いまより千と数百年ほど昔の話。
雲井一輪という平凡な少女がいた。二人の兄と三人の弟がいて、姉と妹は一人も居ない。朴訥で堅実な農夫の父と母を持ち、日が暮れるまでたなびく雲を眺めているような穏やかな子だった。少なくとも、周囲からはそのように思われていた。
ひどい嵐の夜の次の晩。
下の兄が「崖崩れ」を見に行こうと言い出したことが彼女の運命を緩やかに、しかし確かに変えることとなる。
一輪は下の兄と二人の弟(一番下の子は怯えて着いてこなかった)と共に「崖崩れ」の起こったであろう山へと入っていった。春には山菜を、秋にはキノコや果物を取りに来る山だ。彼らには勝手知ったる裏庭のようなもの。そのはずだった。
「姉ちゃん! 一輪姉ちゃんっ!」
上の弟の憐れげな声が響く中、幼い一輪はぬかるみの土の上に細い両足を力強く突き立てて、血塗れの兄を庇っていた。彼の虚ろな表情、グッタリとした体躯に向け、下の弟が懸命に声をかけている。その両目からはだくだくと涙が溢れているが、呼びかけるのはやめない。一輪がそう命じたから。
「兄さんの息が弱い。四太、傷口をしばってやって。そんで兄さんが仏さんに連れてかれないよう、行くな行くなって声かけてやんなさい!」
一輪とてまだ齢十を数えたばかりの少女である。それでも彼女の声音に震えはなかった。
揺るぎない二つの輝きの向かう先で、低い唸り声が空気をふるわす。
狼だ。それも珍しい純白の毛皮の狼である。あと百年も生きれば山神の端くれになれるだろう立派な狼……しかしその後ろ足は酷く歪み、赤黒く汚れていた。それこそ、狼に噛み砕かれたかのように。
「あんた……この山の狼じゃないね」
発された問いに驚いたのは他でもない、一輪だった。狼に何を問うている? 時間稼ぎのつもりだろうか?
しかし一方では確信が彼女の胸の内にあった。これだけの立派な白狼は滅多にお目にかかれ無い。きっと何十年と生きているのだろう。どこぞの主と言われてもおかしくないくらいである。
だというのに。一輪の家族も、他の村人たちも誰もこんな白狼の話などしたことがない。理由は至極単純。これまでこんな白狼は山に住んでいなかったのだ。
おそらく夕べの嵐で鼻が鈍り、ここらの山にまで迷い込んだのだろう。普通は狼同士縄張りというものがあるが、こちらの山側の狼たちも嵐で出てこられなかったに違いない。
「でも狼ってのは普通、家族で暮らすものだろう。あんた、なんだって一匹だけなのさ」
くぉるる、とまた低い声が響く。獰猛な牙の覗く口元からはよだれが滴り落ちる。無理もない。仕留め掛けの獲物がすぐ先に転がっているのだ。
だが眼前に立ち塞がる少女の機転により狼は、情けなくも「待て」を喰らう形となっている。一輪は自分より三つも上の兄が何者かに襲われたと見るや否や、全身全霊の膂力でもって兄の体を後ろへ投げ飛ばし、さらには弟たちにも下がるよう素早く指示を飛ばした。熟練の戦人のような状況判断。だがそれをしたのはまだ十を数えたばかりの少女。
火事場の馬鹿力だろうか?
しかし一輪の脳内は荒ぶる炎よりもむしろ静水のごとく落ち着いていた。
(なぜだろう……大人だって食い殺しそうな狼がいて、兄さんは血塗れなのに、ちっとも恐ろしいって気がしない。少しの震えも感じない。私おかしくなってしまったのか? でも私がこうしていなかったら、みんなとうに食い殺されていた。それだけは間違いないわ)
恐ろしいどころか、胸の奥から奥から勇気が湧いてくるような気さえする。揺るぎない双眸を白狼に向けながら……一方で鎌首をもたげる疑問。
自分がこうしていなければとうに食い殺されていた。一輪はそれを理解している。だが彼女はただの人間の小娘に過ぎない。いくら手負とはいえ、狼からすれば子供一人殺すのも四人殺すのも大差ないはずだ。
ならばなぜ、自分たちは生きている?
自分が兄弟の前に立ち塞がったことで、いったい何が変わったというのか……?
「一輪……逃げろ……」
「兄さん!? 喋ってはダメだよ、血が吹き出る!」
「おらの血のにおいで……も、もっと狼が来ちまう……今ならまだ間に合うだ……おらをおいて逃げろ……!」
「いやだ!」
おまけに勇気の効力も底が見え始めていた。
確かにそれは一輪の心を守ってくれてはいる。が、この絶体絶命の状況をどうにかするにはあまりにも頼りない。
「いやだいやだいやだっ! 兄さんを置いていくくらいなら私が代わりに食われてやる!」
強がるほど兄の言葉は余計に正しく聞こえた。狼の一匹が相手ですら身動きが取れないのだ。これがあと何匹も、何十匹もとくれば結果は……考えるまでもない。
おまけに山狼は嵐明けでさぞ腹を空かしていることだろう。きっとすぐに皆を食い殺しにくる。そう、すぐにでも……
――ああっ!
瞬間、駆け抜ける光明。
迷ってる時間は無い。
キッと瞳を強く輝かせ、一輪は白狼を睨め付ける。その眼光をまともに浴びて少女の何倍もの体躯を持つ獣が後ずさった。びしりと突きつけられる小さく細い人差し指。
「やい狼! あんたの考え見越したぞ! あんたはこの山の狼じゃない。だから迷っていたな? あんたが私たちを食い殺すのが早いか、この山の狼たちが血のにおいを嗅ぎつけるのが早いかを!」
狼はもう唸り声さえあげない。図星というわけだろうか。一輪はさらに畳み掛ける。その声音には僅かほどの躊躇いもなく、また容赦もない。
当然だ。これは二人の生存競争。開かれた彼女の小さな口の生え変わる前の鋭い乳歯は、狼よりも牙だった。
「私たちをたちまち食い尽くすつもりだったんだ。でも私が邪魔をした! そうだよ! 私は死ぬまで抵抗してやる。腕を食いちぎられても、喉笛をかっさばかれても、私の家族が逃げのびるまで、おまえに食らいついてやるぞ!」
無論その結末は。もしもそんなことになれば。
まずもって一輪は死ぬだろう。兄弟たちも無事ではない。果たしてそんなことになれば、そんなふうに間抜けに血の臭いをばらまくようなことをすれば、たちまち山狼たちが殺到するはずだ。飛び散る血肉と臓腑。幼子の悲鳴の未来。
だが。
一輪の眼前でだばだばとよだれを垂らしている白狼にとってもまた、それは憂うべき未来。殺到した山狼たちはすぐにでも、自分等の縄張りへの闖入者に気づくだろう。手負いの白狼に気がつくだろう。
口惜しげな吠え声が一つ響く。
白狼が踵を返す。
痛み分けによる確実な死よりは、まだ腹を空かせて彷徨うほうがマシということらしい。
危機が去っていくことを理解して弟たちがどっと息を吐く。だというのに。
「待て狼!」
ぴたり、白狼の四つ足が止まる。苛立たしげな唸りが再び空気を震わすが、やはり一輪の頬には汗一つ見当たらない。
どころか――振り返った白狼の金色の瞳に映る少女には、今や欠片ほどの敵意も見当たらなかった。
「兄さんを傷つけたことは許せない。でも、腹を空かせる苦しみもわかる。去年はひどい飢饉でさ、じいやもばあやも骨と皮みたいになっておっ死んじまった。私も売られる寸前だった」
ぼたりとまた狼の口からよだれが滴る。よく見れば白狼の頬は痩せこけ、満足に口元を食いしばることもできないらしかった。それで唾液のこぼれるのを止められないのだ。
「ここから真っ直ぐ行くと小川がある。それに沿って降りていけば、あけびやカラスウリがたくさん生えてる茂みが見つかるはず」
本当は一輪たちの冬の蓄えになるはずの、貴重な山の実りだ。それでも一輪の胸に後悔は無かった。むしろこのまま黙って狼を送り出すほうがよほど後悔する気がした。
僅かな沈黙があったが、お互いに時間のないことを承知していたのだろう。白狼はもう立ち去るところだった。が、その去り際に、
「なぜ私が一人なのかと問うていたね?」
血染めの梅の花を思わせる声が一輪の胸を震わす。それが白狼の声なのかどうか……しかし他に声を発するものも無い。
「周りと違うやつは、善かれ悪しかれ、独りで生きていくしかないものなのさ。おそらく、おまえさんもそうなるよ」
「私は皆と同じだ。皆より出来が悪いくらいだもの」
一輪の反駁には付き合わず、声は冷徹に、されどどこか慈しみのある声で続ける。
「仲間を見つけることだね! お礼代わりのこれが忠告。割れ鍋に綴じ蓋というように、除け者には除け者に似合いの仲間がいるもんさ。私はついぞ見つけられ無かったが。まったく自惚ればかり強くてさ! それと……こちとら食いっぱぐれたんだ、あんたの家族に爪を立てたことは謝らないよ」
「いいよ。謝られても許さないから」
「は!」
そして今度こそ白狼が木立の闇の中に消え、声も聞こえなくなった。代わりに大きな遠吠えが一つ響いた。一輪が生涯忘れ得ぬ程の美しい遠吠えだった。
次いで、いつしか一輪たちの周囲に群がっていた無数の気配が総毛立ち、遠吠えの響いた方へと向けて――縄張りを犯す余所者めがけて、ガサガサと獣道を駆け抜けながら消えていった。
山に静寂が戻った。
が、今度は耳馴染みのある呼び声が一輪の耳に届いた。上の兄が涙をぼろぼろ流しながら駆け寄ってきて、この小さな妹を抱きしめ、崩れ落ちかける。
「一輪! それに皆も無事――って次郎おま、おまえその怪我は大丈夫なのか!?」
「兄さん? どうしてここが?」
「おまえたちが『土砂崩れ』を見に行っちまったって六助がぎゃんぎゃん泣いてたんだ! こんのバカもんが! おらたちがどんだけ心配したか――ああ次郎立てるか、おらに掴まれよ」
「だ、大丈夫だ。一輪がすぐ血いさ止めてくれて、自分で立てる……」
「一輪が?」
驚きに口を半開きにしたままの長兄に向け、さらに弟たちが口々に訴える。
「狼が出たんだよ!」「一輪姉ちゃんが追っ払っただ!」「すんげえかっこよかった!」「一輪姉ちゃんは狼よりつんええよ!」
「お、おいおい……本当なのか……?」
顔を上げて一輪を見やった長兄の見開かれた瞳の奥には、家族の無事に安堵する平凡な幸福の色合いとは別に、どこか異質なものを見つめるぞっとするほど余所余所しい光がほんの一瞬だけよぎっては、消えた。それはこれより先、一輪が飽き飽きするほど目にする恐怖と拒絶の光だった。あの白狼の予言の通りに。
事実、これより千と数百年。かの予言の影は常に一輪の背後に張り付いてまわることとなる。
だが、一方で。
白狼の遺した忠告がある。仲間を見つけろ! と。除け者には除け者に似合いの仲間がいるものだ、という世の摂理。
それを彼女が心より実感するのは、やはりこれより千と数百年。遠い未来の話である。
雲井一輪という平凡な少女がいた。二人の兄と三人の弟がいて、姉と妹は一人も居ない。朴訥で堅実な農夫の父と母を持ち、日が暮れるまでたなびく雲を眺めているような穏やかな子だった。少なくとも、周囲からはそのように思われていた。
ひどい嵐の夜の次の晩。
下の兄が「崖崩れ」を見に行こうと言い出したことが彼女の運命を緩やかに、しかし確かに変えることとなる。
一輪は下の兄と二人の弟(一番下の子は怯えて着いてこなかった)と共に「崖崩れ」の起こったであろう山へと入っていった。春には山菜を、秋にはキノコや果物を取りに来る山だ。彼らには勝手知ったる裏庭のようなもの。そのはずだった。
「姉ちゃん! 一輪姉ちゃんっ!」
上の弟の憐れげな声が響く中、幼い一輪はぬかるみの土の上に細い両足を力強く突き立てて、血塗れの兄を庇っていた。彼の虚ろな表情、グッタリとした体躯に向け、下の弟が懸命に声をかけている。その両目からはだくだくと涙が溢れているが、呼びかけるのはやめない。一輪がそう命じたから。
「兄さんの息が弱い。四太、傷口をしばってやって。そんで兄さんが仏さんに連れてかれないよう、行くな行くなって声かけてやんなさい!」
一輪とてまだ齢十を数えたばかりの少女である。それでも彼女の声音に震えはなかった。
揺るぎない二つの輝きの向かう先で、低い唸り声が空気をふるわす。
狼だ。それも珍しい純白の毛皮の狼である。あと百年も生きれば山神の端くれになれるだろう立派な狼……しかしその後ろ足は酷く歪み、赤黒く汚れていた。それこそ、狼に噛み砕かれたかのように。
「あんた……この山の狼じゃないね」
発された問いに驚いたのは他でもない、一輪だった。狼に何を問うている? 時間稼ぎのつもりだろうか?
しかし一方では確信が彼女の胸の内にあった。これだけの立派な白狼は滅多にお目にかかれ無い。きっと何十年と生きているのだろう。どこぞの主と言われてもおかしくないくらいである。
だというのに。一輪の家族も、他の村人たちも誰もこんな白狼の話などしたことがない。理由は至極単純。これまでこんな白狼は山に住んでいなかったのだ。
おそらく夕べの嵐で鼻が鈍り、ここらの山にまで迷い込んだのだろう。普通は狼同士縄張りというものがあるが、こちらの山側の狼たちも嵐で出てこられなかったに違いない。
「でも狼ってのは普通、家族で暮らすものだろう。あんた、なんだって一匹だけなのさ」
くぉるる、とまた低い声が響く。獰猛な牙の覗く口元からはよだれが滴り落ちる。無理もない。仕留め掛けの獲物がすぐ先に転がっているのだ。
だが眼前に立ち塞がる少女の機転により狼は、情けなくも「待て」を喰らう形となっている。一輪は自分より三つも上の兄が何者かに襲われたと見るや否や、全身全霊の膂力でもって兄の体を後ろへ投げ飛ばし、さらには弟たちにも下がるよう素早く指示を飛ばした。熟練の戦人のような状況判断。だがそれをしたのはまだ十を数えたばかりの少女。
火事場の馬鹿力だろうか?
しかし一輪の脳内は荒ぶる炎よりもむしろ静水のごとく落ち着いていた。
(なぜだろう……大人だって食い殺しそうな狼がいて、兄さんは血塗れなのに、ちっとも恐ろしいって気がしない。少しの震えも感じない。私おかしくなってしまったのか? でも私がこうしていなかったら、みんなとうに食い殺されていた。それだけは間違いないわ)
恐ろしいどころか、胸の奥から奥から勇気が湧いてくるような気さえする。揺るぎない双眸を白狼に向けながら……一方で鎌首をもたげる疑問。
自分がこうしていなければとうに食い殺されていた。一輪はそれを理解している。だが彼女はただの人間の小娘に過ぎない。いくら手負とはいえ、狼からすれば子供一人殺すのも四人殺すのも大差ないはずだ。
ならばなぜ、自分たちは生きている?
自分が兄弟の前に立ち塞がったことで、いったい何が変わったというのか……?
「一輪……逃げろ……」
「兄さん!? 喋ってはダメだよ、血が吹き出る!」
「おらの血のにおいで……も、もっと狼が来ちまう……今ならまだ間に合うだ……おらをおいて逃げろ……!」
「いやだ!」
おまけに勇気の効力も底が見え始めていた。
確かにそれは一輪の心を守ってくれてはいる。が、この絶体絶命の状況をどうにかするにはあまりにも頼りない。
「いやだいやだいやだっ! 兄さんを置いていくくらいなら私が代わりに食われてやる!」
強がるほど兄の言葉は余計に正しく聞こえた。狼の一匹が相手ですら身動きが取れないのだ。これがあと何匹も、何十匹もとくれば結果は……考えるまでもない。
おまけに山狼は嵐明けでさぞ腹を空かしていることだろう。きっとすぐに皆を食い殺しにくる。そう、すぐにでも……
――ああっ!
瞬間、駆け抜ける光明。
迷ってる時間は無い。
キッと瞳を強く輝かせ、一輪は白狼を睨め付ける。その眼光をまともに浴びて少女の何倍もの体躯を持つ獣が後ずさった。びしりと突きつけられる小さく細い人差し指。
「やい狼! あんたの考え見越したぞ! あんたはこの山の狼じゃない。だから迷っていたな? あんたが私たちを食い殺すのが早いか、この山の狼たちが血のにおいを嗅ぎつけるのが早いかを!」
狼はもう唸り声さえあげない。図星というわけだろうか。一輪はさらに畳み掛ける。その声音には僅かほどの躊躇いもなく、また容赦もない。
当然だ。これは二人の生存競争。開かれた彼女の小さな口の生え変わる前の鋭い乳歯は、狼よりも牙だった。
「私たちをたちまち食い尽くすつもりだったんだ。でも私が邪魔をした! そうだよ! 私は死ぬまで抵抗してやる。腕を食いちぎられても、喉笛をかっさばかれても、私の家族が逃げのびるまで、おまえに食らいついてやるぞ!」
無論その結末は。もしもそんなことになれば。
まずもって一輪は死ぬだろう。兄弟たちも無事ではない。果たしてそんなことになれば、そんなふうに間抜けに血の臭いをばらまくようなことをすれば、たちまち山狼たちが殺到するはずだ。飛び散る血肉と臓腑。幼子の悲鳴の未来。
だが。
一輪の眼前でだばだばとよだれを垂らしている白狼にとってもまた、それは憂うべき未来。殺到した山狼たちはすぐにでも、自分等の縄張りへの闖入者に気づくだろう。手負いの白狼に気がつくだろう。
口惜しげな吠え声が一つ響く。
白狼が踵を返す。
痛み分けによる確実な死よりは、まだ腹を空かせて彷徨うほうがマシということらしい。
危機が去っていくことを理解して弟たちがどっと息を吐く。だというのに。
「待て狼!」
ぴたり、白狼の四つ足が止まる。苛立たしげな唸りが再び空気を震わすが、やはり一輪の頬には汗一つ見当たらない。
どころか――振り返った白狼の金色の瞳に映る少女には、今や欠片ほどの敵意も見当たらなかった。
「兄さんを傷つけたことは許せない。でも、腹を空かせる苦しみもわかる。去年はひどい飢饉でさ、じいやもばあやも骨と皮みたいになっておっ死んじまった。私も売られる寸前だった」
ぼたりとまた狼の口からよだれが滴る。よく見れば白狼の頬は痩せこけ、満足に口元を食いしばることもできないらしかった。それで唾液のこぼれるのを止められないのだ。
「ここから真っ直ぐ行くと小川がある。それに沿って降りていけば、あけびやカラスウリがたくさん生えてる茂みが見つかるはず」
本当は一輪たちの冬の蓄えになるはずの、貴重な山の実りだ。それでも一輪の胸に後悔は無かった。むしろこのまま黙って狼を送り出すほうがよほど後悔する気がした。
僅かな沈黙があったが、お互いに時間のないことを承知していたのだろう。白狼はもう立ち去るところだった。が、その去り際に、
「なぜ私が一人なのかと問うていたね?」
血染めの梅の花を思わせる声が一輪の胸を震わす。それが白狼の声なのかどうか……しかし他に声を発するものも無い。
「周りと違うやつは、善かれ悪しかれ、独りで生きていくしかないものなのさ。おそらく、おまえさんもそうなるよ」
「私は皆と同じだ。皆より出来が悪いくらいだもの」
一輪の反駁には付き合わず、声は冷徹に、されどどこか慈しみのある声で続ける。
「仲間を見つけることだね! お礼代わりのこれが忠告。割れ鍋に綴じ蓋というように、除け者には除け者に似合いの仲間がいるもんさ。私はついぞ見つけられ無かったが。まったく自惚ればかり強くてさ! それと……こちとら食いっぱぐれたんだ、あんたの家族に爪を立てたことは謝らないよ」
「いいよ。謝られても許さないから」
「は!」
そして今度こそ白狼が木立の闇の中に消え、声も聞こえなくなった。代わりに大きな遠吠えが一つ響いた。一輪が生涯忘れ得ぬ程の美しい遠吠えだった。
次いで、いつしか一輪たちの周囲に群がっていた無数の気配が総毛立ち、遠吠えの響いた方へと向けて――縄張りを犯す余所者めがけて、ガサガサと獣道を駆け抜けながら消えていった。
山に静寂が戻った。
が、今度は耳馴染みのある呼び声が一輪の耳に届いた。上の兄が涙をぼろぼろ流しながら駆け寄ってきて、この小さな妹を抱きしめ、崩れ落ちかける。
「一輪! それに皆も無事――って次郎おま、おまえその怪我は大丈夫なのか!?」
「兄さん? どうしてここが?」
「おまえたちが『土砂崩れ』を見に行っちまったって六助がぎゃんぎゃん泣いてたんだ! こんのバカもんが! おらたちがどんだけ心配したか――ああ次郎立てるか、おらに掴まれよ」
「だ、大丈夫だ。一輪がすぐ血いさ止めてくれて、自分で立てる……」
「一輪が?」
驚きに口を半開きにしたままの長兄に向け、さらに弟たちが口々に訴える。
「狼が出たんだよ!」「一輪姉ちゃんが追っ払っただ!」「すんげえかっこよかった!」「一輪姉ちゃんは狼よりつんええよ!」
「お、おいおい……本当なのか……?」
顔を上げて一輪を見やった長兄の見開かれた瞳の奥には、家族の無事に安堵する平凡な幸福の色合いとは別に、どこか異質なものを見つめるぞっとするほど余所余所しい光がほんの一瞬だけよぎっては、消えた。それはこれより先、一輪が飽き飽きするほど目にする恐怖と拒絶の光だった。あの白狼の予言の通りに。
事実、これより千と数百年。かの予言の影は常に一輪の背後に張り付いてまわることとなる。
だが、一方で。
白狼の遺した忠告がある。仲間を見つけろ! と。除け者には除け者に似合いの仲間がいるものだ、という世の摂理。
それを彼女が心より実感するのは、やはりこれより千と数百年。遠い未来の話である。
一輪に兄弟が多いことに妙な納得感がありました
白狼の忠告に対してこの返しが出来る一輪がかっこよかったです。