「ぐおおお」
ご主人様の部屋の前を通りがかったときのことである。障子戸の隙間から、ハツラツと奇妙な声が聞こえてきた。
障子を開くと、ご主人様の背中が手元のものと何やら一心不乱に格闘していたのである。
「いったい朝っぱらからなにをやってるんだいご主人様」
ご主人様は私の声に手をとめて振り返った。
その両手には宝塔が握られていた。
「おやナズーリン、こんな時間からいるなんて珍しいですね」
「たまにはと思ってね、無縁塚にいつもやることがあるわけでもない」
残念ながら無縁塚は、退屈とも無縁とは言いがたかった。
「それよりご主人様は朝っぱらからそんなに気合を入れて、いったい何をしているんだ。フンフンと声が外にまで聞こえてきたよ」
「それなのですがね、宝塔には色々な機能があるじゃないですか」
「確かに、何のために作られたのかわからなくなほどだね」
レーザーが出たり、封印を解いたり、おでんの具になったり(いい出汁が取れるのだ。ダジャレではなく)。
「まだ隠し機能があるんじゃないかと」
「おや、気づいたかい」
「あるんですか」
私は不敵な笑みを浮かべてみせると、ご主人様がごくりとつばを飲んだ。
「まず右に一回ひねって、左に二回」
私が説明を始めると、ご主人様は真剣な目をたずさえ、宝塔を操作し始めた。
ご主人様の手が屋根っぽい部分をぐりぐりとひねる。力を入れ過ぎると折れるので注意だ。特に最近の宝塔は精密機器が詰まっているので扱いは慎重に。
「そのあとA、B」
「はい」
ご主人様がA、Bボタンを押し終えた。
「すると爆発する」
ゆっくりとご主人様の口が開き、顔面が蒼白になった。
「ええっ!?ど、どうしましょう!」
「まあ嘘なんだが」
「なんだ、嘘ですか。まったく、びっくりするじゃないですか」
ご主人様はほっとため息をついた。
それはそれとして、偽りなく、宝塔は爆発した。
弾幕ごっこに使える品だから、そういうこともあるさ。
ご主人様をおちょくるのは、たのしい。
*
「ナズーリンはいますか!」
「なんだい騒がしい」
私が命蓮寺の食料庫を漁っていると、ご主人様がどたどたと駆け込んできた。
「ちょっと来てください!」
「いま忙しいからあとでもいいかい」
「はい!」
私の尻尾をむんずと掴むとご主人様は歩き出した。
「元気なのは結構だが、できれば尻尾を引っ張らないでほしいな」
ご主人さまが尻尾を引っ張るので、尻尾の安寧のため私はムーンウォークでご主人様の後ろをついてゆくこととなった。私の華麗なステップに廊下ですれ違った響子が声を忘れて見入っている。
実はこのムーンウォーク、正式名称をバックスライドと言い、マイケル・ジャクソンがライブで披露しムーンウォークとして一躍有名になる以前から存在した技なのだ。そしてバックスライドの起源を遡ると毘沙門天さまにたどり着く。バックスライドはもともと毘沙門天様が天岩戸に引きこもった天照大神を引きずり出すために宴会芸として披露した技なのである(いまいちウケなかった)。つまり私がムーンウォークの名手であっても何ら不思議はない。
「実は、庭に植えた芋なんですが」
「手は離さないんだね」
ご主人様は庭の一角を指差した。
少し前に畑にしたのだ。聖いわく、修行の一環らしい。
「枯れちゃいました!」
「ああ……芋ね」
「ジャガイモの実、まだなってないのに……」
ご主人様がしゅんとしていた。楽しみにしていたようなので少し気の毒であった。
勘違いなのだけれども。
「根から掘ってみたまえ。もう全部掘っても大丈夫だ」
「ええ?でもまだ枯れていないのもありますし……」
「いいから」
ご主人様は畑に刺してあったスコップを抜くと、しぶしぶ枯れた芋の根を堀りはじめた。
「芋蓮、芋ーリン、芋輪……ごめんなさい……」
「勝手に仲間の名前を芋につけるのはどうだろうか。それと芋ーリンと芋輪がいまいち区別がつかないな」
そして、悲しみとともに土を掘り進んでいたご主人様であったが、やがてあるものに気づいた。
「これは……」
掘り出したものを両手にとると、とたんにご主人様の両目は輝きだした。
「ジャガイモですか!ジャガイモって地中になるんですねナズーリン!」
「さあ、残りも収穫しようじゃないか」
「はい!」
私も手伝い、すべての芋を掘り出した。農家が育てるような立派なものではなかったが、白蓮や村紗たちの手によって様々な料理となりおいしく頂くことができた。
私といえば、これで今週は命蓮寺の食料庫から部下の食事を拝借せずに済んだというわけである。ネズミ算式に増える部下の食費は馬鹿にならないし、私の懐は結構貧しい。
*
ある日、私が命蓮寺に立ち寄り、一通りするべきことを終え帰ろうとするとご主人様に引き留められた。
「ナズーリン」
「はいはい、今度はなんだい」
「ちょっと頼みが……」
ご主人様はそこまで言うと、先の言葉を濁した。
私はその様子を見て察した。
「また宝塔か、どうせ部屋にあるんだろう」
「いやあそれがどうも見つからなくて……」
私が続きを言ってやると、観念したようにご主人様は後ろ頭をかいた。
たいてい、ご主人様が宝塔をなくすときは私室にあるのだ。対して物も多くない私室でどうして毎度無くしてしまうのか不思議なものだが、おおかた平和ボケしているんだろうと私は気にしていなかった。どうせすぐ見つかるのだ。
そして今回もその通りであった。
「まったく、やっぱり自分の部屋に在るじゃないか……」
今回の無くし方はなんともお粗末で、文机の上に放置されていた巻物の下に置いてあった。
入って十秒で見つかるのは新記録かもしれない。
届けてやろうと宝塔を手に取ると、その下に真っ黒な手帳があった。
これは私とご主人様が外の世界で隠遁生活をしていた頃に私が渡したものである。うっかりの多いご主人様に、メモにでも使えと押し付けたのだ。随分喜んで受け取ったけれど、その後の様子を見る限りメモとしては使っていないようだったが。
しかしながら、この手帳は随分と使い込まれた様子だ。
思わぬ邂逅に驚きながらも手帳を開く。どう使っているのか気になったのだ。
『じゃがいもが根になるとは初めて知った。里の童子でも知っていそうなことだが、私は知らなかった。妖怪として暮らしていたころは肉ばかり食べていたせいであろう。思えば毘沙門天代理として働き出してからも、人々との交流は信仰の対象としてのものであったし、人間の生活に関して、基本的な知識が随分欠けているのかもしれない』
ははあこれは日記だなと読み始めてすぐに分かった。この記述はつい先週のじゃがいも騒動についてのものであるから、おそらくこれが一番新しいページであるようだった。
ひとの日記を覗き見するのは後ろめたかったので、ぱらぱらと軽くめくってから閉じようとした。好奇心があったことも否定できないが。
ただ、一ページだけやけに開き癖のついたページがあり、自然と目に留まった。そのページは他と比べると全体的に文字が雑で、走り書きのようであった。滲んでしまっている箇所もある。私の目は吸い込まれるようにそのページを読み始めてしまう。
『私は聖輦船から幻想郷を眺めていた。聖を救出したとして、果たしてこの地は聖や私達を受け入れるだろうか。太陽に宝塔を透かしてみてもその輝きは何も語らなかった。今思えば私はひどく混乱していたのかもしれない。ある思いつきが私を貫いた』
それは聖を皆で封印から開放した、あの日の日記であった。
『宝塔、つまり聖を開放する手段を、この聖輦船から投げ捨ててしまうという考えであった。その考えはじわじわと頭頂から背筋を通って指先まで伝わっていった。なぜ今更、聖を解放する必要があるだろうか。どうせ人間はいくら時を重ねたって、変わらず愚かだろう。聖の封印を解いたところで同じことを繰り返すだけじゃないか。それはあの日からいつも、私の内側から耳元でささやかれる言葉であった。信じられる私は、もはや信じることに対して最も懐疑的であった。もし、宝塔をいまここから投げ捨ててしまえば、すべては破綻する。聖の開放は宝塔が無くては叶わない。それだけでなく、私は私を私よりも信じる仲間から罵られ、二度と信頼を寄せられることは無くなるだろう。特に聖を慕っていた村紗などは私を殺そうとするかもしれない。そのことについて考えると心臓が高鳴り、腕が震えるのを感じた。
今まで、寺で信徒を見ていると、殴り飛ばし、頭蓋を砕き心臓も頭もぐちゃぐちゃになるまで踏みつけたいという想像に何度も駆られた。私を拝む信徒たちは意志の力を信じている。来世を信じている。聖のことは、誰一人信じずに封印した。誰一人として――なるほど、意志で繋がれた聖輦船で、私は、一番、これを信じきれていないのだ。
私は宝塔を、飛行する聖輦船からぶら下げた。宝塔から指を一本ずつ離した。二本の指でつまむ形になった。あとはこの親指から力を抜けば宝塔はこの手からどこかに落下し、眼下の森に紛れ、行方はおおよそ知られなくなるだろう。正直に言うと私は高揚してもいた。聖のことも、仲間のことも、大好きだ。愛してる。だからこそ、破滅が渦巻き、嗚咽のようにこみ上げる。色々な理屈をつけたけれど、積み上げたものを壊すことは楽しいということでしかないのかもしれない。理性を形作り、どこまで人のように、神のように振る舞ってみせても、結局は私は妖怪であり、もはや無垢な畜生でさえない。
かくして宝塔は落下した。一瞬だけ、太陽光をきらりと反射した。その後の行方はもう知らぬものになる。思わず、あ、と声が出た。しばらく呆然として、今後のことを思った。魔界を超えて、聖が封印される結界の前で仲間たちは私に宝塔を使うよう急かす。そして私はこう答える、捨てました。口元が引きつった。きっと許されないだろう。なぜか涙が出た。私は何がしたかったのだろうか。よくわからなかった。涙は止まらなかった。いつの間にかナズーリンが傍らにいた。どうしたんですかご主人様。私は、一番わからないことだった。私はどうしたのだろうか。だから、ただ、宝塔を落としてしまった、と答えた。ナズーリンは優しいので、全くドジなんだから。探してきますよ。秘密にしといてあげます。と言って飛び立った。またもや涙が出てきた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった』
「ナズーリン?」
背中から突然ご主人様の声がかかったので、私は思わず手帳を巻物の裏に隠しながら振り返った。
「なんだい」
「ありましたか……?」
ご主人様は、影のように部屋の入口に立っていた。
「ああ、ここにあった。全くどうしていつも無くすかね」
「すいません」
私が何食わぬ顔で宝塔を手渡すと、いつものように困り顔を浮かべて頭をかく。
「宝塔を見つけたときに、私が以前ご主人様に渡した手帳を見つけたんだ。随分使い込んでいるようで嬉しいよ」
「あれですか。使い易いのでとっても重宝していますよ!ただ、一緒に頂いたペンの墨は切れてしまいましたが、今でもありがたく使わせていただいています。残念ながらもう少しで全てのページが埋まってしまいそうなのですが……もらえたりします?」
「ああ、問題ない……ただ……」
「?」
あの場所に置いてあったということに意味があるのなら。そう問えたらどれだけ楽だろうか。
「どうかしましたか?」
「……なんでもない。喜んでもらって何よりだ。無縁塚ではああいった手帳も多いし、こんど渡そう」
「ぜひお願いします」
「……」
切りそこねた沈黙は、ただ重々しい。
「ナズーリン!」「ご主人!」
意を決したのは同時だったらしい。ご主人様は、いつものように穏やかな困り顔で苦笑する。
「ええと、今夜取りにいくわけには……なんて」
「私もちょうど今日は都合がよいと思っていたよ」
やれやれ、なんと間抜けな絵面だろうか。
「ふふっ……なにしてるんでしょうね。私たち」
「ほんとに、まったくです。これだけ時間をかけて、上手くなったのは武芸だけですか」
「なにせ、本当に実践できた教えといえば聖の笑顔くらいでしたので」
「他にも色々と教えたろうに」
「あはは確かに。それに、笑顔も全然似てませんでしたね」
「当たり前ですよ」
聖のアルカイックスマイルと仮面の笑みは違う。
それに、そうでなくても素で元気に笑えるじゃないか。
「あの……日記は……」
「……さすがにジャガイモ掘りが仏の教えより重要だとは思わなかったな。田畠能成はどうしたんだい」
「最初のほうのページには結構真面目なことを書いてるんですよ。たしかね」
「そう祈るよ。まったく」
「あはは……面目ない」
「……」
間がもたない。混乱している。お互いに。
「すこし、私のセーフハウスでお茶でもしませんか。ご主人様を招ける有様かは微妙ですが」
予定調和めいて水をむけると、ご主人様はどこか気まずげに答えた。
「いえ、行きたいと思っていましたから、招いていただけるなんて光栄です」
*
「はいはい上がって、どうせ見るものも隠すものも大してありませんから」
「お、おじゃまします」
借りてきた猫、という言葉が脳裏をよぎる。
適当に放り出した座布団へ座らせ、さっさと本題に入ることにした。
「さあご主人……いや寅丸星よ。これを飲みましょう」
そして出すは般若湯である。茶?知らん。
瓶の文字はかすれて読めないが、強いことだけは漂う風格からして間違いない。虎殺しとかそんな銘だろうきっと。
「ナズーリンからなんて、珍しいですね。もしや罠ですか?」
堂々と戒律のグレーゾーンを語られては、普段適当でも流石に気が引けると見える。あからさまに戸惑った様子だった。
「今は、細かいこと抜きです。もう全部吐いてしまいなさい。ちょうどここは無縁の場所、懺悔室にはうってこいじゃありませんか」
「それって聞き手が逆じゃないでしょうか……色々と立場が……」
「なあに、お互いやればいいんだ。我々の関係の面倒な関係も、くるりと一回りしてしまえば上も下も表も裏もないのさ」
「そう通しますか。やっぱりナズーリンは賢いですねえ」
彼女はわたしの冗談に似つかわしくない柔らかい笑みをうかべた。
「おいおい、いまはそういうことじゃなくて」
ぐいっと盃を傾けると、ご主人様は静かに語りだした。
「そういうことなのですよ。私が言いたかったことは基本的に」
膝に抱えた盃の水面が止まる。
「この郷での暮らしは、こわいくらいに充実しています。なんせ”獣から妖怪に成った、神の化身になった。それがあの寺のご利益なのか。なるほど”という世ですから。こうも堂々と生きられるだなんて、あちらこちらで身を潜めていた頃には想像が出来ませんでしたよ」
肯定、とりあえず、本題までは何も言うまい。
「だからですかね。前よりいっそう、この暮らしが消え去らないかと不安になるのです。あるいはどこかで見ている走馬灯か胡蝶の舞ではないかと」
私たちは逃げること、耐えることに馴れすぎた。
「今の私は毘沙門天様の化身として民へ導きを与え、背中を守ること、それで一杯一杯です。この力は私の宝ものを増やしてくれます。しかし、私はどこまで私として破綻せず、守りたいものを守れるのでしょう?ナズーリン、なぜ聖はかつて、ああも過酷に追い立てられ封じられたのか疑問に思いませんか?」
禁忌の代償、と言えてしまうほど、はっきりとしたものではなかった。
「今この郷に根ざして思うのです。聖を襲ったものは、妖や力への畏れや蔑みのみだけではない。しかし、宝塔をとり落とした時に私を支配した"アレ"ではないのですか?かつて育んだモノに答えを出せずにいます。私は臆病で、自分の底にあるものを見るのが怖い。もしかすると、私の中のなにかが、うっかりをしたのではないでしょうか?おぼろすぎる記憶はもはや辿れません」
この郷に入り、確かな過去は失って久しい。
「でもナズーリン、足元を照らす明かりは途絶えたことはありません。いつもあなたや仲間たち聖の勇猛さと賢さに救われているのです。あなたがいるから、私はありたい私に留まれていて、でも、私は、いつも、そういうものから落としてしまう、醜い獣で」
つづらに、折れて
「本当は財宝を集めるなんて能力じゃなくて、たんに、こぼれ続けてる水瓶なのではないか、なんて思っちゃうこともあります」
ならば
「私が拾ったものは、実のところ、無くしてしまったほうがいいものだったのかい?」
「そんなことっ!そんなことは、ないはずです……でも、結局は今日こうしているわけですから、自分でももう、わからなってきて」
荒げた声が続かず、しばらく言葉を探した後、「子供じみたことです」と、そうしめた。
確かに、遠い目をしたご主人様の目は、孤高の虎ではなく、まさに途方に暮れた迷子のようだった。酒のせいか、夜のせいか。おぼつかないせいか。
「ほら、いきなり飲みすぎ。じゃ、そろそろ私の話を聞いてもらいますか?交互ということだったでしょう」
「ええはい……それでは」
盃をやりとりして酌を交換する、なんだかむず痒く、静寂を長引せたくなかった。静寂と共に飲み干すと、体がほてった。
「私は、あなたに公明正大で、何も影を背負わぬ単なる力の化身であってほしいなんて、思わない」
だから何度でも、貴方に落とし物があれば拾ってあげよう。
そもそも、貴方がうっかりだけで落とし物をしないのは、とっくに知ってるさ。
「ねえ、ご主人様。私達はこうして肉を得て生きている。この郷に入ってからは特に、空を飛んで風を感じることも、畑で土に汚れることも、雨に濡れることも、日差しに乾くことも、酔うこともお、生きることも死ぬことも身近になりました。だから、わけもわからぬ小道に入ることもある」
私たちは皆、私達であるゆえ発生する逃れられない宿命を背負っている。
「ご主人はうっかり宝塔を落としたんですよ。ご主人様はうっかりしたのです。それだけです。仮に本当はそれが醜く浅ましいものであれ、そういう差異は、私に言わせればどうでもよい。聞いてますか?一度しか言いませんからよく聞くのですよ」
もう一度、盃の月を飲み干して一息。なるほど般若湯とはよく言うものだ。本当に体が熱い。
「私は、貴方が毘沙門天様の化身であること以上に、貴方が寅丸星であることを愛しています。だから、貴方は前を見てればいいのです。落とし物は拾ってあげます」
ご主人様の目が見開かれている。
呆れた、本気で、私が単に監視のために、数百年もご一緒したと?くだらない捜し物でも、義務で探してやったとでも?
いつも絶やさんとする笑顔の裏で、数百年も育んだものの方がよほど大事で美しいじゃないか。それにそもそも、あなたは神の代理で、畜生で、妖なんだ。
「だから、過去の自分を醜いとかなんとか、そんなことで今を否定する必要は無いんです。貴方は何にだって耐えたではありまんか。私は知っています。……だから、探しものは何度でも拾ってあげます。もしクソ駄目ご主人がたとえ自分を捨てたくなっても、私は絶対そうさせてあげませんよ」
ネズミの強欲さを舐めてはいけないのだ。
「……ナズーリンはお優しいです。それに、本当に、ずるい」
なぜか、ご主人様は少し涙ぐんでいたようだった。
「うるさいな。説法だよ単なる。ほら手ぬぐい。湿っぽいの好きじゃないんです」
「ふふっ、ありがとうございます。でも――」
ふと、半端な所でご主人様は停止してしまう。何のフリーズだろうか。
うーん、というかこの般若湯は本当に強い。吐くなら厠に案内せねば。
「なんだい?」
「いえ、なんというか」
「最後まで言ってくれよ。気になるじゃないか。厠か?」
「あ、愛ってどう、こたえれば」
「あい!?」
思わず立ち上がりかける。
「?そういうことじゃないですか、おっしゃったこと」
なんと言った?
――私は、貴方が毘沙門天様の化身であること以上に、貴方が寅丸星であることを愛しています
リフレイン、冷や汗。
「ひ、聖とかも皆を愛してますとか何とか言うじゃないか!」
「あれは博愛とか慈愛寄りで、これは違うやつじゃないですか?」
知ってる!そういえばとんでもないこと言ってたわ!
「……これは、うっかりなんだよご主人」
「まあ、大した差じゃないですからねえ」
顔爆発しそう!
あわてる私をよそ目に、ご主人様は今日イチの笑顔になっていた。
「それではそれでは、今まで通り、支えあってゆっくり歩む……ということでふつつか者ですがどうかよろしく」
「やめてくれ、今どう纏めても墓穴になってヤバい」
「アハハ、まったく飲むしかないですね!」
「うん」
「……嬉しかったですよ、本当に」
盃にそそぎながら、しんみりとそんなことを言う。
「うん……慣れない説法も、悪くなかったのかな」
「悪くない?最高でした」はにかんで「まー多分あれは説法ではないですがね」と付けるのを忘れない。元気が回って強気らしい。
「後生だから、もうちょっとそっとしてくれ。あんまりいじると明日からこっちで暮らすぞ」
「いやだなあ。私も普段こんなこっ恥ずかしいこと、今日っきりですよ。でも、頂いた手帳には今日のお説教をしたためて大切にします」
「そ、そうか」
「もう二度と落としません。毎日読みます」
「うーっ」
「でも、もしも落としたら、また拾ってくれるんですよね?」
「そうですが、何か」
開き直ろうとしてはみたものの、それはそれで、窮鼠猫を噛むなどという言葉が脳裏に浮かんでしまう。想像があらぬ方向へシフトしそうになるのをこらえた。
「ねえナズーリン」
陶器のような手が重ねられる。すべすべとした指先。
「ナズーリンって」
「……なんです?」
「おてて、温かいですねえ」
「酔いすぎだ、まったく……」
「言いたいこと、伝わってますよ」
「そうかい」
それだけ言うと、ご主人様は肩になだれかかってそのまま寝息を立ててしまった。ぬくい。
動けないので、自分も寝てしまおう。
明日のことは、まあ、どうとでもなるさ。
春の湊へ やどるまにまに
ご主人様の部屋の前を通りがかったときのことである。障子戸の隙間から、ハツラツと奇妙な声が聞こえてきた。
障子を開くと、ご主人様の背中が手元のものと何やら一心不乱に格闘していたのである。
「いったい朝っぱらからなにをやってるんだいご主人様」
ご主人様は私の声に手をとめて振り返った。
その両手には宝塔が握られていた。
「おやナズーリン、こんな時間からいるなんて珍しいですね」
「たまにはと思ってね、無縁塚にいつもやることがあるわけでもない」
残念ながら無縁塚は、退屈とも無縁とは言いがたかった。
「それよりご主人様は朝っぱらからそんなに気合を入れて、いったい何をしているんだ。フンフンと声が外にまで聞こえてきたよ」
「それなのですがね、宝塔には色々な機能があるじゃないですか」
「確かに、何のために作られたのかわからなくなほどだね」
レーザーが出たり、封印を解いたり、おでんの具になったり(いい出汁が取れるのだ。ダジャレではなく)。
「まだ隠し機能があるんじゃないかと」
「おや、気づいたかい」
「あるんですか」
私は不敵な笑みを浮かべてみせると、ご主人様がごくりとつばを飲んだ。
「まず右に一回ひねって、左に二回」
私が説明を始めると、ご主人様は真剣な目をたずさえ、宝塔を操作し始めた。
ご主人様の手が屋根っぽい部分をぐりぐりとひねる。力を入れ過ぎると折れるので注意だ。特に最近の宝塔は精密機器が詰まっているので扱いは慎重に。
「そのあとA、B」
「はい」
ご主人様がA、Bボタンを押し終えた。
「すると爆発する」
ゆっくりとご主人様の口が開き、顔面が蒼白になった。
「ええっ!?ど、どうしましょう!」
「まあ嘘なんだが」
「なんだ、嘘ですか。まったく、びっくりするじゃないですか」
ご主人様はほっとため息をついた。
それはそれとして、偽りなく、宝塔は爆発した。
弾幕ごっこに使える品だから、そういうこともあるさ。
ご主人様をおちょくるのは、たのしい。
*
「ナズーリンはいますか!」
「なんだい騒がしい」
私が命蓮寺の食料庫を漁っていると、ご主人様がどたどたと駆け込んできた。
「ちょっと来てください!」
「いま忙しいからあとでもいいかい」
「はい!」
私の尻尾をむんずと掴むとご主人様は歩き出した。
「元気なのは結構だが、できれば尻尾を引っ張らないでほしいな」
ご主人さまが尻尾を引っ張るので、尻尾の安寧のため私はムーンウォークでご主人様の後ろをついてゆくこととなった。私の華麗なステップに廊下ですれ違った響子が声を忘れて見入っている。
実はこのムーンウォーク、正式名称をバックスライドと言い、マイケル・ジャクソンがライブで披露しムーンウォークとして一躍有名になる以前から存在した技なのだ。そしてバックスライドの起源を遡ると毘沙門天さまにたどり着く。バックスライドはもともと毘沙門天様が天岩戸に引きこもった天照大神を引きずり出すために宴会芸として披露した技なのである(いまいちウケなかった)。つまり私がムーンウォークの名手であっても何ら不思議はない。
「実は、庭に植えた芋なんですが」
「手は離さないんだね」
ご主人様は庭の一角を指差した。
少し前に畑にしたのだ。聖いわく、修行の一環らしい。
「枯れちゃいました!」
「ああ……芋ね」
「ジャガイモの実、まだなってないのに……」
ご主人様がしゅんとしていた。楽しみにしていたようなので少し気の毒であった。
勘違いなのだけれども。
「根から掘ってみたまえ。もう全部掘っても大丈夫だ」
「ええ?でもまだ枯れていないのもありますし……」
「いいから」
ご主人様は畑に刺してあったスコップを抜くと、しぶしぶ枯れた芋の根を堀りはじめた。
「芋蓮、芋ーリン、芋輪……ごめんなさい……」
「勝手に仲間の名前を芋につけるのはどうだろうか。それと芋ーリンと芋輪がいまいち区別がつかないな」
そして、悲しみとともに土を掘り進んでいたご主人様であったが、やがてあるものに気づいた。
「これは……」
掘り出したものを両手にとると、とたんにご主人様の両目は輝きだした。
「ジャガイモですか!ジャガイモって地中になるんですねナズーリン!」
「さあ、残りも収穫しようじゃないか」
「はい!」
私も手伝い、すべての芋を掘り出した。農家が育てるような立派なものではなかったが、白蓮や村紗たちの手によって様々な料理となりおいしく頂くことができた。
私といえば、これで今週は命蓮寺の食料庫から部下の食事を拝借せずに済んだというわけである。ネズミ算式に増える部下の食費は馬鹿にならないし、私の懐は結構貧しい。
*
ある日、私が命蓮寺に立ち寄り、一通りするべきことを終え帰ろうとするとご主人様に引き留められた。
「ナズーリン」
「はいはい、今度はなんだい」
「ちょっと頼みが……」
ご主人様はそこまで言うと、先の言葉を濁した。
私はその様子を見て察した。
「また宝塔か、どうせ部屋にあるんだろう」
「いやあそれがどうも見つからなくて……」
私が続きを言ってやると、観念したようにご主人様は後ろ頭をかいた。
たいてい、ご主人様が宝塔をなくすときは私室にあるのだ。対して物も多くない私室でどうして毎度無くしてしまうのか不思議なものだが、おおかた平和ボケしているんだろうと私は気にしていなかった。どうせすぐ見つかるのだ。
そして今回もその通りであった。
「まったく、やっぱり自分の部屋に在るじゃないか……」
今回の無くし方はなんともお粗末で、文机の上に放置されていた巻物の下に置いてあった。
入って十秒で見つかるのは新記録かもしれない。
届けてやろうと宝塔を手に取ると、その下に真っ黒な手帳があった。
これは私とご主人様が外の世界で隠遁生活をしていた頃に私が渡したものである。うっかりの多いご主人様に、メモにでも使えと押し付けたのだ。随分喜んで受け取ったけれど、その後の様子を見る限りメモとしては使っていないようだったが。
しかしながら、この手帳は随分と使い込まれた様子だ。
思わぬ邂逅に驚きながらも手帳を開く。どう使っているのか気になったのだ。
『じゃがいもが根になるとは初めて知った。里の童子でも知っていそうなことだが、私は知らなかった。妖怪として暮らしていたころは肉ばかり食べていたせいであろう。思えば毘沙門天代理として働き出してからも、人々との交流は信仰の対象としてのものであったし、人間の生活に関して、基本的な知識が随分欠けているのかもしれない』
ははあこれは日記だなと読み始めてすぐに分かった。この記述はつい先週のじゃがいも騒動についてのものであるから、おそらくこれが一番新しいページであるようだった。
ひとの日記を覗き見するのは後ろめたかったので、ぱらぱらと軽くめくってから閉じようとした。好奇心があったことも否定できないが。
ただ、一ページだけやけに開き癖のついたページがあり、自然と目に留まった。そのページは他と比べると全体的に文字が雑で、走り書きのようであった。滲んでしまっている箇所もある。私の目は吸い込まれるようにそのページを読み始めてしまう。
『私は聖輦船から幻想郷を眺めていた。聖を救出したとして、果たしてこの地は聖や私達を受け入れるだろうか。太陽に宝塔を透かしてみてもその輝きは何も語らなかった。今思えば私はひどく混乱していたのかもしれない。ある思いつきが私を貫いた』
それは聖を皆で封印から開放した、あの日の日記であった。
『宝塔、つまり聖を開放する手段を、この聖輦船から投げ捨ててしまうという考えであった。その考えはじわじわと頭頂から背筋を通って指先まで伝わっていった。なぜ今更、聖を解放する必要があるだろうか。どうせ人間はいくら時を重ねたって、変わらず愚かだろう。聖の封印を解いたところで同じことを繰り返すだけじゃないか。それはあの日からいつも、私の内側から耳元でささやかれる言葉であった。信じられる私は、もはや信じることに対して最も懐疑的であった。もし、宝塔をいまここから投げ捨ててしまえば、すべては破綻する。聖の開放は宝塔が無くては叶わない。それだけでなく、私は私を私よりも信じる仲間から罵られ、二度と信頼を寄せられることは無くなるだろう。特に聖を慕っていた村紗などは私を殺そうとするかもしれない。そのことについて考えると心臓が高鳴り、腕が震えるのを感じた。
今まで、寺で信徒を見ていると、殴り飛ばし、頭蓋を砕き心臓も頭もぐちゃぐちゃになるまで踏みつけたいという想像に何度も駆られた。私を拝む信徒たちは意志の力を信じている。来世を信じている。聖のことは、誰一人信じずに封印した。誰一人として――なるほど、意志で繋がれた聖輦船で、私は、一番、これを信じきれていないのだ。
私は宝塔を、飛行する聖輦船からぶら下げた。宝塔から指を一本ずつ離した。二本の指でつまむ形になった。あとはこの親指から力を抜けば宝塔はこの手からどこかに落下し、眼下の森に紛れ、行方はおおよそ知られなくなるだろう。正直に言うと私は高揚してもいた。聖のことも、仲間のことも、大好きだ。愛してる。だからこそ、破滅が渦巻き、嗚咽のようにこみ上げる。色々な理屈をつけたけれど、積み上げたものを壊すことは楽しいということでしかないのかもしれない。理性を形作り、どこまで人のように、神のように振る舞ってみせても、結局は私は妖怪であり、もはや無垢な畜生でさえない。
かくして宝塔は落下した。一瞬だけ、太陽光をきらりと反射した。その後の行方はもう知らぬものになる。思わず、あ、と声が出た。しばらく呆然として、今後のことを思った。魔界を超えて、聖が封印される結界の前で仲間たちは私に宝塔を使うよう急かす。そして私はこう答える、捨てました。口元が引きつった。きっと許されないだろう。なぜか涙が出た。私は何がしたかったのだろうか。よくわからなかった。涙は止まらなかった。いつの間にかナズーリンが傍らにいた。どうしたんですかご主人様。私は、一番わからないことだった。私はどうしたのだろうか。だから、ただ、宝塔を落としてしまった、と答えた。ナズーリンは優しいので、全くドジなんだから。探してきますよ。秘密にしといてあげます。と言って飛び立った。またもや涙が出てきた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった』
「ナズーリン?」
背中から突然ご主人様の声がかかったので、私は思わず手帳を巻物の裏に隠しながら振り返った。
「なんだい」
「ありましたか……?」
ご主人様は、影のように部屋の入口に立っていた。
「ああ、ここにあった。全くどうしていつも無くすかね」
「すいません」
私が何食わぬ顔で宝塔を手渡すと、いつものように困り顔を浮かべて頭をかく。
「宝塔を見つけたときに、私が以前ご主人様に渡した手帳を見つけたんだ。随分使い込んでいるようで嬉しいよ」
「あれですか。使い易いのでとっても重宝していますよ!ただ、一緒に頂いたペンの墨は切れてしまいましたが、今でもありがたく使わせていただいています。残念ながらもう少しで全てのページが埋まってしまいそうなのですが……もらえたりします?」
「ああ、問題ない……ただ……」
「?」
あの場所に置いてあったということに意味があるのなら。そう問えたらどれだけ楽だろうか。
「どうかしましたか?」
「……なんでもない。喜んでもらって何よりだ。無縁塚ではああいった手帳も多いし、こんど渡そう」
「ぜひお願いします」
「……」
切りそこねた沈黙は、ただ重々しい。
「ナズーリン!」「ご主人!」
意を決したのは同時だったらしい。ご主人様は、いつものように穏やかな困り顔で苦笑する。
「ええと、今夜取りにいくわけには……なんて」
「私もちょうど今日は都合がよいと思っていたよ」
やれやれ、なんと間抜けな絵面だろうか。
「ふふっ……なにしてるんでしょうね。私たち」
「ほんとに、まったくです。これだけ時間をかけて、上手くなったのは武芸だけですか」
「なにせ、本当に実践できた教えといえば聖の笑顔くらいでしたので」
「他にも色々と教えたろうに」
「あはは確かに。それに、笑顔も全然似てませんでしたね」
「当たり前ですよ」
聖のアルカイックスマイルと仮面の笑みは違う。
それに、そうでなくても素で元気に笑えるじゃないか。
「あの……日記は……」
「……さすがにジャガイモ掘りが仏の教えより重要だとは思わなかったな。田畠能成はどうしたんだい」
「最初のほうのページには結構真面目なことを書いてるんですよ。たしかね」
「そう祈るよ。まったく」
「あはは……面目ない」
「……」
間がもたない。混乱している。お互いに。
「すこし、私のセーフハウスでお茶でもしませんか。ご主人様を招ける有様かは微妙ですが」
予定調和めいて水をむけると、ご主人様はどこか気まずげに答えた。
「いえ、行きたいと思っていましたから、招いていただけるなんて光栄です」
*
「はいはい上がって、どうせ見るものも隠すものも大してありませんから」
「お、おじゃまします」
借りてきた猫、という言葉が脳裏をよぎる。
適当に放り出した座布団へ座らせ、さっさと本題に入ることにした。
「さあご主人……いや寅丸星よ。これを飲みましょう」
そして出すは般若湯である。茶?知らん。
瓶の文字はかすれて読めないが、強いことだけは漂う風格からして間違いない。虎殺しとかそんな銘だろうきっと。
「ナズーリンからなんて、珍しいですね。もしや罠ですか?」
堂々と戒律のグレーゾーンを語られては、普段適当でも流石に気が引けると見える。あからさまに戸惑った様子だった。
「今は、細かいこと抜きです。もう全部吐いてしまいなさい。ちょうどここは無縁の場所、懺悔室にはうってこいじゃありませんか」
「それって聞き手が逆じゃないでしょうか……色々と立場が……」
「なあに、お互いやればいいんだ。我々の関係の面倒な関係も、くるりと一回りしてしまえば上も下も表も裏もないのさ」
「そう通しますか。やっぱりナズーリンは賢いですねえ」
彼女はわたしの冗談に似つかわしくない柔らかい笑みをうかべた。
「おいおい、いまはそういうことじゃなくて」
ぐいっと盃を傾けると、ご主人様は静かに語りだした。
「そういうことなのですよ。私が言いたかったことは基本的に」
膝に抱えた盃の水面が止まる。
「この郷での暮らしは、こわいくらいに充実しています。なんせ”獣から妖怪に成った、神の化身になった。それがあの寺のご利益なのか。なるほど”という世ですから。こうも堂々と生きられるだなんて、あちらこちらで身を潜めていた頃には想像が出来ませんでしたよ」
肯定、とりあえず、本題までは何も言うまい。
「だからですかね。前よりいっそう、この暮らしが消え去らないかと不安になるのです。あるいはどこかで見ている走馬灯か胡蝶の舞ではないかと」
私たちは逃げること、耐えることに馴れすぎた。
「今の私は毘沙門天様の化身として民へ導きを与え、背中を守ること、それで一杯一杯です。この力は私の宝ものを増やしてくれます。しかし、私はどこまで私として破綻せず、守りたいものを守れるのでしょう?ナズーリン、なぜ聖はかつて、ああも過酷に追い立てられ封じられたのか疑問に思いませんか?」
禁忌の代償、と言えてしまうほど、はっきりとしたものではなかった。
「今この郷に根ざして思うのです。聖を襲ったものは、妖や力への畏れや蔑みのみだけではない。しかし、宝塔をとり落とした時に私を支配した"アレ"ではないのですか?かつて育んだモノに答えを出せずにいます。私は臆病で、自分の底にあるものを見るのが怖い。もしかすると、私の中のなにかが、うっかりをしたのではないでしょうか?おぼろすぎる記憶はもはや辿れません」
この郷に入り、確かな過去は失って久しい。
「でもナズーリン、足元を照らす明かりは途絶えたことはありません。いつもあなたや仲間たち聖の勇猛さと賢さに救われているのです。あなたがいるから、私はありたい私に留まれていて、でも、私は、いつも、そういうものから落としてしまう、醜い獣で」
つづらに、折れて
「本当は財宝を集めるなんて能力じゃなくて、たんに、こぼれ続けてる水瓶なのではないか、なんて思っちゃうこともあります」
ならば
「私が拾ったものは、実のところ、無くしてしまったほうがいいものだったのかい?」
「そんなことっ!そんなことは、ないはずです……でも、結局は今日こうしているわけですから、自分でももう、わからなってきて」
荒げた声が続かず、しばらく言葉を探した後、「子供じみたことです」と、そうしめた。
確かに、遠い目をしたご主人様の目は、孤高の虎ではなく、まさに途方に暮れた迷子のようだった。酒のせいか、夜のせいか。おぼつかないせいか。
「ほら、いきなり飲みすぎ。じゃ、そろそろ私の話を聞いてもらいますか?交互ということだったでしょう」
「ええはい……それでは」
盃をやりとりして酌を交換する、なんだかむず痒く、静寂を長引せたくなかった。静寂と共に飲み干すと、体がほてった。
「私は、あなたに公明正大で、何も影を背負わぬ単なる力の化身であってほしいなんて、思わない」
だから何度でも、貴方に落とし物があれば拾ってあげよう。
そもそも、貴方がうっかりだけで落とし物をしないのは、とっくに知ってるさ。
「ねえ、ご主人様。私達はこうして肉を得て生きている。この郷に入ってからは特に、空を飛んで風を感じることも、畑で土に汚れることも、雨に濡れることも、日差しに乾くことも、酔うこともお、生きることも死ぬことも身近になりました。だから、わけもわからぬ小道に入ることもある」
私たちは皆、私達であるゆえ発生する逃れられない宿命を背負っている。
「ご主人はうっかり宝塔を落としたんですよ。ご主人様はうっかりしたのです。それだけです。仮に本当はそれが醜く浅ましいものであれ、そういう差異は、私に言わせればどうでもよい。聞いてますか?一度しか言いませんからよく聞くのですよ」
もう一度、盃の月を飲み干して一息。なるほど般若湯とはよく言うものだ。本当に体が熱い。
「私は、貴方が毘沙門天様の化身であること以上に、貴方が寅丸星であることを愛しています。だから、貴方は前を見てればいいのです。落とし物は拾ってあげます」
ご主人様の目が見開かれている。
呆れた、本気で、私が単に監視のために、数百年もご一緒したと?くだらない捜し物でも、義務で探してやったとでも?
いつも絶やさんとする笑顔の裏で、数百年も育んだものの方がよほど大事で美しいじゃないか。それにそもそも、あなたは神の代理で、畜生で、妖なんだ。
「だから、過去の自分を醜いとかなんとか、そんなことで今を否定する必要は無いんです。貴方は何にだって耐えたではありまんか。私は知っています。……だから、探しものは何度でも拾ってあげます。もしクソ駄目ご主人がたとえ自分を捨てたくなっても、私は絶対そうさせてあげませんよ」
ネズミの強欲さを舐めてはいけないのだ。
「……ナズーリンはお優しいです。それに、本当に、ずるい」
なぜか、ご主人様は少し涙ぐんでいたようだった。
「うるさいな。説法だよ単なる。ほら手ぬぐい。湿っぽいの好きじゃないんです」
「ふふっ、ありがとうございます。でも――」
ふと、半端な所でご主人様は停止してしまう。何のフリーズだろうか。
うーん、というかこの般若湯は本当に強い。吐くなら厠に案内せねば。
「なんだい?」
「いえ、なんというか」
「最後まで言ってくれよ。気になるじゃないか。厠か?」
「あ、愛ってどう、こたえれば」
「あい!?」
思わず立ち上がりかける。
「?そういうことじゃないですか、おっしゃったこと」
なんと言った?
――私は、貴方が毘沙門天様の化身であること以上に、貴方が寅丸星であることを愛しています
リフレイン、冷や汗。
「ひ、聖とかも皆を愛してますとか何とか言うじゃないか!」
「あれは博愛とか慈愛寄りで、これは違うやつじゃないですか?」
知ってる!そういえばとんでもないこと言ってたわ!
「……これは、うっかりなんだよご主人」
「まあ、大した差じゃないですからねえ」
顔爆発しそう!
あわてる私をよそ目に、ご主人様は今日イチの笑顔になっていた。
「それではそれでは、今まで通り、支えあってゆっくり歩む……ということでふつつか者ですがどうかよろしく」
「やめてくれ、今どう纏めても墓穴になってヤバい」
「アハハ、まったく飲むしかないですね!」
「うん」
「……嬉しかったですよ、本当に」
盃にそそぎながら、しんみりとそんなことを言う。
「うん……慣れない説法も、悪くなかったのかな」
「悪くない?最高でした」はにかんで「まー多分あれは説法ではないですがね」と付けるのを忘れない。元気が回って強気らしい。
「後生だから、もうちょっとそっとしてくれ。あんまりいじると明日からこっちで暮らすぞ」
「いやだなあ。私も普段こんなこっ恥ずかしいこと、今日っきりですよ。でも、頂いた手帳には今日のお説教をしたためて大切にします」
「そ、そうか」
「もう二度と落としません。毎日読みます」
「うーっ」
「でも、もしも落としたら、また拾ってくれるんですよね?」
「そうですが、何か」
開き直ろうとしてはみたものの、それはそれで、窮鼠猫を噛むなどという言葉が脳裏に浮かんでしまう。想像があらぬ方向へシフトしそうになるのをこらえた。
「ねえナズーリン」
陶器のような手が重ねられる。すべすべとした指先。
「ナズーリンって」
「……なんです?」
「おてて、温かいですねえ」
「酔いすぎだ、まったく……」
「言いたいこと、伝わってますよ」
「そうかい」
それだけ言うと、ご主人様は肩になだれかかってそのまま寝息を立ててしまった。ぬくい。
動けないので、自分も寝てしまおう。
明日のことは、まあ、どうとでもなるさ。
春の湊へ やどるまにまに
楽しいコメディかと思ったら急に殴られたような衝撃を受けました
星ちゃんもいろいろ溜めてるんだなと思いました
星の葛藤する心理描写も丁寧で面白かったです。