「私、もう耐えられないわ」
姉の紫苑が脈絡なくそんな言葉を私へ向かって吐き捨ててきたのは、晩秋の陽も暮れかけた物侘しい家路についてしばらく経った頃だった。
辺りにひと気はなく、加えてそれまで私達はほぼ無言といっていい状態を保っていたから、姉のその断末魔のような声は尚のことよく響いた。私はわずかに首を捻り、やや後ろで歩いているのか漂っているのか判然としないその姿を睨みつけるように横目で見やった。言葉が出なかったのは、単に、そのときの私がとても疲れていたからだ。
例のごとく、姉は先程の不意をついたような物言いに反してなかなか続きを語ろうとしなかった。不安げに視線をうろうろとさせて、頭のリボンの端のあたりを指の先でわざとらしく弄んでいる。啖呵を切ったその瞬間から急速に減衰を見せる姉の威勢はある種の窮乏を感じさせるもので、その手の自信の無さは彼女の貧乏神という性質からくる当然の態度ではあるとも思うけれど、話を聞いている側としてはやはり気分は良くない。
眉根を寄せつつ「何が」とどうにか一言呟いて続きを促すと、姉はようやく怯えるような目の焦点を私へと据えた。
「私、女苑のお姉ちゃんなんだよ」
「は?」
何の話かわからず目を瞬いていると、
「そりゃあ、今回の石油騒ぎで今までになく浮かれていたことは確かよ。だってそうでしょ? 無尽蔵に湧いて出る財貨を見れば、誰だって気が大きくもなるわ。だからそう、普段以上に私が浮かれていたことは否定しない。でも、だからといって何でもかんでも許せるわけじゃないよ」
「ちょっと待って、姉さん。さっきから何の話をしてるの?」
立ち止まって振り返ると、姉も足を止めてその場に佇んでいた。せいぜい二歩分の距離。そのなんてことのない距離が、そのときはどうしてかいつもよりわずかに広く感じられた。
「ねぇ女苑。私達、いろんなところへ行ったよね。白い衣を羽織って、あちこちでお大尽のごとく振る舞ったり、旧地獄で危うく焼き尽くされそうになったり、あの饕餮ってやつと壮絶な石油争いをしたり……」
「そうね。それが?」
迂遠な言い回しについ語気が強くなったが、姉にしては珍しく退く素振りを見せなかった。むしろその瞳には、どこかほの昏い光が宿っているように映った。
「私、女苑のお姉ちゃんなんだよ。なのに……なのに、隙あらばぶら下がってくる妹を運んだり、あまつさえ敵に向かって投げられたり……」
「はあ?」
思わぬ方向へ話が展開されて気の抜けた声を上げる。すると眼前の姉は、知らぬ間に自分の食事を勝手に他人に平らげられたような絶望に打ちひしがれた表情を浮かべた。
「私の気も知らないで……女苑、考えたことある? 私だって敵に当たれば相応に痛いんだよ?」
「だってそれは……元はと言えば、浮かれた姉さんが勝手に風船みたいに浮き出したから」
「黙って」
姉はぴしゃりと言いのける。
「……そう、確かに浮かれていたのは事実よ。そのせいで頭もちゃんと回ってなかった。でも、騒動が落ち着いて改めて考えてみたら、それがどんなにおかしいことか私気づいたのよ。ねぇ女苑、いくら私が女苑一人を楽々運べるくらいに浮かれだしたからって、それが双子のお姉ちゃんを人に向かって投擲していい理由になると思う?」
最凶最悪姉妹の私達に善悪という価値基準を持ち出すことの滑稽さはおいておくとして、姉にしては正論だった。正論だったが、では仮に双子の妹であれば許されたのかといえばそんな道理はないわけで、故にその論点はいつも通りずれていた。お姉ちゃんだからどうという話ではなかった。
ただそれを指摘すると間違いなくキレる姉と対峙する未来が見えるので黙っていると、姉は丸めていた背を少し伸ばした。どうやら私の表情から、自分の主張がそれなりに正当なものだという手応えを感じたらしい。強気な声音だった。
「もうたくさんなの、女苑」
どう答えるべきかわからない中で、私はどうにか言葉を紡ごうとした。言いようのない焦燥感のようなものがあった。姉がいつになく饒舌なのもあって、単純に困惑していたのかもしれない。
帰路というものは、落としどころのない会話をするのに向いていると思う。どんな話題であれ、家に辿り着けばそこで一度会話も途切れる。「とりあえず家に帰ろうよ」と私が口にしたのは、だからあるいはそんな無意識の思惑があったのかもしれない。この議論の先にあるものがろくでもない結果をもたらすことを直感していたから。
ただ、そんな私の胸中を嘲笑うかのように、姉は最初の言葉を繰り返した。
「私、もう耐えられないわ」
ぼそりとそう呟いて姉が一歩引いたのが、すべての合図だった。それが越えてはいけない一線であることを、私は今までの経験でよく理解していた。
寝床にしているあばら家の前に立ったとき、私は一人きりだった。
「まあ、お姉ちゃんなんだから我慢しなさいで済ませられる問題ではないよね」
一人で無聊を託つのも性に合わずあてもなく彷徨っていると、命蓮寺のそばで村紗に声をかけられた。かいつまんで事情を説明したところ、彼女は苦笑いを浮かべながらそんな感想を口にした。
「そんなにひどいことをしたつもりはないんだけど」
弁明の意も含めてそう反駁すると、「ひどいことしてないと思ってたんだ」と村紗は可笑しそうに肩を揺らした。
「私はただ使えるものを有効利用しただけだよ。浮かれた姉さんなんてどこに飛んでいくかわかったもんじゃないんだから」
「確かに、浮かれた貧乏神っていうのはちょっとお近付きになりたくはないね」
正直、姉がどこで何の騒ぎを起こそうが私には関係のない話だ。ただ、騒ぎすぎて相手の復讐心が私達姉妹に向けられて割を食うのは御免だし、そういう意味でも自分が何か悪いことをしたとは思っていなかった。姉にとっても悪い話じゃなかったはずだ。
そもそもとして、貧乏神である姉の頭の中の辞書に「もったいない」という概念はあっても、「生産性」という概念はない。だから使い方に頭を捻るのはいつも私の方だった。以前の完全憑依の異変にしても今回の石油騒ぎにしても、私が動き出さなければ、あの姉が重い腰を上げることはなかっただろう。
「ただ、対峙していた立場から言わせてもらうと」と村紗は口火を切り、「あなたは投げる側だったから気づかなかったかもしれないけど、貧乏神が物理的に迫ってくるなんてちょっとした恐怖体験よこれ。気づいたら居着いているとかじゃなく、真正面から投擲されてくるわけだから」
当時を思い出したとでも言うように、村紗はわざとらしくぶるりと身震いしてみせた。どうやら、貧乏神である姉を投擲する行為は戦闘面において想像以上の効果を発揮していたらしい。
私も記憶を辿るようにして両腕を頭よりも上に掲げた。「姉さんって投げやすいのよね。こう、手に馴染むというか」と投擲のポーズを取りながら説明してみせると、「疫病神を妹に持つって結構大変なのね」と村紗は逆に気の毒そうな表情で肩を竦めた。「あんたは貧乏神の姉を持つということがどういうことか全然わかってない」と反論すると、「ああ、だからあなた達は姉妹なんだろうね」とどこか納得した表情で彼女は頷いた。言葉ではどうにもうまく伝わらないようだった。
「行くあてがなくて暇してるんだったら、また命蓮寺で清貧に励むのもいいんじゃない? 聖に口利きしておいてあげようか?」
村紗のその提案を聞いた私は「冗談」と鼻で笑った。最初は新鮮味があったものの、あんな砂を噛むようなつまらない生活を延々と続けるのはやはり自分の性分ではない。以前の命蓮寺での生活で痛感したことだった。
それと同時に、ふと妙案が浮かんだ。
「いいこと思いついたわ。ねぇ村紗、いなくなった姉さんの代わりに私と組まない?」
「ここまでの話を聞いて私が頷くと本気で思って言ってるのなら、まったく疫病神ってのは大した神様だと思うけどね」
「一度投げられてみればきっとわかるわ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」と村紗は呆れたように言ってから、「でも、そっちの条件によっては考えないこともないよ」
「へぇ、どんな?」
「たまに血の池地獄で一緒に溺れてほしいの」
「ごめん、急用を思い出したわ。じゃあね」
満面の笑みを浮かべる村紗に投げやりに手を振って、私は足早にその場を去った。
その後の顛末を語るとすれば、骨折り損という一言に尽きるだろう。
村紗との交渉は決裂したものの、姉の代役を見繕うという試み自体は悪くない思いつきだと考えた私は、その後いくつかの知り合いのところへ顔を出してみた。姉があれほど無邪気に投擲されていたのだから、幻想郷を探し回れば誰か一人くらい似たような者がいるに違いない。そう考えたのだが、目算に反して事はうまく運ばなかった。そもそも疫病神と組みたがる者がいないというのが単純にして最大の障壁であることをそのときの私はなぜかすっかり失念していた。少数ながらそうでない者も存在したが、そういう者は備わった性分や求める対価が得てして捻くれていたため、村紗のときと同様にほとんど交渉にならなかった。
そうした東奔西走にも飽いて数日後にふらふらとあばら家へ戻ってみれば、そこには予想外にも先客がいた。
「——姉さん」
「遅かったじゃない、女苑」
部屋の隅で影のように膝を抱えた我が姉は、その言葉に反して普段通りの光のない瞳で私を出迎えた。去り際の強気な態度はすっかり消え失せて、乱れた長髪から覗く顔色にはもはや虚勢すら残っていなかった。そういう意味ではいつもの姉の姿だった。
姉がこんなに早く戻ると予想していなかった私は内心少し驚いたものの、同時にすべてを察してもいた。そして、私が姉の顛末を察したように、向こうもこちらの状況を察したのだろう。「女苑もダメだったんでしょう?」と姉は薄笑いを浮かべた。
咄嗟に「私は姉さんとは違うわ」という言葉が口をついて出た。けれど、姉はその杜撰な言い訳を無視して「私はダメだったよ」と低い声で告げた。
「私、別に投擲されるのが嫌なわけじゃなかったの。ただ、もう少し丁寧に扱ってほしかっただけ。女苑があれだけ威勢よく私にぶら下がったり投擲したりしていたんだから、探せばきっと優しく扱ってくれる人だってどこかにいるんだと思ってた。でもね、それ以前の問題だったわ。『いくら便利でも運気が下がりそうだから貧乏神になんてぶら下がりたくない』とか『そもそも近寄ってほしくない』とか……ひどい言い草よね」
そう言って、姉は自嘲的な笑みを作った。どうやら、疫病神の私と組みたい者が誰もいなかったように、貧乏神の姉と組みたい者も当然のようにいなかったらしい。そういう意味で、私達がこのあばら家で落ち合うことは最初から必然だったのかもしれないとも思えた。たぶん、私達はそれと似た出来事を幾度となく繰り返してきたはずなのに、流行りに流されるように刹那的に生きている私達は、そういった過去を大抵すぐに忘れてしまう。
「それでもね、天人様だけは違ったの。『私がお前にぶら下がるくらいなら、代わりに私がお前をぶら下げてやる』って。思わずくらっときちゃったわ。でもやっぱり、天人様にぶら下げてもらうなんて恐れ多いし、ましてや天人様を投擲するなんてことはできないから、丁重にお断りしたんだけど……。それでもありがたいことに、試しに一度だけ天人様に投げてもらったのよ」
そんな卑屈なのか図々しいのかよくわからない経緯を説明した後、「でも、なんていうかこう、違ったのよね」と姉は奥歯に物が挟まったような濁し方をした。
「何が?」
「うまく言えないんだけど、こう投げられたときの手触りというか、力加減というか、頬を切る空気感というか……例えるなら、前から食べてみたいと思ってた料理を実際に食べてみたら、美味しいけど思ったほどでもなかったというか……とにかく、何か根本的な部分が決定的に掛け違えているような、奇妙な感覚だったの。ねぇ、女苑ならわかるでしょう? この気持ち……」
想像力に欠けた貧乏くさいそのたとえの真意を考えている間に、姉は四つん這いのままゆっくりと近づいてきて、不景気そうな視線をじっとこちらへと向けてきた。まるで餌をねだる捨て猫のようだった。
実際に姉以外の誰かを投げてみたわけでもない私には、わかるよ、と口に出しては言えなかった。けれど、それでもわかる気がした。仮にあのとき村紗を投擲したとして、果たして私はその結果に満足しただろうか。痩せっぽちで無気力な枯れ枝のような姉以上に投げやすい者がどこかにいるはずだと、私は本当に信じていただろうか。
私は一度大きく深呼吸してから、静かに腰を下ろし、それから姉のほっそりとした手に自分の手を重ねた。慣れ親しんだ、かさついた肌の熱が手のひらにじんわりと広がった。
「姉さん、外に出よう」
姉の手を引くようにして再び腰を上げた私に、姉は大して驚いた様子を見せなかった。むしろ何かを期待するような面持ちで、ただ私に合わせるようにして立ち上がった。まるであらかじめすべての取り決めがなされていたかのように、そこに言葉も抵抗もなかった。
晩秋の夕暮れは、数日前に仲違いをしたあの日と同じように静寂に満ちていた。風はなく、世界が私達のために時を止めて待ってくれていたかのようだった。
背を丸めながら浮遊する姉の手にそっと掴まると、やがて私の身体がゆっくりと上昇を始めた。風船のようにふわりふわりと浮かんでいくにつれ、視界の風景もゆらゆらと移り変わる。遠くに見える山野には美しい夕闇の階調が伸びていた。
しばらくの間、私達は何も言葉を交わさなかった。ただ、お互いを繋ぐ手の温もりと肌触りだけが、私達の言葉を代替していた。何物にも代えがたい尊いものが、今この空間に満ちているように感じられた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。どちらからということもなく、その瞬間は訪れた。
私はただ一言、「姉さん」とだけ言った。姉は私をぶら下げたまま、「いつでもいいわ」と穏やかに返した。それで十分だった。
お腹のあたりをぐいと反らしつつ、足の先から頭の上へと力を移動させるようにして、振りかぶった両腕に力を込めて。
目を閉じ、自らが持つすべてを姉に託すように、私は渾身の力で大きく両腕を振り切った。
突如舞い戻ってきた重力によって、私の身体は徐々に落下運動を始める。地へ向かう引力とともに、言いようのない満足感が私の全身を包み込む。耳元で鳴り響く風切り音さえ、どこか心地良く感じられた。
再びゆっくりと目を開けると、燃えるような夕陽の眩しさに私は一瞬目を細める。それでもどうにか捉えることができた。斜陽で赤く照らされたその輪郭を。
茫洋とした秋空の中、姉の細長い影がどこまでも、どこまでも遠くまで伸びていった。
珍しく紫苑の言っていることが正論で、それでも結局元のさやに戻った二人がとても愉快でした