「ああ太子様、青娥が探していましたよ」
蘇我屠自古の一言は未だかつて無い絶望を私にもたらしたのである。
それ即ち、今日の予定が大幅に狂うとほぼ確定したからだ。
「……お気持ちは分かりますが、そんなこの世の終わりみたいな顔をしなくてもいいでしょうに」
屠自古が居間をふよふよと漂いながら苦笑を浮かべる。彼女は亡霊で、実際に今世の終わりを迎えてしまっている。そのような人物にだけは言われたくないのだが、これは非常に繊細な話題なので言わぬが吉だろう。
「しかしだねえ、今日が何の日だか知らぬわけでもあるまい?」
「29日で肉の特売日ですね。布都に行かせるつもりでしたが、もしや代わりに買ってきてもらえます?」
「そうではなく……あいや、決して行くのが嫌ではないですよ? ただ待ち望んでいた新刊の発売日でね」
「ああ、アガサなんちゃらとかいうのが書いてるやつですか」
人里の有力者である稗田家当主。その彼女が偽名で出版している娯楽本が本日出回るのだ。一人でゆったりと読書に耽りたい時、構ってちゃんの権化たる霍青娥なんて居たら絶対に集中できないだろう。避客牌でも出しておきたいところだが、きっと無視して門を突破してくるに違いない。
とはいえ、本当に稀だが、至って真面目な用件で私の下へ来る時もあるから始末が悪いのだ。飛鳥時代の一皇族として生涯を終えていたであろう私が、尸解仙・豊聡耳神子へと生まれ変わる際に師事したのが他でもない青娥である。
素行の悪さで邪仙と誹られる彼女でもあっても、仙人としては私よりも遥かに先達だ。反面教師みたいなものだが我が師である事を否定する気は無い。今なお青娥から学べる事柄だっていくらでもある。
「しかし君の口から特売日などと。何というか、すっかり庶民染みてしまったね」
「そりゃそうでしょうよ、御屋敷に住んでいたのも何時の話ですか。それに私達は貴い血ごと元の体を捨てたわけで……実際私の体には一滴の血もありませんけど」
「そうだろうけど、やめて?」
死者ジョークは死者しか笑えない。その死者を繰る邪仙は「こうやってガス抜きしないと危ないのよ」と言うが、代わりに私の体が死体のように冷や冷やするのだ。
「ま、庶民染みてというならお互い様ですよ。そうやって市中をお一人で徘徊するなんて昔じゃ有り得ないでしょう」
「うむ、護衛無しに歩き回れる今の何と気楽な事か。とは言え、たまには誰かを供にしたい時もあるよ。いつかはお前とも堂々歩き回りたいものだが……」
「うわあ、もしかしてそれ口説いてます?」
屠自古はよりにもよって幽霊でも見たような顔で私を見つめるのだった。
「うわあは無いだろ、うわあは。単なる願望を口にした程度で」
「ふふ、軽いジョークですって。いつかと言わず、今でもお供したって良いんですよ? 民衆がちょっと放電した程度で騒ぐビビりじゃなければ」
「雷を恐れぬのも少々都合が悪いな。放電しないのが一番だが」
「それは無理な相談です。ま、墓場と冥界程度ならいつでもお付き合いしますよ。そういえば吊り橋効果って知ってます? 怖い所で一緒に居ると心臓の鼓動を恋愛感情と勘違いするんだとか。太子様も今後の参考にすると良いでしょう」
くくく、と口元を袖で隠してほくそ笑む。確かに、その効果は実在するようだ。彼女がどのような意図を持って今の発言をしたのか、真意を読み切れない私の胸は激しく脈動しているのだから。
「……話を元に戻そうか。青娥がどんな用事で私を探していたか分かるかい?」
「あー、ぶよぶよの内臓をたっぷり運んでましたね。それでも見せびらかしたいんじゃないですか?」
「私は修行の旅に出た! また青娥が来たらそう伝えるように!」
「夕飯までには帰ってきてくださいよ~」
私は回れ右して速やかに神霊廟を後にした。これは決して逃げているわけではない。雑談で無駄にした時間を取り戻すべく、早々に新刊を手に入れたいからである。
「おお太子様、先ほど青娥殿が探しておりましたぞ」
天国から地獄。本日二度目の絶望。
本屋の前で無事新刊を入手した、せっかくの勝利の瞬間。それを台無しにしたのはよりにもよって、買い物袋をぶら下げた物部布都。尸解の儀式で先駆けて殉じた私の腹心であった。ちなみに袋からは青々と良く育った大根や長葱が顔を覗かせている。
「な、何故そのように苦悶の表情を浮かべておられるのです?」
「逆に聞くが、青娥に探されて良い気分になるの?」
「私にとっては滅多にない珍事ですので。あのように自由な御方がわざわざ自分に時間を割いてくれるのです。興味を持たれなくなったら終わりですぞ、逆に」
「それは、そうかもしれないが」
しかし実際に絡まれてみれば「興味が無くなるまで徹底的に無視しろ」とまでこの新刊の著者に言われた理由も納得出来るだろう。常時くっつかれても許せるのは自分より圧倒的に小さくて憐れで可愛い生き物だけだ。腹立たしい事に青娥は私よりいろいろと大きくて可愛げがない。
「少々、こちらに来なさい」
ちょいちょいと手招きして、川沿いの柳の下へと布都を誘導する。邪仙の話題は、今風の言葉で表すならセンシティブでドメスティックでポリティカルなのだ。人が密でない所で話すに限る。
「……その青娥は、内臓を運んでいたりした?」
「いやいや、いくら青娥殿でも人の往来で内臓は……あるかもしれませんが、今回は概ね普通だったかと」
とりあえず青娥のせいで私が頭を下げる事態にはならなかったようだ。しかし油断は大敵である。どちらにせよ私の時間を邪魔されたくはないのだから。
「……それほどお嫌ですか、青娥殿が」
「む。そうとは一言も言ってない。ただ、あるだろう? 放っておいて欲しい時が」
「私などは先生に教えを請いたくとも放任される日々だというのに、贅沢な話ですな」
それについては気の毒なようで、実は全然そうでもない。この間は火と雷の呼吸法だとかで質問攻めしていたが、言葉の響きに反して修業とは全く関係無かったらしい。青娥も「知らないけど岩が一番強いんじゃない」とうんざりした顔で答えていた。
それはともかく、生きている時間ならば私を遥かに上回るのに行動理念が幼稚だから困るのだ。曲がりなりにも私の師なのだからちゃんとしてもらいたい。そんな事だから目の前の弟子がこんなになる。
「……やはり似た者同士の方が構って貰えるのですかなあ」
「おい、言って良い事と悪い事がある」
前のめりになって布都に詰め寄った。いくら私の同志でも言って良い事と悪い事がある、本当に。
「おおぉ、いくら見慣れた御尊顔でもここまで近いと戸惑うものですな。今風の言葉で表すならばそう、胸キュン?」
「私が暴君だったら首をキュッとされていたが?」
「おっとっと、相済みませぬ。失言とあらば速やかに取り消しますとも」
「全く、お前も随分と口答えするようになって……」
昔は私が鹿だと言えば馬でもそうだと答えてくれるような忠臣だったはずなのに。一体どこで道を間違えたのか……と思い返して浮かんだのが、屠自古を謀った時なのでこの思索を止めた。
今の布都は買ったばかりのネギを振り回して遊んでいる、このお気楽な姿が間違った道だとは言いたくない。かつての布都が歩んでいたのは間違いなく修羅道なのだから。
「しかしですな、私と青娥殿が正反対だから構って貰えないという話ですぞ。一体太子様はどのように受け取られたのでしょうな?」
「本当に立派になったな、お前は!」
おまけに私を弄ぶ悪戯心まで芽生えている。これも死のついでに宮廷の煩わしい上下関係からも解放されたから、そう思えば喜ばしい結果なのかもしれないが、今だけは逆だ。煩わしい上下関係バンザイ。
「いやいや、何があろうとも私は太子様を心からお慕いしておりますし、青娥殿にも深く感謝しております。だから良いでしょう、お二人が似た者同士でも」
「……その様に言われても、私の機嫌が良くなったりは」
「喜ぶと御髪がよく跳ねるから分かり易くて可愛い、とは青娥殿の弁ですな。今の太子様もとってもプリチーですぞ」
「ぐっ……」
こんな「ティー」も上手く言えない奴に煮え湯を飲まされるとは、とでも言っておく。
そもそも何故私は無駄に話し込んでしまったのか。早く読書をしたくないのか。自問自答するが、しかし答えは私の中に初めから存在しているのだ。
「……もうよい。これから私は一人だけの世界に入る。くれぐれも、邪魔しないように」
「承知しました。青娥殿にもそう言え、という事ですな?」
「あのね、そこまで分かっているのならもう少し快適な会話を心掛けなさい?」
「はは、私もかつては見れなかった太子様の百面相を楽しみたい一人なのです」
「そういう所だけ師に似なくていいの!」
やはり布都も立派な邪仙の弟子だ。そう確信した私は、その魔手から少しでも遠ざかるべく閑散な場所を求めて旅立つのであった。
『つまり、こいつは始めから姉も狙っていたと?』
『その通りです。彼女に一途な純情男、誰しもがそう思っていたでしょう。その評判を利用し、この男はお姉さんとも恋愛相談を口実に密会していたようですね? 何度も何度も、時には一緒に食事や酒を楽しんだとか……』
『ウソだよね……シロウくん、ずっと私だけを見てるって……』
男はしばし無言で立ちすくむ。捨てられた子犬のように縋る彼女には目もくれず、代わりに己の浅薄な野望を白日の下に晒した少女探偵の顔をまっすぐ捉えていた。爪痕が残る程に拳を強く握りしめて。
『……ホンッと、バカな女だったぜ。ちょっと甘い顔してやっただけで簡単に尻尾振りやがるんだからよォ』
『やめてよ! シロウくんは私を傷つけるようなこと絶対言わないもん! アンタなんかシロウくんじゃな
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………次のページはまだかあ?」
いつの間にか私の日傘となっていた少女が、背後からのっそりと口を開いた。
「お前が気になって気になって読書どころではないのでね」
「ほおーお? 残念だが私はもう青娥のものなんでなー。だが特別に、愛人としてなら許さんでもない」
「生憎だが私も死体愛好癖はないよ。それにあの人の物に手を出すと後が怖い」
青娥の所有物こと、生ける屍の宮古芳香が私の頭上からだらんと頭を下げた。
こちらは本をぱたんと閉じ、芳香の方に向き直る。せっかくの新書に涎を垂らされてはたまらない。
欲の声が聞こえない、誰も居ない場所だと選んだ桜の木陰だが、私の素晴らしい能力にも僅かに穴があった。生物ならば絶対に持つ「生きる」という根源的欲求が無い相手、つまりキョンシーの声は聞き取りづらいのだ。
「まだ真昼だよ。お前が目覚めるには少々早すぎないかい」
「なあに、これから深夜まで寝るから心配いらん! 1日8時間睡眠が長生きの秘訣だぞ。青娥もそう言っている」
「ああハイハイ青娥ですか。やっぱりお前も当然のようにあの人の手先なわけだ」
「んー……? 何を当たり前の事を」
自分で言っておいてその通りだが、今日に限ってどこへ行っても青娥娘々青娥娘々。少々やさぐれたっていいじゃないの。
「だから、どうせお前も言いに来たんだろう。青娥が探していると!」
「……なんで?」
「なんで?」
私の首も芳香同様にカクンと傾いた。
「青娥は神子を探してたのかあ? いったい何の用で? そしてどうして神子はここに?」
「……分からん。分からないからここにいる」
改めて聞かれると、青娥に私の読書を妨害するような用件があるのだろうか。ただ内臓を持ち歩いていたという話はあるが、それも私宛かは分からない。それでも理由をしいて答えるならば、聖徳王としての勘である。
「たぶんだがー……青娥はもう探してないぞ。そうだったら私も何となく『神子を探せー』の気分になるからな。ちなみに私は良い桜を見かけたので大地と一体になっていた」
「ああそう。以心伝心なのは結構だが……」
言わずとも主人の意思を汲んで行動してくれる下僕。言葉だけなら素晴らしいが、問題はそれが死体だという点か。相変わらずよく分からない理由で土中に居たし。
「ちなみに、私も分からんぞ。何だか神子はがっかりしてるように見えるからな」
「……まさか。ほっとしている所だけど?」
「いんや、ゾンビの勘が告げている! ほっとしている反面、がっかりもしている。そうであろう?」
そういう所だけ青娥に似なくていいと、先ほどの布都への言葉を思い出していた。何故ならば、それはあの人の得意技だからである。言われたくない本当の事をずけずけと突っ込んでくる所が。
「もしかしてだがー……放っておいて欲しいけど、本当に気にされないのは嫌、とかぁ?」
全く、腐敗した脳で時たま生者よりも切れ者になるのだから恐れ入る。ここまで図星だと、腹立たしいよりも天晴れだ。
「はぁー……本当にはぁー……だな。青娥も追いかけられるのは嫌なくせに、それが止むとそわそわしだすのだ。まあそういう所も愛らしいのだが!」
「あの人を追いかけるなんて地獄の鬼くらいでは?」
「そんな事ないわ! あの美貌だから厄介な追っかけとかたまに湧くのだぞ! まあ……気付いたら居なくなってるが」
「……だろうねえ」
本性を知ってか、物理的にか。どちらにせよ自己責任で私には関係ないものとする。
「そんなことよりぃー……ほれ、書を開け。早うシロウくんの刺される所が見たい」
「まだ刺されるとは決まってないから。それよりよく内容が理解できたね」
「私をなめ腐るなよう。キョンシーアイは両目とも視力2だぞ。おまけに暗視機能付き」
「凄いのか分からないが、おそらく立派なのだろうな」
遠目から読んでという話ではないのだが、たまに語彙力で私をも上回るキョンシーだ。暇な時には詩も口ずさむし、今更現代文が読めた所で驚く事でもないのだろう。
「おいで、この先は帰ってから読もう。木陰も悪くないがやはり室内の方が落ち着くのでね」
「ええぇ~? でもなあ、一緒に帰って友達に噂とかされたら恥ずかしいしぃ~?」
死人に恥無し、といつか宣っていたのは目の前の人物だった気がする。そしてそれより気になる事もあり。
「お前の友達って誰?」
わざとらしくもじもじしていた芳香の体がピタリと固まった。
「えー……キョンシーのセンパイだろー。屠自古とー、布都とー……神子?」
「なるほど、全員身内だ。私達もその枠に入っていたのだね」
「うんむ、私が居ても嫌な顔しないで話してくれるから好きだが……え、イヤですか?」
「まさか、嬉しく思っているよ」
どこに行こうとも大仰に扱われていた私と違い、芳香などどこに居ようとも忌避や嫌悪の対象だろう。実際のところ、私も最初はあまり目にしたくない存在であったが、今このように平然と話している理由は単に慣れと、何より彼女の人柄によるものだ。
「つまり、友と帰るならば何も恥じる事は無いね。では行こうか」
「ではでは、帰りの神子は私がしっかり守ってやろう!」
芳香がえへんと胸を張る。張ったものだから、いつも後ろ体重気味に立っている彼女の体は勢いよく地面に倒れこんでいった。
その両腕を掴んで引っ張り上げた私の脳裏に「お守」の二文字が浮かぶが、おそらくはこれで良いのだろう。守ってばかり、守られてばかりの一方的な関係は、友としてあまり健全ではないのだから。
帰宅した私を待ち受けていたのは、まさに地獄のような光景であった。
細切れにされた臓物が、溶岩のようにぼこぼこと煮えたぎる土気色の液中でおぞましく変色し、己こそが主役だと言わんばかりに存在を主張している。さらに得体の知れない植物の数々と合わさって、未だかつて嗅いだことの無い独特な香りを周囲に振りまいていた。
その地獄の作成者は言うまでもなく、芳香ばかりでなく私の保護者まで気取る邪仙の、霍青娥──。
「あのー、ただのお鍋をおかしく語らないでくれません?」
「ああはい、何となく求められている気がして……」
曰く、もつ鍋。筑紫の辺り(今風に言うと九州)の名物で、牛や豚等の内臓を主材料にした独特の歯ごたえと風味の料理だとか。
「肉の日だから内臓もとってもお買い得だったんですよ。内臓料理は大丈夫か一応確認したかったのに、豊聡耳様ったら居ないんですもの。勝手に作っちゃいました」
「いやそのう、29日が新刊の発売日だったもので……」
私は霊感を全開にして一人の浮遊体を睨みつけた。内臓を持っていると証言していたそもそもの元凶を。
「屠自古……お前、分かっていたよね?」
「勿論ですけど。だって、まさか太子様があの話だけで御理解いただけないはずが」
「ただの食材だったらそう言いなさい!」
この怨霊、エプロンを着ているからには青娥を手伝っていた事は確定的に明らかである。
何という事だ、まさか蘇我氏まで私を計略に陥れるなんて。
「しかしですねえ、青娥だったら変な使い方をすると思ったのはお互い様でしょう。相思相愛ですね」
「雑に四字熟語を使わないように。否定はしないが……」
「うふふ、豊聡耳様ともあろうものが逃げ回ってらしたか。まさか私などを恐れて」
私と屠自古の間にすかさず挟まってくる女、霍青娥。発言は嫌味ったらしいのに顔は歓喜で満ちている。それが本当に怖い。
「だって、読書の時間が台無しになりそうだし……貴女、推理小説の犯人バラすタイプでしょう」
「バラすって、どちらの意味ですか?」
「どっちもだよ!」
この私にツッコミをさせるなんて、私が暴君だったら五体を以下略。
「でもでもぉ、つまりはお昼の間ずっと私が頭の中に居たのですよね。私も豊聡耳様の喜ぶ顔を思い浮かべながらお料理していましたよ。両思いって事ですね?」
「……よりにもよってこの私に、内臓を食わせて喜ぶと?」
内臓をホルモンと呼ぶのは「放る物」から来ているそうな。良い部位は身分の高い者が持っていき、下民はそれ以外の捨てられた所しか食べられない。そういった事情から内臓を用いた料理が発展した。要するに私の食卓には決して上がらないシロモノなのだが。
「お顔を見れば分かりますよ。期待に満ち溢れていらっしゃいます」
誰が言ったか、今の私は生まれ変わって高貴な血など流れていない。飛鳥時代の食事よりも現代の庶民的料理の方が万倍好みだった。
「えーえーそうですよ、貴女の料理が不味いはずないでしょう。匂いだけでも絶品なのが予想できますよ」
「そうなんだよなあ、料理はちゃんとしてるんだよ。倫理はおかしいくせに」
「おかしいで言ったら屠自古さんもでしょうに。最後に怨霊らしい事したのいつですか」
いつも見ている顔との、いつも通りの言葉の応酬。若干不本意な所はあるがやはり安心する。帰る場所とはそういうものだ。
「屠自古ぉー!」
「ごはんー!」
居間から声がしたと思えば、いつの間にやら布都と芳香の二人が雛鳥のように騒ぎ立てている。両手の箸でチャカポコと打楽器を演奏する様には、貴族の姿かこれがとため息をつきたくなるが、見た目だけなら童女なので何とか絵面を保てている。実年齢を考えてはいけない。
「あーもう、飯ぐらい自分でよそえよお前らはー!」
屠自古がぷりぷりと口を尖らせながらもしゃもじを手に取る。そうやって甘やかすからいつまで経ってもあのままだと思うのだが、まあ好きでやっているのだろう。酒も飲むのだから白米は要らないだろうと私的には思うのだが、食いしん坊(芳香)的にそれは天変地異規模であり得ないと言ってのけた過去がある。
「そういうわけですので、読書よりも先にお食事の時間です。ふふ、ご心配通り私にお邪魔されてしまいましたね」
「食べながら読みたいけどそれは怒るからねえ、屠自古が。きっと今日は物事が順調にいかない星の巡りだったのさ」
「ご安心くださいな。少なくとも今日の私はこれ以上豊聡耳様に用はありませんから」
「ならば丁度良い。この後の読書では私に付き合ってもらいますよ」
「……ほほう?」
これまで逃げ回っていた(と青娥は思っているだろうが私は決して逃げていない)私から逆に誘われ、終始笑顔だった青娥にも少々疑問の色が浮かんだ。
「芳香がねえ、一緒に読みたいと言うので貴女も同伴するべきでしょう。貴方は目の前に居るのが一番安心なんですよ、結局」
「ひっどぉーい。それじゃあ目の前に居ない私がろくでもない事してるみたい」
「してるでしょう」
「どうやら凡夫の皆さま的にはそうみたいですけどね」
青娥は全く悪びれずに舌をぺろりと出した。本当によくもまあ千年以上閻魔から舌を守り通せたものだと思う。
「とにかく、食事が済んだら今日は私と一緒です。でも読書の気が散るような真似は禁止。嫌とは言わせませんよ」
「はあ、理不尽……でも、それは本当に不安だからってだけですか?」
「そんな事、貴女なら言わなくても分かるはずだけど」
「分かりませ~ん。私は豊聡耳が好きですからご一緒しますけど、そちらはどうなんですか?」
一々言っていたら価値が下がると考えているのだが、どうもこの思想は理解してもらえない。これが男女の差というものだろうか。まあ、私も女の身なのだが。
「はいはい好きですよ。貴女が居れば最低でも千年は退屈しないでしょうね」
「むう、好きならもう少し丁寧に答えなさい。仙術の次は私の喜ばせ方も学んでもらわないとかしら?」
「気まぐれな貴女の扱いなんて生涯身に付く気がしませんね。不変の身とはいえ、いったい何年費やすおつもりで?」
「二千年、三千年。豊聡耳様になら何万年でも付き合いますよ」
それはまた、随分と愛が重いことで。私達はくすくすと笑いあって皆の待つ食卓に向かった。
鍋を囲む皆の顔を見て、私は改めて思い出す。
ここには私の為に自ら死を受け入れた者と、死してなお私を待ち続けた者がいて、そしてこの場所を守ろうとずっと尽くしてくれた者も居る。この光景は全て私の為に行動してくれた皆が居たからこそなのだ。
それがどれほどの幸福かを噛み締めつつ、それはともかく新刊の続きが気になって仕方がない私は、弾力あるモツを大急ぎで噛み締めていたのであった。
蘇我屠自古の一言は未だかつて無い絶望を私にもたらしたのである。
それ即ち、今日の予定が大幅に狂うとほぼ確定したからだ。
「……お気持ちは分かりますが、そんなこの世の終わりみたいな顔をしなくてもいいでしょうに」
屠自古が居間をふよふよと漂いながら苦笑を浮かべる。彼女は亡霊で、実際に今世の終わりを迎えてしまっている。そのような人物にだけは言われたくないのだが、これは非常に繊細な話題なので言わぬが吉だろう。
「しかしだねえ、今日が何の日だか知らぬわけでもあるまい?」
「29日で肉の特売日ですね。布都に行かせるつもりでしたが、もしや代わりに買ってきてもらえます?」
「そうではなく……あいや、決して行くのが嫌ではないですよ? ただ待ち望んでいた新刊の発売日でね」
「ああ、アガサなんちゃらとかいうのが書いてるやつですか」
人里の有力者である稗田家当主。その彼女が偽名で出版している娯楽本が本日出回るのだ。一人でゆったりと読書に耽りたい時、構ってちゃんの権化たる霍青娥なんて居たら絶対に集中できないだろう。避客牌でも出しておきたいところだが、きっと無視して門を突破してくるに違いない。
とはいえ、本当に稀だが、至って真面目な用件で私の下へ来る時もあるから始末が悪いのだ。飛鳥時代の一皇族として生涯を終えていたであろう私が、尸解仙・豊聡耳神子へと生まれ変わる際に師事したのが他でもない青娥である。
素行の悪さで邪仙と誹られる彼女でもあっても、仙人としては私よりも遥かに先達だ。反面教師みたいなものだが我が師である事を否定する気は無い。今なお青娥から学べる事柄だっていくらでもある。
「しかし君の口から特売日などと。何というか、すっかり庶民染みてしまったね」
「そりゃそうでしょうよ、御屋敷に住んでいたのも何時の話ですか。それに私達は貴い血ごと元の体を捨てたわけで……実際私の体には一滴の血もありませんけど」
「そうだろうけど、やめて?」
死者ジョークは死者しか笑えない。その死者を繰る邪仙は「こうやってガス抜きしないと危ないのよ」と言うが、代わりに私の体が死体のように冷や冷やするのだ。
「ま、庶民染みてというならお互い様ですよ。そうやって市中をお一人で徘徊するなんて昔じゃ有り得ないでしょう」
「うむ、護衛無しに歩き回れる今の何と気楽な事か。とは言え、たまには誰かを供にしたい時もあるよ。いつかはお前とも堂々歩き回りたいものだが……」
「うわあ、もしかしてそれ口説いてます?」
屠自古はよりにもよって幽霊でも見たような顔で私を見つめるのだった。
「うわあは無いだろ、うわあは。単なる願望を口にした程度で」
「ふふ、軽いジョークですって。いつかと言わず、今でもお供したって良いんですよ? 民衆がちょっと放電した程度で騒ぐビビりじゃなければ」
「雷を恐れぬのも少々都合が悪いな。放電しないのが一番だが」
「それは無理な相談です。ま、墓場と冥界程度ならいつでもお付き合いしますよ。そういえば吊り橋効果って知ってます? 怖い所で一緒に居ると心臓の鼓動を恋愛感情と勘違いするんだとか。太子様も今後の参考にすると良いでしょう」
くくく、と口元を袖で隠してほくそ笑む。確かに、その効果は実在するようだ。彼女がどのような意図を持って今の発言をしたのか、真意を読み切れない私の胸は激しく脈動しているのだから。
「……話を元に戻そうか。青娥がどんな用事で私を探していたか分かるかい?」
「あー、ぶよぶよの内臓をたっぷり運んでましたね。それでも見せびらかしたいんじゃないですか?」
「私は修行の旅に出た! また青娥が来たらそう伝えるように!」
「夕飯までには帰ってきてくださいよ~」
私は回れ右して速やかに神霊廟を後にした。これは決して逃げているわけではない。雑談で無駄にした時間を取り戻すべく、早々に新刊を手に入れたいからである。
「おお太子様、先ほど青娥殿が探しておりましたぞ」
天国から地獄。本日二度目の絶望。
本屋の前で無事新刊を入手した、せっかくの勝利の瞬間。それを台無しにしたのはよりにもよって、買い物袋をぶら下げた物部布都。尸解の儀式で先駆けて殉じた私の腹心であった。ちなみに袋からは青々と良く育った大根や長葱が顔を覗かせている。
「な、何故そのように苦悶の表情を浮かべておられるのです?」
「逆に聞くが、青娥に探されて良い気分になるの?」
「私にとっては滅多にない珍事ですので。あのように自由な御方がわざわざ自分に時間を割いてくれるのです。興味を持たれなくなったら終わりですぞ、逆に」
「それは、そうかもしれないが」
しかし実際に絡まれてみれば「興味が無くなるまで徹底的に無視しろ」とまでこの新刊の著者に言われた理由も納得出来るだろう。常時くっつかれても許せるのは自分より圧倒的に小さくて憐れで可愛い生き物だけだ。腹立たしい事に青娥は私よりいろいろと大きくて可愛げがない。
「少々、こちらに来なさい」
ちょいちょいと手招きして、川沿いの柳の下へと布都を誘導する。邪仙の話題は、今風の言葉で表すならセンシティブでドメスティックでポリティカルなのだ。人が密でない所で話すに限る。
「……その青娥は、内臓を運んでいたりした?」
「いやいや、いくら青娥殿でも人の往来で内臓は……あるかもしれませんが、今回は概ね普通だったかと」
とりあえず青娥のせいで私が頭を下げる事態にはならなかったようだ。しかし油断は大敵である。どちらにせよ私の時間を邪魔されたくはないのだから。
「……それほどお嫌ですか、青娥殿が」
「む。そうとは一言も言ってない。ただ、あるだろう? 放っておいて欲しい時が」
「私などは先生に教えを請いたくとも放任される日々だというのに、贅沢な話ですな」
それについては気の毒なようで、実は全然そうでもない。この間は火と雷の呼吸法だとかで質問攻めしていたが、言葉の響きに反して修業とは全く関係無かったらしい。青娥も「知らないけど岩が一番強いんじゃない」とうんざりした顔で答えていた。
それはともかく、生きている時間ならば私を遥かに上回るのに行動理念が幼稚だから困るのだ。曲がりなりにも私の師なのだからちゃんとしてもらいたい。そんな事だから目の前の弟子がこんなになる。
「……やはり似た者同士の方が構って貰えるのですかなあ」
「おい、言って良い事と悪い事がある」
前のめりになって布都に詰め寄った。いくら私の同志でも言って良い事と悪い事がある、本当に。
「おおぉ、いくら見慣れた御尊顔でもここまで近いと戸惑うものですな。今風の言葉で表すならばそう、胸キュン?」
「私が暴君だったら首をキュッとされていたが?」
「おっとっと、相済みませぬ。失言とあらば速やかに取り消しますとも」
「全く、お前も随分と口答えするようになって……」
昔は私が鹿だと言えば馬でもそうだと答えてくれるような忠臣だったはずなのに。一体どこで道を間違えたのか……と思い返して浮かんだのが、屠自古を謀った時なのでこの思索を止めた。
今の布都は買ったばかりのネギを振り回して遊んでいる、このお気楽な姿が間違った道だとは言いたくない。かつての布都が歩んでいたのは間違いなく修羅道なのだから。
「しかしですな、私と青娥殿が正反対だから構って貰えないという話ですぞ。一体太子様はどのように受け取られたのでしょうな?」
「本当に立派になったな、お前は!」
おまけに私を弄ぶ悪戯心まで芽生えている。これも死のついでに宮廷の煩わしい上下関係からも解放されたから、そう思えば喜ばしい結果なのかもしれないが、今だけは逆だ。煩わしい上下関係バンザイ。
「いやいや、何があろうとも私は太子様を心からお慕いしておりますし、青娥殿にも深く感謝しております。だから良いでしょう、お二人が似た者同士でも」
「……その様に言われても、私の機嫌が良くなったりは」
「喜ぶと御髪がよく跳ねるから分かり易くて可愛い、とは青娥殿の弁ですな。今の太子様もとってもプリチーですぞ」
「ぐっ……」
こんな「ティー」も上手く言えない奴に煮え湯を飲まされるとは、とでも言っておく。
そもそも何故私は無駄に話し込んでしまったのか。早く読書をしたくないのか。自問自答するが、しかし答えは私の中に初めから存在しているのだ。
「……もうよい。これから私は一人だけの世界に入る。くれぐれも、邪魔しないように」
「承知しました。青娥殿にもそう言え、という事ですな?」
「あのね、そこまで分かっているのならもう少し快適な会話を心掛けなさい?」
「はは、私もかつては見れなかった太子様の百面相を楽しみたい一人なのです」
「そういう所だけ師に似なくていいの!」
やはり布都も立派な邪仙の弟子だ。そう確信した私は、その魔手から少しでも遠ざかるべく閑散な場所を求めて旅立つのであった。
『つまり、こいつは始めから姉も狙っていたと?』
『その通りです。彼女に一途な純情男、誰しもがそう思っていたでしょう。その評判を利用し、この男はお姉さんとも恋愛相談を口実に密会していたようですね? 何度も何度も、時には一緒に食事や酒を楽しんだとか……』
『ウソだよね……シロウくん、ずっと私だけを見てるって……』
男はしばし無言で立ちすくむ。捨てられた子犬のように縋る彼女には目もくれず、代わりに己の浅薄な野望を白日の下に晒した少女探偵の顔をまっすぐ捉えていた。爪痕が残る程に拳を強く握りしめて。
『……ホンッと、バカな女だったぜ。ちょっと甘い顔してやっただけで簡単に尻尾振りやがるんだからよォ』
『やめてよ! シロウくんは私を傷つけるようなこと絶対言わないもん! アンタなんかシロウくんじゃな
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………次のページはまだかあ?」
いつの間にか私の日傘となっていた少女が、背後からのっそりと口を開いた。
「お前が気になって気になって読書どころではないのでね」
「ほおーお? 残念だが私はもう青娥のものなんでなー。だが特別に、愛人としてなら許さんでもない」
「生憎だが私も死体愛好癖はないよ。それにあの人の物に手を出すと後が怖い」
青娥の所有物こと、生ける屍の宮古芳香が私の頭上からだらんと頭を下げた。
こちらは本をぱたんと閉じ、芳香の方に向き直る。せっかくの新書に涎を垂らされてはたまらない。
欲の声が聞こえない、誰も居ない場所だと選んだ桜の木陰だが、私の素晴らしい能力にも僅かに穴があった。生物ならば絶対に持つ「生きる」という根源的欲求が無い相手、つまりキョンシーの声は聞き取りづらいのだ。
「まだ真昼だよ。お前が目覚めるには少々早すぎないかい」
「なあに、これから深夜まで寝るから心配いらん! 1日8時間睡眠が長生きの秘訣だぞ。青娥もそう言っている」
「ああハイハイ青娥ですか。やっぱりお前も当然のようにあの人の手先なわけだ」
「んー……? 何を当たり前の事を」
自分で言っておいてその通りだが、今日に限ってどこへ行っても青娥娘々青娥娘々。少々やさぐれたっていいじゃないの。
「だから、どうせお前も言いに来たんだろう。青娥が探していると!」
「……なんで?」
「なんで?」
私の首も芳香同様にカクンと傾いた。
「青娥は神子を探してたのかあ? いったい何の用で? そしてどうして神子はここに?」
「……分からん。分からないからここにいる」
改めて聞かれると、青娥に私の読書を妨害するような用件があるのだろうか。ただ内臓を持ち歩いていたという話はあるが、それも私宛かは分からない。それでも理由をしいて答えるならば、聖徳王としての勘である。
「たぶんだがー……青娥はもう探してないぞ。そうだったら私も何となく『神子を探せー』の気分になるからな。ちなみに私は良い桜を見かけたので大地と一体になっていた」
「ああそう。以心伝心なのは結構だが……」
言わずとも主人の意思を汲んで行動してくれる下僕。言葉だけなら素晴らしいが、問題はそれが死体だという点か。相変わらずよく分からない理由で土中に居たし。
「ちなみに、私も分からんぞ。何だか神子はがっかりしてるように見えるからな」
「……まさか。ほっとしている所だけど?」
「いんや、ゾンビの勘が告げている! ほっとしている反面、がっかりもしている。そうであろう?」
そういう所だけ青娥に似なくていいと、先ほどの布都への言葉を思い出していた。何故ならば、それはあの人の得意技だからである。言われたくない本当の事をずけずけと突っ込んでくる所が。
「もしかしてだがー……放っておいて欲しいけど、本当に気にされないのは嫌、とかぁ?」
全く、腐敗した脳で時たま生者よりも切れ者になるのだから恐れ入る。ここまで図星だと、腹立たしいよりも天晴れだ。
「はぁー……本当にはぁー……だな。青娥も追いかけられるのは嫌なくせに、それが止むとそわそわしだすのだ。まあそういう所も愛らしいのだが!」
「あの人を追いかけるなんて地獄の鬼くらいでは?」
「そんな事ないわ! あの美貌だから厄介な追っかけとかたまに湧くのだぞ! まあ……気付いたら居なくなってるが」
「……だろうねえ」
本性を知ってか、物理的にか。どちらにせよ自己責任で私には関係ないものとする。
「そんなことよりぃー……ほれ、書を開け。早うシロウくんの刺される所が見たい」
「まだ刺されるとは決まってないから。それよりよく内容が理解できたね」
「私をなめ腐るなよう。キョンシーアイは両目とも視力2だぞ。おまけに暗視機能付き」
「凄いのか分からないが、おそらく立派なのだろうな」
遠目から読んでという話ではないのだが、たまに語彙力で私をも上回るキョンシーだ。暇な時には詩も口ずさむし、今更現代文が読めた所で驚く事でもないのだろう。
「おいで、この先は帰ってから読もう。木陰も悪くないがやはり室内の方が落ち着くのでね」
「ええぇ~? でもなあ、一緒に帰って友達に噂とかされたら恥ずかしいしぃ~?」
死人に恥無し、といつか宣っていたのは目の前の人物だった気がする。そしてそれより気になる事もあり。
「お前の友達って誰?」
わざとらしくもじもじしていた芳香の体がピタリと固まった。
「えー……キョンシーのセンパイだろー。屠自古とー、布都とー……神子?」
「なるほど、全員身内だ。私達もその枠に入っていたのだね」
「うんむ、私が居ても嫌な顔しないで話してくれるから好きだが……え、イヤですか?」
「まさか、嬉しく思っているよ」
どこに行こうとも大仰に扱われていた私と違い、芳香などどこに居ようとも忌避や嫌悪の対象だろう。実際のところ、私も最初はあまり目にしたくない存在であったが、今このように平然と話している理由は単に慣れと、何より彼女の人柄によるものだ。
「つまり、友と帰るならば何も恥じる事は無いね。では行こうか」
「ではでは、帰りの神子は私がしっかり守ってやろう!」
芳香がえへんと胸を張る。張ったものだから、いつも後ろ体重気味に立っている彼女の体は勢いよく地面に倒れこんでいった。
その両腕を掴んで引っ張り上げた私の脳裏に「お守」の二文字が浮かぶが、おそらくはこれで良いのだろう。守ってばかり、守られてばかりの一方的な関係は、友としてあまり健全ではないのだから。
帰宅した私を待ち受けていたのは、まさに地獄のような光景であった。
細切れにされた臓物が、溶岩のようにぼこぼこと煮えたぎる土気色の液中でおぞましく変色し、己こそが主役だと言わんばかりに存在を主張している。さらに得体の知れない植物の数々と合わさって、未だかつて嗅いだことの無い独特な香りを周囲に振りまいていた。
その地獄の作成者は言うまでもなく、芳香ばかりでなく私の保護者まで気取る邪仙の、霍青娥──。
「あのー、ただのお鍋をおかしく語らないでくれません?」
「ああはい、何となく求められている気がして……」
曰く、もつ鍋。筑紫の辺り(今風に言うと九州)の名物で、牛や豚等の内臓を主材料にした独特の歯ごたえと風味の料理だとか。
「肉の日だから内臓もとってもお買い得だったんですよ。内臓料理は大丈夫か一応確認したかったのに、豊聡耳様ったら居ないんですもの。勝手に作っちゃいました」
「いやそのう、29日が新刊の発売日だったもので……」
私は霊感を全開にして一人の浮遊体を睨みつけた。内臓を持っていると証言していたそもそもの元凶を。
「屠自古……お前、分かっていたよね?」
「勿論ですけど。だって、まさか太子様があの話だけで御理解いただけないはずが」
「ただの食材だったらそう言いなさい!」
この怨霊、エプロンを着ているからには青娥を手伝っていた事は確定的に明らかである。
何という事だ、まさか蘇我氏まで私を計略に陥れるなんて。
「しかしですねえ、青娥だったら変な使い方をすると思ったのはお互い様でしょう。相思相愛ですね」
「雑に四字熟語を使わないように。否定はしないが……」
「うふふ、豊聡耳様ともあろうものが逃げ回ってらしたか。まさか私などを恐れて」
私と屠自古の間にすかさず挟まってくる女、霍青娥。発言は嫌味ったらしいのに顔は歓喜で満ちている。それが本当に怖い。
「だって、読書の時間が台無しになりそうだし……貴女、推理小説の犯人バラすタイプでしょう」
「バラすって、どちらの意味ですか?」
「どっちもだよ!」
この私にツッコミをさせるなんて、私が暴君だったら五体を以下略。
「でもでもぉ、つまりはお昼の間ずっと私が頭の中に居たのですよね。私も豊聡耳様の喜ぶ顔を思い浮かべながらお料理していましたよ。両思いって事ですね?」
「……よりにもよってこの私に、内臓を食わせて喜ぶと?」
内臓をホルモンと呼ぶのは「放る物」から来ているそうな。良い部位は身分の高い者が持っていき、下民はそれ以外の捨てられた所しか食べられない。そういった事情から内臓を用いた料理が発展した。要するに私の食卓には決して上がらないシロモノなのだが。
「お顔を見れば分かりますよ。期待に満ち溢れていらっしゃいます」
誰が言ったか、今の私は生まれ変わって高貴な血など流れていない。飛鳥時代の食事よりも現代の庶民的料理の方が万倍好みだった。
「えーえーそうですよ、貴女の料理が不味いはずないでしょう。匂いだけでも絶品なのが予想できますよ」
「そうなんだよなあ、料理はちゃんとしてるんだよ。倫理はおかしいくせに」
「おかしいで言ったら屠自古さんもでしょうに。最後に怨霊らしい事したのいつですか」
いつも見ている顔との、いつも通りの言葉の応酬。若干不本意な所はあるがやはり安心する。帰る場所とはそういうものだ。
「屠自古ぉー!」
「ごはんー!」
居間から声がしたと思えば、いつの間にやら布都と芳香の二人が雛鳥のように騒ぎ立てている。両手の箸でチャカポコと打楽器を演奏する様には、貴族の姿かこれがとため息をつきたくなるが、見た目だけなら童女なので何とか絵面を保てている。実年齢を考えてはいけない。
「あーもう、飯ぐらい自分でよそえよお前らはー!」
屠自古がぷりぷりと口を尖らせながらもしゃもじを手に取る。そうやって甘やかすからいつまで経ってもあのままだと思うのだが、まあ好きでやっているのだろう。酒も飲むのだから白米は要らないだろうと私的には思うのだが、食いしん坊(芳香)的にそれは天変地異規模であり得ないと言ってのけた過去がある。
「そういうわけですので、読書よりも先にお食事の時間です。ふふ、ご心配通り私にお邪魔されてしまいましたね」
「食べながら読みたいけどそれは怒るからねえ、屠自古が。きっと今日は物事が順調にいかない星の巡りだったのさ」
「ご安心くださいな。少なくとも今日の私はこれ以上豊聡耳様に用はありませんから」
「ならば丁度良い。この後の読書では私に付き合ってもらいますよ」
「……ほほう?」
これまで逃げ回っていた(と青娥は思っているだろうが私は決して逃げていない)私から逆に誘われ、終始笑顔だった青娥にも少々疑問の色が浮かんだ。
「芳香がねえ、一緒に読みたいと言うので貴女も同伴するべきでしょう。貴方は目の前に居るのが一番安心なんですよ、結局」
「ひっどぉーい。それじゃあ目の前に居ない私がろくでもない事してるみたい」
「してるでしょう」
「どうやら凡夫の皆さま的にはそうみたいですけどね」
青娥は全く悪びれずに舌をぺろりと出した。本当によくもまあ千年以上閻魔から舌を守り通せたものだと思う。
「とにかく、食事が済んだら今日は私と一緒です。でも読書の気が散るような真似は禁止。嫌とは言わせませんよ」
「はあ、理不尽……でも、それは本当に不安だからってだけですか?」
「そんな事、貴女なら言わなくても分かるはずだけど」
「分かりませ~ん。私は豊聡耳が好きですからご一緒しますけど、そちらはどうなんですか?」
一々言っていたら価値が下がると考えているのだが、どうもこの思想は理解してもらえない。これが男女の差というものだろうか。まあ、私も女の身なのだが。
「はいはい好きですよ。貴女が居れば最低でも千年は退屈しないでしょうね」
「むう、好きならもう少し丁寧に答えなさい。仙術の次は私の喜ばせ方も学んでもらわないとかしら?」
「気まぐれな貴女の扱いなんて生涯身に付く気がしませんね。不変の身とはいえ、いったい何年費やすおつもりで?」
「二千年、三千年。豊聡耳様になら何万年でも付き合いますよ」
それはまた、随分と愛が重いことで。私達はくすくすと笑いあって皆の待つ食卓に向かった。
鍋を囲む皆の顔を見て、私は改めて思い出す。
ここには私の為に自ら死を受け入れた者と、死してなお私を待ち続けた者がいて、そしてこの場所を守ろうとずっと尽くしてくれた者も居る。この光景は全て私の為に行動してくれた皆が居たからこそなのだ。
それがどれほどの幸福かを噛み締めつつ、それはともかく新刊の続きが気になって仕方がない私は、弾力あるモツを大急ぎで噛み締めていたのであった。
みんなして太子をいじってる新霊廟メンバーがとてもよかったです
もつ鍋が食べたくなりました
「バラすって、どちらの意味ですか?」
この返しを即座に繰り出す作者さんの青娥が好きです。