「『男は愛する者の最初の男になることを望み、女は愛する者の最期の女になることを望む』」
「……ん?」
「昨日読んだ本に書いてありました」
「書を嗜むとは……吉弔は賢いな」
その言葉が本心であることは、長い付き合いからわかる。しかしそんな言葉に浮かれるような安っぽい女ではないので、とりあえずジト目で見つめ返す。見つめられた驪駒は、こちらの視線の意味をどう察したのか、笑顔で微笑み返してくる。言葉の要らない関係なんてものに憧れがあるわけではないが、それでもため息が漏れる。ここでやっと愚かな勘違いに気付いたらしく、空っぽの頭を使って現状を打開しようと考えこむ。
「男が最初で女が最後。……謎かけか?」
「どこに謎があったのか、私にとっては不思議でしょうがないです」
絞り出した答えをはたき落としてやれば、そっか、なんて一言だけ返してやはりにこりと笑う。そして話が終わったかのように、私のソファでごろんと寛ぐ。……考えることを諦めやがったなこいつ。彼女の興味は、既に机に置かれた温泉饅頭へ。
「男女の恋愛観の違いの話です」
そう言いながら驪駒の隣に腰かけ、寄り添うように身体を預ける。もちろんこっちを見ろなんて言わない。それでも比類なき阿呆はやっと何かを察したようだ。大口を開けて私と手にした饅頭を交互に2回見た後、名残惜しそうに饅頭を皿に戻す。そしてその手を私の肩に回して抱きしめる。私は皿に置かれた饅頭に向けて勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ふふん♪
「男女の違いと言われても、私達は女同士だから男の気持ちはわからないぞ?」
「そうですね。実際に男性が最初の男でありたいのか、私達にはわかりません。そもそもどうでもいいです」
男、というよりは雄の組員に聞けばわかるかもしれないが、別に興味もない。だからといって雌に興味があるわけでもないが。
「驪駒はどうなのかと思ったのです」
「私?」
「もちろんガサツな貴女に、そのようなことを気にする繊細さがあるとは思いませんが」
「ひどい言われようだなあ……」
こちらを非難はしても否定はしてこないあたり、流石に自覚も芽生えたようだ。こいつは初めて私が身を預けた時に、言うに事欠いて重いなんて言いやがった。その脳みそまで筋肉の身体は、私の甲羅を支えるために鍛えたのではないのか。
「うーん……初めてかどうかは気にしない」
「翼はあっても角はありませんでしたね」
不思議そうに首を傾げる驪駒の羽をなでる。無駄に喧しいシルエットを描くそれは、羽毛という言葉から想像されるものよりも、ずっとごわごわしていて温かい。
「それで最期がいいかは……それも別に気にしないな」
「その心は?」
「私がいなくなってもちゃんと幸せを見つけてほしい」
こちらを見つめて再び笑う。笑顔以外の表情を知らないのかと言いたくなる。しかし、いざ驪駒の笑っていない姿を想像すると、それは何か違うなとも思う。こいつは私の隣で馬鹿みたいに笑っていればそれでいい。
「貴方の結論は2つの前提のもとに成り立っています」
「そうなの?」
「1つ、私より先に貴女が死ぬ。1つ、私達は死に別れるまで円満である」
「前者は私が生きている限り必ずお前を守るから。後者は当然そうなるから」
これを口説くつもりで言っているのであれば、歯の浮くようなセリフに身震いするところだ。しかしこいつは龍が空を飛ぶことのように、馬が地を駆けることのように、羊飼いの名前がメリーであることのように、当然のことのように口にする。
「私は貴女の思考もデリカシーも欠けた行動に対するストレスで、早死にしそうですけどね」
「それは困る。そうならないように労わってやらねば」
そう言って驪駒は私の頭を撫でる。先程私が見せた手本から何も学んでいないガサツなそれを、私はこれみよがしにため息をつきながら受け入れる。この程度で頬が緩むことなどない。決してないのだ。
「だが前提というのならば吉弔。お前の主張だってそうではないか」
「何のことでしょう」
「私の思い人が自分であることを前提にしている」
地上には時間を止めるメイドがいるらしい。どうでもいいことだが。
「吉弔?」
「それが私でないのであれば、この場で首を刎ね、貴方はその命を散らすことになるでしょう。そうすれば望み通り、私は新しい思い人を探すとしましょう」
ピシャリと言葉を突っぱねれば、驪駒の顔色が面白いくらいに変わっていく。そして最終的には叱られた子供が親の顔色をうかがうように、ちらちらとこちらを見つめてくる。
「えーっと……謝った方がいいやつ?」
「言うべきことは口に出したほうがいいのではないでしょうか。そしてその言葉を間違えると悲しい結末になります」
「……愛しています」
陳腐で語彙力のないありきたりで実につまらない愛の言葉。その言葉に免じて許してやる。その証として、自身の無駄にご立派な尻尾を驪駒の腰に巻き付ける。日常生活で邪魔にしかならないそれが、大切なものを捕まえておくのに便利だと気づいたのも驪駒のせいだ。認めたくはないが。
「変えられない過去や分からない未来よりも、目の前にある幸せが一番大事ってことで」
「貴方の場合は、目の前のこと以外を考えることができないの間違いではありませんか」
「そうとも言うな。今この瞬間、私の腕の中に吉弔がいる。それ以外に何が必要だ?」
こいつはいつもそうだ。ひねくれてしまった、そうならざる負えないようなこの畜生界で、ただ一人バカ正直に生きている。私達では言えないような真っ直ぐな言葉を平気で口にする。そういうところが気に入らない、私のお気に入りだ。
「逆にお前はどうなんだ?」
「私ですか?」
「何か思うところがあるから聞いたんだと思ったが、違ったか?」
意図した通り、驪駒はこちらにも聞いてくる。いつだって私のまいた餌にはちゃんと食いついてくる。そうやって私がこの名馬を釣りあげた。
「貴方の過去も未来も全てがほしい」
「強欲も過ぎれば身を滅ぼすぞ?」
「守ってくれるんじゃなかったのですか?」
「もちろん守るさ」
驪駒の隣でならほんの少しだけ、捨てたはずの素直な言葉が出てしまう時がある。これは弱さだ。偽り欺くことでこの世界を生き抜いてきた私を蝕んでいく毒だ。私は強欲を乗りこなすことはできても、この優しさに抗うことができない。毒と理解していながら落ちていくなんと愚かなことか。だげど、守ると言ってくれた。ならこの言葉に全て委ねてしまうのも一興ではないだろうか。驪駒が私の頬に手を触れて、そのまま目を閉じてゆっくりと近づいてくる。そして私は頬に触れた左手を素早く掴むと、思い切り外側に捻り上げる。
「ふぇ?なんでぇ……?」
「これは?なんですか?」
ご馳走をお預けされた子犬のような目でこちらを見つめる驪駒を無視して、捻り上げた左手の薬指の爪を親の仇のように睨みつける。そこには憎らしいほどの達筆で、『和』と書かれていた。
「あぁこれか。昨日太子様のところに行く機会があってな」
「……」
答えなんか聞くまでもなくわかっていた。幻想郷に美しい字を書くものはいくらでもいる。しかし、驪駒の知り合いの中で、爪にここまで達筆な文字を刻む者を他に知らない。
「偶にはお前もお洒落でもしてみてはどうかと言われたんだ。私にはそういうのは似合わないと言ったんだが、偶然いい爪紅が手に入ったと言われれば、断るのもどうかと思ってな。ちょっとだけ試してみたんだ。どうだ?似合うか?」
「…………」
驪駒が私にそれを見せる様子は、まるで主人に仕留めた獲物を見せる猫のようで、無邪気に褒めてくれるのを期待しているのが分かる。理解できてしまう。しかしそれを、私はどこまでも冷たく見つめていた。
「吉弔?」
「……いえ。なんでもありません」
この行為が牽制ですらないことは百も承知だ。驪駒の元主人、豊聡耳神子には何度か会ったことがある。あれは嫉妬や独占欲に溺れるような、器の小さな人間じゃない。あれから見た驪駒はあくまで愛馬であり、その幸福を望んでいることに嘘偽りはないだろう。極端なことを言えば、仮に黒駒が結納を上げたところで、それを心から祝福するに違いない。なぜなら驪駒が誰のものになろうとも、自分の手から離れることがないと知っているから。あれが私のために死んでくれと驪駒に告げれば、間違いなく従うという確信があるから。だから平気でこういうことをする。私がいくら暗く深い畜生の沼に沈めてしまおうとしても、その威光を遮ることはできず、どこまでもその存在が私の身を焼き不安を煽る。
「……やっぱり私にこういうのは似合わないか?」
「いいえ。……そんなことはないとは思いますよ」
私の不機嫌を察し、驪駒は少し寂しそうな顔をする。そんな彼女の頬に触れ、そのままお手本を示すように頭を撫でる。これは私の問題、私の戦い。確かに一言、私だけを見て欲しいと言えば、この苦しみは消えるだろう。それが例えどんな結末を迎えるとしても。しかし私にはできない。私は所詮、畜生に堕ちた龍の紛い物、一方はかの有名な聖徳太子。どうして選ばせることができようか。だから私は、たとえ地獄の業火すらも生ぬるい程の、負の感情に焼かれようとも、この曖昧の中に生きていくと決めた。
「……吉弔?」
「『動くな』」
能力を使って驪駒の動きを封じる。驪駒ほどの実力者であれば、その気になれば解くことができる。しかしそうすることなく、ただ私の次の行動を待つ。私は自身の懐に手を入れる。もし私がここで取り出すのが刃物であれば、そのまま驪駒の首に突き立てれば、いくら驪駒でも防げない。先程の冗談ではなく、本当にその命を呆気なく散らし、私は驪駒を手に入れると共に永遠に失うことになるだろう。恐る恐る驪駒の顔色を窺うが、微動だにしない。それが考えなしによる想像力の欠如から来るものなのか、無防備な信頼によるものなのか。わからないままに私は懐から爪切りを取り出す。
「少し伸びすぎです。暴れられては困りますから」
「いつもすまんな」
動けない驪駒の手を取り、ゆっくりと重ねる。私より少し大きく力強い手はもちろん手入れなどされていない。ゴツゴツとした皮膚にところどころ切傷や豆がある。私と同じようにどれだけ洗っても血の匂いが取れないはずなのに、私のような嘘つきとは違う正直者の手。その熱を感じながら、丁寧に爪を切っていく。この爪が今日まだ長いままであったことを確かめるように、パチン、パチンと。部屋に爪切りの音だけが響く。希望通りに深爪ギリギリの短さ、触れても傷がつかない長さ。驪駒の望み通り私を傷つけないために、私の望み通り驪駒の手を汚い血で汚さないために。
「吉弔も塗ってみるか?」
「はい?」
「爪紅」
「別に私がつけるのは珍しくありませんよ」
「自分にじゃなく、私に」
声が上ずらないように注意しつつ、もっと私のことをちゃんと見ておけと言いそうになるが、どうやら違ったらしい。
「色気づいて気色悪い」
「そ、そこまで言わなくてもいいだろうに。いや、そんなに見ているから、てっきり太子様と同じようにやってみたいのかと思ってだな」
「見ていません」
「えっ」
「見ていません」
「いやだって」
「『見ていません』」
「わかったわかった。私が悪かった」
そうだ、いつだって悪いのは驪駒なのだ。納得してくれたようなので、少し名残惜しく思いながらも驪駒の膝の上から降りる。そしてそのまま机に向かい、爪紅をいくつか取り出して考える。
「色々あるのだな」
「好みのものはありますか?」
「私は知っての通り無頓着だから。邪魔にならなければ何でもいいさ。お前の好きな色に染めてくれ」
能力をあっさり破った驪駒は、私の肩口からひょこっと顔を出して、饅頭を食べながら物珍しそうに爪紅を眺める。そんな驪駒の横顔を見つめながら、どうしようかと考える。最初に思いついたのはもちろん、濃い色を使って『和』の文字の上から塗りつぶしてしまうことだったが、これはできない。どれだけ外側を塗りたくったとしても、内側には神子の名が刻まれたまま。あまりに愚かで滑稽だ。では爪ごと剝がすといのはどうだろうか。ヤクザらしいやり方ではあるがこれも却下。驪駒以上に私が傷つくことが目に見えている。
「……最期とは言うがな」
「はい?」
「さっきの話だよ。男は最初で女は最期ってやつ」
真剣に考えていたところに声をかけられたので、つい適当な返事を返してしまったところ、後ろから抱きしめられる。頭脳労働担当の私が脳筋馬鹿に捕まれば、逃げることなどできようはずがない。
「そもそも私たちは死んで畜生に堕ちた身、それこそ最期のその先にいる。ならば私達にとって最初とはなんだ?最期とはなんだ?」
「それは……」
「誰も分からない。どうせその言葉も生者の理に縛られたもの、死者には当てはまらない。ならば私達のことは私達自身で決めればいいさ」
「そこまで言うのからには、大層素晴らしい考えがあるのでしょう?」
顔は見えないが、驪駒が自信満々といった表情をしているのが分かる。こいつはいつだって、そうして私を照らしてくれるのだから。
「あるとも。『甲斐の黒駒』としての私の人生は既に終わっている。その最初も最期も、全ての生涯を太子様に捧げた。それについては今でも誇りに思っている。だが何の因果か、私はこの畜生界に再び『驪駒早鬼』として生まれ落ちた。『驪駒早鬼』にとって、最初の相手はお前だよ吉弔。そして私は生前から一途だったからな。その最期の相手もお前になる」
「今の現状を省みたうえで、よくもまあそんなことを言えますね」
「言うべきだと思ったら口に出せと言われたからな」
「答えになっていません」
そう言いながら背中を驪駒に預ける。コンプレックスである甲羅が少しだけ軽くなったような気がした。
「そのままじっとしていてください」
机に置かれた真っ赤な爪紅を選んで、驪駒の左手を取り、『和』の文字の隣、左手小指に『合』の文字を歪んだ愛と共に刻む。そして同じように、自身の左手小指にも『契』の文字を曖昧な約束を信じて刻む。
「そこでいいのか?」
「いいんです」
左手の薬指が生涯の愛を誓うのなら、私の想いは約束の小指に委ねよう。この弱肉強食の畜生界、騙し騙されの世界で言葉の力とはなんと脆いことか。それでも驪駒の言葉なら、愛する者との約束であれば、私はそれを信じたいと思う。
「針千本程度では許しませんから」
私が左手の小指を立てる。
「約束だ」
驪駒の小指がそれと交わる。指から伝わる熱に溶けてしまいそうになりながら、それもまた一興だと思う自分が愚かしい。
「……ん?」
「昨日読んだ本に書いてありました」
「書を嗜むとは……吉弔は賢いな」
その言葉が本心であることは、長い付き合いからわかる。しかしそんな言葉に浮かれるような安っぽい女ではないので、とりあえずジト目で見つめ返す。見つめられた驪駒は、こちらの視線の意味をどう察したのか、笑顔で微笑み返してくる。言葉の要らない関係なんてものに憧れがあるわけではないが、それでもため息が漏れる。ここでやっと愚かな勘違いに気付いたらしく、空っぽの頭を使って現状を打開しようと考えこむ。
「男が最初で女が最後。……謎かけか?」
「どこに謎があったのか、私にとっては不思議でしょうがないです」
絞り出した答えをはたき落としてやれば、そっか、なんて一言だけ返してやはりにこりと笑う。そして話が終わったかのように、私のソファでごろんと寛ぐ。……考えることを諦めやがったなこいつ。彼女の興味は、既に机に置かれた温泉饅頭へ。
「男女の恋愛観の違いの話です」
そう言いながら驪駒の隣に腰かけ、寄り添うように身体を預ける。もちろんこっちを見ろなんて言わない。それでも比類なき阿呆はやっと何かを察したようだ。大口を開けて私と手にした饅頭を交互に2回見た後、名残惜しそうに饅頭を皿に戻す。そしてその手を私の肩に回して抱きしめる。私は皿に置かれた饅頭に向けて勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ふふん♪
「男女の違いと言われても、私達は女同士だから男の気持ちはわからないぞ?」
「そうですね。実際に男性が最初の男でありたいのか、私達にはわかりません。そもそもどうでもいいです」
男、というよりは雄の組員に聞けばわかるかもしれないが、別に興味もない。だからといって雌に興味があるわけでもないが。
「驪駒はどうなのかと思ったのです」
「私?」
「もちろんガサツな貴女に、そのようなことを気にする繊細さがあるとは思いませんが」
「ひどい言われようだなあ……」
こちらを非難はしても否定はしてこないあたり、流石に自覚も芽生えたようだ。こいつは初めて私が身を預けた時に、言うに事欠いて重いなんて言いやがった。その脳みそまで筋肉の身体は、私の甲羅を支えるために鍛えたのではないのか。
「うーん……初めてかどうかは気にしない」
「翼はあっても角はありませんでしたね」
不思議そうに首を傾げる驪駒の羽をなでる。無駄に喧しいシルエットを描くそれは、羽毛という言葉から想像されるものよりも、ずっとごわごわしていて温かい。
「それで最期がいいかは……それも別に気にしないな」
「その心は?」
「私がいなくなってもちゃんと幸せを見つけてほしい」
こちらを見つめて再び笑う。笑顔以外の表情を知らないのかと言いたくなる。しかし、いざ驪駒の笑っていない姿を想像すると、それは何か違うなとも思う。こいつは私の隣で馬鹿みたいに笑っていればそれでいい。
「貴方の結論は2つの前提のもとに成り立っています」
「そうなの?」
「1つ、私より先に貴女が死ぬ。1つ、私達は死に別れるまで円満である」
「前者は私が生きている限り必ずお前を守るから。後者は当然そうなるから」
これを口説くつもりで言っているのであれば、歯の浮くようなセリフに身震いするところだ。しかしこいつは龍が空を飛ぶことのように、馬が地を駆けることのように、羊飼いの名前がメリーであることのように、当然のことのように口にする。
「私は貴女の思考もデリカシーも欠けた行動に対するストレスで、早死にしそうですけどね」
「それは困る。そうならないように労わってやらねば」
そう言って驪駒は私の頭を撫でる。先程私が見せた手本から何も学んでいないガサツなそれを、私はこれみよがしにため息をつきながら受け入れる。この程度で頬が緩むことなどない。決してないのだ。
「だが前提というのならば吉弔。お前の主張だってそうではないか」
「何のことでしょう」
「私の思い人が自分であることを前提にしている」
地上には時間を止めるメイドがいるらしい。どうでもいいことだが。
「吉弔?」
「それが私でないのであれば、この場で首を刎ね、貴方はその命を散らすことになるでしょう。そうすれば望み通り、私は新しい思い人を探すとしましょう」
ピシャリと言葉を突っぱねれば、驪駒の顔色が面白いくらいに変わっていく。そして最終的には叱られた子供が親の顔色をうかがうように、ちらちらとこちらを見つめてくる。
「えーっと……謝った方がいいやつ?」
「言うべきことは口に出したほうがいいのではないでしょうか。そしてその言葉を間違えると悲しい結末になります」
「……愛しています」
陳腐で語彙力のないありきたりで実につまらない愛の言葉。その言葉に免じて許してやる。その証として、自身の無駄にご立派な尻尾を驪駒の腰に巻き付ける。日常生活で邪魔にしかならないそれが、大切なものを捕まえておくのに便利だと気づいたのも驪駒のせいだ。認めたくはないが。
「変えられない過去や分からない未来よりも、目の前にある幸せが一番大事ってことで」
「貴方の場合は、目の前のこと以外を考えることができないの間違いではありませんか」
「そうとも言うな。今この瞬間、私の腕の中に吉弔がいる。それ以外に何が必要だ?」
こいつはいつもそうだ。ひねくれてしまった、そうならざる負えないようなこの畜生界で、ただ一人バカ正直に生きている。私達では言えないような真っ直ぐな言葉を平気で口にする。そういうところが気に入らない、私のお気に入りだ。
「逆にお前はどうなんだ?」
「私ですか?」
「何か思うところがあるから聞いたんだと思ったが、違ったか?」
意図した通り、驪駒はこちらにも聞いてくる。いつだって私のまいた餌にはちゃんと食いついてくる。そうやって私がこの名馬を釣りあげた。
「貴方の過去も未来も全てがほしい」
「強欲も過ぎれば身を滅ぼすぞ?」
「守ってくれるんじゃなかったのですか?」
「もちろん守るさ」
驪駒の隣でならほんの少しだけ、捨てたはずの素直な言葉が出てしまう時がある。これは弱さだ。偽り欺くことでこの世界を生き抜いてきた私を蝕んでいく毒だ。私は強欲を乗りこなすことはできても、この優しさに抗うことができない。毒と理解していながら落ちていくなんと愚かなことか。だげど、守ると言ってくれた。ならこの言葉に全て委ねてしまうのも一興ではないだろうか。驪駒が私の頬に手を触れて、そのまま目を閉じてゆっくりと近づいてくる。そして私は頬に触れた左手を素早く掴むと、思い切り外側に捻り上げる。
「ふぇ?なんでぇ……?」
「これは?なんですか?」
ご馳走をお預けされた子犬のような目でこちらを見つめる驪駒を無視して、捻り上げた左手の薬指の爪を親の仇のように睨みつける。そこには憎らしいほどの達筆で、『和』と書かれていた。
「あぁこれか。昨日太子様のところに行く機会があってな」
「……」
答えなんか聞くまでもなくわかっていた。幻想郷に美しい字を書くものはいくらでもいる。しかし、驪駒の知り合いの中で、爪にここまで達筆な文字を刻む者を他に知らない。
「偶にはお前もお洒落でもしてみてはどうかと言われたんだ。私にはそういうのは似合わないと言ったんだが、偶然いい爪紅が手に入ったと言われれば、断るのもどうかと思ってな。ちょっとだけ試してみたんだ。どうだ?似合うか?」
「…………」
驪駒が私にそれを見せる様子は、まるで主人に仕留めた獲物を見せる猫のようで、無邪気に褒めてくれるのを期待しているのが分かる。理解できてしまう。しかしそれを、私はどこまでも冷たく見つめていた。
「吉弔?」
「……いえ。なんでもありません」
この行為が牽制ですらないことは百も承知だ。驪駒の元主人、豊聡耳神子には何度か会ったことがある。あれは嫉妬や独占欲に溺れるような、器の小さな人間じゃない。あれから見た驪駒はあくまで愛馬であり、その幸福を望んでいることに嘘偽りはないだろう。極端なことを言えば、仮に黒駒が結納を上げたところで、それを心から祝福するに違いない。なぜなら驪駒が誰のものになろうとも、自分の手から離れることがないと知っているから。あれが私のために死んでくれと驪駒に告げれば、間違いなく従うという確信があるから。だから平気でこういうことをする。私がいくら暗く深い畜生の沼に沈めてしまおうとしても、その威光を遮ることはできず、どこまでもその存在が私の身を焼き不安を煽る。
「……やっぱり私にこういうのは似合わないか?」
「いいえ。……そんなことはないとは思いますよ」
私の不機嫌を察し、驪駒は少し寂しそうな顔をする。そんな彼女の頬に触れ、そのままお手本を示すように頭を撫でる。これは私の問題、私の戦い。確かに一言、私だけを見て欲しいと言えば、この苦しみは消えるだろう。それが例えどんな結末を迎えるとしても。しかし私にはできない。私は所詮、畜生に堕ちた龍の紛い物、一方はかの有名な聖徳太子。どうして選ばせることができようか。だから私は、たとえ地獄の業火すらも生ぬるい程の、負の感情に焼かれようとも、この曖昧の中に生きていくと決めた。
「……吉弔?」
「『動くな』」
能力を使って驪駒の動きを封じる。驪駒ほどの実力者であれば、その気になれば解くことができる。しかしそうすることなく、ただ私の次の行動を待つ。私は自身の懐に手を入れる。もし私がここで取り出すのが刃物であれば、そのまま驪駒の首に突き立てれば、いくら驪駒でも防げない。先程の冗談ではなく、本当にその命を呆気なく散らし、私は驪駒を手に入れると共に永遠に失うことになるだろう。恐る恐る驪駒の顔色を窺うが、微動だにしない。それが考えなしによる想像力の欠如から来るものなのか、無防備な信頼によるものなのか。わからないままに私は懐から爪切りを取り出す。
「少し伸びすぎです。暴れられては困りますから」
「いつもすまんな」
動けない驪駒の手を取り、ゆっくりと重ねる。私より少し大きく力強い手はもちろん手入れなどされていない。ゴツゴツとした皮膚にところどころ切傷や豆がある。私と同じようにどれだけ洗っても血の匂いが取れないはずなのに、私のような嘘つきとは違う正直者の手。その熱を感じながら、丁寧に爪を切っていく。この爪が今日まだ長いままであったことを確かめるように、パチン、パチンと。部屋に爪切りの音だけが響く。希望通りに深爪ギリギリの短さ、触れても傷がつかない長さ。驪駒の望み通り私を傷つけないために、私の望み通り驪駒の手を汚い血で汚さないために。
「吉弔も塗ってみるか?」
「はい?」
「爪紅」
「別に私がつけるのは珍しくありませんよ」
「自分にじゃなく、私に」
声が上ずらないように注意しつつ、もっと私のことをちゃんと見ておけと言いそうになるが、どうやら違ったらしい。
「色気づいて気色悪い」
「そ、そこまで言わなくてもいいだろうに。いや、そんなに見ているから、てっきり太子様と同じようにやってみたいのかと思ってだな」
「見ていません」
「えっ」
「見ていません」
「いやだって」
「『見ていません』」
「わかったわかった。私が悪かった」
そうだ、いつだって悪いのは驪駒なのだ。納得してくれたようなので、少し名残惜しく思いながらも驪駒の膝の上から降りる。そしてそのまま机に向かい、爪紅をいくつか取り出して考える。
「色々あるのだな」
「好みのものはありますか?」
「私は知っての通り無頓着だから。邪魔にならなければ何でもいいさ。お前の好きな色に染めてくれ」
能力をあっさり破った驪駒は、私の肩口からひょこっと顔を出して、饅頭を食べながら物珍しそうに爪紅を眺める。そんな驪駒の横顔を見つめながら、どうしようかと考える。最初に思いついたのはもちろん、濃い色を使って『和』の文字の上から塗りつぶしてしまうことだったが、これはできない。どれだけ外側を塗りたくったとしても、内側には神子の名が刻まれたまま。あまりに愚かで滑稽だ。では爪ごと剝がすといのはどうだろうか。ヤクザらしいやり方ではあるがこれも却下。驪駒以上に私が傷つくことが目に見えている。
「……最期とは言うがな」
「はい?」
「さっきの話だよ。男は最初で女は最期ってやつ」
真剣に考えていたところに声をかけられたので、つい適当な返事を返してしまったところ、後ろから抱きしめられる。頭脳労働担当の私が脳筋馬鹿に捕まれば、逃げることなどできようはずがない。
「そもそも私たちは死んで畜生に堕ちた身、それこそ最期のその先にいる。ならば私達にとって最初とはなんだ?最期とはなんだ?」
「それは……」
「誰も分からない。どうせその言葉も生者の理に縛られたもの、死者には当てはまらない。ならば私達のことは私達自身で決めればいいさ」
「そこまで言うのからには、大層素晴らしい考えがあるのでしょう?」
顔は見えないが、驪駒が自信満々といった表情をしているのが分かる。こいつはいつだって、そうして私を照らしてくれるのだから。
「あるとも。『甲斐の黒駒』としての私の人生は既に終わっている。その最初も最期も、全ての生涯を太子様に捧げた。それについては今でも誇りに思っている。だが何の因果か、私はこの畜生界に再び『驪駒早鬼』として生まれ落ちた。『驪駒早鬼』にとって、最初の相手はお前だよ吉弔。そして私は生前から一途だったからな。その最期の相手もお前になる」
「今の現状を省みたうえで、よくもまあそんなことを言えますね」
「言うべきだと思ったら口に出せと言われたからな」
「答えになっていません」
そう言いながら背中を驪駒に預ける。コンプレックスである甲羅が少しだけ軽くなったような気がした。
「そのままじっとしていてください」
机に置かれた真っ赤な爪紅を選んで、驪駒の左手を取り、『和』の文字の隣、左手小指に『合』の文字を歪んだ愛と共に刻む。そして同じように、自身の左手小指にも『契』の文字を曖昧な約束を信じて刻む。
「そこでいいのか?」
「いいんです」
左手の薬指が生涯の愛を誓うのなら、私の想いは約束の小指に委ねよう。この弱肉強食の畜生界、騙し騙されの世界で言葉の力とはなんと脆いことか。それでも驪駒の言葉なら、愛する者との約束であれば、私はそれを信じたいと思う。
「針千本程度では許しませんから」
私が左手の小指を立てる。
「約束だ」
驪駒の小指がそれと交わる。指から伝わる熱に溶けてしまいそうになりながら、それもまた一興だと思う自分が愚かしい。
でも途中から湿度を感じながらも考えさせられる愛の形をまじまじと見せられました
最初とはなんだ?最期とはなんだ?愛とはなんだ?
それはそうとして吉弔からしたら太子様が手を施した驪駒の爪に爪紅で書かれた文字はどうにも、とはいえ爪切りで整えてやりながらそこは傷つけない
感情の揺れはあるけれども吉弔も驪駒が自分の事も愛しているのは理解できている
そして驪駒なら太子様への忠誠と自分への愛を両立できることも信頼しているのだろうか……
悶々としている八千慧が苦しそうでとてもよかったです
頭の回転が良すぎるせいで余計に苦しい思いをしてそうな八千慧視点の心理描写も印象に残りました。
面白かったです。