紫苑と女苑は近所の居酒屋で飯を食っていた。たまに女苑の機嫌がいいと、紫苑の身の振り方に対する説教をすることの対価として飯を奢ってくれるのだ。怠惰の化身たる紫苑にとって身内から受ける説教など屁のかっぱ、世の中には飯を食うためにもっとのっぴきならないことをやっているやつもいるのだ。
女苑がガミガミ言うのを尻目に、紫苑は無限ピーマンをバクバク食っていた。着席時、テーブルに置いてある小皿の用途を、紫苑はわかっていなかった。なんだこの皿は?大道芸にでも使うのか?そのせいで、女苑も軽くつまむ気でいた無限ピーマンがあっという間になくなり、余計に説教を喰らった。
「わかってんの?そんな協調性のなさじゃ、社会ではやっていけないよ。あれ読んだ?カーネギーの本。カーネギーの本読みなさいよ、こんど貸してあげるから、一ページ千円で」
説教と飯を存分に食らう紫苑であった。この店に入ってから、紫苑は店員としか言葉を交わしていなかった。あれを持ってこい。はい、かしこまりました。これを寄越せ。承知しました。
協調性なんか犬にでも食わせておけ。紫苑は二人前からでしか注文できないもつ鍋を、なんの相談もせずに注文した。やはり取り皿がついてきたのだが、その用途を察することもなく、鍋を自分側にうんと引き寄せ、おたまで直接具材を掻き込むのだった。女苑はそんな姉にドン引きしていたが、ある種の悲壮感も抱えていた。他人の懐をあてににすることでしか満足に飯を食うこともできないのか。それは哀れみでもあり、畏怖でもあった。
〆は雑炊とうどんを同時に注文し、あらかた食い尽くしたところで紫苑は座敷に寝転んだ。妹が「牛になるぞ」とかなんとか宣ったが、牛になって余生をのんびり生きていけるのなら本望だった。
五分ほど仮眠をとると、紫苑はのっそりと起き出した。その鈍重な動きときたらほとんど牛になりかけていたが、デザートの選別を始めるに至っては女苑もお手上げで、なんでも好きなものを食え、その代わり金輪際あんたとは口を聞いてやらないぞと匙を投げるのだった。
メニューをぺらぺらめくっていたら、これはという文言が目に止まった。
「クソデカ巨大アホビッグバン馬鹿カススペシャルカレー!」
店員が正気を疑うような目つきで紫苑を見た。妹も同上だった。それはこの店の看板メニューであり、総重量十五キロにも及ぶ圧倒的サイズのカレーライスである。あまりの馬鹿馬鹿しさにいまだ挑戦者も現れないという代物だが、いつだって『完食したら賞金十万円!』の文句は楽して金を稼ぎたいうつけ者どもの心を惹くのだった。
その代わりに、残したら十万円の罰金を支払わなければならない。当然、紫苑に支払い能力はない。ないが、それがいったいなんの問題になるんだ、と言わんばかりに紫苑は決然としていた。食えばいいんだろ?単純な話さ。その目が語っていた。
「やめとけって」流石に女苑も口出しせずにはいられなかった。「十五キロだぞ、十五キロ。やばいって、量が」
「たしかに……」
「でしょ?」
「一キロ一万円だとしたら、十五キロなら十五万円くれなきゃおかしいわ」
「この馬鹿!」
そのときだった。邪悪な気配を感じて女苑は振り返った。そこには小柄だがなにかしらの組織のボスのような風格を持った女が立っていた。
「お前は……饕餮尤魔⁉︎」
「クックック……本人がやりたがってるんだろ?やらせてやりゃいいじゃあないか」
「勝手なことを言うな!」
紫苑と尤魔は睨み合った。女は挑発するような笑みを絶やさなかった。いいのか、十五万だぞ?それとも自身がないのか?
が、紫苑をつき動かしたのは尤魔くんの挑発などではなく、もっとプリミティブな衝動だった。
「これ、ください!」
「姉さん⁉︎」
「クックック……お手並み拝見と行こうか」
カレーが来るまでの間、紫苑はトイレに立った。腹の中身を少しでも出しておこうという寸法である。
「あんた、なに姉さんを焚きつけてんのよ!」女苑は尤魔の胸ぐらを掴んだ。「十万円なんか払わないわよ!」
「わたしは焚きつけてなんかいないぜ」女は女苑の手を払った。「あんたの姉さんの目はこう言ってた──食いたい、ってな」
トイレから紫苑が戻ってくると同時に、カレーがテーブルに鎮座した。それは料理というより、まるで博物館に置いてある地層の模型のようだった。十五キロ。紫苑に換算して、約三分の一人。女苑はその光景に畏怖の念を抱き、尤魔は例の笑みを漏らした。紫苑は口から涎を滝のように流し、まるで神棚でも拝むようにカレーライスを崇拝した。
こんなにカレーを食ってもいいのか⁉︎
紫苑はスプーンを構えた。そして、店員の合図と同時に一目散にカレーライスの帳をスプーンで引き裂いた!
まるで未踏の地に踏み込む勇気ある探検隊のような一掬いだった。当事者以外にはとても危険な一歩に見えた。が、紫苑にとっては紛れもなく人生を切り開く一歩だったのだ。
絶妙なバランスで、スプーンの上に小さなカレーライスを作る。眼前に聳える巨大なカレーライスと比べても、サイズ差は圧巻であった。制限時間はない。ゆっくりと食べ進めればいい。紫苑は歴史の始まりとなる一口目を口に含んだ。
「ん⁉︎」
が、一口目にして紫苑の動きが止まった。女苑は思わず天を仰いだ。
「言わんこっちゃない!居酒屋のカレーなんか絶対に美味しくないに決まってるんだ!」店員の冷ややかな視線が女苑に降り注いだ。「そんなの完食するなんて無理よ!」
「あんたの眼は節穴かい?」
「──え?」
見やると、紫苑の体が小刻みに震えていた。紫苑はスプーンを手に握りしめ、まるで火口から噴き出る煙のようにため息を吐いたのだった。
「お、美味しい〜!」
そこからの光景は、カレーからしたら悪夢以外のなにものでもなかった。恐るべきスピードで食べ進められていく自身の体──まるでウィルスが細胞を蝕むような、津波が建物を飲み込んでいくような、災害ともいうべき無惨な光景であった。
「す、すごいスピードだ……!」女苑も舌を巻いた。
「速さだけじゃない。やつはペース配分もしっかりしている」尤魔も紫苑の捕食シーンを刮目していた。「十回スプーンを運ぶ度に水を一口飲んでいる。大食いにおいていちばんのタブーはペースを乱されること……あれだけの量だ。常人ならば食べても食べても減らないカレーに辟易し、戦意を喪失するのが必定」
なに言ってんだこいつ、的な目で尤魔を見る女苑。が、言っていることは正しいようで、たしかに紫苑は一定のスピードでもってカレーを食べ進めていた。
「やつはカレーの食べ方を熟知しているな……」
「え?」
「見ろ。やつはカレーを皿の縁に沿って食べ進めている。なんでかわかるか?」
「……」
「出来立てのカレーは──熱い!ペースを守っているとはいえ、あの速度で食べれば口の中を火傷してしまう。だがしかし、縁の方は温度が比較的低いのだ」
「ほんとかよ?」
「……クックック。あの女、カレーを食べることに……いや、ものを食うことに特化していやがる。このわたしがブルっちまうくらいにな」
ここには気狂いしかいないのか?女苑は無人島に取り残されたような心細さを覚えたが、十万円支払うくらいなら気狂いどもの仲間入りをした方がマシだった。
「姉さん、頑張れ!あと少しよ!」
女苑の応援がブーストをかけたかどうか、紫苑のペースが少しずつ上がっていく。
「あと一口だーっ!」
終わってしまえば、あっという間だった。巨大な皿の上に盛られたカレーは忽然と姿を消した。まるで神隠しにでもあったみたいに。最後の一口が吸い込まれた瞬間、店中で快哉の叫びがあがった。だれもが半信半疑だった。この疑うことで他人を貶めていく社会で、人々は紫苑の姿に勇気をもらい、信じる心を再び取り戻したのだ!
店側としても負けを認めざるを得なかった。もしも制限時間を設定していれば、もしももっと不味く作っていたら、おしなべて敗者に湧き上がるそんな考えも紫苑に食われてしまったかのようだった。気持ちのいい負けというものがあるとしたら、いまこの瞬間を置いて他にはなかっただろう。
店員の一人が十万円の入った包みを持って紫苑に歩み寄った。紫苑はほとんど眠りかけていた。
「お客様、こちら賞金になります」
が、紫苑は受け取りを拒否した。
「姉さんっ⁉︎」
「女苑、店員さん。わたしはね、美味しいカレーをたくさん食べたかっただけなんです」
「し、しかし……」店員はしどろもどろになった。
「そのお金で、他のお客さんに振る舞い酒を配ってください」紫苑は座敷の上で、こんどこそ牛になってしまった。「このお店でいちばん高いお酒をね」
店中が歓喜に包まれた。正味なところ、紫苑は酔っ払っていた。不可能を突破した万能感と、承認欲求に。本当は十万円も欲しかったのだが、万雷の拍手と喝采を浴びてるうちにもっともっと称賛されたいという気持ちが湧いてきて、思ってもないことを言ってしまったのである。なにかを成してもけっきょく一文の儲けにもならない、貧乏神の性であった。
店中が振る舞い酒のお祝いムードの中、女苑だけが臍を噛んでいた。この白痴の大食らいが、という罵詈雑言が喉元まで出かかっていた。まるで栄養失調の子供みたいに出っ張った腹をぶん殴ってやろうと勇み足で近づく女苑を、尤魔が制した。
「待ちな。あんた……姉さんを賭け大食いに参加させるつもりはないか?」
「賭け大食い?」
「ああ。ほかの組織が用意した選手と戦わせて、勝てば大金が手に入る。あんたの姉さんにはうってつけだろ?」
女苑は尻込みした。ヤクザの提案してくることなど、ろくなものであるはずがない。が、どうせ当事者は紫苑だし、失敗したところでペナルティを被るのも姉だろうということで、女苑は選手登録の書類にサインを書いたのである。
「クックック……ありがとうな」
※
居酒屋での大食いは、紫苑を時の人に仕立て上げていた。里を歩けばサインをねだられるほどで、乞食のルンペンをやってみても空き缶の中に湯水の如く小銭が湧いてくるのだった。その中には、もちろんよからぬ連中もいた。
「おい、そこの姉ちゃん!」
そんなふうに声をかけられたことのなかった紫苑は、そいつが目の前に回ってくるまで自分のことを呼んでいたのだと気がつかなかった。
「おまえ、大した食いっぷりだってね」
声をかけてきたのは、いかにも組織の親分といった風格を湛えているが、どこか愛嬌のある、例えるなら馬のような雰囲気をまとった女だった。
「わたしは驪駒。噂は聞いているよ」
「な、なに?」
「たいそう食うらしいじゃないか。飯でも奢るから、ちょっと店に入ろうよ」
ナンパだ!紫苑は表情で困惑を示して、内心では昂っていた。えー、困ります。この後約束があってぇ……いつも見ている女苑の立ち振る舞いを真似してみた。
「でもぉ」どうしてもって言うならぁん、そう言いかけた。
「そうか、邪魔して悪かったな!」
驪駒はまるで草原を駆け抜けるサラブレッドのように優雅な足取りで立ち去ってしまった。
ふうん、へぇー。そんなに簡単に引き下がっちゃうんだ。紫苑は驪駒を追いかけたりしなかったし、どうせ紫苑の体力や脚力では追いつけそうになかった。いいわ、わたしに群がってくるやつは他にもたくさんいるんだから!
負け犬のような気分で紫苑は家に帰った。その負け犬っぷりときたら、有名人になったはずの彼女に通りすがりのだれも気がつかなかったほどだった。
家に沸いたゴキブリと格闘していたら、女苑が帰ってきた。履くのも脱ぐのも一筋縄ではいかないブーツを脱ぎ、ガウンを脱ぎ捨て、台所に立つや否や焼酎をコップに注ぎがぶ飲みした。死闘の末にゴキブリを真っ二つに引き裂いた紫苑は、それを窓から投げ捨てた。
「女苑?」居酒屋で得た万能感はいまだに続いていた。「わたしね、さっきナンパされちゃった」
「そりゃ結構なことで。わたしは男にフラれたわ」女苑は再び焼酎を飲み、それからコップを握りつぶした。「ちくしょう!あいつ、わたしをフリやがった!ただの金づるのくせに、わたしをフリやがった!」
一升瓶を壁に向かって投げると、気持ちのいい音がして壁と瓶が割れた。
「それで、その男、なんて言ったと思う?」女苑は割れたコップの破片を睨みつけた。「『君の姉さんを紹介してくれないか』だと!いいわね、姉さんはごはんをたくさん食べられるだけでモテて!」
これら女苑の嫉妬は彼女の本質と異なる感情だった。彼女自身、姉がモテてるからと言って、どうしてこんなに怒っているのかわからなかった。おそらくきっと、この嫉妬は別のなにかが化けて現れているのだ。でなければ、こんなにわたしを狼狽えさせているはずがない──
反面、紫苑は明鏡止水の如く冷静だった。誰しも怒り狂った者を前にしたら冷静になるものだが、そういうわけでもなかった。
大食いという特技は、紫苑にとって初めて見つけた、女苑にはない己だけのものだった。とどのつまり、妹にはない「大食い」という特技を欲しがって駄々を捏ねているのではないか、と紫苑は思い込んだのである。それは単純な解釈でもあり、姉としての歪んだ矜持でもあった。可哀想な妹。大食いなんて、わたしにとっては持って生まれた才能のひとつでしかないのに。
「こうなったら是が非でも姉さんに稼がせてやる」女苑は絶命した一升瓶の破片を塵取りで集めながら呟いた。「姉さん、聞いたわね。姉さんには賭け大食いに参加してもらうから」
「賭け大食い?」
「そう。先方の用意した選手と、だれがいちばん多く食べられるかの勝負をするの。勝てば大金が舞い込んでくる」
断る謂れなどない。飯をたくさん食べられる上に金まで貰えるなど、紫苑にとってこれほど幸せなことはない。わざわざこんなことを説明するほどでもない。
が、紫苑は二つ返事をしなかった。
「んー、どうしようかなぁー」
それは、紫苑が有名人になって学んだ身の振り方だった。先ほど現れた驪駒に対する気の持たせ方を、愚かにも妹に対しても働かせてしまったのである。この様な愚行を働くのは紫苑が女苑と双子であるからに他ならず、また、このようにだれかになにかを頼まれることに慣れていないからに他ならなかった。
紫苑にとっては女苑の真似事をしたに過ぎないのだが、女苑は怒りのボルテージが上がっていった。その怒りは同族嫌悪に由来するものだったが、彼女自身は気がついていない。
「ざけんなよ!」女苑は姉の胸ぐらを掴み、頭をぐらぐら揺らした。「なんなんだ、その舐めた態度は?そっちがその気ならこっちにだって考えがあるぞ!」
そこまで言われたら、紫苑としても黙ってはいられなかった。
「考え?いったいどんな考えがあるって言うの?言っとくけどね、あんたのおこぼれを貰うだけの人生はもう終わったのよ。わたしはわたしの道を行く。その道にあんたは連れて行ってあげないから!」
「お情けで生かされてるだけの癖に!」
「言ったわね!」
「なにを!」
二人は取っ組み合い、髪を引っ張り合った。服を掴み合って畳の上をゴロゴロ転がった。壁に激突したら、家全体が揺れた。ちゃぶ台がひっくり返り、驚いたネズミやゴキブリが逃げ出した。
腕っぷしでは勝てるはずもないので、紫苑の方が寒空に放り出された。
「姉をルンペンにするつもり⁉︎」
「姉さんにはそれがお似合いだわ!」
玄関の戸をピシャリと閉められてしまう。部屋の中からどったんばったん暴れる音や、女苑の奇声が聞こえてくる。
紫苑は路頭に迷ってしまったが、それでも前を向いた。なあに、路頭に迷うのは慣れている。紫苑はとぼとぼとあてもなく里を歩いた。だけど、それはいつも妹といっしょだった。いまは一人。
やっぱり謝ろうか──そう思った矢先だった。紫苑は背後から何者かに羽交締めにされてしまった。たまらず大声を出そうとしたが、その口も手で塞がれてしまう。
「手荒な真似はしたくありません」声の主が耳元で言った。聞く者の意思を奪う様な声音だった。「大人しく従うと言うのなら解放します。いいですね」
紫苑は素早く頷いた。相手も応じて解放した。その瞬間、紫苑は脱兎の如く駆け出した。
「女苑!」
思わず叫んだ名前は、だれにも届くことはなかった。路面の小石に蹴躓いた紫苑は盛大にすっ転んだ。それを予見していたかのように、紫苑を拘束していた者はゆっくりと歩み寄ってくる。
「最後の忠告です」紫苑を見下すその女は、まるで組織のボスのような風格を湛えていた。「大人しくしているうちは、手荒な真似はしません」
紫苑はゆっくり頷いた。
紫苑を家から叩き出してから、女苑は家中のものを手当たり次第に破壊した。喉が張り裂けるくらい叫んだ。うして幾許か気分がよくなると外に出て、紫苑を探しに行った。この寒空である。ひょっとしたらどこかで野垂れ死んでいるのではないかと怖気に駆られたのである。
が、紫苑はどこにもいなかった。とんでもない微生物にあっという間に土の養分にでもされたんじゃなければ、きっとだれかの家にでも転がり込んでいるのだ。なんやかんや言っても、あれは自分の姉であり、自分はあれの妹なのである。人の心をくすぐる素養を、わたし達双子は持っている。
ふと、女苑の胸に寂しさが去来した。わたしだって、姉のように振る舞ってきたこともある。だけど、どうして姉があんなことをするのは許せないんだろう?女苑は歩きながら、そんなことを考えた。身内が欲望を曝け出しているところを見るのはたしかに耐え難いが、それだけが理由でもない様な気がする。
同族嫌悪?
嫉妬?
無意識にせよ、思考がぐるぐる巡っている彼女と裏腹に、足取りはしっかりしていた。
気がつけば、女苑は命蓮寺へとやってきていた。
※
紫苑が連れて行かれたのは、洒脱な感じのする洋食屋だった。紫苑にとっては洒脱だろうがなんだろうが、いかなる洋食屋にも女苑以外と入ったことがないので、緊張を和らげるものはなにもなかった。
「まあ、座ってください」
座れば膝をくすぐるぐらいテーブルクロスの垂れている席に、紫苑は着いた。対面には吉弔八千慧──ここに来るまでに挨拶を済ませておいた──が着く。そして、その背後にカワウソっぽい感じのするいかにも堅気ではないやつらが配置に着いた。紫苑も背後に邪悪な気配を感じたが、振り返れなかった。あのカワウソっぽいやつらに逃げ場を塞がれたのだ。
「あ、あの、わたしお金とか持ってなくて……」紫苑は震える言葉をどうにかして紡いだ。
「知ってます」吉弔八千慧がタバコを咥えると、近くにいたカワウソっぽいやつが火を灯した。「あなたから金銭をどうこうしようってわけじゃありません」
「じゃ、じゃあもしかして……」紫苑は体をよじった。「うそー、まさかわたし目当てってわけ!」
「……ま、ある意味ではそうかもしれないわ」
吉弔八千慧が指をパチンと鳴らすと、慇懃な感じのするウェイターがやってきて、吉弔の言葉を聞いた。おそらく注文を取っているのだ。吉弔の言葉は横文字だらけで紫苑にはよくわからなかったが、仮に縦文字だったとしてもよくわからなかっただろう。紫苑にわかるのは出された料理が美味いかどうかのみだったし、周りがどれだけ不味いと言っても美味い美味いと言いながら食うので、実質わかるのは料理の良し悪しではなく良しだけであった。
「ま、お冷でも飲んで待ちましょう」
吉弔がお互いの前に水を置いた。紫苑は会釈しながら、それを口に含んだ。
その瞬間、彼女の体に電流が走った。
「お、美味しい……」
「わかりますか?」
「ただのお水がこんなに美味しいだなんて」紫苑は無人島に漂流したてのような勢いで水をガブガブ飲んだ。「わたしの馬鹿舌でもわかる。この水が使われているということは、さぞ料理も……」
「あなたの舌はどうやら本物のようだ」吉弔八千慧はニヒルに笑った。「しかし、残念ながら舌の方はどうでもいい。わたしが欲しいのは、あなたの胃袋なのです」
吉弔が指を鳴らすと、彼女の背後からぞろぞろと料理が運ばれてくる。紫苑の視線は否応なく、それら料理に釘付けとなった。涎が泉のように湧き、鼻腔が芳醇な香りで満たされていく。至福の時間だった。
「あなたには、これらの料理を一人で食べていただきます」二日から三日かけて食べ尽くさねばならないという満漢全席もかくやという量がテーブルに並ぶ。「完食できなかった場合は殺します」
言いたいことはそれだけか?紫苑は目先で吉弔に訴えた。こんな料理の数々を目の前に出されてお預けを喰らわせようものなら、それこそおまえを殺すぞ。紫苑は言外にそう訴えた。その迫力たるや、吉弔が一瞬怯んでしまうほどだった。
「どうぞ、召し上がってください」
合図と同時に、紫苑は酒池に飛び込んだ。その様子と来たら、さながら黙示録のよう。吉弔は全身に鳥肌が立つのを感じた。この女は飯を食らっているのではない。この女は、こいつは──!
まるで催眠術を解く合図みたいに、皿がテーブルを叩く音で吉弔は我に帰った。
どれほど見入っていたのだろう、気がつけば、テーブルの上に盛られた皿はすべて空になっていた。
「お、お見事です紫苑さん」そういう他なかった。「やはりわたしが睨んだ通り、あなたは強いフード・ファイターだ」
「フード……ファイター?」紫苑は首を傾げた。
「ええ、またの名を食闘士。己が食らった量、速度を競う者達をそう呼びます」
「わ、わたしはただ、美味しいものをたくさん食べたいだけで──」
吉弔は縁起ぶって手を叩いた。
「まさしくフードファイターの理想の言葉ですよ。金のため、名誉のために食べるだけではない、あなたのような純粋な食欲を原動力に食べ進めるのが最も優れたファイターです」
紫苑は照れくさそうに視線を逸らした。だれかにこれほど褒められたのは、久しぶりのことだった。
大食いは決して楽な戦いではない。胃袋の大きさなど持って生まれた才能はもちろんのこと、テクニックも重要な要素となる。吉弔が紫苑をフードファイターと称したのはまさしくそういう面で、彼女は食べることに適した技を、訓練なしで自然と会得していたのである。
「あなたを見込んで頼みがあります」吉弔はテーブルに手をつき、頭を下げた。「わたしに協力してください。あなたのその類稀な大食い能力があれば、大金を稼ぐことも夢ではありません」
「た、大金?」
「それもそんじょそこらの大金じゃありません」
吉弔は笑みを浮かべた。その笑みは紫苑から見てもあからさまに裏があるとわかったのに、どうしてか惹きつけられる笑みだった。
「あなたの人生を変えてしまうほどの大金、かもしれませんよ」
吉弔の話は、とどのつまり、近々開かれる組織合同の賭け大食いイベントに参加しろというものである。参加者にはオッズがつき、勝った者には賭け金に応じた報酬が与えられる。もちろん、賭けた者にも大金が舞い込む。
「我々は定期的にこうした賭場を開いているんですよ。前回は野分の進路を当てるという賭けをやりました」
紫苑は息を呑んだ。この話、ひょっとして女苑が言っていたのと同じ話?
紫苑は妹から同じような話を聞かされたことを言うべきかどうか迷った。そして、けっきょく言うことにした。
吉弔はさして驚いた素ぶりも見せなかった。それどころか想定していた様子だった。まるでこの女の手の平の上で踊らされているみたいだと、紫苑は思った。
「おそらくそれは饕餮……我々の敵が持ちかけた話でしょう」なにか思いついたような邪悪な表情で吉弔は続けた。「あなたは良いように使われるところだったんです。妹と饕餮に」
紫苑にとっては珍しくもないことだが、このときばかりは激昂した。大食いは紫苑が初めて見つけた、彼女以外立ち入り禁止の道だった。そこには女苑も、他のだれも立ち入ることができないはずだった。穢されてはならない道だったのである。この道を征くのはわたしだ。他のだれにも手綱は握らせない。
「おまえもわたしを利用して儲けるつもりだな」血糖値が上がってとろんとした目に眼光が宿った。「そうはさせないよ、この技術を活かすのはわたしだけだ」
「ええ、ええ。もちろん承知しています」吉弔は怯まなかった。「わたしはただ場を設けるだけ。あなたにはイベントを盛り上げてほしい。それだけです」
「……」
「わかりませんか?」こんな物分かりの悪いやつには出会ったことがないと言わんばかりに肩を竦める。「これはチャンスなのです。それも、千載一遇のね。あなたを見下してきた人々を見返すことができるのですよ、己の才覚のみで!」
吉弔の言葉をきっかけに、紫苑の眼間に走馬灯が揺れた。それは、いままでの彼女が死に、新しい彼女が生まれる合図だった。蔑まれ、貶められてきた自分はもういない。貧困に喘ぐ自分も、だれかの生活をアテにして暮らす自分はもういないんだ!
紫苑はテーブルの上に手を差し出した。
「そのチャンスの場に」紫苑の声は決意に震えていた。「……わたしを出してください」
それを聞きたかった、吉弔は握手に応じた。紫苑にはそれが、今後の人生の成功を約束してくれるサインのように感じられた。
※
ふらふらと迷い込んだ命蓮寺の一室で、女苑は坐禅を組んでいた。考えることはなにもない。いや、考えることを拒否していた。なにも考えたくないときは、坐禅を組むに限る。
だというのに、さっきから肩の肉が抉られるほど警策でぶっ叩かれているせいで、坐禅を組むもクソもなかった。
「いってーな!」
足を解き、振り返る。蝋燭一本の灯りの中に、聖白蓮が立っていた。夜更けに訪れた女苑の様子を見かねて、快く中に入れてくれたのは他ならぬ白蓮だった。
「あなたの中にはまだ邪念があります」警策を構えながら、白蓮は言った。
「是非もなし、そういう性分なんだから!」
「あなたの本性まで否定はしてませんよ。以前よりは良くなっていますしね」白蓮は女苑の肩をぶっ叩いた。
「いだだだだだ!」
「なにか悩み事があるみたいね」
「……」
「そういうときは座禅なぞ組まずに、だれかに相談するのがいちばんですよ」白蓮は警策を収めた。「修行は現実逃避のためのものではありませんしね」
観念した女苑は白蓮に向き直り、白蓮もその場に腰を下ろした。女苑はかくかくじかじかと説明した。要するに、姉が自分のように不遜に振る舞うのが許せないという話である。
話を聞いたあと、白蘭はしばし思案顔になった。それから、言った。
「同族嫌悪?」
「なんだと、コラ!」
「そんな言葉で片付けてしまえれば簡単なのでしょうけど、それではあなたが納得しないでしょうね」
「チクショー、わかってるんだよ。本当はただの同族嫌悪ってやつで、でも……そうしたら、わたし達が双子である意味ってなに?」
「というと?」
「双子って、ずっとお互いを納得できないまま生きていくしかないの?」女苑は俯き、声のトーンを落とした。「わたしと姉さんは別物だと思ってた。これって双子であることを前提とした感想ね。ふつうのきょうだいだったらそんなふうには思わないだろうし」
「……そうかしらね」
「でも、わたし達は双子なんだって、わたし達の起こした異変のときからちょっと納得できてた。でも、いまは違う。わたしは、姉さんが自分と同じことが嫌なんだ」
白蓮はどこか遠くを見つめていたが、女苑にはそこにあるものが見えなかった。
「言葉を使って納得させるのは簡単だけれど」白蓮は訥々と言った。「関係っていうのは時間をかけて作り上げていくものですよ。あなたと姉さんは、まだ本当の意味で付き合ってなかったのかもしれないわ」
白蓮の言わんとしていることを、女苑はなんとなくわかりかけた。
「いや、始まったばかりなのかもしれない。女苑はさっき言ったわね。あなたと姉さんはずっと別物だと思っていた、と」
女苑は頷いた。
「でも、本当はずっと同じだった。あなたと姉さんはなにも違わなかった。楽してお金を儲けようとしてるところとか、怠惰なところとか」
「キレていい?」
「あなた達のそういうところ、わたしとも似たところがあるらしいじゃない?」
「……」
「女苑?だからあなたは、わたしに会いに来たんじゃない?」
女苑は押し黙ってしまった。白蓮もこの言葉を最後に黙った。あまりの静寂に耳鳴りがしそうだった。
「あなたの姉さんが不遜な態度を取ることに嫌悪を抱くのは、それはあなたがその人の妹だから」いたたまれなくなった白蓮が言った。「そして、あなたがわたしといることで居心地の良さを覚えるのは、あなたとわたしが赤の他人だから」
「……嫌よ嫌よも好きのうちってことか」
「納得がいった?」
「ムカつくし、絶対そんなんじゃないって言いたいけど、いまのところはこれでいいや」
「時間をかければ関係もまた変わるものです。それは、この世界に住む者ならばだれもが理解していること。嬉しいですよ、女苑がわたしに素直に相談をしてくれて」
「もう帰るよ」女苑は立ち上がり、部屋の戸に手をかけた。
そして、振り向かずに背中で言った。
「ありがとね、姐さん」
返事を待たずに女苑は部屋を出、そのまま家まで帰った。
部屋には饕餮尤魔が勝手に上がり込んでいた。
「よう、悪い報せだ」女苑は目先で続きを促した。「あんたの姉さんが敵側の手先になっちまった。我々は代わりの選手を用意しなきゃいけない」
「……」
「契約違反だぜ。あんたは姉さんを賭け大食いに出すと言った。どうしてくれるんだ?このままじゃボロ負けだ、この疫病神め!」
女苑は淡く笑った。疫病神め、だと?そりゃあ最高の褒め言葉さ。
「なにがおかしいんだ?」尤魔は女苑の胸ぐらを掴んだ。「いいか、代わりの選手を用意しろ。でなきゃ、おまえだって酷い目に──」
「わたしが出る」
「……なに?」
「試合まではまだ時間がある」女苑は尤魔の手を払った。「やってやる、やってやるよ。姉さんを血祭りに──いや、胃祭りにあげてやる!」
試合までの一ヶ月間。女苑は食って食って食いまくった。ただ食うだけではない。まずは米を食った。胃の拡張をするためだ。常人はデブであればあるほど大食いであると勘違いをしがちだが、実際にはデブは脂肪で胃が縮んでいるので、大食いには向かないことがほとんどである。饕餮尤魔を見よ。あの小柄な体格でブラックホールほど食うではないか。
女苑は米を一日に十五キロ食った。朝に五キロ、昼に五キロ、夜に五キロである。米は命蓮寺に腐るほどあった。命蓮寺では昼を食わないが、女苑は別に寺の修行僧でもなんでもないので勝手に食った。実際、命蓮寺は大食いの修行の場に相応しかった。精進料理は身体に優しいし、これなら無限とも思える量を食えた。
食ってないときは、走ったりベンチプレスを持ち上げたりした。単に趣味の大食いならば運動は必要ないだろう。が、競技となれば話は別だ。身体を鍛えるのには、白蓮が協力してくれた。二人は毎日フルマラソンの距離を走り、三百キロのデッドリフトをやり、目がまわるほどの速度でアームカールをやった。二人がバタフライマシンで呻吟する姿は、まるで天地を開闢するが如しであった。命蓮寺に筋トレブームが訪れた。
滝に打たれながら、女苑はとうとう明鏡止水の極意に到達した。滝崖から巨木が流れ、彼女の脳天に直撃しようとも動じることはなかった。ほとんど悟りの境地に達していた。いたずら心から金を貢いでやろうかと雲井一輪にからかわれたとき、女苑はこう答えた。金?なにそれ美味しいの?この世でいちばん美味しいのはね、北海道産のゆめぴりかよ。一輪は己の態度を詫び、より一層修行に励んだ。
大食い対決を目前に控えた夜、女苑は最後の調整に入った。短絡なやつは前日から飯を抜いた方が大食いに有利なんではないかと思いがちだが、実際はそうではない。なにも食べないでいると、せっかく広げた胃が縮んでしまうのだ。女苑はその日も米を五キロ食った。
そしていよいよ、対決の日がやってきた。
会場は旧地獄にあるうらぶれた飯屋だった。どこにでもはない、テーブルにキノコでもはえてそうな、お冷やにカビでも浮かんでそうな、世の中からとっとと消え去るべき悪しき飲食店だった。が、その味は旧地獄の中でも指折りで、店主の衛生面への関心のなさが致命的でさえなければもっと繁盛していたのにと近隣の住民から惜しまれているほどだった。
そんな店に、今日はギャラリーが百万人ほど集まっていた。百万人でなければ百人か十五人ほどである。彼らはこれから登場する選手に金をかけている世捨て人や資産家で、いまかいまかと登場を待ち侘びているところだった。
「それでは、選手の入場です!」
司会のカワウソが大々的に宣言すると、狭い店内が爆発しそうなほどの歓声が上がった。待ってたぜ、女苑ちゃん!おまえがナンバーワンだ、紫苑ちゃん!頑張れ屠自古!
「赤コーナー!」視界が呼ぶと、店の裏口の扉が勢いよく開かれた。「食べることがなにより好きという彼女は、その悲しき性により満足に食べることが叶いませんでした!しかし、いまは違います!彼女には才能がありました、文字通り飯を食う才能です。その名も──依神紫苑!」
両腕を掲げながら入店する紫苑に、万雷の拍手と称賛の声が浴びせられた。その細い腰にはチャンピオンベルトが巻かれていた。それは幾多の大食い挑戦店をその胃力で負かしてきたことの証左であった。傍らには付き人のように吉弔八千慧が付いていた。
「青コーナー!」と、開きっぱなしの店の裏口にシルエットが立った。「いったいだれなんだ、この質素な女は⁉︎着飾っていたランジェリーは大食いにおいて邪魔にしかならないとすべて質に入れてきた!依神女苑だー
っ!」
女苑にも歓声や拍手が浴びされられたが、彼女の目は先に席に着いている紫苑にしか向かっていなかった。が、当の紫苑は瞑想でもしているのか、テーブルに向かって一点を見つめている。交わらない視線の最中には、不可侵の領域があった。
「わたしもおまえの修行を間近で見てきた」と、女苑の隣をトコトコついてきている饕餮。「クックック……勝てよ、おまえならやれるさ」
「わかってる」女苑は首を鳴らした。「わたしはいま、初めて金ではないもののために戦う!」
女苑も席に着くと、テーブルを見つめていた紫苑が顔をあげた。そして、心臓も射抜けそうな目力で女苑を睨みつけるのだった。
「いままでの借りを返してやる、女苑!」
「借り?」女苑はシニカルに笑った。「借りってなに?男のアレについてるアソコの名前?へぇえ、知らなかったな。アソコに名前がついてるなんて!」
「今日、敗北するのはおまえだけだ、愚かな妹め!」
「黙れ、この腐れプッシー!」
両者が睨み合い、会場の熱気は留まるところを知らなかった。もういっそこのまま殴り合わせた方が早いのではないかとだれもが思った。
「最後の選手の入場です!」まだいたのか、というムードが会場をいい感じに冷ませていく。試合はまだまだ始まらないのだ。「黄色コーナー!まさかの人選です、どうやら他に候補が見当たらなかったらしい、蘇我屠自古!」
いつもの不遜な態度はどこへやら、いかにも帰りたそうにしている屠自古がおずおずと入場し、その横には申し訳なさそうにしている驪駒早鬼が付いた。
「屠自古選手、一言どうぞ!」
「帰ってもいい?」
「トジコならやれるって!」
「なんでわたしなんだよ?」
「トジコって、ほら……なんか大食いっぽい名前!」
「はあ?」
上司の元ペットとあっては無下に扱うことも出来ず、そして生来の人の良さから断り切ることも出来ず、けっきょく屠自古は席に着いた。オッズ的に見ても大穴の選手である。
三人が相対すると、盛り上がりはいよいよ最高潮に達した。実際に火花を散らしているのは紫苑と女苑だったが、元来何事にも感化されやすい屠自古も場の空気に流され、いつの間にかこの二人を倒すべき敵と認識していた。因縁もなにもないが、これから生まれるであろう因縁に初めて家族を作る夫婦のように興奮していた。
それは紫苑も同じだった。満座の場で自分は無敵であるということを証明する。この世にこれ以上に燃え上がることはないし、緊張することもない。紫苑の全身は緊張で震えているが、その度に吉弔が隣で囁いて落ち着かせていた。
対して女苑は、寺での修行の成果もあって落ち着き払っていた。動揺するようなことがあったら、頭の中で座禅を組め。白蓮から教わったことを、女苑は常に実践していた。その様子を見て、饕餮も勝ちを確信していた。そして、こうも思っていた。所詮こいつらは双子なのだ。姉にあって妹にないものなどあるはずがない。大食いの才能を、神はこの二神に分け隔てなく与えたのだ──
「それでは、勝負食の発表です!」
司会が叫ぶと、会場はいよいよ盛り上がりのピークを迎え、だれもがもういつ帰ってもいいとさえ考えた。
「勝負食はおにぎりです!おにぎりを二十分以内に最も多く食べた者を勝者とします!」
この場にいる理由が軽薄な屠自古だけがリアクションを示し、紫苑は心の中でほくそ笑んだ。おにぎりは食べやすい料理の一つだ。その理由としてうんぬんかんぬん、みたいなことを考えていた。女苑は自分の殻に閉じこもり、中でテレビかなにかを見ていた。
選手の前におにぎりが二つ盛られた皿が配られる。邪道食いの禁止、すなわち料理の元の形を著しく破壊しての食し方を禁ずるルールが説明されたのち、三人の運命を乗せたロケットの発射、そのカウントダウンが始まった!
早鬼の期待を一心に背負う屠自古、己の全存在を賭けた紫苑、姉妹の未来のために戦う女苑、スタートの合図と同時に、全員が猛然とおにぎりに手を伸ばした!
と、思いきやそうはならなかった。
女苑だけが手を伸ばそうともしなかったのである。これには流石の饕餮も周章狼狽した。
「お、おい。なにしてる、さっさと食え!」
しかし、女苑は動かなかった。眠っているんじゃないかというほど、女苑は微動だにしなかった──否、よく見れば小刻みにプルプルと震えていた。動揺している?しかし、心の動揺は寺での修行で克服したはずでは?
「どうしたんだ、おい!」饕餮は女苑の肩を揺らした。「見ろ、おまえが倒してやると息巻いてた姉さん、もう十皿も食ってんだぞ、いいのか、このまま負けちまって!」
饕餮の激励によって、女苑はようやく皿の上のおにぎりに手を伸ばした。この時点で紫苑は十一皿、屠自古は七皿完食していた。
手に取ったおにぎりを口元まで持っていく女苑。が、その口は天岩戸のように頑として閉じられている。
「だ、だめだ」ようやく口を開いたかと思えば、それは食べるためではなかった。「い、嫌だ。もう米は嫌だーっ!」
「はあ?」
「散々修行で食べたんだ、米は!やっと違うもんが食えると思ったのに!」
大食いにおいて肝要なことは幾つもあるが、そのうちの一つとしては『味に飽きないこと』。どんな好物でも大量に食べているうちに味に飽きが来て、食べ進めることが困難になる。そのために大食いの挑戦者は調味料などをいくつも使い、確実に完食出来るようにする。米を使っての修行は決して悪手ではなかった。が、勝負食を直前に発表するという試合のルールに足下を掬われたのだ!
「いいから食え、寺で食った米とは違うと思うぞ!」
「じゃあ寺の方が確実に美味しいもん、余計食えるかよ!」
おにぎりが手付かずの女苑を見て、紫苑は内心で勝鬨をあげた。金に空かせて美味しいものを食べてきたツケが回ってきたようね。あなたとわたしは双子だし、大食いの才能も持っていたのかもしれないけど、食の好みだけは一致していなかった!あのとき食べた居酒屋のカレーライス、本当に不味いって評判だったのよ。
「食事とは単に娯楽のためではない!」紫苑は女苑を指差した。「わたしは生きるために食べる。味は二の次なんだ、そのハングリー精神の差が、おまえとわたしを分けているものだ、それこそがわたし達を双子たらしめているのだ、女苑!」
失意に項垂れる女苑だったが、紫苑の言葉に顔をあげた。
ハングリー精神?
その差がわたし達を双子たらしめる?
「だったら……」女苑は頬張り、咀嚼し、飲み込んだ。あれだけ鼻についた米のにおいは気にならなかった。「あのとき姉さんといっしょに完全憑依異変はやらなかった」
「……なに?」
「あの異変の最後のとき、わたし達は負けかけた。だけど、最後の手段があった。負けてでも勝つ。わたしは賭けたのよ。自分たちの悪あがきに。あの悪あがきは、わたしと姉さんのハングリー精神がなけれは出来なかった!」
女苑は次のおにぎりを口に含み、一定の回数咀嚼し、飲み込んだ。それは修行で掴んだ、女苑なりの大食いのペースだった。
「悲しいけどね」女苑は口から米を溢しながら言った。「わたし達は双子なのよ、どんなに違く見えても」
女苑は静かにおにぎりを食べ勧めた。紫苑は動揺して動けなかった。二人がやり取りしている間に、屠自古は黙々とスコアを増やし続けていた。
「ちょっと、紫苑!」吉弔が紫苑の耳元で囁いた。「なにしてるんです、少しでも食べ進めてください!」
言葉通りにした。おにぎりを手に取り、口に含む。そのペースは先ほどと比べて酷く悠長だった。堪らず吉弔は急かす。
「で、でも……」紫苑の目から米粒ほどの涙がほろりと流れ出ていた。「このおにぎり、やけにしょっぱくて……」
女苑は着々と食べ進めている。先ほどまでの動揺がまるで嘘のようだった。そのうち、紫苑のスコアを追い越した。屠自古も序盤よりペースが落ち始めている。女苑がトップに立つのも時間の問題だった。
勝負の趨勢は決まっている。本来、大食いとは己との戦いなのだ。いくら食べ進められるのか、時間内に完食することが出来るのか、それを決めるのはほかのだれでもない、自分自身である。その点、紫苑は精神的に弱かった。紫苑に必要なのは逆境に対するハングリー精神などではなく、だれかから向けられる優しさ、暖かみへの耐性だったのだ。まさか、よりにもよって妹が家族の繋がりを教えてくれるだなんて──
残り時間が六分を切った。吉弔は絶えず耳元で囁き続けているが、紫苑はもう勝負のことなどどうでもいいみたいだった。驪駒は必死にエールを送っているが、屠自古もほとんど満腹で動かなくなっていた。
そんな中、女苑だけが止まることなく食べ続けていた。だれもがもう女苑の勝ちだと確信しているにも関わらず、その手を止めなかった。女苑にも理由がわからない。
「思っていたのと違うが──」饕餮は女苑の肩に手を置いた。「まあ、勝ちは勝ちだな」
「まだわからない」
「あ?」
「勝負は最後までわからない。どこからだって勝てることもあるし、負けることもある」
「だが、紫苑は──」
見やると、紫苑の口が動いていた。
観客を含めた全員が瞠目した。勝負を諦めたとばかりに思われていた紫苑が、再び食べ始めていたのである!
その様子を間近で見ていた吉弔だけが、気がついていた。たしかに紫苑は勝負を諦めていた。依神女苑の言葉に感化され、勝敗よりも大事なものを見つけたって感じだった。吉弔は心底恐怖し、慄いた。それは大食いのための技術的な食し方とは一線を画していた。
こいつ──本能で食っている!
「感情?理性?情緒?そんなものは犬にでも食わせろ」女苑は自分も食べ進めながらも震えていた。「姉さんを動かすのは精神なんて曖昧なものじゃなくて、ただのハングリーなのさ!」
だれの声も耳に入らない紫苑。まるでブレーキの外れた暴走特急のような速度でおにぎりを食らい尽くしていく。その速度ときたら、握る職人の手が追いつかないほどだった。
対して、女苑は自分のペースを崩さなかった。大食いにおいて肝要なのは、相手のペースに乱されないこと。しかし、このときにおいて女苑が考えていたのは、次のことだった。
──こんな食い方するやつの妹だって思われたくねぇ〜……
よりによって紫苑を金儲けに起用しようとする八千慧に先見の明を感じました
ところどころに食キングと食いしん坊がいて笑いました