Coolier - 新生・東方創想話

The Dog, The Dog, She's At It Again

2024/05/27 02:18:08
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 視力検査、瞬発力と持久力双方の測定、それに幾何の作図を主とした筆記試験。
 抜き打ちテストの目的は伏せられていたが、なんとなくの見当はつく。むしろ、わからないまま、ひそひそ、あれこれ、あらぬ憶測と当て推量ばかりしている同僚たちに驚くくらいだった。そんな彼らの話を静かに聞いていた彼女も、自分の考えを抱えこんだままむっつり黙り込んでいるほど、陰気なたちではない。話の輪に入って自分の意見を述べる。これで自分も憶測屋の一員になってしまった、とも思った。
「弾幕遊びの適性でも調べていたんでしょ」
 なんのために。
「簡単な話よ。こないだ公布された新法――スペルカードルールは、人間対妖怪や個人の諍いだけではなく、妖怪対妖怪、それに勢力間の係争にまで適用され得るらしいじゃない。そして、決闘の形式はどうやら弾幕勝負になるのではないか。……なので勢力があらかじめ弾幕決闘専門の人員を育成しておいて、有事の際には決闘方式を提案し、そいつ一人を代表者として弾幕決闘で戦わせる事も、ルールの上では可能」
 自分たちが先だって受けた試験も、おおかた選抜か何かのためでしょう、と彼女は言って、それからまた、更にもう一歩踏み込んだ推測をした。
「……私たちみたいな哨戒部隊の中に選抜射手の枠を設けるか、逆にひとまとめにして専門部隊を作るか……まあ、どっちになるかわからないけど、そんな感じじゃない?」
 そこまでの予測を開陳して同僚たちの感心を買って、ちょっといい気になった。どちらかといえば物静か、控えめな方で、つつましい性格をしていた少女にとっては、それだけの事で自尊心が満たされたわけで、自分自身がその選抜を通過してしまったとまでは思っていない。

 昇進したわけではない。他の自警団員との違いといえば、仕事終わりに行われる訓練に拘束されるのと引き換えに、余分な手当がつくだけ。加えて、毎週末には強化練習会がある。月に一度は終日をかけた講習会だ。
 犬走椛はそれに愚痴を言うでもなく、新しい環境に順応していった。
「まじめな奴だな」
 と声をかけられたのは、そうした月末の講習会の午前の部が終わって、参加者が昼休憩でばらけていった時だった。
「みんな来たり来なかったり、年度末までに最低限の出席点が取れればそれでいいって熱心さなのに、君だけ皆勤賞だ」
「他にやる事もありませんしね」
 そう答えて、自分の席に戻って弁当を開こうとしたところで、さらに言葉を継がれた。
「……お昼にするなら、一緒に、ちょっと外に出て食べないかな?」
「ナンパですか?」
 冗談めかして尋ねるくらいの軽い調子で言い返しつつ、あらためて相手の顔をよく見てみる――知った顔だが、相手が自分を知っている事が意外だった。
「飯綱丸龍だ」
「知ってますよ」
 なにしろ、スペルカードルールに対する天狗独自の対応――弾幕決闘専門の選抜人員を育成するという新制度もこれに含まれる――を一手に担当している大天狗だったからだ。
「ですが話した事はありませんでした」
「実は一度だけある」
 龍はついてこいとも言わず、さっさと一人、外に出ていく素振りを見せた。椛は、ふんと鼻息を立てながら、それに従った。

 妖怪の山に張りめぐらされた地下道を、二人は前後になって歩いた。
「どこへ行くのかとか、尋ねないのかい」
 龍が尋ねてきたのを、背後の椛はあやしむ素振りすらなく答えた。
「この先、外に出て、展望台があったでしょう。わりと穴場の」
「詳しいね」
「ちみっこの頃は、ここらも遊び場だったんで」
「ガキどもはどこでも遊び場にするからな。使われていない区域をすぐ秘密基地にしやがる」
 そうした場所が、妖怪の山の地下には多くあった。無秩序に掘削され開発された区画は、かつての派閥争いや土地利権闘争の名残りという側面もあって、そうしたデッドスペースに付随した様々な伝説があった――妖怪の山行政すら把握していない階層があるらしいとか、そこには失脚した勢力や逃亡犯が寄り集まって、一種の反体制勢力を醸成しているだとか、過去の叛乱計画の物資や資金が死蔵されているとか。その類の話は歳が長けるにつれて単なる与太だとわかってきたものの、それでもごっこ遊びに夢中だった頃には、ちょっとした探検のきっかけになり得るものだった。
「あまり人気が無いけど、ここは良い星見スポットなんだよ」
 地下道を抜けて、陽の光に満たされた展望台に出たところで龍が言った。
「夜はよく来てるよ。今夜も観望会をするんだ」
「お誘いですか?」
「どうだろうな。今日はちょっと靄っぽい。来てくれても楽しいかどうか……」
 龍はするりとはぐらかしながら、そばにあったちょうどいい腰掛岩に尻をおちつけた。椛は砂埃をちょいちょいと払いのけてから、同様に腰を下ろす。
「……どういう観望会か知りませんが、党派的なお誘いならお断りです」
 と弁当を開けながらきっぱりと告げた。龍は苦笑いしながら頷く。
「そう言うと思ったよ」
「だいたい私のようなヒラの白狼天狗、あなたの党派に組み込んだところで無価値でしょう」
「今のところはね」
 いずれは価値が生まれ得るものであるかのように、相手は言う。椛は眉をひそめながら考えた。まず、自分の価値がどの部分にあり、龍は何を期待しているのか――おそらくスペルカードルール、ひいては弾幕決闘だろう。
「……本当に、あんなルールが上手く定着するんですかね」
 思考の飛躍を、あえてそのままぶつけてみる。相手の誘いをはねつけながら雑談に乗るのは隙を作る事になるが、それでも腹積もりを知っておきたかった。
「私はその“あんなルール”を積極的に推進している、しなければならない側だ。存在感ほどには、立場が定かでないってやつでね」
 確かに、飯綱丸龍の立場はきわめて不安定だった。失脚と復権、凋落と復活を幾度も繰り返してきた、惑星の巡り合わせや月の満ち欠けのような星回りの女……直近でも反主流に転落して失脚し、スペルカードルール制定の前後に起こった政変に、ようやく掬われるように復帰している。目の前にいるのはそういう女だった。どんなに不用心な者でも警戒するに決まっている……と用心深い椛は考えた。
「別に、妙な政治的徒党を組むつもりはないよ。ただ、スペルカードルールについてどう思っているか、というところについて……こんなけったいなルールに巻き込まれた側の意見を聞いてみたいだけだ」
「……スペルカードルールのもっとも重要な部分は、争いには一定のルールがあるべきだ、いや、そうした願いをさかしまにとって、ルールがあるからこそ争いが可能であると言いのけた理念にあるでしょう」
 そこまでは正直に言っていい部分だろうと、椛は思った。ここから先は、正直に言ったものかどうか……。
「だが、それにしても妙だと感じないかい」
 黙り込みながら自分の弁当(菜飯のおにぎり、川魚の干物、ぬか漬け等)を食べていると、龍が代弁してくれた。
「君もこんな立場に選抜されたんだから、内心では思っているだろう。どうして弾幕決闘なんだろう? ってさ。別に、他の決闘方法も許されているはずなのに、この大天狗は弾幕ごっこなんかを奨励し推進しているんだろうって」
「そもそも妖怪の賢者様とやらがお出ししてきたいくつかの条文が、弾幕決闘を勧めるように仕掛けられている、とは思いましたね」
 おにぎりを食べた後で水を飲んで、言葉の調子を整えながら椛は言った。
「……具体的には、決闘の美しさに名前と意味を持たせる事、意味がそのまま力となる事、といった……これらの言いは、他にも様々あるはずの決闘方式の可能性をはじき飛ばして、結局は図像的・象徴的・記号的な方式に帰結させてしまうでしょう。だから自分たちはそれに備える必要がある」
「なかなか言うねえ」
「先月の講義で聞きました」
「そうか」
 本当は以前から感じていた事だったのだが、椛はそこまでは明かさない。
「……有史以来、ルールというものには表の理念と裏の理念とがあります。良い悪いではなく、そういうものです」
 たとえば、アステカの花戦争……と椛は結界の外の歴史を持ち出した。ごく少数の戦士を各国の代表として、定まったルールのもとに戦わせることで係争を処理する儀式戦争――しかし一見平等な秩序が敷かれているように見えても、長期的に見れば人的リソースの豊富な勢力のみが伸張し、他の勢力は衰退していくような、戦略的意図が組み込まれた闘争とも見られている。
「種類こそ違えど、スペルカードルールにおける弾幕決闘にもそのような仕掛けがあるのではないかと、こっそり思ってはいます」
「詳しいね」
「私は無学ですよ。さっきの講義で聞いたんです」
「そうか。しかし、スペルカードルールの表の目的が争いに秩序をもたらす事だとして、裏の目的とはなんになるだろう」
「それは……」
 椛は思わず正直に答えかけた。この、隣に座って握り飯を食べている女が、政治的な生臭さ抜きで、奇妙な新秩序について熱心に喋っているらしいと感じ始めていたからだ。この目の前の人物は、意外と、政治的な立ち回りは上手でないのかもしれないとも思った。考えてみれば、天狗たちの間で語り草になっている失脚と復権の繰り返しにしたところで、道理を省みない政治屋なら、いけしゃあしゃあと政治的な宗旨を二転三転させて生き延びていそうなところだ。この女は道理を貫くから失脚し、道理を貫いたからこそ復権したのだ。
 もっとも、道理屋だからといって謀略に手を染めない清廉な人物というわけでもあるまい。椛はなにかを言いかけて、やっぱりやめる。弁当を食べる二人の間に不格好な沈黙が横たわった。
「君は最初から答えを出しているじゃないか」
 ようやく自分の昼食を食べ終わってから、龍が言った。
「争い事には一定のルールがあるべきだという願いをさかしまにとって、ルール無しに争い事は不可能であると言いのけようとしている、か……。たしかにそうだ。スペルカードルールの仕掛け、裏の目的は恐らくそこにある。身も蓋もないことを言ってしまうと、嘘なんだよ。だが、誰もが求めていた嘘だ。この嘘には抗いがたい魅力があるからな……私が党派的なあれこれに巻き込むつもりがなくっても、君だってその大嘘に付き合っている一匹なんだぜ」
「別に逃れられるとは思っていませんし、気にもしませんよ」
「……まあ、どんな大層なルールを押しつけられようが、はいそうですかと支持するかどうかは別なんだがな」
「推進している人がそれを言っちゃいますか」
「言うさ。推進している者こそ、それを忘れちゃいけないだろ」
 龍がニコリと笑いながら言った時、また別の者がやってきた。山の地下洞から飛び出してきたのは龍の従者で、腹心だ。名前を菅牧典という。彼女は椛など目もくれずに主人のそばへ駆け寄ると、その耳元にこしょこしょ囁きはじめる。そこでようやく、椛の存在をも認知したように、ちらりと視線を向けてくるが、すぐ逸らした。
「……おそらく午後の講習は中止になるだろうな。もちろん、今夜の観望会も無し」
 従者からの報告を受けた龍は、立ち上がりながら言った。
「星見には最悪の天候だ。わかるだろ」
 相手の遠くを見る視線を追って、椛は幻想郷を見下ろした。眼下の野と里にうっすらかかっていた靄がみるみると濃く、紅くなっていく。
「……こちらの情報通も予測していた事だが、吸血鬼たちがこの前のやらかしの続きをやらかすみたいだ。今度は新秩序に則った形で」
「やらかしにやらかしを重ねるとはね」
「そして私たち以外は、この郷を救ってくれるらしい大嘘に付き合う腹を決めたみたいだ」
「私たち以外は、ですか……」
 この山の天狗たちは、未だに伸るか反るかを決めかねているらしい。

 そんな夏が過ぎて、秋を越し、冬が終わらない。

 第百十九季は俯瞰的な視点から眺めると幻想郷激動の年といえたが、椛個人にとってはそうした時期だったかどうか。
 特に春。ぐるぐる同じ場所を巡っているような春……という印象を、彼女はあの季節に持っているが、それはおそらく、吹雪の中を巡回させられた日々によるものだ。本来なら花が咲き乱れるはずの時節になっても雪は降り続けていて、一人で外行動に出向くことが現実的に不可能――要するに自殺行為となった。そこで巡回の際は数名からなる分隊を組んで行動し、それぞれの体を索具で繋ぎ合って外出した。巡回路にしたところで、整備しなければたちまち雪に埋もれてしまうような有り様だった(天狗の法力でもって天候に手を加える事も検討されたが、異変の長期化によって状況を維持するコストが膨れ上がり破綻する懸念もあり、却下された)。
 日ごとに地表から熱が失われていくような肌感覚は、あきらかに気のせいではなかった。日報に記録された気温の推移を眺めていると、気温は下がり続けていた――この冷え込みのままだと次の夏頃には氷河期ね、といった類の冗談が冗談でなくなってきている事が、もはやたちの悪い冗談だった。
 といって、絶望的な日々を送ったわけでもないのが、椛にはなんだか不思議な気がしている。たしかに、堪える寒さや、重労働の雪かき、なによりいつ終わるとも知れぬ警戒の、平坦な日々の連続だったのではあるが、そこには妙な朗らかさがあった。吹雪が弱まった頃合いを見計らって、その場にいた全員が雪かき道具を担ぐと、外に飛び出し、総動員で山道を確保する。そうした作業に没頭するうちに、雪遊びかなにかに興じている気分にすらなっていた。本来なら先の見えない状況を憂えて疲弊していくべきなのかもしれないところで、彼女たちには不思議とそういうところがなかった。

 雪解け水が、ぼたぼたと地下道の天井から垂れ落ちてくる中を、椛は歩いている。水はわずかな傾斜がつけられた足元を、両側に刻まれた側溝から溢れんばかりの勢いで流れていった。
 異変はなんだかんだと収束に向かったが、冬の厳寒と風雪にいじめぬかれた排水設備の点検と保全は、外向きの哨戒の人員まで対応に充てなければならないくらいの急務となっている。
 もちろん、普段の役目と違うことをさせられるのだから、事が円滑に運ぶわけがない。一口に水回りの点検といっても、区画や階層に様々な土地権利がひしめいているのだ。それを、いちいちの家に出向いて、点検の許可を貰ったり、保全を勧めたり、運が悪いとすでに起きている不具合に関する文句を言われている。椛もそんな損な役回りの徒党の一員だった。
 で、彼女自身は排水溝の流れを辿っていた。この先、道は排水溝が山の外に出ていって、沢と合流するだけ。誰も来るわけないでしょと言いたくなる、盲腸のような通路なのだが、それでも冠水なりの異常があれば報告が必要なわけで、報告がないまま放置されれば自分たちの責任になるわけで、かといってわざわざ二人三人と人員を割くような場所でもないわけで……と様々なわけが重なって、椛はこのじめついた地下道を歩んでいる。
 皆から押しつけられたかな、とも思う。なんせ薄暗くじめついていて、雰囲気が良くない。妖怪がお化けの類いを怖がるなんてことは、まずほとんどまれないくつかの例外的な場合を除いてあんまり無いのだが、それでもなんとなく嫌ぁな場所だと思うくらいの感性はあった。
 なにより……
「ふーん。うちってこんな場所まで持ってたのか」
 何かがついてきている。
「……別についてきても、面白いものなんて無いと思いますよ」
「自分とこの土地でも、普段こういう場所には行かないのよね。……おー、いい雰囲気」
 ぴろん、といった電子的な音と共にフラッシュが焚かれて、通路の先まで照らされた。椛はちらと振り返って、その光源、相手が手に持っている機器をうさんくさそうに眺めてから、さっさと先を行った。
「あ、ちょっと待ちなさいよ」
 と、少女は相変わらずついてくる。このあたりは彼女――姫海棠はたての一族が、今もって地所として所有している区画だ。
 椛はじっと足元を見て歩いているが、はたてはきょろきょろしているらしい。「すっごい落書」と言ったのは、地下道の壁面の一部にびっしりと描かれたグラフィティに対してのようだった。
「あんたらみたいな悪ガキがやるんでしょ、こういうのって」
「小さい頃に悪さ子だったのは否定しませんが、こういう落書きはした事がないですね」
「芸術的な素養が無かったんだ」
 ちっ、と椛は露骨な舌打ちをしてしまう。グラフィックの才能が無いのは、先月の座学で思い知らされていた。反面、幾何作図の成績は良かったのだが。
「……人様の地所に落書きをするような度胸はないですよ」
「でも人様の地所を秘密基地にする度胸はあったでしょ、あんた」
 使われていない区画の一角を、あんたたちは使われていない荷具を積み重ねて区切り、古畳や火鉢でそれらしく居場所を作って、本やら、楽器やら、将棋盤まで持ち込んで、もしも人に咎められた時のために、そこんちの娘さんまで、秘密基地遊びに誘った……と、はたては続けた。
 椛は、遠いものを探すような目で、足元を見つめ続けている。
「……そんな事ありましたっけねえ」
「とぼけているわけじゃないなら、忘れっぽすぎるのよねえ」
 はたては呆れかえっている様子だった。

 短い春が終わって、夏。
 濡れ濡れてつるつるの岩肌が足を滑らせそうな滝つぼの淵で、椛たちは背中に水飛沫を受けながら、ずぶ濡れになって隊列を組んでいた。
「失礼の無いようにね」
 そう言ったのは、玄武の沢のほとりに準備された宴会場の設営を取り仕切る、飯綱丸龍の声だ。
「まあ、あの人はふらっとやってきただけなんでしょうけど……」
 そうでしょうね、と朝からの全山を揺り動かすようなどたばたを思い出しながら、椛は考えていた。
 龍の言う“あの人”とやらが宴会に満足して博麗神社を発ったのが、未明の事。進行方向はまっすぐ妖怪の山。目的はハシゴ酒……。スペルカードルールに対して依然として微妙な距離を置いている天狗たちも、それくらいの動向は掴んでいた。
 要するに、天狗たちは一個人の気まぐれな飲み歩きにてんやわんやしているのだ――そんな経緯で、椛たち白狼天狗の哨戒部隊は、九天の滝のしぶきを頭から足元までかぶったまま整列させられていた。
「そうはならないと思うけど」
 龍は笑って言った。
「あの人を絶対に私たちの領土に通すなよ。あくまで宴会の場は、この玄武の沢。そして応対は河童たちにやらせる」
 下流に住まう河童たちは、天狗たちと違って、むしろ積極的に新秩序を受け入れていた。一時は完全に衰微していて、保護という名目で天狗の勢力下にあった彼らは、スペルカードルールの恩恵――新秩序そのものの恩恵というより、新秩序の施行にともなうどさくさの恩恵――を大きく受けて、玄武の沢の根のように広がった流域一帯を実効支配している。
「あの新法に与しようとしないのは我々だけだ」
 ぽつりと、自然に出てきたらしい呟きは瀑布の中に消えていくはずだったが、椛の鋭い聴覚は、ばっちりと声を拾ってしまっていた。
「生娘じゃあるまいし。もじもじしていないでちゃっちゃと受け入れたいところだが」
 ……龍の言い様はともかく、消極的な肯定・受容まで含めるならば、スペルカードルールは幻想郷にあまねく行き渡りつつあると言っていい。
 龍は、肩を揺らしながらぶらりと宴会場の方に歩いていったが、まだぶつくさと言っている雰囲気だけは感じられた。

 伊吹萃香が玄武の沢に出現したのは、日が長けてようやくの事だ。樹海の中を相当ふらふらとしていたのだろう。この場所に至るまでに色々あったのは一目でわかる。物干しにできそうな横渡しの角の端には、どこで引っかけたのか服が釣れていた。
「よぉ、やってるかい」
 と朗らかに言いながら、河童たちが準備した宴席を横切り、椛たちが阻むように整列している滝目がけて、ずんずんと向かってきた。無視された河童たちは唖然としているし、椛たちも凍りついている。咄嗟に動いたのは龍だけだった。
「……あぁ! そういうわけですか!」
 と、萃香の横にすっと並ぶと、その肩に手をかけて、体をくるりと沢に向けさせた。
「おおっ?」
「失礼しまぁす!」
 地を蹴った龍の跳躍は、一瞬だけふたりを宙に舞わせて、それから滝壺に落下した。
「……河童の宴会は、水の中でやるに決まっておりますからねぇ!」
 やがて水面に顔を出して、ぷーっと水を吐き出しながら、龍は楽しげに言った。萃香もその横で、長い髪をぷかぷか水面に浮かせ、けらけら笑い出した。
「それもそうだね!――おい。河童のくせに、陸に打ちあがって酒を飲もうだなんて変な料簡だよ。来い!」
 それでも河童たちは動こうとしない。萃香は、へっと苦笑いをして、もう一度言った。
「来いつってんだ」
 いらいらと、負の感情を露わにして言ってあげると、河童たちはようやく機敏に動き始めた。岸の方に準備していた酒や、肴を抱えて、先例に従うように滝壺に飛び込んだり、もうちょっとおとなしく、岸の方から足を水辺につけて、ばしゃばしゃと駆け寄っていったり。
 鬼と大天狗と河童たちが繰り広げ始めたそんなばか騒ぎを、整列する椛たちだけが傍観する羽目になっていた。

 どうにかこうにか、萃香に満足してお帰りいただいた頃には、もう夜だ。水辺には酔い潰れた河童が段々になって打ちあがっているし、なんとか意識を保っている者も、時折沢でぐったりと休憩しながら後片付けを行っている。そんな状況で、ようやく椛たち白狼天狗にねぎらいの酒が行き渡っても、どういう気分で飲んだものかわからない。
「ばかばかしいと思っているだろう」
 よほど感情が顔に出ていたのだろう。宴会では盛り上げ役の道化に徹していた龍が――ずぶ濡れで、半裸で、髪の毛は余興のおもちゃにされ倒して、南国の小島のようになっている――そばに寄ってきて、呟くように言う。ふざけた格好で話しかけて欲しくないな、と椛はひそかに思った。
「ま、あの人も」とは萃香の事だ。「こちらの事情なんざ知ったこっちゃない人だけど、わかってはいるのよ。天狗どもが未だにスペルカードルールに従う事ができないのが。……で、私たちは試されたわけだ」
「試されたんですか」
「そうだよ。今のあの人は、酒のにおいと共に新しい秩序を郷じゅうに振り撒いている、そういう連中の一人だ。今回の件だって政治的パフォーマンスになり得るし……おそらくそういう事を、ある程度は自覚してやっていて、ある部分では無意識にやってる」
「どっちなんですか」
「酒飲みのやる事なんてそんなもんだろ。……でも、今の我々は、正面からその試しにお応えできるわけじゃない。だから話を逸らして、河童をいびる方が楽しいって提案して差し上げたから、あのような次第に」
「そのような次第に……」
 椛はあらためて龍のふざけた格好を眺めて、笑った。
「こら、失礼だぞ」
 さすがに反応が意外だったらしく、龍は上役っぽい調子でたしなめるのだが、それが余計に面白い。本当にふざけた格好だった。
「――ああ、すみません。でも待ってください。それって……」
 椛は相手の言った意味をはかりかねて、尋ねた。
「“今の我々は”って、いつか、私たちも新しいルールに従う日が来る、って事ですか」
「そのために我々は君らの中から選抜して、弾幕決闘要員を養成しているだろ」
「それはそうなんですけど」
 ならば、どうしてこんなに中途半端な事をしているのだろう、と椛は思った。幻想郷の大半が新秩序の傘下に入った今、妖怪の山の天狗たちの立ち位置は、いっそう怪奇だ。旧弊で、頑迷で、それだけならともかく、なによりやっている事が中途半端だ、組織の硬直化だ。
 ……と思っていたら、龍は椛の気分を完全に読みきったように、こうも言うのだ。
「見くびるなよ白狼天狗。私たちの組織は、お前が思っているより、ずっと柔軟だ」
 きっぱりと、そう言い切られてしまっては、椛は何も言えない。龍が言葉を続けた。
「……ま、思うところがあるのは私もわかっているから、あと一年待ってくれよ」
「一年?」
 どうして一年……と、椛は思わず相手の顔を見て、そのふざけた格好を再確認してしまった。わかっていたのに噴きだしてしまう。龍はあきれた表情になったが、それが余計に、椛にとっては面白いのだ――いや、いっそ何をやっても面白い段階に入っている気がする。
「……今の私、そんなになってるの?」
 さすがに気になってきたようで、典に鏡を持って来させた。その従者も、できるだけ主人を直視しまいと努力しているらしく、肩がぷるぷると震えていた。そういえば他の天狗たちも皆うつむき加減だ。
 龍は自分の現状を客観的に眺める。
 どうやら笑うしかなかったようだ。

 椛自身にはなんの役得にもならなかった一連の騒動だが、彼女はそこで古い河童の知り合いと再会して、そのうち、また将棋でもやって遊ぼうと約束した。
「まだやってんの? あの、めちゃくちゃ長ったらしい将棋」
 と、河城にとりに訊かれて、かつての悪友に対してだけ見せるような、あの子供っぽさで椛は答えた。
「もっと長ったらしくなってる」
「一晩じゃ終わんないね」
 それでもいいからと、ある月夜、玄武の沢のほとりへと将棋をやりに行ったのだ。
 一局終わったのに、夜が明けない。

「変な夜だね」
 にとりが自分の持ち駒をばらばらと、投了後の盤面に置きながら言った。
「もう一局と言いたいところだけど、ちょっと休憩しよう」
 椛も、それがちょうどいいと思っていた。持ち寄った酒にほとんど手をつけていなかったのだ。
「やな月だよ」
「誰がなにをやらかしているのかしら」
「どうせ、私たちが知りもしなかった、知ろうともしなかった連中だろうね」
 にとりは、今まさに身にふりかかっている異変にまったく興味が無いらしかった。
「博麗の巫女とその一派が、いいようにしてくれるだろ」
 なげやりな言いぐさだったが、それでいいのだろう。
「こっちがどうこうできる話じゃないしさ。まだ、団結して事に当たれるほど、一枚岩とは言いきれないし」
「うん」
 椛は素直に相槌を打って、微笑みながらも、苦いものを飲むように酒を飲んだ。自分たちは一枚岩じゃない。
「……スペルカードルールは、人間対妖怪や個人の諍いだけではなく、妖怪対妖怪、それに勢力間の係争を肯定している……決闘の方式は弾幕によるものが主流になりつつある。だから、私たち天狗は、弾幕の上手な者をあらかじめ選抜して、有事の際には対応にあたらせる方針を打ち出した。なに隠そう、私自身だってその一員よ。……つまり、ある種の決定権が、私のような木っ端にさえ行き渡った」
 私は最初から答えを出していた。
「それすなわち、論の転がしようによっては、天狗の内にある過激派が、他の天狗たちの統制から離れ得る形でもある」
「……白狼天狗は今も?」
「わからない。大丈夫だとは思うけど。昔のような事が起こらないとも言いきれない」
 かつてはそういう事もあった。
 にとりはため息をついた後で、相手の事情を察したように言った。
「考えすぎだよ。スペルカードルールは、そこまでの法的な力は持っていない」
「でしょうね。外野から見ていてもわかる。あのルールは、このお遊びの将棋と一緒」
 と、椛は駒の散らばった盤面を掌でぶっ叩いた。これがあまりに勢い余っていたせいで、自分の調子がおかしい事を自覚し始める。長ったらしい月夜のせいだろうな、とも予感した。
「その場の勝った負けたこそあっても、勝ち負け自体はさほど重要視されていない」
「……表向きは妖怪たちの闘争を肯定しているけどね」
 にとりは、盤面からこぼれた駒のひとつをつまみ上げて、ぱちんと駒を裏返して盤面に戻しながら言った。
「でも、言われてみれば“成り”があるのも確かな気がする。……あんたも知ってるだろうけど、あの新法が公布された直後、私らはここぞとばかりにずいぶん好き勝手したのよ」
 そうしなければ、玄武の沢の河童たちは、今ここに地歩を固める足掛かりすら作れていない。一時期は天狗の傘下に組み込まれるほかないくらいに落ちぶれていた、技術屋氏族にすぎなかったのだ。
「ま、私たちの独立を見ていればあんたら天狗がそういう事を警戒する気持ちもわかるんだけどね……そういえばさ、この私たちの独立と水域の実効支配って、誰が保証してくれていると思う?」
 にとりはクスクスと笑いながら、ふと思いついたように話題を変えた。そして、椛が問いかけに答えるよりも、早く言葉を続けた。
「実を言うと、誰も保証してくれていない」
「……は?」
「不思議だろ? 妖怪の賢者なり、博麗の巫女なりが現状の追認を行ってくれる気配すらない……でも、なぜか、私たちは強固なルールの庇護下にあると勝手に思われていて、対立勢力も手を出しかねている」
「それ、私なんかにぶっちゃけて良かった話?」
「どうなんだろうな。口が滑ったかもしれない」
 きっと長い夜と月のせいだ。
「だけど……これでわかる事があるだろ。ルールの及ぶ範囲について、この山に対しては一線が引かれている気がするんだ。ほら、こないだの、あー、あの方がやった異変も」
 というのは伊吹萃香を指していた。
「あれだって、山からこっちでは騒ぎを起こしていない。天狗みたいにどっちつかずになるまでもなく、私たちはルールの外に置いた扱いをされているのさ」
 なぜ、と問いかけるまでもなく、椛にも思い当たるところはあった。
「……私たちの腹の内が物騒すぎるからかな」
「だろうね。今のスペルカードルールは、悪用しようと思えばどうとでもできる。でも、少なくとも現状では、あんたが言ったみたいな“その場の勝った負けたこそあっても、勝ち負け自体はさほど重要視されていない”先例が作られ続けている」
 と、つまみ上げた駒の裏表をくるくるとひっくり返して見せた。
「表面では闘争を肯定しているけれど、その裏では闘争がもたらす実利を削いでいる。……それが私の見るところの、あのルールに込められた表と裏だね」
「……私は、儀式のように思った。それも儀式を争いの道具に用いるのではなく、争いの儀式化」
 椛は言った。
「争いは終わっても火種が燻ぶり続けるけれど、儀式が終われば、あとは宴会でもやって和解するしかない」
「けったいなルールだよ。ほんと」
 にとりはぐいと酒を飲むと、このルールの施行には二段階のプロセスが準備されているんだろう、と続けた。
「まず第一段階では、スペルカードルールの公布直後に起きるであろう――いや、実際に起きた――妖怪たちの、身勝手な係争を否定しない。かといってルールの名のもとに承認もしない。積みあがっていくのは、様々な勢力が新秩序に従ったという意識だけ。その間に、博麗の巫女らは、人里周辺――自分たちの領域で起きてた異変を、ルール本来の目的に沿って解決していく。先例としてはこちらの方が重要視されるし、同時にルールそのものの実効能力も育てる事ができる」
「そして第二段階で、ようやく駒が成るわけ? 博麗の巫女らによる異変解決という、強い先例を持ち込んで、こちら側の係争に積極的に介入するって?」
「そこで行われるのは、きっとあんたが言ったような闘争の儀式化だ」
「回りくどい……いや。二年足らずで、よく駒組みを整えられたと言った方がいいか」
 そう言った椛は、この幻想郷の勢力図を将棋の盤面のように思っていた。だとすれば、樹海からこちら側が、椛ら山の妖怪にとっての自陣だろう。あちらから見れば敵陣。
 ……この喩えは適当では無いな、とも思い直した。妖怪の山陣営の駒の向きは、既に多くがスペルカードルールに従って反転していた。新体制をこころよく思わない守旧派の中には、ルールに背こうという動きもあるにはあるが、それは無視あるいは黙殺といった形であらわす事しかできていない。消極的な承認と解釈して押し通す事ができるものだった。
 この山には敵なんていないのだ。ただ混乱の予感だけがあるけれども、それだって実態のあるものではない。
「とはいえ、博麗の巫女みたいな人間のガキ自身が、そこまで考えてるかどうか……。人となりを伝え聞くに、あやしいと思っているけどね。実際には、妖怪の賢者たちが仕組んでお膳立てしているんだと思う」
 にとりがしみじみ言いながら、また酒を一口。椛は酌をしてやる。
「あいつらは過去のこの山でどんな色々が起きたのかを知っているし。そうした事の繰り返しを警戒したい気持ちも、わからんでは……」
「過去、か」
 にとりの口から出てきた単語を呟き返しながら椛は納得した。
 結局、自分たちに立ち塞がっているものは、自分たちの過去に他ならない。

 やがて始めた第二局が終わる前に、夜は空けた。
 お互いにそれぞれの内情を喋りすぎた気はするが、必要な事だったと思っている。

 第百二十季の春は、ちょっと趣きがなかった。一年中の花が咲き乱れるというのは、あまりに奔放すぎた。
 天狗たちはそんな中でも、年間行事として定まっていた大宴会の花見を強行して、桜以外の花を摘んで捨ててしまった――もっとも、摘んだそばから花々はまた咲き誇るので、あまり効果は無かったらしいが。
 摘まれた花は宴会の後、山中の排水に流して捨てられてしまう。捨てるのを主導したのは飯綱丸龍だった。

「木っ端天狗のくせに人使いが荒いぞお前」
 龍は夜空を見上げながらぶつくさ言っていた。椛はその背後の岩に腰かけて、この三人きりの――龍のそばには、いつもと変わらず典がつき従っている――観望会に参加している。
「でも、わざわざ私にかけあったんだ。何も考えもなしにやらせた事ではないだろ」
「花の種類まで分別して流してくれたので、下流の方でも集計するのが助かりましたよ」
 ほのめかすような言い方に、龍は目を細めた。
「河童を使ったのか」
「ただの将棋友達ですけどね。……で、ええと。どこから説明すればいいか」
「どの花が下流にやってこなかったんだ?」
「椿」
 想定通りの龍の問いかけに、椛は即座に答えた。
「好きな花ですよ……ですが、種類なんてなんでもいいんです……この花を運んで、山の中に迷い込んでいった大量の水は、おそらくどこかに貯めこまれています」
「昔、君ら白狼天狗が叛乱を計画した時のようにかい?」
 それを聞いた典が、三者の中では最も露骨な反応を示したが、それもかすかな表情の動きだけだった。
「地中のどこか、使われなくなった階層を大規模な貯水槽として、それを利用して下の階層に対して水攻めを行う――かつて叛乱を起こした白狼天狗らの計画は、そのようなものだった」
「氾濫で叛乱」
 そっと洒落たのは典だったが、椛と龍は無視する。
「だが、あの時は計画が漏れた――白狼天狗の中から密告者が出たからな」
「そうなんですよね」
「……犬よ、犬よ、あんたらまたやってんのね」
「言うなって典」
 無視されて悔しくなったのか、妙に子供っぽく詰る典を、龍はたしなめた。
「彼女がその密告者だったんだ」
「じゃあやっぱ狗じゃん」
 どうやら犬嫌いらしい。
「……まあ、そうですね。それにこっちが叛乱を起こす兆候はありませんよ。ただ、まだそうした過去だけが、性懲りもなく残っているらしいと、犬らしく報告しただけです」
「当時、河童の治水工事や他の妖怪たちの採掘記録まで含めて、我々はあらゆる資料を精査したつもりだったんだがな――それでも漏らしてしまうものは漏らしてしまうか」
「漏らすって言うと、おねしょの話みたいですね」
「そうは言うがな典、この山のお漏らしはお前のお漏らしと違って大事になるぞ」
「今もやらかす事があるみたいに言うのやめません?」
「……で、これは友人がやってくれた貯水量の試算です」
 椛は持参した資料を龍に渡した。
「ここ数年の天候と、山からの実際の排水量の記録を照らし合わせた結果、昨年の春雪異変の雪解け水が、そっくりそのまま貯め込まれている計算になりますね」
「ふっ、この山の膀胱ったらそんなに切羽詰まっていたんだ」
 相変わらずお漏らしへの固執を見せる典。
「……これが山の外に決壊すれば、玄武の沢どころか、更に下流にある人里まで、あらかた押し流されると。君の友人はそう予測しているわけだな」
「多少の吹かしというか、防衛上のフェイクはあるかもしれませんがね。玄武の沢水系に手を出したがる勢力も少なくなるでしょうから」
「……山の内側――私たち天狗が住んでいる地下空間に流れ込めば、どうだい」
「それは大昔に試算して、大昔に大騒ぎしたでしょう」
 椛の答えに、飯綱丸は頷いてから言った。
「今はあまり大騒ぎするべきではないな。……とにかく、山の中の水を溜め込んでいる空間を特定して、少しずつでも排水を行っていくか、それとも放置しても大丈夫なものか、見極めなければいけない」
「なるべく少人数で事にあたるべきですね。とりあえず――」
 と典が誰かの名前を言いかけて、椛の顔を見て黙り込んだ。あとはこちらの問題だからと、追い払いたいのだろう。
 椛としても、もとよりそのつもりだ。
「じゃ、あとは頼みましたよ」
 そう言い捨てて、その場を離れようとしたのだが、ふと夜空を眺めると綺麗な星の群れだ。龍と典が、地上的な懸念への対応を検討し始めるのをよそに、椛は一人のんびりと星空観察を続行する事にした。

 椛がその後の顛末を聞いたのは、半年ほど経ってからのこと。弾幕決闘専門の人員を選抜する制度の廃止と養成体制の解体が始まった頃だった。個人面談で出会った龍に、
「あ、そうだ。あのあれのこの件、まあどうにかこうか、なんとかなりそうだよ」
 と、ついでのように伝えられて、それだけ。そもそも曖昧な語が多すぎる。
「なんとかなるのなら、それでいいです」
 椛は興味もなさそうに答えた。彼女の中ではもう終わった事だった。
「だが君には借りができてしまった。しかも二度もだ」
「一度目って、あなたに叛乱を密告した事ですかね」
「そうだ」
「その時はただの感情的な身勝手で、今回はただ大天狗様に報告すべき事を報告しただけですよ」
「身勝手?」
「ええ。友達と作っていた秘密基地が水没させられたんで」
 昨日まで友達と根城にしていた倉庫街の一区画が、闇の中で水に沈んでいた時の事を、椛はもう曖昧にしか覚えていない。だが、今でもその感情を想像することはできる。
「だからムカついて、そのへんにいた、名前も知らない大天狗様にチクりました」
「当時の私は指導部員という立場で君らの近くにいたからな」
 それが当時の白狼天狗の一部にあった、不穏な動きを察知しての出向でもあった事を龍は教えない。言ったところでなんにもならない話だ。
「ま、だからいいんです。別にあなた方を助けようとしたわけじゃない。全部、私の感情的な事だったんですから」
「そんな事で救われてしまっては、こっちの立つ瀬が無いんだよ。木っ端天狗」
 助けられた側にもかかわらず、凄みをきかせて吐き捨てた飯綱丸だったが、もちろんそこには諧謔も含まれていた。そもそも、彼女は立つ瀬とか面子などより、自分たちの運命のおかしみの方を面白がる人であろう。
 それにしても……と椛は話題を変えた。というより、面談の本来の目的に話を戻した。
「選抜制度は廃止ですか」
「先だってに起きた、花の異変の終了をもって、必要が無くなったと判断した。今後は、あんな妙ちくりんな制度を押しつけずとも、スペルカードルールの受容は積極的に行われるだろう」
「……あの異変って、そんな大層なものだったんです?」
「言っただろうが。あと一年待てって」
 ニヤッと笑った龍の言い様を見るに、花の異変は、盤面をすべてひっくり返すくらいに大層なもので、また周期的なものだったらしい。
「私たちはああいうのにたびたび救われている」
「なんともはやですね」

 数日後、椛は石を掘り抜いた廃倉庫の一角で、同行者の話題に付き合ってやっている。
「へー。それであんた、その弾幕ごっこ? のエキスパートだったんだ」
「うーん、エキスパートってほどでも……」
 はたてと会話していると、時々、調子が狂うくらいに話題が噛み合わない事があることに気がついていたが、最近になってようやく理由がわかった。彼女は弾幕決闘の事すら、よく知らなかったのだ。さすがにスペルカードルール云々の時代の変化くらいは認知しているが、それすらもなんとなくの時代の空気感でしか受け止めていない。だが、世の中興味が無ければそんなものなのかもしれない。
「ま、選抜を受けた役目ですし、多少は適性があるのかもしれませんけどね」
「じゃあ見せてよ。その、あんたのスペカってやつ」
「スペカて」
 椛は苦笑いしながら、ただ空手を見せて応じた。
「スペルカードそのものは、単なる名前にすぎません。弾幕そのものとは別もの」
「はあ? なにそれ。めんどくさ」
「そうなんですよねー。でも、“意味がそのまま力となる。”んですよ」
 少し、相手をなぶってしまっている気がしてきた。「私が見たかったのは、弾幕そのものよ」とぶつくさ言っているはたてに、話を続けてやる。
「……私にはまだ固有の弾幕ってものがありません。いや、与えられなかったと言うべきか」
「ん、どういう事?」
「最初は一人でなんでもかんでもやる流れだったんですが、いつの間にか弾幕を設計する部門と兵隊部門とにわかれちゃって。で、こっちはただの兵隊だったんでね」
「はぁー、楽曲提供してもらえなきゃ歌う事がなにもないアイドルみたいね」
 兵隊とアイドルは違う……はずだ。
 はたては、何段か積まれている荷役台に乗っかると、アイドル歌手のカリカチュアっぽくくるくる振る舞って、歌ってみせる。そのツインテールが揺れるのを見て、案外似合うなと椛も感心した。
「――っでぇ、なんでこんな……昔の秘密基地があった場所に、私を呼び出したの?」
 と、はたては仮のステージ上から尋ねてきた。椛はついと目を逸らして、天井を見上げる――そう、あのあたりまで、この区画は完全に水没していたのよね。
「……最近、昔を思い出す事があって」
「ここの思い出?」
 はたては怪訝な顔で聞き返してきた。
「あまり良い思い出じゃないじゃん。そもそもよく覚えてないし」
 なにせ、もう六十年を二周りしたよりも昔の話だった。
「あの時期で覚えてるのは、うちの一族が相続の関係でめちゃくちゃごたついて大変だった事くらい」
 そして椛が覚えているのは、そのごたつきを白狼天狗の一部の過激派が利用しようとした事くらい。
「……楽しく遊んだ思い出もあったはずなんですけどね。私もすっかり忘れちゃいましたよ」
 苦い大ごとばかり覚えていて、間違いなく楽しかったはずの小さな事たちを忘れてしまうのも考えものだな、と椛は思った。

 とりとめのない話をだらだらとして、はたてと別れてからも、椛はその場を離れず、ぼんやりと物思いにふけっている。

「……まあ、そんなわけだから。六十年周期の大異変を経た今、スペルカードルールについて、当事者たちは必ずしも法と自覚しない――いや、積極的に自覚しようとしなくなるとみられる」
「胡乱極まってますね」
 数日前の面談の終わり、龍がぽつりと言った言葉を聞いて、椛は立ち上がりかけた席にまた座り込んだ。
「どういう事です?」
「残念だが、他の者とも面談しなきゃならない。時間が無くってね……あんなもの、別に有ったところで、どうでもいいルールだ。だからみんな従ったんだよ。有っても無くてもいいし、それなら有る事を許されていい。やがてはその程度の存在にすぎなくなっていくだろう」
 わずかな間があって、椛は微動だにしなかった。龍は苦笑いする。
「……では、私たちがここ数年そんなものに翻弄させられたのがなんだったのかというと、それもちゃんと意味はあるだろうよ。――いずれ、いつか、情勢がまたしても極限に達して、この郷が混乱する時が来るかもしれない。その時、誰かが、法として認識されていなかったこのルールを、確固たる法として再発見するんだよ。かつて幾度も起きた混乱を鎮めて、この世界に平和をもたらした、偉大なルールとしてね」
 龍はそうした事を話した。うまく言いくるめられた気もするが、まあいいだろうと椛は思った。兵隊が考える事ではない。
「いずれ、いつか、ですか」
 椛は今度こそ立ち上がった。
「まあ、それはともかくとして、ご忠告通りに気をつけておきますよ。射命丸文さんの事はね」

 椛もこの鴉天狗の事は知っている。いわゆるところの博麗通(天狗の中でも、博麗の巫女をはじめとした在野の人物との間に人脈を築き、情報の収集・分析にあたった者の俗称)である。組織的な勢力につきもののセクショナリズムを嫌っているが、飯綱丸龍とは元々近い人物だった。
「使いどころはあるやつなんだがな」
 と、龍も苦笑いをして教えてくれた。
「……君が持ち込んできたような仕事には向いてないというか、まあ教えなくてもいいかなと思っていたら、なにか嗅ぎつけたらしい」
「私が言うのもなんですが、犬みたいな方ですね」
「あまり言いたかないが、お喋り屋だしな。そのうえ政治的立ち回りがポンのコツだ」
「ポンのコツですか」
「だがバカにもしていられない。筋金入りのポンコツは周囲も巻き込んでずっこける」
「大問題ですね」
 そうしたやりとりを思い返しながら、ポンのコツて……と、椛はちょっとおかしみを覚えた。以後、彼女は文に対してわずかに親しみを込めつつも、ほんのり舐めくさった態度を取っていくようになるのだが、それはともかく。
 自分なりに、新しい時代を受け入れるにあたって、この山の過去に対しての整理がつけられた……気がする。自分には直接関わりなかった叛乱計画の遺構を発見して、なにがどうなって気持ちの整理がついたのか、椛自身にもわかっていないのだが。そうしたものが残っていた事に、彼女の第六感が居心地の悪さを覚えていたのかもしれない。龍が言っていた六十年周期の大異変とやらも、そうした名残りや残滓を、すべてちゃらにして、リセットできるわけではなさそうだ。
 こちらが忘れてしまったり、見すごしたりしても、水は地下を流れ続ける。
 そして事態が極限に達した時、誰かが再発見するのだろう。

 スペルカードルールは幻想郷の隅々まで浸透していったが、博麗の巫女による妖怪の山への介入が行われるまでには、まだ若干の時間が空く。
 椛は相変わらず滝周辺の自警団員をやっていた。選抜制度があった頃の忙しさがすぽんと抜け落ちてしまって戸惑う事もあったが、すぐに慣れた。
 やがて、守矢神社が遷ってきた。天狗の上層部はてんやわんやしているが、有効な手を打てているようには思えない。同時に、博麗の巫女の介入を誘うには格好の機会となっていた。
 そんなある日、飯綱丸龍が椛を観望会に誘ってきた。
「“あ”いつより先に、博麗の巫女と一当たりしろ」
 龍が微妙にイントネーションを変えて椛に命じた “あ”いつとは、射命丸文の“あ”を指していた。
「どうして」
「本人に悪気は無いんだろうが、“あ”れは近頃、博麗の巫女陣営に近づきすぎだ。こちらとしても博麗神社が山のごたつきに首を突っ込んでくれるのは歓迎したいところだが、“あ”いつが最初に遭遇するのは、なにか茶番のように思われるおそれがある」
 なるほど。と椛は過去のやりとりを思い出して納得した。本人に悪気は無いというのが、なんとも……。
「それは構いませんが、こちらにも勤務シフトというものがありましてね。博麗の巫女が来た時に、ちょうど哨戒任務にいるかどうかは……」
「先の制度でも、完全には廃止されていない精神があるんだよ――弾幕決闘要員として選抜された哨戒員は、制度の廃止後も有事の際には率先して前線に立ち、柔軟に事に当たるべしとかなんとか」
「ひでえ職場ですね」
「それより、こちらの心配事は山の上の神社の方だ」
 龍はほのめかすように言って、続けた。
「彼ら自身の神格ももちろん大変な事だが、それと同時に湖――巨大な水源をともなって遷り住んできた事による、地政学的変化が起きている」
 やりようによっては、その水源を使い、天狗たちの要塞を水没させ、玄武の沢流域を溢れさせて、人里を物理的に圧し潰す事もできるだろう。かつての白狼天狗たちの叛乱計画と同じように。
「そこまでやるような連中とは思えないが、可能性がある事が問題だ……結局、心配事とは続くものなんだよな、ええ?」
「私はただの兵隊なんでね」
 椛は肩をすくめた。
「そうした気苦労はすべて、あなたたちにやってもらいますよ」

 そんなわけで、犬走椛は、九天の滝にて、博麗の巫女を待ち構えている。
ノリ自体はおおむね体育会系の部活動に近い
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
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コメント



0.簡易評価なし
1.100ひょうすべ削除
ひでえ職場ですね……
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100東ノ目削除
選抜射手だなんだと天狗が組織力を発揮していなかったら風神録4面椛はもうちょっと常識的な強さだったんじゃなかろうかと、そこは苦笑いせざるを得ない
4.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。ルールの制定による政の仕組みの変化という本流の中心にいながらも、諦観と愚痴を示し、それでいて流れには無理に逆らわないという椛の立ち位置が一介の兵という感じで、なんだかなあと。政の本質や虚偽なんかを近くで見てきたからこその感覚の気だるさが良かったです。
5.100南条削除
面白かったです
スペルカードを巡る政治劇がとてもよかったです
飄々としていながらとんでもない過去を持っている椛が輝いていました
6.90名前が無い程度の能力削除
秘密基地を水浸しにされたことによる怒りから告げ口した過去が現在の椛を突き動かす過程になぜか共感するものがありました。