Coolier - 新生・東方創想話

土くれのメメント

2024/02/24 22:47:27
最終更新
サイズ
107.81KB
ページ数
1
閲覧数
883
評価数
11/12
POINT
1110
Rate
17.46

分類タグ

 杖刀偶磨弓は心を持たぬ兵器であり、死を恐れぬセラミックスの兵隊であり、主への忠誠を燃やし駆動する自動人形に過ぎない。
 彼女の職務はその権能をもって万兵を率い動物霊共を滅することであり、畜生界霊長園の守護であり、埴安神袿姫の威信を知らしめるアイドルたることである。
 逆に言えばそれだけが彼女の存在意義。
 一個人であること、心もつ愛おしい人形であることなどは、はなから期待されていない。
 兵器で、道具で、偶像である。
 それが杖刀偶磨弓の全て。光の届かぬ畜生界で永遠に鎮座することを宿命付けられた存在だ。
 
 そのはずだった。

 鳥の声がチィチキ唄う丘の上で一人、あるいは一体、磨弓は晴れた蒼穹に抱かれた幻想郷を見下ろしていた。
 雲一つ無い空。そこに輝く太陽を愚かにも無策で見上げてしまい、陶磁器製の目蓋を慌てて降ろす。

――なんて眩い。あれが太陽なのね。

 イドラデウスに吹き込まれた忠実なる戦士の魂は油断という言葉を知らない。迫る危機と脅威に対しては常に迅速に反応するよう設計されている。
 絶えぬ核融合を繰り返し燃え盛る太陽。畜生界には存在しない凄まじい脅威の一つだ。
 いったい敵はどれほどの巨体なのだろうと磨弓は想像してみる。重要なのはエネルギー、その量が測定できれば大宇宙に満ちる基本原則、すなわち質量かけることの光速度の二乗方程式の逆算によって求められ……

――なに?

 降って湧いた妙な思考に磨弓は首を傾げる。記憶にない知識だ。とはいえ、彼女のがらんどうな思考は結局のところ埴安神謹製の思考モジュールの詰め合わせでしかなく、そうした「混線」は稀にだが起こりうる。
 それに。そんなことはたちまちどうでも良くなった。遥か天上に居座る太陽などより、もっと恐ろしいものが地上には満ち満ちていたから。
 すなわち、唄う鳥や駆け回る野兎、飛び交う虫たちの一つ一つ。その全ての生命は畜生界の動物霊とは異なり肉体を持っている。彼ら全てが磨弓を殺傷せしめる力を持った現実の脅威だ。

――霊長園のエデン区画に似ている。

 相対する脅威にはまず分析が先決する。
 エデン区画とは、霊長園内にわずか残る管理された自然保護区画の一つ。しかしすぐに磨弓は自分の分析を否定する。

――たしかにここにある生命はエデン区画のそれと類似する。檻の中にしまわれた鳥や虫たちとおんなじ見た目だわ。

 しかし、やっぱりなにもかもが違っている。「自然」を知らない磨弓にもそれは理解できる。

――だってあんなに高らかに鳴く鳥はいなかった。

 それだけではない。
 埴安神袿姫の創ったもっとも精巧な造花(磨弓ですら最上の栄誉を授かる時にしか受け取れない品だ)に勝るとも劣らない花々が、ここでは惜しむことなくそこら中で咲き乱れている。

――夢のような現実だわ。

 いっそ夢と言われたほうが本当らしかった。
 無論セラミックスの人形である磨弓は夢を見ない。だが知識では知っている。霊長園の人間霊たちが沈静下で見る理想郷について。
 なにせ磨弓はその話を何度となく聞かされていた。彼らはいつでも夢の話ばかりしたがるから。袿姫様のご加護に預かる世界が楽園ではないとでも言いたげに、彼らはいつでも声高に、失われたというユートピアの話を繰り返す。
 そう、この地はまさに理想郷と多くの類似点を持っていた。輝かしい太陽、唄う鳥たち、萌える草木と可憐なる花々、だが。

――どこが理想の世界なのやら。

 磨弓にとってここは敵軍の只中でしかない。かさかさと生きた虫や野鼠が足元に這い寄る度彼女は、苛立たしげにそれを払うを繰り返している。
 ただ幸い、直ちに迫る脅威は無いように見えた。それでも警戒は緩めず、改めてイドラデウス――彼女の造物主たる埴安神袿姫の命令を、頭部に詰まった記録領域から引っ張り上げる。
 曰く、

「地上に向かいなさい」

 シンプルな袿姫の命令。いつも通り埴輪製作に没頭した彼女はもはや、振り向きすらせず磨弓に告げた。
 磨弓もまたそれに「承知しました」と素早く返した。いつも通り。

「そう」

 磨弓にとって袿姫の命令は絶対服従であり、返答には「はい」か「承知しました」の二種類しか用いない。
 とはいえ磨弓には磨弓の責務がある。それもまた袿姫に与えられた鉄より堅いセラミックス製の使命であるため、確認作業は省略不可だ。
 
「私が不在の間、霊長園の警備はいかがいたしましょう」
「一個中隊の埴輪兵を新調した。いざとなれば私もいる。数日程度なら支障は無い」

 さすがは袿姫様だ、と磨弓は首肯く。それからようやく、

「して、地上で何をすれば良いのでしょうか」

 と命令の詳細を確認できた。
 袿姫は常に気まぐれと思いつきで命令を出すがため、朝令暮改は日常茶飯事。故にこの二段階プロセスはあらゆる命令に付随する。
 常人なら発狂するような煩雑さだが、元より忠誠心の塊である磨弓は違和感すらおぼえない。

「この頃、畜生界の組長たちが地上進出を目論んでいるそうなの。どうせ畜生の気まぐれだと思うけど、生身の人間を寄越してきたこないだの件もあるし、一応調べてみてちょうだい」
「承知しました」
「じゃあお願いね」

 それだけ言うと袿姫はまた作業に戻る。とんとん、かん、とハンマーがノミの頭を叩く単調な音色。
 その音はいくら待っても止む気配がなく、しかたなしに磨弓は尋ねた。

「あの、質問を一つよろしいでしょうか」
「どうしたの? 磨弓ちゃんらしくもない」
「申し訳ありません。ですが私は袿姫様にお造りいただいてからこのかた、一度として畜生界を出たことがありません。地上を調べると仰いますと、どのようにすればよろしいのでしょうか」
「好きにしていいわ」
「は……はい?」

 辛うじて「はい」の範疇に収まってこそいたが、磨弓の語気はいつになく弱々しい。
 
「磨弓ちゃんの好きにしてみなさい。あなたの考えたいよう考え、あなたがするべきと感じたことをすればいいの。磨弓ちゃんならできるわね?」

 それは矛盾した命令だ、と磨弓の思考回路は混乱した。
 磨弓がどう考えるか――それは袿姫の定めるところによる。故に磨弓の価値判断基準とはすべて袿姫様の御意志に沿うか沿わぬか、である。
 「できるわね?」と言われても、正直なところ「できない」がアンサーだ。

――心を持たぬ埴輪兵に「好きにしろ」とは、袿姫様はいったいなにをお考えなのだろう?

 内々ではそう反駁しつつも、しかし、磨弓の返答パターンに「ノー」というプリセットは存在しない。より正確に言えば、その音声パタンを出力するのは容易だが磨弓には先ずその発想が無い。海を見たことのない者がそれを描くことのできぬのと同じ。心とは己自身の価値観に沿って考える力のことであり、事物の判断基準の全面を袿姫に依拠する磨弓には心など……不要なモジュールだ。
 だからとどのつまり、彼女はこう言う他なかった。初めからずっと。そしてきっと、これからもずっと。

「承知しました」

 そして今に至る。
 斥候に出した埴輪兵たちからは未だなんの音沙汰も無し。組長共を警戒して最小限の派遣に留めたことを、今更ながら磨弓は悔やんだ。
 地上世界は敵に満ち満ちた未知の国。まともな将校であれば情報は力だと骨身に染みていたことだろうが、絶対神の命令のもと、圧倒的優位の中で戦ったことしかない彼女ではどうしても後手後手を踏んでしまう。

――ここは一時撤退すべきか? でも袿姫様になんと申し上げたら? いやそもそも、撤退したところで畜生界じゃ地上の情報は得られないわ。袿姫様はそのために私を派遣したんだもの。

 だから、ようやく待ち侘びた第一報が届いた時、彼女は稲妻のごとくそれに応じた。駆け戻った拳大サイズの伝令埴輪が息も絶え絶え(のような感じが磨弓にはした)のメッセージを告げる。

「磨弓サマ! 磨弓サマ! 現在南東ノ地区デ小隊ガ交戦中! ドウシヨォードウシヨォー!」

 右往左往する小さな埴輪兵の情けなさに嘆息しつつ、磨弓は状況を問う。

「どういうこと? 交戦中なの? あなたたちは斥候部隊なのよ、無意味な戦闘は避けるよう命じたでしょう?」
「エェーン! ソレガ恐ロシイ奴ナンデスヨ! 我々ヲ見ツケルナリ突然襲イカカッテキテ!」
「まさか組長の誰かと!?」
「違イマス違イマス! モット恐ロシイ奴デスヨォーッ! 磨弓サマ、救援ヲ願イマス! 皆全滅シチマイマス!」
「あのね、私は一応指揮官なんだけど……軽々に前線に出るわけには……」

 ああ、もっと上等な子を連れてくるべきだった……とまたしても歯噛みする。
 しかし上等な埴輪はその分だけ力の消耗も激しい。埴安神から力の補給を受けられないこの地では、文字通りセラミックスの偶像として祀る以上の使い途は無い。
 その点でこの伝令埴輪は素晴らしい燃費の良さだ。力の補給無しでも丸一年は単独で動ける。だが裏を返せばそれは、碌な力を使わなくて済む程度の知性しか持ち合わせないローエンドモデルということ。来た、見た、去ったのドローン埴輪。
 
「はぁ……」

 去来する急なノスタルジー。
 もしここが畜生界だったら、精鋭の一個部隊でも派遣してやれば容易くカタがついたろう。だが今、動かせる戦力は磨弓以外にない。
 彼らを見捨てるか、それとも。

「……わかった、私自ら出る。案内しなさい」
「ハニ!」

 いずれにせよこの野っ原の上でピクニックを続けていても埒が開かぬ。リスクを負ってでも前に出るほかない。
 それも全ては袿姫様のご期待に応えるため……と磨弓は己を奮い立たせ、まだ昇り始めたばかりの南東の太陽を目指し飛び出した。


 ◯


「コチラデス! コノ辺デ襲撃ヲ受ケタンデス!」

 先行する斥候埴輪が喚き散らすのに率いられ、磨弓は真っ白い絨毯の上に降り立った。
 否、それは絨毯などではない。風が吹く度にざわざと揺れる毛並みは一つ一つ、見たこともない奇妙な貌の白い花。

「ここは空気が悪いな……この花のせいかしら」

 磨弓が身を屈めると身につけた装備がジャラジャラと音を立てる。その全てが埴安神袿姫の造りし武具――すなわち神具。極めて滑らかなその表面は、一切の瑕疵無き袿姫への忠誠を示しているかのようだ。
 だが大仰なその物音とは裏腹に、セラミックスの靭やかな指先がおそるおそる伸ばされ、真っ白い花をおっかなびっくりつまむ。けれど花々は驚いたように揺れるばかり。それらはよく見れば鈴に似た形状をしていたが、ちりんと鳴ることは終ぞ無かった。

「こんな花、エデン区画でも見たことないわ。鈴に似てるから"鈴華"とか? 袿姫様ならご存知かしら……」

 磨弓の推察は当たらずとも遠からず。
 再び丘の上を風が撫でつけ、鈴蘭たちはくすくすと揺れる。まるで自分たちを知らぬ者の居ることが可笑しい、とでも言うように。
 しかし、

「磨弓サマ! 磨弓サマ! 見ツケマシタ! 奴デスヨォー!」

 斥候埴輪の絶叫で引き戻される意識。埴輪の叫ぶ方へ歩み寄ると、その一歩ごとに毒の瘴気が濃くなっていく。セラミックスの体に毒は効かないが、それでも嫌な「におい」に否応なく警戒が強まった。

「磨弓サマ早ク早ク――ヌギャーッ!」
「どうした!?」

 斥候埴輪の喚く声、ロスト。原因はすぐにわかった。埴輪を捕虜とした「敵」はもうすぐそこに居た。
 真っ白い鈴蘭の中で風をはらみ舞う、毒々しい黒と赤のドレス。まるで新品の絨毯に落とされた柘榴の実。それと、磨弓とよく似た金の髪。地上の空をそのまま降ろしたかのように透き通った青い青いガラス球の瞳……。

「あら」

 埴輪を鷲掴みにしたまま、「敵」は思わぬ闖入者に驚き顔をあげた。関係ない。磨弓はセラミックス刀の柄に手をかけつつ、一歩一歩距離を詰める。埴輪戦士に躊躇や同情というモジュールは無く、不審な動きがあれば何時でも抜刀し切って捨てることができる。

「その者を解放してください」
「え、これ? えー……これ、あなたのお人形なの?」
「人形ではありません。埴輪です。そしてその者は私の部下です。捕虜を解放しなさい!」
「ほ、捕虜?」

 言葉の意味は判るが言葉の意図がわからない、といった調子で「敵」が小首をかしげる。

「いつから鈴蘭の丘は戦場になったの? ちょっとスーさん、なんで笑うのよ」
「スーさん……? 私は杖刀偶磨弓! 偉大なるイドラデウス、埴安神袿姫様の忠実なる埴輪兵団長だ!」
「いやあなたに聞いてないけど……スーさんはスーさんよ」

 人間であれば勘違いに気が付き顔でも赤らめる状況だろうが、磨弓はその代わり言語コミュニケーション能力の再調整を優先度中のタスクリストに放り込んだ。
 畜生相手に会話は通じないから、交渉というのはどうにも慣れていない。

「で、えーと、杖刀偶ちゃん? 磨弓ちゃんのほうがいいかしら」
「捕虜を解放してください。いったいなにが望みですか?」
「あ、もしかしてこのお人形のこと? お人形と戦争ごっこ中なのね? 嫌だわぁ、今どき物騒……」
「畜生界は常に戦場です。殺し殺されは日常茶飯事。地上はそうではないのですか?」
「あなたの言ってること、よくわかんないわ」
「ふむ……」
「とりあえず、私はメディスン・メランコリー。メディって呼んでいいのよ」
「では、メディさん」
「さん付けもいらない。かたっ苦しいの嫌いだわ」
「……メディ。先程も申し上げましたが、その埴輪は私の部下なのです。私は主に命じられ、重要な任務に当たっている最中。敵意がないというのなら、どうかその者を解放していただきたい」
「か、かたっ苦しい~~……蕁麻疹が出そう。人形だから出ないけど。あははっ!」

 けたけたと笑うメディスンを磨弓は呆気にとられて見つめるしかできない。
 いったいこの者は何を考えている?
 しかしいくら記録回路をさらってみても、畜生界にはメディスンのような行動パターンを取る敵はいなかった。あるのはただ暴力、恫喝、奸計……敵対的闘争はコミュニケーションの最もプリミティブな形。磨弓はただ降りかかる火の粉を払い除けるだけでよかった。

――だというのに、この少女は。

 磨弓の高性能埴輪アイが細まってゆく。メディスンは襲いかかるでもなく、さりとて埴輪兵や人間霊のように服従するわけでもない。
 しかもあろうことか彼女は、思考回路がショート寸前の磨弓に向かい無防備にてくてく近寄ってくる。
 手はまだ刀の柄にかかったまま。切り捨てるは容易。なのに体が動かない。
 埴輪兵団長よりも一回り小柄な人形が、その青い瞳が、磨弓を見上げて輝いた。

「あら? あらあらあら!? もしかしてあなたも人形なの!? すごいわすごいわ! そういえばスーさんの毒も効いてないみたいだし!」
「人形ではありません。埴輪です」
「それ、なにか違うの? 埴輪ってよく知らないけど、人間の形に似せて作るんじゃないの?」
「馬などの動物に似せることもあります」
「人形だって犬や猫の形に寄せることはあるわ。それとも人形扱いは嫌?」
「いえ……」
「私も人形なのよ。だけど捨てられちゃったから、スーさんに魂をもらったの! 今はもう自分の足で歩けるし、自分の心で考えられるわ!」

 捨てられた、という不穏な言葉を吐き出しつつもメディスンの声音は明るいままだ。
 人形であれば持ち主に捨てられたということだろう、と磨弓は予想する。つまり私にとっての袿姫様だ。袿姫様に捨てられたら自分はこんな風に笑えるだろうか?
 
――いや、泣きも笑いもしないだろう。それが袿姫様の意志ならば、自分はそれを受け入れるだけだ。

 それが忠誠というものだ、と磨弓は自答に顎を引く。
 が、そんなことは露知らずのメディスンは尚々瞳をキラキラさせて、思うがまま問いかけを発し続けた。

「ねえねえ! あなたのこともっと教えてよ! あなたはどうして動けるの? 毒で動いてるようには見えないけど……」
「私は埴安神袿姫様によって造られました。動けるのは袿姫様のお力ゆえです」
「ああ、神様由来なのね。ふーん……神様って偉そうなのが多くて嫌いなんだけど」
「袿姫様はお優しいお方です。動物霊に虐げられていた人間霊を救済するために降臨なされたのです」
「そう。それよりあなたのこと聞かせてよ! 球体式の関節もないのにどうしてそんな滑らかに動けるの? 食事はする? ものを飲んだことはある? 食べ物には味っていうのがあるんだって! 知ってた!?」
「ええと……」

 流されるまま真面目に答えてしまいそうになるのを抑え、磨弓は咳払いを一つ挟む。
 これではメディスンのペースになる一方だ。コミュニケーションに不慣れな磨弓でもそれくらいは想像がつく。

「すみません、私は雑談に興ずる暇はないんです。この辺りで消息を絶った埴輪たちを探しています。ちょうどその手に持っている者と同じモデルの。何かご存知ありませんか?」
「うん、さっき会ったよ。珍しい人形だなって思って、お話がしたかったの。私みたいに話せる人形って今まで見たこと無かったから……」
「彼らはどこですか? まさかあなたが――」
「違う違う! 確かに私もちょっと乱暴だったけど、あんまりに嫌がるし、それにバカそうだったから、すぐ解放したわ。私の知ってるのはそれだけ。ほんとよ? 私、人形相手には嘘つかないもの。まあこんなふうに人形同士で喋ったのは、あなたが初めてなんだけど」
「そうですか……ありがとうございます」

 頭を下げる磨弓の中では少しずつ、状況が整理され初めていた。
 斥候埴輪の報告にあった小隊を襲った敵は、メディで間違いはないのだろう。しかし彼女は既に彼らを解放済みだという。
 であれば、彼らからその報告が無いのは何故?
 単に磨弓のもとに届いてないだけかもしれない。それならいいのだけど――と、磨弓が瞳を細めた時。

「誰か来るわ。スーさんが怯えてる」

 ひときわ強い突風が二人を襲う。同時に、極めて鋭い指向性のある殺気が磨弓を確かに掴んだ。
 このぬめり気のある水棲の殺気。覚えがある。畜生界でさんざに浴びた鬼傑組の殺気だ。それも一等に強大な。

「メディ、埴輪たちを襲った敵の正体がわかりました。ここは危険です、逃げてください」
「なによ、ここは私のホームよ」
「来ます!」

 躊躇なくセラミックス刀を引き抜き、殺気の源を油断なく見据える。

――否、油断はあった。

 ここはすでに敵陣なのだと理解していたはずなのに、磨弓は軽々にメディに近づきすぎた。既にメディを巻き込んでしまっていた。血で血を洗う畜生界の抗争の渦に。

「え――」

 あるいは狙われたのが磨弓であれば、難なく弾けたに違いない。
 だが飛来したの一撃が撃ち抜いたのは、傍らに立つメディの胸元だった。ドシュッと間抜けな音が一つして、糸の切れたマリオネットドールのようにメディが崩れ落ちる。

「メディ!?」

 磨弓の絶叫を遮る、高圧的な声音。

「杖刀偶磨弓……ここで会ったが百年目というやつか。造形神が埴輪を地上に送り込んだという報告は受けいていたが、まさかおまえが来ていたとはね?」

 曇り始めた空を背負い、磨弓たちを見下ろす独特のシルエット。
 亀のような甲羅と龍のような角、そして長い尾。鬼傑組組長、吉弔八千慧が磨弓をみとめて不敵に笑った。
 それに対し、魂を持たぬ埴輪兵団長はゆらりと振り向き、八千慧を睨め返す。幾度となく対峙した間柄だがこの威圧感は未だに慣れない。しかし退くつもりもない。殺意の籠もった声音で、問う。

「なぜ私を狙わない、畜生め! メディは関係なかった!」
「こっちに来てもう腑抜けたのかい? 倒せそうなやつから倒すのは戦場の鉄則さ。これは仁義なき抗争、あんたもそれをわかって地上くんだりまで出てきたんだろう?」
「あなたでは私に勝てない。いい加減に学習したらどうです!」
「それはどうかな」

 八千慧が先に動く。畜生はいつでも「待て」ができない。磨弓もまたいつも通りに身構え、迎え撃とうとした。
 けれど、

「がっ――」

 亜音速で振るわれる龍尾の一撃をまともに喰らい、磨弓の体躯が吹き飛ばされる。ダメージを殺しきれず鈴蘭の絨毯にマトモに突っ込み、白い衝撃が舞い上がった。

――速い! 動きが見切れなかった!

 メディを巻き込んだ動揺が影響をしているのだろうか? いや、埴輪戦士にそんな感情はないと磨弓は考えを打ち消す。
 久々の実戦で身体制御機能がなまっているんだ、と己を叱咤し、よろめき立ち上がりながらセラミックス刀を構え直す。だが視界に八千慧の姿がない。

――しまった! 一手遅れてる!

 背後に生ずる八千慧の気配。反応する余裕もないまま背中を蹴り飛ばされ、吹き飛び、めちゃくちゃにシャッフルされる視界。地に打ち付けられる鈍い衝撃。

「かはっ……」

 仰向けのちらつく視界いっぱいに、鈍色の曇り空が見えた。さっきまでは綺麗に晴れていたのに。
 などという感慨を吹き飛ばすバキりという衝撃音。胸元を踏みつけられる重い感触と共に、磨弓を見下ろす八千慧の冷たい瞳が酷薄げに細まるのが見えた。

「ざまあないね」
「馬鹿な……吉弔八千慧……! いつの間にこれほど力を増したというの……!」
「私は何も変わっちゃいない。まだ気が付かないのかい? そっちが弱くなったんだよ」
「なぜ……」
「あんたの神様は何も教えちゃくれなかったのか? この地上にクソ造形神の加護は届かない。それともなに? デク人形の素の力だけで私に勝ってたつもりだった? だとしたら笑えるね。おまえは護るべき神が力を貸してなきゃ所詮、なんてことない土くれ・・なのさ。人形遣いを失ったマリオネット同然なんだよ」

 胸元を踏みつける足にギリギリと力が籠められていく。そこに一切の容赦手加減はなく、ミシりミシりとセラミックス装甲の歪む嫌な音。
 無論、磨弓とて理解してなかったわけではない。地上に袿姫の力が届かない以上、磨弓自身も畜生界と同じ出力では戦えない。
 それでも、それでもこれほどの差があるとは思っていなかった。例え袿姫の加護がなくとも畜生界の組長達と渡り合えるはずだと、磨弓は無邪気に信じていた。
 だが結果はこのザマだ。全ては己の不覚ゆえ。致し方なし。

――この杖刀偶磨弓、力及ばず。申し訳ありません袿姫様。

 ……だから、磨弓はそれを受け入れた。自らの敗北と死を。実にあっさりと。しかしそれは彼女にとっては当然の反応。
 とどのつまり彼女は埴安神の兵器であり、使えない兵器に意味などないのだから。

「それにしても、不滅の埴輪兵団長殿はいったいどうしたら殺せるのかしら? このまま心の臓腑を踏み抜いたら死ぬのか? それとも忌々しいその泥の体を粉々にしなきゃならないのか……ふふふ」
「勘違いしてるようだけど、私が死んでも何も変わりはしないわ。袿姫様の埴輪兵団は無尽蔵。私なんかよりずっと強い兵団長が造られ、必ずおまえたち畜生を殲滅する」
「……ちっ。おまえ、死ぬのが怖くないわけ? 泣いて命乞いでもしたらどうよ。どうか御慈悲を御恵みください鬼傑組の組長様、ってさ」
「私が恐れるのは袿姫様の御意志に添えないことだけだ。たしかに無様な敗北を喫したのは無念だけれど、しかたない。これは仁義なき闘争。まったくあなたの言う通りだわ、御鬼傑組・・・・御組長殿・・・・
「クソラデウスのクソデク人形め」

 泣きも叫びもしない磨弓に興味を失ったのか八千慧は、ビリビリと空気が怯むほどの力を右手に込める。吉弔の持つ半ば龍に等しい力を。
 それを振り下ろされれば磨弓はお終いだ。厳密に言えば埴輪兵の磨弓に死という概念は無いが、動作や思考、あるいは記憶を統括するモジュールは記録領域と密接に絡まり合っており、そこを破壊されればもう彼女は「杖刀偶磨弓」で無くなるだろう。それは死とそう変わりない。

――怖くはない。

 磨弓が死んでも霊長園にはまだ多くの埴輪兵がいるし、彼女の予測通り埴安神袿姫は新たな兵団長を造り出すだろう。
 ただ、唯一の後悔はメディだった。畜生界の闘争に巻き込んでしまった。
 せめて一言謝れたらいいのに、と。無意味な願いを抱きながら磨弓は死が振り下ろされるのを待った。

「……?」

 ぼたり。磨弓の滑らかな頬に滴り落ちる生ぬるい液体。胸元を踏みつける八千慧の足から力がひいていく。
 ぼたりぼたり、という感覚はやがてびしゃびしゃと水っ気を増していき、八千慧の体がぐらりと揺らぐ。

「なに……何をした……? 何をしたの!?」

 そう言われても磨弓には覚えがない。
 雲間が切れ、差し込んだ陽の光が八千慧を照らす。その口元から溢れ続ける真紅の液体を輝かせる。

「げぼっ……あああっ!? 何よ何よごれ!? 喉がっ、がっ、早鬼! 助げて早鬼!」

 潰れたヒキガエルのような声で泣き叫んでいるのは、今や八千慧の方だった。
 げぼげぼと吐き出された血が鈴蘭の絨毯を赤く汚していく。充血した両目だけは尚忌々しげに磨弓を睨んでいたが、もう彼女を押さえつけるどころではないらしい。咄嗟に飛び退いた磨弓に追いすがることもできず、ふらふらと蹈鞴を踏む。

「なぁにをしだぁっ!」
「コンバラトキシンよ。まあ他にも色々チャンポンしてるし、どれが効いたかなんて知らないわ」

 響いた声に――磨弓はようやく理解する。八千慧が睨んでいるのは自分ではない。その後ろだ。
 振り返った先でくすくすと笑う少女――メディが手をかざすと、紫苑色の怪しげな霧が八千慧を取り囲んでいく。泣く子も黙る鬼傑組組長は血相を変え、怯えたように後ろに飛んだ。

「あなた生身じゃないから効かないかと思ったけど、いちおう赤い血は流れてるんだ? 中途半端は悲劇ね、喜劇ね。それともいっそ人形になる?」
「メディ! 無事だったんですか!?」
「ちょっと欠けたけどね。この丘に満ちるスーさんの毒がある限り私は死なないわ。残念だったね、お客さん?」
「げほっげぼ……け、警戒しておくべきでした。鈴蘭の咲き狂う無名の丘……そこにはあらゆる生命が近づこうとしないという……それは単に途方も価値のないつまらない場所だからだろうと、たしかに侮っていたのを認めましょう……」
「失礼しちゃう」
「しかしこんな産業廃棄物が巣食ってるんじゃあ……げほっ……地上げは無理ですね……」
「私はどちらかといえば家庭ごみよ」

 メディの訂正はともかく、流石に八千慧は一大組織をまとめ上げる動物霊だと磨弓は感服する。
 口、鼻、両耳と両目から絶え間なく流血しながらも、彼女は既に普段の冷静さを取り戻しつつあった。

「杖刀偶磨弓……これは忠告よ。地上世界におまえたちの居場所はない。霊長園に籠もって大人しくしていた方が身のためだ」
「くすくす……その満身創痍じゃあ説得力ゼロね」
「月夜ばかりと思うなよ!」

 最後に使い古された啖呵を吐き捨てると、八千慧は完全に撤退していった。
 それでもなお磨弓は伏兵への警戒を続けたが、メディに袖と意識を引っ張られる。

「ねえねえ今のは? あなたを狙ってきたんだよね? いったい何なの? なんかすごい悪の組織と戦ってるとか!?」
「まあ間違ってはいませんが」
「ほんと!? かっこいい!」

 きらきらと青い瞳を輝かせるメディは、つい先程胸を撃ち抜かれたばかりとはとても思えない。
 こういうのを「子供っぽい」と呼ぶのだろうか? 磨弓は内心首をひねる。畜生界まで堕ちてくる子供の人間霊は珍しいし、いても大抵は酷い乱暴者ばかりだから、あまり子供に良いイメージがなかった。しかしメディの無邪気さは不思議と磨弓の意識を惹き付ける。
 実際、袿姫からの使命を考えればこの場に長くとどまる意味もないはずだ。

――なのに立ち去れないのはなぜ?

 と、磨弓は混乱していた。

「私、もう行かないと……」
「もう行っちゃうの!? 私もっとあなたと話したい! あなたのこと知りたい!」
「しかし……また先程のようにメディを巻き込んでしまう」
「大丈夫よ、私は強いの。だから気にしないで。さっきもあなたの敵を倒したでしょう?」
「それは確かにそうですが」

――あるいは、それもいいかもしれない。

 磨弓は考えを改める。
 吉弔八千慧にも通ずるメディの強さは実際頼もしい。袿姫の加護がなければ組長らに太刀打ちできないことがわかった今、彼女の存在は渡りに船だ。
 差し出されたメディの小さな手。磨弓はそれを取ることに決めた。

「わかりました。少しの間ですがお世話になります、メディ」
「うん!」

 かくして、毒人形と土人形の奇妙な同盟が結ばれたのである。


 ◯


「……というわけで、地上から攻め入った生身の人間を我らが袿姫様が打ち倒したのです」

 かちゃ、かちゃ、と軽い音が響く中、磨弓の語る畜生界と霊長園の短く濃密な(一部無意識の脚色を含む)歴史。メディはそれをつまらなさそうに聞いている。というよりとっくに飽きているのか、自分の胸元に生じたひび割れや傷口を興味深げに眺めたり、なぞったりしていた。
 しかし磨弓は歴史の講義と同時並行で、まさにその怪我を修復する作業にかかっていた。故に、メディの顔色がずっと曇っていることにも気が付けない。
 かちゃ、かちゃ、かちゃ……メディの胴体は八千慧の一撃を受け、内側の空洞がむき出しになっていた。その奥はがらんどう。正確には鈴蘭の毒が満ちているのだが、磨弓には窺い知れない。
 代わりに磨弓はその傷口に、セラミックスの欠片をあてがっていく。その手付きは優しいが、一方で時計職人のように精密だ。講義を聞いてる時とは違って、磨弓の手さばきを見つめるメディの瞳は輝いている。

「なんだかそのケーキ様の話ばっかりなのね」
「はい、袿姫様は素晴らしいお方です。私をお造りになり、霊長園をお救いになったお方ですから」
「ふうん。それより直りそう?」
「メディの体は袿姫様の造形術とは全く違うメカニズムで動いています。なので完璧にとはいきませんが、応急処置くらいなら。私の携帯している素材は戦闘埴輪用のセラミックスなので前より少し固くなってしまいますけど、傷はほとんど残らないはずです」
「ほんと? ありがとう! 私こんなに大きな怪我したことなかったし、乙女の肌が傷物になっちゃったかと思ったわ。自分の怪我もささっと直しちゃうし、磨弓は器用なのね。すごいわ!」
「戦場が職場ですから。私も部下たちも怪我はしょっちゅうなんです。戦闘中にいちいち袿姫様に直していただくわけにもいかないので、もう慣れました」
「物騒なところね。嫌にならないの?」

 メディの言葉の意味がわからず磨弓が顔を上げる。ぱちくりと黄金の瞳がまたたいた。

「嫌になる、とは?」
「だからぁ、そんなに大変な職場なんでしょ? もっと安全で快適な仕事をしたい、とか! そう思わないわけ?」
「大変だと感じたことはありません。そもそも私たちは痛みも疲れも感じませんから。メディも人形ですよね? そうじゃないんですか?」
「そうだけど、私はそんなところ絶対に嫌よ」
「もちろん霊長園の守護は埴輪兵団の使命です。メディがする必要もないでしょう」
「……はぁ。もういい。あなたがお仕事熱心だってことはよくわかった。それよりもっと楽しい話をしましょ?」

 ぱっと花が咲くように微笑むメディ。しかし磨弓は鉄面皮もとい陶面皮のままニコリともしない。無愛想なのではなく、本当に理解できていないのだ。

「楽しい話、とは? 袿姫様の話なら先程しましたけど」
「そんなの楽しくないわよ。例えば趣味の話とか! 私はね、スーさんを集めて花輪を造るのが趣味なの! 鈴蘭の花輪ってけっこう珍しいでしょ? あとはねぇ、この丘に踏み込んだ連中をさっきみたいにビビらせてやるのも好き! あ、殺しはしないわよ。殺しかけちゃったことは何度かあるけど、死体はスーさんが嫌がるから。ね、磨弓にも趣味くらいあるでしょ?」
「ありません」

 即答。空気が凍りつく。しかし磨弓は空気が凍ったことにさえ気が付かない。むしろ急にメディの表情が固くなった理由が分からず、首を傾げる。

「強いて言えば袿姫様に褒めていただく時が――」
「もういい! 早く直してよ!」

 磨弓は首肯き、もう何も言わず手だけを動かす。
 理由はわからないがメディは機嫌がよくないらしい。いや、自分のせいでこんな怪我を負うことになったんだ。怒って当然だ、と磨弓は己の不足を恥じる。
 だからせめて怪我だけでも綺麗に直そうと、手元への集中をいっそう深くする。かちゃりかちゃりと飽きることなく鳴り続ける作業の音色。

「ねえ」

 極限の集中力。メディの呼びかけも届かない。磨弓のその様子は作品造形時の袿姫とも似ていた。大きく開かれたメディの青い瞳がじっと横顔を眺め続ける。

「……あなたって黙ってる方が素敵かもね」
「はい?」
「な、なんでもないっ!」
「はぁ。それより、直りましたよ。ちょっと動いてみてください」
「ほんと!」

 再びメディの表情が輝く。人形なのにころころと表情がよく変わるんだな、と磨弓は関心しきりだ。
 その見つめる先で兎のように飛びまわるメディ。すっかり問題なさそうだとわかった磨弓の口元も緩む。

「改めてすみません、巻き込んでしまって。それと助けていただいてありがとうございます」
「いいのよ、生活には刺激も必要だわ。それよりえっと、クミチョーってのを探してるんだっけ?」
「はい。先程ここを襲撃したのが鬼傑組組長の吉弔八千慧。他にもう二匹、勁牙組の驪駒早鬼と剛欲同盟の饕餮尤魔というヤクザが地上に進出しているはずです」
「ここには私とスーさんしかいないからなぁ。まあ物騒な連中の集まりそうな場所はいくつか知ってるけど……」

 考え込むメディの言葉が途切れる。
 再びの沈黙。しかし先程のそれとは質が違う。考え事を邪魔しないよう磨弓もまた口を閉ざした。
 ややあって、メディは、

「ねえ、そのクミチョーを全員見つけたら、磨弓はどうするの?」

 予想だにしない問いに磨弓は面食らった。しかし冷静な彼女らしく、間髪置かずの返答。

「まあ見つけることが本題ではありませんが、情報を集めたら一旦は畜生界に戻るつもりです」
「また戻ってくる?」
「袿姫様がそうお命じになれば、そうします」
「あっそ……」

 またしても黙り込んでしまうメディ……かと思えば、出し抜けに明るい声が鈴蘭の丘に響いた。

「あー! なんだか私ー、そのクミチョーがいるところに心当たりがあるかもなー! なんかそんな気がしてきたなー!」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろん! 私はこの幻想郷に産まれて長いんだから。私の言う通りにすればきっとクミチョーも見つかるわ」
「恩に着ます。何のお礼もできませんけれど……」
「いーのいーの! 私に任せておきなさい!」

 落ち込む磨弓に向け、メディのウィンク。その口元は「嘘」をつく子供特有のイタズラっぽい三日月様に弧を描いているが、磨弓は気が付かない。
 あるいは……これが吉弔八千慧や饕餮尤魔の粘り気のある知略謀略であれば、磨弓も看破しただろう。そこには悪意がある。底意地の悪い敵意がある。磨弓は戦士であり、敵意には敏感だ。
 だがメディに敵意はない。彼女にあるのはただ――とにかく、それに磨弓が気が付けないのも無理からぬことだった。


 ◯


「畜生!」

 ドン、と荒々しい拳が中華料理店風の丸テーブルを叩いた。
 並べられた食事が、食器が、がちゃがちゃと音を立てるのも構わず、その声の主は繰り返し拳を叩きつけ続ける。何度も何度も何度も何度も。

「ああああっ! 畜生畜生畜生畜生畜生! 畜生畜生畜生畜生畜生畜生ッッッ!」
「落ち着けよ、みっともないな」

 テンガロンハットを目深に被り、自前の黒翼を気のない調子で繕っていた人物――驪駒早鬼が苦言を発し、ようやく拳が止まる。
 その代償に、ギロリ、吉弔八千慧のドスの利いた眼光に睨まれても早鬼は気に留めない。並の畜生ならその場で失禁するほどの威圧感だが、この悪友には慣れたものだ。
 それにしても――と早鬼は内心嘆息する。いつも大物ぶりたがる八千慧には珍しい感情の爆発、おまけに全身をぐるぐるに取り巻く血の滲んだ包帯といい……なんてザマだ。
 弱い八千慧こいつを見るのはこっちまで惨めなもんだな、と。
 そんなこんなでほろり涙をこぼしかける早鬼に、背後に控えていた名もなき狼霊の一体が耳打ちした。

「驪駒様、驪駒様……今はチャンスではありませんか?」
「あ?」
「吉弔八千慧は弱体化しています。今なら驪駒様と我々で抑え込めるでしょう。この場でくびり殺し、勁牙組が鬼傑組を吸収するというのは――」
「おまえは阿呆か?」
「は……」

 瞬間、早鬼に毛皮ごと引っつかまれた狼霊が地を離れ、足元へと叩きつけられる。ブチブチと体毛の引きちぎられる音。凄まじい衝撃を喰らって蜘蛛の巣状にひび割れる床板。とっくに意識を失った部下に向けて早鬼は、

「あのな、少しは頭を使ってから喋れよ。阿保は生まれつきだから仕方ないが、考えなしは怠慢だ。鬼傑組と勁牙組が戦争になれば幅を利かせるのは剛欲同盟だってわからないか? 畜生め、なにが漁夫の利だ! ま、本気の饕餮尤魔と殺し合うのは面白そうだが――今じゃない。おいおまえら、こいつ片付けろ」
「「へい」」

 残る狼霊たちは顔色一つ変えず、出過ぎた真似をした愚かな同輩を引きずっていった。
 それを八千慧はいちいち気にもかけない。風が少し吹いた程度の調子で一瞥したきり、二度と興味を示さなかった。怯えているのはただ、八千慧の包帯を取り替えていたカワウソ霊達だけだ。
 早鬼もまた悪びれた風もなく咳払いを挟み、続ける。

「で?」
「あぁ?」
「ったく……体の調子はどうなんだ? そんな木乃伊みたいな格好で」
「少し油断しただけよ。地上の腑抜け共相手だと思って」
「地上だから油断した、か。まあ地上でなけりゃ死んでたろうな」
「なに? 笑いたきゃ笑いなさいよ」
「あの埴輪女が絡んでなけりゃ笑い死ぬまで笑ってやってもよかったんだが。で、なんだっけその……」
「メディスン・メランコリー」
「その人形はそんなに強いのか?」

 帽子の影になって見えづらいが、食い気味に尋ねる早鬼の瞳は獰猛に輝いていた。強者、強者だ。八千慧をこのザマにするような強者!
 が、八千慧は八千慧でその盛りの付いた狼のような態度に鼻白む。早鬼の期待に素直に応えるのも癪だった。

「計画がある」
「またそれか。おまえはすぐそう頭を使いたがるけど、実際のとこ饕餮より私に近いタイプだろ? どうしていつも――」

 ドン、と再びテーブルを叩きつけられ、早鬼は肩をすくめる。
 露骨に苛立ちを抑えながら、八千慧は続けた。

「あのクソ人形が強いのは鈴蘭の丘でだけよ。奴は鈴蘭の毒で動く捨てられた人形。鈴蘭畑から離れれば並の妖怪以下の力しかない」
「詳しいな。もう調べたのか?」
「幻想郷縁起にそう書いてあった」
「頼りになるのかよあれ……私のとこにも取材したいとかいう話が来たけど、能力すら自己申告制だったぜ。誰が馬鹿正直に自分の能力をひけらかすんだか」
「……おほん。とにかく、あのクソ人形と直接殺りあった感覚とも一致する。だから計画はこうよ。クソ人形が鈴蘭畑を離れたところを拉致る。そいつを餌にクソ埴輪をおびき出す。あんたが埴輪を潰す」
「私かよ!?」
「私はあのクソ人形に意趣返ししてやらなきゃ気が済まないわ。ヤクザを舐めた罪、それはこの世で最も重い実刑判決。情状酌量の余地なし。そう思い知らせてやる」
「ああそう……まあいいや。ところで一つ気になるんだが、いいか?」
「なによ」

 背もたれに体重を預けた早鬼の瞳が細まり、八千慧を見やった。

「人形で磨弓を誘き出すって話、おかしかないか?」
「脳みそ筋肉のくせに私の計画にケチをつけるわけ?」

 反駁する八千慧を諌めるように、口元で人差し指をたてながら早鬼は続ける。

「まあ聞けよ。磨弓は心を持たぬ不滅の土くれ。だからこそ私らも大いに苦戦したわけだが……あいつは人質とか気にするタマか? 造形神への忠誠だけで動いてるような奴だよな? ケチをつけたいんじゃないぜ、私でもわかる違和感ってやつだ。違うか?」
「それは……確かにそうだな」
「なんだそりゃ。自分で考えたんだろ?」
「それはそう。でも確かにこの計画が一番いいと、これが一番あのクソ埴輪に『効く』と、そんな気がしたのよ」
「おまえのそういうサディスティックな勘は鋭いからなぁ。それも『殺りあった感覚』?」
「おそらくは」

 八千慧の言葉尻は頼りない。彼女自身、自分の考えに自信を持ちきれていないという様子だ。
 しかし早鬼はもう、それ以上に追求する気も起きなかった。どうせ磨弓が地上にいるのは間違いない。であれば、いつかは必ず拳を交えることにもなろう。八千慧の計画がうまくいくかどうかも結局は、それが遅いか早いかの差でしかない。

「まあいいや。人形を捕らえる目処がついたら起こしてくれ」
「はあ? ちょっとま――」

 物言いたげな八千慧を無視して早鬼は、テンガロンハットのつばを深く押し下げて光を追い出す。

――杖刀偶磨弓か。つまらないんだよな、あいつと戦うのは。

 本来、早鬼にとって戦うことは至上の喜び。闘争の愉悦、それが得られるのなら勁牙組も霊長園もどうでもよかった。彼女が忠誠を誓うのは己が戦いへの信念だけだ。
 しかし埴安神袿姫の埴輪兵団。あれはダメ・・だ。おもしろくない。早鬼の血をたぎらせない。

――たしかにあいつは強い。畜生界で真正面からやり合ったら勝てないだろう。でも、強いだけだ。

 理由は明白。セラミックスの戦士は死を恐れない。連中にとって闘争とはどこまでも手段でしかない。
 故に闘争の中で生存本能を燃えたぎらせる恐怖も、その先に生を掴み取った時の喜びと安堵も……そのどちらをも、埴輪兵団はけして理解しない。
 ようするに、連中には心が無い。
 埴輪達はただ主人である埴安神袿姫に命じられたから戦っているだけだ。仮に他のことを命じられれば何ら疑問を抱かずそれを遂行するだろうし、極論、死ねと言われれば死ぬだろう。
 そんな連中と戦うのは虚しい行為だし、闘争という行為の気高さを、闘争の愉しみの中に生きる早鬼自身を否定されたような気分になる。彼女が求めているのはただ、自らの譲りようもないものを賭けて闘争の渦に飛び込んで来る胸のすくような狂人だけなのだ。

――そう。だってのに、妙だな? 今は磨弓と殺り合うのが楽しみで仕方ない。いったい何故だ?

 早鬼は自分が知性で動くタイプではないと自覚している。それでも、吉弔八千慧がサディスティックな勘所に聡いように、戦いへの直感は誰よりも鋭いと自負していた。
 であればこの磨弓との闘争への期待も、胸のワクワクする感覚も、やはり故合っての直感なのだろう。早鬼はそう理解することにした。

――ま、いいさ。どうせ拳を交わせば判ることだ。奴のがらんどうの頭をぶち砕けば答えの一つも見つかるだろう。

 深く考えるのは性に合わない。
 そう割り切るともう、眠気が全てを塗りつぶしはじめた。彼女は心地よい気分でそれに身を任せる。
 生と死がコインの表と裏のように、闘争もまた休息と裏表。

――この愉しみ、休むを知らぬ埴輪連中にはけしてわかるまい。くっくっく……。

 そして黒翼のペガススは夢の世界へと落ちていく。白い歯を剥き出しにして、悪魔のように笑いながら。


 ◯


「じゃあまずはワンピースから着てみよっか!」

 なぜこうなっているのだろう? 試着室の姿見に映し出された下着姿の自分と向き合いながら、埴輪兵団長は夢のような現実に困惑していた。
 喜色満面のメディが渡すフリルだらけの衣服。それを受け取る磨弓の表情は、苦い。

「あの、メディ……」
「きっと似合うわ! 磨弓って私と違ってスタイル抜群だもん! まるでアイドルみたい! とにかく私のセンスを信じなさいってば!」
「そうではなくて……なぜ武装解除する必要があるんでしょうか? 少なくとも刀剣くらいは身に着けないと。もし敵に襲われたらひとたまりも――」
「言ったでしょ? 変装よ、変装! あんなフル装備じゃあ敵――クミチョーだっけ? に見つけてくださいって言ってるようなものだわ」
「だからといってこれは……私には似合わないというか、もっと無難な装備があるのでは?」
「ちっちっち……」

 人差し指を振りながらメディが首をふる。人形なのにいったいどうやって舌を鳴らしてるのだろう、と磨弓には不思議だった。

「普段の磨弓らしくないから変装の意味があるのよ。敵の裏をかくのが目的なの」

 磨弓は反論を探してみる。が、メディの言葉は残酷にも正論だ。だからこそ、こんな得体のしれぬ場所まで引き摺られてきてしまった。
 呉服屋――とでも言うのだろうか。ここはあの世とこの世の境目、中有の道に位置する人妖兼用の珍しい店らしい。「このお店なら私たちでも買い物できるわ」とメディに連れられて、今に至る。
 畜生界にも似たものは存在しているが、基本的に外見など頓着しない畜生連中だ。大抵はニッチ向けサービスの枠に落ち着いている。
 霊長園の人間霊はすべて袿姫デザインの機能服着用が義務付けられているので尚の事。
 いちおう磨弓も、地獄の女神が運営してるというブランドショップの噂を聞いたことはある。が、それくらいのものだ。
 これだけ大量の衣服が、それも子供向けから老人向けまで種々幅広く取り扱われているなんて。まさに夢のような現実だった。地上の文化は理解しかねる。

「ねえねえ早く着てみてよ!」
「うぅ……これも袿姫様から賜った使命を果たすためと思えば……」

 両目をきらきらと輝かせるメディに押されて磨弓は、フリルの過剰積載状態なワンピースを渋々着込む。
 当然ながら普段の鎧兜とは異なり驚くほど軽い。触覚センサを撫でる質感も滑らかだ。これではほとんど裸で居るのと変わりない。

「こんなもので本当にボディを守れるのでしょうか……」
「あのね、それは防具じゃないのよ。可愛く見せることが目的なの!」
「何のためにですか? 一部の畜生は生殖本能の名残で過剰に着飾ったりするようですが、メディや私には必要ないですよね?」
「そんなのと一緒にしないで! だって可愛い方がいいじゃない」
「理解できません」
「あっそ! まあ……そのフリルは確かに磨弓には幼すぎるかもね。次はこれを着てみて!」

 言われるがまま磨弓は慌ただしくワンピースを脱ぎ、代わりに渡された奇妙な衣服に足を通す。先程とは打って変わってごわごわとした材質に顔をしかめた。サスペンダーで吊り下げる形状といい、まるで土木工事担当の人間霊に配布される作業着のようだ。
 が、無論それは作業着ではなく、いわゆるデニムのオーバーオールと呼ばれるもの。さすがの埴安神袿姫といえど、埴輪兵団長の知識プリセットにそんな牧歌的語彙を入れるほどの気遣いはなかったらしい。
 一方でメディは両手を胸元で組み(祈りでも捧げてるのだろうか? と磨弓は首をひねる)、ますます楽しげにコーディネートをリードする。

「すっごいかわいい! 磨弓は足が長いから似合うと思ったわ! 最後にこれ被ってみて!」
「これは……随分柔らかい兜のようですが」
「兜じゃないわ。ベレー帽よ。特にこれはバスク・ベレーって呼ばれるタイプね」
「もうなんでもいいです……」

 諦めた磨弓がベレー帽を頭に乗せる。途端に弾けるメディの黄色い悲鳴。

「きゃーーっ! もう最っ高! 磨弓は少しボーイッシュなコーデのほうが似合うと思ってたの! だけど帽子の隙間から覗くお団子がガーリーさも醸してて……はぁ、私のセンスが恐ろしいわ!」

 磨弓には早口で吐き出されるメディの言葉の半分も理解できなかった。が、きっと変装に関する専門的な用語なのだろう。
 そう思えば確かにこの格好は、一見して「杖刀偶磨弓」とは思えない様相だ。諜報戦は磨弓の専門外であり、頼もしいメディの存在がありがたかった。
 ただ少々、普段の鎧装備が恋しくはあったが……。

「どう? 磨弓も気に入ってくれた?」
「はい、これなら組長共の目も欺けるでしょう。ありがとうございます」

 深々と頭を下げる磨弓。心からの礼のつもりだったが、メディの表情は暗く曇る。

「もっと……ないの? 他に、感想!」
「え? い、いえ……なんでしょう……まあ、どうしても戦闘に不向きなのは気になりますね。帯剣くらいはしても構いませんか?」
「あっそうですか! 好きにしたら!」
「ありがとうございます、助かります」

 取り外してあった刀剣をいそいそと腰にさげる。やはりこれだけはないと落ち着かないな、と磨弓は胸をなでおろした。
 戦闘力という点でもそうだが、この刀剣は他ならぬ埴安神袿姫から下賜された品。いわば自らの忠誠心を示す偶像のようなものであり、この刀があるからこそ磨弓はいつでも胸の奥に袿姫を感じることができるのだった。

「それでええと、次はメディの変装も見るんですよね」
「もういい! 私いらない!」
「え? しかし私だけ変装しても意味ないのでは……」
「いいの!」

 取り付く島もないまま出て行ってしまうメディ。磨弓もまた追いかけ追いかけ慌てて外へ……出たはずだった。

「……え?」

 得体の知れぬ奇妙な感覚。
 確かに店の外に出たと思ったのに、陽光は差し込まず、あたりはまだ薄暗い店内だった。

「お会計忘れてるよ、お客さん」

 ゆるりと響く声に振り向いた先、長く組んだ両脚を行儀悪く会計机上に投げ出した茜色の髪の女性。目元に被せた古本の隙間から覗く鋭い眼光が磨弓を確かに捉えていた。
 死神の鎌のように弧を描く口元からこぼれる、しゃれこうべの擦れるようなからからという笑い声。

「今のは……」
「万引き対策さ」
「あなた服屋の店員さんには見えないんですけど……」
「あー、やっぱしわかる? そこを突かれると痛いなあ」

 苦笑しながらひらひらと手を振る店員は、ちっとも痛そうではない。

「こないだ本業でヘマって減給中でねえ。やっぱし妖精なんぞに関わるもんじゃないよ。おかげで副業しないと懐が厳しくって……ま、あんたには関係のない物語さ。それよりお代を貰おうかな?」
「お代……」

 あの不思議な術にかかったのは磨弓だけらしく、メディは店を出て行った後だ。当然、磨弓は地上世界の通貨など持っていない。

「くれぐれも腕づくで持ち去ろうなんて考えなさんなよ。見たところあんたの力量じゃあ、あたいには勝てない。市場には市場のルールに殉じるが吉だよ、お嬢さん」

 彼女の言葉に嘘は無かった。ただの店番にはオーバーすぎる気配を感じ、戦士としての勘が戦慄する。畜生界における全力の磨弓だったとしてもなお、勝てるかどうか五分五分以下といったところ。

「……この服を返せば、代金を払う必要もないんですか?」
「そりゃね」

 弛緩する空気にどっと力が抜ける。

「そういうことなら、お返しする他ないでしょう」

 どうせ普段の鎧装備に戻るだけだ。
 それに改めて考えれば敵は鼻の効く畜生共。多少見た目を取り繕ったとして、どれだけの迷彩になるだろう? 結局は、キッチリ武装をするのが一番効果的なはず。
 そう思い試着室に戻ろうとした磨弓だったが、ふと、店内の姿見の前で足が止まる。

「……なんだか私じゃないみたいだわ」

 もちろん変装とはそういうものだ。
 けれど鏡に映る自分の姿――デニムのオーバーオールにベレー帽――を見ていると、これまで感じたことのない不思議な感覚が胸の奥から湧いてきた。
 しかしそれが何なのか、磨弓は表現する語彙を持ち合わせていない。そのことが酷くもどかしい。
 ただ、けして嫌な気分ではなかった。
 むしろ……袿姫から武勲を褒め称えられた時の感覚に近い。それは栄誉とか光栄とか、そういう感情だ。己が忠誠心が報われる感覚。だが今のこれは、やはりそれらともまた違っていた。
 それでも「せっかくメディが選んでくれたのに」と、少し後ろめたさにも似た思いが走ったことを、磨弓は辛うじて自覚した。
 そして、
 
「どうしたんだい、ナルキッソスみたいに自惚れて」

 店員の皮肉も耳に届かず、代わりに磨弓の口から飛び出したのは、彼女自身思ってもみない言葉だった。

「やっぱりこれ、買います」
「あん? そりゃまあ、構わないが。しかし先立つものはあんのかい?」
「地上の貨幣の持ち合わせはない。なので対価となる物品との交換でも構いませんか?」
「そりゃ物々交換だね。店のキメじゃあ認めてないが……まあ、あたいが個人的に買い取って、それを売上に充填するってんならアリだ」

 それは「アリ」と言えるのか? 胡散臭いものを感じずにはいられなかったが、気が変わられても困る。磨弓は何も言わないことに決めた。

「問題は、何を貰えんのかってことさ」
「どれくらいの物であれば良いでしょうか」
「そうさなぁ」

 目元に被った古本を脇に置き、店員はちらりと磨弓のオーバーオール姿を見やる。

「あたいもよく知らんが、その服は元々外の世界からの流れものを参考に、ここの店のデザイナーが特別に設えたもんだな。たぶん、人郷中を見てまわっても同じもんはあるまい」
「は、はあ」

 要するに「安くはないぞ」ということだろう、と磨弓は顎を引く。
 かといって磨弓の所持品は戦闘用の武具だけだ。値打ちのありそうなものなど持っていない。
 どうしたものかと思っていると、店員の方が口を開いた。蛇のように細まる瞳。

「その剣はどうだい?」
「え……」

 思いもしなかった提案に軽くフリーズする磨弓。あくまで気怠げな声音が追撃する。

「少々デザインは奇妙だが、そいつは神造の道具だろう? あたいの目に狂いがなきゃ、あんたの持ち物じゃあ一番価値のあるものだ。違うかい?」
「し、しかし……これはその……主から賜ったもので、交換に差し出すなどとても……」
「あっそう。まあ強制はしないさ。好きに悩みな。あんたがそうしている限り、あたいも店番しなくて済むからな」

 店員は再び古本を手に取り、つまらなさそうに紙面へと目を落とす。
 長い沈黙があった。長い長い永い沈黙が。
 けれどいつかはそれも破られ、そして磨弓は、

「わかりました、構いません。これで支払いになるのなら、お願いします」

 ずいと刀剣を差し出した。それに驚いたのは、他ならぬ彼女自身だった。

「へえ……」

 店員が興味深げに喉を鳴らす。

「お願いします……!」

 袿姫様から賜った品を売り飛ばすなんて、正気なの磨弓? そう内なる声が叫ぶが、彼女の考えはもう変わらなかった。袿姫様であればこの程度の品、いくらでも造り出せるはずだわ、と。欺瞞と知りつつ取り繕う二重思考。
 そして「本当に構わないんだね?」と念を押す店員にも、彼女は力強く首肯いた。
 ただそれは確信があっての力強さではない。そうして気を張っていないと、たちまち握る剣を引っ込めてしまいそうだったからにすぎない。

「んじゃ、確かに受け取った。商談成立だな。どれどれ――」

 渡された刀を見ようと店員は柄に手をかける。磨弓が見守る中、セラミックスの刃があらわになっていく。
 たちまち店内に満ちる、まばゆい純白の輝き。
 
「こっ、こいつは――」

 その光はまるで、杖刀偶磨弓の曇り無き忠誠心を誇示しているかのようだった。

 ……一方で。
 
 店の外はもう薄暗く、幻想郷は黄昏時を迎えていた。
 真赤な太陽に見つめられる下、呉服屋の軒先で石ころを蹴飛ばし蹴飛ばしいじけている小さな人形のシルエット。

「ふん。磨弓はどうせ、あのケーキ様とかいう神様のこと以外どうでもいいんだわ。せっかく私と同じ話せる人形と出会えたと思ったのに。もう知らないわ、磨弓なんて勝手にしたらいいんだから」

 もうずっと同じ愚痴ばかり唱えている彼女は、かといって店の前から離れるわけでもない。切ない時間帯に特有の長い影が、さみしげにふらふらと揺れ続けるを繰り返す。
 だが、

「メディ、メディ! お待たせしました!」

 店を出てきた磨弓を見るなり、メディの表情が驚きに染まる。
 まず第一に、磨弓はオーバーオールとベレー帽姿のままだった。メディが代金のことに気がついたのは店を勢い飛び出した後だったが、ともかく、せっかくの会心コーデも水の泡だと信じていたから。
 しかし何より彼女を驚かせたのは、磨弓が両手いっぱいにかかえた袋の山。おまけにその一つ一つに色とりどりの服や帽子やなにやらが詰め込まれており、埴輪兵の磨弓でなければとっくに重量で潰されていただろうと思うほどだった。

「それどうしたの!?」
「ええ、なんでも私の刀剣は店員さんの予想よりずっと価値が高かったみたいで、たくさんおまけをして貰ったんです。なるべくメディに似合いそうなものを選んでみたのですが……すみません、この手のセンスはどうにも」
「それは構わないけど……あの刀、売っちゃったの!? 大切なものだったんじゃないの!?」
「ええ、まあ……でもいいんです。私のボディは刀と同じ強化セラミックス製なので、戦闘にさして支障は出ませんから」

 もちろん問題は戦闘力の差などではなく、あれが埴安神袿姫より与えられし品だという点にある。当然磨弓の決断はそれを踏まえてのことだったが、あえてメディに伝える必要もないだろう、と彼女は判断した。
 メディもまたそれ以上の追求はしなかった。とにかく見たこともないほど大量の衣服たちに気圧されてそれどころではない、というのもあったが。

「ねえ、そんなに大量のお洋服どうするの……?」
「え? メディの変装に使おうかと思ったのですが……ダメでしたか?」

 ぶるんぶるんと球体関節が壊れるんじゃないかと思うほどにメディが頭を横に振る。ほっとした磨弓の安堵の息。

「だけどそんな、受け取れないわ! それ全部でいくらするのよ!?」
「さあ」
「さあってあのね……」
「でも私の分はメディが選んでくれたから必要ないですし。それに吉弔八千慧から助けていただいた時のこと、まだちゃんとお礼できていません。もちろん命を救っていただいた代わりにはならないでしょうけれど……」
「ううん! そんなことない! すっっっっごく嬉しい!」

 そのまま勢い抱きつこうとしたメディだったが、既に重心が際どくなっていた磨弓を慮ってしまった結果、不自然な挙動をしたままずっこける。
 が……磨弓を気遣おうとそうしなかろうと、結果変わりはしなかった。
 
「メディ!? 大丈夫ですか!?」

 コケたメディに驚いた磨弓が飛び出し、彼女の小さな体躯を慌てて抱き止める。当然、それまで手にしていたものはパージせざるを得なかった。宙に舞う紙袋、色とりどりの衣服達……。

「磨弓……」
「よかった、怪我はないですか?」
「怪我はないけど……でも」
「でも?」

 メディの青い瞳の見つめる先、投げ捨てられた大量の洋服袋がどさどさと地に落ちていく。彼女は何か言おうと口を開いたが、結局言葉は発されなかった。ただそのかわり、

「なんでもない。ありがとう、磨弓!」

 と、人形が笑った。


 ◯


「ど、どうかしら?」

 磨弓が投げ捨てたせいでお釈迦になった服たちだが、全てが泥まみれになったわけではなかった。残った服の中からファッションショー、継続。
 普通の人間なら根を上げているところだが、メディも磨弓も疲れを知らぬ人造(または神造)ボディ。
 ようやくメディの気にいるコーデが見つかった際もなお磨弓は、嫌な顔一つせずに答えてみせた。

「よく似合ってると思います」
「ほんと!? ソンナ薄イ装甲ジャ戦エマセンヨーって言わないの!?」

 表情を輝かせながらメディはくるりとターン。シルフィードの戯れめいて舞う真っ白いワンピース。ちょこんと被ったつばの広い麦わら帽子が爽やかだ。さながらプライベートビーチでバカンスを楽しむ御令嬢、といったていだが、生憎と幻想郷に海はない。
 一方で磨弓は苦言を呈されたと思い慌てて、謝罪の言葉を口にする。

「あ、すみません! 戦闘面での評価をした方が良かったですか? 単に外見の見栄えと調和度合いから判断してみたのですが」
「ふーん。でも、自分が着替えた時は磨弓、そればかり気にしたじゃない」
「それは……そうですね。なぜでしょう」

 首を捻る磨弓。二人でしばし黙考するが、やがて、メディの遠慮がちな言葉。

「ねえ、もしかしたらそれって――」

 それを遮る磨弓の明るい声。

「わかりました!」
「はえ?」
「きっと私にも変装のコツがわかってきたんだと思います! こう見えて学習機能には自信があるんですよ! 私たちの記録領域に保持される重要ではない記憶は、一定期間経つと破棄されてしまうのですが……一部はキャッシュ化されて別領域に格納されるので、無意識下でのアクセス経路が確保され続けるのです! つまり私は変装スキルを潜在的に学習したのですよ! メディもそう思いませんか!?」

 呆気に取られたメディは、もう、じっとりと瞳を細めて磨弓から視線を外す。

「あーはいはい、そうだと思うわ。ヨカッタネー」
「これもメディのレッスンのおかげですね。ありがとうございます!」

 メディがその話題に触れることは二度となかった。
 磨弓だけが満足げなまま呉服屋を後にすると、もう日はとっぷりと暮れている。が、年中お祭りモードの中有の道である。そこかしこで明かりが灯され、人の(あるいは妖怪や幽霊の)出も多い。むしろ日中より賑やかとさえ言えた。
 霊長園ではけしてみられない熱気を物珍しげに眺めながら、改めて磨弓が問う。

「ええと、この後はどうしましょう。組長達がいそうな場所がこの近くにもある、ということでしたが」
「あ――う、うん。そうなの。たくさん人が集まるところだから、もしかしたらクミチョーも来てるかもしれないわ」
「ではそこに向かいましょう。案内をお願いしてもいいですか?」
「も、もちろん」

 歯切れの悪いメディ。妙な雰囲気に磨弓が首を傾げる。
 無論この純朴な埴輪兵団長には知る由もない。本当はこんな場所に畜生界の組長たちが来るはずない、などということは。ここは地獄勢力の管轄地、暗黙の不戦条約により畜生共は立ち入らない。先ほどの店員……小野塚小町が「副業」にありつくことができたのも、その一環。
 メディスン・メランコリーは嘘をついている。
 もっとも彼女とてそこまでは知らなかったろう。ただ、軽々についた嘘をいまさら引き戻せなくなっていただけだ。
 だって、本当のことを話してしまえば磨弓はもう、メディと行動を共にしてくれないだろうから。
 一方そんなことはつゆ知らず、当の磨弓はさらに無邪気に問いかけて水先案内人の次なる言葉を期待する。

「メディ? どうしました? どちらに向かえばよいのでしょう?」
「……こ、こっちよ」

 メディの指差した方向は、中有の道の中でも一際に明るく、また賑やかなエリアだった。

「すごい人だかりですね」

 話題が逸れたことに胸を撫で下ろしつつ、メディが駆け出す。ワンピースの白い裾が灯籠の炎に照らされ、薄橙色に明るくなった。

「あそこはライブ会場なの! 今日はプリズムリバー楽団の演奏があるんだって! 知らない? この幻想郷で一番の音楽家たちよ!」
「音楽……」
「そ、音楽よ! ヴァイオリンとかトランペットとかでジャンジャカ音を立てるやつ。ヴィオヴィオーとか、ぷわぷーっ! とか」

 メディの補足は磨弓を混乱させるだけだった。「オンガク、オンガク……」と壊れたラジオのように呟く磨弓を、メディは大慌てで引きずっていく。

「まあね、聞けばわかるわ。音楽を口で説明しようなんてナンセンスなのよ」

 果たして、その言葉通りになった。
 二人が到着した時はもう演奏も半ば終わりの頃合い。最後のアンコール曲を奏でようと、今まさにプリズムリバーの三姉妹が楽器の調整をしているところだった。

「磨弓はやくはやく! 始まっちゃうよ!」

 ギュウギュウの観客席に身を捩り込むようにして、二人は腰を下ろす。ほとんど身動きも取れず、演奏を楽しむどころではないような人混み。
 そこに無理矢理に入り込んだのだ。当然の帰結として、隣に座っていたいかつい男が磨弓たちを睨めつけ、広角泡を飛ばす。

「おいガキども! 割り込んでくんじゃねえよ、ぶん殴られたいか!? ここは俺のダチのために確保した……ごぼふっ……ゲホッ、な、なんじゃこりゃ、誰か……」

 が、唐突に彼が体調不良を訴えたので、自然と磨弓たちはスペースを確保できた。

「何かしたんですか?」
「なんにも。私ってその場にいるだけでこうなの。だから嫌われ者の毒人形ってわけ」

 少し寂しげにメディが笑う。「磨弓は特別なのよ」と付け足しながら。
 しかし磨弓は磨弓で心ここに在らずといった調子で、

「私、音楽の聞き方なんてわかりません」
「でも音は聞けるのよね?」
「それはもちろん。聴覚は戦闘に不可欠ですから」
「じゃあ大丈夫。音楽は頭じゃなく心で聴くものだから。ほらもう始まるから、喋ったらダメよ」

 二人の、否、すべての観客たちが見つめるステージ上で、喪服のような黒に身を包んだ少女へとスポットライトが注がれる。しかし光の線は頼りなく、蛍の戸惑いめいてふらふらと揺れていた。ざわめく観客席。
 どういう機構なのだろうと磨弓が暗視眼で光の元を見やると、「蛍投光サービス」とロゴを捺された装置の周りで、二人の少女がいがみ合っているのが見えた。片方は妖怪だが、片方は人間に見える。

「そうじゃないって! もっとしっかり狙って!」
「わ、わかってる……いつまでもお姉ちゃんに頼ってばかりいられないのにっ……!」
「いいよ私は! とにかく落ち着いて、落ち着いて、そうそう……」

 なにか……自分とは関係のない物語が展開されているなと、磨弓がぼんやり思った頃、ステージから鬱々とした声が響いた。キンと響くマイクのノイズ。

「ええと……もう私らヘトヘトで、しかも私らって楽器をあちこちに飛ばすもんだから、ライトさんは余計にヘトヘトだろうし、正直お互い様なんだけど……いや、一番疲れてんのは盛り上げてくれたみんなかな、はは……」

 観客からあたたかい笑い声が返り、壇上の少女も顔を綻ばす。
 既に何曲も演奏した後らしく彼女の顔色は疲れ切っていて、息も上がりたい放題だ。しかしその瞳にだけは力強いエネルギーが宿っていることを、磨弓の戦士としての直感は見逃さなかった。

「まあでも、もう一曲。最後に聞いてってください……実はね、無理言ってこのためだけに鳥獣伎楽さんに来てもらってて……ほんとありがとうございます。まあゲリラライブってそういうのが良さだよね、みたいな……」

 新たにスポットを受ける妖怪の二人組。もう光のふらつきは無い。会場に溢れるどよめき。その理由がわからないでいる磨弓にメディが「鳥獣伎楽はプリズムリバーと並ぶ有名バンドよ」と耳打ちした。

「今日はインストばっかだったし、皆も人の声が聞きたいと思うんで……前置き長いな。メル! これ開幕挨拶用の原稿じゃない?」
「え~違うよ~」

 再び笑い声。しかし今度は少女は相合を崩さなかった。バイオリンの弦のように空気もまたピンと張り詰める。

「じゃあ、聞いてください。プリズムリバー楽団と鳥獣伎楽で『ちっぽけなバイオリンのメメント』」

 ……瞬間、この世から音を発するすべてのものが消えてしまったのではと思うほどの静寂が降りた。人であれば鼓動や脈拍の音が大きく聞こえただろうが、磨弓とメディの場合は本当に完全な無音。
 その真っ白い世界に、一つ、ローレライの歌声の線が引かれた。さらに一つ、また一つと新たな音色……かと思うとそれらはたちどころに重なり合い、幾重にも絡まり合う複雑系を描き出す。
 これが音楽……! と磨弓が圧倒されたのも束の間、おぼこい彼女の手を取り導くように、バイオリンが、トランペットが、ティンパニやキーボードが、ローレライの歌声と混成混ざり合うプリズムリバーの奏でる楽器たちの力が磨弓を、さらにさらなる彼方へ誘ってゆく。

 そして。

 この世に造り出されてより初めて、磨弓は音だけの世界を知った。

 ……それからのことを、時間にしてわずか数分に満たぬ出来事を、磨弓はよく覚えていない。時間とは相対的なものだから。ただ初めて聞いた音楽に、本物の生きた音色に、ただただ圧倒されっぱなしの数分間だった。
 気がつくと壇上ではプリズムリバー三姉妹と鳥獣伎楽の二人組が頭を下げている。彼女たちへ注がれる惜しみない賛辞の拍手の嵐。
 その中でただ一人、磨弓だけが取り残されて、地を震わす喝采を聞いていた。

「メディ……なぜ皆は手を叩いているのでしょうか」
「素晴らしい演奏だったって伝えるためよ」
「素晴らしい……これは素晴らしい演奏だったのでしょうか?」
「私は最高だったと思う! でも、あなたの感想はあなたが決めなくちゃ。気に入らなかったらべつに拍手だってする必要ないし」
「……私には音楽の評価基準がわかりません。霊長園に音楽はありませんし、埴輪兵団としての仕事に音楽の評価基準は不要でした」
「寂しい場所なのね。でも、心が震えたならそれでいいのよ」
「私には……がらんどうの私には、心はありませんから……」

 無表情なのに泣き出しそうな顔色の磨弓。その手を、メディがそっと取る。

「じゃあ特別に今回は私が決めてあげる。これは素晴らしい演奏だった! だってあなた、演奏中ずっとステージから目を離さなかったじゃない。ただの一度もよ? もしつまらない演奏だったら、そうはならないわ。本当に心のない人形なら、きっと悩んだりできないわ!」
「そう……なんでしょうか……」
「同じ人形の私が言うんだから間違いないでしょ? それよりさあ、早く! スタンディング・オベーションが終わっちゃう!」

 メディによって促されるままセラミックス製のクラッピンハンズ。こんなものが賛辞になるの? 本当に? そんな磨弓の疑問符は、彼女の拍手が膨大な歓喜の渦に呑まれた一秒後、消え去った。
 そう、これは素晴らしい演奏だった!
 そんな気がして側を見やると、微笑むメディと視線がかち合う。彼女もまた同じ気持ちなのだろう。それは「共感」という極めて珍しい感覚。確かに磨弓の思考モジュールに存在してはいたものの、ともすると、初めて呼び出されるかもしれない感慨。
 胸底から逆流する正体不明の戦慄が、セラミックスの指の先の先まで震わせていた。メディがそれを優しく握る。人形だというのに、その手は温かく感じられた。

――けれど。
 
 祭りはいつか終わるもの。やがて拍手喝采の地鳴りも止み、奏者たちの挨拶が流れるように過ぎ去っていく。人々は少しずつ、かと思うとある瞬間から堰を切ったように急激に日常へ戻り始めていた。
 そして気がつけば観客席にはもう、二つの人形しか残されていない。磨弓の指先の震えも消えていた。けれど、それを握ってくれたメディの手のぬくもりは消えていない。今はまだ。

「少し歩かない?」

 月光を浴びて微笑むメディに同意し、磨弓もまた立ち上がる。
 もう夜更けだ。年中無休の中有の道も流石に人気を失っていた。静けさの中、二人分の足音と蟲の声だけが響く。

「ねえ」「あの」

 二人の声が重なり合う。たじろぐ磨弓を置いてメディは、兎のように跳ねながら先へ先へと進んでしまう。かと思えば、くるりと振り返った乙女の、星空よりも青濃い瞳。
 唇が重い――そんなことを感じたのは磨弓にとって初めてだ。なにか致命的なバグが自分の中に生じているのではと、恐怖にも似た懸念。
 だが蒼みがかった月光に輝くメディの金色の髪の、夜風に揺れる様を見ていると、それも消え去る。
 引き裂かれそうだ――磨弓は造られて初めて「息が詰まるような」という気分を理解した。
 揺れる鈴蘭の華めいて笑う乙女。
 二人の間に隔てられた距離。
 なぜ、そんな遠くに――と彼女は歩み寄ろうとするが、その度にメディは後ろへ後ろへ逃げていく。テレスコピックに伸縮自在な三途の川。その渡し船と船頭はけれど、何処にも見当たらない。

「あのさ!」

 出し抜けに、明るい声。それが魔術のように磨弓の足を凍らせる。

「組長たち、見つからなかったね」
「そうですね……」

 もうとっくに日は暮れてしまった。吉弔八千慧はメディのことを驪駒早鬼や饕餮尤魔に伝えたろうか。
 一刻経つごとに危険は指数関数的に跳ね上がっていく。
 だというのに。

「どうだった……その、音楽は」
「凄くよかったです」
「レコード、というものもあるのよ。それがあればいつでも音楽を聴くことができるの。ま、生演奏の迫力には負けるけどね」
「それは凄いですね。霊長園へのお土産に持って帰りたいくらいです」
「霊長園に……」

 だというのに、なぜ自分はこんな呑気な話をしているのだろう。
 主から賜った宝剣を手放し、畜生の牙を遮る鎧兜を脱ぎ去って、死角だらけの木々の中をぼんやりと二人歩いている。
 本来なら真っ先に警戒心が募って然るべき状況。
 だというのに。
 だというのに、なぜ。
 なんだって自分はこんなにも落ち着いて、満ち足りた感覚でいるのだろう……?
 川のながるる音。三途の川ではない。本物の、ただのちっぽけな小川。そこにかけられたおもちゃのような橋の上を、メディがふらふらと渡っていく。磨弓もそれに続こうとするが、蛍が飛び交っていて進めない。

「ねえ、磨弓」

 その橋の中腹に立ち、メディはとても、とても優しい声音で尋ねた。

「どうだった?」

 こんなにも月が蒼い夜。メディのかぶったつばの広い麦わら帽子が眩い月光を受けて帳を降ろし、持ち主の表情を隠していく。
 今度は満ち足りた気持ちさえ、吹き飛ぶ。磨弓の胸を支配する緊張。喉元に狼の牙を突きつけられたかのような錯覚。
 ああ、絡まりつく蛍が鬱陶しい。ギリギリとやかましい蛙の絶叫。

「どうだった、とは……」
「今日は、どうだった」
「それは……」
「わかるよ! 散々な一日だった! でしょ? あなたは殺されかけるし、組長たちは見つからないし、大切な剣もわがままな人形のせいで失くしちゃって」
「そんなことはありません! そんなことは……わかりません。私はあまりたくさんの言葉を知らないから。なんと言ったらよいのか、わからないんです」
「うん……」
「だけど、あっという間の一日でした」

 それは偽らざる磨弓の本音。
 あっという間だった、今日は。べつに大したことをしたわけじゃない。なにせメディと出会ってからまだ半日と少ししか経っていない――そうと気が付き、彼女は己の時間感覚が狂ってしまったのではと疑う。一方でそれは矛盾した反応だと自覚する。実際にあっという間の経過時間なら、感覚はむしろ正常だ。
 いいや、違う。
 彼女は知っている。
 月光に霞みながらも確かに二人を見下ろす天の川銀河、そこに満ちる大宇宙の法則。その理論を。「あっという間だった」ことがなぜ重要なのか……彼女は知っている。
 例え記憶がそれを思い出せずとも、杖刀偶磨弓という存在は記憶だけに依って立つわけではないのだから。
 それはキャッシュ化された過去。土くれに宿ったメメントの欠片。思いつき、あるいは勘、天啓……人間ならそのように呼ぶ刹那の閃きが、その機能が、彼女にもまた搭載されている。意図的かはどうかはともかく……造形神は気まぐれだ。
 そして、

「時間とは相対的なものです」

 口をついて出た言葉に、磨弓は驚く。思いもよらない言い回しにメディの目もまた丸くなる。

「ええと、辛くつまらない一分間は、一時間にも感じられますよね。でも、素敵な人といる時間は一時間でも一分のように感じられるんです。つまり……あれ? 何が言いたいんでしょう、私……」

 自分の言葉に困惑する磨弓。それが可笑しかったのか、笑い声が返る。

「なに? それ……」
「うぅ、わかりません……たしか昔に、誰かに聞いたことがあるはずなのに……誰だったかしら……」
「袿姫様じゃないの?」
「違うと思います、なんとなく。袿姫様はもっと物事をはっきり仰るタイプです」
「ふーん……」

 二つの人形が首を傾げる。
 かと思うと、一陣の風が麦わら帽子を揺らしていった。あらわになる乙女の表情。磨弓はまだ首を傾げていた。

「ね、ねえ! それって……」
「はい?」
「それって! わ、私が素敵な人だって、も、もしかしてそういうこと……? 一緒にいる時間があっという間に感じるくらいに……!?」
「ああ! なるほど、たしかにそうかもしれません」
「なるほどじゃないっ! あーーっもうなによそれ!? だって、そんな……わかりにくすぎるわ!」
「すみません、あまり言葉を使うのは得意じゃなくて」
「逆に超上級者みたいになってるわよ!? もう知らない知らない知らない……」

 頭を抱えてうずくまるメディ。緊張が解けた磨弓が再び歩み寄ろうとするが、「ねえ」という人形の声色がまたしても彼女を躊躇わせる。

「磨弓は……どうして私をそんなふうに見てくれるの? 私、あなたに何もしてあげられてない。ううん、むしろ嫌なところばかり見せてたでしょう」
「そうですか? メディは、地上のことを何も知らない私をたくさん助けてくれました。感謝するのは当然だと思いますが」
「本当に、それだけ?」
「……? すみません、メディがなにを言いたいのかよく……」

 月に雲がかかり、メディの立つ橋の上へと暗い夜の影がおちる。
 磨弓は努めて本心を口にしてるつもりだった。いったいメディは何を期待してるのだろう? 何か言うべきこと、すべき決定があるのだろうか?

――あともう少しで掴めそうなのに。

 答えはすぐ背後にまで迫っている。磨弓はあくまで戦闘埴輪としての感性で危うくそれを感じとっていた。
 だが、この敵は振り向きざまに切り飛ばせば良い、という類のものではない。そこから先はもう戦闘の勘ではどうにもならない。
 だから、彼女は祈った。他ならぬ彼女の神に。

――袿姫様、私はいったいどうすればよいのでしょう……?

 想像の中の造形神はなにも答えない。答えないがゆえ、いっそう磨弓は強く袿姫のことを思い起こそうとする。

「ま、いいわ」

 そんな磨弓の神頼みを知ってか知らずか、メディは続けた。

「理由なんてどうでもいい。あなたに嫌われてないってだけで私、嬉しい。だって私、あなたのこと騙してたから」
「え……」

 ばしゃり。突然ぶちまけられる言葉の白ペンキ。磨弓の思考が白く塗りつぶされる。

「さっき辛い一分間は一時間にも感じられる、って言ってたわね? 私もその通りだと思う。あなたに嘘を付いてる間、ずっと私、永遠に続く責め苦を受けてるような気分だった。あ、嘘っていうのは例えばこの服のことね。変装って言ったけどそんなわけないでしょ? ただ私、誰かと一緒にかわいい服を見て回りたかっただけ。それがずっと夢だったんだ」

 ぽかんとしたまま独白を聞き続けるでく人形。他方、月光の届かぬ夜の下、プリンシバルのパ・ド・ドゥ。

「それに中有の道がなんたら組の組長さんがいる場所、っていうのもデマカセ。まあ偶然に出会えたら良かったけどね。でも幻想郷って狭いようで意外と広いし、そうはならなかったなぁ」

 それから最後にメディはイタズラっぽく微笑み、付け足した。

「ま、あなたはちょっと騙され安すぎると思うけどね」

 ようやく少し思考の再起動を果たした磨弓が、縋るように問う。

「なぜ、そんな嘘を……?」
「ねえ磨弓。こんな私の話だけど、まだ聞いてくれるかな?」

 磨弓はセラミックスの唇を噛みしめ、顎を引く。そうするより他になかった。彼女はただ目の前の現実が流れ着きたいよう流れ着くのを見守ることしかできなかったから。
 けれどメディはあくまで笑みを崩さず、唄うように言葉を紡ぐ。磨弓に唄って聞かせるように、聞き分けのない童を寝かしつける子守唄のように。あるいはギロチン台にかけられた王女が末期の想いを唄うように。

「あなたは、袿姫様って神様に造られた戦士なんでしょう。強い忠誠心を抱くよう初めから定められているんでしょうね。だから、複雑な心の動きに気が付けないのも納得できる」
「それは、当然です……私に心はないから……」
「いいの。きっと仕方のないことだから。それより、ね、聞いて? きっと口下手なあなたのために、ううん、わがままな私自身のために、私が先に本音を言うわ」

 聞きたくない。
 磨弓は耳と目を閉じ口を噤んで孤独な世界に逃げ込みたかった。だが耳も目も閉じることは叶わない。最後に残った戦士としての彼女の矜持が、どんな苦境にあっても敵前逃亡だけは許されぬと頑なに戦線を固持していたから。
 その間も、プリマ・ドンナのアリアは続く。

「私はメディスン・メランコリー。私は捨てられた人形。私は鈴蘭の毒で動く嫌われ者の妖怪。だからね、私はずっと友達が欲しかったの。ずっとずっとあの丘で一人ぼっちだったから。もちろんスーさんは私と一緒にいてくれたけど、だけど、私は私と同じように話したり笑ったりできる人形のお友達が欲しかったのよ」

 磨弓はもう何も言わない。土くれで出来た埴輪が一体、嘆きの唄を奏でる少女を見つめている。焦がれるほどに届かない友達に向け手を伸ばす、哀れで惨めな人形のザマ。
 そして、彼女は願った。

「だから磨弓、霊長園に帰らないで」
「……」
「このままずっと幻想郷にいましょ? 私と一緒に無名の丘で、二人で……ううん、べつに他の場所だっていい。スーさんもきっと認めてくれるわ。ね、そうしましょ! そうしましょうよ! せっかく買ったお洋服を着て色んなところをまわりましょ! 音楽が気に入ったなら好きなだけ聞けるのよ! ねえ、お願い! 私を一人にしないで! お願い、磨弓、お願いよ……なんであなたは現れてしまったの……? ずっと一人で生きてきたのに! ずっと一人のままだったら耐えられたのに! なんでなのよ! ちょっぴり二人で過ごしただけなのに、もう狂おしいほど孤独が怖くなってしまった! だから責任取ってよ! ねえ!」

 泣き笑いのようなメディスンの表情は、きっと人形のできる表現の限界を超えていた。ただ、涙だけは頑なにその双眸から流れ落ちることはなかった。けっして。
 磨弓もまた流す涙を持ち得ない埴輪兵。その点でやはり二人は似たもの同士だったし、またどこまでも異なる存在であった。あらゆる人と人同士がそうであるように。

「……できないわ」

 夜に満ちる声が止んだ。蛍たちも、鈴虫や蛙たちも、みなみな死に絶えてしまったかのよう。

「私は忠義の土くれ。袿姫様の従僕。あのお方に造られてから今までずっと、そしてきっとこれからもずっと、それは変わらない。だからごめん、メディ。私はあなたと一緒には行けない」

 メディが首肯く。

「……わかってた」

 瞬間、稲妻に打ち据えられたかのように磨弓の思考モジュールが嘶いた。

――だめだ。行かせてはだめだ!

 溢れる衝動に押され、手を伸ばそうとして初めて彼女は、自分たちの間に横たわる距離の短さに、その途方もない長さに驚き、困惑し、慄いた。

「待って、メディ」
「わかってたけど、わかってたのに……ほんとに言われると……つらいものね」
「ちがうの、メディ、私は」
「いいの! もう、いいのよ! さようなら誇り高い埴輪兵さん! たった一日だけで良かった! だって覚えておくには短すぎるもの! 明日になれば忘れてしまうわ! だからさよなら、さよならっ……」
「メディ!」

 夜に駆け出したメディを止めることは本来、磨弓に与えられた身体機能からすれば造作もないことのはず。
 だがその肩を優しく引き留めるように蛍たちがまた、橋の上を飛び交いだす。再び蟲や蛙の声が蘇る。
 否、彼らは単に生殖の相手を求めて鳴いたり光ったりしているに過ぎない。彼らの生涯は短く、相対的な時間感覚は磨弓のそれと比較にならぬ速度で流れ行くだろう。

「私は……」

 それから思い出したかのように、ぽつり、夜の雨が降り始めた。


 ◯


 ……そして、どれくらいの時間が経ったろうか。
 無論磨弓はそれを知っている。クォーツ時計よりも正確に時を刻むセラミックス製の体内時計が、実のところ、メディが去ってからまだたいした時の経過してないことを教えてくれていた。律儀にも。
 だが時の流れは観測者の状態に左右され、伸び縮みする。
 今、磨弓には一分間が一時間にも一日にも千の過ぎ去る秋のようにも感じられていた。
 降り頻る雨から宿ろうともせず、ぼんやりと幽鬼のように、橋のこちら側で立ち尽くしていた。

――袿姫様、私は何を間違えてしまったのでしょう……。

 胸に満ちる忠誠はなお健在である。忠誠こそ磨弓の力の源。ならばなにも案ずることはないはずだ。
 だというのに、磨弓の心には一握の満足感も達成感もない。その代わりにただ夜の雨の音だけが、がらんどうの中身を満たしていた。

 ……だから、もし。

 もし茂みから響いた物音と獣臭が磨弓の戦闘回路を刺激し無かったなら、この埴輪は本当に那由多阿僧祇の時の間さえ身動ぎしなかったに違いない。
 だがそうはならなかった。敵の存在を検知し、急速にアクティベートされていく闘争本能。磨弓は自分がどこまでも戦士であることを自覚し、また、今ばかりはそのことに感謝した。

「何者だ!」

 メディではない。
 この荒々しくぶっきらぼうな殺気。勁牙組だと当たりをつける。とはいえ組長格の圧とも違う。それでも油断せずに磨弓は剣を構え――ようとしたが、すでに手放してしまったことを思い出す。

「待て! 待ってくれ! 俺はアンバサダーだ!」

 しかし剣がなくとも磨弓は霊長園のナンバーツー。その殺気をまともに浴びてしまったらしく、悲鳴に近い静止の声を上げながら一匹の狼霊が茂みから飛び出した。
 やはり勁牙組。しかし血気盛んな連中らしからぬ言葉に、磨弓の眉がひそまる。

大使アンバサダーだと? 畜生と話すことなどないわ」
「ぐるるるる……その埴輪っ面も驪駒様の言伝を聞くまでだ! いいか、よく聞けよ……」
「よく聞く前に一つ、軽く聞きたいんだけど」
「なんだ! 話の腰を折る奴だな」
「だって気になるじゃない。その……」

 磨弓が指差した先、狼霊の頭部では、なぜか満月のように素肌が露出していた。そこの毛皮だけを誰かに乱暴に引きちぎられたかのような、惨い痕。
 
「言うな……! そのことは……!」
「まあどうせ、出過ぎたことを言って驪駒早鬼にやられたのでしょうけど」

 気まずい沈黙が磨弓の推理を肯定していた。

「畜生らしいわね」
「黙れぇえいっ! 驪駒様のお言葉を伝える! 『久しいな! 造形神のデク人形よ! 八千慧にボコされたそうだが、剣の手入れは怠っていないか? まあいい……おまえのかわいい友人は預かっている。無事返して欲しくばその遣いの狼霊に着いて来い』だ、そうだ! さあ来い! 着いて来い! デク人形よ! 驪駒様はお待ちであ――」

 無言、跳躍する埴輪、駆け出す狼霊、その首元へと精密に狙い定め、セラミックス装甲の右手が狼の首根っこを地に叩きつけれる。

「ギヤッ――」

 もし、彼が実体を持つ生身の狼であったなら、そのまま首を境に頭と胴が泣き別れになっていたことだろう。
 その点で彼は自分が霊体であることに感謝するべきだったといえる。

「私に友人などいない」

 地獄の底の底から響いたような声色が、夜雨の空気を震わせた。絶対的な膂力に拘束された狼霊の目元から飛び散る涙。

「ま、待ってくれぇ! 俺は本当に伝言を持ってきただけなんだ! 俺はなんにも知らねえよ! ちくしょぉ! なんでこんな目にばかり!」
「おまえがクソ畜生だからでしょう? メディはどこだ! 答えなければ貴様を六道輪廻の永劫にすら戻れぬよう磨り潰して――」
「本当に知らないんだよぉ! 俺は作戦会議中ずっと気絶してたんだ! だから人質の名前もなんにもわかんねえだぁ! 母ちゃん助けてぇえ!」
「誰がそんなことを――」

 瞬間、頭上に生じる殺気が磨弓を捉える。
 状況判断。危険だ、最大級の危険! 全力で地を蹴り離脱する磨弓。間髪入れず、凄まじい轟音と共に急降下爆撃が大地をえぐった。まるで隕石の直撃。避けなければ文句なく粉々になっていただろう。

「おまえは……」

 もうもうと立ち昇る土煙の中でなお、磨弓の埴輪アイは正確に奇襲者の影を捉えている。
 一対の大仰な翼。カウボーイ風のテンガロンハットを直しながら、ニイッと釣り上がった獰猛な口角。

「こんな登場の仕方じゃあ、私が阿呆狼共の母親みたいじゃないか? なぁ、埴輪の」
「早鬼様ぁ!」
「邪魔だ退いてろ!」

 蹴り飛ばされた狼霊が茂みの彼方に飛んでいき、「これで二人きりだ」と驪駒早鬼が厳かに宣言し直す。

「夜道を狙って奇襲とはね。勁牙組組長様も落ちたものだわ」
「元より我々は堕ちるところまで堕ちてるさ。畜生界は一つのどん詰まり。その点でおまえは哀れだよな?」
「なに……」
「ふつう生き物は生前の罪のために畜生界に堕ちるもの。だがおまえはエゴイスティックな造形神によって生まれながらに地獄行きだ。これを哀れと呼ばずになんと呼ぶね」
「黙れ。袿姫様は貴様ら畜生から人間霊を護るために――」
「ところでその服はどうしたよ?」

 勢いを殺され、磨弓がたじろぐ。彼女はまだオーバーオールにベレー帽姿のままだ。瞬間、記録回路に蘇るメディの笑う声、切なげな瞳、その手のあたたかさ。

「こ、これは」
「逃げてもいいんだぜ?」
「なに?」
「今のおまえは八千慧の小手調べ・・・・で瀕死になるような体たらく。そのうえ剣も鎧もなしに私に勝てるわけがない。だから、逃げてもいい。完全な状態で殺り合おうじゃないか。なあ?」

 早鬼の言葉は……悔しいが、真実だ。いくら威勢のいい啖呵を飛ばしてもこの状況は明らかに最悪。
 吉弔八千慧もけして容易な敵ではないが、驪駒早鬼の危険度は八千慧のそれを上回る。

「逃げるなどと……」

 さらに今、地上にあって磨弓を助けてくれたメディスンはいない。

――あるいは戦略的撤退もありか?

 無理からぬ弱気が彼女の思考に昇ったほぼ同時、

「だが逃げれば人質は殺す」
「なっ」

 早鬼の言葉が磨弓をさらに揺さぶる。人間であれば情けなく青ざめていたところだろうが、幸いにして埴輪の顔色は変わらない。
 とはいえ、百戦錬磨の驪駒早鬼からすればそんなことは些細な問題だ。敵の動揺くらい気配でわかる。

「ま、よく考えなよ。焦りはしない」

 彼女はただ自慢の黒翼を愛おしそうに撫でつけながら、返答を待っていた。
 それが磨弓の苛立ちを喚起するための罠なのか、天然の仕草なのか、埴輪兵団長には伺いしれない。
 早鬼という畜生は単純馬鹿な戦闘フリークと思われがちだが、その理解は的を射ていない。彼女はただ、持てるリソースのすべてを闘争の愉悦を浴びることに費やしているだけだ。目的の為なら彼女は、どんな手段も知恵でも動員するだろう。

「メディは、関係ない……」
「そうだ。関係ない。人で無しの埴輪兵団長殿にあられましては何も気にされる必要はございません。おまえは所詮生まれながらの兵器、死を恐れぬセラミックスの兵隊、主への忠誠を燃やし駆動する自動人形に過ぎないわけだ。一パーセントでも勝利の可能性を上げるためなら、当然、あの捨てられた哀れな人形をもう一度見捨てるなんて造作もなかろう? 今、八千慧にそう伝えてやるよ。あの人形は用済みだから壊しちまえとさ……」
「ダメだっ!」

 反射的に磨弓は叫んでいた。早鬼がいっそう楽しげに笑う。
 黒翼とともに両手を広げ、審判を下す悪魔のように問いかける。あるいは十字架に磔にされた聖者がごとく。

「なぜさ!」
「私は……まだ、メディに謝っていない!」
「であれば一人にすべきじゃあなかったな」
「それは私のミスだ」
「くっくっく……ミスってのは正解を知ってる奴の言うセリフだよ。おまえはなにをミスったんだ?」
「メディを引き止めなかった」
「それはなぜだ」
「あなたには関係ない!」
「答えられないのか? 違うね、あの人形は寂しがっていた。たったそれだけのこと。珍しくもない! だのにそれに気がつけなかったのがおまえさんのミスだ」
「……そうだ。わかってる。そんなことおまえに言われずとも! もうとっくにわかっている!」

 揺さぶられながらも、むしろ揺さぶられ続けているからこそ。
 ……磨弓は何故だか、自分の胸の内のゆらぎが小さくなっていくのを感じていた。

「ふふ……」

 一方で早鬼はまるで、磨弓の思考の深み深みを引き出そうとするかのように言葉をつなぐ。
 冷静さを奪うための戦術か? 否、弱体化した磨弓を倒したいなら、今すぐに殴り殺すが最短の最善手だ。

「さっきからグチグチと、いったい何を企んでるの? 驪駒早鬼!」
「私は私の信念に最初から忠実だよ。楽しく殺し合おう・・・・・・・・! それだけさ。杖刀偶磨弓、おまえは今変わろうとしている。つまらない戦闘兵器から、造形神の傀儡兵士から、生きた戦士に成り代わろうとしているのさ。私はそれを待ってるだけだ」
「意味不明だわ」
「……なら、味わってみるか? 私の信じるお前の強さを! どうにも私らは『待て』ができない性分だからな!」

 それが開戦の合図らしかった。
 夜のしとど雨を切り裂き天馬がかっ飛ぶ。音速の衝撃波に雨粒の幕が道を開け、死の突撃が磨弓へ迫った。

――視える!

 直線的な攻撃。磨弓は片足を軸にして、身を捻っての回避。すれ違いざまに交わし合う視線、早鬼の殺意と喜びに輝く瞳。
 ギン、と致命的な一撃が過ぎ去り、着弾する黒馬。凄まじい衝撃が地に染み込む水分を蹴り飛ばし、波となって散る。そのまま彼女は狼のように前傾姿勢の四つ這いとなって愉しげに喉を鳴らした。

「今のは八千慧の小手調べ・・・・の三倍は速くしたんだが。ダイエットでもしたのかい、お嬢さんレディ?」
「私は何も変わらない。あなたが弱くなったんじゃない?」
「タリ・ホー! それでこそ殺しあう甲斐もある!」

 再びの早鬼の瞬発力。チーターめいて低い、足元を狙った這うような一撃が磨弓に迫る。

――下だ! 受けきれる!

 しかし素早く身構えた磨弓を見るや、ペガススは泥濘む地べたに両手を突き刺した。頭を下に、代わりに蹴り上げた反動で全身をコマのように回転させての、

「カポエイラ!?」「さすが戦闘語彙は豊富でいらっしゃる!」

 早鬼の狙いは足下じゃない、頭部だ。
 下に集中していた防御では間に合わぬと磨弓は咄嗟の判断。ヒヤリ・ハット。あわや身を引くのが速かった。飛来するつま先がベレー帽を切り裂き飛ばしていく。マトモにガードすれば腕の一つも持っていかれたろう。
 ……が、これでターンを取ったのは磨弓の方だ。

――私のボディは刀と同じ強化セラミックス製なので、戦闘にさして支障は出ませんから。

 以前メディに告げた言葉に嘘は無かった。杖刀人の肉体はそれ自体が凶器そのもの。
 爆発しそうな膂力を躱した左腕に込める。早鬼はまだ大技の反動から身を立て直せていない。その土手っ腹に叩き込まれる、殺戮パイルバンカーめいた正拳突き。
 メギョ――と鈍い音が軋み、吹き飛ばされる早鬼の体。弾丸の如き勢いで大木の幹に叩きつけられる黒翼のペガスス。
 熱い蒸気の吐息を吐き出しながら磨弓は、残心してそちらを見やる。

「グふっ……くっくっく……げほっ、いいねぇ……八千慧なら死んでたかな、今のは……いやぁアイツは甲羅があるから……」
「あなたを殺すと面倒だわ。それでも、意識は奪うつもりの一撃だったけど」
「丈夫に育ててくれた太子様と調子麿に感謝だな……」

 よろよろと立ち上がる早鬼の口元からは、夜闇の中でもなお赤い血潮が垂れ流されている。手の甲で鼻血を拭い、潰れ歪んだテンガロンハットを几帳面に直す。そのまま両腕を構え直し、ファイティングポーズを取る早鬼。

「じゃあ、第二ラウンドと行こう」
「ちょっと」

 磨弓の抗議を受け、悪魔的な笑みが不服そうに歪んだ。

「なんだよ。ノッてきたところだろうが」
「今ので力量差は示したはずよ。メディを解放して」
「いやだね。お姫様は力づくで取り戻してみせな」
「……なぜ? いくら神獣霊であるあなたといえど、これ以上やれば本当に死ぬわよ。それこそ……あなたが力を取り戻し、全力で戦えるようになったらまた来ればいい。べつに歓迎はしないけど、業務稼働の範囲内で相手はできる」
「なんだ、本気で私が弱くなったと思ってたのか?」
「他に何があるの。今のあなたじゃ吉弔八千慧にも勝てないんじゃない」
「……はぁ。おまえ、本当に強さとかそーいうもんに興味がないんだな。わかっちゃいたが虚しくなる……というより、勿体ない」

 肩をすくめる早鬼の笑みは、物分りの悪い手下をバカにする時のように冷ややかだ。
 しかし実際、磨弓は地上において八千慧に敗けている。であれば全力の早鬼に勝てる道理はない。そのはずだ。ならば早鬼が弱体化してると考える以外にないだろう。
 いいや、あるいは……

「たしかに可能性はある……でも、そんな、ありえない。埴輪戦士のスペックは造られた時点で定められている!」
「いいやそうだよ、言っただろ? 私が弱くなったんじゃない、お前が強くなったのさ」
「それは……でも、なぜ」

 バカにするように肩をすくめる早鬼。

「至極簡単な道理さ。誰かに言われて戦うやつより、自分の心で考え、決めて、己の大切なもんのために自ら進んで闘争に飛び込んでいく……そういう連中を狂人と呼ぶ。素面が狂人に勝てるわけもなし、だ」
「心……そんなもの私には無い!」
「あるさ! だからこんなにも殺し合うのが楽しい!」
「楽しいのはあなただけでしょう」
「ならこう言い換えよう。心があるからお前はそんなに必死になっている。あのチビスケの人形のためにな。わかってるんだろう? とっくにさ……」
「それは――」

 慄きながらも磨弓は「それ」に向かい合う。

――メディを傷つけてしまった。

 寂しがる彼女の気持ちを、袿姫への忠誠を言い訳に見えないふりをした。
 だから謝りたい。もう一度彼女に会って話をしたい。メディの駆け出した背を見た瞬間、稲妻のように生じた衝動。
 そう、磨弓が必死になるのはすべて、その感情のためだけだ。
 それはけして良いものじゃない。むしろ……

「これが……こんなものが心だっていうの? こんなに狂おしいものが……?」
「そうとも。心なんて碌でもないもんさ。しかし誰もそれを無視することは出来ない。心の無い奴は弱ぇやつだ。現にお前は、忠誠『心』の拠り所となる埴安神袿姫から離れ、八千慧に圧倒されただろう?」
「だからあなたは闘争を追い続けるというの!? 例えその結果死んだとしても!?」
「おうとも! 今宵私らはようやく互いを理解したわけだ! であればさあさあ次ラウンドに行こう! 本気の杖刀偶磨弓を見せてくれよ! こちとらそのために八千慧の気に食わん策にも乗ったんだ!」
「……滅茶苦茶だわ」
「それが勁牙組のモットーさ」

 どうあれやるしか無いのか。
 磨弓もまた身構えようとした……が、
 
「とんだ裏切り者がいたものね。敵に塩を送るなんて」

 聞き覚えのある殺気だった声が、二人の闘争の世界を引き裂いた。
 磨弓と早鬼の視線が素早く交差する点。そこに浮遊するは亀甲と龍尾持つ畜生――吉弔八千慧。
 夜風に煽られる包帯を鬱陶しそうに振りほどきながら、彼女は忌々しげに吐き捨てる。

「その様子じゃあプランAは失敗か」
「八千慧!? なんだよ、邪魔する気か!? 今いいところなんだ!」
「ふん、その青息吐息でよく言う。バトルフリークが負けてちゃ存在意義ゼロだわ」
「……こっから知恵と勇気でクールな逆転劇を決めるんだよ」

 痛いところを突かれ口ごもる早鬼に、八千慧は冷たい瞳で鼻白む。

「浅知恵と蛮勇の間違いでしょう? もうあんたには頼らない。まったく……何でもかんでも自分でやるしかない。はぁ」

 二対一となるのかと気を張っていた磨弓は、とりあえず八千慧と早鬼が組んで戦うことはなさそうだと理解し、安堵していた。
 だがそれも束の間のこと。
 八千慧がカワウソ霊たちから受け取った「もの」を見て凍りつく磨弓。

「じゃあ、プランBといきましょう」

 八千慧が脇に抱えたのは、もう動かない西洋人形が一体。
 金色の髪、閉じられた瞳。泥に汚れてしまった真っ白だったはずのワンピース。
 磨弓はそれに見覚えがある。嫌というほど――

「メディ!」
「相変わらずの搦め手か。とことん気に入らないやり方だな」
「それがうち・・のモットーなの。負け犬は黙ってなさい」

 気勢を失っていく早鬼。対照的に、これまでにないほどの殺気が籠もった磨弓の叫び。

「吉弔八千慧! メディは関係ないのに、またしても! どうしてそう卑怯な手ばかり使う!」
「なんとでも言えばいい。私はアホの早鬼やうつけ・・・の饕餮とは違ってシリアスなの。私は闘争の愉悦にも、限りない強欲を満たすことにも興味はない。望むのはただ私たち組織の存続と繁栄だけ」
「誰にも迷惑のかからないところで、勝手にしたらいい!」
「とんだブーメランだねぇ。勁牙組、剛欲同盟、そして霊長園のクソラデウスとクソ埴輪……忌々しくも武力に劣る鬼傑組が生き残るには、どこまでもシリアスにやるしかないのよ。おわかりか? これが本当の忠誠心というものよ、温室育ちのお嬢さんシャオジエ

 磨弓は今すぐにでも飛びかかりたい気持ちを、辛うじて抑える。人質は相変わらず八千慧の手の中だ。もしも「心」なんぞに気が付かなければ、磨弓は正しく当初の早鬼の予測した通り、八千慧を斬って捨てれば良かったろう。
 だがそうはならなかった。
 磨弓をして黒駒早鬼を倒せしめた奇妙な情念の発露は今、むしろ彼女の脚を縛り付ける枷と相成っている。
 苦虫を噛み潰したような顔色で、彼女は縋るように問う。

「私にどうしろというの……」
「別にどうもしなくていいわ。これは落とし前だから」
「どういう――」
「いちいち五月蝿いな! あんたはただそこで、ぼーっと、自分の大切なものが壊される様を見ていればいいんだよ!」
「八千慧!? よせっ!」
「ダメえっ!」

 三つ巴の状況の中、最初に動いたのは八千慧だ。脇に抱えた人形を、地上へ叩きつけようと振りかざす。
 磨弓もまたそれを受け、意識を落下予測地点に集中する。間に合うか? 最大限のスプリントであればあるいは。考える余裕がない。両足に最大の力を集約させる。
 一方で早鬼は僅かの間、八千慧を止めるべきか逡巡した。しかし動物的勘によって物陰に潜むもう一つの姿を察知し、視線を移す。それから彼女は、吉弔八千慧の恐るべき執念深さと周到さに身震いした。

「美天!」

 メディスンを叩きつけようとする八千慧の手が止まり、代わりに鋭い号令がかかる。
 そして飛来する第四の影。鬼傑組の遊撃隊員・孫美天。

「仰せのとおりにっ!」

 彼女の構える巨大な試験管様の鈍器が空を切り裂く。狙いは一点、杖刀偶磨弓の頭部。
 いくら美天が素早いとは言え、平時なら避けることは容易いはずの一撃。しかし友人を受け止めようとしていた彼女はもう、崩れた体勢を立て直せない。
 金色の瞳が自らに迫る破滅的な一撃を捉えた。

――バキャ、と。陶器でできたものの壊れる音がした。


 ◯


 これは過去。これは追想。これは土くれのキャッシュメモリに刻まれた薄頼りないメメントに過ぎない。

 「エデン区画」。
 
 霊長園内にわずか残る管理された自然保護区画の一つ。
 施設全体の運営には一切寄与しない「不必要な」エリアでありながらも、埴安神袿姫はなぜか、その地区の警備エリアを常に「VERY HIGH極めて高い」に設定していた。
 それは「CRITICAL絶対死守」にランク付けされる袿姫の作業場や人間霊の「保管」区域に次ぐ事実上の最高レベル。つまり、埴輪兵団長である杖刀偶磨弓の直轄担当区域ということだった。

「あのような場所は、取り潰したほうが良いのではないでしょうか」

 どういう経緯だったか、磨弓は一度だけ袿姫にそう進言したことがある。袿姫に対して「はい」か「承知しました」の返答しか持ち合わせぬ磨弓には異例中の異例。
 とはいえ根拠がないわけではない。事実、エデン区画は施設運営に寄与しない。どころか莫大な電力と水資源を浪費し、埴輪兵の天敵である「生身の」生物をいくつも保全している。
 なにより、磨弓はあの区画が嫌いだった。袿姫の造り出す秩序だった世界とは対極の、カオティックな世界が嫌いだった。
 ……だが袿姫はそれにニッコリと微笑んで、我が子に教え諭す母親のように、告げた。

「人はパンのみに生きるにあらずよ、磨弓ちゃん」

 無論、厳格な一神教徒である磨弓にその言葉の由来を知る由もない。
 むしろエデン区画を警備する際にその警句がリフレインし、余計に頭痛が増えただけだ。

――だいたい人間霊だってこんな区画めったに使わないじゃない。

 ようするに「エデン」などと言いつつ結局は、人(神)工照明と模造品の青空に閉ざされた萌黄色の草原がどこまでも続く、羽虫ばかりが鬱陶しく飛び回る紛い物の楽園に過ぎないわけだ。
 そもそも原典に基づけばエデンにもはや人間の居場所はない。とはいえやはり、磨弓には知る由もなかったが。
 兎も角、磨弓にはそのような事情があった。だから、一本のにれ・・の模造樹の下でその老いた人間霊を見かけた時、飛び上がるほど驚いたのも無理からぬことだった。

「あの……迷子ですか?」

 申請こそ必要だが(そもそも霊長園の大半の施設利用には申請が必要だ)、人間霊のエデン区画への立ち入りは特に制限されたものではない。
 その点で磨弓の問いかけは的外れもいいところだったが、老人は嫌な顔ひとつせずに真っ白い髪と髭を震わせて笑い、自分の腰掛けるベンチの隣を示した。磨弓は丁重にそれを断り、再度尋ねる。

「すみません、仕事中ですので。それよりエデン区画利用の申請はお済みですか?」
「ここは寂しいところだね」
「はい?」
「モーツァルトの協奏曲『トルコ風』。私はあれのレコードが好きだった。ここに堕ちてきてからというもの、レコードはおろか音楽というものを耳にしたことがない。他の人間霊たちは鼻歌一つ歌わないし、音楽という文化をそっくり忘れてしまったようだ」

 訥々と、しかし力強く語られる老人の無念に、磨弓は首を傾げることしかできない。

「れこーど……? 霊長園に音楽はありませんよ」
「寂しい場所だね」
「なにかストレスを抱えているようですね。リラクゼーションエリアの使用を申請してみてください。あそこには――」
「構わない。失礼、仕事のじゃまをしてしまったね。私のことは放っておいてくれ。ここが一番落ち着くんだよ、それだけなんだ」

 老人の訴える通り、磨弓は彼を気にせず仕事に戻った。
 だが、彼女がエデン区画を見回るたびに老人は決まって同じにれの樹のベンチに腰掛けている。磨弓もまた初めからモチベーションの伴わない仕事だ。
 最初の内はいつもの挨拶程度だったはずが、かわされる言葉は徐々に多くなり、やがて磨弓は老人の隣に腰掛けて話し込むようになっていた。もっともそれは対話というより、老人からの一方的な講義に近かったのだが。

「――して、当時はまだ世界が平面であるという主張が主流だったんだな。しかしガリレオ・ガリレイという偉人は度重なる観察と実験を経て仮説を検証し、それは誤りであるという結論を出した。地球は回っている、と解き明かしたんだよ。理論で迷信を否定したわけだな。それは幾度となく現れては踏み潰されてきた、我々人間が『科学』と呼ぶものの、本格的な萌芽だった。しかしガリレオの考え方もまた先進的すぎた。結局彼は自分の説を撤回せざるを得なかったわけだが……」

 特にその老人は、人類の歴史と科学に対する深い洞察と知識を備えていた。霊長園で造られ、畜生界から出たことのない磨弓にとっては、それは未知の世界の未知の言葉。初めて「おはなし」を聞かされた子供のように磨弓は、異世界の物語に惹かれていった……難しくて半分も理解できなかったけれど。
 それでも磨弓はエデン区画に足を運び続けた。熱心な学生が老教授の講義に足繁く通うように。畜生達が攻めてこない間はどうせ、することもなかったから。
 聴衆はいつでも彼女一人だったが、それがかえって気楽でさえあった。

「――であるから、この世界に存在する物質の間には互いに引き合う力……すなわち万有引力が働いている。これを発見し、理論化したのがアイザック・ニュートンという科学者だ。彼は木から落ちる林檎を見てその理論を思いついたと言われるが……ま、これは後世の創作だろう。とはいえ突如閃きのように理論を思いつくというのは、私にも覚えがある。真相は神のみぞ知る、というやつだな」
「あの」
「なにか質問かな、お嬢さんフロイライン
「えっと、リンゴ……とは、なんでしょうか?」

 おずおずと尋ねる磨弓に老人は思わず目を丸くしたが、すぐに優しい調子で答えた。

「くだものの一種だ。くだものはわかるかな」
「それは知っています。くだもの――果実とは植物の雌しべが成熟したもので、効率よく種子を散布するためにデザインされた器官の一種です」

 畜生界で生きるのに万有引力の法則を知っている必要はない。しかし人間霊の飼育には果実の知識はあったほうがいい。だがその果実が「りんご」なのか「ばなな」なのかは重要ではない。
 こんな物の覚え方は人間であればあり得ない。だが磨弓の知識は彼女自身の経験ではなく、埴安神袿姫の独断と偏見で取り込まれたものだ。それ故の奇妙なバランス。

「……ふむ、その理解には少し誤解があるね。確かに果実は種子散布のためによくデザインされているように見える・・・・・・。だがそれは自然淘汰と呼ばれる原理の中で、偶然そうした遺伝的形質を獲得したものが生き残ったに過ぎない。こうした考え方を広義に進化論と呼ぶ。チャールズ・ダーウィンが提唱した自然選択説という理論に基づき、あるいは反駁し、様々な研究がなされている分野だな。文字通りインテリジェントな神にデザインされた君からすれば奇妙に映るだろうが、ヒトを含むあらゆる生物の体内には遺伝子と呼ばれる微小なタンパク質の二重螺旋構造体が――」

 少年のように瞳を輝かせてそう語る老人は、もう磨弓の最初の質問のことなど忘れているようだった。もっともそうしたことはしばしばで、それを含めて磨弓は老人の講義を楽しんでいた。
 けれど一方、老人の講義を受ければ受けるほど磨弓の思考回路に積み上がる、一つの疑問。
 ある時彼女は、思い切ってそれを尋ねてみた。

「やあ、お嬢さん。今日はブレーズ・パスカルの話をしよう。『人間は考える葦である』という格言で有名な彼だが、一方では優れた自然科学者であった。特に『パスカルの原理』で知られる流体力学の基本原理によって流体、つまり水や大気と圧力の関係性を――」

 何の台本を見ることもなく滔々と語る老人の講義を遮るのは、磨弓にはひどく心苦しかったのだが、それでも手を挙げると老人は優しい目で言葉を止めた。

「どうぞ」
「……ずっと不思議だったんです。あなたは他の人間霊とは違う。この畜生界にいる人間霊たちは皆生前に罪を犯し、人よりも畜生であるとの裁きを受けてここへ堕ちてくる。ですがあなたには畜生らしい点が微塵も見当たらない。いったいあなたは……生前、なにをされていたんです? おそらく科学者という職業だったのだろう、とは思うのですが……あいにく、私が知る歴史はあなたから教わったことだけです。そこにあなたの功績はなかった。それとも隠していたんですか?」
「私は、これまで語って聞かせたような偉大なる先人たちの足元にも及ばないよ」

 悲しげに首を振る老人の儚い影。磨弓はもう質問したことを後悔し初めていた。だが時を遡ることはできない。あらゆる物体が光速度を超えられないのと同じように。

「私は……この大宇宙に満ちる偉大な法則の一部を人間のわかる言葉に翻訳しようと試みた、一人のしがない科学者に過ぎなかった。エネルギーは物体の質量かけることの光速度の二乗に等しい……と言ってもピンとこないだろう。君に聞かせなかったのは気恥ずかしかったのもあるが、単に難しすぎるという理由もあった」
「えっと……」
「その一端をものすごく噛み砕いて説明すれば、時間とは相対的なもので、それを観測するものの状態に影響を受けるということだ。辛くつまらない一分間は、一時間にも感じられるだろう? しかし素敵な人といる時間は、一時間でも一分のように感じられる。ちょっと違うが、そういうことだな」

 噛み砕かれてなお磨弓にはよくわからなかったが、それでも、彼の言葉は不思議と彼女の記録領域に深く刻み込まれた。しかしそのキャッシュメモリが再び読み込まれるのは、まだ遠い遠い未来の話。
 磨弓の様子を気にかけつつ、老人は言葉を続ける。

「それが私の功績の半分。そしてもう半分は私の罪だ。濯ぐことのできぬ私の罪なんだ」

 人工の風がエデン区画を撫でつけていく。磨弓の身につけたセラミックスの武装がガチャガチャと音を立て、満ちる静寂をかき乱す。

「私の若い頃、世界は大きく二つに別れていた。リベラリズムとか、ナショナリズムとか、我々はそう呼んでいた。まあ実際のとこそれらは烏合の衆で、目眩のするような個人という膨大な点の集積に過ぎなかったわけだが……とにかく私は科学者として、私を産み落とした民族と人類社会の恒久平和への忠誠心から、奇跡のような兵器の開発に尽力した。エネルギーは物体の質量かけることの光速度の二乗に等しい。それこそが世界を覆す宝箱を開く鍵だった。しかし……なんということはない、我々は尽きぬ絶望を封じたパンドラの匣を開けてしまったんだな。もっもと兵器に罪はなく、いつだって使う側の問題ではあるんだが……完璧な分別を備えた使い手など、きっとこの世には存在しない。私にはそれが見えていなかったんだよ」

 無言のまま、身じろぎもせず、磨弓は老人の講義に必死でついて行こうとする。これはきっと彼の最終講義だろうという予感が彼女にはあった。否、それはもはや講義ではなく、老人の独白となりつつあった。

「誇り高き忠誠心を胸に抱く者は時に、奇跡のような偉業をなしうる。だが、忠誠心とは遅効性の毒薬のようなものだ。強すぎるそれはやがて自分の頭で考える力を、つまり心そのものを溶かし尽くしてしまう」

 垂れ目がちな老人の瞳が、じっと磨弓を見つめる。彼女はたじろぐことも出来ず、ただ自分よりも遥かに儚く弱いはずの老いた人間霊の視線を受け、立ち尽くすことしか出来なかった。

「こんなこと君には話したくなかった。だが君たちは神への忠誠を旨とする兵士だという。であれば、知っておきなさい。この劇薬の効能について。私は夥しい数の症例を見てきたよ。忠誠心のために無辜を虐殺するを厭わぬ畜生となってしまった、ただの普通の人間たちの姿を。本当に嫌になるほどね。けれど……偉そうに言える立場じゃないな。なにせ私自身もその列に並んでしまったんだから」
「私は霊長園を護るために造られました。畜生たちとは違う。私たちはあなた方を護るために――」
「その使命が防衛か侵略かは重要じゃないんだよ、お嬢さん。問題は、それがメチルアルコールのように視力を奪ってしまうという点にある。陶酔の影に隠れてな。君たちはここを護る神様に忠誠を誓っているそうだが、同時にそれを恐るることを忘れてはいけない。でないと君たちは全ての権力と誇りを失い、暁には石と棒を持ちて戦うことになるだろう」

 老人の瞳に非難の色はない。あるとすればそれは、己の内に向けられたものだけだ。
 それでも磨弓はいたたまれない感情を吐き出すように、視線を外して呻くように問う。

「……わかりません。私は私の神に忠誠を誓うよう造られている。そんなことを言われても、いったいどうすれば? 私にはこの場であなたを切って捨て、その口を黙らせることが最良に思えてしまう。そういうように造られているんです。だって私たちは科学者じゃない、私たちは兵士です。私たちは袿姫様の兵器なんですよ。なのに、どうしろって言うんですか!?」

 声を荒らげ、震える手をセラミックス刀の柄にかける磨弓。
 それを責めることもなく、むしろ人生の岐路に立たされて思い悩む教え子を諭す教師のように、老人は優しく微笑み、答えた。

「人間もそう代わりはしない。我々もまた我々の神に従うよう創られている。重要なのは、疑問を持ち続けることだ。誰かに言われたことをそのまま信じるな。自分の心で考え、自分の心に従い決めなさい。どうか君が悔いの残らぬ選択をできるよう、祈っているよ」

 ……そして。

 磨弓の、そしておそらくは老人自身も予測していた通り、これが彼の最終講義となった。
 翌日、いつも通りにれの模造樹を訪れた磨弓は、セラミックスのベンチが寂しく佇む様を見かけた。その翌日も、さらに次の日も同じく。エデン区画はもう、もとのうら寂しい紛い物の楽園に戻っていた。

「ああ、あの人間霊ね。もう畜生界にはいないわよ」

 袿姫に尋ねると、彼女はあっさりと答えた。

「刑期が終わったのですか? でも、まだ来たばかりのはずですが」
「それがねぇ。あの人、どうも生前の功績を過少申告していたそうなのよ」
「え?」

 耳慣れない言葉の並びに磨弓が首を傾げる。袿姫も同様の感想らしかった。

「妙な話よね。罪を隠して罰から逃れようとする例は数あれど、功績を隠してより重い罰を受けようとするなんて……よっぽど自分の罪を悔やんでいたのかしら。米大陸担当の閻魔様もね、まさかあえて重い罰を受けようとするなんて初めてだったみたいで、そのまま畜生界送りにしてしまったみたい」
「はぁ……それで今は、どこへ?」
「さあね。ただ隠していた功績ってのが相当に莫大だったみたいで……私たちじゃあ足も踏み入れられないような、ずっとマシなところへ移送されたんじゃないかしら」
「そうですか」

 感情を欠いた磨弓の返事。埴輪を削っていた袿姫の手が、ふと止まる。

「それにしても珍しいわね。磨弓ちゃんが特定の人間霊に興味を示すなんて。なにかあったの?」
「いいえ。お仕事中に申し訳ありません。失礼いたします」

 正確に斜め45度で折り曲げられた磨弓の半身。その身を包む袿姫手製の神具が、かちゃり、美しい音を奏でた。


 ◯


「やった……ついに仕留めたわ……! 埴安神袿姫のでく人形をついに……!」

 夜雨に残響する八千慧の快哉。早鬼は俯いたまま黙し、美天は不安げに上司を見やる。

「あのぉ……本当にこれで良かったんでしょうか? いくら相手が心を持たない埴輪だからって――」
「美天。裏切り者のあなたを迎え入れてあげたのは誰?」

 ピシャリと鋭い声に美天が震えあがった。その瞳が、倒れ伏す埴輪兵団長の躯に向けられる。頭部が半ばから破壊され、そこに詰まった中枢思考回路が虹色のパーツを剥き出しにしている。
 彼女たち埴輪の「意識」はその全面を思考回路に依拠している。そのため、動物でいえばちょうど、頭を砕かれて脳みそが溢れかけている状況だ。

「うぅう……」

 こみ上げる吐き気に美天は口元を覆った。
 ただ八千慧だけが忌々しげに二人を見下ろす。

「まったくどいつもこいつも腑抜けた事ばかり……! 私たちは戦争をしてるのよ!? わかってるの!? 自らの組織への忠誠心ってものは、欠片ほどだって持ち合わせていないわけ!?」

 そう冷たく叫ぶ友人に対し、苦々しげに早鬼が呟いた。
 
「なあ、八千慧。たしかに私らは不死身に近い動物霊だ。けど、そんな無理ばっか続けてたらいつか心のほうが先に壊れちまうぞ」
「心なんて! あんたや饕餮のせいでねえ! 今や鬼傑組は畜生界最弱の組織に落ちぶれてんのよ! わかってるの!?」
「や、八千慧様、そんなに足抜け事件のことを気にして――」

 美天の余計な一言。ギリッと目をむいた八千慧が急降下し、その首元を締め上げる。

「かはっ――や、八千慧様っ、も、申し訳ありませんっ! 私そんな、かひゅ、ただ八千慧様が心配で――」
「おい八千慧よせっ! そいつは生身なんだ、死んじまうぞ!」
「五月蝿いのよ……みんなみんな頼りにならない……! 独りでだって生きてやる……! 私はっ……! 私の鬼傑組への忠誠はっ……! あんた達なんかにいッ……!」
「忠誠心は遅効性の毒薬」

 瞬間、三匹の畜生の間に割り込む澄んだ声音。
 ぎょっとして八千慧が振り返る。その先で、頭部を半ばから砕かれた少女が、死んだはずの人形が、万感の哀れみを込めた瞳でもって畜生共を見つめていた。

「強すぎるそれはやがて、心そのものを溶かし尽くしてしまう」

 反射的に締め上げる手を離し、響く八千慧の号令。

「打て! 美天、奴を殺せ!」

 美天もまた躊躇なく地を蹴り、確かに倒したはずの敵に得物を振るう。バキャ――と、再び響く音。ガラスのロッドの壊れる音。

「なんで――」

 いつの間にか止んだ雨。顔をのぞかせる月光にきらり輝く紅玉色の瞳が、そこに映るセラミックスの刀剣が振り抜かれるさまを、最後に見とめた。失われたはずの埴輪兵団長の懐刀。迫りくる拳。
 呆気にとられた八千慧と早鬼の直ぐ側を、ワイヤーアクションめいて吹き飛ばされた美天の体躯が通り抜けていった。そのまま一本のにれの樹に叩きつけられ、血反吐と共に猿神の身体が意識を吐き出す。だらりと弛緩する両手足。

「殺してはいない」

 死神のように酷薄な声音が、ついに八千慧を震わせた。抱え込んだ人質――メディを掴む両手にギリギリと力がこもる。

「忘れてるの!? こっちには人質が――」
「物々交換といきましょう、吉弔八千慧」
「は……」

 完全に会話のペースを握られたまま、八千慧は首肯くことも反駁することも出来ずに立ち尽くす。
 呆然として人形を抱きかかえるさまはむしろ、彼女こそが温室育ちの少女のようだった。

「孫美天に加えた一撃は致命傷じゃない。けれど、生身の彼女は手当を受けなければ死ぬでしょう。もしあなたがメディに傷ひとつでも付けたなら――その時は、私は終わらぬ宣戦を布告しなくちゃならない。手当などけして出来ぬように」
「そ、それが何よ……遊撃隊員は死ぬのが仕事なんだよ!」
「そう」
「むしろこの人形を今すぐバラバラにして、それからおまえを殺したらいいっ! いい気になるんじゃないよ! 交渉の鍵はずっと私の手元の中に……」

 八千慧の言葉を詰まらせる、揺るぎない黄金色の瞳。
 抑揚の殺された、凪の湖のように静かな返答。

「あ、そう」

 瞬間、八千慧は理解した。完全に。こいつはやると言ったらやる・・・・・・・・・! ヤケになったわけでもない、埴安神の忠誠のために見捨てるのとも違う、もっとどす黒い決意を八千慧は埴輪のがらんどうの瞳の中に見た。見てしまったのだ。

「なんでっ……! なんでなのよ!? 確かに思考回路を破壊したのに! そうしたらあんた達埴輪兵は死ぬんじゃないの!? 知ってるんだから全部っ! なのにあんたは……いったい何なのよっ!?」
「思考回路は所詮、拙い精神への補助輪に過ぎない。袿姫様が私に吹き込んでくれたもの、メディが私に教えてくれたもの――私は私の心に従う。あなた達と同じよ、畜生共」
「あぁああっ! 畜生っ! 畜生畜生畜生畜生畜生っ! 美天! この馬鹿っ! 情けなく伸びてんじゃあないわよ!」

 せめて負け惜しみを残すように人形を地に荒々しく投げ置くと、八千慧は背を向けて美天に跳んだ。そのまま、死ぬことが仕事のはずの遊撃隊員を抱きしめて、夜の闇の中へと消えていく。
 それから思い出したように磨弓が早鬼へと視線を移した。慧ノ子を連れてこなくてよかったと心より安堵しながらホールドアップする、黒翼のペガスス。

「また殺し合おう。次は勝つ」

 にっと口元を歪め、彼女もまた飛び去った。
 そして、静寂が戻った。

「……っは」

 震える息を吐きだし、磨弓は地に膝をつく。その衝撃で砕け折れるセラミックス刀。それは袿姫より下賜されたものではなく、磨弓自身のセラミックスボディから捻り出した模造品。
 それでも何とか立ち上がろうとするが、貧血を起こしたように磨弓は横倒しに倒れていく。傾いた視界。それと、耳鳴り。

――力を使いすぎた。それに、思考回路が束ねているのは思考だけじゃないわ。セラミックスのボディを維持するための代謝そのものが失われていくのがわかる……。

 今や片方だけになってしまった埴輪アイが火花を上げる。真夜中のはずなのに、白く染まっていく世界。駆け寄ってくる足音。聞き慣れた、少女の声。

「磨弓っ! どうして、なんで! わ、私なんかのためにっ!」
「ああ……メディ……よかった、無事だったのね……」

 残った力を振り絞る磨弓の指先を、震える少女の手が包み込む。なんて暖かなんだろう、と、埴輪兵団長はどこか安堵の気持ちで握り返した。

「メディ……ごめんなさい、私、あなたを傷つけてしまった……」
「ううんっいいの! もう喋らないで! 全部私のせいよ、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」

 人であれば涙の一つも流したことだろう。けれど何処までも彼女たちは人形で、けれど、磨弓にはもはやどうでも良かった。
 重要なのは、自分の心の有り様だけ。誰かに言われたことなんて信じない。信じてたまるものか。

「ねえ、メディ……」
「なに……もう喋ったらダメよ……!」
「私……あなたの友だちになりたい……友だち、いたこと無いから……それでね、もう一度二人で音楽を聞きに行きたい……そう、モーツァルトの協奏曲の、ええと……ねえ、メディ。こんな私でも許してくれる?」
「うんっ……うんっ……! もういいの、もう喋らなくていいから! わ、私、畜生界まで行ってくる! あなたの神様を呼んでくるわ! だからお願い、待ってて! 死なないで! こんなの嫌よ、嫌だよ、磨弓っ!」

 一言ごとに時が過ぎ去っていく。磨弓は奇妙な気分でその流るるを見つめていた。
 刹那のようでもあり、永遠のようでもある。フェムト秒の幻のようで、五劫の擦り切れよりも長く永く。
 ただ磨弓は、この瞬間が無限大に続けばいいのにと、そう願った。










【Epilogue】


「それで?」

 かちゃ、かちゃ、と軽い音が響く中、埴安神袿姫の項垂れたようなため息。
 全身を弄られる以上に磨弓は、なんとも居心地の悪い気分を覚えながら、それに応じた。

「そういうわけで、無事、帰還しました」
「文脈が抜けてる」

 ぺち、とセラミックスのおでこが叩かれる音。そこに傷は無く、わずかに残ったひび割れも大半が修復済みである。

「確かに好きにしなさいとは言ったけどねぇ……」
「あ、そういえば何故そのような命令を出されたのでしょう? 結局三組長の情報も、片手落ちになってしまいましたが……」
「なによ、まだ気がついてなかったの?」
「はぁ……」

 申し訳無さそうな磨弓の吐息。それを浴びた袿姫のハンマーの柄が、黒ずむ。まるで毒の霧でも浴びたかのように。

「どうするのよ、霊長園の警備」
「申し訳ありません……できる範囲で行います」
「できるわけ無いでしょう! 人間霊たちを全滅させる気!? あなたは当分、毒抜きに専念しなさい! あーあ、これがデトックス休暇ってやつかしら……」

 よくわからないことをブツブツ言いながらも、袿姫の表情は七割方安堵に占められている。もっとも磨弓はそれを見抜けない。高性能埴輪アイの調子もずっと悪いままだ。
 一方で、全身の感覚はむしろ前よりずっといい。力が漲る感じというのか。それは黒駒早鬼らを倒した時の感覚ともまた違う。実際、それらは全く異なる力なのだが。

「毒抜き……しても大丈夫なんでしょうか」
「少しずつやるしかない。鈴蘭の毒素によって補われてる身体機能を、一つずつ私の造形術に取り戻していくのよ……あーあ。いっそゼロから造り直した方が早いわ、これじゃ」
「そ、そんな! 袿姫様どうか、もう一度だけチャンスを!」
「……嫌味よ。それにもう、磨弓ちゃんを手放すわけにはいかなくなったから」
「はぁ」

 間の抜けた返事に、袿姫は肩をすくめる。「頭の出来はまだまだ改良の余地が有りそうね」とでも言いたげに。
 だがその代わり、袿姫は少しだけ優しい声音で答えた。

「なぜ、『好きにしなさい』なんて命令を出したのか……だったわね?」

 こくりと顎を引く磨弓。

「この間の生身の人間騒ぎ。それと、畜生共の地上進出。状況は刻一刻と動いている。たしかに今はまだ、私たちに優位があるけれど……それもいつまで保つかはわからないわ」
「理解できます」
「そう。だけど私の埴輪兵団には問題がある。心を持たないあなた達は結局、どこまでいっても私の命令に従うだけ。そうね、要するにそこには変化がない。だから私は変化を求めた」
「それと、いただいた命令と、なんの関係が」
「話は最後まで聞きなさい。はぁ、そういう落ち着かないところ、明らかに毒がまわってるわね……」
「すみません」
「話を戻すけど、私が求めたのは変化だった。でも私が手を加えるんじゃ状況は変わらない。だからね、磨弓ちゃん。あなたには自ら必要な能力を見極め、変化する機能を持ってほしかったの。それはきっと、心と呼ばれるモジュールなんだわ。ダーウィン流の進化論によれば、畜生たちが膨大な進化の歴史の中で身につけた最上の武器――ああごめんなさい。ダーウィンなんて教えてないから、知らないでしょう」
「自然選択説を提唱した人ですよね」

 思いもよらぬ返答に袿姫は瞳を丸くする。磨弓の苦笑。咳払いが一つ。

「その様子じゃあ、最低限の成果はあったみたいね」
「たぶん」
「たぶんなんて曖昧な返答をするようなら、期待大だわ。けれどその代償がこれか……毒で動く人形なんて、私の美学に反するってレベルじゃあないわよっ!」

 苛立たしげに叫ぶ袿姫の手に纏わりつく、紫苑色の毒の霧。それは他ならぬ磨弓の身体から漏れ出している。

――メディ。あなたの大変さ、少しわかったわ……今は会いに行けないけど、きっとまた地上に行くからね。

 あの時。メディを助けるためにすべての力を使い果たした磨弓は、本当ならそこで機能停止――すなわち、死ぬはずだった。ただの土くれの埴輪人形に戻るはずだった。
 そうならなかったのは奇跡的な症例、命なき人形から「心」を得た存在が、偶然にも近くにいたためだ。
 メディスン・メランコリー。毒で動く捨てられた人形。その毒が、磨弓の失われた機能を補った。ある意味で磨弓は、メディの友人を通り越して姉妹のような関係になってしまった。無名の丘の鈴蘭畑に育まれた、毒々しい愛娘たちに。
 袿姫が面白がらないはずだった。

「……はい、とりあえず今日の分は終わり。もういいわよ」
「ありがとうございます。でも、外に出たら人間霊たちを害してしまう。私は作業部屋に居ます」
「冗談じゃないわ。うるさいのが二人もいちゃ、作業にならないでしょう」
「え、二人……?」

 きょとんとする磨弓に、袿姫は部屋の扉を指差す。盗み聞きでもしていたのか、おずおずと響くノックの音。

「今朝、閻魔様から連絡が来たわ。いったいどんなルートでねじ込んだんだか……幻想郷って妙な連中ばっかり。もうやんなっちゃう」
「あの」
「何をしてるの? お客さんよ、磨弓ちゃん。出てあげて」
「は、はい」

 慌てて扉に駆け寄り、そして、彼女はセラミックスの自動扉に手をかざす。
 音もなく開かれる扉の向こう。もじもじと不安げな口元が、上目遣いの青い青いガラス球の瞳が、二人で選んだ白いワンピース姿の少女が、相好を崩した。その小さな手に大切に抱えられた、黒い円盤――

「お土産、持ってきたの。レコードって言うんだけど……」

 ああ――と、磨弓は思う。まったく、夢のような現実だわ!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 おわり
読んでいただきありがとうございます。
ひょうすべ
https://twitter.com/hyousubesube
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90福哭傀のクロ削除
ものすごく主観的な感想として
すごく好きな部分とあまり好きになれない部分が混在していて総合的には楽しめました。
心のない主人公が幼い少女との触れ合いで心を知る王道ストーリーですが、
王道はどれだけあっても困りませんね。
作者様のデート観が微笑ましくて好みでした
3.100ゆーなま削除
キャラクターどうしの掛け合い、特にやっちぇさんがとても良いキャラクターをしていたと思います。また作品全体のテーマが一貫していてとても読みやすかったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
5.100のくた削除
心を持っていく過程がとても良かったです 
ちょい出の皆さんも
6.100名前が無い程度の能力削除
磨弓とメディの心のふれあいを描いた作品なのですが、むしろ組長組の二人が生き生きしていたのが印象的でした。今度はこの二人の話を読んでみたいと思いました。面白かったです!
7.100東ノ目削除
人間が殆ど登場しない作品ながら人間賛歌の王道がこういうのでいいんだよこういうのでとなりました。あとアインシュタインの高潔さがカッコイイ
8.100名前が無い程度の能力削除
人形の空洞がどのように埋まるのか、友愛に収束する展開に胸が熱くなりました。面白かったです。
9.100夏後冬前削除
これむっちゃくちゃに面白くて物理書籍で欲しいと心底思いましたマジで
10.100南条削除
とても面白かったです
忠誠心しかなかった磨弓に宿ったあたらしい概念をうろたえつつも力に変えていく姿が素晴らしかったです
12.80名前が無い程度の能力削除
絢爛な文章で、特に中有の道楽団のライブあたりのシーンはミュージカルのような雰囲気さえ感じて素敵でした。徐々に心を得ようとしている磨弓と、徐々に心を失おうとしている八千慧の戦いを、(それこそアインシュタインが発したような)演劇的でない生の言葉でも読んでみたいと思いました。とても面白かったです。