【二〇二三年 十二月二十日 水曜日】
自分が今どこにいるのかわからない。俺は夢を見ているのか? スマホも圏外で繋がらない。わかるのは今の日時だけだ。酒なんか飲んだ覚えはないのに。いや、飲んだこと自体を忘れているのか。しかし、俺はそんなに酒に弱かっただろうか。正体を無くすまで飲んだことなんてないぞ。いや、だから、そんなに飲んだことがなかったから、急に飲みすぎておかしくなったのか。駄目だ。考えが纏まらない。気付いたら周りが森だったんだ。木に囲まれてる。背の高いやつだ。子どものころに駆け回ってた田舎に少し似てるか? なんとなく懐かしい匂いがする。
とにかくこのままじゃ気が狂いそうで、こうやってスケジュール帳に今の状況を走り書きしながら頭の中を整理している。そうだ、周囲の写真も撮っておこう。今起きていることが夢や幻ではないという証明になるはずだ。
他の役に立たないとわかっていても、無意味にスマホの画面を見てしまう。充電を節約するべきなのに、まったく現代人の病気だ。ああ、まずい、会社に早退の連絡ができない! ……って、さすがにそんなこと言ってる場合じゃないか。遭難してんだもんな。なに考えてんだ。クソ。でも、そうか。今はそういうの、なんも考えなくていいのか。
十六時二十九分。日が暮れかけている。こんなところで野宿? まずい、火が無い。
完全に日が暮れた。幸運にも雲がなく、月明かりが眩しいくらいに明るい。まじまじと月を見上げたのなんて久し振りだ。夜空を占めるそのあまりの存在感に、正直驚いた。この明るさなら歩けるか? いや、今歩く意味がないか。今は体を休めて、明日人を探せばいい。焦ってわけのわからないことをしていたら本当に命取りになりかねない。今の俺は何も保証されていないんだ。誰も庇護してはくれないんだ。俺の行動が全部そのまま、俺に返ってくるだけだ。
地面を軽く触ってみる。水でも撒いたのかってくらい土が冷たい。こんな環境で寝ないといけないのか? ヤバい。これじゃ凍死する。やっぱり夜は起きてて、明日日が昇って暖かくなってから昼寝するべきか? 明日雨が降ったらどうする? 確実に寝られるときに寝ておくべきじゃないのか? 布団の代わりが必要だ。落ち葉を集めるんだ。枯れて茶色くなったやつがそこら中に散らばってるから、これを大量に掻き集めよう。
勢いよく持ち上げた落ち葉の裏に虫が付いていた。最悪だ。気持ち悪い。指先にまだふにゃりとした感触が残っている。しかし、俺はもう頭を切り替えた。命が懸かってると思えば全部些事だ。自分はどっちかというと繊細なほうだと思ってたが、案外吹っ切れるタイプの人間だったみたいだ。知らない自分に会うことができた気がする。
落ち葉の布団は意外と暖かい。これならなんとか生き延びられそうだ。それに土の匂いを嗅ぎながら寝るというのも、なんだか落ち着く感じがする。眠れるだろうか。睡眠をしっかりとって、明日の移動に備えなければ。火は試したけど、つかなかった。
【十二月二十一日 木曜日】
やはり夢じゃなかったらしい。俺はまだ遭難している。
目が覚めた時間は朝の六時十分。何時間寝たんだろう? 昨日日が暮れてからそんなに長くは起きてなかったはずだから、随分熟睡した感じもある。こんな劣悪な環境で寝てたっていうのに、不思議と体の調子も良いようだ。駄目元で手頃な木によじ登ってスマホを振ってみたりしたものの、相変わらず電波は来ない。おまけに木から降りるとき、手のひらを少し擦りむいた。無性に腹が立ってきた。絶対に帰りついてみせる。
しばらく歩いたが、なかなか道に出られない。同じような景色ばかりで、来た道をぐるぐるしているような気さえしてくる。喉が渇いたので、唯一持っていた缶コーヒーを早くも飲み干してしまった。
そう。缶コーヒーだ。やっぱりどう考えてもおかしい。どうしてこうなってしまったのか、その前後のことを、忘れてしまう前に書き留めておくべきだ。
昨日の昼、俺は会社でちょっとしたミスをやらかして、上司から呆れられていた。
「お前はなんというか……常識ってもんがないよな」
自分でこう言うのもなんだが、あまり珍しい光景ではなかった。特段大きな事件こそまだ起こしていなかったものの、なぜか日頃から小さな失敗を重ねてしまうタイプで、会社内での評価も当然、それなりだった。
「ちょっと、手出して」
「はい?」
「いいから」
困惑する俺の右手に、数枚の小銭が握らされる。
「コーヒー買ってきて」
俺は言われたことを成し遂げるため、機械みたいに歩き出した。東京にあると言っても小さな会社で、自販機は建物を出て少し歩かないと見つからない。オフィスのドアを開けるとき、背中にワサッと同僚たちの視線が集まった気がして、にわかに全身の毛が逆立った。
脳みそはずっとぼんやりしていた。かと言って、辿った道順は間違えようがない。会社を出たらまず左に折れて、よく昼食で入る中華料理屋の前を通り過ぎ、菓子パンがやたら豊富なパン屋を横目に、もう一度左に折れると少し薄暗い道に出る。そこを何十メートルかてくてく歩いていけば、ようやく自動販売機が一台、整骨院の狭い駐車スペースの隅にぽつんと佇んでいた。
渡された小銭で缶コーヒーを買った。自販機の小さなルーレットが思わせぶりに光ってくれたが、結局数字は揃わなかった。もっとも、仮にもう一本とかが当たったところで、どんな顔をして持って帰ればいいのかと考えると、余計な幸せが訪れなくてむしろ幸運だったとさえ思えた。
「……何ほっとしてんだよ」
そんなつまらないことばかり考えていたら、急にあそこへ戻るのが心底嫌になって、俺はそのまま買った缶コーヒー片手に、自販機の隣に置いてあったベンチに座り込んでしまった。ため息にもならないような息を細く吐く。指先が石膏で固められているみたいに動かない。吹きつける風の冷たさが妙に他人事のように感じる。頭の上で波打つ樹脂製の日除けの影が、目に映る景色すべてに異様な人工色を差していた。
帰りたい。
そう思って目を閉じた次の瞬間、俺はもう森の中にいて、苔の生えた切り株の上に座っていた。
やはりあり得ない。俺がコーヒーを買いに行ったのも、昨日スマホで確認した遭難初日の日時も、間違いなく同じ日付だった。時間だってほとんど経っていない。東京から数分以内でこんな誰もいない山奥まで移動するなんて、物理的に不可能だ。俺の身になにか、とてつもない異変が起こっている。それも病気とかではない。科学で説明がつかないタイプの〝なにか〟だ。馬鹿げているが、もはやそう考えるしかない。こうなってくると、いよいよ俺はこの森から抜け出せるのだろうか。もしかしたら本当の俺はあのベンチの上で死んでいて、ここは死後の世界だなんてことも十分あり得る。だとしたら、俺がこうして歩き続ける理由はなんだ? 地獄の刑罰か何かなのか? 生憎そこまでの悪行をやった覚えはない。弱気になっちゃ駄目だ。必ず脱出できるはずだ。もし生きて帰れたら、このメモと写真を元にした体験談を出版しよう。会社の連中の証言が間接的な証拠になるし、そこそこは売れるはずだ。ベストセラーも夢じゃないかもしれない。そしたら大金が転がり込んできて、会社ももう辞めちゃって……。って、なに夢見てるんだか。
なんの成果もなく、空腹も限界に達しようとしていたとき、運良く小さな赤い実が生っている茂みを発見した。食べられる実かどうかなんて言っている場合じゃなかったので、片っ端から取って食べた。うまい。ちょっとすっぱいし、甘みが強いわけでもないのに、死ぬほど腹が減っていたから死ぬほどうまい。一つ一つの実はせいぜいブルーベリー大だが、とにかく大量に群生しているのも良い。服中のポケットというポケットがパンパンになるまで詰め込んだ。
さらに数時間歩いた。今、進行方向右奥のほうから微かに水の流れるような音が聞こえる。川だ! 近くに川がある!
音のする方向に進んだ結果、無事に川に出ることができた。水が飲める……!
本当は煮沸しないといけないのだろうが、火を起こせないので我慢できずにそのまま飲んだ。子どものころにも飲んだ記憶があるし、昔から体は丈夫なほうだ。なんとかなるだろう。きんきんに冷えた川の水は目が覚めるほどうまかった。両手でちまちま掬うのがじれったくて、顔面ごと川に突っ伏して飲んだ。水の中には魚もいた。小魚というにはかなり大きい。あれが食えればもっと腹も膨れるのだが、やはり問題は火か。川から顔を上げたとき、ふと、川面の光が反射して、なにか大きくて真っ黒な影が上空を通った気がした。一瞬すぎてわからなかったが、鴉にしては大きすぎるし、なにより鳥にしては速すぎる。なんだったのだろう。
早くも日が傾きつつある。疲れたし、今日はこの近くで寝ることにする。明日以降はこの川に沿って散策すべきだろう。そういえば、どうやらこの川の上流にはやたら大きな山がある。しかもこの山、驚いたことに、その頂から絶えず一筋の煙を吐き出しているのだ。活火山? いったい何県の山だ? もっと地理を勉強しておけば良かった。とにかく、あんなヤバそうな山に近付くのはごめんだ。明日は下流に向かう。水の近くには必ず人の痕跡が見つかるはずだ。
【十二月二十二日 金曜日】
空が曇っている。今にも降り出しそうとまではいかないが、薄暗くて寒い。ポケットから木の実を取り出しては食べ、取り出しては食べ、口寂しさを誤魔化しながら彷徨っている。それも限界が近い。
川辺を進んでいたところ、森の中から物音がする。人間ではない。獣だ。姿は見えないが、確実になにかがそこにいる。空の暗さで視界が頼りにならない分、聴覚ばかりがいやに研ぎ澄まされる。ぴゅうぴゅう吹く風の音と、ばさばさ鳴る草の音に混じって、目線の先の茂みの中からじっとこちらを窺っている姿体不明の生物の息づかいが、異様にはっきりと想像できるのだ。緊張と空腹で吐き気までしてきた。そういえば、最近ニュースで熊の出没をよく聞くが、まさか……。熊に死んだふりは意味ないんだったか? 逃げるときは目を合わせて……目を合わせちゃいけない? まずい、どっちだ? いや、まだ熊と決まったわけじゃない。きっとドブネズミとか、イタチとか、ハクビシンとかだ。なんてことのない小動
狼だ。あれは狼だった。犬じゃない。絶対に犬なんかじゃない。追いかけ回されて必死で逃げた。なんで狼がいるんだ⁉︎ 絶滅したんじゃなかったのか⁉︎
森の中を逃げ回っているうちに方向感覚がわからなくなって、川の方角を見失った。せっかくの、せっかく、希望が見えたと思ったのに、これでまた振り出しだ。振り出しどころじゃない。ただでさえ少なかった体力が今のでほとんど無くなった。もう一歩も動けない。今またあいつに襲われたら今度こそ一巻の終わりだ。さっきは偶然助かったが、あんな偶然はもう――偶然? そういえば、逃げている最中に不思議なことがあった。あれはなんだったんだろう? 俺が今にも狼に追い付かれそうになったとき、森の中から無数の黒い影が飛び出してきて、俺と狼の間に割って入った。それは狸の群れだった。俺は逃げるのに必死でちらりと振り返って見ることしかできなかったが、狸たちは狼を取り囲み、まるで俺のことを逃がそうとしてくれているように見えた。狸が狼に立ち向かうなんて、そんなことがあるのだろうか。いや、俺は現にこの目で見たのだから、疑いようはないのだが……。
考えてもわからないことはわからない。とりあえず、しばらくここで休んでいくことにする。そうするしかない。
ずっと考えないようにしてきたが、いよいよこのメモは……遺書に、なるかもしれない。どうせ休憩しているだけでは暇だし、なにか書き続けていたい気分だから、せっかくなら俺自身のことを書こうと思う。誰かが見つけて読んでくれるかもしれない。読んでほしい。
閉じた瞼の裏に浮かんできた光景は、やっぱり生まれ育った故郷だった。
秋田の打当で生まれた幼少期の俺は、一日中山林に紛れて遊ぶ子どもだった。そう思うと今の状況もたいして変わらないが、あのころは似たような性格の友達がたくさんいて、毎日が陽の光に溢れていた。
山と集落との境目の辺りに牧草地が広がっていて、よく大人が草刈りをしにやってくる。その日も俺たちは近くの林に身を隠して、そこで大人がやってくるのを待った。日が傾いたころ、「タナカサン」と呼ばれるおじさんが現れて、軽く体を伸ばしたあと、いつものように草刈機でばりばりと草を刈り始める。頃合いを見計らい、俺たちも行動を開始した。
ブゥーン、バリバリバリ。
誰もいないはずの林の中からチェーンソーの音が鳴り響く。驚いたタナカサンは草刈機を止めて、音が鳴った林のほうを睨みつけた。
バリバリバリ、ドーン!
すぐ近くで木が倒れる音がする。タナカサンは耳を澄まし、目を凝らしたけれど、やっぱり誰もいない。そもそも、今日この時間に伐木が行われる予定はないはずなので、ますます不審に思う。
ブゥーン、バリバリバリ。
もう一度チェーンソーの音を鳴らしてみると、タナカサンは確信したように顔をしかめて、俺たちが隠れている林に向かって大股で歩いてきた。「こら!」
俺たちは大笑いしながら逃げ出した。
日が暮れて家に帰ると、鬼の形相をした父が待っていた。父はタナカサンのことをなにか異常に恐れているきらいがあって、その日の説教もまた大変なものだった。
「悪戯ばっかしてっと、終いにはぶち殺されんぞ!」
散々叱られてとぼとぼしている俺に、今度は爺ちゃんが話しかけてくる。
「儂が子どものころはなァ……」
もう説教は十分だと思っていると、
コーン、コーン、
と、何かが木を打っているような音が聞こえた。
「儂が子どものころは、チェーンソーなんて無いからな。こうやって、斧の音出してたよ」
そのあと、爺ちゃんと二人して父親に怒られた。
そんな爺ちゃんも何年か前に亡くなって、ある日俺は父親からこう告げられた。
「お前は都会へ行くべきだ。お前は俺らと違って出来が良い。向こう側へ行ってもやっていける」
俺はもちろん反論したけど、父親は頑固だった。二言目には「俺らに構うな」、三言目には「土地に生き方を縛られるんじゃない」、そして終いには、腹の底から絞り出すような震え声で「出て行け!」と怒鳴られた。父親には父親なりの考えがあったのだと思う。俺も父親が間違っているとは思わなかった。
それ以来打当には帰っていない。風の噂では、あの林はもう無くなったらしい。
【十二月二十三日 土曜日?】
首筋に伝う寒気と小雨の音で目が覚めた。ついに降りだしてしまったようだ。紙がしめって書きにくい。スマホの充電もいつの間にか尽きていた。
体がだるい。雨が冷たい。動きたくない。
木々の隙間の向こう側には例の活火山が聳えている。もしかすると、あの山に向かうのが正解だったのだろうか? 山の中腹から見渡せば、簡単に道が見つかったんじゃないのか? 今さら気付いてもなにもかも遅い。悔しい。
ああ、そうか。山の位置から川の方角がわかるじゃないか。今いる場所から山を見て左に進めば、昨日の川に突き当たるはずだ。木の実も取りに行きたいし、雨が弱まったら行ってみよう。そのときにまだ、動く気力があればの話だが。
雨は次第にやんできたものの、代わりに真っ白い霧が出てきた。空模様も相変わらず、晴れているのか曇っているのかすらはっきりしない。寒くてたまらないが、とりあえずさっき決めたとおり、川に向かってみようと思う。
どうやらいよいよお終いらしい。もはやこの先なにが起こっても驚くことはないだろう。今から書くことは多分全部、幻だ。
霧で視界が悪かったものの、川には無事に辿り着くことができた。さらさらと流れる水の音を聞いているだけでも、慢性的にのしかかっていた絶望感が濯がれるような気になった。
俺は水を飲むために川に近付いた。そうしたら、どうだ。流れてきたんだ。川の上流から、うまそうな料理の乗った皿がいくつもいくつも流れてきたんだ。俺は無心でそれに飛びついた。何日ぶりかのまともな食事だ。人間としてのマナーも忘れて手掴みで貪った。それはいつかテレビ番組で見た高級レストランのステーキだったり、よく昼食で食べる中華料理屋の餃子だったり、たいして甘くない赤い木の実だったり、打当で一度だけ食べた記憶のある、懐かしい母の手作りだったりした。
勢いよく食べすぎたせいで一つ一つの味はよくわからなかった。それでも俺は飽きるまで喰い続けた。喰い続けて、なんとなく腹が膨れてきたような気がして、それでもまだ満たされなくて、また喰い続けた。
そしてあるとき、不意に気が付いた。川から料理が流れてくるなんて、あり得ないということに。
くすくすと笑い声が聞こえた。霧のスクリーンの向こうにいくつかの人影が見えた。それはまったく子どもくらいの大きさで、声からすると少女のようで、背中に羽が生えていた。
思わず後ずさると、足下でばしゃばしゃと大きな音が鳴った。いつの間にか腿の辺りまで水が来ていた。水面に映った自分の顔は、さっき食べたステーキのソースを口元にべったり付けて、ゆらゆらと生気のない目でこちらを見返している。右手の甲で口を拭おうとして、そのときに初めて、自分が首の無い鮎を握りしめていることに気が付いた。口元に付いていたものは、川魚の生き血だった。
俺はわけがわからなくなって走りだした。後ろからはずっと笑い声が聞こえていた。くすくす、くすくすと笑う少女たちの声をかき消すように、両手で耳を塞ぎながら絶叫した。耳にぬるりとしたものが当たったのに驚いて、一層叫びながら鮎の死骸を投げ捨てて走った。霧の中を逃げて逃げて逃げ続け、誰も決して追いかけてこられないような森の奥深くまで逃げ込んで、べちょべちょに湿った落ち葉を体の周りにかき集めて、そのままずっと歯を鳴らしながら震えた。
目を固く瞑っていたから、昼も夜もわからない。耳の穴の奥まで人差し指を突っ込んでいたから、何が近寄ってきても知り得ない。自分と世界とを完全に切り離して、何時間も何日も、何年でも動かないつもりでいた。けれども実際にそうして引きこもっていられた時間は、数十分もなかったのかもしれない。
枯葉の中でうずくまっていた俺の体が揺さぶられた。俺はますます頑なになる。しかし今度は耳を塞いでいた左腕を掴み上げられ、ぐいっと指を引き抜かれてしまった。これで終わりだ。次に聞こえてくる音は、飢えた獣の唸り声か、川面の上に浮かぶ少女たちの笑いか、それとも……。
結果を言ってしまうと、そのとき俺が内心で結んだ決死の覚悟には意味がなかった。なぜならその直後、実際に耳にした第一声の内容は、それらの最悪の予想の中のどれとも違っていたからだ。
「おーい、話を聞かんか」
人間の声だった。間違いない。夢にまで見た人の声なのだ。
俺はおそるおそる目を開けてみた。完全な暗闇に淡い日光が差し込んで、思わず目が眩みそうになる。
そして次の瞬間、強い眩暈が俺を襲った。極度の緊張からの解放や、安心感のせいではない。それはまさに救世主だと思い込んでいた目の前の人間が、実は世間一般の言う人間ではなくて、〝巨大な尻尾と獣の耳が生えた人間〟であったからだった。
森の中を走ったり転んだりして、もはや抵抗する力も残っていない。俺は今から、この人のような姿の妖怪に喰い殺されるのだろう。
そう諦めかけたとき、不意にあることに気が付いた。それは彼女――その妖怪は一見少女の姿をしていた――が、最初に俺にわかる言葉で、人間の言葉で話しかけてきたということだった。もしかすると意思の疎通ができるかもしれない。それなら、まだ助かる道は残されている。俺は勇気を振り絞り、からからに掠れた喉から声を出した。「あなたは……?」
妖怪は言った。「儂か? 儂は佐渡の二ッ岩じゃ」どうやら目論見は当たったらしい。
彼女はさらに続けた。「お前さん、外の世界に帰りたいか?」
言っている意味はよくわからなかったが、とにかく助かりたかった俺はぶんぶんと頷いた。「帰りたい……です……!」
しかし彼女は言った。「本当か?」
その言葉の意味を考えようとして、俺の思考は動きを止めた。本当です。ただ一言そう返せばいいだけのものを、俺の口はいつまで経っても開こうとしなかった。
帰りたい。
本当に?
俺は本当に帰りたいのか? あの街に帰って、それで、それから。
それから――?
俺がなにも喋らなくなったのを見て、二ッ岩と名乗った妖怪はさくさくと落ち葉を踏んで近付いてきた。取って食われるのかと思ったが、彼女はただ、俺の体を覆う枯葉の山を手で払っただけだった。そうして、なにやら俺の腰の後ろ辺りをじっと観察して、こう言った。
「よし。お前はまだ帰って来れる」それから東の空を指さして、「外の世界へ帰りたいなら東に向かえ。神社があるから、そこから外に出られるじゃろう」と言った。「だが――」
妖怪は一枚の枯葉を拾い上げると、自らの頭の上に乗せて言った。「もし元の生活に戻りたいのならば、そのときは儂の名を呼べ。いつでも歓迎するぞい」
次の瞬間、彼女の姿は白煙とともに消えた。彼女が存在したという証拠はもはやどこにもない。ただ一枚の枯葉がひらひらと風に吹かれて、地面の上に横たわっていた俺の額に張り付いた。
今、俺はその枯葉を手に取って、くるくると弄びながら考える。「外の世界へ帰りたいなら東に向かえ」と、たしかに彼女はそう言った。あるいはすべては幻覚だったのかもしれないが、最後の賭けとして東へ向かうのもいいだろう。
しかし一方でそれ以上に、彼女が言い置いたもう一つの言葉のほうが、胸の奥深くから繰り返し、繰り返し反響してくる。
「もし元の生活に戻りたいのならば、そのときは――」
俺は大きな木の下に座って、もう一度よく考えてみた。考えて考えて、考え続けて、耳に残った彼女の言葉を何回でも反芻した。
そして今、やっと答えが出た。俺の望みはただ一つ、ずっと昔からそこにあった。
俺はただ、帰りたい。
【十二月 満月の夜】
久しぶりにペンを握る。さて、なにから書いたものか。
あの日、俺は東へは向かわなかった。考えれば考えるほどなにかが心に引っかかって、どうしてもそっちへ行く気になれなかった。あの人混みにすり潰されそうな都会での生活は、俺自身が望んだものじゃなかったんだと、ようやく気が付くことができたんだ。
俺が二ッ岩の親分――二ッ岩マミゾウさんの名を呼んだとき、彼女はすぐ目の前に現れた。きっと俺が考えている間も、ずっとどこかで見ていてくれたのだろう。彼女はよそから来た俺を邪険にすることもなく、狸たちの仲間に迎えてくれた。この幻想郷という土地で彼女を尊敬しない狸など一匹もいない。本当に凄い狸なのだ。
今では俺も、大勢の狸たちといっしょに寝起きし、彼らと同じものを食べ、川で魚を獲ったり、時には遊んだりもして、まるで本当の家族のようにくらしている。幸せな毎日だ。
俺は思い出したんだ。父親はああ言ったけど、本当はなりたくなかったこと。とかいにも行きたくなかったこと。ずっとこきょうの森のなかで暮らしていたかったこと。
でも、時代が変わって、環きょうがかわって、それがむずかしくなって、みんな、かわらないとだめになって。
おやぶんが言うには、ここはちがうんだって。みんな 本とのすがたで生きられる。おれも もう、ならなくていいんだ。そう思っら
だんだん、人げんのもじも わすねてきた。ペンも上手くもてなくなっる
ても よかった。やつと かえてこねた
つきが きれいだ。
自分が今どこにいるのかわからない。俺は夢を見ているのか? スマホも圏外で繋がらない。わかるのは今の日時だけだ。酒なんか飲んだ覚えはないのに。いや、飲んだこと自体を忘れているのか。しかし、俺はそんなに酒に弱かっただろうか。正体を無くすまで飲んだことなんてないぞ。いや、だから、そんなに飲んだことがなかったから、急に飲みすぎておかしくなったのか。駄目だ。考えが纏まらない。気付いたら周りが森だったんだ。木に囲まれてる。背の高いやつだ。子どものころに駆け回ってた田舎に少し似てるか? なんとなく懐かしい匂いがする。
とにかくこのままじゃ気が狂いそうで、こうやってスケジュール帳に今の状況を走り書きしながら頭の中を整理している。そうだ、周囲の写真も撮っておこう。今起きていることが夢や幻ではないという証明になるはずだ。
他の役に立たないとわかっていても、無意味にスマホの画面を見てしまう。充電を節約するべきなのに、まったく現代人の病気だ。ああ、まずい、会社に早退の連絡ができない! ……って、さすがにそんなこと言ってる場合じゃないか。遭難してんだもんな。なに考えてんだ。クソ。でも、そうか。今はそういうの、なんも考えなくていいのか。
十六時二十九分。日が暮れかけている。こんなところで野宿? まずい、火が無い。
完全に日が暮れた。幸運にも雲がなく、月明かりが眩しいくらいに明るい。まじまじと月を見上げたのなんて久し振りだ。夜空を占めるそのあまりの存在感に、正直驚いた。この明るさなら歩けるか? いや、今歩く意味がないか。今は体を休めて、明日人を探せばいい。焦ってわけのわからないことをしていたら本当に命取りになりかねない。今の俺は何も保証されていないんだ。誰も庇護してはくれないんだ。俺の行動が全部そのまま、俺に返ってくるだけだ。
地面を軽く触ってみる。水でも撒いたのかってくらい土が冷たい。こんな環境で寝ないといけないのか? ヤバい。これじゃ凍死する。やっぱり夜は起きてて、明日日が昇って暖かくなってから昼寝するべきか? 明日雨が降ったらどうする? 確実に寝られるときに寝ておくべきじゃないのか? 布団の代わりが必要だ。落ち葉を集めるんだ。枯れて茶色くなったやつがそこら中に散らばってるから、これを大量に掻き集めよう。
勢いよく持ち上げた落ち葉の裏に虫が付いていた。最悪だ。気持ち悪い。指先にまだふにゃりとした感触が残っている。しかし、俺はもう頭を切り替えた。命が懸かってると思えば全部些事だ。自分はどっちかというと繊細なほうだと思ってたが、案外吹っ切れるタイプの人間だったみたいだ。知らない自分に会うことができた気がする。
落ち葉の布団は意外と暖かい。これならなんとか生き延びられそうだ。それに土の匂いを嗅ぎながら寝るというのも、なんだか落ち着く感じがする。眠れるだろうか。睡眠をしっかりとって、明日の移動に備えなければ。火は試したけど、つかなかった。
【十二月二十一日 木曜日】
やはり夢じゃなかったらしい。俺はまだ遭難している。
目が覚めた時間は朝の六時十分。何時間寝たんだろう? 昨日日が暮れてからそんなに長くは起きてなかったはずだから、随分熟睡した感じもある。こんな劣悪な環境で寝てたっていうのに、不思議と体の調子も良いようだ。駄目元で手頃な木によじ登ってスマホを振ってみたりしたものの、相変わらず電波は来ない。おまけに木から降りるとき、手のひらを少し擦りむいた。無性に腹が立ってきた。絶対に帰りついてみせる。
しばらく歩いたが、なかなか道に出られない。同じような景色ばかりで、来た道をぐるぐるしているような気さえしてくる。喉が渇いたので、唯一持っていた缶コーヒーを早くも飲み干してしまった。
そう。缶コーヒーだ。やっぱりどう考えてもおかしい。どうしてこうなってしまったのか、その前後のことを、忘れてしまう前に書き留めておくべきだ。
昨日の昼、俺は会社でちょっとしたミスをやらかして、上司から呆れられていた。
「お前はなんというか……常識ってもんがないよな」
自分でこう言うのもなんだが、あまり珍しい光景ではなかった。特段大きな事件こそまだ起こしていなかったものの、なぜか日頃から小さな失敗を重ねてしまうタイプで、会社内での評価も当然、それなりだった。
「ちょっと、手出して」
「はい?」
「いいから」
困惑する俺の右手に、数枚の小銭が握らされる。
「コーヒー買ってきて」
俺は言われたことを成し遂げるため、機械みたいに歩き出した。東京にあると言っても小さな会社で、自販機は建物を出て少し歩かないと見つからない。オフィスのドアを開けるとき、背中にワサッと同僚たちの視線が集まった気がして、にわかに全身の毛が逆立った。
脳みそはずっとぼんやりしていた。かと言って、辿った道順は間違えようがない。会社を出たらまず左に折れて、よく昼食で入る中華料理屋の前を通り過ぎ、菓子パンがやたら豊富なパン屋を横目に、もう一度左に折れると少し薄暗い道に出る。そこを何十メートルかてくてく歩いていけば、ようやく自動販売機が一台、整骨院の狭い駐車スペースの隅にぽつんと佇んでいた。
渡された小銭で缶コーヒーを買った。自販機の小さなルーレットが思わせぶりに光ってくれたが、結局数字は揃わなかった。もっとも、仮にもう一本とかが当たったところで、どんな顔をして持って帰ればいいのかと考えると、余計な幸せが訪れなくてむしろ幸運だったとさえ思えた。
「……何ほっとしてんだよ」
そんなつまらないことばかり考えていたら、急にあそこへ戻るのが心底嫌になって、俺はそのまま買った缶コーヒー片手に、自販機の隣に置いてあったベンチに座り込んでしまった。ため息にもならないような息を細く吐く。指先が石膏で固められているみたいに動かない。吹きつける風の冷たさが妙に他人事のように感じる。頭の上で波打つ樹脂製の日除けの影が、目に映る景色すべてに異様な人工色を差していた。
帰りたい。
そう思って目を閉じた次の瞬間、俺はもう森の中にいて、苔の生えた切り株の上に座っていた。
やはりあり得ない。俺がコーヒーを買いに行ったのも、昨日スマホで確認した遭難初日の日時も、間違いなく同じ日付だった。時間だってほとんど経っていない。東京から数分以内でこんな誰もいない山奥まで移動するなんて、物理的に不可能だ。俺の身になにか、とてつもない異変が起こっている。それも病気とかではない。科学で説明がつかないタイプの〝なにか〟だ。馬鹿げているが、もはやそう考えるしかない。こうなってくると、いよいよ俺はこの森から抜け出せるのだろうか。もしかしたら本当の俺はあのベンチの上で死んでいて、ここは死後の世界だなんてことも十分あり得る。だとしたら、俺がこうして歩き続ける理由はなんだ? 地獄の刑罰か何かなのか? 生憎そこまでの悪行をやった覚えはない。弱気になっちゃ駄目だ。必ず脱出できるはずだ。もし生きて帰れたら、このメモと写真を元にした体験談を出版しよう。会社の連中の証言が間接的な証拠になるし、そこそこは売れるはずだ。ベストセラーも夢じゃないかもしれない。そしたら大金が転がり込んできて、会社ももう辞めちゃって……。って、なに夢見てるんだか。
なんの成果もなく、空腹も限界に達しようとしていたとき、運良く小さな赤い実が生っている茂みを発見した。食べられる実かどうかなんて言っている場合じゃなかったので、片っ端から取って食べた。うまい。ちょっとすっぱいし、甘みが強いわけでもないのに、死ぬほど腹が減っていたから死ぬほどうまい。一つ一つの実はせいぜいブルーベリー大だが、とにかく大量に群生しているのも良い。服中のポケットというポケットがパンパンになるまで詰め込んだ。
さらに数時間歩いた。今、進行方向右奥のほうから微かに水の流れるような音が聞こえる。川だ! 近くに川がある!
音のする方向に進んだ結果、無事に川に出ることができた。水が飲める……!
本当は煮沸しないといけないのだろうが、火を起こせないので我慢できずにそのまま飲んだ。子どものころにも飲んだ記憶があるし、昔から体は丈夫なほうだ。なんとかなるだろう。きんきんに冷えた川の水は目が覚めるほどうまかった。両手でちまちま掬うのがじれったくて、顔面ごと川に突っ伏して飲んだ。水の中には魚もいた。小魚というにはかなり大きい。あれが食えればもっと腹も膨れるのだが、やはり問題は火か。川から顔を上げたとき、ふと、川面の光が反射して、なにか大きくて真っ黒な影が上空を通った気がした。一瞬すぎてわからなかったが、鴉にしては大きすぎるし、なにより鳥にしては速すぎる。なんだったのだろう。
早くも日が傾きつつある。疲れたし、今日はこの近くで寝ることにする。明日以降はこの川に沿って散策すべきだろう。そういえば、どうやらこの川の上流にはやたら大きな山がある。しかもこの山、驚いたことに、その頂から絶えず一筋の煙を吐き出しているのだ。活火山? いったい何県の山だ? もっと地理を勉強しておけば良かった。とにかく、あんなヤバそうな山に近付くのはごめんだ。明日は下流に向かう。水の近くには必ず人の痕跡が見つかるはずだ。
【十二月二十二日 金曜日】
空が曇っている。今にも降り出しそうとまではいかないが、薄暗くて寒い。ポケットから木の実を取り出しては食べ、取り出しては食べ、口寂しさを誤魔化しながら彷徨っている。それも限界が近い。
川辺を進んでいたところ、森の中から物音がする。人間ではない。獣だ。姿は見えないが、確実になにかがそこにいる。空の暗さで視界が頼りにならない分、聴覚ばかりがいやに研ぎ澄まされる。ぴゅうぴゅう吹く風の音と、ばさばさ鳴る草の音に混じって、目線の先の茂みの中からじっとこちらを窺っている姿体不明の生物の息づかいが、異様にはっきりと想像できるのだ。緊張と空腹で吐き気までしてきた。そういえば、最近ニュースで熊の出没をよく聞くが、まさか……。熊に死んだふりは意味ないんだったか? 逃げるときは目を合わせて……目を合わせちゃいけない? まずい、どっちだ? いや、まだ熊と決まったわけじゃない。きっとドブネズミとか、イタチとか、ハクビシンとかだ。なんてことのない小動
狼だ。あれは狼だった。犬じゃない。絶対に犬なんかじゃない。追いかけ回されて必死で逃げた。なんで狼がいるんだ⁉︎ 絶滅したんじゃなかったのか⁉︎
森の中を逃げ回っているうちに方向感覚がわからなくなって、川の方角を見失った。せっかくの、せっかく、希望が見えたと思ったのに、これでまた振り出しだ。振り出しどころじゃない。ただでさえ少なかった体力が今のでほとんど無くなった。もう一歩も動けない。今またあいつに襲われたら今度こそ一巻の終わりだ。さっきは偶然助かったが、あんな偶然はもう――偶然? そういえば、逃げている最中に不思議なことがあった。あれはなんだったんだろう? 俺が今にも狼に追い付かれそうになったとき、森の中から無数の黒い影が飛び出してきて、俺と狼の間に割って入った。それは狸の群れだった。俺は逃げるのに必死でちらりと振り返って見ることしかできなかったが、狸たちは狼を取り囲み、まるで俺のことを逃がそうとしてくれているように見えた。狸が狼に立ち向かうなんて、そんなことがあるのだろうか。いや、俺は現にこの目で見たのだから、疑いようはないのだが……。
考えてもわからないことはわからない。とりあえず、しばらくここで休んでいくことにする。そうするしかない。
ずっと考えないようにしてきたが、いよいよこのメモは……遺書に、なるかもしれない。どうせ休憩しているだけでは暇だし、なにか書き続けていたい気分だから、せっかくなら俺自身のことを書こうと思う。誰かが見つけて読んでくれるかもしれない。読んでほしい。
閉じた瞼の裏に浮かんできた光景は、やっぱり生まれ育った故郷だった。
秋田の打当で生まれた幼少期の俺は、一日中山林に紛れて遊ぶ子どもだった。そう思うと今の状況もたいして変わらないが、あのころは似たような性格の友達がたくさんいて、毎日が陽の光に溢れていた。
山と集落との境目の辺りに牧草地が広がっていて、よく大人が草刈りをしにやってくる。その日も俺たちは近くの林に身を隠して、そこで大人がやってくるのを待った。日が傾いたころ、「タナカサン」と呼ばれるおじさんが現れて、軽く体を伸ばしたあと、いつものように草刈機でばりばりと草を刈り始める。頃合いを見計らい、俺たちも行動を開始した。
ブゥーン、バリバリバリ。
誰もいないはずの林の中からチェーンソーの音が鳴り響く。驚いたタナカサンは草刈機を止めて、音が鳴った林のほうを睨みつけた。
バリバリバリ、ドーン!
すぐ近くで木が倒れる音がする。タナカサンは耳を澄まし、目を凝らしたけれど、やっぱり誰もいない。そもそも、今日この時間に伐木が行われる予定はないはずなので、ますます不審に思う。
ブゥーン、バリバリバリ。
もう一度チェーンソーの音を鳴らしてみると、タナカサンは確信したように顔をしかめて、俺たちが隠れている林に向かって大股で歩いてきた。「こら!」
俺たちは大笑いしながら逃げ出した。
日が暮れて家に帰ると、鬼の形相をした父が待っていた。父はタナカサンのことをなにか異常に恐れているきらいがあって、その日の説教もまた大変なものだった。
「悪戯ばっかしてっと、終いにはぶち殺されんぞ!」
散々叱られてとぼとぼしている俺に、今度は爺ちゃんが話しかけてくる。
「儂が子どものころはなァ……」
もう説教は十分だと思っていると、
コーン、コーン、
と、何かが木を打っているような音が聞こえた。
「儂が子どものころは、チェーンソーなんて無いからな。こうやって、斧の音出してたよ」
そのあと、爺ちゃんと二人して父親に怒られた。
そんな爺ちゃんも何年か前に亡くなって、ある日俺は父親からこう告げられた。
「お前は都会へ行くべきだ。お前は俺らと違って出来が良い。向こう側へ行ってもやっていける」
俺はもちろん反論したけど、父親は頑固だった。二言目には「俺らに構うな」、三言目には「土地に生き方を縛られるんじゃない」、そして終いには、腹の底から絞り出すような震え声で「出て行け!」と怒鳴られた。父親には父親なりの考えがあったのだと思う。俺も父親が間違っているとは思わなかった。
それ以来打当には帰っていない。風の噂では、あの林はもう無くなったらしい。
【十二月二十三日 土曜日?】
首筋に伝う寒気と小雨の音で目が覚めた。ついに降りだしてしまったようだ。紙がしめって書きにくい。スマホの充電もいつの間にか尽きていた。
体がだるい。雨が冷たい。動きたくない。
木々の隙間の向こう側には例の活火山が聳えている。もしかすると、あの山に向かうのが正解だったのだろうか? 山の中腹から見渡せば、簡単に道が見つかったんじゃないのか? 今さら気付いてもなにもかも遅い。悔しい。
ああ、そうか。山の位置から川の方角がわかるじゃないか。今いる場所から山を見て左に進めば、昨日の川に突き当たるはずだ。木の実も取りに行きたいし、雨が弱まったら行ってみよう。そのときにまだ、動く気力があればの話だが。
雨は次第にやんできたものの、代わりに真っ白い霧が出てきた。空模様も相変わらず、晴れているのか曇っているのかすらはっきりしない。寒くてたまらないが、とりあえずさっき決めたとおり、川に向かってみようと思う。
どうやらいよいよお終いらしい。もはやこの先なにが起こっても驚くことはないだろう。今から書くことは多分全部、幻だ。
霧で視界が悪かったものの、川には無事に辿り着くことができた。さらさらと流れる水の音を聞いているだけでも、慢性的にのしかかっていた絶望感が濯がれるような気になった。
俺は水を飲むために川に近付いた。そうしたら、どうだ。流れてきたんだ。川の上流から、うまそうな料理の乗った皿がいくつもいくつも流れてきたんだ。俺は無心でそれに飛びついた。何日ぶりかのまともな食事だ。人間としてのマナーも忘れて手掴みで貪った。それはいつかテレビ番組で見た高級レストランのステーキだったり、よく昼食で食べる中華料理屋の餃子だったり、たいして甘くない赤い木の実だったり、打当で一度だけ食べた記憶のある、懐かしい母の手作りだったりした。
勢いよく食べすぎたせいで一つ一つの味はよくわからなかった。それでも俺は飽きるまで喰い続けた。喰い続けて、なんとなく腹が膨れてきたような気がして、それでもまだ満たされなくて、また喰い続けた。
そしてあるとき、不意に気が付いた。川から料理が流れてくるなんて、あり得ないということに。
くすくすと笑い声が聞こえた。霧のスクリーンの向こうにいくつかの人影が見えた。それはまったく子どもくらいの大きさで、声からすると少女のようで、背中に羽が生えていた。
思わず後ずさると、足下でばしゃばしゃと大きな音が鳴った。いつの間にか腿の辺りまで水が来ていた。水面に映った自分の顔は、さっき食べたステーキのソースを口元にべったり付けて、ゆらゆらと生気のない目でこちらを見返している。右手の甲で口を拭おうとして、そのときに初めて、自分が首の無い鮎を握りしめていることに気が付いた。口元に付いていたものは、川魚の生き血だった。
俺はわけがわからなくなって走りだした。後ろからはずっと笑い声が聞こえていた。くすくす、くすくすと笑う少女たちの声をかき消すように、両手で耳を塞ぎながら絶叫した。耳にぬるりとしたものが当たったのに驚いて、一層叫びながら鮎の死骸を投げ捨てて走った。霧の中を逃げて逃げて逃げ続け、誰も決して追いかけてこられないような森の奥深くまで逃げ込んで、べちょべちょに湿った落ち葉を体の周りにかき集めて、そのままずっと歯を鳴らしながら震えた。
目を固く瞑っていたから、昼も夜もわからない。耳の穴の奥まで人差し指を突っ込んでいたから、何が近寄ってきても知り得ない。自分と世界とを完全に切り離して、何時間も何日も、何年でも動かないつもりでいた。けれども実際にそうして引きこもっていられた時間は、数十分もなかったのかもしれない。
枯葉の中でうずくまっていた俺の体が揺さぶられた。俺はますます頑なになる。しかし今度は耳を塞いでいた左腕を掴み上げられ、ぐいっと指を引き抜かれてしまった。これで終わりだ。次に聞こえてくる音は、飢えた獣の唸り声か、川面の上に浮かぶ少女たちの笑いか、それとも……。
結果を言ってしまうと、そのとき俺が内心で結んだ決死の覚悟には意味がなかった。なぜならその直後、実際に耳にした第一声の内容は、それらの最悪の予想の中のどれとも違っていたからだ。
「おーい、話を聞かんか」
人間の声だった。間違いない。夢にまで見た人の声なのだ。
俺はおそるおそる目を開けてみた。完全な暗闇に淡い日光が差し込んで、思わず目が眩みそうになる。
そして次の瞬間、強い眩暈が俺を襲った。極度の緊張からの解放や、安心感のせいではない。それはまさに救世主だと思い込んでいた目の前の人間が、実は世間一般の言う人間ではなくて、〝巨大な尻尾と獣の耳が生えた人間〟であったからだった。
森の中を走ったり転んだりして、もはや抵抗する力も残っていない。俺は今から、この人のような姿の妖怪に喰い殺されるのだろう。
そう諦めかけたとき、不意にあることに気が付いた。それは彼女――その妖怪は一見少女の姿をしていた――が、最初に俺にわかる言葉で、人間の言葉で話しかけてきたということだった。もしかすると意思の疎通ができるかもしれない。それなら、まだ助かる道は残されている。俺は勇気を振り絞り、からからに掠れた喉から声を出した。「あなたは……?」
妖怪は言った。「儂か? 儂は佐渡の二ッ岩じゃ」どうやら目論見は当たったらしい。
彼女はさらに続けた。「お前さん、外の世界に帰りたいか?」
言っている意味はよくわからなかったが、とにかく助かりたかった俺はぶんぶんと頷いた。「帰りたい……です……!」
しかし彼女は言った。「本当か?」
その言葉の意味を考えようとして、俺の思考は動きを止めた。本当です。ただ一言そう返せばいいだけのものを、俺の口はいつまで経っても開こうとしなかった。
帰りたい。
本当に?
俺は本当に帰りたいのか? あの街に帰って、それで、それから。
それから――?
俺がなにも喋らなくなったのを見て、二ッ岩と名乗った妖怪はさくさくと落ち葉を踏んで近付いてきた。取って食われるのかと思ったが、彼女はただ、俺の体を覆う枯葉の山を手で払っただけだった。そうして、なにやら俺の腰の後ろ辺りをじっと観察して、こう言った。
「よし。お前はまだ帰って来れる」それから東の空を指さして、「外の世界へ帰りたいなら東に向かえ。神社があるから、そこから外に出られるじゃろう」と言った。「だが――」
妖怪は一枚の枯葉を拾い上げると、自らの頭の上に乗せて言った。「もし元の生活に戻りたいのならば、そのときは儂の名を呼べ。いつでも歓迎するぞい」
次の瞬間、彼女の姿は白煙とともに消えた。彼女が存在したという証拠はもはやどこにもない。ただ一枚の枯葉がひらひらと風に吹かれて、地面の上に横たわっていた俺の額に張り付いた。
今、俺はその枯葉を手に取って、くるくると弄びながら考える。「外の世界へ帰りたいなら東に向かえ」と、たしかに彼女はそう言った。あるいはすべては幻覚だったのかもしれないが、最後の賭けとして東へ向かうのもいいだろう。
しかし一方でそれ以上に、彼女が言い置いたもう一つの言葉のほうが、胸の奥深くから繰り返し、繰り返し反響してくる。
「もし元の生活に戻りたいのならば、そのときは――」
俺は大きな木の下に座って、もう一度よく考えてみた。考えて考えて、考え続けて、耳に残った彼女の言葉を何回でも反芻した。
そして今、やっと答えが出た。俺の望みはただ一つ、ずっと昔からそこにあった。
俺はただ、帰りたい。
【十二月 満月の夜】
久しぶりにペンを握る。さて、なにから書いたものか。
あの日、俺は東へは向かわなかった。考えれば考えるほどなにかが心に引っかかって、どうしてもそっちへ行く気になれなかった。あの人混みにすり潰されそうな都会での生活は、俺自身が望んだものじゃなかったんだと、ようやく気が付くことができたんだ。
俺が二ッ岩の親分――二ッ岩マミゾウさんの名を呼んだとき、彼女はすぐ目の前に現れた。きっと俺が考えている間も、ずっとどこかで見ていてくれたのだろう。彼女はよそから来た俺を邪険にすることもなく、狸たちの仲間に迎えてくれた。この幻想郷という土地で彼女を尊敬しない狸など一匹もいない。本当に凄い狸なのだ。
今では俺も、大勢の狸たちといっしょに寝起きし、彼らと同じものを食べ、川で魚を獲ったり、時には遊んだりもして、まるで本当の家族のようにくらしている。幸せな毎日だ。
俺は思い出したんだ。父親はああ言ったけど、本当はなりたくなかったこと。とかいにも行きたくなかったこと。ずっとこきょうの森のなかで暮らしていたかったこと。
でも、時代が変わって、環きょうがかわって、それがむずかしくなって、みんな、かわらないとだめになって。
おやぶんが言うには、ここはちがうんだって。みんな 本とのすがたで生きられる。おれも もう、ならなくていいんだ。そう思っら
だんだん、人げんのもじも わすねてきた。ペンも上手くもてなくなっる
ても よかった。やつと かえてこねた
つきが きれいだ。
平成狸合戦ぽんぽこ風味ですが、彼が違った結末を迎えることができて良かったです。
この作品をどういうジャンルとして捉えるかは読み手によって結構分かれそうですが、
なんとなく好きでした
幻想入りという概念に対する一つの答えに思えました
本人も満足しているようでよかったです
読み進めるにつれてどんどん引き込まれる、とてもいい作品だと思います。