◆
蒸し暑い初夏の夜だった。
列車に揺られて十数分、既に真っ暗な外を眺める。
時代錯誤な旧型の私鉄。地上を行く四角い車体は、洗練された現代の鉄道に比べれば欠伸が出るほど遅い。
レールと車輪のたてる音に混じって、かすかに虫の鳴き声が聞こえた。
少し前の時期までは、日没後に上着が必要なくらい寒かったのに、今は夜でも湿度が高い。
「……暑いわ」
窓の上方から吹き込む少しの風では、この不快感は拭えない。服をぱたぱたとやってみても焼け石に水。
京都の夏にはかなわない。
昔、この辺りに住んでいたという親戚が言っていた通りだ。
時代が変わっても、ここが盆地である限り、気候の特色は変わらない。
私は窓の向こうに煌く星を、ぼんやりと見て呟いた。
「19時42分。思ってたより遅くなっちゃったな」
「遅くなっちゃったのは、誰のせいだったかしら?」
ちょっと前まで寝息をたてていたはずの隣の少女が、微笑みながらこちらを見ていた。
彼女は一見すると、怒っている時とそうでない時の区別がつかないので怖い。恐らく今回は、それほど怒っていないものと予想される。
「それは私が遅れたせいです。アイス奢るから許してよ」
「ダメ」
予想は外れた。
鬱陶しい暑さのプラットホーム上で、二十分弱も待たせてしまったのが悪かったのだろう。
もともと提案したのも私の方だし、彼女が気を悪くするのも当然か。
待ち合わせ時刻直前、私は面倒な計算にかかりきりになっていて、いったん中断したら再開が大変だから一気に終わらせたかったのだ、と言い訳しようかと思ったが、そんな事情を話したらさらなる怒りを買いそうなのでやめておいた。
「いや、本当ごめんって。次から気をつけるから」
「気を付けた事なんてなかったじゃない。別に、私はそこまで気にしてないわよ……ただ、あなたみたいな遅刻魔が、普通の社会でやって行けるのか心配なだけ」
「普通の社会に出るつもりはないけど」
私がそう答えると、メリーはやや呆れた様子でこっちを見た。人も疎らな列車でも、彼女の容姿はそれなりに目立つ。
じめじめとした夜に不似合いな、まるで人形のように綺麗な顔立ちの彼女は、私の友人兼サークル仲間だ。今回のような事は度々あるが、言葉の通りそこまで気にしている様子がないので、私はひとまず胸を撫でおろした。
メリーが言う。
「でも、いつもよりは大幅な遅刻だったわね。罰として、交通費はあなた持ちで」
「元からそのつもり。今回のは私の息抜きも兼ねてるからね。ちょっと研究が行き詰まってて」
「ふぅん。珍しいじゃない」
彼女はあまり興味が無さそうに相槌を打った。
「蓮子って、結局なんの勉強してるんだか分からないのよね。いつも記号を書き連ねているけれど、あれに行き詰まるとかあるの?」
「ある。というかメリーだって、テクストの山に囲まれて昼寝してるだけに見えるけど。だいたい何よ、相対性精神学って」
サークル室で、メリーが分厚い本やら論文とにらめっこしているのはたまに見かけるが、実際、何をやっているのかはよく知らない。
その辺りはお互い様だろう。
学問はますます高度に先鋭化し、専門性を増してゆく。門外漢にはそうそう分かる話でもない。分化しすぎた領域は、部外者の侵入を拒むものだ。
「ねえ、蓮子。私、あなたには何回か説明したと思うんだけど?」
「ごめん、忘れた」
忘れるのは理解していないからだ。
当時の私が上の空だったか、それとも何かを理解しようという気分じゃなかったか、多分そのどちらかだろう。
「……多分、こっちの言葉で説明しても伝わらないのよね。あなたはいったん理屈を納得したら、もう忘れないタイプの人間でしょうし」
「喩えでお願い。比喩と類推は学問の架け橋だよ」
私は適当に名言っぽいフレーズをでっち上げた。
メリーは呆れつつも、少し考え込む様子を見せる。こういう時、適当に流さず真面目に考えてくれるのが彼女の良い所だ。私の友達には、メリーのように我慢強い人が多い。
闇に沈みゆく田園風景が車窓を横切っていく。
「じゃあ、えっとね……従来の精神学を古典的な力学とするなら、やっぱり相対論って事になるのかしら」
「それじゃ名前の通り、そのままじゃないの。それくらいのことは私だって分かる」
「今から説明するの。ええと……相対性理論って、誰から見ても物理法則が変わらないってところから出てきたものなんでしょう。その原理のもとでは時間も相対的なものになる。それぞれの人にとっての時間があるだけで、唯一絶対の物差しは存在しない」
相対論において、時間は座標系の張り方によって異なる値をとり、たとえば光速に近い速度で運動する物体は、静止した物体と異なる時間を感じている。
そもそも同時性という概念からして一致しないのだ。彼女の言いたいことは、なんとなくわかるような気がした。
「精神についても同じように考えるってこと?」
「そう。そもそも人間の内面について、客観的な考え方を適用すること自体に無理があるのよ。それぞれの人が認識するものの中にこそ、真実が宿っているはず。不変の尺度なんて考えは旧時代的だわ」
「私にとっての時間と、メリーにとっての時間が異なるように、か……」
「実際、そういう例もよく取り上げられるわね。時間や空間のことを先験的な形式だと主張する人もいたけれど、それは普遍的に一致するものではないの。私たちは異なる枠組みで、異なる現象を経験している……」
私は真剣に聞いている素振りを見せた。心なしかメリーも興が乗ってきたようだ。
やっぱり興味が持っているものについて、人に話すのは楽しいのだろう。
ましてその相手が、友達ともなれば尚更だ。私にも気持ちはよく分かった。
「つまり私が遅刻したのは、精神や時刻の相対性のせいだったわけね」
「あなたの目で見えるのは固有時じゃなくて、協定されたJSTでしょう」
「……」
即座に返され、私は閉口して窓を見上げた。
ガラス越しの夜空。
私の能力の一つは、星を見ただけで現在の時刻が分かることだ。
どのみち同じ日本にいる以上、標準時からのずれは誤差の範囲内。
「19時45分……いつからそんなに物理に詳しくなったの、メリー?」
列車が緩やかに減速していく。今回の活動がようやく始まる。
結界の裂け目を探し、別の世界へと忍び込む。
私たちの、秘封倶楽部としての活動が。
「さあ? たぶん、誰かがいつも、楽しそうに語ってくるせいじゃないかしら」
メリーは手すりを掴んで立ち上がりながら、少し口の端を緩めた。
応えて私は言う。
「へぇ……迷惑な奴もいたものねえ」
「私はその人と違って遅刻もしないし、人の話をちゃんと聞くからね」
電車はゆっくりと停止する。駅に着いたのだ。
私の冒険は、まず友人に、アイスと抹茶フラッペを奢るところから始まった。
◆
湿り気を帯びた草が、足元に潰れて音を立てる。虫よけを持ってきたのは正解だった。
私はポケットから取り出したハンカチで首筋を拭う。
噂に聞いた祠とやらの捜索が、予想以上に難航しているのだ。
さまようのはいつもの事だし、メリーもまるで堪えた様子が無いが、こんな場所にわざわざ連れてきた私としては、若干の焦りを感じなくもない。
駅を離れてからというもの、既に結構な距離を歩いていた。
「おかしいな、きっとこの辺りのはずなのに」
私は空を見上げる。煌々と地を照らす月。
それは文字通りの意味で、私に居場所を教えてくれる。
「あなたの力でも分からないなら、私なんかにはお手上げね」
メリーは呑気にそう言うものの、むしろ正確な場所の絞り込めていない今回は、彼女の目の方が頼りだった。
行けばすぐに見つかると、端から高をくくっていたが、どうも甘すぎる見立てだったらしい。
私は彼女に訊ねてみる。
「メリー、何かそれらしいのは見えた?」
「見えたら言ってる。今のところ、ただの雑草だらけの古道だわ。天然物の草花が、ここまで茂っている場所が京都にあったなんて……もう少し涼しければ、夜の散歩にはちょうど良かったのに。ねえ、その目撃者さんは、どうしてこんな所まできたのかしら?」
「それこそ散歩じゃない? 春の夜中に見たって言ってたし。一人でこんなひと気の無い場所を歩くなんて、なかなかいい趣味してるよね」
その人の事は良く知らない。
知り合いの、そのまた知り合いくらいの関係性だ。
まあ、人物自体はどうでも良くて、目撃した対象こそが重要なのだが。
──曰く、祠の傍で星を見た、と。
古びた木組みの傍らに、燃える球体が見えたなんて話を、いったい誰が信じるだろう。
単なるほら吹きの妄言か、もしくは幻覚と一蹴されるのが当然だ。
事実、その話は春気にあてられた人間の世迷言として、面白おかしく伝わってきた。
しかし、そういう意味不明な噂話こそが、私たちにとっては意義を持つのだ。
理解できないもの。
解釈不能なもの。
胡乱な噂に乗って広まる、それらは大抵、ここではないどこかへの入り口だ。
要となるのは、鼻歌混じりに先を行く、結界暴きのマエリベリー。
金髪は月光に煌いて、かすかな風に揺れている。
彼女が見つけるほつれから、いつも私たちは異界に飛び込んでゆく。
私の能力とは比較にならない、不気味と言っても良い異能。
メリーの瞳にどんな景色が映るのか、私は知らない。いくら視点を共有したところで、それは彼女自身の認識する風景ではないのだから。
だから彼女と私の間には、どれほど近くにいようとも、埋めがたいほどの差異があった。
常に。
「……そういえば蓮子」
そう言って、彼女はつと立ち止まる。
二人きりの行軍に、未だ終わりは見えてこない。何はともあれ、結界の綻びを見つけねば始まらないのだ。
少々足に疲れを覚えつつ、私は答える。
「なに?」
「こういう時の私って、なんだか警察犬みたいじゃない?」
「はあ? なにそれ」
彼女の口から転がり出てきた耳慣れぬ言葉に、私は首を傾げた。
「知らないの? 昔の映画とかでたまに見るけれど。ずっと前には、犬を使って犯罪の証拠を探っていたりしたらしいわ」
「へえ。なんだか牧歌的ね。ちょっと見てみたかったかも……今の技術なら、もうそんな事する必要もないんだろうけど」
「京都じゃ無理でも、東京あたりなら見られそうじゃない」
「なんだと思ってるのよ、東京を」
「古き良き田舎?」
メリーが振り向く。月の薄明かりに照らされた彼女の肌には、汗の一粒も浮かんでいない。
ぼんやりと、私は呟いた。
「ま、メリーは犬っていうより猫よねえ。この、掴まえどころのない感じ。猫又だって裸足で逃げ出すわ」
「ああ、そうかもね」
ふらりとどこかへ彷徨い出ては、夢やら別世界へと迷い込む。
別に私が存在しなくたって、秘封倶楽部がなくたって、メリーはきっと変わらない。
まるで夜を闊歩する魔術師のよう。
規則なんて素知らぬ顔で、張り巡らされた結界を暴く。誰も彼女を縛れない。
もっとも私がけしかけなければ、メリーが別世界へ飛び込む機会はもうちょっと少なかっただろう。
未知と不思議は、もはや科学と共にはなかった。
人の形をしたオカルトに、私はそれらを求めたのだ。
彼女の瞳に映る世界の驚異に、私は憧れと、少しの羨望を抱く。
「だって、猫は人より夜目が効くもの」
こちらの意図を知ってか知らずか、メリーはにこりと笑って歩き出した。
じぃじぃと虫の音が響く中を、彼女に続いて進んでゆく。
いくら道を行けど、不思議なものは何もない。ただ夜が続いているだけだ。
このまま何も見つからなかったら、いったん道を引き返し、どこかの店で涼んでから帰ろうか。成果が無いのもまた成果だ。
ハンカチで顔をあおぎながら、負け惜しみのように私は言った。
「……猫ってさ、色には鈍感らしいよ。赤が感じ取れないんだって」
「人間にだって個人差はあるわ。色覚異常って、案外気付かないものらしいしね。あなたが感じ取る赤色と、私の感じている赤色が、全く同一であるとは言い切れない」
「また古くさい議論を持ち出してきたわね。いかにもメリーが好きそうな話ではあるけど」
意識の問題は、行き着くところまで行き着いた物理学でも解決できてはいない。
それは主観を前提とした体系がなければ取り扱えない問いであって、まさに彼女の十八番だ。
「私たちの出発点は、共有可能な認識という描像を、まず手放すところにあるの」
「受け入れがたいね。人間がどう認識しようと、外界にあるのは一つの真実よ」
「あなただったらそう言うと思った」
「だって……」
夢と現実が、対等だなんて馬鹿馬鹿しい。
言い返そうとした私の言葉は、急に足を止めたメリーによって中断された。
「……ちょっと待って」
言われるがまま立ち止まる。ちらりとメリーの方を見ると、彼女は真剣な面持ちで闇の中を見つめていた。
──来た!
胸の中で快哉を叫ぶ。私は内心、わくわくしながら彼女を注視する。辺りを見回したり、声を掛けたりしたい気持ちをぐっと堪えた。
何かを発見する直前に特有の、メリーの雰囲気というものがある。彼女はここにいて、既にここには居ないのだ。
何気ない会話のただ中から、いつも彼女は一瞬にして、知らない場所へと転落してゆく。私もその手を掴んで落ちる。私たちの活動とは、つまりそういう事の繰り返しだ。
只今の時刻は21時26分。時間はまだある。噂の調査をした上でも、恐らく終電には間に合うだろう。
これから非日常に巻き込まれることを予期しながらも、そんな卑近な事を考えている自分に気付く。
本当に帰れるかもわからないのに?
いや、だからこそ楽しいのだ。
私はたぶん、未知と不安のもたらす慄きに溺れている。
「こっち」
メリーが囁くように言った。私には見えない何かに導かれるその姿は、啓示を受けた預言者めいている。
いわゆる神懸かりというのは、彼女のような者のことを言ったに違いない。畏怖、尊敬と薄気味の悪さ。俗人に過ぎない私のそんな思いが、メリーの瞳に妖しい輝きを幻視させる。
早まる鼓動。私の瞳は何も捉えない。
薄暗い茂みの奥に佇んでいる、ぼんやりとしたシルエットを除いては。
それは噂通りに、何も面白いところのなさそうな祠だった。小屋根、注連縄、閉じられた小さな戸。それらが構成要素の全てだ。
私はよく見ようと草をかき分け、そちらに近づこうとする。
「へえ、これが……」
「ダメ!」
鋭い制止の声に、私は身を硬くした。中腰のまま停止。それから一歩後ずさる。
後ろから伸ばされたメリーの手が、肩を経由して顔の方へと這う。そのまま白い指が視界に入り、気付けば私は視界を塞がれていた。
「餌にすぐ飛びつかないの。何があるか分からないんだし──それに、ほら、見えるでしょう?」
私はすぐに彼女の意図を悟って眼を閉じる。メリーの見る世界が、彼女の掌を通じて私の瞼に投影されようとする。
彼女の瞳が捉えた風景。いきなり踏み入ろうとした私は、メリーにしてみれば不用心すぎたのだろう。意識を集中して、いつものように──
「痛っ……」
耳鳴り。急激な気圧変化に見舞われたときのような内耳の痛み。違和感に気付いた時にはもう遅かった。浮遊するような錯覚と共に、メリーの手の感触が消え失せる。
R.
眼を開けると、そこには瞼の裏とまったく変わらない暗闇があった。
「し、しまった……!」
きっと近づきすぎたのだ。メリーの制止は手遅れだったらしい。私としたことが、これはちょっと大失態かもしれない。
初夏の草道は消え失せて、私の前には何もない。
何だろう、これ?
後悔しても仕方ないので、私はとりあえず彼女の名前を呼んだ。
「メリー、いる? ごめん、私のせいだわ、これ……メリー!」
声は無限の暗闇に呑まれるように消えていった。足元には何もなくて、私は立つというより浮いている。
息ができない、なんてことはないけれど、ここは何だかひどく寒い。
じわじわと焦燥感が押し寄せる。
出来る限り冷静に、今の状況を把握しようとする。少なくとも差し迫った危険は感じない。それだけでも感謝すべきだ。逆に言うと、それ以外に分かる事は何もない。
星もなければ、当然月も見えていない。暗い、暗い空間は、奥行きさえも掴ませない。耳鳴りの残滓が消えた今、周囲はまったくの無音だった。
怖い、と素直に思う。
私の五感は機能しているのに、それらは何の情報も受け取らないのだ。
たとえ身体的な危険が無かったとしても、こんな場所に長居しては、普通の人間なら気が狂ってしまう。無意識に自らの身体を抱く私の後ろで、
「蓮子」
と応える声がした。
「メリー!?」
振り向くと、そこだけが闇ではなかった。ぼんやりとした光を纏う彼女の姿を認め、私は大いに安堵する。一人きりで迷い込んだわけではなかったのだ。
「いるならすぐ答えてよね……びっくりした」
「あなたがいきなり逆向きになったんじゃない。しかも、これで四度目」
変なことを言うメリーの向こう側もやっぱり暗い。私の目が駄目になったのではなく、本当にここには何もないのだ。彼女とて状況は同じだということを知りつつも、私は呟かずにはいられない。
「何なのかな、ここ……」
自分の声があまりに心細そうだったので、私は思わず少し笑った。半ば自分から飛び込んでおきながら、何を今さら怖がっているのだろう。一人きりだという一瞬の誤解が、よほど堪えていたらしい。
私は『そんなの私も知らないわ』とかそういう返答を予期しつつ、いつもの調子を取り戻そうと努めたが、メリーの答えは素っ頓狂なものだった。
「メインシークエンス。それも3太陽質量以上」
「へ? なに?」
訳が分からない。
いや、言葉の意味は分かるが脈絡がない。きょとんとしている私に向けて、彼女はもっと謎めいたことを言う。
「次に蓮子が見る物。あなたが言ったのよ」
「私そんなこと言ってないけど?」
「だったら、これから言うのね……」
そうなのかもしれない。メリーの語彙ではない気がする。
どっちにしても意味不明だ。
能力が絶好調な時のメリーさんは、割と謎の発言をするので困る。
「まあいいけど。これからどうする? 見て回るにも帰るにも、こんなに真っ暗じゃどうしようもないね」
「私はもう引き戻されるわ。そういう感じがするもの。蓮子も同時に帰るはずなんだけど……あなたにとっては、今すぐではないかも」
「へえ、そうなの。帰れはするのね?」
「ええ。心配しないで」
分からないなりに、一応会話は成立する。
優先順位が大切だ。メリーの状況は気になるが、それは少しずつ理解すればいい。
彼女によれば少なくとも、私たち二人は帰れるらしい。
「でも私、どうしよっかな。メリーは先に帰っちゃうんでしょ? こんな所に一人きりでいたら、さすがの私も退屈だよ」
「心配いらないわ。私が話し相手になってあげたから」
気付けばメリーは半透明になっていた。
あからさまに、この空間から消えようとしている。ちょっと性急すぎないか。
「じゃあね蓮子。目が覚めたら会いましょう」
ちょっと待ってよ、と言おうとした次の瞬間、私の視界は一変した。
A.
メリーが先ほどまでの位置から消える。
それは別にいい。どう見ても消えそうな感じだったからだ。
代わりに現れたものが問題だった。
それは、眩いばかりの輝く球体。目が潰れないのが不思議なほどに、巨大な質量が明るく燃える。こんな光を生み出しているのは、中心部における核融合だ。
噂によれば、『祠の側で星を見た』。
私もそれを、今見ている。
真っ暗であった空間に、突如として現れた青い恒星。
確かに暖かいけれど、本来ならこんな距離にいて無事でいられるはずもない。目に映る星の姿も、恐らくは可視光によるものではない。
なら、これは一体なんだろう?
この光と温度は、あくまで人間に耐えられる範囲に留まっている。見られることを想定する主系列星? まるで科学館の展示物。しかも、星が見えるのに時刻が分からないのは奇妙だ。
「れ、蓮子……?」
おずおずと、後ろの方から声がした。
メリーである。彼女は一歩前へ踏み出したばかりのような、変な姿勢で固まっている。
「何なのよ。消えたと思ったら、いきなり瞬間移動なんかして」
私の文句に、彼女は戸惑ったような表情を浮かべる。直前までとは全然違う態度。
一瞬前までは訳知り顔で、何か悟ったような様子をしていたくせに。
メリーは私の内心を知ってか知らずか、胸元で不安そうに手を組み合わせた。
「ねえ、もしかして……」
「なあに?」
「私がさっき言ったこと、覚えてなかったりする?」
さっき言ったこと?
果たしてどの発言のことだろうか。
私の視界にいきなり星が現れる直前の話であれば……
「『目が覚めたら会いましょう』ってやつ?」
「……」
メリーは目を見開いた。ただでさえ長い睫毛が、過剰なくらいに主張してくる。
自分で言ったことだろうに、そんなに驚く理由が私には分からない。
と、私は先程のメリーの言葉を思い出した。
『あなたが言ったのよ』
『だったら、これから言うのね……』
……なるほどね。
「メリー。私、さっき何か言ってた?」
「さっき、って……」
「ええと、私が身体の向きを変える前」
彼女は息を呑む。
いちいち大げさで、私の可愛げのない反応とは大違いだ。
こんなに良い反応をしてくれるなら、超常現象の方も出てきがいがあるというものだろう。
私と彼女の眼の違いは、案外その辺りに原因があるのかもしれない。
「たぶん私、さっきまであなたと向かい合って話してたのよね」
「そ、そうなの。いきなり蓮子が向きを変えるから……」
「OK、OK。それで、私は何て言った?」
メリーはちょっと躊躇って、それから意を決したように言った。
「さっきは大爆発だったよ、って……」
T.
というわけで、私の後ろで大爆発が起きている。
重力崩壊とニュートリノ放出の果て、吹き飛ばされた星の残骸。
想像を絶するような衝撃波が星を引き裂き、暗黒の空間が青白く染まる。
何だかわからないうちに、私は畏敬の念を抱かされていた。
細かい理屈を抜きにしたって、この極端な明るさ、高温、高エネルギ―!
こんなものを生きたまま目撃できるはずはない。
実際には致命的なガンマ線のフラックスに貫かれてとっくに死んでいるはずなので、やっぱりこれは人間に見せるための紛い物だ。
「眩しい!」
「そうね」
猛烈な光に照らされて、メリーはしみじみと頷いた。
私は彼女の様子をもう少し観察しようとしたが。さすがに明るすぎて目を閉じる。
そんな私の周りを、メリーが円を描くように移動する気配がした。足音がする訳でもないのに、どうしてか私はそれを感じ取れた。思わず呟く。
「……ここ、移動できるんだね」
「さすがに眩しすぎるわ。位置を変えないと」
私は薄目を開けて、超新星爆発を背にして立つメリーを見た。背を向けても眩しいようで、結局彼女は目を瞑っている。
後光の差したセント・マエリベリー。神々しくて笑える。
「そうして立ってると神様みたいよ、メリー」
「神様」
とだけ鸚鵡返しに呟いて、彼女は少し黙り込んだ。
無音。
これだけ凄まじい現象が間近で起こっているというのに、私の鼓膜は、一切の振動を捉えない。肌だけが、存在しない輻射圧をひりひりと感じ取っている。
「もしも、そういう存在がいるとして」
しばらく経ってメリーが言う。
「そして、その存在がこの世を認識しているとして……彼の感じている時間は、絶対的なものだと思う?」
「さあね……神っていうのは至る所に在って、しかも永遠に存在するんでしょう」
唐突にも思える彼女の問いに、私は何とか応じようとする。今の状況に限っては、それが唐突ではないことを知っているからだ。
「時空のあらゆる点を埋め尽くすなら、神様にとっては、時間なんて概念は意味を持たないんじゃないかな。それは私たちの、座標系の張り方次第。所詮は相対的なものよ」
「そう。唯一の基準は存在しない。重要なのは誰の目線で見ているかってこと。たとえ神でさえも、誰かの視点に立ったなら、その精神に寄り添わざるをえないわ」
光は徐々に収まってゆく。その先に行き着くものには想像がつく。
けれど私が次に見るのは、きっと違うものだ。
またしても異なる時間が交差するのを感じつつ、私は言った。
「あなたの感じている時間と、私の感じている時間は違う。おかしいね。ビジョンは共有しているはずなのに」
「共有が中途半端だったのよ。それだけの話だわ」
C.
一気に暗くなった、と私は感じた。
……実際は多分そうではなくて、光度の変化も連続的だ。
メリーは視界の中にいなかった。後ろ側を振り向く前に、私は今度の星を観察する。
濛々たる煙の中に見えるコア。煙は分子ガスで、光っている中心部は原始星だろう。
赤外線は目に見える形に変換されている。
さっきのが星の死なら、これは星の赤子である。
まだ核融合も始まっていない。中心部分は、単に重力によるエネルギーの差分で加熱される。
「さて、メリー」
降着するガスによって成長してゆく、小さな光から目を背ける。
振り向いた先にいる彼女は予想通り、私の様子にやや怯えているようだ。気の毒に思った私は、勇気付けるように声を掛ける。
「さぞかし不安なことだろうけど、心配はいらないわ。あなたによれば、そう遠くない未来に帰れるはずだから」
「な……何言ってるの、蓮子」
しまった。猶予が無いので大事なことだけ言おうとしたら、途中経過を省き過ぎてしまった。でも、私の身に起きているであろうことは、一言で言い表すには少し複雑なのだ。
最初は私の時系列が、メリーに対して逆行しているのだと思っていたものの、そこまで単純なものでもない。あの真っ暗な空間にいたメリーは、恒星を見ていた彼女とは連続していなかったから。
「いったい何が起きてるの? 蓮子は、ここがどこだか知ってるってこと……?」
「いや、全然」
メリーの問いに、私はこう答えるほかなかった。
「それにしても、今はずいぶん穏やかだね。さっきは大爆発だったよ」
「あの靄の話? うそ、爆発してたの? だったら私たち、逃げないと……」
と言いかけて、彼女は自分の足元に目を向けた。
広がっているのは無限の暗闇。
下を見た瞬間、自分がなぜここに静止していられるのか分からなくなる。
逃げるとは言ったものの、本当にこの空間を移動できるのか、疑問に思ったのだろう。
ちょっと躊躇った後、メリーは意を決したように言った。
「歩いてみましょう。とにかく辺りの様子を探ってみないことにはどうしようもないわ」
彼女が勇敢にも、この虚空に新たな一歩を刻もうとする。私も同調しようとしたが、残念ながら間に合わない。
次だ。
T.
いつ終わるんだろう、これ?
次々と切り替わる周囲の様子に、私はやや辟易していた。
目の前には、赤く照らされたメリーがいる。
「わかったわ、何となく」
彼女はそう言いながら、私の背後にある巨大な何かを仰ぎ見た。
つられて私も少し振り向く。
赤い巨人がそこにいた。
あまりに大きいその球体。この星は既に老年期に差し掛かっている。
眩しいのですぐメリーの方に向き直った。
並べてみよう。
真っ暗な場所。主系列星。超新星爆発。原始星。そして赤色巨星。
順番がめちゃくちゃに見える。
けれど、その見方は必ずしも正しくない。
この光景を見ている主体はあくまでメリーであって、私はそこにフリーライドしているだけだ。先ほどまでの彼女の様子と、背後に展開される星の進化を総合すると、むしろ次のように考えるのが自然だろう。
『メリーと星の時間は通常通り進行していて、私の時間だけがバラバラに繋ぎ合わされている』。
いま目の前で口を開いた彼女は、それを私に伝えようとしている。
でも私はもう知ってるので、どれほど残っているかもわからない時間を節約するためにこう言った。
「何でこうなったんだと思う? いや、星とかのことは置いておいて……」
「あなたの時間の流れが?」
「そう」
「……多分、エラーが生じたのよ。ビジョンの共有をしたときにね」
そういえば、(私にとって)二段階前のメリーも最後にそんな事を言っていたっけ。
「どういうこと? 私の認識が狂っちゃったのかな」
「ううん。あなたという意識が、現実を受け取るやり方は変わらない。でも、この光景を見ているのは私だから」
そう言ってから、彼女は言葉を探すように目を泳がせた。説明しにくいのだろう。
既知の範疇からはみ出した事柄について、言葉は時に力不足になる。
まあ、何となく言いたいことは分かったので、私の方から付け加えた。
「つまり、視界の共有が不完全だった。私にとっての時間が、メリーにとってのそれと同期される前にここへ来てしまった……みたいな」
「うん、そうね。そんな感じ。『ビジョンを共有する』ということには、『私とあなたの認識の形式を一致させる』という内容が含まれている。だからいつもやる時には、同じ現象を共有できるのね。でも本来、私たちの時間は異なっている」
メリーは喋りながら自分の考えをまとめているようだった。
目を細めて巨星を見ながら言う。
「あの星……あれが何だかは分からないけど、すごい勢いで変わっていってるでしょう。きっと、私にとっての時間が急加速されているせいよ」
「エラーが生じたのはそのせいか。同期が完了する前に、時間がすっ飛ばされておかしなことになった?」
「仮説の一つだけどね。実際にどういう理由があるのかは、私にもわからない」
メリーはそこで言葉を切った。
星の変化が進行する単位を『一つ』とカウントするなら、彼女が私の事情に勘付いたのはたった一段階前のはずだ。さすが私の友達、適応が速い。
そして、またしても私の時間は途切れようとしている。
説明しにくい感覚だが、もう大体わかるようになった。
「参考までに聞いておきたいんだけど、これって何段階目?」
「多分、これで4よ」
「私は5。それじゃ、また」
メリーに手を振って、私は目を閉じた。
S.
「こんにちは、お嬢さん。見た感じだと、ここには来たばかりだね?」
「……?」
おどけて尋ねる私の前で、メリーは目を瞬かせた。
ぼんやりとした様子で、あたりの風景をゆっくり見回す。
意識もまだはっきりしない感じだ。彼女は最終的に、私の後ろに焦点を合わせてから目を擦った。
「……なに、あれ」
「ガス。あと塵。星間雲ってやつだね」
「なんで?」
「さあ……」
星はまだ生まれてもいない。
なんでこんなものを見せられているのかは、私にも未だに分からない。
ともかく、これで星の一生は一通り見た気がする。
1. ほとんど何も無い場所に、
2. それでも密度がわずかに高かったので物質が集まり、
3. 重力によって凝集したそれは原始星となったのち、
4. 核融合で光る主系列星を経て、
5. 中心の水素が尽きると赤色巨星となり、
6. 最終的に超新星爆発を起こす。
今は2段階目というわけだ。
「あれ……?」
本当にそうか?
私は、(私の視点で)初めに出会ったメリーの様子を思い出す。
辺りは真っ暗だった──つまり1段階目。メリーはその中に立っていた。
でも、あの時の彼女の様子は、明らかに何かを知っているようだった。
しかも、もうすぐ帰れるとまで言ったのだ。
彼女にとっての時間の流れが、星のそれと一致するなら、さっきの順序には修正が必要だ。
「どうしたの……?」
勝手に一人で考え込んでいる私を見て、メリーは心配そうな顔をしている。
「いや、何でもない」
「私達、さっきまで草むらにいたわよね。それに、あの祠……」
「うん、当たりだったみたい。とはいえ何が起きてるのかは、結局私にもわからないんだけど」
戸惑う彼女に、私から言えることは多くない。
「確認なんだけど、あなた、たった今迷い込んだところよね。合ってる?」
「ええ、気付いたらここにいて……」
「あっ」
E.
「分かったよ、メリー」
辺りは再び明るくなった。私は何もない方面を向いている。
そして、後ろにあるものの事も知っている。
「……何が?」
「私にとってはこれで終わり。メリーにとっては次で終わり」
「なんで分かるの?」
「私はもう、次のあなたに会ったから」
振り向くと、彼女は納得したように頷いていた。
それから自分の背後を差す。
「見て」
見えないのがそれの性質だ。
「いやあ、そういう順番だったか」
渦を巻いて荒れ狂うガス。摩擦で極端に加熱されたそれは、莫大なエネルギーによってプラズマ状態にある。電子が原子核から引き剥がされているのだ。幾度となくトムソン散乱された光子が、ぼやけた輝きとなって私の目に映る。
落下していく質量の中心、眩い渦の行き着く先が、シャッフルされた私の時間の終着点でもあった。
「ブラックホール。爆発の後に残骸が残ったか……」
「思ったよりも明るいのね」
「降着円盤は凄い温度だからねえ」
無論本体は見えないけれど、周囲を取り巻く光の奔流は、否が応でも目に入る。
一千万度の黒体輻射が、わざわざ人間に認識可能な形に調整されて飛び込んでくるのだ。そこには何かの意図がある。
メリーが言った。
「ちなみに次はどうなるの?」
「私が見たのは真っ暗な景色だけ。天体はもう残ってなかった」
「消えちゃったの?」
「そうでしょうね。おめでとう、メリー。私たち、ホーキング輻射を観測した初の人間かも」
ブラックホールの蒸発は、まだ観測的には確かめられていない。
大発見といえばそうなのかもしれないが、科学の実証をこんなオカルトに頼るのは無理がある。この光景が、現実に即したものなのかも不明なのだ。
私は空恐ろしさすら感じるほどの壮大な現象を尻目に、虚空の中で伸びをした。
「さて、無事にここから帰れればいいけど」
「何よ、私を残していなくなる気?」
「過去の私が会いに来るよ。多分、まだ混乱してるだろうけど」
「何が起きてるのか、教えてあげたほうがいいかしら」
「そんな時間ないと思うよ。でも、次に何を見る事になるかは伝えてあげて。私もそれなりに不安だと思うから」
超新星爆発の後に残ったのは、中性子星でなくブラックホールだった。
Tolman–Oppenheimer–Volkoff限界。縮退圧が支えられる質量には限度がある。
必ず重力崩壊を起こすための境界値は、およそ太陽の三倍程度。
「いいわ、何て言えばいい?」
「主系列星。それも3太陽質量以上」
「了解」
気付けば私の身体は、最初に見たメリーと同様、半透明になっていた。
一体何だったのだろう。ずいぶん長い間ここにいたような気もするし、一瞬だったような気もする。
この私の体感した時間は、何によって測定されたのだろう?
進化する星を時計とみなすことはできるが、自分の身に起こったことは不可解だ。
原因より先に結果がある。
私の言葉はメリーを介して伝達され、最初の私を少し当惑させる。
互いに食い違う時間の中で、因果律はどのように解釈されるべきか。
それとも私が受け取った認識と、外界への働きかけは、初めから決定されていたものなのか?
眼を閉じた私の中で、疑問が浮かんでは消えていく。意義があるのかも不明な問いかけの数々。すぐには答えを出せそうにない。
今は、目覚めた時、自分を元の草むらに見出すことを祈るばかりだ。
そして私は、自ら遮った視覚の次に、自分の呼吸が聞こえなくなり、足元の浮遊感を感じなくなって、最後にあの寒気を失った。
◆
最初に取り戻されたのは、肌を掠める葉先の感触だった。
風でわずかに揺れる草と、それらが根を張る固い地面。
背中に感じる確固たる実在に、私はかなり安堵する。目を開けると、一面の星空が視界に映し出された。
「……21時27分」
私の記憶が正しければ、祠を見つけたのとほぼ同時刻だ。どうやら生きて帰って来たらしい。身体を起こすと、すぐ傍らにはメリーが寝転んでいた。
「なんだ、寝てるの」
私の呟きもどこ吹く風で、彼女はとても穏やかな寝息を立てていた。さっきの経験が単なる夢だったのかどうかは、メリーを起こしてみればすぐに分かる。
私は、夜露でやや湿った草の中へ手を伸ばし、彼女の肩を揺すぶった。
すぐさま目をぱっちりと開けるメリー。寝起きが良すぎて怖い。
「おはよう、メリー。いい夢見れた? ……まあ、夢ではなかったんだろうけど」
「そんな区別は言葉遊びよ。だって、あなたもあれを見たんでしょう?」
彼女は立ち上がって土を払い、祠の方へと視線を向けた。
私たちをいきなり謎の空間へ放逐したその物体は、澄ました顔でそこに存在し続けている。さっきは、それに近づいた瞬間に異空間へ取り込まれたのだった。
「私たちは同じものを見た。それ以上のことを言うことはできないわ。現実と夢を、どうやって明確に区別できるというの?」
「実際の出来事は夢にも出てくるけど、夢は現実に影響を与えないでしょ」
「夢にだって筋道はあるわ。現実世界の出来事が、因果性の法則に沿って展開するようにね。それに、夢だって現実に影響することはできる……だって私たちは、現実に、夢の記憶を持ち込んでいるから」
彼女はそう言って、星の輝く空を見上げた。
『われらは夢と同じ糸で織られている』
『ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる』。
私はメリーの主張に、根拠ある反駁をすることができない。
代わりに不平を述べるだけだった。
「さっきの夢に、因果律があるかは怪しいところね。順序がめちゃくちゃだったもの」
「私にとっては順番通り。蓮子の時間シャッフルの原因が、本当にビジョンの共有にあったのかは分からないけど……」
「確かめるいい方法があるよ」
私は勢いよく立ち上がり、例のしょぼくれた祠を睨んだ。
メリーが不安そうに問う。
「……なにする気?」
「決まってるでしょ。一緒に迷い込んだせいでああなったのなら、次は一人でどうなるかを検証すべき。科学の基本よ」
言い終えるが早いか、私は一気に祠の方へ駆け出した。メリーが止める隙も与えない。
あんな訳の分からないもの、もう一度見たいに決まっている。
「つまり対照実験!」
「ちょ、ちょっと……!」
祠は初めから目の前だ。私は大した距離も走らず、さっき異変が起こった地点を容易に飛び越えた。
星を見たという噂が確かなら、メリーの幻視がなかったとしても、同じ現象自体は経験できるはずだ。今度は真っ当な順番で、星の進化を追えるのかもしれない。
瞼の裏に広がるのは、先ほどの空虚な空間を髣髴とさせる暗さ。
さあ、私を再び異界へ取り込みたまえ。
焦って追いかけて来るメリーの足音を聞きながら、私は目を閉じる。
数秒後、両肩に衝撃。
「蓮子!」
「……あれ、何も起きないね?」
メリーによって強引に祠から引き離されそうになった私は、彼女の隙をついてもう一度それに近づき、ついでに中身を覗こうとする。罰当たりにも両開きの戸を開くが、それでも本当に何も起こらず、ただ何の変哲もなさそうな石塊が鎮座しているのを確認しただけだった。
「本当にもう、あなた一人で、戻って来れるかもわからないのに!」
「ごめん、ごめん。でも、さっきは帰って来れたんだし」
メリーは諦めたように息を吐いた。
その後、じっと祠の方を注視してから言う。
「……もう何も起きないと思うわ。なんにも見えなくなっちゃった」
「初回限定か。残念ね」
「一度見たら十分よ、あんなの」
無念。
こういうオカルトには、基本的に再現性がないのが泣き所だ。
今回の場合は、一度だけでも噂通りのものが見られただけ幸運だったともいえる。
というわけで、今回のフィールドワークは実質的に終わってしまった。
客観的な現象はここまでで、この先は私たちの主観による解釈の時間だ。
恐らくメリーのような人種は、この先の工程にこそ意義を見出すのだろう。
私だって理論屋だから、観測済みの事実を説明する仮説の提示が仕事ではあるのだけど、そこから予言を導いたところで、この先の現象とは比較できないのが痛い。
実験なき理論は容易く机上の空論に堕する。
まるで物理学の現況のようだ、と、やや自虐的にそう思う。
そんな思いを誤魔化すように、私はメリーに尋ねてみた。
「で、メリー。私たちは、どうして星の一生なんてものを見せられたのかしら? 何か教育的な目的でもあるの?」
「例えば……」
彼女はしばらく考え込み、ちらりと開けっ放しの祠の戸を見て言った。
「星辰崇拝、というものがあるわ」
「ああ。北斗七星とか?」
太陽や月を神格とみなす宗教は珍しくもないが、星を崇める場合だってもちろんある。
たとえば私が言ったのは、北辰信仰と呼ばれるものだ。北極星が星空においてほぼ不動の存在であることを考えれば、その辺りが特別視されるのも自然な成り行きだろう。
「そうね。北極星や北斗七星が神仏と関連付けられた例に限っても、妙見菩薩、豊受大神、それから摩多羅神……」
「確かに色々あるけれど、どうかな。こんな所に、そういう曰くがあるとも思えないけど」
「かなり古びた祠よね。手入れもされてるようには見えない。祀られているのは、現在ではもう失われてしまった神なのかも」
メリーは少し楽しそうだったが、実際、手がかりになりそうなのは大きめの石ころみたいな御神体(?)だけだ。主張としてはちょっと弱い。
私は冗談半分で呟いた。
「案外この石、星の欠片だったりしてね。隕石とか」
「隕石って、だいたい小惑星とかの破片なんでしょう? 信仰の対象にはなりそうにないわね」
「分かんないよ。ちょうどその星の方面から降ってきたとか、まさに星が南中している時刻に落下した、とか。伝承の始まりってそんなものでしょ」
もしくは、その恒星の周りを巡る月の欠片という事にしてもよい。
重要なのは内実ではなく、人々が、それをどう思ったかという事だ。
信仰は根拠を必要としない。奇跡と啓示は、ただきっかけとして機能するだけ。
「時間があんな風になるのなら、空間的な距離だって、どこまで信頼できるかも怪しいし。遥か遠くにある星の欠片が、いきなりここに現れたって不思議じゃないわ」
「蓮子にしては適当なこと言うのね。そんな例外認めてくれるの、物理学は」
「先にあるのはあくまで事実。例外が出てきたのなら、それをも説明可能な理論を構築するまでよ」
プランクが量子仮説を提出したのも、黒体輻射のスペクトルが、単純な等分配則では説明できなかったのがきっかけだ。
より現実に適合する数理モデルを構築し、遡って根本原理を推察する。それは真理に迫るアプローチの一つでもある。
「ま、例外だらけじゃこっちも途方に暮れるしかないけどね。せめて繰り返し実証できればいいのに……」
「諦めなさい。時間も遅いし、あとは帰って考えましょ」
「まだ終電まで時間あるよ?」
「この前もそう言って、駅まで死ぬ気で走る羽目になったじゃない。帰るわよ、ほら」
祠の写真を撮り終えると、メリーは手を叩いて私を急かした。
◆
帰りの電車に揺られながら、私はじっと外を眺める。隣の相棒はよく寝ていた。歩き回って疲れたのだろう。
うちに帰ったら、あの場所の周辺情報をもう少し集めておきたいところだ。
郷土資料でもあたれば成果が得られたかもしれないが、図書館はとっくに閉まっていた。現地に行く前に寄っておくべきだったかと少し後悔する。
本当に何かしらの信仰があったのなら、少なくとも、その記録くらいは残っているはず。
「噂の出どころにもあたってみるかな……」
祠付近で星を見たというその人は、私と同じ体験をしたのだろうか。
それとも、メリーと?
時間がどうこうという話が伝わってこなかった以上、順当に星の一生を見たのかもしれない。本当は自分の眼で確認したかったが、こうなった以上は仕方ない。
いや、図書館のついでにもう一回来て、自分自身で再チャレンジすればいいか。
列車の音と同じくらい規則正しい寝息を聞きながら、私はぼんやりと考えを巡らせる。
手間も惜しまず駆けずり回り、メリーをあちこちに連れまわして、私はこんなにも、何を知りたがっているのだろう?
──それはもちろん、この世の全てが知りたいのだ。
どうして世界はこのように在り、かくのごとく機能しているのか?
理解したつもりになっていたこの世の仕組み。
私の暮らしている現代において、既に人間は暗闇を駆逐し、想像力の余地というものをほとんど潰し尽くしてしまった。そこには未知への期待がない。私はメリーに出会うまで、かなりそういう考えに傾いていた。
なぜか?
話は、私の生まれる少し前に遡る。
超統一物理学。
原理的な実証不能性のヴェールに包まれた、それは美しい幻覚だ。
既に三つの力の統一は叶っていた。
学者は苦心して重力場を量子化する処方を考え出し、一般相対論と量子論を接続した。
さあ全ての統一だと皆が意気込んだところで、その壁はいきなり現れた。
いや、そんな言い方は正しくない。
壁は初めから、私たちの目の前にあったのだ。ようやく、それが見えるようになっただけ。
確かに、四つの力は完全に統一された。
だが、究極の理論はその構造自体に、眩暈がするほどの不定性を孕んでいたのだ。
決して、何も分かっていないわけではない。それは完成された形式であって、万物の理論と呼ぶ人々はもちろんいる。だが、現時点で導き出された結論はこうだ。
『私たちは、この宇宙を支配する法則を、一つに絞り込むことが出来ない』。
だいぶ大雑把に言うと、既に起こった全てのことに説明をつける事は出来るが、これから先に起こる事を何も予言できない。
観測からの制限は当然つけられるけれど、それは無限集合の中から無限部分集合を取り出すようなもので、実際には何も意味していない。
応用の側にしてみれば完全に無意味な理論。然るにそれこそが真理だと、彼らは絶望的にそう叫んだのだ。
現代の物理学は、その時から停滞し続けている。
この理論を実証するのは、地平線の外側を覗き見ようとするようなものだ。
百歩譲って特殊な実験方法を拵えられたとしても、それは確実に、現在の技術では到達不可能なものだろう。観測に必要なエネルギーが大きすぎる。確かめられない理論は妄想に等しい。
単なる夢と呼び変えても良い。
だが、夢を夢であるままに、誰かの解釈が与えられるなら。
時折、そんな事を思う。
もしかすると、それは無意味なものではないのかもしれない。
不定性とはすなわち、無数に存在する別の可能性ともいえる。
私たちにできるのは、その事実を受け止めたうえで、ただ想像することなのではないか。
常識の枠から外れた、得体のしれない何かについて。
科学を志す者にあるまじきこの感傷が、今の私の態度ということになる。
面倒な理屈を置いておけば、要するに、説明不能なものを探すのが楽しくて堪らないのだ。
あれこれ考えてはみたが、私には結局、今日の現象が何だったのか全く分からない。
忘れ去られた神様が、信仰を取り戻すため、通りすがりの人間に星の威容を見せつけた?
あの光景が明らかに、人のために調整されたものだったことを考えれば、そういう可能性は一応ありうる。けれど、それは私たちの想像の一つに過ぎない。
無音で生まれ、燃えて、やがて消えてゆく星の輝き。
バラバラにされた時間の流れ。
メリーは今も隣で寝息をたてている。
それは彼女が遠い未来に、あるいは過去に見る夢なのかもしれない。
この私もメリーの夢の登場人物に過ぎず、彼女が見た10の500乗個の夢のうちのひとつがこの宇宙で、ブラフマンであるところの彼女が目覚めるとき、世界はついに終わりを告げる。
メリーの欠伸一つで、泡のように宇宙が消失するという想像は何だか可笑しい。
この現実が胡蝶の夢なら、時間なんてものは何でもなくて、彼女の目が覚めた時には一分かそこらしか経っていないのだ。
まるで、ひっくり返した水がめから、まだ水の流れ出さぬ先に、神の住居をくまなく見つくした預言者のように。
やがて目覚めた彼女は、眠い目をこすりながら、電車の窓越しに光を見つけるだろう。
そして、それは数百、数千年前に滅びを迎え、とうに信仰を失った星の残光なのである。
「……メリー、あなたはいつ目を覚ますのかしら?」
私は夜空に星を探したが、あの真っ暗な場所で見たのと同じ輝きを、とうとう見つけることはできなかった。
蒸し暑い初夏の夜だった。
列車に揺られて十数分、既に真っ暗な外を眺める。
時代錯誤な旧型の私鉄。地上を行く四角い車体は、洗練された現代の鉄道に比べれば欠伸が出るほど遅い。
レールと車輪のたてる音に混じって、かすかに虫の鳴き声が聞こえた。
少し前の時期までは、日没後に上着が必要なくらい寒かったのに、今は夜でも湿度が高い。
「……暑いわ」
窓の上方から吹き込む少しの風では、この不快感は拭えない。服をぱたぱたとやってみても焼け石に水。
京都の夏にはかなわない。
昔、この辺りに住んでいたという親戚が言っていた通りだ。
時代が変わっても、ここが盆地である限り、気候の特色は変わらない。
私は窓の向こうに煌く星を、ぼんやりと見て呟いた。
「19時42分。思ってたより遅くなっちゃったな」
「遅くなっちゃったのは、誰のせいだったかしら?」
ちょっと前まで寝息をたてていたはずの隣の少女が、微笑みながらこちらを見ていた。
彼女は一見すると、怒っている時とそうでない時の区別がつかないので怖い。恐らく今回は、それほど怒っていないものと予想される。
「それは私が遅れたせいです。アイス奢るから許してよ」
「ダメ」
予想は外れた。
鬱陶しい暑さのプラットホーム上で、二十分弱も待たせてしまったのが悪かったのだろう。
もともと提案したのも私の方だし、彼女が気を悪くするのも当然か。
待ち合わせ時刻直前、私は面倒な計算にかかりきりになっていて、いったん中断したら再開が大変だから一気に終わらせたかったのだ、と言い訳しようかと思ったが、そんな事情を話したらさらなる怒りを買いそうなのでやめておいた。
「いや、本当ごめんって。次から気をつけるから」
「気を付けた事なんてなかったじゃない。別に、私はそこまで気にしてないわよ……ただ、あなたみたいな遅刻魔が、普通の社会でやって行けるのか心配なだけ」
「普通の社会に出るつもりはないけど」
私がそう答えると、メリーはやや呆れた様子でこっちを見た。人も疎らな列車でも、彼女の容姿はそれなりに目立つ。
じめじめとした夜に不似合いな、まるで人形のように綺麗な顔立ちの彼女は、私の友人兼サークル仲間だ。今回のような事は度々あるが、言葉の通りそこまで気にしている様子がないので、私はひとまず胸を撫でおろした。
メリーが言う。
「でも、いつもよりは大幅な遅刻だったわね。罰として、交通費はあなた持ちで」
「元からそのつもり。今回のは私の息抜きも兼ねてるからね。ちょっと研究が行き詰まってて」
「ふぅん。珍しいじゃない」
彼女はあまり興味が無さそうに相槌を打った。
「蓮子って、結局なんの勉強してるんだか分からないのよね。いつも記号を書き連ねているけれど、あれに行き詰まるとかあるの?」
「ある。というかメリーだって、テクストの山に囲まれて昼寝してるだけに見えるけど。だいたい何よ、相対性精神学って」
サークル室で、メリーが分厚い本やら論文とにらめっこしているのはたまに見かけるが、実際、何をやっているのかはよく知らない。
その辺りはお互い様だろう。
学問はますます高度に先鋭化し、専門性を増してゆく。門外漢にはそうそう分かる話でもない。分化しすぎた領域は、部外者の侵入を拒むものだ。
「ねえ、蓮子。私、あなたには何回か説明したと思うんだけど?」
「ごめん、忘れた」
忘れるのは理解していないからだ。
当時の私が上の空だったか、それとも何かを理解しようという気分じゃなかったか、多分そのどちらかだろう。
「……多分、こっちの言葉で説明しても伝わらないのよね。あなたはいったん理屈を納得したら、もう忘れないタイプの人間でしょうし」
「喩えでお願い。比喩と類推は学問の架け橋だよ」
私は適当に名言っぽいフレーズをでっち上げた。
メリーは呆れつつも、少し考え込む様子を見せる。こういう時、適当に流さず真面目に考えてくれるのが彼女の良い所だ。私の友達には、メリーのように我慢強い人が多い。
闇に沈みゆく田園風景が車窓を横切っていく。
「じゃあ、えっとね……従来の精神学を古典的な力学とするなら、やっぱり相対論って事になるのかしら」
「それじゃ名前の通り、そのままじゃないの。それくらいのことは私だって分かる」
「今から説明するの。ええと……相対性理論って、誰から見ても物理法則が変わらないってところから出てきたものなんでしょう。その原理のもとでは時間も相対的なものになる。それぞれの人にとっての時間があるだけで、唯一絶対の物差しは存在しない」
相対論において、時間は座標系の張り方によって異なる値をとり、たとえば光速に近い速度で運動する物体は、静止した物体と異なる時間を感じている。
そもそも同時性という概念からして一致しないのだ。彼女の言いたいことは、なんとなくわかるような気がした。
「精神についても同じように考えるってこと?」
「そう。そもそも人間の内面について、客観的な考え方を適用すること自体に無理があるのよ。それぞれの人が認識するものの中にこそ、真実が宿っているはず。不変の尺度なんて考えは旧時代的だわ」
「私にとっての時間と、メリーにとっての時間が異なるように、か……」
「実際、そういう例もよく取り上げられるわね。時間や空間のことを先験的な形式だと主張する人もいたけれど、それは普遍的に一致するものではないの。私たちは異なる枠組みで、異なる現象を経験している……」
私は真剣に聞いている素振りを見せた。心なしかメリーも興が乗ってきたようだ。
やっぱり興味が持っているものについて、人に話すのは楽しいのだろう。
ましてその相手が、友達ともなれば尚更だ。私にも気持ちはよく分かった。
「つまり私が遅刻したのは、精神や時刻の相対性のせいだったわけね」
「あなたの目で見えるのは固有時じゃなくて、協定されたJSTでしょう」
「……」
即座に返され、私は閉口して窓を見上げた。
ガラス越しの夜空。
私の能力の一つは、星を見ただけで現在の時刻が分かることだ。
どのみち同じ日本にいる以上、標準時からのずれは誤差の範囲内。
「19時45分……いつからそんなに物理に詳しくなったの、メリー?」
列車が緩やかに減速していく。今回の活動がようやく始まる。
結界の裂け目を探し、別の世界へと忍び込む。
私たちの、秘封倶楽部としての活動が。
「さあ? たぶん、誰かがいつも、楽しそうに語ってくるせいじゃないかしら」
メリーは手すりを掴んで立ち上がりながら、少し口の端を緩めた。
応えて私は言う。
「へぇ……迷惑な奴もいたものねえ」
「私はその人と違って遅刻もしないし、人の話をちゃんと聞くからね」
電車はゆっくりと停止する。駅に着いたのだ。
私の冒険は、まず友人に、アイスと抹茶フラッペを奢るところから始まった。
◆
湿り気を帯びた草が、足元に潰れて音を立てる。虫よけを持ってきたのは正解だった。
私はポケットから取り出したハンカチで首筋を拭う。
噂に聞いた祠とやらの捜索が、予想以上に難航しているのだ。
さまようのはいつもの事だし、メリーもまるで堪えた様子が無いが、こんな場所にわざわざ連れてきた私としては、若干の焦りを感じなくもない。
駅を離れてからというもの、既に結構な距離を歩いていた。
「おかしいな、きっとこの辺りのはずなのに」
私は空を見上げる。煌々と地を照らす月。
それは文字通りの意味で、私に居場所を教えてくれる。
「あなたの力でも分からないなら、私なんかにはお手上げね」
メリーは呑気にそう言うものの、むしろ正確な場所の絞り込めていない今回は、彼女の目の方が頼りだった。
行けばすぐに見つかると、端から高をくくっていたが、どうも甘すぎる見立てだったらしい。
私は彼女に訊ねてみる。
「メリー、何かそれらしいのは見えた?」
「見えたら言ってる。今のところ、ただの雑草だらけの古道だわ。天然物の草花が、ここまで茂っている場所が京都にあったなんて……もう少し涼しければ、夜の散歩にはちょうど良かったのに。ねえ、その目撃者さんは、どうしてこんな所まできたのかしら?」
「それこそ散歩じゃない? 春の夜中に見たって言ってたし。一人でこんなひと気の無い場所を歩くなんて、なかなかいい趣味してるよね」
その人の事は良く知らない。
知り合いの、そのまた知り合いくらいの関係性だ。
まあ、人物自体はどうでも良くて、目撃した対象こそが重要なのだが。
──曰く、祠の傍で星を見た、と。
古びた木組みの傍らに、燃える球体が見えたなんて話を、いったい誰が信じるだろう。
単なるほら吹きの妄言か、もしくは幻覚と一蹴されるのが当然だ。
事実、その話は春気にあてられた人間の世迷言として、面白おかしく伝わってきた。
しかし、そういう意味不明な噂話こそが、私たちにとっては意義を持つのだ。
理解できないもの。
解釈不能なもの。
胡乱な噂に乗って広まる、それらは大抵、ここではないどこかへの入り口だ。
要となるのは、鼻歌混じりに先を行く、結界暴きのマエリベリー。
金髪は月光に煌いて、かすかな風に揺れている。
彼女が見つけるほつれから、いつも私たちは異界に飛び込んでゆく。
私の能力とは比較にならない、不気味と言っても良い異能。
メリーの瞳にどんな景色が映るのか、私は知らない。いくら視点を共有したところで、それは彼女自身の認識する風景ではないのだから。
だから彼女と私の間には、どれほど近くにいようとも、埋めがたいほどの差異があった。
常に。
「……そういえば蓮子」
そう言って、彼女はつと立ち止まる。
二人きりの行軍に、未だ終わりは見えてこない。何はともあれ、結界の綻びを見つけねば始まらないのだ。
少々足に疲れを覚えつつ、私は答える。
「なに?」
「こういう時の私って、なんだか警察犬みたいじゃない?」
「はあ? なにそれ」
彼女の口から転がり出てきた耳慣れぬ言葉に、私は首を傾げた。
「知らないの? 昔の映画とかでたまに見るけれど。ずっと前には、犬を使って犯罪の証拠を探っていたりしたらしいわ」
「へえ。なんだか牧歌的ね。ちょっと見てみたかったかも……今の技術なら、もうそんな事する必要もないんだろうけど」
「京都じゃ無理でも、東京あたりなら見られそうじゃない」
「なんだと思ってるのよ、東京を」
「古き良き田舎?」
メリーが振り向く。月の薄明かりに照らされた彼女の肌には、汗の一粒も浮かんでいない。
ぼんやりと、私は呟いた。
「ま、メリーは犬っていうより猫よねえ。この、掴まえどころのない感じ。猫又だって裸足で逃げ出すわ」
「ああ、そうかもね」
ふらりとどこかへ彷徨い出ては、夢やら別世界へと迷い込む。
別に私が存在しなくたって、秘封倶楽部がなくたって、メリーはきっと変わらない。
まるで夜を闊歩する魔術師のよう。
規則なんて素知らぬ顔で、張り巡らされた結界を暴く。誰も彼女を縛れない。
もっとも私がけしかけなければ、メリーが別世界へ飛び込む機会はもうちょっと少なかっただろう。
未知と不思議は、もはや科学と共にはなかった。
人の形をしたオカルトに、私はそれらを求めたのだ。
彼女の瞳に映る世界の驚異に、私は憧れと、少しの羨望を抱く。
「だって、猫は人より夜目が効くもの」
こちらの意図を知ってか知らずか、メリーはにこりと笑って歩き出した。
じぃじぃと虫の音が響く中を、彼女に続いて進んでゆく。
いくら道を行けど、不思議なものは何もない。ただ夜が続いているだけだ。
このまま何も見つからなかったら、いったん道を引き返し、どこかの店で涼んでから帰ろうか。成果が無いのもまた成果だ。
ハンカチで顔をあおぎながら、負け惜しみのように私は言った。
「……猫ってさ、色には鈍感らしいよ。赤が感じ取れないんだって」
「人間にだって個人差はあるわ。色覚異常って、案外気付かないものらしいしね。あなたが感じ取る赤色と、私の感じている赤色が、全く同一であるとは言い切れない」
「また古くさい議論を持ち出してきたわね。いかにもメリーが好きそうな話ではあるけど」
意識の問題は、行き着くところまで行き着いた物理学でも解決できてはいない。
それは主観を前提とした体系がなければ取り扱えない問いであって、まさに彼女の十八番だ。
「私たちの出発点は、共有可能な認識という描像を、まず手放すところにあるの」
「受け入れがたいね。人間がどう認識しようと、外界にあるのは一つの真実よ」
「あなただったらそう言うと思った」
「だって……」
夢と現実が、対等だなんて馬鹿馬鹿しい。
言い返そうとした私の言葉は、急に足を止めたメリーによって中断された。
「……ちょっと待って」
言われるがまま立ち止まる。ちらりとメリーの方を見ると、彼女は真剣な面持ちで闇の中を見つめていた。
──来た!
胸の中で快哉を叫ぶ。私は内心、わくわくしながら彼女を注視する。辺りを見回したり、声を掛けたりしたい気持ちをぐっと堪えた。
何かを発見する直前に特有の、メリーの雰囲気というものがある。彼女はここにいて、既にここには居ないのだ。
何気ない会話のただ中から、いつも彼女は一瞬にして、知らない場所へと転落してゆく。私もその手を掴んで落ちる。私たちの活動とは、つまりそういう事の繰り返しだ。
只今の時刻は21時26分。時間はまだある。噂の調査をした上でも、恐らく終電には間に合うだろう。
これから非日常に巻き込まれることを予期しながらも、そんな卑近な事を考えている自分に気付く。
本当に帰れるかもわからないのに?
いや、だからこそ楽しいのだ。
私はたぶん、未知と不安のもたらす慄きに溺れている。
「こっち」
メリーが囁くように言った。私には見えない何かに導かれるその姿は、啓示を受けた預言者めいている。
いわゆる神懸かりというのは、彼女のような者のことを言ったに違いない。畏怖、尊敬と薄気味の悪さ。俗人に過ぎない私のそんな思いが、メリーの瞳に妖しい輝きを幻視させる。
早まる鼓動。私の瞳は何も捉えない。
薄暗い茂みの奥に佇んでいる、ぼんやりとしたシルエットを除いては。
それは噂通りに、何も面白いところのなさそうな祠だった。小屋根、注連縄、閉じられた小さな戸。それらが構成要素の全てだ。
私はよく見ようと草をかき分け、そちらに近づこうとする。
「へえ、これが……」
「ダメ!」
鋭い制止の声に、私は身を硬くした。中腰のまま停止。それから一歩後ずさる。
後ろから伸ばされたメリーの手が、肩を経由して顔の方へと這う。そのまま白い指が視界に入り、気付けば私は視界を塞がれていた。
「餌にすぐ飛びつかないの。何があるか分からないんだし──それに、ほら、見えるでしょう?」
私はすぐに彼女の意図を悟って眼を閉じる。メリーの見る世界が、彼女の掌を通じて私の瞼に投影されようとする。
彼女の瞳が捉えた風景。いきなり踏み入ろうとした私は、メリーにしてみれば不用心すぎたのだろう。意識を集中して、いつものように──
「痛っ……」
耳鳴り。急激な気圧変化に見舞われたときのような内耳の痛み。違和感に気付いた時にはもう遅かった。浮遊するような錯覚と共に、メリーの手の感触が消え失せる。
R.
眼を開けると、そこには瞼の裏とまったく変わらない暗闇があった。
「し、しまった……!」
きっと近づきすぎたのだ。メリーの制止は手遅れだったらしい。私としたことが、これはちょっと大失態かもしれない。
初夏の草道は消え失せて、私の前には何もない。
何だろう、これ?
後悔しても仕方ないので、私はとりあえず彼女の名前を呼んだ。
「メリー、いる? ごめん、私のせいだわ、これ……メリー!」
声は無限の暗闇に呑まれるように消えていった。足元には何もなくて、私は立つというより浮いている。
息ができない、なんてことはないけれど、ここは何だかひどく寒い。
じわじわと焦燥感が押し寄せる。
出来る限り冷静に、今の状況を把握しようとする。少なくとも差し迫った危険は感じない。それだけでも感謝すべきだ。逆に言うと、それ以外に分かる事は何もない。
星もなければ、当然月も見えていない。暗い、暗い空間は、奥行きさえも掴ませない。耳鳴りの残滓が消えた今、周囲はまったくの無音だった。
怖い、と素直に思う。
私の五感は機能しているのに、それらは何の情報も受け取らないのだ。
たとえ身体的な危険が無かったとしても、こんな場所に長居しては、普通の人間なら気が狂ってしまう。無意識に自らの身体を抱く私の後ろで、
「蓮子」
と応える声がした。
「メリー!?」
振り向くと、そこだけが闇ではなかった。ぼんやりとした光を纏う彼女の姿を認め、私は大いに安堵する。一人きりで迷い込んだわけではなかったのだ。
「いるならすぐ答えてよね……びっくりした」
「あなたがいきなり逆向きになったんじゃない。しかも、これで四度目」
変なことを言うメリーの向こう側もやっぱり暗い。私の目が駄目になったのではなく、本当にここには何もないのだ。彼女とて状況は同じだということを知りつつも、私は呟かずにはいられない。
「何なのかな、ここ……」
自分の声があまりに心細そうだったので、私は思わず少し笑った。半ば自分から飛び込んでおきながら、何を今さら怖がっているのだろう。一人きりだという一瞬の誤解が、よほど堪えていたらしい。
私は『そんなの私も知らないわ』とかそういう返答を予期しつつ、いつもの調子を取り戻そうと努めたが、メリーの答えは素っ頓狂なものだった。
「メインシークエンス。それも3太陽質量以上」
「へ? なに?」
訳が分からない。
いや、言葉の意味は分かるが脈絡がない。きょとんとしている私に向けて、彼女はもっと謎めいたことを言う。
「次に蓮子が見る物。あなたが言ったのよ」
「私そんなこと言ってないけど?」
「だったら、これから言うのね……」
そうなのかもしれない。メリーの語彙ではない気がする。
どっちにしても意味不明だ。
能力が絶好調な時のメリーさんは、割と謎の発言をするので困る。
「まあいいけど。これからどうする? 見て回るにも帰るにも、こんなに真っ暗じゃどうしようもないね」
「私はもう引き戻されるわ。そういう感じがするもの。蓮子も同時に帰るはずなんだけど……あなたにとっては、今すぐではないかも」
「へえ、そうなの。帰れはするのね?」
「ええ。心配しないで」
分からないなりに、一応会話は成立する。
優先順位が大切だ。メリーの状況は気になるが、それは少しずつ理解すればいい。
彼女によれば少なくとも、私たち二人は帰れるらしい。
「でも私、どうしよっかな。メリーは先に帰っちゃうんでしょ? こんな所に一人きりでいたら、さすがの私も退屈だよ」
「心配いらないわ。私が話し相手になってあげたから」
気付けばメリーは半透明になっていた。
あからさまに、この空間から消えようとしている。ちょっと性急すぎないか。
「じゃあね蓮子。目が覚めたら会いましょう」
ちょっと待ってよ、と言おうとした次の瞬間、私の視界は一変した。
A.
メリーが先ほどまでの位置から消える。
それは別にいい。どう見ても消えそうな感じだったからだ。
代わりに現れたものが問題だった。
それは、眩いばかりの輝く球体。目が潰れないのが不思議なほどに、巨大な質量が明るく燃える。こんな光を生み出しているのは、中心部における核融合だ。
噂によれば、『祠の側で星を見た』。
私もそれを、今見ている。
真っ暗であった空間に、突如として現れた青い恒星。
確かに暖かいけれど、本来ならこんな距離にいて無事でいられるはずもない。目に映る星の姿も、恐らくは可視光によるものではない。
なら、これは一体なんだろう?
この光と温度は、あくまで人間に耐えられる範囲に留まっている。見られることを想定する主系列星? まるで科学館の展示物。しかも、星が見えるのに時刻が分からないのは奇妙だ。
「れ、蓮子……?」
おずおずと、後ろの方から声がした。
メリーである。彼女は一歩前へ踏み出したばかりのような、変な姿勢で固まっている。
「何なのよ。消えたと思ったら、いきなり瞬間移動なんかして」
私の文句に、彼女は戸惑ったような表情を浮かべる。直前までとは全然違う態度。
一瞬前までは訳知り顔で、何か悟ったような様子をしていたくせに。
メリーは私の内心を知ってか知らずか、胸元で不安そうに手を組み合わせた。
「ねえ、もしかして……」
「なあに?」
「私がさっき言ったこと、覚えてなかったりする?」
さっき言ったこと?
果たしてどの発言のことだろうか。
私の視界にいきなり星が現れる直前の話であれば……
「『目が覚めたら会いましょう』ってやつ?」
「……」
メリーは目を見開いた。ただでさえ長い睫毛が、過剰なくらいに主張してくる。
自分で言ったことだろうに、そんなに驚く理由が私には分からない。
と、私は先程のメリーの言葉を思い出した。
『あなたが言ったのよ』
『だったら、これから言うのね……』
……なるほどね。
「メリー。私、さっき何か言ってた?」
「さっき、って……」
「ええと、私が身体の向きを変える前」
彼女は息を呑む。
いちいち大げさで、私の可愛げのない反応とは大違いだ。
こんなに良い反応をしてくれるなら、超常現象の方も出てきがいがあるというものだろう。
私と彼女の眼の違いは、案外その辺りに原因があるのかもしれない。
「たぶん私、さっきまであなたと向かい合って話してたのよね」
「そ、そうなの。いきなり蓮子が向きを変えるから……」
「OK、OK。それで、私は何て言った?」
メリーはちょっと躊躇って、それから意を決したように言った。
「さっきは大爆発だったよ、って……」
T.
というわけで、私の後ろで大爆発が起きている。
重力崩壊とニュートリノ放出の果て、吹き飛ばされた星の残骸。
想像を絶するような衝撃波が星を引き裂き、暗黒の空間が青白く染まる。
何だかわからないうちに、私は畏敬の念を抱かされていた。
細かい理屈を抜きにしたって、この極端な明るさ、高温、高エネルギ―!
こんなものを生きたまま目撃できるはずはない。
実際には致命的なガンマ線のフラックスに貫かれてとっくに死んでいるはずなので、やっぱりこれは人間に見せるための紛い物だ。
「眩しい!」
「そうね」
猛烈な光に照らされて、メリーはしみじみと頷いた。
私は彼女の様子をもう少し観察しようとしたが。さすがに明るすぎて目を閉じる。
そんな私の周りを、メリーが円を描くように移動する気配がした。足音がする訳でもないのに、どうしてか私はそれを感じ取れた。思わず呟く。
「……ここ、移動できるんだね」
「さすがに眩しすぎるわ。位置を変えないと」
私は薄目を開けて、超新星爆発を背にして立つメリーを見た。背を向けても眩しいようで、結局彼女は目を瞑っている。
後光の差したセント・マエリベリー。神々しくて笑える。
「そうして立ってると神様みたいよ、メリー」
「神様」
とだけ鸚鵡返しに呟いて、彼女は少し黙り込んだ。
無音。
これだけ凄まじい現象が間近で起こっているというのに、私の鼓膜は、一切の振動を捉えない。肌だけが、存在しない輻射圧をひりひりと感じ取っている。
「もしも、そういう存在がいるとして」
しばらく経ってメリーが言う。
「そして、その存在がこの世を認識しているとして……彼の感じている時間は、絶対的なものだと思う?」
「さあね……神っていうのは至る所に在って、しかも永遠に存在するんでしょう」
唐突にも思える彼女の問いに、私は何とか応じようとする。今の状況に限っては、それが唐突ではないことを知っているからだ。
「時空のあらゆる点を埋め尽くすなら、神様にとっては、時間なんて概念は意味を持たないんじゃないかな。それは私たちの、座標系の張り方次第。所詮は相対的なものよ」
「そう。唯一の基準は存在しない。重要なのは誰の目線で見ているかってこと。たとえ神でさえも、誰かの視点に立ったなら、その精神に寄り添わざるをえないわ」
光は徐々に収まってゆく。その先に行き着くものには想像がつく。
けれど私が次に見るのは、きっと違うものだ。
またしても異なる時間が交差するのを感じつつ、私は言った。
「あなたの感じている時間と、私の感じている時間は違う。おかしいね。ビジョンは共有しているはずなのに」
「共有が中途半端だったのよ。それだけの話だわ」
C.
一気に暗くなった、と私は感じた。
……実際は多分そうではなくて、光度の変化も連続的だ。
メリーは視界の中にいなかった。後ろ側を振り向く前に、私は今度の星を観察する。
濛々たる煙の中に見えるコア。煙は分子ガスで、光っている中心部は原始星だろう。
赤外線は目に見える形に変換されている。
さっきのが星の死なら、これは星の赤子である。
まだ核融合も始まっていない。中心部分は、単に重力によるエネルギーの差分で加熱される。
「さて、メリー」
降着するガスによって成長してゆく、小さな光から目を背ける。
振り向いた先にいる彼女は予想通り、私の様子にやや怯えているようだ。気の毒に思った私は、勇気付けるように声を掛ける。
「さぞかし不安なことだろうけど、心配はいらないわ。あなたによれば、そう遠くない未来に帰れるはずだから」
「な……何言ってるの、蓮子」
しまった。猶予が無いので大事なことだけ言おうとしたら、途中経過を省き過ぎてしまった。でも、私の身に起きているであろうことは、一言で言い表すには少し複雑なのだ。
最初は私の時系列が、メリーに対して逆行しているのだと思っていたものの、そこまで単純なものでもない。あの真っ暗な空間にいたメリーは、恒星を見ていた彼女とは連続していなかったから。
「いったい何が起きてるの? 蓮子は、ここがどこだか知ってるってこと……?」
「いや、全然」
メリーの問いに、私はこう答えるほかなかった。
「それにしても、今はずいぶん穏やかだね。さっきは大爆発だったよ」
「あの靄の話? うそ、爆発してたの? だったら私たち、逃げないと……」
と言いかけて、彼女は自分の足元に目を向けた。
広がっているのは無限の暗闇。
下を見た瞬間、自分がなぜここに静止していられるのか分からなくなる。
逃げるとは言ったものの、本当にこの空間を移動できるのか、疑問に思ったのだろう。
ちょっと躊躇った後、メリーは意を決したように言った。
「歩いてみましょう。とにかく辺りの様子を探ってみないことにはどうしようもないわ」
彼女が勇敢にも、この虚空に新たな一歩を刻もうとする。私も同調しようとしたが、残念ながら間に合わない。
次だ。
T.
いつ終わるんだろう、これ?
次々と切り替わる周囲の様子に、私はやや辟易していた。
目の前には、赤く照らされたメリーがいる。
「わかったわ、何となく」
彼女はそう言いながら、私の背後にある巨大な何かを仰ぎ見た。
つられて私も少し振り向く。
赤い巨人がそこにいた。
あまりに大きいその球体。この星は既に老年期に差し掛かっている。
眩しいのですぐメリーの方に向き直った。
並べてみよう。
真っ暗な場所。主系列星。超新星爆発。原始星。そして赤色巨星。
順番がめちゃくちゃに見える。
けれど、その見方は必ずしも正しくない。
この光景を見ている主体はあくまでメリーであって、私はそこにフリーライドしているだけだ。先ほどまでの彼女の様子と、背後に展開される星の進化を総合すると、むしろ次のように考えるのが自然だろう。
『メリーと星の時間は通常通り進行していて、私の時間だけがバラバラに繋ぎ合わされている』。
いま目の前で口を開いた彼女は、それを私に伝えようとしている。
でも私はもう知ってるので、どれほど残っているかもわからない時間を節約するためにこう言った。
「何でこうなったんだと思う? いや、星とかのことは置いておいて……」
「あなたの時間の流れが?」
「そう」
「……多分、エラーが生じたのよ。ビジョンの共有をしたときにね」
そういえば、(私にとって)二段階前のメリーも最後にそんな事を言っていたっけ。
「どういうこと? 私の認識が狂っちゃったのかな」
「ううん。あなたという意識が、現実を受け取るやり方は変わらない。でも、この光景を見ているのは私だから」
そう言ってから、彼女は言葉を探すように目を泳がせた。説明しにくいのだろう。
既知の範疇からはみ出した事柄について、言葉は時に力不足になる。
まあ、何となく言いたいことは分かったので、私の方から付け加えた。
「つまり、視界の共有が不完全だった。私にとっての時間が、メリーにとってのそれと同期される前にここへ来てしまった……みたいな」
「うん、そうね。そんな感じ。『ビジョンを共有する』ということには、『私とあなたの認識の形式を一致させる』という内容が含まれている。だからいつもやる時には、同じ現象を共有できるのね。でも本来、私たちの時間は異なっている」
メリーは喋りながら自分の考えをまとめているようだった。
目を細めて巨星を見ながら言う。
「あの星……あれが何だかは分からないけど、すごい勢いで変わっていってるでしょう。きっと、私にとっての時間が急加速されているせいよ」
「エラーが生じたのはそのせいか。同期が完了する前に、時間がすっ飛ばされておかしなことになった?」
「仮説の一つだけどね。実際にどういう理由があるのかは、私にもわからない」
メリーはそこで言葉を切った。
星の変化が進行する単位を『一つ』とカウントするなら、彼女が私の事情に勘付いたのはたった一段階前のはずだ。さすが私の友達、適応が速い。
そして、またしても私の時間は途切れようとしている。
説明しにくい感覚だが、もう大体わかるようになった。
「参考までに聞いておきたいんだけど、これって何段階目?」
「多分、これで4よ」
「私は5。それじゃ、また」
メリーに手を振って、私は目を閉じた。
S.
「こんにちは、お嬢さん。見た感じだと、ここには来たばかりだね?」
「……?」
おどけて尋ねる私の前で、メリーは目を瞬かせた。
ぼんやりとした様子で、あたりの風景をゆっくり見回す。
意識もまだはっきりしない感じだ。彼女は最終的に、私の後ろに焦点を合わせてから目を擦った。
「……なに、あれ」
「ガス。あと塵。星間雲ってやつだね」
「なんで?」
「さあ……」
星はまだ生まれてもいない。
なんでこんなものを見せられているのかは、私にも未だに分からない。
ともかく、これで星の一生は一通り見た気がする。
1. ほとんど何も無い場所に、
2. それでも密度がわずかに高かったので物質が集まり、
3. 重力によって凝集したそれは原始星となったのち、
4. 核融合で光る主系列星を経て、
5. 中心の水素が尽きると赤色巨星となり、
6. 最終的に超新星爆発を起こす。
今は2段階目というわけだ。
「あれ……?」
本当にそうか?
私は、(私の視点で)初めに出会ったメリーの様子を思い出す。
辺りは真っ暗だった──つまり1段階目。メリーはその中に立っていた。
でも、あの時の彼女の様子は、明らかに何かを知っているようだった。
しかも、もうすぐ帰れるとまで言ったのだ。
彼女にとっての時間の流れが、星のそれと一致するなら、さっきの順序には修正が必要だ。
「どうしたの……?」
勝手に一人で考え込んでいる私を見て、メリーは心配そうな顔をしている。
「いや、何でもない」
「私達、さっきまで草むらにいたわよね。それに、あの祠……」
「うん、当たりだったみたい。とはいえ何が起きてるのかは、結局私にもわからないんだけど」
戸惑う彼女に、私から言えることは多くない。
「確認なんだけど、あなた、たった今迷い込んだところよね。合ってる?」
「ええ、気付いたらここにいて……」
「あっ」
E.
「分かったよ、メリー」
辺りは再び明るくなった。私は何もない方面を向いている。
そして、後ろにあるものの事も知っている。
「……何が?」
「私にとってはこれで終わり。メリーにとっては次で終わり」
「なんで分かるの?」
「私はもう、次のあなたに会ったから」
振り向くと、彼女は納得したように頷いていた。
それから自分の背後を差す。
「見て」
見えないのがそれの性質だ。
「いやあ、そういう順番だったか」
渦を巻いて荒れ狂うガス。摩擦で極端に加熱されたそれは、莫大なエネルギーによってプラズマ状態にある。電子が原子核から引き剥がされているのだ。幾度となくトムソン散乱された光子が、ぼやけた輝きとなって私の目に映る。
落下していく質量の中心、眩い渦の行き着く先が、シャッフルされた私の時間の終着点でもあった。
「ブラックホール。爆発の後に残骸が残ったか……」
「思ったよりも明るいのね」
「降着円盤は凄い温度だからねえ」
無論本体は見えないけれど、周囲を取り巻く光の奔流は、否が応でも目に入る。
一千万度の黒体輻射が、わざわざ人間に認識可能な形に調整されて飛び込んでくるのだ。そこには何かの意図がある。
メリーが言った。
「ちなみに次はどうなるの?」
「私が見たのは真っ暗な景色だけ。天体はもう残ってなかった」
「消えちゃったの?」
「そうでしょうね。おめでとう、メリー。私たち、ホーキング輻射を観測した初の人間かも」
ブラックホールの蒸発は、まだ観測的には確かめられていない。
大発見といえばそうなのかもしれないが、科学の実証をこんなオカルトに頼るのは無理がある。この光景が、現実に即したものなのかも不明なのだ。
私は空恐ろしさすら感じるほどの壮大な現象を尻目に、虚空の中で伸びをした。
「さて、無事にここから帰れればいいけど」
「何よ、私を残していなくなる気?」
「過去の私が会いに来るよ。多分、まだ混乱してるだろうけど」
「何が起きてるのか、教えてあげたほうがいいかしら」
「そんな時間ないと思うよ。でも、次に何を見る事になるかは伝えてあげて。私もそれなりに不安だと思うから」
超新星爆発の後に残ったのは、中性子星でなくブラックホールだった。
Tolman–Oppenheimer–Volkoff限界。縮退圧が支えられる質量には限度がある。
必ず重力崩壊を起こすための境界値は、およそ太陽の三倍程度。
「いいわ、何て言えばいい?」
「主系列星。それも3太陽質量以上」
「了解」
気付けば私の身体は、最初に見たメリーと同様、半透明になっていた。
一体何だったのだろう。ずいぶん長い間ここにいたような気もするし、一瞬だったような気もする。
この私の体感した時間は、何によって測定されたのだろう?
進化する星を時計とみなすことはできるが、自分の身に起こったことは不可解だ。
原因より先に結果がある。
私の言葉はメリーを介して伝達され、最初の私を少し当惑させる。
互いに食い違う時間の中で、因果律はどのように解釈されるべきか。
それとも私が受け取った認識と、外界への働きかけは、初めから決定されていたものなのか?
眼を閉じた私の中で、疑問が浮かんでは消えていく。意義があるのかも不明な問いかけの数々。すぐには答えを出せそうにない。
今は、目覚めた時、自分を元の草むらに見出すことを祈るばかりだ。
そして私は、自ら遮った視覚の次に、自分の呼吸が聞こえなくなり、足元の浮遊感を感じなくなって、最後にあの寒気を失った。
◆
最初に取り戻されたのは、肌を掠める葉先の感触だった。
風でわずかに揺れる草と、それらが根を張る固い地面。
背中に感じる確固たる実在に、私はかなり安堵する。目を開けると、一面の星空が視界に映し出された。
「……21時27分」
私の記憶が正しければ、祠を見つけたのとほぼ同時刻だ。どうやら生きて帰って来たらしい。身体を起こすと、すぐ傍らにはメリーが寝転んでいた。
「なんだ、寝てるの」
私の呟きもどこ吹く風で、彼女はとても穏やかな寝息を立てていた。さっきの経験が単なる夢だったのかどうかは、メリーを起こしてみればすぐに分かる。
私は、夜露でやや湿った草の中へ手を伸ばし、彼女の肩を揺すぶった。
すぐさま目をぱっちりと開けるメリー。寝起きが良すぎて怖い。
「おはよう、メリー。いい夢見れた? ……まあ、夢ではなかったんだろうけど」
「そんな区別は言葉遊びよ。だって、あなたもあれを見たんでしょう?」
彼女は立ち上がって土を払い、祠の方へと視線を向けた。
私たちをいきなり謎の空間へ放逐したその物体は、澄ました顔でそこに存在し続けている。さっきは、それに近づいた瞬間に異空間へ取り込まれたのだった。
「私たちは同じものを見た。それ以上のことを言うことはできないわ。現実と夢を、どうやって明確に区別できるというの?」
「実際の出来事は夢にも出てくるけど、夢は現実に影響を与えないでしょ」
「夢にだって筋道はあるわ。現実世界の出来事が、因果性の法則に沿って展開するようにね。それに、夢だって現実に影響することはできる……だって私たちは、現実に、夢の記憶を持ち込んでいるから」
彼女はそう言って、星の輝く空を見上げた。
『われらは夢と同じ糸で織られている』
『ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる』。
私はメリーの主張に、根拠ある反駁をすることができない。
代わりに不平を述べるだけだった。
「さっきの夢に、因果律があるかは怪しいところね。順序がめちゃくちゃだったもの」
「私にとっては順番通り。蓮子の時間シャッフルの原因が、本当にビジョンの共有にあったのかは分からないけど……」
「確かめるいい方法があるよ」
私は勢いよく立ち上がり、例のしょぼくれた祠を睨んだ。
メリーが不安そうに問う。
「……なにする気?」
「決まってるでしょ。一緒に迷い込んだせいでああなったのなら、次は一人でどうなるかを検証すべき。科学の基本よ」
言い終えるが早いか、私は一気に祠の方へ駆け出した。メリーが止める隙も与えない。
あんな訳の分からないもの、もう一度見たいに決まっている。
「つまり対照実験!」
「ちょ、ちょっと……!」
祠は初めから目の前だ。私は大した距離も走らず、さっき異変が起こった地点を容易に飛び越えた。
星を見たという噂が確かなら、メリーの幻視がなかったとしても、同じ現象自体は経験できるはずだ。今度は真っ当な順番で、星の進化を追えるのかもしれない。
瞼の裏に広がるのは、先ほどの空虚な空間を髣髴とさせる暗さ。
さあ、私を再び異界へ取り込みたまえ。
焦って追いかけて来るメリーの足音を聞きながら、私は目を閉じる。
数秒後、両肩に衝撃。
「蓮子!」
「……あれ、何も起きないね?」
メリーによって強引に祠から引き離されそうになった私は、彼女の隙をついてもう一度それに近づき、ついでに中身を覗こうとする。罰当たりにも両開きの戸を開くが、それでも本当に何も起こらず、ただ何の変哲もなさそうな石塊が鎮座しているのを確認しただけだった。
「本当にもう、あなた一人で、戻って来れるかもわからないのに!」
「ごめん、ごめん。でも、さっきは帰って来れたんだし」
メリーは諦めたように息を吐いた。
その後、じっと祠の方を注視してから言う。
「……もう何も起きないと思うわ。なんにも見えなくなっちゃった」
「初回限定か。残念ね」
「一度見たら十分よ、あんなの」
無念。
こういうオカルトには、基本的に再現性がないのが泣き所だ。
今回の場合は、一度だけでも噂通りのものが見られただけ幸運だったともいえる。
というわけで、今回のフィールドワークは実質的に終わってしまった。
客観的な現象はここまでで、この先は私たちの主観による解釈の時間だ。
恐らくメリーのような人種は、この先の工程にこそ意義を見出すのだろう。
私だって理論屋だから、観測済みの事実を説明する仮説の提示が仕事ではあるのだけど、そこから予言を導いたところで、この先の現象とは比較できないのが痛い。
実験なき理論は容易く机上の空論に堕する。
まるで物理学の現況のようだ、と、やや自虐的にそう思う。
そんな思いを誤魔化すように、私はメリーに尋ねてみた。
「で、メリー。私たちは、どうして星の一生なんてものを見せられたのかしら? 何か教育的な目的でもあるの?」
「例えば……」
彼女はしばらく考え込み、ちらりと開けっ放しの祠の戸を見て言った。
「星辰崇拝、というものがあるわ」
「ああ。北斗七星とか?」
太陽や月を神格とみなす宗教は珍しくもないが、星を崇める場合だってもちろんある。
たとえば私が言ったのは、北辰信仰と呼ばれるものだ。北極星が星空においてほぼ不動の存在であることを考えれば、その辺りが特別視されるのも自然な成り行きだろう。
「そうね。北極星や北斗七星が神仏と関連付けられた例に限っても、妙見菩薩、豊受大神、それから摩多羅神……」
「確かに色々あるけれど、どうかな。こんな所に、そういう曰くがあるとも思えないけど」
「かなり古びた祠よね。手入れもされてるようには見えない。祀られているのは、現在ではもう失われてしまった神なのかも」
メリーは少し楽しそうだったが、実際、手がかりになりそうなのは大きめの石ころみたいな御神体(?)だけだ。主張としてはちょっと弱い。
私は冗談半分で呟いた。
「案外この石、星の欠片だったりしてね。隕石とか」
「隕石って、だいたい小惑星とかの破片なんでしょう? 信仰の対象にはなりそうにないわね」
「分かんないよ。ちょうどその星の方面から降ってきたとか、まさに星が南中している時刻に落下した、とか。伝承の始まりってそんなものでしょ」
もしくは、その恒星の周りを巡る月の欠片という事にしてもよい。
重要なのは内実ではなく、人々が、それをどう思ったかという事だ。
信仰は根拠を必要としない。奇跡と啓示は、ただきっかけとして機能するだけ。
「時間があんな風になるのなら、空間的な距離だって、どこまで信頼できるかも怪しいし。遥か遠くにある星の欠片が、いきなりここに現れたって不思議じゃないわ」
「蓮子にしては適当なこと言うのね。そんな例外認めてくれるの、物理学は」
「先にあるのはあくまで事実。例外が出てきたのなら、それをも説明可能な理論を構築するまでよ」
プランクが量子仮説を提出したのも、黒体輻射のスペクトルが、単純な等分配則では説明できなかったのがきっかけだ。
より現実に適合する数理モデルを構築し、遡って根本原理を推察する。それは真理に迫るアプローチの一つでもある。
「ま、例外だらけじゃこっちも途方に暮れるしかないけどね。せめて繰り返し実証できればいいのに……」
「諦めなさい。時間も遅いし、あとは帰って考えましょ」
「まだ終電まで時間あるよ?」
「この前もそう言って、駅まで死ぬ気で走る羽目になったじゃない。帰るわよ、ほら」
祠の写真を撮り終えると、メリーは手を叩いて私を急かした。
◆
帰りの電車に揺られながら、私はじっと外を眺める。隣の相棒はよく寝ていた。歩き回って疲れたのだろう。
うちに帰ったら、あの場所の周辺情報をもう少し集めておきたいところだ。
郷土資料でもあたれば成果が得られたかもしれないが、図書館はとっくに閉まっていた。現地に行く前に寄っておくべきだったかと少し後悔する。
本当に何かしらの信仰があったのなら、少なくとも、その記録くらいは残っているはず。
「噂の出どころにもあたってみるかな……」
祠付近で星を見たというその人は、私と同じ体験をしたのだろうか。
それとも、メリーと?
時間がどうこうという話が伝わってこなかった以上、順当に星の一生を見たのかもしれない。本当は自分の眼で確認したかったが、こうなった以上は仕方ない。
いや、図書館のついでにもう一回来て、自分自身で再チャレンジすればいいか。
列車の音と同じくらい規則正しい寝息を聞きながら、私はぼんやりと考えを巡らせる。
手間も惜しまず駆けずり回り、メリーをあちこちに連れまわして、私はこんなにも、何を知りたがっているのだろう?
──それはもちろん、この世の全てが知りたいのだ。
どうして世界はこのように在り、かくのごとく機能しているのか?
理解したつもりになっていたこの世の仕組み。
私の暮らしている現代において、既に人間は暗闇を駆逐し、想像力の余地というものをほとんど潰し尽くしてしまった。そこには未知への期待がない。私はメリーに出会うまで、かなりそういう考えに傾いていた。
なぜか?
話は、私の生まれる少し前に遡る。
超統一物理学。
原理的な実証不能性のヴェールに包まれた、それは美しい幻覚だ。
既に三つの力の統一は叶っていた。
学者は苦心して重力場を量子化する処方を考え出し、一般相対論と量子論を接続した。
さあ全ての統一だと皆が意気込んだところで、その壁はいきなり現れた。
いや、そんな言い方は正しくない。
壁は初めから、私たちの目の前にあったのだ。ようやく、それが見えるようになっただけ。
確かに、四つの力は完全に統一された。
だが、究極の理論はその構造自体に、眩暈がするほどの不定性を孕んでいたのだ。
決して、何も分かっていないわけではない。それは完成された形式であって、万物の理論と呼ぶ人々はもちろんいる。だが、現時点で導き出された結論はこうだ。
『私たちは、この宇宙を支配する法則を、一つに絞り込むことが出来ない』。
だいぶ大雑把に言うと、既に起こった全てのことに説明をつける事は出来るが、これから先に起こる事を何も予言できない。
観測からの制限は当然つけられるけれど、それは無限集合の中から無限部分集合を取り出すようなもので、実際には何も意味していない。
応用の側にしてみれば完全に無意味な理論。然るにそれこそが真理だと、彼らは絶望的にそう叫んだのだ。
現代の物理学は、その時から停滞し続けている。
この理論を実証するのは、地平線の外側を覗き見ようとするようなものだ。
百歩譲って特殊な実験方法を拵えられたとしても、それは確実に、現在の技術では到達不可能なものだろう。観測に必要なエネルギーが大きすぎる。確かめられない理論は妄想に等しい。
単なる夢と呼び変えても良い。
だが、夢を夢であるままに、誰かの解釈が与えられるなら。
時折、そんな事を思う。
もしかすると、それは無意味なものではないのかもしれない。
不定性とはすなわち、無数に存在する別の可能性ともいえる。
私たちにできるのは、その事実を受け止めたうえで、ただ想像することなのではないか。
常識の枠から外れた、得体のしれない何かについて。
科学を志す者にあるまじきこの感傷が、今の私の態度ということになる。
面倒な理屈を置いておけば、要するに、説明不能なものを探すのが楽しくて堪らないのだ。
あれこれ考えてはみたが、私には結局、今日の現象が何だったのか全く分からない。
忘れ去られた神様が、信仰を取り戻すため、通りすがりの人間に星の威容を見せつけた?
あの光景が明らかに、人のために調整されたものだったことを考えれば、そういう可能性は一応ありうる。けれど、それは私たちの想像の一つに過ぎない。
無音で生まれ、燃えて、やがて消えてゆく星の輝き。
バラバラにされた時間の流れ。
メリーは今も隣で寝息をたてている。
それは彼女が遠い未来に、あるいは過去に見る夢なのかもしれない。
この私もメリーの夢の登場人物に過ぎず、彼女が見た10の500乗個の夢のうちのひとつがこの宇宙で、ブラフマンであるところの彼女が目覚めるとき、世界はついに終わりを告げる。
メリーの欠伸一つで、泡のように宇宙が消失するという想像は何だか可笑しい。
この現実が胡蝶の夢なら、時間なんてものは何でもなくて、彼女の目が覚めた時には一分かそこらしか経っていないのだ。
まるで、ひっくり返した水がめから、まだ水の流れ出さぬ先に、神の住居をくまなく見つくした預言者のように。
やがて目覚めた彼女は、眠い目をこすりながら、電車の窓越しに光を見つけるだろう。
そして、それは数百、数千年前に滅びを迎え、とうに信仰を失った星の残光なのである。
「……メリー、あなたはいつ目を覚ますのかしら?」
私は夜空に星を探したが、あの真っ暗な場所で見たのと同じ輝きを、とうとう見つけることはできなかった。
噂を聞きつけ怪異に向かっていき、巻き込まれ、対峙し、謎を解き、帰ってくるという秘封倶楽部のいい所が全部盛り込まれていてとてもよかったです
そして怪異がおしゃれすぎます
素晴らしかったです
星の一生を観測する一連の部分は本当に良かったです。有難う御座いました。