宇佐見蓮子が彼女を誘った理由はたまたまであった。大学入学者の国籍は年々多様性を増していたが、それでも、春風に揺れる長い金髪は否が応でも目を引いた。有り体に言ってしまえば、東京者には物珍しかった。B-4棟前の、大きなイチョウの真下に据え付けられたベンチに一人、腰かけていた。所在なさげであった。つまらなそうという風ではなかったが、さりとて特段楽しそうでもなかった。だめでもともと、声をかけない意味も無かった。
マエリベリー・ハーンが彼女の誘いに乗った理由はなんとなくであった。大学入学者の国籍は年々多様性を増していたが、それでも、どこか疎外感のあることは否めなかった。同郷から来た学生は見当たらないようであった。それでも構わないと楽観していた。生来、独りが苦にならない性質でもあった。しかし、暇を持て余すことは避けられなかった。四限が終われば、帰って寝るだけの木曜日。断る理由を見つけ損ねた。
その時は、また後で話をしましょうと、口約束だけで切り上げた。どちらも授業がまだ残っていたのだ。記憶以外に、二人の結びつきを証明するものは無かった。馴れ初めは、互いの思い出の中に封じられている。
待ち合わせ場所に選ばれたのは、あまり使われていない大学西門から道路を挟んで向かいの喫茶店であった。もし遅れたら、先に入っていてもらって構わないと蓮子は告げた。事実、彼女は時間通りには現れなかった。小さな雑居ビルの2階にその店はあって、急な階段を上ると、木目調のこぢんまりとした手書き看板がメリーを出迎えた。
純喫茶と銘打つわりに、店内の様子はいたって現代的である。ただ、窓際に二つ、それ自体がレトロゲームの筐体になっているテーブルがあって、喫煙自由との組み合わせが店の売りらしかったが、このご時世に古いゲームもタバコも流行るまい。現に、客は一人も入っていないようであったから、メリーは堂々と、ゲーム席を所望することができた。よほど紅茶付きケーキセットを頼もうかとも思ったが、せっかくなので、メロンクリームソーダと自家製プリンにしておいた。
遊べるゲームは一つしかなかった。23世紀に世界的大ヒットを記録した、剣と魔法を自在に操って自由気ままに冒険できるオープンワールドアドベンチャー、と御大層な紹介だったがメリーは10分で飽きた。だいたい、わざわざゲームで自由を謳う意味がわからなかった。私は私の想定を超えた動きができないのだからつまらない、というのが彼女の持論である。学生生活を持て余している彼女にとっては、画面の世界に得た、人工の解放すらも荷が勝ちすぎ、また息苦しかったのであった。
頼んだはずのプリンはまだ来ない。待ち人も来ない。
唯一やってきたメロンソーダは、この世全ての甘ったるいという概念を丹念に拾い集めて一杯のコップに詰め込んだような味わいである。甘量保存法則にしたがえば、今私以外の全人類は甘味を知覚する機能を失っているはずよ、などとくだらない考えがメリーの脳裏をよぎった。
いよいよやることがなくなって、あまり人の善意を当てにして口約束を本気にするのはやめた方がよいかもしれないな、なんてしばらく窓の外をぼんやり眺めていたメリーの視界に、黒い帽子と白いリボンがようやく飛び込んできた。大学の門を出て、きょろきょろ左右を見回して、今にも横断歩道をこちらに渡ってこようとする様子である。
後からメリー自身も認めたように、この時の彼女は、どうすればことを荒立てずに断れるだろうか、ということしか考えていなかった。言ってしまえば、かなり不機嫌であったのだ。遅刻を咎めたてても良かったが、あまり物事を険悪な方向に進めるのは彼女の流儀ではない。それは、きっともう二度と関わることがないであろう相手にさえそうであった。
そんなメリーの考えも、そもそも上から見られていることさえもつゆ知らず、車通りの無いことを確認した蓮子は歩き始めた。今まさに人を待たせていて、そこに向かっているのだとはとても思えないくらい堂々と、そして悠然とした歩き方である。それがまたメリーには腹立たしく思えた。
さて、彼女が一歩踏み出したときのことである。その頭上に突如巨大な円盤状の物体が飛来した。円盤上部にはいくつか丸いキャノピーが据え付けてあって、どれも青白い光を怪しく放っていた。え、と見ていたメリーが思わず声を漏らしたときには、既に円盤の底部が機械的な動きとともに何やら変形して、蓮子に向ってキャノピーと同じ色合いの謎めいた光を照射し始めていた。すなわち、未確認飛行物体による連れ去り、アブダクションである。
何を隠そう、アンドロメダ銀河に住まう高度知的生命体の一集団が、危機に瀕した母星からの移住先を選定するため、むやみやたらに無人探索機を宇宙中にばらまいたのである。そして高度に発達したAIに制御されたそれらは他星侵略の尖兵として、現地生物を特に意味もなく捕獲して会話を試みる、内臓を抜き取る、あるいは夜空にぴかぴか浮かぶなどの凶行に及んでいたのであった。
たとえ今日が初対面であったとしても、いかにそいつが気に食わなかったとしても、マエリベリー・ハーンという人間は知人が今まさにキャトルミューティレーション、もといヒューマンミューティレーションの危機に瀕していると知って、座してみていられるほど薄情な人間ではなかった。
しかし彼女が立ち上がろうとしたその時には、事態は既に新たな局面を迎えていた。そう、それは蓮子が右車線の中ごろに差し掛かったという瞬間であった。彼女がほんの0.2秒前までいたまさにその場所に、一羽のペンギンがするりと降り立ったのである。みごとに腹ばいであった。
何を隠そう、索餌のために海に飛び込もうとした南極大陸に住まうアデリーペンギンがうっかり飛び込みの角度を間違え、ついでに力強すぎる踏みきりによって大気圏脱出速度を突破してしまい、軌道周回を経て落下してきたのである。これは動物園のペンギンがよくこけるのと全く同じ理屈だ。これまで彼らはこのような持ち前の可愛さによって人類を悩殺してその庇護を獲得してきた。しかし今回ばかりはそのドジっ子っぷりが仇になったと言わざるをえまい。
もちろん、数多のドキュメンタリーで繰り返し主張されてきたように、ペンギンは我々が一般に考えるよりずっとたくましい生命体で、その翼と羽毛を活かして自在に遊泳することができる。この度も自慢のフリッパーを用いた姿勢維持能力と卓越した肺活量によって宇宙遊泳を難なくこなし、体温調節に優れた羽毛によって大気圏再突入時の断熱圧縮を軽々いなし、熟練のトボガン滑りによってケガ一つなく静粛に帰還してのけた。
しかし彼には一つ大きな誤算があったのだ。それはもちろん、着地点上空に浮かぶUFOの存在である。
突然の闖入者に飛行機械はしばしあたかも困惑した様子であったが、結局ペンギンの方を回収することに決めたようであった。そこらをのほほんと歩く二足歩行生命体と、単独での大気圏突入が可能らしき可愛らしい飛べない鳥、どちらを詳しく調べるべきであるかは明白であり、このような判断を弾きだした中枢AIを責めることはできないであろう。
しかしながら、獲物の体躯が小さくなったことに合わせてすこしばかり高度を落としたことによって、わずかだが、致命的な隙を他者に晒すことになった。そして、自然界の厳しさというのは、それを見逃してくれるほど甘くはなかった。
すなわち、その瞬間を狙いすましたかのように、ごう、と暴風のように荒れ狂った大きく茶色い毛むくじゃらが突如、どこからともなく飛行機械に飛びかかったのである。見事な跳躍であった。
何を隠そう、ヒグマである。ヒグマはただただ空腹であった。それ以上でもそれ以下でもない。
必然、死闘となった。ヒグマは飢えているのである。食わねば生きられぬ、明日をも知れぬ我が身だ、眼前の肉を欲して何が悪い。なるほど自然の摂理である。してみると、今まさに、いかにも手ごろな鳥を奪い去ろうとしている怪しげな銀色の物体は、彼にとって敵以外の何物でもなかった。ヒグマは執着心の強さで有名である。
しかし相手側とて事情に大差はなかった。こうしている今も、自らを送り出した母星は日に日に弱り、息絶えようとしているのだ、一刻も早く安住の地を見つけ出さねばならぬ。確かにそれを司るは心なきAIであった、確かにその白銀の身に流るるは情動でなく、電流であった。それでも、故郷を守る、否、守りたいという使命感は、それがプログラミングの出力結果であれ、電子部品の作用であれ、確かに持っていたのであった。それだけは何人にも冒しえぬ真理である。
つまるところ両者、生きるため、戦わねばならなかった。戦う理由があった。未来を、つかむために、負けるわけにはいかなかったのだ。
蓮子は道の半ばを越えた。
あるいは一方的殺戮になるやもと思われた究極の異種格闘技であったが、しかし意外にも戦況は拮抗していた。かたや銀河間を超光速で移動する機械を実現するような技術力を擁す太陽系外からの刺客である。当然備え付けられた防衛機構もまた並々ならぬものであって、強い。一方ヒグマも、ヒグマなので、強い。容易に決着のつきようはずもなかった。
取り付いたヒグマの重みに傾ぎながらも、なお浮力を完全には喪失しない円盤が無数の機械腕を展開した。先端部に取り付けられた刃がぎいぎい回転し、むくつけき原生動物の野蛮なる毛皮を切り裂かんと迫る。しかし熊もさるもの、すばやく剛腕を縦一文字に振るって回転ノコギリを十把一絡げに叩き折り、慣性と重力の導くままに対手の天板を抉りにかかった。北の大地に降る雪で研ぎ澄まされた鋭爪は、させじと展開されたエネルギーシールドを障子紙のように引き裂くも、しかし勢いを殺された一撃は強固な合金製の外壁を貫き通すには至らない。浅い爪痕が、すばらしく滑らかな白銀のキャンパスに尾を引いて塗りたくられる。
ペンギンは彼方に滑り去った。
結末の見えない戦いを前にして、座りなおしていたメリーが思わずこぶしを握り締める。何故か不思議と、見届ける義務があるような気がしたのだ。
しかし次の瞬間、轟音とともに両者が忽然と姿を消した。いったいこれはどうしたことか。
何を隠そう、アステロイドベルトよりはるばる飛来した手ごろなサイズの隕石がピンポイントに空中でくんずほぐれつしていた彼らを直撃し、物理学の奇跡的作用によってその衝撃波がクマ、UFO、そして隕石自身だけを鮮やかに消し飛ばしたのであった。彼ら以外には一切の被害はなかった。
実にあっけない幕切れであった。円盤も、ヒグマも、譲れぬものがあったはずであった。誇りを懸けた一戦だった。それはある種、神聖とすら言いうる闘争であった。しかしすべては無為に還り、あとにはむなしさだけが残った。もはや彼らの一秒前までの存在を示すものは一片たりともなかった。目撃者はメリーただ一人。
かくして人類は敵対的な地球外生命体からの侵略をひとまずは退け、京都は街中での大型肉食哺乳類暴走という悪夢を免れた。
ハッピーエンドである。
蓮子は最後まで振り返ることなくまっすぐと道を渡り終え、すたすたビルの下まで歩いて行った。
メリーは茫然としていた。白昼夢でも見ているのかと思った。実際常人なら幻覚を疑うべき場面であったが、彼女の人より少し特別な眼は、先ほど視た光景が確かに実体をもった正常な真実であることを見通していた。あるいは夢ではあるかもしれなかったが、彼女にとって夢現の境は曖昧で、どちらでも構わないと常々考えていたから、大して意味のある検討では無かった。
とにかく、開いた口がふさがらなかった。唖然、という言葉がこれほど似合う女はいないだろうなと思えた。ただただ、呆けたように窓の外を見やるしかなかった。蓮子が彼女からは死角に入って見えなくなっても、しばらくそのままであった。
やがて、からん、と来店を告げる鈴の音がし、無気力そうな店員の不愛想な挨拶を背中に聴いて、それでようやく彼女は振り返った。そこには、申し訳なさそうな表情を浮かべて佇む、宇佐見蓮子がいた。しかしその表情に反してやはり堂々と、ずんずんメリーのいるテーブルに歩み寄ってきて、彼女の様子に気づいた風もなく、立ったまま口を開いた。
「えっと、まずは遅れてごめんなさい、マエリベリーさん。あ、ハーンさんの方がいいですか?その、教授に質問しに行ったら、思いのほか長引いちゃってですね。……いや、同学年なんだし、初めましてじゃなし、敬語はやめるわ。とにかくごめんなさい、待たせちゃったわね、手短に言うわ。さっきも少し話したけどね、私、あなたとサークル活動がしたいのよ。それもただのサークルじゃないわ、秘密を見つけるの。京都ってさ、一見すると何もかもが科学的だけれどね、絶対探せばあるはずなのよ、神秘の残り香とか、あるいは怪異そのものとか、なんでもいいけれど、とにかく非科学的なものがね。私、それを見つけたいの。大学に入ったら、絶対そのためのサークルを作ろう、て思ってたのよ。あら、口にクリームついてるわよ。それでね、えっと、ちょっと、なんで笑うのよ。いや、確かに今のは失礼だった、というか今日の私が全体的に失礼そのものね。ごめん、それは謝るわ。だけど聞いてほしいのよ」
彼女はここまで一息で話し切って、こちらをうかがうようであった。
しかしメリーは途中から笑い声をあげるのを抑えられなかったし、なんなら、笑いすぎて最後の方はもはやほとんど何を言っているのか聞いていなかった。音にすれば、間違いなく「うふふ」ではなく「あはは」だった。「わっはっは」でも相違なさそうであった。久しくこんなに心から笑ったことはなかった。
だって、あまりにも可笑しかったのである。この宇佐見蓮子という人は、ただ道を渡るだけであんなめちゃくちゃに巻き込まれておいて、どういうわけか自分ではちっともそのことに気づいていない様子なのである。そのくせ、自分は非科学的なものを見つけたいだなんて、こちらにむかって熱弁してくるのである。それなのに、彼女がこの一連の非日常の渦中で見つけられたものといえば、ただ私の口元にくっついたクリームだけなのである。
メリーはたまらなく愉快であった。先ほどまでの怒りはすっかり抜け落ちていた。なるほど、自由というのはこういう人種のためにあるのだ、彼女は急に得心が行った。すとんと腹の底に落ちるような納得であった。
そうして笑いが収まるころになって、彼女はようやく理解した。今までの自分は、やはり退屈であったのだ。その実、独りを苦にしていたのだ。友達が欲しかったのだ、それもとびきり、痛快な奴が。そういう観点から言えば、眼前の少女はおあつらえ向きとしか言いようがない。
とにかく、どうにか平静を取り戻したメリーはハンカチーフで口元を軽くぬぐって、それから努めて微笑をうかべ、未だ突っ立ったまま、不安げな様子の相手に答えた。
「宇佐見さん、だったっけ。とりあえず座ってよ、話はゆっくり聞かせてもらうわ。大丈夫、私今ではちっとも怒ってなんていないから。それよりもね、この席、古いゲームができるのよ。私には合わなかったけどね、でもあなたは向いていると思う」
メリーは机上に広がっていたメニューをふいっと取り上げて、嵌め込まれた画面と、そこに映し出された造りものの巨大世界がむこうによく見えるようにして、続けた。
「それに私も、あなたが遊んでいるところを見るのは、きっととっても楽しいわ」
全12話のアニメの8.9話くらいの過去編の話っぽかったとい個人的な印象。
とても楽しめました
アブダクションからの怒涛の流れが素晴らしかったです