「死なせて……」
その人間は僅かにそう口にして、もうなにも喋らなくなった。
ああ、ミスったな。私が求めていたのは死骸なのに。人間の死体は蟲たちの良い餌になる。冬に備え十分な肉を確保できれば、越冬する子らも飢えなくて済む。
だけどそいつはまだ息をしていた。本当にうんざりする事実。
気の早い猩々蠅たちが確認しそこねたんだろう。彼らは卵さえ産み付けられればそれでいいから。
既に死臭を嗅ぎつけて集まっていた死出虫達に道を譲ってもらい(彼らには後でたっぷりの礼をしないと)、こんな人気のない森に迷い込んだのはいったいどんな間抜けかと顔を覗き込む。
「……なによ、子供じゃない」
見てくれは齢十かそこらの子供。性別は……雌だろうか。頭髪が右半分だけ乱雑に禿げ上がっている。
目元の青痣が目立つ顔は土気色をしていたが、私が覗き込むに合わせてその左目が僅かに揺れていた。
で、死なせてくれって?
もちろんその願いを叶えるのは容易い。
か細い呼吸。あちこちから流れ出る赤い色。妙な方向に曲がった腕や足。
たぶんすぐそこの崖から滑り落ちたんだろう。よっぽど必死で逃げていたのか。それともわざと落ちたのか。
なんにせよこのまま半日も待っていれば、おめでとう。望み通り君は死ぬ。私は食料を手に入れる。
「……はぁ」
いつの間にか我慢できずに戻ってきていた死出虫達を追い払い(ほんとにごめん)、担ぎ上げた少女は驚くほど軽い。
手足は痩せこけて枯れ枝みたいだった。心臓が微弱に拍動してなきゃ死体を担いでるのと変わりない。
って。
いやいや私、なにをしてる?
この人間を、見ず知らずの死にかけの子供を……まるで助けようとしてるみたいじゃないか。
なぜ?
考えるよりも先に体が動いていたから理由なんぞ知らない。
蟲ケラの衝動。
蟲はいちいち思考して行動なんかしないんだ。だが私は思考する蟲でもある。
私は、リグル・ナイトバグは妖怪だから。蟲であり、蟲ではない。だからこんな人間を助けようとするんだ、きっと。
「ああくそ、頭痛い……」
偏頭痛。この頃は取り憑いたようにぶり返しやがる。
たぶん、考えすぎなんだ。もっと蟲らしく衝動で行動せよ、私!
とはいえ。
考えないわけにもいかない問題がある。
その最たるもの。この意外な広いものをどうするかってこと。
地べたに放っておくわけにも行かない。息の根が泊まる前に狼の胃袋行き確定だ。
とはいえ私は家なんか持っていない野良妖怪。まあ大抵の妖怪は家なんざ持っちゃいないが。
そんな人間らしい習性を持つのは少数派。どいつもこいつも人間みたいな格好のくせに……。
かといって……人間の郷に連れて行く気にもならない。
これもまた理由はなし。強いて言えば直感。蟲のしらせ。
となると、まあ、あいつのところしかないか。
「で」
獣臭いベッド(生意気にも洋風!)に少女を横たえる私を、非人道的な暗い声が咎めた。
森の中の小屋は光がささない。そのせいでまさしく闇の妖怪らしいシルエットがぬるりと姿を表す。
友人。あるいは腐れ縁。
ルーミアの鋭いギザ歯の隙間から恐怖の雄叫び――ではなく、呆れたような嘆息が漏れた。
「なんだってうちに連れてくるの」
「食わないでよ」
「めちゃくちゃだな。言われなくてもそんな不味そうなやつは食わない。それほんとに子供? ボケ老人にしか見えないよ。髪も半分禿げてるし」
「最近の子供はこんな髪型が流行りなわけ?」
「そんなわけない。まあこれはアレだよ。イジメか、虐待か、その両方か。誰かに無理やり剃り落とされたんだろう。この頃は人間と妖怪の境界が薄くなってる気がするよ。鬼畜の所業だね」
「あー、つまり、こいつは人郷で生存競争に負けたわけね。だからあんな森の中で死にかけてたんだ」
蟲のしらせがするわけだ。あのままご親切に郷に連れて行けば、今度こそこの子供は死んだだろうなぁ。
ああ、よかった。
そう思うのはなぜ?
生存競争は自然の絶対の摂理の一つ。それに負けたら死ぬしかない。
だけど人間は惰弱で愚かだ。打ち負かした奴を取り逃がすなんて阿呆のすることだ。
相手を打ち負かしたら咀嚼し、分解し、骨の髄まで栄養にしなくっちゃ。
そうしなくても生きていけるなんて、まったく家畜よりも怠惰な生物種。
……でも。そうならなくてよかった。
今、この子は眠っているのか。どんな夢を見てるのだろうか。幸せな夢を見てればいいと思うのはなぜだろう。
ただ、うーん、それにしては静かすぎるような……。
「……んー」
「なに、どうしたの」
「呼吸が弱くなってる気がするんだけど、人間って寝るとこんな具合なの?」
「は!? んなわけないだろー!? おまえこいつ拾ってから何か食わせてやったのかー!?」
ルーミアが血相を変えて叫ぶ。大袈裟なやつだな。
「まさか。さっき拾ってきたばかりだもん」
「じゃ弱ってるんだよ! お腹減いてんの! わかるでしょ普通!」
「わからないよ人間のことなんか」
「なら拾うなっ! ああもう、私は井戸で水汲んでくるから! そこの干し肉食わせてやって! はあ、せっかく手に入れたのに……」
ブツブツ言いながらルーミアが出ていく。
あいつ、こんなに人間に詳しかったんだな。そういえばこの家も人間から譲ってもらったとか(分捕ったんだったかな?)。
とにかく干し肉を少女に与える。与えようとする。が、口には含むものの噛みちぎらない。無理やり口の奥に突っ込ませてみたが、ひどく咳き込むだけだった。
そうこうしてるうちに桶いっぱいに水を汲んだルーミアが戻ってきた。
「ダメだルーミア、どうしよう」
「なにが」
「こいつ顎が折れてる。食わない」
「はぁ……あのね、だったらリグルが噛みしだいてあげればいいでしょ! ほんと人間に興味ないくせになんで拾ってきたわけ!?」
そんなの私だって知りたい。いちいち蟲の衝動に意味なんかない。
本当に?
全ての蟲たちがそうであるように、生命の行動は遺伝子のプログラムに従う。つまり全ての行動には意味があるってことだ。
とはいえ。私は妖怪で、遺伝子なんてくそくらえで。じゃあいったい、私の行動は何によって規程されている?
……干し肉を喰む。口の中にじわり広がる塩辛さ。ああくそ、しょっぱいな。
「んべ……ほら、食べな」
「おまえ口に毒とか持ってないよなー?」
「蟲の唾液ってのは殺菌効果があるもんなのよ」
もっともそりゃ蜘蛛とかの話。私のつばぺっぺにどこまでご利益があるのかは知らないけど……ずいぶん柔らかくしたつもりだった肉を、少女はゆっくりゆっくりと嚥下していく。ルーミアが適宜水を飲まし、私が新しい欠片を食わせる。
それも四つめで口が開かなくなり、今度こそ穏やかな寝息を立て始めた。なるほど確かにさっきは息が弱まりすぎだった。
「これでもう死なない?」
「なわけない。こっからが大変よ。顎が折れてるんだから三食ぜんぶこっちで面倒見てやるしかない。ていうか折れてんの顎だけじゃないでしょ。片手と片足もだっけ? じゃあ下の世話もしてやんな。糞尿を放置するとそこから雑菌が入って死ぬよ。できれば体も拭いてあげたほうがいい。くれぐれも優しく」
「詳しいね」
「新鮮な肉にありつくには人間への理解を深めるのも大事なの。私グルメだから」
それは人間と仲良くなって肉を分け与えてもらってる、ということだろうか。
それとも生きたまま人間を管理して鮮度を保持してる、ってことなのか。
不穏な言葉を残し、ルーミアが立ち上がる。投げ渡された桶を慌てて受け止めた。
「じゃ、せいぜい頑張って」
「え」
「なにが"え"だよ。自分で蒔いた種は自分で面倒見るのが当然」
「でもルーミアの家でしょ」
「物置みたいなものよ。ボケた爺さんに押し付けられたの。今日いたのはたまたま。運が良かったわね。私は運が悪かったけど。どうせ貰い物だし好きに使っていいよ」
困ったな。引き止める理由が見当たらない。
そもそもルーミアがここまで面倒を見てくれるなんて思わなかった。おおかた目の色を変えて捕食対象認定するだけだろうと。
なんだか悔しい。まるで私が馬鹿な子供みたい。いや、その通りか……。
「あ、そうそう」
後ろ手に扉を閉めようとしていたルーミアが、振り返る。
「殺す気になったら、また教えて。どうせ人間の捌き方も知らないんでしょ? その時は教えてあげる。なるべく太らせといてよ」
パタリ。扉が閉まった。
やっぱりさっきの言葉は鮮度管理の方だよな、と腑に落ちた。
◯
いつからだろう。蟲たちとすれ違うようになったのは。
リグル・ナイトバグは、私は、蟲たちのリーダーだ。
誰が決めたわけでもない。私はリーダーとして生まれつき、蟲たちもそれに従う。疑問の余地はなく、疑問を感じたこともなかった。ずっとずっとそうだった。
けれど、ただの人間と現人神の間に途方もなく差があるように、妖怪である私と蟲たちとの間にも大きな隔たりがある。
蟲は大地に生まれつき大地と共に死んでいく。
しかしこの妖怪は?
私は天敵に怯えることもなく、餓死の危機にさらされることもなく、子孫を残そうと番を求めることもない。
よって私は大地に還ることもなく、目的も無しに彷徨う空虚な魂。
私は何者なんだろう?
そもそもが「私」ときたもんだ。蟲たちは「私」なんぞというあやふやな認識を持てないし、持たない。
さりとて人でもない。人は蟲を殺す。踏み潰し、叩き潰し、毒を撒き、森を刈り取る。私は人間が嫌いだ。私は人にはなれない。
蟲ではない者。
人ではない者。
冬の訪れと共に死んでいくこともできず、遊ぶ童に踏み潰されることもできない者。
それが私。
……頭が痛い。万力で締め上げられるようにキリキリと。
正直、気がついている。この頭痛は蟲たちのことを考えるとやってくる。私を否定するように、リーダーたりえない私を苦しめるように。
こんな風に悩むことじたいが馬鹿げてる。生に必死な蟲たちに悩む暇などないのだから。
そういえばこの頃は妖怪と人間の境目が薄くなっているとルーミアが言ってたな。じゃあ私は蟲よりも妖怪よりも人間に近づきつつあるんだろうか。
いや、ルーミアの言葉は妖怪じゃなく人間の話だったか……。
「ああ、起きてたの?」
思考に耽りすぎた。ベッドに横たわる少女の目がとうに開いて、こちらをじっと見つめてくるのにさえ、気が付かなかった。
昨日ルーミアが帰ってから一度も目覚めなかった分、土気色だった顔色はだいぶマシになっていた。
「私はリグル。蛍様の妖怪。君、これから私の夕餉になるんだよ」
反応なし。
右側の目だけひくついてたけど、たぶん青痣が痛むだけだろう。こいつ私が妖怪だって信じてないのかな?
「ほら見える? これ、触覚。動いてるでしょ? 人間じゃないって証拠」
やはり無反応、無感動。
ふつう自分が妖怪に出くわしたら涙目で取り乱すものだ。そりゃ私は弱小妖怪の部類だけど、人間一匹くびり殺すくらいなんてこたない。ビビらないのは白痴か老人くらいのもの。
とはいえこの子は頭がボケてるようでもない。じっとこちらを見つめる瞳には意思の光が宿っている。私が恐るるべき妖怪と理解しながらの無反応か。
さりとて、舐められてる時のイラつきも感じない。敵意があればすぐにわかる。
まあ、感性がズレた人間もいるもんか。そんなだから人間同士の生存競争に負けたんだろう。
人の世も蟲の世もどこであれ、変わり者とは鼻つまみ者だ。
「あっそ……」
まったく拍子抜け。べつに驚かせたかったわけじゃないが、こう無反応だと手応えってものがない。
「うんとかすんとか言ったらどう。それとも言うべきこともないほど私はつまんない妖怪に見える――」
いや違うか。遅ればせながら理解する。
こいつ、喋れないんだ。なにせ顎が折れている。下手に口を動かすと激痛が走るだろう。
そう思うと確かに口元がもごもごしていた。なにか必死に言葉をひり出そうと……痛みに顔を歪めながら、そいつは口を開いた。
「あ……」
「あ?」
「あ……ぃ、が……ぉ……」
「なんて?」
「ぅ……」
まったく意味不明。喋るだけ体力を消耗するし、黙らせておいたほうがいいかも。
「もういいから。おとなしく寝てな」
さっき起きたばかりだけど、怪我人に寝る以外の仕事もあるまい。それくらい私でもわかる。
……はずだった。
ぐぅ、という間抜けな音に抗議を受けた。今のは腹の蟲がなる音……それくらい、わかる。
「はいはいわかったよ! 寝た後は飯ね! そりゃそうでしょうとも! 水汲んでくるからちょっと待ってな! ああもう涙目にならない! 怒ってないから!」
とにかくあの干し肉は塩辛すぎる。水がないとろくに受け付けない。
立ち上がり……マントの裾を掴まれた。はぁ……次はなに?
「ちょ、ちょっと。離してよ、君のために水汲んでくるんだから」
そう言っても首を横に振るばかりで埒があかない。私に見捨てられると思ってるのか。本当に弱っちい生き物だ。
とにかくなんとか引き剥がして井戸に急ぐ。いやべつに急ぐ必要もないのだけど、あの涙目だ。置いていく私が悪者みたいじゃない。
鶴瓶が私の手を離れ、井戸の底へ至る闇の中に落ち行く。
ぼちゃり。深いところで音が響いた。
きり、きり、きこ、と鶴瓶を引きあげる単調な音色。
まったくなにやってんだろな、私。そもそもあの人間は死にたがっていたんだ。どさり。こう面倒を見てやる必要があるのだろうか。あのまま死なせてやるのが――
どさり?
「なによ、今の音」
気のせい……じゃない。
そこそこの大きさのものが落ちたような衝撃音だ。ちょうど人間の、子供くらいの。
ああ、くそ。
なんでこう次から次へと! そしてなんで私はこうも急ぐ? なんでこうも胸騒ぎがするのよ! 蟲のしらせばっかり!
慌てて駆け戻ると、案の定ベッドの下に落っこちた人影がいた。自分でベッドから出ようとしたの?
「なにしてんの!? 動いちゃダメだってわかんない!?」
とにかく抱き起こすと酷い汗だった。おまけにガタガタと芯からの震え。浅い呼吸。
頭でも打ったの? いや大した高さじゃない。この程度なんてことないはず。
じゃあ、でも、これはなんなの? ルーミアはなにも言ってなかった!
「ねえどうしたの!? 大丈夫!?」
彼女を抱きかかえる胸元の辺りに脂汗が染み込んでいく。
とにかくこんな地べたの上じゃダメだ。ベッドの上に戻すが、これも一苦労。
昨日はあんなに軽く感じたのに、意識が乗っているとめちゃくちゃ重い。
それから……いや、もう、できることなんかない。
虚ろな瞳。肥大化した瞳孔。蟲にはないもの。震える手を握る。虹彩の鮮やかさがよく見えた。こうして顔のパーツだけをじっとみていると人間も蟲もそう変わらない遺伝子の表現型。
その息苦しい時間がどれほど続いたのか。気がつくと震えは治まっていた。
「……落ち着いた?」
どっと疲れた。いったいなんだったのよ。世話してるこっちが倒れそう。
「そういえば水を汲んでる途中だっけ……」
立ち上がるとまた掴まれる。今度はマントじゃなく、服をじかに。
「ちょっと」
怯えたように首を振られても、困る。
「なに……行くなってわけ?」
こくり。首肯されても……その、なんだ。困る。
とはいえ強引に取り残してまたさっきみたいになってもさらに困る。
「……わかったよ。ようするに一人にしなきゃいいんでしょ」
指を鳴らし、蛍たちを呼びつける。この小屋は暗いからちょうどいい。
程なく、文字通り蛍光色の灯りが窓から入ってきた。蠢く夜の星座のように、くるくるくるくる、秒間瞬き姿を変える光のアート。
すぐにこの子の視線も釘付けになった。ま、当然ね。蛍様が出て喜ばない奴なんかいない。
「あのね、私は君のために水を汲んでくるんだから。ちょっとくらい待ってて。それまでは蛍たちが一緒にいるから。私は蛍の妖怪で、じゃあ蛍も私みたいなもの。でしょ?」
無言。
むむむ、これでもダメなら……と思ったが、単に蛍に見とれていただけらしい。慌てて私に向き直った瞳は好奇心に輝いていた。
それからハッとしたように、こくりと首肯。
「よろしい」
また外に出るともう日が暮れていた。晩夏の宵時の空気、ぴりりと寒い。
釣瓶を引き上げる間中は気が気じゃなかったけど、今度は何も起こらなかった。
で、そもそも食事をするって話だっけ?
「はぐ……ふぉっと待ひな」
またあの塩辛い干し肉を噛みしだき、食わせる。
蟲を育てる人間はいるけど人間に給餌する蟲は珍しいだろうな。
「んべ……ほら、ちゃんと食べて」
もくもく、と折れた顎を気遣いながら、じれったそうに欠片を飲み込んでいく。
頃合いを見て水を渡す。片手は使えるようで自分でごくごく飲んでいた。
とても死にたがっていた人間には見えない生命力。
「食べたらさっさと寝な」
またしても、無言。それとマントの裾を掴まれた。あくまで控えめに。
たぶん私になにかしてほしいんだろう。立ってるものは妖怪でも使え、か。生物の適応ってのは恐ろしい。
「はいはい次はなに? 子守唄でも唄ってほしいわけ?」
もちろん違った。難題だ。腹の蟲が鳴ってくれるわけでもない。
結局、控えめに膀胱のあたりをさする仕草でやっと理解できた。
「……おっけ。なるほどね」
そういえば下の世話をしろとかルーミアが言っていた。
ま、そりゃそうだわな。あんなに水を飲んだら蝉だって尿をだす。
「厠でするのは無理でしょ。ここでしちゃいな。べつに気にしないから」
とはいえベッドの上で垂れ流すのもまずいだろう。
適当に小屋の中を物色すると埃を被った皿が見つかったので、なるべく深めのをいくつか持ってくる。
どうせルーミアは使ってないし(あいつは手づかみでも気にせず食う)、構うこともない。
「ほら身体起こして。掴まって。そうそう上手。大丈夫よもっと体重かけて。私は妖怪なんだから。それにうんちもおしっこも気にはしないわ。ていうか人間の排泄物は蟲には貴重な栄養源で……いやそんな嫌そうな顔しないでよ! 悪かったってば!」
ああもう、こっちだって手一杯なんだ。
とにかくなんとか身を起こして、次は……
「あー、じゃあ下脱いで。女の子同士だし恥ずかしくないでしょ」
べつになんてこと無い要求のはず。けれど予想外に強ばる表情。
あれ?
そんなに私、信頼されてない?
そりゃまあ服は男物とか頓着しないし、髪もショート気味にはしてますが! 自分で整えてるんだから仕方ないでしょ!?
って。
まあ、うん。もちろんそうじゃなかった。
どうせ尿意(あるいはもう片方)には逆らえない。なんとか脱がすのを手伝ってやる。少女の痩せた下半身があらわになる。
それでようやくわかった。酷いもんだ。
「……ちっ」
たぱたぱとオレンジがかった液体が器に溜まっていく。
正直言って予想はしてた。思ってたより碌でもなかったが。
けれど……それがなに? 人間の事情なんざ私にゃ関係ない。知ったこっちゃない。その通り。
それからも色々してやった。
おしっこ捨てたり、股間を拭いたり、ついでに全身も拭いたり(もちろん別の手拭で)。
ようやく寝息が聞こえてきた頃にはもう夜はとっぷり深けて、こっちはぐったり潰れてて。
「あぁぁあ……やっと寝たか……」
ほんとうに、なぜ人間なんかのためにこんな苦労を?
考えても答えは出ない。頭が痛くなる暇もなかった。なにせ考えてるうちに私まで眠ってしまったから。
◯
烏兎匆匆とでも言うべきか、あの子を拾ってあっという間に一週間が経った。
状況は相変わらずで、彼女は喋れないし、歩けないまま。ただ顔の痣は少し引いてきたかな。剃られた半分側の髪もちょっぴり伸びた。
他に良いことといえば、口にする干し肉の量が増えてきたことくらい。
最初は欠片を少し食べる程度だったのが、今はまるまる一つ食べられるようになった。
ただ、おかげでいちいち噛みしだいてやるのが面倒になってきた。
「そーら朝飯の時間だよ」
食事時以外は蛍たちと遊んでるようだけど、こうして声をかけるといつもぴたりと中断し、申し訳無さそうな顔で縮こまる。
世話になるのを遠慮してるんだろう。
「片方腕が使えないんだからどうしようもないじゃない。だばだば溢されても困るし」
そう言って聞かせてもこの態度だけは一向に良くならない。生来の性格かしら。
「んべ……はい。人間ってどれくらいで骨折とか治るの?」
ふるふると首が振られる。そりゃ知らないよな。私も自分の骨が折れたらどうなるかなんて知らん。
まあこの食事風景も慣れたもの。向こうが一生懸命んぐんぐ食べる間、こっちは悠悠閑閑もぐもぐやっとく。
すると食べ終えた頃に次が渡せる。あんまり効率を上げすぎたせいで顎が疲れるくらいだ。
まったく、慣れとは恐ろしい。
「あ、そうそう。今日はちょっと出かけるから。干し肉それで最後なのよ。ちゃんとお留守番できる?」
ためらいがちに、こくり。首の根元から顎が引かれる。そうしないとまだ痛むんだろう。
こっちもほっと一息だ。また前みたいになられても困る。
それに留守番には蛍もいるし、この子には伝えてないけど外に羽虫の小隊も配備してある。
こんな山小屋を襲撃する酔狂な奴もいないだろうが、心配はあるまい。
そうして最後の一切れを食べさせ終え、ついでにおしっこの手伝いをして、ようやく買い出しに出られる態勢ができた。
「じゃ、良い子で待っててね」
去り際、手を振る彼女の姿が見えた。私も振り返す。
まったく人間みたいだな、こんなんじゃ。
苦笑しつつ扉を閉める――と、同時。地平線の向こうから雷鳴の響き。今はこんなに晴れてるのに……天気、崩れるのだろうか。嫌な感じだ。
「……早く戻ってこよっと」
幸いにもこの小屋は人里からほど近い場所にある。まあ元は人間が建てたんだろうし当然か。
そういえばここ、何目的の小屋なんだろう? ルーミアは何も言ってなかったけど。
なんて。
しょうもないことを考えてるうちにもう、郷に着いていた。人間の足ならともかくこちとら空飛ぶ蛍様。
それにしてもこの人いきれ。特に市場通りは凄い人出で、ただ立ってるだけで右に押され、左に押され、くらくらする。蟻や蜂の巣もかくやだ。
しかも蟻や蜂は遺伝子に従って種のために、巣のために淡々奉仕するけれど、この場の人間たちはそうじゃない。
誰もが己の利益を得るため他者に先ずる機会を虎視眈々と伺っているのだろう。ぞっとする。妖怪とばれないよう頭巾をしてきてよかった。
「干し肉あります? あんまりしょっぱくないやつ」
用事は割合すぐに済んだ。思ってたより高かったけど、どうせ金なんか持ってても使い道はない。
見上げた空はまだ薄く雲がたなびく程度。今帰れば驟雨に蜂合わせることもない……。
「――ですって、聞きました? 神隠しだそうですよ」
なぜ、その時すぐに立ち去らなかったのか。
なぜ、耳に入った噂話が気になってしまったのか。
蟲の知らせ。
しかも今回は嫌なやつだ。今すぐ去ねと理性が叫ぶが、直感が足を縛り付ける。
「うちの子と同じくらいの女の子よね? 怖いわぁ」
「まあ……でもあそこの夫婦はほら、あれじゃないですか」
「ちょっと! そこまでは私は」
「だけど、神隠しだかなんだか……本当にそうなら、あの子にとっては幸運なんじゃありません? ご存知でしょうあそこの奥さん、躾とか言って髪を半分剃り上げたとか……顔が歪むほど殴ったり……」
「旦那さん、巫女に頼むって喚いてたそうだけど」
「あの二人が退治されたほうがよっぽど世のためですよ」
「シッ……大きな声で言わないで。バレたら後で因縁つけられるわよ」
「聞かれやしませんよ。どうせあそこの夫婦は昼間から飲んだくれてるんだから……あら」
気がつくと、私は。
その二人の前に立っていた。
いったい私はどんな顔をしていたのやら、こっちを見る二人組のぎょっとする表情が間抜けだった。
慎重に、素知らぬ声で――でもやっぱりそうもいかなくて、ひどく重々しい声になって。
「その話、詳しく教えてもらえます?」
そうして、二人は一も二もなく教えてくれた。快く。
◯
これはただの衝動だ。
怒り、苛立ち、憎しみ、あるいは単なる嫌悪感。
問題はその衝動が、この私の衝動が、いったいどこから来てるかってことだ。
ああ、痛い。頭が割れるようだ。
「だからよぉ! さっさと売っぱらっちまえばよかっただろうあんなガキ!」
その家を見分けるのは実に簡単な仕事だった。
怒声に罵声、それだけじゃない。その家からはひどいにおいがした。
人間には嗅ぎ分けられないだろうが、私の鋭敏な触覚が確かに捉えるひどいにおい。
負のにおい。
欲望のにおい。
見せかけのプライドと安っちい傲慢を暴力で塗り固めたにおい。
人間の嫌な部分を煮こごりにしたようなにおいだ。
「知らないよ神隠しなんか! てめえの子供に手を出すようなろくでなしは黙ってな!」
「な、なんのことだよ!? だいたい神隠しだなんて言うがな、おまえの躾がろくでもないから逃げ出しただけだろう!?」
「なんだと!? 死んじまえこのろくでなし!」
「こっこのクソアマ! 誰の家に置いてやってると!」
なにかが割れる音。誰かが打ち据えられる音。物音。騒音。雑音。
うんざりだ。一秒だってこのにおいに耐えられない。
傾いた扉を蹴破り、クソ野郎二人を見下ろす。
呆気にとられてんのか口をぽかんとあけて。馬鹿みたいだな。
「な、なんだよてめえ……」
今すぐ殺してしまわないよう息を吸い込む度、あのにおいが鼻についた。それがひどくイライラするんだ。
本当はこんなのと口を利くのはごめんだったが、どうしても一つ、聞かなくちゃならないことがある。
「なんとか言えよクソガキ!」
「黙れ」
「ひっ……なんだこりゃっ、む、蟲がっ。こいつらどこから――」
「答えろ。おまえたちは人間のくせになぜそうも残酷になれる? 妖怪でもしない鬼畜の所業を平気でする。それはなぜだ?」
「蜂が! あんた蜂がっ、蜘蛛がっ、ごきぶりっ、ひぃ……蟲がっ! 蟲ぃ!」
「助けてくれ! なんなんだ許してくれよぉ! 何も知らねえよ俺は! ひぃい! 登ってくるなぁっ」
「答えろ! なぜだ!?」
なぜ。
ああ、なぜなんだ?
なぜ私はこいつらを殺せない?
殺すのは容易い。今も連中の全身を這い回ってる毒蟲の中には、一刺しで人など容易く殺せる者も混じっている。
私が彼らに命じれば――いや、皆の手を汚さずとも、この手で直接首をへし折ったっていい。
そうしないのはなぜだろう?
ちくしょう。
こうなるとわかっていて来たのはなぜだ?
気分でも晴れると思っていたのか? 頭痛が治まるとでも期待してたのか?
真逆だ。怯え狂う夫婦を見てもちっとも気分は良くならない。むしろ吐き気が湧いてくるばかり。
なぜだ。
なぜ、なぜ、なぜなぜなぜ……。
私は妖怪じゃないのか?
こいつらは人間じゃないのか?
なら、妖怪は人間を殺すものだ。そうじゃないのか?
ああクソ、頭が痛い。脳みそを直にかき回されているみたいだ。
あるいはこいつらを殺せば良くなるのか?
いや、きっとヘドロのような憂鬱が待ってるだけだ。
それがわかるから、私はこいつらを殺せないんだ。
しかしなぜそんな気分になるのかはわからない。それこそがこの頭痛の元凶だというのに。
「恙虫に咬ませた。数日は地獄の苦しみを味わうだろうけど、死にはしない……って、もう聞こえてないか」
全身を数百匹の蟲たちに這い回られ、二人はとっくに気を失っていた。
いいさ。どうせ答えなぞ期待してない。それより一刻も早く悪臭から逃げ出したい。
外へ駆け出る。またしても雷鳴が轟いた。青空を鈍色の雲が覆っていく。余計なことに時間を取られすぎた。
雨。
胸の底がムカつく。べつにあんな奴等どうでも良かったのに。人間が勝手に人間を痛めつけた。よくある話だ。そんなことがどうしてこうも苛ついたのか。
蟲であれば苛立ちなど覚えない。同種が真横で踏み潰されたとて、素知らぬ顔でその髄液をすする。生きるというのはそういうことだ。
ならこの苛立ちは、ムカつきは、いったいどこから来るっていうの。
しとどに降る驟雨が大地へ染み込んでいく。人里、喧騒、全てが遠のいていく。
代わりに近づいてくるもはや見知ってきた小屋が、ついさっき出てきたばかりのはずの小屋が、妙に鎮んで見えた。
「……ただいま」
蛍たちが闇の中でふよふよと翔んでる。眠る少女の周りでそれは、肉体から抜け出た魂のようにも見えた。
雨に濡れて冷えた手で、そっと彼女の手を握る。目を覚まさない。いったいなにを期待したんだか。お礼でも言ってほしかったのか。
ただ。
そんなどうでもいい考えはすぐに吹き飛んで、消えた。
……熱い。
ずぶ濡れで十分冷え切ったと思った私の身体に、ぞくり、駆け抜ける寒気。
だって熱いんだ。熱すぎる。握った手は、額は、火傷しそうなほど熱をもち、浅く繰り返される苦しげな呼吸。
これは尋常じゃない。それくらいわかる。
「ちょっと……なによこれ。どうしたの……?」
聞いて答えが返るわけない。買ってきた干し肉の束が床に落ちる音、妙に遠くで聞こえる。頭が真っ白になっていく。
どうすればいい。
どうしたらいい?
とにかくルーミア、ルーミアだ。あいつならなにかわかるかも。
かといって住所不定の妖怪……足の早い蟲たちを探査に出すが、見つかる保証はない。
――自分で蒔いた種は自分で面倒見るのが当然。
あいつの言葉だ。ちくしょう、それが置き土産か。
とはいえたしかに、今は誰にも頼れない。なら私がどうにかするしかない。
といって……なにができる?
とりあえず干し肉を噛みしだいて与えてみるが、受け付けない。つまり初めに拾ってきた時より酷い状況なんだ。
おまけに水も飲まない。
けれどこの熱だし、酷く汗もかいている。無理にでも水は飲ませたほうが良い気がする。これもまた蟲のしらせ。
そうだ。蟲と同じ方法はどうだろう? 手拭を水で湿らせて口に持っていく……これはよかった。
蛍が水を飲む時のように、染み込ませるように水を飲ませる。ゆっくりと。
全身の汗も拭き取る。これはいつもやってることだ。だいぶ顔色が良くなった。いや、変わりはしないか? 考えすぎている。落ち着け。
ええとそれから……それから……もう、できることは無かった。
あっさりと私のできることは尽きた。
せめて手を握り、静寂の中で雨の音を聞く。
本当に静かだ。
一瞬前までせかせか動き回っていたのが嘘みたいに思える。
この子は助かるんだろうか。助からないんだろうか。
助からなければ今までの苦労も無駄になるな。いや、そんなのはどうでもいいか。
どうせ私はいつもそうだから。
蟲たちを助けようとしたことがある。数え切れないほど。
でも無駄だった。いつも脆い蟲たちは死んでいく。鳥に食われて死に、童に踏み潰されて死に、冬虫夏草や黴に寄生されて死に、蟲同士で食い合って死に、ただただ死に。
この子も同じだ。脆い人間。このまま病で死んでいくとして、それはいつものこと。ありふれたこと。
私はいつだって無力なリーダーだ。
「そういえば……君は死にたがってたよね。それはまだ同じ? まだ死にたい?」
答えはない。これも蟲と同じだ。
蟲たちはなにも言わず死んでいく。生きたいとも死にたいとも言わずに死んでいく。彼らにあるのはただ遺伝子と本能の命ずるまま、その子孫を絶やすことなく繋ぐことだけ。
いつも哀しむのは私だけ。
だからもうこの頃は皆のことがわからなくなってきた。私ばかり哀しんで、嘆いて、苦しんで……私は思考する蟲。
頭が、痛い。
「君も私を置いていくのね」
まあ、それもいいかもしれない。また元に戻るだけだ。無感動で無関心な日々に戻るだけ。
これはなにかの間違いだったと思えば、それで……。
「……ん」
少し、目があった。
よほど辛いのか目元は虚ろ。それでも――私たちは視線を交わした。
手を握り返される。小さな手。私よりも小さな手だ。
またすぐ瞳は閉じられ、元の死に体な様子に戻る。
それでも……やっぱり、違うんだな。ぼんやりとだけど理解する。
蟲たちはこんなことしない。この子はやっぱり蟲じゃない。私が蟲でも人間でもないように。
ならきっと、まだできることもある。
◯
「……で?」
想像通りの木で鼻をくくるような対応。
これはわかってた。基本的に妖怪が歓迎される場所ではない、博麗神社という場所は。たぶん。
しかもこの土砂降りの中をやってきた珍客だ。ずぶ濡れで、髪はおばけ柳みたいで。さぞ私は間抜けに見えるだろう。
「お願いします。どうか教えてください」
「誰が頭なんか下げろと言ったのよ? 理由を話しなさい、理由を。妖怪のあんたが、人間向けの医者を探す理由!」
言葉に詰まる。まあこれも想像通り……とはいえ、やはり手厳しいな。
そりゃ私だって博麗の巫女なんか当てにしたくなかった。けれど妖怪の私でも問題なく、人間にも詳しく、かつ場所も明確になっている……これを満たす場所なんてここしかない。仕方なかったんだ。
「理由は……言えない」
「ならこちらからも言えることはない。話は終わりね。帰んなさい」
「待って!」
閉ざされる扉にしがみついてでも。ここを断られたらいよいよ孤立無援。
互いに扉の押し合いへし合い(開け合い閉め合い?)を続ける。博麗霊夢の凄まじく嫌そうな顔。私だってこんな場所嫌だ、おあいこだ。
「こんのっ……離しなさいよっ……!」
「離さないから! 教えてくれるまで離しませんから!」
「あんたねぇ……! こっちが優しく対応してるうちにっ……!」
「嫌だっ……!」
埒が明かないのはわかってる。博麗霊夢の言葉通り、向こうが本気を出したら私なんか一蹴だ。それもわかってる。
医者が必要なのが私なら引き下がった。でも今は違う。私が諦めたら、また私は助け損なう。もう十分だ。取り残されるのはもう嫌だ!
「お願い……しますからっ……!」
「そんっな……鬼気迫る顔で頼んだってねぇえっ……!」
そのまま絶望的な鍔迫り合いが続くものかと思った。上等だ。
でも、助け舟は意外なところからやってきた。
「医者が必要と聞いて!」
「んぎゃっ!?」
いきなり向こう側から押さえる力が消えた。当然勢いよく開かれた扉ごと天地がひっくり返る。
そのまま泥濘んだ地面に横たわる私を、兎みたいな耳の妖怪が見下ろした。狂気がかった赤い瞳。
「ちょっと! 雨宿り客は引っ込んでなさい!」
「そうもいかない。こちとらノルマというものがあるのよ! いきなりの雨でぜんぜん薬捌けてないんだからー! 師匠にどやされるー!」
「知らんわ……」
「というわけでー……あなた薬がご入用? 運がいいわねぇ、なぜか今日の在庫はぜーんぶ残っててよりどりみどりよ! はぁ……」
「あ、あなたは……」
「しがない薬売り。うどんげって呼んで。あるいはうどんげさんって」
「優曇華、人の仕事に口を挟まないで」
苛立たしげな博麗霊夢をうどんげさんが笑顔でとりなす。あの巫女にここまで勝手知ったる態度……相当の強者なんだろうな。背筋が震えるのは水溜りに濡れたせいだけじゃない。
「ちょっと失礼」
雨に濡れるのもいとわずうどんげさんは身をかがめ、人差し指の先をそっと私の額に添える。
なにかをされた感覚は無かった。でも確実になにかされている。というかなにかを読み取られている……そんな感じがする。強者こわい。
「うーん、この子の波長は不安、焦燥、苛立ち、疲労、無力感。典型的な看病人の波長ね。事情はわからないけど……彼女には助けたい病人がいる。それもかなり不味い状況の。放っておけばきっと死ぬわ」
「なぜこっちを見る」
「博麗の巫女のせいで人間が死んだら寝覚めが悪いんじゃない?」
「……あっそう。じゃあこういうのはどう? この場でこいつを叩きのめして事情を吐かせる。その上であんたと私で行く」
博麗霊夢の目は本気だった。
雨で頭が冷静になってきたせいもあり、今更ながら自分がとんでもない蛮勇を犯したって理解する。
この二人が本気で向かってきたら私なんて――
「無理ね」
が、うどんげさんのにべもない拒絶。どっと全身から力が抜ける。博麗霊夢だけが不服げだった。
「なぜ」
「私が協力しないから。そんな乱暴な方法、医者としての矜持に関わるわ!」
「誰が医者よ、ただの薬売りでしょうが……はぁ。じゃあもう勝手にして。その代わり、なにかあったら永遠亭が責任取ってよね」
「そりゃあ患者の責任は医者が取りますとも。まあ任せてってば」
「しっしっ」
ピシャリと戸が閉められるのも構わず、うどんげさんは満足げに息を吐く。
とりあえず助かった……?
「あの、ありがとうございます」
「いいのよ気にしないで。霊夢も立場上ああ言ってたけど、心の底では心配の波長が出てたから。不器用な人なのよね。私が行くことになって安心の波長に遷移したもの。かなり苛ついてはいたけど」
「はあ……」
「じゃ早速だけどどの薬にする? って……もう直接診たほうが早いか。どうせ雨でお客さんもいないし。案内できる?」
「えと、それは――」
「大丈夫よ、霊夢には言わない。患者のプライバシーはちゃんと守るから」
そう言うと、赤い瞳が華麗にウィンクをした。
◯
小屋に戻ると雨はもう小降りになっていた。
とにかく一刻も早く彼女の元へ駆け戻る。熱は引いてないけど、良かった、まだ生きている。
それで、
「うわっ」
高熱に臥せる少女を見るなり開口一番、うどんげさんの眉根が引きつった。
「そんなに酷いんですか!?」
まさかもう手遅れで……そう思ったけど、違うらしい。
神社で見せた笑顔はどこへやら、青筋を浮かべる勢いのうどんげさんは私の首を絞めかねない勢いだった。
「この子になに食べさせてたの!?」
「え、いや……そこの干し肉を……ダメでしたか……?」
「それ以外は!?」
「え……?」
「干し肉しか食べさせてなかったの!?」
「は、はい……」
「野菜は!? お米は!? こんっっな塩辛い肉だけでずっと!?」
こくこくと頷くことしかできない。
深い深い溜め息が響く。地獄の底から漏れ出たような溜め息が。
「そりゃ風邪もひくわ。ビタミン不足で肌はガサガサ、カロリーも必要摂取量にぜんぜん足りてない。あなた蟲の妖怪って言ったっけ? 人間は蟲みたいに一つの食べ物だけで生きる……ってわけにはいかないのよ?」
「そうなんですか!?」
驚き。大抵の蟲たちは生まれつき特定の食料を取るために特化している。人間は違うんだ。ほんとによく繁栄できたもんだ。
「で、この骨折と痣は?」
「それは私が拾った時からありました」
「ふむん。そっちの処置は後か」
「そ、それより助かるんですか……?」
「ただの風邪よ。偏食したせいで栄養が偏ったのね」
「うぅ……」
そんなことルーミアは言ってなかったのに。
なんて人のせいにしてもしかたないけれど。
「まあ水分はしっかり取れてるみたい。それさえ無かったら危なかった。解熱鎮痛剤と抗生物質、あとビタミン剤も出しておくわ。二日も安静にしてれば治るでしょう」
「ほ……」
思わず息が漏れた。
一通りの薬を飲ませてあげると、苦しげだった呼吸も徐々に穏やかになっていった。
ついには熱を出す前より安らかな寝息が聞こえるくらい。
ああ、良かった。今度は助けられたんだ。
へなへなと全身から力が抜けていく。
「本当にありがとうございます。本当に……」
「良いのよべつに。薬と引き換えにお金をもらう。それが私の仕事」
「あ、お金……」
「ふふ。言っておくけどうちの薬は高いよ?」
忘れていたわけじゃない。ただ言い出されるまでは黙ってただけで。
お金。昔に蟲のしらせサービスをしていた時に稼いだなけなしの貯金も、干し肉を買ったので使い切っていた。
お金を払えなかったらどうなるんだろう?
まさかこの場で――
「そう青ざめないで。ていうか踏み倒すつもりだった?」
「そういうわけじゃ……ただいっぱいいっぱいで……」
「ま、いいわ。私も商売人だから、なんのアテもなく来たりしない。知ってるでしょう? 蟲は希少な薬の原料になるの」
うどんげさんの赤い瞳が細まっていく。心の器を直接鷲掴みにされるような感覚。
後ずさると、もうすぐ後ろが壁だった。
「助けてもらったことは感謝してます……でも、蟲たちの命を差し出したりできない」
「生きてる必要はない。死骸を提供してくれればそれでいいわ。あとは冬虫夏草とかね。どうせ土に還るだけの有機物。問題ないでしょう?」
「そ、それは……」
たしかにうどんげさんの言葉は正しい。同種が真横で踏み潰されたとて、素知らぬ顔でその髄液をすする。それが蟲たちだ。死骸はものでしかない。ならなぜ首肯けない?
無言。
とはいえ代金を払わないわけにもいかない。そうすればあの子は助からない。
ずいぶん長く悩んだ気がした。でもどうせ選択の余地はなかったんだ。なにも手放さずに得ようなど、それこそ蟲が良すぎる話。
「……わかりました。それでお代になるのなら」
瞬間、うどんげさんの相好が崩れる。
ピンと張り詰めていた空気が弛緩し、穏やかな空気が戻った。
「ふふん、商談成立! まあ慰めになるかわからないけど死骸を弄ぶわけじゃないからね。薬となって誰かの命を救うのよ。あの子を助けたように」
「べつに蟲たちはそんなこと望まない」
「さりとて拒むわけでもない。二重螺旋の鎖に従い生きるだけの彼らはどこまでいっても無関心。違う?」
「……」
「さーてと! お代も貰えそうだし、残った仕事を片付けましょうか!」
「残った仕事?」
まだなにかあるだろうか。薬は出してもらったし、代金の算段もついて……
本気でわからない私に対し、うどんげさんはにまりと笑う。その細くきれいな指先が突きつけられた先は――
「え? 私?」
「そ。料金分の仕事はしなくちゃね。このままじゃ貰いすぎだわ」
「私はべつに診てもらうことなんて――」
「嘘おっしゃいよ。その乱れきった波長。重症ね。直ちに検査の必要ありだわ」
有無を言わさず私は椅子に座らされる。すごい力だ。向こうは本気じゃないんだろうけど、それでも全然敵わないのがわかる。
そのままうどんげさんは私の瞳を射抜くように見据えた。否が応でも緊張が走る。この人の赤い瞳に見つめられると――なんていうか、心が裸にされるような感じがする。
ただし敵意は感じなかった。こうなったらもうジタバタしても仕方がない。煮るなり焼くなり好きにしろ、だ。
「さあ、力を抜いて。あなたの狂気を私に見せて……」
赤い瞳がさらに色を濃くしていく。
黄昏の陽よりもなお赤く、赤く、あかく……。
◯
私は思考する蟲。
生にしがみつくことなく、死を畏れることなく、唄を聞けぬ蟲たちに子守唄を唄っている。
皆がよく眠れるように。皆が幸福になれるように。
幸福。
蟲たちにとって幸福とはなんだろう?
餌場にありつくこと。天敵に狙われないこと。子孫を残せること。遺伝子に刻まれた「快」と「不快」に忠実に従う奴隷たち。
もちろん当人たちはその二重螺旋の鎖を意識することもない。
けれど私は違う。私は妖怪だから。私は蟲であり、蟲でない。私という表現型のあらゆるは遺伝子にその端を発していない。
きっとそれが不幸の走り。
私は枷を外した者。枷から逃れた者。蟲籠からまろび逃げ出した一匹の蛍。
問題は。
虫籠の外に仲間は誰もいなかったってこと。
「そう……それがあなたの孤独の波長の由来」
そうだ。私は孤独なんだ。私が理解しようとする蟲たちは誰も私を理解してくれない。
「だけど、理解してほしかった」
当たり前だよ、だって辛いんだ。
冬の訪れと共に死んでいく皆を見送るのが。
嫌われ、疎まれ、容易く踏み潰される皆を見つめるのが。
こんな辛い思いをしたんだ。一言だって労いの言葉が欲しい。そう思うのはいけないこと?
だけど、私はリーダーだから。
いつだって皆のためにもっと……もっと……してあげたかった。意味のない子守唄を唄うより、皆がよりよく生き、よりよく死んでいける手助けをしたかった!
でも。
ほんとうはわかってるんだ。蟲たちはそんなこと望まない。
蟲たちが私に従うのはただ、私が彼らの衝動を誘引するフェロモンを操れるからに過ぎない。
リーダーだからじゃない。私はただの妖怪だ。蟲たちを都合よく操り、都合よく仲間扱いする、哀れな思考する異形の蟲。
だって私には二本ずつの手足しかなく、五本の指でものを掴み、体節ではなく脊椎を持ち、外骨格ではなく内骨格で体を支え、複眼はなく、羽もなく、なにもない。
まさに異形。
私は畸形の蟲。孤独な蛍のなり損ない。人間と蟲のチャンポンだ。
「だからあの子供を助けたのね」
そう。私が蟲よりむしろ人間に近いなら、人間が私を理解してくれるかもしれない。私が何者なのかを理解できるかもしれない。
そう思ったから。
「……妖怪のルーツは私も詳しくない。けれどもそう、たしかに我々は人の貌をしている。人のように思考し、人の言葉を媒介とする。卵が先か鶏が先かは知らないけどね。とはいえ、魑魅魍魎の全てがあなたのように思うわけじゃないのも事実。ルーツなど気にせずその日暮らしに興じる者は多い」
そう。ルーミアならきっと私みたいには考えないだろうな。
なぜ違うんだろう。私とあいつはなにが違う。
「それはあなたが優しいからよ」
優しい? 私が? 蟲たちになにもしてやれない私が。拾った子供の世話もできず、熱病に陥れた私が?
「無力であることと優しさとは矛盾しない。むしろ……あなたの無力さこそがよりあなたの波長を決定づけている。わかるでしょう。本当にあなたが無慈悲な蟲の女王なら、兵どもの跡に涙を流す必要があって?」
私は……。
「あなたは優しい。優しくて、愚かで、だからあなたの波長は乱れ続ける」
……。
「蟲たちの死に心痛めるのも。哀れな子供を放っておけないのも。それはひとえにあなたが――愛を持っているからよ。たしかにそれは蟲には持ち得ないもの。あなたを狂わす狂気そのもの」
そう、私は。
私はただ蟲たちを愛してるだけなんだ。
けれど皆はそれを解さない。精細胞と卵細胞を効率よく結びつけるための衝動は持っていても、この感情――私が彼らに対して持つもの。それを理解してはくれない。
それが私の孤独。
それが私の狂気。
私は蟲でありたかったんだ。愛など知らずにいたかったんだ。
なのに蟲たちを放っておけない。あの子を放っておけない。
あの子を痛めつけたクソみたいな人間を放っておけない。さりとて殺すこともできない。
ああ痛い。またあの頭痛がやってくる。
そう、これは私自身の心の痛み。どっちつかずな心が引き裂かれていく痛みなんだ。
なら私は……どうすればいい?
「あのね」
優しい声が響く。ぼやけた輪郭が徐々にその像を結んでいく。そこはまだあの小屋の中で、うどんげさんの温かい赤色の瞳が私を見つめていた。
私は最初と同じく椅子に座って呆けていた。うどんげさんが微笑んだ。
「私は、あなたはあなたのままでいいと思う。優しい心を持ち、愛することを知る蟲がいてもいいじゃない。きっと……だからこそ、あなたは蟲のリーダーなんだわ。だって愛のない世界には争いしか無いもの。それにあなたは蟲でもあり、人でもある。それは孤独をもたらすかもしれないけど、裏を返せば、二つの世界を行き来できるということよ。それはとても尊い力じゃない?」
「そう……なんでしょうか……」
「だってあの子は、あなたが助けなければ死んでいたでしょう」
「……でもあの子は死にたがっていた」
「波長は移ろうものよ。特に幼子の波長は短いからね。もう一度聞いてみて」
それは……ちょっと怖い。でも聞いてみたくもある。
そう、思えばあの子のことを私はぜんぜん知らないんだ。もっともっと知りたい、あの子のこと。
また思考に耽りかけたけど、その前にうどんげさんが立ち上がった。見上げるとすらりと背が高くて、目を見張るくらいの美人なんだと今更ながら気がつく。
ようするに……人の外見を気にする余裕も今まではなかったってこと。そういえば私も泥濘みに突っ込んだままで、背中半分が泥まみれだ。蛍は蛍でも幼虫に戻ったみたい。
「どう? ちょっとは楽になった?」
「少し……私、今まで自分がなにに苦しんでるのかわからなかった。原因が無くなったわけじゃないけど……とりあえず、それがなにかはわかった気がする」
「そ。じゃあ良かった。これは人間の知恵だけどね、悩みは抱え込まずに話したほうがいい。自分のことって案外わからないものだから」
「参考にしてみます」
「よろしい! ん~~! 久々に力をガッツリ使ったから疲れたわ~~!」
思い切り伸びをするうどんげさん。
そういえば私、なにをされていたんだろう? 力を使ったって言うけど……どんな力?
ちょっと怖くて聞く気にはなれなかった。私、なにか変なことされてないよね?
「もう行っちゃうんですか?」
「明日も仕事があるのよ……はぁ。渡したお薬はちゃんと飲ませてあげてね。骨折の痛み止めも入ってるから楽になるはず。それとはべつにサービスも入れといたわ。あと肉ばっか食べさせないこと! 後で兎たちに野菜を届けさせるから、ちゃんと火を通すのよ?」
「色々ありがとうございます」
「いいのいいの。その分の対価は貰うわけだし。請求書も兎たちに持たせとくわ」
「あ、はい……」
そういえばあまり深く聞かなかったけど、結局どれくらい支払えばいいんだろう?
これもまた、怖くて聞く気にはならなかった。
「それじゃ、お大事に」
扉が閉まる。なんだか久々に静寂が戻ってきた気がする。
雨はもうあがっていた。
◯
「はい、あーん」
まだ湯気の立つ器から粥をよそい、小さな口へと運んでやる。
ぱくり。むぐむぐ。
顎の怪我もだいぶ良くなってきたらしい。自分で咀嚼するにも問題はなさそうだ。
もう私がいちいち噛みしだいてやる必要もないんだなぁ。ちょっと寂しくもある。
粥は、兎たちの持ってきてくれた野菜や米を混ぜ込んだ簡単なやつ。料理なんて初めてだったから教えられた通り作ったけど、とりあえず見てくれは良い。
味も……悪くなかったとは思う。ただ所詮は蟲の感性。人間にはどうか。
「……どう? おいしい?」
こくり、と顎が引かれる。
ああよかった。ほっと胸をなでおろす。
「ほらお水も飲んで」
この子が熱を出してから二日目。うどんげさんの薬はてきめんの効果だった。
体調はすっかり戻り、血色も前よりずっと良い。介添えについてあげれば厠にだって行ける。
それでも一人きりになるのはまだ不安らしい。
むぐむぐと粥を喰みながらも、意識してか無意識か、私が何処かへ行かないようマントの裾をずっと握りしめている。
でもその不安も現実になることはなかった。
光陰矢の如しは言い過ぎにしても、何もかもが平穏に過ぎ去っていった。これまでの混乱と苦労が嘘のように。
私は料理に苦戦し、彼女の方は目に見えて回復していく。ただそれだけの日々。
そしてまた二日経ち、三日が経ち、熱で倒れてから一週間。
彼女はもう小屋の外を駆け回れるほどになっていた。
「病み上がりなんだから無理しないでよ」
木漏れ日差し込む林の中、ようやく取り戻した自由を満喫するように右へ左へ。
私はそれをぼんやりとした気分で眺めている。
本当なら無邪気な笑い声だって聞こえてきてよさそうなものだけど、あいにく言葉だけは彼女の元へ帰っていない。
顎の骨折はとうに癒えたはずだ。なにか別の理由で喋れないのか。それとも単に喋っていないだけなのか。
まあ……言葉なんて無くても困ることはないけれど。
飛び交う烏揚羽と踊り、蛍の標に沿って舞う。二人で切り株に腰掛け、日暮の音色に耳を澄ませる。遊び疲れれば私の膝を枕に眠り、流るる川のせせらぎを聞く。
いったい他になにが必要?
あどけない寝顔だ。黒曜色の髪にもだいぶ艶が戻ってきた。手ぐしを入れる度、さらさらと流れていく。
「……あれ?」
違和感。なんだろう……と思って、すぐ理解する。たしかこの子、片方の髪は剃られていたはずだ。
なのにいつの間にか禿げてた側にも髪が戻ってる。もう半分は伸びすぎなくらいだ。
人間の回復力は凄いなぁ……なんて、さすがの私でも思わない。
そういえばうどんげさん、サービスがどうとか言ってた気がする。
まさかこれがサービス?
「いや薬売りとしてどうなのよ! 説明もなしに薬を飲ませるな!」
その叫びで寝た子を起こしてしまった。
まどろむ彼女に向け、髪の毛を指さしてやる。だが返ってきたのは「え、気がついてなかったの?」と驚いたような顔だった。生意気。
「まあ喜ばしくはあるけど、ちょっとアンバランスね」
頭髪の半分は胸下の辺りまであるのに、もう半分は肩まで届くか届かぬかといったところ。
とはいえ誰に見せる予定もない。本人が良いなら構わないか……と思っていたところ、またマントの裾を引かれる。
ちなみにマントの裾をぐいぐい引かれるのは、なにかお願いがある時の控えめなサイン。この奇妙な同棲生活も気がつけば半月ほど続いてる。慣れたもんだ。
とはいえ彼女の方から頼んでくるのは尿意や空腹などの生理現象か、時たま狼の吠え声が聞こえて怯えた時くらい。
個人的にはもっと欲求を露わにしてほしいくらいなのだけど。
「どうしたの、おしっこ?」
ふるふる。違うらしい。
「じゃあ、うんち?」
ふるふるふるふる。かなり違うらしい。
ならいったいなによと首を捻っていると、人差し指と中指のジェスチャー。二本の指の間に長い側の髪を挟んで、開いたり、閉じたり。
「……もしかして髪、整えてほしいの?」
控えめな、こくり。それから小さな手が伸びて、私の髪をそっと撫でる。
「わ、私と同じにしてほしいの……!?」
もう一度、こくり。はぁあ……。
そりゃ確かにこの髪は自分で整えてるけど、それは長すぎると邪魔だから適当にやってるだけで。
「切ってあげるのは良いけど……私と同じはダメ! だってかわいくないでしょ!? 君は髪質良いんだからもっとかわいくしてあげるよ!」
ふるふるふるふるふるふる。
そんなに嫌か。うんちより否定するのか。
意味不明だけど……まあ、欲求を露わにするのは良いことだってさっき思ったばかりだし。
生きることは欲することだから。欲がなけりゃ死んだも同じ。好みは……蓼食う蟲の好き好きね。
「はぁ。じゃあそこ座ってて。道具取ってくるから」
とはいえまったく、私の髪型のどこがいいの? そりゃ動きやすくはあるけど。
ため息とともに立ち上がった――その時だった。
ビリッと稲妻に打たれたような緊張感。蟲のしらせ……その特級品が全身を駆け抜けていく。
なに――と見回しても木漏れ日の森は平和そのもの。不思議そうに首を傾げる君の横顔。
しかし同刻。哨戒に出している蟲たちからの緊急伝令。コードレッド。敵襲のサイン。
最初は、熊でも出たのかと思った。
もっと悪いものだった。
小柄な体躯を背後に隠す。まあ意味なんかないが、気休め程度だ。
それで。
紅白の巫女装束に禍々しい純白の大幣。浮遊する白黒の球体が二つ。
木々の隙間から現れたのは紛れもない、博麗の巫女だった。
「……こないだぶりね? あんた、たしか名前は――」
どすの利いた氷みたいに冷たい声。
私のマントを鷲掴み震える手をそっと握る。大丈夫よ、私がついてるから。
「リグル・ナイトバグ」
「そう、リグル。私がなぜここに来たかはわかってるでしょ? 神隠しが聞いて呆れるけど、郷には郷のルールがあるの。人は人の領分を超えてはならない。知らないとは言わせないわ」
こちらだけ地上にいるせいで否応なく見下される格好になる。ビリビリと地を響かす殺気。立っているだけでやっとだ。
「やる気」の博麗霊夢と対峙するのは初めてじゃないけど、前は異変でこっちもハイになってたし、なにより守る者もなかった。
逃げちゃダメだ。
叫び出したいのをなんとか抑え、巫女を睨め返す。
「この子は死にかけてた。私は助けただけ」
「蟲の妖怪が人間の子供を助ける? なんの見返りもなく? 信じろという方が無理ね。だいたいあんた、蟲を蔑ろにする人間を嫌ってるはずでしょ?」
「名前も覚えてくれてない割にはよく知ってるじゃない」
「……おとなしくその子を渡しなさい。わかるでしょう、これはルールなのよ。もちろんあんたが案じてることは理解してる」
「言ってる意味がわからない」
「信頼できる里親を探したわ。彼らは人格者よ。博麗の名に誓って、二度とこの子を過酷な目には合わせない」
「嫌だと言ったら」
「あんたを退治する」
だろうな。
まあ、いいさ。
潜伏していた蟲たちに緊急招集をかけた。たちまち黒い靄が生まれ、私のマントと同化していく。博麗霊夢の顔が目に見えて引きつった。
「嘘でしょ。本当にやる気なの?」
「これだけの数の一斉攻撃だ。いくら博麗の巫女でも避けられないよ。エンガチョにされたくなかったら帰った方がいい」
「……はぁ。わからない。あんた本気? マジにその子の親代わりになろうってわけ!?」
「そんなのそっちには関係ない」
「純粋に理解しかねるのよ。メリットはなに? 聞いたわ優曇華に。あんた薬代として随分な請求を呑んだそうじゃない。なぜよ」
プライバシー、全然守られていなかった。
さておき。
「……なぜかって?」
それはなぜか。なぜ、なぜ、なぜ。
博麗の巫女が首を傾げるのも無理はない。私だってわからなかった。人間なら私を理解してくれると思ったから? 確かにそれも一つだけど、今も正直、根本のところはよくわかってない。
うどんげさんはそれを私の「優しさ」だと言ってくれた。それを私の愛なんだと。
あるいは結局、蟲も人もすべての生命は大地から生まれた兄弟姉妹。それを助けるのに理由なんて無いのかも。
ただ一つ、わかることもある。
この子は人間の世界から見捨てられた。孤独に死のうとしていた命。蟲がそれを助けたんだ。
なのにいまさら向こうに「お返し」するなんて納得できない。だって先に境界を破ったのは向こうでしょう?
あるいは私のように、どちらの世界にも属せず中途半端になる覚悟がある?
なんて。目の前の巫女に言ってもしかたない。
うどんげさんはあの悪鬼羅刹を不器用だと称していた。なるほどたしかにそんな感じもする。
「私は人間が嫌い」
「でしょうね」
「だから、この子を人間には渡さない」
「……あっそ」
話は終わりだ。つかの間の均衡。川のせせらぎ。日暮が飛び立つ。
私は先んじて動いた。
数千匹の羽虫の大群が博麗霊夢めがけて殺到する。大地が黒く隆起したような光景。
が、当然向こうは空中にいるわけで、点での攻撃じゃ届かない。
それがわかってるから巫女も、着弾まであと三秒を切ってなお動こうとしない。相変わらず氷の視線でこちらを凝視している。
それが命取りだ。
この弾幕は文字通り生きているってわからない?
「……っ!」
そう。どうせどちらに動こうと関係ない。
私が手を開くのに合わせ、羽虫たちが散開する。檻のように、籠のように巫女を包み込むように。
人間からすればさぞ気色の悪い景色だろうが、容赦しない。今ばかりは。
「潰れろ!」
手を握り、虫籠が閉じた。
私の勝ち――
「え」
後頭部に痺れるような感覚。全身から力が抜ける。天地が逆さまになる。鈍い痛みと土の味。
横倒しになった世界の端では、標的を見失った虫籠が戸惑うように揺れていた。
抜け出したのか?
どうやって?
いったいなにをされた?
いくら考えても答えはでない。
ただ、震えて縮こまるあの子のもとへゆっくり、ゆっくりと歩を進めていく巫女の後ろ姿だけが見えた。
「千年早いのよ」
負けたのか、私は。
あまりにも呆気なくて、逆にすんなり理解できた。
ああ……勝負にさえならなかったな。
「ほら、あんたも蹲ってないで。ここは妖怪の巣なの。人間がいてはいけないのよ」
頭のてっぺんからつま先まで全身、ぴくりとも動かせない。
行ってしまう。連れて行かれてしまう。なのにこうして見てることしかできない。
「ちょっと……ちゃんと立ってってば」
やめてくれ、やめてください、その子はまだ怪我を治したばかりなんです。
叫びたくとも声がでない。奇しくもあの子とおんなじだ。
……結局私はまた守れないのか。
いや、守れなかったわけじゃない。本当はわかってる。郷に戻ったほうがあの子にとっては幸せだと。
博麗霊夢の言葉通りなら、あの子は、こんな小屋よりずっときれいな場所で生きていける。私の作った粥なんかよりもおいしいものを食べられる。蟲たちでなく人の子供たちと遊べるんだ。
そう、私は守れたんだ。紛れもなくあの子を救い、ここまで漕ぎ着けた。
それだけで十分じゃないか。これ以上は贅沢というもの。
本当にあの子のことを思うなら、愛してるというのなら、笑って送り出してやるべきだ。
まあ笑おうにも顔、動かせないけど。
意識、ぼんやりしてきたけど。
「……ちょっと、どういうつもり?」
巫女の顔が困惑に揺れている。
どうしたんだろう。あまりその人を怒らせちゃダメだよ、退治されちゃうよ。
「ぃ……あ……」
「な、なに? あっちょっと! ダメよそいつに近づいちゃ! そいつは妖怪なのよ!? わかってるの!?」
あれ、おかしいな。
どうしてあの子がこっちに走ってくるんだろう。どうしてあの子の背がすぐそこに見えるんだろう。私の前に、立ちふさがるようにして……。
「……い……や」
声。誰の声だろう。聞いたことのない声だ。そうだっけ?
聞き覚えもあるような、ないような。思い出せないな……。
「いや……だ!」
ああ、そっか。
これは君の声なんだね。そういえばこんな声をしていたね。
最初に一度聞いた時は酷く掠れていたからわからなかったけど。
いいねぇ。とても気高く、美しい声……。
「……あんた、自分がなにを言ってるか理解してる?」
「ぅ……」
束の間戻った声はまたしても失せて。
小さな足が私の目の前で震えている。
もういい。もういいんだよ。私のことなんて放っておいていい。
あいつは妖怪の私でも勝てない相手。君が勝てるわけ無いじゃない。
それにね、全部私が勝手にやったことなの。君は優しい里親の元で幸せになるべきなのよ。
そう言いたいのに。
どこへでも行っちまえって。そう叫びたいのに。
なのに。ちくしょう。出てくるのは涙だけだ。役立たずの私の体。
なんで。いったいなんで。
なんでこんなに嬉しいのよ。
「……はぁ」
巫女の嘆息。
瞬間、殺気が嘘のように消えた。
「なんか私が悪役みたいじゃない。失敬な筋書きね」
ぽりぽりと頭を掻きながら大幣を懐に戻し、代わりに巫女は潰れかけの小屋の方を見やった。
それから思い出したように私の元へ来ると、怯える少女をなだめながら、いてっ……なにかが後頭部から剥がされる。
「いきなり襲ってこないでよ?」
はっとして立ち上がる。もう全身の痺れは何処にもない。
駆け寄ってくる少女を抱きしめる。ちょうど顔を埋めたブラウスのあたりに、あたたかいものが染み込んでいく。
どうなってるの?
巫女はもう面倒くさそうな瞳をこちらに向けて、ひらひらと御札をふって見せるばかり。
助けてくれた……?
「えと……ありがとうございます……?」
「ほんとに感謝しなさいよ。ったく」
「でもどうして……」
「どうせこんなことになるんじゃないかと思ってたのよ。巫女の勘でね。あんた風に言えば……蟲のしらせ?」
「はあ」
「その子の経歴は調べた。だから癪だけど、あんたの言うことも理解できる。その子は人の世界で生き直すにはあまりに傷を負いすぎた」
「……でも、ルールなんでしょう?」
「捉え方次第ね。そこの小屋……元はこのあたりの森林資源を管理するためのものだった。だけど先代が後任を決めず死んじゃって、それきり放置されてたの」
たぶんそれは後任を決めなかったわけじゃない。人選(そもそもあいつは人ではない)が悪かっただけだ。
面倒なので黙っておくけど。
「ようするにここも"人の領分"の範疇ってわけ。だからその子がここの管理人を継いでくれるなら……ルールにも抵触しない」
「……えっと。そ、それってつまり」
「鈍いやつね。あんたらはこのままでいいって言ってるの!」
耳を疑う。あるのか、そんなこと?
なにかの間違いなんじゃないか。博麗の巫女が妖怪を懲らしめるためにカマをかけてるだけなんじゃないかと。
でも、巫女の瞳は嘘をついてるようには見えない。少し頬も赤く……かと思うと、またあのどすの利いた声。
「ただし! 条件が三つ!」
「は、はい!」
「一つ目! その子の安全に関してはあんたが責任を持つこと! まあ当然ね。ここらは狼や野良妖怪も出るんだから。そして二つ目! その子は寺子屋に通わせること! 教育の機会を奪うのは虐待よ。半人半獣のやつが営んでるところがあるから、そこを使うと良いわ。あんたのことも話しておく」
「ありがとうござ――」
「最後に三つ目!」
巫女の鋭い声音。キッと迫力の乗った瞳。思わず息を飲む。
「三つ目の条件は、絶対にその子を不幸にしないこと! ほんっっとうに良い里親を見つけてきたのに、その話を蹴るんだからね。わかってる!?」
「……わかってる」
「もしあんたが一つでも守らなかったら、その時は、すぐに私がぶちのめしに行くから。全身全霊で。そのつもりでいなさい」
「わ、わかってる……」
束の間優しさを感じた気がしたけど、それはあくまでこの子に対してのもの。やっぱり巫女は巫女だ。冷たい汗が背筋をつたう。この人はやると言ったらやる。
「じゃ、そういうことで。まったく骨折り損のくたびれ儲けだったわ」
捨て台詞を残し、博麗霊夢は一瞥もせず西の空へと消えていった。
あはは、はは、はぁ……。
膝が笑ってる。抱きしめている私がその場にへたり込んだせいで、二人してバランスを崩し地面に倒れ込んでしまった。
人間一つ分の体重が私に降りかかる。
ああ、軽いなぁ。軽すぎる。
「さっきは、ありがとう。私、もうダメかと思った」
空はもう夕暮れだ。
橙色の淡い光に照らされながら、こくりとうなずく君の表情。やわらかい微笑み。
私もそれに笑みで返す。
思えば……これが初めてかもしれない。
二人でこんな風に笑うのは。
【epilogue】
しょりしょりしょり。
「……ふーん。なんていうか、大変だったね」
しょりしょりしょりしょり。
鋏で髪を整える単調な音に割り込んでくるのは、流るる小川のせせらぎ。それと、他人事のようなルーミアのぼやき。
散々探し回った時は見つからなかったくせにこいつ、ひょっこり現れては自分の家のようにくつろいでいる。
いや自分の家なんだけど。
「で? 結局その子はいつ食べるの?」
びくり。デリカシーのない発言に怯え、目の前で小さな肩が震えた。
手元が狂う。勘弁してほしい。
「だいぶ肉付きも良くなったしそろそろ……あれ? ねえこの蜂なんか私を、ちょっとリグル? リグルさん……? リグル!?」
しょりしょりしょりしょりぎゃあしょりしょり。
合間に汚い悲鳴が聞こえた気がするけど、たぶん空耳だろう。
「今この状況があるのもルーミアのおかげだよ。感謝してる。本当にありがとう」
「なら刺すなよー!?」
「くだらないこと言うからよ。大雀蜂を呼ばなかったのは感謝の現れだと思ってよね」
「ちぇ……すっかり母親役が板についてるし」
母親か。遠からずではあるが、そういう感じでもないな。
むしろこの子は妹のような感じがする。とはいえなんでもかんでも甘やかすわけじゃない。
ぱたぱたと足を揺らしてるのを、そっと押さえる。動くとおかっぱになっちゃうわよ。
「けどさー、さっきの話を総合するとその子が死ぬまで面倒見るってことだろー?」
「私たちからすれば一瞬じゃない」
「気の長い話ねぇ」
「よし、できた」
散らばった髪を払い、急拵えのクロスを取る。
すくりと立ち上がった彼女を見て、ルーミアの気の無い拍手が響いた。
「あーあ、そっくりになっちゃってまあ……いやなんだその嬉しそうな顔。褒めてないから! にこにこするな! おい!」
さすがのルーミアも笑う子と地頭には勝てぬらしい。
こっちも一仕事終わってほっとした。ほんとにおかっぱにして泣かせでもしたら、最悪、博麗の巫女が飛んできかねない。なんて。
「そういやさ」
「ん?」
「リグル……なんか明るくなった?」
「変わらないよ。そんなに暗かった?」
「べつに暗かったわけじゃないけど……なんか吹っ切れたっていうか」
「博麗の巫女とやり合ったのよ。肝も据わるわ」
「そ、そうなのか? そうなのかなぁ」
本当はたぶん、そうじゃない。
きっと無駄じゃないってわかったから。
私は思考する蟲。意味もなく、皆を助けることもできない役立たず。
そう思っていた。
だけど……そんな私にもできることがあるって。そんな私だから守れたものもあるんだって。
あの子がそう教えてくれたんだ。あの日、闇の中で死のうとしていたあの子が。
まだ君は死にたいと思ってる?
いつか……聞いてみよう。あの子がもう幸せで幸せで、絶対にそんなことを思えなくなった頃に。
立ち上がると、あれほど酷かった頭痛はもうどこにもなくなっていた。
ああ、あの子が私に手を振っている。私は歩きだす。ゆっくりと。
その人間は僅かにそう口にして、もうなにも喋らなくなった。
ああ、ミスったな。私が求めていたのは死骸なのに。人間の死体は蟲たちの良い餌になる。冬に備え十分な肉を確保できれば、越冬する子らも飢えなくて済む。
だけどそいつはまだ息をしていた。本当にうんざりする事実。
気の早い猩々蠅たちが確認しそこねたんだろう。彼らは卵さえ産み付けられればそれでいいから。
既に死臭を嗅ぎつけて集まっていた死出虫達に道を譲ってもらい(彼らには後でたっぷりの礼をしないと)、こんな人気のない森に迷い込んだのはいったいどんな間抜けかと顔を覗き込む。
「……なによ、子供じゃない」
見てくれは齢十かそこらの子供。性別は……雌だろうか。頭髪が右半分だけ乱雑に禿げ上がっている。
目元の青痣が目立つ顔は土気色をしていたが、私が覗き込むに合わせてその左目が僅かに揺れていた。
で、死なせてくれって?
もちろんその願いを叶えるのは容易い。
か細い呼吸。あちこちから流れ出る赤い色。妙な方向に曲がった腕や足。
たぶんすぐそこの崖から滑り落ちたんだろう。よっぽど必死で逃げていたのか。それともわざと落ちたのか。
なんにせよこのまま半日も待っていれば、おめでとう。望み通り君は死ぬ。私は食料を手に入れる。
「……はぁ」
いつの間にか我慢できずに戻ってきていた死出虫達を追い払い(ほんとにごめん)、担ぎ上げた少女は驚くほど軽い。
手足は痩せこけて枯れ枝みたいだった。心臓が微弱に拍動してなきゃ死体を担いでるのと変わりない。
って。
いやいや私、なにをしてる?
この人間を、見ず知らずの死にかけの子供を……まるで助けようとしてるみたいじゃないか。
なぜ?
考えるよりも先に体が動いていたから理由なんぞ知らない。
蟲ケラの衝動。
蟲はいちいち思考して行動なんかしないんだ。だが私は思考する蟲でもある。
私は、リグル・ナイトバグは妖怪だから。蟲であり、蟲ではない。だからこんな人間を助けようとするんだ、きっと。
「ああくそ、頭痛い……」
偏頭痛。この頃は取り憑いたようにぶり返しやがる。
たぶん、考えすぎなんだ。もっと蟲らしく衝動で行動せよ、私!
とはいえ。
考えないわけにもいかない問題がある。
その最たるもの。この意外な広いものをどうするかってこと。
地べたに放っておくわけにも行かない。息の根が泊まる前に狼の胃袋行き確定だ。
とはいえ私は家なんか持っていない野良妖怪。まあ大抵の妖怪は家なんざ持っちゃいないが。
そんな人間らしい習性を持つのは少数派。どいつもこいつも人間みたいな格好のくせに……。
かといって……人間の郷に連れて行く気にもならない。
これもまた理由はなし。強いて言えば直感。蟲のしらせ。
となると、まあ、あいつのところしかないか。
「で」
獣臭いベッド(生意気にも洋風!)に少女を横たえる私を、非人道的な暗い声が咎めた。
森の中の小屋は光がささない。そのせいでまさしく闇の妖怪らしいシルエットがぬるりと姿を表す。
友人。あるいは腐れ縁。
ルーミアの鋭いギザ歯の隙間から恐怖の雄叫び――ではなく、呆れたような嘆息が漏れた。
「なんだってうちに連れてくるの」
「食わないでよ」
「めちゃくちゃだな。言われなくてもそんな不味そうなやつは食わない。それほんとに子供? ボケ老人にしか見えないよ。髪も半分禿げてるし」
「最近の子供はこんな髪型が流行りなわけ?」
「そんなわけない。まあこれはアレだよ。イジメか、虐待か、その両方か。誰かに無理やり剃り落とされたんだろう。この頃は人間と妖怪の境界が薄くなってる気がするよ。鬼畜の所業だね」
「あー、つまり、こいつは人郷で生存競争に負けたわけね。だからあんな森の中で死にかけてたんだ」
蟲のしらせがするわけだ。あのままご親切に郷に連れて行けば、今度こそこの子供は死んだだろうなぁ。
ああ、よかった。
そう思うのはなぜ?
生存競争は自然の絶対の摂理の一つ。それに負けたら死ぬしかない。
だけど人間は惰弱で愚かだ。打ち負かした奴を取り逃がすなんて阿呆のすることだ。
相手を打ち負かしたら咀嚼し、分解し、骨の髄まで栄養にしなくっちゃ。
そうしなくても生きていけるなんて、まったく家畜よりも怠惰な生物種。
……でも。そうならなくてよかった。
今、この子は眠っているのか。どんな夢を見てるのだろうか。幸せな夢を見てればいいと思うのはなぜだろう。
ただ、うーん、それにしては静かすぎるような……。
「……んー」
「なに、どうしたの」
「呼吸が弱くなってる気がするんだけど、人間って寝るとこんな具合なの?」
「は!? んなわけないだろー!? おまえこいつ拾ってから何か食わせてやったのかー!?」
ルーミアが血相を変えて叫ぶ。大袈裟なやつだな。
「まさか。さっき拾ってきたばかりだもん」
「じゃ弱ってるんだよ! お腹減いてんの! わかるでしょ普通!」
「わからないよ人間のことなんか」
「なら拾うなっ! ああもう、私は井戸で水汲んでくるから! そこの干し肉食わせてやって! はあ、せっかく手に入れたのに……」
ブツブツ言いながらルーミアが出ていく。
あいつ、こんなに人間に詳しかったんだな。そういえばこの家も人間から譲ってもらったとか(分捕ったんだったかな?)。
とにかく干し肉を少女に与える。与えようとする。が、口には含むものの噛みちぎらない。無理やり口の奥に突っ込ませてみたが、ひどく咳き込むだけだった。
そうこうしてるうちに桶いっぱいに水を汲んだルーミアが戻ってきた。
「ダメだルーミア、どうしよう」
「なにが」
「こいつ顎が折れてる。食わない」
「はぁ……あのね、だったらリグルが噛みしだいてあげればいいでしょ! ほんと人間に興味ないくせになんで拾ってきたわけ!?」
そんなの私だって知りたい。いちいち蟲の衝動に意味なんかない。
本当に?
全ての蟲たちがそうであるように、生命の行動は遺伝子のプログラムに従う。つまり全ての行動には意味があるってことだ。
とはいえ。私は妖怪で、遺伝子なんてくそくらえで。じゃあいったい、私の行動は何によって規程されている?
……干し肉を喰む。口の中にじわり広がる塩辛さ。ああくそ、しょっぱいな。
「んべ……ほら、食べな」
「おまえ口に毒とか持ってないよなー?」
「蟲の唾液ってのは殺菌効果があるもんなのよ」
もっともそりゃ蜘蛛とかの話。私のつばぺっぺにどこまでご利益があるのかは知らないけど……ずいぶん柔らかくしたつもりだった肉を、少女はゆっくりゆっくりと嚥下していく。ルーミアが適宜水を飲まし、私が新しい欠片を食わせる。
それも四つめで口が開かなくなり、今度こそ穏やかな寝息を立て始めた。なるほど確かにさっきは息が弱まりすぎだった。
「これでもう死なない?」
「なわけない。こっからが大変よ。顎が折れてるんだから三食ぜんぶこっちで面倒見てやるしかない。ていうか折れてんの顎だけじゃないでしょ。片手と片足もだっけ? じゃあ下の世話もしてやんな。糞尿を放置するとそこから雑菌が入って死ぬよ。できれば体も拭いてあげたほうがいい。くれぐれも優しく」
「詳しいね」
「新鮮な肉にありつくには人間への理解を深めるのも大事なの。私グルメだから」
それは人間と仲良くなって肉を分け与えてもらってる、ということだろうか。
それとも生きたまま人間を管理して鮮度を保持してる、ってことなのか。
不穏な言葉を残し、ルーミアが立ち上がる。投げ渡された桶を慌てて受け止めた。
「じゃ、せいぜい頑張って」
「え」
「なにが"え"だよ。自分で蒔いた種は自分で面倒見るのが当然」
「でもルーミアの家でしょ」
「物置みたいなものよ。ボケた爺さんに押し付けられたの。今日いたのはたまたま。運が良かったわね。私は運が悪かったけど。どうせ貰い物だし好きに使っていいよ」
困ったな。引き止める理由が見当たらない。
そもそもルーミアがここまで面倒を見てくれるなんて思わなかった。おおかた目の色を変えて捕食対象認定するだけだろうと。
なんだか悔しい。まるで私が馬鹿な子供みたい。いや、その通りか……。
「あ、そうそう」
後ろ手に扉を閉めようとしていたルーミアが、振り返る。
「殺す気になったら、また教えて。どうせ人間の捌き方も知らないんでしょ? その時は教えてあげる。なるべく太らせといてよ」
パタリ。扉が閉まった。
やっぱりさっきの言葉は鮮度管理の方だよな、と腑に落ちた。
◯
いつからだろう。蟲たちとすれ違うようになったのは。
リグル・ナイトバグは、私は、蟲たちのリーダーだ。
誰が決めたわけでもない。私はリーダーとして生まれつき、蟲たちもそれに従う。疑問の余地はなく、疑問を感じたこともなかった。ずっとずっとそうだった。
けれど、ただの人間と現人神の間に途方もなく差があるように、妖怪である私と蟲たちとの間にも大きな隔たりがある。
蟲は大地に生まれつき大地と共に死んでいく。
しかしこの妖怪は?
私は天敵に怯えることもなく、餓死の危機にさらされることもなく、子孫を残そうと番を求めることもない。
よって私は大地に還ることもなく、目的も無しに彷徨う空虚な魂。
私は何者なんだろう?
そもそもが「私」ときたもんだ。蟲たちは「私」なんぞというあやふやな認識を持てないし、持たない。
さりとて人でもない。人は蟲を殺す。踏み潰し、叩き潰し、毒を撒き、森を刈り取る。私は人間が嫌いだ。私は人にはなれない。
蟲ではない者。
人ではない者。
冬の訪れと共に死んでいくこともできず、遊ぶ童に踏み潰されることもできない者。
それが私。
……頭が痛い。万力で締め上げられるようにキリキリと。
正直、気がついている。この頭痛は蟲たちのことを考えるとやってくる。私を否定するように、リーダーたりえない私を苦しめるように。
こんな風に悩むことじたいが馬鹿げてる。生に必死な蟲たちに悩む暇などないのだから。
そういえばこの頃は妖怪と人間の境目が薄くなっているとルーミアが言ってたな。じゃあ私は蟲よりも妖怪よりも人間に近づきつつあるんだろうか。
いや、ルーミアの言葉は妖怪じゃなく人間の話だったか……。
「ああ、起きてたの?」
思考に耽りすぎた。ベッドに横たわる少女の目がとうに開いて、こちらをじっと見つめてくるのにさえ、気が付かなかった。
昨日ルーミアが帰ってから一度も目覚めなかった分、土気色だった顔色はだいぶマシになっていた。
「私はリグル。蛍様の妖怪。君、これから私の夕餉になるんだよ」
反応なし。
右側の目だけひくついてたけど、たぶん青痣が痛むだけだろう。こいつ私が妖怪だって信じてないのかな?
「ほら見える? これ、触覚。動いてるでしょ? 人間じゃないって証拠」
やはり無反応、無感動。
ふつう自分が妖怪に出くわしたら涙目で取り乱すものだ。そりゃ私は弱小妖怪の部類だけど、人間一匹くびり殺すくらいなんてこたない。ビビらないのは白痴か老人くらいのもの。
とはいえこの子は頭がボケてるようでもない。じっとこちらを見つめる瞳には意思の光が宿っている。私が恐るるべき妖怪と理解しながらの無反応か。
さりとて、舐められてる時のイラつきも感じない。敵意があればすぐにわかる。
まあ、感性がズレた人間もいるもんか。そんなだから人間同士の生存競争に負けたんだろう。
人の世も蟲の世もどこであれ、変わり者とは鼻つまみ者だ。
「あっそ……」
まったく拍子抜け。べつに驚かせたかったわけじゃないが、こう無反応だと手応えってものがない。
「うんとかすんとか言ったらどう。それとも言うべきこともないほど私はつまんない妖怪に見える――」
いや違うか。遅ればせながら理解する。
こいつ、喋れないんだ。なにせ顎が折れている。下手に口を動かすと激痛が走るだろう。
そう思うと確かに口元がもごもごしていた。なにか必死に言葉をひり出そうと……痛みに顔を歪めながら、そいつは口を開いた。
「あ……」
「あ?」
「あ……ぃ、が……ぉ……」
「なんて?」
「ぅ……」
まったく意味不明。喋るだけ体力を消耗するし、黙らせておいたほうがいいかも。
「もういいから。おとなしく寝てな」
さっき起きたばかりだけど、怪我人に寝る以外の仕事もあるまい。それくらい私でもわかる。
……はずだった。
ぐぅ、という間抜けな音に抗議を受けた。今のは腹の蟲がなる音……それくらい、わかる。
「はいはいわかったよ! 寝た後は飯ね! そりゃそうでしょうとも! 水汲んでくるからちょっと待ってな! ああもう涙目にならない! 怒ってないから!」
とにかくあの干し肉は塩辛すぎる。水がないとろくに受け付けない。
立ち上がり……マントの裾を掴まれた。はぁ……次はなに?
「ちょ、ちょっと。離してよ、君のために水汲んでくるんだから」
そう言っても首を横に振るばかりで埒があかない。私に見捨てられると思ってるのか。本当に弱っちい生き物だ。
とにかくなんとか引き剥がして井戸に急ぐ。いやべつに急ぐ必要もないのだけど、あの涙目だ。置いていく私が悪者みたいじゃない。
鶴瓶が私の手を離れ、井戸の底へ至る闇の中に落ち行く。
ぼちゃり。深いところで音が響いた。
きり、きり、きこ、と鶴瓶を引きあげる単調な音色。
まったくなにやってんだろな、私。そもそもあの人間は死にたがっていたんだ。どさり。こう面倒を見てやる必要があるのだろうか。あのまま死なせてやるのが――
どさり?
「なによ、今の音」
気のせい……じゃない。
そこそこの大きさのものが落ちたような衝撃音だ。ちょうど人間の、子供くらいの。
ああ、くそ。
なんでこう次から次へと! そしてなんで私はこうも急ぐ? なんでこうも胸騒ぎがするのよ! 蟲のしらせばっかり!
慌てて駆け戻ると、案の定ベッドの下に落っこちた人影がいた。自分でベッドから出ようとしたの?
「なにしてんの!? 動いちゃダメだってわかんない!?」
とにかく抱き起こすと酷い汗だった。おまけにガタガタと芯からの震え。浅い呼吸。
頭でも打ったの? いや大した高さじゃない。この程度なんてことないはず。
じゃあ、でも、これはなんなの? ルーミアはなにも言ってなかった!
「ねえどうしたの!? 大丈夫!?」
彼女を抱きかかえる胸元の辺りに脂汗が染み込んでいく。
とにかくこんな地べたの上じゃダメだ。ベッドの上に戻すが、これも一苦労。
昨日はあんなに軽く感じたのに、意識が乗っているとめちゃくちゃ重い。
それから……いや、もう、できることなんかない。
虚ろな瞳。肥大化した瞳孔。蟲にはないもの。震える手を握る。虹彩の鮮やかさがよく見えた。こうして顔のパーツだけをじっとみていると人間も蟲もそう変わらない遺伝子の表現型。
その息苦しい時間がどれほど続いたのか。気がつくと震えは治まっていた。
「……落ち着いた?」
どっと疲れた。いったいなんだったのよ。世話してるこっちが倒れそう。
「そういえば水を汲んでる途中だっけ……」
立ち上がるとまた掴まれる。今度はマントじゃなく、服をじかに。
「ちょっと」
怯えたように首を振られても、困る。
「なに……行くなってわけ?」
こくり。首肯されても……その、なんだ。困る。
とはいえ強引に取り残してまたさっきみたいになってもさらに困る。
「……わかったよ。ようするに一人にしなきゃいいんでしょ」
指を鳴らし、蛍たちを呼びつける。この小屋は暗いからちょうどいい。
程なく、文字通り蛍光色の灯りが窓から入ってきた。蠢く夜の星座のように、くるくるくるくる、秒間瞬き姿を変える光のアート。
すぐにこの子の視線も釘付けになった。ま、当然ね。蛍様が出て喜ばない奴なんかいない。
「あのね、私は君のために水を汲んでくるんだから。ちょっとくらい待ってて。それまでは蛍たちが一緒にいるから。私は蛍の妖怪で、じゃあ蛍も私みたいなもの。でしょ?」
無言。
むむむ、これでもダメなら……と思ったが、単に蛍に見とれていただけらしい。慌てて私に向き直った瞳は好奇心に輝いていた。
それからハッとしたように、こくりと首肯。
「よろしい」
また外に出るともう日が暮れていた。晩夏の宵時の空気、ぴりりと寒い。
釣瓶を引き上げる間中は気が気じゃなかったけど、今度は何も起こらなかった。
で、そもそも食事をするって話だっけ?
「はぐ……ふぉっと待ひな」
またあの塩辛い干し肉を噛みしだき、食わせる。
蟲を育てる人間はいるけど人間に給餌する蟲は珍しいだろうな。
「んべ……ほら、ちゃんと食べて」
もくもく、と折れた顎を気遣いながら、じれったそうに欠片を飲み込んでいく。
頃合いを見て水を渡す。片手は使えるようで自分でごくごく飲んでいた。
とても死にたがっていた人間には見えない生命力。
「食べたらさっさと寝な」
またしても、無言。それとマントの裾を掴まれた。あくまで控えめに。
たぶん私になにかしてほしいんだろう。立ってるものは妖怪でも使え、か。生物の適応ってのは恐ろしい。
「はいはい次はなに? 子守唄でも唄ってほしいわけ?」
もちろん違った。難題だ。腹の蟲が鳴ってくれるわけでもない。
結局、控えめに膀胱のあたりをさする仕草でやっと理解できた。
「……おっけ。なるほどね」
そういえば下の世話をしろとかルーミアが言っていた。
ま、そりゃそうだわな。あんなに水を飲んだら蝉だって尿をだす。
「厠でするのは無理でしょ。ここでしちゃいな。べつに気にしないから」
とはいえベッドの上で垂れ流すのもまずいだろう。
適当に小屋の中を物色すると埃を被った皿が見つかったので、なるべく深めのをいくつか持ってくる。
どうせルーミアは使ってないし(あいつは手づかみでも気にせず食う)、構うこともない。
「ほら身体起こして。掴まって。そうそう上手。大丈夫よもっと体重かけて。私は妖怪なんだから。それにうんちもおしっこも気にはしないわ。ていうか人間の排泄物は蟲には貴重な栄養源で……いやそんな嫌そうな顔しないでよ! 悪かったってば!」
ああもう、こっちだって手一杯なんだ。
とにかくなんとか身を起こして、次は……
「あー、じゃあ下脱いで。女の子同士だし恥ずかしくないでしょ」
べつになんてこと無い要求のはず。けれど予想外に強ばる表情。
あれ?
そんなに私、信頼されてない?
そりゃまあ服は男物とか頓着しないし、髪もショート気味にはしてますが! 自分で整えてるんだから仕方ないでしょ!?
って。
まあ、うん。もちろんそうじゃなかった。
どうせ尿意(あるいはもう片方)には逆らえない。なんとか脱がすのを手伝ってやる。少女の痩せた下半身があらわになる。
それでようやくわかった。酷いもんだ。
「……ちっ」
たぱたぱとオレンジがかった液体が器に溜まっていく。
正直言って予想はしてた。思ってたより碌でもなかったが。
けれど……それがなに? 人間の事情なんざ私にゃ関係ない。知ったこっちゃない。その通り。
それからも色々してやった。
おしっこ捨てたり、股間を拭いたり、ついでに全身も拭いたり(もちろん別の手拭で)。
ようやく寝息が聞こえてきた頃にはもう夜はとっぷり深けて、こっちはぐったり潰れてて。
「あぁぁあ……やっと寝たか……」
ほんとうに、なぜ人間なんかのためにこんな苦労を?
考えても答えは出ない。頭が痛くなる暇もなかった。なにせ考えてるうちに私まで眠ってしまったから。
◯
烏兎匆匆とでも言うべきか、あの子を拾ってあっという間に一週間が経った。
状況は相変わらずで、彼女は喋れないし、歩けないまま。ただ顔の痣は少し引いてきたかな。剃られた半分側の髪もちょっぴり伸びた。
他に良いことといえば、口にする干し肉の量が増えてきたことくらい。
最初は欠片を少し食べる程度だったのが、今はまるまる一つ食べられるようになった。
ただ、おかげでいちいち噛みしだいてやるのが面倒になってきた。
「そーら朝飯の時間だよ」
食事時以外は蛍たちと遊んでるようだけど、こうして声をかけるといつもぴたりと中断し、申し訳無さそうな顔で縮こまる。
世話になるのを遠慮してるんだろう。
「片方腕が使えないんだからどうしようもないじゃない。だばだば溢されても困るし」
そう言って聞かせてもこの態度だけは一向に良くならない。生来の性格かしら。
「んべ……はい。人間ってどれくらいで骨折とか治るの?」
ふるふると首が振られる。そりゃ知らないよな。私も自分の骨が折れたらどうなるかなんて知らん。
まあこの食事風景も慣れたもの。向こうが一生懸命んぐんぐ食べる間、こっちは悠悠閑閑もぐもぐやっとく。
すると食べ終えた頃に次が渡せる。あんまり効率を上げすぎたせいで顎が疲れるくらいだ。
まったく、慣れとは恐ろしい。
「あ、そうそう。今日はちょっと出かけるから。干し肉それで最後なのよ。ちゃんとお留守番できる?」
ためらいがちに、こくり。首の根元から顎が引かれる。そうしないとまだ痛むんだろう。
こっちもほっと一息だ。また前みたいになられても困る。
それに留守番には蛍もいるし、この子には伝えてないけど外に羽虫の小隊も配備してある。
こんな山小屋を襲撃する酔狂な奴もいないだろうが、心配はあるまい。
そうして最後の一切れを食べさせ終え、ついでにおしっこの手伝いをして、ようやく買い出しに出られる態勢ができた。
「じゃ、良い子で待っててね」
去り際、手を振る彼女の姿が見えた。私も振り返す。
まったく人間みたいだな、こんなんじゃ。
苦笑しつつ扉を閉める――と、同時。地平線の向こうから雷鳴の響き。今はこんなに晴れてるのに……天気、崩れるのだろうか。嫌な感じだ。
「……早く戻ってこよっと」
幸いにもこの小屋は人里からほど近い場所にある。まあ元は人間が建てたんだろうし当然か。
そういえばここ、何目的の小屋なんだろう? ルーミアは何も言ってなかったけど。
なんて。
しょうもないことを考えてるうちにもう、郷に着いていた。人間の足ならともかくこちとら空飛ぶ蛍様。
それにしてもこの人いきれ。特に市場通りは凄い人出で、ただ立ってるだけで右に押され、左に押され、くらくらする。蟻や蜂の巣もかくやだ。
しかも蟻や蜂は遺伝子に従って種のために、巣のために淡々奉仕するけれど、この場の人間たちはそうじゃない。
誰もが己の利益を得るため他者に先ずる機会を虎視眈々と伺っているのだろう。ぞっとする。妖怪とばれないよう頭巾をしてきてよかった。
「干し肉あります? あんまりしょっぱくないやつ」
用事は割合すぐに済んだ。思ってたより高かったけど、どうせ金なんか持ってても使い道はない。
見上げた空はまだ薄く雲がたなびく程度。今帰れば驟雨に蜂合わせることもない……。
「――ですって、聞きました? 神隠しだそうですよ」
なぜ、その時すぐに立ち去らなかったのか。
なぜ、耳に入った噂話が気になってしまったのか。
蟲の知らせ。
しかも今回は嫌なやつだ。今すぐ去ねと理性が叫ぶが、直感が足を縛り付ける。
「うちの子と同じくらいの女の子よね? 怖いわぁ」
「まあ……でもあそこの夫婦はほら、あれじゃないですか」
「ちょっと! そこまでは私は」
「だけど、神隠しだかなんだか……本当にそうなら、あの子にとっては幸運なんじゃありません? ご存知でしょうあそこの奥さん、躾とか言って髪を半分剃り上げたとか……顔が歪むほど殴ったり……」
「旦那さん、巫女に頼むって喚いてたそうだけど」
「あの二人が退治されたほうがよっぽど世のためですよ」
「シッ……大きな声で言わないで。バレたら後で因縁つけられるわよ」
「聞かれやしませんよ。どうせあそこの夫婦は昼間から飲んだくれてるんだから……あら」
気がつくと、私は。
その二人の前に立っていた。
いったい私はどんな顔をしていたのやら、こっちを見る二人組のぎょっとする表情が間抜けだった。
慎重に、素知らぬ声で――でもやっぱりそうもいかなくて、ひどく重々しい声になって。
「その話、詳しく教えてもらえます?」
そうして、二人は一も二もなく教えてくれた。快く。
◯
これはただの衝動だ。
怒り、苛立ち、憎しみ、あるいは単なる嫌悪感。
問題はその衝動が、この私の衝動が、いったいどこから来てるかってことだ。
ああ、痛い。頭が割れるようだ。
「だからよぉ! さっさと売っぱらっちまえばよかっただろうあんなガキ!」
その家を見分けるのは実に簡単な仕事だった。
怒声に罵声、それだけじゃない。その家からはひどいにおいがした。
人間には嗅ぎ分けられないだろうが、私の鋭敏な触覚が確かに捉えるひどいにおい。
負のにおい。
欲望のにおい。
見せかけのプライドと安っちい傲慢を暴力で塗り固めたにおい。
人間の嫌な部分を煮こごりにしたようなにおいだ。
「知らないよ神隠しなんか! てめえの子供に手を出すようなろくでなしは黙ってな!」
「な、なんのことだよ!? だいたい神隠しだなんて言うがな、おまえの躾がろくでもないから逃げ出しただけだろう!?」
「なんだと!? 死んじまえこのろくでなし!」
「こっこのクソアマ! 誰の家に置いてやってると!」
なにかが割れる音。誰かが打ち据えられる音。物音。騒音。雑音。
うんざりだ。一秒だってこのにおいに耐えられない。
傾いた扉を蹴破り、クソ野郎二人を見下ろす。
呆気にとられてんのか口をぽかんとあけて。馬鹿みたいだな。
「な、なんだよてめえ……」
今すぐ殺してしまわないよう息を吸い込む度、あのにおいが鼻についた。それがひどくイライラするんだ。
本当はこんなのと口を利くのはごめんだったが、どうしても一つ、聞かなくちゃならないことがある。
「なんとか言えよクソガキ!」
「黙れ」
「ひっ……なんだこりゃっ、む、蟲がっ。こいつらどこから――」
「答えろ。おまえたちは人間のくせになぜそうも残酷になれる? 妖怪でもしない鬼畜の所業を平気でする。それはなぜだ?」
「蜂が! あんた蜂がっ、蜘蛛がっ、ごきぶりっ、ひぃ……蟲がっ! 蟲ぃ!」
「助けてくれ! なんなんだ許してくれよぉ! 何も知らねえよ俺は! ひぃい! 登ってくるなぁっ」
「答えろ! なぜだ!?」
なぜ。
ああ、なぜなんだ?
なぜ私はこいつらを殺せない?
殺すのは容易い。今も連中の全身を這い回ってる毒蟲の中には、一刺しで人など容易く殺せる者も混じっている。
私が彼らに命じれば――いや、皆の手を汚さずとも、この手で直接首をへし折ったっていい。
そうしないのはなぜだろう?
ちくしょう。
こうなるとわかっていて来たのはなぜだ?
気分でも晴れると思っていたのか? 頭痛が治まるとでも期待してたのか?
真逆だ。怯え狂う夫婦を見てもちっとも気分は良くならない。むしろ吐き気が湧いてくるばかり。
なぜだ。
なぜ、なぜ、なぜなぜなぜ……。
私は妖怪じゃないのか?
こいつらは人間じゃないのか?
なら、妖怪は人間を殺すものだ。そうじゃないのか?
ああクソ、頭が痛い。脳みそを直にかき回されているみたいだ。
あるいはこいつらを殺せば良くなるのか?
いや、きっとヘドロのような憂鬱が待ってるだけだ。
それがわかるから、私はこいつらを殺せないんだ。
しかしなぜそんな気分になるのかはわからない。それこそがこの頭痛の元凶だというのに。
「恙虫に咬ませた。数日は地獄の苦しみを味わうだろうけど、死にはしない……って、もう聞こえてないか」
全身を数百匹の蟲たちに這い回られ、二人はとっくに気を失っていた。
いいさ。どうせ答えなぞ期待してない。それより一刻も早く悪臭から逃げ出したい。
外へ駆け出る。またしても雷鳴が轟いた。青空を鈍色の雲が覆っていく。余計なことに時間を取られすぎた。
雨。
胸の底がムカつく。べつにあんな奴等どうでも良かったのに。人間が勝手に人間を痛めつけた。よくある話だ。そんなことがどうしてこうも苛ついたのか。
蟲であれば苛立ちなど覚えない。同種が真横で踏み潰されたとて、素知らぬ顔でその髄液をすする。生きるというのはそういうことだ。
ならこの苛立ちは、ムカつきは、いったいどこから来るっていうの。
しとどに降る驟雨が大地へ染み込んでいく。人里、喧騒、全てが遠のいていく。
代わりに近づいてくるもはや見知ってきた小屋が、ついさっき出てきたばかりのはずの小屋が、妙に鎮んで見えた。
「……ただいま」
蛍たちが闇の中でふよふよと翔んでる。眠る少女の周りでそれは、肉体から抜け出た魂のようにも見えた。
雨に濡れて冷えた手で、そっと彼女の手を握る。目を覚まさない。いったいなにを期待したんだか。お礼でも言ってほしかったのか。
ただ。
そんなどうでもいい考えはすぐに吹き飛んで、消えた。
……熱い。
ずぶ濡れで十分冷え切ったと思った私の身体に、ぞくり、駆け抜ける寒気。
だって熱いんだ。熱すぎる。握った手は、額は、火傷しそうなほど熱をもち、浅く繰り返される苦しげな呼吸。
これは尋常じゃない。それくらいわかる。
「ちょっと……なによこれ。どうしたの……?」
聞いて答えが返るわけない。買ってきた干し肉の束が床に落ちる音、妙に遠くで聞こえる。頭が真っ白になっていく。
どうすればいい。
どうしたらいい?
とにかくルーミア、ルーミアだ。あいつならなにかわかるかも。
かといって住所不定の妖怪……足の早い蟲たちを探査に出すが、見つかる保証はない。
――自分で蒔いた種は自分で面倒見るのが当然。
あいつの言葉だ。ちくしょう、それが置き土産か。
とはいえたしかに、今は誰にも頼れない。なら私がどうにかするしかない。
といって……なにができる?
とりあえず干し肉を噛みしだいて与えてみるが、受け付けない。つまり初めに拾ってきた時より酷い状況なんだ。
おまけに水も飲まない。
けれどこの熱だし、酷く汗もかいている。無理にでも水は飲ませたほうが良い気がする。これもまた蟲のしらせ。
そうだ。蟲と同じ方法はどうだろう? 手拭を水で湿らせて口に持っていく……これはよかった。
蛍が水を飲む時のように、染み込ませるように水を飲ませる。ゆっくりと。
全身の汗も拭き取る。これはいつもやってることだ。だいぶ顔色が良くなった。いや、変わりはしないか? 考えすぎている。落ち着け。
ええとそれから……それから……もう、できることは無かった。
あっさりと私のできることは尽きた。
せめて手を握り、静寂の中で雨の音を聞く。
本当に静かだ。
一瞬前までせかせか動き回っていたのが嘘みたいに思える。
この子は助かるんだろうか。助からないんだろうか。
助からなければ今までの苦労も無駄になるな。いや、そんなのはどうでもいいか。
どうせ私はいつもそうだから。
蟲たちを助けようとしたことがある。数え切れないほど。
でも無駄だった。いつも脆い蟲たちは死んでいく。鳥に食われて死に、童に踏み潰されて死に、冬虫夏草や黴に寄生されて死に、蟲同士で食い合って死に、ただただ死に。
この子も同じだ。脆い人間。このまま病で死んでいくとして、それはいつものこと。ありふれたこと。
私はいつだって無力なリーダーだ。
「そういえば……君は死にたがってたよね。それはまだ同じ? まだ死にたい?」
答えはない。これも蟲と同じだ。
蟲たちはなにも言わず死んでいく。生きたいとも死にたいとも言わずに死んでいく。彼らにあるのはただ遺伝子と本能の命ずるまま、その子孫を絶やすことなく繋ぐことだけ。
いつも哀しむのは私だけ。
だからもうこの頃は皆のことがわからなくなってきた。私ばかり哀しんで、嘆いて、苦しんで……私は思考する蟲。
頭が、痛い。
「君も私を置いていくのね」
まあ、それもいいかもしれない。また元に戻るだけだ。無感動で無関心な日々に戻るだけ。
これはなにかの間違いだったと思えば、それで……。
「……ん」
少し、目があった。
よほど辛いのか目元は虚ろ。それでも――私たちは視線を交わした。
手を握り返される。小さな手。私よりも小さな手だ。
またすぐ瞳は閉じられ、元の死に体な様子に戻る。
それでも……やっぱり、違うんだな。ぼんやりとだけど理解する。
蟲たちはこんなことしない。この子はやっぱり蟲じゃない。私が蟲でも人間でもないように。
ならきっと、まだできることもある。
◯
「……で?」
想像通りの木で鼻をくくるような対応。
これはわかってた。基本的に妖怪が歓迎される場所ではない、博麗神社という場所は。たぶん。
しかもこの土砂降りの中をやってきた珍客だ。ずぶ濡れで、髪はおばけ柳みたいで。さぞ私は間抜けに見えるだろう。
「お願いします。どうか教えてください」
「誰が頭なんか下げろと言ったのよ? 理由を話しなさい、理由を。妖怪のあんたが、人間向けの医者を探す理由!」
言葉に詰まる。まあこれも想像通り……とはいえ、やはり手厳しいな。
そりゃ私だって博麗の巫女なんか当てにしたくなかった。けれど妖怪の私でも問題なく、人間にも詳しく、かつ場所も明確になっている……これを満たす場所なんてここしかない。仕方なかったんだ。
「理由は……言えない」
「ならこちらからも言えることはない。話は終わりね。帰んなさい」
「待って!」
閉ざされる扉にしがみついてでも。ここを断られたらいよいよ孤立無援。
互いに扉の押し合いへし合い(開け合い閉め合い?)を続ける。博麗霊夢の凄まじく嫌そうな顔。私だってこんな場所嫌だ、おあいこだ。
「こんのっ……離しなさいよっ……!」
「離さないから! 教えてくれるまで離しませんから!」
「あんたねぇ……! こっちが優しく対応してるうちにっ……!」
「嫌だっ……!」
埒が明かないのはわかってる。博麗霊夢の言葉通り、向こうが本気を出したら私なんか一蹴だ。それもわかってる。
医者が必要なのが私なら引き下がった。でも今は違う。私が諦めたら、また私は助け損なう。もう十分だ。取り残されるのはもう嫌だ!
「お願い……しますからっ……!」
「そんっな……鬼気迫る顔で頼んだってねぇえっ……!」
そのまま絶望的な鍔迫り合いが続くものかと思った。上等だ。
でも、助け舟は意外なところからやってきた。
「医者が必要と聞いて!」
「んぎゃっ!?」
いきなり向こう側から押さえる力が消えた。当然勢いよく開かれた扉ごと天地がひっくり返る。
そのまま泥濘んだ地面に横たわる私を、兎みたいな耳の妖怪が見下ろした。狂気がかった赤い瞳。
「ちょっと! 雨宿り客は引っ込んでなさい!」
「そうもいかない。こちとらノルマというものがあるのよ! いきなりの雨でぜんぜん薬捌けてないんだからー! 師匠にどやされるー!」
「知らんわ……」
「というわけでー……あなた薬がご入用? 運がいいわねぇ、なぜか今日の在庫はぜーんぶ残っててよりどりみどりよ! はぁ……」
「あ、あなたは……」
「しがない薬売り。うどんげって呼んで。あるいはうどんげさんって」
「優曇華、人の仕事に口を挟まないで」
苛立たしげな博麗霊夢をうどんげさんが笑顔でとりなす。あの巫女にここまで勝手知ったる態度……相当の強者なんだろうな。背筋が震えるのは水溜りに濡れたせいだけじゃない。
「ちょっと失礼」
雨に濡れるのもいとわずうどんげさんは身をかがめ、人差し指の先をそっと私の額に添える。
なにかをされた感覚は無かった。でも確実になにかされている。というかなにかを読み取られている……そんな感じがする。強者こわい。
「うーん、この子の波長は不安、焦燥、苛立ち、疲労、無力感。典型的な看病人の波長ね。事情はわからないけど……彼女には助けたい病人がいる。それもかなり不味い状況の。放っておけばきっと死ぬわ」
「なぜこっちを見る」
「博麗の巫女のせいで人間が死んだら寝覚めが悪いんじゃない?」
「……あっそう。じゃあこういうのはどう? この場でこいつを叩きのめして事情を吐かせる。その上であんたと私で行く」
博麗霊夢の目は本気だった。
雨で頭が冷静になってきたせいもあり、今更ながら自分がとんでもない蛮勇を犯したって理解する。
この二人が本気で向かってきたら私なんて――
「無理ね」
が、うどんげさんのにべもない拒絶。どっと全身から力が抜ける。博麗霊夢だけが不服げだった。
「なぜ」
「私が協力しないから。そんな乱暴な方法、医者としての矜持に関わるわ!」
「誰が医者よ、ただの薬売りでしょうが……はぁ。じゃあもう勝手にして。その代わり、なにかあったら永遠亭が責任取ってよね」
「そりゃあ患者の責任は医者が取りますとも。まあ任せてってば」
「しっしっ」
ピシャリと戸が閉められるのも構わず、うどんげさんは満足げに息を吐く。
とりあえず助かった……?
「あの、ありがとうございます」
「いいのよ気にしないで。霊夢も立場上ああ言ってたけど、心の底では心配の波長が出てたから。不器用な人なのよね。私が行くことになって安心の波長に遷移したもの。かなり苛ついてはいたけど」
「はあ……」
「じゃ早速だけどどの薬にする? って……もう直接診たほうが早いか。どうせ雨でお客さんもいないし。案内できる?」
「えと、それは――」
「大丈夫よ、霊夢には言わない。患者のプライバシーはちゃんと守るから」
そう言うと、赤い瞳が華麗にウィンクをした。
◯
小屋に戻ると雨はもう小降りになっていた。
とにかく一刻も早く彼女の元へ駆け戻る。熱は引いてないけど、良かった、まだ生きている。
それで、
「うわっ」
高熱に臥せる少女を見るなり開口一番、うどんげさんの眉根が引きつった。
「そんなに酷いんですか!?」
まさかもう手遅れで……そう思ったけど、違うらしい。
神社で見せた笑顔はどこへやら、青筋を浮かべる勢いのうどんげさんは私の首を絞めかねない勢いだった。
「この子になに食べさせてたの!?」
「え、いや……そこの干し肉を……ダメでしたか……?」
「それ以外は!?」
「え……?」
「干し肉しか食べさせてなかったの!?」
「は、はい……」
「野菜は!? お米は!? こんっっな塩辛い肉だけでずっと!?」
こくこくと頷くことしかできない。
深い深い溜め息が響く。地獄の底から漏れ出たような溜め息が。
「そりゃ風邪もひくわ。ビタミン不足で肌はガサガサ、カロリーも必要摂取量にぜんぜん足りてない。あなた蟲の妖怪って言ったっけ? 人間は蟲みたいに一つの食べ物だけで生きる……ってわけにはいかないのよ?」
「そうなんですか!?」
驚き。大抵の蟲たちは生まれつき特定の食料を取るために特化している。人間は違うんだ。ほんとによく繁栄できたもんだ。
「で、この骨折と痣は?」
「それは私が拾った時からありました」
「ふむん。そっちの処置は後か」
「そ、それより助かるんですか……?」
「ただの風邪よ。偏食したせいで栄養が偏ったのね」
「うぅ……」
そんなことルーミアは言ってなかったのに。
なんて人のせいにしてもしかたないけれど。
「まあ水分はしっかり取れてるみたい。それさえ無かったら危なかった。解熱鎮痛剤と抗生物質、あとビタミン剤も出しておくわ。二日も安静にしてれば治るでしょう」
「ほ……」
思わず息が漏れた。
一通りの薬を飲ませてあげると、苦しげだった呼吸も徐々に穏やかになっていった。
ついには熱を出す前より安らかな寝息が聞こえるくらい。
ああ、良かった。今度は助けられたんだ。
へなへなと全身から力が抜けていく。
「本当にありがとうございます。本当に……」
「良いのよべつに。薬と引き換えにお金をもらう。それが私の仕事」
「あ、お金……」
「ふふ。言っておくけどうちの薬は高いよ?」
忘れていたわけじゃない。ただ言い出されるまでは黙ってただけで。
お金。昔に蟲のしらせサービスをしていた時に稼いだなけなしの貯金も、干し肉を買ったので使い切っていた。
お金を払えなかったらどうなるんだろう?
まさかこの場で――
「そう青ざめないで。ていうか踏み倒すつもりだった?」
「そういうわけじゃ……ただいっぱいいっぱいで……」
「ま、いいわ。私も商売人だから、なんのアテもなく来たりしない。知ってるでしょう? 蟲は希少な薬の原料になるの」
うどんげさんの赤い瞳が細まっていく。心の器を直接鷲掴みにされるような感覚。
後ずさると、もうすぐ後ろが壁だった。
「助けてもらったことは感謝してます……でも、蟲たちの命を差し出したりできない」
「生きてる必要はない。死骸を提供してくれればそれでいいわ。あとは冬虫夏草とかね。どうせ土に還るだけの有機物。問題ないでしょう?」
「そ、それは……」
たしかにうどんげさんの言葉は正しい。同種が真横で踏み潰されたとて、素知らぬ顔でその髄液をすする。それが蟲たちだ。死骸はものでしかない。ならなぜ首肯けない?
無言。
とはいえ代金を払わないわけにもいかない。そうすればあの子は助からない。
ずいぶん長く悩んだ気がした。でもどうせ選択の余地はなかったんだ。なにも手放さずに得ようなど、それこそ蟲が良すぎる話。
「……わかりました。それでお代になるのなら」
瞬間、うどんげさんの相好が崩れる。
ピンと張り詰めていた空気が弛緩し、穏やかな空気が戻った。
「ふふん、商談成立! まあ慰めになるかわからないけど死骸を弄ぶわけじゃないからね。薬となって誰かの命を救うのよ。あの子を助けたように」
「べつに蟲たちはそんなこと望まない」
「さりとて拒むわけでもない。二重螺旋の鎖に従い生きるだけの彼らはどこまでいっても無関心。違う?」
「……」
「さーてと! お代も貰えそうだし、残った仕事を片付けましょうか!」
「残った仕事?」
まだなにかあるだろうか。薬は出してもらったし、代金の算段もついて……
本気でわからない私に対し、うどんげさんはにまりと笑う。その細くきれいな指先が突きつけられた先は――
「え? 私?」
「そ。料金分の仕事はしなくちゃね。このままじゃ貰いすぎだわ」
「私はべつに診てもらうことなんて――」
「嘘おっしゃいよ。その乱れきった波長。重症ね。直ちに検査の必要ありだわ」
有無を言わさず私は椅子に座らされる。すごい力だ。向こうは本気じゃないんだろうけど、それでも全然敵わないのがわかる。
そのままうどんげさんは私の瞳を射抜くように見据えた。否が応でも緊張が走る。この人の赤い瞳に見つめられると――なんていうか、心が裸にされるような感じがする。
ただし敵意は感じなかった。こうなったらもうジタバタしても仕方がない。煮るなり焼くなり好きにしろ、だ。
「さあ、力を抜いて。あなたの狂気を私に見せて……」
赤い瞳がさらに色を濃くしていく。
黄昏の陽よりもなお赤く、赤く、あかく……。
◯
私は思考する蟲。
生にしがみつくことなく、死を畏れることなく、唄を聞けぬ蟲たちに子守唄を唄っている。
皆がよく眠れるように。皆が幸福になれるように。
幸福。
蟲たちにとって幸福とはなんだろう?
餌場にありつくこと。天敵に狙われないこと。子孫を残せること。遺伝子に刻まれた「快」と「不快」に忠実に従う奴隷たち。
もちろん当人たちはその二重螺旋の鎖を意識することもない。
けれど私は違う。私は妖怪だから。私は蟲であり、蟲でない。私という表現型のあらゆるは遺伝子にその端を発していない。
きっとそれが不幸の走り。
私は枷を外した者。枷から逃れた者。蟲籠からまろび逃げ出した一匹の蛍。
問題は。
虫籠の外に仲間は誰もいなかったってこと。
「そう……それがあなたの孤独の波長の由来」
そうだ。私は孤独なんだ。私が理解しようとする蟲たちは誰も私を理解してくれない。
「だけど、理解してほしかった」
当たり前だよ、だって辛いんだ。
冬の訪れと共に死んでいく皆を見送るのが。
嫌われ、疎まれ、容易く踏み潰される皆を見つめるのが。
こんな辛い思いをしたんだ。一言だって労いの言葉が欲しい。そう思うのはいけないこと?
だけど、私はリーダーだから。
いつだって皆のためにもっと……もっと……してあげたかった。意味のない子守唄を唄うより、皆がよりよく生き、よりよく死んでいける手助けをしたかった!
でも。
ほんとうはわかってるんだ。蟲たちはそんなこと望まない。
蟲たちが私に従うのはただ、私が彼らの衝動を誘引するフェロモンを操れるからに過ぎない。
リーダーだからじゃない。私はただの妖怪だ。蟲たちを都合よく操り、都合よく仲間扱いする、哀れな思考する異形の蟲。
だって私には二本ずつの手足しかなく、五本の指でものを掴み、体節ではなく脊椎を持ち、外骨格ではなく内骨格で体を支え、複眼はなく、羽もなく、なにもない。
まさに異形。
私は畸形の蟲。孤独な蛍のなり損ない。人間と蟲のチャンポンだ。
「だからあの子供を助けたのね」
そう。私が蟲よりむしろ人間に近いなら、人間が私を理解してくれるかもしれない。私が何者なのかを理解できるかもしれない。
そう思ったから。
「……妖怪のルーツは私も詳しくない。けれどもそう、たしかに我々は人の貌をしている。人のように思考し、人の言葉を媒介とする。卵が先か鶏が先かは知らないけどね。とはいえ、魑魅魍魎の全てがあなたのように思うわけじゃないのも事実。ルーツなど気にせずその日暮らしに興じる者は多い」
そう。ルーミアならきっと私みたいには考えないだろうな。
なぜ違うんだろう。私とあいつはなにが違う。
「それはあなたが優しいからよ」
優しい? 私が? 蟲たちになにもしてやれない私が。拾った子供の世話もできず、熱病に陥れた私が?
「無力であることと優しさとは矛盾しない。むしろ……あなたの無力さこそがよりあなたの波長を決定づけている。わかるでしょう。本当にあなたが無慈悲な蟲の女王なら、兵どもの跡に涙を流す必要があって?」
私は……。
「あなたは優しい。優しくて、愚かで、だからあなたの波長は乱れ続ける」
……。
「蟲たちの死に心痛めるのも。哀れな子供を放っておけないのも。それはひとえにあなたが――愛を持っているからよ。たしかにそれは蟲には持ち得ないもの。あなたを狂わす狂気そのもの」
そう、私は。
私はただ蟲たちを愛してるだけなんだ。
けれど皆はそれを解さない。精細胞と卵細胞を効率よく結びつけるための衝動は持っていても、この感情――私が彼らに対して持つもの。それを理解してはくれない。
それが私の孤独。
それが私の狂気。
私は蟲でありたかったんだ。愛など知らずにいたかったんだ。
なのに蟲たちを放っておけない。あの子を放っておけない。
あの子を痛めつけたクソみたいな人間を放っておけない。さりとて殺すこともできない。
ああ痛い。またあの頭痛がやってくる。
そう、これは私自身の心の痛み。どっちつかずな心が引き裂かれていく痛みなんだ。
なら私は……どうすればいい?
「あのね」
優しい声が響く。ぼやけた輪郭が徐々にその像を結んでいく。そこはまだあの小屋の中で、うどんげさんの温かい赤色の瞳が私を見つめていた。
私は最初と同じく椅子に座って呆けていた。うどんげさんが微笑んだ。
「私は、あなたはあなたのままでいいと思う。優しい心を持ち、愛することを知る蟲がいてもいいじゃない。きっと……だからこそ、あなたは蟲のリーダーなんだわ。だって愛のない世界には争いしか無いもの。それにあなたは蟲でもあり、人でもある。それは孤独をもたらすかもしれないけど、裏を返せば、二つの世界を行き来できるということよ。それはとても尊い力じゃない?」
「そう……なんでしょうか……」
「だってあの子は、あなたが助けなければ死んでいたでしょう」
「……でもあの子は死にたがっていた」
「波長は移ろうものよ。特に幼子の波長は短いからね。もう一度聞いてみて」
それは……ちょっと怖い。でも聞いてみたくもある。
そう、思えばあの子のことを私はぜんぜん知らないんだ。もっともっと知りたい、あの子のこと。
また思考に耽りかけたけど、その前にうどんげさんが立ち上がった。見上げるとすらりと背が高くて、目を見張るくらいの美人なんだと今更ながら気がつく。
ようするに……人の外見を気にする余裕も今まではなかったってこと。そういえば私も泥濘みに突っ込んだままで、背中半分が泥まみれだ。蛍は蛍でも幼虫に戻ったみたい。
「どう? ちょっとは楽になった?」
「少し……私、今まで自分がなにに苦しんでるのかわからなかった。原因が無くなったわけじゃないけど……とりあえず、それがなにかはわかった気がする」
「そ。じゃあ良かった。これは人間の知恵だけどね、悩みは抱え込まずに話したほうがいい。自分のことって案外わからないものだから」
「参考にしてみます」
「よろしい! ん~~! 久々に力をガッツリ使ったから疲れたわ~~!」
思い切り伸びをするうどんげさん。
そういえば私、なにをされていたんだろう? 力を使ったって言うけど……どんな力?
ちょっと怖くて聞く気にはなれなかった。私、なにか変なことされてないよね?
「もう行っちゃうんですか?」
「明日も仕事があるのよ……はぁ。渡したお薬はちゃんと飲ませてあげてね。骨折の痛み止めも入ってるから楽になるはず。それとはべつにサービスも入れといたわ。あと肉ばっか食べさせないこと! 後で兎たちに野菜を届けさせるから、ちゃんと火を通すのよ?」
「色々ありがとうございます」
「いいのいいの。その分の対価は貰うわけだし。請求書も兎たちに持たせとくわ」
「あ、はい……」
そういえばあまり深く聞かなかったけど、結局どれくらい支払えばいいんだろう?
これもまた、怖くて聞く気にはならなかった。
「それじゃ、お大事に」
扉が閉まる。なんだか久々に静寂が戻ってきた気がする。
雨はもうあがっていた。
◯
「はい、あーん」
まだ湯気の立つ器から粥をよそい、小さな口へと運んでやる。
ぱくり。むぐむぐ。
顎の怪我もだいぶ良くなってきたらしい。自分で咀嚼するにも問題はなさそうだ。
もう私がいちいち噛みしだいてやる必要もないんだなぁ。ちょっと寂しくもある。
粥は、兎たちの持ってきてくれた野菜や米を混ぜ込んだ簡単なやつ。料理なんて初めてだったから教えられた通り作ったけど、とりあえず見てくれは良い。
味も……悪くなかったとは思う。ただ所詮は蟲の感性。人間にはどうか。
「……どう? おいしい?」
こくり、と顎が引かれる。
ああよかった。ほっと胸をなでおろす。
「ほらお水も飲んで」
この子が熱を出してから二日目。うどんげさんの薬はてきめんの効果だった。
体調はすっかり戻り、血色も前よりずっと良い。介添えについてあげれば厠にだって行ける。
それでも一人きりになるのはまだ不安らしい。
むぐむぐと粥を喰みながらも、意識してか無意識か、私が何処かへ行かないようマントの裾をずっと握りしめている。
でもその不安も現実になることはなかった。
光陰矢の如しは言い過ぎにしても、何もかもが平穏に過ぎ去っていった。これまでの混乱と苦労が嘘のように。
私は料理に苦戦し、彼女の方は目に見えて回復していく。ただそれだけの日々。
そしてまた二日経ち、三日が経ち、熱で倒れてから一週間。
彼女はもう小屋の外を駆け回れるほどになっていた。
「病み上がりなんだから無理しないでよ」
木漏れ日差し込む林の中、ようやく取り戻した自由を満喫するように右へ左へ。
私はそれをぼんやりとした気分で眺めている。
本当なら無邪気な笑い声だって聞こえてきてよさそうなものだけど、あいにく言葉だけは彼女の元へ帰っていない。
顎の骨折はとうに癒えたはずだ。なにか別の理由で喋れないのか。それとも単に喋っていないだけなのか。
まあ……言葉なんて無くても困ることはないけれど。
飛び交う烏揚羽と踊り、蛍の標に沿って舞う。二人で切り株に腰掛け、日暮の音色に耳を澄ませる。遊び疲れれば私の膝を枕に眠り、流るる川のせせらぎを聞く。
いったい他になにが必要?
あどけない寝顔だ。黒曜色の髪にもだいぶ艶が戻ってきた。手ぐしを入れる度、さらさらと流れていく。
「……あれ?」
違和感。なんだろう……と思って、すぐ理解する。たしかこの子、片方の髪は剃られていたはずだ。
なのにいつの間にか禿げてた側にも髪が戻ってる。もう半分は伸びすぎなくらいだ。
人間の回復力は凄いなぁ……なんて、さすがの私でも思わない。
そういえばうどんげさん、サービスがどうとか言ってた気がする。
まさかこれがサービス?
「いや薬売りとしてどうなのよ! 説明もなしに薬を飲ませるな!」
その叫びで寝た子を起こしてしまった。
まどろむ彼女に向け、髪の毛を指さしてやる。だが返ってきたのは「え、気がついてなかったの?」と驚いたような顔だった。生意気。
「まあ喜ばしくはあるけど、ちょっとアンバランスね」
頭髪の半分は胸下の辺りまであるのに、もう半分は肩まで届くか届かぬかといったところ。
とはいえ誰に見せる予定もない。本人が良いなら構わないか……と思っていたところ、またマントの裾を引かれる。
ちなみにマントの裾をぐいぐい引かれるのは、なにかお願いがある時の控えめなサイン。この奇妙な同棲生活も気がつけば半月ほど続いてる。慣れたもんだ。
とはいえ彼女の方から頼んでくるのは尿意や空腹などの生理現象か、時たま狼の吠え声が聞こえて怯えた時くらい。
個人的にはもっと欲求を露わにしてほしいくらいなのだけど。
「どうしたの、おしっこ?」
ふるふる。違うらしい。
「じゃあ、うんち?」
ふるふるふるふる。かなり違うらしい。
ならいったいなによと首を捻っていると、人差し指と中指のジェスチャー。二本の指の間に長い側の髪を挟んで、開いたり、閉じたり。
「……もしかして髪、整えてほしいの?」
控えめな、こくり。それから小さな手が伸びて、私の髪をそっと撫でる。
「わ、私と同じにしてほしいの……!?」
もう一度、こくり。はぁあ……。
そりゃ確かにこの髪は自分で整えてるけど、それは長すぎると邪魔だから適当にやってるだけで。
「切ってあげるのは良いけど……私と同じはダメ! だってかわいくないでしょ!? 君は髪質良いんだからもっとかわいくしてあげるよ!」
ふるふるふるふるふるふる。
そんなに嫌か。うんちより否定するのか。
意味不明だけど……まあ、欲求を露わにするのは良いことだってさっき思ったばかりだし。
生きることは欲することだから。欲がなけりゃ死んだも同じ。好みは……蓼食う蟲の好き好きね。
「はぁ。じゃあそこ座ってて。道具取ってくるから」
とはいえまったく、私の髪型のどこがいいの? そりゃ動きやすくはあるけど。
ため息とともに立ち上がった――その時だった。
ビリッと稲妻に打たれたような緊張感。蟲のしらせ……その特級品が全身を駆け抜けていく。
なに――と見回しても木漏れ日の森は平和そのもの。不思議そうに首を傾げる君の横顔。
しかし同刻。哨戒に出している蟲たちからの緊急伝令。コードレッド。敵襲のサイン。
最初は、熊でも出たのかと思った。
もっと悪いものだった。
小柄な体躯を背後に隠す。まあ意味なんかないが、気休め程度だ。
それで。
紅白の巫女装束に禍々しい純白の大幣。浮遊する白黒の球体が二つ。
木々の隙間から現れたのは紛れもない、博麗の巫女だった。
「……こないだぶりね? あんた、たしか名前は――」
どすの利いた氷みたいに冷たい声。
私のマントを鷲掴み震える手をそっと握る。大丈夫よ、私がついてるから。
「リグル・ナイトバグ」
「そう、リグル。私がなぜここに来たかはわかってるでしょ? 神隠しが聞いて呆れるけど、郷には郷のルールがあるの。人は人の領分を超えてはならない。知らないとは言わせないわ」
こちらだけ地上にいるせいで否応なく見下される格好になる。ビリビリと地を響かす殺気。立っているだけでやっとだ。
「やる気」の博麗霊夢と対峙するのは初めてじゃないけど、前は異変でこっちもハイになってたし、なにより守る者もなかった。
逃げちゃダメだ。
叫び出したいのをなんとか抑え、巫女を睨め返す。
「この子は死にかけてた。私は助けただけ」
「蟲の妖怪が人間の子供を助ける? なんの見返りもなく? 信じろという方が無理ね。だいたいあんた、蟲を蔑ろにする人間を嫌ってるはずでしょ?」
「名前も覚えてくれてない割にはよく知ってるじゃない」
「……おとなしくその子を渡しなさい。わかるでしょう、これはルールなのよ。もちろんあんたが案じてることは理解してる」
「言ってる意味がわからない」
「信頼できる里親を探したわ。彼らは人格者よ。博麗の名に誓って、二度とこの子を過酷な目には合わせない」
「嫌だと言ったら」
「あんたを退治する」
だろうな。
まあ、いいさ。
潜伏していた蟲たちに緊急招集をかけた。たちまち黒い靄が生まれ、私のマントと同化していく。博麗霊夢の顔が目に見えて引きつった。
「嘘でしょ。本当にやる気なの?」
「これだけの数の一斉攻撃だ。いくら博麗の巫女でも避けられないよ。エンガチョにされたくなかったら帰った方がいい」
「……はぁ。わからない。あんた本気? マジにその子の親代わりになろうってわけ!?」
「そんなのそっちには関係ない」
「純粋に理解しかねるのよ。メリットはなに? 聞いたわ優曇華に。あんた薬代として随分な請求を呑んだそうじゃない。なぜよ」
プライバシー、全然守られていなかった。
さておき。
「……なぜかって?」
それはなぜか。なぜ、なぜ、なぜ。
博麗の巫女が首を傾げるのも無理はない。私だってわからなかった。人間なら私を理解してくれると思ったから? 確かにそれも一つだけど、今も正直、根本のところはよくわかってない。
うどんげさんはそれを私の「優しさ」だと言ってくれた。それを私の愛なんだと。
あるいは結局、蟲も人もすべての生命は大地から生まれた兄弟姉妹。それを助けるのに理由なんて無いのかも。
ただ一つ、わかることもある。
この子は人間の世界から見捨てられた。孤独に死のうとしていた命。蟲がそれを助けたんだ。
なのにいまさら向こうに「お返し」するなんて納得できない。だって先に境界を破ったのは向こうでしょう?
あるいは私のように、どちらの世界にも属せず中途半端になる覚悟がある?
なんて。目の前の巫女に言ってもしかたない。
うどんげさんはあの悪鬼羅刹を不器用だと称していた。なるほどたしかにそんな感じもする。
「私は人間が嫌い」
「でしょうね」
「だから、この子を人間には渡さない」
「……あっそ」
話は終わりだ。つかの間の均衡。川のせせらぎ。日暮が飛び立つ。
私は先んじて動いた。
数千匹の羽虫の大群が博麗霊夢めがけて殺到する。大地が黒く隆起したような光景。
が、当然向こうは空中にいるわけで、点での攻撃じゃ届かない。
それがわかってるから巫女も、着弾まであと三秒を切ってなお動こうとしない。相変わらず氷の視線でこちらを凝視している。
それが命取りだ。
この弾幕は文字通り生きているってわからない?
「……っ!」
そう。どうせどちらに動こうと関係ない。
私が手を開くのに合わせ、羽虫たちが散開する。檻のように、籠のように巫女を包み込むように。
人間からすればさぞ気色の悪い景色だろうが、容赦しない。今ばかりは。
「潰れろ!」
手を握り、虫籠が閉じた。
私の勝ち――
「え」
後頭部に痺れるような感覚。全身から力が抜ける。天地が逆さまになる。鈍い痛みと土の味。
横倒しになった世界の端では、標的を見失った虫籠が戸惑うように揺れていた。
抜け出したのか?
どうやって?
いったいなにをされた?
いくら考えても答えはでない。
ただ、震えて縮こまるあの子のもとへゆっくり、ゆっくりと歩を進めていく巫女の後ろ姿だけが見えた。
「千年早いのよ」
負けたのか、私は。
あまりにも呆気なくて、逆にすんなり理解できた。
ああ……勝負にさえならなかったな。
「ほら、あんたも蹲ってないで。ここは妖怪の巣なの。人間がいてはいけないのよ」
頭のてっぺんからつま先まで全身、ぴくりとも動かせない。
行ってしまう。連れて行かれてしまう。なのにこうして見てることしかできない。
「ちょっと……ちゃんと立ってってば」
やめてくれ、やめてください、その子はまだ怪我を治したばかりなんです。
叫びたくとも声がでない。奇しくもあの子とおんなじだ。
……結局私はまた守れないのか。
いや、守れなかったわけじゃない。本当はわかってる。郷に戻ったほうがあの子にとっては幸せだと。
博麗霊夢の言葉通りなら、あの子は、こんな小屋よりずっときれいな場所で生きていける。私の作った粥なんかよりもおいしいものを食べられる。蟲たちでなく人の子供たちと遊べるんだ。
そう、私は守れたんだ。紛れもなくあの子を救い、ここまで漕ぎ着けた。
それだけで十分じゃないか。これ以上は贅沢というもの。
本当にあの子のことを思うなら、愛してるというのなら、笑って送り出してやるべきだ。
まあ笑おうにも顔、動かせないけど。
意識、ぼんやりしてきたけど。
「……ちょっと、どういうつもり?」
巫女の顔が困惑に揺れている。
どうしたんだろう。あまりその人を怒らせちゃダメだよ、退治されちゃうよ。
「ぃ……あ……」
「な、なに? あっちょっと! ダメよそいつに近づいちゃ! そいつは妖怪なのよ!? わかってるの!?」
あれ、おかしいな。
どうしてあの子がこっちに走ってくるんだろう。どうしてあの子の背がすぐそこに見えるんだろう。私の前に、立ちふさがるようにして……。
「……い……や」
声。誰の声だろう。聞いたことのない声だ。そうだっけ?
聞き覚えもあるような、ないような。思い出せないな……。
「いや……だ!」
ああ、そっか。
これは君の声なんだね。そういえばこんな声をしていたね。
最初に一度聞いた時は酷く掠れていたからわからなかったけど。
いいねぇ。とても気高く、美しい声……。
「……あんた、自分がなにを言ってるか理解してる?」
「ぅ……」
束の間戻った声はまたしても失せて。
小さな足が私の目の前で震えている。
もういい。もういいんだよ。私のことなんて放っておいていい。
あいつは妖怪の私でも勝てない相手。君が勝てるわけ無いじゃない。
それにね、全部私が勝手にやったことなの。君は優しい里親の元で幸せになるべきなのよ。
そう言いたいのに。
どこへでも行っちまえって。そう叫びたいのに。
なのに。ちくしょう。出てくるのは涙だけだ。役立たずの私の体。
なんで。いったいなんで。
なんでこんなに嬉しいのよ。
「……はぁ」
巫女の嘆息。
瞬間、殺気が嘘のように消えた。
「なんか私が悪役みたいじゃない。失敬な筋書きね」
ぽりぽりと頭を掻きながら大幣を懐に戻し、代わりに巫女は潰れかけの小屋の方を見やった。
それから思い出したように私の元へ来ると、怯える少女をなだめながら、いてっ……なにかが後頭部から剥がされる。
「いきなり襲ってこないでよ?」
はっとして立ち上がる。もう全身の痺れは何処にもない。
駆け寄ってくる少女を抱きしめる。ちょうど顔を埋めたブラウスのあたりに、あたたかいものが染み込んでいく。
どうなってるの?
巫女はもう面倒くさそうな瞳をこちらに向けて、ひらひらと御札をふって見せるばかり。
助けてくれた……?
「えと……ありがとうございます……?」
「ほんとに感謝しなさいよ。ったく」
「でもどうして……」
「どうせこんなことになるんじゃないかと思ってたのよ。巫女の勘でね。あんた風に言えば……蟲のしらせ?」
「はあ」
「その子の経歴は調べた。だから癪だけど、あんたの言うことも理解できる。その子は人の世界で生き直すにはあまりに傷を負いすぎた」
「……でも、ルールなんでしょう?」
「捉え方次第ね。そこの小屋……元はこのあたりの森林資源を管理するためのものだった。だけど先代が後任を決めず死んじゃって、それきり放置されてたの」
たぶんそれは後任を決めなかったわけじゃない。人選(そもそもあいつは人ではない)が悪かっただけだ。
面倒なので黙っておくけど。
「ようするにここも"人の領分"の範疇ってわけ。だからその子がここの管理人を継いでくれるなら……ルールにも抵触しない」
「……えっと。そ、それってつまり」
「鈍いやつね。あんたらはこのままでいいって言ってるの!」
耳を疑う。あるのか、そんなこと?
なにかの間違いなんじゃないか。博麗の巫女が妖怪を懲らしめるためにカマをかけてるだけなんじゃないかと。
でも、巫女の瞳は嘘をついてるようには見えない。少し頬も赤く……かと思うと、またあのどすの利いた声。
「ただし! 条件が三つ!」
「は、はい!」
「一つ目! その子の安全に関してはあんたが責任を持つこと! まあ当然ね。ここらは狼や野良妖怪も出るんだから。そして二つ目! その子は寺子屋に通わせること! 教育の機会を奪うのは虐待よ。半人半獣のやつが営んでるところがあるから、そこを使うと良いわ。あんたのことも話しておく」
「ありがとうござ――」
「最後に三つ目!」
巫女の鋭い声音。キッと迫力の乗った瞳。思わず息を飲む。
「三つ目の条件は、絶対にその子を不幸にしないこと! ほんっっとうに良い里親を見つけてきたのに、その話を蹴るんだからね。わかってる!?」
「……わかってる」
「もしあんたが一つでも守らなかったら、その時は、すぐに私がぶちのめしに行くから。全身全霊で。そのつもりでいなさい」
「わ、わかってる……」
束の間優しさを感じた気がしたけど、それはあくまでこの子に対してのもの。やっぱり巫女は巫女だ。冷たい汗が背筋をつたう。この人はやると言ったらやる。
「じゃ、そういうことで。まったく骨折り損のくたびれ儲けだったわ」
捨て台詞を残し、博麗霊夢は一瞥もせず西の空へと消えていった。
あはは、はは、はぁ……。
膝が笑ってる。抱きしめている私がその場にへたり込んだせいで、二人してバランスを崩し地面に倒れ込んでしまった。
人間一つ分の体重が私に降りかかる。
ああ、軽いなぁ。軽すぎる。
「さっきは、ありがとう。私、もうダメかと思った」
空はもう夕暮れだ。
橙色の淡い光に照らされながら、こくりとうなずく君の表情。やわらかい微笑み。
私もそれに笑みで返す。
思えば……これが初めてかもしれない。
二人でこんな風に笑うのは。
【epilogue】
しょりしょりしょり。
「……ふーん。なんていうか、大変だったね」
しょりしょりしょりしょり。
鋏で髪を整える単調な音に割り込んでくるのは、流るる小川のせせらぎ。それと、他人事のようなルーミアのぼやき。
散々探し回った時は見つからなかったくせにこいつ、ひょっこり現れては自分の家のようにくつろいでいる。
いや自分の家なんだけど。
「で? 結局その子はいつ食べるの?」
びくり。デリカシーのない発言に怯え、目の前で小さな肩が震えた。
手元が狂う。勘弁してほしい。
「だいぶ肉付きも良くなったしそろそろ……あれ? ねえこの蜂なんか私を、ちょっとリグル? リグルさん……? リグル!?」
しょりしょりしょりしょりぎゃあしょりしょり。
合間に汚い悲鳴が聞こえた気がするけど、たぶん空耳だろう。
「今この状況があるのもルーミアのおかげだよ。感謝してる。本当にありがとう」
「なら刺すなよー!?」
「くだらないこと言うからよ。大雀蜂を呼ばなかったのは感謝の現れだと思ってよね」
「ちぇ……すっかり母親役が板についてるし」
母親か。遠からずではあるが、そういう感じでもないな。
むしろこの子は妹のような感じがする。とはいえなんでもかんでも甘やかすわけじゃない。
ぱたぱたと足を揺らしてるのを、そっと押さえる。動くとおかっぱになっちゃうわよ。
「けどさー、さっきの話を総合するとその子が死ぬまで面倒見るってことだろー?」
「私たちからすれば一瞬じゃない」
「気の長い話ねぇ」
「よし、できた」
散らばった髪を払い、急拵えのクロスを取る。
すくりと立ち上がった彼女を見て、ルーミアの気の無い拍手が響いた。
「あーあ、そっくりになっちゃってまあ……いやなんだその嬉しそうな顔。褒めてないから! にこにこするな! おい!」
さすがのルーミアも笑う子と地頭には勝てぬらしい。
こっちも一仕事終わってほっとした。ほんとにおかっぱにして泣かせでもしたら、最悪、博麗の巫女が飛んできかねない。なんて。
「そういやさ」
「ん?」
「リグル……なんか明るくなった?」
「変わらないよ。そんなに暗かった?」
「べつに暗かったわけじゃないけど……なんか吹っ切れたっていうか」
「博麗の巫女とやり合ったのよ。肝も据わるわ」
「そ、そうなのか? そうなのかなぁ」
本当はたぶん、そうじゃない。
きっと無駄じゃないってわかったから。
私は思考する蟲。意味もなく、皆を助けることもできない役立たず。
そう思っていた。
だけど……そんな私にもできることがあるって。そんな私だから守れたものもあるんだって。
あの子がそう教えてくれたんだ。あの日、闇の中で死のうとしていたあの子が。
まだ君は死にたいと思ってる?
いつか……聞いてみよう。あの子がもう幸せで幸せで、絶対にそんなことを思えなくなった頃に。
立ち上がると、あれほど酷かった頭痛はもうどこにもなくなっていた。
ああ、あの子が私に手を振っている。私は歩きだす。ゆっくりと。
最後の方なんか泣けてきました。書いてくれてありがとうございます〜!!!
冗談はともかく、拾った子供の味があんまり感じ取れなかったのは、おそらく作者様がリグル・ナイトバグの内面に焦点を当てたのと勝手に思ってるのですが、それを踏まえてもリグルの葛藤に入りきれないところがありました。
気になる点はあるのですが、作者名で最期まで安心して読めました
それが主題でないとはわかりますが、この娘の将来が気になります
そういう善行を葛藤しながらやっていることで、それこそ真社会性昆虫が本能的に利他で動くというのよりも、もっと人間味のあるものとしてリグルというキャラクターが描写されているのがよかったです
開幕で興味を引く出来事が起こると同時に、リグルが何かしらの悩みを抱えているのだというテーマの展開が行われおり、綺麗な構成になっていると思いました。
鈴仙による悩みの解決がパワープレイだった気もしますが、冗長にならずにさっくりと話が進んでいたのでこれはこれで良かったと思います。
序盤終わりあたりで元の両親の話を早めに解決したのも良いと思いました。
鈴仙が近年に稀に見るただの善い有能な兎で驚きました。やさしみ
有難う御座いました。
衝動とも何とも言えないような意思に突き動かされ、それでも少女を救うために手探りで看護に挑戦するリグルがとてもよかったです
全方面に対して雑なルーミアにも笑いました
それにしても一週間で状況を把握して里親を見繕ってくる霊夢さんが有能過ぎてさすがでした
満身創痍だった少女も立ち直ったようで何よりです
リグルと云う一人の妖怪少女が思考できる蟲であることは私自身理解しているつもりだったのですけど、その存在であるが故の葛藤や生き様をこの作品では垣間見ることができ、より深くリグルと云う存在を好きになれそうだなと心から深く深く思えました。
非常に面白く、心に残る作品でした。
リグル・ナイトバグはこのような少女なのだ、という作者の表現を、物語を通してしっかりと味わうことが出来ました。
素晴らしいものを読ませていただきました。とても面白かったです。