Coolier - 新生・東方創想話

タイムカプセルの友達

2024/01/18 04:50:37
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<またせてごめんねm(_ _)m もうすぐつくかも? どっかわかりやすいとこにたってて>
 そんな文面のメールが研究室の友人から着信して、女性は顔をしかめた。遅刻に対する反省の意思がぜんぜん伝わってこない。もうすぐつく「かも」ってどういうつもりなんだろう。それくらい自分ではっきりさせてもらわないと困る。
<入口の門の前に立ってる。湯たんぽが描いてあるやつ。走って来なよ。>
 そう返信を打った。「入口の門」は、いま女性がいる場所からは屋台の並びと人混みに阻まれて見ることができない。しかし別に見なくてもその姿は思い出すことができる。悪い意味で印象に残っていたからだ。
 女性はとにかくその造形が気に入らなかった。鉄のポールの間に、ゴミ袋の材料になっていそうな黄色くて薄っぺらいビニールの横断幕が渡されているだけの貧相な見た目。ビニールに書かれた [第40回 由田河川敷まつり] のフォントはボールドのポップ体で、安っぽさを助長している。[第40回] と [由田河川敷まつり] の間には、去年から続いているゆるキャラブームに乗っかって由田商工会が作ったゆたポンというキャラクターが白黒でプリントされている。ぶんぶく茶釜の茶釜の部分が湯たんぽになっている狸のキャラクターで、そのデザインもやはり女性は気に入らなかった。商店街で初めて着ぐるみのゆたポンを見たとき、思わず「街の面汚しだよね」と呟いて、隣を歩いていた友人をぎょっとさせたほどには。
 女性はほとんど毎日、由田川の土手の上にある舗装路を歩いて大学に通っている。そのため、ちょうど今日の朝も、河川敷に集まった作業員たちがあの門を急ごしらえしている様子を、土手の上から目にしていた。あの時もダサいと思ったけど、夜、実際に会場に立てかけられてるところを見てみても、やっぱりみすぼらしい。みすぼらしすぎて、なんかもう、悪目立ちしている。だから、待ち合わせ場所としてはまあまあ分かりやすいでしょ……いや? ちょっと待てよ。ふつうに、私が今現在いる場所で待ち合わせたほうが、少なくとも私は楽なんじゃ?
 そのことに女性が気が付いたのは、メールの送信が終わるか終わらないか、というぎりぎりのタイミングだった。とっさに携帯のクリアボタンを連打したのだが、むなしくも液晶には送信完了の通知が表示されてしまった。ちょうどそのとき女性は会場の最奥あたりにいて、要するに入口の門のもとへ行くには、わざわざ七、八分くらいかけて屋台の列を引き返さなければならなかった。
 思わず女性はため息をつく。ついてない。今日は厄日なのかもしれない。女性は頭の中で、今日これまでに自分の身に降りかかった不幸を思い浮かべる。研究室のプリンターが両面印刷を頑なに拒否してきたり、学部生のときから使っていたウォークマンが壊れたり、あさって見に行く映画の結末をゼミ室で後輩にばらされたりした。そして大学から夏祭りまで一緒に直行するはずだった友人は、出発する直前で「ごめん財布持ってくるの忘れてた」「一回家戻っていい?」と言い出した。そのせいで女性は一時間弱、独りきりでこの河川敷にいる。そもそも財布忘れたなんて、ふつうの人間ならその日の午前中に気づくだろうに、何してんだあの子は。それに私が「お金なら貸すよ」って言ったら、「お金の貸し借りは友情崩壊のもとだから」とか、わけわかんないこと言い出しはじめて。いやまあ、わけわかんなくはないけど。
 ただ、別に悪いことばかりではなかった。女性の肩掛け鞄の中には黒猫のぬいぐるみが入っている。それはつい数分前に射的屋で手に入れたものだった。屋台の中でもひときわ薄暗く、酒焼けした無愛想な中年が店番をしていて雰囲気は最悪だったけれども、女性はそのぬいぐるみを一発で撃ち落とすことができた。今日唯一の幸運といってよさそうだった。黒猫のぬいぐるみはかなり前衛的な造形をしていて、アルベルト・ジャコメッティみたいでセンスがいい……少なくとも女性はそう感じた。家に帰ったらどこに配置しようかと考えると、多少は気も晴れてくる。

 わざわざ屋台に群がる人の波をかき分けて入口の門まで引き返す気にはどうしてもなれず、女性は屋台の列から数十メートル離れた、川沿いの遊歩道を歩いて戻ることにした。
 肩掛け鞄から百均製のライトを取り出す。遊歩道には特に照明など設置されていないため、夜になるとかなり暗くなる、ということを女性は知っていた。そもそも、由田川の近辺に住んでいる人でなければ、日没後にこの遊歩道を使おうとする人はほとんどいない。今日に限っては、会場に並ぶ屋台や鉄線に吊り下げられたちょうちんが発する灯りのおかげで、その道はいつもよりは明るかった。しかし人通りはまったくと言っていいほど見当たらない。会場はあんなにも混んでいるのに、この道を歩く人は自分以外に誰一人いない、そのことを女性は少しだけ不思議に思った。歩調は自然と足早になっていく。

 背後から声をかけられたのは、歩きはじめて一分ほど経ったときのことだった。
「ねぇ、持ってる?」
 それはあまりにも唐突な呼びかけで、たった六文字の言葉であっても、女性はその内容をうまく聞き取ることができなかった。相手の息遣いが分かるくらいの近距離から投げかけられたその声には、ほとんど抑揚がなく、ざらざらと掠れた響きを持っていた。男の声だった。
 反射的に振り向く。手にしていたライトの光線が、不意に男の姿を照らし出した。背恰好はおおよそ女性と同じくらいで、黒のキャップに灰色地のマスクを着けているためにその表情はうまく読み取れない。服装も全身真っ黒だった。男は一瞬だけ動揺した様子だったが、すぐに自分に向けられたライトの発光部分を握り込んで、光を遮り、そのまま強引に奪い取る。スイッチが切られる音とともに、一気に周囲は本来の暗さを取り戻した。女性の心臓が早鐘を打ち始める。
「持ってるよね?」
 暗闇の中で男は再びそう言った。持ってる? 持ってるよね。前後の文脈が何一つない、宙ぶらりんの状態で耳から放り込まれた言葉が、不吉なイメージとなって女性の脳内をさまよい始める。持ってる? 何を? 肩掛け鞄を、中には、鍵、携帯、手帳、キーケース、カードケース、化粧ポーチ、黒猫のぬいぐるみ、財布……財布。財布か。なんて現実味がない状況なんだろう、と女性はまるで他人事のように思った。話には聞いたことはあっても、なんとなく自分がこういうものに遭遇することは、今までも、今後の人生においても無いだろう、そう考えていたのだった。
 男は電信柱のように細い体を直立させている。呼吸のたびに男の肩がゆっくりと上下する様子が、暗がりの中で影絵として見える。……そういえば、視界が悪いのは向こうも同じなのかもしれない。そう気が付いた女性は、一瞬だけ男から目を逸らし、左右を確認する。そして体の向きを反転させ、右足を思い切りよく踏み出す。
 すぐに後ろから襟首を掴まれた。絞めつけられた喉の奥から、ひっ、と鋭い声が漏れる。
「お金出せる?」
 男の声が耳のすぐ裏側で響いた。生々しい息が肌に当たった。耐えられない。たまらず頷こうとする。しかし頷けなかった。首筋が硬直して、動かそうとしても動かなかった。代わりに左腕が肩掛け鞄をたぐり寄せ、そのファスナーをしっかりと封じた。ほとんど無意識の行動だった。この期に及んで私は何を抵抗しているの? 非難がましい自分の声が頭のどこかから聞こえてくる。
「早く出せよ」
 男の声に初めて感情らしきものが生じた。それは苛立ちというよりもどこか好奇をはらんでいるように思えて、女性は身震いしながら、それでも肩掛け鞄の口を一層かたく抱きしめた。その様子を見た男は襟首をつかんでいた右手を離し、そのまま滑らせるようにして女性の肩をつかむと、乱暴に引き寄せて体ごと振り向かせた。女性はとっさに目をつむる。男の顔を見るわけにはいかない。そう信じた。ひとまず信じることにした。相手の表情を、口の動きを、手足の振る舞いを目に入れた瞬間、自分はもう元いた世界に戻れなくなってしまうのではないか、そんな恐怖心があった。
 固く閉じられた目尻に涙を溜めながら、小刻みに震える女の顔を見た男性は、緊張のためか口の中にやたら溜まっていた唾を呑み込むと、ジーパンの尻ポケットを左手でまさぐり、園芸バサミを取り出した。親指で留め金を外す。グリップの間にある強力なばねの反発が左手に伝わってきて心強い。暗闇の中で鈍く光る湾曲した刃を、男性は女の鼻筋に慎重に当てる。別に本気で鼻の骨を断ち切るつもりなどはまったくない。おそらく自分にはこの後面倒なことが待っているだろう、ということを男性はすでに知っていた。そもそも面倒なことが前提の行動だった。だから、この女に傷をつけてしまうと、面倒なことの内訳がなおさら重たくなってしまう、そんなことは男性も十分理解していたので、ただ刃を当てるだけにとどめる。
 園芸バサミが鼻の皮膚に触れたその直後、女の全身は電気でも流されたかのように震えた。そのはずみでハサミの刃先が女の目に刺さりそうになり、男性はひやりとした。それから少し驚いた。体があれだけ激しい揺動を見せたのにも関わらず、女の両まぶたは未だに固く閉ざされたままだったからだ。
 思わずため息をつく。
 いまこの瞬間、男性の精神状態はたしかに高揚していたものの、心の奥底では、どこか目の前の状況に対して冷めている自分がいることに気が付いていた。今日の午前中、アパート近くのホームセンターをうろついている自分の姿が脳裏に蘇る。店内に入ったときは買うつもりもなかったのになぜか衝動的に購入したこの園芸バサミは、税込で千五十円と、男性にとってはそれなりに手痛い出費だった。そして今、千五十円を払ってこういうことをしているだけの興奮が、充分味わえているのかどうかは、当の自分もよくわかっていない。
 ただ、この状況に満足できない何らかの要素があることは確かだった。ああ、もしかすると、さっきからこの大柄な女の反応が、面白くないというか、端的に言ってつまらないからかもしれない。何というか、ワンパターンだ。必死に目を閉じて震えているだけだから。……そうか、よくよく考えれば単純なことだ、この女は目を閉じているせいで、いま自分の鼻に押し当てられているものが一体何なのか、まだしっかりと認識できていないんじゃないか。ねえ、目、開けてみなよ。そう耳もとでそっと呟いてみよう。

1, 第一三二季 ㈠
 不意に砲声が聞こえた。連続して二発、その鋭い音のせいで、せっかく板の間の上でうとうとしていたのに、紫苑はすっかり眠りから引き戻されてしまった。
 鹿なのかキジなのかイノシシなのか、何を狙っているのか紫苑はよく把握していないが、とにかくこの林には狩猟動物がたくさん棲んでいるらしく、近頃は毎日とはいかないまでも頻繁に発砲音が鳴り響く。何もこんなに暑い時期を選んでやらなくても。まあでも、ひょっとすると仕事なのかな。それでお金をもらって生活してるんだったらしょうがないけど。でも、すっごくうるさい、できれば私が昼寝してる最中は撃たないでほしい。
 
 紫苑は一か月くらい前から、里外れの雑木林の入り口で見つけた、広さ八帖くらいの廃屋に入り込んで生活している。玄関以外には一部屋しかない小屋のようなもので、見つけた当初から、いつ崩壊しても不思議ではない、という荒れ具合だった。押し入れを探ってみると熊の毛皮で作った外套などが出てきたので、おそらく昔、それこそ人里ができる前の時代に、この近辺を主な仕事場にしていた猟師が拠点として使っていた場所のようだった。ちなみに熊の毛皮を紫苑はしばらく掛け布団代わりに使っていたのだが、ある朝目覚めたらこつぜんと消えていた。理由はいまだに定かではないけれども、所有物が突然理不尽に無くなるというのは、貧乏神である紫苑にとってはありふれた災難の一つだったので、少し悲しい気持ちになっただけで済んだ。
 ここに来る前の紫苑は、いろいろと複雑な経緯の末に一緒に行動するようになった天人様の家、もしくは天人様の知り合いが所有している逆さ城に寝泊まりしていた。もっとも天人様はあまり家に帰りたがらない人だったから、回数としては逆さ城に泊めてもらったことのほうが多い。
 相当衝撃的な出来事だったので紫苑は今でも覚えているのだが、逆さ城の石垣の上で天人様とお茶を飲んでいる最中、雲の上から降ってきた矢文がふたりの間に突き刺さったことがある。その手紙を開いた天人様は、一読してすぐに機嫌を悪くして「家は広いほうがいいって紫苑は思うでしょ、でも違うの、家って広いほうがかえって狭苦しいのよ。紫苑、意味分かる?」と訊いてきた。紫苑は「狭い」という言葉に含まれる別のニュアンスをなんとなく悟ったものの、曖昧にほほえんで首をかしげるにとどめた。普段の天人様はそういう迂遠な言い回しをほとんどしない分、あの発言はそれなりに怖かった。
 一緒に行動するのをやめた今でも、天人様との交流が消えたわけではない。けれども、以前よりもだいぶ会いにくくなってしまったのは確かだった。その原因を端的に説明すれば、紫苑は天人様と一緒にいる間、互いに気が大きくなっていたということもあり郷中で様々なトラブルを起こしていたのであって、ただこれは異変という規模でもない微妙な立ち位置の騒乱だったために、四季が滅茶苦茶になるという大きな異変の前にひっそりと鎮静化された。ふたりを退治したのは例によって霊夢だった。あの時の霊夢の剣幕は、ともすれば紫苑が異変を起こした時よりも凄まじかった。あの表情を思い出すたび、もう、何というか、あんなひどい顔をさせてしまってごめんなさい、と紫苑は謝りたくなる。
 霊夢が怒り心頭になっていたのもまた当然の話で、天人様と出会う前に紫苑が居候していたのが、他ならぬ博麗神社だったのだ。神社における居候期間中、霊夢は厳しすぎず緩すぎず、適当な塩梅で紫苑の世話をしてくれたし、とりとめのない会話も日ごろから交わしていた。だから当時の紫苑も、なんだかこの場所にいる私はいつもよりも不安定じゃない気がする、心地いい、と思っていたし、そろそろ霊夢さんにもちょっと信頼されてきてるんじゃないかな、と根拠の薄い自信も生じていた。
 結局その信頼は、神社を出て行ってから一か月もしないうちに、ほかならぬ紫苑自身によって破られてしまったのだ。当たり前だけれども「天子様とおおっぴらに会いにくくなったのでまた居候させてください」などと気安く頼みに行くわけにもいかない。異変中の高揚状態であれば、持ち前の図太さでそうしたかもしれないけれども、現状の紫苑はどちらかといえば精神的に沈着していたから、そんなことを頼みに行く気力が残っていなかった。……というか、もう絶対霊夢さんも私のこと嫌ってるだろうし。今後もうしゃべることもたぶんないような気がする。
 妹の女苑に関しては、やはり紫苑と同様いろいろと複雑な経緯の末に、命蓮寺という寺で泊まり込みの仏道修業をしているので、これまた会いに行きづらい。ただし、そもそも紫苑の頭には「妹の家に居候させてもらう」という選択肢はなかった。幻想郷に来る前から、ふたりが同居生活を送ったことはなかった、いや、大昔に同居していた期間もあったのかもしれないけれども、少なくとも紫苑が覚えている範疇では、それぞれがそれぞれの生活空間を持って住み分けをしている。どうして一緒に暮らさないのか、紫苑はあまり深く考えたことがない。ふたりともイライラしやすい性格なのでストレスがたまるからだとか、紫苑が住み始めると女苑の家がどんどんボロボロになるからだとか、いくつかのそれらしい理由には思い当たるのだけれども。
 とはいえ険悪な姉妹仲というわけではないから、気が向いたら会って遊ぶこともある。しかし最近はそんなこともない。向こうからも何の音沙汰もない。紫苑も紫苑であの寺に押し掛ける気にはならない。あんなネオンサインみたいな住職のいるお寺に貧乏神の私が足を踏み入れたら、いろいろひどい目に合う気がするし、まぁそもそも女苑のことだし、それなりに器用にやってるんじゃないかなぁ、そんなことを考えていると、女苑に会おうという能動的な意思はみるみるうちにしぼんでいくのだった。

 砲声による耳鳴りが止むと、紫苑は体を起こし、ちゃぶ台の上に残っていた茸の残りをつまんでかじった。今日の朝に小屋の近くで見つけた茸で、見たことのない種類だったけれども、何となくいけそうな見た目と色だったので、まあいっか、と思い、先ほど昼ごはんとして食べた、その残りだった。茸は全部で二十本あったが、傘の裏にびっしりと付着した胞子のためかきわめて粉っぽかったので、いつも腹を空かしている紫苑ですら一気に全部食べるのは無理だった。
「……よく噛めばおいしい……のかも」
 自分に無理矢理にでも言い聞かせるように、わざわざ口に出して言ってみる。しかしどう頑張っても、口の中に残る不快な食感は変わらない。それでもひもじいよりはひもじくない方が楽なので、合間合間にため息をつきながら紫苑は茸を一つ一つ口に放り込んでいった。
 そして最後の一個を飲み込もうとしたとき、再び砲声が響いた。紫苑はびくっと肩を震わせ、そのはずみで茸の胞子が気管にからみつき、盛大にむせる。先ほどよりも音が大きい。猟師はどうやら廃屋のかなり近くにいるようだ。
 紫苑は途端に不安になってくる。たとえば、猟師の人がものすごくとんちんかんな方向に弾を撃っちゃって、私の家の壁に穴が開くなんてことは……穴が開くだけならまだよくて、そのせいで壁が崩れるなんてことは……ぜんぜんありえないことじゃない、むしろ、私なら普通にありえる。そうなったらやだな、せっかくこの小屋の生活も慣れてきた頃なのに。
 そんなことを考えていた次の瞬間、考えていた通りに、部屋の左側の土壁に穴が開いた。弾が打ち出される音というよりは、火薬が破裂する音が部屋の空気を貫き、背骨をじかに掴まれて揺すぶられているような感覚が紫苑の体に一瞬だけ走った。
「……あぁ、もう」
 銃弾の通り道を中心にして亀裂の入った土壁を見て、紫苑は深いため息をつく。まあいいや。別に崩れちゃったわけじゃないから。最悪の不幸は避けられたから。そもそもこの家は、紫苑が住みついてからのたった一か月で、食べられない茸やカビの類に木材が蝕まれ、いつしかシロアリも出るようになり、先週はイノシシだろうか、とにかく何らかの獣が小屋に併置されていた小さな物置を破壊してしまった。本来、雑木林のゆったりとした時間の中で静かに朽ちていくはずの建物が、貧乏神である自分の所有物となったせいで死に急がされているようにも思える。
 玄関を出る。玄関といっても扉はない、扉は紫苑が見つけた当初から失われていた。
 外を見まわすと、果たして、壁に穴を開けた犯人はすぐに見つかった。鉄砲を腰に携えた二人組の男が、家の前の緩やかな斜面をうろうろしている。一方が太い体型、もう一方が細長い体型で、ふたりとも紫苑のパーカーと同じくらいに薄汚れた作業着を着ている。
「ねえ、ちょっと」
 湿っぽい声でそう呼びかけると、男たちはびくりと肩を震わせて紫苑のほうを向き、一瞬で目を逸らして、それからゆっくりと向き直った。一度見ただけでは、青い髪の女が林中の廃屋から出てきた、という状況を信じられなかったようだった。
「だっ、誰だおまえ」
 太い男がつぶれただみ声で叫ぶ。
「……誰かなんて、どうだっていいでしょ」
「だ、誰だ」
「ここ、私の家だよ、どうしてくれるの」
「私の家、だって……こ、こんな場所、人が住んでるわけない、住んでるわけないのに……」
 そう言いながら、太い男の顔はみるみるこわばっていき、顔色はあからさまに白くなっていく。すると、それまで黙って隣に突っ立っていた細長い男が、太い男に耳打ちして何事かを言った。
「そうか、妖怪か!」
 すぐさま太い男は紫苑を指さしながらそう叫んだ。細長い男は呆れて声も出ないという表情で太い男を見ている。あぁ、あの人頭が回ってない人だ。なんか、わざわざこっちに聞こえるくらいに叫ぶのが間抜けだなぁ、でも私もなんとなくわかる。驚いたときって勝手に声と手が出ちゃうものだから。なんか太ったほうは親近感が湧いてくるような気がする。予想でしかないけど、私の家に弾を撃ち込んじゃったのもこっちのほうだろう。
「違うよ、私は妖怪じゃない」
「じゃあなんだ」
「神様。貧乏神」
「……じゃあやっぱり駄目じゃないか! そうか、そうだ、最近やけにここら辺で獲物を捕り逃すと思ってたんだよ、おまえのせいだったんだな」
 太い男が興奮してそう言うのを、いい加減落ち着け、というふうに細長い男がなだめている。一方の紫苑は、そうだねぇ、それは私のせいかもねぇ、という言葉を発しかけたのだが、自分でそれを言うのもおかしいような気がしてやめた。代わりに「そんなことどうだっていいでしょ」と言う。
「私の家の壁に穴を開けたんだからさ、お詫びに、なんかいいものちょうだい」
「……いや、それは、まあ申し訳なかったよ、謝るよ、でも当たり前だけどおれたちはいま猟に出てる最中なんだよ、だから金品なんて一つも持っちゃいないんだよ」
「……えぇ、そんなぁ、祟るよ?」
「おれにはおむすびしかない」
「あ、おむすびあるんだ……欲しい」
「え、おむすびだけでいいのか」
 するとそこで、それまで黙ってふたりのやり取りを聞いていた細長い男が、突然「ちょっと、一旦下がってろ」と言いながら太い男の肩を掴み、力ずくで後ろに下がらせて、代わりに紫苑の前に進み出た。
「その、私共が住処を傷つけてしまって大変申し訳ありません。あの、もし、こんなもので良ければ手を打ってもらいたいのですが」
 そう言って細長い男は作業着のポケットから何かを取り出し、手のひらを広げて紫苑に見せる。
 差し出されたのは十銭硬貨だった。表面に口を大きく開けた龍が描かれている、幻想郷でふつうに流通している通貨だ。とはいえいつも金に縁のない紫苑は、女苑や霊夢が使っているところしか見たことがないのだけれども。
「これは私が猟のときに、お守りとして持っているものです。ただの十銭硬貨ではなくて、ほら、裏返すと……ね、ほら、表面だけじゃなくて、裏面にも龍の図柄が刷られているんですよ。裏は本来 [十銭] の文字と菊花、二枚の羊歯の葉が描かれてますよね、それなのに、この硬貨では表と同じ図柄になっている。この郷の貨幣は河童の機械式工場で作られていると噂で聞きますけど、やはり機械と言っても常に精確とは限らないんでしょう、たまにこうして不良品の硬貨が混ざるんです。もちろん硬貨なんて誰もが使う大事なものですから、流通させる前に厳重に検品しないといけない。だから、この十銭硬貨は、何匹もの河童の目をくぐり抜けて、この世に日の目を浴びた悪貨ということです。そういうわけなので、その価値は、ただの不良でない良貨よりもずっと高くつく」
 淀みない説明を聞いてから、一拍置いて「……えっと、エラーコインってこと?」と紫苑は訊いた。紫苑が頭に思い浮かべたのは、縁にあるはずのない溝がついた十円玉であるとか、穴を打つ場所が数ミリだけずれた五円玉のような、向こうの世界における不良品の硬貨だった。そうった硬貨を大枚はたいて集めている変わった趣味の人が世の中にはいて、普通のお金よりむしろ余計に高い値段で売れる、という話を女苑から聞いた覚えがある。しかし幻想郷にもそういう概念があるというのは知らなかった。
「……エラーコイン、という言葉は私はちょっと存じ上げないのですが……」
「あ、そっか」
 そう言われて紫苑はようやく気が付いた。この男の人は向こうの世界なんて知らないんだった。
「ひとまず、受け取っていただけますでしょうか」
「うん。いいよ、これなら」
 紫苑は二、三回頷いて、男が差し出した十銭硬貨を受け取った。
「改めて申し訳ありませんでした、一か月くらいは、この辺りでは猟はしませんので」
 最後までそつのない細長い男の言葉を聞きながら、口達者なひとはいいなぁ、と紫苑は改めて思った。それはいつも女苑に対して覚える感心にも似ていた。それから細長い男は、助け船を出してもらったはずなのに微妙に不服そうな顔をしている相方を促して、林の斜面を下っていった。

 部屋に戻ってから、紫苑はエラーコインをしげしげと見つけた。十銭硬貨の、その裏表両面に描かれた龍は、角、脚、髭と細長い要素が乱雑に絡み合っているように見えて、かっこいい、とは正直思えなかった。それでも白銀の輝きはきれいで、紫苑は思わず見とれてしまう。
 もちろん、何かを買うのに使おうという発想はほとんど起きない。エラーコインなんて珍しいものは取っておきたい、という理由はその通りだけれども、そもそも紫苑は、女苑に比べて、そして普通の人間と比べて、金を得た時の喜びを感じにくい性質だった。
 要するに、使おうとしても使えないものをありがたがる道理はないのだった。紫苑はとにかく金を使うのに難儀を要する。紫苑の手元に入った金は、まさしく財産そのものであるから、貧乏神の能力のせいで、使おうとして結局いつも使えないまま終わる。手持ちの金は次々と失われる。それはもう理不尽な理由で。
 先の異変がいい例だった。騒霊のコンサート中にふたりであれだけの金を稼いでいたというのに、途中で女苑から貰い受けたのはせいぜい一円札が五枚くらいで、女苑は紫苑に金を渡すとすぐに無駄になることを当然知っているからその出し渋り自体は紫苑もかろうじて飲み込めたけれども、結局その五枚の一円札は次の戦闘の間に全部どこかに消えてしまった。夢の世界に置いていかれたのかもしれないが、実際のところはよく分からない。賢者と霊夢に退治されたのがその後すぐのことだ。あんなことになるんだったら、いっそ会場にあった出店でお金を使い果たしておけばよかった、そんなことさえ紫苑は考えた。
 紫苑にとって、財産の紛失は「溶ける」というイメージだった。お金をなくす、というシチュエーションは、例えば風に吹かれてなくなる、どこかに落とす、盗まれる、などいろいろ考えられるけれども、そういう具体的な原因が分かればまだ良いほうで、実際には「気が付いたら無くなっている」という場合が圧倒的に多い。きっと私の能力は、理屈とか、因果とか、そういったものを飛び越えちゃって、だから、持ち物もお金も知らないうちに溶けちゃうんじゃないか、そう紫苑は考えている。目を離しているすきにいつの間にか液体になって、服や肌の中にいつの間にか溶け込んでしまうのだと。
 だから紫苑にとっては、エラーコインの十銭硬貨も金としての価値があるわけではなかった。むしろ、溶けてしまうその時まで、ただ見て楽しむために、日ごろの不幸で荒みやすい心を癒すために存在している。そもそも、お金なんて私にとってはめったに手に入らないものなんだから、ヤケになって使おうとする必要なんてなくって、それよりは、そう、珍しい昆虫みたいな感覚で見たほうが、心に余裕が出るような気が……あぁ、向こうの世界でエラーコインを集めてる人たちも、もしかして私と同じこと考えてたのかな。

 飽きっぽい紫苑は、五分間くらい十銭硬貨を手のひらの上で弄ぶとおおむね満足して、黒猫のぬいぐるみを右手で掴み取った。
 そのぬいぐるみは、いつも紫苑の左肘のあたりに絡みついている。その腕は針金を撚り合わせて作ったかのように細長く、顔のパーツは何一つとして描かれていないという、不思議な見た目の黒猫だった。黒猫の頭部には、紫苑が自分で当てた継ぎはぎがある。ただ、実はこの継ぎはぎの一辺は縫われていない。紫苑はその隙間に指を突っ込むと、普段は継ぎはぎの下に隠れている破れ目を広げて、十銭硬貨をその中にねじ込んだ。
 このぬいぐるみを紫苑が手に入れたのは、おおよそ十年前のことだった。要するに、まだ紫苑と女苑が向こうの世界にいた頃に手に入れたもので、不思議なことにこの黒猫は、それ以来、紫苑の手元から失われていない。まるで、紫苑が黒猫を所有しているというよりは、黒猫が紫苑の体から離れないという具合だった。姉妹が結界の外から幻想郷に渡ってきたときでさえ、この黒猫はついてきたのだから、ただものじゃない、もう私と一体化しちゃったんじゃないか、とさえ紫苑は思っている。どうやらこのぬいぐるみだけは、貧乏神の能力の影響を受けないらしい。
 そんな黒猫の執念に何らかの縁起の良さを感じた紫苑は、いつごろからか、すぐに消費することのできない小物、もしくは消費せずに手元にとどめておきたい小物を、この黒猫の頭にねじ込んでおく癖ができた。私のツキのなさをものともしないこの子と一緒くたにしておけば、ささやかな財を手元に取っておけるんじゃないか、そういうやや夢想的な思い付きから始めたことだった。ただし、黒猫の頭部にある破れ目は、それこそ硬貨がぎりぎり入るくらいの大きさしかないので、そのサイズに収まるような正真正銘の小物しか中に入れることはできない。ただその不便さはむしろ、紫苑にとっては何となく「黒猫の頭の中に大切なものを保管する」という行動の神秘性に一役買っているように思えて、むしろ好ましかった。
 なお実用的な問題は、昔に入れたものほど再び取り出しにくいということと、もう一つ、ある程度昔に入れられたものは、やはり「溶けて」しまうということだった。ぬいぐるみの内側に詰められた綿にまで徐々に紫苑の能力が作用して、いつの間にか溶けてしまうらしい。そもそもずっと昔に入れたものがいつまで経っても溶けなければ、黒猫はいつかの段階で容量いっぱいになってはち切れてしまうはずだから、実際のところ、溶けている可能性が高い。
 ……あれ? そういえば最近は何を入れたんだっけ。紫苑は人差し指を適当に穴の中で左右させて、引っかかった小物を取り出しはじめた。今しがた入れた十銭硬貨に加え、先週の散歩中に拾ったホタル石の欠片、表面にSと彫られたベーゴマ、正露丸に似たしかし匂いのない丸薬、何らかの獣の犬歯、シジミの貝殻など、薄汚れた綿が絡みついた状態のままの小物を、机の上に乱雑に並べていく。ホタル石と十銭硬貨以外はどのようにして手に入れたのか、紫苑の記憶はすでにあいまいだった。十中八九シジミは自分で食べたんだろうけれども。
 最後に取り出すことができたのは、朱色の干からびた種子だった。これを黒猫に入れたきっかけは覚えている。……なんだっけ、なんて名前の種だっけ……天子様のお誘いで、珍しく中華の食べられるお店に行って、その時に杏仁豆腐に乗ってたこれが、どうしても食べ物とは思えなくて残してしまって……なんで知らないきのこには抵抗がないのに、あれだけは食べたいって思えなかったんだろう。もったいない。それで、なんで過去の私はそんな種をここに入れて持ち帰ったんだろう……酔っぱらってたのかな。忘れちゃった。
 紫苑はひとしきり取り出した小物たちを観察すると、再び黒猫の頭の中に埋め込みはじめた。この種はどうしようかな。ちょっと変な匂いがするから捨ててもいいけど、まぁ、あって困るものじゃないし、とりあえず入れとこう。

2, 平成二〇年 ㈠
 昨日はひどい熱帯夜で、紫苑はほとんど眠れなかった。草むらの上で目を覚ました紫苑は、目もとを乱暴にこすると、まだ五時ごろか、と空の色を見て判断した。
 紫苑が寝転んでいた場所には、雑草がつぶされていびつな窪みができていた。その窪みの末端、紫苑が足を乗せていたあたりをよく見ると、痩せ細ったスズメの死骸が落ちていた。飢えと暑さで消耗したのだろうか。飢え死んだ生き物を見るたびに、「死なない」っていうのはすごい特殊なことだなぁ、と紫苑は思う。草木やら鳥獣やら人間やら、限りある時間の中で生きている者たちは、いまある生活と日々の食べ物とを維持するために必死に努力しなければならない、そうしなければ簡単に死んでしまう。その一方で、実態はどうであろうと神様である紫苑は、いくら飢えようが具合が悪くなろうがただ苦しいだけで済む。ようするに耐えればいい。自分自身が変わる必要はない、苦しい時間に耐え忍び続ければ、いつの間にか紫苑を取り巻く環境の方が変わって、少しだけ楽になる一瞬が訪れる。現状の、猛暑のもとで河川敷の虫と雑草を食べながらの生活は確かに苦しいけれども、それでも死ぬことはない。死なない、って最初から分かってるから、じゃあわざわざ必死に頑張らなくてもいっか、ってどこか心があきらめてしまっているような、そんな気もするけれど。まぁでも、そもそも、貧乏神の私が必死に頑張ったところで、どうせ失敗しちゃうし、いいことなんて何一つないから、だったら、初めから何もやらないほうがいいよね。
 紫苑はしゃがみ込むと、両脚をぴんとまっすぐに伸ばしきったスズメの体に触れてみた。まだ温かい。どうやらまだ死んだばかりらしい。

 紫苑が女苑から引っ越しの報告を聞いたのは数か月前、桜がそろそろ咲くだろうかという時季のことだった。曰く、女苑はすでにD区のアパートを退去し、都心から少し離れたP区に住みはじめたのだという。
 その詳しい経緯については、一応本人の口から聞いたものの、あらためて他人に語るのはかなりはばかられる内容で、紫苑は半ば意識的に忘却してしまった。とにかく、いろいろあって隣人および大家さんと大揉めしたのだという。
 D区に住んでいた当時、紫苑はBSE問題のあおりを受けて閉鎖された食肉加工場に住み着き、いくらでも湧いてくるカマドウマやネズミを食べながら生活していた。廃業後すぐの、まだ赤錆もついていない綺麗だった時分に忍び込んだ記憶があるので、ねぐらとしてはだいぶ長い付き合いがあった。住処がすぐにぼろぼろになる紫苑としては大変うれしいことで、だんだんと愛着も湧いてきていたため、女苑から「姉さんも引っ越さない?」と誘われた際、紫苑は「新しく住処を探すのはちょっと難儀かなぁ、まあ、いつか引っ越すかもだけど」という優柔不断な返事をしてしまった。
 しかしその数日後、元々ぼろぼろだった加工場の天井がいよいよもって限界を迎えたのか、爆音を立てて崩落した。眠っている最中のことで、自分の体が潰れていないことはほとんど奇跡のように思えた。まさしく不幸中の幸いだった。天井裏ではどうやら長年の間シロアリがコロニーを築いていたらしく、幾千万匹が腐った材木の上で右往左往している様子を見たとき、あぁ、もうここはおしまいなんだな、と紫苑は急に冷静になった。それで結局、P区に居場所を移すことにしたのだった。
 若干都心から離れたP区は、繁華街のあるD区に比べるとだいぶ静かな街で、建物の色もなんだかくすんで見えた。なんで女苑はこんな、お金の匂いが薄そうな街を選んだんだろう。紫苑は一応考えてみたものの、その理由がいまいちよく分からなかった。
 少なくとも紫苑が探した限りでは、P区には廃工場や廃病院のような都合の良い住まいが少なく、あっても住宅街の近隣にしか無かったので、仕方なく、区内を貫流する由田川という二級河川の河川敷に住むことにした。味のいい種類の雑草がそれなりにたくさん生えていた上、名前にさんずいをつければ油田になるのも少し縁起がいい気がした。
 住処探しの最中、[収集不可] の黄色いシールが貼られた寝袋を道端でたまたま見つけていたので、紫苑はそれを失敬し、最初のころはふかふかの快適な夜を過ごしていた。しかしある日、そのぼろぼろの寝袋さえも溶けて消えてしまったので、それ以降は雑草の群生密度が高いふさふさした場所を選び、地面に直接寝っ転がって寝ることにした。布団代わりの品をわざわざもう一度探すのはどうにも億劫に感じた。

 羽毛と骨と頭はさすがに口にする気が起きなかったので土の中に埋めた。それから紫苑は橋の下へと歩いていき、Tシャツから衛生服に着替えた。昨日川の水で洗って干しておいたものだ。食肉加工場が崩落した際、そのはずみでそれまで鍵がかかっていて開かなかった倉庫の扉が外れ、その中にあったひしゃげた段ボールを試しに開けてみると、新品の衛生服が入っていたのだった。もともと全部で四着あったのだが、すでに二着はどこかに溶けてしまったので、今のところは前回女苑に会った時にもらったTシャツとチノパンを合わせた三着で生活している。
 着替え終わった紫苑は、両手の指を互いに噛ませて、天井に伸ばし、大きく背伸びをした。ぼきぼきぼきっと耳障りな音が肩と肘の関節から鳴った。
「さて……」
 何しよっかな。せっかくだし、河川敷を出て散歩とかしよっか。早朝なら、通勤する人とかもそんなにいないだろうし。
 
 散歩を終えて河川敷の土手に戻ってきたとき、紫苑は思わず足を止めた。いつもなら普通車両が数台しか停まっていない河川敷の駐車場を見下ろすと、トラックやハイエースが八台も停まっていたのだった。こんなにも早い時間帯にこれだけの数の車が駐車場を埋めている光景を、紫苑は今まで見たことがなかった。
 あるトラックはすでに荷台が開いており、白いヘルメットをかぶった作業着の男たちがパイプ椅子、長机、紫苑の身長くらいある鉄の棒、それから緑色のビニールシートのような、しかし若干ごわごわした質感のシートを運び出していた。別の若干小ぶりなトラックからは、オレンジ色のホースがくっついたガスボンベと、ベージュ色の重りのようなものが台車に乗せられて次々と運搬されている。
 隣に目を移すと数人、紙を片手にして、作業着の男たちに指示を出している人たちがいた。作業着の男たちは彼らと何事か言葉を交わしてから、物品を指定された場所に運んでいるようだ。一見めいめいが勝手に動いているようで、実は規則的にものが運ばれている。気が付けば紫苑は棒立ちになったまま、土手の上から人々の動きを見下ろしていた。何もすることがないときに、なんとなく蟻の行列を眺めてしまうような感覚だった。やがて、パイプ椅子三脚、長机二脚、鉄の棒数本、ビニールシート一枚を一組として寄せ集めた山が、河川敷の草むらの上に等間隔に作り上げられていく。ガスボンベは山によってあったりなかったりで、ベージュ色の重りは相当重いのか運搬に時間がかかっており、まだすべての山には分配されていない。
 これが何らかの設営作業であるということは、紫苑にもなんとなく分かった。しかし何の設営であるかは分からない。紫苑が河川敷に住むようになってから、近辺で何か大きな催しが開かれたことは一度もなかった。由田川に来る人間の目的は、せいぜいバーベキューだとか草野球だとかジョギングだとかに限られる。その他で言えば過去に一度、大勢の小学生が先生らしき大人たち数名に見守られながら川の生き物をすくって観察しているところは見たことがある。ほとんどの子供が楽しそうにはしゃいでいる姿を眺めながら、いつもここにいる自分のほうがまるで異物になってしまったように思えて少し居心地が悪かった。あの規模感ってことは、これからあの日以上にたくさんの人間が来るんだろうなぁ。やだな。そもそも今河川敷に戻っていいんだろうか。邪魔だから出てけ、とか言われそうな気がする。私が住んでる場所だとしても。
 そんなことをだらだら考えて、土手の上で立ちすくんでいると、右のほうから足音が聞こえてきたので、紫苑は無意識的に横を見た。若い女性がこちらに向かって歩いてくるところだった。一目見て、背が高い、と紫苑は思った。それから、しょっちゅう土手の上を歩いているのを見かける人だ、と気が付いた。遠目から見ていても、背が高いなあ、と紫苑は感じていたのだが、近くで見ると女性はいっそう大柄に、いっそう細長く見えた。裾の長い純白のワンピースを着ており、目の端は若干釣り上がっていて少しだけ女苑に似ている。ただし髪はブロンドではなく真っ黒で、ショートヘアの前髪がすっぱりと切りそろえられていた。……なんか、かっこいい。あれみたい、あれ……給水塔みたい。紫苑の脳裏におおよそ十五年前の、まだ元号が平成一桁だったころの記憶が瞬発的に蘇る。紫苑は当時、老朽化して封鎖された公営団地をねぐらにしていた。そのすすけた団地の中で唯一きれいだったのが、団地の3号棟と4号棟の間にある給水塔だった。足元から首のところまで真っ白に塗られて、しかし頭長の部分にだけ角錐形の黒い屋根がついたあの姿が、今でもやけに鮮明に脳裏に浮かぶ。団地そのものに大して特別な思い入れはないけれども、紫苑が住んでいた場所から西の方角に建つその塔は、毎日陽が沈むたびに夕焼けの光線を真っ二つに切り分けた。あの光景は紫苑のお気に入りだった。
「……なんですか?」
 警戒心を隠さない声でそう言われ、紫苑はようやく自分が女性をじろじろ見ていたことに気が付き、はっとして目をそらした。声は初めて聞いたけれども、女苑と同じくらいには気の強そうな声で、さらに女苑よりも若干低い声だったため、「気の強い」というよりも「厳しい」という印象の声だった。女性は紫苑から一メートル半くらいの距離を取って立ち止まり、紫苑に怪訝な目を向けている。
「あ、ああいや、その……」
「えっ?」
「単にあれ、ほら、見て、下で何やってるのか、誰かに聞こうと思ってたの」
「……あぁ、はい」
 女の人の強張った表情が少しだけ和らぎ、なんだそんなことか、という拍子抜けを帯びた。それから続けて女性は「今日と明日、由田河川敷まつりなので、その準備をしてるんだと思います」と言った。
「由田河川敷まつり? へぇ……夏祭り?」
「ええそうですね。ほら、あそこ……なんか、うわ、いやぁ恥ずかしい何あれ」
「え? どれ?」
「ほら駐車場のトラックの近くで、なんかみすぼらしい旗組み立ててるじゃないですか」
「え、えぇ……」
「私デザイン学専攻なのでああいう素人臭いの嫌いなんですよね。美的センスの感じられない」
「え、あ、ああ、うん」
 デザイン学専攻の「学専攻」の部分を脳内で漢字に変換できないまま、なんか、私が訊いてもないのに一人でよくしゃべる人だな、と思いつつ、紫苑は女の人の言う「素人臭いの」を探した。それはすぐに見つかった。駐車場を出てすぐの場所で四人の作業員が集まり、二本の長い鉄のポールに黄色いビニールを括り付けている。そのビニールには [第40回 由田河川敷まつり] という文字列が丸っこいフォントででかでかと書かれていた。真ん中より少し左に、かわいらしい狸のキャラクターのイラストもついている。別に、そんなに悪く言われるほどのものなのかな、と紫苑は思った。どうも女苑とはだいぶ違う方向性で美的感覚にうるさい人のようだ。直感的に苦手な種類の人間だと思った。
「まあでも、こんな郊外の田舎の祭りですけど結構人は来ますよ。私も今日、研究室の同期と行くんですけど」
「……はぁ、そうなんだ。夏祭り」
「ええ、うちの大学の友人が入ってるバンドもステージで演奏するみたいで」
 ……夏祭りかぁ、なるほど言われてみれば。というか、もしそうなんだとしたら、今日と明日、この河川敷に私の居場所はないな。騒がしいのは嫌いだし、幸せな人が集まってるのを見てると少しだけつらくなるから。どうしたらいいだろう、女苑の家に泊めてもらうとか? でも女苑のことだから、どうかなぁ。今夜はそれこそ、この夏祭りに来て遊んでそう。金づるにしてる男の人と一緒に。
 紫苑がそんな考え事をしているうちにも女性はいくつか夏祭りについて話をしていた。しかし紫苑はまったくと言っていいほど聞いていなかったので、取ってつけたように「教えてくれてどうも」と言うと、女性は「いえいえ、それじゃあ」と手を振りながら去っていった。白いワンピースの裾をひらめかせて早足で歩いていくその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、しゃべったのは初めてだけど、あのひとちょっと変わった人だな、と紫苑は思った。そもそも今、紫苑は使い古しの衛生服を着ていて、背中をすっかり覆うくらいの青髪もいつもと変わらずぼさぼさだった。あの人なんて言ってたっけ。「私の美的センスが許さない」だっけか。それって私が言われてもおかしくなかったんじゃないか。実際にそれを言われたら、たぶん私はすねるか切れてあの子を祟るけど。
 頭を切り替えて、紫苑は河川敷の下に再び目を戻す。これから二日間、どうしよう。いやまあ二日どこかに居ればいいんだろうけど……なんか納得いかない。どうして、私にとって居場所ってものはこうも不安定なんだろう。やっぱり屋根のある場所に住むべきなのかな。とはいえ、この近辺はそれなりに歩き回ったつもりだけど、良さげな建物が見つからなかったし。ああ、でもこの区はなんだかんだ広いし、由田川のあたりしか探してないのが間違いなのかな。間違い、というか、怠惰? でも建物っていうのは、私が住み始めたとたんに急に老朽化していっちゃうし。貧乏神の力が建物にしみわたっていくんだろう、おそらく。……というか、そのことを考えると、前住んでた食肉加工場は、やっぱりすごい。数年にわたって私の居場所として頑張ってくれたんだから、包容力のかたまりだと思う。あんな良い家は、地方、って感じのこんな場所にはたぶん存在していなくて、だから、わざわざ根気強く探す気にはどうしてもなれない。だって現にこうやって、川のほとりでも生き延びれちゃうんだもの。生きていこうと思えば生きていけるんなら別にいいんじゃないかな。そうだ、やっぱり探す意味なんてない、住む場所なんてどうだっていい、面倒くさい……。生まれ落ちてから数えきれないほどに繰り返してきた考え事を相変わらず紫苑は始め、そしていつもと同じ結論に至った。それは何もかも面倒くさい、という結論だった。
「……あぁ、しんどい」
「さっきから何ひとりでぶつぶつ言ってんの?」
「えっ?」
 突然不機嫌そうな妹の声がしたので振り返ると、本当に妹が立っていたので紫苑は呆気にとられた。女苑は黒のノースリーブに豹柄のロングスカートを着ていた。河川敷ののんびりした風景からはあまりにも浮いているし、なんだか見ているだけでこっちまで暑くなってくる。

3, 第一三二季 ㈡
 すみませーん、と呼ぶ男の声が林の中に響いた。猟師たちが紫苑の前から消えて数十分後、そのまま里に帰ったと思われた彼らが再びやってきたようだ。またあのふたり組、と思いながら小屋から顔を出すと、そこに居たのは細長いほうの猟師だけで、太いほうの姿はなかった。
「今度は何?」
「あの」細長い男は神妙な表情をしながら口を開いた。「林を抜けたところで、あなたの妹だという人に伝言を頼まれて戻ってきたんです。あなたを呼んできてほしいとのことでした」
「えっ?」
 妹、という言葉を聞いた瞬間から紫苑はどこか落ち着かなくなって、思わず人間の前だというのにふわりと宙に浮揚してしまった。急にどうしたんだろう。女苑はお寺で修行してるんじゃなかったっけ。いや会えるんならぜんぜんうれしいけど。

 細長い男に先導される形で林を抜けると、浅葱色の半袖ジャケットにトレッキングスカートを穿いた女苑がいた。固い顔をして立っていたが、少し首の角度を変えて紫苑の姿を認めた途端、分かりやすくその表情が和らいだので紫苑はなんだか微笑ましくなった。その横に、涙目で地面を見つめている太い男もいる。視線の先には笹の包みからはみ出て土まみれになったおむすびがあった。どうやら何かのはずみで落としてしまったようだった。私としゃべったせいかな、と紫苑は少しだけ申し訳なく思った。
 細長い男は「じゃあ、あとはお姉さんとふたりで話してください」と女苑に告げ、そのまま太い男を引きずるようにして里に降りていく。
「女苑、久しぶり。元気だった?」
 紫苑が女苑に近づいてそう言うと、女苑は安堵のにじむ声で「うん、久しぶり」と言った。本当に久しぶりに聞く妹の声に紫苑も安心して、思わず破顔しかけたのだが、それもつかの間、女苑は声色を一変させて「……私、郷中、いろんな人に聞いて回ってめっちゃくちゃ探したんだけど」と紫苑をにらみつけてきた。
「……ごめん」
「……本当、どこ住んでんのよ」
「林の中」
「知ってる、だから来たのよ」
「うん」
「なんでよりによってこんなひどい所選んでんのよ」
「なんでって……家を見つけたから」
「風呂はどうしてんの」
「川だよ」
 それを聞いた女苑は一瞬、豆鉄砲を食った鳩のような顔になり、それから三秒くらいかけて返事の意味を受け入れたらしく、ゆっくりと顔を元のしかめっ面に戻した。別にそんな驚かなくてもいいじゃない、と紫苑は思う。生活に行き詰っている時、紫苑は基本的に川で行水している。これは幻想郷に来る前から同じで、だから紫苑にとっては大して特殊な状況でもなかった。そもそも、幻想郷に来る直前まで住んでいた街では、河川敷そのものを住処としていたのだから。
「あの、なんだっけ、ヒナ……、えっと、天人とは別れたの?」
「ヒナナイさん、でしょ。天子様はなんか、ナガエさんって人に怒られてて、しばらく私と会えないみたい。でも、いずれ会えるから待ってて、とは言ってた」
「ふぅん……会いに行かなくていいの? あの人にくっついてた時は姉さん、その……こんな生活じゃなかったんじゃないの」
「でも、また会えるって言ってたから、まあ、いつか会えるだろうし待ってればいいかなって」
 紫苑が淡々とそう言うと、女苑は右手で顔を覆う仕草をしながら、「姉さんのそういう……消極的っていうか……積極的じゃないところ、私ほんと嫌いかもしれない」と吐き捨てるように言った。紫苑は思わずうつむく。まったくもってその通りだとは思う。しかし積極的になるよりも現状に耐えていたほうが楽ではあるので、自分を変えようという気が紫苑にはまるで起こらないのだった。結果的に口から出てきた返事は「別に女苑に関係ないでしょ」という消え入りそうなほどの小声による反抗だった。
「まぁいいわ。それより、本当に久しぶりね。夢の住人を懲らしめて回ったとき以来?」
「多分そうだね。お寺生活はどうなの? しんどくない?」
「……ちょっと前に抜け出した」
「えっ?」
「抜・け・出・しました。二回も言わせんじゃない」
「ほんと」
 女苑はバツが悪そうにしているものの、それを聞いた紫苑はかなり安心した。というのも、女苑が寺で生活し始めたと聞いたときは、あの子が仏教なんて身に着けたら、心の根っこにある疫病神の部分と矛盾を起こして消滅しちゃったりするんじゃないだろうか、と紫苑は本気で心配していたのだった。
 向こうの世界にいたときから、それが金稼ぎに関係する場合を除き、信仰とか宗教とかそういうものに女苑はほとんど興味を示さなかった。それなのに、いきなり寺に入ってその辺の一般人よりも質素な生活を送るのだという話は、あまりにも不自然というか、いびつな状況だと紫苑は感じていた。思い浮かんでいたのは、大きなねじ山に小さなねじ回しをあてがって回して、無闇に傷つけてしまうような、そういう結果だった。だから、女苑がお寺から抜け出したのは恥ずかしいことでもなんでもなくて、むしろめでたい。……ああ、でも、お寺はタダで住めてタダ飯を食べれるらしいから、そのことについてはとってもうらやましいけど。……うらやましい? 今、「うらやましい」って私思ってる。不思議。それは一体私のどこから出てきた感情なんだろう。私だって、少し前までは、霊夢さんや天子様にタダ飯をめぐんでもらって、けっこう豊かな暮らしをしてたのに。ああでも多分、過去の私はもう、今の私の中からすっかり飛んでいっちゃったんだろうなぁ。ほかならない今の生活が、なんというかもう、散々だし。結局いくらチャンスが目の前にちらついてたって、少しの間だけそのチャンスにあずかることができたって、どうせ私は不幸になるし、だからといって変に過去の幸せにしがみつく努力をしたって、意味ないから。貧乏神である私の本質は変わらないんだから、しょうがない。女苑も、たぶん、かわいそうだけど、私と同じなんじゃないかと思う。貧乏神は貧乏神のしばりがあるのといっしょで、疫病神は疫病神のしばりがあるんだろうから。女苑のしばりを、私は当人ほどには理解してあげられないけど。
「その夜は本当にひっさびさに、多分一か月くらいぶりにお酒飲んで……ねぇ、ちょっと」
「え?」
「……」
「あ、えっと」
「その顔……考え事してたでしょ、私の話聞いてる?」
「……あぁ、うん、聞いてなかった、ごめん」

「ねぇ、悪かったって」
「……」
「私さっきの話の続き聞きたいな、ねえ、私の家でしゃべろう?」
「姉さんの家は絶対汚いからやだ」
 そう言っていじける女苑を紫苑はどうにかとりなしつつ、林の入り口から人里の方向に下りていくと、ちょうど道沿いに手頃な丸太が転がっていたので、ふたりはその上に腰かけて話の続きをすることにした。丸太に腰を下ろした瞬間、紫苑は服越しに伝わるその熱さに驚いて思わず、うぇっ、と声を出してしまった。比較的冷涼な林中と違って、ここは太陽の光を遮るものがない。行水はいつも夜に行っていたし、昼はほとんど林から出ない生活が続いていたため、紫苑はここにきてようやく夏の暑さを実感した気がした。
「繰り返しになるけど」という、嫌味ったらしいけれども反論の余地のない前置きで女苑の話は始まった。どうやら女苑は先ほどから、寺の生活に関する話をしていたようだった。
「……で、その子ね、ダウジングが趣味でさ」「えっと、ダウジングって何だっけ」「ほら、L字に折った針金を持って歩くやつあるじゃん。それを持ちながら歩いて、地面に金目の物が埋まってると針金が勝手に動くのよ」「へぇ、いいね。私もやってみよっかな」「やめてよ」「なんでよ」「姉さんのことだから怨霊とか掘り当てそう」「相変わらず憎まれ口は達者だね、女苑は……」 「……いつも外で掃き掃除してる子がいるのね。すごく元気な」「へえ」「その子『鳥獣伎楽』ってバンドやってて」「それってあれだよね、かえるがうさぎ転がすやつ」「違うっつの、いいから遮んないで私の話聞いてよ……」 「……住職はもちろん仕事はきちんとする人だけどさ、地味に抜けてるとこあるのよ」「たとえば?」「外で食べた時の勘定計算いっつも間違うとことか、あと、あとは何かしら、いっつもふすま閉める力が強すぎてバン! ってすっごい音鳴らすとことか。平常心が大事よ、とか普段言ってるくせに、変に焦るのよね、あの人……」
 話している最中、ふと「よくそこまで観察してるね」という言葉が紫苑の頭には浮かんできた。それから「もしかして女苑、けっこう寺生活楽しんでたんじゃない?」という言葉も、一瞬だけよぎった。けれどもその言葉を口に出すことはなぜかためらわれた。ためらう理由は紫苑自身にもよくわからなかった。
 ひとしきり女苑の話が終わると、「姉さんは最近どうなの?」と訊かれた。紫苑は「特になんにも」と言いかけたが、ふと思いついて、左肘に絡みついている黒猫のぬいぐるみを取り外すと、その継ぎはぎの下に隠された裂け目を探りはじめた。壁にひびを入れられて、その犯人からエラーコインをもらったという、冷静に振り返ってみると経緯のよく分からない出来事について話そうと思ったのだった。
「あれ……」
 裂け目の中に、硬い手触りのものが見つからない。
「……そういえば姉さん、まだその縫いぐるみに色々貯めてるんだ」
「うん。すごいよね、もうこの子は一生私のもとから離れないんだろうな、っていう信頼ができてる」
「まあ、うん、たぶんそうね。……で、何探してんの?」
 女苑の声にはかすかな興味が漂っている。紫苑はその微妙なトーンをやけに敏感に感じながらも、黒猫の頭に突っ込んだ人差し指を必死に動かした。先ほど入れたばかりなのだから、エラーコインは破れ目のすぐ内側にあるはずなのに、指先は延々とぬいぐるみの綿を空回りし続けるだけで、さっぱり見つからない。
「……どうして」
「え?」
「表と裏と同じ絵柄のコインを、さっきもらったのに。溶けちゃったのかな……あ」
 不意に、かつん、と爪先に硬い金属の感触がした。反射的につまんで取り出す。継ぎはぎの裏から出てきたのは、果たして、先ほど細長い男からもらった十銭硬貨だった。
「あった! よかった」
「声大きいってば」
「ね、ほら、見てよ、珍しいでしょう」
 紫苑が顔に押し付けるようにして女苑に龍の絵柄の書かれた硬貨を見せると、女苑は、近い、近いから、と体をのけぞらせて「なにこれ、たかが十銭でしょ……」と言った。
「違うよ、表も裏も同じのが彫ってあるの」
「え……あぁ確かに! ……まあでも、こういうの、向こうの世界だったら良い値段で売れたかもしれないけど、ここは幻想郷だから」
「……節穴だよ、まるっきり節穴だよ女苑は。お金のことしか考えてないんだもの」
 今度は紫苑がいじける番だった。十銭硬貨を再び黒猫の頭にしまい込み、女苑をにらみつける。別に本気で怒っているわけではなかった。少なくとも紫苑が覚えている範囲では、女苑に対して本気で切れたのはあの異変の時の一回限りで、しかし切れた後の自分がどういう行動に出たのか、という詳しい記憶はほとんど残っていない。第一あれは発作のようなものだった。さして覚えておきたい記憶でもない、むしろ忘れたい記憶だった。
 憤然とした表情を作ったまま紫苑が黒猫に十銭硬貨を戻していると、横から「あ、でもナズーリンはこういうの好きかも……」という声が聞こえた。
「え?」
「あ、いや、何でもない」
「……謝ってよ」
「分かったわ。ごめんね」
 その軽い一言だけで、紫苑は女苑に向けていた不満げな視線をゆるめた。そもそも女苑に対して機嫌の悪い状態を続ける根気さえも、紫苑には元からあまりないのだった。しかし、それから続けて「あ、じゃあさ、その十銭硬貨を有効活用しない? 今日、博麗神社で夏祭りあるのよ」と女苑が言い出したので、紫苑は目を丸くした。
「え……急になんで?」
「いや、私もさっき家の近くの貼り紙を見て知ったんだけどさ。せっかく久々に会ったんだし、遊びに行くなら丁度良いでしょ? 楽しいと思うわ」
「えぇ、いや別に、夏祭りそのものは、女苑と一緒なら別にいいんだけど、でも霊夢さんいるじゃない」
「まあね。でも、例のリサイタルの件は今更気にしてないはずよ」
「違うの。私そのあと天子様ともう一回郷で暴れてるのよ。で、もう一回霊夢さんに退治されてるの」
「……あぁ、そういえばそうだったわね」
「え、知ってるの?」
「当たり前じゃん。一時期寺の信者から私への風当たりも大変だったんだから。あの時は本当にあいつ死ねって思ってた。空に向かって中指立ててた。天界がどのあたりにあるか知らないけどさ」
 その女苑の言葉にはまだ冗談の気があったため、ごめんあの頃すごくハイになってて、と紫苑は言いかけたけれども、それを口に出したらいよいよ本気で切れられそうなのでやめた。
「まぁ大丈夫よ」女苑は薄ら笑いを浮かべて言った。「あの巫女、寺にも何度か来たことあるけど、異変の時以外は甘っちょろいから。大体さ、私たちの異変の後、姉さんはあの巫女にくっついてたんでしょ」
「……どうなのかなぁ」
 そう言いながら、紫苑は巫女と一緒に過ごしていた日々のことを頭に思い浮かべる。
 博麗霊夢という人間に関しては、だいぶ変わった人、という印象が紫苑にはあった。異変の解決人として紫苑を退治したその直後に、なぜか今度は紫苑の引き取り手になって、しばらく神社に住まわせてあげようという話をしていたので、引き取られる紫苑としてもそれなりに疑問に思うところはあった。よっぽどの人格者なのか、それとも自己犠牲精神の強い人間なのか、最初のうちはよく分からなかった。
 実際に居候してみて徐々に紫苑が分かってきたのは、この人は他人の迷惑に対して基本的に寛容、もしくは無関心、もしくはとても鈍感な人なのだ、ということだった。悪態や愚痴こそ漏らすけれども、芯の部分で妙に肝が据わっている。神社に住み始めた初日、紫苑は持ち前の能力のせいで夜中に賽銭泥棒を呼び寄せたらしく、明け方霊夢が確認したら賽銭箱が空っぽになっていたのだが、その時には「まあ悪いのはあんたじゃなくて泥棒だから」と言われて、なんだこの人意外とかっこいいんだな、と純粋に思ったし、ある日縁側で酔いつぶれた鬼が表の障子を破壊したときには「慣れているから全然」と言いながら鬼を縁側から蹴落としていた。どんなこと経験したらそんな風に済ませるようになるんだろう、と紫苑は不思議で仕方なかった。そういえば天人様も、私あの神社壊したことあるんだ、という話をしていた覚えがある。
「……私、霊夢さんと別れる日の朝にさ」
「うん」
「お守りもらったんだよ」
「へぇ、意外ね。そういうとこあるんだあの人」
 その日は、朝ご飯の準備さえ始めていないくらいの早朝に天人様が迎えに来たため、霊夢は寝間着姿で髪も整えていない状態のまま、「それじゃ元気でね」と寝起きのだるそうなトーンで言っただけだった。紫苑は紫苑で、夜は居場所を変える直前特有の奇妙な興奮状態に陥っていてよく眠れていなかったため、「うん、そっちも」と一言を返すのがやっとだった。……もっと言うべきことあっただろうに。あれはお互いそっけなさすぎた。まあ、私のほうには、幻想郷にいる以上この人にはどうせまた会うこともあるだろうし、そもそも霊夢さんは私を手放せて安心してる節がちょっとありそう、って思いが残ってたんだろうけど。その思いのせいで眠気を振り切れなかったんじゃないかな。……あれ? じゃあお守りはいつ受け取ったんだっけ? 思い出せない。いやでも確かにもらった記憶がある。どうやってもらったのかが思い出せない。天子様と別れた時のことは思い出せるのに。天子様は、ナガエさんに引っ張られて天界に帰る直前に、そのとき首につけてた桃の形のペンダントをくれたんだった。「いいんですか?」って訊いたら「家にいくらでも予備があるから」とか言って。でも天子様のペンダントはフレームがちょっとだけ錆びていて、だから同じやつを大切に使っていたということで、それなのに私にくれたのだった。天子様もちょっと荒っぽいけど優しい人だったな……あぁ、でも、お守りもペンダントも、たぶんもう溶けちゃったんだろう。さっき黒猫から全然出てこなかったし。悲しい。
「……ねぇ、姉さんはなんで話を言いかけてすぐに黙っちゃうの」
「……あ、ごめん」
「結局夏祭りには行くの? 行かないの?」
「え、うん……うん……どうしよう」
 女苑の言う「異変の時以外は甘っちょろい」っていうのは、たぶん間違ってる。霊夢さんは、基本ゆるいけど、でも幻想郷が大好きな人ではあるから、神社を出た後になってまたトラブルばっかり繰り返してた私が嫌われてないはずがない。まあでも、いいか。霊夢さんに会いたくないって理由で妹の誘いを断るのもそれはそれでひどいし。会わなければいいんだから。会わなければいい? 大丈夫かな。私のことだから、会いたくないって思ってる人とばったり会うことになるんじゃないかな……。
「早く決めろ」
「あ、ごめん、行く、じゃあ行く」

4, 平成二〇年 ㈡
 女苑は由田河川敷まつりのことを二週間前くらいから知っていたそうで、最初から河川敷にいる紫苑の様子を見に行くつもりで河川敷に来ていた、とのことだった。そういうわけで、「人がたくさんいるから戻りにくくって」と紫苑が悲しそうな声で言うと「それならうちに来なよ」と女苑はあっさり受け入れてくれた。
「……なんで衛生服なんか着てんの?」
「いやまあ、大丈夫」
「質問の答えになってないって。こないだ私があげたTシャツは?」
「今橋の下で干してるとこ」
「絶対お祭り終わったら無くなってると思うんだけど……」
 P区に居場所を移してから、女苑の借りている部屋に入ったのはこれで三度目だった。Peaceful由田という名前の二階建てアパートだった。河川敷から歩いて二十分くらいの住宅地に佇む、ボロボロとまではいかないまでも十分に異様な外観の二階建てで、各部屋の扉付近から、水道管なのかガス管なのか紫苑には判別がつかないのだが、赤錆の点在する配管が無遠慮に二本飛び出て、剥き出しの状態で壁を這い、やがて一本の太いパイプに合流してそのまま地面に突入しており、見た目がなかなか不気味だった。配管の通し方には規則性のようなものはまるで感じられず、手首の脈に浮き出る青筋のように見えた。ああいうのってふつう、壁の内側か、それでだめだったら建物の裏側かに隠すものなんじゃないかな。まともな家に住んだことのほとんどない紫苑にも、それくらいのことは分かった。階段を上がり、二〇三号室の次の二〇五号室に促されて入る。
 リビングの左側には家具が何一つなく、床の上には流行の過ぎたバッグにポーチに洋服、赤ボールペンの書き込みが入ったファッション誌やらチラシやらが積み重なって、ちょっとした山を形成している。一方で右側、ベッド周りとハンガーラックと化粧台の周りは別空間といっていいほどに整頓されていて、奥にテレビと掃除機が置いてあった。部屋の右側から脱落した物たちが、左側へと押し流される、女苑の部屋はある意味とても効率的な構造になっている。キッチンの調理台にはうっすらと埃が降り積もっていて、冷蔵庫はない。「基本的に外食で済ませてるから」と以前聞いたことがある。あとはおそらく、金づるにおごって貰うなど。
 紫苑はこの光景を見ても、別に異常な部屋だとは思わなかった。昔から女苑の居住空間はこういう装いなので見慣れている。
 家賃は二万八千円だと聞いている。二万八千という金額は、紫苑にとっては計り知れない数字だけれども、それと同時に、東京で普通に生活している人間にとってはかなり安い家賃であることも理解していた。これも女苑は昔からそうだ。疫病神というものは稼げはするが貯められない神様なので、月一回とか年一回とか、定期的に一括で払わなくてはならないありとあらゆる料金が苦手なのだった。

 入るなり「とりあえず土くさいからリビングに座る前にシャワー浴びてよ」と言われたので、言われるままにバスタオルを借りてユニットバスに入る。紫苑にとってはおおよそ一か月ぶりのシャワーだった。当然一か月前のシャワーも、女苑の家に泊めてもらった時に浴びたシャワーだった。女苑の部屋に行くと、川の水じゃないちゃんとした水を浴びれるからうれしい。そういえば、一か月前はどういう流れで泊めてもらったんだっけ……すぐには思い出せないけど、でもふたりでお寿司を食べたってことだけ、ものすごくはっきり思い出せる。ひらめがおいしかった。あれ、お寿司を食べるためだけにふたりで集まったんだっけか? そんな気もする。
 適当に体を流し終え、バスタオルで水気を拭い去りながら風呂場から出てリビングを覗くと、女苑は部屋の中にいなかった。
「え……女苑? 女苑?」
 紫苑は急に不安になり、目を左右にきょろきょろさせてから、いや、どこかに出かけてるだけかもしれない、突然いなくなるわけないし、と思い直した。風呂場の前に脱ぎ散らかした衛生服をくしゃくしゃに丸めて、玄関のタイルに置く。それからバスタオルを洗濯かごに放り投げ、素っ裸のままリビングに入り、テレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押す。紫苑がテレビを見られるタイミングは、女苑の部屋に来た時以外にない。
 点灯した画面にはいきなり、水着姿の男たちが恐ろしい勢いでプールを泳いでいる姿が映し出された。[北京五輪100m平泳ぎ 王者誕生の瞬間] というテロップが画面の左上に表示されている。レースが終わり、ひときわ派手にガッツポーズをしている若い男が大写しになった。顔を見る限りその人は日本人らしい。それからすぐに画面は切り替わり、一回り大きい外国人選手ふたりに挟まれて金メダルを首に提げたその男がさわやかな笑みを浮かべている場面が映し出された。
 そうか、いまオリンピックやってるんだ、そういえば今年は四で割れる年だった、と紫苑は思った。バブルから二十年くらい前の、ノイズまみれの東京五輪の記憶が一瞬だけ脳裏にちらつく。当時の女苑はトランジスタラジオを持っていて、ふたりはそれで結果だけ聞いたのだった。
 それから五分くらい経って、ビニール袋を提げた女苑が帰ってきた。
「おかえり」
「……ねえ、テレビつけんのは服着てからにしてくれない」
「なに、その袋」
「エビチリ弁当。二個」
「うわうれしい」
「早く着ろ」
「この山の中から適当に選んで着ていい?」
「OK。いつものごとくそのまま持って帰って結構」
 そう言うので、部屋の左側から下着類を適当に引っ張り出して身に着け、それからさして迷うこともなく、足元に落ちていたアッパッパーを手に取った。白と黒のストライプが斜めに入っている。
「え、それ着るの」
「いいじゃん。着やすいし、涼しくて」
「えぇ……ダサくない?」
「女苑が買ったんじゃないの」
「それ、男の人からの貰いもんなんだよね。本当にセンスが理解できない。今時アッパッパーなんて時代遅れすぎて、柄もさ、なんか葬式の垂れ幕で作ったみたいだし」
 散々な女苑の評価を、ふうん、と受け流し、紫苑はアッパッパーを頭から被った。

 弁当を食べ終え、これ以上ないくらいに満ち足りた気分でいたのだが、女苑はさらにラム酒のよく効いたマドレーヌの箱を出してくれた。名前も覚えていない男から酒場で貰ったのだという。
 それから女苑はベッドに腰かけた状態で、紫苑は床にあぐらをかいている状態で、ふたりはとりとめのない会話を続けた。紫苑は話の流れで、先ほど風呂場から出たときに、女苑が部屋からいなくなっていたから本当に焦った、ということを伝えようとした。そもそも、なんで私に言わないまま部屋から出てったの、ということも含めて。しかし丁度良いタイミングが中々つかめなかった。そもそも、それを言ったとき、「そんな心配してたならどうしてテレビなんか見てたのよ」と女苑に返されるような予感がした。そうしてまごついているうちに、「そういえばさ、せっかくだし、姉さんも今夜の夏祭り行ってみない?」という提案が女苑の口から飛び出してきた。
「えっ」
「いやまあ、姉さんはさっき、河川敷に居づらい、って言ってたけど、実際行ってみたら楽しいんじゃないかしら」
「あの、それはさ」紫苑は慌てて訊いた。「女苑も一緒に行く、ってことで合ってる?」
「え、そりゃそうでしょ、私が誘ってるんだから」
 何を当然のことを訊いてるのよ、という表情を女苑が見せたので、紫苑も「うん、じゃあ行く」と言い、へらりとした微笑みを返した。お金を使えない紫苑からしてみれば、世の中にあふれているありとあらゆるイベントには何も興味が持てないのだが、女苑と一緒にいるときは別だった。たとえお金を使えなくても、そこに女苑と軽口をたたいている時間が存在していれば、それだけでみじめさを紛らわせることができた。
「あ、でもごめん、今日ちょっと二時から別のところ行かないといけないのよ」
「え、そうなの」
「でも、そんなに時間はかからないと思う。だから小一時間留守番しててもらってもいい? その後で河川敷に出かけましょ」
 紫苑は頷いた。それから女苑はてきぱきと化粧直しを始め、仕上がる頃には部屋の中に思わず顔をしかめたくなるくらいのオーデコロンの匂いが満ちた。本来女苑には香水を使う習慣はなかったはずだった。たぶん金づるとの用事でもあるんだろうな、香水が好きな金づる、と紫苑は思いつつ、それをあえて確認することはせずに、テレビのボリュームを二つ上げる。

5, 第一三二季 ㈢
 林道から人里に降り、四半刻ほど歩いたところで、人里の南西、質屋や飲み屋などが並ぶやや治安の悪そうな通りに出た。それぞれの建物で開店前の仕込みでもしているのだろうか、道の両脇から漂ってくる醤油の匂いが紫苑の鼻をくすぐる。「食材」ではない「料理」の匂いを嗅いだのは何日ぶりくらいだろうと紫苑は思った。食べたい。なんでもいいからおいしいもの。夏祭りに行けば買ってもらえるかな。
 博麗神社の夏祭りは昼からやっているとのことだったので、直接向かうこともできたのだが、その前に一旦女苑の家に寄ろうという話になったのだった。女苑曰く、頼むから着替えをしてほしいのだという。現在紫苑が着ている服は、督促状の継ぎはぎにまみれた例のパーカーとスカートで、紫苑自身はそのままの格好で行くつもりだったのだが、それを聞いた女苑が「こんなみっともない服を着た身内を祭りに行かせるのは私のプライドが許さないわ」と目を釣り上げて言ったので、しぶしぶ家までついてきた。確かに紫苑も、ふつうの人は私のみたいな服着てない、ということは理解していたので渋々応じることにした。実際のところ、紫苑はあのパーカーとスカートに対して恥ずかしさといった感情はなく、むしろ愛着すら覚えているのだけれども。
「ここ」
 道の途中で立ち止まった女苑が指差した先には、筆文字で [不足前] という木の看板がかかった飲み屋があった。[博麗神社に出店中の為本日休業致し〼] という一枚の紙が扉の表に貼ってある。
「……え」紫苑はぽかんとした顔で訊いた。「飲み屋に居候してるの?」
「んな訳ないでしょ。私の家はこの路地を抜けた先」
 女苑の人差し指の先をよく見ると、不足前とその隣にある中華風料理店の間が、人ひとりがかろうじて通れるかどうか、という狭い通路になっているのが分かった。その道を女苑が先導する形で進んでいく。両側を挟む木造の壁のささくれにたびたび髪が絡まって痛いうえ、左肘の毛羽だった黒猫も何回もその棘に引っかかったので、危うく暗がりの中で取り落としかけた。
 家一軒分の距離なので実際はそんな時間は経っていないのだが、体感で一分かけてその道を抜け、ようやく視界が開けた先に、女苑の現在の住処はあった。それは長屋だった。木造の八部屋が縦二かける横四の形で連なった、いわゆる裏長屋というもので、柱や壁に古さは感じさせるものの、元々の造りが頑丈なのか建物に歪みは見受けられない。住人の気配がまったくないのが不思議なくらいの上等な長屋だった。
 現在進行形で良い住処を渇望している紫苑が、へぇ、ほぉ、と感心して眺め入っていると、女苑は静かに口を開いて、
「ここの表にある飲み屋は、つい先月できたばかりなのよ」
と言い出した。
「飲み屋があった場所には元々、中年の主人がやってた別の店があって、だけど、私がその男に憑りついて、その店を潰しちゃったのよね」
「へぇ。それ、いつの話」
「私たちが異変を起こす直前」
「えっ、そうなんだ」
「そう。……で、その店は、色茶屋……って言っても姉さん知らないよね、えーと、向こうの世界でいう歌舞伎町的な店だったの。私と主人が出会う前、その店はものすごく繁盛してたらしくて。イメージつくと思うけど、人里ってけっこう閉鎖的なのよ。だからこういう形態の店って相当うまくやんないと何かトラブルが起こった時にすぐに悪評が広まって駄目になると思うんだけど、今まではそんなこともなかったらしくて」
「……」
「で、この長屋は、その店で働いていた女の人たちと雑用係、あとは主人自身とその家族を住まわせてた場所だった。だけど、私がその主人から金を搾り始めてから、経営とかそういうの考える頭の方も駄目になってきちゃったみたいで、みるみるうちに店は傾いていった。そのころになると、主人は預かった客の鞄から宝飾品や金を盗むようになったんだって。お店はすぐに潰れて、そのせいで長屋に住んでた人たちはもれなく全員出てった。当然よね、店がなくなったら働いてる人たちはここに住む理由がないし、管理してた主人に関しては奥さんとも別れて、この近辺に身を置くわけにはいかなくなったし。それからすぐ、店の建物も取り壊されちゃって、でも解体費用が足りなくて長屋だけは残されて、数か月後、今ある表の長屋が新しく建てられたの。残された長屋を、通りからすっかり覆い隠すみたいにして」
 きわめて淡々と事情を説明する女苑に、紫苑は困惑を隠せなかった。最初のほうは言葉に詰まっていた気もするけれども、それから先は、まるで事前に話を用意していたかのような、もしくは他の誰かにも同じ話をしたことがあるかのような、淀みない喋り方だった。
「で、二週間くらい前、寺から抜け出してきて、どこに住もうかってなったときに、この場所のことを思い出してさ。行ってみたら手つかずの状態だったし、家賃とかもないから、もういいや、住んじゃえって思って。だからこの八部屋全部私のもの」
 話の内容自体は、まぁ女苑ならやりそうだな、というくらいのものだけれども、それなのに怖かったのは、女苑の喋り方に、まったく軽い雰囲気がないことだった。そもそも、女苑が自分の生活のほとんどを他人の財でやりくりしていることなど、紫苑はとっくの昔から知っている。だから、女苑は自分の所有物の出所をわざわざ自分から紫苑に告げることは少ない。そんなことをする必要性がない。もし告げるとしても、もっと冗談めかして、笑い話として伝えることが多かった。
 それは紫苑も同じだった。自分が普段どんなに不幸な目に逢ったとしても、また自分のせいで周りに不幸がもたらされたとしても、それをあえて女苑に伝えることはあまりなかった。話の流れで愚痴として伝えることはあるにせよ。なんの笑いどころもない不幸や自虐を語ったところで会話が途切れるのは目に見えていることだ。
 ふたりとも、深刻なことを深刻なままに語ることはほとんどなく、むしろその方が女苑と紫苑にとっては自然な会話だった。だから、この長屋は一軒の店をつぶして手に入れたのだ、と改まった口調で言われても、どう返事するのが適切なのか、紫苑にはよく分からない。
「……だから、さっきの路地、狭くて入りにくいんだね」
 少しの間を置いて、結局紫苑はそう返事をした。返事をしてすぐに、なんだろうその間抜けな返事、と自分でも呆れてしまった。女苑は一拍の間を置き、ふふ、と控えめな笑いを見せて「ごめん、急に変な話しちゃってごめんね」と言った。続けて、「服置き場はあの部屋だから、適当に服選んで着替えてきて」と言い、奥から二つ目の部屋を指差した。それから「私も着替えてくるから」と言い残して、そそくさと一番手前の部屋に入っていってしまった。
 紫苑は無言のままその様子を見ていた。励ましの言葉でもかけたほうがよかったのかな。でも女苑は落ち込んでるわけでもないし……それでもいつもとは様子が違う話し方だったし、じゃあなんだろう、同意すれば良かったのかな? 正解が分からない、そもそも私の言葉に正解なんてあるんだろうか。でも、とにかく、なんか、今日の女苑はちょっと変な感じがする。

 それにしても「服置き場」ってすごい言い方だな、と思いながら、紫苑は先ほど女苑が指差した部屋に入った。二週間前に引っ越したばかりと言っていた通り、服置き場の中には、その名前ほどたくさんの服があるわけではなかった。ただ、すでに女苑独特の居住空間が形成されつつある。部屋の右側にある姿見と鏡台を中心として、近傍にはよく着るのであろうきらびやかな服が丁寧に畳まれて置かれており、一方で部屋の隅には、女苑によって「もういらない」と判定されたのであろう服たちが無残に放り散らかされていた。
 そして左の壁際には、他とは明らかに雰囲気の異なるものがあった。それは三段の雛飾りだった。服と化粧道具の山に埋め込まれたようにして置かれた雛飾りは、あまりにも場違いで、なおかつ印象的で、まじまじと眺めているうちに、紫苑が先ほどから抱いていた女苑に対する漠然とした不安はどこかへ消えてしまった。
 そろそろと近づいて観察してみる。ひな壇に敷かれた赤い布の表面には、全体的にうっすらと綿ぼこりが積もっており、その上にお内裏様とお雛様と官女と五人囃子が、正式な位置に並べられたまま放置されている。お内裏様は立派な状態だけれども、お雛様は子供に悪戯でもされてしまったのか、ガラス製の玉眼が右にしかついておらず、左眼のあるべき場所には指で拡げられたらしき黒い穴が開いている。そして、その穴から無理矢理えぐり出されたのであろう黒いガラス玉が、十二単の裾のあたりに転がっていた。五人囃子が置かれている場所は、いつの日か女苑の手で放り捨てられたのか、真っ白なエンパイアワンピースによってすっぽりと被われており、その下に潜む五人囃子たちの頭が、ワンピースの表面をでこぼこに波打たせていた。どうしてこんなものがここにあるのか、紫苑には全く分からなかったが、少し考えて、前の住人が置いていったんだろう、という結論を出した。まさかこんなものを子供のいない女苑が買うはずはない。
「そういえば……あの日……」
 紫苑は無意識にそう口走っていた。「あの日」という言葉が、いったいどの日を指す言葉なのかも思い出せないままに、そう呟いていた。それから、無意識に左肘に目を向ける。無意識と言っても確たる理由はあった。左肘から日常的に感じている重さが失われていることに気が付き、不審に思って目を向けたのだった。果たして、いつも左肘に絡みついている黒猫のぬいぐるみは忽然と消えていた。
 はっとして部屋の中を見回す。すると、いつの間にか黒猫は、ひな壇の一番上の段の右端にちょこんと腰かけ、あるはずのない眼で紫苑を見つめていた。当然のようにお雛様の隣に座っている。まるでずっと前からそこに居て、紫苑がこの部屋に入ってくるのをそれまで待ち構えていたかのようだ。異常に細長い手足が、ひな壇の赤い布の上に垂れ下がっている。
「え……あ、あ……」
 次の瞬間、思わず紫苑は悲鳴を上げ、服が散乱した畳の上に腰から崩れ落ちた。
 黒猫が瞬間的に移動したことに驚いたわけではなかった。確かにそれも十分驚くべきことだったけれども、そんなことよりも、右手のひらの表面から、なにか硬い物体が木の芽のように生えてきて膨らみ、ゆるく握りこんでいた紫苑の右拳を内側から押し広げたのだった。いっさいの前触れもなく。反射的に見遣ると、そこには紫苑の腕と比べて二倍ほど長さのある鉄砲が握られていた。毛穴が一気に広がり、凄まじい寒気が手のひらの皮膚から全身へと走った。肌を突き破って突然自分の目の前に現れたそれを、もちろん紫苑は必死に手放そうとしたのだが、なぜか右手を開くことができない。もはや手のひらと鉄砲の持ち手とを強力な糊で接着されているような感覚で、引き金にかかった人差し指の関節すらも思い通りに伸ばすことができない。ひっくり返った姿勢のままじたばたしているうちに、不意に部屋の天井から視線を感じた。恐る恐る見上げると、黒猫のぬいぐるみが天井から蜘蛛のようにぶら下がって紫苑を見つめていた。一本のぴんと張った綿糸が、空中の黒猫と天井とを繋いでいる。当然ながら綿糸は黒猫の頭部の裂け目から延びている。
「……どど、ど、どうしよ……女苑!」
 寝っ転がったまま、紫苑は大声で名前を叫んだ。女苑は今、二つ隣の部屋で着替えているはずだ。「女苑! ねぇ、女苑!」しかし返事はまったく聞こえない。そのうちに、黒猫は天井から畳へとゆっくり降下しはじめ、紫苑の視界の中でその大きさを増していった。アンテナケーブルのように細長い四肢をだらりと垂らしながら近づいてくる。
「来るな!!」
 喉が張り裂けそうなほどの声で絶叫する。
 するとそこで、接近を続けていた黒猫がぴたりと動きを止めた。止まれ。来るな。来ないで。お願い。紫苑が祈るような気持ちで見つめていると、ぱちん、と大きな音を立てて黒猫と天井を繋いでいた糸が断ち切れた。そのまま紫苑の顔の上に落ちてくるかと思いきや、黒猫は物理法則を無視してふわりと舞い上がり、空中で一回転してから畳の上にぽとりと落ちた。
「……はぁ、びっくりした」
 紫苑は深呼吸を一つ吐いてから、ゆっくりと上体を起こして立ち上がった。右手にはまだ鉄砲が握られていたので、起き上がるのにも一苦労だった。空いた左手で畳に転がっている黒猫のぬいぐるみを拾い、頭からはみ出ている一本の糸を頭の中に戻そうとする。しかし糸は思っていたよりも長く、手繰っても手繰っても先端が見つからなかった。ふと、何の気なしに雛飾りを見てみると、先ほど黒猫のぬいぐるみが座っていた位置には、湯たんぽの胴体から手足が生えた狸という、ふざけた造形のぬいぐるみが置かれていて、しかも狸の尻の下からは、黒猫の頭から出ているものと同じ糸が伸びている。試しにもう一度、紫苑が手元の糸を手繰ってみると、果たして後方から引っ張られた狸は雛飾りの裏へとごろんと落下した。

「ねぇ、ちょっと、姉さん」
「……ん」
「姉さん、起きて」
「ん……あ、あぁ、ごめん、ごめん……」
 両手で目をこすると、女苑の顔の輪郭が徐々にはっきりしてきた。心配そうにこちらを覗き込んでいる。しかし頭の理解がまだ追い付いていない。どうして女苑がここにいるのか、どうして自分は畳の上に転がっているのか。
「……えっと、私、今まで何してたの?」
「何してたのって……うめき声が聞こえたから、見に行ったら気失ってたのよ」
「あぁ……そうだったんだ……」
「ちょっと、もう、しっかりしてよ……」
 紫苑は未だに朦朧とした頭のまま、うん、うん、と頷き、ゆっくりと体を起こして立ち上がった。気を失ってたって、どうしたんだろう、私。久しぶりに林の外に出たから、気付かないうちに疲れが溜まってたのかな。雨に濡れた子犬のように頭をぶるぶると振って眠気を散らす。そこで紫苑はようやくこの部屋に入った理由を思い出して、五人囃子の上に覆いかぶさっている真っ白なエンパイアワンピースを手に取った。それから下着類を服の山から探し出して足元に置き、黒猫を左肘から外して床に置くと、スカートの縁に手をかけた。
「あ、脱ぐけどいい?」
「え……まあ、別に好きにしていい」
「うん。というか、女苑はやっぱりその恰好が安心するね」
「あっそう、ありがと」
 女苑はすでにトレッキングスカートから着替えており、シルクの生地に黒いベルトのワンピース姿になっていた。やっぱり女苑はこの服だけはずっと大切に着てるなぁ、紫苑は服を脱ぎ捨てながらそんなことを思った。所有物が勝手に失われる紫苑と微妙に違って、女苑は一つの所有物を使い続けることができない性質だから、ある一つの物を気に入って使い続けるというのは珍しいことだった。もしかしたら、女苑があの服を気に入っているのもそうだけど、あの服も女苑のことを気に入っているんじゃないかな、と紫苑は思った。紫苑のお気に入りの黒猫のぬいぐるみが、一向に紫苑のもとから溶け去っていかないのと同じように。
 エンパイアワンピースに着替えたあと、紫苑はその場でくるりと一回転して「どう、これ、似合ってる?」と女苑に訊いた。
「えぇ……なんか、幽霊みたい」
「……そっか」
「ごめんてば」
「……別にいいもん。むしろ、あいかわらずの憎まれ口で安心した」
「なんか、それさっきも言われた気がする」
「えっ」

 長屋を出てから二十分ほどで人里の門を抜け、やがて博麗神社の参道に差し掛かった。妖怪が潜んでいる森の中を突っ切る危険な道ではあるので、参拝客の安全を考慮してか、三尺おきにお札の貼られた杭が打たれている。そのせいか、人間ではないふたりにとってはそれなりに居心地が悪く、そもそも三人肩を並べてちょうどくらいという狭い道を、今日はそこそこの里人が往来しているので、最初のほうは周りに気を遣わずに会話をしていたふたりも、歩いているうちに自然と会話が途切れ途切れになっていった。
 神社の境内から囃子の音が聞こえてきたあたりで、不意に、前を黙って歩いていた女苑が足を止めた。そして振り向きざまにまっすぐ紫苑と視線を合わせた。その表情は森に差し込む日光の反射によって若干見えにくかったけれども、少し強張っているように感じられた。
「あのさ、蒸し返していい話なのか分かんないんだけど」
「えっ?」え、何、何その、嫌な切り出し方。
「私ついさっき気付いたことがあって」
「……うん」
「……今日ってさ、あの日の夏祭りっぽくない? なんか、一日の流れが」
「あの日?」
「ほら……由田川の」
 想定外の単語が飛び出してきて、紫苑は目を丸くした。由田川。十年くらい前に紫苑が生活していた場所だけれども、幻想郷に来てから紫苑はその言葉を久しく聞いていなかった。そもそも幻想郷において、その地名を知っているのはふたり以外に誰もいない。
「由田川で……夏祭り……行った、うん、行った覚えはあるけど……どんなんだっけ?」
「どんなんだっけって……」
「えぇ……うぅん」
「覚えてない?」
「正直あんまり……」
「……覚えてないならいいけど」
「え、何それ、気になる。何があったの?」
「やだ。教えない」
「え、なんで」
「てか、姉さん本当に覚えてないの?」
 なんだそれ。私に思い出してほしいのか思い出してほしくないのか分かんないよ。やっぱり今日の女苑ちょっと変だな。そんなことを思いながらも、紫苑はあの日の記憶を遡って探してみる。しかしうまくいかない。確かに、夏祭りに行った記憶はぼんやりとあるのだが、そこで自分たちがどういう経験をしたかについては思い出そうとしても思い出せない。ただ、女苑の言い方から考えても、おそらくあまり愉快ではない、どちらかというと不幸に分類される記憶なのだろうとは思った。紫苑の日常において不幸なことは日常茶飯事だから、一般人にとっては大層な不幸であっても、紫苑にとっては時間の経過とともに記憶から漏れ出ていくような、ありふれた不幸でしかないことがほとんどだった。逆に、自分がどういった種類の記憶を残しやすいのかについて、紫苑はよく理解していないし、そもそもそんなことについて真面目に考えたことはない。
 ただ、頭の中をかき混ぜているうちに、ふと思い出したことがあった。それは夏祭りにおける出来事ではないが、夏祭り前後の出来事ではあった。
「須崎さんと仲良くなった。夏祭りに行った頃に」
「え、スザキさん? 誰、それ」
「あれ? 言ってなかったっけ。あのほら、大学生」
「……他に何か良いヒントは無い?」
「前髪がまっすぐ切れてて、あ、そう、ちょうどいっつもこんな感じの、真っ白い服着てて」
 紫苑がエンパイアワンピースを両手でつまんでバサバサとやると、女苑は「あぁ、うん……」と微妙な声を漏らしながら、
「なんか、世界観、って感じの人よね。聞いたことあるし、なんなら見かけたことある気がする」
「うん、多分その人よ」
「たまにいるよね。姉さんに優しくする物好き。それこそ霊夢みたいな」
「物好きって……」
 女苑の言い方は気に食わなかったけれども、確かに須崎さんは優しい人だった。手放しで優しいとも言い難い人ではあったけれども。紫苑が住んでいた由田河川敷沿いの道を通学路にしていた大学生で、交流は紫苑が幻想郷に渡る直前まで続いていた。
 ケーキ屋でアルバイトをしていた須崎さんは、廃棄でもらったというケーキをたびたび紫苑のいる橋の下まで持ってきて話し相手になってくれた。どういう話をしたのかまでは紫苑はほとんど忘れてしまったが、とにかく変なことばかり話していた。正確には、須崎さんは変なものにしか興味を持たない人だった。そのせいであまり友人がいないのだと嘆いてはいたけれども。河川敷を利用するほぼすべての人間に嫌な顔をされるか存在ごと遮断されていた紫苑だったが、どういうわけか須崎さんは紫苑が黙りこくっていようが構わずひとりでべらべらと喋るタイプの人だったので、紫苑はむしろ自然体でいることができた。
「家に入ったときの話、だいぶ前に女苑にしなかったっけか」
「えー……あぁ言ってたね、あの気持ち悪い部屋でしょ?」
「……まぁ、そうね」
 気持ち悪いって、容赦ない言い方だなぁ、と紫苑は思ったけれども決して否定はできなかった。
 一度だけ、須崎さんからお茶に誘われた機会があったのだった。おいしいものが食べられる期待と、何か粗相を働きそうで怖いという不安の両方を抱えつつ、須崎さんのアパートの部屋に足を踏み入れると、中は台所以外のあらゆる場所が手作りのこけしや球体関節人形に占拠されていて、窓際には丸木に紙粘土を貼り付けて作製されたミニチュアサイズのトーテムポールが飾られており、ただその空間に座っているだけでも、紫苑は今まで感じたことのない種類の疲労感を覚えた。それでも須崎さんが焼いてくれたケーキはとてもおいしかった。シフォンケーキかパウンドケーキだったか忘れてしまったけれども、上にクリームがたくさん載っていたのは覚えている。
「その人ってさ」
「え? 須崎さんのこと?」
「私たちの前に、射的してた人よね」
「射的?」
「……あぁ、本当に覚えてないんだ」
 女苑はそう言うと、今のいいから忘れて、という風に右手を横に振り、再び前に向き直って歩き始めた。紫苑は焦って「射的」という言葉に引っかかる何かを頭の中で捜索したけれども、思い当たるものが何もなく、ていうか普通に考えて射的ってお祭りの出し物だから、もしかしたら由田川の夏祭りで射的をしたってことなのかな、などと思案しているうちに、いつの間にかふたたび須崎さんにまつわる記憶が頭の中で再生され始めた。
 須崎さんは不思議なことに、しょっちゅう紫苑と一緒に居るのにそれほど不幸な目に遭っているようには見えなかった。本当の所がどうだったのか紫苑には分からない。もしかすると、実際には不幸を被っていて、しかしその原因が紫苑にあるとは気がついていなかったのかもしれない。あのお茶会の帰り際、紫苑は針金細工がたくさんぶら下がったラックに足を引っ掛けて引き倒してしまい、運悪く後ろをついて来ていた須崎さんがそれを踏んでしまった。須崎さんの左足の裏から血が勢いよく流れ出しはじめ、紫苑が顔を青くしてうろたえていると、須崎さんは「ああいや全然大丈夫大丈夫、大丈夫」と作り笑いを見せ、そのまま片足跳びで薬箱のもとへと移動し、エタノールの入ったポリ瓶を片手だけで開けて綿棒を突っ込んだ。よりによってその場面が当時の最も鮮明な記憶として紫苑の脳裏にこびりついている。ほかにもっと覚えていた方がいい思い出があったような気がするのに。
 やがて神社の境内に近づいてきて、祭り囃子の音が大きくなってきた。笛の音に耳を澄ませているうちに、紫苑の頭の中には白いワンピースに姿をさえぎられた五人囃子の姿が蘇った。続けて、なぜか左手に鉄砲を握りしめている自分のイメージが脳裏に映る。持ち手部分の艶やかな赤い木目と、黒々と磨かれた砲身の輝きは、ちょうど今日の朝、林で出会った猟師が携えていたものと全く同じものだった。

6, 平成二〇年 ㈢
 女苑が金づる関係の用事に出かけたので、紫苑はひとりアパートに取り残されてしまった。特にやらなければならないこともないので、服の山の上に肘をついて寝そべり、ぼんやりとテレビを眺めはじめる。
 アスリートのインタビューが一区切りついた後、ニュース番組はコマーシャルに移行し、画面には若い女性歌手の顔がいっぱいに映し出された。BGMがそれなりに大きかったので、紫苑は慌ててボリュームを二つ下げる。やがて女性の顔面からカメラが引き、脇でポーズを決めている別の女性ふたりも現れ、そこで初めて彼女たちが三人組のグループなのだと分かった。とっくりみたいな形のスカートに電飾が巻き付けられているという、パラレルワールドもしくは近未来から来たかのような衣装を着て息の揃ったダンスをしている。彼女たちのバックスクリーンにはリサイクルマークを模したオブジェクトが表示されており、[紙] [アルミ] [スチール] などの文字が勢いよく回転する黒い矢印に囲まれて窮屈そうにしていた。

 それから更に三十分ほど経って、女苑がようやくアパートに戻ってきた。
「おかえり」
「……ただいま」
 そう返す女苑の声には家を出た時よりも元気がなかった。少なくとも紫苑はそう感じた。
「大丈夫?」
「え? 何が」
「いや……なんだろ、疲れる用事だったのかなって」
「急に何? 全然大丈夫よ。姉さんが変な心配しなくていいわ」
 女苑はあっけらかんとした口調でそう言うと、朝から着ていたヒョウ柄のロングスカートを紫苑の目の前で脱いで、部屋の左側、ようするに「もういらない」方の山に放り投げた。
「もう着ないの? あれ」
「あんなの、好きで着てたわけないじゃん」
 吐き捨てるように女苑は言って、部屋の右側に吊られたハンガーから、しょっちゅう着ている印象のあるシルクのベルテッドワンピースを外した。「あんな悪趣味なの、今日の用事のための服だし、もう使うこともない……あ」そしてすぐにワンピースを掛け直すと、ベッドサイドに置いてあった透明な液体の入ったスプレーを手に取り、腰回りと膝の裏に向かって入念にプッシュしはじめた。部屋に満ちていた香水の匂いが徐々に消え去っていく。
 そういえば、と紫苑は思った。そもそも女苑って、前は香水なんかつけてたっけ。疫病神の力を使えば、憑りついちゃえば金づるなんてどうにでもなるんじゃないの? まあでも女苑からは金づるが絡む用事とは一つも聞いてないし、なんか別の大事な用事だったのかもしれない。訊かないままでいいや。ちょっと今機嫌悪そうだし。

 アパートを出て、由田川の河川敷に着いたのは結局十八時半頃のことだった。
「めっちゃ混んでるね」
「うん……すごい、なんか、居心地悪い」
「え、なんで?」
「だっていつも自分が寝てる場所に大勢の人がいるんだもん」
「あー、まぁそっか」
 入口の門を抜けてすぐ、女苑はつかつかと脇に掲げられた会場図に近づき、「姉さんが行きたいとこ、どこ?」と訊いてきた。先ほど紫苑は部屋で十五個入りのマドレーヌの箱のうちの十三個を食べたので、あまり積極的に食べ物を選ぶ気にはなれず、じゃあ射的の屋台に行こうよ、と提案した。食べ物を売っていない屋台の中では射的が最も入り口から近かったという、積極性のない理由だった。それで別に差し支えないのだった。祭りそのものを楽しむというよりは、女苑と一緒にいる時間を楽しむという方が事実上の目的なので、場所がどこだろうと大して問題はない。
 実際ふたりが向かってみると、射的の屋台はただ緑色のテントを広げて天井に裸電球をつけただけの、あまりにも簡素な店だった。赤か黄色の背景に和風のフォントで商品名を書いた暖簾が他のほとんどの屋台にはついているのだが、この屋台にはそんなものは一切ついておらず、それどころか値段さえ書いていない。飾り棚も木を組んだだけの実に簡素なものだった。それに加えてよれよれの灰色無地を着た店主のおじさんがパイプ椅子にどっかりと腰かけており、屋台全体にそこはかとなく漂う陰気な雰囲気を増幅させている。パイプ椅子の横にはプルトップの立った缶ビールが置かれている。しらふではないようだ。
「ねえ姉さんやめとこう絶対あれ怪しいよ」
 女苑が顔を近づけてそう耳打ちしてくる。
「いや、私もそう思うんだけど……あの……」
 もともとは射的屋に対する期待などほとんど無かったのだが、この時紫苑は、どうしても一番下の段の左端に置いてあるぬいぐるみから目を離せなくなっていた。理由は単純で、ものすごくかわいい、と思ったのだった。可愛いというか、やたら手足が細長いので、ほのかにシンパシーを感じる。
「あれ、欲しいな。あれ」
「え、あれ?」
「そう」
 紫苑が指差して女苑に示したのは黒猫のぬいぐるみだった。その全身は文字通り真っ黒だった、文字通り、すなわち爪や眼や口や肉球といった黒猫を黒猫たらしめる部位は造形から完全に排除され、真っ黒に塗りつぶされていた。三角形の耳があるためにかろうじて黒猫だとわかるといった感じで、手足は栄養失調症にかかってしまったかのように細い、少なくとも女苑の目にはそう映った。もちろん紫苑にはそう見えていなかった。
「……あれほんとに商品なんかな」
「え、それどういう意味」
「不細工っていうか、めっちゃ手抜きよね」
「はぁ!? ひどいよ女苑」
「姉さんあれ欲しいの?」
「うん」
「信じられない」
「なんでそんなこと言うの……」
「あれのほうがまだ百倍ましでしょ」
 女苑はそう言いながらちょうど黒猫の対角線上、一番上の段の右端においてある狸のぬいぐるみを指差した。胴体は湯たんぽの形をしたフェルト生地に覆われていて、そこから肥り気味の手足が四本生えている。紫苑はそれをどこかで見た気がした。……そうだ、あれだ。入口の門に描いてあったあれ。まあ……そうね。あれも確かに可愛い。とても。

 屋台から少し離れた位置で、とりあえずやってみようよ、いや駄目、違うとこ行こう、とふたりがためらっていると、背後から凛とした若い女性の声がした。
「あの、今ここ並んでます?」
 女苑がすぐに振り向いて「いや、並んでない」と素っ気ない返事を返す。紫苑も女苑に遅れて振り向くと、そこには前髪をバッサリと切り揃えた女性がいた。元々の身長が高いうえに不自然なほど背筋が伸びているので余計に背が高く見える。今朝話した、給水塔に似た女性に違いなかった。あの、入口の門が見ていられないとさんざん言っていた人。
 まさか偶然会うと思っていなかったので、紫苑が目を泳がせて狼狽していると、女性は「あ、朝会いましたよね、こんばんは」と言ってきた。紫苑は引きつった顔で「こんばんは」と言いながら、朝会いましたよねって余計なことを、女苑の前でなんで言うかなこの人は、と内心で毒づいた。
「お祭り来てたんですね」
「いや、あぁ、はい」
「……こちらの方は家族ですか?」
 続けて女性は、女苑を手のひらで指し示しながらそう訊いてきた。うわぁ、頼むからこっちにまで話広げないでよ、と紫苑が焦っていると、女性は紫苑の返事を待つことなく「ガラスの仮面みたい」と言った。ガラスの仮面? それは紫苑にとってまったく理解の及ばない比喩表現だったのだが、女苑はすんなり理解できたようで、凄まじく酷薄な声で「あんただれ? 姉さんの知り合い? 私たち並んでないって言ったじゃん。ほら空いてるよ。さっさと射的してきたら」と言い放った。女性はすぐに顔色を失い、「あ、はい、ああ、邪魔しましたね」と言って逃げるように屋台のほうへ歩いて行った。
 そのまま女性が店主に声をかけているのを後ろで眺めていると、「え、姉さん、本当に誰? あれ。むかつくんだけど」と女苑が耳打ちしてきた。
「……名前は知らない。だけど、なんか……なんて言ってたかな、デザイン……の人」
「変なのと付き合わないほうがいいよ」
「あ、うん、分かってる」
 女苑の言葉にうなずきながら、でも、あんな感じの人にも確かに生活も人付き合いもあるんだろうな、と紫苑は思った。そもそも、「この人は一体どうやって生活をしているのか」という疑問を、道行く人間に一番持たれているのは、おそらくほぼ毎日河川敷をうろうろしている紫苑の方なのだった。私があの給水塔さんを変な人って言ってしまって大丈夫なんだろうか。いや別に、思うだけなら大丈夫なんだろうけど。
 その間に女性は店主からおもちゃの銃を受け取り、先端にコルクを詰め込んだ。どれを狙ってるんだろう、と紫苑が見物していると、女性は迷うことなく黒猫のぬいぐるみに銃の先を向けた。紫苑は自分と趣味が他人にも認められらた気がして無性に嬉しくなり、ほらぁ、私だけじゃなくてあの人もあの黒猫気に入ってるよ、と女苑に言いたくなったけれども、当の女苑は射的屋の隣のカルメ焼きづくりを熱心に眺めていたのでやめた。
 台から身を少しだけ乗り出し、脇を締めて顎を引いた女性の格好は、長身ということも手伝ってか、おもちゃの銃でもかなり様になっている。ぽすっ、と安っぽい音を立てて飛んだ一発目のコルクで、黒猫はあっけなく飾り棚の下に転げ落ちた。店主は表情をぴくりとも変えずに飾り棚の裏まで歩いていき、腰をかがめて黒猫を拾うと女性に乱暴に手渡す。女性はそれを特に気にするふうでもなく、少しだけ口角を上げて、その異常に細長い手足を折り畳み、肩掛け鞄に詰めこんだ。その姿を見て紫苑はようやく、あ、私が欲しかったやつあの人に取られた、と気が付いた。

 女性が黒猫のぬいぐるみをあんなに簡単に撃ち落としたものだから、まあ怪しい店ではなさそう、と考え、ふたりはそのまま射的屋の店主に声をかけた。女苑は何も言われなくても革財布を鞄から取り出し、料金の五発三百円を支払う。当然ながら紫苑のほうは一円たりとも持ち金がないので、ふたりで行動するときお金を出すのは女苑と決まっている。
 紫苑が何気なく「じゃあ、女苑よろしく」と言うと、女苑はあからさまに眉根にしわを寄せて「はぁ? 姉さんがやりたいって言ったんでしょ、ここ」と言った。
「え、でも私がやったら絶対外すよ」
「……一回ぐらいやりゃいいじゃん、私が金出してんだから」
「えぇ……でも、やっても仕方がないものをやるってほど苦痛なことはないよ……」
 紫苑のその言葉を聞いた女苑は、チッ、と舌打ちを一つして、台の上に転がっていたコルクを引っ掴み、荒っぽい手つきで銃口に詰め込んだ。
「で、何欲しいの?」
「えぇと……あぁ、じゃあ、あの狸のやつ」
「分かった」
 女苑が銃を構えている姿を隣で眺めながら、給水塔さんより背は低いのは置いておいて、金髪縦ロールのこっちもなかなか似合ってるなぁ、とまるで他人事のように思った。まぁさっきあんな簡単に落ちたんだしいけるよ、がんばって、と心の中で気のない応援を送る。しかし残念ながら、ぱすん、ぱすんとコルク銃は撃つたびに悲しいくらいにやる気のない音を立て、四発撃って、四発ともすべて命中させたというのに、狸のぬいぐるみは一向に落ちる気配がない。より正確に言えば、微動だにしない。
 店主はビールの缶を口に近づけながら、曇っていく女苑の表情を見物している。紫苑は何となく妙な予感がして、じっと店主のおじさんを見つめ始めた。女苑の手元に向けられた店主の視線には、何らかの悪意が浮かんでいるように見える。どこか、これから食い物にする相手を品定めしているような。
「え、おかしい、びくともしないじゃん……台に貼り付けてんじゃないの?」
 女苑が今にも切れそうな顔でそう言うと、店主の目線が一瞬女苑から外れた。ああ、そっか、何となく、そういうことなんだ、私が居るとやっぱりろくなことが起きない。というか、射的なんかでいかさましたところで稼げるのかな。ただ、やっていることの貧乏臭さの割に、店主の目は「おれは一世一代の大勝負に出ているんだ」と主張しているかのような真剣味を帯びていた。それを見ながら、紫苑はある一つの表情を思い出そうとしていた。……女苑が人に憑りつくときって、どういう顔をしていたっけ。
 しかしうまく思い出せない。女苑がお金を巻き上げているときの表情を、もう紫苑は久しく見ていなかった。当然、過去には頻繁に見ていた時期もある。バブル景気の頃や、さらに遡れば終戦から十年くらい経って日本中にコンビナートが沢山できた頃の話だ。その当時、ふたりは協力して金を稼いでいた。やり方そのものは今でも覚えている。女苑が目を付けた相手に、まずは紫苑が憑りついて、ツキを完全に無くしてから、女苑が金を搾り取る、という単純だけれども効率のいいやり方だった。ああいう貧乏神と疫病神を体現したかのような生活も確かに楽しかった気がする。ただ、お金を稼ぐのが楽しかったのか、妹と一緒に一つのことをしているのが楽しかったのか、当時の紫苑にとってどちらが本当だったのかは、紫苑自身もはっきりした答えを出せない。とにかく、良くも悪くも女苑は相当落ち着いたなぁ、という所感が紫苑にはあった。紫苑から見て、ここ数年の女苑は、ただただ自分よりも感情豊かで自分よりもしっかり者の可愛い妹でしかない。きらびやかな生活の裏に潜む実情を誇らしげに見せびらかすような言動も、昔はしていたような覚えがあるが最近はめっきりなくなった。だから、疫病神としての女苑の姿を明確に頭で形作ることができない。先ほどアパートで女苑の話を聞いた限りでは、それなりに楽しく暮らしているようではあるけれども。
 五発目はぬいぐるみにかすりさえしなかった。女苑は「ああ、もう、腹立つ」と言いながら、再び革財布から三百円を取り出す。女苑は負けず嫌いなので、こういう状況になると後に引くという行動ができないことも、紫苑は何となく分かっていた。そのことと今自分がしようとしていることとの間に、一体どういった関係性があるのか、紫苑は自分自身でもよく分からなかったけれども、要するに、自分はただ助け舟を出したいのだと思った。穴が開くくらいに店主の顔を見つめる。すると、青白い光が紫苑の両目に灯り、続けて紫色のいかにも毒々しい靄が背中から湧き出して、やがて全身をまとい始めた。十秒ほど経てば、紫苑の周りの空気はその靄によってすっかり埋め尽くされ、それから枕元の小火が一瞬で部屋全体に燃え広がるように、店主の姿を一息に呑み込んでしまう。しかし、それでもその靄は紫苑と女苑にしか視認できないのだった。だから今すっぽりと紫色の雲に覆われている店主は、やはり相変わらず女苑の手元を見つめているに違いなかった。
 女苑が銃を構えたまま「……姉さん、何やってんの?」と小声で言った。うん、私もそう思う。本当にその通り。私はなんてみみっちい相手に貧乏神の力を使ってるんだろう。たかが一回三百円の出し物でずるをしてる、はずれ者のおじさんに。でもこうすればあの狸のぬいぐるみはたぶん落ちやすくなるはずで、まぁ、もうなんでもいいから、とりあえず落ちてほしい。私がぬいぐるみを欲しいっていうよりも、このままだと女苑の機嫌がどんどん悪くなっちゃうから。たぶん私は、女苑に限らなくても他の誰かの力になれるとしたら、こういうやり方を取るしかないから。別の誰かを不幸にして、その人を相対的に幸せにするっていう。
 通算六発目のコルクが銃口から飛び出す。コルクは物理的にありえない弧状の軌道を描いて、狸の隣に置いてあったミルクキャラメルの箱に当たった。はぁ、と女苑のため息が聞こえた。明らかに落胆によるため息ではなく、紫苑への呆れによるため息だった。
「当たりだ」
 店主はつまらなそうにそう言い、パイプ椅子からゆっくりと立ち上がって、飾り棚の裏側に落ちたキャラメルを拾うために歩き出す。と、一歩踏み出した店主の右足が、パイプ椅子の傍らに置いてあった缶ビールを思い切り蹴飛ばした。中身がビニールシートの上に飛び散る、そして続けざまに、ビニールシートの上に着地した店主の左足をとらえる。くぐもった悲鳴と、体当たりを受けた飾り棚が崩れる安っぽい音とが、ほとんど同時に聞こえた。
 あぁ、そう来たか。紫苑は冷めた頭でそう思った。崩壊した飾り棚に近づいて狸のぬいぐるみを拾う。店主の一番近くにあった景品だったためか、ビールまみれになってしまっている。
「ねえ見て女苑、なんか、お尻のところに鉄板貼り付けてあるよ」
 紫苑が平たい口調でそう報告すると、女苑は猛然とした勢いでぬいぐるみを紫苑から奪い取り、「台に貼り付けてんのと大して変わんないじゃんか馬鹿!」と叫びながら、のっそりと起き上がろうとしていた店主の鼻に向かって思いっきり叩きつけた。

「あぁ、もう、なんなのよ!」
「まあ、まあ私が居るせいでああなったんだよ、たぶん」
「そんなの関係ないでしょうが、あれは!」
 ふたりは屋台の列から離れて、人通りのあまりない遊歩道沿いに設置された河原沿いのベンチに座っていた。ベンチといっても、黄色く塗りたくった古タイヤを地面に半分埋め込んだだけの簡素なものだ。先ほどから、信じらんない、あのたぬきじじいが、と憤慨している女苑を、紫苑はひたすらなだめるしかなかった。それでも女苑の苛立ちはそう簡単に収まらない。元々射的をやろうと言い出したのは紫苑のほうだったはずなのだが、そんなことは関係なく悔しがっている。
「てかさ、さっきのあれ、姉さんなんであんなことするのよ」
 キャラメルを一粒噛んでようやく少し落ち着いた女苑がそう言う。
「なんでそんなこと言うの」
「夏祭りなのよ? あれ絶対あいつ以外にも迷惑かかってるって」
「えぇ、そんなこと言わなくても。別にいいじゃん、いろいろ手に入ったんだし」
「まあそうだけどさぁ……」
 女苑は不満げな表情を崩さない。
「何がそんなに気に入らないの?」
「便利のために能力を使いたくないのよ。少なくとも私は」
「……なんかその話、昔聞いたことある気がする」
「いいから黙って聞いてよ。私が言いたいのは、金を巻き上げるっていうそのもの以外の目的に、私は能力をあんまり使いたくないってこと。……車買うとか家買うとか、何か目的のために金を巻き上げてるわけじゃなくて、金を巻き上げること自体が目的っていうか。それが、疫病神としてのあるべき姿だと私は思ってて。で、使うの。一円も残さずに。使い果たしてまた巻き上げるっていう繰り返しを続けるのよ。……姉さんはそういう、貧乏神ならではのプライドとか無いの? 訊いといてあれだけど、無さそう」
 プライド、その四文字を頭の中で数秒間転がしてみた紫苑だったが、そこまで時間はかからずに結論が出た。別に特別な結論ではない。そもそも普段から感じていることだ。
「私にプライドなんて無いよ、貧乏神の力なんて、使っても何一つ私にいいことないのがほとんどだもん。だからもし役立つ場面があるなら遠慮なく使っちゃえ、って思ってる。うん……とりあえず、目の前にある幸せができるだけ長続きすればそれでいいって、私はずっとそう考えてるかな」
 平坦な口調でそう言うと、「そうよね、どうせそんなことだろうと思った」と投げやりな返事が飛んできた。「目の前の幸せ、ねぇ」キャラメルの包み紙を弄びながら、つまらなそうな顔をしている。ちょっと私たちはずれているんだな、と紫苑は改めて思った。それはちょっと悲しいことかもしれないけど、まあしょうがない。とりあえず元気出しなよ。紫苑は左手で握っていた狸のぬいぐるみを女苑の顔の前に近づけ、おどけた調子でふわふわと揉んでみた。
「とにかくこれ取ってくれたのは女苑だからさ。取ってくれてありがとう、って私が言って、それで済ませちゃ駄目なの?」
「……ビールくさい。やめてよ」
「いいじゃん。酒場の匂いよ」
「本当に不快」
「ふふふ」
「……」
「ていうかさ、巻き上げて使い果たす生活なんて、実際のところ今できてるの?」
 紫苑はその質問をほとんど思考停止の状態で発した。昼過ぎの「用事」から帰ってきた女苑の香水の匂いを嗅いだとき、めちゃくちゃに絡まった小腸のようなアパートの配管を見たとき、そもそもP区などという郊外の街に引っ越したと聞いたとき、うっすらと思い浮かんでしまったものの、ずっと心に留めて訊かないままにしておいたその言葉は、少し気を抜いただけでこんなにもあっけなく口から滑り出してしまった。その言葉を耳に入れた女苑が、それまで浮かべていた苛立ちの表情を剥ぎ落とし、その目に明らかな困惑を浮かべ、それどころか、口元をうっすらと震わせているのを見て、紫苑はようやく、首筋から沸騰して全身に広がっていくような恐怖を覚えた。
「ごめん、いや、あの、別にそれがどうというわけじゃなくて……あの、これは引っ越してから感じてたことなんだけど、なんで女苑はこんな田舎っぽい郊外に住み始めたんだろうってずっと思ってて、ちょっと気になっただけ」
「なんでそれを今突然訊くの?」
「え、分かんない、いや、その、なんとなく、思いついて……思いついたまま言った」
「姉さんは本当に会話が下手ね」
「……うん、下手だね」
「はぁ……」
 女苑はため息をつくと、紫苑の座っている右側から目を背け、遊歩道の暗がりを見つめはじめた。どうしよう。機嫌悪くさせちゃった。でも、なんというか、女苑はやっぱり昔と比べてちょっとだけ様子が変わった。ずっと疲れてる感じ、というか。いや、疲れるのは当たり前か。だって私よりも女苑のほうが生きてくのがずっと大変だから。もちろん、女苑のほうが私よりも恵まれた生活を送ってはいるけど、女苑の恵まれた生活って、すぐに浪費されて流れていっちゃう生活でもあって、それでいて女苑は疫病神であり続けるために、恵まれた生活をいつまでも続けようと流れに逆らっているってことなんだろうから、そりゃあ疲れちゃうよね。……じゃあ私は? たぶん、女苑の反対なんじゃないかな、私の生活は苦しいけれど、苦しいだけで、べつに何にもがんばらなくたっていい。というか、何にもがんばらない状態が続けば、たぶん誰だって私みたいになる。まあ、そうやって生きていけるのかは別の話だけど、まあ人間には無理だろう、どっかのタイミングで飢え死んじゃうから。……そう考えると、私ががんばれないのは、この笑えてきちゃうような状態で生き続けてもあんまり死にそうにないからか。死ぬほどつらいことになったら私も変われるってことなんだろうか。死ぬほどつらいのは嫌だけど。
 紫苑が考え事の沼から抜け出しても、女苑はまだ黙って遊歩道の先を眺めていた。電灯が全く設置されていないので、この遊歩道は本当に暗い。それこそ、今日河川敷で祭りが開催されていなければ、ここまで届く明かりはほとんどないため、更にこの場所は暗くなる、普段この場所に住んでいる紫苑はそのことを知っている。何も見えないはずなのに、執念深く女苑は暗闇の先を見つめ続けている。こうなったとき、私は何を伝えればいいんだろう。どういう言葉を選んだら正解なのだろう。「ごめん」くらいしか思いつかない。でも「ごめん」とは言えない。女苑が私に言う「ごめん」と同じように、私が女苑に言う「ごめん」もそんなに重みがないから。
 先に沈黙を打ち破ったのは女苑だった。しかしその第一声は想定外の言葉だった。
「……あれ、なんか揉めてない?」
 そう言いつつ振り向いた女苑は、先ほどと打って変わった神妙な顔をしていた。女苑が見つめていた場所へと紫苑も目を向ける。すると、いまふたりが座っている地点からかなり先に進んだ遊歩道の道すがらに、うっすらと二つの人影が見えた。しかし、どちらも背が高い、ということぐらいしか分からない。なにせ明かりがほとんど無いのだった。顔や服装はおろか、性別さえも、この場所から確かめることができない。
「……分かんない。よく見えない」
「いや、絶対揉めてる」
「えぇ、なんか、カップルとかじゃないの」
「首根っこつかんでるみたいに見えるんだけど、気のせい?」
「えぇ……」
 より目を凝らして見てみる。確かに、腕と脚の方向を見る限り、二つの影は向かい合っているのではなく、どちらも同じ方向を向いていて……と、一方の人影がくるりと向きを反転させた。すなわち向かい合った。
「……喧嘩?」
「いや、たぶんあれ喧嘩じゃない、勘だけど」
 女苑はそう言い切ると急に立ち上がり、人影のいる方向へ歩き始めた。紫苑のことを待たずに速足で進んでいく。ローヒールの硬質な足音が、遊歩道の舗装を叩いて遠ざかっていく。
「え、あ、ちょっと、女苑……待ってよ」

 人影から数メートルという距離まで近づいて、ようやく女苑は立ち止まった。
 この場所まで来て、ようやく紫苑も状況を把握することができた。全体的に黒っぽい服装の男が、具体的にどういう器具なのは分からないけれども、手のひらサイズの何かを女の顔に肉薄させている。相当興奮しているのだろうか、たった数メートル背後にいるふたりに気が付く様子もない。
「ねえ、女の人のほう……」
 紫苑がそう言いかけてすぐに、そうかも、と女苑は小さな声で言った。女の影はあの人だった。顔はこの場所からはうまく見えない。それでも、屋台と提灯がほのかに作り出す薄明りに、じんわりと滲んでいる給水塔のようなシルエットだけで、ほぼ間違いなくその人であることを紫苑は悟った。
「さっき、私が近くにいたから、あんな目に合ってるのかな」
「……違うんじゃない。姉さんの力って、もう少し間抜けで面白いから」
「……まあ、そうかもね」
 一応同意しながらも、間抜けで面白い不幸ってなんだろう、そんなものこの世にあるんだろうか、と紫苑は思った。ただ、確実に言えるのは、今目の前で繰り広げられている不幸は、何も面白くない不幸だということだった。見たくない。気分悪い。だからもう、ねえ、戻ろうよ。気を取り直して何か食べ物買いに行こうよ。紫苑がそう女苑に声をかけようとした、その時だった。
「私が普段してることと、あれと、何が違うんだろう」
 その言葉を聞いた瞬間、紫苑は思いっきり首を曲げて横に立つ女苑の顔を見た。それほど今耳に飛び込んできた言葉は到底信じられないもので、だから、それが本当に女苑の口から出た言葉であったのかをわざわざ確認しなければならなかった。女苑の顔は男と女がもつれ合う姿を瞬きせずに凝視している。紫苑には意味がさっぱり分からなかった。なんでそんな表情になってるんだろう。なんでそんな弱気なことを女苑の口から聞かなきゃいけないんだろう。せっかくの夏祭りで。もういい。こんなの一つも楽しくない。さっきあれだけ疫病神のプライドがどうとか言ってた女苑はどこに行っちゃったんだ。
「そんなことを私に言うためにここまで連れてきたの?」
「……え」
「馬鹿なんじゃない」
「え、急に何よ、なんでそんな切れてんの」
「一旦黙って」
「は? ……え、ちょっと、姉さん」
 うろたえている女苑を尻目に、紫苑はそのままゆらりと宙に浮揚し、二つの影がもつれている場所へと、音もなく近づき始めた。呼吸が荒くなっているのが自分でも分かった。影は紫苑の発する光に照らされて、その輪郭と表情が青白く浮かび上がった。

<ねぇさっきいりぐちついたんだけど。どこにいる (・o・ ))?>
 ピロロン、と携帯電話が場違いな電子音を立てた。女性は鞄の口を一層強く握りしめる。当然ながらそのEメールを確認する余裕など女性にはない。とにかく今は、体を一ミリたりとも動かしてはならない。目を開けてはならない。外界から侵入しようとするすべての情報を遮断しなければならない。ここで顔の前にかざされているものを目にしてしまった瞬間、自分の中でかろうじて保っている何かが壊れてしまう、女性の脳はそんな直感に憑りつかれていた。瞼の裏の暗闇には、青色の不気味な光がかすかに点灯している。なんでこんな人の気配のない、薄暗い道を、さっきの私は選んでしまったんだろう。今更の後悔が女性の胸の内に押し寄せる。
 さっき私が近くにいたからあんな目に合ってるのかな。
 違うんじゃない。姉さんの力って、もう少し間抜けで面白いから。
 まあ、そうかもね。
 目の前で剪定ばさみに怯えている女の他にも、背後にふたりの若い女が立っていることに、男性はとっくに気が付いていた。そもそも、ヒールか革靴か知らないがとにかく踵の硬い靴がアスファルトを打ち鳴らす音が聞こえてきたから、だれか別の人間が近づいてきている、そんなことにはすぐ気が付いていた。くだらない野次馬が呑気に会話しているだけだ。内容は頭に入ってこない。男性にとって、目撃されている、ということは特段問題ではなかった。男性が試みているのは、隠すための行動ではなく、どちらかというと主張に近い行動だった。その主張の具体的な内容を男性自身も言語化できていないので厳密には主張とは呼べないのだけれども。言語化できていないうちに行動に移した結果がこの状況といえた。意外にも、ふとした瞬間に心の縁から溢れ出そうとする罪悪感は、溢れ出すままにして放っておけばそれで済んだ。すべて剪定ばさみを持つ指先の震えに変換されていくだけだった。
 私が普段していることと、あれと、何が違うんだろう。
 そのはずだったのに、耳に入ってきたその言葉一つだけで、おぞましい違和感が神経を侵しはじめ、馴染み深い空虚が男性の中枢から末梢まで伝達されていった。頭のどこかでそんな気はしていたのだった。今自分がしていることは、もしかするとどこまでもありきたりで凡庸な行動なんじゃないか? この世界に無数にいる別の誰かの真似事なんじゃないか? ありきたりでありなおかつ他人も自分も得をしない行動など、成し遂げられる必要性は果たしてあるのだろうか? ……ホームセンターで剪定ばさみを選んでいたあの時よりもずっと過去の時点から、男性はそのことについて考えていたはずなのに、なぜか今日に限ってその疑問を黙殺できていたから、実際に行動に及んでも胸の内は高揚感で満たされていた。少なくともこんな大勢の集まる場所でこんな行動に至っているのは自分だけであるという点、男性にとってこの行動の価値は、おおよそその一点に集約されていた。だというのに、その価値を裏打ちしていた特殊性の表皮は、文脈もよく分からない他人の言葉によってあっさり引き剥がされてしまったのだ。強烈な耳鳴りが始まった。
 そんなことを私に言うためにここまで連れてきたの。
 え。
 馬鹿なんじゃない。
 え、急に何よ、なんでそんな切れてんの。
 一旦黙って。
 先ほど射的屋の近くで聞いた覚えのある二種類の声が、女性の頭に響く。おもむろに、肩を掴んでいた男の腕から力が抜けていった。鼻に押し当てられていた金属性の感覚が失われていき、それと引き替えに、固く閉ざされた瞼の裏側に灯っていた青白い光が、切れかけの水銀灯のように激しく明滅し始めた。屋台の電球から漏れ出る光でもない、よもや月の光でもない、この青白い光が何から発されている光なのか想像もつかない。……周りに青白く光る物体があるんじゃなくて、もし、私の視覚そのものが幻の光を作り出しているとするなら……常軌を逸した混乱が頭の中を駆け巡って、開けてはいけない、そう思っていたのに、女性は瞼を開いてしまった。目の前には、青白い炎を纏った人型の塊と、頭を抱えてうめき声を上げている男の姿があった。男の豹変ぶりにも驚いたが、それよりも燃えている人間のほうに目が行った。青い炎だ。まだ小学生だった頃、自分でも気が付かないうちに身長が伸びて背伸びすれば自力でガス台を覗けるようになり、初めて円形に並んだガスコンロの火を見たときの、あの誰にも共有されなかった感動が一瞬だけ女性の脳の表層に姿を現した。それに加えて、炎がこんなにも体の近くにあるのに、まったく熱を感じないのも神秘的だった……それからすぐ、こんな異常な状況でもそんなことを考えるだけの余裕が、自分にまだ残されていることに驚いた。
 男性には聴覚がもうほとんど残っていなかった。それは外的にもたらされた不幸のせいでもあったし、男性がひとりで勝手に到達した失望のせいでもあった。他ならぬ自分自身が絶叫を上げていることにさえ、男性は気が付いていなかった。目の前の光景はそれほどまでに現実離れしていた。あれだけ暗かった遊歩道はいつしか、鈍い青色の光によって一様に照らされている。辺りを見回しても、人間は誰ひとりとしていない。目の前の女も、後ろに居たはずの野次馬のふたりも、屋台の前で行列を作っている人々も、すべて世界から消え去っていた。男性の視界の中でただひとつ、明確に存在を主張していたのは、女が持っていた肩掛け鞄だけだった。やがて、空中で静止したその鞄の口から、何の前触れもなく真っ黒い何かが這い出してきて、そのままべちょりと音を立てて地面に転がり落ちる。はじめそれは蛸かなめくじか、とにかくある種の軟体動物に見えたが、それは違った。黒光りする粘液に表面を覆われた黒猫のぬいぐるみだった。金属の噎せるような匂いを漂わせながら、しなびた細長い腕を地面に貼り付けて、顔のない顔で男性を見上げている。
 肩掛け鞄をしっかりと身に密着させながら、悶える男と燃える人間の姿を、女性はじっと目に焼き付けていた。この光景は、どう考えても現実ではない。おそらく気を失ったか、もしくは死んでしまったのか、どちらが本当なのか知らないけれども、そんなことももうどうでもよかった。きっと、開いてはいけない目を開いてしまったから、もう元いた時間には戻れないに違いない……着信音が鳴った。考える間も無かった。腕を鞄に突っ込む。液晶画面を開く。目的のボタンはもう見なくても押せた。「もしもし? 遅刻してごめん」「……」「メール見た? 今入口らへんにいるんだけど……」途中から友人が何を喋っているのか、ほとんど頭に入ってこなくなった。途端に襲われていた時の感覚と、眼前の状況に対する正常な恐怖が蘇り、女性の肌の上を這いずり始めた。女性は弾かれたように顔を上げて、遊歩道を駆け出す。かたくなに手放さなかったはずの自分の鞄から、黒猫のぬいぐるみがひとりでに滑り出したことに、結局女性は気が付かないままだった。
 発作みたいに八つ当たりしちゃって、なんか本当に申し訳ない。でも、この人は運が悪かったんだよね、たぶん。しょうがない、とは言わない。私はいつまでたっても不幸を振りまくだけしか取り柄がないから。それで、今、この人を不幸にしたいと思ってしまったから。それにしてもすっごい叫び声。でも、靄はどんどん濃くなっていって、中で男の人がどうなってるのか私には全然見えない。不幸にしている相手が、どういう内容の不幸に陥ってるのか、私自身分からないなんて、ようするに貧乏神はその能力にまで欠陥があるってことだ。どうしようもなさすぎる。それにしても、ああもう、「なんでそんな切れてんのよ?」って女苑の声がさっきから頭の中で繰り返し響いて、いつまでたっても出て行ってくれない。だって本当にそうだなぁ、って思ったから。本当に、私いま、何やってんだろう。一体どういうつもりなんだろう。でも逆立った体中の毛穴はもとに戻ってはくれない。やっぱり心の底では怒ってるんだ。私はいま無性に腹が立ってしかたがない。この怒りが女苑に向いてるのは、そのことはわかるけど、それがどこから来る怒りなのか、分かりそうで分からない……いつものことだ。私は自分の思いに対して、いつもちゃんとした理由を見つけられない。でもたぶん、女苑に対して私は、いつまで経っても燃えない、それこそ燃やせないごみみたいな気持ちを抱いてるんだと思う。うらやましいな、尊敬するなって思う時もあれば、かわいそうだな、大変だなって思う時もあるし、そういう矛盾する感情が溜まりに溜まって容量いっぱいになって、ちょうどいまごみ袋を突き破って、噴き出してしまったってとこなのかも。というか、たぶんもっと話は単純で、女苑がくよくよしているところを、私は見たくなかったんだ。自分は毎日毎日いくらでもくよくよ悩むくせして。
 本当は、金なんて必要としていなかった。確かに、金を持っているか、と女に訊いたのは数分前の自分だった。何か自分を自分たらしめるものを希求していたはずだった。しかし、そもそもそれを理由とした時点で、普遍性の穴から逃れることはできなかった。すべての存在はすべての時点における自分自身の存在を証明しようとして躍起になっているけれども、しかしそれはとてつもない苦渋と食傷に満ちた作業であり、人間よりも長い時間を生きている存在ですら、時に苦悩し、時に放棄する難題なのだった。ただのひとりの人間が一夜にして成すことなど到底不可能に違いない。
 黒猫は自分の表面と地面との間でのたくる粘液の摩擦力を振り切るようにして跳躍し、男性の目前まで浮かび上がった。男性は反射的に剪定ばさみを思いきり投げつけ、その鋭い刃は黒猫の頭頂を滑るようにして切り裂いた。すると、頭部の割れ目から、黒々とした雲の間から陽光の束が漏れるようにして、大量の綿糸が飛び出してきた。その柔らかい色の綿糸の濁流が男性の全身を絡めとる。やがて男性は息ができなくなった。四方八方を乳白色の繊維で囲まれていて、どちらが水面でどちらが川底であるのかもはっきりとしない。乱れた時間の中に男性は閉じ込められ、がんじがらめにされていた。荒れ狂う糸の流れの中を、方向も定まらないまま、男性は必死に泳ぎ続ける。次に意識が浮上したのは何分後のことだったのだろうか。気が付けば男性は、膨大な体積の綿糸が沈みこんで膨れ上がった川の水面から、顔だけ出して息を整えていた。天気は快晴だった。しかし川の流れは決して止まらない。男性はもつれる時間軸の海に押し流されていく。

7, 第一三二季 ㈣
 博麗神社の鳥居をくぐってすぐに紫苑の目に飛び込んできたのは、境内の左手にある空き地に設置された大きな櫓だった。紫苑が居候していた時にはなかったものだ。この祭りのために急ごしらえされたというわけでもなさそうだった。それにしてはあまりにも立派なつくりをしている。
 櫓の上では明らかに妖怪と思しき桃色の髪の少女が、青白い炎を周囲にふわふわと漂わせながら、扇子をひらめかせて踊っている。不気味なことに、少女の顔は完全に無表情だった。しかし額に載ったお面がテレビのチャンネルを切り換えるのと同じような速さでコロコロと変化するので、見ていて飽きない。櫓の奥には頭の上に緑色の葉っぱを乗せた女性たちが横一列に整列しており、笛や鼓を構えている。参道を歩いてきたときに聞こえてきた囃子も、どうやら彼女たちの演奏によるものだったようだ。
 ふと紫苑が横を見ると、女苑も舞に釘付けになっている様子だったので、話しかけないでおくことにした。ふたりは無言のまま、しかし同じ何かを共有して、演目が終わるまで櫓の上を見つめ続けた。

「すごくきれいだった」
 女苑が口を開いた。参道を歩いている途中で会話が途切れてから、ふたりはそれまで一言も会話を交わしていなかったので、紫苑は女苑の声を改めて聞いただけで少しほっとした。
「というか、あの子私知ってる。人里では結構有名よ」
「へぇ」
「私たちの異変よりも前に別の異変を起こした妖怪だって聞いた。どういう異変かは知らないけど。で、今はなんかいろんな所で踊って生活立ててるみたい」
「そうなんだ。騒動起こしてもあんなに人気なんだね」
「……まあ、全体的にその辺の感覚は、向こうの世界とはちょっと違う感じよね」
 ふたりも最近異変を起こした身であり、紫苑に至ってはそのあとさらに天人と一緒になってトラブルを起こした経緯もある。しかし参道を歩いている最中すれ違った人たちが、ふたりに対してあからさまに嫌味な態度を見せる、などといったことはなかった。視線をちらちらと向けてくる人、もしくはふたりからそっと視線を外す人が数人いただけで。その雰囲気はどうもこの境内でも同じらしい。幻想郷はやっぱりそれなりに寛容、それなりに、と紫苑は改めて感じた。異変はもちろん、異変ほどの規模ではないにしろ奇怪な出来事がこの場所ではしょっちゅう起こるので、誰もいちいち過去の椿事などに構っていられないのかもしれない。

 そのあとすぐに紫苑の腹から繁殖期のかえるのような音がしたので、とりあえず何かお腹に入れよう、という話になった。屋台の並びをふたりで適当に回る。紫苑が食べ物を指差しながら「あれ美味しそう」と言うたびに、女苑は「いいよ」と言って当然のように二人分の代金を支払った。
 女苑の両手に醤油団子と焼き鮎とりんご飴がそろったところで、「もう持てないから一旦食べましょ」と女苑が言い出し、ふたりは社殿の右側にある休憩所に向かうことにした。休憩所といっても石畳の上に机と椅子がたくさん並べられているだけで、屋根などはなにもない簡素なものだったが、それでも紫苑は霊夢との生活を思い出しながら、霊夢さんってこんなにサービスがいい人だったっけ、と思った。いや、たぶん、このお祭り自体、いろんな人に協力してもらって準備してるんだろう。とにかくあの人はこういう細やかな部分をけっこうずぼらにする人だった。私が言えた立場じゃないけど。
 椅子に座り、串刺しにされた醤油団子を女苑から受け取ろうとした紫苑は、「うわっ」案の定というべきか取り落としてしまった。人差し指と親指の間から滑り落ちた団子の串は、そのまま机の縁に当たり、さらにエンパイアワンピースの上に転げ落ちて、今にも太腿の外側を滑って地面に落下してしまう、というところで、紫苑はとっさに串を拾い上げた。
「あーあ……服にめっちゃ醤油ついちゃったじゃん……」
 女苑は哀れみの視線を紫苑に向けてそう言ったのだが、当の紫苑はそこまで残念だと思っていなかった。何事もなかったかのように拾い上げた手のままで団子を口元に運びながら、「まあ別に、地面に落ちたわけじゃないし、食べれるからいいよ。いや地面に落ちても私はたぶん食べるんだけど。ていうか、普段だったら私が落とした串なんて絶対地面に落ちちゃうはずだから、むしろ運がいいんだと思う」と言った。
「……あっそう」
 女苑の哀れみの視線がさらにきつくなった気がして、紫苑は思わずうつむいた。すると、左腿を覆う真っ白な生地の上に、点々と散らばった焦げ茶色の染みが目に飛び込んできた。

「あれ、女苑さんだ」
 焼き鮎を食べ終わるころ、なんの前触れもなく背後から女苑を呼ぶ声がしたので紫苑は驚いた。少し幼さを感じさせるが異常なまでによく通る声で、しかし紫苑には聞きなじみのない声だった。誰だろう、と思いながら振り返る。すると、女苑よりも一回り小柄な緑髪の女の子が立っていた。
「あ……久しぶり」
 そう返す女苑の顔には苦笑いが浮かんでいる。
「こんにちは! 元気でしたぁ?」
「まぁ、うん、元気よ」
「もぉ、女苑さん、こんにちは! って言ってるんだからこんにちはって言ってくださいよ」
「ああはいはい、こんにちは」
「急にいなくなっちゃうから、お寺のみんなすごい心配してたんですよ」
「まあそうでしょうね」
「もう、他人事みたいに言って……でも、なんだかんだ女苑さんが人里で出歩いてるとこわたしもよく見かけますし」
「えっ、そうなの?」
「それに、聖様が心配しなくても大丈夫よ、って言ってたので。あの子は困ったらたぶん帰ってくるから、って、ふふ」
「あぁ、言いそうだわぁ。ああいう聖のなんでも見透かしてます感、死ぬほど腹立つのよね。切れそう」
「ふふふっ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ、誰、この子」
 女苑とよく知らない女の子がよく知らない話を自分そっちのけでいきなり展開させ始めたので、焦って紫苑は話に割り込んだ。いや、まあ、女苑が抜け出してきたお寺関係のひとなんだろう、とはだいたい予想がつくけど。でも、気になる。女苑とすごく仲良さそうだし。あとふわふわした耳がついていて犬みたいでかわいい。
 紫苑は女苑に対して訊いたはずなのだが、返事をしたのは女苑ではなく女の子のほうだった。
「幽谷響子っていいます」
「カソダニ? さん」
「はいそうです、こんにちは! 紫苑さんですよね」
「えっと、カソダニって漢字でどうやって書くの」
「こんにちは! ってわたしが言ってるんだから、返してくださいよぉ、もう」
「え、あ、うん、こんにちは……」
「紫苑さんてすっごく声ちっちゃいですね、女苑さん」
「そういやなんで私の名前知ってるの、女苑から聞いたの?」
「はい、女苑さんは酒……機嫌よくなると結構紫苑さんのことしゃべるので」
「……へぇ、そうなんだ?」
 紫苑は向かい合って座っている女苑の顔をにやりと見た。女苑はしかめっ面になり、「家族の話くらい誰だってするでしょうが」と呟いた。紫苑がぎりぎり聞き取れるか聞き取れないかくらいの声量だった。
「あのさぁカソダニさん、女苑って私の何の話するの?」
「え……ちょっと待ってくださいね、悪口以外の話思い出すので……」
「ねえ、あなたひどいよ。あと女苑もひどいよ」
「悪かったわ」
「あ、えっと、本気出すと青い炎が出て、ちょっとだけかっこよくなるって言ってました。なんか、天使? と戦ったときとか凄かったって」
「あー、あー、そうそう、天子様がオオナマズを呼び出したときね、うん、あれはすごく頑張ってた、私」
「あとなんか、あれ、あれって、外の世界にいた頃でしたっけ? 女の人を喝上げしてた男の人をなんか、その、よくわかんないけど大変な目に合わせたって言ってました。男の人がすごい絶叫を上げたから、すぐに人が集まってきちゃって、逃げ出さなきゃいけなくなったって言ってましたけど」
「え……私、そんなことしたっけ」
「あれ、女苑さん、違いました?」
「……どうだったのかしら? まあ酔ってたから、でたらめ言ってたのかも」
 女苑は肩をすくめてそう言った。まあ、でたらめだと思う。だって、ほら、喝上げって、女苑が普段やってることで、それを別の人がやってたからってひどい目に合わせようだなんて、さすがの私でもそんな理不尽なことしないはずだから……ただ、いくら酔っ払ってたからって、どうして女苑がそんなでたらめを言ったんだろうっていうことは、ちょっとだけ気になる。でたらめにしてはあまりに具体的すぎるというか。

 カソダニさんは帰り際だったらしく、その後すぐにイチリンさん、ムラサさんという人と合流し、一緒に寺へと帰っていった。後から来たイチリンさんもムラサさんも、女苑とは普通に仲が良さそうな様子だった。イチリンさんは法衣を着ていたが、最近はわさびの海苔巻きをつまみにして飲むのにはまっている、という話を当然のように女苑にしていたので、隣でカソダニさんが渋い顔をしていた。
「あの人たちと仲良いんだね」
 参道へと続く下りの階段に消えていく三人の後ろ姿を見届けながら、紫苑はそう口に出した。口に出した後で、どうなんだろう、女苑のことだから「全然そんなことないわ」とか言って否定してきそう、などと思ったのだが、意外にも女苑は「そうね」と素直に同意した。
「なんだかんだ言っていい人たちばっかりよ」
「うん。そうみたいだね。よかった」
「でも……」
「でも?」
「……なんか、寺生活続けてるうちに、これで良いのかなって思うようになってきてさ」
「……どういうこと?」
 そう訊きながら紫苑は横目で女苑の顔を見た。その唇の端には、女苑が滅多に見せることのない寂しげな笑みの片鱗が浮かんでいた。紫苑は目線をとっさに女苑から外すと、境内の石畳を見つめ始めた。それでも、耳だけは女苑の声を一言も聞き洩らさないようにそばだてた。
「これ、前も言ったっけ? 私たちの異変が失敗に終わって、夢の住人を回収して……一段落してさ、あの時私は、とりあえずやり切ったなって、なんか変な達成感があって。向こうの世界から幻想郷に来て、最初の自己紹介が済んだっていう気がした。疫病神として、貧乏神として私たちはこれからこの場所でこういう風に生きていきます、みたいな?」
「……うん」
「でも、それから寺で預かってもらって、まあ、座禅とか読経とかはぜんっぜん面白くなかったけど、それでも周りの人には、まあ、良くしてもらって……で、結局さ、寺に住み込みの状態って、頑張って金巻き上げなくても暮らしていけるわけよ。そうしたらなんていうんだろう、私は疫病神のままでいられなくなるんじゃないかって、すごく不安になった。金を巻き上げることに愉しみを見いだせなくなったら、私はもういよいよ終わりだと思って」
 黙って相づちを打ちながら、紫苑は頭の中で絡まっていた糸くずの塊がするすると解けていくような心地良さを味わっていた。今朝林の前で会ってから、女苑に対して抱いていた何とも言えない違和感の正体を、ようやく女苑本人の言葉として聞くことができたためだった。
「だから衝動的に抜け出しちゃって……あの長屋に住もうと思った。あれは、私がこの郷に来て、まだ純粋に疫病神として生きれてた頃の証拠みたいなものだから。だから、あそこに住めばちょっとずつ本来の私を取り戻せるかと思ったんだけど……なんかもう、難しくなっちゃったみたい。なんか最近、巻き上げるのがどうしようもなくつらい、苦しい作業に感じる時がある。これさ、向こうの世界で、幻想郷に来る直前の私も、こんな感じだったはずなのよ。そんな覚えがある」
「……」
「それでなんかもう、向こうの世界でも疫病神で居続けられなかったのに、こっちの世界でも無理なら、もう私どうなっちゃうのかなって、すごく心配になるときがあって」
「でも……でも」
「でも、何?」
 何か伝えたいことが思いついたから女苑の言葉を途中で切ったはずなのに、いざ「何?」と訊かれると、背中の皮膚から滲み出るようにして生じた緊張が体を覆いつくして、伝えたかった言葉が真っ白に揮発してしまった。それでもとりあえず、「あの」と紫苑は口に出してみた。とりあえず話し出して自然と出た言葉が、そのまま伝えたい言葉になるのを期待した。
「……さっき、お寺の人としゃべってる女苑は幸せそうだったよ」
 女苑の眉がぴくりと動いた。動いたように紫苑には見えた。
「ちょっとだけ疫病神からずれてみて、本心から好いてくれる人ができるなら、それでいいんじゃないかって……私は思うんだけど、どうかな」
「……へぇ」
「ああ、でも、それはその、くよくよ悩むのをやめろって言いたい訳じゃなくて。というか、その、悩むことはえらいことだと思う。そうだよ、その、私は……女苑みたいにちゃんとした悩みを持ってないもん。私は、貧乏神としての自分が嫌いって状態に慣れすぎて、いっそもう自分はどうなってもいいんじゃないか、何をしてもいいんじゃないかって思うときさえあるし、だから……」
 紫苑は必死になってきれぎれの言葉を繋いでいった。すると突然、ふぅー、と女苑がかつて聞いたことがないくらいの深いため息を吐いたので、いよいよ頭の中から、伝えたかったことの断片すらもすべて吹き飛んでしまった。
「え、ごめん、ため息、その……私まずいこと言った、言ったのかな、言ったんだよね……」
「いや、別に……その」女苑は少し震えたような声で、「悩みを持ってたほうがいいなんて変な励まし方だなと思っただけ」と言った。
「……え、それどういう意味?」
「……ふふっ、いいよ、続けて?」
「あ……うん、なんか、傷ついたとか呆れたとか、そういうため息じゃないってこと」
「いやまあ、呆れてはいるけど。ほら、とりあえずいいから、姉さんもっと私のこと励ましなよ」
「……いや、もう、無理。何を伝えたかったのかもうぜんぜん思い出せない」
 いよいよ女苑は声を上げて笑い出した。それから、「なんでこんな急に間抜けなこと言っちゃったんだろうね」と、それまでの真剣な空気をごまかすように、早口でそう言った。うん、まあ、私たちってずっと間抜けなんだと思う。しょうがない。でも、たぶん女苑は「しょうがない」って言葉は嫌いだろうから、それは言わないままでいいや。
 その後すぐ、女苑は少し落ち着かない様子で辺りを見回してから、机の上に並んでいた六本の竹串を紫苑の方に押しやり、「私が姉さんの分も買ってあげたんだから、これくらい捨ててきてよ」と言った。
「あとついでにさ」
 そこで言葉を切った女苑は、財布をまさぐって一円札を取り出した。表面には満面の笑みを浮かべた大黒天様が描かれている。
「これで何か好きなもの買ってきて。もちろん私の分も」
「え……いいけど、でも、なんで私に任せるの」
「姉さんに任せちゃ駄目なの?」
「え、でも、私たぶん無理……」
「もう、ぐちゃぐちゃうるさい」
 女苑は物分かりの悪い子供に対してそうするようなため息をつき、それから紫苑の耳に顔を近づけ、「二つ離れたテーブルに座ってる人いるじゃない、見える?」と耳打ちした。
 目線だけでその机の方角を見ると、かなり華奢だが座高のある壮年の男性と、彼よりはすこし若そうな小柄な女性と、背恰好からしてまだ十歳前後という女の子の三人が座っていた。机の上には出店の料理に加えて、お猪口らしきものもふたつ置いてある。
「誰、あれ」
 紫苑が小声でそう訊くと、女苑は「私が住んでる家を昔持ってた人よ」と事も無げに言った。その一言で、紫苑は先ほど長屋の前で聞いた女苑の話を思い出した。もちろん話の細部は記憶から抜けてしまったけれども、とにかく、かつて女苑が表店の持ち主を破滅させて、あの長屋を手に入れたということだけは覚えていた。
「えっと……」
「何?」
「え、女苑、あの人に声かけようとしてるの?」
「うーん……どうしようかな」
「声かけてどうするの、謝るとか?」
「いや……謝るのは、無理だと思う」
「じゃあ何を言うの?」
「まだ考えてない」
「はぁ?」
「それをこれから私だけで考えるの」
「えぇ……何それ」
「だから、少しの間一人にさせてくれない?」
「別にいいけど……」
 率直に言って、紫苑には女苑の考えていることがあまり理解できなかった。そもそもここから見る限り、主人は店を持っていた時と比べたら慎ましい暮らしになっているのかもしれないけれど、見る限りそこまで薄汚い身なりをしているわけでもないし、奥さんなのか別の人なのかは知らないが女性、しかも子連れと夏祭りに来るくらいの余裕はあるのだろうし、今更女苑が何を伝えようが、過去の因縁を掘り返すだけの結果にしかならないような気もする。
 しかし、女苑を止める権利が自分にないことも、紫苑は理解していた。過ぎ去った時間にこだわりを持てる妹の姿が、少しだけ可哀想でもあり、同時にうらやましくもあった。今朝、雑木林の前で女苑に言われた言葉が今になって紫苑の脳裏に蘇る。どうして天子様とあっさり別れちゃったの? 積極性がないのは嫌いよ。そんなことを言われたはずだった。
 結局、私の積極性の無さってどこから来てるんだろう。過ぎ去ってしまったものごとへの無頓着はどこから来てるんだろう? いや、その答えに、私はもうずっと前から気付いてる。……かつては私の元にあって、今はもう失われてしまったものに私がぜんぜん執着できないのは、大切な物が、関係性が、いつもくだらない不幸で失われて、それでもう二度と取り戻せなくなるのは当たり前だって、最初からあきらめてしまっているからだ。あきらめるのは駄目なことなのかな……いや駄目じゃない、ちょうどよくあきらめられないと、貧乏神として生きていくのは途方もなくしんどいから。でも、「あきらめる」のはともかく「あきらめ続ける」のは寂しいことなのかも。もしかしたら、女苑は私にそういうことを伝えたかったのかもしれない。
 紫苑は「それじゃ、頑張って。応援してる」とだけ告げて、椅子から立ち上がった。それに対して女苑が何も言わずに頷いたのを見届けてから、屋台の列に向かって歩き出す。女苑から受け取った一円札は、左手の中に収めている。何らかの理不尽な不幸で失われると困るので、四つに折り畳んでしっかりと握りこみ、精一杯の力を込めている。

 若い女性が店番をしている射的の屋台の前で立ち止まり、どんな景品があるのか物色している最中、背後で「あー、もう!!」という甲高い叫び声がしたので思わずその方を見ると、坊主頭の男の子がかんしゃくを起こして、周りの子供たち数人に大笑いされていた。
「……」
 紫苑はなぜかその光景から目を離せず、その場に立ちすくんで眺めていた。するとそこで、社殿の中から霊夢がけだるそうに現れて階段を降り、どこか興奮状態になっている子供たちの集団をたしなめ始めた。「こうすればいいのよ」そう言いつつ坊主頭の子からくしゃくしゃの紙を受け取ると、細長く折り畳み、社殿のすぐ横に生えている木の枝に結び付けはじめた。どうやら坊主のあの子は、おみくじに書かれていた文言がよほど悪かったせいでからかわれていたらしい。子供たちはどことなく白けた顔をして散らばっていく。
「はぁ、全く……」
 振り返ってため息をついた霊夢が、一瞬、目を止めて紫苑のほうを見た。紫苑は慌てて目を逸らす。
「うわ、あんたも来てたのね……」
 そう呟きながら近づいてくる。逃げよう、という選択肢が瞬発的に頭によぎったけれども、すぐに打ち消した。そんなことをしたらかえってやましいことをしてると勘違いされてしまう。
「あ、その、久しぶり……ですね」
「そうね、久しぶりね。会ったのは天子と暴れてた時以来?」
「あ……そうだね……その……ごめんなさい」
「大人しくなったようで何より」
「うん……」
「……」
「……」
 もう自分から何を言っても怒られそうなので何一つ言葉が発せない、という状態に紫苑は陥っていた。もしかすると、今あのおじさんと話してるはずの女苑も、こんな気分でいるのかも……いや、そんなことないか。女苑はきっと、私よりずっとうまくやっているんだろう。さっきのお寺の人たちとの会話もそうだ。どうやってあんな風に、途切れていた時間を魔法みたいに継ぎ合わせて今までの関係性を取り戻せるんだろう。あれは絶対に女苑の能力だ。疫病神としての能力というよりは。私に備わってるはずもない。……いや、だから、あきらめちゃいけないんだって! なんだろう、霊夢さんに関する記憶って、一番はあれだ、居候の初日に私のせいで賽銭箱からお金が全部盗まれても何も怒らなかったっていう、あれとか、あとは、最終日にお守りをもらったこととか。
「……ねぇ、私の話聞いてる?」
「えっ?」
「あんた、お金持ってきてるの?」
「え、あ、ごめん、ちょっと考え事してて……」
「……」
「あ、はい、お金は持ってる」
「……そうなのね、意外」
「はい……」
「いや、もしお金持ってないなら、私の持ってる落雁をあげてもいいって思ってたんだけど、持ってるのね」
 親切をされているのか意地悪をされているのかよく分からず、紫苑は「あ、はぁ、なるほど」と意味の薄い返事をした。すると霊夢は思案顔になって「いや、持ってるならあげない、っていうのもなんか、嫌な奴よね」と言った。
「……そう、かもしれないね」
「そうよね」
 あっけらかんとそう言うと、霊夢は左の袂から薄い和紙に挟まれた落雁を取り出して紫苑に押し付けた。左手は一円札を握っていて使えないので、右手で受け取る。
「すぐに食べること。くれぐれも落とさないように」
「……どうもありがとう」
「どう致しまして」
 そう早口で言うと、霊夢は再び社殿に上がって障子の向こうに消え去った。
 嵐みたいだった。居候してたころ毎日しゃべってたはずなのに、まるで新鮮な会話の感覚だった。会話がちゃんと成り立ってたかどうかもあんまり自信が持てないけど。……でも、思い返せばあの人はいつもあんな感じの、せわしない人だった気もする。仲良しの霧雨さんにはいつもひっかき回されていたし、逆にひっかき回そうとしてうまくいかなくてイライラしてる日も多くて、他にも小人とか、狛犬とか、鬼とかこうもりとか、いつも誰かの面倒を見ていないと気が済まないみたいなところがあって、それでいて他に誰もいないところだとものすごくものぐさになる感じが……それくらいかな。結局私は、霊夢さんについてうわべのところしか知らない。どの表情の時に何を考えてるかとか、そういう内側のことはほとんど分からない。まあ、女苑のことも天子様のことも自分のことすらもよく分かってない私だから、いつまでも分からないままなのかもしれない。だけど、それでも、いつかどこかの時間で、霊夢さんとまたたわいもない会話をするチャンスは残ってるんじゃないか、一度関係性が切れちゃったひととはもうつなぎ直せないだなんて思い込む必要はどこにもないんじゃないか。
 それは何ひとつ根拠のない希望だけど。でも、絶望にさえ「貧乏神」ってこと以上のちゃんとした根拠を持てない私のことだから、希望に根拠がなくたって何にも問題はないはず。
 私は再び歩みを進めながら、霊夢さんからもらった落雁を口に運んだ。ほろほろと口の中でかけらが崩れていって、素朴な甘みが口全体に広がった。とてもおいしい。なんだっけか、この香り。米粉だっけか。
 
 ふつうに考えて、一円札一枚さえあればこの夏祭りで売っているものだったらなんでも買えちゃうな、って私は気が付いた。だから女苑の好きそうなぜいたくなものを買って行ったほうが喜ばれそうな気もする、だけど、今私は冷たくてさっぱりしたものを口に入れたい気分だったから、結局きゅうりの一本漬けの屋台の前で立ち止まった。せっかくの夏祭りなんだから、やっぱりここは私自身の欲に正直になろう。たぶんそれも積極性のひとつだろうし。いや、それはこじつけかも。
 屋台の奥には金髪の河童の子がいたけど、かわいそうに暑さにやられているみたいで、調理台にもたれてぐったりしていた。「ねぇ」と私が声をかけると、「え? 何本ですかぁ?」ってひどくやる気がなさそうな対応をされた。「二本お願い」って返事をすると、河童はけだるそうに立ち上がって、見たこともない樽っぽい機械の扉を開けて、もうもうと白い霧があふれるその内側に手を突っ込んだ。冷蔵庫なのかな。
 あ、やばい、値段いくらか確認してない。あわてて店の前の立て札を見たら、一本五銭、と書かれていて、私はほっと胸をなでおろす。よかった。まあ当たり前か、きゅうり一本が一円以上したらたいへんなことだ。ああでも、一円ってたしか百銭だから、おつりがたくさんになっちゃうな。それはちょっと申し訳ない気がする。
「ふぅ」
 軽くため息を一つついて、私はようやくぎゅっと握っていた左手をゆるめる。あの机といすがいっぱいある場所で女苑と別れてから、霊夢さんとしゃべっているときも休まずに力を込めてたから、もとからぜんぜんついてない左腕の筋肉がへとへとになっていたし、ずいぶんな量の手汗がにじみ出たのか、お札は握りこぶしの中でべとべとした感触になっていた。なんだか、お疲れさま、って自分に言いたくなった。机の上に鉄でできたトレイがあったから、そこにお札を放り投げる。……そこで、お札がべとべとしていたのが汗のせいじゃないってことに、私はようやく気が付いた。四つ折りになった一円札は、墨みたいな、真っ黒な液体でびしょ濡れだった。でも墨じゃない。その液体には卵の白身みたいな粘り気があって、だから、さっき放り投げた一円札と私の左手のひらは、今も何本ものねばついた線でつながっていた。
 ものすごい声の悲鳴が聞こえた、いや、それは誰かの声じゃなくて私の声だった。なんで。おかしい。何これ。もう私は夢中で、身に着けているエンパイアワンピースにどろどろの手のひらをこすりつける。もともとさっきこぼした醤油の点滴がぽつぽつと浮かんでいただけでそこ以外は真っ白なきれい生地だったのに、先割れして使えなくなった筆でなぐり書きしたみたいに、どんどんワンピースは汚れていって、それなのにいつまでたっても汚れは落ちない。いくらこすってもこすっても、手のひらからは液体が滲みだしてくる。鉄くさい。でも血の匂いじゃない。もっと、本物の金属を溶かして混ぜたみたいな、かいだことのない嫌な感じの匂い……。左手の甲を見た。指先からぽたぽたと液体が流れ落ちて、指の付け根に溜まった粘液はもう干からびて灰色になっていた。見たくない。でも見なきゃ。息をのんで、さっきから震えが止まらない手を裏返すと、手のひらの中央、縦に一筋走った線に沿って裂け目ができていた。真っ黒に光るどろどろしたものがそこから溶け出してる。こんなに痛々しいのに、なんでぜんぜん痛くないんだろう。
 一円っすかぁ……。あのぉ、もうちょい細かいのってあります?
 不意に声が聞こえた。さっきの河童の子の声。私は必死でその子を探そうとした。だけどどの方角にもいない。というか誰もいないし何にもない。屋台が目の前にあったはずなのに、あれだけたくさんお客さんたちがいたはずなのに、なんなら、私の背後に建っていたはずの神社もあとかたもない。ただ一面、何にも書かれてない真っ白な紙を無限にすき間なく貼り付けただけって感じで、その白色の中で、服を真っ黒に染めた私だけが、私は私の顔を見ることなんてできないけど、それでもきっと、いつもと同じように場違いな顔をして立ってる。いや、私だけじゃなかった。私の足元には黒猫がいた。左肘から重たさがいつの間にか消えてたのになんで気が付かなかったんだろう。
 黒猫も私と同じように粘液でずぶ濡れで、重そうな体でぴょんぴょん飛びはねようとしているけど、そのたびにべちょ、べちょ、って長靴が水たまりを踏んでるみたいな音を立てて床に落ちた。継ぎはぎはすっかり取れていて、むき出しになったその裂け目から、やっぱり私の手のひらと同じように、どす黒い液体がとめどなく流れ続けているのだった。どうしよう。でも、とりあえず治してあげなきゃ。私にとって、私と一緒になってから今まで何日もの何年もの時間が流れているのに、それでも私のもとから失われていかないのは、女苑とあなただけだ。こんなわけの分からない場所であなたを失うわけにはいかない。私は自分が着ているエンパイアワンピースのすそをたぐり寄せて手をかける。意外としっかり織り込まれてる生地みたいで、一生懸命に力をかけてるのに、なかなか破れてくれない。それでも少しずつ生地の編み目が崩れていって、とうとう、ぴり、と小さい音がしたのを皮切りに、ひざから下までの部分をびりびりに引き裂くことができた。包帯くらいの幅に引き裂いたその布を、黒猫の頭にやさしく巻いてやる。黒猫はとたんに大人しくなって、私の左肘によじ登った。それを見て私も少し落ち着いた。それにしても、どうしていつも付いているはずのあの継ぎはぎが取れてたんだろう。誰かが外しちゃったのかな。あの継ぎはぎはずっと昔に、珍しく私自身がやる気を出して、女苑に糸と端切れを借りて縫ったものなのに。ふと、黒猫の頭に巻きつけられた白い布を見てみたら、傷口の下からは液体がまだにじみ出ているみたいで、黒い染みが真ん丸の形に広がっているところだった。私は右手でそっと傷口を押さえてやる。私の右手からはこの黒い液体が出てないから大丈夫、左手からは相変わらず流れ出続けてるけど。ワンピースはすその部分がぼろぼろになってしまっただけで、丈はまだ十分に残っていたから、まだ引き裂くこともできた、でも、それでも私は、私の手のひらから流れ出る粘液を止めようとは思えなかった。この傷はふさごうとしてもふさげない。私はそのことを生まれた時から知ってた気がした。
 それからしばらく私は黒猫を抱きしめつづけた。そしたらある時、私の腕の中で黒猫が突然もぞもぞと動き出した。腕をしならせて、頭に巻きつけた布のすき間に食い込ませようとしてる。外そうとしてるのかな。でも上手くいってなさそう。なんたってその腕は、いつ見ても私の体みたいに細長いし、指だって一本もついてないから。もうそのころには布の表面に滲んでいた黒い液体はすっかり乾いて灰色になっていたし、だから、もう傷口はふさがってるだろう。私はかつて私自身がこしらえた結び目に指を差し入れてほどいてった。途中で、左手から垂れてくる液体のせいでちょっとだけ黒猫の顔を汚してしまったけれど、それでもだんだん固結びはほぐれていって、とうとう、ぱさり、と音を立てて、灰色に汚れた端切れが真っ白い床に落ちた。……でも、頭に開いた穴はふさがれていなかった。そこから黒猫の頭の中に詰まってる白い綿がはみ出してる。まずい、詰め直さなきゃ。そう思って手をかけた瞬間、傷口からいっぱいの糸のかたまりが噴水みたいに飛び出して、私は顔面にそれを浴びてしまって、思わず、うえっ、って声を上げて、顔と髪にからまった糸を右手で払いのけた。その間にも糸はするすると黒猫の頭から飛び出してくる。えんえんと繰り出される糸と糸との合間には、ときおり、私があの日とこの日の間にため込んできた小物たちが紛れ込んでいた。もうとっくの昔に溶けちゃったと私が思い込んでたいろんなものが散らばっていた。溶けちゃったと勘違いしていたものは、たぶん実際には溶けていなくて、でも思い出そうとしても思い出せなかったものたちだった。そんなものが私にはきっとたくさんあった。
 須崎さんから卒業して引っ越すのでもう会えないという話を聞いたのは冬の寒さが少しおさまってきたころで、針金で編んだ四つ葉のクローバーのブローチをもらった。そのとき、なぜか私はこれを最後まで伝えないのは不誠実なんじゃないかって妄想にとりつかれて、「実はあなたのことを私はずっと団地の給水塔みたいって思ってた」という話をしたら、須崎さんは想像してた通りとてもうれしそうにしていた。居候のために持ち込んだものなんて何ひとつなかったから、身一つで神社の縁側から浮かび上がろうとした私を、「ちょっと待ちなさい」と呼び止めた霊夢さんは、私に向かってお守りを、ぽん、と放り投げてよこしてきた。お守りって投げていいものなのか私には分からなかったけれど、それはともかく、お守りには良縁祈願って書いてあって、そのご利益が妙に気になった私が、「どうして縁結びなの」って訊いたら、霊夢さんはなぜか答えに詰まって、「理由なんてないわよ……厄除けはかわいそうだったから?」と返してきた。見たことないくらい寂しそうな顔をした天子様から渡された桃の形のペンダントは、ピンク色というよりははんこの朱肉の色に近くて、「何の石ですか?」って訊いたら「赤サンゴだけど、なんか天界じゃ見たことないのよね」って言ってたから、私はなんだかうれしくなって「サンゴは海で取れるんですよ!」って言って、そしたら「紫苑海行ったことあるの!?」なんてものすごく興味を向けられたから、ずっと前に沖縄をテレビで見ただけとは言えなくて「今度会ったとき話します」なんて言っちゃったんだった。どれもこれも大切にしたいと思ったはずの記憶なのに、いざ思い出してみるとなんだか間抜けな記憶たちばっかりで、でも思い出して悪いものってわけでは全然なかった。
 いまだに黒猫はえんえんと糸を吐き出し続けている。それなのに一向にしぼみそうな気配がしない。私の足元はいつの間にかカスタードクリームみたいな色に染まっていた。ひと続きの糸がとるにたらない記憶のかけらたちをからめとりながら、私の足元に折り重なっていく。私は黒猫から糸が出なくなるまでの時間を、ずっとこの場所で見守っていることにした。たとえそれが九年間くらい続くとしても。

 ようやく思い出した夏祭りの記憶は、思い出してみても、やっぱり私にとっては大切な記憶じゃなかった。というか、すぐに忘れちゃおうと努めたんじゃなかったっけ。不幸なことが私にはありふれすぎていて、べつにそこから教訓なんかが得られるわけでもないし、だからあんな出来事を覚えていようなんて思えなかった。
 でも、女苑にとってあの記憶は大切な記憶だったみたい。どういう意味で大切な記憶なんだろう。いやそもそも、本当に大切な記憶なのかな。もしかすると、大切な記憶でも何でもなくて、ただ単に女苑を悩ませ続けているだけの、たちの悪い記憶って可能性もありそう……そのことを思うと、さっきまで何にも気にしてなかったのに、「悩むことはえらい」なんてことを女苑に向かって言ったのがたまらなく申し訳なくなってきた。あれってもしかしたら、ものすごく残酷な言葉だったんじゃ、悩み続けるって、すごく苦しいことだから……でも、後悔しても、もう遅すぎる。当たり前だけど、私は過去を思い出せても、過去を好きに変えちゃうことなんてできなくて、今生きている時間の中でできることを、どうしようもないほど軽はずみに選んでやっていくしかないから。
 私は左肘から黒猫のぬいぐるみをつかむと、継ぎはぎをちょっとだけ剥いて、頭の裂け目から十銭硬貨を取り出した。今日の朝、鹿打ちの細長い人にもらったあの十銭硬貨。よくよく考えれば昼頃、エラーコインに全然興味を持ってくれなかった女苑が「これを有効活用しない?」とか言い出して、それが元で神社に来ることになったんだった。そんなことすら私は今まですっかり忘れてた。
 ふぅ、と一つ大きく息を吐き出して目を開ける。
「え、ちょっと、ねぇ、本当に、あんた、あんた……大丈夫?」
 あぁもう、河童の子がなんか泣きそうな顔になってる。かわいそうに。きっと驚かせちゃったんだろう。
「ごめんね」
 私はそう言うとゆっくり立ち上がって、河童の子の手のひらに十銭硬貨を放り込んだ。投げた感じがびっくりするくらい軽くて、私はもしかしたらこれとちょうど同じくらいの安っぽい感覚で、あの夜、ハサミを持った男の人に八つ当たりしちゃったのかもしれないな、って思った。それもただの憶測でしかないけど。
 私はそのままきゅうりの串を二本受け取って、さっきふたりで団子やらを食べた場所に向かって歩き出した。西日がまぶしかったから、左手でさえぎりながら歩いた。女苑が戻ってきたら何を話そう。あの夜のことを思い出したよ、って言ってもいいかも。そしたら女苑にはなんて言われるのかな。なんで今さら思い出したのよ? なんか、思い出しちゃったんだよね、別に思い出すつもりはなかったんだけど。はぁ? 馬鹿じゃないの? なんて。

8, 平成二〇年 ㈣
 アパートに戻る以外の選択肢は残されていなかった。結局屋台の食べ物は何一つ食べることができなかったので名残惜しくはあったのだけれども、それどころではなかったのだ。
 紫苑も女苑も、人間と違って紫色の靄がはっきりと見えてしまうために、男がどういう悲惨な目に遭っていたのか全く把握できなかった。ただ、とにかく地面に這いつくばっての阿鼻叫喚だったようで、紫苑の発火が落ち着いた後、すぐに懐中電灯を持った野次馬やスタッフがふたりのいる方へ向かってきた。「厄介ごとになるわ、帰るよ」女苑の鋭い一声で、ふたりは河川敷から走って逃げ出した。
 Peaceful由田の二〇五号室の扉を開けた瞬間、紅潮した頬にだらだらと汗を浮かべた女苑は、「疲れた……」と絞り出すような声で言い、そのまま服の山に飛び込んで横になった、と思いきや数秒後に跳ね起き、信じられない速さで寝間着とバスタオルとを用意すると、「ごめん先に入らせて」とユニットバスの中に消えてしまった。
 紫苑はその一部始終を見てあっけにとられたまま、とりあえず机に残っていたマドレーヌの最後の一個を手に取り、かじった。
「……あれ」
 口の中に甘さが広がっていくのと同じくらいの速さで、じわじわとその気付きは芽生えた。河川敷で手に入れたはずの狸のぬいぐるみが、手元にない。いつから持っていないのかも定かではない。
「……はぁ」
 結局、今日はなんの日だったんだろう、と紫苑は思った。朝起きて、河川敷に居づらくなって、女苑の家に行って、河川敷に戻って祭りを楽しもうとしたら、射的しただけで帰って、その射的の景品も無くしちゃったって、これの何が楽しいんだろう。まあいつも通りといえばいつも通りか。私の楽しいことなんて台無しで終わるのが常だから。
 ただ、何もない日でもないのだった。女苑と久々にたくさん喋ったこと、お昼ご飯にエビチリ弁当を食べたこと、マドレーヌを食べながらテレビを見たことなど、さして特別ではないが満ち足りた時間があったのも事実ではあった。全体的に見れば、河川敷で一日中何も考えずに過ごす普段の生活よりもずっと贅沢な一日だった、という気もしてくる。でも、女苑にとってはどうなんだろう。私があんなことしてなければまだ私達はお祭りを楽しんでいたのかもしれないし……紫苑はそのことが気掛かりだった。
「ねぇ女苑」
 紫苑は風呂場の扉に近づき、中にいる女苑に呼び掛けた。しかし返事はない。シャワーの単調な水音が聞こえてくるだけだった。紫苑は突発的に不安になった。確かに女苑は扉一枚隔てた向こうにいるはずなのに、まるで女苑がどこかこの部屋から遠く離れた別の世界へと行ってしまったような予感がした。
「ねぇ、女苑……」
 やはり返事はない。
「ねえ、女苑!」
 ほとんど自棄になって紫苑は叫んだ。蒸し暑い部屋の空気に悲壮な声が反響した。
「女苑!!」
「え、何!?」
 ようやく聞こえたようだ。困惑交じりのくぐもった大声が返ってくる。
「女苑!」
「うるさい! 聞こえてるよ!」
「今日楽しかった!?」
「……分かんないよそんなの!」
「なんか……その……発作……あぁもう、変なことしてごめん!」
 そこで、ドン、ドン、と背後の壁から乱暴な音が聞こえた。その言葉に拠らない示威が耳に入った瞬間、今まで全身にこもっていた出所のよく分からない熱が、頭の先からつま先のほうへと抜けていくのが分かった。紫苑はそのまま壁にもたれて、廊下のフローリングにへたり込む。
 いったい私は何をしてるんだろう。ずっと。
 そのまま、女苑がシャワーを済ませるまでの時間、紫苑は風呂場の前で何もせずに座り続けた。正確には何もしていなかったわけではない。うつむいたまま、いつものように答えの出ない懊悩にとらわれていた。次第に頭が痛くなってくる。建付けのあまりよくない風呂場のドアの下に開いたわずかな隙間からとめどなく湿った空気が漏れてきて、吸い込むと胸がより一層息苦しくなるような感覚に襲われる。
「ねぇ、開けていい?」
 突然女苑の声が聞こえて、紫苑は脳内の世界から引き戻された。
「え?」
「姉さん」
「何?」
「ドアの前にいるんでしょ」
「うん」
「……さっきのあれ、変じゃないと思う、別に。むしろ、なんかちょっとだけ勇気もらえた」
「勇気?」
「うん。なんか、あれ見てたら、考え過ぎずにその時々で思ったようにやればいいんだなって思った」
「……」
「ていうか、さっき私も変なこと言ってごめんね。悪かったわ。まあでも、私だって自分で分かってるのよ、しんどくなる瞬間が定期的に来るって。だから……愚痴くらい吐きたくなる時もあってさ」
「え、あ、そうだよね、ごめん……」
「違うっつの。謝るな!」
「え?」
「私はありがとうってことを姉さんに言いたい」
 その言葉を最後にドア越しの言葉は止み、代わりに無機質なドライヤーのモーター音が聞こえてきた。紫苑はドアの前に体育座りをしたまま、一人で頷いた。それから無性に笑みがこぼれてきて、それは女苑に向けたものなのか自分へ向けたものなのか定かではなかったけれども、とにかくひとりで笑みを浮かべている自分が少し恥ずかしくなり、結局もう一度うつむいた。顔中の筋肉が緩みきってしまったようで、うつむいたのにも関わらず、妙な笑みは止まらなかった。止めなきゃ、止めなきゃ、そう思い続けたその数分間は、確かに幸福な記憶として存在していた。

 由田河川敷まつりは二日間続けての開催だったので、紫苑は女苑の部屋に二泊し、祭りの撤収作業が終わった頃を見計らっていつもの河川敷へ戻った。土曜日の喧騒が嘘だったように、河川敷は元々の静けさを取り戻していた。よかった、ようやく居心地の良さが戻った、と紫苑は胸を撫で下ろした。
 そのまま上機嫌で川岸の付近を散策している最中、ヨシ原に紛れて黒い塊が落ちているのを見つけた。
「……」
 何か明確な予感があった訳ではないのだが、紫苑はなんとなくその塊に近づいてみた。果たして、それは黒猫のぬいぐるみだった。表面を撫でてみると、朝露を帯びて少しだけ湿っている。
「……なんでここにあるんだろう」
 給水塔さんが射的屋で撃ち落としてたはずじゃ。それか、男の人と揉めてるときにはずみでこんなところに飛んでったなんてことは……ありえないか。拾い上げて、地面に接していた部分の汚れをはたいてやり、まじまじと眺めてみる。やっぱり可愛いなぁ、と紫苑は思った。女苑はものすごくけなしてたけど。……まぁ、とりあえず、理由はよく分かんないけどなんやかんやで私の手元に来たってことだから、なんだろう、私にしては珍しくラッキーだ。
「……ん?」
 頭に何か白いものがついている。試しに触ってみるとそれは綿で、黒猫の頭の中から漏れていたものだった。紫苑はそれを慌てて詰め直し、それからかすかな失望を感じた。どこでどういうきっかけで付いた傷なのかは知らないけれども、やはり貧乏神は完全体の幸運というものを享受できないようになっているらしい。

「あの、ちょっといいですか?」
 紫苑が例の女性と再会したのは、その日の夕方のことだった。拾った黒猫を胸に抱えながら橋の下でうたた寝していたところ、向こうから突然声をかけてきたのだった。あんなことがあったんだからあの人はたぶんこの道を使わなくなるだろうし、もう会うこともないんだろうな、と思い込んでいたので、紫苑は一瞬自分の耳を疑った。まさか向こうから話しかけてくるとは。
「えっと……」
「ほら、私あれです、二日前の朝に土手で話した……」
「ああいや、まあ、それは知ってるけど」
「で、夏祭りでも会いましたよね?」
「……いつ?」
「射的屋で」
「……あ、ああ、うん、会った、会ったけど……何の用?」
「用事は……まぁ、その……」
 そう言い淀みながら、女性は紫苑の全身を真意の読み取れない顔で眺めはじめた。紫苑は寝転んだ姿勢のまま、内心凄まじい焦りを感じていた。射的屋で会ったことは会ったけど、いやでもそれはこの人にとってたぶんそんなに大事じゃなくて、きっとこの人は、遊歩道で私が燃えてるとこを見ちゃったんだ。目の前にいたんだから当たり前だ。なんで今まで気が付かなかったんだろう私も。それで気になって私のとこまで確認しに来たとか? いや、でも普通の人間がそんなありえないものを見たら、だいたいは見て見ぬふりするか幻とかのせいにするかのどっちかで、燃えてた当人に訊きに来るなんてばかみたいなことありえるのかな? いやありえるか。この人ちょっと変な人だし。
「間違ってたら申し訳ないんですが、あなたと、あなたの隣にいた女の人は一体何者なんですか?」
 女性は案の定そう訊いてきた。紫苑はがばりと上体を起こし、上目遣いで女性をにらみながら、なんで当の私にそんなこと訊くのよ、と内心で罵った。射的屋の前で会ったとき、女性に対して抱いた微妙な嫌悪感が、いま何倍にも膨れ上がって心を満たしていくのを感じる。そんなんだから、そんなふうに生きてるからあんたはあんな危ない目に合ったんじゃないの、絶対そうだよ。この人絶対私と同じかそれ以上の考えなしだ。……というか、よくよく考えてみると、そもそも私があそこで発火しなけりゃこんなこと訊かれてないし、そもそも私とあの朝しゃべったり射的屋で会っちゃったりしたせいで、この人が喝上げされちゃったって可能性もあるし……ってことはなんだろう、今までのごたごたも、今のこの状況も、とどのつまり、ぜんぶ私がまいてしまった種だったりして……。
「……えっと、どうなんですか?」
「えっ、あ、いや、違うけど」
「あ、そうなんですね。いやまあ全然全然いいんです。あれから家でいろいろ自分なりに考えてたんですけど、たぶんそういうことなんじゃないか、って私が勝手に結論を出しただけだから。まあ、間違ってても間違ってなくてもどっちでもいいので、これ、良かったらもらってください。助かりましたよ、本当に」
 そう言いながら、女性は肩掛け鞄のファスナーを開け、黄色くて細長い紙箱を取り出した。そのまま紫苑に押し付けてくる。おずおずと受け取ると、それは箱の大きさにしてはずっしりと重かった。表面には [菓子工房Soirée] と書いてある。
「えっと、これ、お菓子?」
「そうです、ケーキです、私駅前のケーキ屋でバイトしてて、あ、ソワレって夜会の意味です」
「あ、うん、分かった、ありがとう」
 とりあえず紙箱のシールを剥がして中身を取り出すと、プラスチックのパックに入ったパウンドケーキが出てきた。細かなひび割れの入った生地にはたっぷりのレーズンが埋め込まれていて、その表面は薄っすらとシロップでコーティングされており、甘い匂いに隠れて洋酒の匂いもほのかに漂っている。どっかで嗅いだ、この匂い……そうだ、女苑のアパートで食べたマドレーヌだ。
 気が付けば、つい数秒前まで紫苑が抱いていた女性に対する嫌悪感は食べ物を前にしてあっけなくしぼんでしまった。そもそも、この人はあの夏祭りの夜のことでいらない詮索をしに私のところに来たんだろう、とばかり紫苑は思い込んでいたので、ケーキをもらうことになるなど思いもよらなかった。それで拍子抜けしてしまったのだった。
「えっと……気に入ってもらえました?」
「え? あ、ああうん、すごくうれしい」
「あ、なら良かったです。……で、ちょっと気になってたんですけど、その黒いのって……」
「あっ」
 紫苑ははっとして、起き上がったはずみで地面に転がった黒猫を拾い上げた。
「いつの間にか鞄から無くなってたから、どこに行ったんだろうと思ったら……」
「いやいやいや、これ、その……今朝、たまたま拾ったの。盗んだとかそういうあれじゃなくて……返す、返すから、ごめん」
「あ、いや、全然それはいいです。あなたのものにしていいですよ」
「え、なんで」
「すごく大事そうに抱えて眠ってたから、私よりあなたの方が気に入ってそうだなって思って」
 女性はそう言うと優しげに微笑んだ。少なくとも紫苑にとって、それは優しげな微笑みで、その表情を見ているだけで、紫苑は少しだけ前向きな気分になった。結局そう、なんか、いっつも私は不幸な目に合うから私の周りってひどい人ばっかりだ、ってたまに思い込みたくなるけど、実際私がこれまで出会ってきた人でひどい人ってほとんどいない気がする。良い人って言い切れる人も全然いないけど。なんだろう、それなりに私のこと考えてくれる人たちだ。そういう人たちとちょっとの間だけすれ違いながら、私は幸せを補給して生き続けてるんだと思う。……ああでも女苑は別だ。女苑は絶対につながりの切れないただひとりの存在だから、「すれ違う」って言い方は当てはまらない。
「分かった、じゃあ、これももらうね」
「ええ、どうぞどうぞ」
「大切にできるように頑張ってみる。できるだけ」
 紫苑は黒猫の頭の傷を撫でながらそう言った。それに対して女性は笑みを浮かべて頷いたあと、一拍の間を置いて「ところで、どこが気に入ったんです?」と訊いてきた。え、そんなこと言われても、なんとなく可愛いってだけだし……でもそれ言ったらこの人なんか文句言ってきそうな雰囲気がある。悩んだ末、見たら誰だってわかる特徴だけどな、と思いながら「手足が細長いところが」と紫苑は言った。すると女性の目が急に輝いた。
「良いセンスしてますね!」
 はっきりとした口調でそう言われた。紫苑があっけにとられていると「あ、私がいるとケーキ食べにくいですよね、私これから用事あるんでそれじゃ」と女性は返事を待たずに帰っていく。その後ろ姿を見送りながら、紫苑は煮え切らない感情でいっぱいになっていた。やっぱりあの給水塔は悪い人じゃない、悪い人じゃないんだけど、なんか気に入らない。今後あの女性と再び話す機会が果たしてあるのか、まだこの時点の紫苑には分からなかった。全然無くていいような気もするし、まあ、あったらあったで面白いような気もする。
 紫苑は深いため息をつくと、再び草むらの上に寝そべり、黒猫を顔の前に引き寄せて見つめた。確かに一昨日の夏祭りは散々な記憶だった。それでも、形として手元に残ったものとしてこの黒猫があるのなら、もうそれでいい、全部許しちゃおう、そう紫苑は思った。ああでも私のことだから、どうせこの黒猫も他のみんなみたいにいつか溶けて消えちゃうんだろうな。いつまで私の手元に残ってくれるかわからないけど、願わくは、どうかこれからちょっとでも長い付き合いを……そんなことを考えてたら、いつの間にか私は眠りに落ちていた。
 私は夢の中の世界で、あの黒猫のぬいぐるみそのものだった。真っ白い空間に私はただ一人、ひもみたいな手足をぶら下げてたたずんでいる。夢の世界は現実に比べたらものすごくつまらない場所、だって床も白ければ空も白くて、私の他には何にもいない、何にもない世界……いや、それは本当は間違いで、後ろから誰かが泣き叫ぶ声だけが、ずっと聞こえていた。それはどう考えても私の声だったから、あんまり振り返りたくはなかったんけど、でも振り返るしかないな、って思って振り返ってみたら、やっぱりそこには、左手のひらからどす黒い液体を流しながら泣きじゃくっているもう一人の私がいた。着ている服は、それからぼさぼさの青い髪の毛は、もうすっかり真っ黒く染まり切っちゃって、へたりこんだ脚の周りには血だまりみたいな粘液の池が広がっている。かわいそうに。なんでこんなことになってるのかは私自身にも分からない。でも、何とかしなきゃ。だってあなたも私であることには変わりないから。私は頭に空いた小さな割れ目から、その中にある木綿糸を引き出しはじめる。やがて放たれた糸はあなたの体をゆっくりと包み込んでいく。途切れることなく伸びていくクリーム色の糸にいくつもつながっている記憶たちを、あなたは安心して眺めていればそれで大丈夫。きっと、これから先あなたの身に襲いかかるどんな不幸も、それを奪い取ることだけは絶対にできない。
 私の手には指が一本もない。だから、頭の中を探って糸の先っちょを探し出すのはすごく難しい。それでも、最初の糸口さえ見つけちゃえば、あとは面白いくらいにするするとこぼれてくる。
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100福哭傀のクロ削除
全体的にボリュームが多いので当然なのですが、それを踏まえてもちょっと状況説明が長く感じて、
でもそれが退屈にならない文章力がすごい。
比喩表現が共感しやすくてわかりやすいのかな。
時系列の転換を行いながら見せる構成による情報の出し方がとてもいい塩梅で、
長さに対して次が気が気になる内容で楽しめました。
大きく言ってしまえば在り方についてなのかな、うまく表現できないけどどことなく曖昧なようなでも話の筋は一つの方向にちゃんと進んでる不思議な感覚の作品に感じました。
不幸そうでそれほど不幸でもないちょっと不幸な境遇の中で生きていく依神姉妹がとてもよく、
やることやってるし結構悪態つくけどなんだかんだ面倒見がいい女苑と
やる気がなくて駄目なんだけどなんだかんだその駄目になる理由が納得できなくもない紫苑の二人がとても好きでした。
タイトルのセンスも素敵。
お見事でした。
3.100名前が無い程度の能力削除
 生活と思考が密接な相互関係を築いている紫苑の、昼行燈のようだけどどこか生々しい文章の表現が魅力的でした。シャツと拾った服を着ていること、虫なども食べること、場所を転々としながらもどこかに住むこと、そういった暮らしのなかで、生きていくためというよりも、そうやって生きてきたという軌跡がどこまでも地続きでつながっていて、人よりも長く生きる神様の思考がきれいに描かれていたように感じました。不幸を受け入れて暮らしていく中であれやこれや考えて、諦念を抱きながらもいやな気分ににはなるし悩みも消えない。それどころか長々と考えるせいで会話に齟齬も生じてしまう。そういう面も含めて紫苑なのだと納得がありました。
 忘却はそんな生活の中で自然と身についた対処法で、紫苑に限らず長命の者は皆持ちうる手段だと思います。ただその忘却を漫然と受け入れるのは寂しいと思うのも人間味のある複雑な感情で、紫苑はひたすら思考の渦にはまっている。だけど忘れた記憶も何かきっかけを掴めば手繰り寄せられる。大事なものは溶けずに残っていることもある。いろんなものが溶けてしまう彼女でも思い出の蓄積はあったのだと思うと少し救われたような気がします。
 黒猫は不幸の象徴ではありますが、紫苑にとっては離れることのできない友人で、良し悪しに関わらずずっと一緒にいるのだろうなと。彼女はそうやって生きてきた、その証のような作品であり、またそのことを綺麗に言語化できていないながらもどこかで理解している紫苑のわずかな変化が、これからも続いていくであろう不幸な生活に少しでも豊かさをもたらしてくれることを願います。素晴らしい作品をありがとうございました。
4.100植物図鑑削除
登場人物がどれもじっとりとした湿り気(褒め言葉です)を帯びているのがとても良いです。ただそこにいる(それは依神姉妹であれ市井の人間であれ)人の感情や存在の滴りをそのまま抽出して飲まされたような気がします。依神姉妹、という東方の文脈におけるキャラ性をある部分では肯定しある部分では否定しているようでとても小気味が良い。おそらく、この話は前作の赤蛮奇と同じく依神姉妹、という存在を要約することなく(調理していない、という意味ではない)私達の目の前に出してきたのだと思います。しかしお約束のキャラクターという枠に囚われることなく、わたしたちの隣りにいるような人物像を掲げてくれるのはとても良いと思います。この依神姉妹も依神姉妹に関わった誰かも、わたしたちの日常の延長にいる、私は強くそう思わされてしまったのです。
5.無評価名前が無い程度の能力削除
読みやすかったけど、内容についていけなかったです。よく分からなかったので無評価で失礼
7.100名前が無い程度の能力削除
これはおもしろい
8.100東ノ目削除
ストーリーとか表現とかをどんどん足していっている構成なのに破綻せずに一つの作品としてちゃんとまとまっているのは流石の力量と感じました。序盤のエラーコインのくだりあたりで出てきたぬいぐるみに入れていた小物が溶ける設定がまあ貧乏神だしなあという小ネタと思っていたのが、忘却する記憶と忘れても後から思い出せる思い出という話の主軸に回収されていくのがそういうことか! となりました。凄く面白かったです。
9.50名前が無い程度の能力削除
読み方を間違えたのか途中で迷子になってしまいました
10.80名前が無い程度の能力削除
鬱屈した日常や心持ちが続くかと思いきや、貯められていた幸いはしっかりとあり、決して不幸だけが紫苑と女苑の在り方ではないとラストで提示される構成がとてもよかったです。
紫苑と女苑の関係自体もちくちくしていて雰囲気が悪いながら、「その上で」を描き切っていたように思えました。
序盤~中盤が少し読むのが苦しかったものの、後半の面白さに繋がっていたとは思いました。
有難う御座いました。
11.100夏後冬前削除
何というかお見事でした。ここまでしっかりと紫苑のことを書き上げたということが素晴らしい。表面的な部分だけじゃなくて本当に深いところまで突き詰めないとこの展開は描けないのでスゴいと思いました。本当に。
12.100watage削除
もともと河川敷に住んでたのに夏祭りが来ると女苑のもとに避難してしまう紫苑の気持ちがすごく良くわかります。
13.100南条削除
とても面白かったです
紫苑の尋常ならざる平凡な日常がじわりじわりと迫ってくるようでした
あのエラー十銭硬貨をちゃんと使って経済の輪の中に戻したのが貧乏神だったというところもとても寓話的でした
なんだかんだ姉妹仲良くてよかったです
14.100名前が無い程度の能力削除
二回の夏祭りで、紫苑を取り巻く世界の優しさも厳しさも変わらないけど、紫苑が少しでも幸せな視点を見つけてくれたらいいなと思います。