古よ、ついにボケたか」
「ボケてねえよ。随分と懇意にしてた割に、こういう風に話を振っても未練のある反応じゃないからさ」
「我も大人になったということじゃ」
「少なくとも命蓮寺があった頃は子供だった自覚があったと」
「うっさいわい。それにあいつら、何かの拍子にヒョイとまた出てくるような気がしないか」
「全くそうだな」
神子は苦笑した。
「世は並べて事もなし」
「大昔に我が同じことを言った気がしますな」
「言っただろうな。要は暇ってことだ」
「太子様もぶっちゃけますねえ。青娥の奴の後でも追いますか」
人間が居住可能な惑星がこの世から消滅し、死体が新たに生み出されなくなったとき、青娥は何億年かぶりに霊廟にやって来た。そして一言「飽きましたわ」とだけ言って連れ込んだ死神に手を引かれて消えた。霍青娥とは反面教師でありこの一件も道の探求を途中で放棄した邪仙らしい最期と霊廟では否定的に受け止められた(青娥が最期死神を大量に霊廟に連れて来てそれへの対処に散々に苦労したという私怨も多分に含む評価だが)。だが道義的には青娥の決断の方が潔いと評価されるべきなのだろう。
「いや。もっと楽しいことを」
それでも神子は道義的正しさを追い求めようとはしなかった。道義と道とは違う。大昔、師に似たことを言われた気がするなと神子は思った。師を反面教師にして今まで生きていたつもりだったが、結局似たもの同士だったというわけだ。あるいは死せる青娥の反転とは生ける青娥ということなのかもしれない。
「こんな虚無の世界に楽しいことなんて残っているんですかね」
「今お茶を飲んで駄弁っている現状は楽しいではないか」
「うーん。まあ、それはそうだが」
「二人共視野が狭い。私が言いたいのはだね、この宇宙の外側にも別の宇宙が存在するわけだから、宇宙の上位に、多数の宇宙が配置されている空間という構造体があるということになる。で、その『多元宇宙構造体』と呼ぶべき代物にも風水が適用できないかということなんだが」
布都や屠自古の答えは決まっていた。三人は宇宙そのものを運気高いものに作り変えるべく、仙界の出口を宇宙の外側へと接続する作業を始めた。
「世は並べて事もなし」
穏やかな仙界のいつもの日。
「事件の起きようもないさ。こう平和な世の中では」
暦がもはや意味を持たないほど未来。
「最後の最後まで騒々しい世界でしたな。地球を放棄して系外惑星に脱出するときもてんやわんや」
仙界から一歩外に出ると、そこは灼熱地獄だ。太陽が老化して少し大きくなり、その少しのせいで植物は絶滅し、海や川も蒸発してしまった。植物が絶滅したときまではテラフォーミングで生きながらえようとしていたが、水が消えては流石に無理だったらしい。幻想郷も今頃は宇宙船の中である。
「我々にはあまり影響のないことさね。青娥のやつは人がいないとつまらんとか言って宇宙船に行ったっきり帰ってこないが」
「死神にやられたか……。そんなはずはないか。あの人のことだからうまくやっているんだろう。『向こう』の方が楽しいと思われているのは複雑だが」
神子は茶をすすり、渋い顔をした。屠自古はまさか自分の淹れた茶の味に問題があったのかと不安になり自分の湯呑みに口をつけたがそんなことはなく、太子様の顔が渋いのは青娥のせいと理解した。
「太子様がおっしゃるならそうなんでしょうね。布都、向こうといえば、命蓮寺の連中はどうなんだ」
「なぜ我に聞く」
「時々行っているんだろ」
「まあ行っているが。特に変わらんよ。弥勒菩薩の降臨までまだまだあるとか言って座禅を組み続けておるわ。気の長い奴らじゃよ」
布都の顔は少し悲しげだった。
「なんだ、淋しいのか?」
「そういうわけではないが……」
「手持ち無沙汰、あるいは倦怠感」
神子は布都の心境を、本人に可能な以上に正確に言語化してみせた。
「仏教の最終到達点は死ぬことか世界が終わることかのどっちかだ。有余涅槃という概念もあるが、生きながらにして悟ることなど聖人にだって無理なのだから、結局『どう終わるか』が目標となり、逆説的に生きているうちは常に道筋が示される。が、我々道教の目指すところは究極であり、究極とはなんぞやという問題がつきまとう。特に事実上の不老不死を得てこのように億年単位で生きている現状では。例えるならば仏教とはクリアに重点を置いた長編ゲームであり、道教とはクリア後のやり込みをどこまでするかというゲームなのだ。現状に飽きがきたとき、仏教のスタンスを羨むのも分からんではない」
「……。そのあまりに俗物的な例え。太子様も倦怠期に入ってますね?」
「そういう屠自古も。今は転換を図るべき時期だ」
「宇宙船に拠点を作りましょうか?」
布都は堅実な提案をする。この一見思慮に欠けた雰囲気から実直な提言がなされるという落差こそが布都が聖徳太子の右腕にして政治の影の操り主で有り続けることができた理由ではあるのだが、その聖徳太子とは堅実な政治家を装ったオーラから突飛な改革案を出す偉人なのであり、布都の提言には満足しなかった。
「もっと楽しいことを。ときに布都、宇宙に方角はあると思うか?」
「中々に難しい問いですな。原則として、宇宙には北極がない以上方角はありませぬ。恣意的に何らかの基準を作れば可能でしょうが」
「じゃあ仮に、中心点を地球、北極を天蓋の北極の位置を無限遠に引き伸ばしたものとする。これなら方角はあるな? 方角なんてのはそもそもが恣意的なものだ。例えば家の鬼門を塞ぐ場合、丑寅の方角の彼方に障害を置くのではなくあくまでその家にとっての鬼門に処置をする。斜め向かいの家から見て南西の方角だったとしても機能するだろ?」
「太子様のおっしゃることが見えてまいりました。つまり、宇宙にも風水はあるのかと、そういうことですね?」
「うむ。少なくとも地球内にはあるので、それを拡張させて上手くいく可能性は十分あると思う。だがこのことばっかりは布都の方が専門だからな」
「太子様にそう言われるとなんだか気恥ずかしいですな……」
布都は頭を掻いた。
「おい、にやけてないで答えろよ。どうせイエスかノーかの二択なんだから」
「屠自古よ、急かすな。……正直なところ分かりませぬ。風水において地脈というのが存外重要ですが、宇宙には地が希薄。しかし、虚空に見えて無ではない以上、地球で風水を成立させているのに相当する気脈の流れがあると考えるのは確かに妥当です。盲点でした」
「仮に宇宙にも風水があるとして、宇宙船の同胞が向かっている新たな惑星に対して、我々が何かできることがあるのではないだろうか」
「到着まで百年。宇宙基準では一瞬だな」
屠自古は懐疑的な意見を表明した。
「一瞬だが、不可能ではあるまい。数十億年の研鑽を経て、我々がどれほど道
を理解したのかというのを宇宙に対して試すのだ」
「おお」
二対一の多数決。もっとも屠自古とて、積極的に反対するつもりもなかったのだ。三人は仙界と目的の惑星系の接続を作り改良を始めた。
***
観測の結果、「第二の地球・幻想郷」となるべき惑星は残念ながら元の地球よりも風水において大幅に劣っていることが明らかとなった。運とは不確実なものなので厳密な予測はできないが、確率的には残り数億年のうちに何らかの破局を迎える可能性が高いものと思われた。
風水の流れを改善するためには星を新たにいくつか作る必要もあったし既に周辺にある恒星の色を変える必要もあった。布都が図案を作り、神子が天体を並べ、屠自古が天体の作成や改良に必要なエネルギーを提供した。
流石に宇宙船組が到着する百年での計画完遂とはならなかったが当座の安定が確保できるまでには改良された。あとは一年で寿命を二年引き伸ばすようなペースで続ければ理論上無限に存続できる。実際には百年に一度ほどのある程度周期的な行事として一手を打ち星系の寿命を二百年前後伸ばすようになった。
三人の行いは神にも等しい所業だったが神を自称することよりも道士と扱われることを望んだ。あるいは為政者と。第二幻想郷が安定し管理ではなく政治が求められるようになるとまた幻想郷に積極的に姿を現すようになった。これはかつて本当にそうであったような聖人の復活劇として宣伝された(命蓮寺の面子は復活も何も自分達にはずっとちょっかいをかけ続けていたでないかと苦笑いしたが、律儀にもこの物語に付き合ってくれた)。その代わりに天を改良しているということは全く喧伝しなかった。
一度だけ星座の書き換えが異変という騒ぎになって巫女が退治しに来たことがあった。そのときはさしもの霊廟組もたじたじで「罪」を認めざるを得なかったが結局は自分達の世界の存続に必要なことなのだと巫女、もとい幻想郷多数の側が霊廟三人の言い分を受け入れて終わった。
やがてそれが異変扱いだったことがあるということすら御阿礼の子の記録以外からは忘れられてこの世界の理の一つということになった。本来の意味での太陽を喪った後になってから神子は天道となったのだった。
***
「終局ですな」
永劫に値する時間が経過した。霊廟の三人――仙界での永遠を望んだのが三人しかいなかったのでこれは仙界の全人口と同義だった――はこの日もお茶を飲んでいた。
布都と神子はそれに加えて碁を打っていた。囲碁は有史以来発明された盤上遊戯の中で最も複雑なものの一つだった。そのことと三人がたまにしか碁を打たなかったことから必勝手順が未だ発見されておらず、碁は未だ遊戯としての地位を保っている。盤上の多くは白と黒で埋まっていて、観戦していた屠自古は微差だが白側が勝っていそうだなというようなことを考えていた。
布都の言う終局には二つの意味が込められている。一つは目の前の盤面の状況。そしてもう一つは仙界の外側。
宇宙は比喩抜きに真っ暗になりつつある。新たに星を生み出すのに必要な物質が枯渇した。今はまだ老人の星が多少残っているが、遠からず自分の水素を食い尽くして死ぬのだろう。あとは霊廟の三人のような不死者しか残らない。もっともそういう不死者は神子達がそうしているように安定した異界を作ってそこに籠もっているのだろうが。
同じ終局でも十九路盤に充填された終局と膨張に膨張してスカスカになった宇宙の終局では真逆だ。ある仏教に半端にかぶれた地獄の人鬼が「未来とは虚無なのじゃ」ともっともらしく言っていたことが想起される。三人がこの世界の果てに一つ抱く心残りがあるとするならば、あいつの言っていたことが結局正しかったということだ。仙人は鬼を敵とみなすので、敵が正しかったというのは面白くない。
なんにせよ星が新しく作れなくなったということは風水に基づく宇宙の改良ができなくなったということだから三人はお役御免。物質の枯渇は必然だから運気をいくら高めようとどうしようもない。最後に生き残った恒星の一つは第二の地球の主星だった。ここまで運命を引き伸ばすことに成功したことを誇るべきなのだろう。
今日を世界の命日と定義して葬式めいたことをしようかという提案が三人のうちの誰かから出された。が、残り二人が乗り気でなかったので平日のように茶を飲んでいる。この提案をした一人が誰かは重要ではない。その一人もなんとなく言ってみただけで、ある一日を特別な日とする感覚はとうの昔に喪失していたのだから。
「そういえば、命蓮寺はどうなったんだ」
だから唐突に大昔の話題になる。
「弥勒菩薩が降臨したから極楽に行くとか言って、とっくの昔に消えたではないか。屠自古よ、ついにボケたか」
「ボケてねえよ。随分と懇意にしてた割に、こういう風に話を振っても未練のある反応じゃないからさ」
「我も大人になったということじゃ」
「少なくとも命蓮寺があった頃は子供だった自覚があったと」
「うっさいわい。それにあいつら、何かの拍子にヒョイとまた出てくるような気がしないか」
「全くそうだな」
神子は苦笑した。
「世は並べて事もなし」
「大昔に我が同じことを言った気がしますな」
「言っただろうな。要は暇ってことだ」
「太子様もぶっちゃけますねえ。青娥の奴の後でも追いますか」
人間が居住可能な惑星がこの世から消滅し、死体が新たに生み出されなくなったとき、青娥は何億年かぶりに霊廟にやって来た。そして一言「飽きましたわ」とだけ言って連れ込んだ死神に手を引かれて消えた。霍青娥とは反面教師でありこの一件も道の探求を途中で放棄した邪仙らしい最期と霊廟では否定的に受け止められた(青娥が最期死神を大量に霊廟に連れて来てそれへの対処に散々に苦労したという私怨も多分に含む評価だが)。だが道義的には青娥の決断の方が潔いと評価されるべきなのだろう。
「いや。もっと楽しいことを」
それでも神子は道義的正しさを追い求めようとはしなかった。道義と道とは違う。大昔、師に似たことを言われた気がするなと神子は思った。師を反面教師にして今まで生きていたつもりだったが、結局似たもの同士だったというわけだ。あるいは死せる青娥の反転とは生ける青娥ということなのかもしれない。
「こんな虚無の世界に楽しいことなんて残っているんですかね」
「今お茶を飲んで駄弁っている現状は楽しいではないか」
「うーん。まあ、それはそうだが」
「二人共視野が狭い。私が言いたいのはだね、この宇宙の外側にも別の宇宙が存在するわけだから、宇宙の上位に、多数の宇宙が配置されている空間という構造体があるということになる。で、その『多元宇宙構造体』と呼ぶべき代物にも風水が適用できないかということなんだが」
布都や屠自古の答えは決まっていた。三人は宇宙そのものを運気高いものに作り変えるべく、仙界の出口を宇宙の外側へと接続する作業を始めた。
馬鹿でかい時空間の中にあっても、自身らが信じた宗教観に最後まで寄り添って、変わらずにいる感じが良かったです。
スケールの大きさに圧倒されました
素晴らしかったです
SFブーム、良いね
面白かったです。