――どうせ、最後にはすべて土に還っていく。
陰鬱な太陽照らす寒い日のこと。
暖炉の薪が勢いよく爆ぜた。その音で目を覚ます、私は、うとうと気分でそのまま眠ってしまっていたらしい。
机に出しっぱなしのティーポットの中身は冷え切っていて、勿体ない気持ちと、申し訳ない気持ち、両方ぼんやり去来した。
今日はやに冷える。
暖炉の炎はなお暖かなほのオレンジ色の光を揺らめかせて、弛みなく。
ため息をひとつ。
単に寒さへの異議申し立てが半分。もう半分は、誰からも羨まれるくらい素晴らしい魔力を持っていたって、この肌寒さを軽減してくれるわけじゃないって意味で。
じゃあ私は普通の人間や妖怪と何が違うのかといえば、この寒さに晒され続けても死にはしないってこと。それくらい。ただ寒いだけ。
ようするに……私は、他者より幾分か安定性を持っている。セルロースで頑健に補強された植物細胞と同じく。
なれど、植物たちのように生きるのはずっとずっと難しい。私はただ長く生きすぎただけ……なのかもしれない。
「……なにか羽織るもの、あったかしら」
だって、ほら。寒風吹きすさべども花々はケープを羽織ったりはしないものね。寒さへの対抗手段は種々折々だが、花弁という器官はたいていは吹きさらしだ。
そんなことを思いつつクローゼットのある寝室を開く。その刹那。やわらかな警戒心というやつが、やにわに頭を持ち上げた。
窓が開いてる?
師走の凍える空気が吹き込むさなか、開かれた窓がカタカタと健気な音をたてていた。寒いわけだ。
けれど、咄嗟に警戒したのは開いた窓のせいじゃない。単に自分で閉め忘れたのかしらって、お茶目さんねと、そう思わなかったのは……
「バラの、鉢植え? この季節に……」
開いた窓のすぐ下に、見覚えのない赤いバラが咲いていた。小ぶりだが趣味の良い鉢植え。大輪と言うほどではけど、少し怖いくらい綺麗なバラだった。造花かも、という疑いなど浮かびさえしないほどに。
「どちらさま?」
返事はない。
窓の外はいつも通り、太陽の畑の殺風景が広がっているだけ。新たな季節を待ち望み、明日明後日の命を蓄える季節。妖精たちも大人しい。その枯れた世界を背景にして、ただバラだけが力強く咲き誇っている。
とりあえず、警戒を解く。というより思わず解いてしまった。
それほど生命力に満ちた美しさを、彼はたたえていた。鋭い棘。シャンとした花弁。持ち主の花を愛する心が伝わってくる。少なくとも悪意ある者の仕業じゃない。悪意ある者にこの花は育てられない。
……もちろん、植物は意識など持たない。
愛されようが愛されなかろうが気にせず育つ。なれども注ぎ込んだ愛情は確かに目に見える形で現れるもの。
もっともそれが植物にとって幸福であるかは別の話。いや、もとより主体となる意識が存在しない彼らのこと。幸福も不幸も無い、というのが理性的な回答なのだけど。
「それにしてもいったい誰の仕業かしら……まさか、プレゼント? なんてね」
だとしたらずいぶんと不躾なやり口だ。人の寝室に放り置いていくなんて。
そう思って鉢を持ち上げて、ようやく気がついた。鉢の下に添えられた紙片の存在。
これは……手紙?
手にとって見れば、家柄と行儀の良さを感じる品の良いな字だ。一方でどこか不安定な、おぼつかないものも感じる筆致。
内容はシンプルだった。
『この子を治してください』
この子、とはバラのことだろう。ちょっとすると奇妙だけど、すぐに理解できた。この手紙の主は、私――風見幽香が花に精通した妖怪だと知っているのだろう。自分の育てているバラを私に診て欲しかったのだろう。お花のお医者さんか何かだと思われたのかしら? ふつう、もっと先に悪評を聞くものだけど……太陽の畑には近づくな、とか。まあ悪い気分でもない。
それより、いくら居眠りしてたとはいえ侵入者(依頼者と言ってあげるべきかしら?)の気配にちっとも気がつなかったのが、不思議。私も丸くなったのかしら……。
「あらこの子、根腐れしかけてる。きっと水をやりすぎたのね」
その程度、治してやるのは訳無い仕事。合わせて手紙の裏に『あまり水をやりすぎないように』と添えておく。
むしろ問題はどうやって返すか、だけど。
「まあ、同じ場所に置いておけば勝手に取りに来るかしら」
いったい持ち主はどんな人物なのだろう。
でもこれだけ素敵な花を育てられる相手。ぜひ一度話してみたい。
そう思う一方で……同好の士か……もう何十年も友達付き合いなんてしてないな。同じ草花を愛するからこそ、各々の違いが目についてしまうもの。だからこそ、互いに姿も知らない、声も聞こえない、その方が、良いのかもしれない。いえ、それ以上に……。
「ちょっと寒いけど、我慢してね」
バラの鉢を窓枠に乗せてやる。私の思慮など露とも知らず、バラは冬の陽の光を浴びて鮮やかに咲いていた。
◯
翌日。薄曇りの少し暖かな日。
予想通りというか、私が少し目を離した隙にバラの鉢は消えていた。代わりに同じ筆致で「ありがとうございます」の置き手紙。
「律儀なんだか、自分勝手なんだか」
それにしても。
今日は心持ち周囲の魔力を見張っていたつもりだった。なのに反応は皆無。
植物でもなければふつう、生きてる限り何らの魔力痕跡も残さずにはいられないハズなのに。妖精、人間、妖怪、神様、なんであれ。
いっそ夢かと思う方がしっくりくる。手紙が残されてなければそう信じても良かった。でも手紙は実物として手の中にある。
不思議ね――なんて、そんな風に天を仰いだのはいつ以来だろう?
もっとも……それもすぐに忘れてしまうんだわ。私の生活は安定性という軸に巻き付けられた蔦のようなもの。異常も、事件も、深い土壌に撒かれてしまえば、後は少しずつ少しずつ混ざり合っていくだけなのだから。
そのはずだったのだけど。
『前は、ありがとうございました。この子も、治してください』
更に数日して、また同じ場所に鉢植えと置き手紙。
今度はラナンキュラスの花たちだった。見た目はバラにも似ているが、実際はキンポウゲの一種。本来は春真っ盛りを彩るような子だけど、相変わらず世間の真冬を知らぬかのように鮮やかな紅を咲かせている。
……ところで一つ、その時点で確信したことがある。前のバラの時点で予想はしていたけど、依頼主は温室で花々を育てているのだろう。
とはいえ、この幻想郷で温室の植物園を持てる者などそうそういないはず。かなりの好事家? それとも小金持ちの有力者かしら?
おまけに妖怪の私を恐れないときている。少なくとも向こうも人外だ。それもそこそこ以上の力を持った。
私の知ってる相手なのかしら?
「あら……」
ふと、眉をひそめてしまった。
美しいラナンキュラスの鉢なのに、こんなに綺麗に咲いているのに、無理をしすぎた夜明けのような疲れの色が見て取れる。
根詰まりだ。
ひと目には美しい植物たちも、言うまでもなく、その裏側では地中に力強く根を張って水と栄養を汲み上げながら生きている。当然、水も栄養も限られた原野にあっては僅かな糧も逃すまいと根をいっぱいに張り巡らせるもの。長き遺伝子の旅路の中で身につけた途方もない生存戦略の些細な一例。
問題は、このような狭い鉢に置かれた場合。伸びすぎた根が鉢の中に詰まりすぎて、水や栄養が十分に行き渡らなくなる。そうした現象を根詰まりと呼ぶ。
だからそうならないよう鉢の大きさはよくよく考える必要がある……のだけど、べつに難しい話じゃない。ガーデニングの知識としては、初歩的な部類に入るだろう。
つまり。
このラナンキュラスの持ち主はガーデニングの知識に乏しい?
根腐れや根詰まりの対処もわからず、碌な噂も聞かないだろうこの風見幽香を頼るくらいに?
「おかしいわねぇ……そんなはずは、ないのだけど……」
花々を大きな鉢に植え替えてやりながら、頭の中からは依頼主のことが離れない。
どうにも一致しない符号。
割り切れない違和感。
依頼主はガーデニングの初心者である。それはいい。
依頼主はこの風見幽香を恐れない程度には力のある妖怪だ。それもいい。
それだけなら、力ある妖怪が横好きで育ててみた花の異変に泡を食って、私の元を訪れた(そして仕事を丸投げした)。そう解釈すれば筋は通る。妖怪なんて自分勝手な連中ばかりだし、教本に頼るより先に他力本願がでてくるもわからないではない。
問題は、このラナンキュラスの美しさ。前のバラたちにしてもそう。彼らは……初学者が手慰みに育てたにしてはあまりに、華麗に咲きすぎている。
おまけにこの花々は温室で育てられているはず、ときている。
……温室ね。
確かに大気温度は植物の生育に重要だけど、それだけでは不十分。例えば日照時間の不足。冬場は特に日が短いから、その分のケアは欠かせなくなる。また何よりも大切なのは土だ。結局、花の美しさは土の力に依っている。目に見えないものだからこそ、繊細な気配りと確かな知識が必要になる。
無論、水をやりすぎて根腐れさせるようなガーデナーには到底望むべくもない資質。
しかし現に花は咲き誇っている。自らの美しさなど知らぬだろうに。知るを識る意識さえないだろうに。
いったい依頼主は何者なの?
例えるなら、最高峰のスペシャリテを振る舞うシェフが、その一方で包丁の握り方すらおぼつかず、塩と砂糖を間違える……そんなアンバランスさ。
それとも私が難しく考えすぎなのかしら? 単純に、依頼主と花を育てた人物が別だという可能性だってある。あるのかしら? それもまた妙な状況だ。
「……花のことでなきゃ、放っておくんだけどね」
考えても答えは出ない。
もとより丁寧に考えるのも趣味じゃない。優雅であれば実力行使も悪くはない。
「べつにお客さんというわけでもないんだし。捕まえて、問いただすか」
いつだって結局はシンプル・イズ・ベスト。
『根詰まりを起こすので、鉢のサイズは考えるように』と応答の手紙を添えて、鉢植えは窓枠に戻しておく。きっとまた依頼主は取りに戻るだろう。
しかし相手はどういうわけか、私の魔力感知をすり抜けてくるらしい。ならば動かずして獲物を捉える食虫植物たちに学ぼう。身も蓋も無い言い方をすれば「寝ずの番」。どんな方法で姿を隠しているにせよ、鉢植えを取る瞬間は必ず訪れる。動くのは、その瞬間だけでいい。
「ふふ……」
静かな、けれど確かな高揚感が胸の底に渦巻いていく。
期待している? 私……姿の見えぬ奇妙な同好の士を思い描いて。
長生きしすぎて感情なんて枯れてしまったものと思ってたのに。
切なる昂ぶりを抑えつつ、むしろ私は気配を極限まで消して窓の影に潜む。自分の家で何をしてるんだか。しかし露骨に姿を見せればきっと、依頼主は現れまい。
だから私は私に魔法をかける。気配を消す魔法。意識を消す魔法。
重要なことは、雑念を消すこと。
思考思想思念思慮思惟と夢想を落とすこと。
気配は情念と執着から生ずる。
けだし、気配とは意識そのものなんだろう。
故に植物のように、植物たちのように、ただの路傍の石ころのように、ただ、ただ、ただ…………
●
……。
いつからだろう。みんなの心がわからなくなったのは。
わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
そもそもいつからだろう。築きあげたわたしの世界に、愛情も友情も欠いた無為の式場に、みんなが入り込んできてしまったのは。
わたしは流れ着いた土の島。島は泣いたりしない。
いつからだろう。いつからだろう? 安定性を軸にまわるわたしの世界は徐々にカオスに満ちていく。
皆の心がわかるようになるほどに、みんなの心がわからなくなっていく。
愛さなければ泣くこともないのに。
死んでしまった心は蘇らないはずなのに。
誰とも交わらなければ、わたしはひとりでいられたはずなのに。
わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
わたしは流れ着いた土の島。島は泣いたりしない。
泣いたりしない。
泣いたりしないんだ。
そのはずだったのに。
……。
◯
「はっ……」
咄嗟に我を取り戻した。
今のは、なに? まるで誰かの思念を直接注ぎ込まれたかのような……。
それにしても、寒い。すごく寒い。歯の根が合わないほど身が震えるのは、鳥肌が立つのは、師走の空気のせいだけじゃない。心の縁を氷の鉤爪で鷲掴みにされたような悪寒。
それにすごく、さみしい。さみしいの。石ころは痛みなんて感じない。泣いたりしない……そのはずだったのに……
「……らしくもない」
濡れた頬をぬぐい、気を引き締める。既に胸にある確信。これは攻撃だ。精神への攻撃。
そして妖怪とは精神に依拠する存在。なればこそ、心を侵食されるのはやばい。とてもやばい事態。
当然、普段ならこんな攻撃喰らうはずがない。
けれどさっきまで私は、気配を絶つために意識のスイッチをOFFにしていた。限り無く無意識に近い状態……つまり極めて脆弱な状況だった。
まさか花の治療の依頼者はこれを狙っていたの? 私を倒せる隙を作るために――
「あら」
真っ黒い一つ目がぎょろりとこちらを見ていた。そこから伸びた黄色い二本の触手が、窓枠に置かれた鉢植えを掴もうとする。
敵だ。
直感し、先手を打って飛び出す。敵は精神攻撃を扱う妖怪。間合いを詰めるのが最優先だ。ゼロコンマ一秒が生死をわかつ。魔力を充填した両腕で侵入者を組み敷く。さらに抵抗できぬよう触手ごと捻り上げた。
そして。
情けない声が上がった。
「いたいっいたい! いたいよ! な、なんでー!?」
拍子が抜ける。
良く見れば黄色い触手はただの服の袖だったし(ダボついてるせいで手が見えなかったのよ)、黒い一つ目はつばが広いだけの帽子に過ぎなかった。今はもう帽子だけ地に落ちて、少女のあどけない表情と、癖のあるヒスイカズラ色の髪があらわになっている。
もちろん見た目と実際の凶悪さにさしたる相関もないとは言えど……情けない。すっかり動転していたわ、私。
「バラやラナンキュラスの鉢を置いていったのはあなた?」
「そうだよぉ! ねえもう離して! 私なんにもしてないよーっ!」
「あ、あら、ごめんなさい」
自由になった少女は怯えた犬のように距離を取ると、窓枠に置き去られたラナンキュラスの鉢と、私とを、難しい顔で交互に見やった。二つの大きな瞳が涙目になりかけている。
時が過ぎていく。
私の足元に、帽子の広いつばが当たった。
「これ、あなたのでしょう」
「返して……」
「すごく傷んでるわ。よっぽどあちこち被って回ったのね。すっかり日焼けしてるし、よれよれ。直してあげましょうか?」
「え……ほ、ほんと?」
「私、こう見えて手先は器用なの。寝巻きも自分で編んだりするのよ……」
あら……変ね。
私、何を言ってるの? 首を傾げながらも、同好の士、という言葉が脳裏にちらついている。
向こうは向こうで、もう、涙目をぬぐって笑顔を見せている。警戒とか、恨みつらみとか、そういう意識は無いのかしら。
「寒かったでしょう。ローズティーはお好きかしら」
「え! いいの!?」
「いきなり酷い目に合わせてしまったお詫びね。まあ、妖怪の棲家に無警戒に近付くのも、どうかと思うけど」
「あ、そうそう! お姉さん、どうして私の姿が見えたの!? 普段なら避けられたけどさー、びっくりして避け損なったのよ」
私の感知をすり抜けてきた能力のことを言ってるのだろう。
しかし冷静に考えてみて、意地になって寝ずの番をしていたと答えるのも、なんだか恥ずかしい気がする。
「それは……魔法よ」
もっと恥ずかしくなった。
◯
「わたし、古明地こいしっていいます。みんなのこと治してくれて、ありがとうございます」
ローズティーの柔らかな香り立ち昇るカップをそっとソーサーに戻しながら、彼女は、こいしは、ゆったりとした動作で頭を下げた。
行儀の良い子だな、というのが第一印象。ふつう妖怪に礼儀作法なんて期待するだけ無駄なのだけど、彼女はいいとこのお嬢さんといった風。
一方で……あるいは令嬢ならではなのか……どこか浮世離れした趣きもある。花の鉢を放り捨てるように押し付けてきたのも、常識がちょとズレているからかもしれない。
「あのバラや、そのラナンキュラスは、やっぱりあなたが育てたのね」
「うん」
今、ラナンキュラスの鉢はこいしの傍ら、机の上に丁寧に鎮座している。外は冷えるからね。イタリアンパセリに似た緑鮮やかな葉々にしたたる水滴が、暖炉の炎の光を浴びて、花弁と同じ薄橙色に染まっている。
こいし自身の童話的な風体も相合わさって、なんだか御伽噺の挿絵のワンシーンのよう。
一方で私はといえば、こいしの黒帽子を繕っている最中。もとの素材が良いのか、見た目よりは痛んでいないけど、それでもだいぶんダメージが来ているな。よっぽど引き摺り回しているのかしら。
「その子、根詰まりしていたわ。ちゃんと鉢のサイズも考えなくちゃ、ダメよ」
「ネズマリ?」
「え? ああ、だからつまり――」
……改めて、驚き。根詰まりなんてガーデニングの初歩も初歩な知識。馬鹿にしたいわけじゃない。やっぱり、この子には知識の断絶がある。
いや……私は帽子を繕う手を止める。そもそもの前提が間違っている?
「ねえ、聞いてもいいかしら……」
「なぁに?」
「あなたは……ええっと、花を育てる方法をどこで学んだの?」
「ほーほー?」
「だからつまり……土のいじり方とか、室温や日照時間の調整、摘芯や剪定の基準とか、そういうものを、どうやって決めているのかしら」
沈黙。古明地こいしが不思議そうに首をひねる。
一方で私には、ある予感……むしろ確信に近いものを得る。やっぱり、この子は。
「……とても素敵な花たちね」
「えへへ、でしょー? みんなわたしのお友達なの」
「いったいどんな育て方をされてるの?」
「うーん、べつに育ててるって感じじゃないけどね。みんなの喉が乾いていたら、お水をあげるし。みんなのお腹が空いてたら、栄養になるものをあげてるの。あ、わたしのペットにね、死体を集めるのが得意な猫がいるんだよ! だから肥料には困らないんだ」
「そう……それはいいわね。花の美しさを引き出すのは、結局のところ土の良し悪しだから。あなたの育てた花――失礼、あなたのご友人たちとても、とっても綺麗だわ」
「ほんと!? ね、あなた綺麗だって! お花の妖怪さんのお墨付きだよ! 良かったねー!」
ぱっと笑顔の花が開く。花々を抱きしめてキスでもしそうな勢いで。
古明地こいし。知識の欠けた天才ガーデナー? その不可思議な断絶の理由は……そうね……とどのつまり、花をよく咲かせる最良の方法は、よく咲かせようなどと考えないこと。ただ花たちの心に沿って、寄り添って、彼らの望むことをしてやればいい。究極的には知識がなくともよく咲かせることは可能なのよね。
一方で、ほんとうの意味でそれを為すのは極めて困難でもある。なにせ結局、花々に心など無いのだから。それは単なるレトリック。夢のない言い方をするのなら、植物の見せる生理的な変化の機微を読み取るセンスと、それを発揮するための類まれな没我の愛だけが、真に美しい花を咲かせるのだろう。
私の追い求めるもの。こいしの持っているもの。
かくして我らは同好の士。
同好の士か。
花々を、植物を、愛する者。彼女もまた、私と同じく。けれど随分と違うような気もする。私は彼女と同じではないし、であればやっぱり、彼女も私と同じではない。
美しく咲かせようなどと……そもそもそれは私にとって、とうに捨ててしまった感覚では、ある。花々を愛でるという感覚もついぞ失って久しい。けだし、彼らはあまりに私の世界の一部になりすぎてしまった。
なら私、なぜこの子から目を離せないのかしら? その能力が羨ましいから?
いいや、そうでもないな。もはやそういう領域を私は過ぎてしまった。
これだから、同好の士なんてものは、ナンセンスなのよ。
「ローズティー、おかわりはいかが……」
「おねがいします!」
黒帽子を直し終えるにはまだ日がかかりそうだった。
彼女はローズティーをたっぷり五杯も飲み、再開を約束しあって私達のお茶会はお開きとあいなった。
次はケーキを焼いておこうかしら。
なんてまた、柄にもなく。私はそんな事を考えながら、冬の夕暮れを見送った。
◯
憂鬱な師が走り去り、睦月のからりとした寒波が渦巻くようになってなお、私と古明地こいしの穏やかなお茶会はほそぼそと続いた。
最初はただ、黒帽子を直し終えるまでのつもりでいたけれど、お茶会の度に彼女は違った花(中には最初に診てやったバラや、ラナンキュラスもまた混じっていた)を持ち込んでくる。そしてそのどれもこれもどこかしら、ガーデニング初心者にはありがちなミスが原因で悪くなっているものだから、次第に私達のお茶会はガーデニングスキル講習会の様相を呈していった。
もっともそれも彼女は、聞いているのだか、いないのだか。こいしのとるんとした顔つきはなんとも内面を読み取り難い。あるいは本当になにも考えていないのかしら。
「今日は……趣向を変えて、ルイボスティーを淹れてみたの。ルイボスというのは、アフリカ原産のマメ科の植物。もし実物を見たら、お茶の原料とは思えないわきっと……」
「ありがとうございます、いただきますっ」
お行儀は、良いのだけど。やっぱりどこかの妖怪良家のお嬢様なのかしら。実際こいしは、ただの妖怪というにはかなり特異な妖力を纏っていた。なにか由緒ある妖怪の可能性もある。似た雰囲気の妖怪にも昔、どこかで会ったことがある……気がするのだけど、どこだったかしら……。
ああ、ダメね。
記憶、思い出、この頃はなにもかもすぐに過ぎ去っていって、遥か遠くなってしまう。安定した日常は確実にそこに寄与しているだろう。力あるものとして光栄ある孤立を選んだ私に近づく者は多くなく、ますます私という妖怪は揺らぎ無く、そのフィードバックの繰り返しがますます日々を平穏に、穏やかに、丸め込んでいくのだわ。
「でもあなたはちっとも私を怖がらないのね」
「最初はびっくりしたけどぉー……でも、勝手にお家に入った私も悪いし」
「入ろうとするだけで、大したものだわ。誰も近づいてこない、だから誰ともかかわらない。もうずっと、そんな毎日だもの」
「ふーん……私も、同じような感じかな」
「あら、そうなの?」
「うん、まぁー、ね……誰も近づいてこないのは、怖がられてるからじゃないけど……」
「そう」
そんな会話は珍しい方だったし、私達の会話では長く続いた部類に入る。
花のことと、お茶のこと。それとケーキの焼き加減のこと以外、私達はほとんど身の上を話さなかったから。
特にガーデニングの知識を伝え終えて、ケーキも食べきってしまうと、ともすれば、互いに黙りこくったままの静寂が何時間も続くのもしばしば。
でもそれも悪い気はしなかった。
べつに、無駄口を叩き合う趣味もない。彼女は暖炉に当たりながら私の魔導書を漁ったり、持ってきた挿絵付きの本を読んだりして。私は帽子を繕ってやって。
それに。
机の上にはこいしの連れてきた花の鉢がいつでも主賓の体で飾られている。私達にはそれで十分だった。
だから……この時間もやがて私の日々の安定性という軸に巻き付いていく一本のまきヒゲでしかないのかしら、と。
それもいいわねって、思い始めて。
そんな風に思うのも、本当に、いつ以来なのかしら、って。
そうして。
実に何事もないまま、また一月が経った。
相変わらず私たちは不定期のお茶会兼講習会を続けていた。
もっとも基礎的な知識はあらかた伝え終えてしまったので、議題はもっぱら花に関する雑学に変更。特にこいしは、花言葉という概念がよく気に入ったらしい。
「向日葵の花言葉は、愛慕、崇拝……ラナンキュラスの花言葉は、晴れやかな魅力。色にもよるけど、そんなところね」
「じゃあ、じゃあ、バラは?」
「バラの花言葉は、愛情、情熱、上品……特に青いバラは、通常自然界には存在しないことから、奇跡とか、夢が叶うなんて言われてる」
「えーっかっこいい! この子たちにそんな力があるの!?」
「どうかしら。結局、花言葉なんて人間の考えた概念でしかない。とはいえ思念は時に幻想を生み、果ては現実にまで影響を与えうるもの。私たちがそうであるようにね」
「うん、そっか……愛情、愛情かぁ……」
今ではこいしは、ちょっとした花言葉博士でさえある。本当に花たちのことを愛してるのだろう。好きの反対は無関心というように、愛すればこそ興味を抱くのだから。
強く深き没我の愛。美しい花々を咲かせるなによりの才能。
あと少しして春が戻って来たら、私の花々もあの子に見てもらおうかしら、なんて。まだ芽さえ出ていない太陽の畑を一人見回りながら考えることもあった。
――そして今日も、あの子が訪ねてくる日だわ。
「今回はね、ジンジャーティーなんていかが……身体が温まるから……」
お茶のレパートリーがあることは喜ばしいこと。友人をもてなす材料は多いほうが良いから。
……友人。友人ね。同好の士と友人、どっちが重いのかしら。そもそもあの子は友人なの? そんなものも、随分と久しく設けていなかったじゃない、私。
だってセルロースのぶ厚い壁は、安定性と引き換えにカオティックな変化と変遷を奪うもの。
そういうものよ。
それでも、生姜茶を口にする前からなんだか火照るような気分になって、私は湯気のたつポッドを彼女に差し出した。
……その時が初めてだった。私が、表情からこいしの感情を読み取ることが出来たのは。
彼女は沈んでいた。明らかに浮かない表情で、バラの鉢植えを抱きかかえて、私を見上げた。
「どうか、したの?」
「……えへへ。やっぱりわかる?」
愛情に満ちた優しい手つきで鉢植えが机に置かれる。
例によって見事なバラの鮮やかさ。力強く伸びた棘。この頃はもうこいしも、初歩的な間違いをしなくなりつつある。だからこの花に問題があるようには見えない。
それとも別の、例えば個人的な悩み……?
整った土壌とは、痩せすぎず、肥えすぎず、その中間にあるのに。だからこそ徹底的にこのお茶会から締め出されていた変化という名の肥沃な流土が、静かに、しかし確かに、私達の間に流れ込んでくるのがわかる。
さりとてそれを遮ることは、また傲慢と呼ばれるものだ。だから私はただ、こいしの切り出すのを待った。
「幽香さんは、」
一呼吸置いて、彼女が問う。
「お花の気持ちがわかる妖怪なの……?」
面食らう。質問の意図が頭に入らない。
私がじゅんぐり思考を巡らしている間にも、彼女は続ける。
「わたしね、なんだか、みんなの気持ちがわからなくなっちゃって……ほんとはね、幽香さんなら、なにかわかるかなって。そう思ったの、最初……だから」
「ええと」
思い悩んでいる。それはわかる。なにか、こいしは思い悩んでいるらしい。
だけどそれが何に由来するのか……私は口を閉ざす。こんなにもコミュニケーションが下手だったかしら? もうずっと、他者と関わることも止めてしまっていたから。
べつに後悔もしていないけれど。ただ面倒だっただけ。
でも、まあ、メンテナンスくらいはしても良かったのかもしれない。対人関係能力も、水物ね。
それで、
「花の気持ちなんて、わかりようもない。そもそも植物の気持ちっていったい何なのか、という話ね。あの子達は、私たちのようにものを考えたり、意識したり、そういうことをするわけじゃないでしょう? 無意識の存在とでも言うべきかしら……むしろ植物の気持ちなんて下手に考えるほうが、愛情、美しさへの憧憬、そういうものを投影してしまうわ。ガーデナーが花を咲かせるわけじゃない。自分だけで花を咲かせてみせようという傲慢な考えがむしろ、余計に花々を腐らせる。そういうものなのよ」
答えになっているのかしら。
結局、質問に答えたと言うより私の考えをそのまま吐き出しただけのよう。もっとも、会話なんてそんなものかもしれないけれど。
こいしはこいしで、私の答えに応えるでもなく、否定するでもなく、ぶつぶつと覚束な気な言葉を吐き出す。
「わたし、みんなのことが大好きなはずなのに……友達、だったはずなのに……どうしちゃったのかな……」
泣き出しそうなこいしにかけてあげられる言葉が思いつかない。
慰める……そんなことをしたのも、もうずっとずっと昔のこと。
泣けばいいじゃない、泣きたいなら。ずっとそう切り捨てて久しかった。今さらになって優しさを向けてみたくなっても、上手くいきようもない……か。
「美しく咲いてるじゃない。その花だって……」
「ちがうんだよ、そうじゃないの! この子の時は大丈夫だったの! でもダメなの! 最近は、幽香さんに教わったこともぜんぶぜんぶ試してるのに、うまくできないの」
「うまくって……」
「昔はね! ネグサレもネヅマリもさせたこと無かったもん! そんなことになる前に、ぜんぶみんなが教えてくれたもん! でもね。みんなの心がわからなくなっちゃったの。きれいに咲くかどうかも、本当はどうでもいいのに」
ようするに。友人の涙に動揺しながらも冷静に私は頭をめぐらして、淡々と、事態への理解を進める。
古明地こいしが美しい花を咲かせられる理由。没我の愛と、花々の変化を読み取るセンス。そのどちらかが喪われつつある、ということらしい。口ぶりからしておそらくその現象は、私と出会った時よりも前から始まっている。
というより、私を頼ったのはそもそもそれが理由なんだろう。
花の心か。
そんなものはないというのに。あったとしても、セルロースの分厚い要塞の中だというのに。
「だから、あの、あのね、今日はお願いをしに来たんです」
「え?」
「みんなを預かってほしくて。こんなこと、すごく失礼だしムセキニンだってわかってるけど……わたし、もう自信なくて……」
「みんな、というのは貴女の育てているお花たちのこと……よね?」
「……うん」
「預かってほしいって、代わりに育てて欲しいってこと?」
「……はい」
たしかに。そんなのは失礼で無責任な話。普通の相手なら二の句を継がせる前に吹き飛ばしている。
それでも今は……彼女の喪失の痛みとはどんなだろうか。私は喪失の痛みさえ喪失してしまっているのか。想像することさえ出来ない。私は失わなくなって久しい妖怪だ。あるいは、失うものすら失いきってしまっているのか……。
そして。
私はこいしの頼みを引き受けることにした。それっきり彼女はもう憑き物が落ちたように、少し冷めたジンジャーティーを口にしては独特の香りに目を丸くしたり、行き掛けに梅の花の咲いているのを見たことを聞かせてくれたり、いつもの様子に戻っていた。
その表情。確かに豊かであるはずなのに、もうどんな感情も読み取れなくなっていた。
そして、数日後。
最初にバラの鉢植えを見つけた寝室の窓辺に、たくさんの美しい花々の鉢植えが、器用丁寧に並べられていた。
『よろしくおねがいします』と書かれた手紙を添えて。
▼ ▼ ▼
――博麗神社。
花のような日傘をさした女性がひとり、木枯らしの吹きすさぶ境内を歩いている。
まだ、神社の桜が芽吹くにはわずかに早い。花開くまでにはなお遠い。その中で、女性の日傘の一輪だけが低い太陽の陽を浴びて、場違いな色を見せていた。
そのまま彼女は賽銭箱と人気のない本殿の側を素通りして、裏の、居住スペースの戸を叩く。
「はい、はい、はーい! しょうしょうお待ちください!」
待つまでもなく勢い戸が開かれる。冬だと言うのに妙に南国風の格好をした、見知らぬ少女に出迎えられて、日傘の女性は開きかけた口を半端に閉ざした。
「あっ! あなたはえーと、たまにたまーに、すごくたまに宴会にいらっしゃいますね……えーと、えーと」
「風見幽香」
「失礼をばいたしましたっ! 霊夢さんに用事ですか?」
「そう」
「しばしお待ちください!!」
どたばたと騒々しく駆け戻っていくのを見送ってから、数秒後、袖を引きずられた紅白の巫女が現れる。その後ろには見慣れないストライプ衣装の妖精もくっついて、「ねーあたいお腹すいたー! 暖房代取るぞこのやろー!」と喚いている。それを無理やり押しのけつつ巫女は、意外な来訪者に微笑んだ。
「珍しいじゃない。あんたから尋ねてくるなんて」
「ええ、少し――」
「ねぇー! お腹すいてたってば! 床暖房無くなってもいいのかよー!」
「うるさいなぁ! お客よお客! 戸棚に煎餅あるから食べてな! あうんとちゃんと分けるのよ!」
「早いもの勝ちだねーっ」「あー! 待ってくださいよ!」
土煙でも上がりそうな勢いで台所へと消えていく二匹を目にして幽香が呆気にとられていると、霊夢はなんともバツの悪そうな笑みで、彼女を見上げる。こんなのがもう日常茶飯事だ、というように。
「あはは……悪いね賑やかで」
「……なんだかここも変わったわね。いえ、あなたが変わったのかしら」
「そりゃ変わるでしょうよ。人間だからね。あんたは変わってなさそうだけど」
「妖怪だもの」
「妖怪でも、変わらないなんてことは無いと思うけど。んで? そんな当たり前を確認しにわざわざ来たわけ? この寒い中を」
「あなた妖怪に詳しいでしょう」
なんでそうなるかなぁ、と。ぼやく巫女が額を押さえる。
「だって妖怪巫女じゃない」
「妖怪退治巫女さんですけどね」
「この私にも臆さずそういう態度を取る時点で、妖怪巫女よ」
「……?」
「なに、だから――」
「ああ、妖怪相手には警戒するべきだとか、そういう話? べつに、あんたは物騒だけど悪意のある奴じゃないってことは知ってるし。だから警戒する理由もないでしょ」
「……」
「もちろん普段の話ね? 異変の時は容赦なくぶっ飛ばすから」
「……そう」
幽香はその話をそれ以上続けなかった。霊夢もまた深くは聞かない。台所からぶん投げられた「見つかんないぞ霊夢ーっ!」という怒声のために、事細かに煎餅の格納場所を説明しなくちゃならなかったから、という理由もあったが。
かくして問題児たちへの対処を霊夢がようやく終えるのを、身じろぎもせずに待ってから、幽香がまた口を開く。
「古明地こいしという妖怪、知ってる?」
「え? こいしちゃん? ん、まあね。最近は人里にも出入りしてるみたいだし。あいつなんかやらかしたの?」
「彼女、どういう妖怪なのかしら」
「どういうって……そんなこと知ってどうするのよ?」
身を正す霊夢の衣装が擦れる音。少し、空気の温度が下がる。警戒を抱いた、というほどではないが、巫女の雰囲気が少しだけ閉じられる。
「べつにプライバシー保護ってわけじゃないけどさ。妖怪について知りたいなら幻想郷縁記でも読んでやったら」
「……友達のことを聞くのが、そんなにおかしいかしら?」
「なに……え?」
その言葉を霊夢が咀嚼し終えるまでたっぷり五秒。んんっ、という咳払い。
「友達って、あんたとこいしちゃんが?」
「彼女も花を育てるのが好きみたいでね。ふふ、そんなに私の口から友達って言葉が出るのがおかしい?」
「いや……ただ、最近は向日葵畑にずっと引きこもってるのかと思ってたから」
「引きこもってるわよ。相変わらず」
「あっそう……ちっとはうちにも顔を出したら。あの悪霊といい、昔の連中どいつもこいつも付き合い悪いんだから……って、マジでこれじゃ妖怪神社じゃない! やっぱ来なくていい!」
「そう」
「あー、言っとくけど私もこいしちゃんのことなんか大して知らないからね。友達ってんなら、あんたのほうが詳しいんじゃない」
「それがねぇ。知らないのよ、なにも。彼女のことを」
「はぁ? それはまたどーいう……」
まだ、霊夢の瞳は訝しげな色を残してはいた。それでも幽香の纏う気配から何かを判断したらしい。博麗の巫女の勘。あるいは単なる人付き合いへの機微。妖怪にもそれが通じるのなら、だが。
一方妖精たちは無事に煎餅へとありついたらしく、もう喧しく騒ぎ立てることもない。
「ま、いいや。古明地こいしね。覚妖怪っているでしょ。あの心を読むやつ。こいしちゃんも覚よ。地底の、地霊殿を管理してる古明地さとりの妹」
「ああ……どこかで見たことがあると思ったら、あれか。心を読まれた感じはしなかったけど」
「話は最後まで聞く! 詳しくは知らないけど、あの子なんか色々あったみたいでさ。自分で第三の眼を綴じちゃったのよね。だから心を読む力も失ってる。代わりに無意識ってのが操れるんだってさ。いや、操れはしないんだったかな?」
「無意識……」
「完全に無意識状態になると、気配も消えるんだって。実際、すごーく意識しないと気がつけなくなるのよね。どういう原理なのかは知らないけど。だからかくれんぼでは負けなし」
「そう」
「私が知ってるのはそんだけ。参考になった?」
無言。
風見幽香はなにも答えない。霊夢が首を傾げても、どこか遠くを見るような目をしたままで。
しかし、やがては、
「邪魔したわね」
と。それだけ告げて出ていった。
取り残される霊夢の背中に浴びせられる、クラウンピースとあうんの叫び。
「霊夢ーっ! お茶淹れてよー! 煎餅しょっぱくて喉乾く!」
「ほうじ茶がいいですねっ」
「あい! あい! 今行くから待ってな! ったく、自分でやったらいいじゃない……」
安定性とは程遠い、されど居心地の良いカオスに追われ、霊夢は日常に戻っていく。
不意の旧友の来訪にも、古明地こいしに関することも、保持する余裕は到底なかった。
人の日常とは目まぐるしくまた忙しい。そういうものなのだから。
◯
もう春が近い。しかし雪の帳もまだ開けそうにない。そんな、中途半端な時勢を知る由もなくこいしから預かった花々は、私の魔力によって暖かな季節を再現した環境に保管されている。
あるいは。
この大自然の寒空の下、別け隔てなく世話をしてやるべきなのだろうか。花が散ったとて、彼らの命が失われるわけでもない。ただあるべき様を生きるだけ。まあ、多少の混乱はあるだろうけど。
あるがままに。個人的な好みとしては、そっちね。
……さて。
いったいどうするべきなのだろう。
持ち主に聞ければ楽なのだけど、生憎とこいしはあれから一度も顔を見せていない。
いつまでも置いておくつもりなのかしら? いや、それは重要なことじゃない。
ただ日々だけが廻っていく。いつも通りの日々が。セルロースに包まれた私の安定性に巻き付いた日々。
それを打ち破るノックの音。急ぎ駆け寄る私。でも、こいしではなかった。霊夢のところの狛犬の妖怪が、にっこり無邪気に微笑んだ。
「幽香さん! ですよね?」
「……ええ」
「霊夢さんから伝言です!」
伝言? 私が首をひねる間に、狛犬はもう既に伝達事項を流し始めている。妙に上手い霊夢の声真似がなんだか癪に障る。
それにしても、随分と落ち着きのない妖怪だ。きっとまだ若いのだろう。この子もいずれは私のようになるのかしら。長く長く生きれば……博麗神社が無くなったらその後はどうするつもりなのかしら。
ああ、そういえば花たちに水をやらないと。
今日のお茶は何にしましょうか。
そんなまとまりのない思考が、ふと狛犬の話に引き戻される。
「『――んでね、こいしちゃんは覚の力を捨てて無意識の力を手に入れたった言ったでしょ』」
この間の話の続きらしい。すっかり聞いていなかった。
「『でもね、それもまた変わりつつあるみたい。引きこもりが友達を作って社会復帰を初めてる、とでもいうのかしら。いやあの子はもともと引きこもりでもないんだけど……わかるでしょ? 精神的な話よ。まあ、心を閉ざしたままなんて寂しいものね』」
「なんで今さら、そんな」
無意識に尋ねていた。もちろんメッセンジャーが返答できるはずもない――と思ったが、狛犬はさらりと二の句を継ぐ。
「『なんで今さらそんなこと言うのかって? あんたの様子が変だったからよ! こいしちゃんと何があったのかはしらないけど、知ってることは伝えとく! 一つ貸しだからね!』だ、そうです!」
……どうやら、お見通しというわけらしい。それも博麗の巫女の勘か。あるいは私の方が衰えたか。
御機嫌を残したまま神社へと揚々帰還していく狛犬を見送りながら、私は……はぁ。だから同好の士だなんて、ろくなもんじゃない。
だって今、どうしてもこいしちゃんの事を考えてしまうもの。だからもう、たっぷりそちらに思考のリソースを割くことに決める。
「……はぁ」
まずは、整理しましょう。
蕾が溜め込んだ鬱憤を花として開かせるように、ようやく頭が動き始めるのがわかる。
重要なのは、きっと古明地こいしのアンバランスさだ。
ネグサレもネヅマリもさせたこと無かった彼女が、突然に見ず知らずの「お花の妖怪」を頼らなくちゃならなくなった理由。
それこそが、彼女がお茶会に来なくなってしまった理由なのだろう。
……わかっているわ。容赦も遠慮もなく私は既に理解している。
無意識を操る彼女は、というより無意識そのものである彼女は、誰よりも花々に近かった。
だからネグサレもネヅマリも知らなくとも、美しい大輪を咲かせることが出来た。そうね。それはとっても素敵な資質。独りよがりに花を咲かせようとする者たちばかりのこの世の中にあって、得難い才能。
けれどその力は失われつつあるらしい。
彼女は怯えていたけれど、霊夢の話から考えればきっと、それは喜ばしい変化なのでしょう。
それは祝福すべきことなのでしょう。
致し方ない。それを引き止めるような欲求はもう私の中から枯れてしまった。追いすがるより、引き止めるより、見送るが是だと知っている。独りよがりな衝動に飲まれることが無意味だと理解している。
であれば、私のすべきことは。
そうね。あの子を送り出してあげないと。
物言わぬお花たちの代わりに。
●
――いつからだろう。みんなの心がわからなくなったのは。
薄暗い部屋。微かにだが土と花々の残り香滲むバラ柄の壁紙。
地底の人工太陽の光量を閉じ込めたミニチュア太陽灯も今は沈黙し、部屋の隅で膝を抱えた少女を見下ろしている。
――わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
彼女の口元が吐き出す言葉を聞き取る者は、もういない。
空っぽの机に残る鉢植えの痕跡。半ば使いかけの土が詰まった袋の山。ネグサレ、ネヅマリ、その他種々のガーデニング知識や花言葉をまとめたメモ帳の側に、短くなった鉛筆が放り捨てられている。
ノックの音が響いた。
少女が顔を上げないので、扉のほうが先に開かれた。
「らしくないな、我が好敵手よ」
あわい人魂を纏って廻る仮面の群れ。面霊気・秦こころがため息をつく。その無表情は変わらないが、代わりに素早く仮面たちが切り替わる。
それがいったいなんの表情なのか、当の本人以外は知る由もない。あるいは当人ですら。
「ふむ……冗談に乗ってくるような体調でもなさそうだな」
「帰って……なにしに来たの……」
「おまえのお姉さんから頼まれた。妹が急に……あー、大切に育てていた花を処分して、そのまま引きこもってしまったと。様子を見てきてほしいとな」
「……お姉ちゃんが来たらいいじゃない」
「私に言われてもなー。家庭の事情だしなー」
「知らない、知らないっ……」
「あ、その帽子治したのか? すごく綺麗になってる。前はよれよれだったもんなー。それはお姉さんにやってもらっ――」
「ねえもう帰って!」
怒声にもこころは怯まず、薄く光の宿る目をこいしに向ける。
仮面が切り替わる。
その表情の意味は、やはりこいしにはわからない。
「やっぱり変わったな、おまえ」
「なにが……」
「前はそんな風に感情をあらわにする奴じゃなかったはずだ。いつもにこにこヘラヘラしてるくせに、私より無表情な奴だった」
「知らないもん……」
「瞳が開いてきてるんじゃないか」
「……」
「いや……お姉さんの受け売りだがな。正直、私から見たらおなじに見える。しかし私の無表情も、聖様や神子から見るとけっこう、違うようだ。きっと変わらないものなどないんだろう。目に見え難いだけで」
こいしはこたえない。顔を両膝にうずめて、だぼつく袖のせいもあり、一つの閉じた瞳のようにも見える。
こころは話題を変えることにしたらしい。その指先が、空になった棚を撫でる。多少散らばった土の上、埃が薄くつもり始めている。
「おまえ、花なんか育てる器量があったんだな」
「……」
「捨てちゃったの?」
「……」
「……」
「…………」
「……そうか」
「……捨てたんじゃないもん」
「え?」
「預けてるだけだもん……」
「そうか」
「友達だったんだもん」
「友達に、預けたのか?」
「え……友達……」
「ああ、花のことか。あー……そうだな。そう、私は植物って育てたことないが、最近は自分で仮面を彫ってみたりはする。それはべつに、ただの仮面なんだ。私のスペアになるとかそういうんじゃないんだけど。だからまあ、なんの役にも立たない仮面なんだが」
「……」
「しかしやっぱり、自分の手ずから生み出したものというのは、愛着が湧くよな。友達、わからなくもない。まあ私が面霊気だからかもしれないが……そうだな。それを捨てる――ああいや、他所様に預けてしまうというのは、どういう時だろう……どんな時かな……べつに出来が悪くったって、愛おしいものなのにな……」
黙りこくる二人の妖怪。そこにまたノックが重なる。地霊殿に棲まう黒猫がヒョコリと顔を出した。
「あのぅ、こいし様? 今ちょっと、よろしいですか。小包が届いてて、地上からですけど……」
こいしは顔を上げない。「受け取っておこうか?」とこころが尋ねても反応なし。が、彼女はそれを了承と受け取ったらしい。あるいは面倒になっただけかもしれないが。
「地底にも郵便が来るんだ」
「いやぁなんか、地上の野良妖怪が持ってきたんですよ。地霊殿まで運ばないとやつに殺されるって怯えてましたけどぉ……誰かに無理やり持たされたみたいで」
「なにそれ。物騒だなー。捨てたほうがいいんじゃない」
「ですかねぇ」
「……まあ、いいや。まさか爆弾ってこともないだろうし。べつに爆弾でも平気だし」
黒猫から小包を受取って中をあらためたこころの無表情に、驚きの大飛出面が一瞬重なる。が、すぐに大袈裟だと気がついたのか、またもとに戻った。
「これ……花か? こいし、おまえの預けていたやつか?」
「え?」
「ほれ」
エンドウの花を一回り大きく可憐にしたような紅色のかわいらしい花が、数輪。
顔を上げたこいしはそれらを受け取りながらも、不思議そうに花たちを見つめ、
「私のじゃない、けど……このお花、なんだろう。スイートピーかな……」
「スイトンビ?」
「スイートピーだよ! えっと、花言葉はたしか――」
「お、まだなにか入ってる。手紙だ」
「ねえ勝手に読まないで!」
「読まないでって言われても……ぜんぜん意味わからんが」
ひったくったこいしが手紙に目を落とす。その瞳が震える。記された短い文字の連なりを見て。
『私の小さなご友人へ。お花たちのことは心配しないでね。お茶会、楽しかったわ。ご機嫌よう。』
それはただの単なるお礼の手紙に見える。時候の挨拶も無い淡白な筆致。現にこころは友人の動揺の理由がわからず、首をひねっている。
だけれども、こいしにはわかる。わかってしまう。震えるその手を、こころがそっと掴んだ。
「なにか、あったのか?」
「わ、わたし……わたしは……ただの、路傍の石ころで」
「私もおまえの力になりたい。友達だろう」
「と、ともだち……なんでこころちゃんは、私の友達でいてくれるの……」
「知るかそんなもん。私がそうしたいからじゃないのか」
「……そっか」
「それより、聞かせてくれないか? いったいなにがあったのか」
そして。こいしは訥々と語り始めた。
自分の身に起きたこと。自分が身勝手にお越したこと。なにもかもを。
◯
――どうせ、最後にはすべて土に還っていく。
春の息吹を感じる弥生のほの暖かな昼下がり。
私の日常は再び安定性を取り戻し、ティータイムの和やかな時間が粛々と過ぎていく。
変わったことといえば、そう、預かり物の花たちの世話をする日課が追加されたことだけ。それももう済ませてしまった。
「薄情なものよね……」
主人が変わろうが、土と水の質が変わろうが、花々は、ただ必要な環境が満たされていれば変わらずに咲き続ける。
しかしいつまでも鮮やかな花などないし、私の居間の日当たりの良い一角を陣取ったまま、もう幾ばくかの花弁が鉢植えの周りに散らばっている。
これからが春だと言うのに……世間が彩られる頃、彼らは一足先に眠りにつく。そんな「ズレ」すら露とも知らず。妬むこともなく、羨むこともなく、恥じ入ることもなく、孤独に瞳を閉ざすこともなく、すべての感慨も感動もセルロースの要塞の中。
それでいいんだわ。きっと。
弱い連中と関わるのは面倒なだけ。こっちから気を使ってやらなきゃならないし、向こうも私のことなんか理解出来やしない。互いに気疲れのするだけで。
だから私は花たちがいい。彼らは私の抱く敬意も憧れも感じはしない。私の抱く友情も愛情も意識できはしない。意識する心がないのだから。
……それでいいんだわ。きっと。
かくして私はいつもの日常を取り戻し、安楽椅子に身を委ねる。このまま百年が、千年が、万と億年が過ぎていったとしても、なにも変わらない。
私は瞳を綴じて、世界が過ぎていくのを待つ。偉大なる花々のように。
花々のように……。
私は……。
……。
……暖炉の薪が勢いよく爆ぜた。その音で目を覚ます、私は、うつらうつらして、そのまま眠ってしまっていたらしい。
「まだ、冷えるな」
飲みかけだったティーポットを一瞥して、面倒な気持ちと、情けない気持ちと、両方がぼんやり去来するのを、苦い思いで噛みしめる。
暖炉の炎はなお嫌味っぽいほのオレンジ色の光を揺らめかせて、鮮やかに。
ため息をひとつ。
単に寒さへの異議申し立てが半分。もう半分は、誰からも羨まれるくらい素晴らしい魔力を持っていたって、誰も労ってはくれないって意味で。
長く生きすぎただけか。生も死もそう変わりないように思えるけれど。夢も現も、意識も無意識も、悲劇と喜劇ほどの違いしか見当たらない。
「……羽織るもの、しまわなきゃよかったわ」
そんなことを思いつつクローゼットのある寝室を開く。その刹那。
やわらかな感慨というやつが、やにわに頭を持ち上げた。
窓枠に切り取られた世界の向こうに、黒帽子。それと、だぼついた黄色い衣装を纏った小さな背中。
扉の開く音に反応して、その後ろ姿がびくりと震える。
もう、敵と見紛って飛び出す私はいない。代わりに、振り向いたエメラルド色の瞳と目が合った。
「……」
「……」
この世から言葉というものが失われてしまったのかと思うような、沈黙。
こんな時、動揺に身を任せて泣き叫ぶような稚さが欠片でも私の中に残っていれば……そうであれば、こんな風にじゅんぐりと、次の言葉を探し求める必要も無かったのだけど。
そしてまたいつも通り、感情の整理より先に平静と冷静が戻る。なんともつまらない私。
「もう、来ないかと思っていたわ」
「う、うん」
「皆を引き取りに来たの?」
「ん……ど、どーかなー……」
「どーかなって、どうなのかしら」
「怒ってる? 幽香さん……」
「べつに……」
どうもこのままでは埒が明かない。
それに、いくら妖怪といってもこのまま寒空の下に放っておくのはあんまりだろうから。
「普通に表から来たらいいのに。そんなところに立ってないで、入ってきたら? あったかいお茶を淹れましょうか? いつもみたいに」
「ううん……ごめんなさい」
「なんだって謝るの?」
「まだ、みんなに会うのは怖くて……」
「そう」
「外、歩かない……? まだ少し寒いけどぉー……」
「そうしましょうか」
支度をして外に出ると、陽の光の下は思ったよりも暖かだった。いつもの癖で日傘をさそうとして、でもそうすると少し肌寒いな、と思って。
まだまだ日は短い。
一歩先を歩くこいしの背中。春先の太陽の畑は観光がてらには向かない景観だ。ぜひ、夏になったらまた来て欲しいわね。なんて、益体もない考えは浮かぶけど、さて、何を話すべきだろう。
問題は、感情。感情ね。面倒くさいもの。
はたして私は……怒っているのかしら? たぶん、ノー。
悲しんでいるのかしら? それも、ノー。
困惑している。たぶん、それが、イエス。
だって彼女は、古明地こいしは、ただ去っていくはずの存在だった。
私のもとに現れたのは、単に花たちを託す相手を探していたから。花たちを託す必要があったのは、彼女の無意識に関する力が変質して、花々の心(便宜上ね、一応)と同調できなくなったから。
……たぶん、その私の推測は当たってる。
だから私は彼女を送り出した。赤いスイートピー。花言葉は、門出、それと、別れ。頑丈そうな野良妖怪に任せたからきっと、間違いなく地霊殿に届いているはずだけど。それとも花言葉、忘れてしまったのかしら?
「もう、来ないかと思っていた」
「うん……」
「せっかく送り出してあげたのに。あなたが友人たちを――お花たちを愛しているのは、わかる。あなたに起こっていることも調べたわ。友人たちの声が聞こえなくなった、でしょう? そうね……今思い出したのだけど、前にあなたの心を覗いたことがあるの。初めて会った時に、私は極めて無意識に近い状態だった。だからあなたの思念が流れ込んできたのね。あなたが花々と同調できたように、私もあなたに同調してしまった」
「あっ……やっぱり、そうなんだ……」
「だから、いいのに。あなたの友人たちの世話はちゃんと引き受けるのに。ただ送り出されたら良かったのに。咎めたりしないのに。きっとそれは良いことなのに。草花だけが友達だなんて、そうなるには、まだあなたは若すぎるのよ」
「スイートピー、やっぱり幽香さんなんだ」
「ええ、もちろん……物言わぬ、物知らぬ、花々の代わりに、せっかく私が……」
「わたしも」
こいしの歩みが止まる。
その遠く向こうの妖怪の山に、悠悠夕陽が傾いていく。彼女の長い影が私に重なる。きっと私の長い長い影も、まだ芽吹かぬ太陽の畑に重なっている。
「実はわたしもね、見てたんだ。幽香さんの、無意識」
「……あ」
呆けたような声が出る。
そうか。同調したあの刹那、私はこいしの無意識を見た。ならばその逆も起きていたはず。
どうして気が付かなかったのかしら。きっとそれほどに私は、私に興味を失くしていたんだろう。いつからか。もうずっと……。
「ほんとうは、ほんとはね。もっと早く、最初から、みんなのことをお願いしようと思ってたんだけど……」
「……ええ」
「でも、わたし一番ひどいことしたんだね。友達に怒られちゃった。あ、お花のことじゃないよ。一人だけいるんだ、友達……なんで仲良くしてくれるのかわからないけど……もう、もうすごくってね!? 見損なったぞー! 最低だなおまえー! って! もし私がそんなことされたらブチギレるぞー! って……」
「……いいお友達ね」
「ゆ、幽香さ――幽香も、」
「ん」
「わたしと、仲良くしてくれたのに……」
「……」
「わた、わたし、ひっ、ひどいこと、しちゃったなぁって! あなたはお花じゃないのに! わかってるの! わたしわかってるんだよ!? でも、でもね、わかんなくてっ、わたしは、誰とも交わらなければっ、わたしはひとりでいられたはずなのに! なのに……わたしと同じこと、なんで幽香も思ってるの……どうしたらいいかわかんないの! わからなかったの! だからっ、ごめんなさい! ごめんなさいっ……」
よたよたと泣き崩れるこいしを、私は黙したまま見つめている。
わたしは路傍の石。石ころは痛みなんて感じない。泣いたりしない……か。
どうしたらいいかわからない、なんて、そんなことを思ったのもいつ以来だろう。
まあ……変わらないなんてことはない、か。悔しいけどあいつの言った通りみたい。
あるいは実のところ、ずっと昔からなにも変わっていなかっただけなのか。
「私もね」
「……うん」
「けっこう人付き合い、苦手なの」
「……そうなんだ」
「自分と似てるかも、って思ったのは、もしかしたら、こいしが初めてかもしれない」
「……うん」
「と言ってもずいぶんと違うけどねぇ。私よりずっと若そうだしね、あなた」
「わかんない……」
夕陽が沈む。夜が来る。妖怪たちの時間が来る。
だというのに。こんなにも心穏やかな逢魔ヶ時、初めて。
「ねえ」
「う、うん」
「その帽子……もうボロボロになってるじゃない。また、直してあげましょうか?」
「えっ」
顔を上げたこいしの腫れぼったい両の瞳に、昇り始めた夜空の星々が映り込んでいた。
(了)
陰鬱な太陽照らす寒い日のこと。
暖炉の薪が勢いよく爆ぜた。その音で目を覚ます、私は、うとうと気分でそのまま眠ってしまっていたらしい。
机に出しっぱなしのティーポットの中身は冷え切っていて、勿体ない気持ちと、申し訳ない気持ち、両方ぼんやり去来した。
今日はやに冷える。
暖炉の炎はなお暖かなほのオレンジ色の光を揺らめかせて、弛みなく。
ため息をひとつ。
単に寒さへの異議申し立てが半分。もう半分は、誰からも羨まれるくらい素晴らしい魔力を持っていたって、この肌寒さを軽減してくれるわけじゃないって意味で。
じゃあ私は普通の人間や妖怪と何が違うのかといえば、この寒さに晒され続けても死にはしないってこと。それくらい。ただ寒いだけ。
ようするに……私は、他者より幾分か安定性を持っている。セルロースで頑健に補強された植物細胞と同じく。
なれど、植物たちのように生きるのはずっとずっと難しい。私はただ長く生きすぎただけ……なのかもしれない。
「……なにか羽織るもの、あったかしら」
だって、ほら。寒風吹きすさべども花々はケープを羽織ったりはしないものね。寒さへの対抗手段は種々折々だが、花弁という器官はたいていは吹きさらしだ。
そんなことを思いつつクローゼットのある寝室を開く。その刹那。やわらかな警戒心というやつが、やにわに頭を持ち上げた。
窓が開いてる?
師走の凍える空気が吹き込むさなか、開かれた窓がカタカタと健気な音をたてていた。寒いわけだ。
けれど、咄嗟に警戒したのは開いた窓のせいじゃない。単に自分で閉め忘れたのかしらって、お茶目さんねと、そう思わなかったのは……
「バラの、鉢植え? この季節に……」
開いた窓のすぐ下に、見覚えのない赤いバラが咲いていた。小ぶりだが趣味の良い鉢植え。大輪と言うほどではけど、少し怖いくらい綺麗なバラだった。造花かも、という疑いなど浮かびさえしないほどに。
「どちらさま?」
返事はない。
窓の外はいつも通り、太陽の畑の殺風景が広がっているだけ。新たな季節を待ち望み、明日明後日の命を蓄える季節。妖精たちも大人しい。その枯れた世界を背景にして、ただバラだけが力強く咲き誇っている。
とりあえず、警戒を解く。というより思わず解いてしまった。
それほど生命力に満ちた美しさを、彼はたたえていた。鋭い棘。シャンとした花弁。持ち主の花を愛する心が伝わってくる。少なくとも悪意ある者の仕業じゃない。悪意ある者にこの花は育てられない。
……もちろん、植物は意識など持たない。
愛されようが愛されなかろうが気にせず育つ。なれども注ぎ込んだ愛情は確かに目に見える形で現れるもの。
もっともそれが植物にとって幸福であるかは別の話。いや、もとより主体となる意識が存在しない彼らのこと。幸福も不幸も無い、というのが理性的な回答なのだけど。
「それにしてもいったい誰の仕業かしら……まさか、プレゼント? なんてね」
だとしたらずいぶんと不躾なやり口だ。人の寝室に放り置いていくなんて。
そう思って鉢を持ち上げて、ようやく気がついた。鉢の下に添えられた紙片の存在。
これは……手紙?
手にとって見れば、家柄と行儀の良さを感じる品の良いな字だ。一方でどこか不安定な、おぼつかないものも感じる筆致。
内容はシンプルだった。
『この子を治してください』
この子、とはバラのことだろう。ちょっとすると奇妙だけど、すぐに理解できた。この手紙の主は、私――風見幽香が花に精通した妖怪だと知っているのだろう。自分の育てているバラを私に診て欲しかったのだろう。お花のお医者さんか何かだと思われたのかしら? ふつう、もっと先に悪評を聞くものだけど……太陽の畑には近づくな、とか。まあ悪い気分でもない。
それより、いくら居眠りしてたとはいえ侵入者(依頼者と言ってあげるべきかしら?)の気配にちっとも気がつなかったのが、不思議。私も丸くなったのかしら……。
「あらこの子、根腐れしかけてる。きっと水をやりすぎたのね」
その程度、治してやるのは訳無い仕事。合わせて手紙の裏に『あまり水をやりすぎないように』と添えておく。
むしろ問題はどうやって返すか、だけど。
「まあ、同じ場所に置いておけば勝手に取りに来るかしら」
いったい持ち主はどんな人物なのだろう。
でもこれだけ素敵な花を育てられる相手。ぜひ一度話してみたい。
そう思う一方で……同好の士か……もう何十年も友達付き合いなんてしてないな。同じ草花を愛するからこそ、各々の違いが目についてしまうもの。だからこそ、互いに姿も知らない、声も聞こえない、その方が、良いのかもしれない。いえ、それ以上に……。
「ちょっと寒いけど、我慢してね」
バラの鉢を窓枠に乗せてやる。私の思慮など露とも知らず、バラは冬の陽の光を浴びて鮮やかに咲いていた。
◯
翌日。薄曇りの少し暖かな日。
予想通りというか、私が少し目を離した隙にバラの鉢は消えていた。代わりに同じ筆致で「ありがとうございます」の置き手紙。
「律儀なんだか、自分勝手なんだか」
それにしても。
今日は心持ち周囲の魔力を見張っていたつもりだった。なのに反応は皆無。
植物でもなければふつう、生きてる限り何らの魔力痕跡も残さずにはいられないハズなのに。妖精、人間、妖怪、神様、なんであれ。
いっそ夢かと思う方がしっくりくる。手紙が残されてなければそう信じても良かった。でも手紙は実物として手の中にある。
不思議ね――なんて、そんな風に天を仰いだのはいつ以来だろう?
もっとも……それもすぐに忘れてしまうんだわ。私の生活は安定性という軸に巻き付けられた蔦のようなもの。異常も、事件も、深い土壌に撒かれてしまえば、後は少しずつ少しずつ混ざり合っていくだけなのだから。
そのはずだったのだけど。
『前は、ありがとうございました。この子も、治してください』
更に数日して、また同じ場所に鉢植えと置き手紙。
今度はラナンキュラスの花たちだった。見た目はバラにも似ているが、実際はキンポウゲの一種。本来は春真っ盛りを彩るような子だけど、相変わらず世間の真冬を知らぬかのように鮮やかな紅を咲かせている。
……ところで一つ、その時点で確信したことがある。前のバラの時点で予想はしていたけど、依頼主は温室で花々を育てているのだろう。
とはいえ、この幻想郷で温室の植物園を持てる者などそうそういないはず。かなりの好事家? それとも小金持ちの有力者かしら?
おまけに妖怪の私を恐れないときている。少なくとも向こうも人外だ。それもそこそこ以上の力を持った。
私の知ってる相手なのかしら?
「あら……」
ふと、眉をひそめてしまった。
美しいラナンキュラスの鉢なのに、こんなに綺麗に咲いているのに、無理をしすぎた夜明けのような疲れの色が見て取れる。
根詰まりだ。
ひと目には美しい植物たちも、言うまでもなく、その裏側では地中に力強く根を張って水と栄養を汲み上げながら生きている。当然、水も栄養も限られた原野にあっては僅かな糧も逃すまいと根をいっぱいに張り巡らせるもの。長き遺伝子の旅路の中で身につけた途方もない生存戦略の些細な一例。
問題は、このような狭い鉢に置かれた場合。伸びすぎた根が鉢の中に詰まりすぎて、水や栄養が十分に行き渡らなくなる。そうした現象を根詰まりと呼ぶ。
だからそうならないよう鉢の大きさはよくよく考える必要がある……のだけど、べつに難しい話じゃない。ガーデニングの知識としては、初歩的な部類に入るだろう。
つまり。
このラナンキュラスの持ち主はガーデニングの知識に乏しい?
根腐れや根詰まりの対処もわからず、碌な噂も聞かないだろうこの風見幽香を頼るくらいに?
「おかしいわねぇ……そんなはずは、ないのだけど……」
花々を大きな鉢に植え替えてやりながら、頭の中からは依頼主のことが離れない。
どうにも一致しない符号。
割り切れない違和感。
依頼主はガーデニングの初心者である。それはいい。
依頼主はこの風見幽香を恐れない程度には力のある妖怪だ。それもいい。
それだけなら、力ある妖怪が横好きで育ててみた花の異変に泡を食って、私の元を訪れた(そして仕事を丸投げした)。そう解釈すれば筋は通る。妖怪なんて自分勝手な連中ばかりだし、教本に頼るより先に他力本願がでてくるもわからないではない。
問題は、このラナンキュラスの美しさ。前のバラたちにしてもそう。彼らは……初学者が手慰みに育てたにしてはあまりに、華麗に咲きすぎている。
おまけにこの花々は温室で育てられているはず、ときている。
……温室ね。
確かに大気温度は植物の生育に重要だけど、それだけでは不十分。例えば日照時間の不足。冬場は特に日が短いから、その分のケアは欠かせなくなる。また何よりも大切なのは土だ。結局、花の美しさは土の力に依っている。目に見えないものだからこそ、繊細な気配りと確かな知識が必要になる。
無論、水をやりすぎて根腐れさせるようなガーデナーには到底望むべくもない資質。
しかし現に花は咲き誇っている。自らの美しさなど知らぬだろうに。知るを識る意識さえないだろうに。
いったい依頼主は何者なの?
例えるなら、最高峰のスペシャリテを振る舞うシェフが、その一方で包丁の握り方すらおぼつかず、塩と砂糖を間違える……そんなアンバランスさ。
それとも私が難しく考えすぎなのかしら? 単純に、依頼主と花を育てた人物が別だという可能性だってある。あるのかしら? それもまた妙な状況だ。
「……花のことでなきゃ、放っておくんだけどね」
考えても答えは出ない。
もとより丁寧に考えるのも趣味じゃない。優雅であれば実力行使も悪くはない。
「べつにお客さんというわけでもないんだし。捕まえて、問いただすか」
いつだって結局はシンプル・イズ・ベスト。
『根詰まりを起こすので、鉢のサイズは考えるように』と応答の手紙を添えて、鉢植えは窓枠に戻しておく。きっとまた依頼主は取りに戻るだろう。
しかし相手はどういうわけか、私の魔力感知をすり抜けてくるらしい。ならば動かずして獲物を捉える食虫植物たちに学ぼう。身も蓋も無い言い方をすれば「寝ずの番」。どんな方法で姿を隠しているにせよ、鉢植えを取る瞬間は必ず訪れる。動くのは、その瞬間だけでいい。
「ふふ……」
静かな、けれど確かな高揚感が胸の底に渦巻いていく。
期待している? 私……姿の見えぬ奇妙な同好の士を思い描いて。
長生きしすぎて感情なんて枯れてしまったものと思ってたのに。
切なる昂ぶりを抑えつつ、むしろ私は気配を極限まで消して窓の影に潜む。自分の家で何をしてるんだか。しかし露骨に姿を見せればきっと、依頼主は現れまい。
だから私は私に魔法をかける。気配を消す魔法。意識を消す魔法。
重要なことは、雑念を消すこと。
思考思想思念思慮思惟と夢想を落とすこと。
気配は情念と執着から生ずる。
けだし、気配とは意識そのものなんだろう。
故に植物のように、植物たちのように、ただの路傍の石ころのように、ただ、ただ、ただ…………
●
……。
いつからだろう。みんなの心がわからなくなったのは。
わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
そもそもいつからだろう。築きあげたわたしの世界に、愛情も友情も欠いた無為の式場に、みんなが入り込んできてしまったのは。
わたしは流れ着いた土の島。島は泣いたりしない。
いつからだろう。いつからだろう? 安定性を軸にまわるわたしの世界は徐々にカオスに満ちていく。
皆の心がわかるようになるほどに、みんなの心がわからなくなっていく。
愛さなければ泣くこともないのに。
死んでしまった心は蘇らないはずなのに。
誰とも交わらなければ、わたしはひとりでいられたはずなのに。
わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
わたしは流れ着いた土の島。島は泣いたりしない。
泣いたりしない。
泣いたりしないんだ。
そのはずだったのに。
……。
◯
「はっ……」
咄嗟に我を取り戻した。
今のは、なに? まるで誰かの思念を直接注ぎ込まれたかのような……。
それにしても、寒い。すごく寒い。歯の根が合わないほど身が震えるのは、鳥肌が立つのは、師走の空気のせいだけじゃない。心の縁を氷の鉤爪で鷲掴みにされたような悪寒。
それにすごく、さみしい。さみしいの。石ころは痛みなんて感じない。泣いたりしない……そのはずだったのに……
「……らしくもない」
濡れた頬をぬぐい、気を引き締める。既に胸にある確信。これは攻撃だ。精神への攻撃。
そして妖怪とは精神に依拠する存在。なればこそ、心を侵食されるのはやばい。とてもやばい事態。
当然、普段ならこんな攻撃喰らうはずがない。
けれどさっきまで私は、気配を絶つために意識のスイッチをOFFにしていた。限り無く無意識に近い状態……つまり極めて脆弱な状況だった。
まさか花の治療の依頼者はこれを狙っていたの? 私を倒せる隙を作るために――
「あら」
真っ黒い一つ目がぎょろりとこちらを見ていた。そこから伸びた黄色い二本の触手が、窓枠に置かれた鉢植えを掴もうとする。
敵だ。
直感し、先手を打って飛び出す。敵は精神攻撃を扱う妖怪。間合いを詰めるのが最優先だ。ゼロコンマ一秒が生死をわかつ。魔力を充填した両腕で侵入者を組み敷く。さらに抵抗できぬよう触手ごと捻り上げた。
そして。
情けない声が上がった。
「いたいっいたい! いたいよ! な、なんでー!?」
拍子が抜ける。
良く見れば黄色い触手はただの服の袖だったし(ダボついてるせいで手が見えなかったのよ)、黒い一つ目はつばが広いだけの帽子に過ぎなかった。今はもう帽子だけ地に落ちて、少女のあどけない表情と、癖のあるヒスイカズラ色の髪があらわになっている。
もちろん見た目と実際の凶悪さにさしたる相関もないとは言えど……情けない。すっかり動転していたわ、私。
「バラやラナンキュラスの鉢を置いていったのはあなた?」
「そうだよぉ! ねえもう離して! 私なんにもしてないよーっ!」
「あ、あら、ごめんなさい」
自由になった少女は怯えた犬のように距離を取ると、窓枠に置き去られたラナンキュラスの鉢と、私とを、難しい顔で交互に見やった。二つの大きな瞳が涙目になりかけている。
時が過ぎていく。
私の足元に、帽子の広いつばが当たった。
「これ、あなたのでしょう」
「返して……」
「すごく傷んでるわ。よっぽどあちこち被って回ったのね。すっかり日焼けしてるし、よれよれ。直してあげましょうか?」
「え……ほ、ほんと?」
「私、こう見えて手先は器用なの。寝巻きも自分で編んだりするのよ……」
あら……変ね。
私、何を言ってるの? 首を傾げながらも、同好の士、という言葉が脳裏にちらついている。
向こうは向こうで、もう、涙目をぬぐって笑顔を見せている。警戒とか、恨みつらみとか、そういう意識は無いのかしら。
「寒かったでしょう。ローズティーはお好きかしら」
「え! いいの!?」
「いきなり酷い目に合わせてしまったお詫びね。まあ、妖怪の棲家に無警戒に近付くのも、どうかと思うけど」
「あ、そうそう! お姉さん、どうして私の姿が見えたの!? 普段なら避けられたけどさー、びっくりして避け損なったのよ」
私の感知をすり抜けてきた能力のことを言ってるのだろう。
しかし冷静に考えてみて、意地になって寝ずの番をしていたと答えるのも、なんだか恥ずかしい気がする。
「それは……魔法よ」
もっと恥ずかしくなった。
◯
「わたし、古明地こいしっていいます。みんなのこと治してくれて、ありがとうございます」
ローズティーの柔らかな香り立ち昇るカップをそっとソーサーに戻しながら、彼女は、こいしは、ゆったりとした動作で頭を下げた。
行儀の良い子だな、というのが第一印象。ふつう妖怪に礼儀作法なんて期待するだけ無駄なのだけど、彼女はいいとこのお嬢さんといった風。
一方で……あるいは令嬢ならではなのか……どこか浮世離れした趣きもある。花の鉢を放り捨てるように押し付けてきたのも、常識がちょとズレているからかもしれない。
「あのバラや、そのラナンキュラスは、やっぱりあなたが育てたのね」
「うん」
今、ラナンキュラスの鉢はこいしの傍ら、机の上に丁寧に鎮座している。外は冷えるからね。イタリアンパセリに似た緑鮮やかな葉々にしたたる水滴が、暖炉の炎の光を浴びて、花弁と同じ薄橙色に染まっている。
こいし自身の童話的な風体も相合わさって、なんだか御伽噺の挿絵のワンシーンのよう。
一方で私はといえば、こいしの黒帽子を繕っている最中。もとの素材が良いのか、見た目よりは痛んでいないけど、それでもだいぶんダメージが来ているな。よっぽど引き摺り回しているのかしら。
「その子、根詰まりしていたわ。ちゃんと鉢のサイズも考えなくちゃ、ダメよ」
「ネズマリ?」
「え? ああ、だからつまり――」
……改めて、驚き。根詰まりなんてガーデニングの初歩も初歩な知識。馬鹿にしたいわけじゃない。やっぱり、この子には知識の断絶がある。
いや……私は帽子を繕う手を止める。そもそもの前提が間違っている?
「ねえ、聞いてもいいかしら……」
「なぁに?」
「あなたは……ええっと、花を育てる方法をどこで学んだの?」
「ほーほー?」
「だからつまり……土のいじり方とか、室温や日照時間の調整、摘芯や剪定の基準とか、そういうものを、どうやって決めているのかしら」
沈黙。古明地こいしが不思議そうに首をひねる。
一方で私には、ある予感……むしろ確信に近いものを得る。やっぱり、この子は。
「……とても素敵な花たちね」
「えへへ、でしょー? みんなわたしのお友達なの」
「いったいどんな育て方をされてるの?」
「うーん、べつに育ててるって感じじゃないけどね。みんなの喉が乾いていたら、お水をあげるし。みんなのお腹が空いてたら、栄養になるものをあげてるの。あ、わたしのペットにね、死体を集めるのが得意な猫がいるんだよ! だから肥料には困らないんだ」
「そう……それはいいわね。花の美しさを引き出すのは、結局のところ土の良し悪しだから。あなたの育てた花――失礼、あなたのご友人たちとても、とっても綺麗だわ」
「ほんと!? ね、あなた綺麗だって! お花の妖怪さんのお墨付きだよ! 良かったねー!」
ぱっと笑顔の花が開く。花々を抱きしめてキスでもしそうな勢いで。
古明地こいし。知識の欠けた天才ガーデナー? その不可思議な断絶の理由は……そうね……とどのつまり、花をよく咲かせる最良の方法は、よく咲かせようなどと考えないこと。ただ花たちの心に沿って、寄り添って、彼らの望むことをしてやればいい。究極的には知識がなくともよく咲かせることは可能なのよね。
一方で、ほんとうの意味でそれを為すのは極めて困難でもある。なにせ結局、花々に心など無いのだから。それは単なるレトリック。夢のない言い方をするのなら、植物の見せる生理的な変化の機微を読み取るセンスと、それを発揮するための類まれな没我の愛だけが、真に美しい花を咲かせるのだろう。
私の追い求めるもの。こいしの持っているもの。
かくして我らは同好の士。
同好の士か。
花々を、植物を、愛する者。彼女もまた、私と同じく。けれど随分と違うような気もする。私は彼女と同じではないし、であればやっぱり、彼女も私と同じではない。
美しく咲かせようなどと……そもそもそれは私にとって、とうに捨ててしまった感覚では、ある。花々を愛でるという感覚もついぞ失って久しい。けだし、彼らはあまりに私の世界の一部になりすぎてしまった。
なら私、なぜこの子から目を離せないのかしら? その能力が羨ましいから?
いいや、そうでもないな。もはやそういう領域を私は過ぎてしまった。
これだから、同好の士なんてものは、ナンセンスなのよ。
「ローズティー、おかわりはいかが……」
「おねがいします!」
黒帽子を直し終えるにはまだ日がかかりそうだった。
彼女はローズティーをたっぷり五杯も飲み、再開を約束しあって私達のお茶会はお開きとあいなった。
次はケーキを焼いておこうかしら。
なんてまた、柄にもなく。私はそんな事を考えながら、冬の夕暮れを見送った。
◯
憂鬱な師が走り去り、睦月のからりとした寒波が渦巻くようになってなお、私と古明地こいしの穏やかなお茶会はほそぼそと続いた。
最初はただ、黒帽子を直し終えるまでのつもりでいたけれど、お茶会の度に彼女は違った花(中には最初に診てやったバラや、ラナンキュラスもまた混じっていた)を持ち込んでくる。そしてそのどれもこれもどこかしら、ガーデニング初心者にはありがちなミスが原因で悪くなっているものだから、次第に私達のお茶会はガーデニングスキル講習会の様相を呈していった。
もっともそれも彼女は、聞いているのだか、いないのだか。こいしのとるんとした顔つきはなんとも内面を読み取り難い。あるいは本当になにも考えていないのかしら。
「今日は……趣向を変えて、ルイボスティーを淹れてみたの。ルイボスというのは、アフリカ原産のマメ科の植物。もし実物を見たら、お茶の原料とは思えないわきっと……」
「ありがとうございます、いただきますっ」
お行儀は、良いのだけど。やっぱりどこかの妖怪良家のお嬢様なのかしら。実際こいしは、ただの妖怪というにはかなり特異な妖力を纏っていた。なにか由緒ある妖怪の可能性もある。似た雰囲気の妖怪にも昔、どこかで会ったことがある……気がするのだけど、どこだったかしら……。
ああ、ダメね。
記憶、思い出、この頃はなにもかもすぐに過ぎ去っていって、遥か遠くなってしまう。安定した日常は確実にそこに寄与しているだろう。力あるものとして光栄ある孤立を選んだ私に近づく者は多くなく、ますます私という妖怪は揺らぎ無く、そのフィードバックの繰り返しがますます日々を平穏に、穏やかに、丸め込んでいくのだわ。
「でもあなたはちっとも私を怖がらないのね」
「最初はびっくりしたけどぉー……でも、勝手にお家に入った私も悪いし」
「入ろうとするだけで、大したものだわ。誰も近づいてこない、だから誰ともかかわらない。もうずっと、そんな毎日だもの」
「ふーん……私も、同じような感じかな」
「あら、そうなの?」
「うん、まぁー、ね……誰も近づいてこないのは、怖がられてるからじゃないけど……」
「そう」
そんな会話は珍しい方だったし、私達の会話では長く続いた部類に入る。
花のことと、お茶のこと。それとケーキの焼き加減のこと以外、私達はほとんど身の上を話さなかったから。
特にガーデニングの知識を伝え終えて、ケーキも食べきってしまうと、ともすれば、互いに黙りこくったままの静寂が何時間も続くのもしばしば。
でもそれも悪い気はしなかった。
べつに、無駄口を叩き合う趣味もない。彼女は暖炉に当たりながら私の魔導書を漁ったり、持ってきた挿絵付きの本を読んだりして。私は帽子を繕ってやって。
それに。
机の上にはこいしの連れてきた花の鉢がいつでも主賓の体で飾られている。私達にはそれで十分だった。
だから……この時間もやがて私の日々の安定性という軸に巻き付いていく一本のまきヒゲでしかないのかしら、と。
それもいいわねって、思い始めて。
そんな風に思うのも、本当に、いつ以来なのかしら、って。
そうして。
実に何事もないまま、また一月が経った。
相変わらず私たちは不定期のお茶会兼講習会を続けていた。
もっとも基礎的な知識はあらかた伝え終えてしまったので、議題はもっぱら花に関する雑学に変更。特にこいしは、花言葉という概念がよく気に入ったらしい。
「向日葵の花言葉は、愛慕、崇拝……ラナンキュラスの花言葉は、晴れやかな魅力。色にもよるけど、そんなところね」
「じゃあ、じゃあ、バラは?」
「バラの花言葉は、愛情、情熱、上品……特に青いバラは、通常自然界には存在しないことから、奇跡とか、夢が叶うなんて言われてる」
「えーっかっこいい! この子たちにそんな力があるの!?」
「どうかしら。結局、花言葉なんて人間の考えた概念でしかない。とはいえ思念は時に幻想を生み、果ては現実にまで影響を与えうるもの。私たちがそうであるようにね」
「うん、そっか……愛情、愛情かぁ……」
今ではこいしは、ちょっとした花言葉博士でさえある。本当に花たちのことを愛してるのだろう。好きの反対は無関心というように、愛すればこそ興味を抱くのだから。
強く深き没我の愛。美しい花々を咲かせるなによりの才能。
あと少しして春が戻って来たら、私の花々もあの子に見てもらおうかしら、なんて。まだ芽さえ出ていない太陽の畑を一人見回りながら考えることもあった。
――そして今日も、あの子が訪ねてくる日だわ。
「今回はね、ジンジャーティーなんていかが……身体が温まるから……」
お茶のレパートリーがあることは喜ばしいこと。友人をもてなす材料は多いほうが良いから。
……友人。友人ね。同好の士と友人、どっちが重いのかしら。そもそもあの子は友人なの? そんなものも、随分と久しく設けていなかったじゃない、私。
だってセルロースのぶ厚い壁は、安定性と引き換えにカオティックな変化と変遷を奪うもの。
そういうものよ。
それでも、生姜茶を口にする前からなんだか火照るような気分になって、私は湯気のたつポッドを彼女に差し出した。
……その時が初めてだった。私が、表情からこいしの感情を読み取ることが出来たのは。
彼女は沈んでいた。明らかに浮かない表情で、バラの鉢植えを抱きかかえて、私を見上げた。
「どうか、したの?」
「……えへへ。やっぱりわかる?」
愛情に満ちた優しい手つきで鉢植えが机に置かれる。
例によって見事なバラの鮮やかさ。力強く伸びた棘。この頃はもうこいしも、初歩的な間違いをしなくなりつつある。だからこの花に問題があるようには見えない。
それとも別の、例えば個人的な悩み……?
整った土壌とは、痩せすぎず、肥えすぎず、その中間にあるのに。だからこそ徹底的にこのお茶会から締め出されていた変化という名の肥沃な流土が、静かに、しかし確かに、私達の間に流れ込んでくるのがわかる。
さりとてそれを遮ることは、また傲慢と呼ばれるものだ。だから私はただ、こいしの切り出すのを待った。
「幽香さんは、」
一呼吸置いて、彼女が問う。
「お花の気持ちがわかる妖怪なの……?」
面食らう。質問の意図が頭に入らない。
私がじゅんぐり思考を巡らしている間にも、彼女は続ける。
「わたしね、なんだか、みんなの気持ちがわからなくなっちゃって……ほんとはね、幽香さんなら、なにかわかるかなって。そう思ったの、最初……だから」
「ええと」
思い悩んでいる。それはわかる。なにか、こいしは思い悩んでいるらしい。
だけどそれが何に由来するのか……私は口を閉ざす。こんなにもコミュニケーションが下手だったかしら? もうずっと、他者と関わることも止めてしまっていたから。
べつに後悔もしていないけれど。ただ面倒だっただけ。
でも、まあ、メンテナンスくらいはしても良かったのかもしれない。対人関係能力も、水物ね。
それで、
「花の気持ちなんて、わかりようもない。そもそも植物の気持ちっていったい何なのか、という話ね。あの子達は、私たちのようにものを考えたり、意識したり、そういうことをするわけじゃないでしょう? 無意識の存在とでも言うべきかしら……むしろ植物の気持ちなんて下手に考えるほうが、愛情、美しさへの憧憬、そういうものを投影してしまうわ。ガーデナーが花を咲かせるわけじゃない。自分だけで花を咲かせてみせようという傲慢な考えがむしろ、余計に花々を腐らせる。そういうものなのよ」
答えになっているのかしら。
結局、質問に答えたと言うより私の考えをそのまま吐き出しただけのよう。もっとも、会話なんてそんなものかもしれないけれど。
こいしはこいしで、私の答えに応えるでもなく、否定するでもなく、ぶつぶつと覚束な気な言葉を吐き出す。
「わたし、みんなのことが大好きなはずなのに……友達、だったはずなのに……どうしちゃったのかな……」
泣き出しそうなこいしにかけてあげられる言葉が思いつかない。
慰める……そんなことをしたのも、もうずっとずっと昔のこと。
泣けばいいじゃない、泣きたいなら。ずっとそう切り捨てて久しかった。今さらになって優しさを向けてみたくなっても、上手くいきようもない……か。
「美しく咲いてるじゃない。その花だって……」
「ちがうんだよ、そうじゃないの! この子の時は大丈夫だったの! でもダメなの! 最近は、幽香さんに教わったこともぜんぶぜんぶ試してるのに、うまくできないの」
「うまくって……」
「昔はね! ネグサレもネヅマリもさせたこと無かったもん! そんなことになる前に、ぜんぶみんなが教えてくれたもん! でもね。みんなの心がわからなくなっちゃったの。きれいに咲くかどうかも、本当はどうでもいいのに」
ようするに。友人の涙に動揺しながらも冷静に私は頭をめぐらして、淡々と、事態への理解を進める。
古明地こいしが美しい花を咲かせられる理由。没我の愛と、花々の変化を読み取るセンス。そのどちらかが喪われつつある、ということらしい。口ぶりからしておそらくその現象は、私と出会った時よりも前から始まっている。
というより、私を頼ったのはそもそもそれが理由なんだろう。
花の心か。
そんなものはないというのに。あったとしても、セルロースの分厚い要塞の中だというのに。
「だから、あの、あのね、今日はお願いをしに来たんです」
「え?」
「みんなを預かってほしくて。こんなこと、すごく失礼だしムセキニンだってわかってるけど……わたし、もう自信なくて……」
「みんな、というのは貴女の育てているお花たちのこと……よね?」
「……うん」
「預かってほしいって、代わりに育てて欲しいってこと?」
「……はい」
たしかに。そんなのは失礼で無責任な話。普通の相手なら二の句を継がせる前に吹き飛ばしている。
それでも今は……彼女の喪失の痛みとはどんなだろうか。私は喪失の痛みさえ喪失してしまっているのか。想像することさえ出来ない。私は失わなくなって久しい妖怪だ。あるいは、失うものすら失いきってしまっているのか……。
そして。
私はこいしの頼みを引き受けることにした。それっきり彼女はもう憑き物が落ちたように、少し冷めたジンジャーティーを口にしては独特の香りに目を丸くしたり、行き掛けに梅の花の咲いているのを見たことを聞かせてくれたり、いつもの様子に戻っていた。
その表情。確かに豊かであるはずなのに、もうどんな感情も読み取れなくなっていた。
そして、数日後。
最初にバラの鉢植えを見つけた寝室の窓辺に、たくさんの美しい花々の鉢植えが、器用丁寧に並べられていた。
『よろしくおねがいします』と書かれた手紙を添えて。
▼ ▼ ▼
――博麗神社。
花のような日傘をさした女性がひとり、木枯らしの吹きすさぶ境内を歩いている。
まだ、神社の桜が芽吹くにはわずかに早い。花開くまでにはなお遠い。その中で、女性の日傘の一輪だけが低い太陽の陽を浴びて、場違いな色を見せていた。
そのまま彼女は賽銭箱と人気のない本殿の側を素通りして、裏の、居住スペースの戸を叩く。
「はい、はい、はーい! しょうしょうお待ちください!」
待つまでもなく勢い戸が開かれる。冬だと言うのに妙に南国風の格好をした、見知らぬ少女に出迎えられて、日傘の女性は開きかけた口を半端に閉ざした。
「あっ! あなたはえーと、たまにたまーに、すごくたまに宴会にいらっしゃいますね……えーと、えーと」
「風見幽香」
「失礼をばいたしましたっ! 霊夢さんに用事ですか?」
「そう」
「しばしお待ちください!!」
どたばたと騒々しく駆け戻っていくのを見送ってから、数秒後、袖を引きずられた紅白の巫女が現れる。その後ろには見慣れないストライプ衣装の妖精もくっついて、「ねーあたいお腹すいたー! 暖房代取るぞこのやろー!」と喚いている。それを無理やり押しのけつつ巫女は、意外な来訪者に微笑んだ。
「珍しいじゃない。あんたから尋ねてくるなんて」
「ええ、少し――」
「ねぇー! お腹すいてたってば! 床暖房無くなってもいいのかよー!」
「うるさいなぁ! お客よお客! 戸棚に煎餅あるから食べてな! あうんとちゃんと分けるのよ!」
「早いもの勝ちだねーっ」「あー! 待ってくださいよ!」
土煙でも上がりそうな勢いで台所へと消えていく二匹を目にして幽香が呆気にとられていると、霊夢はなんともバツの悪そうな笑みで、彼女を見上げる。こんなのがもう日常茶飯事だ、というように。
「あはは……悪いね賑やかで」
「……なんだかここも変わったわね。いえ、あなたが変わったのかしら」
「そりゃ変わるでしょうよ。人間だからね。あんたは変わってなさそうだけど」
「妖怪だもの」
「妖怪でも、変わらないなんてことは無いと思うけど。んで? そんな当たり前を確認しにわざわざ来たわけ? この寒い中を」
「あなた妖怪に詳しいでしょう」
なんでそうなるかなぁ、と。ぼやく巫女が額を押さえる。
「だって妖怪巫女じゃない」
「妖怪退治巫女さんですけどね」
「この私にも臆さずそういう態度を取る時点で、妖怪巫女よ」
「……?」
「なに、だから――」
「ああ、妖怪相手には警戒するべきだとか、そういう話? べつに、あんたは物騒だけど悪意のある奴じゃないってことは知ってるし。だから警戒する理由もないでしょ」
「……」
「もちろん普段の話ね? 異変の時は容赦なくぶっ飛ばすから」
「……そう」
幽香はその話をそれ以上続けなかった。霊夢もまた深くは聞かない。台所からぶん投げられた「見つかんないぞ霊夢ーっ!」という怒声のために、事細かに煎餅の格納場所を説明しなくちゃならなかったから、という理由もあったが。
かくして問題児たちへの対処を霊夢がようやく終えるのを、身じろぎもせずに待ってから、幽香がまた口を開く。
「古明地こいしという妖怪、知ってる?」
「え? こいしちゃん? ん、まあね。最近は人里にも出入りしてるみたいだし。あいつなんかやらかしたの?」
「彼女、どういう妖怪なのかしら」
「どういうって……そんなこと知ってどうするのよ?」
身を正す霊夢の衣装が擦れる音。少し、空気の温度が下がる。警戒を抱いた、というほどではないが、巫女の雰囲気が少しだけ閉じられる。
「べつにプライバシー保護ってわけじゃないけどさ。妖怪について知りたいなら幻想郷縁記でも読んでやったら」
「……友達のことを聞くのが、そんなにおかしいかしら?」
「なに……え?」
その言葉を霊夢が咀嚼し終えるまでたっぷり五秒。んんっ、という咳払い。
「友達って、あんたとこいしちゃんが?」
「彼女も花を育てるのが好きみたいでね。ふふ、そんなに私の口から友達って言葉が出るのがおかしい?」
「いや……ただ、最近は向日葵畑にずっと引きこもってるのかと思ってたから」
「引きこもってるわよ。相変わらず」
「あっそう……ちっとはうちにも顔を出したら。あの悪霊といい、昔の連中どいつもこいつも付き合い悪いんだから……って、マジでこれじゃ妖怪神社じゃない! やっぱ来なくていい!」
「そう」
「あー、言っとくけど私もこいしちゃんのことなんか大して知らないからね。友達ってんなら、あんたのほうが詳しいんじゃない」
「それがねぇ。知らないのよ、なにも。彼女のことを」
「はぁ? それはまたどーいう……」
まだ、霊夢の瞳は訝しげな色を残してはいた。それでも幽香の纏う気配から何かを判断したらしい。博麗の巫女の勘。あるいは単なる人付き合いへの機微。妖怪にもそれが通じるのなら、だが。
一方妖精たちは無事に煎餅へとありついたらしく、もう喧しく騒ぎ立てることもない。
「ま、いいや。古明地こいしね。覚妖怪っているでしょ。あの心を読むやつ。こいしちゃんも覚よ。地底の、地霊殿を管理してる古明地さとりの妹」
「ああ……どこかで見たことがあると思ったら、あれか。心を読まれた感じはしなかったけど」
「話は最後まで聞く! 詳しくは知らないけど、あの子なんか色々あったみたいでさ。自分で第三の眼を綴じちゃったのよね。だから心を読む力も失ってる。代わりに無意識ってのが操れるんだってさ。いや、操れはしないんだったかな?」
「無意識……」
「完全に無意識状態になると、気配も消えるんだって。実際、すごーく意識しないと気がつけなくなるのよね。どういう原理なのかは知らないけど。だからかくれんぼでは負けなし」
「そう」
「私が知ってるのはそんだけ。参考になった?」
無言。
風見幽香はなにも答えない。霊夢が首を傾げても、どこか遠くを見るような目をしたままで。
しかし、やがては、
「邪魔したわね」
と。それだけ告げて出ていった。
取り残される霊夢の背中に浴びせられる、クラウンピースとあうんの叫び。
「霊夢ーっ! お茶淹れてよー! 煎餅しょっぱくて喉乾く!」
「ほうじ茶がいいですねっ」
「あい! あい! 今行くから待ってな! ったく、自分でやったらいいじゃない……」
安定性とは程遠い、されど居心地の良いカオスに追われ、霊夢は日常に戻っていく。
不意の旧友の来訪にも、古明地こいしに関することも、保持する余裕は到底なかった。
人の日常とは目まぐるしくまた忙しい。そういうものなのだから。
◯
もう春が近い。しかし雪の帳もまだ開けそうにない。そんな、中途半端な時勢を知る由もなくこいしから預かった花々は、私の魔力によって暖かな季節を再現した環境に保管されている。
あるいは。
この大自然の寒空の下、別け隔てなく世話をしてやるべきなのだろうか。花が散ったとて、彼らの命が失われるわけでもない。ただあるべき様を生きるだけ。まあ、多少の混乱はあるだろうけど。
あるがままに。個人的な好みとしては、そっちね。
……さて。
いったいどうするべきなのだろう。
持ち主に聞ければ楽なのだけど、生憎とこいしはあれから一度も顔を見せていない。
いつまでも置いておくつもりなのかしら? いや、それは重要なことじゃない。
ただ日々だけが廻っていく。いつも通りの日々が。セルロースに包まれた私の安定性に巻き付いた日々。
それを打ち破るノックの音。急ぎ駆け寄る私。でも、こいしではなかった。霊夢のところの狛犬の妖怪が、にっこり無邪気に微笑んだ。
「幽香さん! ですよね?」
「……ええ」
「霊夢さんから伝言です!」
伝言? 私が首をひねる間に、狛犬はもう既に伝達事項を流し始めている。妙に上手い霊夢の声真似がなんだか癪に障る。
それにしても、随分と落ち着きのない妖怪だ。きっとまだ若いのだろう。この子もいずれは私のようになるのかしら。長く長く生きれば……博麗神社が無くなったらその後はどうするつもりなのかしら。
ああ、そういえば花たちに水をやらないと。
今日のお茶は何にしましょうか。
そんなまとまりのない思考が、ふと狛犬の話に引き戻される。
「『――んでね、こいしちゃんは覚の力を捨てて無意識の力を手に入れたった言ったでしょ』」
この間の話の続きらしい。すっかり聞いていなかった。
「『でもね、それもまた変わりつつあるみたい。引きこもりが友達を作って社会復帰を初めてる、とでもいうのかしら。いやあの子はもともと引きこもりでもないんだけど……わかるでしょ? 精神的な話よ。まあ、心を閉ざしたままなんて寂しいものね』」
「なんで今さら、そんな」
無意識に尋ねていた。もちろんメッセンジャーが返答できるはずもない――と思ったが、狛犬はさらりと二の句を継ぐ。
「『なんで今さらそんなこと言うのかって? あんたの様子が変だったからよ! こいしちゃんと何があったのかはしらないけど、知ってることは伝えとく! 一つ貸しだからね!』だ、そうです!」
……どうやら、お見通しというわけらしい。それも博麗の巫女の勘か。あるいは私の方が衰えたか。
御機嫌を残したまま神社へと揚々帰還していく狛犬を見送りながら、私は……はぁ。だから同好の士だなんて、ろくなもんじゃない。
だって今、どうしてもこいしちゃんの事を考えてしまうもの。だからもう、たっぷりそちらに思考のリソースを割くことに決める。
「……はぁ」
まずは、整理しましょう。
蕾が溜め込んだ鬱憤を花として開かせるように、ようやく頭が動き始めるのがわかる。
重要なのは、きっと古明地こいしのアンバランスさだ。
ネグサレもネヅマリもさせたこと無かった彼女が、突然に見ず知らずの「お花の妖怪」を頼らなくちゃならなくなった理由。
それこそが、彼女がお茶会に来なくなってしまった理由なのだろう。
……わかっているわ。容赦も遠慮もなく私は既に理解している。
無意識を操る彼女は、というより無意識そのものである彼女は、誰よりも花々に近かった。
だからネグサレもネヅマリも知らなくとも、美しい大輪を咲かせることが出来た。そうね。それはとっても素敵な資質。独りよがりに花を咲かせようとする者たちばかりのこの世の中にあって、得難い才能。
けれどその力は失われつつあるらしい。
彼女は怯えていたけれど、霊夢の話から考えればきっと、それは喜ばしい変化なのでしょう。
それは祝福すべきことなのでしょう。
致し方ない。それを引き止めるような欲求はもう私の中から枯れてしまった。追いすがるより、引き止めるより、見送るが是だと知っている。独りよがりな衝動に飲まれることが無意味だと理解している。
であれば、私のすべきことは。
そうね。あの子を送り出してあげないと。
物言わぬお花たちの代わりに。
●
――いつからだろう。みんなの心がわからなくなったのは。
薄暗い部屋。微かにだが土と花々の残り香滲むバラ柄の壁紙。
地底の人工太陽の光量を閉じ込めたミニチュア太陽灯も今は沈黙し、部屋の隅で膝を抱えた少女を見下ろしている。
――わたしは路傍の石ころ。石ころは痛みなんて感じない。
彼女の口元が吐き出す言葉を聞き取る者は、もういない。
空っぽの机に残る鉢植えの痕跡。半ば使いかけの土が詰まった袋の山。ネグサレ、ネヅマリ、その他種々のガーデニング知識や花言葉をまとめたメモ帳の側に、短くなった鉛筆が放り捨てられている。
ノックの音が響いた。
少女が顔を上げないので、扉のほうが先に開かれた。
「らしくないな、我が好敵手よ」
あわい人魂を纏って廻る仮面の群れ。面霊気・秦こころがため息をつく。その無表情は変わらないが、代わりに素早く仮面たちが切り替わる。
それがいったいなんの表情なのか、当の本人以外は知る由もない。あるいは当人ですら。
「ふむ……冗談に乗ってくるような体調でもなさそうだな」
「帰って……なにしに来たの……」
「おまえのお姉さんから頼まれた。妹が急に……あー、大切に育てていた花を処分して、そのまま引きこもってしまったと。様子を見てきてほしいとな」
「……お姉ちゃんが来たらいいじゃない」
「私に言われてもなー。家庭の事情だしなー」
「知らない、知らないっ……」
「あ、その帽子治したのか? すごく綺麗になってる。前はよれよれだったもんなー。それはお姉さんにやってもらっ――」
「ねえもう帰って!」
怒声にもこころは怯まず、薄く光の宿る目をこいしに向ける。
仮面が切り替わる。
その表情の意味は、やはりこいしにはわからない。
「やっぱり変わったな、おまえ」
「なにが……」
「前はそんな風に感情をあらわにする奴じゃなかったはずだ。いつもにこにこヘラヘラしてるくせに、私より無表情な奴だった」
「知らないもん……」
「瞳が開いてきてるんじゃないか」
「……」
「いや……お姉さんの受け売りだがな。正直、私から見たらおなじに見える。しかし私の無表情も、聖様や神子から見るとけっこう、違うようだ。きっと変わらないものなどないんだろう。目に見え難いだけで」
こいしはこたえない。顔を両膝にうずめて、だぼつく袖のせいもあり、一つの閉じた瞳のようにも見える。
こころは話題を変えることにしたらしい。その指先が、空になった棚を撫でる。多少散らばった土の上、埃が薄くつもり始めている。
「おまえ、花なんか育てる器量があったんだな」
「……」
「捨てちゃったの?」
「……」
「……」
「…………」
「……そうか」
「……捨てたんじゃないもん」
「え?」
「預けてるだけだもん……」
「そうか」
「友達だったんだもん」
「友達に、預けたのか?」
「え……友達……」
「ああ、花のことか。あー……そうだな。そう、私は植物って育てたことないが、最近は自分で仮面を彫ってみたりはする。それはべつに、ただの仮面なんだ。私のスペアになるとかそういうんじゃないんだけど。だからまあ、なんの役にも立たない仮面なんだが」
「……」
「しかしやっぱり、自分の手ずから生み出したものというのは、愛着が湧くよな。友達、わからなくもない。まあ私が面霊気だからかもしれないが……そうだな。それを捨てる――ああいや、他所様に預けてしまうというのは、どういう時だろう……どんな時かな……べつに出来が悪くったって、愛おしいものなのにな……」
黙りこくる二人の妖怪。そこにまたノックが重なる。地霊殿に棲まう黒猫がヒョコリと顔を出した。
「あのぅ、こいし様? 今ちょっと、よろしいですか。小包が届いてて、地上からですけど……」
こいしは顔を上げない。「受け取っておこうか?」とこころが尋ねても反応なし。が、彼女はそれを了承と受け取ったらしい。あるいは面倒になっただけかもしれないが。
「地底にも郵便が来るんだ」
「いやぁなんか、地上の野良妖怪が持ってきたんですよ。地霊殿まで運ばないとやつに殺されるって怯えてましたけどぉ……誰かに無理やり持たされたみたいで」
「なにそれ。物騒だなー。捨てたほうがいいんじゃない」
「ですかねぇ」
「……まあ、いいや。まさか爆弾ってこともないだろうし。べつに爆弾でも平気だし」
黒猫から小包を受取って中をあらためたこころの無表情に、驚きの大飛出面が一瞬重なる。が、すぐに大袈裟だと気がついたのか、またもとに戻った。
「これ……花か? こいし、おまえの預けていたやつか?」
「え?」
「ほれ」
エンドウの花を一回り大きく可憐にしたような紅色のかわいらしい花が、数輪。
顔を上げたこいしはそれらを受け取りながらも、不思議そうに花たちを見つめ、
「私のじゃない、けど……このお花、なんだろう。スイートピーかな……」
「スイトンビ?」
「スイートピーだよ! えっと、花言葉はたしか――」
「お、まだなにか入ってる。手紙だ」
「ねえ勝手に読まないで!」
「読まないでって言われても……ぜんぜん意味わからんが」
ひったくったこいしが手紙に目を落とす。その瞳が震える。記された短い文字の連なりを見て。
『私の小さなご友人へ。お花たちのことは心配しないでね。お茶会、楽しかったわ。ご機嫌よう。』
それはただの単なるお礼の手紙に見える。時候の挨拶も無い淡白な筆致。現にこころは友人の動揺の理由がわからず、首をひねっている。
だけれども、こいしにはわかる。わかってしまう。震えるその手を、こころがそっと掴んだ。
「なにか、あったのか?」
「わ、わたし……わたしは……ただの、路傍の石ころで」
「私もおまえの力になりたい。友達だろう」
「と、ともだち……なんでこころちゃんは、私の友達でいてくれるの……」
「知るかそんなもん。私がそうしたいからじゃないのか」
「……そっか」
「それより、聞かせてくれないか? いったいなにがあったのか」
そして。こいしは訥々と語り始めた。
自分の身に起きたこと。自分が身勝手にお越したこと。なにもかもを。
◯
――どうせ、最後にはすべて土に還っていく。
春の息吹を感じる弥生のほの暖かな昼下がり。
私の日常は再び安定性を取り戻し、ティータイムの和やかな時間が粛々と過ぎていく。
変わったことといえば、そう、預かり物の花たちの世話をする日課が追加されたことだけ。それももう済ませてしまった。
「薄情なものよね……」
主人が変わろうが、土と水の質が変わろうが、花々は、ただ必要な環境が満たされていれば変わらずに咲き続ける。
しかしいつまでも鮮やかな花などないし、私の居間の日当たりの良い一角を陣取ったまま、もう幾ばくかの花弁が鉢植えの周りに散らばっている。
これからが春だと言うのに……世間が彩られる頃、彼らは一足先に眠りにつく。そんな「ズレ」すら露とも知らず。妬むこともなく、羨むこともなく、恥じ入ることもなく、孤独に瞳を閉ざすこともなく、すべての感慨も感動もセルロースの要塞の中。
それでいいんだわ。きっと。
弱い連中と関わるのは面倒なだけ。こっちから気を使ってやらなきゃならないし、向こうも私のことなんか理解出来やしない。互いに気疲れのするだけで。
だから私は花たちがいい。彼らは私の抱く敬意も憧れも感じはしない。私の抱く友情も愛情も意識できはしない。意識する心がないのだから。
……それでいいんだわ。きっと。
かくして私はいつもの日常を取り戻し、安楽椅子に身を委ねる。このまま百年が、千年が、万と億年が過ぎていったとしても、なにも変わらない。
私は瞳を綴じて、世界が過ぎていくのを待つ。偉大なる花々のように。
花々のように……。
私は……。
……。
……暖炉の薪が勢いよく爆ぜた。その音で目を覚ます、私は、うつらうつらして、そのまま眠ってしまっていたらしい。
「まだ、冷えるな」
飲みかけだったティーポットを一瞥して、面倒な気持ちと、情けない気持ちと、両方がぼんやり去来するのを、苦い思いで噛みしめる。
暖炉の炎はなお嫌味っぽいほのオレンジ色の光を揺らめかせて、鮮やかに。
ため息をひとつ。
単に寒さへの異議申し立てが半分。もう半分は、誰からも羨まれるくらい素晴らしい魔力を持っていたって、誰も労ってはくれないって意味で。
長く生きすぎただけか。生も死もそう変わりないように思えるけれど。夢も現も、意識も無意識も、悲劇と喜劇ほどの違いしか見当たらない。
「……羽織るもの、しまわなきゃよかったわ」
そんなことを思いつつクローゼットのある寝室を開く。その刹那。
やわらかな感慨というやつが、やにわに頭を持ち上げた。
窓枠に切り取られた世界の向こうに、黒帽子。それと、だぼついた黄色い衣装を纏った小さな背中。
扉の開く音に反応して、その後ろ姿がびくりと震える。
もう、敵と見紛って飛び出す私はいない。代わりに、振り向いたエメラルド色の瞳と目が合った。
「……」
「……」
この世から言葉というものが失われてしまったのかと思うような、沈黙。
こんな時、動揺に身を任せて泣き叫ぶような稚さが欠片でも私の中に残っていれば……そうであれば、こんな風にじゅんぐりと、次の言葉を探し求める必要も無かったのだけど。
そしてまたいつも通り、感情の整理より先に平静と冷静が戻る。なんともつまらない私。
「もう、来ないかと思っていたわ」
「う、うん」
「皆を引き取りに来たの?」
「ん……ど、どーかなー……」
「どーかなって、どうなのかしら」
「怒ってる? 幽香さん……」
「べつに……」
どうもこのままでは埒が明かない。
それに、いくら妖怪といってもこのまま寒空の下に放っておくのはあんまりだろうから。
「普通に表から来たらいいのに。そんなところに立ってないで、入ってきたら? あったかいお茶を淹れましょうか? いつもみたいに」
「ううん……ごめんなさい」
「なんだって謝るの?」
「まだ、みんなに会うのは怖くて……」
「そう」
「外、歩かない……? まだ少し寒いけどぉー……」
「そうしましょうか」
支度をして外に出ると、陽の光の下は思ったよりも暖かだった。いつもの癖で日傘をさそうとして、でもそうすると少し肌寒いな、と思って。
まだまだ日は短い。
一歩先を歩くこいしの背中。春先の太陽の畑は観光がてらには向かない景観だ。ぜひ、夏になったらまた来て欲しいわね。なんて、益体もない考えは浮かぶけど、さて、何を話すべきだろう。
問題は、感情。感情ね。面倒くさいもの。
はたして私は……怒っているのかしら? たぶん、ノー。
悲しんでいるのかしら? それも、ノー。
困惑している。たぶん、それが、イエス。
だって彼女は、古明地こいしは、ただ去っていくはずの存在だった。
私のもとに現れたのは、単に花たちを託す相手を探していたから。花たちを託す必要があったのは、彼女の無意識に関する力が変質して、花々の心(便宜上ね、一応)と同調できなくなったから。
……たぶん、その私の推測は当たってる。
だから私は彼女を送り出した。赤いスイートピー。花言葉は、門出、それと、別れ。頑丈そうな野良妖怪に任せたからきっと、間違いなく地霊殿に届いているはずだけど。それとも花言葉、忘れてしまったのかしら?
「もう、来ないかと思っていた」
「うん……」
「せっかく送り出してあげたのに。あなたが友人たちを――お花たちを愛しているのは、わかる。あなたに起こっていることも調べたわ。友人たちの声が聞こえなくなった、でしょう? そうね……今思い出したのだけど、前にあなたの心を覗いたことがあるの。初めて会った時に、私は極めて無意識に近い状態だった。だからあなたの思念が流れ込んできたのね。あなたが花々と同調できたように、私もあなたに同調してしまった」
「あっ……やっぱり、そうなんだ……」
「だから、いいのに。あなたの友人たちの世話はちゃんと引き受けるのに。ただ送り出されたら良かったのに。咎めたりしないのに。きっとそれは良いことなのに。草花だけが友達だなんて、そうなるには、まだあなたは若すぎるのよ」
「スイートピー、やっぱり幽香さんなんだ」
「ええ、もちろん……物言わぬ、物知らぬ、花々の代わりに、せっかく私が……」
「わたしも」
こいしの歩みが止まる。
その遠く向こうの妖怪の山に、悠悠夕陽が傾いていく。彼女の長い影が私に重なる。きっと私の長い長い影も、まだ芽吹かぬ太陽の畑に重なっている。
「実はわたしもね、見てたんだ。幽香さんの、無意識」
「……あ」
呆けたような声が出る。
そうか。同調したあの刹那、私はこいしの無意識を見た。ならばその逆も起きていたはず。
どうして気が付かなかったのかしら。きっとそれほどに私は、私に興味を失くしていたんだろう。いつからか。もうずっと……。
「ほんとうは、ほんとはね。もっと早く、最初から、みんなのことをお願いしようと思ってたんだけど……」
「……ええ」
「でも、わたし一番ひどいことしたんだね。友達に怒られちゃった。あ、お花のことじゃないよ。一人だけいるんだ、友達……なんで仲良くしてくれるのかわからないけど……もう、もうすごくってね!? 見損なったぞー! 最低だなおまえー! って! もし私がそんなことされたらブチギレるぞー! って……」
「……いいお友達ね」
「ゆ、幽香さ――幽香も、」
「ん」
「わたしと、仲良くしてくれたのに……」
「……」
「わた、わたし、ひっ、ひどいこと、しちゃったなぁって! あなたはお花じゃないのに! わかってるの! わたしわかってるんだよ!? でも、でもね、わかんなくてっ、わたしは、誰とも交わらなければっ、わたしはひとりでいられたはずなのに! なのに……わたしと同じこと、なんで幽香も思ってるの……どうしたらいいかわかんないの! わからなかったの! だからっ、ごめんなさい! ごめんなさいっ……」
よたよたと泣き崩れるこいしを、私は黙したまま見つめている。
わたしは路傍の石。石ころは痛みなんて感じない。泣いたりしない……か。
どうしたらいいかわからない、なんて、そんなことを思ったのもいつ以来だろう。
まあ……変わらないなんてことはない、か。悔しいけどあいつの言った通りみたい。
あるいは実のところ、ずっと昔からなにも変わっていなかっただけなのか。
「私もね」
「……うん」
「けっこう人付き合い、苦手なの」
「……そうなんだ」
「自分と似てるかも、って思ったのは、もしかしたら、こいしが初めてかもしれない」
「……うん」
「と言ってもずいぶんと違うけどねぇ。私よりずっと若そうだしね、あなた」
「わかんない……」
夕陽が沈む。夜が来る。妖怪たちの時間が来る。
だというのに。こんなにも心穏やかな逢魔ヶ時、初めて。
「ねえ」
「う、うん」
「その帽子……もうボロボロになってるじゃない。また、直してあげましょうか?」
「えっ」
顔を上げたこいしの腫れぼったい両の瞳に、昇り始めた夜空の星々が映り込んでいた。
(了)
おっかなびっくりお互いを知ろうとする幽香とこいしがとてもよかったです
こいしの成長の兆しだけでなく、引き換えに失っていくものもしっかりと描かれているところがなにより素晴らしいと思いました
原作におけるだんだんと感情を開いていくこいし……に対して、そこで失われるものある・だけどその喪失もちゃんと世界は受け入れてくれるよ、という描かれ方をされていたのが大変良かったです。
霊夢とこころの存在が最高に良くて、幽香とこいしの二人だけの関係性で完結するのではなく、元々彼女らに関係していた要素が幸いな終わり方を導いている構図が良かったです。(原作の)元々ある世界は優しくて、心を開くこいしが何かを失おうともそれを肯定してくれるのが幻想郷なのだと感じられました。
幽香が欝々としてる……とまでいかなくとも諦観に近い感情を抱いているのに違和感がありましたが、話の流れとして綺麗に収まっていたのでこれはこれで良かったと思います。
有難う御座いました。