そろそろと窓を開ける。透き通るような冷気が流れ込む。思わず身震い。朝六時。外は一面の銀世界、とまではいかないが、隣家のベランダに目をやると、手すりはうっすら雪化粧。
そういえば、昨晩つけっぱなしのラジオが十センチ積もるとか、そういう趣旨のことを垂れ流していたような気もするな、などと窓を閉め、未練がましくベッドに寝転がりながらようやく思い返すのは私のいい加減な性格のなせる業であって、科学世紀を謳歌する京都の年間天候計画はたいへん厳密であり、その気になれば今朝の天気が雪であることは五年前からでも知りえたのであった。
今日は今年唯一の積雪日である。ついでに、秘封俱楽部の活動予定日でもある。どうしたもんか。
生まれも育ちも東京の田舎者には京都のこういうところは未だに馴染まないなぁ、などと不平を言おうにも、少しの手間を惜しんだのは私の方であって、正当性に欠ければ独り言にもいまいち威勢がない。
手間を惜しむと言えば、冷蔵庫がすっからかんなのを放置して三日目であると思い出す。昨日起きた時は、ぜひとも深刻な食糧不足を解決せねばと決意に燃えていた気がするが、このありさまである、今日こそはなんとかするぞ。きっと。
とにかくうだうだしていたって仕方がない、腹が減った。ベッドに腰かけて、机を呼び寄せる。そしていい感じにパネルをポチポチっと。するといかにもわたくし最低限でございますといった風情の一皿が、きっかり一分と三十秒でご到着。
正しい栄養バランスなんてとんと知らないし、五大栄養素とやらを全部言えるかも怪しいが、とにかくこれさえ一日三回腹に詰めれば肉体的には健康に生きていられるらしいことはわかる。
貧乏学生の住まうボロアパートといえど、天下の京都に座す建築物であるからにはこの程度の機能は当たり前なのだ。一瞬で届くし、しかもべらぼうに安い、というかタダである。味は良くない。
肘をついて食べる。行儀が悪いな、とふと思ったが、どうせ一人暮らし。誰が見ているわけでもなし。
ほんのり甘いミルクロールパンらしき物体を齧りながら、こういうところが京都の良くないところだ、なんて考える。こうやって、何をしないでも生きていくことができるから、何もしないのだ。なんて、すがすがしいまでの他責思考。パンはパサパサである。一昨日も、昨日も。一回生のころから変わらない。当然水分が欲しくなるが、妙に甘ったるい乳酸飲料もどきしか机上にはない。空いたボトルならそこらにいくつか打ち捨ててあるけどね。ばっちいな。私のこういういい加減なところも一生変わらないのだろうな、などとあきらめの境地に達してみたりもする。
とりあえずメリーに電話をかける。さして時間もかからずに繋がった。彼女の朝は概して早い。
「おはよう、蓮子。今日は早起きなのね」
「ん。妙に寒かったから」
「この天気だもの。蓮子の部屋じゃなおさら」
私の牙城は角部屋で、暖房の効きが悪いのだ。
「まあね。というか、知っていたなら教えてくれたってよくない?」
「何の話?」
「雪よ。私が今日出かけようって言ったときにさ」
「ああ」
ちょっと沈黙。
「だって。蓮子も当然そんなの織り込み済みで決めたと思っていたのよ、今の今まで。知らなかったのね」
「そりゃあもう。びっくりしたわよ、朝起きたら、見渡す限り雪国なんだもの」
合間につけあわせのレタスも頂く。シャクリ、と噛めば心地よく響く。お、今日は比較的鮮度がいい、ラッキー。
確かに見た目はレタスだけれども、しょせん合成食品のくせしていったいどうして鮮度が存在するのかしら。これは秘封俱楽部が数多抱える未解決案件の一角であり、結構な古参でもある。
メリーは一回生の時分から、というか私が最初にこの話をしてからずっと、蓮子の顎の調子の問題でしょ、それか錯覚。と切って捨てる姿勢を固持しているが、そんなわけ、なくない?
「ずっと前から今日は降らせるって言ってたじゃない。それにしても、見渡す限り雪国って、あなたの部屋からじゃお隣さんの壁しか見えないわよ、盛りすぎ」
細かい奴め。
「やかまし、気の持ちようよ。んで、どうしようかしらね。ゴンドラは今日休業だってさ。こんな天気で山登りなんて嫌だよ、私」
「あら、そう?逆におしゃれじゃない。私は行く気だったけれど」
「何が逆?というかおしゃれとかそういう問題じゃなくて。あのね、こけるわよ、私は」
メリーはその見事なまでにふわふわっとした立ち居振る舞いのわりに結構な肉体派であり、健脚である。歩いて解決できるならとりあえず歩こうとするタイプの人間。私は全くの逆で、昨夜は駅前で捕まえた無人車に家までの100mばかしを運ばせた。
「いや、蓮子はもっと運動したほうがいいわ。というか、ジムはどうしたのよ。まだひと月も経ってないんじゃない?」
「知らないわ、そんなの。あそこ、私に運動させようとするのよ。無礼よ、無礼。んあ、そうだ、じゃあ買い物付き合ってよ、暇でしょう?」
「あなたのせいだけれど……。まあいいや、何買いに行くの」
「ごはん。今私んち、なーんにもないのよ、なーんにも。三日もセット食暮らしなの」
「前から思っていたけれど、あなたよくあれを常食できるわよね、私なら絶対無理」
「お嬢様かよ」
「お嬢様よ」
お嬢様というやつなのである。今朝もいいもん食ってんだろうな、羨ましい。
「というか買い物っていうけれど、それって私は必要かしら」
「メリーに会いたいの。駄目かな」
「情熱的ね。本音は?」
「力持ちな荷物持ちが欲しいの」
「正直で結構。いいわ、行きましょ。30分くらいで出るから、待っててちょうだい」
「あいよ。それじゃあ……」
切れた。話も行動も早いのはメリーに数多く備わった美徳の一つである。
さて、私はこの妙に脂っこいウィンナー的たんぱく質を片付けなきゃ。……本当に健康的なのよね?これ。
端末が来客の接近を告げた。思わず時間を確認。25分しか経ってない。
ドアを開けるとそこには一分の隙もない究極体メリーがにこやかに突っ立っていた。今日もかわいいぜ。築四十年の廊下にはぜんぜん似合わないな。
しかし、一体全体どうやればこんなに短い時間で仕上げてこられるのか、見当もつかない。何を隠そうこれもまた秘封俱楽部が抱える強大な未解決事案であり、長年の調査にもかかわらず真相究明の糸口すらつかめていないのである。当のメリーはこんなのなんでもないわ、と一蹴している。一方の私は寝起きそのまんまって感じ。だってスーパーに買い物行くだけだし、着替えただけむしろ偉いのよ、と心の中でどこかの誰かに言い訳をする。
「行くわよ、蓮子」
「いや早すぎ。ちょっと待ってよ、上がってていいから」
「そんなに早いかな。ま、お邪魔するわ。……相変わらず汚いわね。これとっとと捨てなさいよ、空き缶集める趣味でもあるわけ」
言いつつ、緩やかにウェーブした金髪にかかった雪をさらりと軽く手で払うそのしぐさも絵になるのはどういうわけか。ありきたりな玄関前というのに。
「いちいち言わないで、わかってるから。今度捨てるつもりだったの。というか、傘はどうしたのよ」
「ん、そんなの持ってきてないわよ。だってほら、手がふさがっていたら荷物持てないじゃない」
「え、それ本気にしてたの」
メリーと一緒にいると、結構頻繁に私と同じくらい頭が回る人間だなと思うことがあるけれど、同じくらいの頻度でどこか抜けてるところがあるな、とも思う。
あのねメリー、本当に荷物持ちが欲しいのなら、適当な雑用ロボを連れて行くだけよ。
「なにそれ、どういう意味よ」
「なんでもないわ。とにかく、貸したげるから傘差していきなさい、風邪ひくよ」
「え?いや、別に傘は蓮子が持っていればいいじゃない、私より背高いんだから。私が持ってちゃぶつけちゃうわよ」
「あ、そういうことね。全部理解したわ」
そういうことになった。シラフでこういうこと言ってきやがるんだよな、こいつ。
私の家から近所のスーパーまでは、直線距離でだいたい700メートルくらいある。こういう微妙な不便さが安家賃の秘訣なのであろう。無人交通システムを使えばいいと言われればそれまでだけど、ほら、それではあまりに早く、着きすぎてしまうでしょう?そういう機微が、わざわざ口にせずともちゃんとわかっていて、素知らぬ顔で歩き出してくれるのもメリーのいいところである。右手に開いた傘を持って、追いかける。
通りに人影はない。機械はいくつかうごうごしている。あの口うるさい個人用京都交通ガイドは上京して三日で切った。二人でただ歩くのみ。サク、と真白い地面を踏みしめれば、京都の雪は柔らかい。こっちにきてずいぶん驚いたことの一つだ。東京では、雪は大抵雨交じりでべっちょりしている。積もればちょっとした騒ぎになる。一方京都じゃ積雪が交通網をマヒさせる、なんて都市伝説である。計算通りに降って、計算通りに溶かされるだけ。してみると、そも雪なんて降らせなくてもいいんじゃないかと私なんぞは思うわけだが、四季の現れは日本人の精神活動の根源であってなんとかかんとか。どういうことよ。
しかし、いやに寒いな。メリーは完全武装で羨ましい。
歩道橋に差し掛かって、足音に硬いものが混じる。薄緑の塗装の禿げた階段の、きしむ音も聞こえるような気さえする。いつからここに建っているのであろうか。通路の狭いのをいいことに、メリーに少し、身を寄せる。背が高いって言ったって、微差じゃない。ほとんど同じよ。だけど彼女が楽しげに歩いているから、何も言わないことにする。
手袋のない両手がひどく冷えるが、わざとらしく傘持つ手を摩る、というのはなんだか嫌味だな。仕様が無いので左手だけコートのポケットに突っ込んでおく。なんとなく、こういうことを彼女に気づかれたくはない。
無言で階段を登りきる。お互い、案外会話の糸口を見つけるのが上手くないのである。一度口を開けば、勝手に話が転がるのだけれど。それに、こういう静かさも悪くない、と思う自分もいる。メリーはどうだろう。長い付き合いだけれど、そういうことを聞いたことは無かった気がする。
なにやら鼻歌を歌いだしたメリーを尻目に、眼下の通りを眺める。雪が降ろうが別段代わり映えはしない。白くなっただけじゃない、なんて思うのは私がひねくれているのか、それともあまりに見慣れた景色だからだろうか。後者であってほしいが。よく行くインドカレー屋はもう営業している。相変わらず人通りは無い。
不意に、ビニール傘をひったくられた。意図を問おうと振り向けば、メリーが手袋を押し付けてきた。
「傘、持っといてあげるから」
「あー。ありがと」
この人は、これで結構他人のことを観察しているのだ、本質的に目がいいんだなと思う。ありがたく頂戴したそれをいそいそと嵌める。さっきまでメリーの手を覆っていたから、当然ぬくい。あ、左右逆だ。なんて手元をいじくっている私の横で、所在なさげにあたりを見回していたメリーがふいっと右腕を突き出して、あれは何かしら、と囁いた。顔をあげて、彼女が指さす方に目をやる。吐く息と、降る雪の白さにさえぎられつつ、なにやら四角い物体が歩道橋の真ん中あたりに、隅っこに寄せられて置いてあるのが見える。ああ、わかった。
「段ボール箱じゃない、ずいぶん久々に見たわ。こっちでもまだ使ってるのね」
「え、逆に東京だと実用品なの?この前、民博で展示してたわよ」
「んな馬鹿な」
近寄って見れば、確かに、50㎝四方くらいの段ボール箱であった。かがんで中を覗き込んでも、雪が限界いっぱいに詰まっているだけ。それに立てかけるようにして、これまた段ボールのきれっぱし。ご自由にお持ちください、と太いペン書きメッセージ。
「うん、それで結局なんなのかしらね」
「あれじゃん、ほら、コーボー市」
「あら、そうかも。今日だったっけ」
コーボー市とは、酉京都駅の南側のいくつかの地区で、年に一度伝統的に行われている奇習である。その日になると、そこら一帯の住人は家中の不用品をかき集め、路上──それは家の軒先だったり、近所の適当な空き地であったりする──に置いておくのだ。ご自由にお持ちくださいと書き添えて。
大抵は文字通り不用品としか言えないものだが、この手のイベントの例にもれず、まれに掘り出し物があるのであって、我々も一日費やして面白そうなものを拾い集めたことがある。メリーの部屋には今でもくじら座から落ちてきたサバの缶詰が飾られている。
開催日はどこかの月の21日であることだけが決まっていて、あらかじめ知るすべはない。だけど毎年、きっと誰かが教えてくれて、不思議と知っている。
誰がその日を決めているのか、これも全くわからない。一度、誰が誰に教えられたのかを辿れば根元に行きつくはずさ、と愚直に聞いて回ったら、噂話の連鎖がぐるっと一周自分たちに帰ってきて徒労に終わったことがある。
現代の話ですらこのありさまなのであるから、もはやその古い由緒など知りようがなく、いつからやっていたのかも判然としない。近所の老人たちはみな口をそろえて若いころからこうであったと主張する。
妙に気の抜ける名前については、メリーは不要品、つまりこぼれ物だからコーボーだ、なんて自説を披露していたが、日本語ってそんなに単純かしら。
「どちらにしても、こんな天気で、こんなところに置いておくのは悪手ね。雪で中身が埋もれてるじゃない」
「そうかしら?私はこういうの、逆に気になっちゃうのよね」
そう言って、段ボールを持ち上げる。見た目のわりに案外軽くて、素直に持ち上がる。そのままひっくり返すと、どさっと雪が落下する。
どさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさどさ。
再びひっくり返せば、中にはやはり雪がいっぱいに詰まったままである。
「なるほどね」
「何がなるほどよ、蓮子。半分くらい埋まっちゃってるわよ」
いつの間にやら、あとじさって避難していたメリーはあきれ顔。
「これはあれよ、この街に雪なんぞ不要だって、そういう熱いメッセージよ。ロックンロールね。それでさ」
「うん?」
「助けてくれないかしら」
「うーん」
メリーに、ぎゅうぎゅう引っ張って抜いてもらった。相方が力持ちだと、こういう時にネズミまで動員せずともよくって、お得である。ついでにあったかいほうじ茶をメリーの魔法瓶からもらって、一息つく。
「だからね、これは抗議なのよ」
「あ、それ続くのね。えっと、何に対する?」
「そりゃあもちろん、物質文明よ」
「宛先も質量もずいぶん大きいお便りね」
「自然現象である天候を意のままに操ろうなんて、おこがましいわ。これは怒れる神々の復讐、その第一歩よ」
「歩道橋で?」
「うん」
「段ボールが?」
「いかにも」
「もし私が神だったら、もう少し格好つけたであろうことだけは間違いないわね。そもそも、結果だけを見て、行為の意図を即断するべきじゃないんじゃない?」
「出たな、相対心理学者め」
「何もかもが間違ってるわよ」
「なんかさ、メリーっていっつも懐疑的だよね。ここはオカルトサークルなのに」
「だからこそ、よ。それに私はいろいろ視えるからね」
「羨ましい限り」
とりあえずもう一回箱をひっくり返そうとしたら、また引っ張りだすのは疲れるからいやよ、と静止された。再現性を確認する必要があるというのに。
「ねえ蓮子、これを調べることには賛成だけれど、それはいったん帰ってお風呂に入ってからにしない?びちゃびちゃよ、あなた」
「それは、そうかも。ごめんね」
「謝るようなことじゃないけれど、でもいいよ、許したわ」
私はこういう場合に足踏みをしたくない、というより、メリーに無駄足を踏ませたくはなかったのである。しかし足指先の感覚が半ば消失しつつある現状を鑑みれば、彼女の言葉に正しさが一片ならず含まれていることを認めないわけにはいかなかった。かくして秘封俱楽部はまたひとつ偉大な教訓を得たのである。雪に下半身が埋もれると、濡れて冷たい。
湯舟と軽食で体温と活力を取り戻した我々は改めて外に出て、午前いっぱいかけて段ボール箱の調査と実験を行った。
近所に、住宅地をくりぬいたような小さな公園があって、秘封俱楽部が小規模な野外活動を行う際はしばしばここを利用する。
結論から言えば、魔都京都が誇る精鋭超常現象解明機関たる秘封俱楽部のありったけの霊的、精神的、物的リソースの投入によって、この段ボール箱からは無尽蔵なんじゃないかと思えるほど、信じられないくらい大量の雪が詰まっている、というかつてない真実が究明された。要するに、物量以外は何をやっても恐ろしいくらい平凡な段ボールと雪であることを示すあらゆる検証結果に音を上げて、三時間くらい雪合戦やらなんやらに興じていたのである。早い話が、進展はなかった。
「やっぱり、あるわよねえ」
「何が?」
「合成レタスの鮮度」
我々行きつけの定食屋で最も美味しいランチメニューがシンプルなデミグラスハンバーグセットであることは二人の中で完全に一致した見解である。
「ないって。この前実験したじゃない」
「そんなつまらない実験結果より、自分の感覚を信じていたいのよ」
「蓮子の方が私よりずっと相対性精神学に向いてると思う」
「実験なんてね、なんの意味もないわ。人は見たいものを見るだけよ。実際、何したってあの段ボールの正体に近づく気配の糸口の先っぽをつかんだ手ごたえの手の字を書くためのインクもないし」
「この方法では何もないって結果が得られたんだから、それでいいじゃない」
「あのね、メリーの方がよっぽど物理学向いてると思うよ、私も」
「ごちそうさまでした。これはまた、未解決ファイル行きになりそうね」
と、メリーがカップを持ち上げながらため息をつく。
「ま、それはそれとしてさ、もっと創造的な話をしましょうよ、メリー。あの箱、無尽蔵に雪が出てくるのよ、存在自体が無数の既存物理法則を銀河の彼方にふっとばしてる。正体はさておき、あれを使えばすごいことができるわ」
「具体的には?」
「ここ数百年で失われ続けてきたペンギン科鳥類の生息地をことごとく再生するだけでなく、むしろ相当拡大することができる」
「そういう方向性なの?」
なお、ペンギンはその多くの種類が氷雪上に住まない。
それから、コーヒー一杯の存在を限界まで活用して、メリーと箱の使い道について話し合った。話題の先は、永久機関とか火星移住計画とか、いかにもそれっぽいやつから、一日二十五時間作戦や、スプーン工場の生産効率向上なんて方向にも及んだ。夏になったらメリーと二人でかき氷の屋台をやろうという計画はとても気に入った。大きなスキー場でもよかった。たくさん稼いだら、秘封俱楽部の拠点として三階建ての一軒家を建てることを決めた。メリーは一貫して三食天然紅茶生活を要求していた。一山いくらの定食屋が、これほどの夢と希望に満ちたことはこれが最初で最後としか思えなかった。人生現実成績就職がなんだというのだ、こちとら秘封俱楽部だぞ。
今日は私が会計の番だったので、おごってやったぞ、と我が物顔で店を出る。
「なんだか今日は、テンション高いわね、蓮子」
「そうかしら?よし、じゃあ出発よ、秘封俱楽部の輝かしい明日に向かって」
「はいはい、私の紅茶の為にもね」
メリーは、そういってクスクス笑っていたが、なんだかんだで結構乗り気な風である。雪は、そのうちにいつしか止んでいたようであった。
そして、結果として、私の眼前には茜色に色づいた雪だるまが並んだ。その数しめて十三に達す。さして広くもないこの公園にはちょっと大家族すぎるな。
まあ、正直、心のどこかでこうなるような気はしていた。傾向から見ても、別段意外でない末路と言わざるをえまい。夕陽がじっと彼らを見つめる私にさえぎられて、人型の雪塊に影を落としている。
メリーは公園のあずまやで昼寝したときに、夢から持って帰ってきたという一抱えほどのニンジンを、特に大きな個体達の顔面に突き立ててご満悦である。
どうしてこのような仕儀に至ったのか、理由は単純である。確かに我々には無限に雪を生み出す夢の段ボール箱と、自由奔放な発想力には恵まれていたかもしれないが、決定的にそれらを結び付けて実現するための技術力の持ち合わせがなかった。あと今思い返すとやる気も若干欠けていたような気がする。だって、今日中に成果を出す必要は無かろうと思っていた。だって、正直午前の時点で結構疲れていたから。だって、若い二人なのである。時間的余裕はたっぷりあるはずだった。それでこのざまである。
そもそも、例の段ボール箱がいけなかった、調子に乗って振り回していたら、うんともすんとも言わなくなったのである。昼食からそれほど時間も経ってない頃合いだった。そう、ぜんぜん無限ではなかったのだ。びっくりするくらい、当たり前に有限だった。ようやく見えた底には何故かプチプチ緩衝材が詰められていた。やけに気泡が硬く、気持ちよく潰せないタイプであったからメリーに渡したら、私と違って根気よく向き合っていた。彼女はすごい。
元夢の箱は、未練たっぷりに逆さにして、雪だるまの一体に被せてある。今度の燃えるゴミの日を震えて待て。
つまり私は、この前時代的な植物性梱包資材と、ちょっと冷やされただけの水分に踊らされていた道化であった。馬鹿みたいであった。というか馬鹿そのものである。そうと気づいてからは、もはやできることと言えば、やけになって、むやみに作った雪山を掘り崩し、丸めに丸めて、積み上げる以外になかった。こういう不本意な作業だけは決まってスムーズに上手くいくのは何故だろう。メリーも参戦してからはその完成速度はうなぎのぼりであり、気が付けば二桁を超える雪だるまが鎮座していた。端的に言えば、空しい努力であった。
ここまでつらつら考えて、どっと虚脱感が押し寄せてきた。あ、まずいなと思ったときにはとっくに手遅れである。心の中の宇佐見蓮子が問いかけてくる。やあ私、いったい私は今日、何を為したというのだ?なにも生産的なことはしていないではないか。私の明日だって、有限なんだぞ。なんだか動きがたくなってきた。実際、こういうふとした自己嫌悪の波を、自分でさばこうとしたって大抵は逆効果である。亀のように耐えるのが結局一番良いのだ。だけれど、そうしてじっとしていると、胸中に、より重苦しい問いが自然と湧いてくる。それなら、私がより優れた人間であったなら、どれほどのことを為せたのであろうか。答えは出ない、出るはずもない。ゆえに、私はじいっと、雪だるまと勝算の無いにらめっこをすることしかできない。
街路樹のクスノキの枝が、積もった雪の重みに耐えかねてたわんでいる。
「何してるのよ、蓮子。あのさ、たしかに紅茶は惜しいけれど、別にいいじゃない。私は楽しかったわ」
そんな私の様子に気が付いたのか、いつの間にやら隣にやってきたメリーが、やはり雪だるまの顔面を眺めながら言う。聡い人だな。どこまで気が付いているのやら、のんびりケータイを構えて写真もぱしゃぱしゃ撮っている。いや、楽しかったは楽しかったのだ、それは間違いない。ただ……。
「そういう問題じゃなくてさ、なんだろうな、私、最近気が付いたのよね、あ、自分って結構適当な人間なんだなって」
「今更?」
「うるさい。それでさ、ほら、今日も、私全然天気のこと確認してなくて、あの、予定潰しちゃったじゃない。そういうとこ、ちょっと嫌になったっていうか」
「え、それずっと気にしてたの」
「そりゃあ、気にするわよ」
「確かに、蓮子って案外臆病だものね」
「否定はしないわ」
「しかも強がり」
これもやはり否定できなかったので、肯定代わりに沈黙を返す。
メリーは小さくため息をついて、それからふっと笑みを漏らして、口を開いた。
「ねえ、あなたがどう思っているのかは知らないけれど、蓮子がもうすこししっかりした人間だったら、絶対こんなに続いてなかったわよ、秘封俱楽部」
「そうなのかな」
「そうなのよ。だって考えてもみなさいな、目ざとい女が二人きりで心霊スポット巡りなんて、とても無理よ」
そこまで言って、またころころと笑う。
そして私と雪だるまの間に割って入ってきた。お互い黙ったまま目が合って、私が何も言わないでいると、ややあってメリーがまた喋りだす。
「だからね蓮子、こんなこと、わざわざ言うのは洒落てないし、気恥ずかしいのだけれどね、一回生の春に、私を誘ってくれたのがあなたでよかったって思ってるのよ。これ、ほんとのことよ」
「そういう言い方は、ずるいなぁ」
「何がずるいのよ。というか、さっきも言ったけど、私は楽しかったし、蓮子も別に、楽しかったのでしょう?なら、いいじゃない、私にとって大切なのは、結局それだけのことよ」
メリーってどうしてこうも人がうれしくなることを言うのが上手いんだろうか。やっぱり精神学ってそういう学問なのか?大学でそういう人慰め講座とかやってんのかな、ぜひとも今度潜り込ませてほしい。あるいは、こんなこと言われてころっとうれしくなってしまう私のつくりが簡単なだけなのかもしれない。
うん、降参だ。陳腐に悩むことに、馬鹿らしくなってきた。私のこういう小市民的な発想は、彼女が毎度こうして破壊していくのがお決まりなのである。彼女は一家に一人いると、物理的にも精神的にも実に便利である。
「ありがと、メリー。おーけー、わかったわよ、これからも、愉快痛快ないい加減ノープラン遅刻魔蓮子さんが堂々続投すべきってことね」
「なんだか不本意な流れだけど、まあそういうことかもしれないわね。馬鹿っぽい蓮子がいいのよ、私」
「素直に受け取りづらいな」
だいたい、いい加減な性格は直りそうにないと朝結論付けたばかりであって、そんなことを今更云々することには何の意味もなかった、なんて後からなら自由に言えちゃうのが人間心理の不思議なところである。しかし、いい加減といえばである。
「結局、買い物してないじゃん」
「あ、そういえば、そうね」
「一体、我が家の冷蔵庫事情はいつ改善されるのかしらね。このままじゃ、私の持つ味変技術の限りをつくした、ロールパンもどきとお友達大作戦計画を発動する必要があるわ」
「それも面白そうだけれど、こういうのはどうかしら、蓮子。とりあえず、今夜はうちで食べましょうよ」
そう言って、メリーは雪だるまたちの方を振り返って、えいやっと、ニンジンを引き抜きはじめると、段ボール箱を小脇に抱えて、そこに片っ端から放り込んでいく。
「今日は、キャロットパーティーの予定だったのよ。招待、受けてくれるかしら」
なんて、わざとらしく空いた方の手を差し伸べてくる。
この時、胸中に浮かんできた一種の感情を、わざわざここに垂れ流すのは野暮ってものであろう。それは、私の心の深いところに、私だけのものとして、きちんとしまっておくべき事柄である。
ただ、人間社会の最も重要なルールの一つとして、こういう場合には言うべきことがあって、私はそれを愚直に口にするのみであった。
「ええ、喜んで」
雪入り段ボール箱、無限ではないにせよ何らかの異常性はあるんじゃないとも思いましたが、まあその問題はともかくとして、そういう不思議なものを見つけたときに有用な使い道を考察するのではなく遊んで浪費するというのは、大学生二人組ならそうするよなあと妙に納得しました
世界観の掘り下げといい2人の関係性といいちょっとした出来事で浮き沈みするテンションといい素晴らしくハイクオリティで読んでいて楽しかったです
この二人の描写が好きだからこそ、蓮子フィルターのハズしたメリーやメリーフィルターからみた蓮子が見てみたくなりました。
要は次回作を楽しみにしております