彼女はかつて別の名前を持っていた。
それを新しい名前で呼び始めたのは、人間の子供たちだ。その名前は舶来言葉らしく、新奇な、濁りの多い発音で、そこが少し嫌だなと思った。なにより自分には歴とした名前がある。たおやかで、女性的な和名だ。彼女は妖怪で、この土地の蟲たちの女王だった。
そうした呼び名が己の耳に入るくらい、彼女は人の生活に近くあった。特に子供たちは蟲にも物怖じしない、近い世界に生きていた。機嫌が良い時にはそうした子らと戯れる事くらいはあったし、蟲を捕まえていじめるような悪童はちょっと脅かして懲らしめもしたが、好かれる事じたいは悪い気がしなかった。
反面、大人たちにはよく思われていなかった気がする。彼女が率いる蟲たちには穀物を荒らすものもいたし、もっと積極的に、彼女自身の意志で、年々の収穫を脅かした場合もあった。どうしてそんな事をしたのかというと、そうしなければ彼女は彼女でいられないからだ。それを因果な生計とも思わなかった。そういうものだろう。
やがて、子供たち以外にも、彼女をがちゃがちゃ濁った洋名で呼ぶ者が現れ始める。妖精たちだ。彼らは人の真似をする。それしか能がないのだ。しょうがない連中だと思った。
ちょうど蟄啓かれる時節だ。冬ごもりをしていたものや、新しい世代が蟲たちにも地表に現れる。蟲たちの世代交代は速い。彼女にとっては目まぐるしいくらいの営みだ。女王たる彼女は、季節の移り変わりのたび、種々の蟲の営巣地をこまごま見て回った。そこには彼女を初めて見るものもいる。だから、まめに顔を見せて回らなければならないのだ。
新しい世代の中には、彼女を新しい名前で呼ぶものが現れ始めていた。
そもそも、蟲は総じて忘れっぽい。世代交代が進むまでもなく、彼女を新しい、西洋風の、忌々しい名前で、積極的に呼ぶようになってきている。彼女がやめろと言っても、彼らは聞く耳を持たなかった。古い名前は忘れ去られ、鳴き声まで新しい響きを祝福しはじめていた。
彼女のかつての名前を最後まで覚えていたのは、蝉の幼虫たちだった。彼らは何年も土中にいて世間に触れていないので、特段頭が良いわけではないが、物覚えだけはなぜか良かった。彼女と彼らは一尺ほどの深さの土に隔てられながら、女王と臣下の関係を保っていた。他の蟲たちは、相変わらず親しげだが、新たな名前を受け入れようとしない彼女の統制を離れつつあった。
新しい波を受け入れた方が良いのかもしれない、と彼女は地面に向かってぼやいた。たしかにこれは人間たちの――子供の無邪気ではなく、大人の策略だったのだろう。力を失いつつあるのは、昔の名前が無視されて、捨てられようとしているからだろう。でも、新しい名前は気に食わないけれど、いずれは慣れる事ができるかもしれないのだ。西洋的なるものを採り入れていくのも、別に悪いことばかりではないし、今は力が衰微しているとしても、やがては自分の力とする事もできるだろうから……。
言ったところで、幼虫たちは土の中でじっと沈黙したままだ。
そんな反応に、彼女は反転した憤りをおぼえた。所詮、こいつら互いに顔も見たことのない者たちだ。頑固に古い名前を支持しているのも、ただ土の中で眠っているうちに時代遅れになってしまっただけだろうし、新しい時代の妨げにしかならないではないか。こいつらこそ私を旧弊の中に閉じ込めようとして、苦しめているのではないか。そう思い始めると、腹立たしさしか感じなくなってきて、彼女は言った。
もういい。私は新しい名前を受け入れてやる。どんなに苦しくても、それが人間たちの、時代の要請なら、それを受け入れるまででしょう。妖怪って昔からそういうものだった。私たちはいつも、そうした要請に従って、姿を変え、性質を変えて、なんとか生き延びてきたものたちばかりじゃない。だからこれでいいの――うるさい(と、蝉の幼虫たちの沈黙に向かって、彼女は言った)、もうその名前で呼ばないでちょうだい。私の名前は――
その場で彼女は自分の新しい名前を宣言した。
以降も、その新しい名前を使い続けている。使うたび、変に心地良い感じがした。心のどこかがちくっとした後に、麻痺して、何も感じなくなっていくのだ。無痛といっても、心のどこかが、ぼろぼろと切り崩されていくのをほんのり感じるのだが、やがて、その安らかな麻痺が好きになってきて、彼女は新たな名前を積極的に使い始めた。……もっとも、使うたびに心地良さは減じていって、当たり前の事になっていく。それはそれで良かった。自分の名前を使うたびに恍惚の境地へと連れていかれるのも不便極まりない。
彼女は新しい自分の名前が好きになったが、何度か巡った夏に、成長した蝉たちの鳴き声が、彼女の古い名前を叫び続けながら地面にぼとぼと落ちて死んでいったことを、あわれに思い、泣いてやった。捨て去られるべきものにもある種の敬意を持った時が、本当の意味で新しいものを受け入れた瞬間だろう。
それとて、世代交代していけば、あっという間に過去のものとなっていく。
これからも彼女の事をリグル・ナイトバグと呼んであげてくださいね。
それを新しい名前で呼び始めたのは、人間の子供たちだ。その名前は舶来言葉らしく、新奇な、濁りの多い発音で、そこが少し嫌だなと思った。なにより自分には歴とした名前がある。たおやかで、女性的な和名だ。彼女は妖怪で、この土地の蟲たちの女王だった。
そうした呼び名が己の耳に入るくらい、彼女は人の生活に近くあった。特に子供たちは蟲にも物怖じしない、近い世界に生きていた。機嫌が良い時にはそうした子らと戯れる事くらいはあったし、蟲を捕まえていじめるような悪童はちょっと脅かして懲らしめもしたが、好かれる事じたいは悪い気がしなかった。
反面、大人たちにはよく思われていなかった気がする。彼女が率いる蟲たちには穀物を荒らすものもいたし、もっと積極的に、彼女自身の意志で、年々の収穫を脅かした場合もあった。どうしてそんな事をしたのかというと、そうしなければ彼女は彼女でいられないからだ。それを因果な生計とも思わなかった。そういうものだろう。
やがて、子供たち以外にも、彼女をがちゃがちゃ濁った洋名で呼ぶ者が現れ始める。妖精たちだ。彼らは人の真似をする。それしか能がないのだ。しょうがない連中だと思った。
ちょうど蟄啓かれる時節だ。冬ごもりをしていたものや、新しい世代が蟲たちにも地表に現れる。蟲たちの世代交代は速い。彼女にとっては目まぐるしいくらいの営みだ。女王たる彼女は、季節の移り変わりのたび、種々の蟲の営巣地をこまごま見て回った。そこには彼女を初めて見るものもいる。だから、まめに顔を見せて回らなければならないのだ。
新しい世代の中には、彼女を新しい名前で呼ぶものが現れ始めていた。
そもそも、蟲は総じて忘れっぽい。世代交代が進むまでもなく、彼女を新しい、西洋風の、忌々しい名前で、積極的に呼ぶようになってきている。彼女がやめろと言っても、彼らは聞く耳を持たなかった。古い名前は忘れ去られ、鳴き声まで新しい響きを祝福しはじめていた。
彼女のかつての名前を最後まで覚えていたのは、蝉の幼虫たちだった。彼らは何年も土中にいて世間に触れていないので、特段頭が良いわけではないが、物覚えだけはなぜか良かった。彼女と彼らは一尺ほどの深さの土に隔てられながら、女王と臣下の関係を保っていた。他の蟲たちは、相変わらず親しげだが、新たな名前を受け入れようとしない彼女の統制を離れつつあった。
新しい波を受け入れた方が良いのかもしれない、と彼女は地面に向かってぼやいた。たしかにこれは人間たちの――子供の無邪気ではなく、大人の策略だったのだろう。力を失いつつあるのは、昔の名前が無視されて、捨てられようとしているからだろう。でも、新しい名前は気に食わないけれど、いずれは慣れる事ができるかもしれないのだ。西洋的なるものを採り入れていくのも、別に悪いことばかりではないし、今は力が衰微しているとしても、やがては自分の力とする事もできるだろうから……。
言ったところで、幼虫たちは土の中でじっと沈黙したままだ。
そんな反応に、彼女は反転した憤りをおぼえた。所詮、こいつら互いに顔も見たことのない者たちだ。頑固に古い名前を支持しているのも、ただ土の中で眠っているうちに時代遅れになってしまっただけだろうし、新しい時代の妨げにしかならないではないか。こいつらこそ私を旧弊の中に閉じ込めようとして、苦しめているのではないか。そう思い始めると、腹立たしさしか感じなくなってきて、彼女は言った。
もういい。私は新しい名前を受け入れてやる。どんなに苦しくても、それが人間たちの、時代の要請なら、それを受け入れるまででしょう。妖怪って昔からそういうものだった。私たちはいつも、そうした要請に従って、姿を変え、性質を変えて、なんとか生き延びてきたものたちばかりじゃない。だからこれでいいの――うるさい(と、蝉の幼虫たちの沈黙に向かって、彼女は言った)、もうその名前で呼ばないでちょうだい。私の名前は――
その場で彼女は自分の新しい名前を宣言した。
以降も、その新しい名前を使い続けている。使うたび、変に心地良い感じがした。心のどこかがちくっとした後に、麻痺して、何も感じなくなっていくのだ。無痛といっても、心のどこかが、ぼろぼろと切り崩されていくのをほんのり感じるのだが、やがて、その安らかな麻痺が好きになってきて、彼女は新たな名前を積極的に使い始めた。……もっとも、使うたびに心地良さは減じていって、当たり前の事になっていく。それはそれで良かった。自分の名前を使うたびに恍惚の境地へと連れていかれるのも不便極まりない。
彼女は新しい自分の名前が好きになったが、何度か巡った夏に、成長した蝉たちの鳴き声が、彼女の古い名前を叫び続けながら地面にぼとぼと落ちて死んでいったことを、あわれに思い、泣いてやった。捨て去られるべきものにもある種の敬意を持った時が、本当の意味で新しいものを受け入れた瞬間だろう。
それとて、世代交代していけば、あっという間に過去のものとなっていく。
これからも彼女の事をリグル・ナイトバグと呼んであげてくださいね。
名を失い新たな名を得ることが妖怪にとってどういう事なのかを再確認させられました
本人は吹っ切れているようでよかったです
妖怪が生きていくことの難しさや悲しさなど、やるせないものを感じました。面白かったです。