Coolier - 新生・東方創想話

瑞雪溶けて

2023/11/27 21:59:09
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 普段よりも一等低くなった景色。長いこと履き続けている高下駄の歯も幾らか削れてしまっているだろうに、それでも視界は相も変わらず高いままである。まあ、今は如何にも使い古したような藁靴を履いているのだが。
 しかし、これも決して丈夫とは言えない代物。
「ここで買ってみるのも良いかもしれないな」
 ごく小さな声で呟いただけだというのに、口元からは白い息が立ち上る。ぱらぱらと白い雪が降る中でも騒がしい市場の中では、それすらもあっという間に消えてしまった。人間達の喧騒に紛れてしまえば、滅多なことでは気付かれないのだ。
 飯綱丸龍もまた、それを利用して乗り込んだ妖怪の一人であった。


 ──それは、日の出より少し前のこと。こんこんと眠る典を起こさないようにして象牙色の柔らかい布団から抜け出した龍は、二人分の朝餉の用意を始めた。とはいえ、大して凝った料理でもなければ豪勢な料理でもない、酷くシンプルなものである。
 昔からの習慣でお菜を殆ど作らない代わりに麦飯を多めに、そして少し硬めに炊く。つい先日、寝巻きの上から腹の肉を摘んでいた典とその体型への細やかな気遣いだ。
 米を蒸らしている間に手早く汁物を作り、それが終わると揃いで買った茶碗を木製の棚から取り出す。典が起きてくるのは、大抵この頃。今日もやはり小さな足音を響かせながら慌てた様子の典が顔を覗かせた。
「飯綱丸様っ……」
「おはよう、典。もうすぐできるから、顔を洗っておいで」
 しょんぼりと尻尾を垂らせて再び廊下を走る姿に、思わず苦笑した。それほど気に病むのであれば、いっそ昼頃に起きてしまえばと思うも口にはしない。
 まあ典も比較的早起きではある。まだ目を覚ましている人間も多くないだろう時間帯、ましてや妖怪なら少ないはずだった。
「……いや、里の人間はもう起きているかな」
 釜蓋を開けると同時に白煙がもくもくと立ち上り、炊事場の小さな窓から外へ出ていった。その窓から見える景色は紅雪に白い雪がまだらに重なった奇妙なもので、ところどころでは二色が混じり合って薄桃色になっている。妖怪の山のあちこちどころか、人里や博麗神社でも同じものが見られるだろう。

 里に積もった赤い雪、そしてそれに怯える人間達。全ては龍の望んだ展開であり、また今日起こることすらも彼女の筋書き通りだった。
「神社で市場が開かれるそうですね」
 食事を終え、二人分の皿を洗っていた典がそう言う。龍は土竈炭を取り出すのを止めて、穏やかに微笑み返した。
「それはどちらの?」
「博麗神社だそうです。……河童が昨日の午後から騒がしかったのも、このせいかと」
「成程」
 満足げに頷くと視線を典から外す。会話が終わってしまったと気づいた典がかちゃかちゃと音を立てて皿洗いを終えた頃に漸く、龍の口が開いた。
「今日は昼まで出かけるから、お前は留守番でもしていなさい」
「…………はい」
「よろしく頼むよ」
 こう言えば意気沮喪とすることは分かっていたが、それで良いと思った。寧ろ龍としては、そのやるせなさを天狗の村をほっつき歩くことで発散してほしいとすら思っていた。今日の博麗神社に訪れる妖怪は可能な限り少ない方がいいのだから。
 つまらなそうに台所を後にした典を見送ると、やはり龍は少しばかりの罪悪感も抱いてしまう。家を留守にするのはそう珍しいことではなかったものの、自分の側に置かない代わりに与えていた仕事も今日はない。あまりそういう素振りを見せやしないが、典は何よりも頼られたいと望んでいるのだ。
 ……だからと言って、今すぐにも甘やかしてしまおうとは思わないけれど。
 どうにも悩ましく、木炭を持ったまま深い溜め息を吐く。そのせいか外気で冷えてしまった龍の手が僅かに温まり、脆くも硬い感触を思い出させた。

 炭で煤けた掌を鼻の先、頬骨、そして眉間に指を沿わせる。そのまま乾いた布で軽く拭ったのは、玉の顔も黒く汚れてしまえば多少は芋臭く見えることだろうと思ったからだった。目立ってはならない、普段の様に閑雅な着飾り方であってもならないのだ。
 もう一度、手に取り、今度はやや躊躇いがちに髪に擦り付ける。龍の深い紺の髪は忽ち輝きを失い、黒緑のような奇妙な色へと変化していった。桶の水に映る姿を見た龍は、美しい髪が汚れてしまっただけだというのに、ここまで見窄らしくなるものかと寧ろ驚きすら感じる。更にギシギシと軋む髪を肩の少し上と背中の中央で結えば、まるきり貧相な平民の姿になってしまった。白く細い布で適当に結んだだけの様が余計に卑しくも見える。今から着る服を想像して、誰かに見られても天狗の大半は気づかないだろうと龍は思った。
「……ど、どちら様ですか……?」
 少なくとも、典ですら困惑する様な姿なのだと。

「──それで、このような格好を?」
「ああ。古着もほつれたままだし、お前も気づかなかったでしょう」
「……まあ、そうですけど」
 些か不満げに口を尖らせてはいるが、片手に持っているのは書斎から持ち出したのだろう料理本だ。どうやら従順に──龍の言いつけを守ろうとしているのかは分からないが、それはともかく──屋敷で待っているという意思表示に違いなかった。
「お前を連れて行くのもどうかと思ったが、やはり人間に紛れるのは難しいからね」
「私は……飯綱丸様のお側にいたかったです」
 典はぐっと身を前に乗り出して、龍の視界を自分で埋め尽くしてしまう。彼女の熱に浮かされた瞳は、龍にとってはよく見慣れたものだった。なにしろ数多くの部下が向けてくるものと同質でありながら、それらとは異なって龍に今以上の褒美を期待することもないのだから。常に側に置いておくならば、これほど気楽なものはない。
「おや。私の判断は当てにならないか」
「そんなことはありません!」
「なら、困ることはないでしょう。……安心しなさい、昼過ぎには帰るから」
 そう呟くと、龍は少し下にある頭をこちら側に引き寄せ、ぽんぽんと叩いた。半笑いではあるが癇癪を起こした子供を優しく宥めるような手つきに、典の眉は段々と下がっていく。
「……落ち着いた?」
 挙句、微笑みながらそう問いかけるものだから、典はすっかり顔を茹で上がらせて「ずるいですよ」と呟くほかないのであった。


 ──そうして龍は問答の後に山を降り、遥々博麗神社までやって来た。
 こうしてみると、あちこちから藁の端が飛び出た靴も、袖口がほつれている着物も、人間達の中に紛れるのに適した貧相な身なりと言える。己の判断ながら素晴らしいと思う。残念なのは、赤い瞳を隠すようにして檜皮色のショールを巻きつけていることか。
 そう小さく吐いた息は雪に紛れて、たちまち消えてしまった。

 まだ明朝であったし、里から離れた所にあるのも相まってさして多くはないが、それでも閑散とはしておらず、境内は俄かに賑わいつつある。出店の準備に人間も河童も奔走していたことが幸いして、龍の姿を視界に入れても誰も驚きやしない。その上、手伝ってくれとあちこちに駆り出される始末だ。
「ありがとう、助かったよ!」
 壺をいくつも抱えた老人の代わりに荷物を背負うと、気さくに声をかけられた。普段なら丁重に堅苦しく告げられるそれも、今の龍には親しげな響きを伴って聞こえる。
「いえ、助けになれたのなら幸いです」
 おまけに、にこやかにそう返すだけでその老人は破顔するのだ。これと比べれば、壺の価格など些細な問題である。
 それから半刻もしないうちに、準備はあらかた終わったようだった。人がひしめき合い、俄然場は騒がしく熱気に包まれる。しかし冬の寒さはそれ以上であり、誰一人として上着を脱ごうとはしておらず、屋台の設営を終えて出て来た河童だけが手で顔を仰いでいた。
 朝よりも更に弱まった雪は積もる前に溶けて肩を濡らす。僅かに眉を顰めた龍がショールを羽織り直していると、神社の奥の方から小柄な妖怪が一人現れる。首元から足首までの肌が見えなくなるほど、暖かそうな服を着た高麗野あうんだ。彼女は“紅雪記念 特別市場開催”と書かれた看板を引きずり、人混みの中を歩いて行く。
「市場、ねぇ」
 神に認められた市場は誰の干渉も受けないだろう。神社という神聖な場所であれば尚更、その力を存分に発揮することもできる。……龍の思惑通りに。

 巫女が市場の開催を告げると同時に、境内は様々な音で溢れかえった。そこかしこで聞こえるのは、純粋にその場を楽しむ人々の明るい声である。
 鼻先を赤くさせた龍は参道のすぐ傍に立ち止まり、静かに拝殿を見つめた。とは言っても人垣ができていた為に殆ど見えなかったのだが、そこにいるであろう神の様子が気になってもいたので、どうにかして視界に入れられないかと暫く苦心していた。
 結局十秒もしないうちに諦めたように首を振ってしまったが。天狗の中でもずば抜けて背の高い龍では酷く目立ってしまうので、不自然でない程度に腰を屈めて誤魔化そうとしていたのだ。それが仇となり、常よりも視界を狭めてしまっている。

「……うむ」
 それはともかくとして。
 龍は自分が何も手出しをせずとも順調に進んでいくことは確信していた。赤い雪に怯える里の人間も、その不安を払拭するのは博麗神社で開かれる市場だとも。なにしろ大天狗の弄した奸策である。見誤るようなことがあっては部下達に示しがつかない。
 故に目的の半分は果たされたと言える。今日の予定を聞いた典が訝しげな視線を向けていたのも無理はない、龍が自ら出張ってまで後押しをする必要はないのだから。それも、わざわざ山を降りてまで!

 けれども理由は至極単純なもので──面白そうな祭りに加わらずにはいられない、たったそれだけのことだった。

 私欲を大天狗の目的として正当なものに昇華する為にあれこれ理由を加えてみても、大綱が変わることはついぞなかった。とはいえ周囲の者はそれなりにきちんとした理屈さえ用意すれば納得し、龍の行動を妨げようとはしない。それも今日のことに限った話ではなく、常日頃からのことである。
 御立場に見合った行動を──なんて尤もらしく忠言をする者も皆無ではなかったが、龍は大天狗という立場上、私利私欲に走ることを許されていないのだから沙汰にもならない。強いて言うのであれば、百々世との繋がりを偶然知った天狗に咎められたこともあったが。
「──そこのお姉さん、この靴なんてどうだい?」
 身分に囚われない交流は存外悪くないと、龍はもう知っている。
「そんな草鞋じゃあ寒いだろうに! あんまりだわ、少しまけてやるよ」
「……確かに、そうですね」
 龍の周りを通り過ぎて行く人間は皆、くるぶしまで覆っていた。溶けかかった紅雪で薄桃色に染まる雪を見て大はしゃぎする子供ですら。
 四十路を少し過ぎたばかりに見える婦人はぐいと靴を押し付けると、龍の足元を不憫そうに見つめた。そう騒ぐほどの寒さではないのにと思い苦笑する龍だったが、代金を聞いた時には思わず目を丸くしてしまった。
「正規の価格で買いますよ。金ならきちんと持っていますから」
「そうは言ってもねぇ、どこもこんなものよ。それに……娘の嫁入り道具に入れようと思ったら嫌がられちゃってね。誰も使おうとしなくて困っていたから、誰かがもらってくれるなら嬉しいわ」
 そう言ってにこやかに微笑まれてしまったら、例えがらくた同然のものであっても龍には断れなかった。その上、言い値で買い取ってすぐに履き替えると、婦人は更に眉を下げて嬉しそうにしているのだ。普段ならば自分がそうする側だったというのに。
 どうにも背中がくすぐったく、龍は逃げるように立ち去った。

 その後も龍に声をかける人間は決して少なくなかった。けれども誰も彼も『お姉さん』と呼ぶだけで敬称もつけやしない、ましてや龍の名前も知りもしないというのに、いとも容易く声をかけてしまうのだ。天狗だと気付いている人間は一人としていない。
 おまけに屋台の設営を手伝ってくれたお礼にと呼び止められ、甘酒を一杯もらうようなことまであった。龍が目を瞬かせている間にも、忙しなく仕事をする人々の姿がある。

「市場は大盛況、と言っても差し支えないだろうね」
 神によって開かれた市場に混じること。それは市場の神に信仰を捧げることと同義である。賑わえばそれだけ神の力は増して行く。だからこそ、例え捧げる者に自覚がなくとも、今この場に満ちる感興も全ては市場の神への信仰心の現れであった。
 参拝の為に並んだ列に混じると、それを殊更顕著に感じ取ることができる。騒がしい筈の境内だというのに、龍の耳には何も聞こえてこない。
「……それでも不快ではないよ」
 巫女の隣で何やら話しているらしい市場の神にそっと視線を向けて、そう独りごちた。
 龍が神として扱われたのはもう何百年も昔のことであったが、当時与えられた信仰を忘れられるはずもなかった。かつて得たそれらの凋落を目の前に広がる景色と重ね、ぽつねんと物思いに耽る。
 しかし市場に行くだけならまだしも、その手筈を整えることになるとは。数十年前までの龍だったのなら彼女に対して何もしなかっただろうに、市場の神の悲願を叶えるような真似すらしてしまった。
 呆れたものだ。根本の理由は酷く浅ましいままで、どうせ市場の神も気づいていることだろう。

「────そもそも市場というものは……」
 巫女と魔法使いに向けて目を伏せながら上機嫌に語っていた市場の神がその濃い紫の瞳を見開き、拝殿の一際高い所から辺りを見下ろした。ぐるりと見渡し、薄い笑みを浮かべたまま再び話し始める。
 ふと龍は、あの瞳に自分は映っていたのだろうかと思った。どの仕草を取っても上品でありつつ自信に満ちている神が卑しく身を汚した民に目を向けることがあろうか、とも邪推した。いや、元の姿で現れたとしても、市場の神にとっては龍は下賤の者でしかない。

 惨めな姿を神前に晒すほど恥知らずではない。そうして龍が踵を返そうとした瞬間、耳に届いたのは神の声。
「──それに、万人に開かれた市場こそ私も保証しがいがあります」
 後ろに進もうとした脚をひたりと止め、思わず龍は振り返った。
「『物を所有する限り何人たりとも神の手から逃れられない』……だったか?」
「ええ、所有権を有しているのであれば。ですから、市場に参加する為に貴賤を問うことなどあってはならないのです」
 魔法使いの問いに微笑み返し、その優しげな表情を保ったまま参道に視線だけを寄越す。

 いつの間にか濃紫の瞳はじっと龍だけを映しており、僅かに呆れの色を滲ませていた。それでも千亦は喜びを隠せないようで、いっそ憎たらしくなるぐらいの晴れやかな笑みを絶やそうともしなかった。
「この市場はいたって普通のものです。私を祭り上げる為の祝祭ではなく、目出度い紅雪を穢れとしない為のもの」
「……それと里の人間が抱える不安を払拭する為、だな」
 魔法使いは些か不審そうにしていたが、千亦の言い分には概ね納得しているようだ。その会話を聞いているうちに龍の周囲の音も戻って来たことに気づき、慌てて列を抜け出した。すぐ後ろに並んでいた人間が心配してか、声をかけてくる。
「どうかしましたか?」
「ええ、まあ」
 けれども、その問いには曖昧に微笑むことしかできない。
 なにしろ。

「流石に祭神の目の前で、他の神を想うのは如何だろう……」
 炭で汚れているのもすっかり忘れて、赤くなった頬を両手で隠す。その場を立ち去りながら呟いた龍の声は、酷く掠れていた。


 とは言え、逃げ出した先も人混みの中。げっそりと疲れた様子の龍を憐れんでか、綿菓子を握らせる店主すらいるような有様だ。
「……甘党ではないけど」
 流石に好意で贈られたものを、呪詛の類がかかっている訳でもないのに突き返すのは憚られた。
 祭りの時より些か小ぶりで、どんよりした空に透かせばそのまま溶けて消えてしまいそうな程に淡い色。一旦降り止んだ雪がまた降って来たら、きっと見えなくなる。そう思うと、尚のこと食べる気が失せていった。
 典にでもくれてやれば喜んだだろう。そうでなくても、あちこちで楽しそうにはしゃぐ子供だったなら。龍がどれだけ考えても詮ないことではある。……となれば。
「物々交換こそ原初の市場であるとはいえ……仕方ないわ」
 境内にこれだけの人がいるのだから、綿菓子を好む人も一人ぐらいはいるはずだ。

 実際、龍の考えはあながち間違っていなかった。人の密集する参道近くではなく、森に寄った所でぽつんと座り込む少女がいたのだ。年の頃は十を少し超えたばかりのようにも見たが、龍はそれよりも幼いだろうと何となく感じた。粗野な景色に見合わぬ上質な衣服と落ち着いた佇まいがそう見せるのだろう。臙脂色の敷物の上に、人形のようにじっと座っている。
「こんにちは、お嬢さん」
「……こんにちは」
 少女のヘーゼル色の瞳は警戒心を剥き出しにしていたし、無愛想な声ではあったけれども、決して龍を拒否しようとはしなかった。まあ、にこやかに微笑んだつもりでいた龍としては思わしくない反応であり、もしかすると胡散臭かったかしらと若干ショックを受けてすらいたのだが。
 そうして思いあぐねていても、おくびにも出さず交渉を続けるのは龍に限らず権力者のお家芸である。妖しく笑う賢者共だとか最終的には力技で解決するヤクザの組長共ならいざ知らず、年端も行かぬ少女を言いくるめるのは容易い。それが箱入り娘なら余計にだ。
「お嬢さんは何故こちらに?」
「博麗神社で草市が開かれると聞いて……でも」
 口を閉じて、辺りをキョロキョロと見渡す。逸れた従者を探している……というより、寧ろ見つかってしまうのではないかと恐れるような仕草。それを見た龍はとあることを思いついた。
「……お一人では折角のハレの市も満足に楽しめないでしょう。貴女さえ良ければ、一緒に周りませんか?」
「え? ……ええと、それは…………」
「勿論、博麗の巫女の御前で人攫いをするつもりなど、さらさらありません。ただ……私も一人では、寂しく思いまして」
 口の端を無理やり吊り上げて困ったような笑みを浮かべれば、この年頃の少女は簡単に同情する。何故なら、他者に自分の感情の一端を共感してもらいたいと強く望んでいるから。
「それなら……はい」
 完全に心の内を曝け出すほどではないけれど、ある程度の信用を得られたらしい。龍の差し出した手をやや躊躇いがちに取り、敷いていた布を腕に抱えた。立ち上がった拍子に見えた臀部の薄紅色の染みは雪が溶けたせいか。龍は事前に持って来ていた二重回しをその小柄な身に羽織らせてやり、女性にしては僅かに低く深みのある声で「どうぞ。身体が冷えてしまうでしょう?」と耳元で囁くと、少女の頬はたちまち赤く染まった。もし龍と親しい者がすぐ側にいれば、またそうやって籠絡してと呆れたことだろう。

 ……それもこれも、児子攫いの天狗としては十八番だ、なんて。
 身の丈に合わぬ濃紺の二重回しに身を包み、ふらつきながらも雪に足を沈めて歩く少女には、到底言えなかった。

「──そう言えば、その筒は如何なさったのです?」
 人混みをかき分け、右手に綿菓子を持ち、左手に少女の手を握りながら龍はそう尋ねた。少女は一瞬きょとんとした顔をした後、ぎゅっと眉を顰めた。
「これは──どうでも良いものです。雪に埋めてしまえば良かったのです」
「そうですか」
 その筒の良否はてんで分からない龍はどうとでも取れる相槌を打つ。敷布と一緒に抱えていた山吹色の筒は雪の一つもかかっておらず、水に濡れた形跡もなかった。
 けれでも会話が途切れてしまうのは惜しい気もして、隅の方で立ち止まった龍は繋いでいた手を離す。
「お嬢さんにこれを差し上げましょう」
「……わたあめ、ですか?」
「はい。先程頂きましたが、どうも私は甘い物が苦手でして……よろしければ、お受け取りください」
 そう言って綿菓子を差し出すと、小さく感謝の言葉を告げた少女はおずおずと受け取った。やはりまだ周囲を気にして怯えているので、止むを得ず龍は視界を遮るように少女の前に立つ。
 綿菓子を一口食み。
「……!」
 薄暗く見えた榛の瞳が輝き、破顔した。もう一度顔を上げ──今度はしっかりと目を合わせて、「どうもありがとうございます」と花が綻ぶように笑ったのだ。
「貴女のお口に合ったのであれば幸いです」
 百々世や典とは違って、小動物の如くちまちまと食べ進める様子がいじらしい。彼女が食べ終えるのを龍は微笑みながら見守り、残った棒の後始末もしてやった。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「……は、はい」
 気障な台詞をかけられるのが照れ臭かったのか。言い慣れた言葉だったが、成程、確かに少女のような歳では滅多に聞かないことだろう。
 少しばかり勘違いしたままの龍は、再び手を繋ぎ始めた。

 つい先程までとは違い、一つ一つの品をじっくり見ることができるように歩みを遅らせる。しかし相変わらず人が多く、しょっちゅうぶつかりそうになるので、その度に龍は器用に手を引いて避けていた。少女は気づいていなかったが。
「すみません、こちらはおいくらでしょうか?」
 一方で龍は、気になった物があれば躊躇わずに声をかけた。使い古した食器や小さく作りすぎてしまった帽子。がらくた同然だと売っている本人が思っていても見ている側には思いがけぬ掘り出し物、ということも珍しくない。
 何が何だか分からないと言った少女の為にあちこちを歩き回っていたが、どこに行っても興味深そうに見つめている。

 ……その最中に気づいたことが一つ。どうやらこの少女は、稗田家に勝らずとも劣らぬ家の生まれらしい、と。
 行く先々で丁重に扱われる様を見れば、嫌でも想像がつく。何より身に纏う衣服のなんと優雅で可憐なことか。これでは隠しても意味がない。
「今後とも、どうぞご贔屓に」
 そう告げられる度に、少女は唇を噛んでいた。

「──どこの家の方かは存じ上げませんが、申し訳ございません。私のせいで不快に思われたでしょう」
 不意に立ち止まり、少女はそう言って頭を下げた。龍が驚いている間にも言葉を紡いでいく。
「どうしてそんな格好をなさるのです? あなたは着る物にも困るほど、貧乏ではないのでしょう?」
 ああ、しくじったな。
 龍は僅かに眉を下げた。子供と思って少し気を抜いていたのだろう。家柄に見合った教育を受けているはずの、聡い少女の目の前だというのに。けれでも、こうした可能性を微塵も考えていなかったわけではない。
「確かに貴女の仰る通りではあります。……ですが」
 ぐっと身を寄せてしまえば、少女の目に龍以外が映り込むことはない。今朝の典もこの独占欲を味わっていたのかしらと、突飛な考えが頭に浮かんだ。

「──必要以上の詮索は身を滅ぼしますよ、お嬢さん」

 そう囁いて紅い唇の真ん中で人差し指を立てると、少女は腰を抜かして、その場にへなへなと座り込んでしまった。





「──お父様は古い人間なんです、紅雪も凶兆だと言って。新聞には自然現象だと書いてあったのだから心配ないと私が言ってしまったから、怒って怒鳴りつけられたのです。それでつい、かっとなって家を出てしまって……」
 ぽつりぽつりと少女が語ったのは、厳格な父の話だった。古い考えに基づいて厳しく教育され、趣味として絵を描くことすらも許されなかったのだと。
 山吹色の筒の中身は、紅雪と山景色を描いた素朴で繊細な絵画だった。かつて褒められたくて見せた絵を燃やされてしまった少女にとって、何よりも大切でありながら、誰にも存在を明かせないものだと言う。

「家に帰っても、これは捨てられてしまいます。ですから、お願いしたいのです。受け取っていただくだけで構いませんから」
 泣きそうな顔で縋りつかれ、元より拒否するつもりのなかった龍は更に断れなくなった。
「……暫く会っていない友人に見せようと思います。どうもありがとう、親切なお嬢さん」
 肯定の返事を聞いた少女はぱっと顔を輝かせて、晴れやかな笑みを浮かべる。そして、逡巡の後に上擦った声で龍に問うた。

「あのっ……もしも、いつか私が里一番の画家になったとしたら、貴女の肖像画を描かせてくださいませんか?」

 龍はショールから顔を出した。そして穏やかな笑みを浮かべ、手を振りながらこう返したのだった。
「──貴女が覚えている限りは、是非とも」






 曇り空からぱらぱらと雪が降り始め、神社の前の石段は真白に染まった。点々と薄桃色をした箇所も残っているが、それも少ない。
「いや、まずは」
 自分の家か、それとも虹龍洞か。龍はどちらに帰ろうか迷っていた。

 この絵は百々世に見せてやるつもりだった。冬眠中の百々世に、冬の出来事を教えてやるのが毎年の楽しみだからである。けれども、自身の執務室等に飾らずにいるのも如何なものか。
 そうして頭を悩ませている内に、思い出したのは第一回の月虹市場のこと。アビリティカードが成功して大はしゃぎしていたのは龍だけではない。
「……もう一度、あの顔が見たいと思うのは傲慢が過ぎるかな」
 しかし、その傲慢さこそが龍を支える柱の一つでもある。結局、一度持ち帰って冬が明けた頃に見せに行こうと決めたのは、石段を下り終えた時。
 後ろを振り返っても良かっただろう。けれども思い出を大切に仕舞うには不要な行為に思えて、とうとう振り返ることは一度もなく帰路についた。

 ──博麗神社の石段。そこに残る無数の足跡には、紅雪はもう見えなかった。
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
丁寧に綴られる一コマ一コマの雰囲気が良く、美しかったです。
3.100夏後冬前削除
繊細な文章の読み心地が綿菓子のように儚げでとても良かったです。龍、罪な女。
5.100南条削除
面白かったです
龍が人々との距離感を楽しんでいることが伝わってくるようでした
すねてる典もかわいらしかったです
6.100名前が無い程度の能力削除
すれちがう龍と人々との間で起こる小さな(その人にできうる限りの)善意の連鎖が心地よい作品でした。もちろん龍も与えられるばかりではなく、少女や千亦に小さな善のバトンを渡すという関係性の尊さ。
また文章がとてもきれいで祭りの光景が鮮明に浮かんできました。とても素敵な作品をありがとうございました。