過去から今へ、そして未来へと流れていく一本のまっすぐな線がある。
白い画用紙に引かれた、穢れなきホワイトボードに引かれた、打ち壊された嘆きの壁に引かれた、天地開闢の光の中に引かれた、一本の線。
私の瞳は、境界を見破る私の瞳は、そこに関所を見つける。くぐり抜けられない扉を見つける。
今と、過去。二つの世界に横たわるそれは思い出という名の扉。思い出という境界線。
例え神でさえ、その線を超えることは叶わない。
◯
あ
始まりは、真夏の暑い日。
久しぶりのお家デートだというのに、私たちの空気は悪かった。
もっとも外はさらに地獄で、窓ガラスという境界を超えるのもまた能わない。
青息吐息で冷風を吐き出すエアコンの駆動音。その恩寵の下で私たちは、このシェアハウスに一つしか無い、フリマアプリで買い叩いた壊れかけのテレビジョンを奪い合っていた。
「ねえ、そろそろチャンネル変えていい?」
そう、いつだって最初は穏やかに始まる。私の抗議はピアニシモ。不満はいつでも丁寧に、それとなく提示するのが私のポリシー。
でも私はオペラ歌手のような声量を持ってはいないし、決まって蓮子に無視される。
なにせテレビが吐き出すのはいつだって、どこどこの首相が不正をした、とか。どこどこの国で戦争が続いている、とか。能面のような顔のアナウンサーが淡々と読み上げるニュースは尽く暗澹憂鬱。耳から毒気を流し込まれている気分になる。だってのに、蓮子は身じろぎもせずに世界の悲惨さから目を背けない。
それはいいことだろう。だけど私は、せっかく二人揃っての休日なんだから、互いの事以外は考えずに過ごしたかった。この今をゆっくり過ごしたかったのに。
「ねえ、蓮子」
「ん」
「ん、じゃなくて……」
「んー」
「チャンネル、変えてよ。ニュースなんて暗い話ばっかり。ていうかもう消してよ!」
「わかった、わかった」
蓮子は握りしめたテレビのリモコンを手放さない。この顔は「めんどくさいし努めて無視」の顔。
はあ、もう。議会も開かず権利を行使するなんて横暴だ。ボストンの自由の子らも呆れ顔。
だから私の抗議も徐々に勢いを増し、メゾフォルテ、フォルテ、やがてフォルテシモに至り、蓮子の境地もまた無我に至る。
「ねえ蓮子! テレビは共有財産って最初に取り決めたでしょ!? 約束守らないなら、テレビ、買わなきゃよかった! なにが『この時代だからこそテレビ』よ! また蓮子に騙された!」
「うんうん、もうちょっとだから」
「ニュースにもうちょっともクソもない!」
「あーほらクソとか言わないで。私の彼女はきちゃない言葉使わないから」
「蓮子!!」
ああ言えばこう言う。蓮子は頭がいいから、というか基本的に自分の思考と思想を譲る気がないから、いつもこうなる。
そのうえ何が苛つくって、ニュースをひたすら見続ける好奇心とリモコンを手放さない自我の強さは、結局は、蓮子の美徳の裏返しだってこと。
危険も顧みず、秘封倶楽部の活動に瞳を輝かせる蓮子を受け入れるなら、このぐうたらな蓮子もまた愛さなければいけない……のだろうか?
「あーもう! 久々に二人での~んびりできると思ったのに!」
「してるじゃない、のんびり。メリーも好きなことしてていいのよ」
「テレビ見ながらなんて嫌! 二人だけで過ごしたいの!」
「退屈じゃない、だって。目的もなく快楽だけを追い続けて、明日になったら忘れてしまう。そんなのつまらないでしょ」
「だからってなにも、ニュースなんかかけなくっても」
「情報とは人類の過去の集積、つまり力よ。この不確定な時代を生き残るには日頃から力をつけないとね」
「あっそ……力をつけたきゃ筋トレでもしてたら」
蓮子はいつもこうだ。
合理主義。そして功利主義。最大多数の最大幸福。
たしかに、私の好きなことへ蓮子が無理に合わせれば幸福の和は一。けれど二人がべつべつに好きなことをするなら、総和はその倍。ベンサムもびっくりの単純計算。けれど恋愛の感情は効用の勘定だけじゃ回せないって、蓮子はちゃんと気がついてるのかしら?
もちろん蓮子のことはずっと変わらず大好きだけど、一緒に暮らすということは、相手の嫌な部分をも受け入れるってこと。
受け入れるのは……構わない。それもまた蓮子という人間。
でも、時々怖くなる。どこまでも合理的なあなたは……もし私がいなくなった時、いったいどんな反応を示すんだろう?
泣いて欲しいとは言わない。でも、「別れた人間のことで哀しむのは時間の無駄ね」とかなんとか言って、さっさと次の人を見つけてしまうんじゃないの?
ソファに身を預ける蓮子の肩にさりげなく、もたれかかってみる。蓮子のにおいがする。でも、彼女は食い入るようにテレビを見つめたまま、目を見開き、閉じ忘れたかのように口を開いている……。
「蓮子?」
妙な気配の揺らぎを感じて、蓮子を見上げた。それから私もテレビ画面を見やった。
ヘリか、あるいはドローンでの空撮映像だろう。私は一瞬、そこが草原かと思った。モンゴルかどこかの、雄大な緑の野っ原。だって画面には青緑色の絨毯が広がっていたから。しかしよく見ると波立っていて、それが海だと気がつく。
アナウンサーがどこかの貿易会社の名前を読み上げる。ついで人間の名前を告げていく。
映像が切り替わり、海面がアップになる。砕けては一瞬に消えていく波がよく見えるようになった。その合間で揺れる赤色の物体。なにかの動物を模したぬいぐるみ。それと、
「え? なに、あれ?」
思わず声がでた。
白い鯨の死骸……そんな風に見えたのは、だぼっとした服を波間に揺らめかせる、人間の、女の子。
まさか水死体……と思って目をこすると、もう人影は消えていた。倫理観がとても高くていらっしゃるテレビ局の方も、変わらず同じ映像を垂れ流していた。
じゃあやっぱり気のせい?
『――沖で転覆したと見られる――号は未だ発見されておらず、残骸の回収が――』
映像から響くプロペラの爆音がうるさくって、アナウンサーの声は途切れ途切れにしか聞き取れなかった。とはいえ波間に消えた少女に気がついた様子はない。
いや、そもそもそんなものは映らなかったんだろう。きっと積荷の布かなにかを見間違えたんだ。馬鹿馬鹿しい。
『なお、日本人の乗船は現在確認されていません。少なくとも――』
それにしてもこの手のニュースって、どうしてまず日本人の安否から気にするのだろう。もし私が読み上げられる時は日本人の枠に入るのだろうか? それとも異国の誰かさんとして後回しにされるのだろうか。
私のアイデンティティの半分は日本の地にある。しかし水を浴びせられるのはいつだって突然だ。民族性の境界は時に国境よりもグロテスクに人と人とを切り分ける。
とはいえ。
たしかに悲惨だが特筆すべきニュースという程でもない。もちろん悲劇は悲劇としてそこにあり、本来無視するべきではないにしても……モニター越しの死に入れ込むには、私たちの主観はあまりにも頼りない。
なのに。
なのに蓮子の顔は酷く青ざめて。手が震え、汗ばんでいる。
「蓮子?」
「ん……」
「どうしたの? まさか……知り合いが乗ってるとか?」
「そうじゃ……ないけど……」
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
「ご、ごめん……ちょっと休む」
まるで、ちらつく旧式のテレビ画面が蓮子の生気を吸い取ってしまったかのよう。
ふらふらと幽鬼のように立ち上がり、自室へと消えていく蓮子。
パタリ、扉が閉まった。
私はと言えば、あまりに突然のことに脳みその理解が追いつかない。慌てて追いかけても、蓮子の部屋に続く真っ黒い扉は閉ざされていた。
以前に私が繕った「蓮子のおへや」というファンシーな木製看板が、ゆらりゆらり、虚しく揺れている。
「蓮子? 体調、悪いの?」
こん、こん、こん。
返事はない。ドアノブに手をかけると、がちゃりと冷たい手応え。
そう、私たちは同じ空間で過ごしているが、しかし同棲ともまた違う。いわゆるシェアハウス。互いの部屋は別々で、合鍵も作ってない。
「恋人同士でもさ、プライバシーとプライベートは守られるべきだと思うのよ」
そう発案したのは蓮子だ。私は同じ部屋でもよかったけど、蓮子はついに譲らなかった。たぶんそれで良かったんだと思う。いくら愛していようとも時には、顔を合わせたくない日だってある。そんな憂鬱な日に部屋が一つしか無ければ残酷だ。人間は一人で生きるには脆すぎるが、二人で過ごすのも容易ではない。面倒な生き物。
けれど……ここまで一方的な拒絶は初めてのこと。正直私は面食らっていた。あんなにも弱々しい蓮子は見たことがない。まるで別人だ。しかもなんの前触れもなく、いきなりなんて。
「ごめんね、メリー……」
扉の奥からか細い声が響く。見えるわけ無いと知りつつかぶりを振る私。
「大丈夫、大丈夫だから。辛かったら無理に話さなくていいし、一人になりたかったら――」
「思い出しちゃったの」
「え?」
「さっきのニュースを見て、思い出しちゃって。事故のこと……」
海難事故のニュースのことだろうか。思い出す、なにを? 考えてもわからない私は、辛抱強く蓮子の言葉に耳を傾けるしかできない。
しばし、長い沈黙があった。
もう語ることをやめてしまったのだろうかと思うと、再び蓮子のきれぎれの言葉。
「昔ね、まだメリーと会う前」
「うん」
「船に乗ったの。恋人と一緒に」
「こ……」
こいびと。私がその言葉を理解しようと、咀嚼しようと努めている間、蓮子の言葉は続く。
「きれいな海だった。きれいで、でも、怖くって」
「う、うん」
「そして沈んでしまった」
「……え?」
「沈んでしまったの」
情報の過剰投入。私の頭は既にパニック状態。蓮子の昔の、私とは違う、恋人。その彼女――彼? わからないけどとにかくそいつと、蓮子は船に乗っていた。そして事故にあった? あのニュースで報じられていた船のように?
もちろん聞いたこと無い、そんな話。まあ蓮子は美人だし、ちょっと変人だけど、私以前に恋人の一人や二人いたっておかしくない。それはいいの。ほんとに。
けれどそんな大きな事故に巻き込まれてたなんて過去、初耳だ。蓮子の知られざる傷痕。身構えてなぞいなかった私は、もうすっかり動転してしまって、どっどっと胸の鼓動が早鐘を打つ。
ただ一方で――脳みそとは不思議な器官。泡を食ってる私の裏で、どこか冷静に違和感を訴える私がいる。
蓮子はあの海難事故を見て過去を思い出した。それは理解できる。けれど前に私と『タイタニック』を見た時は、途中からいびきをかくくらい退屈してたじゃない。
混乱する私、冷静な私、とはいえ生物は危機への対処を優先するよう進化してしまった。延焼する野火は瞬く間に脳裏を焼き尽くし、違和感もまた灰に帰る。
ようするに……頭の中がまとまらない。上滑りする現実の中、蓮子の声だけが訥々と響いてく。
「みんな沈んでしまった。あの人も、私も……」
「で、で、でも、蓮子は生きてる」
「私は生きてる」
「そうよ、あなたは生きてるじゃない」
「私だけが助かったんだ」
「あ……」
瞬間、扉の向こうでさらにもう一枚の戸が閉まるのがわかった。蓮子の心の扉が。
未練がましいとわかっていても、私はつい口を開いてしまう。
「夕飯、どうする……」
答えはなかったし、いっそう虚しくなっただけだ。
◯
私の瞳は境界を見る。
それは持って生まれた才能で、いわゆるギフテッドなのかもしれないが、べつに嬉しくはない。昆虫や鳥類が紫外線や赤外線を見分けられるのと同じこと。しかし彼らのように生存活動に繋がるわけでもないので、正直、宝の持ち腐れと言うほかない。
ただ、まあ、そのおかげで私には、人や物が持つ「領分」とでも言うべきものが他者よりくっきり理解できた。
国境は国と国の領分を規定している。県境は県と県の領分を規定している(ここは府だけど)。それと同じことで、人間一人一人にも己の領分というものがある。
例えばパーソナルスペース。一般的には公衆距離、社会距離、個体距離、密接距離の四種で区切ることが可能らしいが、実際にはもっと複雑だ。
特に蓮子は神経質なので、半径ニメートル以内に人が入るとそれだけで苛立つ。これは通常の個体距離よりかなり広い。しかも面倒なことにそういう感覚を「他人も同じだ」と思い込んでいる。一方で私は身体的距離をあまり気にしない。だから他人が間近にいても全然気にならないのだけど、それを見るだけで蓮子はめちゃくちゃに嫌そうな顔をする。
とはいえ。
ビザとパスポートがあれば(基本的には)国境を超えられるように、人間の身体的境界も絶対のものじゃない。越えようと思えば乗り越えることは可能だ。それをしたいかは別として。
【@usausami : 昨日はごめん】
自分のベッドで目を覚ますと、もう12時を回っていた。昨日あんなことがあってよく眠れるものだと我ながら思う。基本的に私は図太いらしい。
蓮子からのメッセージはシンプルで、それがかえって不穏だった。喧嘩した次の日の蓮子のメッセージはもっとこう、なんというか……めんどくさい。
こんな風にしおらしい謝罪は蓮子らしくない。よっぽど参ってるのか。
そもそも昨日のは喧嘩じゃない。蓮子が一方的に閉じこもってしまっただけで。
もう……落ち着いただろうか? そう期待して部屋を出たが、向かいの扉はなお閉ざされていた。もっと言えば、家からは人一人分の気配しかしなかった。蓮子の子供っぽいローファーが玄関から消えていた。
【@MarYbel : いまどこにいるの?】
蓮子のメッセージは明朝六時ごろだったし返信は期待薄。
かと思っていたら、しゅぽん、という間抜けな音と共に即レスが返った。
【@usausami : もうすぐあの人の命日だから】
【@MarYbel : 前の恋人の?】
【@usausami : うん】
【@MarYbel : 私も一緒にいったらダメ?】
少し斬り込みすぎたかな、と思えば案の定で、
【@usausami : ごめん】
とそっけない返信。謝られたって困る。蓮子の説明不足は今に始まったことじゃないけど、それは単にめんどくさがってるだけで、こういうのじゃない。
私には今、携帯端末越しだというのに境界が見えていた。私と蓮子を隔てる境界。拒絶の境い目。冷たい鉄格子に向けて叫んでいるような気分。
昨日まであんなに近くにいた蓮子が、急速に、どこか知らないところへ遠ざかっていく感覚。境界の向こうへ掠れてしまう蓮子の背中。
普段なら、境界を超えてしまうのは私の役割なのに。それで、ああ……蓮子もいつも、こんな気分だったんだろうかと夢想する。いいや、怪しいものだな。
【@MarYbel : 命日って、去年は行かなかったよね?】
【@usausami : 忘れてた】
【@MarYbel : 嘘でしょ】
【@usausami : 嘘じゃない】
【@MarYbel : 急に思い出したってこと?】
【@usausami : そう】
しゅぽん、しゅぽん、しゅぽん。互いの顔の見えない会話は、奇妙にも肉声を介するより素早く進んでいた。
が、蓮子のほうが急につんのめる。十秒、二十秒とレス無し。面と向かっての会話ならちょうど、考えあぐねて蓮子の瞳が泳いでる頃合いだろうか。
なんて、いつも通りの光景もどこか懐かしく感じてしまう。
しゅぽん。
【@usausami : なんで忘れてたんだろう?】
知るもんか。
それっきり蓮子は黙ってしまった。既読もつかない会話文を送り込むのもいい加減に疲れて、私は自分のベッドに逃げ込んだ。
わけがわからない。
それが率直な感想。急に昔の恋人の話をしだして、対話拒否したまま家出とは……普通なら破局モノの対応な気がするが、狐につままれたような感覚の方が強くって怒りが湧いてこない。ただ、私たちの関係とか日常とか平和とかってこんな簡単に壊れるんだな……って、そういう虚しさだけが渦巻いて。
「前の恋人かぁ……」
どんな人だったんだろう。女か男かすらわからないけど、あの蓮子がここまで必死になるということはよっぽどの大恋愛だったに決まってる。
そう、これは一種のリストカットだ。
要らぬことを考えて、痛みを感じて、血を流して、それで「ほら、私はちゃんと蓮子のことが好きなんだ」と確認するための儀式。刃を入れるのが腕から心になっただけ。
それでとりあえず言えることは、あの破天荒な蓮子に我慢できる時点で相当な人格者ってこと。あるいは私のように度を超えてぼーっとしているか。
いや、と私は自分の考えを打ち消す。
そもそも昔の蓮子と今の蓮子が同じである保証はない。私は蓮子の一側面しか知らない。ほんの少し前に大学で出会ったばかりなんだから。
それはなんの変哲もない事実というやつで、私たちは生まれも育ちもぜんぜん違う。肌の色も違うし、目の色も、髪の色も違う。
けれど……もしかしたらその前の恋人は、私の知らない蓮子をたくさん知っていたかもしれない。私が二度と見ることの叶わない蓮子の過ぎ去った一分一秒を共に過ごした、蓮子の持つ過去を知っている誰か。思い出の境界線の向こう側、私ですら踏み込めない心の絶対不可侵区域に潜む影。
……途端、破滅的なジェラシーと吐き気が込み上がる。右手の爪を総出で左手首に食い込ませ、なんとか冷静な意識を保持。
まったく、恋とか愛とかいう感情は実にへんてこだな。私は蓮子のことをちっとも知らないのに、一方じゃ今後何十年も一緒にいたいと思ったりする。フェニルエチルアミンとオキシトシンのタップダンスに巻き込まれ、永遠無限に苦悩する私たち。
「……蓮子のバカ」
そうわかっていても、わかっているのに、わかっているから……悔しかった。蓮子は私の一番大切な人なのに。なのに、蓮子にとって私は一番じゃないの?
手首に立てた爪が食い込みすぎて、血がにじみ始める。
まったく部屋を別々にしておいてよかった、と思う。別れていて尚、ここには蓮子との日々が染み付きすぎている。息が詰まる。あっという間にもう限界なんだ。このままだと私は――蓮子のことを嫌いになってしまう。呆気なく。ひと目見て恋に落ちることがあるように、たった一瞬のうちに誰かを嫌いになることだってまたありえる。
でも、それは嫌だから。こんなわけのわからないまま蓮子との関係が壊れてしまうなんて嫌だから。
私は取るものも取らず支度を済ませ、日常の境界を飛び出した。正しくは、逃げ出した。外は真夏の炎天下。それがかえって心地よかった。
◯
「共に暮らす」とは不思議なもので、暮らす相手のことはなんでも理解できるような気分になる。
好きな食べ物、洗濯物の干し方、どれくらいの頻度で部屋を片付けるのか、許容できる清潔感、深夜に出す物音の量、朝昼晩の生活リズム、エトセトラエトセトラ……。
一方でそれらは断片に過ぎない。眩い朝の結露が地球上の水分のごくごく一部に過ぎないのと似ている。日常生活に付随する僅かな「人となり」への理解は、とどのつまり共同生活を円滑に進めるため以上のものではなくて……ようするに私は、蓮子のことをちっとも知らなかった。
その結果として私は、百年以上前から代わり映えのしてなさそうな京阪本線にがたごと揺られている。
車窓に流れゆく、真夏の京都のトゲトゲした町並み。
ちなみにトゲトゲとは物理的な外観についての話。京阪本線とは違って建築の進歩(というより流行の刷新)は凄まじい。黙示録の塩の柱めいて屹立するのっぺらい先端ビル群。先端は最先端の意なのだろうが、はっきり言って尖端の方が似合っている見た目だ。そこに押し込められた何百何千何万という生活の境界が、ほんの数秒のうちにゆきゆきては消えてゆく。彼らのことを理解することはできないし、したいとも思わない。私が知りたいのは蓮子のことだけだ。初めてあの子に出会った時から今日の日まで、きっと、ずっと。
ただ難点は、宇佐見蓮子という人間がめったに人に素顔を見せないということだった。
「はぁ……」
もしも立場が逆だったら話は早い。蓮子は私の友達を何人かつかまえて話を聞くだけで良い。「ああメリー? あいついっつも宇佐見蓮子ってやつの惚気ばっかしてるよ。え、あんたが蓮子?」って、同じ研究室のAちゃんやらFちゃんやらが喜んで教えてくれるだろう。
残念ながら蓮子にそういう友人はいない。少なくとも聞いたことはない。そりゃまあ元カノ(カレ?)と海難事故に会ってたなんて知られざる一面もあるらしいけど、これは間違いない。だってキャンパスを歩く時の蓮子は、というか私と二人きりじゃない時の蓮子はいつでも、「なによ私になんか文句ある?」ってギラギラした目を世界に向けている。あれで友達ができるとも思えない。
そう、だから。
宇佐見蓮子という人間のことを知るために私は、京都で最も古い歴史を持つ我らがウニベルシタスの、そのさらに奥底へと潜り込まねばならなかった。
こん、こん、こん。
ノックの音が軽く廊下に響く。今じゃめっきり見かけなくなったリノリウム材の床に、よくまあ電流規格が合うもんだと思える古めかしい蛍光灯がちらつく中、私の相対する真紅の扉は明らかに異様なオーラ(あるいは異物感)を纏っていた。ドアプレートに印字された「超統一物理学研究室」の厳しい文字列が赤い配色となんともアンバランス。
そうしてぽーっと待っていたけれど、返事はない。もう一度ノックしようとして、後ろから声がかかった。
「あんた学部生?」
「ひゅい!?」
素っ頓狂な声を上げて振り返ると、セーラー服姿の女性が訝しげに見つめていた。この人こそ高校生かなんかじゃないの……と思いつつ、私は頷く。ため息が返った。
「なんの用事か知らないが、教授に会おうってんならやめときな。学部生じゃあトラウマになるぜ。それか新歓でカルトサークルに引っかかった奴みたいになるぜ」
「あ、あの、宇佐見蓮子って子の……友達、なんですけど……」
「宇佐見? ああ、知ってるよ。学部生なのに教授と"会話"できる奴なんて珍しいからな。伝言なら聞いとくぜ」
「い、いえその……岡崎教授ってそんなに怖い方なんですか?」
曰く、岡崎研究室にだけは近づくな。この大学に入って真っ先に教わった警句の一つ。
おそらく教授の助手なんだろう女性もそれを心得てるのか、困ったように言葉を濁す。
「まあ怖いっつーか……頭おかしいっていうか……」
「え……で、でもどうしても会いたいんです! 急な用事でアポも取れなくて……お願いします!」
「なんか切羽詰まってんね。まあいいや。どうせあの人暇だろうから、会ってみるか? いざとなったらパイプ椅子でぶん殴ればいいし」
さらりと物騒なことを言ってのけ、助手さんはガンガンと遠慮もなく扉を叩く。
ああもう帰りたい。でもこれも蓮子のためだ、蓮子のため、蓮子のため、蓮子のため蓮子のため蓮子のため……。
「教授! 客だぜ! いるんだろおい!」
ていうかこの人、本当に助手なんだろうか? 借金の取り立て人かなんかじゃないの? そう思うくらいドアを叩く拳には恨みが乗っている。
そして、既に警句を無視したことを後悔し始めている私の眼前で、真紅の扉がゆっくりと開いた。昨今の地獄の入り口は自動扉らしかった。
「ほら、学部生に悪影響が出るとさ、学事から苦情来るんだよ。おまえもほどほどで切り上げろよ」
もはや優しいんだかなんだかわからない助手さんの言葉を背に受け、私は研究室へ踏み入れる。その先で待っているのは阿鼻叫喚か、血の池地獄か……そう身構える私の視界に広がったのは、案外、普通の研究室だった。全体的に赤色で統一された家具類は確かに目を引くが、それぞれがしっかり調和しており、この部屋の主のセンスの良さを伺わせる。ソファの上に並べられた苺柄のクッションが可愛らしかった。
ただ唯一、執務椅子に腰掛けた異常格好の人物を別にすれば、だが。
「あ、あの……」
魔術師のような赤い衣装を纏うその人物は、魔改造されたヘッドマウントディスプレイのような装置を被り、時折楽しげに口元を歪めている。装置からは色とりどりのコードが伸び、唸りを上げるサーバ群へと接続されていた。その隣のディスプレイ上で、無数のシェルウィンドウが津波のような文字列を吐き出し続けている。
「えっと……」
側で突っ立ってる私に気がついてないんだろうか。待てど暮らせど岡崎教授(推定)が現実に戻ってくる気配はない。それで仕方なく、岡崎研究室にまつわる第二の警句を実践することにした。
「これ、つまらないものなんですけど……苺のケーキです」
その瞬間、岡崎教授の雰囲気が目に見えて変わる。眼前に横たわっていた対話拒否の境界がくにゃりと歪んだ。
曰く、岡崎研究室に行かねばならぬ時は苺のケーキを持っていけ。偏食の豫母都志許売でも出るんだろうかと思ったが、効果は覿面だった。共有知バンザイ。
そして無造作に脱がれた装置の下は幸いちゃんと人間で、まつげの長い瞳が助手さんをキッと睨むと、静かでありつつも鋭い声が命じた。
「ちゆり。お客様が立ったままじゃない。椅子を持ってきなさい」
返答の代わり、助手あらためちゆりさんがパイプ椅子を運んでくる。なんだか申し訳ない気持ちで腰掛けると既に、教授は私の持ってきたケーキ屋の袋を手にしていた。いつの間に?
「あ、えと、いちおう駅前『ショコラ』のデラックス苺スイートです。お口にあえば幸いなんですけど」
「一日20個限定のやつ!?」
「え、あ、はい」
「ちゆりこのバカっ! 大切なお客様をパイプ椅子なんかに座らせてんじゃあない!」
「ダイジョブです! パイプ椅子でダイジョウブです! そ、それよりご相談があるんですけど!」
「……その謙虚さ、素敵ね。聞きましょう」
どっと疲れた。物理学の方面では本当に凄い方らしいけど……しかし、この人といつも話してるという蓮子も蓮子で侮れない。さすがは自称プランク並の知能、ということにしてあげよう。そういう問題でもない気がするが。
「……ふむ。宇佐見蓮子について知りたい、と」
それで、私が一通りのいきさつ(半ば痴話喧嘩めいているが、真面目に聞いてくれた)を話し終えると、教授は神妙に息を漏らした。ごくり、私が間抜けに息を呑む音。
「はじめに言っておくけど、私も担当教員として以上のことは知らないわ。もちろんあの子の科学への知識と熱意は理解してるけどね。一緒に暮らしていたあなたが知らなくて、私が知ってることは、ほぼ無いんじゃないかしら」
「そ、そうですよね……」
「とはいえ、そうねぇ。確かにいつも冷静な蓮子ちゃんらしくない振る舞いだわ。あの子って恋人がいなくなっても『別れた人間のことで哀しむのは時間の無駄ね』とか言ってるタイプかと思ってた」
宇佐見蓮子という女は恋人への未練とか情を引き摺らない、というのは周囲の共通見解らしい。かなしいやら、なさけないやら、ああ……。
肩を落とす私をよそに教授は続けて、
「まあ、あえて理由を探すなら……サバイバーズ・ギルトという言葉を聞いたことはある?」
私は首を横に振る。教授は「まあ読んで字の如くなんだけど」と前置きをして、その言葉について説明してくれた。
……サバイバーズ・ギルト。つまり、生存への罪悪感。なにか大きな災害や事故、戦争なんかに巻き込まれた人が、生き残った事実そのものに苦しみを感じる現象……らしい。
「ナチスのホロコースト生存者の話が有名ね。なぜ自分だけ生き残ってしまったのか、という良心の呵責。特に目の前で為すすべなく命を失っていく人々を見た経験から、自分は彼らを見殺しにしたんだと思い込む。それは事実の一側面ではあるのかもしれないけど、戦争だろうと災害だろうと、基本的には人知を超えたもの。彼らは生き残るだけで精一杯だったはずなのにね」
やるせない話だった。ただでさえ辛い目にあった人が、その上でさらに罪を背負い込んでしまうなんて。
「人の心はその過去に大きく依拠している。過去が現実を形作る、と言ってもいいわね。ワクチンやペニシリンが発明されてもう随分と経つけれど、心の傷への特効薬は未だに発明されていない」
「……蓮子も癒えない傷を抱えていると?」
「かもしれない、というだけね。私は所詮門外漢だし、サバイバーズ・ギルトも正式な医学の言葉じゃない。細分化されたサイエンスと粗野な日常のスキマを橋渡ししてくれる喩えのようなものだわ」
ようするに「生き残る」という体験はそれだけ深い傷を作る……と、教授はそう言いたいのだろう。蓮子の豹変も人類の経験則的には「ありうる」範疇というわけだ。
とはいえじゃあ「はいそうですか」と受け入れることもまた、できない。それ程に、私の中の蓮子像と最後に見た彼女の様子は重ならない。
なにが蓮子を変えてしまったのか? 死んだ恋人。その人を残して生き残った自分自身。サバイバーズ・ギルト。たしかにそれは人間としては「ありえる」のかもしれない。でも、宇佐見蓮子という人格に限っては「ありえない」ことのような気がした。
私が難しい顔をしていると、教授は少し相好を崩した。
「もしかして、思い出を取られて悔しい?」
「え……」
「あなたの知らない思い出が宇佐見蓮子の行動を規定した。それが心的外傷によるトラウマであれ、単なる不意の気まぐれであれ……あなたではない誰かが、もはや死んだはずの恋人が、宇佐見蓮子の今を左右した。そりゃまあ悔しいでしょう。無理もないことよ。だってそれは否応なく想起させるもの。今と異なる可能性。"私"と付き合わなかった"あの子"の未来……ふふふ」
その笑みの半分には優しさがあった。けれどもう半分は、得体のしれない、蛇のような凄み。
ぶるるっと背筋が震えた。べつに私は悔しくはない、それほどは。ただ蓮子の変化に理解が追いつけなくて不安なだけで。ただそういう言い訳は、とても聞いてくれそうにない。この人は、この岡崎夢美という科学者は明らかに結論ありきで行動している。
両肩をがしっと掴まれ、教授の赤い瞳に覗き込まれる私。なぜか今になって脳内で「岡崎研究室には近づくな」の警句が鮮やかな256色に点滅し始めた。
「ねえ、覗いてみたくない?」
「覗く……?」
「もう一つの可能性よ。もしもその恋人が死ななかったなら、宇佐見蓮子はどうしていたのか」
返答の機会は無かった。ぎゃふっ、何か重いものが頭に被せられる。失われた視界の向こうからカチャカチャとキーボード入力の打音。サーバーの冷却音がいっそう強くなる。
もしかして教授が被っていたあの得体のしれない装置? 一体何の装置なの? そもそもあれ、意味のあるものだったの!?
「どうなってるんですか!? 私なにをされるんですか!?」
「超ラプラス理論を応用して開発した多世界解釈ブランチエミュレーター……私はパラレルグラス、と呼んでるのだけど」
説明になってない。装置(パラレルグラス?)が駆動し始めたのか、キィイイーンという甲高い音が耳元で響き始める。歯医者に来たみたいだ。脳を直接弄られる歯医者に。
あれ? もしかして私、逃げた方がいい? ちゆりさんにパイプ椅子で殴ってもらうべきなのだろうか?
いやダメだ、パイプ椅子には私が座ってる。
つまり……詰んだ……?
「そう震えなくても平気よ。これはただの映像装置だから。あなたは見るだけ」
「な、なにを……?」
「もしもの世界。わかりやすく言えばパラレルワールド。未来とはいつでも膨大な過去と今の積み重ねよ。今の振る舞いが過去を作り、過去が連なり未来を導く。なら、それを辿っていけば違う未来を描くこともそう難しくない。これはその違う未来を演算し、カメラ越しに盗み見る装置なの。おもしろいでしょう?」
なにがおもしろいのかちっともわからない。さっきまではあんなに優しい人に思えたのに、今はもう狂気のマッドサイエンティスト感丸出しだ。
蓮子といい、理系の人ってこうなの? 急にスイッチが入っておかしくなる……。
「私はよく、夢のような時空に生きる私の"もしも"を眺めるの。そっちではあらゆる科学が完全に統一された理論で示され、しかしそれすらも超える魔法の世界がある……ふふふ、素敵よね」
「そ、そうでしょうか……」
「まあ私のことはどうでもいいのよ。可能性の抽出条件としては『もしも蓮子ちゃんの死んだ恋人が生きていたら』ね。顔とか性別はわからないからこっちで勝手に設定するとして……」
「そんなアバウトな情報で絞り込めるとも思えないんですが!?」
「それができちゃうのが、私の才能の恐ろしいところね」
無茶苦茶だ。今更ながら蜘蛛の巣に飛び込むような真似をした自分を恨めしく思う。
こんなことならケーキを二つ買ってくるんだった。伊邪那岐だって山葡萄一つじゃあ豫母都志許売から逃げられなかったんだ。
ターン、とエンターキーが弾かれる音。耳元の甲高い音が一層高くなる。
「さあ演算が開始された。これでなお蓮子ちゃんの側にいるのがあなたなら、なにも心配に思う必要はない」
「もし違ったら……?」
「無視すればいい。どうせ、ありえなかった過去から演算した『もしも』の可能性でしか無いんだもの。大切なのは今と、そこからどんな未来時空に歩むかでしょう?」
無理だ。そんな簡単に割り切れない。やっぱりこの人は蓮子と似ているんだ、恋をするのも合理主義で勘定するタイプだ。
ただ……一方で「もしも」の蓮子が気になる私もいる。かつての恋人が生きていて、それでもなお蓮子が私の隣にいたら。私を選んでくれたなら。そうしたら……どんなにいいだろう。
だけど。だけどもし、そこにいるのが私でなかったら?
無視するなんてできない。心臓が不安にはち切れそう。黄泉の国で、愛する伊邪那美の姿を見たいがために約束を違えた伊邪那岐の気持ちが、ほんの少しわかる気がした。
パラレルグラスは未だ暗闇を映し続けている。マシンの唸る音だけが響く。
「どう? 蓮子の隣には誰がいた?」
教授の声ではっと我に返った。未だ目の前には暗黒。そう正直に告げると、むしろ難しい声をあげたのは教授の方だった。
「おかしいわね……もう演算は終了してるはずなんだけど」
「なにも見えないです」
「やだなぁ、またバグ? ちょっとちゆり! あんたちゃんとテストしたんでしょうね!?」
「やったよちゃんと。問題があんなら教授の作ったテスト工程表だろ」
「私の頭脳に問題なんかないわ」
「問題だらけだぜ」
呆然とする私からパラレルグラスが取り上げられる。戻ってくる世界と視界。まばゆい光に目がくらむ。
けっきょく……蓮子の「もしも」は演算できなかったのだろうか? どうもそういうことらしい。ほっとしたような気持ちもありつつ、残念な感じもする。
デバッグの無間地獄に囚われてしまった教授に代わり、ちゆりさんに見送られて私は理工学部棟を後にした。
なんだかあまり参考にならなかったな、と思った去り際、ちゆりさんがふと思い出したように、
「宇佐見の奴、早く帰ってくるといいな」
「あ、はい……」
「案外もう帰ってきてるかもしれんぜ? あれはけっこう寂しがるタイプだろ」
そうなのだろうか? 私が首を傾げると、ちゆりさんが笑う。
「だってあいつ、よくあんたのこと話してるぜ」
「え!? そ、それはめんどくさいやつだって……?」
「なわけないだろ。大切なパートナーだってよ。ま、んなことまで言うのは酒飲ませた時だけな。アルハラだよ、教授のあれ。っても宇佐見も負けず嫌いだからなぁ。限界アルコールバトル、マジで不健全だからやめりゃいいのに……」
段々と愚痴にシフトしていくちゆりさんの言葉が右から左に抜けていく。
信じられない。パートナー。蓮子、私のいないところでもちゃんと、そんな風に呼んでくれてるんだ。
私だって同じ気持ちだ。宇佐見蓮子は大切な大切な、私のかけがえのない人。
それは希望のような話だ。けれどその光が、希望がいっそう私の足をすくませる。私の知る蓮子を奪い去ろうとする思い出の中の誰か。ううん、その誰かが悪いわけじゃない。それはわかってる。わかってるんだ。
祈るように端末を見やる。相変わらず既読はつかず、蓮子からのメッセージは途絶えていた。
◯
蓮子が出て行って、気がつけば一週間が経った。
今日あたりにふらっと戻ってくるかも、そう不安に蓋をして、恐ろしい可能性は見ないふりをして。
その間にも明日は来て。朝起きて、一人分のコーヒーとトーストを詰め込み、化粧を慌ただしく済ませ、京阪本線に揺られ、トゲトゲしい先端ビル群を眺めて。
大学で講義を受けて、スキマ時間に課題をこなし、AちゃんやFちゃんとキャンパスカフェで少し駄弁り、また講義を受けて、今度は図書館で課題と予習を済ませてから、再び京阪本線に揺られて。
駅前の統合マートで買い物をして、家に戻り、一人分の夕餉をこさえては地の恵みをいただき、爪を切り、お風呂に入って、自称オルタナティブなソーシャルメディアをぼんやり見ながら髪を乾かし、明日の予定を確認して憂鬱になってから、眠りについて。
そう、驚いたことに私の日常は恙無く進み続けていた。蓮子がいなくなっても日々はなんら代わり映えしなかった。ただ唯一、冷蔵庫の食材の減りが遅くなって、鳥肉を傷ませてしまった。それだけだった。
蓮子は帰らなかった。連絡もいっさい梨の礫。
そして、家賃の支払日になった。
【@MarYbel : 家賃、払っていいんだよね?】
冷静に考えればいきなり一人暮らしに転向するわけにも行かないので、家賃を払わない選択肢はないのだけど。
それでも聞かずにはいられなかった。
【@MarYbel : 二人分も払うの嫌だよ】
正直もう蓮子は死んでるんじゃないかと思う時もある。いっそ、そのほうが話は早い(早いだけで絶対嫌だ)。
でも共用の口座からはちょくちょくお金が引き出されていて……結局、蓮子はただ私の言葉を無視し続けてると結論が出る。
たかが一週間の別離。されど、これまでけして途切れることのなかった私たちの歩調を考えれば、長すぎる乖離。
ここが境目だ、と。境界を見る私の目は無慈悲にも見抜いてしまっていた。決めるとすれば今日が境だと。
つまり、今日を無策に超えれば私たちの関係は――というより私自身の感情が、きっと致命的に崩壊する。いよいよもって宇佐見蓮子という人間を嫌いになる。だから決めなければいけない。彼女を見限るか、それでもなお食い下がるのか? 他ならぬ私自身の能力がそう告げている。
必竟、そのためには、蓮子の変質の理由を探る他なかった。
【@MarYbel : 部屋、入ってもいいかな】
返答がないとわかっていながら確認せずにはいられない、私は臆病だ。
蓮子の部屋に相対して、蓮子の部屋の扉の前に相対して、いっそ厳粛ささえ宿すドアノブに手をかけても、ガチャガチャと堅い手応え。
もちろん無理矢理に扉を開けることはできる。敷金は……まあ、いいだろう。
そうできないのは、というよりこの一週間そうしなかったのは、なぜか。
「恋人同士でもさ、プライバシーとプライベートは守られるべきだと思うのよ」
蓮子の言ったことの意味を私は、ようやく理解する。正しくは、ようやく自覚する。この扉を開くということはつまり蓮子の過去に立ち向かうということ。それは恐ろしい所業。岡崎教授の見立ては正しかった。悔しくないわけ無いし、怖くないわけがない。私が蓮子と積み上げた過去が、どこかの誰かとの過去に劣ると思い知らされるなんて。
それは一種の陣取り合戦。思い出という過去と今とをつなぐ心の境界の奪い合い。
しかし境界を見破り、時に超えようとすらする私の能力をもってしてなお、その一ナノメートルにも満たない線を踏み越えることは叶わない。
プライバシーとプライベートを尊重した蓮子は、その残酷な真実を知っていたのだろうか? 合鍵を作らなかったのは単にm自分の秘密基地が欲しかっただけかもしれないが……。
やってくれたな、と思う。同時に救われてもいた。
私には選択肢がある。蓮子のおかげで。
つまりパンドラの扉をこじ開けて、私の大切な蓮子との大切な過去を天秤に乗せるのか。あるいは、このまま過去を封じ込め、蓮子を取り戻す未練がましい努力を放棄して、せめて美しい思い出だけは手元にとどめて置こうとするのか。
簡単な二者択一。
だけど。
だけど、そんなの、
「そんなの、決められるわけないでしょ……」
目頭が熱い。
もう疲れた、誰かに正解を教えてほしい。今こそ岡崎教授のパラレルグラスを使いたい。
蓮子を諦めた私の未来と、蓮子に執着する私の未来と。テレビのチャンネルを選ぶように未来を選べたら、どんなにいいだろう。そうすればこんな苦しみを味わう必要もなかったのに。
堪えきれず、私はまたベッドに逃げ込んでいた。この一週間封じていた孤独が一斉に口を開いたような……ぐるぐる、ぐるぐると世界が回転するほどの喪失感。
私の部屋には蓮子との思い出が染み付いている。でも、同時に私だけの過去もまた染み付いていて。
蓮子と私。一緒にいる時はあたかも二人で一つの生物のように思えていた。だけどそうじゃなかった。私たちはどこまでも別々の生き物で、別々の人間で、異なる過去を持ち、違う未来へ進んでいく孤独な船乗りだ。それがたまたま同じ船に乗り合わせていただけの話。
しかしその船すらも嵐に呑まれ、沈んでいこうとしている……。
◯
目の前に蓮子が座っていた。だから、これは夢だとすぐにわかった。
あたたかな木漏れ日が差し込む一方で、夢は夢らしく、どこか現実味のない風景だ。できの悪いコピーアンドペーストのように彼女の彼方背後に連なり続ける先端ビル群。私達は洒落たティーテーブルを挟んで、鳥の声を聞いていた。
まだ湯気の立つティーカップを手にとった蓮子が、軽く香りを味わい、いつもどおり「ちっともわからない」という顔で一口目を口にし、長い間を挟み、また……口を開く。
「秘封倶楽部を辞めたいって?」
私は頷く。
そんなつもりはなかった。ひとりでに体が動いていた。それで……ああ、これは夢というより記憶に近いんだな、と理解する。
いつ、どこでこんな話をしたのかはわからない。しかしいつかどこかの記憶なのだろう。とはいえ単一の記憶ではないのかもしれない。あの日とその日の混ぜ合わせ。
そんな私の困惑など気にせずに、夢は夢らしく、現実のコラージュを歪に提示し続ける。
「秘封倶楽部の活動をする時はいつも……いつもね、私達は危険な目にあってばかりでしょう? 私はいいの。私はもとからそうだから。でも、蓮子まで巻き込んでるんじゃないかって……それが心配で」
「私まで境界を超えてしまうんじゃないかって?」
「まあ、それもあるけど……境界がどうとかは関係なく、なんでなのかなって。秘封倶楽部の活動として私達はいつも危険な場所を目指す。妖怪がいるかもしれない場所や、地球からはるか離れた場所や、そうでなくっても単に足場の悪い廃墟とかもあるし……わたしたちの活動って、あえて危険をおかしてまですることなのかなって、そう思っちゃって……」
「へえ……」
蓮子がティーカップをソーサーの上に戻し、代わりに錫色のフォークを手にする。いつしか机上に置かれた苺のショートケーキを、高そうなお皿ごと、ずりずりと手元に引き寄せる。
「デラックス苺スイート。駅前『ショコラ』一日20個限定の品」
「う、うん」
「いただきます……んぐ……ふーん。まあまあね」
つややかな赤色の果実を喰みながら、蓮子がぼやいた。金箔の細工の入った繊細なお皿にはべったりと真っ白いクリームの跡。
蓮子の鳶色の瞳が、私をじっと見上げた。
「ねえ、メリー」
「……なに?」
「なぜ人は限定品という言葉に弱いんだろうね? たしかにデラックス苺スイートは美味しいし、苺もたくさん乗っていて豪華だけど……じゃあ普通のショートケーキの倍以上の値段を払う価値があるのかというと、私にはわからない。もちろん値段を決めるのは市場原理であって私ではないけど……あるいはこうも思うの。人が限定品を求めるのは、それが強い"今"だからだって」
記憶の中の私は首を傾げる。が、これがリアルタイムで行われるいつもの会話であっても、やっぱり私は首を傾げたに違いない。
なぜか蓮子は満足そうに頷き、続ける。
「未来とはいつでも膨大な過去と今の積み重ね。強い今は強い過去となり、より強い未来を作る礎になる」
「どういう意味……」
「朝早く起きて長蛇の列に並び限定品のケーキを食べた、という経験は色濃い思い出になる。そういう過去を積み重ねるのと、なにも代わり映えのしない無色透明な日々を積み重ねることじゃ、たしかに同じように未来はやってくるけれど、やってくる未来は同じじゃない」
「観念的な話ね」
「あなたの得意分野でしょ?」
それはそうだけど、限定品のケーキを食べて未来が変わる……という論文を読んだことはない。
しかし蓮子は大真面目に続ける。
「なぜ危険をかえりみずに秘封倶楽部を続けるか、って話だよね?」
私は顎を引く。紅茶の香りが不思議なノスタルジーを呼び起こす。マドレーヌでもあれば、きっと膨大なる失われた時が蘇ってきたに違いない。しかしここにあるのは限定品のケーキだけだ。ケーキとマドレーヌで何が違うかはまた別の話。
「私達の一生は短い」
「急に人生論の話?」
「大学生活はもっと短い。たった四年しか無い」
「……」
「十年、二十年と経った時、私たちはもう少女ではなくなり、学生でも無くなっている。その時にどんな人間になっているか――もっと言えば、どれだけ力強く靭やかな人間になっているかは、畢竟、今をどれほど濃密に生きられるかにかかっている」
「剣闘士にでもなりたいの?」
「悪くない比喩ね。生きることは闘争だもの。ホッブズじゃないけど、平穏は仮初め、いつ崩れるかなんてわからない。だから私は強くありたいの。だから私は統合マートで一つ100円で売られてる量産品の甘味で妥協するよりも、その十倍以上の値がする限定品のケーキを食べようと雨の中でも行列に並びたいのよ。それと同じことで、危険だと判っていても秘封倶楽部を続けたい。わかってくれるよね、メリーなら」
「わかる、けど……刹那主義なのか、計画的なのか、よくわからないわ」
「どっちでもないのよ、べつに。私は私だから。でも、そうね……こんな歌を知ってる? 今から一世紀以上前に流行った流行歌」
すぅ、と蓮子が息を吸い込む。私はなぜか美しいカンタータのような歌が紡がれるのを期待した。
大間違いだった。
調子っぱずれの歌声が、木漏れ日の中に響き渡る。
「しあわせはぁ~歩いてこない~! だ~から歩いてゆくんだねぇ~! 一日一歩! 三日で三歩! 三歩すすんで……ちょ、ちょっとメリー? なんで笑ってんの!? 笑うところ、ないよね!?」
「べ、べつに……ふふっ、べつに笑ってない……」
すっかり忘れていたけど、蓮子はなかなかの音痴だ。音程というものが存在しない世界から来たみたい。ま、そこがかわいいんだけど。
「私は蓮子の歌、嫌いじゃないよ」
「あっそ」
「ごめん、怒った?」
「いいよ別に。自分が音痴なことくらい知ってます! とにかくそう言うわけだから、秘封倶楽部解散は却下! 罰として次の活動はメリーが考えること!」
「脱退希望者にペナルティなんて、とんだブラックサークルね」
「ふふ、騙されて入るのが悪いのよ」
かもしれない。私が秘封倶楽部に入ったのは蓮子の詐欺のような話術によるところも大きい。
だけどおかげで私の時間は、たしかに遥かに濃密になった。もし秘封倶楽部の活動がなかったら私の大学生活は……どうなっていたのだろう?
境界を見る力に怯え、閉ざされた空間に引き篭り、蓮子の言う無色透明な日々を繰り返して。じゃあ、そんなつまらない過去を積み重ねた未来、つまりありえたかもしれないもう一つの今の私は……いったい、どうなっていたのだろう?
蓮子が薄く微笑む。私の大好きな、あの生意気でアイロニカルな笑み。
「だからね、メリー」
「うん?」
「もし私が秘封倶楽部を辞めたがったら、次はあなたが引き留めるのよ」
何気ない懇願。それがわたしの胸をうつ。
だけどもちろん記憶の中の私は私の気持ちなど知るわけもなくて、くすくすと笑っては、
「もちろん」
と、安請け合いをしやがった。
蓮子の安堵したような表情。かと思うと、彼女は立ち上がって天をあおぐ。七色の極光きらめくはるかはるかな夢時空を。
「さあメリー、時間よ。そろそろ行こうか?」
「え? どこへ?」
「イーハトーヴの森を抜けてスーダララッタのその先へ! ほら、手をとって! グランヴァカンスはもう目の前よ!」
私は手を取る。取ろうとする。けれどその前に蓮子は駆け出してしまう。
くにゃりと地平線が歪み、オーロラの天幕のスキマから無数の白い触手が降り注いだ。先端ビル群が紙切れのように引き裂かれ、京阪本線がホームに滑り込む。
ヒロシゲの汽笛、蓮子に追いすがるまま、私はその扉の中に駆け込んだ。岡崎教授とちゆりさんが座椅子の上で殴り合っている……
「れんこぉ……あし、はやいよ」
「はやく、はやく、メリー! はやくきて!」
蓮子の声が聞こえる。蓮子の呼ぶ声が。その声はなぜだか泣きそうだ。
私は蓮子の後ろ姿を追いかけて、駆けて、駆けて、かけて……
◯
「蓮子行かないでぇっ」
叫び声で目が覚めた。私の声だ。両目を拭っても乾いていて、カーテンを閉じていたから今がいつなのかもよくわからない。
でも、不思議と頭はスッキリしている。二日酔い患者のように台所へ赴き、浴びるように水を飲む。
トン、とコップがステンレスに触れる音。なんだか可笑しい。あんなにも狂おしい嫉妬がかけぬけ、自信をなくして頽れそうになったというのに。
眠りとは時に残酷なほど私たちに動物性を突きつける行為。精神への黄金信仰を嘲笑うかのように、どこまでも「私」はハードウェアと抱き合わせだ。
そんなものなのかもしれない。急にあんなことが起きて、私は頼りない過去にすがって、今に怯えて、未来を拒絶しようとした。寂しくて、不安で、つらくって。それはきっとハードの方が片割れを失って驚いたせい。心ってやつはいつでも中空に独り浮かんでるような感じがする。だけど、その実、驚くほど沢山のものと絡まり合っている。例えば肉体と。例えば過去と。例えば誰か、大切な人とも。
【@MarYbel : 部屋、入るね】
たぶん私は難しく考えすぎていたんだろう。そういうのは蓮子の役割だ。過去がどうとか、未来がどうとか、そういうのは。
私は、マエリベリー・ハーンはもっとずっと単純なのよ。いやまあ、単純が故に囚われてしまったのかもだけど。
あの子が出ていってこの方、蓮子のことばかり考えていた。蓮子の過去と、蓮子の今と、蓮子の未来のことばかりに囚われていた。
でもそうじゃない。
夢の中で蓮子に会って思い出した。なにも……思い出を持ってるのは蓮子だけじゃないんだ。それは私だって同じこと。だからこそあんな夢を見た。紅茶にマドレーヌを浸すまでもなく、失われた時はちゃんと私の中に蓄えられていたんだ。
膨大な過去と今の積み重ねが、未来を作る。岡崎教授はそう言っていた。
そう、「蓮子の中の」私の思い出が昔の恋人のそれに勝るか劣るか、とか……そんなのはどうだっていいじゃない。私の未来は私の過去と今で作られる。蓮子がどう思うかなんて知ったこっちゃない。
だからね、マエリベリー。あなたはどうしたいの?
「私は……」
考えるまでもなかった。けれど忘れていたこと。
思い出したのは、夢の中で蓮子の音痴に笑った時。夢の中で蓮子の屁理屈な講釈を聞いてる時……ううんきっと、最初に蓮子の顔をみたその一瞬ですでに気がついていた。
私はこの時間が好き。
蓮子といるのが好き。
蓮子のことが好きなんだって。
だから、また。だから、まだ。私は蓮子と一緒にいたい。だったら簡単なことだ。蓮子を連れ戻す。それだけのことに何をうじうじしてたんだろう?
【@MarYbel : 私が六で出した敷金、一割あとで返してよ!】
これで青ざめて返答してきたら面白いんだけどな、とか考えつつ、私は蓮子の部屋に踏み込んだ。どうやったかは乙女の秘密。我がシェアハウスにはどっちかが急な希死念慮で自殺未遂を起こした時のため、SWAT顔負けの秘密兵器を常備してあるのだ。
それで……一週間ぶりの蓮子の部屋はなんというか、いつも通りだった。床に血で魔法陣が書かれた痕跡もなければ、亡き恋人への思いを書き殴った藁半紙が散らばっていることもなかった。蓮子のにおいはまだそこにあったけど、家具にうっすら積もった埃の層。ほんの少し家主が離れただけで家とはこうもくたびれるのか、と関心してしまう。
いや関心してる場合じゃない。蓮子のことを思い出しては泣きたくなるのをぐぅーっと堪え、私は白昼堂々家探しを開始した。テーブルトークゲームなら目星のロールを振るとこだろうか。そう、あのゲームは少し目星が便利すぎる。
けれど現実はそうもいかない。私は蓮子が思い出を隠せる場所を片っ端からひっくり返して行ったけど、幾何級数的に増していく散らばり度合いを別にすれば、掘り出せるのは私と蓮子の思い出の品ばかりなり、といったところだ。
どうにも……思っていたのと違う。
わざわざ鍵をかけて出て行ったんだ、蓮子は隠したいもの一つくらい部屋に残してるものなのかと。昔の恋人との写真とか。
だけどそんなはずはないんだ。考えてみれば当然で、私は普段からこの部屋に入り浸りだった。昔の恋人に纏わる品なんて核地雷級の掘り出し物、いくら私がボケてたって素通りできるわけがない。
だから、どれも、これも……旧グリニッジの赤煉瓦、青木ヶ原の石一つ、ショーケースにちまり飾られたイザナギオブジェクトといい……嬉しいけれど、蓮子が思い出を大切にしまってくれてるのはありがたいけれど。
でも今ばかりは、役に立たない。このままじゃ私は敷金をそっくり失っただけだ。
「ふぅ……さすが蓮子ね、手強い奴……」
かくして私が静かに追い詰められていた時のこと。ポケットに突っ込んだままの携帯端末が鳴った。
まさか蓮子? 胸が高鳴る。
手にとって、そうじゃなかった。それでも胸は高鳴った、別の意味で。主に、不安と恐怖で。
端末に表示された岡崎夢美の文字列。連絡先を教えた記憶が驚くほど全く無い。一方で、あの人なら学生の連絡先を突き止めるくらいなんてこともないような気もする……。
『こんにちは、蓮子ちゃんの彼女さん。想い人は見つかった?』
「いえ、まだ」
『そう。この間は素敵なお土産をありがとう。またいつでも来てね。苺ちゃんの彼女さんなら蓮子がなくても大歓迎よ』
私は知っている。こういう小ボケに付き合うとキリがないことを。
こっちが無言で端末を耳から遠ざけていると……こほん、と気まずそうな咳払いが響いた。それから改まったような声が告げる。
『パラレルグラスの件なんだけどね』
瞬間、私の意識は引き締まった。
パラレルグラス。その名の通りパラレルワールドを見通す岡崎教授の発明品。
以前に私は「もしも死んだ蓮子の恋人が生きていたら」というIFの世界を見(せられ)た。冷静に考えるとセクハラを通り越したかなりの非人道的行為だけど……実際のところグラスの向こうは暗闇で、教授はこの一週間デバッグ地獄を見ていたのだろう。
「治ったんですか?」
『それがね。結論から言うと、グラスに異常は無かったの』
「え? でも、なにも見えませんでしたよ」
『それでよかったの。それがグラスの正しい挙動なんだから』
歯切れの悪い教授。なんだって言うんだ?
イマイチ要領を得ないまま、私は拙い理解で考えてみる。
「うーんもしかして、その恋人が生きていることはありえない……とか? どのパラレルワールドでも確実に死んでしまうなら、その未来も見えないですよね」
『素敵な洞察ね。それは半ば正解に近い。ただ……確実に死ぬ、なんてありえないのよ。人が死んだ、なんて極めて結果論的な話だわ。そんなものはミクロスケールでもマクロスケールでもなんの意味も持たない。人はなんの意味もなく死ぬし、そもそも意味なんて人間が世界を捉えようとする尺度でしかないもの。そりゃあ極めてマクロな世界観なら定まる運命もあるけどね。一兆年後には“私”も“あなた”も消え去っている、とか。いや、それすらも確実じゃないか』
なんだか難しくてわからないけど、ようするにその恋人さんが「確実に死ぬ」というのはありえないらしい。まあ直感的にはそれもそうか、という気がする。人は時に意味もなく死ぬし、であれば、意味もなく生きてたっていいのだから。
「じゃあどうしてパラレルグラスは動かなかったんですか?」
『幹がなければ枝もまた生えない』
「え?」
『バカバカしい盲点だったわ。もしもある人に纏わるあらゆる可能性が潰えてるとしたら、そこからの帰結点は一つしかない。つまり、そんな人は存在しなかった』
「は……」
『ねえ、蓮子ちゃんの彼女さん。蓮子ちゃんの元カノとやらは……本当に存在するのかしら?』
電話越しだと言うのに、教授の赤い瞳が妖しく細まっていく光景が見えた。端末を握る手が泡立つ。
「ご、ごめんなさい、おっしゃってる意味がよくわからないんですが……」
『言葉通りの意味よ。パラレルグラスが蓮子ちゃんの元カノさんを演算できなかったのは、とどのつまり、そんな人間はこの世にいなかったからなの。まあ、つまらない事実よ。存在確率がゼロの物体の振る舞いを計算できないなんて、至極あたりまえの結論だもの』
教授の言葉からはもう興味の勢いが失われていた。ほとほと薄情というか、科学的好奇心に素直というか……。
一方で私の頭はまだ混乱しきりだ。蓮子の恋人は存在しない。じゃあ、どうして? それじゃあ蓮子の行動の説明がつかない。あるいは、
「蓮子は、妄想かなにかに取り憑かれてるってことですか? いったいどうして、急に……?」
『そこから先は私の領分じゃない。それが病的な妄想なのか、それともまったく別の理由があるのか。私はただのあの子の指導教員でしかない。私は科学者で、医者でも探偵でも警察でもないから』
教授の言葉は冷たいように聞こえる。けれどそこには、どこかこんな響きも込められてる気がした。
『ここから先はあなたの仕事よ、彼女さん』と。
私は短く礼を言って、通話を切った。感謝はしてるけど……あの人と長く話してると、疲れる。
それより私は蓮子の部屋に向き直る。探しても探しても見つからない昔の恋人の記憶。しかし教授は、そんな人は存在しないと言う。なんだか信じられないような話だけど、一応理屈は通っていた。
こんな時に蓮子なら納得いくまで教授に食ってかかるのかもしれない。納得が全てに優先するタイプ。そういう所、いつだって私たちは真逆だ。私は納得なんてどうでもよかった。私はきっと、側に蓮子がいればなんだっていい。
オーケー。それよりもアプローチを変えよう。いくら探しても見つからない蓮子の昔の恋人へのヒント。事実、ほとんど部屋を丸々ひっくり返しても見つからなかった。
なら筋は通ってる。教授の推察が正しいと仮定しよう。
その時一つ、脳内でピンと閃くものがあった。
私は息を呑み、蓮子の部屋の一点へと目を向ける。このガサ入れ中、唯一手を触れなかったエリア。今時珍しい手書きのラベルで几帳面に整頓されたファイル類。その背に記されたるは……少女秘封倶楽部活動資料、と。
もちろんそこに封じられた過去は、思い出は、あるいは未来は、私と蓮子だけのもの。もし私のじゃない蓮子を探そうとするならばもっとも縁のない場所を探すべきだし、事実そうした。
だけども今その前提が崩れた。蓮子の豹変の原因は昔の恋人でも、サバイバーズ・ギルトでもない……?
だとすれば。
私たちが奇妙なことに巻き込まれる原因は、いつだって私たちの関係そのものだ。
「秘封倶楽部活動資料」を手に取り、遠慮なくファイルを開く。秘封倶楽部のものなら半分は私のものだ。
色とりどりの付箋が貼られたページたち。そこには蓮子が集めた日本中のオカルトがラベリングされ、整然と並んでいた。
失踪事件のスクラップ、未解決事件の跡地、胡散臭い白黒写真、眉唾物の伝承録、それらの隙間に所狭しと貼り付けられた蓮子の筆跡のメモ、メモ、メモ……。
なるほどな。いつもいつもよく活動のネタがあるもんだ、と思っていた。実は天性のオカルトマニアなセンスがあるのかな? なんて。けれどなんてことはない、蓮子は地道に集めていた。濃密な今を過ごすために、秘封倶楽部の活動のために。
ああ。
なぜだか目元が潤む。蓮子は私との過去を今を、そして未来をとても大切にしているんだ。それが唐突に理解できた。
会いたい。蓮子に会いたい。今すぐに。
ばさり、とファイルの一つが落ちる音。遠くに潮騒が聞こえた。
もたろんここは京都盆地のど真ん中。波の音なんて、聞こえるわけがない。
目元を拭い、落ちたファイルを拾う。記された日付(私なら絶対ちまちまとした日付なんていれないだろう)はほんの二週間前のものだった。蓮子が出ていくほんの少し前。
「これは……」
見開き両ページにまとめられた資料。ところどころに引かれた鮮やかな蛍光ピンクのマーキングはどれも、全く同じ単語を強調していた。
日忌様。
読み方は……ヒイミサマ? なぜかはわからないけど、私はその響きが妙に恐ろしかった。
湿った赤土を掘り返す考古学者のような気分で資料に目を通す。
日忌様。あるいは海難法師。伊豆半島を中心に伝承。桶に乗って海より来たり、人を取り殺すとされる。一方で近年は伝承との齟齬、日本各地に点在する海難事故の集合の可能性……?
よくわからないけど、日忌様とは妖怪か何からしい。が、私の興味を惹いたのは「犠牲者の記録」と記された部分。
曰く、日忌様に魅入られた者たちの末路は決まって海への身投げ。
自殺者たちの奇妙な独白。存在しない恋人、家族、友人を事故で喪ったと主張し、突然の失踪。皆、海難事故の様子を目撃した後に豹変……ある種の精神汚染?
連呼の慌ただしいメモ書き。
『なにかトリガーがある?』『仲間を作ろうとしているのか?』『興味深いけどメリーに死なれても嫌だし、活動は保留』
「……もう少し自分のことも考えてよ、バカ」
確信があった。蓮子はこの「日忌様」とやらに魅入られてしまったんだ。
再び遠くから波の音色が聞こえる。膨大な資料の中から「当たり」を引き当てたのは偶然? ロマンチストなら蓮子が導いたと思うのかもしれない。あるいは、いつだってオカルトと相性の良すぎる私の瞳の力か。
とにかく、行かなくちゃ。蓮子のところへ行かなくちゃ。あの子の側へ。
とはいえどうやって行けば?
資料には日忌様の伝承が伝わる岬や、自殺者たちが決まって向かうとされる無人島のことも記載されていた。今から家を出て、ヒロシゲで東に渡り、船に乗って……最短二日といったところだろうか。
間に合わない。
何故だかそんな予感がした。時間という一本の線に刻まれた可逆と不可逆の境界線。
私は立ち上がり、今はもう閉ざされた蓮子の部屋の扉を、今度は内側から睨め付ける。
「蓮子……前にした約束、果たしにいくわ」
ちりちりと肌を焼くような焦燥感。一方でどこか落ち着いている私がいる。
普通は恋人がわけのわからないオカルトに飲まれたなんて、絶望的な気持ちになるものかもしれない。けれど私には、私たちには、むしろそんなめちゃくちゃの方が馴染み深いんだから笑える。オカルトより、怪異より、痴話喧嘩の方がずっと恐ろしいんだから。
ドアノブに手をかける。SWAT顔負けの秘密兵器はもういらない。波の打ち砕ける音がすぐそこに聞こえる。私は蓮子のことだけを考え、扉を開けた。
ぶわり。
潮のにおいが強く香った。
◯
岸壁へ突っ込んでは砕け散る、青い青い海の色が見えた。その上に広がる夏の空。科学的には海の色は空の色を映したものだというけれど、こうしてみると、空の蒼と海の青はぜんぜん違う。海の色はもっとずっと深く、濃い。
たぶんそれは穢れの色なのだと思う。母なる海といえば聞こえはいいが、ようはそれは死の色だ。生命が生まれてよりこの方、35億年分の過去が煮詰まった色なのだろう。
そんな蒼と青の境目は、地の色。竜の背のようにゴツゴツとした岩場は生命の息吹を拒む地球の色、溶岩の冷え固まった真っ黒い色。そこに吹き付ける潮の混ざった風が、私の頼りない肉体を撫でつけていく。
ちっぽけだなぁ、私。
よくわからない感慨が駆け抜けていく。何気なく振り返るともう、半開きの扉の向こうに蓮子の部屋はなかった。灯台か何かの廃墟なのだろうか。扉とその枠だけが残った向こう側には、苔むした巨大な岩石のような無人島の山肌が聳えていた。
もしこれが何気ない小旅行なら私は何時間でもここにいて、穢れた海と無垢なる空と、果てしない母なるこの星がせめぎ合う大スペクタクルを眺め続けていただろう。
だけど。
今にも崖下へ飛び込んでいきそうな、影法師のように崖際に立つ人影。見慣れた帽子のシルエット。それが見えた時、私の心からは35億年分の過去も今も未来も何もかもが吹き飛んだ。想うよりまず叫び声が出た。
「蓮子っ――!」
彼女が振り返り、私を見て、逆光の中で目を合わせるよりも早く、早く、駆け出した私は、彼女を抱きしめる。
「メリー……?」
焦点の合わない瞳。生気の抜けた声。
違う。これは蓮子だけど、蓮子じゃない。ここに蓮子はいない。
とにかくこのまま崖下へ落ちていかれないよう、無理矢理に手を引っ張って陸地へ連れ戻す。その間もふらふらと蓮子はマリオネット人形のように着いてきて。困惑するような目を向ける。
「メリー、だめだよ。行かないと、私行かないと、あの人のところに」
繰り返す蓮子は壊れたラジオみたいに同じ言葉を繰り返す。あの人が、あの人が、あの人が……。
蓮子の足取りに力はないけど、海から遠ざかろうとすればするほど瞳に不安の色が満ちていく。母親から引き離された子供みたいに。
「蓮子……」
「行かないと、行かないと、メリー、あの人のところに」
「あの人って……ねえ、蓮子。その人の名前は?」
「そ、それは……」
ぎょっと怯えたように蓮子が震える。親に叱られるのを察知した子供のように。
それがあんまり情けなくて、私の知ってる蓮子を侮辱されたような感じがして。
本当はその人の名前はなにで、いつどこで知り合って、何年前に事故にあって、それはどんな事故で……って、一つずつ矛盾を解きほぐしていこうと思ってた。死んだはずの恋人が存在しないって理解できれば、そうすれば蓮子も元に戻る――なんて、私は少し安直に考えてすぎていたんだろう。
だけど怯える蓮子を見て、なにを言っても彼女を苦しめるだけだとわかった。蓮子にそんなことしたくないし、きっと意味もない。このウソ夢は簡単には消せない。
だからって諦めるわけじゃない。
「……大丈夫、蓮子。きっと助けてあげるからね」
とにかくやるだけやってやる。
蓮子の過去を、今を、私たちの明日を取り戻すために――
「ねえ」
びくり。
首筋の裏に冷たい海水をかけられたような悪寒。
今の……誰か、聞き馴染みのない少女のような声。
風の啼く音かと思った。が、声は白々しくも続く。
「さっきからなにしてるの? それ、返して」
それはたしかに少女の声だが、一方で海の底から響く鯨の咆哮みたいな、雄大かつ得体のしれないものがあった。
散々迷ってから、私は言葉をひねり出す。
「……誰?」
その声は震えていたと思う。許してほしい。情状酌量の余地ありだ。
ついさっき見た蓮子のスクラップが脳裏に蘇る。なんだって今なの。今はまだ、感動の再開の最中じゃない。
怪異ってのはいつだって空気を読めないし、読まない。
「まさか日忌様ってやつ……」
「あれ、知ってるんだ? 私たちは扉日忌(とべらひいみ)……あなたなに? どこから来たの? 呼んだおぼえ、ないけど」
「相棒を連れ戻しに来た」
「うん? うん、そっか。そう、人間にもまだそういうのがいるんだ。でもダメだよ。それ、もう私たちんだ。ほら返して」
背中越しで見えないけど、なにかが這い寄る感覚をおぼえて慌てて距離をとる。ふらふらした蓮子を連れてるせいで思うように動けない。
水の中で、人喰いの大蛇にゆっくりゆっくり追い詰めれてるみたいだ。
ほんの数メートル走っただけで全身、ぐっしょりと汗まみれ。息が上がる。振り返ると、困ったような顔の女の子と目が合う。見た目は小学生くらいだ。頭に妙な桶のような……フジツボのついた木製のタライのようなものをかぶっている。そのせいでよく見えないけど、陰になった顔色は水中の死体のように青白い。夜の海のように虚ろな瞳が鬱陶しげに私を見ている……。
「返して。ね、返して。もう意味ないよ。それは私たちのものになったの。ほら、震えてる。辛がってるよ。かわいそうだよ、ね……」
「わ、私の相棒をそれ呼ばわりしないで!」
「……はあ。こんなの久々。こんなのがないようにいっぱい考えたのに。ね、みんな。元に戻るの大変なのにさ」
ぱん、ぱん、と手を叩く音が響く。冷房をマックス稼働させたみたいに、あたりの温度が急激に下がっていく。
背に庇う蓮子の体温だけがあたたかい。ああ、もう。こんなふうに守られる役目は私の方だと思ってたのに。
なんて……言ってる場合じゃなかった。もちろん温度が下がるのは心霊現象のお約束な前触れの一つ。だからってここまで遵守しなくてもいいのに。
ゆらゆらとゆらめく青白い影。それが一人、二人、さらに次々、私と蓮子を包囲するように立ち現れる。見てくれはバラバラ。古い日本の着流し姿の者もいれば、ジャケットにジーンズのオールド・デイズ・スタイルな奴らもいる。ただ一様に、彼らの瞳には正気というものがない。彼らは人でなしだ。幽霊とか、怨霊とか、妖怪とか……でも、こんな白日のもとで?
そう思ったら、深く白い霧が太陽を覆い始めていた。業務用冷蔵庫に入ったみたいに肌寒く、薄暗い。ぶるるっと身が震える。
「加工してない魂はね、取り込むの、大変なの。生きてる人間ってすごく抵抗するし、喚くし、うるさいし。めんどくさいの、ね、わかる……でもそれを返してくれれば、お姉さんはいらない。助けてあげる。こういうの、うぃん、うぃん、って言うんでしょ。お姉さん、日忌と違って頭良さそうだから、わかるよね」
「わ、私は……」
「死にたくない、でしょ? 死ぬのは辛いよ。ね、私たちは死人ばかりだからね、よく知ってるの。皆、海で死んだから。海水の苦い味を飲み込みなながら末期の一息を奪われる、その辛さを知ってるから。それに死んだら、もう、明日を迎えられなくなるんだよ。来るはずだった明日、あたりまえにやってくるはずだったこの先の何年も、何十年も、ぜんぶぜんぶ水の底」
「だったら蓮子を巻き込まないでよ! 蓮子だって死にたくないわ、この子は生き汚い方なんだから!」
「無理」
ばすっ、と私の訴えの首が切り落とされる。それから少しだけ、少女の瞳に寂しげな色が宿った。
「あのね。理不尽に明日を奪われた私たちは、理不尽に誰かの明日を奪わずにはいられないの。そういう存在になってしまったの。だから、それをやめたら、もう、消えるしかない。でも私たちは消えたくない。もう明日を失いたくないの。だから……もう話、終わり。生身の人間を殺すの、久々だから、痛くなるかもね……恨まないでね、お姉さん」
そして。
束の間見えた人間らしさは波間に消え、かわりに無慈悲な殺意の色が濃くなる。
なぜだか私の脳内で「捕食行為」とか「狩猟行動」という四文字がちらつく。幽霊とか妖怪とかって普通はホラーな文脈だろうに、ホラーはホラーでもこいつらは、ナチュラルホラーの分類だ。
「それとも返してくれる気になった?」
「……いや」
「あ、そう……」
びしゃびしゃと水音をあげ、水死体の包囲網が狭まっていく。こんな時、私の力でまた蓮子の部屋に飛んで戻れたらいいのに。
けれど私の力はそう可愛げのあるものではないし、なによりこんな岩場じゃ境界もなにもあったもんじゃない。
秘蔵の伊弉諾物質を持ってくればよかった、と胸の奥で後悔。『百億の昼と千億の夜』でオリハルコンを無くしてしまったプラトンの気分だ。しかもここに阿修羅王はいないし、仏陀ポジションと思しき蓮子はガタガタ震えているだけ。蓮子には自分が今どうなってるのかさえ、わかってないだろう。
……じゃあ。
このまま私たちは殺されるしかないってわけ? せっかくここまで来たのに。蓮子との今を取り戻すために、明日を刻み直すためにここまで来たのに。ただもう一度蓮子と話すことすら叶わずに、死ぬなんて。
そんなの嫌だ。こうなったらやれるだけやってやる。毒を喰らわば皿までも、だ。あるいは乗り掛かった船か。
「ま、待って!」
「返してくれる気になった?」
「それは違う、けど……」
これでもし私が退魔の巫女や素敵な魔法使いだったなら、あの怪異を退けて生き残るって手もあった。でもそうじゃなかった。私にあるのは、制御不能の境界を見る力を別にすれば、十人並の頭脳しかない。だから、
「取引しましょう」
「え?」
「交換条件よ。あなたは蓮子を奪いたい。私は蓮子を返したくない。つまり平行線。だから、お互いが納得できるよう話し合いたいの」
「……それを半分に割って、片方ずつ持ち帰るとか?」
冗談に聞こえなかった。冗談でもないのかもしれないが。
「でも、ね……取引って、取引するタネがあって初めて成立するよね? それを諦める代わりに、私たち、何を貰えるのかな」
「そんなこと言ってない。むしろ逆よ。私は……蓮子を諦める。いいわ、あなたたちに引き渡す。どうせ自分で勝手に突っ込んでこんなことになってるわけだし、自業自得よね、しかたない」
「なんだ、やっぱり死にたくなくなった……」
「その代わり蓮子と話をさせて」
理解しかねる、というように彼女は首を傾げる。一方で私は必死だ。喉の奥から悲鳴が込み上げてきそう。期末レポートをすっかり忘れていたことを当日に思い出したみたいな、そのことを担当教諭に相談しにいく時みたいな……どっちがマシかはともかく。
「今の蓮子は死体も同然。呼びかけても応じない、偽物の記憶に取り憑かれてる」
「うん、その方が食べやすいの。硬い野菜を煮詰めて食べるのと、おんなじ」
「も、元に戻せるんでしょ?」
「……たぶん、ね。やったことはないけど」
よかった。これで煮込まれた野菜よろしく不可逆だったら絶望だ。
「私は蓮子と話がしたいの。血の通った人間の蓮子と! それさえ叶えてくれればもう邪魔はしない、蓮子を連れてっていい」
「嫌だよ、めんどくさいもの」
「私も連れてっていい! 私の命もつける! それならどう!? どうせあなたが失うものは何もなくて、無抵抗の人間の魂がもう一つ分手に入る! 悪くない取引じゃない!?」
ほんとうに、はたから見たら必死な私はさぞ滑稽に映るだろうな。しかたない。有利な交渉はまず情報収集を土台とするものだ。その点で私は突貫工事で、ビスマルクのような政治的手腕も、マタ=ハリのようなコネクションもない。
あるのは、ただ、文字通り死んでも蓮子を連れ戻してやるって執念だけ。
「……まー悪くない、けど、このまま私たちがあなたを殺せば結果は変わらない、よね?」
「ただじゃ殺されないわ。気がついてるでしょ? 私は船も飛行機も使わずにこの場所に来た。どうやったか、わかる?」
「……」
わかるわけない。私だって原理は謎なんだから。けどそれが良かった。本人にもなんだかわからない力は、捕食者から見ればずっともっと面倒だろう。
それでようやく、ようやく少女の顔に逡巡の色が浮かぶ。ハッタリ万歳。
「どうしよ、みんな……日忌だけじゃ決められないよ、知恵を貸して……」
「え?」
ちがう、私に話しかけてるわけじゃない。見れば、私たちを包囲している水死体の亡霊たちと、盥をかぶった少女が、互いに視線を交わし合い、時には頷いたり首を振ったりしていた。
まるで……いや、これは会議なのだろう。人間には聞こえない超自然の言語で彼らは会話しているんだ。
息が詰まりそう。俎上に乗せられたまま、包丁を構えるシェフたちが刺身にするかムニエルにするか話し合うのを聞いている……そんな気分だった。
「……蓮子、大丈夫だよ。ぜったいにあなたを取り戻すからね」
蓮子の手を握りしめる。私の手汗でべとべとだ。蓮子の意識がなくて良かった。こんな様、恋人には見せられない。乙女として。
そうして、無限にも思える時間の果て、突然に辺りの霧が晴れた。取り囲んでいた亡霊が、黄昏色の陽光に掻き消える。
霧の先ではいつのまに日が沈みかけていたんだ。
半分にカットされた巨大なブラッドオレンジが、水平線の果てに溶け出している雄大な光景。
その鋭い逆光を浴びるのは扉日忌と名乗る少女一人。判決を下す裁判長のように厳かに、彼女は口を開く。
「わかった」
「……え?」
「それでいい。お姉さんの言う通りにしてあげる。それには意識を戻す。その代わり、お姉さんと二人分の命をもらう。抵抗も無し」
「う、うん」
それが正しいのかはともかく、ほっと肩の力が抜ける。これから死ぬと言われてここまで安心する機会もなかなか珍しいだろうな。他人事のような感想、自分で可笑しくって笑いそう。
もちろんそれは、少し、気を抜きすぎだった。でも許して欲しい。命懸けの綱渡りだったんだ。やっと対岸が見えて、なのに気をぬくなって……そんなの酷な話。
もちろん、言い訳だけど。
「嬉しそうだね?」
「え、いや……」
「お姉さん、日忌を馬鹿な妖怪と思ってる? でもね、私たちの中には、失意のまま自殺した大学教授や、調査中に嵐に飲まれた研究者、亡命した船ごと沈められた政治家、民衆を怒らせて海に放り込まれた領主……いい頭もたくさん混じってるの。だから、騙そうとしても無駄」
「騙そうなんて思ってない、私はただ……」
「いいよべつに、どうでも。私たちはいつでもすごいアイデアを思いつくの。幻想郷は海がないし、人間も好きに殺せないし、あそこに行くのはごめんだから、私たちは誰よりも必死なの……ね」
「げん……なに?」
「関係ない! なにを企んでいても関係ない方法よ!」
その時、いったい彼女は何をしたのか。私にはわからなかったし、たぶん今後もわかることはないだろう。
ただ、最後に見えたのは、壁のような海が迫ってくる光景だった。なす術もない私はただぼんやり、古い映画に似たような光景があったなと思い出す。あれもたしか大切な人との明日を取り戻そうとする、そんな話だったな、と……。
◯
「メリー?」
懐かしい声が私の意識を呼び戻す。また、夢かと思った。あたりは薄暗い闇。でも確かに蓮子の声がした。
あたたかな指先が私の頬に触れる。
遥か頭上から差し込むわずかなオレンジの光が、うすぼんやりと蓮子の瞳をちらつかせて綺麗。
「蓮子? いるの?」
「うぅ、頭いたい……もしかして昨日、飲み過ぎた?」
「え? いや……」
なんだか場違いな蓮子の科白に吹き出しそうになる。いやあるいは、もしかして全部夢だったの? すべては悪酒の見せた酷い夢?
なんて。
そんなわけがなかった。青白い光が私たちを取り囲み、照らしだす。あの怪異の少女がぐるりと私達の周囲を一回りした。開かれた口からあぶくが漏れ出る。
それで、ああここは海の中なんだ、と理解した。蓮子の方はギョッとしたような、一方で好奇心の輝きのようなものを双眸に宿らせ、不知火のような光のダンスを目だけで追いかけていた。呑気な奴。
「約束は果たしたよ。三分間だけ、待ってあげる」
「……私たちどうなってるの?」
海の中なのに、息ができる。体が濡れている感じもない。
にわかには信じ難い状況だけど、どうにも私たちは巨大なあぶくのなかに閉じ込められ、深海へと沈降し続けているらしい。なんでもありだな、まさに妖怪変化の技だ。
「話でもなんでも、さっさとしたほうがいいかも、ね……その泡はきっかり三分しか保たないの。ううん、もうあと二分半くらいかな……そうしたら泡が壊れて、冷たい海水が流れ込む。喉の奥に、肺の中に。私たちと一緒。せいぜい、楽しんだらいいよ。最後の『今』だから」
「ま、待って!」
「沈んだら、また来るね」
その言葉通り彼女は消え失せ、私たちは暗闇に取り残される。
もう海面からの陽射しは消え入りそうなか細さだ。
蓮子が端末をライトモードにする。彼女のこういう時の機転はほんとうに目を見張る。
「メリー、今のは? もしかしてやばい状況?」
私が首肯すると蓮子も眉根をしかめる。
ああ、説明する時間が惜しい。そう思ったけどそもそもの元凶は蓮子だって思い出す。だから、
「今のは日忌様ってやつ。あなた、それについて調べてたんでしょう?」
「ああ、あれか…………ちょいまち。もしかして私、犠牲者の列に並びかけてた?」
「さすが自称プランク並の頭脳」
今回ばかりは認めてあげよう。とにかくこれで第一関門クリアーだ。
言うまでもなく私は諦めたりなんかしてない。あんな訳のわからない連中に殺されるなんて真っ平御免よ。
そのためには何より、蓮子に正気に戻ってもらうのが必要だった。結局は私なんて、ちょっと変な目を持ってるただの女子大生。でも、蓮子がいれば話は別。蓮子と二人なら私たちは秘封倶楽部になれる。そうすれば、この状況だってなんとかできる気がするんだ。
「聞いての通り、私たちには時間がないの。だから――」
「あー待って待って。一つ質問!」
「なに、なに、時間ないのよ!? 聞いてたでしょ!?」
「いいから。とても大切なこと」
慌てる私を静止し、こほんと咳払い。
蓮子って伊達男――もとい伊達女なところがあるな、とどこか諦めた気分で思う私。
それで、
「メリーが助けてくれたのね?」
「……え?」
「だからぁ、日忌様に魅入られた私を助けてくれたのは、メリーなのよね? へんな霊媒師とか寺生まれのなんたらさんじゃなくて」
「そ、それはそうだけど。だからなに?」
「ありがとう、メリー」
蓮子が微笑む。あたたかい、血の通った表情で。それでようやく――ああ、私は蓮子を取り戻せたんだなって、目元が潤んだ。
ずるい奴。
「さてと! ま、だいたいメリーの考えそうなことはわかるわ。私を助けるのに手札を使い果たしたから、この宇佐見蓮子のホーキング並の頭脳を借りたいってんでしょ」
「ぶっ飛ばすわよ」
どうも蓮子には敬意ってものが足りない。あるいは高すぎる自意識と慇懃な敬意の折衷点がそこなのか。
なんて。呑気な感想を抱いていたその時。
ブシュッ――と鋭い音がした。
私と蓮子が同時に振り向いた先、泡の側面に小さな穴が開いていた。どぼどぼと流れ込む海水が、私たちの靴を冷たく濡らす。
その時の、重々しげに口を開く蓮子の表情ったら……
「……ははぁん、こうやって少しずつ溺れてくわけね。泡が壊れるってもっとこう、爆縮みたいなイメージを抱いてたんだけど」
「同じく」
「趣味が悪い。最低」
「同感」
「で、持ってる手札は?」
「お察しの通り使い果たしてる」
「ああそう……メリーの力は使えないの?」
「元より制御できるものでもないけど、こんな海の底じゃ無理。境界も何もあったものじゃないわ」
「海流の境界とかは?」
「繁殖のために故郷の川へ帰る鮭じゃあないのよ」
会議は踊る、されど進まず。すでに水かさは私たちの膝上に達しようとしている。
さすがに、ちょっと、かなり、恐怖が首をもたげはじめた。
蓮子が私の震える手を取る。蓮子の手もまたじっとりと汗ばんでいた。お互い様というわけだ。どちらともなく相好を崩し、少し、身を寄せる。
「……思いつきそう?」
「ん、まあ、なんとか」
ダメだなこれは。目が泳いでいる。泳ぐのはこれからだっていうのに。
まあ、なんだってそう上手くはいかないか……。
「ねえ蓮子」
「ん」
「ごめんね、綺麗にできなくて。もっとなにもかも上手くできたら良かったんだけど」
「べつにいいよ。私のせいだし」
それはそうだ。でも、私が放っておけば蓮子は苦しまずに死ねたはず。
なぜ私はこんな「取引」を思いついたんだろう。
もちろん理由はある。勝算も……蓮子なら、蓮子と私ならなんとかできるかなって。
でも。
もしかしたら単に私は、蓮子との「今」をもう一回分欲張っただけなのかもしれない。
その一瞬を過ごすために残りの人生すべてを投げ捨てた……そう謗られても否定はできない。
「私、もう一回蓮子と話がしたくって」
「ありがとう」
「なんで、お礼なの」
「メリーと一緒ならね、怖くないし。秘封倶楽部最後の活動として死後の世界はお誂え向きだわ。ちょっと、カッコつけ過ぎだけどね」
「……やっぱりなにも思いつかない?」
「うん、まあ……ごめん」
「いいよ。急な話だったし」
「そりゃね。でも、人生の分岐点なんていつでも急に来るものよ……」
私たちの顎下に水面が触れる。蓮子がはにかむ。私は泣きそうだってのに。
抱きしめ合う私たちの胸元だけがあたたかい。それがいっそう迫る死への恐怖を喚起する。どくん、どくん、と蓮子の鼓動。
「……こんなのも、いい思い出になるよ。きっと」
「いつ振り返るのよ」
「地獄で」
「天国じゃあないのね」
「どっちでもいい……未来が潰えても、私たちが生きた過去は本物だから。振り返る人が居なくなるだけで」
「ねえもっと詰めて……息できない」
「メリー、がぼっ、ねえっ」
「なにっ……」
「辞世の句……読んだ方がいいかな?」
知るもんか。そう突き返すまえに海が来た。あるいは蓮子は最後まで私を励まそうとしてくれたのかもしれない。もう、それどころじゃないけれど。
いざその時がくるまでピンとこなかった「死」が一斉にリアリティの色合いを増し、喉奥に流れ込む塩辛い水流を感じた生存本能が最大音量の警報を放つ。
私の意識とは無関係に、肉体は酸素を求めて海面を目指す。でも、もう、陽の光は波間に消えた。深すぎるのか、太陽が沈みきったのか、両方か。そもそも水をぐっしょり吸った服は重すぎてとても泳げたものじゃない。
ああ、終わる、終わってしまう。
重力の縛りを失った携帯端末がぐるりと一回転し、真っ白な光が蓮子を薄ぼんやりと照らし出す。人の目は水中のものを見るようにはできていない。蓮子の表情も、もう、よく見えない。
がぼがぼと気泡が肺から漏れていく。苦しい、苦しい……でも、寂しくはない。
蓮子の最後の言葉が酸素欠乏症に陥りゆく脳裏に響いてる。
私たちが生きた過去は本物だから。振り返る人が居なくなるだけで
そう、私たちの今は、未来は、永久に過去に封じ込められるに過ぎない。そこに横たわるは思い出という境界線。たとえ妖怪でも、きっと神であれ、その境界をまたぐことは――
境界?
「ごぼぼっ!」
声にならない。馬鹿だ、私。
そう――なんで気が付かなかったんだろう。
探し求めていた境界はずっと、そこにあったじゃない。さんざん苦しめられてきた、今と過去の境界。
思い出の境界線が。
もちろんそれは超え難い境界でもある。他人の過去、他人の思い出ならば。
でも。
今ここにあるのは、私たちの間に取り戻された過去は、私のよく知るそれだった。
つまり、秘封倶楽部の過去。秘封倶楽部の思い出。
それなら私、よく知っている。
ありがとう、蓮子。
私はあなたに気が付かされてばっかりね。だからここからは私の最後のもう一仕事。
そして……私は扉に手をかける。もちろん実在する扉があるわけじゃない。けど、なんとなくそこにある気がするんだ。私たちの思い出につながる境界が。
その一方、私たちの周囲ではほの暗く青白い炎が慌てたように飛び交い始めた。さぞかしふんぞり返ってたんでしょうね。もう遅いわ。
「なに? なにをしてるの? 約束が違うわ、約束が違うよ。ねえ、あなたたちは死ぬんだよ。ここで死ぬのよ。ここで死ぬんだ! 私たちと同じになるの!」
蓮子を引き寄せ、もう一度抱きしめる。まだ死んじゃいないない……はずだ。
事実、海水越しに揺らぐ蓮子の瞳と目が合う。蓮子もまた私と同じことを考えている――そんな気がする。
だから。
互いの意思が相通じ合っていることを証明するように私たちは、言葉もなく、握りしめた互いの手を放した。
扉が開かれる。私たちの思い出が今に向けて逆流し、未来へと繋がった、そんな気がした。
だからもちろん、そこに現れたものを私たちは知っている。それは確かに私たちの思い出の一ページ。
伊弉諾物質。
そう。思えばここは海の底で、地上よりもずっともっと近いんだ。遥かに沈むイザナギプレートに。神代の世の残り香に。
「だめよ! こんな――こんなのずるい! ずるだ! いくなっ! そいつを返せ! 私たちは守ったのに、ちゃんと約束守ってあげたのにっ!」
まばゆい――まばゆい輝きが、ひかり、ほとばしり、過去の亡霊を切り裂いていく。
その光景はまるで、深海の永遠の夜に昇った朝日のようで。
それがなんだか凄く、とても、ほっとした。
――ああ、明日がやってくるんだなぁ。
それは奇跡のような日常で。だけどなんて、なんて素晴らしいんだろう。そう思わずにはいられなかった。
【epilogue】
「……生きてる?」
見開くと青空だった。
波の打ち砕ける音。
背中がゴツゴツと痛くて、ああ、あの岩場で横になってるんだと気がついた。
「たぶん」
「おっけ」
顔だけ横を向くと、蓮子がいた。髪がびしょ濡れでおばけみたい。まあ私も似たような状況だろうが。
それで、数秒か、数分か、なんとはなしに見つめ合ったまま波の音を聞いていた。
込み上げたのは笑い声だった。
私も、蓮子も、意味もなくくすくすと肩を震わせ、笑い合う。ああ、おかしい。私たちはいったい何を経験したんだろう?
「ほんと、ひどい目にあった。蓮子のせいで」
「ごめんごめん」
「さっきのことだけじゃないわ。大変だったんだから。蓮子がおかしくなって、私もう破局だって思った」
「それは……本当にごめん」
「ほんとよ」
結局、蓮子の「昔の恋人」はそんなもの存在しなかったわけだ。なんたる肩透かし。というか、あの水死体共は悪趣味すぎる。それほどこの世に恨みが深いってことなのか。今となっては彼らが本当に存在したのかすら、よくわからないけれど。
「ところで私たち、どうなったの? 過去に戻った、とか。そういうことはないよね?」
「ううん、たしかに今日は昨日の続き。残念でした。むしろ八時間くらい飛んだかな。気絶したまま寝てただけかもしんないけど」
驚き。蓮子の能力って便利なんだ。携帯端末も何もかも、今はもう海の底だ。
「睡眠はタイムリープの最もプリミティブな業ね」
「そ。だからタイムスリープってわけ」
「くっだらな……」
蓮子のつまらないギャグのせいで、どっと疲れが蘇る。
こんな言葉を聞くために頑張ってきたのか、私は……。
だからというわけじゃないけど、少しだけ意地悪な気持ちが私の心に顔を出す。ねえ、蓮子――と、私の薄ら笑う声。
「もし私が昔の恋人のことで悩んでいたら……どうする?」
これは一種の仕返しのようなものだ。さんざん苦労を書けさせられた仕返し……そのつもりだったのに、蓮子は逡巡すらせずに、
「べつにどうもしない」
だと。
私が言い返そうとする前に、彼女は続けて、
「だってさ、今のメリーと時を刻んでるのは私でしょ。他の奴との過去なんてどうでもいい。それがどんなに重くったって、それがどんなに膨大だって、今を一緒に歩ける私が昔の恋人なんぞに負けるわけ無いわ。だから好きなだけ悩んで、って感じね」
だ、そうだ。
新しくわかったこと。もし今回の件で立場が逆だったら、私はそのまま蓮子に放置されて死んでいた。
などと微妙な気持ちになっている私をよそに、蓮子はなぜかご機嫌になる。たぶん、自分がかっこいいことを言った気分になってるんだろうな。それはちょっと、かわいい。
「ようするに大切なのは過去じゃなくて、未来なのよ。未来に向けて今を生きること! ほら昔の歌もこう言ってるでしょ。しあわせはぁ~歩いてこない~! だ~から歩いてゆくんだねぇ~! 一日一歩! 三日で三歩! 三歩すすんでニ歩さがる~!」
波の音に混じって、蓮子の下手くそな歌がこだまする。呑気に、平和に。
……ところでこの後、私たちは家に帰るために大変な苦労をする羽目になったのだが、ここに記すには余白が狭すぎる。
ただその道程、宇佐見蓮子さんの「星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力」がかつて無い程の活躍を見せたことは、彼女の名誉のために、付け加えておく。
白い画用紙に引かれた、穢れなきホワイトボードに引かれた、打ち壊された嘆きの壁に引かれた、天地開闢の光の中に引かれた、一本の線。
私の瞳は、境界を見破る私の瞳は、そこに関所を見つける。くぐり抜けられない扉を見つける。
今と、過去。二つの世界に横たわるそれは思い出という名の扉。思い出という境界線。
例え神でさえ、その線を超えることは叶わない。
◯
あ
始まりは、真夏の暑い日。
久しぶりのお家デートだというのに、私たちの空気は悪かった。
もっとも外はさらに地獄で、窓ガラスという境界を超えるのもまた能わない。
青息吐息で冷風を吐き出すエアコンの駆動音。その恩寵の下で私たちは、このシェアハウスに一つしか無い、フリマアプリで買い叩いた壊れかけのテレビジョンを奪い合っていた。
「ねえ、そろそろチャンネル変えていい?」
そう、いつだって最初は穏やかに始まる。私の抗議はピアニシモ。不満はいつでも丁寧に、それとなく提示するのが私のポリシー。
でも私はオペラ歌手のような声量を持ってはいないし、決まって蓮子に無視される。
なにせテレビが吐き出すのはいつだって、どこどこの首相が不正をした、とか。どこどこの国で戦争が続いている、とか。能面のような顔のアナウンサーが淡々と読み上げるニュースは尽く暗澹憂鬱。耳から毒気を流し込まれている気分になる。だってのに、蓮子は身じろぎもせずに世界の悲惨さから目を背けない。
それはいいことだろう。だけど私は、せっかく二人揃っての休日なんだから、互いの事以外は考えずに過ごしたかった。この今をゆっくり過ごしたかったのに。
「ねえ、蓮子」
「ん」
「ん、じゃなくて……」
「んー」
「チャンネル、変えてよ。ニュースなんて暗い話ばっかり。ていうかもう消してよ!」
「わかった、わかった」
蓮子は握りしめたテレビのリモコンを手放さない。この顔は「めんどくさいし努めて無視」の顔。
はあ、もう。議会も開かず権利を行使するなんて横暴だ。ボストンの自由の子らも呆れ顔。
だから私の抗議も徐々に勢いを増し、メゾフォルテ、フォルテ、やがてフォルテシモに至り、蓮子の境地もまた無我に至る。
「ねえ蓮子! テレビは共有財産って最初に取り決めたでしょ!? 約束守らないなら、テレビ、買わなきゃよかった! なにが『この時代だからこそテレビ』よ! また蓮子に騙された!」
「うんうん、もうちょっとだから」
「ニュースにもうちょっともクソもない!」
「あーほらクソとか言わないで。私の彼女はきちゃない言葉使わないから」
「蓮子!!」
ああ言えばこう言う。蓮子は頭がいいから、というか基本的に自分の思考と思想を譲る気がないから、いつもこうなる。
そのうえ何が苛つくって、ニュースをひたすら見続ける好奇心とリモコンを手放さない自我の強さは、結局は、蓮子の美徳の裏返しだってこと。
危険も顧みず、秘封倶楽部の活動に瞳を輝かせる蓮子を受け入れるなら、このぐうたらな蓮子もまた愛さなければいけない……のだろうか?
「あーもう! 久々に二人での~んびりできると思ったのに!」
「してるじゃない、のんびり。メリーも好きなことしてていいのよ」
「テレビ見ながらなんて嫌! 二人だけで過ごしたいの!」
「退屈じゃない、だって。目的もなく快楽だけを追い続けて、明日になったら忘れてしまう。そんなのつまらないでしょ」
「だからってなにも、ニュースなんかかけなくっても」
「情報とは人類の過去の集積、つまり力よ。この不確定な時代を生き残るには日頃から力をつけないとね」
「あっそ……力をつけたきゃ筋トレでもしてたら」
蓮子はいつもこうだ。
合理主義。そして功利主義。最大多数の最大幸福。
たしかに、私の好きなことへ蓮子が無理に合わせれば幸福の和は一。けれど二人がべつべつに好きなことをするなら、総和はその倍。ベンサムもびっくりの単純計算。けれど恋愛の感情は効用の勘定だけじゃ回せないって、蓮子はちゃんと気がついてるのかしら?
もちろん蓮子のことはずっと変わらず大好きだけど、一緒に暮らすということは、相手の嫌な部分をも受け入れるってこと。
受け入れるのは……構わない。それもまた蓮子という人間。
でも、時々怖くなる。どこまでも合理的なあなたは……もし私がいなくなった時、いったいどんな反応を示すんだろう?
泣いて欲しいとは言わない。でも、「別れた人間のことで哀しむのは時間の無駄ね」とかなんとか言って、さっさと次の人を見つけてしまうんじゃないの?
ソファに身を預ける蓮子の肩にさりげなく、もたれかかってみる。蓮子のにおいがする。でも、彼女は食い入るようにテレビを見つめたまま、目を見開き、閉じ忘れたかのように口を開いている……。
「蓮子?」
妙な気配の揺らぎを感じて、蓮子を見上げた。それから私もテレビ画面を見やった。
ヘリか、あるいはドローンでの空撮映像だろう。私は一瞬、そこが草原かと思った。モンゴルかどこかの、雄大な緑の野っ原。だって画面には青緑色の絨毯が広がっていたから。しかしよく見ると波立っていて、それが海だと気がつく。
アナウンサーがどこかの貿易会社の名前を読み上げる。ついで人間の名前を告げていく。
映像が切り替わり、海面がアップになる。砕けては一瞬に消えていく波がよく見えるようになった。その合間で揺れる赤色の物体。なにかの動物を模したぬいぐるみ。それと、
「え? なに、あれ?」
思わず声がでた。
白い鯨の死骸……そんな風に見えたのは、だぼっとした服を波間に揺らめかせる、人間の、女の子。
まさか水死体……と思って目をこすると、もう人影は消えていた。倫理観がとても高くていらっしゃるテレビ局の方も、変わらず同じ映像を垂れ流していた。
じゃあやっぱり気のせい?
『――沖で転覆したと見られる――号は未だ発見されておらず、残骸の回収が――』
映像から響くプロペラの爆音がうるさくって、アナウンサーの声は途切れ途切れにしか聞き取れなかった。とはいえ波間に消えた少女に気がついた様子はない。
いや、そもそもそんなものは映らなかったんだろう。きっと積荷の布かなにかを見間違えたんだ。馬鹿馬鹿しい。
『なお、日本人の乗船は現在確認されていません。少なくとも――』
それにしてもこの手のニュースって、どうしてまず日本人の安否から気にするのだろう。もし私が読み上げられる時は日本人の枠に入るのだろうか? それとも異国の誰かさんとして後回しにされるのだろうか。
私のアイデンティティの半分は日本の地にある。しかし水を浴びせられるのはいつだって突然だ。民族性の境界は時に国境よりもグロテスクに人と人とを切り分ける。
とはいえ。
たしかに悲惨だが特筆すべきニュースという程でもない。もちろん悲劇は悲劇としてそこにあり、本来無視するべきではないにしても……モニター越しの死に入れ込むには、私たちの主観はあまりにも頼りない。
なのに。
なのに蓮子の顔は酷く青ざめて。手が震え、汗ばんでいる。
「蓮子?」
「ん……」
「どうしたの? まさか……知り合いが乗ってるとか?」
「そうじゃ……ないけど……」
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
「ご、ごめん……ちょっと休む」
まるで、ちらつく旧式のテレビ画面が蓮子の生気を吸い取ってしまったかのよう。
ふらふらと幽鬼のように立ち上がり、自室へと消えていく蓮子。
パタリ、扉が閉まった。
私はと言えば、あまりに突然のことに脳みその理解が追いつかない。慌てて追いかけても、蓮子の部屋に続く真っ黒い扉は閉ざされていた。
以前に私が繕った「蓮子のおへや」というファンシーな木製看板が、ゆらりゆらり、虚しく揺れている。
「蓮子? 体調、悪いの?」
こん、こん、こん。
返事はない。ドアノブに手をかけると、がちゃりと冷たい手応え。
そう、私たちは同じ空間で過ごしているが、しかし同棲ともまた違う。いわゆるシェアハウス。互いの部屋は別々で、合鍵も作ってない。
「恋人同士でもさ、プライバシーとプライベートは守られるべきだと思うのよ」
そう発案したのは蓮子だ。私は同じ部屋でもよかったけど、蓮子はついに譲らなかった。たぶんそれで良かったんだと思う。いくら愛していようとも時には、顔を合わせたくない日だってある。そんな憂鬱な日に部屋が一つしか無ければ残酷だ。人間は一人で生きるには脆すぎるが、二人で過ごすのも容易ではない。面倒な生き物。
けれど……ここまで一方的な拒絶は初めてのこと。正直私は面食らっていた。あんなにも弱々しい蓮子は見たことがない。まるで別人だ。しかもなんの前触れもなく、いきなりなんて。
「ごめんね、メリー……」
扉の奥からか細い声が響く。見えるわけ無いと知りつつかぶりを振る私。
「大丈夫、大丈夫だから。辛かったら無理に話さなくていいし、一人になりたかったら――」
「思い出しちゃったの」
「え?」
「さっきのニュースを見て、思い出しちゃって。事故のこと……」
海難事故のニュースのことだろうか。思い出す、なにを? 考えてもわからない私は、辛抱強く蓮子の言葉に耳を傾けるしかできない。
しばし、長い沈黙があった。
もう語ることをやめてしまったのだろうかと思うと、再び蓮子のきれぎれの言葉。
「昔ね、まだメリーと会う前」
「うん」
「船に乗ったの。恋人と一緒に」
「こ……」
こいびと。私がその言葉を理解しようと、咀嚼しようと努めている間、蓮子の言葉は続く。
「きれいな海だった。きれいで、でも、怖くって」
「う、うん」
「そして沈んでしまった」
「……え?」
「沈んでしまったの」
情報の過剰投入。私の頭は既にパニック状態。蓮子の昔の、私とは違う、恋人。その彼女――彼? わからないけどとにかくそいつと、蓮子は船に乗っていた。そして事故にあった? あのニュースで報じられていた船のように?
もちろん聞いたこと無い、そんな話。まあ蓮子は美人だし、ちょっと変人だけど、私以前に恋人の一人や二人いたっておかしくない。それはいいの。ほんとに。
けれどそんな大きな事故に巻き込まれてたなんて過去、初耳だ。蓮子の知られざる傷痕。身構えてなぞいなかった私は、もうすっかり動転してしまって、どっどっと胸の鼓動が早鐘を打つ。
ただ一方で――脳みそとは不思議な器官。泡を食ってる私の裏で、どこか冷静に違和感を訴える私がいる。
蓮子はあの海難事故を見て過去を思い出した。それは理解できる。けれど前に私と『タイタニック』を見た時は、途中からいびきをかくくらい退屈してたじゃない。
混乱する私、冷静な私、とはいえ生物は危機への対処を優先するよう進化してしまった。延焼する野火は瞬く間に脳裏を焼き尽くし、違和感もまた灰に帰る。
ようするに……頭の中がまとまらない。上滑りする現実の中、蓮子の声だけが訥々と響いてく。
「みんな沈んでしまった。あの人も、私も……」
「で、で、でも、蓮子は生きてる」
「私は生きてる」
「そうよ、あなたは生きてるじゃない」
「私だけが助かったんだ」
「あ……」
瞬間、扉の向こうでさらにもう一枚の戸が閉まるのがわかった。蓮子の心の扉が。
未練がましいとわかっていても、私はつい口を開いてしまう。
「夕飯、どうする……」
答えはなかったし、いっそう虚しくなっただけだ。
◯
私の瞳は境界を見る。
それは持って生まれた才能で、いわゆるギフテッドなのかもしれないが、べつに嬉しくはない。昆虫や鳥類が紫外線や赤外線を見分けられるのと同じこと。しかし彼らのように生存活動に繋がるわけでもないので、正直、宝の持ち腐れと言うほかない。
ただ、まあ、そのおかげで私には、人や物が持つ「領分」とでも言うべきものが他者よりくっきり理解できた。
国境は国と国の領分を規定している。県境は県と県の領分を規定している(ここは府だけど)。それと同じことで、人間一人一人にも己の領分というものがある。
例えばパーソナルスペース。一般的には公衆距離、社会距離、個体距離、密接距離の四種で区切ることが可能らしいが、実際にはもっと複雑だ。
特に蓮子は神経質なので、半径ニメートル以内に人が入るとそれだけで苛立つ。これは通常の個体距離よりかなり広い。しかも面倒なことにそういう感覚を「他人も同じだ」と思い込んでいる。一方で私は身体的距離をあまり気にしない。だから他人が間近にいても全然気にならないのだけど、それを見るだけで蓮子はめちゃくちゃに嫌そうな顔をする。
とはいえ。
ビザとパスポートがあれば(基本的には)国境を超えられるように、人間の身体的境界も絶対のものじゃない。越えようと思えば乗り越えることは可能だ。それをしたいかは別として。
【@usausami : 昨日はごめん】
自分のベッドで目を覚ますと、もう12時を回っていた。昨日あんなことがあってよく眠れるものだと我ながら思う。基本的に私は図太いらしい。
蓮子からのメッセージはシンプルで、それがかえって不穏だった。喧嘩した次の日の蓮子のメッセージはもっとこう、なんというか……めんどくさい。
こんな風にしおらしい謝罪は蓮子らしくない。よっぽど参ってるのか。
そもそも昨日のは喧嘩じゃない。蓮子が一方的に閉じこもってしまっただけで。
もう……落ち着いただろうか? そう期待して部屋を出たが、向かいの扉はなお閉ざされていた。もっと言えば、家からは人一人分の気配しかしなかった。蓮子の子供っぽいローファーが玄関から消えていた。
【@MarYbel : いまどこにいるの?】
蓮子のメッセージは明朝六時ごろだったし返信は期待薄。
かと思っていたら、しゅぽん、という間抜けな音と共に即レスが返った。
【@usausami : もうすぐあの人の命日だから】
【@MarYbel : 前の恋人の?】
【@usausami : うん】
【@MarYbel : 私も一緒にいったらダメ?】
少し斬り込みすぎたかな、と思えば案の定で、
【@usausami : ごめん】
とそっけない返信。謝られたって困る。蓮子の説明不足は今に始まったことじゃないけど、それは単にめんどくさがってるだけで、こういうのじゃない。
私には今、携帯端末越しだというのに境界が見えていた。私と蓮子を隔てる境界。拒絶の境い目。冷たい鉄格子に向けて叫んでいるような気分。
昨日まであんなに近くにいた蓮子が、急速に、どこか知らないところへ遠ざかっていく感覚。境界の向こうへ掠れてしまう蓮子の背中。
普段なら、境界を超えてしまうのは私の役割なのに。それで、ああ……蓮子もいつも、こんな気分だったんだろうかと夢想する。いいや、怪しいものだな。
【@MarYbel : 命日って、去年は行かなかったよね?】
【@usausami : 忘れてた】
【@MarYbel : 嘘でしょ】
【@usausami : 嘘じゃない】
【@MarYbel : 急に思い出したってこと?】
【@usausami : そう】
しゅぽん、しゅぽん、しゅぽん。互いの顔の見えない会話は、奇妙にも肉声を介するより素早く進んでいた。
が、蓮子のほうが急につんのめる。十秒、二十秒とレス無し。面と向かっての会話ならちょうど、考えあぐねて蓮子の瞳が泳いでる頃合いだろうか。
なんて、いつも通りの光景もどこか懐かしく感じてしまう。
しゅぽん。
【@usausami : なんで忘れてたんだろう?】
知るもんか。
それっきり蓮子は黙ってしまった。既読もつかない会話文を送り込むのもいい加減に疲れて、私は自分のベッドに逃げ込んだ。
わけがわからない。
それが率直な感想。急に昔の恋人の話をしだして、対話拒否したまま家出とは……普通なら破局モノの対応な気がするが、狐につままれたような感覚の方が強くって怒りが湧いてこない。ただ、私たちの関係とか日常とか平和とかってこんな簡単に壊れるんだな……って、そういう虚しさだけが渦巻いて。
「前の恋人かぁ……」
どんな人だったんだろう。女か男かすらわからないけど、あの蓮子がここまで必死になるということはよっぽどの大恋愛だったに決まってる。
そう、これは一種のリストカットだ。
要らぬことを考えて、痛みを感じて、血を流して、それで「ほら、私はちゃんと蓮子のことが好きなんだ」と確認するための儀式。刃を入れるのが腕から心になっただけ。
それでとりあえず言えることは、あの破天荒な蓮子に我慢できる時点で相当な人格者ってこと。あるいは私のように度を超えてぼーっとしているか。
いや、と私は自分の考えを打ち消す。
そもそも昔の蓮子と今の蓮子が同じである保証はない。私は蓮子の一側面しか知らない。ほんの少し前に大学で出会ったばかりなんだから。
それはなんの変哲もない事実というやつで、私たちは生まれも育ちもぜんぜん違う。肌の色も違うし、目の色も、髪の色も違う。
けれど……もしかしたらその前の恋人は、私の知らない蓮子をたくさん知っていたかもしれない。私が二度と見ることの叶わない蓮子の過ぎ去った一分一秒を共に過ごした、蓮子の持つ過去を知っている誰か。思い出の境界線の向こう側、私ですら踏み込めない心の絶対不可侵区域に潜む影。
……途端、破滅的なジェラシーと吐き気が込み上がる。右手の爪を総出で左手首に食い込ませ、なんとか冷静な意識を保持。
まったく、恋とか愛とかいう感情は実にへんてこだな。私は蓮子のことをちっとも知らないのに、一方じゃ今後何十年も一緒にいたいと思ったりする。フェニルエチルアミンとオキシトシンのタップダンスに巻き込まれ、永遠無限に苦悩する私たち。
「……蓮子のバカ」
そうわかっていても、わかっているのに、わかっているから……悔しかった。蓮子は私の一番大切な人なのに。なのに、蓮子にとって私は一番じゃないの?
手首に立てた爪が食い込みすぎて、血がにじみ始める。
まったく部屋を別々にしておいてよかった、と思う。別れていて尚、ここには蓮子との日々が染み付きすぎている。息が詰まる。あっという間にもう限界なんだ。このままだと私は――蓮子のことを嫌いになってしまう。呆気なく。ひと目見て恋に落ちることがあるように、たった一瞬のうちに誰かを嫌いになることだってまたありえる。
でも、それは嫌だから。こんなわけのわからないまま蓮子との関係が壊れてしまうなんて嫌だから。
私は取るものも取らず支度を済ませ、日常の境界を飛び出した。正しくは、逃げ出した。外は真夏の炎天下。それがかえって心地よかった。
◯
「共に暮らす」とは不思議なもので、暮らす相手のことはなんでも理解できるような気分になる。
好きな食べ物、洗濯物の干し方、どれくらいの頻度で部屋を片付けるのか、許容できる清潔感、深夜に出す物音の量、朝昼晩の生活リズム、エトセトラエトセトラ……。
一方でそれらは断片に過ぎない。眩い朝の結露が地球上の水分のごくごく一部に過ぎないのと似ている。日常生活に付随する僅かな「人となり」への理解は、とどのつまり共同生活を円滑に進めるため以上のものではなくて……ようするに私は、蓮子のことをちっとも知らなかった。
その結果として私は、百年以上前から代わり映えのしてなさそうな京阪本線にがたごと揺られている。
車窓に流れゆく、真夏の京都のトゲトゲした町並み。
ちなみにトゲトゲとは物理的な外観についての話。京阪本線とは違って建築の進歩(というより流行の刷新)は凄まじい。黙示録の塩の柱めいて屹立するのっぺらい先端ビル群。先端は最先端の意なのだろうが、はっきり言って尖端の方が似合っている見た目だ。そこに押し込められた何百何千何万という生活の境界が、ほんの数秒のうちにゆきゆきては消えてゆく。彼らのことを理解することはできないし、したいとも思わない。私が知りたいのは蓮子のことだけだ。初めてあの子に出会った時から今日の日まで、きっと、ずっと。
ただ難点は、宇佐見蓮子という人間がめったに人に素顔を見せないということだった。
「はぁ……」
もしも立場が逆だったら話は早い。蓮子は私の友達を何人かつかまえて話を聞くだけで良い。「ああメリー? あいついっつも宇佐見蓮子ってやつの惚気ばっかしてるよ。え、あんたが蓮子?」って、同じ研究室のAちゃんやらFちゃんやらが喜んで教えてくれるだろう。
残念ながら蓮子にそういう友人はいない。少なくとも聞いたことはない。そりゃまあ元カノ(カレ?)と海難事故に会ってたなんて知られざる一面もあるらしいけど、これは間違いない。だってキャンパスを歩く時の蓮子は、というか私と二人きりじゃない時の蓮子はいつでも、「なによ私になんか文句ある?」ってギラギラした目を世界に向けている。あれで友達ができるとも思えない。
そう、だから。
宇佐見蓮子という人間のことを知るために私は、京都で最も古い歴史を持つ我らがウニベルシタスの、そのさらに奥底へと潜り込まねばならなかった。
こん、こん、こん。
ノックの音が軽く廊下に響く。今じゃめっきり見かけなくなったリノリウム材の床に、よくまあ電流規格が合うもんだと思える古めかしい蛍光灯がちらつく中、私の相対する真紅の扉は明らかに異様なオーラ(あるいは異物感)を纏っていた。ドアプレートに印字された「超統一物理学研究室」の厳しい文字列が赤い配色となんともアンバランス。
そうしてぽーっと待っていたけれど、返事はない。もう一度ノックしようとして、後ろから声がかかった。
「あんた学部生?」
「ひゅい!?」
素っ頓狂な声を上げて振り返ると、セーラー服姿の女性が訝しげに見つめていた。この人こそ高校生かなんかじゃないの……と思いつつ、私は頷く。ため息が返った。
「なんの用事か知らないが、教授に会おうってんならやめときな。学部生じゃあトラウマになるぜ。それか新歓でカルトサークルに引っかかった奴みたいになるぜ」
「あ、あの、宇佐見蓮子って子の……友達、なんですけど……」
「宇佐見? ああ、知ってるよ。学部生なのに教授と"会話"できる奴なんて珍しいからな。伝言なら聞いとくぜ」
「い、いえその……岡崎教授ってそんなに怖い方なんですか?」
曰く、岡崎研究室にだけは近づくな。この大学に入って真っ先に教わった警句の一つ。
おそらく教授の助手なんだろう女性もそれを心得てるのか、困ったように言葉を濁す。
「まあ怖いっつーか……頭おかしいっていうか……」
「え……で、でもどうしても会いたいんです! 急な用事でアポも取れなくて……お願いします!」
「なんか切羽詰まってんね。まあいいや。どうせあの人暇だろうから、会ってみるか? いざとなったらパイプ椅子でぶん殴ればいいし」
さらりと物騒なことを言ってのけ、助手さんはガンガンと遠慮もなく扉を叩く。
ああもう帰りたい。でもこれも蓮子のためだ、蓮子のため、蓮子のため、蓮子のため蓮子のため蓮子のため……。
「教授! 客だぜ! いるんだろおい!」
ていうかこの人、本当に助手なんだろうか? 借金の取り立て人かなんかじゃないの? そう思うくらいドアを叩く拳には恨みが乗っている。
そして、既に警句を無視したことを後悔し始めている私の眼前で、真紅の扉がゆっくりと開いた。昨今の地獄の入り口は自動扉らしかった。
「ほら、学部生に悪影響が出るとさ、学事から苦情来るんだよ。おまえもほどほどで切り上げろよ」
もはや優しいんだかなんだかわからない助手さんの言葉を背に受け、私は研究室へ踏み入れる。その先で待っているのは阿鼻叫喚か、血の池地獄か……そう身構える私の視界に広がったのは、案外、普通の研究室だった。全体的に赤色で統一された家具類は確かに目を引くが、それぞれがしっかり調和しており、この部屋の主のセンスの良さを伺わせる。ソファの上に並べられた苺柄のクッションが可愛らしかった。
ただ唯一、執務椅子に腰掛けた異常格好の人物を別にすれば、だが。
「あ、あの……」
魔術師のような赤い衣装を纏うその人物は、魔改造されたヘッドマウントディスプレイのような装置を被り、時折楽しげに口元を歪めている。装置からは色とりどりのコードが伸び、唸りを上げるサーバ群へと接続されていた。その隣のディスプレイ上で、無数のシェルウィンドウが津波のような文字列を吐き出し続けている。
「えっと……」
側で突っ立ってる私に気がついてないんだろうか。待てど暮らせど岡崎教授(推定)が現実に戻ってくる気配はない。それで仕方なく、岡崎研究室にまつわる第二の警句を実践することにした。
「これ、つまらないものなんですけど……苺のケーキです」
その瞬間、岡崎教授の雰囲気が目に見えて変わる。眼前に横たわっていた対話拒否の境界がくにゃりと歪んだ。
曰く、岡崎研究室に行かねばならぬ時は苺のケーキを持っていけ。偏食の豫母都志許売でも出るんだろうかと思ったが、効果は覿面だった。共有知バンザイ。
そして無造作に脱がれた装置の下は幸いちゃんと人間で、まつげの長い瞳が助手さんをキッと睨むと、静かでありつつも鋭い声が命じた。
「ちゆり。お客様が立ったままじゃない。椅子を持ってきなさい」
返答の代わり、助手あらためちゆりさんがパイプ椅子を運んでくる。なんだか申し訳ない気持ちで腰掛けると既に、教授は私の持ってきたケーキ屋の袋を手にしていた。いつの間に?
「あ、えと、いちおう駅前『ショコラ』のデラックス苺スイートです。お口にあえば幸いなんですけど」
「一日20個限定のやつ!?」
「え、あ、はい」
「ちゆりこのバカっ! 大切なお客様をパイプ椅子なんかに座らせてんじゃあない!」
「ダイジョブです! パイプ椅子でダイジョウブです! そ、それよりご相談があるんですけど!」
「……その謙虚さ、素敵ね。聞きましょう」
どっと疲れた。物理学の方面では本当に凄い方らしいけど……しかし、この人といつも話してるという蓮子も蓮子で侮れない。さすがは自称プランク並の知能、ということにしてあげよう。そういう問題でもない気がするが。
「……ふむ。宇佐見蓮子について知りたい、と」
それで、私が一通りのいきさつ(半ば痴話喧嘩めいているが、真面目に聞いてくれた)を話し終えると、教授は神妙に息を漏らした。ごくり、私が間抜けに息を呑む音。
「はじめに言っておくけど、私も担当教員として以上のことは知らないわ。もちろんあの子の科学への知識と熱意は理解してるけどね。一緒に暮らしていたあなたが知らなくて、私が知ってることは、ほぼ無いんじゃないかしら」
「そ、そうですよね……」
「とはいえ、そうねぇ。確かにいつも冷静な蓮子ちゃんらしくない振る舞いだわ。あの子って恋人がいなくなっても『別れた人間のことで哀しむのは時間の無駄ね』とか言ってるタイプかと思ってた」
宇佐見蓮子という女は恋人への未練とか情を引き摺らない、というのは周囲の共通見解らしい。かなしいやら、なさけないやら、ああ……。
肩を落とす私をよそに教授は続けて、
「まあ、あえて理由を探すなら……サバイバーズ・ギルトという言葉を聞いたことはある?」
私は首を横に振る。教授は「まあ読んで字の如くなんだけど」と前置きをして、その言葉について説明してくれた。
……サバイバーズ・ギルト。つまり、生存への罪悪感。なにか大きな災害や事故、戦争なんかに巻き込まれた人が、生き残った事実そのものに苦しみを感じる現象……らしい。
「ナチスのホロコースト生存者の話が有名ね。なぜ自分だけ生き残ってしまったのか、という良心の呵責。特に目の前で為すすべなく命を失っていく人々を見た経験から、自分は彼らを見殺しにしたんだと思い込む。それは事実の一側面ではあるのかもしれないけど、戦争だろうと災害だろうと、基本的には人知を超えたもの。彼らは生き残るだけで精一杯だったはずなのにね」
やるせない話だった。ただでさえ辛い目にあった人が、その上でさらに罪を背負い込んでしまうなんて。
「人の心はその過去に大きく依拠している。過去が現実を形作る、と言ってもいいわね。ワクチンやペニシリンが発明されてもう随分と経つけれど、心の傷への特効薬は未だに発明されていない」
「……蓮子も癒えない傷を抱えていると?」
「かもしれない、というだけね。私は所詮門外漢だし、サバイバーズ・ギルトも正式な医学の言葉じゃない。細分化されたサイエンスと粗野な日常のスキマを橋渡ししてくれる喩えのようなものだわ」
ようするに「生き残る」という体験はそれだけ深い傷を作る……と、教授はそう言いたいのだろう。蓮子の豹変も人類の経験則的には「ありうる」範疇というわけだ。
とはいえじゃあ「はいそうですか」と受け入れることもまた、できない。それ程に、私の中の蓮子像と最後に見た彼女の様子は重ならない。
なにが蓮子を変えてしまったのか? 死んだ恋人。その人を残して生き残った自分自身。サバイバーズ・ギルト。たしかにそれは人間としては「ありえる」のかもしれない。でも、宇佐見蓮子という人格に限っては「ありえない」ことのような気がした。
私が難しい顔をしていると、教授は少し相好を崩した。
「もしかして、思い出を取られて悔しい?」
「え……」
「あなたの知らない思い出が宇佐見蓮子の行動を規定した。それが心的外傷によるトラウマであれ、単なる不意の気まぐれであれ……あなたではない誰かが、もはや死んだはずの恋人が、宇佐見蓮子の今を左右した。そりゃまあ悔しいでしょう。無理もないことよ。だってそれは否応なく想起させるもの。今と異なる可能性。"私"と付き合わなかった"あの子"の未来……ふふふ」
その笑みの半分には優しさがあった。けれどもう半分は、得体のしれない、蛇のような凄み。
ぶるるっと背筋が震えた。べつに私は悔しくはない、それほどは。ただ蓮子の変化に理解が追いつけなくて不安なだけで。ただそういう言い訳は、とても聞いてくれそうにない。この人は、この岡崎夢美という科学者は明らかに結論ありきで行動している。
両肩をがしっと掴まれ、教授の赤い瞳に覗き込まれる私。なぜか今になって脳内で「岡崎研究室には近づくな」の警句が鮮やかな256色に点滅し始めた。
「ねえ、覗いてみたくない?」
「覗く……?」
「もう一つの可能性よ。もしもその恋人が死ななかったなら、宇佐見蓮子はどうしていたのか」
返答の機会は無かった。ぎゃふっ、何か重いものが頭に被せられる。失われた視界の向こうからカチャカチャとキーボード入力の打音。サーバーの冷却音がいっそう強くなる。
もしかして教授が被っていたあの得体のしれない装置? 一体何の装置なの? そもそもあれ、意味のあるものだったの!?
「どうなってるんですか!? 私なにをされるんですか!?」
「超ラプラス理論を応用して開発した多世界解釈ブランチエミュレーター……私はパラレルグラス、と呼んでるのだけど」
説明になってない。装置(パラレルグラス?)が駆動し始めたのか、キィイイーンという甲高い音が耳元で響き始める。歯医者に来たみたいだ。脳を直接弄られる歯医者に。
あれ? もしかして私、逃げた方がいい? ちゆりさんにパイプ椅子で殴ってもらうべきなのだろうか?
いやダメだ、パイプ椅子には私が座ってる。
つまり……詰んだ……?
「そう震えなくても平気よ。これはただの映像装置だから。あなたは見るだけ」
「な、なにを……?」
「もしもの世界。わかりやすく言えばパラレルワールド。未来とはいつでも膨大な過去と今の積み重ねよ。今の振る舞いが過去を作り、過去が連なり未来を導く。なら、それを辿っていけば違う未来を描くこともそう難しくない。これはその違う未来を演算し、カメラ越しに盗み見る装置なの。おもしろいでしょう?」
なにがおもしろいのかちっともわからない。さっきまではあんなに優しい人に思えたのに、今はもう狂気のマッドサイエンティスト感丸出しだ。
蓮子といい、理系の人ってこうなの? 急にスイッチが入っておかしくなる……。
「私はよく、夢のような時空に生きる私の"もしも"を眺めるの。そっちではあらゆる科学が完全に統一された理論で示され、しかしそれすらも超える魔法の世界がある……ふふふ、素敵よね」
「そ、そうでしょうか……」
「まあ私のことはどうでもいいのよ。可能性の抽出条件としては『もしも蓮子ちゃんの死んだ恋人が生きていたら』ね。顔とか性別はわからないからこっちで勝手に設定するとして……」
「そんなアバウトな情報で絞り込めるとも思えないんですが!?」
「それができちゃうのが、私の才能の恐ろしいところね」
無茶苦茶だ。今更ながら蜘蛛の巣に飛び込むような真似をした自分を恨めしく思う。
こんなことならケーキを二つ買ってくるんだった。伊邪那岐だって山葡萄一つじゃあ豫母都志許売から逃げられなかったんだ。
ターン、とエンターキーが弾かれる音。耳元の甲高い音が一層高くなる。
「さあ演算が開始された。これでなお蓮子ちゃんの側にいるのがあなたなら、なにも心配に思う必要はない」
「もし違ったら……?」
「無視すればいい。どうせ、ありえなかった過去から演算した『もしも』の可能性でしか無いんだもの。大切なのは今と、そこからどんな未来時空に歩むかでしょう?」
無理だ。そんな簡単に割り切れない。やっぱりこの人は蓮子と似ているんだ、恋をするのも合理主義で勘定するタイプだ。
ただ……一方で「もしも」の蓮子が気になる私もいる。かつての恋人が生きていて、それでもなお蓮子が私の隣にいたら。私を選んでくれたなら。そうしたら……どんなにいいだろう。
だけど。だけどもし、そこにいるのが私でなかったら?
無視するなんてできない。心臓が不安にはち切れそう。黄泉の国で、愛する伊邪那美の姿を見たいがために約束を違えた伊邪那岐の気持ちが、ほんの少しわかる気がした。
パラレルグラスは未だ暗闇を映し続けている。マシンの唸る音だけが響く。
「どう? 蓮子の隣には誰がいた?」
教授の声ではっと我に返った。未だ目の前には暗黒。そう正直に告げると、むしろ難しい声をあげたのは教授の方だった。
「おかしいわね……もう演算は終了してるはずなんだけど」
「なにも見えないです」
「やだなぁ、またバグ? ちょっとちゆり! あんたちゃんとテストしたんでしょうね!?」
「やったよちゃんと。問題があんなら教授の作ったテスト工程表だろ」
「私の頭脳に問題なんかないわ」
「問題だらけだぜ」
呆然とする私からパラレルグラスが取り上げられる。戻ってくる世界と視界。まばゆい光に目がくらむ。
けっきょく……蓮子の「もしも」は演算できなかったのだろうか? どうもそういうことらしい。ほっとしたような気持ちもありつつ、残念な感じもする。
デバッグの無間地獄に囚われてしまった教授に代わり、ちゆりさんに見送られて私は理工学部棟を後にした。
なんだかあまり参考にならなかったな、と思った去り際、ちゆりさんがふと思い出したように、
「宇佐見の奴、早く帰ってくるといいな」
「あ、はい……」
「案外もう帰ってきてるかもしれんぜ? あれはけっこう寂しがるタイプだろ」
そうなのだろうか? 私が首を傾げると、ちゆりさんが笑う。
「だってあいつ、よくあんたのこと話してるぜ」
「え!? そ、それはめんどくさいやつだって……?」
「なわけないだろ。大切なパートナーだってよ。ま、んなことまで言うのは酒飲ませた時だけな。アルハラだよ、教授のあれ。っても宇佐見も負けず嫌いだからなぁ。限界アルコールバトル、マジで不健全だからやめりゃいいのに……」
段々と愚痴にシフトしていくちゆりさんの言葉が右から左に抜けていく。
信じられない。パートナー。蓮子、私のいないところでもちゃんと、そんな風に呼んでくれてるんだ。
私だって同じ気持ちだ。宇佐見蓮子は大切な大切な、私のかけがえのない人。
それは希望のような話だ。けれどその光が、希望がいっそう私の足をすくませる。私の知る蓮子を奪い去ろうとする思い出の中の誰か。ううん、その誰かが悪いわけじゃない。それはわかってる。わかってるんだ。
祈るように端末を見やる。相変わらず既読はつかず、蓮子からのメッセージは途絶えていた。
◯
蓮子が出て行って、気がつけば一週間が経った。
今日あたりにふらっと戻ってくるかも、そう不安に蓋をして、恐ろしい可能性は見ないふりをして。
その間にも明日は来て。朝起きて、一人分のコーヒーとトーストを詰め込み、化粧を慌ただしく済ませ、京阪本線に揺られ、トゲトゲしい先端ビル群を眺めて。
大学で講義を受けて、スキマ時間に課題をこなし、AちゃんやFちゃんとキャンパスカフェで少し駄弁り、また講義を受けて、今度は図書館で課題と予習を済ませてから、再び京阪本線に揺られて。
駅前の統合マートで買い物をして、家に戻り、一人分の夕餉をこさえては地の恵みをいただき、爪を切り、お風呂に入って、自称オルタナティブなソーシャルメディアをぼんやり見ながら髪を乾かし、明日の予定を確認して憂鬱になってから、眠りについて。
そう、驚いたことに私の日常は恙無く進み続けていた。蓮子がいなくなっても日々はなんら代わり映えしなかった。ただ唯一、冷蔵庫の食材の減りが遅くなって、鳥肉を傷ませてしまった。それだけだった。
蓮子は帰らなかった。連絡もいっさい梨の礫。
そして、家賃の支払日になった。
【@MarYbel : 家賃、払っていいんだよね?】
冷静に考えればいきなり一人暮らしに転向するわけにも行かないので、家賃を払わない選択肢はないのだけど。
それでも聞かずにはいられなかった。
【@MarYbel : 二人分も払うの嫌だよ】
正直もう蓮子は死んでるんじゃないかと思う時もある。いっそ、そのほうが話は早い(早いだけで絶対嫌だ)。
でも共用の口座からはちょくちょくお金が引き出されていて……結局、蓮子はただ私の言葉を無視し続けてると結論が出る。
たかが一週間の別離。されど、これまでけして途切れることのなかった私たちの歩調を考えれば、長すぎる乖離。
ここが境目だ、と。境界を見る私の目は無慈悲にも見抜いてしまっていた。決めるとすれば今日が境だと。
つまり、今日を無策に超えれば私たちの関係は――というより私自身の感情が、きっと致命的に崩壊する。いよいよもって宇佐見蓮子という人間を嫌いになる。だから決めなければいけない。彼女を見限るか、それでもなお食い下がるのか? 他ならぬ私自身の能力がそう告げている。
必竟、そのためには、蓮子の変質の理由を探る他なかった。
【@MarYbel : 部屋、入ってもいいかな】
返答がないとわかっていながら確認せずにはいられない、私は臆病だ。
蓮子の部屋に相対して、蓮子の部屋の扉の前に相対して、いっそ厳粛ささえ宿すドアノブに手をかけても、ガチャガチャと堅い手応え。
もちろん無理矢理に扉を開けることはできる。敷金は……まあ、いいだろう。
そうできないのは、というよりこの一週間そうしなかったのは、なぜか。
「恋人同士でもさ、プライバシーとプライベートは守られるべきだと思うのよ」
蓮子の言ったことの意味を私は、ようやく理解する。正しくは、ようやく自覚する。この扉を開くということはつまり蓮子の過去に立ち向かうということ。それは恐ろしい所業。岡崎教授の見立ては正しかった。悔しくないわけ無いし、怖くないわけがない。私が蓮子と積み上げた過去が、どこかの誰かとの過去に劣ると思い知らされるなんて。
それは一種の陣取り合戦。思い出という過去と今とをつなぐ心の境界の奪い合い。
しかし境界を見破り、時に超えようとすらする私の能力をもってしてなお、その一ナノメートルにも満たない線を踏み越えることは叶わない。
プライバシーとプライベートを尊重した蓮子は、その残酷な真実を知っていたのだろうか? 合鍵を作らなかったのは単にm自分の秘密基地が欲しかっただけかもしれないが……。
やってくれたな、と思う。同時に救われてもいた。
私には選択肢がある。蓮子のおかげで。
つまりパンドラの扉をこじ開けて、私の大切な蓮子との大切な過去を天秤に乗せるのか。あるいは、このまま過去を封じ込め、蓮子を取り戻す未練がましい努力を放棄して、せめて美しい思い出だけは手元にとどめて置こうとするのか。
簡単な二者択一。
だけど。
だけど、そんなの、
「そんなの、決められるわけないでしょ……」
目頭が熱い。
もう疲れた、誰かに正解を教えてほしい。今こそ岡崎教授のパラレルグラスを使いたい。
蓮子を諦めた私の未来と、蓮子に執着する私の未来と。テレビのチャンネルを選ぶように未来を選べたら、どんなにいいだろう。そうすればこんな苦しみを味わう必要もなかったのに。
堪えきれず、私はまたベッドに逃げ込んでいた。この一週間封じていた孤独が一斉に口を開いたような……ぐるぐる、ぐるぐると世界が回転するほどの喪失感。
私の部屋には蓮子との思い出が染み付いている。でも、同時に私だけの過去もまた染み付いていて。
蓮子と私。一緒にいる時はあたかも二人で一つの生物のように思えていた。だけどそうじゃなかった。私たちはどこまでも別々の生き物で、別々の人間で、異なる過去を持ち、違う未来へ進んでいく孤独な船乗りだ。それがたまたま同じ船に乗り合わせていただけの話。
しかしその船すらも嵐に呑まれ、沈んでいこうとしている……。
◯
目の前に蓮子が座っていた。だから、これは夢だとすぐにわかった。
あたたかな木漏れ日が差し込む一方で、夢は夢らしく、どこか現実味のない風景だ。できの悪いコピーアンドペーストのように彼女の彼方背後に連なり続ける先端ビル群。私達は洒落たティーテーブルを挟んで、鳥の声を聞いていた。
まだ湯気の立つティーカップを手にとった蓮子が、軽く香りを味わい、いつもどおり「ちっともわからない」という顔で一口目を口にし、長い間を挟み、また……口を開く。
「秘封倶楽部を辞めたいって?」
私は頷く。
そんなつもりはなかった。ひとりでに体が動いていた。それで……ああ、これは夢というより記憶に近いんだな、と理解する。
いつ、どこでこんな話をしたのかはわからない。しかしいつかどこかの記憶なのだろう。とはいえ単一の記憶ではないのかもしれない。あの日とその日の混ぜ合わせ。
そんな私の困惑など気にせずに、夢は夢らしく、現実のコラージュを歪に提示し続ける。
「秘封倶楽部の活動をする時はいつも……いつもね、私達は危険な目にあってばかりでしょう? 私はいいの。私はもとからそうだから。でも、蓮子まで巻き込んでるんじゃないかって……それが心配で」
「私まで境界を超えてしまうんじゃないかって?」
「まあ、それもあるけど……境界がどうとかは関係なく、なんでなのかなって。秘封倶楽部の活動として私達はいつも危険な場所を目指す。妖怪がいるかもしれない場所や、地球からはるか離れた場所や、そうでなくっても単に足場の悪い廃墟とかもあるし……わたしたちの活動って、あえて危険をおかしてまですることなのかなって、そう思っちゃって……」
「へえ……」
蓮子がティーカップをソーサーの上に戻し、代わりに錫色のフォークを手にする。いつしか机上に置かれた苺のショートケーキを、高そうなお皿ごと、ずりずりと手元に引き寄せる。
「デラックス苺スイート。駅前『ショコラ』一日20個限定の品」
「う、うん」
「いただきます……んぐ……ふーん。まあまあね」
つややかな赤色の果実を喰みながら、蓮子がぼやいた。金箔の細工の入った繊細なお皿にはべったりと真っ白いクリームの跡。
蓮子の鳶色の瞳が、私をじっと見上げた。
「ねえ、メリー」
「……なに?」
「なぜ人は限定品という言葉に弱いんだろうね? たしかにデラックス苺スイートは美味しいし、苺もたくさん乗っていて豪華だけど……じゃあ普通のショートケーキの倍以上の値段を払う価値があるのかというと、私にはわからない。もちろん値段を決めるのは市場原理であって私ではないけど……あるいはこうも思うの。人が限定品を求めるのは、それが強い"今"だからだって」
記憶の中の私は首を傾げる。が、これがリアルタイムで行われるいつもの会話であっても、やっぱり私は首を傾げたに違いない。
なぜか蓮子は満足そうに頷き、続ける。
「未来とはいつでも膨大な過去と今の積み重ね。強い今は強い過去となり、より強い未来を作る礎になる」
「どういう意味……」
「朝早く起きて長蛇の列に並び限定品のケーキを食べた、という経験は色濃い思い出になる。そういう過去を積み重ねるのと、なにも代わり映えのしない無色透明な日々を積み重ねることじゃ、たしかに同じように未来はやってくるけれど、やってくる未来は同じじゃない」
「観念的な話ね」
「あなたの得意分野でしょ?」
それはそうだけど、限定品のケーキを食べて未来が変わる……という論文を読んだことはない。
しかし蓮子は大真面目に続ける。
「なぜ危険をかえりみずに秘封倶楽部を続けるか、って話だよね?」
私は顎を引く。紅茶の香りが不思議なノスタルジーを呼び起こす。マドレーヌでもあれば、きっと膨大なる失われた時が蘇ってきたに違いない。しかしここにあるのは限定品のケーキだけだ。ケーキとマドレーヌで何が違うかはまた別の話。
「私達の一生は短い」
「急に人生論の話?」
「大学生活はもっと短い。たった四年しか無い」
「……」
「十年、二十年と経った時、私たちはもう少女ではなくなり、学生でも無くなっている。その時にどんな人間になっているか――もっと言えば、どれだけ力強く靭やかな人間になっているかは、畢竟、今をどれほど濃密に生きられるかにかかっている」
「剣闘士にでもなりたいの?」
「悪くない比喩ね。生きることは闘争だもの。ホッブズじゃないけど、平穏は仮初め、いつ崩れるかなんてわからない。だから私は強くありたいの。だから私は統合マートで一つ100円で売られてる量産品の甘味で妥協するよりも、その十倍以上の値がする限定品のケーキを食べようと雨の中でも行列に並びたいのよ。それと同じことで、危険だと判っていても秘封倶楽部を続けたい。わかってくれるよね、メリーなら」
「わかる、けど……刹那主義なのか、計画的なのか、よくわからないわ」
「どっちでもないのよ、べつに。私は私だから。でも、そうね……こんな歌を知ってる? 今から一世紀以上前に流行った流行歌」
すぅ、と蓮子が息を吸い込む。私はなぜか美しいカンタータのような歌が紡がれるのを期待した。
大間違いだった。
調子っぱずれの歌声が、木漏れ日の中に響き渡る。
「しあわせはぁ~歩いてこない~! だ~から歩いてゆくんだねぇ~! 一日一歩! 三日で三歩! 三歩すすんで……ちょ、ちょっとメリー? なんで笑ってんの!? 笑うところ、ないよね!?」
「べ、べつに……ふふっ、べつに笑ってない……」
すっかり忘れていたけど、蓮子はなかなかの音痴だ。音程というものが存在しない世界から来たみたい。ま、そこがかわいいんだけど。
「私は蓮子の歌、嫌いじゃないよ」
「あっそ」
「ごめん、怒った?」
「いいよ別に。自分が音痴なことくらい知ってます! とにかくそう言うわけだから、秘封倶楽部解散は却下! 罰として次の活動はメリーが考えること!」
「脱退希望者にペナルティなんて、とんだブラックサークルね」
「ふふ、騙されて入るのが悪いのよ」
かもしれない。私が秘封倶楽部に入ったのは蓮子の詐欺のような話術によるところも大きい。
だけどおかげで私の時間は、たしかに遥かに濃密になった。もし秘封倶楽部の活動がなかったら私の大学生活は……どうなっていたのだろう?
境界を見る力に怯え、閉ざされた空間に引き篭り、蓮子の言う無色透明な日々を繰り返して。じゃあ、そんなつまらない過去を積み重ねた未来、つまりありえたかもしれないもう一つの今の私は……いったい、どうなっていたのだろう?
蓮子が薄く微笑む。私の大好きな、あの生意気でアイロニカルな笑み。
「だからね、メリー」
「うん?」
「もし私が秘封倶楽部を辞めたがったら、次はあなたが引き留めるのよ」
何気ない懇願。それがわたしの胸をうつ。
だけどもちろん記憶の中の私は私の気持ちなど知るわけもなくて、くすくすと笑っては、
「もちろん」
と、安請け合いをしやがった。
蓮子の安堵したような表情。かと思うと、彼女は立ち上がって天をあおぐ。七色の極光きらめくはるかはるかな夢時空を。
「さあメリー、時間よ。そろそろ行こうか?」
「え? どこへ?」
「イーハトーヴの森を抜けてスーダララッタのその先へ! ほら、手をとって! グランヴァカンスはもう目の前よ!」
私は手を取る。取ろうとする。けれどその前に蓮子は駆け出してしまう。
くにゃりと地平線が歪み、オーロラの天幕のスキマから無数の白い触手が降り注いだ。先端ビル群が紙切れのように引き裂かれ、京阪本線がホームに滑り込む。
ヒロシゲの汽笛、蓮子に追いすがるまま、私はその扉の中に駆け込んだ。岡崎教授とちゆりさんが座椅子の上で殴り合っている……
「れんこぉ……あし、はやいよ」
「はやく、はやく、メリー! はやくきて!」
蓮子の声が聞こえる。蓮子の呼ぶ声が。その声はなぜだか泣きそうだ。
私は蓮子の後ろ姿を追いかけて、駆けて、駆けて、かけて……
◯
「蓮子行かないでぇっ」
叫び声で目が覚めた。私の声だ。両目を拭っても乾いていて、カーテンを閉じていたから今がいつなのかもよくわからない。
でも、不思議と頭はスッキリしている。二日酔い患者のように台所へ赴き、浴びるように水を飲む。
トン、とコップがステンレスに触れる音。なんだか可笑しい。あんなにも狂おしい嫉妬がかけぬけ、自信をなくして頽れそうになったというのに。
眠りとは時に残酷なほど私たちに動物性を突きつける行為。精神への黄金信仰を嘲笑うかのように、どこまでも「私」はハードウェアと抱き合わせだ。
そんなものなのかもしれない。急にあんなことが起きて、私は頼りない過去にすがって、今に怯えて、未来を拒絶しようとした。寂しくて、不安で、つらくって。それはきっとハードの方が片割れを失って驚いたせい。心ってやつはいつでも中空に独り浮かんでるような感じがする。だけど、その実、驚くほど沢山のものと絡まり合っている。例えば肉体と。例えば過去と。例えば誰か、大切な人とも。
【@MarYbel : 部屋、入るね】
たぶん私は難しく考えすぎていたんだろう。そういうのは蓮子の役割だ。過去がどうとか、未来がどうとか、そういうのは。
私は、マエリベリー・ハーンはもっとずっと単純なのよ。いやまあ、単純が故に囚われてしまったのかもだけど。
あの子が出ていってこの方、蓮子のことばかり考えていた。蓮子の過去と、蓮子の今と、蓮子の未来のことばかりに囚われていた。
でもそうじゃない。
夢の中で蓮子に会って思い出した。なにも……思い出を持ってるのは蓮子だけじゃないんだ。それは私だって同じこと。だからこそあんな夢を見た。紅茶にマドレーヌを浸すまでもなく、失われた時はちゃんと私の中に蓄えられていたんだ。
膨大な過去と今の積み重ねが、未来を作る。岡崎教授はそう言っていた。
そう、「蓮子の中の」私の思い出が昔の恋人のそれに勝るか劣るか、とか……そんなのはどうだっていいじゃない。私の未来は私の過去と今で作られる。蓮子がどう思うかなんて知ったこっちゃない。
だからね、マエリベリー。あなたはどうしたいの?
「私は……」
考えるまでもなかった。けれど忘れていたこと。
思い出したのは、夢の中で蓮子の音痴に笑った時。夢の中で蓮子の屁理屈な講釈を聞いてる時……ううんきっと、最初に蓮子の顔をみたその一瞬ですでに気がついていた。
私はこの時間が好き。
蓮子といるのが好き。
蓮子のことが好きなんだって。
だから、また。だから、まだ。私は蓮子と一緒にいたい。だったら簡単なことだ。蓮子を連れ戻す。それだけのことに何をうじうじしてたんだろう?
【@MarYbel : 私が六で出した敷金、一割あとで返してよ!】
これで青ざめて返答してきたら面白いんだけどな、とか考えつつ、私は蓮子の部屋に踏み込んだ。どうやったかは乙女の秘密。我がシェアハウスにはどっちかが急な希死念慮で自殺未遂を起こした時のため、SWAT顔負けの秘密兵器を常備してあるのだ。
それで……一週間ぶりの蓮子の部屋はなんというか、いつも通りだった。床に血で魔法陣が書かれた痕跡もなければ、亡き恋人への思いを書き殴った藁半紙が散らばっていることもなかった。蓮子のにおいはまだそこにあったけど、家具にうっすら積もった埃の層。ほんの少し家主が離れただけで家とはこうもくたびれるのか、と関心してしまう。
いや関心してる場合じゃない。蓮子のことを思い出しては泣きたくなるのをぐぅーっと堪え、私は白昼堂々家探しを開始した。テーブルトークゲームなら目星のロールを振るとこだろうか。そう、あのゲームは少し目星が便利すぎる。
けれど現実はそうもいかない。私は蓮子が思い出を隠せる場所を片っ端からひっくり返して行ったけど、幾何級数的に増していく散らばり度合いを別にすれば、掘り出せるのは私と蓮子の思い出の品ばかりなり、といったところだ。
どうにも……思っていたのと違う。
わざわざ鍵をかけて出て行ったんだ、蓮子は隠したいもの一つくらい部屋に残してるものなのかと。昔の恋人との写真とか。
だけどそんなはずはないんだ。考えてみれば当然で、私は普段からこの部屋に入り浸りだった。昔の恋人に纏わる品なんて核地雷級の掘り出し物、いくら私がボケてたって素通りできるわけがない。
だから、どれも、これも……旧グリニッジの赤煉瓦、青木ヶ原の石一つ、ショーケースにちまり飾られたイザナギオブジェクトといい……嬉しいけれど、蓮子が思い出を大切にしまってくれてるのはありがたいけれど。
でも今ばかりは、役に立たない。このままじゃ私は敷金をそっくり失っただけだ。
「ふぅ……さすが蓮子ね、手強い奴……」
かくして私が静かに追い詰められていた時のこと。ポケットに突っ込んだままの携帯端末が鳴った。
まさか蓮子? 胸が高鳴る。
手にとって、そうじゃなかった。それでも胸は高鳴った、別の意味で。主に、不安と恐怖で。
端末に表示された岡崎夢美の文字列。連絡先を教えた記憶が驚くほど全く無い。一方で、あの人なら学生の連絡先を突き止めるくらいなんてこともないような気もする……。
『こんにちは、蓮子ちゃんの彼女さん。想い人は見つかった?』
「いえ、まだ」
『そう。この間は素敵なお土産をありがとう。またいつでも来てね。苺ちゃんの彼女さんなら蓮子がなくても大歓迎よ』
私は知っている。こういう小ボケに付き合うとキリがないことを。
こっちが無言で端末を耳から遠ざけていると……こほん、と気まずそうな咳払いが響いた。それから改まったような声が告げる。
『パラレルグラスの件なんだけどね』
瞬間、私の意識は引き締まった。
パラレルグラス。その名の通りパラレルワールドを見通す岡崎教授の発明品。
以前に私は「もしも死んだ蓮子の恋人が生きていたら」というIFの世界を見(せられ)た。冷静に考えるとセクハラを通り越したかなりの非人道的行為だけど……実際のところグラスの向こうは暗闇で、教授はこの一週間デバッグ地獄を見ていたのだろう。
「治ったんですか?」
『それがね。結論から言うと、グラスに異常は無かったの』
「え? でも、なにも見えませんでしたよ」
『それでよかったの。それがグラスの正しい挙動なんだから』
歯切れの悪い教授。なんだって言うんだ?
イマイチ要領を得ないまま、私は拙い理解で考えてみる。
「うーんもしかして、その恋人が生きていることはありえない……とか? どのパラレルワールドでも確実に死んでしまうなら、その未来も見えないですよね」
『素敵な洞察ね。それは半ば正解に近い。ただ……確実に死ぬ、なんてありえないのよ。人が死んだ、なんて極めて結果論的な話だわ。そんなものはミクロスケールでもマクロスケールでもなんの意味も持たない。人はなんの意味もなく死ぬし、そもそも意味なんて人間が世界を捉えようとする尺度でしかないもの。そりゃあ極めてマクロな世界観なら定まる運命もあるけどね。一兆年後には“私”も“あなた”も消え去っている、とか。いや、それすらも確実じゃないか』
なんだか難しくてわからないけど、ようするにその恋人さんが「確実に死ぬ」というのはありえないらしい。まあ直感的にはそれもそうか、という気がする。人は時に意味もなく死ぬし、であれば、意味もなく生きてたっていいのだから。
「じゃあどうしてパラレルグラスは動かなかったんですか?」
『幹がなければ枝もまた生えない』
「え?」
『バカバカしい盲点だったわ。もしもある人に纏わるあらゆる可能性が潰えてるとしたら、そこからの帰結点は一つしかない。つまり、そんな人は存在しなかった』
「は……」
『ねえ、蓮子ちゃんの彼女さん。蓮子ちゃんの元カノとやらは……本当に存在するのかしら?』
電話越しだと言うのに、教授の赤い瞳が妖しく細まっていく光景が見えた。端末を握る手が泡立つ。
「ご、ごめんなさい、おっしゃってる意味がよくわからないんですが……」
『言葉通りの意味よ。パラレルグラスが蓮子ちゃんの元カノさんを演算できなかったのは、とどのつまり、そんな人間はこの世にいなかったからなの。まあ、つまらない事実よ。存在確率がゼロの物体の振る舞いを計算できないなんて、至極あたりまえの結論だもの』
教授の言葉からはもう興味の勢いが失われていた。ほとほと薄情というか、科学的好奇心に素直というか……。
一方で私の頭はまだ混乱しきりだ。蓮子の恋人は存在しない。じゃあ、どうして? それじゃあ蓮子の行動の説明がつかない。あるいは、
「蓮子は、妄想かなにかに取り憑かれてるってことですか? いったいどうして、急に……?」
『そこから先は私の領分じゃない。それが病的な妄想なのか、それともまったく別の理由があるのか。私はただのあの子の指導教員でしかない。私は科学者で、医者でも探偵でも警察でもないから』
教授の言葉は冷たいように聞こえる。けれどそこには、どこかこんな響きも込められてる気がした。
『ここから先はあなたの仕事よ、彼女さん』と。
私は短く礼を言って、通話を切った。感謝はしてるけど……あの人と長く話してると、疲れる。
それより私は蓮子の部屋に向き直る。探しても探しても見つからない昔の恋人の記憶。しかし教授は、そんな人は存在しないと言う。なんだか信じられないような話だけど、一応理屈は通っていた。
こんな時に蓮子なら納得いくまで教授に食ってかかるのかもしれない。納得が全てに優先するタイプ。そういう所、いつだって私たちは真逆だ。私は納得なんてどうでもよかった。私はきっと、側に蓮子がいればなんだっていい。
オーケー。それよりもアプローチを変えよう。いくら探しても見つからない蓮子の昔の恋人へのヒント。事実、ほとんど部屋を丸々ひっくり返しても見つからなかった。
なら筋は通ってる。教授の推察が正しいと仮定しよう。
その時一つ、脳内でピンと閃くものがあった。
私は息を呑み、蓮子の部屋の一点へと目を向ける。このガサ入れ中、唯一手を触れなかったエリア。今時珍しい手書きのラベルで几帳面に整頓されたファイル類。その背に記されたるは……少女秘封倶楽部活動資料、と。
もちろんそこに封じられた過去は、思い出は、あるいは未来は、私と蓮子だけのもの。もし私のじゃない蓮子を探そうとするならばもっとも縁のない場所を探すべきだし、事実そうした。
だけども今その前提が崩れた。蓮子の豹変の原因は昔の恋人でも、サバイバーズ・ギルトでもない……?
だとすれば。
私たちが奇妙なことに巻き込まれる原因は、いつだって私たちの関係そのものだ。
「秘封倶楽部活動資料」を手に取り、遠慮なくファイルを開く。秘封倶楽部のものなら半分は私のものだ。
色とりどりの付箋が貼られたページたち。そこには蓮子が集めた日本中のオカルトがラベリングされ、整然と並んでいた。
失踪事件のスクラップ、未解決事件の跡地、胡散臭い白黒写真、眉唾物の伝承録、それらの隙間に所狭しと貼り付けられた蓮子の筆跡のメモ、メモ、メモ……。
なるほどな。いつもいつもよく活動のネタがあるもんだ、と思っていた。実は天性のオカルトマニアなセンスがあるのかな? なんて。けれどなんてことはない、蓮子は地道に集めていた。濃密な今を過ごすために、秘封倶楽部の活動のために。
ああ。
なぜだか目元が潤む。蓮子は私との過去を今を、そして未来をとても大切にしているんだ。それが唐突に理解できた。
会いたい。蓮子に会いたい。今すぐに。
ばさり、とファイルの一つが落ちる音。遠くに潮騒が聞こえた。
もたろんここは京都盆地のど真ん中。波の音なんて、聞こえるわけがない。
目元を拭い、落ちたファイルを拾う。記された日付(私なら絶対ちまちまとした日付なんていれないだろう)はほんの二週間前のものだった。蓮子が出ていくほんの少し前。
「これは……」
見開き両ページにまとめられた資料。ところどころに引かれた鮮やかな蛍光ピンクのマーキングはどれも、全く同じ単語を強調していた。
日忌様。
読み方は……ヒイミサマ? なぜかはわからないけど、私はその響きが妙に恐ろしかった。
湿った赤土を掘り返す考古学者のような気分で資料に目を通す。
日忌様。あるいは海難法師。伊豆半島を中心に伝承。桶に乗って海より来たり、人を取り殺すとされる。一方で近年は伝承との齟齬、日本各地に点在する海難事故の集合の可能性……?
よくわからないけど、日忌様とは妖怪か何からしい。が、私の興味を惹いたのは「犠牲者の記録」と記された部分。
曰く、日忌様に魅入られた者たちの末路は決まって海への身投げ。
自殺者たちの奇妙な独白。存在しない恋人、家族、友人を事故で喪ったと主張し、突然の失踪。皆、海難事故の様子を目撃した後に豹変……ある種の精神汚染?
連呼の慌ただしいメモ書き。
『なにかトリガーがある?』『仲間を作ろうとしているのか?』『興味深いけどメリーに死なれても嫌だし、活動は保留』
「……もう少し自分のことも考えてよ、バカ」
確信があった。蓮子はこの「日忌様」とやらに魅入られてしまったんだ。
再び遠くから波の音色が聞こえる。膨大な資料の中から「当たり」を引き当てたのは偶然? ロマンチストなら蓮子が導いたと思うのかもしれない。あるいは、いつだってオカルトと相性の良すぎる私の瞳の力か。
とにかく、行かなくちゃ。蓮子のところへ行かなくちゃ。あの子の側へ。
とはいえどうやって行けば?
資料には日忌様の伝承が伝わる岬や、自殺者たちが決まって向かうとされる無人島のことも記載されていた。今から家を出て、ヒロシゲで東に渡り、船に乗って……最短二日といったところだろうか。
間に合わない。
何故だかそんな予感がした。時間という一本の線に刻まれた可逆と不可逆の境界線。
私は立ち上がり、今はもう閉ざされた蓮子の部屋の扉を、今度は内側から睨め付ける。
「蓮子……前にした約束、果たしにいくわ」
ちりちりと肌を焼くような焦燥感。一方でどこか落ち着いている私がいる。
普通は恋人がわけのわからないオカルトに飲まれたなんて、絶望的な気持ちになるものかもしれない。けれど私には、私たちには、むしろそんなめちゃくちゃの方が馴染み深いんだから笑える。オカルトより、怪異より、痴話喧嘩の方がずっと恐ろしいんだから。
ドアノブに手をかける。SWAT顔負けの秘密兵器はもういらない。波の打ち砕ける音がすぐそこに聞こえる。私は蓮子のことだけを考え、扉を開けた。
ぶわり。
潮のにおいが強く香った。
◯
岸壁へ突っ込んでは砕け散る、青い青い海の色が見えた。その上に広がる夏の空。科学的には海の色は空の色を映したものだというけれど、こうしてみると、空の蒼と海の青はぜんぜん違う。海の色はもっとずっと深く、濃い。
たぶんそれは穢れの色なのだと思う。母なる海といえば聞こえはいいが、ようはそれは死の色だ。生命が生まれてよりこの方、35億年分の過去が煮詰まった色なのだろう。
そんな蒼と青の境目は、地の色。竜の背のようにゴツゴツとした岩場は生命の息吹を拒む地球の色、溶岩の冷え固まった真っ黒い色。そこに吹き付ける潮の混ざった風が、私の頼りない肉体を撫でつけていく。
ちっぽけだなぁ、私。
よくわからない感慨が駆け抜けていく。何気なく振り返るともう、半開きの扉の向こうに蓮子の部屋はなかった。灯台か何かの廃墟なのだろうか。扉とその枠だけが残った向こう側には、苔むした巨大な岩石のような無人島の山肌が聳えていた。
もしこれが何気ない小旅行なら私は何時間でもここにいて、穢れた海と無垢なる空と、果てしない母なるこの星がせめぎ合う大スペクタクルを眺め続けていただろう。
だけど。
今にも崖下へ飛び込んでいきそうな、影法師のように崖際に立つ人影。見慣れた帽子のシルエット。それが見えた時、私の心からは35億年分の過去も今も未来も何もかもが吹き飛んだ。想うよりまず叫び声が出た。
「蓮子っ――!」
彼女が振り返り、私を見て、逆光の中で目を合わせるよりも早く、早く、駆け出した私は、彼女を抱きしめる。
「メリー……?」
焦点の合わない瞳。生気の抜けた声。
違う。これは蓮子だけど、蓮子じゃない。ここに蓮子はいない。
とにかくこのまま崖下へ落ちていかれないよう、無理矢理に手を引っ張って陸地へ連れ戻す。その間もふらふらと蓮子はマリオネット人形のように着いてきて。困惑するような目を向ける。
「メリー、だめだよ。行かないと、私行かないと、あの人のところに」
繰り返す蓮子は壊れたラジオみたいに同じ言葉を繰り返す。あの人が、あの人が、あの人が……。
蓮子の足取りに力はないけど、海から遠ざかろうとすればするほど瞳に不安の色が満ちていく。母親から引き離された子供みたいに。
「蓮子……」
「行かないと、行かないと、メリー、あの人のところに」
「あの人って……ねえ、蓮子。その人の名前は?」
「そ、それは……」
ぎょっと怯えたように蓮子が震える。親に叱られるのを察知した子供のように。
それがあんまり情けなくて、私の知ってる蓮子を侮辱されたような感じがして。
本当はその人の名前はなにで、いつどこで知り合って、何年前に事故にあって、それはどんな事故で……って、一つずつ矛盾を解きほぐしていこうと思ってた。死んだはずの恋人が存在しないって理解できれば、そうすれば蓮子も元に戻る――なんて、私は少し安直に考えてすぎていたんだろう。
だけど怯える蓮子を見て、なにを言っても彼女を苦しめるだけだとわかった。蓮子にそんなことしたくないし、きっと意味もない。このウソ夢は簡単には消せない。
だからって諦めるわけじゃない。
「……大丈夫、蓮子。きっと助けてあげるからね」
とにかくやるだけやってやる。
蓮子の過去を、今を、私たちの明日を取り戻すために――
「ねえ」
びくり。
首筋の裏に冷たい海水をかけられたような悪寒。
今の……誰か、聞き馴染みのない少女のような声。
風の啼く音かと思った。が、声は白々しくも続く。
「さっきからなにしてるの? それ、返して」
それはたしかに少女の声だが、一方で海の底から響く鯨の咆哮みたいな、雄大かつ得体のしれないものがあった。
散々迷ってから、私は言葉をひねり出す。
「……誰?」
その声は震えていたと思う。許してほしい。情状酌量の余地ありだ。
ついさっき見た蓮子のスクラップが脳裏に蘇る。なんだって今なの。今はまだ、感動の再開の最中じゃない。
怪異ってのはいつだって空気を読めないし、読まない。
「まさか日忌様ってやつ……」
「あれ、知ってるんだ? 私たちは扉日忌(とべらひいみ)……あなたなに? どこから来たの? 呼んだおぼえ、ないけど」
「相棒を連れ戻しに来た」
「うん? うん、そっか。そう、人間にもまだそういうのがいるんだ。でもダメだよ。それ、もう私たちんだ。ほら返して」
背中越しで見えないけど、なにかが這い寄る感覚をおぼえて慌てて距離をとる。ふらふらした蓮子を連れてるせいで思うように動けない。
水の中で、人喰いの大蛇にゆっくりゆっくり追い詰めれてるみたいだ。
ほんの数メートル走っただけで全身、ぐっしょりと汗まみれ。息が上がる。振り返ると、困ったような顔の女の子と目が合う。見た目は小学生くらいだ。頭に妙な桶のような……フジツボのついた木製のタライのようなものをかぶっている。そのせいでよく見えないけど、陰になった顔色は水中の死体のように青白い。夜の海のように虚ろな瞳が鬱陶しげに私を見ている……。
「返して。ね、返して。もう意味ないよ。それは私たちのものになったの。ほら、震えてる。辛がってるよ。かわいそうだよ、ね……」
「わ、私の相棒をそれ呼ばわりしないで!」
「……はあ。こんなの久々。こんなのがないようにいっぱい考えたのに。ね、みんな。元に戻るの大変なのにさ」
ぱん、ぱん、と手を叩く音が響く。冷房をマックス稼働させたみたいに、あたりの温度が急激に下がっていく。
背に庇う蓮子の体温だけがあたたかい。ああ、もう。こんなふうに守られる役目は私の方だと思ってたのに。
なんて……言ってる場合じゃなかった。もちろん温度が下がるのは心霊現象のお約束な前触れの一つ。だからってここまで遵守しなくてもいいのに。
ゆらゆらとゆらめく青白い影。それが一人、二人、さらに次々、私と蓮子を包囲するように立ち現れる。見てくれはバラバラ。古い日本の着流し姿の者もいれば、ジャケットにジーンズのオールド・デイズ・スタイルな奴らもいる。ただ一様に、彼らの瞳には正気というものがない。彼らは人でなしだ。幽霊とか、怨霊とか、妖怪とか……でも、こんな白日のもとで?
そう思ったら、深く白い霧が太陽を覆い始めていた。業務用冷蔵庫に入ったみたいに肌寒く、薄暗い。ぶるるっと身が震える。
「加工してない魂はね、取り込むの、大変なの。生きてる人間ってすごく抵抗するし、喚くし、うるさいし。めんどくさいの、ね、わかる……でもそれを返してくれれば、お姉さんはいらない。助けてあげる。こういうの、うぃん、うぃん、って言うんでしょ。お姉さん、日忌と違って頭良さそうだから、わかるよね」
「わ、私は……」
「死にたくない、でしょ? 死ぬのは辛いよ。ね、私たちは死人ばかりだからね、よく知ってるの。皆、海で死んだから。海水の苦い味を飲み込みなながら末期の一息を奪われる、その辛さを知ってるから。それに死んだら、もう、明日を迎えられなくなるんだよ。来るはずだった明日、あたりまえにやってくるはずだったこの先の何年も、何十年も、ぜんぶぜんぶ水の底」
「だったら蓮子を巻き込まないでよ! 蓮子だって死にたくないわ、この子は生き汚い方なんだから!」
「無理」
ばすっ、と私の訴えの首が切り落とされる。それから少しだけ、少女の瞳に寂しげな色が宿った。
「あのね。理不尽に明日を奪われた私たちは、理不尽に誰かの明日を奪わずにはいられないの。そういう存在になってしまったの。だから、それをやめたら、もう、消えるしかない。でも私たちは消えたくない。もう明日を失いたくないの。だから……もう話、終わり。生身の人間を殺すの、久々だから、痛くなるかもね……恨まないでね、お姉さん」
そして。
束の間見えた人間らしさは波間に消え、かわりに無慈悲な殺意の色が濃くなる。
なぜだか私の脳内で「捕食行為」とか「狩猟行動」という四文字がちらつく。幽霊とか妖怪とかって普通はホラーな文脈だろうに、ホラーはホラーでもこいつらは、ナチュラルホラーの分類だ。
「それとも返してくれる気になった?」
「……いや」
「あ、そう……」
びしゃびしゃと水音をあげ、水死体の包囲網が狭まっていく。こんな時、私の力でまた蓮子の部屋に飛んで戻れたらいいのに。
けれど私の力はそう可愛げのあるものではないし、なによりこんな岩場じゃ境界もなにもあったもんじゃない。
秘蔵の伊弉諾物質を持ってくればよかった、と胸の奥で後悔。『百億の昼と千億の夜』でオリハルコンを無くしてしまったプラトンの気分だ。しかもここに阿修羅王はいないし、仏陀ポジションと思しき蓮子はガタガタ震えているだけ。蓮子には自分が今どうなってるのかさえ、わかってないだろう。
……じゃあ。
このまま私たちは殺されるしかないってわけ? せっかくここまで来たのに。蓮子との今を取り戻すために、明日を刻み直すためにここまで来たのに。ただもう一度蓮子と話すことすら叶わずに、死ぬなんて。
そんなの嫌だ。こうなったらやれるだけやってやる。毒を喰らわば皿までも、だ。あるいは乗り掛かった船か。
「ま、待って!」
「返してくれる気になった?」
「それは違う、けど……」
これでもし私が退魔の巫女や素敵な魔法使いだったなら、あの怪異を退けて生き残るって手もあった。でもそうじゃなかった。私にあるのは、制御不能の境界を見る力を別にすれば、十人並の頭脳しかない。だから、
「取引しましょう」
「え?」
「交換条件よ。あなたは蓮子を奪いたい。私は蓮子を返したくない。つまり平行線。だから、お互いが納得できるよう話し合いたいの」
「……それを半分に割って、片方ずつ持ち帰るとか?」
冗談に聞こえなかった。冗談でもないのかもしれないが。
「でも、ね……取引って、取引するタネがあって初めて成立するよね? それを諦める代わりに、私たち、何を貰えるのかな」
「そんなこと言ってない。むしろ逆よ。私は……蓮子を諦める。いいわ、あなたたちに引き渡す。どうせ自分で勝手に突っ込んでこんなことになってるわけだし、自業自得よね、しかたない」
「なんだ、やっぱり死にたくなくなった……」
「その代わり蓮子と話をさせて」
理解しかねる、というように彼女は首を傾げる。一方で私は必死だ。喉の奥から悲鳴が込み上げてきそう。期末レポートをすっかり忘れていたことを当日に思い出したみたいな、そのことを担当教諭に相談しにいく時みたいな……どっちがマシかはともかく。
「今の蓮子は死体も同然。呼びかけても応じない、偽物の記憶に取り憑かれてる」
「うん、その方が食べやすいの。硬い野菜を煮詰めて食べるのと、おんなじ」
「も、元に戻せるんでしょ?」
「……たぶん、ね。やったことはないけど」
よかった。これで煮込まれた野菜よろしく不可逆だったら絶望だ。
「私は蓮子と話がしたいの。血の通った人間の蓮子と! それさえ叶えてくれればもう邪魔はしない、蓮子を連れてっていい」
「嫌だよ、めんどくさいもの」
「私も連れてっていい! 私の命もつける! それならどう!? どうせあなたが失うものは何もなくて、無抵抗の人間の魂がもう一つ分手に入る! 悪くない取引じゃない!?」
ほんとうに、はたから見たら必死な私はさぞ滑稽に映るだろうな。しかたない。有利な交渉はまず情報収集を土台とするものだ。その点で私は突貫工事で、ビスマルクのような政治的手腕も、マタ=ハリのようなコネクションもない。
あるのは、ただ、文字通り死んでも蓮子を連れ戻してやるって執念だけ。
「……まー悪くない、けど、このまま私たちがあなたを殺せば結果は変わらない、よね?」
「ただじゃ殺されないわ。気がついてるでしょ? 私は船も飛行機も使わずにこの場所に来た。どうやったか、わかる?」
「……」
わかるわけない。私だって原理は謎なんだから。けどそれが良かった。本人にもなんだかわからない力は、捕食者から見ればずっともっと面倒だろう。
それでようやく、ようやく少女の顔に逡巡の色が浮かぶ。ハッタリ万歳。
「どうしよ、みんな……日忌だけじゃ決められないよ、知恵を貸して……」
「え?」
ちがう、私に話しかけてるわけじゃない。見れば、私たちを包囲している水死体の亡霊たちと、盥をかぶった少女が、互いに視線を交わし合い、時には頷いたり首を振ったりしていた。
まるで……いや、これは会議なのだろう。人間には聞こえない超自然の言語で彼らは会話しているんだ。
息が詰まりそう。俎上に乗せられたまま、包丁を構えるシェフたちが刺身にするかムニエルにするか話し合うのを聞いている……そんな気分だった。
「……蓮子、大丈夫だよ。ぜったいにあなたを取り戻すからね」
蓮子の手を握りしめる。私の手汗でべとべとだ。蓮子の意識がなくて良かった。こんな様、恋人には見せられない。乙女として。
そうして、無限にも思える時間の果て、突然に辺りの霧が晴れた。取り囲んでいた亡霊が、黄昏色の陽光に掻き消える。
霧の先ではいつのまに日が沈みかけていたんだ。
半分にカットされた巨大なブラッドオレンジが、水平線の果てに溶け出している雄大な光景。
その鋭い逆光を浴びるのは扉日忌と名乗る少女一人。判決を下す裁判長のように厳かに、彼女は口を開く。
「わかった」
「……え?」
「それでいい。お姉さんの言う通りにしてあげる。それには意識を戻す。その代わり、お姉さんと二人分の命をもらう。抵抗も無し」
「う、うん」
それが正しいのかはともかく、ほっと肩の力が抜ける。これから死ぬと言われてここまで安心する機会もなかなか珍しいだろうな。他人事のような感想、自分で可笑しくって笑いそう。
もちろんそれは、少し、気を抜きすぎだった。でも許して欲しい。命懸けの綱渡りだったんだ。やっと対岸が見えて、なのに気をぬくなって……そんなの酷な話。
もちろん、言い訳だけど。
「嬉しそうだね?」
「え、いや……」
「お姉さん、日忌を馬鹿な妖怪と思ってる? でもね、私たちの中には、失意のまま自殺した大学教授や、調査中に嵐に飲まれた研究者、亡命した船ごと沈められた政治家、民衆を怒らせて海に放り込まれた領主……いい頭もたくさん混じってるの。だから、騙そうとしても無駄」
「騙そうなんて思ってない、私はただ……」
「いいよべつに、どうでも。私たちはいつでもすごいアイデアを思いつくの。幻想郷は海がないし、人間も好きに殺せないし、あそこに行くのはごめんだから、私たちは誰よりも必死なの……ね」
「げん……なに?」
「関係ない! なにを企んでいても関係ない方法よ!」
その時、いったい彼女は何をしたのか。私にはわからなかったし、たぶん今後もわかることはないだろう。
ただ、最後に見えたのは、壁のような海が迫ってくる光景だった。なす術もない私はただぼんやり、古い映画に似たような光景があったなと思い出す。あれもたしか大切な人との明日を取り戻そうとする、そんな話だったな、と……。
◯
「メリー?」
懐かしい声が私の意識を呼び戻す。また、夢かと思った。あたりは薄暗い闇。でも確かに蓮子の声がした。
あたたかな指先が私の頬に触れる。
遥か頭上から差し込むわずかなオレンジの光が、うすぼんやりと蓮子の瞳をちらつかせて綺麗。
「蓮子? いるの?」
「うぅ、頭いたい……もしかして昨日、飲み過ぎた?」
「え? いや……」
なんだか場違いな蓮子の科白に吹き出しそうになる。いやあるいは、もしかして全部夢だったの? すべては悪酒の見せた酷い夢?
なんて。
そんなわけがなかった。青白い光が私たちを取り囲み、照らしだす。あの怪異の少女がぐるりと私達の周囲を一回りした。開かれた口からあぶくが漏れ出る。
それで、ああここは海の中なんだ、と理解した。蓮子の方はギョッとしたような、一方で好奇心の輝きのようなものを双眸に宿らせ、不知火のような光のダンスを目だけで追いかけていた。呑気な奴。
「約束は果たしたよ。三分間だけ、待ってあげる」
「……私たちどうなってるの?」
海の中なのに、息ができる。体が濡れている感じもない。
にわかには信じ難い状況だけど、どうにも私たちは巨大なあぶくのなかに閉じ込められ、深海へと沈降し続けているらしい。なんでもありだな、まさに妖怪変化の技だ。
「話でもなんでも、さっさとしたほうがいいかも、ね……その泡はきっかり三分しか保たないの。ううん、もうあと二分半くらいかな……そうしたら泡が壊れて、冷たい海水が流れ込む。喉の奥に、肺の中に。私たちと一緒。せいぜい、楽しんだらいいよ。最後の『今』だから」
「ま、待って!」
「沈んだら、また来るね」
その言葉通り彼女は消え失せ、私たちは暗闇に取り残される。
もう海面からの陽射しは消え入りそうなか細さだ。
蓮子が端末をライトモードにする。彼女のこういう時の機転はほんとうに目を見張る。
「メリー、今のは? もしかしてやばい状況?」
私が首肯すると蓮子も眉根をしかめる。
ああ、説明する時間が惜しい。そう思ったけどそもそもの元凶は蓮子だって思い出す。だから、
「今のは日忌様ってやつ。あなた、それについて調べてたんでしょう?」
「ああ、あれか…………ちょいまち。もしかして私、犠牲者の列に並びかけてた?」
「さすが自称プランク並の頭脳」
今回ばかりは認めてあげよう。とにかくこれで第一関門クリアーだ。
言うまでもなく私は諦めたりなんかしてない。あんな訳のわからない連中に殺されるなんて真っ平御免よ。
そのためには何より、蓮子に正気に戻ってもらうのが必要だった。結局は私なんて、ちょっと変な目を持ってるただの女子大生。でも、蓮子がいれば話は別。蓮子と二人なら私たちは秘封倶楽部になれる。そうすれば、この状況だってなんとかできる気がするんだ。
「聞いての通り、私たちには時間がないの。だから――」
「あー待って待って。一つ質問!」
「なに、なに、時間ないのよ!? 聞いてたでしょ!?」
「いいから。とても大切なこと」
慌てる私を静止し、こほんと咳払い。
蓮子って伊達男――もとい伊達女なところがあるな、とどこか諦めた気分で思う私。
それで、
「メリーが助けてくれたのね?」
「……え?」
「だからぁ、日忌様に魅入られた私を助けてくれたのは、メリーなのよね? へんな霊媒師とか寺生まれのなんたらさんじゃなくて」
「そ、それはそうだけど。だからなに?」
「ありがとう、メリー」
蓮子が微笑む。あたたかい、血の通った表情で。それでようやく――ああ、私は蓮子を取り戻せたんだなって、目元が潤んだ。
ずるい奴。
「さてと! ま、だいたいメリーの考えそうなことはわかるわ。私を助けるのに手札を使い果たしたから、この宇佐見蓮子のホーキング並の頭脳を借りたいってんでしょ」
「ぶっ飛ばすわよ」
どうも蓮子には敬意ってものが足りない。あるいは高すぎる自意識と慇懃な敬意の折衷点がそこなのか。
なんて。呑気な感想を抱いていたその時。
ブシュッ――と鋭い音がした。
私と蓮子が同時に振り向いた先、泡の側面に小さな穴が開いていた。どぼどぼと流れ込む海水が、私たちの靴を冷たく濡らす。
その時の、重々しげに口を開く蓮子の表情ったら……
「……ははぁん、こうやって少しずつ溺れてくわけね。泡が壊れるってもっとこう、爆縮みたいなイメージを抱いてたんだけど」
「同じく」
「趣味が悪い。最低」
「同感」
「で、持ってる手札は?」
「お察しの通り使い果たしてる」
「ああそう……メリーの力は使えないの?」
「元より制御できるものでもないけど、こんな海の底じゃ無理。境界も何もあったものじゃないわ」
「海流の境界とかは?」
「繁殖のために故郷の川へ帰る鮭じゃあないのよ」
会議は踊る、されど進まず。すでに水かさは私たちの膝上に達しようとしている。
さすがに、ちょっと、かなり、恐怖が首をもたげはじめた。
蓮子が私の震える手を取る。蓮子の手もまたじっとりと汗ばんでいた。お互い様というわけだ。どちらともなく相好を崩し、少し、身を寄せる。
「……思いつきそう?」
「ん、まあ、なんとか」
ダメだなこれは。目が泳いでいる。泳ぐのはこれからだっていうのに。
まあ、なんだってそう上手くはいかないか……。
「ねえ蓮子」
「ん」
「ごめんね、綺麗にできなくて。もっとなにもかも上手くできたら良かったんだけど」
「べつにいいよ。私のせいだし」
それはそうだ。でも、私が放っておけば蓮子は苦しまずに死ねたはず。
なぜ私はこんな「取引」を思いついたんだろう。
もちろん理由はある。勝算も……蓮子なら、蓮子と私ならなんとかできるかなって。
でも。
もしかしたら単に私は、蓮子との「今」をもう一回分欲張っただけなのかもしれない。
その一瞬を過ごすために残りの人生すべてを投げ捨てた……そう謗られても否定はできない。
「私、もう一回蓮子と話がしたくって」
「ありがとう」
「なんで、お礼なの」
「メリーと一緒ならね、怖くないし。秘封倶楽部最後の活動として死後の世界はお誂え向きだわ。ちょっと、カッコつけ過ぎだけどね」
「……やっぱりなにも思いつかない?」
「うん、まあ……ごめん」
「いいよ。急な話だったし」
「そりゃね。でも、人生の分岐点なんていつでも急に来るものよ……」
私たちの顎下に水面が触れる。蓮子がはにかむ。私は泣きそうだってのに。
抱きしめ合う私たちの胸元だけがあたたかい。それがいっそう迫る死への恐怖を喚起する。どくん、どくん、と蓮子の鼓動。
「……こんなのも、いい思い出になるよ。きっと」
「いつ振り返るのよ」
「地獄で」
「天国じゃあないのね」
「どっちでもいい……未来が潰えても、私たちが生きた過去は本物だから。振り返る人が居なくなるだけで」
「ねえもっと詰めて……息できない」
「メリー、がぼっ、ねえっ」
「なにっ……」
「辞世の句……読んだ方がいいかな?」
知るもんか。そう突き返すまえに海が来た。あるいは蓮子は最後まで私を励まそうとしてくれたのかもしれない。もう、それどころじゃないけれど。
いざその時がくるまでピンとこなかった「死」が一斉にリアリティの色合いを増し、喉奥に流れ込む塩辛い水流を感じた生存本能が最大音量の警報を放つ。
私の意識とは無関係に、肉体は酸素を求めて海面を目指す。でも、もう、陽の光は波間に消えた。深すぎるのか、太陽が沈みきったのか、両方か。そもそも水をぐっしょり吸った服は重すぎてとても泳げたものじゃない。
ああ、終わる、終わってしまう。
重力の縛りを失った携帯端末がぐるりと一回転し、真っ白な光が蓮子を薄ぼんやりと照らし出す。人の目は水中のものを見るようにはできていない。蓮子の表情も、もう、よく見えない。
がぼがぼと気泡が肺から漏れていく。苦しい、苦しい……でも、寂しくはない。
蓮子の最後の言葉が酸素欠乏症に陥りゆく脳裏に響いてる。
私たちが生きた過去は本物だから。振り返る人が居なくなるだけで
そう、私たちの今は、未来は、永久に過去に封じ込められるに過ぎない。そこに横たわるは思い出という境界線。たとえ妖怪でも、きっと神であれ、その境界をまたぐことは――
境界?
「ごぼぼっ!」
声にならない。馬鹿だ、私。
そう――なんで気が付かなかったんだろう。
探し求めていた境界はずっと、そこにあったじゃない。さんざん苦しめられてきた、今と過去の境界。
思い出の境界線が。
もちろんそれは超え難い境界でもある。他人の過去、他人の思い出ならば。
でも。
今ここにあるのは、私たちの間に取り戻された過去は、私のよく知るそれだった。
つまり、秘封倶楽部の過去。秘封倶楽部の思い出。
それなら私、よく知っている。
ありがとう、蓮子。
私はあなたに気が付かされてばっかりね。だからここからは私の最後のもう一仕事。
そして……私は扉に手をかける。もちろん実在する扉があるわけじゃない。けど、なんとなくそこにある気がするんだ。私たちの思い出につながる境界が。
その一方、私たちの周囲ではほの暗く青白い炎が慌てたように飛び交い始めた。さぞかしふんぞり返ってたんでしょうね。もう遅いわ。
「なに? なにをしてるの? 約束が違うわ、約束が違うよ。ねえ、あなたたちは死ぬんだよ。ここで死ぬのよ。ここで死ぬんだ! 私たちと同じになるの!」
蓮子を引き寄せ、もう一度抱きしめる。まだ死んじゃいないない……はずだ。
事実、海水越しに揺らぐ蓮子の瞳と目が合う。蓮子もまた私と同じことを考えている――そんな気がする。
だから。
互いの意思が相通じ合っていることを証明するように私たちは、言葉もなく、握りしめた互いの手を放した。
扉が開かれる。私たちの思い出が今に向けて逆流し、未来へと繋がった、そんな気がした。
だからもちろん、そこに現れたものを私たちは知っている。それは確かに私たちの思い出の一ページ。
伊弉諾物質。
そう。思えばここは海の底で、地上よりもずっともっと近いんだ。遥かに沈むイザナギプレートに。神代の世の残り香に。
「だめよ! こんな――こんなのずるい! ずるだ! いくなっ! そいつを返せ! 私たちは守ったのに、ちゃんと約束守ってあげたのにっ!」
まばゆい――まばゆい輝きが、ひかり、ほとばしり、過去の亡霊を切り裂いていく。
その光景はまるで、深海の永遠の夜に昇った朝日のようで。
それがなんだか凄く、とても、ほっとした。
――ああ、明日がやってくるんだなぁ。
それは奇跡のような日常で。だけどなんて、なんて素晴らしいんだろう。そう思わずにはいられなかった。
【epilogue】
「……生きてる?」
見開くと青空だった。
波の打ち砕ける音。
背中がゴツゴツと痛くて、ああ、あの岩場で横になってるんだと気がついた。
「たぶん」
「おっけ」
顔だけ横を向くと、蓮子がいた。髪がびしょ濡れでおばけみたい。まあ私も似たような状況だろうが。
それで、数秒か、数分か、なんとはなしに見つめ合ったまま波の音を聞いていた。
込み上げたのは笑い声だった。
私も、蓮子も、意味もなくくすくすと肩を震わせ、笑い合う。ああ、おかしい。私たちはいったい何を経験したんだろう?
「ほんと、ひどい目にあった。蓮子のせいで」
「ごめんごめん」
「さっきのことだけじゃないわ。大変だったんだから。蓮子がおかしくなって、私もう破局だって思った」
「それは……本当にごめん」
「ほんとよ」
結局、蓮子の「昔の恋人」はそんなもの存在しなかったわけだ。なんたる肩透かし。というか、あの水死体共は悪趣味すぎる。それほどこの世に恨みが深いってことなのか。今となっては彼らが本当に存在したのかすら、よくわからないけれど。
「ところで私たち、どうなったの? 過去に戻った、とか。そういうことはないよね?」
「ううん、たしかに今日は昨日の続き。残念でした。むしろ八時間くらい飛んだかな。気絶したまま寝てただけかもしんないけど」
驚き。蓮子の能力って便利なんだ。携帯端末も何もかも、今はもう海の底だ。
「睡眠はタイムリープの最もプリミティブな業ね」
「そ。だからタイムスリープってわけ」
「くっだらな……」
蓮子のつまらないギャグのせいで、どっと疲れが蘇る。
こんな言葉を聞くために頑張ってきたのか、私は……。
だからというわけじゃないけど、少しだけ意地悪な気持ちが私の心に顔を出す。ねえ、蓮子――と、私の薄ら笑う声。
「もし私が昔の恋人のことで悩んでいたら……どうする?」
これは一種の仕返しのようなものだ。さんざん苦労を書けさせられた仕返し……そのつもりだったのに、蓮子は逡巡すらせずに、
「べつにどうもしない」
だと。
私が言い返そうとする前に、彼女は続けて、
「だってさ、今のメリーと時を刻んでるのは私でしょ。他の奴との過去なんてどうでもいい。それがどんなに重くったって、それがどんなに膨大だって、今を一緒に歩ける私が昔の恋人なんぞに負けるわけ無いわ。だから好きなだけ悩んで、って感じね」
だ、そうだ。
新しくわかったこと。もし今回の件で立場が逆だったら、私はそのまま蓮子に放置されて死んでいた。
などと微妙な気持ちになっている私をよそに、蓮子はなぜかご機嫌になる。たぶん、自分がかっこいいことを言った気分になってるんだろうな。それはちょっと、かわいい。
「ようするに大切なのは過去じゃなくて、未来なのよ。未来に向けて今を生きること! ほら昔の歌もこう言ってるでしょ。しあわせはぁ~歩いてこない~! だ~から歩いてゆくんだねぇ~! 一日一歩! 三日で三歩! 三歩すすんでニ歩さがる~!」
波の音に混じって、蓮子の下手くそな歌がこだまする。呑気に、平和に。
……ところでこの後、私たちは家に帰るために大変な苦労をする羽目になったのだが、ここに記すには余白が狭すぎる。
ただその道程、宇佐見蓮子さんの「星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力」がかつて無い程の活躍を見せたことは、彼女の名誉のために、付け加えておく。
わざとそういう文体にしていることは承知の上で、それでも少し装飾過多な文体に感じ、自身の読解力のなさも含めてお洒落よりもちょっと読みづらいなと思うところはありました。
それはそれとして表現のセンスが好きでした。
一線を越えるべきか否かを悶々と悩むメリーが素晴らしかったです
それでも蓮子のために進むことを選んでいてとてもよかったです
ショートケーキ食べる夢のシーンが大好きです。