祖父の死に際は惨めなもんだった。ナポレオンの軍勢をモスクワで迎え撃ち、アウステルリッツでも生き延びた歴戦の勇士だったはずの祖父が死ぬなんて――たぶん、彼自身が一番それを受け入れられてなかったように思う。
「光を! もっと光を入れてくれ! ああ奴が来る! 俺の魂を取り立てに来る!」
既に部屋ん中はペチカの赤い炎の光で満たされていた。外は猛吹雪で、これ以上の光なんざ取り込みようがない。
母さんは見るに堪えなかったのか、粥を温め直しに戻っていった。祖母が自分だって痛むはずの膝を折り、賢明に祖父の枯れた手を擦っていたが、はたして伝わっていたのかどうか。
俺のウォッカはとっくに空っぽになっていた。
その中で、悪霊に取り憑かれたような祖父の瞳は間違いなく、俺に向けられていた。
「お祖父さん、なにがそんなに怖いんだい。大陸軍を震え上がらせたあんたが、いったいなにを恐れるってんだい」
「光を入れてくれ……頼む、光を……」
耄碌した老人は答えない。白んだ両目もただこっちに向けられてるってだけで、俺の顔など見えちゃいないだろう。
だが――本当は俺は知っていたんだ。祖父を脅かすものの正体を。
ガキの頃、何度だってねだった祖父の戦場での武勇伝。そこに出てきたあいつだろう? そうなんだろう、お祖父さん。
――パレードが始まるの。
そいつは祖父がまだ帝国陸軍の一兵卒だったころの話だ(ちなみに最後まで一兵卒だった)。
サンクトピチルブールクだか、ヴァルシャヴァだか、とにかく残雪の白と腐葉土の色がまだら模様に残る森の中だったらしい。ほど近い河畔で所属していた小隊が奇襲を受け、祖父だけがそこへ逃げ込んだ。戦友はみんな死んだそうだ。
周囲ではまだフランス野郎共の軍靴の音。祖父の武装はフリントロック式の銃が一丁だけ。いわゆる絶対絶命な状況。
おまけに日は沈みかけていて、母なるロシアのあたたかな寒波ってやつが容赦なく祖父の命を刈り取ろうとしていた。
そんな折。
祖父は信じられないものを見た。
「あなたも一緒に来る? じき、日が沈むわ。私たちの時間が始まるわ」
金色の髪が美しい少女だった。
ありえない。祖父でなくとも、そう思っただろう。
そこは泣く子も撃ち殺すフランス国民軍が包囲する陸の孤島。もっとも近い村からだって半日はかかるような、つまらない場所のはず。
だが少女は小首をかしげると、木々の隙間から差し込むどす赤い夕日と同じ色の瞳でもって、祖父を見つめた。
「聖者は十字架に磔にされた。でも、そんな美しい生き様は聖者さんだけで十分。ね、あなたもパレードに加わらない? きっとこっちはあたたかいよ」
からからと唄うように笑う彼女は、見た目だけなら当時の俺の母さんとそう変わりないくらいの背丈と顔立ち。
だってのに、その時点でもう何人もフランス野郎を殺したはずの祖父は言葉を失い、怯えて茂みの中へと後ずさったという。
それはやはり、少女の真っ紅な双眸のせいもあったらしい。
……が、何よりも若い兵卒を怯えさせたのは、彼女の引き連れている「ものたち」だった。
毬のような真っ黒い物体がいくつもいくつも少女の背後に連なっていた。
祖父は「この世には完全な闇なんてもんはありえないんだ。神様が光あれと仰って以来、どんなところにも光は宿る」と訴えるように俺に聞かせた。その物体がこの世のものじゃあない、と言いたかったんだろう。それらはたしかに「物体」と呼ぶしかなかったが、一方で完全な暗闇に見えたという。まるで世界に穿たれた孔のように、まっくろい孔のように、そこには何もなかった。光さえもなかった。ただの一片も……。
「主イイスス・ハリストス、神の子よ、わ、われ、罪人を憐れみたまえ、主イイスス・ハリストスよ、かみのこよ……」
祖父はもう震えながら、母親の叱責を免れようとする子供のように頭を茂みに突っ込んで、気を失うまで祈りの言葉を唱えていたという。
「あれは死神だったんだ」
少なくとも祖父の考えではそういうことらしい。大陸軍に追い詰められた祖父の魂をご丁寧にも刈り取りに来たというわけだ。
しかし今や祖父は白髪と白髭を飽きるほど蓄えた老いぼれに過ぎず、少なくとも一般的な基準で言えば「安らかに」死に逝こうとしている。弾丸に頭を撃ち抜かれるでもなく、サーベルに胸を貫かれるでもなく、愛する妻や孫息子に見守られながら。
そしていよいようわ言が止まり、だらりと骨ばった腕が垂れ下がる時間になっても、死神はやってこなかった。ペチカの燃える炎の中、薪の弾ける音が相変わらずしていただけだ。
「……ふむ」
そして。
俺が長い昔話を終えると、そいつは瓶底みたいな丸メガネを直し、いかにも東洋人らしい思わせぶりな息を吐いた。
いい加減にケツの方が痛くなった俺が、リンカーンの写真の載った新聞の上に座り直す間、そいつは相変わらずの下手くそな英語で言う。
「私は清の生まれですが、幼い頃は日本の出島にいた事もあります。あの頃は良かった。まさかこんな遥か異国で傭兵となるなんて、思ってもみなかった」
「先に語ったのは俺だが、あんたの過去に興味はないよ」
「對不起。私が思い出したのは日本のフォークロアですね。そのブロンドのお嬢さんに関する伝承は知りませんが、かの国には『逢魔ヶ時』という言葉がありました」
「オーマガドキ?」
聞き慣れないジパングの言葉に俺は首を傾げる。まったく理解できないが、しかし、どことなく背筋を冷たくさせる響き。
結局どこの土地に行っても暮らしているのは人間で、恐ろしいと思う発音も似ているのかもしれない。
「ええ、逢魔ヶ時。つまり魔――イーヴィルに会う時間帯というわけです。それは昼と夜が混じり合う時間で、もっとも妖怪の力が強くなる時間でもある」
「ヨーカイ? さっきからチャイナ語ばかり話すなよ。下手くそなのはお互い様だ、イングリッシュで頼む」
「今のも日本の言葉ですよ」
「そんな後進国のことは、知らん。大ロシアの鼻先でうろちょろするだけの連中さ」
「後進国だからこそプリミティブな文化が残されてるんですよ。妖怪への造詣もそうです。訳としてはまあイーヴィルでもいいんですが、ゴーストとか、スペクターとか、モンスターとか、そんなようなものでしょうね」
「それで?」
「あなたのお祖父様が少女に出会ったのも、夕暮れ時だったのでしょう。つまり逢魔ヶ時に魔に逢ったのです。日本のフォークロアに従えば、そうなる」
「けっ……暗くなっても帰らない子はバーバヤガが迎えに来るぞ、か。なにも極東の島国の話を持ち出すまでもなかったろうが」
聞くだけ聞いて損した気分だ。どうも東洋人ってのは理屈っぽくていけない。金勘定にうるさいのも、同じこと。
対して俺たちロシア人はダメだな。何かに付けて大雑把で、いつも奪われるばかり。この自称「自由の国」に来たのだってそう。結局は、はした金のために命を投げ売りしただけだ。まあ、それが自由ってもんなのかもしれないが。
「……ところでなぜ、こんな話になったんでしたっけ?」
とはいえこの東洋人はマシだった。理屈っぽいが、少なくとも俺から金を巻き上げるような真似はしない。たぶんそれほど頭も良くなかろう。
そう思うと瓶底みたいなダサい眼鏡も愛嬌だ。
「慰めてやったんだよ。お前がギャーギャー喚くから」
「気は紛れましたが、慰めにはなりませんね」
「おまえの頭が悪いんだよチャイニーズ。この状況、そっくりだろ? 俺の祖父さんの話とさ。そして祖父さんはこの絶望的な窮地から生還したんだ、希望を持ってって話だろうが」
そう、まさに今の状況は祖父の話にそっくりだ。
違うのはここがロシアの残雪の森の中でなく、アメリカ大陸のどっかに位置するだだっぴろい野っぱらだってこと。
それと祖父の場合は部隊が全滅してやむを得ずだったが、俺とこの東洋人の場合は最初っから「捨て駒」でここに残されたってことくらいだ。
「死守しろったって、二人ぽっちでどうしろってんだかな」
「南軍の連中もきっと、こ、こんなつまらない場所には来ませんよね」
「たぶん――」
そう答えかけた俺の目にチラリと瞬く――閃光のような光。
そいつは一瞬で消えたが、ニ代前より続く一兵卒の誉高き血(皮肉だ)が俺の意識を叩き起こす。
「偵察兵だ! 伏せろ!」
遅かった。
パキッと軽い音が響き、東洋人の瓶底みたいな眼鏡が吹き飛ぶ。信じられないって目で倒れていくそいつを見捨て、俺は駆け出していた。
「畜生! 畜生畜生畜生! 何が死守だ! 何が自由だ! リンカーンのクソ野郎! ロシア帝国万歳! ツァーリ万歳だ畜生っ!」
悪態をクソのようにばら撒きながら俺は遮二無二走った。ツピン、ピィン、と偵察兵の追撃が頬を、ふくらはぎの直ぐ側を、傍らを死が駆け抜けていく。
そうだ、死神が少女の姿をしてるなんて馬鹿げてる。
途中で一度小石にけっつまずいて小銃を取り落とした。拾うなんて発想はなかった。とにかく死神から逃げたかった。だがアメリカ大陸のクソッタレな草原は母なるロシアのタイガよろしく永劫の地平線の彼方まで続いていたし、それだけじゃない。
遠くからラッパの音がした。黙示録のラッパじゃない。南軍の鼓笛隊が吹く現実のラッパの音だ。
「は、ははは……」
気づいた瞬間に力が抜けた。
何てことはない、あの偵察兵は俺たちに気が付きつつ追い越し、挟み込むように狙撃してきたんだ。
ようするに――どうあっても助からない。
汗と涙でぼろぼろになりながら俺はそう悟り、ふと気がつくと祖父と同じことをしていた。
「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみたまえ。主イイスス・ハリストスよ、神の子よ、我、罪人を憐れみたまえ。主イイスス・ハリストス……」
違うのは、俺には頭を突っ込む茂みさえ与えられてなかったってこと。
北アメリカ大陸の雄大な地平線に沈む夕日のクソみたいな赤の前じゃ、俺は丸裸だ。まるで世界っていうカンバスを物臭な神様が真紅の絵の具で塗りつぶしたような光景。
そこに穿たれた、いくつもの黒い孔。
「聖者は十字架に磔られました」
正気を取り戻すと、少女が俺を見下ろしていた。
金色の髪を風になびかせ、沈む夕日をステージに、口笛を吹く。その周囲や背後にふよふよと漂う、光を逃さぬ闇色の物体。
「助けてくれない聖者様より、愛しく深い闇がいい。ね、あなたもパレードに加わらない?」
俺の返事を気にせず、少女はくるりと背を向ける。沈む夕日の滲む赤、その中で、両手を広げた彼女の姿は黒い十字架のようでもある。
南軍のラッパはもう聞こえなくなっていた。皇帝も、自由も、どうでもよかった。
「待ってくれ!」
駆け出した俺を待つことなく、彼女は闇を引き連れてゆく。
ダメだ、ダメだダメだ行ってしまう! 俺はジャケットを慌ただしく脱ぎ捨て、サーベルをなげうち、追いすがろうと両足を動かす。自分の中にこんな力が眠っていたのかと驚きながら、ただ前へ進むことだけを志向する生命体のように走った。ママのボルシチの匂いを嗅いだ子供みたいに、遮二無二に。
「待ってくれ! 俺も連れて行ってくれ! 俺もその闇に加えてくれ!」
そして逢魔ヶ時の闇が来る。彼女たちの時間が来る。昼と夜が混じり合う。
いや、そうじゃない。
最後に俺は理解したんだ。
昼と夜が混じり合うんじゃない。夜が昼を塗りつぶすんだと。
聖者が十字架に磔にされたように――最後に満ちるはいつだって闇なんだから。
「ようこそ」
振り返った少女が、にっと笑った。
「光を! もっと光を入れてくれ! ああ奴が来る! 俺の魂を取り立てに来る!」
既に部屋ん中はペチカの赤い炎の光で満たされていた。外は猛吹雪で、これ以上の光なんざ取り込みようがない。
母さんは見るに堪えなかったのか、粥を温め直しに戻っていった。祖母が自分だって痛むはずの膝を折り、賢明に祖父の枯れた手を擦っていたが、はたして伝わっていたのかどうか。
俺のウォッカはとっくに空っぽになっていた。
その中で、悪霊に取り憑かれたような祖父の瞳は間違いなく、俺に向けられていた。
「お祖父さん、なにがそんなに怖いんだい。大陸軍を震え上がらせたあんたが、いったいなにを恐れるってんだい」
「光を入れてくれ……頼む、光を……」
耄碌した老人は答えない。白んだ両目もただこっちに向けられてるってだけで、俺の顔など見えちゃいないだろう。
だが――本当は俺は知っていたんだ。祖父を脅かすものの正体を。
ガキの頃、何度だってねだった祖父の戦場での武勇伝。そこに出てきたあいつだろう? そうなんだろう、お祖父さん。
――パレードが始まるの。
そいつは祖父がまだ帝国陸軍の一兵卒だったころの話だ(ちなみに最後まで一兵卒だった)。
サンクトピチルブールクだか、ヴァルシャヴァだか、とにかく残雪の白と腐葉土の色がまだら模様に残る森の中だったらしい。ほど近い河畔で所属していた小隊が奇襲を受け、祖父だけがそこへ逃げ込んだ。戦友はみんな死んだそうだ。
周囲ではまだフランス野郎共の軍靴の音。祖父の武装はフリントロック式の銃が一丁だけ。いわゆる絶対絶命な状況。
おまけに日は沈みかけていて、母なるロシアのあたたかな寒波ってやつが容赦なく祖父の命を刈り取ろうとしていた。
そんな折。
祖父は信じられないものを見た。
「あなたも一緒に来る? じき、日が沈むわ。私たちの時間が始まるわ」
金色の髪が美しい少女だった。
ありえない。祖父でなくとも、そう思っただろう。
そこは泣く子も撃ち殺すフランス国民軍が包囲する陸の孤島。もっとも近い村からだって半日はかかるような、つまらない場所のはず。
だが少女は小首をかしげると、木々の隙間から差し込むどす赤い夕日と同じ色の瞳でもって、祖父を見つめた。
「聖者は十字架に磔にされた。でも、そんな美しい生き様は聖者さんだけで十分。ね、あなたもパレードに加わらない? きっとこっちはあたたかいよ」
からからと唄うように笑う彼女は、見た目だけなら当時の俺の母さんとそう変わりないくらいの背丈と顔立ち。
だってのに、その時点でもう何人もフランス野郎を殺したはずの祖父は言葉を失い、怯えて茂みの中へと後ずさったという。
それはやはり、少女の真っ紅な双眸のせいもあったらしい。
……が、何よりも若い兵卒を怯えさせたのは、彼女の引き連れている「ものたち」だった。
毬のような真っ黒い物体がいくつもいくつも少女の背後に連なっていた。
祖父は「この世には完全な闇なんてもんはありえないんだ。神様が光あれと仰って以来、どんなところにも光は宿る」と訴えるように俺に聞かせた。その物体がこの世のものじゃあない、と言いたかったんだろう。それらはたしかに「物体」と呼ぶしかなかったが、一方で完全な暗闇に見えたという。まるで世界に穿たれた孔のように、まっくろい孔のように、そこには何もなかった。光さえもなかった。ただの一片も……。
「主イイスス・ハリストス、神の子よ、わ、われ、罪人を憐れみたまえ、主イイスス・ハリストスよ、かみのこよ……」
祖父はもう震えながら、母親の叱責を免れようとする子供のように頭を茂みに突っ込んで、気を失うまで祈りの言葉を唱えていたという。
「あれは死神だったんだ」
少なくとも祖父の考えではそういうことらしい。大陸軍に追い詰められた祖父の魂をご丁寧にも刈り取りに来たというわけだ。
しかし今や祖父は白髪と白髭を飽きるほど蓄えた老いぼれに過ぎず、少なくとも一般的な基準で言えば「安らかに」死に逝こうとしている。弾丸に頭を撃ち抜かれるでもなく、サーベルに胸を貫かれるでもなく、愛する妻や孫息子に見守られながら。
そしていよいようわ言が止まり、だらりと骨ばった腕が垂れ下がる時間になっても、死神はやってこなかった。ペチカの燃える炎の中、薪の弾ける音が相変わらずしていただけだ。
「……ふむ」
そして。
俺が長い昔話を終えると、そいつは瓶底みたいな丸メガネを直し、いかにも東洋人らしい思わせぶりな息を吐いた。
いい加減にケツの方が痛くなった俺が、リンカーンの写真の載った新聞の上に座り直す間、そいつは相変わらずの下手くそな英語で言う。
「私は清の生まれですが、幼い頃は日本の出島にいた事もあります。あの頃は良かった。まさかこんな遥か異国で傭兵となるなんて、思ってもみなかった」
「先に語ったのは俺だが、あんたの過去に興味はないよ」
「對不起。私が思い出したのは日本のフォークロアですね。そのブロンドのお嬢さんに関する伝承は知りませんが、かの国には『逢魔ヶ時』という言葉がありました」
「オーマガドキ?」
聞き慣れないジパングの言葉に俺は首を傾げる。まったく理解できないが、しかし、どことなく背筋を冷たくさせる響き。
結局どこの土地に行っても暮らしているのは人間で、恐ろしいと思う発音も似ているのかもしれない。
「ええ、逢魔ヶ時。つまり魔――イーヴィルに会う時間帯というわけです。それは昼と夜が混じり合う時間で、もっとも妖怪の力が強くなる時間でもある」
「ヨーカイ? さっきからチャイナ語ばかり話すなよ。下手くそなのはお互い様だ、イングリッシュで頼む」
「今のも日本の言葉ですよ」
「そんな後進国のことは、知らん。大ロシアの鼻先でうろちょろするだけの連中さ」
「後進国だからこそプリミティブな文化が残されてるんですよ。妖怪への造詣もそうです。訳としてはまあイーヴィルでもいいんですが、ゴーストとか、スペクターとか、モンスターとか、そんなようなものでしょうね」
「それで?」
「あなたのお祖父様が少女に出会ったのも、夕暮れ時だったのでしょう。つまり逢魔ヶ時に魔に逢ったのです。日本のフォークロアに従えば、そうなる」
「けっ……暗くなっても帰らない子はバーバヤガが迎えに来るぞ、か。なにも極東の島国の話を持ち出すまでもなかったろうが」
聞くだけ聞いて損した気分だ。どうも東洋人ってのは理屈っぽくていけない。金勘定にうるさいのも、同じこと。
対して俺たちロシア人はダメだな。何かに付けて大雑把で、いつも奪われるばかり。この自称「自由の国」に来たのだってそう。結局は、はした金のために命を投げ売りしただけだ。まあ、それが自由ってもんなのかもしれないが。
「……ところでなぜ、こんな話になったんでしたっけ?」
とはいえこの東洋人はマシだった。理屈っぽいが、少なくとも俺から金を巻き上げるような真似はしない。たぶんそれほど頭も良くなかろう。
そう思うと瓶底みたいなダサい眼鏡も愛嬌だ。
「慰めてやったんだよ。お前がギャーギャー喚くから」
「気は紛れましたが、慰めにはなりませんね」
「おまえの頭が悪いんだよチャイニーズ。この状況、そっくりだろ? 俺の祖父さんの話とさ。そして祖父さんはこの絶望的な窮地から生還したんだ、希望を持ってって話だろうが」
そう、まさに今の状況は祖父の話にそっくりだ。
違うのはここがロシアの残雪の森の中でなく、アメリカ大陸のどっかに位置するだだっぴろい野っぱらだってこと。
それと祖父の場合は部隊が全滅してやむを得ずだったが、俺とこの東洋人の場合は最初っから「捨て駒」でここに残されたってことくらいだ。
「死守しろったって、二人ぽっちでどうしろってんだかな」
「南軍の連中もきっと、こ、こんなつまらない場所には来ませんよね」
「たぶん――」
そう答えかけた俺の目にチラリと瞬く――閃光のような光。
そいつは一瞬で消えたが、ニ代前より続く一兵卒の誉高き血(皮肉だ)が俺の意識を叩き起こす。
「偵察兵だ! 伏せろ!」
遅かった。
パキッと軽い音が響き、東洋人の瓶底みたいな眼鏡が吹き飛ぶ。信じられないって目で倒れていくそいつを見捨て、俺は駆け出していた。
「畜生! 畜生畜生畜生! 何が死守だ! 何が自由だ! リンカーンのクソ野郎! ロシア帝国万歳! ツァーリ万歳だ畜生っ!」
悪態をクソのようにばら撒きながら俺は遮二無二走った。ツピン、ピィン、と偵察兵の追撃が頬を、ふくらはぎの直ぐ側を、傍らを死が駆け抜けていく。
そうだ、死神が少女の姿をしてるなんて馬鹿げてる。
途中で一度小石にけっつまずいて小銃を取り落とした。拾うなんて発想はなかった。とにかく死神から逃げたかった。だがアメリカ大陸のクソッタレな草原は母なるロシアのタイガよろしく永劫の地平線の彼方まで続いていたし、それだけじゃない。
遠くからラッパの音がした。黙示録のラッパじゃない。南軍の鼓笛隊が吹く現実のラッパの音だ。
「は、ははは……」
気づいた瞬間に力が抜けた。
何てことはない、あの偵察兵は俺たちに気が付きつつ追い越し、挟み込むように狙撃してきたんだ。
ようするに――どうあっても助からない。
汗と涙でぼろぼろになりながら俺はそう悟り、ふと気がつくと祖父と同じことをしていた。
「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみたまえ。主イイスス・ハリストスよ、神の子よ、我、罪人を憐れみたまえ。主イイスス・ハリストス……」
違うのは、俺には頭を突っ込む茂みさえ与えられてなかったってこと。
北アメリカ大陸の雄大な地平線に沈む夕日のクソみたいな赤の前じゃ、俺は丸裸だ。まるで世界っていうカンバスを物臭な神様が真紅の絵の具で塗りつぶしたような光景。
そこに穿たれた、いくつもの黒い孔。
「聖者は十字架に磔られました」
正気を取り戻すと、少女が俺を見下ろしていた。
金色の髪を風になびかせ、沈む夕日をステージに、口笛を吹く。その周囲や背後にふよふよと漂う、光を逃さぬ闇色の物体。
「助けてくれない聖者様より、愛しく深い闇がいい。ね、あなたもパレードに加わらない?」
俺の返事を気にせず、少女はくるりと背を向ける。沈む夕日の滲む赤、その中で、両手を広げた彼女の姿は黒い十字架のようでもある。
南軍のラッパはもう聞こえなくなっていた。皇帝も、自由も、どうでもよかった。
「待ってくれ!」
駆け出した俺を待つことなく、彼女は闇を引き連れてゆく。
ダメだ、ダメだダメだ行ってしまう! 俺はジャケットを慌ただしく脱ぎ捨て、サーベルをなげうち、追いすがろうと両足を動かす。自分の中にこんな力が眠っていたのかと驚きながら、ただ前へ進むことだけを志向する生命体のように走った。ママのボルシチの匂いを嗅いだ子供みたいに、遮二無二に。
「待ってくれ! 俺も連れて行ってくれ! 俺もその闇に加えてくれ!」
そして逢魔ヶ時の闇が来る。彼女たちの時間が来る。昼と夜が混じり合う。
いや、そうじゃない。
最後に俺は理解したんだ。
昼と夜が混じり合うんじゃない。夜が昼を塗りつぶすんだと。
聖者が十字架に磔にされたように――最後に満ちるはいつだって闇なんだから。
「ようこそ」
振り返った少女が、にっと笑った。
物語全体として雰囲気がまとまっていて
作者様の描きたいところはなんとなくわかったような気がします
極限状態に妖怪を見る、という古典中の古典もこういう表現をされるととても新鮮に感じました
Win版の先頭を担うルーミアがパレードを引き連れていく姿にしびれました
なぜか読後に爽やかな気分を味わえました。面白かったです。