仲夏を過ぎたある日の昼中。
境内に響き渡る蝉の鳴き声に、時々思い出したかのように風鈴の音色が交じり合う。
そこにもう一つ、もうすっかり聞き慣れた別の音が重なった。
「あら、小物売りでも始めるの?」
背後から声がしたのと同時に大きな影が眼前に被さる。
顔を上げて振り返ると、すぐに声の主と目が合った。
ここ博麗神社の巫女、博麗霊夢。
「ううん、ちょっと物が増えたから整理しようと思って」
先日の異変以来、私は霊夢の許可を得てここに居候させてもらっている。
縁側のすぐ奥の和室の隅に自分用の住居を構えて。
知り合いの中にはまるで虫篭のようだと揶揄する人妖もいるけど、私の大事な家だ。
今は縁側で座布団ほどのスペースを使い、家から引っ張り出した宝箱の中身を広げている。
裏表で色が違うコイン、川の水流の中でよく磨かれた綺麗な丸い石、半透明のおはじき。
他にもたくさん。
どれも二つと同じ物がない私のお気に入り。
霊夢は腰を屈め、覗き込むようにそれらを一通り眺めると首を傾げた。
「相変わらず変な物ばかり集めてるわね」
「そんなことないよ。どれもとっても珍しいんだよ」
「なんでもいいけど、早めに片付けちゃいなさい。そんなに小さいんじゃ失くすわよ」
「はーい」
霊夢は特に興味は湧かなかったのか、それだけ言うと和室を出て炊事場に向かった。
うーん、どれも素敵な物だと思うんだけどやっぱり小人と人間は感覚が違うのかな。
そんなことを思いながら作業を続けていくと、まだ分けていない山の中から掌に乗るサイズの紫色の小箱がことんと音を立てた。
あっ、これは。
すぐに箱の蓋を開ける。
中には直径二センチぐらいの透明なガラス玉が二つ納められていた。
そっと手に取るとそれぞれ橙色、薄紫色の水玉模様が縁側からの陽光に照らされてきらりと輝いた。
その光を見て、私は目を閉じて思わず呟いた。
「みんな……」
***
「今日こそは雫に勝つもんね」
「ふふ、じゃあいくよ。よーい……どん!」
暦の上ではまだ初春になったばかりのある朝。
私は彼女の合図とともに勢いよく地面を蹴って駆け出した。
ここは人間達もまだ足を踏み入れていない山奥の未踏の地。
私はそこで一族のみんなと暮らしている。
今は一番の親友と小川の近くでかけっこの最中。
彼女、雫(しずく)は私より歳が四つ上のお姉さんで物心ついた時からずっと一緒。
雫はいつも私達がゴールの目印にしているくるみの木に先に辿り着き、楽々と余裕を持ってタッチした。
走り終えたばかりだというのに呼吸は全く乱れていない。
私はそれに少し遅れてゴールした。
スピードを落としきれずにつんのめりそうになったけど、木に身体を預けてなんとか踏みとどまる。
全力で走ったせいで息が切れる。
呼吸を整えて雫の方を見ると、彼女はにっこり笑った。
「あはは。針ちゃん、走るの早くなったね」
ショートカットの自分とは対照的に、肩の辺りまである彼女の紅葉色のセミロングがふわりと揺れる。
走るときに邪魔じゃないのかと聞いたことがあるけど、本人曰くなんともないらしい。
「うー、まだ雫には全然かなわないね」
「ふふ、あたしはお姉さんだからね」
一緒に暮らしている私達小人族の集団は全部で二十一人。
その中で子どもは私と雫だけだ。
長老様や他の大人達はしばしば私を姫、と呼ぶんだけどそれがどうしてなのかはよく分かっていない。
大昔に鬼と戦った勇敢な一族の血を引いているかららしいけど、正直なところ私自身にその実感は全くなかった。
それにこれは後から知ったことだけど、今の私の両親は本当のお父さんとお母さんじゃないらしい。
物心ついた頃には今の両親が傍にいてくれた。
本当のお父さんとお母さんに会いたい。
今より小さかった頃はそう言ってよく周りの大人達を困らせた。
当時の大人達の辛そうな顔は今でも脳裏に焼き付いている。
いつもただ謝られるだけで、昔何があったのかは話してもらえない。
そんなことが続くうちに、きっとこれは考えてはいけないことなんだと私は自分を無理矢理に納得させた。
それに、大きくなるにつれて大人達がどうして本当のことを話してくれないのかもなんとなく予想がついてしまった。
私の本当のお父さんとお母さんはきっともう、この世にいない。
いや、もしかしたら、捨てられたのかもしれない。
そう思った途端、涙が止まらなくなった。
苦しい胸の内を打ち明けられたのは、年が近い雫だけだった。
彼女は泣きじゃくる私を一晩中、夜が明けるまで黙って抱きしめてくれた。
彼女は、まるで本当のお姉ちゃんのように思えた。
私はこれまでに幾度となく泣いてきた。
それは道で転んだ時、何か失敗をした時、大人に叱られた時と枚挙にいとまがない。
雫と二人でお喋りに花を咲かせ、帰路につきながらふと思う。
四つしか違わないのに私より頭一つ分も背が高くて、いつでも強く優しい雫。
雫は、泣いたことないのかな。
翌日。
雫と一緒に昨日と同じ草地に向かって歩を進める。
今夜はお祭りだから、二人で綺麗なお花を集めて飾り付けしようということになったのだ。
私は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ねえ、雫」
「ん、なあに?」
振り向き様に彼女の鮮やかな紅葉色の髪がふわりと揺れる。
「雫は、泣いたことある?」
私の問いに彼女はきょとんとしながらも、微笑を浮かべて答えた。
「あたしは、ないかな」
「一度も?」
「うん、多分」
雫の答えはいつもはきはきとしている。
嘘をついているようには見えない。
私はもう少し踏み込んで聞いてみた。
「じゃあ雫は辛いことがあった時、誰にお話聞いてもらってるの?」
雫は腕を組んで首を傾げ、何事か考えるそぶりを見せた。
「うーん、そうだねえ……あ!」
言葉を途中で切った雫が急に駆け出す。
慌てて後を追うと、そこには可愛らしい菜の花が沢山咲いていた。
鮮やかな黄色の花弁が風で揺れている。
雫はそれらを指さして言った。
「えへへ、いっぱいあるね。これだけあればたくさん飾り付けできそう」
「うん」
なんだかはぐらかされたような気がするけど、まずはやることをやらなくちゃ。
それから私達は葉っぱを組み合わせて作った籠に菜の花を一杯に乗せる。
虫がいないか一つ一つ丁寧に確認することも忘れない。
そうして花を摘み終え、二人で柔らかそうな草地に腰を下ろす。
最近は雨が降っていないからか、柔らかくていい座り心地。
五分ほど経ったところで雫が前を向いたまま、ぽつりと呟く。
「針ちゃん」
私は雫の方を向いて応えた。
「なあに?」
「ずっと、一緒にいようね。ずっと、ずっと一緒に」
いつもの曇りない微笑み。
不安を取り去ってくれる、私の大好きな顔。
でも気のせいかな。
オレンジがかった彼女の瞳は私じゃない、どこか遠いところを見ているような気がする。
「うん。でも急にどうしたの?」
「なんでもないよ。さ、そろそろ帰ろっか」
雫がその場を立ち上がった時。
目の前の茂みの奥で何かが光った。
私は引き寄せられるようにそれに近づく。
草をかき分けると、光っていたのは二つの透明なガラス玉だった。
どちらも綺麗な真ん丸で、一つには橙色の模様が入っている。
雫の髪の色によく似た色だ。
拾い上げたそれを雫に見せると、嬉しそうな歓声が上がる。
「わあ綺麗! 宝石みたい」
私はそれを雫に手渡した。
「雫に一つあげる」
「いいの? ふふ、ありがとう。これ、あたし達の髪の色にそっくりだね」
そう、もう一つは私の髪とよく似た色をしている。
ちょっと希薄な紫色。
同夜、寝泊まりしている森の奥でささやかなお祭りが開かれた。
いつもは危険だからしない焚火も、今日は特別。
周りは私達が集めてきた菜の花で彩られている。
それは夜の闇をゆらゆらと照らす炎で微かに輝いてさえ見えた。
一族みんなで輪を作り、唄い踊る。
最近はこうして騒げる場所もなかなか見つからなくて、お祭りも滅多に開けない。
だから私と雫は精一杯声を出し、張り切って歌った。
そうしてしばらくの間声を出し続け、疲れてきたところで私達は二人並んで腰を下ろす。
雫はハンカチで私の汗を拭いてくれた。
恥ずかしかったけど雫にこうしてもらうと何故か心が落ち着き抵抗する気がなくなってしまう。
「針ちゃん、声も大きくなったね。もうあたしと変わらないくらい出てたよ」
「えへへ、久しぶりのお祭りだから張り切っちゃった」
輪の中央で煌々と輝く焚火。
今は一族で一番力持ちのおじさんが張りのある声で歌っている。
老若男女関係なく、みんなが仲良し。
歌って踊ること、楽しいことが大好き。
それが小人族。
あとは、お父さんとお母さんがいたら。
そんなことをふと考えてしまう。
勿論今の優しい両親も大好きで、それは間違いない。
ただ、二人ともどこか私に遠慮してるように感じることがある。
いや、駄目だ。
折角のお祭りなのに、楽しまないと。
私は思考を中断して我に返った。
横を向くとちょうど、雫が木の実を差し出してくれたところだった。
お礼を言って受け取る。
「ありがと」
雫は自分の分を持ちながらくすっと笑った。
「大きくならなきゃね」
「えへへ、いつかは雫に追いつくもん」
そう言ってから私は木の実をかじった。
ぱきっと小気味のいい音が鳴る。
「うん、待ってるよ。針ちゃん」
雫は私よりいくらか控えめに木の実を食べ始めた。
それから少しの間、私達の間には咀嚼音と焚火の燃える音だけが続いた。
翌日。
お祭りの後片付けのために私と雫は水を汲みに小川に足を運んでいた。
焚火をしたあとの焦げた臭い。
私はそれがちょっと苦手だった。
理由は分からない。
ひょっとしたらお祭りが終わったことを認めたくないだけなのかもしれない。
歩きながら、自分の胸元に視線をやると首にかけた紫色のお守りが揺れる。
中には昨日拾ったガラス玉が入っている。
昨日のお祭りの最後、別れ際に雫が作ってくれた物だ。
隣を歩く彼女も、同じように首から提げている。
私の視線に気付いた雫がくすりと微笑んだ。
こういう時の私達に、言葉はいらない。
きっとこれからもずっと、ずっと。
そのまま歩き続けるといつもの小川に到着したので、持ってきた器に水を少しずつ汲んでいく。
掬う道具が小さいから時間がかかってしょうがないけど、私達はただ黙々と水を汲んだ。
そうして三分の一ほど水が貯まった時だった。
器にぽつりと波紋が浮かぶ。
それは二つ、三つと次々に増えた。
私と雫が空を見上げたのはほとんど同時だった。
そこには頭の上にのしかかってくるような低く厚い灰色の雲が広がっている。
雨だ。
急に降り始めたそれは強い横風も伴っており、顔も着物もあっという間にびしょ濡れになってしまった。
私達はすぐさま器を放り出し、雨を凌げそうな近くの茂みに隠れた。
一言の言葉もなく。
私達小人族にはいくつか掟がある。
その一つが「遠くにいる時に雨や風、危険な動物に遭遇したらすぐに荷物を捨てて退避すること」だ。
全ては命あってのこと、道具や食料は後からなんとでもなる。
小さい頃から長老様や周りの大人達にずっとそう言われて育ってきた。
だから水も、また汲めばいい。
そのまま二人で無言のまま、雨風が収まるのを待つ。
茂みが風をかなり遮ってくれるおかげで飛ばされる心配はなさそうだ。
ただ、それでも降り注ぐ雨はどうしようもなかった。
心なしか徐々に雨粒が大きくなっているように感じる。
一滴一滴が、頬を打つように痛い。
つい、ぽつりと呟く。
「どうしよう、すぐに止みそうにないね……」
雫は小さく頷き、直に雨粒に打たれることも構わず茂みから数歩飛び出して辺りを見渡した。
私が着いていこうと近づくと、彼女は小川と反対の方向を指差した。
「あそこで雨宿りしよ」
この悪天候の中、彼女はほんの数秒で身を隠せる洞穴を見つけたらしい。
お礼を言おうとしたけど雫はそれを遮るように続けた。
「行くよ。滑るから走らなくていいからね」
「う、うん」
雫はこんな時でも冷静だ。
私もあと四つ大きくなったら、同じようになれるのかな。
そんな思考が脳裏を過った時、雨に濡れた彼女の髪から滴る水滴が私の頬を打った。
二人で雨の冷たさに耐えながら歩を進める。
寒さで徐々に手足の感覚がなくなってきた。
それでも、弱音は吐けない。
足手纏いには、なりたくない。
歯を食いしばって手足の震えを誤魔化しながら無心で一歩一歩、前に進んだ。
「あそこ、もうちょっとだよ」
次に雫の声が聞こえた時、すぐに返事が出来ないぐらいに私は満身創痍だった。
雫の見つけた洞穴は入口が横に広かった。
私達小人族なら五人ぐらい並べそうだ。
一方で高さは雫の身長よりも頭一つ分高い程度でこれもまた都合がいい。
入口があんまり大きすぎると他の生き物に侵入される危険が大きくなるからだ。
穴がどこまで続いてるかは暗くてよく分からなかったけど、奥から風は吹いてこない。
反対側から誰かがやって来ることもなさそうだ。
私と雫は着物が土で汚れないように、比較的綺麗な落葉を敷いて布団代わりにした。
その上に二人一緒に腰を下ろす。
服を乾かしたいけど、今ここで火は熾せないし替えの服もない。
濡れた着物が肌に張り付いて気持ちが悪いけど、我慢するしかない。
そんなことを思っていると雫が洞穴の入口に視線を向けながら呟く。
「雨、全然止みそうにないね」
「……うん」
今夜はここで夜を明かすしかないということだ。
寝慣れた住処以外での野宿。
大人、いつも必ず傍に居てくれる両親もいない。
寝込みを動物に襲われたら私達は終わり。
恐怖心が心中に黒い影を落とす。
駄目だ、しっかりしないといけないのに。
「針ちゃん、これ半分こにしよ」
雫の声で我に返る。
私は雫が半分に割った木の実の片方を受け取った。
「いいの?」
「当り前だよ、これしか持ってきてないんだけどね」
私はもう一度お礼を言い、雫と一緒に木の実をかじった。
食事はあっという間に終わり、後は眠る以外に出来ることはない。
雨音はますます激しくなり、木々の揺れる音はまるで彼らが激痛に苦しむ声のようにおどろおどろしく聴こえる。
もしも小川が氾濫したらみんなは、そう遠くない場所にある私達の住処は。
考えただけで胸が締め付けられるように苦しい。
それでも不安を口に出してはいけないと、私はなんとか気持ちを抑え込んだ。
「うーん、かけ布団に出来そうなものないね」
雫に言われて辺りを見回すと、確かに洞窟の中はほとんど石と小さい落葉しかない。
綺麗で大きな葉を取りに行こうにもこの嵐の中で外に飛び出せばその後どうなるかは考えるまでもない。
寒いけど、このまま寝るしかない。
そう思案していると雫は先程敷いた葉の上に横たわり、手招きをした。
「くっついてた方が少しは温かいよ」
「……うん」
私は頷いて彼女の隣に寝転がった。
身体を横に向け、雫と身体を密着させる。
目を逸らせないほどの至近距離。
私の心は緊張で乱れ、頬が熱くなるのを感じた。
それを見た雫は笑うでもなく、ただ黙って私を抱き寄せた。
着物越しなのに、添えられた手があったかい。
「針ちゃん」
私も雫の背中に手を回し、抱き寄せようとした。
でも私の手は雫よりずっと短くて、抱き寄せると言うよりもただ抱きついただけの形になってしまった。
「……雫」
そのままお互いに言葉を交わすこともなく無言の時間が流れる。
光源のない洞窟の中は完全に暗闇に包まれつつあった。
雫の顔さえ、直に見えなくなってしまうに違いない。
怖い。
暗闇がこんなにも怖いと思ったことなんて、今までなかった。
身体が小刻みに震え始める。
きっと雨に濡れて寒いせいじゃない。
お父さん、お母さん、みんな……。
「大丈夫、大丈夫だから。ね?」
いつもの雫の声。
いや、語尾が微かに震えてる。
そうだ、きっと雫だって怖いんだ。
それなのに、それを見せずに私を安心させようとしてくれてる。
しっかり、しなくちゃ。
「……うん」
その言葉を最後に、やがて私の意識は闇に落ちた。
翌朝。
雨はすっかり止み、青空は突き抜けるように澄んでいる。
「よかった、これで帰れるね!」
声にも自然と力が入る。
まだ疲れは残っていたけど、無事に帰れると思えばなんてことない。
雫も微笑を浮かべながら着物を整えて応えた。
「うん、じゃあ……帰ろっか」
喜びのあまり、返ってくる声にいつもの元気がなかったことに私は気付かなかった。
それだけじゃない、帰路の途中に雫が顔色を悪くしていたことにも。
だから私はこんな見当違いな心配をしてしまったんだと思う。
「もしかして私達、すごく怒られるかな……」
「ううん、きっと大丈夫だよ。昨日はあれだけの大雨だったんだし……」
「怖かったけど、雫と一緒にあんなに遠くに行ったことなかったから……私ちょっと、楽しかった」
「うん、あたしもだよ」
おかしい。
言葉はいつもの雫だけど、会話が続かないしなんだか声に抑揚がない。
「雫、大丈夫……?」
私の言葉で急に我に返ったように、彼女は目の色を変えて言った。
「あはは、大丈夫だよ。ごめんね、ちょっとボーっとしちゃった」
「もー、雫ったら」
よかった、いつも通りの雫だ。
あともう少しで帰れる。
いつものおうち、いつものみんなのところ。
やっと帰り着いた森の集落。
でもそこには誰も、何もなかった。
正確には、そこが集落であったことにさえすぐに気付けなかった。
泥の山の中に辛うじて、住居に使っていた木と石が確認できただけ。
もう半年近くを過ごした、私達の過ごす場所。
昨夜の大雨はそれを容赦なく、たった一夜で奪い去った。
少しずつ思考が繋がっていく。
雫はきっと雨の具合だけでこうなっていることを薄々覚悟していたんだ。
なのに私は空が晴れているというだけで、またいつも通りにみんなと過ごせるとしか考えていなかった。
今なら分かる、昨夜小川は氾濫を起こし、濁流がここまで流れ込んだのだ。
帰路を塞ぐほどではなかったとはいえ、小川の荒れ様にも雫は気付いていたのだ。
そして、今のこの状況。
みんなは、みんなはどこにいるのか。
それを想像した途端、私は耐えられずに膝をついた。
同時に人は本当に打ちのめされた時、涙すら出ないのだということを思い知る。
雫の心配する声も、全く耳に入ってこない。
私達小人族の掟の一つ。
集落が耐えきれないと判断したらその時点で、手に持てる最低限の荷物だけを持って避難を開始すること。
そして危険が去ったら、事前にみんなで決めた集合場所に向かうこと。
これも小さい頃からずっと言われていたことで、当然私も雫も把握している。
ただ、実際に避難が必要なほどに住居が被害を受けたことは今までに一度もなかった。
そして、この集落で暮らし始めた時にみんなで決めた非常時の集合場所。
それは裏手の坂を上がり、小さな丘を一つ越えた先の洞窟。
でも、目の前の光景はそこに向かうことの無意味さを情け容赦なく私達に突き付けてきた。
何故なら集落だけでなく丘自体が完全に崩れ、泥の山と化しているのだから。
私と雫は着物を元の色が分からなくなるほどに汚し、大声で呼びかけながら必死に手で泥の山を掻き分けた。
爪は欠け、手には無数の擦り傷、切傷がついた。
それでも、手を止めることはない。
血が滲んでいることも構わず、ひたすらに集落があった場所の泥を掘り返し続ける。
でも、出てくるのは石や枝ばかり。
陽が沈み、手元すらまともに見えなくなってきたところで私と雫はようやく同時に手を止める。
お互いに顔まで泥だらけだった。
そのせいで表情が少し見えにくかったけど、雫はきっと自分と同じことを考えている。
だって、今の雫の表情はきっと私と同じ。
今にも涙を流しそうなほどに無残で、痛ましかったから。
雫の方に手を伸ばした途端、それまでは全く感じなかった途方もない疲労感が全身を覆い尽くした。
身体の力が抜け、泥の中に力なく倒れこむ。
どうして、どうしてこんなことになってしまったの?
返してよ。
みんなを、みんなを返してよ!
言葉にならない叫び声で、私はただひたすらに醜く喚き散らした。
そして翌朝。
私達は着物と身体の泥を最低限だけ落とし、見つけた木の実を二人で分けて食べた。
それからそれぞれが担当する場所を一言だけ言葉を交わして確認し、範囲を広げて捜索を続けた。
次の日も、その次の日も。
五日目には終に集落を飲み込んだ泥を全て掻きだしたのに、同胞は誰一人として見つからなかった。
私と雫は、全てを悟る。
みんな、もうここにはいない。
ということは、集落が飲み込まれる前にどこかに避難したに違いない。
きっとそんな希望があったから、はじめのうちは疲労も感じずに手足を動かし続けることが出来たのだと思う。
でも、五日もの時が流れた今は。
これだけの時間が経っているのに、どうしてみんな集落があった場所に戻ってこない?
嫌、やめて。
「いや、いや、いやぁ……!」
私の抑えられなくなった感情は最後の心の支えを失い、溢れる涙とともに完全に決壊した。
「……ごめん、雫」
「……いいんだよ、針ちゃん」
私達は以前雨宿りをした洞窟まで戻ってきていた。
道中のことは全くと言っていいほど記憶にない。
ただ、雫の心配ぶりからして、彼女の言葉にろくに返事もしていなかったであろうことは間違いない。
私はそのことに謝意を示し、寝床として使った落葉の上に腰を下ろす。
雫も同じように腰を屈めて言った。
「……針ちゃん、みんなを信じよ。集落も集合場所も崩れてるけど、みんなが戻ってくるとしたら……」
「でも、でも……」
みんなを探しに行きたい。
可能性はまだある、諦めることなんか出来ない。
掟で禁じられているのは分かってる。
私達小人族はこれまでずっと、人間や危険な動物がやってこない場所を探しながら住居を転々として暮らしてきた。
過去には、一人でいるところを小動物に襲われ犠牲になった人もいたらしい。
少なくとも、自分達よりも大きな相手を一人でやり過ごすのは不可能だと言われている。
だから非常時に単独で行動することを、長老様は強く禁じている。
私や雫みたいな子どもだったら尚更。
手をぎゅっと握りしめると無数の傷が痛みとともに、嫌味ったらしくその存在を主張してくる。
雫の方がきっと正しい。
こういう時に彼女が間違っていたこと自体、なかったような気がする。
それでも、それでも。
「針ちゃん」
「……雫?」
「……あたしも、本当は探しに行きたい。じっとなんか、出来ないよ」
言葉の最後の方は声が掠れ、震えていた。
でも、向かい合う彼女の顔はそれ以上に私に息を呑ませた。
双眸に浮かぶ涙が、今にも落ちそうに揺れていたからだ。
雫も、今までずっと無理をしてたんだ。
年下の私に不安を感じさせないために、泣き言の一つも言わずに。
私は彼女の手を握った。
いつもの綺麗な白い手とは程遠い、土と血で汚れた手。
でもそれは、私に幾らかの安心を与えてくれた。
大切な親友が生きていることを、肌で感じられるから。
「雫、私まだまだ頼りないけど」
一度言葉を切り、一呼吸置いて続ける。
雫は次の言葉を待つように私の顔を見つめ、手を握り返してくる。
切り傷が疼いて痛いけど、もっと握って欲しかった。
「一緒に、探しに行こう。雫が一緒なら、私はずっと頑張れるから」
「……あたしもだよ、針ちゃん」
二人で首にかけたお守りを取り出し、目の前に掲げあう。
大丈夫、貴女さえいれば私は、まだ頑張れる。
でも、現実は本当に残酷だった。
あれから三日が過ぎた。
私達は未だに、洞窟の外に出られていない。
空腹は既に限界に達し、意識が朦朧としてきた。
外から聞こえてくるのは久しく聞いていない人間、大人の男達の声。
数は多分十人ぐらいで、時に怒鳴り上げるような胴間声もする。
話している内容はほとんど聞き取れなかった。
しかし彼らが毎日この近くに居座り、開発がどうとか、工程がどうとか言っていることだけは分かった。
ここも、もうすぐ人間達の手が迫って来る。
だから逃げないといけないことは分かっていた。
でも、もうろくに身体が動かない。
食料を採りに出ようにも、人間に見つかったらお終いだ。
お父さんとお母さんから何度も聞かされた言葉が追想される。
「奴らに決して見つかってはならぬ、それが子どもであってもだ」と。
どうして、どうして神様はこんなにも酷い仕打ちをするの?
私達はただ平穏に、静かに暮らしていたいだけなのに。
唯一残ったお守りをぎゅっと握りしめる。
ふと、隣で横たわっている雫に視線を向ける。
そういえば、さっきからずっと黙っている。
私は寒さに震える手を彼女に添えて、言った。
「雫……?」
反応がない。
外に聞こえるかもしれないと思いながらも、声を大きくして呼びかける。
「雫、雫、しっかりして!」
彼女の身体を揺すりながら一分ほどそうしていると、彼女はようやく目を半目に開いた。
「あはは、ごめん。寝ちゃってたみたいだね」
目の焦点が合っていない。
口調だけはいつも通りなのがかえって私を恐怖で震えさせた。
「雫、雫、お願い。死なないで、私を置いて行かないで……」
「大丈夫だよ、針ちゃん。大丈夫だから、あたしのお願い、聞いてくれる?」
途切れ途切れの声。
もう喋るのすら辛そうな彼女の様子は私の胃をぎりぎりと締め付けた。
「うん、うん」
「ありがとう。……じゃあ、ちょっとだけ、お話、させてね」
雫は目を細めて口元を緩めると、か細い声ながら滔々と語り始めた。
「……まず、針ちゃんに謝らないといけないことがあるの」
「え……?」
「……針ちゃんの本当のお父さんとお母さんのこと、本当はみんな知ってるの」
心臓が高鳴る。
自分が今どんな顔をしているか想像できない。
それでも、必死に紡ぎ出された彼女の言葉を遮る気にはなれなかった。
雫は一呼吸置いてから再び話し始める。
「針ちゃんがまだずっと小さかった頃、ね。
針ちゃんのお父さんとお母さんは、私達一族をずっと守ってくれていたの」
「私の、お父さんとお母さんが……?」
私は続きを促した。
それから彼女の話を聞くにつれ、動悸が激しくなっていく。
「……ごめんね。本当に、ごめんね」
今日何度目か分からない雫の謝罪の言葉。
私は首を振りながら指先で涙を拭い、鼻水が出そうな鼻をすする。
「雫は、悪くないよ。……話してくれて、ありがとう」
精一杯の笑顔を作って笑って見せる。
そうだ、雫がいつもやってくれたように。
彼女が必死に綴った言葉が追想される。
鬼を倒した勇敢な一族の血を引く私の両親は、集落で一番強かったらしい。
それは襲ってくる小動物を大胆な針捌きで何度も追い払ったり、
引越しで新しい土地に移動する時はみんなを危険な目に遭わせないために先行して安全を確認したり。
村のみんなはそれでは二人が危ないからと、偵察の役目は大人が交代でやるべきだと何度も言ったらしい。
それでも私の両親は頑として首を縦には振らなかった。
「私達夫婦は遥か昔に鬼を倒した一族の血を引いている。
少しだけ力が強いのは、きっとご先祖様がその力でみんなを守れと言っているからだと思う。
でも、別に使命だからというわけじゃない。
ただ、私達はこの一族の、みんなのことがとても大切なんだ」と。
それから何度目になるか分からない引越の際に、悲劇は起きた。
半日で戻るはずの偵察に出掛けた二人が夕方になっても戻ってこない。
大人達が丸二日捜索を続けた結果、二人が亡くなっていたことを雫は聞かされたらしい。
一族は悲しみに暮れ、二人を無理矢理にでも止めなかったことを後悔し続けた。
皮肉にも私が物心ついて少しずつ言葉を話せるようになったのは、それから間もなくのことだったらしい。
もし動物に襲われたのだったら。
高いところから転げ落ちたり、落石の下敷きになったのだったら。
お父さんとお母さん、どれだけ痛かっただろう?
苦しかっただろう?
骨が折れて、沢山血が出て……そこまで考えたところで、私の手足は悲しみと悪寒で震え始めた。
でも、それでも。
私のお父さんとお母さんは、大好きなみんなのために戦い続けた。
私も、みんなが、この一族が大好き。
今ここに雫がいるのも、私がいるのも、お父さんとお母さんがいたから。
だったら、私がしないといけないのは。
涙の跡でひりひりする頬を袖でもう一度強く拭う。
「私も、守る。雫のこと、守るよ。
私も、勇敢なお父さんとお母さんの子だもん!」
私の言葉を聞いて、雫は今日初めて頬を綻ばせた。
「針ちゃん……ありがとう、本当に、本当に強くなったね。
これならあたしも、安心……」
雫が脇に置いていた傷だらけの布袋をまさぐり始める。
やがて中から赤い紐で括られた黒い箱が取り出される。
中身を雫に聞こうとしたところで先に彼女が口を開いた。
「針ちゃん、ちょっとだけ向こう向いててくれる?」
「え?」
「お願い、ちょっとでいいから、ね?」
片目を閉じたウインク。
泥と汗に塗れていても、やっぱり雫は綺麗。
これをされると、いつも断れない。
私は頷いて身体を百八十度回転させる。
雫に丁度背を向ける形で彼女の次の言葉を待つ。
時折風の音がする以外は無音の洞穴内に、しゅるしゅると紐を解く音がする。
さっきの箱を開けてるみたいだけど、何が入ってるんだろう。
やがて洞穴内の音は完全に止み、静寂が訪れた。
雫は身動き一つしている様子がない。
どうしたのかと、声を上げようとしたその時だった。
「針ちゃん、今まで一緒に過ごせて、楽しかったよ。
今の針ちゃんなら、きっともう大丈夫。
……様、お願いします。
勇者の……、私の大切な友達を……」
最後の部分は聞き取れなかった。
雫の声とともに金色の眩い光が洞穴を照らし出す。
私は考える間もなく、背後を振り返りざまに叫んだ。
「待って雫、待ってよ、どうしたの!?」
光はますます強くなり、目を開けていられないほど眩しくなった。
手で閃光を遮りながら必死に雫を探すと、一瞬だけ彼女の姿が見えた。
身動き一つ出来ないほど苦しいはずなのに。
真っすぐに立って、いつもの大好きなあの顔を私に向けてくる。
弱い私に勇気を与え続けてくれた、太陽のような満面の笑み。
声を上げて走り寄ろうとした途端、何かに躓いて前のめりに転倒してしまう。
その光景を最後に意識は遠のき、私の「故郷」での生活は幕を閉じた。
***
「あんた、まだそれ整理してたの?」
「あ、霊夢」
霊夢が布巾で額の汗を拭きながら和室に戻ってきた。
物思いにふけってる間に彼女は炊事場ですっかり一仕事終えたみたいだ。
私は慌てて作業を再開する。
光に包まれたあの日以来、雫にもみんなにも、ずっと会えていない。
勿論本当は分かってる、ここは私が元居た世界とは違うってことも。
雫にもみんなにも、もう会えないってことも。
紫色の小箱から取り出した二つのガラス玉をじっと見つめると、幻想郷で目を覚ましたあの日のことが脳裏を過る。
霧の湖の畔、草地に横たわっていた私の傍には小槌を保管していた黒い箱があった。
紐はほとんど解けて、かろうじて巻いてあるだけの状態で。
恐る恐る蓋を開けると、中には昼間なのに微かに光を放つ金色の打ち出の小槌。
そして、あの日雫と一緒にお守りにした彼女の橙色のガラス玉。
本当のことは、今となってはもう誰にも分からない。
でも、ただ一つ確かなのは、雫が身を挺して私を助けてくれたこと。
一族が守り続けている宝物があることは長老様から聞いていたけど、
それが打ち出の小槌であることも、奇跡を起こす力が秘められていることも、私は全く知らなかった。
勿論、その魔力を解き放った者が背負うことになる代償も。
小槌はそれこそお伽噺に出てくる、無尽蔵に力を与えてくれるような代物じゃない。
鬼の魔力を宿すそれを使った者には必ず埋め合わせがやって来る。
今の小さくなってしまった私の姿がまさにそれだ。
本当はあの時、天邪鬼の話を何から何まで信じたわけじゃなかった。
確かに小人族は身体が小さいし、そのせいで常に身の安全を脅かされる生活を送ってきたのは事実。
大きな者達に虐げられてきた歴史があるというのも、嘘じゃないのかもしれない。
それでも、人間がこぞって小人族を襲っていたなんて話をみんなから聞いたことは一度もない。
それに、小さかった頃から「人間に決して見つかるな」とは散々言われたけど、
大人達は彼らへの恨み言は誰一人として口にしていなかった。
それなのに何故彼女に着いて行ったのか。
理由はたった一つ、至極単純なことだった。
笑われてもしようがない。
ただ、寂しかったから。
雫は「強くなったね」って言ってくれたけど、私は変われてなんかいなかった。
幻想郷に着いた時は、「もう二度と泣かない」と強く決意したのに、
結局一人ぼっちでいることの辛さには耐えられず、私は天邪鬼に着いて行くことを選んだ。
「力の弱き者達を貴女と私の手で救うのです」とか、
「これは強く勇敢な者の血を引く貴女でなければ出来ないことなのです」とか、そんな言葉よりも。
「私がずっと傍で貴女を守りますよ、姫」
このたった一言の言葉が、私の行く末を決めたのだ。
当時は小槌の秘密なんて勿論知らなかったけど。
彼女の目当てが秘宝だけだったとしても、それでもいい。
そんなことを半ば本気で思ってしまったほどに私は、弱いままだった。
そしてそこまで考えた上で彼女に、鬼人正邪に着いていったのに。
異変が失敗に終わり、彼女に見捨てられたことを知った時。
私は今の寝床で一人涙を流した。
泣かないために、裏切られることは覚悟したつもりでいた。
でも、切り捨てられれば結局また一人になるのだ。
そんなことにすら考えが至らなかった。
それからすぐに霊夢にここに置いてもらうようになってから、すっかり彼女に甘えてしまっている。
小槌の魔力をほとんど持ち逃げされている以上、今すぐに一人で行動を起こすのは無理だけど、それでも。
今度こそ、変わらなくちゃいけない。
私を助けてくれた、雫のために。
無意識のうちにガラス玉を握りしめていると、ことんとテーブルに何かを置く音がする。
霊夢が泡立った水の入った青いビンを持っていた。
「やっと終わったみたいね、あんたも飲む?」
「……それ、なあに?」
「ラムネ」
霊夢がそう言ってビンの口の蓋越しに掌を乗せると、ぷしゅっと小気味いい音が響く。
透明なコップに中身が注がれると水面に白い泡が浮かび上がった。
手渡されたそれを両手で受け取ると、持ち手がひんやりしている。
「ん」
「あ、ありがとう」
色は水みたいだけど、どんな味がするのかな。
恐る恐る口に入れると、甘いお砂糖の味と一緒に口の中でなにかが弾けるように舌がひりひりした。
「あんた、面白い反応するわね」
私を見て霊夢は悪戯っぽい笑みを浮かべている。
そんなに渋い表情をしてたかな。
なんだか恥ずかしい。
「甘いけどしゅわしゅわするね、これ」
「炭酸、って言うらしいわよ。
私も紫から聞いただけだから詳しいことは知らないけど」
「……おいしい、ありがとう」
二口、三口と口にするとこのしゅわしゅわした感触もなんだか心地がいいから不思議だ。
夢中になって飲んでいると、霊夢が再び口を開いた。
「あんた、やっと顔色よくなったわね」
「え?」
「こう言っちゃなんだけど、朝からちょっと顔色悪かったわよ」
「……ごめん、ありがと霊夢」
「別にいいけど」
不思議と陰鬱だった気分が幾分か軽くなったような気がする。
霊夢にもいつの間にか心配をかけていたみたい。
ずっとお世話になってるし、お礼しなくちゃ。
ふとテーブルの上を見ると、ラムネのビンの中に丸い透明な球が入っていることに気付く。
「ねえ、この玉って取れないかな」
「ビー玉のこと? 割れば取れるけど、あんたこんなのまで欲しいの?」
「……うん、だめ?」
「まあいいけどさ」
霊夢が軽く勢いを付けたお札を一枚投げ当てると、空のビンは綺麗に真っ二つに割れた。
中のガラス玉を受け取り、お礼を言う。
「ありがとう、霊夢」
「はいはい、どういたしまして」
ラムネのビンに入っていたビー玉は模様のない透明な物だった。
私はそれを紫色の小箱にそっとしまう。
中に入っていた二つの玉とぶつかってかちんと音が鳴った。
独りぼっちは、やっぱり辛い。
でも、少しずつでも、必ず変わって見せる。
私は言った。
「霊夢、明日の山菜採り、着いて行ったらだめ?」
霊夢が怪訝そうな表情を浮かべて応える。
「いいけど、歩けるの? 今のあんたのサイズじゃ相当ハードよ」
「平気だよ、私走るのも好きだもん」
「……まあいいか、疲れたら早めに言いなさいよ」
「もう、大丈夫だってば!」
「はいはい、じゃあ明日は頼りにさせてもらうわよ」
霊夢は本気にしていない様子で手をひらひらさせながら、炊事場に戻っていった。
後姿が見えなくなったところで紫の小箱から三つの玉を取り出す。
すぐには一人前になれないけど。
また、泣いてしまうかもしれないけど。
それでも。
絶対、お父さんとお母さんのような強い小人になってみせるから。
だから見てて、雫、お父さん、お母さん、みんな。
境内に響き渡る蝉の鳴き声に、時々思い出したかのように風鈴の音色が交じり合う。
そこにもう一つ、もうすっかり聞き慣れた別の音が重なった。
「あら、小物売りでも始めるの?」
背後から声がしたのと同時に大きな影が眼前に被さる。
顔を上げて振り返ると、すぐに声の主と目が合った。
ここ博麗神社の巫女、博麗霊夢。
「ううん、ちょっと物が増えたから整理しようと思って」
先日の異変以来、私は霊夢の許可を得てここに居候させてもらっている。
縁側のすぐ奥の和室の隅に自分用の住居を構えて。
知り合いの中にはまるで虫篭のようだと揶揄する人妖もいるけど、私の大事な家だ。
今は縁側で座布団ほどのスペースを使い、家から引っ張り出した宝箱の中身を広げている。
裏表で色が違うコイン、川の水流の中でよく磨かれた綺麗な丸い石、半透明のおはじき。
他にもたくさん。
どれも二つと同じ物がない私のお気に入り。
霊夢は腰を屈め、覗き込むようにそれらを一通り眺めると首を傾げた。
「相変わらず変な物ばかり集めてるわね」
「そんなことないよ。どれもとっても珍しいんだよ」
「なんでもいいけど、早めに片付けちゃいなさい。そんなに小さいんじゃ失くすわよ」
「はーい」
霊夢は特に興味は湧かなかったのか、それだけ言うと和室を出て炊事場に向かった。
うーん、どれも素敵な物だと思うんだけどやっぱり小人と人間は感覚が違うのかな。
そんなことを思いながら作業を続けていくと、まだ分けていない山の中から掌に乗るサイズの紫色の小箱がことんと音を立てた。
あっ、これは。
すぐに箱の蓋を開ける。
中には直径二センチぐらいの透明なガラス玉が二つ納められていた。
そっと手に取るとそれぞれ橙色、薄紫色の水玉模様が縁側からの陽光に照らされてきらりと輝いた。
その光を見て、私は目を閉じて思わず呟いた。
「みんな……」
***
「今日こそは雫に勝つもんね」
「ふふ、じゃあいくよ。よーい……どん!」
暦の上ではまだ初春になったばかりのある朝。
私は彼女の合図とともに勢いよく地面を蹴って駆け出した。
ここは人間達もまだ足を踏み入れていない山奥の未踏の地。
私はそこで一族のみんなと暮らしている。
今は一番の親友と小川の近くでかけっこの最中。
彼女、雫(しずく)は私より歳が四つ上のお姉さんで物心ついた時からずっと一緒。
雫はいつも私達がゴールの目印にしているくるみの木に先に辿り着き、楽々と余裕を持ってタッチした。
走り終えたばかりだというのに呼吸は全く乱れていない。
私はそれに少し遅れてゴールした。
スピードを落としきれずにつんのめりそうになったけど、木に身体を預けてなんとか踏みとどまる。
全力で走ったせいで息が切れる。
呼吸を整えて雫の方を見ると、彼女はにっこり笑った。
「あはは。針ちゃん、走るの早くなったね」
ショートカットの自分とは対照的に、肩の辺りまである彼女の紅葉色のセミロングがふわりと揺れる。
走るときに邪魔じゃないのかと聞いたことがあるけど、本人曰くなんともないらしい。
「うー、まだ雫には全然かなわないね」
「ふふ、あたしはお姉さんだからね」
一緒に暮らしている私達小人族の集団は全部で二十一人。
その中で子どもは私と雫だけだ。
長老様や他の大人達はしばしば私を姫、と呼ぶんだけどそれがどうしてなのかはよく分かっていない。
大昔に鬼と戦った勇敢な一族の血を引いているかららしいけど、正直なところ私自身にその実感は全くなかった。
それにこれは後から知ったことだけど、今の私の両親は本当のお父さんとお母さんじゃないらしい。
物心ついた頃には今の両親が傍にいてくれた。
本当のお父さんとお母さんに会いたい。
今より小さかった頃はそう言ってよく周りの大人達を困らせた。
当時の大人達の辛そうな顔は今でも脳裏に焼き付いている。
いつもただ謝られるだけで、昔何があったのかは話してもらえない。
そんなことが続くうちに、きっとこれは考えてはいけないことなんだと私は自分を無理矢理に納得させた。
それに、大きくなるにつれて大人達がどうして本当のことを話してくれないのかもなんとなく予想がついてしまった。
私の本当のお父さんとお母さんはきっともう、この世にいない。
いや、もしかしたら、捨てられたのかもしれない。
そう思った途端、涙が止まらなくなった。
苦しい胸の内を打ち明けられたのは、年が近い雫だけだった。
彼女は泣きじゃくる私を一晩中、夜が明けるまで黙って抱きしめてくれた。
彼女は、まるで本当のお姉ちゃんのように思えた。
私はこれまでに幾度となく泣いてきた。
それは道で転んだ時、何か失敗をした時、大人に叱られた時と枚挙にいとまがない。
雫と二人でお喋りに花を咲かせ、帰路につきながらふと思う。
四つしか違わないのに私より頭一つ分も背が高くて、いつでも強く優しい雫。
雫は、泣いたことないのかな。
翌日。
雫と一緒に昨日と同じ草地に向かって歩を進める。
今夜はお祭りだから、二人で綺麗なお花を集めて飾り付けしようということになったのだ。
私は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ねえ、雫」
「ん、なあに?」
振り向き様に彼女の鮮やかな紅葉色の髪がふわりと揺れる。
「雫は、泣いたことある?」
私の問いに彼女はきょとんとしながらも、微笑を浮かべて答えた。
「あたしは、ないかな」
「一度も?」
「うん、多分」
雫の答えはいつもはきはきとしている。
嘘をついているようには見えない。
私はもう少し踏み込んで聞いてみた。
「じゃあ雫は辛いことがあった時、誰にお話聞いてもらってるの?」
雫は腕を組んで首を傾げ、何事か考えるそぶりを見せた。
「うーん、そうだねえ……あ!」
言葉を途中で切った雫が急に駆け出す。
慌てて後を追うと、そこには可愛らしい菜の花が沢山咲いていた。
鮮やかな黄色の花弁が風で揺れている。
雫はそれらを指さして言った。
「えへへ、いっぱいあるね。これだけあればたくさん飾り付けできそう」
「うん」
なんだかはぐらかされたような気がするけど、まずはやることをやらなくちゃ。
それから私達は葉っぱを組み合わせて作った籠に菜の花を一杯に乗せる。
虫がいないか一つ一つ丁寧に確認することも忘れない。
そうして花を摘み終え、二人で柔らかそうな草地に腰を下ろす。
最近は雨が降っていないからか、柔らかくていい座り心地。
五分ほど経ったところで雫が前を向いたまま、ぽつりと呟く。
「針ちゃん」
私は雫の方を向いて応えた。
「なあに?」
「ずっと、一緒にいようね。ずっと、ずっと一緒に」
いつもの曇りない微笑み。
不安を取り去ってくれる、私の大好きな顔。
でも気のせいかな。
オレンジがかった彼女の瞳は私じゃない、どこか遠いところを見ているような気がする。
「うん。でも急にどうしたの?」
「なんでもないよ。さ、そろそろ帰ろっか」
雫がその場を立ち上がった時。
目の前の茂みの奥で何かが光った。
私は引き寄せられるようにそれに近づく。
草をかき分けると、光っていたのは二つの透明なガラス玉だった。
どちらも綺麗な真ん丸で、一つには橙色の模様が入っている。
雫の髪の色によく似た色だ。
拾い上げたそれを雫に見せると、嬉しそうな歓声が上がる。
「わあ綺麗! 宝石みたい」
私はそれを雫に手渡した。
「雫に一つあげる」
「いいの? ふふ、ありがとう。これ、あたし達の髪の色にそっくりだね」
そう、もう一つは私の髪とよく似た色をしている。
ちょっと希薄な紫色。
同夜、寝泊まりしている森の奥でささやかなお祭りが開かれた。
いつもは危険だからしない焚火も、今日は特別。
周りは私達が集めてきた菜の花で彩られている。
それは夜の闇をゆらゆらと照らす炎で微かに輝いてさえ見えた。
一族みんなで輪を作り、唄い踊る。
最近はこうして騒げる場所もなかなか見つからなくて、お祭りも滅多に開けない。
だから私と雫は精一杯声を出し、張り切って歌った。
そうしてしばらくの間声を出し続け、疲れてきたところで私達は二人並んで腰を下ろす。
雫はハンカチで私の汗を拭いてくれた。
恥ずかしかったけど雫にこうしてもらうと何故か心が落ち着き抵抗する気がなくなってしまう。
「針ちゃん、声も大きくなったね。もうあたしと変わらないくらい出てたよ」
「えへへ、久しぶりのお祭りだから張り切っちゃった」
輪の中央で煌々と輝く焚火。
今は一族で一番力持ちのおじさんが張りのある声で歌っている。
老若男女関係なく、みんなが仲良し。
歌って踊ること、楽しいことが大好き。
それが小人族。
あとは、お父さんとお母さんがいたら。
そんなことをふと考えてしまう。
勿論今の優しい両親も大好きで、それは間違いない。
ただ、二人ともどこか私に遠慮してるように感じることがある。
いや、駄目だ。
折角のお祭りなのに、楽しまないと。
私は思考を中断して我に返った。
横を向くとちょうど、雫が木の実を差し出してくれたところだった。
お礼を言って受け取る。
「ありがと」
雫は自分の分を持ちながらくすっと笑った。
「大きくならなきゃね」
「えへへ、いつかは雫に追いつくもん」
そう言ってから私は木の実をかじった。
ぱきっと小気味のいい音が鳴る。
「うん、待ってるよ。針ちゃん」
雫は私よりいくらか控えめに木の実を食べ始めた。
それから少しの間、私達の間には咀嚼音と焚火の燃える音だけが続いた。
翌日。
お祭りの後片付けのために私と雫は水を汲みに小川に足を運んでいた。
焚火をしたあとの焦げた臭い。
私はそれがちょっと苦手だった。
理由は分からない。
ひょっとしたらお祭りが終わったことを認めたくないだけなのかもしれない。
歩きながら、自分の胸元に視線をやると首にかけた紫色のお守りが揺れる。
中には昨日拾ったガラス玉が入っている。
昨日のお祭りの最後、別れ際に雫が作ってくれた物だ。
隣を歩く彼女も、同じように首から提げている。
私の視線に気付いた雫がくすりと微笑んだ。
こういう時の私達に、言葉はいらない。
きっとこれからもずっと、ずっと。
そのまま歩き続けるといつもの小川に到着したので、持ってきた器に水を少しずつ汲んでいく。
掬う道具が小さいから時間がかかってしょうがないけど、私達はただ黙々と水を汲んだ。
そうして三分の一ほど水が貯まった時だった。
器にぽつりと波紋が浮かぶ。
それは二つ、三つと次々に増えた。
私と雫が空を見上げたのはほとんど同時だった。
そこには頭の上にのしかかってくるような低く厚い灰色の雲が広がっている。
雨だ。
急に降り始めたそれは強い横風も伴っており、顔も着物もあっという間にびしょ濡れになってしまった。
私達はすぐさま器を放り出し、雨を凌げそうな近くの茂みに隠れた。
一言の言葉もなく。
私達小人族にはいくつか掟がある。
その一つが「遠くにいる時に雨や風、危険な動物に遭遇したらすぐに荷物を捨てて退避すること」だ。
全ては命あってのこと、道具や食料は後からなんとでもなる。
小さい頃から長老様や周りの大人達にずっとそう言われて育ってきた。
だから水も、また汲めばいい。
そのまま二人で無言のまま、雨風が収まるのを待つ。
茂みが風をかなり遮ってくれるおかげで飛ばされる心配はなさそうだ。
ただ、それでも降り注ぐ雨はどうしようもなかった。
心なしか徐々に雨粒が大きくなっているように感じる。
一滴一滴が、頬を打つように痛い。
つい、ぽつりと呟く。
「どうしよう、すぐに止みそうにないね……」
雫は小さく頷き、直に雨粒に打たれることも構わず茂みから数歩飛び出して辺りを見渡した。
私が着いていこうと近づくと、彼女は小川と反対の方向を指差した。
「あそこで雨宿りしよ」
この悪天候の中、彼女はほんの数秒で身を隠せる洞穴を見つけたらしい。
お礼を言おうとしたけど雫はそれを遮るように続けた。
「行くよ。滑るから走らなくていいからね」
「う、うん」
雫はこんな時でも冷静だ。
私もあと四つ大きくなったら、同じようになれるのかな。
そんな思考が脳裏を過った時、雨に濡れた彼女の髪から滴る水滴が私の頬を打った。
二人で雨の冷たさに耐えながら歩を進める。
寒さで徐々に手足の感覚がなくなってきた。
それでも、弱音は吐けない。
足手纏いには、なりたくない。
歯を食いしばって手足の震えを誤魔化しながら無心で一歩一歩、前に進んだ。
「あそこ、もうちょっとだよ」
次に雫の声が聞こえた時、すぐに返事が出来ないぐらいに私は満身創痍だった。
雫の見つけた洞穴は入口が横に広かった。
私達小人族なら五人ぐらい並べそうだ。
一方で高さは雫の身長よりも頭一つ分高い程度でこれもまた都合がいい。
入口があんまり大きすぎると他の生き物に侵入される危険が大きくなるからだ。
穴がどこまで続いてるかは暗くてよく分からなかったけど、奥から風は吹いてこない。
反対側から誰かがやって来ることもなさそうだ。
私と雫は着物が土で汚れないように、比較的綺麗な落葉を敷いて布団代わりにした。
その上に二人一緒に腰を下ろす。
服を乾かしたいけど、今ここで火は熾せないし替えの服もない。
濡れた着物が肌に張り付いて気持ちが悪いけど、我慢するしかない。
そんなことを思っていると雫が洞穴の入口に視線を向けながら呟く。
「雨、全然止みそうにないね」
「……うん」
今夜はここで夜を明かすしかないということだ。
寝慣れた住処以外での野宿。
大人、いつも必ず傍に居てくれる両親もいない。
寝込みを動物に襲われたら私達は終わり。
恐怖心が心中に黒い影を落とす。
駄目だ、しっかりしないといけないのに。
「針ちゃん、これ半分こにしよ」
雫の声で我に返る。
私は雫が半分に割った木の実の片方を受け取った。
「いいの?」
「当り前だよ、これしか持ってきてないんだけどね」
私はもう一度お礼を言い、雫と一緒に木の実をかじった。
食事はあっという間に終わり、後は眠る以外に出来ることはない。
雨音はますます激しくなり、木々の揺れる音はまるで彼らが激痛に苦しむ声のようにおどろおどろしく聴こえる。
もしも小川が氾濫したらみんなは、そう遠くない場所にある私達の住処は。
考えただけで胸が締め付けられるように苦しい。
それでも不安を口に出してはいけないと、私はなんとか気持ちを抑え込んだ。
「うーん、かけ布団に出来そうなものないね」
雫に言われて辺りを見回すと、確かに洞窟の中はほとんど石と小さい落葉しかない。
綺麗で大きな葉を取りに行こうにもこの嵐の中で外に飛び出せばその後どうなるかは考えるまでもない。
寒いけど、このまま寝るしかない。
そう思案していると雫は先程敷いた葉の上に横たわり、手招きをした。
「くっついてた方が少しは温かいよ」
「……うん」
私は頷いて彼女の隣に寝転がった。
身体を横に向け、雫と身体を密着させる。
目を逸らせないほどの至近距離。
私の心は緊張で乱れ、頬が熱くなるのを感じた。
それを見た雫は笑うでもなく、ただ黙って私を抱き寄せた。
着物越しなのに、添えられた手があったかい。
「針ちゃん」
私も雫の背中に手を回し、抱き寄せようとした。
でも私の手は雫よりずっと短くて、抱き寄せると言うよりもただ抱きついただけの形になってしまった。
「……雫」
そのままお互いに言葉を交わすこともなく無言の時間が流れる。
光源のない洞窟の中は完全に暗闇に包まれつつあった。
雫の顔さえ、直に見えなくなってしまうに違いない。
怖い。
暗闇がこんなにも怖いと思ったことなんて、今までなかった。
身体が小刻みに震え始める。
きっと雨に濡れて寒いせいじゃない。
お父さん、お母さん、みんな……。
「大丈夫、大丈夫だから。ね?」
いつもの雫の声。
いや、語尾が微かに震えてる。
そうだ、きっと雫だって怖いんだ。
それなのに、それを見せずに私を安心させようとしてくれてる。
しっかり、しなくちゃ。
「……うん」
その言葉を最後に、やがて私の意識は闇に落ちた。
翌朝。
雨はすっかり止み、青空は突き抜けるように澄んでいる。
「よかった、これで帰れるね!」
声にも自然と力が入る。
まだ疲れは残っていたけど、無事に帰れると思えばなんてことない。
雫も微笑を浮かべながら着物を整えて応えた。
「うん、じゃあ……帰ろっか」
喜びのあまり、返ってくる声にいつもの元気がなかったことに私は気付かなかった。
それだけじゃない、帰路の途中に雫が顔色を悪くしていたことにも。
だから私はこんな見当違いな心配をしてしまったんだと思う。
「もしかして私達、すごく怒られるかな……」
「ううん、きっと大丈夫だよ。昨日はあれだけの大雨だったんだし……」
「怖かったけど、雫と一緒にあんなに遠くに行ったことなかったから……私ちょっと、楽しかった」
「うん、あたしもだよ」
おかしい。
言葉はいつもの雫だけど、会話が続かないしなんだか声に抑揚がない。
「雫、大丈夫……?」
私の言葉で急に我に返ったように、彼女は目の色を変えて言った。
「あはは、大丈夫だよ。ごめんね、ちょっとボーっとしちゃった」
「もー、雫ったら」
よかった、いつも通りの雫だ。
あともう少しで帰れる。
いつものおうち、いつものみんなのところ。
やっと帰り着いた森の集落。
でもそこには誰も、何もなかった。
正確には、そこが集落であったことにさえすぐに気付けなかった。
泥の山の中に辛うじて、住居に使っていた木と石が確認できただけ。
もう半年近くを過ごした、私達の過ごす場所。
昨夜の大雨はそれを容赦なく、たった一夜で奪い去った。
少しずつ思考が繋がっていく。
雫はきっと雨の具合だけでこうなっていることを薄々覚悟していたんだ。
なのに私は空が晴れているというだけで、またいつも通りにみんなと過ごせるとしか考えていなかった。
今なら分かる、昨夜小川は氾濫を起こし、濁流がここまで流れ込んだのだ。
帰路を塞ぐほどではなかったとはいえ、小川の荒れ様にも雫は気付いていたのだ。
そして、今のこの状況。
みんなは、みんなはどこにいるのか。
それを想像した途端、私は耐えられずに膝をついた。
同時に人は本当に打ちのめされた時、涙すら出ないのだということを思い知る。
雫の心配する声も、全く耳に入ってこない。
私達小人族の掟の一つ。
集落が耐えきれないと判断したらその時点で、手に持てる最低限の荷物だけを持って避難を開始すること。
そして危険が去ったら、事前にみんなで決めた集合場所に向かうこと。
これも小さい頃からずっと言われていたことで、当然私も雫も把握している。
ただ、実際に避難が必要なほどに住居が被害を受けたことは今までに一度もなかった。
そして、この集落で暮らし始めた時にみんなで決めた非常時の集合場所。
それは裏手の坂を上がり、小さな丘を一つ越えた先の洞窟。
でも、目の前の光景はそこに向かうことの無意味さを情け容赦なく私達に突き付けてきた。
何故なら集落だけでなく丘自体が完全に崩れ、泥の山と化しているのだから。
私と雫は着物を元の色が分からなくなるほどに汚し、大声で呼びかけながら必死に手で泥の山を掻き分けた。
爪は欠け、手には無数の擦り傷、切傷がついた。
それでも、手を止めることはない。
血が滲んでいることも構わず、ひたすらに集落があった場所の泥を掘り返し続ける。
でも、出てくるのは石や枝ばかり。
陽が沈み、手元すらまともに見えなくなってきたところで私と雫はようやく同時に手を止める。
お互いに顔まで泥だらけだった。
そのせいで表情が少し見えにくかったけど、雫はきっと自分と同じことを考えている。
だって、今の雫の表情はきっと私と同じ。
今にも涙を流しそうなほどに無残で、痛ましかったから。
雫の方に手を伸ばした途端、それまでは全く感じなかった途方もない疲労感が全身を覆い尽くした。
身体の力が抜け、泥の中に力なく倒れこむ。
どうして、どうしてこんなことになってしまったの?
返してよ。
みんなを、みんなを返してよ!
言葉にならない叫び声で、私はただひたすらに醜く喚き散らした。
そして翌朝。
私達は着物と身体の泥を最低限だけ落とし、見つけた木の実を二人で分けて食べた。
それからそれぞれが担当する場所を一言だけ言葉を交わして確認し、範囲を広げて捜索を続けた。
次の日も、その次の日も。
五日目には終に集落を飲み込んだ泥を全て掻きだしたのに、同胞は誰一人として見つからなかった。
私と雫は、全てを悟る。
みんな、もうここにはいない。
ということは、集落が飲み込まれる前にどこかに避難したに違いない。
きっとそんな希望があったから、はじめのうちは疲労も感じずに手足を動かし続けることが出来たのだと思う。
でも、五日もの時が流れた今は。
これだけの時間が経っているのに、どうしてみんな集落があった場所に戻ってこない?
嫌、やめて。
「いや、いや、いやぁ……!」
私の抑えられなくなった感情は最後の心の支えを失い、溢れる涙とともに完全に決壊した。
「……ごめん、雫」
「……いいんだよ、針ちゃん」
私達は以前雨宿りをした洞窟まで戻ってきていた。
道中のことは全くと言っていいほど記憶にない。
ただ、雫の心配ぶりからして、彼女の言葉にろくに返事もしていなかったであろうことは間違いない。
私はそのことに謝意を示し、寝床として使った落葉の上に腰を下ろす。
雫も同じように腰を屈めて言った。
「……針ちゃん、みんなを信じよ。集落も集合場所も崩れてるけど、みんなが戻ってくるとしたら……」
「でも、でも……」
みんなを探しに行きたい。
可能性はまだある、諦めることなんか出来ない。
掟で禁じられているのは分かってる。
私達小人族はこれまでずっと、人間や危険な動物がやってこない場所を探しながら住居を転々として暮らしてきた。
過去には、一人でいるところを小動物に襲われ犠牲になった人もいたらしい。
少なくとも、自分達よりも大きな相手を一人でやり過ごすのは不可能だと言われている。
だから非常時に単独で行動することを、長老様は強く禁じている。
私や雫みたいな子どもだったら尚更。
手をぎゅっと握りしめると無数の傷が痛みとともに、嫌味ったらしくその存在を主張してくる。
雫の方がきっと正しい。
こういう時に彼女が間違っていたこと自体、なかったような気がする。
それでも、それでも。
「針ちゃん」
「……雫?」
「……あたしも、本当は探しに行きたい。じっとなんか、出来ないよ」
言葉の最後の方は声が掠れ、震えていた。
でも、向かい合う彼女の顔はそれ以上に私に息を呑ませた。
双眸に浮かぶ涙が、今にも落ちそうに揺れていたからだ。
雫も、今までずっと無理をしてたんだ。
年下の私に不安を感じさせないために、泣き言の一つも言わずに。
私は彼女の手を握った。
いつもの綺麗な白い手とは程遠い、土と血で汚れた手。
でもそれは、私に幾らかの安心を与えてくれた。
大切な親友が生きていることを、肌で感じられるから。
「雫、私まだまだ頼りないけど」
一度言葉を切り、一呼吸置いて続ける。
雫は次の言葉を待つように私の顔を見つめ、手を握り返してくる。
切り傷が疼いて痛いけど、もっと握って欲しかった。
「一緒に、探しに行こう。雫が一緒なら、私はずっと頑張れるから」
「……あたしもだよ、針ちゃん」
二人で首にかけたお守りを取り出し、目の前に掲げあう。
大丈夫、貴女さえいれば私は、まだ頑張れる。
でも、現実は本当に残酷だった。
あれから三日が過ぎた。
私達は未だに、洞窟の外に出られていない。
空腹は既に限界に達し、意識が朦朧としてきた。
外から聞こえてくるのは久しく聞いていない人間、大人の男達の声。
数は多分十人ぐらいで、時に怒鳴り上げるような胴間声もする。
話している内容はほとんど聞き取れなかった。
しかし彼らが毎日この近くに居座り、開発がどうとか、工程がどうとか言っていることだけは分かった。
ここも、もうすぐ人間達の手が迫って来る。
だから逃げないといけないことは分かっていた。
でも、もうろくに身体が動かない。
食料を採りに出ようにも、人間に見つかったらお終いだ。
お父さんとお母さんから何度も聞かされた言葉が追想される。
「奴らに決して見つかってはならぬ、それが子どもであってもだ」と。
どうして、どうして神様はこんなにも酷い仕打ちをするの?
私達はただ平穏に、静かに暮らしていたいだけなのに。
唯一残ったお守りをぎゅっと握りしめる。
ふと、隣で横たわっている雫に視線を向ける。
そういえば、さっきからずっと黙っている。
私は寒さに震える手を彼女に添えて、言った。
「雫……?」
反応がない。
外に聞こえるかもしれないと思いながらも、声を大きくして呼びかける。
「雫、雫、しっかりして!」
彼女の身体を揺すりながら一分ほどそうしていると、彼女はようやく目を半目に開いた。
「あはは、ごめん。寝ちゃってたみたいだね」
目の焦点が合っていない。
口調だけはいつも通りなのがかえって私を恐怖で震えさせた。
「雫、雫、お願い。死なないで、私を置いて行かないで……」
「大丈夫だよ、針ちゃん。大丈夫だから、あたしのお願い、聞いてくれる?」
途切れ途切れの声。
もう喋るのすら辛そうな彼女の様子は私の胃をぎりぎりと締め付けた。
「うん、うん」
「ありがとう。……じゃあ、ちょっとだけ、お話、させてね」
雫は目を細めて口元を緩めると、か細い声ながら滔々と語り始めた。
「……まず、針ちゃんに謝らないといけないことがあるの」
「え……?」
「……針ちゃんの本当のお父さんとお母さんのこと、本当はみんな知ってるの」
心臓が高鳴る。
自分が今どんな顔をしているか想像できない。
それでも、必死に紡ぎ出された彼女の言葉を遮る気にはなれなかった。
雫は一呼吸置いてから再び話し始める。
「針ちゃんがまだずっと小さかった頃、ね。
針ちゃんのお父さんとお母さんは、私達一族をずっと守ってくれていたの」
「私の、お父さんとお母さんが……?」
私は続きを促した。
それから彼女の話を聞くにつれ、動悸が激しくなっていく。
「……ごめんね。本当に、ごめんね」
今日何度目か分からない雫の謝罪の言葉。
私は首を振りながら指先で涙を拭い、鼻水が出そうな鼻をすする。
「雫は、悪くないよ。……話してくれて、ありがとう」
精一杯の笑顔を作って笑って見せる。
そうだ、雫がいつもやってくれたように。
彼女が必死に綴った言葉が追想される。
鬼を倒した勇敢な一族の血を引く私の両親は、集落で一番強かったらしい。
それは襲ってくる小動物を大胆な針捌きで何度も追い払ったり、
引越しで新しい土地に移動する時はみんなを危険な目に遭わせないために先行して安全を確認したり。
村のみんなはそれでは二人が危ないからと、偵察の役目は大人が交代でやるべきだと何度も言ったらしい。
それでも私の両親は頑として首を縦には振らなかった。
「私達夫婦は遥か昔に鬼を倒した一族の血を引いている。
少しだけ力が強いのは、きっとご先祖様がその力でみんなを守れと言っているからだと思う。
でも、別に使命だからというわけじゃない。
ただ、私達はこの一族の、みんなのことがとても大切なんだ」と。
それから何度目になるか分からない引越の際に、悲劇は起きた。
半日で戻るはずの偵察に出掛けた二人が夕方になっても戻ってこない。
大人達が丸二日捜索を続けた結果、二人が亡くなっていたことを雫は聞かされたらしい。
一族は悲しみに暮れ、二人を無理矢理にでも止めなかったことを後悔し続けた。
皮肉にも私が物心ついて少しずつ言葉を話せるようになったのは、それから間もなくのことだったらしい。
もし動物に襲われたのだったら。
高いところから転げ落ちたり、落石の下敷きになったのだったら。
お父さんとお母さん、どれだけ痛かっただろう?
苦しかっただろう?
骨が折れて、沢山血が出て……そこまで考えたところで、私の手足は悲しみと悪寒で震え始めた。
でも、それでも。
私のお父さんとお母さんは、大好きなみんなのために戦い続けた。
私も、みんなが、この一族が大好き。
今ここに雫がいるのも、私がいるのも、お父さんとお母さんがいたから。
だったら、私がしないといけないのは。
涙の跡でひりひりする頬を袖でもう一度強く拭う。
「私も、守る。雫のこと、守るよ。
私も、勇敢なお父さんとお母さんの子だもん!」
私の言葉を聞いて、雫は今日初めて頬を綻ばせた。
「針ちゃん……ありがとう、本当に、本当に強くなったね。
これならあたしも、安心……」
雫が脇に置いていた傷だらけの布袋をまさぐり始める。
やがて中から赤い紐で括られた黒い箱が取り出される。
中身を雫に聞こうとしたところで先に彼女が口を開いた。
「針ちゃん、ちょっとだけ向こう向いててくれる?」
「え?」
「お願い、ちょっとでいいから、ね?」
片目を閉じたウインク。
泥と汗に塗れていても、やっぱり雫は綺麗。
これをされると、いつも断れない。
私は頷いて身体を百八十度回転させる。
雫に丁度背を向ける形で彼女の次の言葉を待つ。
時折風の音がする以外は無音の洞穴内に、しゅるしゅると紐を解く音がする。
さっきの箱を開けてるみたいだけど、何が入ってるんだろう。
やがて洞穴内の音は完全に止み、静寂が訪れた。
雫は身動き一つしている様子がない。
どうしたのかと、声を上げようとしたその時だった。
「針ちゃん、今まで一緒に過ごせて、楽しかったよ。
今の針ちゃんなら、きっともう大丈夫。
……様、お願いします。
勇者の……、私の大切な友達を……」
最後の部分は聞き取れなかった。
雫の声とともに金色の眩い光が洞穴を照らし出す。
私は考える間もなく、背後を振り返りざまに叫んだ。
「待って雫、待ってよ、どうしたの!?」
光はますます強くなり、目を開けていられないほど眩しくなった。
手で閃光を遮りながら必死に雫を探すと、一瞬だけ彼女の姿が見えた。
身動き一つ出来ないほど苦しいはずなのに。
真っすぐに立って、いつもの大好きなあの顔を私に向けてくる。
弱い私に勇気を与え続けてくれた、太陽のような満面の笑み。
声を上げて走り寄ろうとした途端、何かに躓いて前のめりに転倒してしまう。
その光景を最後に意識は遠のき、私の「故郷」での生活は幕を閉じた。
***
「あんた、まだそれ整理してたの?」
「あ、霊夢」
霊夢が布巾で額の汗を拭きながら和室に戻ってきた。
物思いにふけってる間に彼女は炊事場ですっかり一仕事終えたみたいだ。
私は慌てて作業を再開する。
光に包まれたあの日以来、雫にもみんなにも、ずっと会えていない。
勿論本当は分かってる、ここは私が元居た世界とは違うってことも。
雫にもみんなにも、もう会えないってことも。
紫色の小箱から取り出した二つのガラス玉をじっと見つめると、幻想郷で目を覚ましたあの日のことが脳裏を過る。
霧の湖の畔、草地に横たわっていた私の傍には小槌を保管していた黒い箱があった。
紐はほとんど解けて、かろうじて巻いてあるだけの状態で。
恐る恐る蓋を開けると、中には昼間なのに微かに光を放つ金色の打ち出の小槌。
そして、あの日雫と一緒にお守りにした彼女の橙色のガラス玉。
本当のことは、今となってはもう誰にも分からない。
でも、ただ一つ確かなのは、雫が身を挺して私を助けてくれたこと。
一族が守り続けている宝物があることは長老様から聞いていたけど、
それが打ち出の小槌であることも、奇跡を起こす力が秘められていることも、私は全く知らなかった。
勿論、その魔力を解き放った者が背負うことになる代償も。
小槌はそれこそお伽噺に出てくる、無尽蔵に力を与えてくれるような代物じゃない。
鬼の魔力を宿すそれを使った者には必ず埋め合わせがやって来る。
今の小さくなってしまった私の姿がまさにそれだ。
本当はあの時、天邪鬼の話を何から何まで信じたわけじゃなかった。
確かに小人族は身体が小さいし、そのせいで常に身の安全を脅かされる生活を送ってきたのは事実。
大きな者達に虐げられてきた歴史があるというのも、嘘じゃないのかもしれない。
それでも、人間がこぞって小人族を襲っていたなんて話をみんなから聞いたことは一度もない。
それに、小さかった頃から「人間に決して見つかるな」とは散々言われたけど、
大人達は彼らへの恨み言は誰一人として口にしていなかった。
それなのに何故彼女に着いて行ったのか。
理由はたった一つ、至極単純なことだった。
笑われてもしようがない。
ただ、寂しかったから。
雫は「強くなったね」って言ってくれたけど、私は変われてなんかいなかった。
幻想郷に着いた時は、「もう二度と泣かない」と強く決意したのに、
結局一人ぼっちでいることの辛さには耐えられず、私は天邪鬼に着いて行くことを選んだ。
「力の弱き者達を貴女と私の手で救うのです」とか、
「これは強く勇敢な者の血を引く貴女でなければ出来ないことなのです」とか、そんな言葉よりも。
「私がずっと傍で貴女を守りますよ、姫」
このたった一言の言葉が、私の行く末を決めたのだ。
当時は小槌の秘密なんて勿論知らなかったけど。
彼女の目当てが秘宝だけだったとしても、それでもいい。
そんなことを半ば本気で思ってしまったほどに私は、弱いままだった。
そしてそこまで考えた上で彼女に、鬼人正邪に着いていったのに。
異変が失敗に終わり、彼女に見捨てられたことを知った時。
私は今の寝床で一人涙を流した。
泣かないために、裏切られることは覚悟したつもりでいた。
でも、切り捨てられれば結局また一人になるのだ。
そんなことにすら考えが至らなかった。
それからすぐに霊夢にここに置いてもらうようになってから、すっかり彼女に甘えてしまっている。
小槌の魔力をほとんど持ち逃げされている以上、今すぐに一人で行動を起こすのは無理だけど、それでも。
今度こそ、変わらなくちゃいけない。
私を助けてくれた、雫のために。
無意識のうちにガラス玉を握りしめていると、ことんとテーブルに何かを置く音がする。
霊夢が泡立った水の入った青いビンを持っていた。
「やっと終わったみたいね、あんたも飲む?」
「……それ、なあに?」
「ラムネ」
霊夢がそう言ってビンの口の蓋越しに掌を乗せると、ぷしゅっと小気味いい音が響く。
透明なコップに中身が注がれると水面に白い泡が浮かび上がった。
手渡されたそれを両手で受け取ると、持ち手がひんやりしている。
「ん」
「あ、ありがとう」
色は水みたいだけど、どんな味がするのかな。
恐る恐る口に入れると、甘いお砂糖の味と一緒に口の中でなにかが弾けるように舌がひりひりした。
「あんた、面白い反応するわね」
私を見て霊夢は悪戯っぽい笑みを浮かべている。
そんなに渋い表情をしてたかな。
なんだか恥ずかしい。
「甘いけどしゅわしゅわするね、これ」
「炭酸、って言うらしいわよ。
私も紫から聞いただけだから詳しいことは知らないけど」
「……おいしい、ありがとう」
二口、三口と口にするとこのしゅわしゅわした感触もなんだか心地がいいから不思議だ。
夢中になって飲んでいると、霊夢が再び口を開いた。
「あんた、やっと顔色よくなったわね」
「え?」
「こう言っちゃなんだけど、朝からちょっと顔色悪かったわよ」
「……ごめん、ありがと霊夢」
「別にいいけど」
不思議と陰鬱だった気分が幾分か軽くなったような気がする。
霊夢にもいつの間にか心配をかけていたみたい。
ずっとお世話になってるし、お礼しなくちゃ。
ふとテーブルの上を見ると、ラムネのビンの中に丸い透明な球が入っていることに気付く。
「ねえ、この玉って取れないかな」
「ビー玉のこと? 割れば取れるけど、あんたこんなのまで欲しいの?」
「……うん、だめ?」
「まあいいけどさ」
霊夢が軽く勢いを付けたお札を一枚投げ当てると、空のビンは綺麗に真っ二つに割れた。
中のガラス玉を受け取り、お礼を言う。
「ありがとう、霊夢」
「はいはい、どういたしまして」
ラムネのビンに入っていたビー玉は模様のない透明な物だった。
私はそれを紫色の小箱にそっとしまう。
中に入っていた二つの玉とぶつかってかちんと音が鳴った。
独りぼっちは、やっぱり辛い。
でも、少しずつでも、必ず変わって見せる。
私は言った。
「霊夢、明日の山菜採り、着いて行ったらだめ?」
霊夢が怪訝そうな表情を浮かべて応える。
「いいけど、歩けるの? 今のあんたのサイズじゃ相当ハードよ」
「平気だよ、私走るのも好きだもん」
「……まあいいか、疲れたら早めに言いなさいよ」
「もう、大丈夫だってば!」
「はいはい、じゃあ明日は頼りにさせてもらうわよ」
霊夢は本気にしていない様子で手をひらひらさせながら、炊事場に戻っていった。
後姿が見えなくなったところで紫の小箱から三つの玉を取り出す。
すぐには一人前になれないけど。
また、泣いてしまうかもしれないけど。
それでも。
絶対、お父さんとお母さんのような強い小人になってみせるから。
だから見てて、雫、お父さん、お母さん、みんな。
わりかし壮絶な過去を背負ってる針妙丸ですが、最後は力強く生きていてよかったです
祭でラムネ飲んだらビー玉取り出しますよね。懐かしい