寝ぼけまなこに時計を見やれば、針は仲良く天を指す。私の週末は、既にその四分の一が失われていた。
花の金曜日、なんて言うけれど、それって要は居酒屋のしょうもない販売戦略なんだから、うかうかと乗せられてんじゃないわよ。けだるい頭で昨日の私を糾弾する。過去の自分はいつだって愚かしい。それを認識できたのだから、今日の私は文句なく進歩している。素晴らしいことだ。勝利の美酒に酔おう。祝いじゃ、朝餉を持て。いや昼飯か? とにかく、空腹なのは事実である。
くだらなすぎる独り芝居。毎週毎週、同じことの繰り返しだ。
おお、変わらぬ日常よ、永遠を封じた白い夜空よ、まどろみの砂漠に立つ貴人よ、汝のなんと美しきことか。例えるなら、そうね、飲み放題のうっすいレモンサワーによく似てる。上司と一緒にくたばってくれ、頼む。
こういう自己嫌悪は人を駄目にするものと相場が決まっているので、ここらでやめておこう。
未だ眠気を訴える体に鞭打って、キッチンに向かう。自炊なんてできようはずもないので、狙いは冷凍食品である。味と手軽さをこれ以上の水準で両立した食品のあり方を、人類は未だ見つけ出せていない。
それにしてもどうして土日というのはこんなに進みが早いのであろうか。水曜日とは大違い。とはいえ別に、休日が多少吹っ飛んだって構わないのだが。
やむなし、趣味なし、予定なし。暇があっても意味がなし。ついでに冷凍庫の中身もなし、と。今日はツイてない日みたいだから、なにか食べたら一日中寝て暮らそう。
そんな風に怠惰な未来に思いをはせながら、未練がましく保冷剤の山をかき分けたとて、ただむなしさが見つかるばかり。しかしそれでも手を動かしていると、保冷剤の隙間に挟まって、なにやら金属の棒を突き出した、小さな黒色が目にとまった。よく見ると、どうやらそれは鍵のようである。
なぜこんな場所にあるのだろうか。鍵を冷やす趣味の待ち合わせなどない。そもそも、正体に思い当たる節もなかった。今時、こんな徹頭徹尾物理的な鍵の出番なんて、そうそうないのである。身の回りは電子か、カードキーばかりだ。
指先でつまみあげると、下に埋もれていたのであろう、擦れる音とともに、チェーンが抜け出てきた。先端に、白い子猫をかたどったストラップが揺れている――
うずくまってこちらを見ているその姿勢。
九条坊門の道沿いを並んで歩いていた時に、老人が独りでやっていた土産屋の店先に見つけた。
黄色い目は、塗装が剥げて少し欠けている。
安物だった。犬だの梟だのペンギンだの、似たような小物といっしょくたに山積みにされていて、蕎麦一杯分でいくつでも買えそうだった。
持ち上がった尻尾が描くゆるやかな曲線。
結局それ一つしか買わなかったのに、気を利かせた店主は丁寧に包んでくれた。
丸々とした輪郭が、生き物の柔らかさを捉えている。
あなたって猫に似てると思うから。そう言って渡したときの、あの子の表情、声、しぐさ。
今日まで忘れていた。
全て覚えている。
十年も経ったというのに。
◇
彼女がどこからか拾ってきた自転車を押して帰ってきたときは、ちょっとした喧嘩になった。彼女には、量子割り人形とか、大根ほどの大きさの釘とか、気に入ったガラクタをむやみやたらと家に持って帰ってくる習性があって、しかもその大半はガラクタらしく、何の役にも立たないでさして広くもない部屋を占領するばかりであるから、困り物であった。問い詰めても、いつだって「でも、きっといつか役に立つわ」と飄々としていたし、その時も、全く同じやり方で私の怒りをすっかり受け流してしまった。実際その自転車は、彼女の蒐集物の中でも相当実利的な部類であったから、後日謝罪する羽目になった。
籠の少し錆びたそいつは、なんとも古臭いことに、私たちが足を動かさなければちっとも進もうとしない頑固者で、乗りこなすために我々はしばらくの練習を強いられた。あの子は上手だった。ひらりと乗りこなした。よく両の腕を水平にひろげたまま走り回って、得意げにしていた。よくもまあ、こけて怪我をしなかったものだと思う。
小さな鍵を失くしてしまわないか、しきりに心配していた彼女はやがて、私があげたストラップを括り付けた。そうして指先でもてあそびながら「これで安心。だってあなたからのプレゼントだもの、絶対失くさないわ」なんてはにかんだ。
はじめこそ、そこらで電動スクーターを借りる方がよいと思っていた私はその価値を疑っていたが、一度乗れるようになってしまえば、ちょっとそこまで買い物に行きたいような時に重宝したのであった。私たちのマンションは駅から少し離れていたから、案外出番は多かった。流線型がずらりとならぶスクーター置き場に、武骨な銀のフレームがよく目立ったことを覚えている。
お世辞にも、出来の良い乗り物ではなかった。左側のハンドルに据え付けてあったベルは、緩んでいたのか、段差で意図せず小さな音を立てた。さして速いわけでもなかった。ギアが壊れていて、六速にはそもそも入らなかった。少しブレーキの効きも悪かった。減速しようとすると、きいきい鳴った。なにより、坂道がかなりつらかった。
一度、自分たちで、もっと新しくて速くて便利な動力付きスクーターを買ってしまおうかという話も出た。けれども、大学生の二人暮らしにそういう余裕はなかった。だから私たちは、古びた自転車を共有して、使い続けた。
彼女はむしろ、その貧乏を喜んでいたような気もする。歩くようなスピードで、ゆっくりとペダルを漕ぐことを好んだ。不意にちりんと鳴るベルの、涼やかな響きに耳を傾けていた。長い金髪を揺らしながら、実に楽しそうに立ち漕ぎをした。不便を慈しむようなところがあった。
私たちの生活は結構その自転車に支えられていた、ということを認めないわけにはいかないだろう。
私が押して、二人で歩いたこともあった。自転車を挟んで、タンポポの根っこがいかに長いかという話をした。
彼女が乗って、籠に荷物を置いてもらった私は横を歩いたこともあった。彼女は歩くスピードに合わせるのがずいぶん上手かった。
変わりばんこに漕いだこともあった。足が地面に付いたら交代というのが、私たちのしきたりだった。
ほとんどの場合、近場にしか連れて行かなかったが、自転車をずいぶん気に入ってた彼女はある時、上賀茂までのサイクリングを計画した。行く道では、スクーターを借りた私のことを裏切り者だとののしっていたが、やがて疲れ切った羨望のまなざしを向けるようになり、結局、復路は私が漕ぐ羽目になった。彼女は平気な顔をして、科学の力で風を切っていた。それですっかり満足したらしく、以降はもう遠征することもなかった。
ずいぶん愛着を持ってしまった我々が、酔った拍子に名前を付けようということになって、一晩中議論していたこともあった。翌朝には、そんなことお互いコロッと忘れてしまっていたけれど。果たして、私はなんて名前を推していたんだったか。
一緒に観た映画に影響されて、二人乗りを試したこともあった。私は後ろに乗ったが、想定していたより窮屈で、それほど面白いものではなかった。下り坂で思いのほか速度が出て、二人して大いに焦った。今思えば、坂道を転げるように大学生活を駆け抜けていた、あの頃の私たちにはぴったりだったのかもしれない。
◇
窓の外から子供達の遊ぶ声。私は、錆びついた鍵の歯から目を離せないでいる。
突如眼前に出現した古びた鍵が、掠れた記憶の蓋をこじ開けて、私を石ころみたいにしてしまったのであった。
それは、古き良き日々のひとかけらだった。やることなすことすべてが輝いていた、私たちの黄金時代が残した最後のひとしずくであった。
そして同時に、私が決別したものの残滓でもあった。前に進むためだと自らに言い聞かせ、火にくべた冒険ノートの切れ端だった。未練がないなんて、子供みたいに強がるために、切り捨てたはずだった。
◇
寝食を共にした期間の割に、彼女の私物はずいぶん少なかった。衣装ケース一つを郵便に出せば、あとはもう、大きめの手提げ袋一つにすっかり収まってしまった。もとより、さして物欲のある人でもなかったが、活動で得たあれこれや、拾い集めたガラクタ類は、全部残していくと言う。理由を問えば「思い出しちゃうから」と言葉少なに微笑む彼女が、そんな時にも愛しくて、それがただただ悲しかった。そのくせ私は、表面上は取り繕って、努めて平然な風を装っていたのだ。縋りつけるほど子供ではなかったし、さりとてきっぱり諦められるほど大人でもなかった。あの子もきっと、そうだったのだろう。私たちはお互い、中途半端なままで暮らしていた。
軽く掃除を済ませて、玄関先で合鍵を渡されて、それで私たちの別れの儀式はあっさり終わった。喧嘩別れではなかったから、穏やかなものだった。その穏やかさが、余計に私を苦しめた。
じゃあね、と手を振った彼女がどんな顔をしていたのか、今ではもう思い出せない。何も気の利いたことが言えないで、ただおうむ返しをしてしまったことだけは覚えている。
その、たった四文字のあいさつに、私はありったけの意味を込めようとした。口にしないで、伝わるはずもないのに。そういうのは野暮ってもんだと、かっこつけたのであった。
駅まで歩く彼女の後ろ姿を、私は見送らなかった。
彼女は、残したものは自由に使っていいなんて言っていたが、迷わずすべて捨てた。少しでも、彼女を思い起こさせるようなものは、許しておけなかった。当時の私は自分の心と折り合いをつけるのに、それ以外の方法を知らなかった。連絡先も、写真も、すべてゴミ箱に放り込んだ。忘れることによってのみ、新たな一歩を踏み出せると信じていた。後ろを向くなんてみっともないとさえ思っていた。壊すことによってしか、自らを表現できなかった。オカルト趣味もすっかりやめてしまった。彼女の痕跡は何も残らなかった。残さなかった。
今の私には、彼女の顔さえ確信が持てない。記憶の中に朧げに浮かぶ少女の姿は、あるいは自分の理想の投影でしかないのかもしれなかった。
確かめる術は、もうない。
あの自転車も、それきり一度も乗らないで、スクラップにしてしまった。
◇
棚に残っていたカップ麺を朝食とすることにした。ソファーに寝転がってぼんやり鍵を眺めていたら、麵が伸びてしまったが、味に大差はない。すすりながら、先ほどの不意な遭遇を咀嚼する。
彼女の記憶と真っ向から向き合うのは初めてのことだったから、それなりに覚悟はしたが、しかし自分でも意外なことに、別段ショックは受けなかった。後悔の念が湧くというわけでもなかった。悲しいとも思わなかった。記憶の中の悲しみに満ちた私に、共感こそすれ、実感はできなかった。ただただ、あの頃が懐かしかった。それは、実家に帰って、卒業アルバムをめくるような感覚だった。
あの日、あの時、玄関先で恥も外聞も投げ捨てて、もっと一緒にいてほしいと泣き叫べば、我々はまだ二人でいられたのだろうか、あるいは、そうするべきだったのだろうか。なんて、昔はずいぶん後悔したっけ。幾度も自分を責めた夜があった。いつからだろう、何も考えないようにして、乗り越えるようになったのは。
今では、別に当時の私が間違っていたとは思わない。ただ、愚かだっただけだ。それとて、悪いことではない。愚かであることは、過去の自分にだけ許された特権だから。
そもそも、正解不正解で考えるべき問題じゃないだろう。なんて考えがぼんやり浮かんで、我ながらびっくりした。そういう風に達観できてしまえるほどに、ようやく自力で、解答ができてしまうほどに、年月が経ったということか。十年の月日は、暴風のような激しい感情すらも和らげてしまったようであった。
……ああ、そうか。私の中ではもう、あの頃は思い出になっているんだな。
とっくの昔に、それは私が生きる現実ではなくなっていた。祈りの宛先でも、後悔を述べる懺悔室でもなかった。それは、乗り越えた後の荒波であり、厳然と、私の人生に刻まれて、しかしもう痛まない爪痕でしかなかった。
そこにはただ、遥か遠くなってしまった日々への、郷愁のような懐かしさしか残っていない。あの頃はよかったとは思う。だけど戻りたいとは、思わない。
それを私は、今になってようやく理解できたらしい。そう気づいてからやっと、少し泣いた。
今までずっと、目を逸らしていたんだ。あの子がまだ、私の心に生きていたらどうしようって、恐れていたんだ。
私は暗がりに怯えて、振り向けないままに夜道を行く子供であった。そこには影しかいないのに。
なまじ、全てを忘れようとしていたから、いつまでたってもそのことが飲み込めなかったのだろう。
それに、見返してみれば、悪い思い出ばかりではなかった。悲しいばかりじゃなかった。彼女と二人で自転者を漕いでいたあの日々は、間違いなく私にとって幸せだったのだ。そんな当たり前のことですら、忘却していた。
ありがとう、昔の私。あんたは過去を処分し損ねた、詰めの甘いやつだったけど、おかげで、大切なことに気づけたわ。
目元を指先で拭って、醬油ベースのスープを飲み干せば、舌に絡みつくような、濃いけれど、ありきたりな後味だけが残った。
それから、溜まっていた洗い物を片付けて、軽く部屋を掃除する。窓を開ければ、春風が青葉の匂いを吹き込んだ。
鍵の処遇については、結構困った。目立つところに飾っておくというのは、なんだか違う気がする。まさか元あった場所に戻すというわけにもいくまい。さりとて、今更捨てようという気にもならなかった。
だって、どうしたって、過去を無かったことなんか、できないのだから。
だって、目を逸らして、一生懸命に封じ込めて、全て捨て去ったような気になったとしても、記憶はただ、凍てつくだけで、些細な拍子に溶けてしまうものなのだから。
だって、どんなに残酷だったとしても、どれほど冷淡だったとしても、思い出というものはどうしようもないほどに、美しいのだから。
結局、鍵は箪笥の引き出しに放り込んでおいた。あるいは、私はその存在をすぐに忘れ去って、埃を被ってしまうような気もする。主である自転車はとっくに粉々にされたから、もはや、作られた本来の目的を全うすることも、未来永劫なさそうである。
それでも、いつかまたきっと、不意に私の前に現れて、思い出の扉を開ける鍵になってくれるだろう。未来の私は、このささやかな贈り物を前にして、一体何を思うのだろうか。それはまだ、わからない。
今はただ、古ぼけた自転車がきいきい金具をきしませながら、再び私の人生をゆっくり横切っていくその日を、楽しみとするばかりである。
さて、せっかくのいいお天気なんだから、今日は映画でも観に行こうかしら。
「私の週末は、既にその四分の一が失われたらしい。」等の独特な言い回しや、「量子割り人形」等の胡散臭さと未来感を併せ持つ物品など、秘封俱楽部の私生活や価値観が透け出ていて面白かったです。
秘封倶楽部の単語こそあれど、蓮子とメリーの名前が出てこないにも関わらず、秘封俱楽部の話であると伝わるのがとてもおしゃれで感動しました!
結局なぜ冷凍庫から鍵が出てきたんでしょうね
自転車のカギを冷蔵庫に入れてしまうのはあるあるなのかと思いました