Coolier - 新生・東方創想話

幸福な亡骸

2023/12/19 19:36:23
最終更新
サイズ
38.35KB
ページ数
1
閲覧数
714
評価数
6/8
POINT
670
Rate
15.44

分類タグ

人には誰しも衝動というものがありまして「ここでこういう行動を起こしたらどうなるだろう」という妄想は常に付き纏います。大人になると自分の行動に制御も効きますが、子供のうちは有り余る好奇心を抑えることが出来ず、また、悪いことと良いことの判別ができません。だから、衝動的な行動を取ってしまうと思うんです。
そんなわけで、わたしは外の世界で初の殺人を犯しました。犯したという自覚は無く、ただ、目の前に生きるために必要なエネルギー源が歩いていたので手に取ったとでも言う方が正しいかもしれませんね。当時──何年前だったかは忘れました。時の流れが人と違うみたいなので──まだ、わたしは子供で、生きようとするにはあまりにも飢えていました。物心ついた時には家族も無く、また、子供のためにパンを恵んでくれる優しい心の持ち主も周りにはいなかったのです。生きるためには奪わねばならず、わたしはその時初めて、奪えば生きられると知りました。
当然ながら、追われる羽目になります。叩かれると痛そうな棒を持った大人たちがたくさん来て、わたしの身体は生傷が絶えませんでした。わたしにはどこかから盗んだナイフしかありません。それでも、人の命を奪うには十分でした。子供の身体は、それはそれで有利だったのです。
走り続ける日々、殺し合いの日々、優しさのかけらも無い世界でも、わたしは死ぬ気になりませんでした。けれど、生きる気もありませんでした。生きることにも死ぬことにも希望が無く、なる様になれ、と思っていたのかもしれません。衝動的で刹那的な存在でした。
やがて、時代が変わりました。世界がひとつになろうとしているような、そんな感覚を抱きました。巨大な建物に囲まれて、人々が手を取り合って、何か祝い事をしていたのです。何がそんなにめでたいのかわかりませんし、今を持ってしてもわかりません。
ただ、目に見えて世界は変わりましたが、わたしを取り巻く事情は変わりませんでした。殺人は呼吸と同じで、穏やかな生活は息苦しさを伴いました。みんながわたしを狙っている。もうわたしを追う人たちはいないのに、そう言った妄想は止まりませんでした。その時代でも人を殺すことは許されませんでした。当然ですけど。
でも、誰もわたしを犯人だと疑わないのです。わたしのような子供が人を殺すなど思いもしなかったのですね。

そう、わたしは子供のままでした。どれだけ建物が背を伸ばそうと、わたしの背は伸びないままでした。それが普通だと思っていたので、わたしは子供のままでいました。そもそも、自分でどうこうできることでもありませんでした。
犯人の特定の進まない殺人事件が世間を騒がせます。しかし、わたしの存在は日に日に薄くなっていく様でした。誰からも構われない。誰からも関心を得られない、影のように薄っぺらく、永遠に続くかのような殺戮の日々は、わたしが子供の身でなければ発狂していたかもしれません。わたしは動物の様でした。しかし、何も殺さずに生きられないという点で、人間も動物も差はないでしょう。

そんなわたしの狩りの恐怖だけが残り、わたしそのものは忘れ去られたのです。時代が変わって行く前、ボロを纏った少女に優しくするものこそいませんが、見窄らしい者へは等しく石を投げられました。新しい時代では蔑まれることもありませんでしたが、わたしに関心を持つ者もいなかったのです。

思えば、復讐をしたかったのかもしれません。いつしかわたしの殺しは形骸化して行きました。わたしを追ってくる大人達は皆殺しにしました。だけど、その時代では追われることさえありませんでした。追っ手から逃げるために生きていたのです。

新しい時代は世界を豊かにしていったでしょう。ですが、わたしから生きる意味を奪ったのです。



気が付けば、わたしの存在は別の時空に切り取られたようです。目は開いているのに周りは真っ暗で、わたしは何も見えないのに何かから見られているような気持ちにさせられました。無数の目がわたしを見つめていました。わたしは追われているのだと思いましたが、すぐにそれも違うと知りました。彼らは見つめてくるだけで、わたしを捕まえようとはしませんでした。彼らの目はわたしには見えませんでしたが、きっと優しい目をしていたのでは無いかと思います。

目はずっと開いていたのに「目を覚ました」というのは可笑しな話です。けど、わたしには無数の目に見つめられていた空間が夢としか思えなかったのです。体感的には夢では無かったと断言できます。夢の世界には獏がいて、人の夢を食べてしまうらしいですからね。

それで、目を覚ましたわたしは、見たこともない森の中にいました。空は木々に隠されていて、昼なのか夜なのかさえわかりません。さっき見ていたものに負けぬほどの暗闇ではありました。ここでなら人を殺したって誰にもバレないだろう、わたしはそんな事を思いました。もうそんな必要も無いというのに。

そこにはわたしと同じように飢えた獣たちがいました。親近感が湧きます。彼らは命を奪うことに躊躇いがありませんでした。わたしを追っていた連中は、わたしが子供だからか、本気で殺そうとはしてきませんでした。あんな世界でも優しさあったのだ、とわたしはロクでも無い思い出が走馬灯のように流れていくのを見ました。わたしを食い殺そうとする獣は一切の迷いなくわたしの首に食らいつきます。歯が肉に食い込むと、いよいよ涙が溢れてきました。思えば、初めて肉を口にした時も涙が溢れてきたものです。その時の気持ちは思い出したくもありません。

わたしが食い殺されるということはありませんでした。わたしを救ったのは火でした。どこからともなく来た誰かが大鉈と火を振るって獣たちを退けたのです。わたしは首から滴る血を気にも留めず、新たな脅威に、今度は臆することなく刃先を向けました。火に照らされて闇の中に表情が浮かび上がります。大鉈を片手で振るっていたのは女性でした。彼女はわたしをじっと見ていましたが「お前のような子供を見たのは初めてではない」と言うようにすぐにそっぽを向いてしまいます。背中には紐で括り付けられた、頭のない獣がありました。けれど、わたしの関心はそんなところには向きません。

「ま、待って」震える声で、本当に久しぶりに、いえ、覚えている限りでは生まれて初めて言葉を発しました。「つ、捕まえないの」

その人は犯罪者を捕まえるような風貌でもありませんでした。けれど、その人の持つ大鉈は断罪の象徴であるように思えたのです。わたしは裁かれないことに不安を覚えました。不安と希望は表裏一体で、わたしには同時に希望も芽生えていたのです。もう追われなくていいのか、ここでなら人を殺すことは罪では無いのか。生きることとは命をいただくことだと、今となっては重々承知しておりますが、当時のわたしには、人の命を奪わないと生きていけないのに、なぜわたしが悪だと見なされるのかわかっていませんでした。

「お前、家は?」そうそう、家族もいなかったけど、家もありませんでした。わたしは首を横に振りました。「家がないんか、そうか、そうか」

女性はにっこりと微笑みました。まるで、わたしが宿無し子であることで女性に都合のいいことがあるみたいに。でも、決して嘲りの笑みなどではありませんでした。この森に来る前の世界で、ボロを纏ったわたしを抱きしめてくれる人など一人もいなかったからです。臭い立ち、痩せこけて、髪もボサボサのわたしを、慰めてくれる人などいなかったのです。

「よしよし、お前は今日からうちの子になれ」

女性はわたしの鳥の巣のような髪の毛を撫でながらそう言ってくれました。それがどれほど暖かい言葉であるかは、わたしにはわかりませんでした。きっと、騙そうとしている。わたしは懐にナイフを忍ばせました。しかし、すぐに気付かれてしまいます。「ほれ、そんな物騒なもん、しまえ。ここじゃ獣以外、誰もお前を食ったりなんかしないべ」

女性はわたしからナイフを取り上げました。わたしが肌身離さず持っていたナイフを。御守りのナイフを。それがわたしにとってどれだけ不安だったか、彼女には分からなかったのでしょうね。わたしは必死に取り戻そうと食ってかかりました。

「返して!」

これまでも大人たち(それも男性)と戦ってきたので、負けるわけがないと掴みかかろうとしたのですが、簡単に地面に放り投げられてしまいました。その人が戦いのプロだったとか、そういう話ではありません。何か尋常ならざる力で投げ捨てられたのです。もちろん、彼女が人間ではなかったからなのですが、わたしは初めて敗北を味わったのです。手も足も出ませんでした。はい、善戦ですらありません。

「自分の身は自分で守れるってか」そんなつもりはまったく無いのに、女性はまるでわたしの全てを見通していると言わんばかりに説教を始めました。「図に乗るんじゃねえ。うちが来なかったら死んでたんだぞ」

いったい、何を言われているんだろうと考えました。この人はわたしを襲う気がなくて、うちの子になれと言いました。うちの子になれ、という言葉を頭の中で反芻します。

「なあ、何を怯えているか知らんけど」女性はわたしに目線を合わせてくれました。澄んだ瞳をしていて、その瞳の中に映るわたしの身体は震えていました。「子供がそんなに辛い目に合うもんでねえ、うちの子に来い」


わたしはとうとう観念しました。つまり、その人のお世話になることに。とはいえ、完全に信用したわけではありません。今まで周りの人間はわたしを蔑むか捕らえて暴行をしようとする者ばかりでした。唯一の武器を没収され、力でさえ叶わない人に、わたしは恐れていました。あの大きな鉈と来たら、人の肉を切るためにあるのだとしか思えません。
彼女の家──というか、小屋、古屋?はとにかく質素なものでした。明かりと呼べるものはないし、インテリアなんかは以ての外。あるのは眠るための布や手製の籠と言った具合でした。控えめに言って文明人の住む環境とは言い難いものです。
暗がりの中で、女性が何かを切る音がします。ぶち、ぶち。作業を終えたらしい彼女は外へ続く布で仕切られただけの出口へ向かいました。
「腹減ってるべ、ついてきな」
言われた通りにしました。外に出ると、やはり暗闇ですが、段々とその女性のことが頼りになってくるものです。どんな暗い場所でも、彼女にはまるで全てが見えているかの様に作業をしてしまうのです。そうしてたちまち火を起こすと、ようやくわたし達は再び顔を合わせることができました。

「泥だらけだな、お前」木で作った水筒を渡してくれました。「顔、洗え」
わたしはどうしたらいいかわかりませんでした。顔や体の汚れなど、気にしたことが無かったからです。それよりも、ようやく脳の処理に追いついた疑問が口から出ました。
「ここは、どこ?」
周りを見回しても木、木、木。まさに森。わたしのいた場所と違って、まるで文明が通っていません。女性は火に薪をくべるばかりで、答えてはくれません。わたしはもう一度尋ねました。
「気にすんな。いつか帰してやる」
要領を得ない返事に、わたしは苛立ちました。「そうじゃなくて!…気がついたらこの場所にいたの。建物がたくさんある場所にいたはずなのに」
「どういうことだ?」
「眠っていたのかもしれない。目を覚ましたら、あの場所にいたの」
女性は考える素振りを見せながら、こんな事を言い出したのです。「もしかして、天狗の仕業かなあ」
「天狗?」恥ずかしながら、天狗と言うものを当時のわたしは知りませんでした。「天狗って?」
「…お前さん、家族もいねぇか」
どうやら一般的な親は天狗の恐ろしさというものを子供に伝えるらしいのです。わたしは彼女から天狗がどのような存在かを教えてもらい、やがて、わたしのいるこの場所が、元いた世界とは別の世界である事を悟りました。子供故に受け入れられた現実と言えるでしょう。どの道、元の世界に置いてきたものもありません。

彼女はわたしに事情を話すように促しました。わたしには何も話すことがありませんでした。人を殺したという思い出以外に何も。わたしはわたしのことを話そうとしても、何にも思い浮かばないのです。
「おっ父やおっ母は、まさか生まれた時からいなかったのか」
わたしは頷きました。わたしは何も覚えていなかったのです。父の顔も母の顔も。ナイフと壊れた懐中時計だけがわたしの持つ唯一の情報でした。

不幸自慢は趣味ではありませんが…いえ、これまでのは全く不幸だなどと思ってはいませんよ。ただ、家族のことを知らないのは不幸なことだと、わたしは教わりました。わたしには父や母と呼べる存在がいなかったので、わたしは家族の愛というものを知りませんでした。

「自分の名前は?」

尋ねられて思い至ります。自分に名前がないことに。誰かに呼ばれたことも無かったので、気付きませんでした。わたしは何者なんでしょう?いまでも答えは出ていません。

「歳は、故郷は」

女性が何か焦るように尋ねてきます。親もわからないのに、故郷が分かるはずないのに。きっと、彼女はわたしの中に救いを探していたのでしょう。わたしの中に何か一つでも優しさを見出したかったのだと思います。残念ながら、わたしはあらゆる意味でスカンピンでした。
「初めてだな、こんな子供は…まったく何モンかわからないじゃないか」
彼女が悩んでいるうちに、わたしのお腹がグゥとなりました。彼女は膝を叩き、火の中から十分に焼かれた獣の肉を取り出し、手製の器に乗せてわたしにくれました。
「ま、食え」
熱い肉を口まで運べる物もなく、わたしは息を吹きかけて冷まそうと試みます。
「そうそう。命を頂くときはな」彼女は両の手を合わせて、少し頭を下げました。「いただきます、って言うんだ」
わたしは呆然とその作法を見ていました。殺しておいて何を言っているんだ、という気持ちでした。
「やらなきゃ食っちゃだめだ」
飢えて死にかけの人にマナーを注意するなど正気では無いように思えますが、窮地に立たされていたわたしが生存するためにはマナーを守らねばならず、結果的にマナーを覚える良いキッカケになったかと思います。わたしは不細工ながら彼女の作法を真似しました。

彼女をちらりと見ました。にっこりと微笑んだ彼女は「うん!」と言ってくれました。わたしは手の熱さなど気にすることも無く、夢中で口の中に肉を詰め込み、そこで初めて自分が猫舌だと知りました。

「ゆっくり食え、誰もとらないから」

 そう言われて、わたしはゆっくりと口の中で肉を咀嚼しながら食べました。何故かわたしは彼女の言うことを聞いていたのです。力で組み伏せられたからでしょうか。武器のナイフを没収されているからでしょうか。きっと、逆らえば殺されると考えていたのです。あの大きな鉈が死の象徴のようにわたしの脳裏にこびりついていました。
「そうだ、お前のこと、なんて呼べばいい?」
食事を続けるわたしを他所に言いました。
「うーん、名無しじゃ不便だべ。でも、本当の名前があったら親御さんに失礼だ」
わたしの呼び方で難儀しているようでした。だけど、わたしは彼女のもとでお世話になろうなどと考えてはいません。わたしはお腹を満たすために仕方なく彼女に従っていただけなのです。隙を見てナイフを取り返し、逃げるつもりでした。
「女っ子は育てたこと無っからなあ。なあ、なんて呼ばれたい?」
「”お前”で良い…」
「そういうわけにも…」
「いいから!」
彼女は少し驚いたような素振りを見せましたが、すぐに納得してくれました。「そうだな、お前がそれで良いっていうなら、そう呼ぶことにするべ」
その時、わたしは何故か安心しました。自分が変わることを良く思ってなかったのかもしれません。名前を付けられたら、これまでの人生を否定されてしまうような。まあ、否定されるほどの人生を生きてきたわけじゃありませんし、理由は後付けで幾らでも捏造できますけど。
「じゃ、うちのことは母ちゃんで良い」
「……」
「お前、さっきからこれのことばっかり考えてるな」そう言うと、彼女は懐からわたしのナイフを取り出して、睨めるような視線をぶつけて来ました。「両親のことを覚えてないお前が、大事に持っているこれ。本能で家族のもんだとわかってるのかも知れん」
「そんなんじゃない」本当に。「それはお守りみたいなもので」
「別にこんな刃物じゃなくても良いだろ?」
「ええ?」
「母ちゃんが守ってやる」
そう言うと彼女は顔を赤らめてキャーキャー言い出すのです。「恥ずかしー!」わたしは呆れて──理由はそればかりではありませんが──物が言えませんでした。
「ほれ、呼んでみ!」名前を付けるのは失礼だとか言っていたのに、勝手に母親を名乗るのは良いのでしょうか。いえ、わかります。わたしの心を開こうとしていたのだと。「ほれ!」
わたしは反発したかったのかもしれません。少なくとも、あのナイフを取り戻すのは容易ではないと、本能で判断しました。この場で暮らすことになり、そして、この女に従わなければならないと。ですが、母ちゃんという響きはなんだかこそばゆくって、それだけは認められませんでした。
「お、お…」
「お?」彼女は期待に胸を躍らせていました。
「お、お母様…」
それを聞いて、彼女は一瞬訝しげな顔をした後、大声で笑いました。
「お母様って、ははは!そりゃちょっと…うーん…ふふふ!」
笑い転げる彼女を見て、わたしは一層決意を強めました。いつかこの女を殺してやる、と。誰かを憎いと思ったことはありませんでしたが、この時は明確に、初めて、憎さから人を殺したくなりました。

とにかく、彼女はわたしの母親となったのでした。



生きてたら良いことがある。そんな言葉を人間は使いますが、わたしはそんな希望を抱いて生きてきたわけではありません。何のために生きているのだろうと思ったこともないです。わたしに母が出来てからも、それは変わりませんでした。

頑なに心を開かないわたしに、母は母らしく接してくれました。わたしに本当の母はいませんが、もし、本当の母親がわたしにいたとしたら、あんな風に笑ってほしかったなと今では思います。
 母はよく魚を釣ってきてくれました。わたしには、母がこの森の中でなにを目印にして行動しているのか皆目見当もつきませんでした。どこまでも生い茂る木々の中で、母は逞しく一人で生きていたのです。なんだか、似てるなあと思います。いえ、わたしはまったく逞しくなどありませんでしたが、一人で生きている点が、ね。

母との会話は殆どありませんでした。ですが、母は一方的に喋り続けるので、どのみち会話など成り立たなかったでしょう。今日はここでこんな魚を釣ったとか、でっかい熊を見つけたとか。どうでもいい話ばかりをしてきます。母も一人で暮らしているからでしょうか、話相手が出来て嬉しいようでした。

わたしは、世界には死が有り触れているということを知りました。今まではわたしが死を齎す者でしか無かったので、それが自分の身にも降りかかるとは考えてもいなかったのです。母はわたしを生かすために動物を殺していたのも、結構衝撃的でした。わたしだけが殺せるわけじゃないんだ!
 広い世界のことなんかなんにも知らなかったわたしは、この狭い森の中で様々なこと知るようになります。健康という概念だとか野菜とか食物連鎖とか。最後のは活かせたことはありませんけど、わたしの考え方を変えてくれる要素ではあったかも知れません。

蟻という生物に心を奪われたことが、誰にでも一度はあるでしょう。どうして蟻は一匹で生きようとしないのかなって。彼らは孤独になれないのか。軍隊みたいに列になって歩く蟻さん達を見て、何だか寂しくなったんです。この小さいのは何処へ向かっているんだろうって。蟻の巣だろとか、場所の話じゃないですよ。目標みたいなものです。

孤独な人よりも孤独じゃない人の方がよっぽど寂しいとは思いませんか。孤独じゃない人たちは失うことを恐れていますもの。誰かに奪われないように、何処かに行ってしまわないように足掻いて生きていくのは、あまりにも寂しいじゃありませんか。そうやって足掻いていても、いずれ最期にはすべてを失うのですから。

母の料理は悔しいながらもとても美味しかったです。わたしの師ですからね。適当に作っているように見えて、巧妙に味付けされてるんですよ。いつか抜け出してやる、という決意も緩くなってしまうところでした。

それで、暇な時、大半が暇な時でしたが、母がいない時などは料理の研究などをしました。ここを抜け出しても一人で作って食べられるように。簡単なものから始めれば良いのに、凝ったものを作るもんだから、何度も焦がしたりしました。それが、運悪く母に見つかってしまったことも。
「これ、お前が作ったべか」
無視していると、母は黒ずんだ不気味な物質を手に取り、口に含んでしまったのです。
「まっず!」
そうは言ったものの、母は全てたいらげたのです。とても嬉しそうに笑っていました。
「そうか、そうか。お前が作ったか!はっはっは……」

わたしは恥ずかしくてたまりませんでしたが……そうです、いつの間にかわたしの中に心が芽生え始めているのを感じました。恥ずかしさなんて、それを言ったら人殺しの追い剥ぎなんかの方がよっぽど恥ずかしいわけですから。当時はどういう感情なのかはわかりませんでしたが、今となってはあれは確かに「恥」以外の何物でもありません。
「また作ってくれな」
空っぽの土鍋を渡され、わたしは心に決めました。二度と食わせてやるもんか、って。
ただ、幸か不幸かわたしの料理の腕前は上達していきました。天賦の才があったんでしょうね。母の料理の味を盗んで、日に日に研究を続けていくと、芳香を辿って小屋に獣が集まってくるほどでした。その上、わたしの身体にも肉が付いてきます。味見は欠かせませんから。

匂いにつられて来るのは獣だけでなく、母もでした。わたしが料理を作ると、母が嬉しそうな顔をして帰って来るのです。仕方がないから食べさせてあげると、それはそれは、たいへん美味しそうに食べてくれるのです。

「美味い、美味い!上手くなったもんだなあ!」

ご察しの通り、わたしも喜びを感じていました。母の手料理を食べた時から、わたしの中に心が芽生え、その心が温かくなるのを感じました。誰かに物を与えられたことが初めてだったのです。わたしも、奪ってばかりの人生で、初めて誰かに与えることができました。

母はよく頭を撫でてくれました。何もしていなくてもです。ただ、わたしが母の側にいるだけで頭を撫でてくれたのです。母の手は土にまみれていたり血が付いていたりで、あまり撫でられるのは好きじゃありませんでした。ただ、その手を払いのけても母は何故だか嬉しそうにするのです。

「ふふ、お前…」その日の母は特に嬉しそうでした。わたしの手料理がそんなに美味かったかと心の中で天狗になっていたのですが……

「お前、背が少し伸びたなぁ」

わたしの身長が目に見えて伸びた母のもとに来てひと月ほど経った時でしょうか。自分でも言われるまで気付きませんでしたが、なんとなく目線が高くなったような気がします。気がね。実際、そんな微妙な違いはわかりませんよ。

ただ、わたしはすごく怖くなりました。成長なんかしないのが当然と思っていましたから。わたしの身体が伸びたのは、死に一歩近づくのと同義だと信じ込んでしまいます。まあ、間違ってはないんでしょうけど、今考えると、やはり異常でした。何事も死に繋げてしまうんです。母が採ってくる植物なども、立派に成長したものです。わたしも成長しきったら刈り取られてしまうのではないか、馬鹿げた話ですが、一度信じてしまうとどうしようもありません。
 そんな気も知らず、母は成長を喜んでいます。わたしの脳裏を最悪な考えが過ぎりました。母は、いえ、この女はわたしを成長してから食べてしまおうと考えているのではないか。わたしを育ててるのも、そういう理由なのではないか。

目の前にいる母が、心優しい女性に見えなくなってきて、本性の残忍な部分が見えてきます。彼女はその時、死そのものでした。思えば、わたしが食べてきたものも成長したものばかりでした。美味しくはありませんでしたが。
「ほれ、ここに立て!」母はわたしの手を取り、壁の前に立たせました。逃げ場を封じられたと思いました。「お前の頭の上にある削った跡がな、お前の身長を表してるんだ」

言われたところを見ると、確かにそこには削った跡がありました。これが、あとどれくらい上の方に行ったらわたしは食べられるんだろう。母の喜びようを見ると、猶予はないように思えてきます。逃げなくてはならない。この女には力で叶わない。邪悪に微笑む壁に立てかけられた母の大鉈が、やけにギラついて見えました。
 その夜、家出を決意しました。家を出るのって、凄く怖いんですよ。辺りには獣もいましたから。まずは森を抜けなくては、と思いました。

母が大きな鼾をしながら眠った後に、わたしは準備を始めました。食料には母が作った燻製がたくさんありました。近くに川があることも知っています。武器にはあの大鉈を使おうと思いましたが、成長したとはいえ、わたしの身体では扱いきれそうにありません。わたしのナイフは母が隠していて、見つかりませんでした。弓は弦を引き絞る力が足りませんでしたし…。丸腰で逃げるという選択肢はあり得ませんでした。この世界にやってきた日のことを思うと、身が竦んでしまうのです。しかし、逃げなければあの女に食われてしまいます。

迷って、迷っているうちに、わたしは泣き出してしまいました。どうしてこんな目に合わなければいけないんだ、と思うのはあまりに今更すぎると思いますけど、そんな心境で泣いたのだと思います。泣けばどうにかなるわけではありませんでしたが、とにかくわたしは声を上げて泣きました。

「うーん……」そうこうしているうちに母が目を覚ましました。「なんだ、どうした?」

瞬間、わたしの身体が反射的に動いて、壁に立ててあった大鉈まで飛びました。あまりに重たく、気軽には振り回せませんでしたが、全体重を乗せて大鉈を振りかぶりました。刃先は母に向かっています。

「あぶね!」鈍重すぎる攻撃は空を切り、大鉈は床を突き抜け土を抉りました。「な、なにしてんだ、おい!」

地面に突き刺さった鉈を拾い上げようとするので必死なわたしの頬を、母は手のひらで打ちました。今まで味わったことのない痛みでした。強さ、という意味ではなく、思いを感じたんです。わたしの小さな身体は壁にまで吹っ飛び、しかし、痛みもやはり強く、しばらく動くことが出来ませんでした。

「お前、どうしたんだ」鉈を拾いながら、母が問いかけてきます。「殺す気だったのか?」

わたしはしやくり上げることしかできません。

「…自己中心的過ぎだったな、お前は最初から心なんか開いてくれていなかった。そんなお前を育てようだなんて、勝手すぎたんだ」

ようやく立ち上がると、口の中が切れているのがわかりました。唾と一緒に吐き出すと、母が、さっきまで母だった人が、悲しさや悔しさなどが混じった表情を浮かべてわたしを睨みました。

「うちが憎いか」母が言いました。「憎いから殺そうとしたんだべ」

母の持つ鉈が煌きます。わたしは壁に退路を阻まれてしまいました。

母がわたしのナイフをわたしの足下を目掛けて投げ捨てました。

「殺す気があんなら、いいぞ。お望み通り掻っ捌くと良い。こっちは抵抗しないからな」

母は鉈を雑に投げ捨てて、両腕を広げてわたしを待ち構えます。側から見たらハグを待っているようにも見えたでしょう。母はキッとわたしを睨みつけています。

あれほど心待ちにしていたナイフが目の前に落ちているというのに、わたしの身体は動きませんでした。母の行動に目を奪われていたのです。頭では「これは罠だ」と考えていたのですが、まるでわたしの心が目の前にあるかのような錯覚に陥ったのです。

あの人はわたしを食べようとしている。わたしは逃げるか、さもなければ殺さなくてはならない。でも、そうだ。最初から殺すつもりなら、どうして母が寝ている間に殺しておかなかったのだろう?自分の行動の不整合さにわたし自身がよくわからなくなってしまいました。先ほども話した通り、わたしの行動はあまりに突発的で、思考は飛躍しがちです。

「どうした、そいつで刺さないのか」母が挑発してきます。「なら……」

ナイフを取るでもなく、母に飛び込んでいくでもなく、わたしは叫びました。わたしを食べようとしているんだろ、と。裏切り者め、と。行動より先に言葉が出てきたのは初めてなような気がしました。

「な、なに?お前を食べる?」

感極まって、わたしはまた泣いてしまいました。事情を説明しようにも、しゃっくりに飲み込まれて言葉をうまく継げません。母は先ほどの剣幕は何処へやら、オロオロしてなんとか事情を飲み込もうとします。
 「わたしを…ひっく、わたしを!」 
  「わ、わたしを?」
 「育てて…食べようとしたんだ!」
 「???」
 「この裏切り者!」
すごく悲しかったのを覚えてます。裏切り者だなんて呼ぶのは、わたしが彼女に心を開いていたのと同じことですから。わたしは母に会うまで誰からも疎まれ、誰からも殺意を向けられていたわけで、そんな人生で初めて人の優しさに触れたんです。その人に裏切られたとなれば、パニックにもなりますよ。
「落ち着け、誰もお前を食ったりしないぞ」
「嘘だ!」
「どうしてそう思うか説明してくれ」
「だから…人は、育てたら食べるでしょ!」
「動物とか植物はな」
「ほら!」
「お前を育ててるのはな」 母は優しく言ってくれました。「お前が可愛いからだ」
「え?」
「ってのもあるけど、なんと言うかなあ。使命感っていうか……お前は育てなきゃいけない気がするんだ。さっきも言ったけど、やっぱ、自己中心的すぎだっべ。わかるわかる。でも、身寄りが誰もいないお前を放っておくわけにもいかないだろ?」

母の言っていることはよくわかりませんでした。正直、今となってもよくわかりません。なぜ、母がこうまでしてわたしを育ててくれているのか。育ててくれたのか。
「誰にだって愛情を注いでくれる奴が一人はいないとダメだ。誰からも愛を受けずに育ったら、そいつはダメになっちまう」
  愛の意味も、反発することの重大さも当時のわたしは分かっていませんでした。ただ、母が途方もなくいい人であると言うことは、何となくわかっていたと思います。
  もう涙も枯れ果てたわたしは、母の胸に飛び込んでいました。そうですね。子供に言葉なんか要らないと思いますよ。行動で示してあげれば、心を開いてくれると思います。
  母の抱擁で、わたしは温もりを知り、優しさを知り、命の脈打つ鼓動を知りました。わたしが奪ってきたものは、もしかしたらとんでもなく尊いものだったのではないか、とも考えました。
「いいか、ここじゃお前を裏切る奴なんかいないんだぞ」母が優しく語りかけてくれます。「ここはな、幻想郷の中でも特に人が踏み入れない場所だからな」

わたしはそのまま、母の胸の中で眠りに落ちました。お日様の下で眠るよりも、畳の上で眠るよりも、なによりも気持ちいい揺かごでした。初めて夢を見たんです。夢の内容は忘れました。
 その体験そのものが、夢のようなものでしたしね。



家出が未遂に終わったあの夜から、わたしの母に対する態度は変わっていきました。まず、言うまでもなく、母がわたしを食べてしまうなどと言うのはわたしの恥ずかしい早とちりでしかなかったのです。現に、こうして生きているわけですから。
でも、わたしの不安は尽きませんでした。母がわたしを成長させたのでないのだとしたら、どうしてわたしの背は急に伸びたのでしょう。
「きっとな、栄養のあるもんをたくさん食ったからだ」
母はそう言いましたけど、釈然としませんでした。けれど、わたしの成長を喜ぶ母を見ていると、別に良いかなと思えてきたものです。わたしは、母が喜んでくれるのが嬉しいのを、隠さなくなりました。家の壁に削られた身長の計が更新されていくのを、わたしも喜びました。
それからのわたしは、母を喜ばせようと工夫を凝らしました。家の整理整頓は当然として、野生の獣を狩る訓練まで自発的に始めました。全ては母のため。そのためなら…わたしは誰かの命を奪うことさえ躊躇いませんでした。あ、いえ、躊躇わなかったでしょう。

ですが、一度だけ、母が誰かと口論していたのを覚えています。優しい母の声が、恐ろしい音になって森にこだましました。相手は男女の二人組だったと思います。夕食の時に、わたしは母に尋ねました。
「お前が気にすることでねえ」
母がそう言ったので、わたしはそれ以上追求することはありませんでした。母はブレーキのような存在で、わたしがこれ以上進むべきではないところへ踏み込んでしまうのを防ぐような役割を持っていました。

わたしには母が全てで…だからか、母の微細な様子の変化を見逃すことが出来ませんでした。母の機嫌が悪いとわたしの機嫌も悪くなり、母が喜ぶとわたしも喜ぶように、母がそわそわしだすとわたしも落ち着かなくなりました。

男女の二人組が訪ねてきて、数日が経った後、母がわたしを、身に覚えのない名前で呼んだのです。思えば、わたしはずっと「お前」と呼ばれていましたし、その呼び方に愛着もありました。だけれど、母に名前で呼ばれるのももう吝かではありませんでした。母がそう呼ぶなら、わたしは「お母様」と返すだけです。

しかし、わたしを呼んだ直後に母は、ハッとして口を噤んでしまいました。わたしが訝しんでいると、母は「なんでもない」の一点張り。それより飯にしよう、とか言って、聞いてくれません。
気になったわたしは、次の日の昼に家を出た母の後を付いて行きました。度々、母の仕事を尾行することはありましたが、いつもバレて追い返されました。しかし、その日は母に見つかることはありませんでした。もしかしたら、その時、すでにわたしの不思議な力が芽生えていたのかもしれません。そのおかげか、母の尾行には成功しました。

母が向かった先は、わたしの住んでいる場所と同じような、小さな小屋でした。母は小屋の中に入り、一時間ほど出てきませんでした。出てきたときには、持っていた手荷物が全て消えていて、母の顔には落胆の色が浮かんでいました。わたしは木陰に潜み、母が小屋から離れるのを待ちました。

母の気配が消えて、小屋に入り込みました。中は外から見るほど広くなく、人が一人、横になるので精一杯なほどでした。それに、酷い匂いがします。とても酸っぱい匂いで、十分もいれば気が狂ってしまいそうな場所なのに、わたしより背丈のある太った男の子が壁にもたれて座っていました。
男の子の手には、わたしも食べたことのある、母の作った保存食が握られていて、男の子は不規則なリズムでそれを口に含んで噛み砕いていました。だけれど、飲み込むことができないのか、口に入れては外に出して…を繰り返して、その、なんというか、見苦しさを感じてしまいました。とてもチグハグな存在だと感じたのです。

小屋の扉は開けっ放しで、外から涼しげな風が入ってきました。男の子の口の端から流れる涎が風に吹かれて、地面に滴り落ちます。わたしを見て美味そうだと感じているのか、と身構えもしましたが、その子の目には何も映っていませんでした。わたしを見ていないどころか、自分が存在していることさえわかっていないようでした。声をかけても、反応が無くて。
そこで、わたしは、昨日自分が呼ばれた名前を彼に投げかけてみました。すると、不規則に動く彼の口が止まり、持っていた食べ物を手から離すと、彼はその手を頭の上に伸ばしました。まるで、全てに優先してその行動を取るように設計されてるみたいに淀みのない動きでした。
その子は手を挙げたまま、わたしではない何かを見つめていました。十秒ほどそうして、わたしが何も言わないでいると、床に落ちた土まみれの食べ物を手にとって、また食べ始めました。
その子の存在より、わたしは母に対して疑問を抱きました。母はずっと、この子の世話をしていたのか?何のために?何も言わない、食べる以外になにもできない、そんな子を母は──

「見たな」背後で声がしました。振り向くと、呆れた顔の母が立っていました。「まあ、いつまでも隠し通せると思ってながったが。お前は勘の良い子だからな」

母は水を汲んできたようで、男の子の前に膝立ちになると、バケツに汲んだ水を手ですくって、男の子の口の周りを濯いであげました。

わたしが呆然としていると、母が男の子の世話をしながら言いました。

「この子はおつむが足りないんだ。それで、捨てられた。あの夫婦が、この子の両親だ」あの夫婦、というのが母と口論をしていた男女であることを理解するのに時間はかかりませんでした。「少し前に、身動きが取れねえ状態で見っけてな」
そういうことを聞きたいのではありませんでした。だけど、わたしが聞きたいことを聞けば、母はきっと怒るのではないか、と予測して、ずっと口を噤んでいました。母もそれっきり黙ってしまいました。

だけれど、必死に世話をする母の姿を見て、わたしは行動を起こしました。わたしはバケツを持って近くの川まで行き、そこで水を汲んでから、小屋の中の掃除を始めました。
「お前…」母が驚きましたが、すぐに微笑んでくれました。「ありがとな」
小屋の中は母が欠かさず掃除をしていたのか、細かい汚ればかりが散見するだけでした。わたしがその子にしてあげられることは、母がすでにやっていたのです。しかし、わたしは何かをやらずには入られませんでした。臭いだけは、どうしても取れませんでしたが。
その子のためにやった、と言うのは語弊がありました。わたしは母のためにやりました。わたしの行動原理は母にあったのですから。

一通りやり終えて、わたしと母は帰路につきました。わたしは、母に尋ねました。

あの子は一人で良いのでしょうか?

「うちがいることもわがんねんだ」母はわたしの頭に手を置きました。「ただ、あの子は何も出来ね。一人じゃ歩くことすらな。だから、あの小屋にいるうちは安全なんだ。食べ物もある」
母の顔は寂しそうでした。母としては、やはり一緒にいてあげたかったのでしょう。わたしは言いました。わたしなら一人で大丈夫だ、と。あの子のために付きっ切りでいてやれるのではないか、と。

わたしの背は大分伸びましたし、精神的にも成長をしていると自負していました。もう、火の無い夜にだって怯えることはありません。母には母のやりたいことをやって欲しかったのです。

「そうだなあ…」

一緒に住めば良かった?たしかに仰る通りです。その時には疑問に感じませんでしたが。しかし、彼には一緒に住めない理由があったのです。

わたし達の住んでいる空間は、作られたものでした。母が作り出したのです。その空間は、外部から見ることは出来ませんが、内側からは見ることが出来ます。言わば、緩い結界のようなもので。それ故に出入りは自由で、母はその狭い「聖域」を大事にしていました。
人が集まれば、そこは神聖さを失ってしまう。わたし達は秘匿された存在でなくてはありませんでした。あの男の子を捨てた両親が、わたし達の住処を発見したことでさえ奇跡のようなものでした。

捨てられた子を、あの両親は探していました。では、あの子の小屋のある場所を聖域にすれば良いのではないか…それは出来ないらしいのです。母は人間ではありません。ですから、根本的に考え方などがわたしとは違っていたのです。

それを聞いたのは、少し後のことでしたが、ならば尚更、あの子と暮らせば良かったではないか、とわたしは言いました。しかし、母は、
「お前を危険な目には合わせられん」
あの時の母には、わたしかあの男の子のどちらかを守ることしか出来なかったのです。


誰かに世話をされる側から、わたしも世話をする方へと変わりました。とはいえ、やる事は普段やっていたことと変わりなく、掃除や料理など、いつも通りこなしていたものをこなすだけでよかったのです。
ただ、返ってくるものがありませんでした。その男の子は、わたしがどんな美味しい料理を作っても褒めてはくれず、また、綺麗な家の中にいても漠然と虚空を眺めるだけでした。それは仕方のないことだと今では分かっています。けれど、当時のわたしは褒められ盛りだったんです。
うわ言のように発する「母ちゃん」と聞こえる音は、決してわたしの母に向けられたものではありませんでした。あの子の母は、あの子を捨てたのに。

わたしは母に尋ねました──どうして子供を捨てるの?

母を困らせてしまいました。だけど、わたしは本当に知りたかった。親が子を捨てる時の心境を。何故産んだのかを。
母の顔が苦痛に歪むようでした。わたしは焦って、今のは聞かなかったことにして──しかし、母の目からは苦い涙が流れるのでした。そして、わたしを強く抱きしめて、耳元で嘆くように言いました。
親ならば、子供を捨てるなんてことが出来るはずない。
それを聞いて、疑問が解消されたかはともかく、わたしは安心しました。わたしを抱くこの温もりは、永遠に消えることは無いんだな。だけど、思い返すと、あの時の母の頼り無さが、わたしの胸を締め付けます。

ある日のことです。わたしは一人で男の子の世話をしに小屋へ向かいました。母が「今日は任せる」と言ってくれたので、わたしは上機嫌でした。けれど、わたし一人に行かせるのは早計だったと言わざるを得ません。わたしは、今でも母を責めたくなる時があります。
吹けば飛ぶような脆い小屋が、ギシギシと音を立てていました。普段は置物のように動かない男の子が、時の止まったようにボーっとしているあの子が暴れているなどとは考えられませんでした。獣に襲われているのかもしれない、わたしは愛用のナイフを取り出して、小屋の扉を蹴破りました。同時に、酸っぱい臭いが溢れてきました。
男の子が、見覚えのある女性に首を絞められていました。

わたしは呆然と立ち尽くして、わたしがその光景を目の当たりにしているにも関わらず、女性は男の子の首を絞め続けていました。まるでわたしに気付いていないかのように。だけれど、その場では全員が本当の孤独に打ちのめされていたように思います。ナイフを手に握りしめた少女。息子の首を絞め続ける母親。死を受け入れた少年。全てが遠い世界の出来事のようで、本当にそうだったらどれだけ良かったでしょう。

男の子の顔が青くなって、泣きながら女性は縄を引き続けます。止めるべきなのか、そうでないのか。何故、迷っているのか。こんな悲劇は止めて然るべきなのに。

わたしは手に持っていたナイフを構えて、女性に突っ込んで行きました。殆ど勢いのままの攻撃だったので、女性を死に至らしめることは出来なかったと直感で理解しました。もつれ合ったわたし達は壁にぶつかって、ナイフはわたしの手を離れて女性の脇腹に突き立てられていました。

縄が地面に落ち、男の子が呼吸を取り戻しました。ゼエゼエと息を吐く様子がいつになくて、とてもアクティブに見えました。それだけです。残されたのは気まずい沈黙でした。二人の荒い呼吸と、状況を見定めるわたし。女性の方は虚ろな目をしていて、じっと男の子を見つめていました。
「わたしたちは…」痛みに悶えながら、女性が言いました。「行かなきゃ」
何処へ?尋ねるわたしの声は震えていて、その先の答えを知っているようでした。
「どこも苦しくない場所へ」
女性が名前を呼ぶと、男の子が振り返って、言いました。「お母ちゃん」
「わたし達はもう十分苦しんだ」覚束ない足取りで女性が立ち上がります。「その子を優しい場所へ連れて行ってあげるの」
そんな場所は…わたしは、これまでわたしの体験してきた全ての出来事から考えて、言いました。そんな場所はない。作るしかない。女性が背中から倒れこみました。
女性の返事はありませんでした。けれど、まだ生きています。その代わり、男の子が答えました。
「お母ちゃんが行くなら僕も行く」
女性は何も言いません。
「お母ちゃんの行く場所に、僕はついて行く」
女性の目から涙が溢れ出しました。わたしはその人の涙を、首を絞めている時も見ましたが、たぶん、あれは幸せだから流れた物だと思います。親子の愛が、たしかにそこにはありました。
女性が言いました。一人にして、ごめんね。
男の子は、お母ちゃんの作ったご飯が食べたい。それだけを繰り返していました。
わたしは一人、孤独に打ちのめされていました。あの脇腹に突き立ったナイフが、あれがあの女性の命を奪ってしまったなら、男の子から拠り所を奪ってしまったなら、わたしはとんでもないことをしてしまった。頼みの綱の母は、来てくれません。

女性が男の子に手を伸ばしました。それっきり、動かなくなって、後には男の子の独り言がわたしの頭の中を反芻しました。僕はお母ちゃんについて行く。

本当にそれでいいのね。彼はずっと同じことを繰り返していました。僕はお母ちゃんについて行く。僕はお母ちゃんについて行く。繰り言は、わたしが彼の時間を止めてしまうまでずっと続いていました。
川で身体を洗ってから戻ってくると、母が小屋の前に立ち尽くしていました。わたしを待っていたのかもしれません。わたしは母に近づき、言いました。わたしがやりました。
母は「そうか」とだけ答えて、中にあった二つの死体を外に運び出し始めました。わたしも手伝いました。
土を掘っている間に、母が言いました。「この女が、この子を探してるのを知って、警戒してた」言い訳のような口調でした。「もう、来てたとはな」

わたしは無言で彼らに苦しみのない場所を作っていました。土の中にはきっと優しい世界が広がっていて、でなければ、あまりにも哀れだと思いました。
「お前にこんなことはさせたくなかった」
言い訳がましく母は喋り続けました。わたしに言っているのかもわからない口調で。
「けんど、うちがこの場にいたらうちが殺してた」

作業を終えて、「お前には立派に育ってほしいんだ。人の汚いところを、お前が大きくなるまで見て欲しくない」
 わたしは複雑な気持ちで帰路につきました。わたしはもう、当時はそういう感情が無かったにしろ、人の汚い部分はたくさん見ていたのですから。
 それに、わたしは汚いところなど見た覚えはなかったのです。母の言う「汚いところ」が、あの母親の選択のことを指しているというのなら、わたしには母というものがわかりません。母が言っていたのですよ、親ならば子供を捨てるはずがない、と。あの母親とその男の子は、いっしょに同じところへ旅立ったのではないですか。
それが、人の汚いところなのでしょうか。

まもなく母は、わたしを捨てます。その行為は、母が言っていた言葉と矛盾しています。子供を捨てる親など親ではない。けれど、わたしは母のことを母と呼びます。呼び続けます。母がわたしを娘だと思ってなかったとしても、わたしにはあれが母でした。
 
精進します。
evil_De_Lorean
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.100東ノ目削除
間違いなくタイトルに偽りなくそれぞれの登場人物たちが幸福に終わる話ではあるんですが、ここまで暗く幸福を描写することってできるんだという驚きがありました。ネムノさんは誰よりも多く子供を育ててそして捨ててきた存在なんだなと
4.100名前が無い程度の能力削除
薄暗い雰囲気と、その暗さから抜け出せない独白が良かったです。
5.100南条削除
面白かったです
ネムノさんからの確かな愛情を感じました
6.90ひょうすべ削除
おもしろかったです!
7.90名前が無い程度の能力削除
孤独な人よりも孤独じゃない人の方がよっぽど寂しいとは思いませんか。孤独じゃない人たちは失うことを恐れていますもの。誰かに奪われないように、何処かに行ってしまわないように足掻いて生きていくのは、あまりにも寂しいじゃありませんか。そうやって足掻いていても、いずれ最期にはすべてを失うのですから。
ここの文章がとても好きでした。ネムノだからこその物語であるように感じました。