Coolier - 新生・東方創想話

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2023/10/22 00:15:22
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第一幕 COZMIC TRAVEL/幻想ラジオ

1

 旅先で知り合った言語学者が亡くなった。出会ったのは半年前、その時点で冥府の門を夢うつつでたたいているようなご老体で、確かにそろそろ死ぬだろうなとは思っていたけれど、それでも寂しさみたいなのはあった。
 ここ数十年、私は天日干しにされた大根みたいにしなびた体でふらふらと放浪していた。死なないけれども、それでものどは乾くものだから、ぶつくさと水、死ぬ、水、と変な声を漏らしていた。そんな私の阿呆な姿を偶然見かけた彼は、うれしさと戸惑いがぐちゃぐちゃになったような声色で「ミズアリマス」と水筒を差し出してきた。ありがとうと答えて水を飲むと、彼は、なんだろう、感極まったような調子で、両手を組んでその場にうずくまった。たぶん喜びの意思表示だと思うけど、その時の私には、なにがなんだかわからなかったから「あ、えと、なんかごめんなさい」と謝ってしまった。
 その後、彼はうれしそうに事情を説明してくれた。私は英語?がわからなかったから、ちんぷんかんぷんだったけど、とりあえず旅は道づれということで、同行することになった。というより私が立ち去ろうとすると、彼はひな鳥みたいについてきたのだ。
 彼は半年で日本語をほぼ完ぺきにおぼえた。私が一方的に話して、彼はあいづちを打ちながらインコみたいに言ったことを繰り返すだけなのだけど、それだけで吸収してしまう。
 会話が成り立つようになって、ようやく事情を理解した。彼はとある手記を解読するためアジアを旅していた。その手記はいろんな国の言語で訳されていて、神話と絵本の間みたいな扱いをされているらしく、まあ、いうなれば眉唾物の歴史書だそうだ。ただ、どれも完全版ではない。日本語で書かれた原書にだけすべてが記載されているそうで、彼の学者人生の始まりはその原書を家の蔵書から見つけたことだった。

「すごいね、私なんてさ、いまだに英語もできないのに」
「私はこの日のために脳の余白をとっておいたのだろう。学生の時分よりよほど興奮している」

 しわくちゃの顔を歪ませて嬉しそうに笑うのである。彼はその生涯のほとんどを当てのない旅に費やしたそうで、曰く「私が死ねば、君が唯一日本語を理解できる地球人になるだろう」だとか。「真の言葉は土地に住み着く。記録だけではたどり着けない、だから失われたのだ」とかいろいろ言っていた。なんでもいいんだけど、私も数百年ぶりに話しができて楽しかった。ひとりでいる時間のほうが長いけど、人の声がないとやっぱりさみしい。誰かと連れ合いになっても、あるいは気に入ったものを手にしても、たいていは数年で別れが来る。カトマンズで買った古いラジオも、ついこの間壊れてしまった。あれはいいものだった。ラジオ放送なんてどこもやってないから聞こえるのはザーザーという音だけなんだけど、このザーザーには居場所を失った霊なんかが住み着くことがあって、たまに話を聞くことができる。それは懐かしい感じで、私の一人旅に寄り添ってくれていた。
 言語学者との日々が長く続かない予感は、もちろんあった。たぶん寿命を一気に削って言葉をおぼえていたのだ。彼も死期を悟っていたのか、眠りが深くなる前にこんなことを言った。

「私はあなたに二冊の本を与えようと思う。一冊は私のはじまりだ。あなたならこれを正しく読み解いてくれるだろう。もう一冊は私のすべてだ。日本語もできる限り組み込んだ。これさえあればきっとすべての本を読むことができるだろう」

 彼がくれたのは、大事にしていた手記と、生涯をかけて編纂した辞書だった。
 乾いた温い風が吹いて、木の葉が色をつけはじめた。そんな秋めく朝に、彼は静かに逝った。すでに身体は硬い。まだ死のにおいが立ち込めないうちに私は火をつけた。

「また来世で」

 無意識にそんな言葉がこぼれたので、どきりとした。
 

アーカイブ

 あー、あー、テステス。みなさま聞こえますでしょうか。大丈夫みたいだね、うん、そういうことにします。
 えー、第一回河童ラジオ、放送をはじめさせていただきます。パーソナリティはこのわたくし、DJスプラッシュが務めさせていただきます。あーいいね、やってみたかったんだぁ。この度わたくし、なんと電波塔を作りました、当然水力発電。まあ作らないとラジオなんてやれないわけですがね。この鉄塔の上からみなみなさまの元に声を飛ばしているわけでございます。すごいよね無線。テレパシーよりもすごい。とはいえ欠点もございます。残念ながらみなさまの声を聞くことができません。一方通行でございます。つうかあではなくツーツーと鳴るばかりでございます。
 ええ、私だけだと話すことがなくなるので第二回からはお便りを募集しますのでじゃんじゃん送ってくださいな。途中で流す音楽とか、ジングルも募集します。ジングルってのは最初とか最後にちろっと流れる短い曲ね。ラジオらしくしていきましょう。この電波塔は妖怪の山の川をずっと下ったところにございます。正直どこだかわかりません。周りに何もないのは確かでございます。ずっと下ればたどり着きます。立地に関しての苦情は受け付けません。邪魔だ邪魔だと言ってきた山童とか天狗様連中に申し立ててください。名は伏せます。


2

 昔のことしかおぼえていない。今際の際にもう一度聞いたはずの彼の名前すら忘れてしまった。まあ、耳になじまない名前だから、おぼえようとすらしてなかった気はするけど、それでも悲しさだけはむくむくと腹の下あたりからよじ登ってくる。今思うと彼の熱心な姿を、慧音と重ねていたんだと思う。顔が似てるわけじゃない。ただ教養がありそうで勉強熱心だとなんでもかんでも彼女と結びつけてしまう。
 慧音は歴史を大切にしていた。尊いもの、素晴らしいもの、語り継ぐべきものとして歴史をとらえていた。以前、私が茶化して平安時代の、というか私の家系の史実について「これ間違ってるよ、都合よく改ざんされたんだね」なんて言ったら、慧音はえらく感動していた。「ああ、ありがとう、素晴らしき発見だ、今日の日も歴史に記そうではないか」その時はお酒も入っていたから間違いなく酔っていた。
「歴史とは足跡であり、先人たちが生きた証なのだ。子を成すことと同じように、今日までを紡ぐ轍である」これは慧音が素面で力説し、そのあと忘れてくれ忘れてくれと懇願してきた台詞である。私は今もおぼえている。
 そんな思い出を頭の茶箪笥から引っ張り出していると、ふと故郷へ帰ろうという気分になった。辞書と手記を麻袋に入れるともうパンパンになってしまったので、名残惜しいけど壊れたラジオは捨てた。場所はわからないけど諸外国には極東と呼ばれていたらしいから、とりあえず星を頼りに東へ歩けば着くだろう。そう思って夜が明けるまで歩き続けた。黄色く紅葉した木々がところどころにある草原を抜けると、ずっと先まで白い砂漠が続いていた。たまに吹く風で砂が舞うものだから、目が痛くてたまらなかった。
 風任せの旅に嫌気がさしたので、私は砂漠のど真ん中で眠ることにした。これは自慢だけど、私はどんな環境でも眠りにつける。これはたぶん天がくれた素晴らしい才能である。砂地にごろんと寝そべって、睡眠導入代わりに手記をぱらぱらとめくってみた。涙で滲んでいるせいかあまり内容が入ってこないけど、不思議と懐かしい感じがした。日本語だからというのもある。誰も使わない言語、歴史として残っていても、それは学者みたいな偏った人しか知らない知識だから、つまりはほんものじゃない。正しい日本語は記録としてあっても、正しくない日本語はたぶんなくなっている。この手記はふつうの言葉がたくさんあって読みやすかった。
 著者はDrレイテンシー、誰だか知らないし名前の意味はちっともわからないけど、カタカナだし、とりあえず日本人らしい。いつの時代の本だかは知らないけど相当古い。しみだらけだし、ぼろぼろだし、あと書いてあることが古い。妖怪とか幽霊とか、ここ数百年はお目にかかっていない。 


アーカイブ

 キーンコーンカーンコーン。
 ジングルがつきました。やったね。なんでも外の世界では終わりを告げる鐘の音だそうで、苦楽を乗り越えた子供たちが皆一様にこの音を聞くのだとか。ラッパじゃないんですね。さあ第二回河童ラジオはじめていきましょう。パーソナリティはみなさまおなじみDJスプラッシュでございます。おなじみになるまでおなじみと言い続ける所存でございます。さて、さっそくお便りが届いております。二人ですね。ありがたい限りです。ラジオは六つ売れたのでなんと四捨五入すると半数のリスナーがお便りをくれたわけですよ。うれしい、こんなにうれしいことはありません。
 ではさっそく。ええとラジオネーム文々。新聞さん。ラジオネームじゃないですね。

「はじめまして、スプラッシュさん、そしてリスナーのみなさま。私はどこにでもいる記者でございます。耳寄りなニュースを仕入れてきましたのでこの場を借りて発表します。ただいま文々。新聞ではキャンペーンを行っております。題して飛ぶ鳥落とす勢いキャンペーン。期間中に新聞をご購読いただけますと、鴉天狗の羽でこしらえた羽ペンが一本ついてきます。この機会にぜひお求めください」

 どうやらついに身体を売りはじめたようですね。どこも不景気ですからね、仕方がないことだと思います。わたくしもこの塔を建てるにあたって全財産をつぎ込んでしまいましたので素寒貧なのです。侘しい懐に情熱を、このラジオが情報の最先端となる日を夢見ております。なのでみなさま、宣伝でも構いませんのでお便りじゃんじゃか送ってくださいね。では次、ラジオネームカエデさん。

「この前の対局ですが、やっぱり四六歩で詰みです。私が席を外した時、駒をいじったでしょう。わかってるんですからね、別にいいですけど恥ずかしくないんですか、別にいいですけど」

 いつの話だっけ、二か月くらい前じゃないかな。時効だよそんなの。それにさ、それに関しては魔が差したって謝ったじゃん。失礼、友人からの手紙ですね。手紙というより、なんだこれ苦情、でもないな、なにかです。暇なんですね。
 続きまして――


3

 ようやく大陸の端までたどり着いた。目の前には海が広がっている。私の記憶だと国境をいくつか超えているはずなのだけど、一度も壁にぶつからなかった。もらった辞書の出番だと思っていたけど、結局使わずじまいだ。国境の位置が変わったのだろうか、それとも制限がなくなったのか。まあパスポートなんて持ってないから、ありがたい限りである。たいていは飛んで超えるのだけど、一度ミサイルを撃ち込まれたことがあって、あれは結構痛かったからもう勘弁願いたい。
 国境というか、そもそも人も含めて、生き物にまったく遭遇しなかった。私の想像だけど、地球上の生物は少しずつ減っている気がする。もちろん人も含めて。だけどいなくなっているわけじゃない。なぜかはわからない。ヒマラヤのイエティやネス湖のネッシーが、住処を追いやられたのもとうの昔の話だ。今は行方知らずである。まずネス湖はもう埋め立てられたし、ヒマラヤは健在だけど登山道が整備されて、極寒の大自然という印象は薄れている。この前暇つぶしに登ったとき、そう思った。それほど胸が痛むわけでもない。たぶん彼らはどこかで元気でやっているだろうし、変わり続けるのが自然というものである。だけれど、どうにも故郷だけはその姿が変わってしまうと、心臓が縛られたように息苦しくなる。
 私は海上を飛んで、面影みたいなものがないかを探した。まあそんなものがないのはわかっている。日本は水底に沈んでいるのだ。ちょっと前は富士山の頂上とか、一部の島とかは海面にぷかぷか浮いていたはずだけど、今は影も形もない。知っている。だけど私は丸一日空を飛び続けた。


アーカイブ

 しとしとと、雨しとしとと、ラジオDJのひとりごと、さあさこれから一仕事。最近は雨が続いているせいか、世間はずいぶんと暗ーくなってるみたいで、なんでも怒れる龍が天に昇っていくのを見たとか、もうこの世界は終わりだとか、そんな不景気な話題もよく耳にします。雨が続くとどんよりしちゃうんですね。まあ世間はずいぶんとあわあわとしているみたいですが、このラジオだけは普段と変わらずお送りさせていただきます。
 いやはやとうとう百回目でございますよ。河童ラジオ、軌道に乗ったって感じです。改めて思いましたけど、安定、これにつきますね。 鉄の意思なんて言い回しもありますが、やっぱ鉄なんですよ。さてここからは科学の時間です。原子の世界で鉄ほど安定したものもない。宇宙は最終的に全部鉄になるという説もありますからな。信じてませんが。だから妖怪は金属が苦手なんです。不安定じゃないとだめなんですね。まあ、とはいえ、わたくしなんぞは古くから鉄くずたちと共生してきましたから、ようは慣れなんですよ。ええ、何が言いたいかと言いますと、このラジオが流行り廃りを抜けて安定してきたと、そういうわけでございます。
 そうそう流行りといえば、あれですよ、ミント。どこのうちにも生えていて、みんなこぞって売りさばいています。ついでにこの鉄塔の足にも絡みついてきてます。まあ香りがいいですからね。塩で歯を磨く時代はとうとう終わりました。時代の分岐点に立ってるって感じがしますな。でもどうせなら腹に溜まるもののほうがいいんじゃないですかねぇ。なんやかんやで大量廃棄されてるって聞きましたよ。もしくは薬草とか。ほら最近の風邪はやばいらしいじゃないですか。こじらせると死ぬって、妖怪でも神でも。そんなときはこれ、八意印の睡眠薬。病気なんてなんでも寝りゃあ治るって、そう先生が言ってるんですから間違いないでしょう。次のブームは睡眠です。予告します。今日のラジオはアーカイブ取っておきます。本当に流行ったらなんどもこすりますからね。さて、子守歌代わりにもなるラジオ、さっそくはじめていきましょう。
 まずは音楽です。法ロックの元祖、鳥獣伎楽の前身バンド、未確認飛行仏陀より「numb」です。今やプレミアですよこの盤。客演の白蓮和尚のシャウトを存分にお聞きください。


4

 飛ぶのも疲れた。島も何も見当たらない。海は広くて、今自分がどこにいるのかわからなくなる。幸い空は晴れているから方角だけはちゃんとわかった。なにもないのになにかないかと探してしまうのは、たぶん時間がたくさんある私の悪癖だと思う。

「そういえば」

 そう口に出した。別になにか思い出したわけじゃないけど、その言葉が引き金になって、せめて目的みたいなものが見つかればいいなと思った。記憶を掘り起こすのが下手というか、私の身体はたぶんメモ帳かなんかで、思い出とか、生きるために必要な知恵とかが記されているんだと思う。しかも鉛筆書きの、こすったら消えるし汚くなるような、あんまり上等じゃないやつ。それで気づいたことがひとつあって、どうやら蓬莱の薬の効果なのか、大事なことは忘れにくくなっていて、新しいことは次々と消えていく。私はもう飽和していて、例えば英語とか、法律とか、そういったものをおぼえられない。たぶん防衛反応なんだと思う。まあそれはその辺の人間も同じなんだけど、私の場合、それがずっと長く続くというか、都合良く使えるのだ。ふつう、トラウマとかは簡単に克服できないし、たとえ脳の深いところにしまって厳重に鍵をかけても、ふとした拍子に飛び出してくるはずなんだけど、私は嫌な思い出をそのまま捨てることができる。そして私はそれを応用できるようになった。なんと、痛みを誤魔化せるのだ。大事な思い出はちゃんとしまってあるから、それを引っ張り出すと一時的に苦痛を隅のほうに追いやることができる。中東だったかアフリカだったかの原住民に簀巻きにされて、湖に沈められた時に生み出した最強の防御方法だった。
 そうこんなふうに連鎖的に何かを思い出すことはできる。なにかきっかけさえあれば。

「そういえば」

 こんどは本当に口を突いて出た。言語学者からもらった手記があるではないか。あれの最後のほうにはなんだか気になる所載があった。種子島でロケットを打ち上げたと。そうだ、確か種子島は歴史をはじめるところだと慧音が言っていた。鉄砲やらロケットやら、そういう新しい文化や技術が芽吹く土地なのだ。正直、鬼が島の親戚みたいなもので、私には縁がないものだと思っていた。慧音だって足を運んだことはないはずだ。

「行ってみるか」

 これは転機かもしれない。とりあえず私は、頭の中の地図と直感を頼りに、太陽のほうに向かって飛んだ。


アーカイブ

 第二百五十七回、DJスプラッシュがお送りする河童ラジオの時間です。
 いやー最近めっきり寒くなりましたね。寒中水泳も楽じゃない、天狗様たちはビュンビュンと空を駆けてますが凍えないんですかね。なんでも風速一メートルで一度冷えるそうで、音速を自称していた方もいますが、となると大体三百四十度も冷える計算ですよ。絶対零度超えちゃった。飛んでいるのに静止する矛盾が生じますね。冗談です、実際はそんな下がりません。
 ですが、まあ寒いのは事実。というわけで今日紹介するのはこちら。河童印の防寒具。熱を逃がさない構造で、これさえ着ればたとえ幽霊でもポッカポカ、素晴らしいでしょう。ぜひお買い求めください。いやー河童印は信用できますからね。え、河童を贔屓にしてるんじゃないかって? とんでもないわたくし平等をモットーにしております。ラジオの前では天狗も鬼も怖くないやい。かかってこいや。というわけでお便り読みます。
 ラジオネームサケノミワラベさん。えぇ、悪質な冗談はやめていただきたい。

「あたしゃ鬼の伊吹っていうんだけど」

 ラジオネームの意味ないじゃん! 伊吹様でしたか……いやちゃんと読みますよ、ええ。

「最近はどうも血の気が多い奴が少なくてね。誰か喧嘩しようや。勿論ガチのヤツ。ルールはそっちで決めていいし、できれば殴り合いが良いけど。飲み比べでも可。ただ腑抜けは嫌いだ。場所は有頂天か妖怪の山のどっかにいるよ。私の名前を呼んだら出てくるから四露死苦!」

 ……というわけで、誰か相手してやってください。宣伝は困るんだけどなぁ、ああ嘘です嘘! ジャンジャン宣伝してくださって結構でございます! はい次!
 ラジオネームかみのみどりさん。

「守矢神社はいいところです。信仰するべきです」

 だから宣伝は……あ、スポンサーの方? じゃあ仕方ないか。

「河童が開発したロープウェイに乗ればすぐ到着します、疾風迅雷、韋駄天の如し。いやあ流石と言わざるを得ない」

 照れるなぁ。地元が褒められるとなんとも嬉しいじゃないですか。

「私も初めは半信半疑だったんですけど信仰してから人生観変わりましたね。可愛い巫女さんも居ますし、レッツ信仰ですよ」

 ……次のお便り読みます。
 ラジオネームさとりんさん。

「地下からいつも聞いてます。スプラッシュさんの声はどこかで聞いたことがある気がして耳になじむんですよ。こう言った娯楽は新鮮でして、とても重宝しています。仕事をしながら聞けるのが本当に素晴らしいですね」

 やっと来たよ、まともな感じのが。

「今、まともなのが来たって思いましたね」

 え!?

「いや失敬、ラジオ越しだと心が読めないので。こうやって予想するのが楽しくて仕方ないんです。スプラッシュさんが今どんな顔しているか想像するのもラジオの楽しみ方のひとつだと思います。想像ラジオ、響きがいいですね」

 だってさ。なんてひねくれたリスナーだ。

「厭味な奴って思いましたかね」

 残念でした。

「それか、ひねくれたリスナー」

 ……。

「私の便りが届いていることを願って、締めとさせていただきます。最後に宣伝で恐縮なのですが地霊殿っていうところで探偵業を……」

 もう読んでやんない! ああムカつくなもう。気を取り直して――


5

 期待半分だったけど、島はまだあった。これでもだいぶ沈んだのだろう。一刻もかからずに歩いて一周できそうな小さい島だった。真ん中に鉄塔があって、あとは錆びだらけの鉄くずがたくさん転がっていた。
 鉄塔はもう崩れそうで、白いペンキが剥げたところが傷みたいに痛々しくて、それでも誇らしげに建っているように見えた。
 中に入ると、変な感じがした。空間が歪んでいるというか、なんとなくこちら側ではないような、そんな感じ。薄暗かったので私は指先に火をともした。がれきが山のように積みあがっていたり、変な色の植物が生えていたりと、足の踏み場もなかった。辺りを見回すと、異様な存在感を放つものが、がれきの隙間にあることに気づいた。目の高さにあって、ちょうど拳くらいの隙間。私はそこに手を突っ込んで、中にあったものを引っ張り出した。
 それは一冊の手記だった。しかもDrレイテンシーの記録。私はすすけたページを捲ってみた。
「今はもう使われていないこの種子島宇宙ステーションに設計図を隠すことにした。相棒と話し合って決めたのだ。私たちの小さな発明は、誰にも見つからないかもしれない。見つかってもどのみち誰にも有効活用することはできないだろう。だけどこうやって隠すのは、何らかの形で未来につながることだと思うから、サークル活動の一旦の締めくくりとして、これから秘封倶楽部流の幻想ロケットの製法を綴る。数年後には軌道エレベータが完成して、今より安価に旅行できるようになるけど、一足先に私たちはこれで月に行く。既存の手段では月を暴けないことは、以前の月旅行でいやというほど味わっている。もちろん帰ってくるつもりだし、別に活動停止するわけじゃないけど、私たちにとってこのロケットはとても重要なものだから、ひとつの区切りとしたいのである」
 次のページからはロケットの作り方が書いてあった。内容は難しいからよくわからなかったし、日本語以外の言葉もたくさんあったから、最初の手記に比べてずいぶん読みにくい。
 辞書の出番だと思った。私は学者の辞書を開いた。

「なんじゃこりゃ」

 どのページも真っ白だった……かと思えば、うにゃうにゃと文字が浮かび上がって来た。

「What's This? 」

 これは英語だ。それくらいはわかる。おそらく、声に反応したのだろう。どうやらこの辞書は精密な機械のようで、おそらく普通の紙よりはるかに便利な代物なのだろう。私はいろいろやってみた。
 あーと声を出すとAhと出てきた。指先でページに触れると、触れたところだけ黒くなった。察するに自分で書き込む辞書なのだろう。ためしに手記の中の読めない文字をそのまま写してみると、和訳文が浮かんできた。

「大正解だ」「Correct Answer」

 うるさいなもう。いや別にしゃべるわけじゃないんだけど。ともかく、これで読むことができる。私はゆっくりと手記を読み解いた。
 ざっと目を通すのに丸三日かかった。とりあえずこのロケットは二人乗りで、推進力は太陽だ。おしりのところに八卦炉がついていて、そこから推進力を得るらしい。たぶんこれは炉に転移式を組み込み、太陽の炎をそのまま引っ張り込んでくるのだろう。ズルじゃんと思った。というか不可能だと思う。そんなことができたら世界中の人たちは電気やガスをいくらでも使えてしまう。まあところどころに幻想郷についての記載があるし、どうにもこのDrレイテンシーとかいう科学者は、この世界と幻想郷を行き来できるみたいだから、なんらかの抜け道があるのだろう。そんなことを考えながら頑張って読んでみると、天照大神の力を借りるとあった。なるほど、太陽の神様に直接頼んで、ちょっとだけエネルギーをわけてもらう算段らしい。そんな真似ができる馬鹿がいるのだろうか、いや確か、いた。昔、幻想郷でロケットを打ち上げた時も神様を降ろしたと憎たらしいあいつから聞いた。やることやって最後は神頼み、今も昔も考えることは同じなんだなと、なぜか安心した。


アーカイブ

 さあ河童ラジオ第四百二十五回はじまりはじまり。お相手はあなたのお耳の友達、DJスプラッシュでございます。みなさん、ビッグニュースでございます。ええ、ついこの間勃発した第五次月面戦争がついに決着を迎えました。戦士たちは己の無事を持ち帰り、手ぶらで凱歌を揚げております。つまりは何も得られなかったというわけですな。まあ争いなんてそんなもんです。とはいえ死者はゼロだそうですよ! むしろ本当に戦ってきたのかと、ただのピクニックではないのかと、ええ、首謀者の八雲殿曰く「都に穢れを持ち込んだ時点で紛れもなくこちらの勝利である」そうですが、なんのこっちゃですね。まあというわけで今回は遠征隊のメンバーでもある鍵山雛さんにお話を伺っていきたいと思います。雛さん、いかがでしたか、ぜひね、率直な感想を。

「いや私もよくわかんないまま参加したんだけど、ていうかあなた知ってるわよね、前も話したじゃない。なんか急に呼び出されたのよ」

 一応ラジオなんでね、わたくしもリスナー視点として無知で蒙昧な位置から話す必要があるわけだよ。わかるかい雛ちゃん。

「え、きもい。あなたおかしいわ、こんな高いとこにいるから馬鹿になるのよ。早く戻ってきなさいな。妖怪も人も底流に寄り添って下へ下へと流れる、そうして円環を成す、それが道理でしょうに」

 哲学の話はいいんで体験談をお聞かせ願いたい。明日あたり帰るからさぁ。あ、これは違いますよみなさん。彼女たまに遊びに来るんですけど、わたくしにかまってもらえなくて拗ねてるんです。

「はあ、まあいいけど。でも本当によくわかってないのよねぇ。戦争が起きるから力を貸してほしいって狐さんに言われて、まあ適当に頷いちゃったのよね。そしたら普通にしてていいって言われたのよ。だから普段通り回っていたんだけど、なんかいつの間にか月にいて、なんか爆発したのよ。厄が。で、兵隊さんがたくさん来たからとりあえず謝って、いろいろ聞かれたけどわかんないからわかんないって答えて、いつの間にか解放されていたわ」

 要領を得ませんねぇ。今回の遠征は何が目的だったんでしょうか。

「さあ、あとから式の猫ちゃんが謝りに来てくれたけど、とりあえず私、爆弾だったらしいわ」

 地雷女ってことですか、ははあ。

「違うわよ、違うもん。ほかにはほら疫病神とか、そういう厄に関する妖怪とかが選ばれたらしいわ。月に効くんだって」

 やばい女ばかりだなぁ。みなさん気を付けたほうがいいですよ。厄が回ると焼きが回るってね。

「……きらい」


6

 設計図を見て、それらしくなるようにいい感じの鉄くずを見つけては、焼いて形を整えて、くっつけた。長い間、竹細工をしていたからいけると思ったけど、鉄はよっぽど強情だった。竹は簡単にしなるし、そこを炙ればそのまま曲がる。もちろん鉄だって同じ要領で加工できるけど、まあ硬い。そして重い。生半可な火じゃどうしようもないから、こう、そこそこ本気で燃やす。指先でじゅっと焼いていく。ものすごいしんどい。身体のなかの酸素を搾り取られた感じがして、魂が引きずり出されたような変な疲れが残る。こういうときだけ、自分が不死だということを忘れそうになる。痛みには耐えられるようになったけど、疲れはどうにも克服できない。まあそれでも動けるんだけど。

「やっとできた……」

 休まず働いて二年半、完成したロケットは錆びついていて、あちこち色も違うし、ひどい出来だった。だけどとびきり頑丈だ。私の火で焼いたのだ。不死者の酸素が溶け込んでいるから、なにがあってもびくともしないだろう。根拠はないけど。
 私はロケットに乗り込んだ。なんだかわくわくしてきた。燃料も食料も何もいらない。ロケットは張りぼてなのである。手記によると、ロケットの内部のほとんどは生命維持装置なのだそうで、私には不要なものだった。別に宇宙に行くならロケットなんてなくても大丈夫じゃないかと、そういう考えに至ったのは、作りはじめて半年くらい経った頃だ。でも作りたかった。私は過去の模倣をしているのだ。人類がはじめてロケットを打ち上げた時、きっとすさまじい感動があったはずで、私は今、それに倣っている。これも慧音の受け売りだが、歴史に倣うこと、それすなわち勉学であり、それはそれは素晴らしいことなのだ。種子島は滑走路であり、未来へ紡ぐための砦なのだ。新しきもの、宙へと向かう場所。その夢の跡、だからいまだに残っているんだと思う。
 噴射口に手を当てる。設計図だと魔法陣が描かれているところだ。さあカウントダウンだ。

「テン、ナイン、エイト、セブン、シックス、ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン……ゼロ」

 私は全力で炎を出した。
 身体が浮かび上がることになぜか感動した。 


アーカイブ

 とうとうクローン技術が開発されたとかなんとか、そんな噂がありますが、そんなことは技術屋にしてみれば百年も前に通過した話題でありまして、たいていはコストが見合ってないからって誰も活用しないんです。それにクローンができたって基本的には人格とか記憶が写せるわけじゃないですから、まあせいぜい医者が悪用して終わりでしょうな。ひとを増やしたきゃラブロマンスな物語でも語っていたほうが効率的というものです。魂に干渉するのは我々の領分じゃございやせん。
 さてお便り届いております。
 ラジオネームQBさん。

「誰か猫を見ませんでしたか。尻尾がない猫なんです。トラ柄で、首輪はありません。可愛い可愛いうちの子の猫なんです。毎晩探し回っているのですが見つかりません。どうかご協力お願いします」

 健気だなぁ、リスナー諸君、可愛い猫ちゃんを探してあげてください。
 次。
 ラジオネーム妖夢さん。本名じゃね、これ。まあいいか。

「誰か幽々子様を見ませんでしたか。亡霊です。足はあります。毎晩探し回ってるのですが見つかりません。何処に行かれたのですか。見かけた方はご一報お願いします。連れてきてくれた方には本来は幽々子様用なのですが、冥界の桜餅を御馳走しますので、どうか」

 健気だなぁ? これ幻想郷全土に届いているラジオだけどいいのかな。まあいいか。とりあえず幽々子様とやら、帰ってあげてください。妖夢さんが心配してますよ。
 ラジオネームレキツさん。

「初めまして、私は寺子屋でしがない教師業をしています。先日私が親しくさせていただいている女性が行方不明になりまして、どこぞで生きていることとは思いますが、彼女は以前このラジオを聞くのが好きと言っておりましたゆえ、この場を借りて伝令をさせていただきたく筆を執りました」

 なんか行方不明者多いですね。ブームか何か、神隠し、あいや逆か神現し的な? 失礼、読みますね。

「それでは失礼いたします。元気でしょうか、食事は三食摂れているでしょうか、あなたにしてみれば無用の心配であることは百も承知ですが、それも私の人情というものです。寺子屋の童たちも寂しそうにしております。たまには顔を見せに来てください」

 なんかいい話ですね。ロマンスというか、男と女って感じがじんとくらぁな。彼女って書いてますけどねー。まあ彼女さん、たまには帰ってあげてください。


7

 無事に宇宙まで飛んできた。この手製ロケット、よく壊れなかったと思う。真っ暗な中にたくさんの光があって、それは全部星のはずなのに、あたりには何もない。たぶんものすごく広いのだ。どこを目指せばいいのかわからない。Drレイテンシーは月を目指したそうだが、まっぴらごめんだ。そもそも宇宙は広すぎる。自分がどこにいるかわからない、要するに迷子だ。Drはどうしていたのかというと、記録によく出てくる「相棒」が位置を測っていたらしい。
 手記を読んだり、たまに火を出したり、外を眺めたりしながら航海を続けた。窒息で死にまくっているはずだけど、それは大西洋の水底で培った忘却術を使ってしのいでいる。思い出をたくさん引っ張り出してきて、頭をいっぱいにする。いやなことをそれで薄めるのだ。確か昔、どうしてもあいつの顔が見たくなくて、というかいちいち苛々するのがいやになって、山に籠って半年くらい座禅をしたことがあった。その時も同じ手を使ったけど、あまり意味なかったし、しかもラジオ越しに帰って来いって言われて帰ったんだった。ああこんな余計なこと思い出さなくていいのに。
 たまに苦しくなって気絶しているから、どのくらい時間が経ったのかはよくわからない。少なくともずっと声は出していないし息もしていない。口を開こうかなと、考えたあたりで火星についた。たぶん火星だと思う。
 地表に下りてみると、ネッシーが湖から顔を出していた。久々に顔を見た気がする。
 ネッシーが「やあ、君もここに来たの。まあ地球は空気が多すぎるからねぇ。せっかくの気嚢が使えないよ」と言ったので驚いた。昔会った時はしゃべれなかったはずだし、そもそも日本語だし、まず私のことをおぼえているのが不思議だったし、とにかく私は違うよと否定した。

「そうなんだ。ここは静かだよ、なにより湖が深いんだ」
「あんた、しゃべれたの」
「この前おぼえたんだ」

 言語学者もそうだったけど、よくもまあすぐにおぼえられるなと思う。まあわざわざ火星に来るくらいだ。そのくらいできてもおかしくないだろう。

「どうやって来たの」と聞いた。
「夢の中に恋人がいたんだ。クッシーていうんだけど大和撫子でさぁ、会いたくて追いかけてたら、ここに着いたんだ。そしたら故郷がなくなっちゃってた」
「ふうん。残念だったね」
「うん、でもいいんだ。ここはいいところだから。君も住むのかい」
「いや、まあ、あてはないけど」
「だったら海の惑星に行ってみたら。遠いらしいけど、綺麗らしいよ。あ、こどもが呼んでるから帰るね」

 ネッシーはそのままざぶんと潜ってしまった。いい話だと思った。私も死んだ知人を追いかけて冥界に行ったことがある。見つけられなかったし、管理人にしこたま怒られたし、散々だった。それとこれとは話が違うかもしれないけど。


アーカイブ

 最近はいやなニュースばかり流れてますね。どんぶらこと、川を下ってここまで届いてますよ。天狗と山の神様の対立からはや半年、いまだに硬直状態が続いております。ぴりぴりして、かといって別に武器の依頼が来るわけでもなし、いいことなんて何もないというか、面倒に巻き込まれるんでね、もうずっとここでしゃべってたいくらいですよ。
 えー、というわけで本日は特別ゲストをお呼びしています。戦地ジャーナリストの姫海棠はたてさんです。よろしくお願いします。

「四畳半、座して綴るは花果子念報、籠る庵、レンズのぞけばまた事件よ! どうも四畳半記者のはたてでーす」

 考えてたんですかそれ。短歌ですか。「短歌じゃない、旋頭歌」……ええ確か、最近は山の情勢がらみの記事で人気を博しているとか。頭角メキメキと鬼神のごとくと、懐もあったかいとお聞きしてますよ。ぶっちゃけ反感も多いでしょうが、その辺はいかがです。

「まあそうねぇ。その通りだけどほら記者は孤独なものじゃない。世間に波風を立てるのみ、てね。まあなんだろよくわかんないけど、たぶん私が一番俯瞰してるっていうか、だから売れてるっていうか。ほら山の妖怪は特定の誰かに肩入れするじゃない。その点私は自由ですから。なにしてもいいんです」

 なるほど。素晴らしいジャーナリストだ。そんなはたてさんの視点からどうですか、現状は。

「ええ戦争はまもなく終結するでしょう。ことの発端が暇つぶしですから。飽きたら終わり、ぽいっね。その証拠に読者アンケートがほら、みんな戦争に飽きはじめてるんです」

 暇つぶしって、初耳なんですが。

「知らないの。もともとは土地を奪還するって一部の天狗がお山の大将につっかけたのが始まりよ。そんで混乱に乗じで山童とか、あとほら神様のあのカラフルな……とかが金儲けしようとしたからこんなことになってるわけで。あれ、これって内部告発かな。まあいっか」

 それは暇つぶしとは言わないんじゃないですかねぇ。

「え、だって土地なんてこれ以上いらないでしょ。お金も、そりゃああったほうがいいかもだけど、そんなに争ってまで」

 あーなるほど。お金はのどから手が出るくらいほしいんですけどねぇ、ここの維持費とか。

「そうなんだ、大変ねあんたも。そうだ久々にさ、今度ご飯食べ行こうよ」

 ……ええと、ありがとうございました。

8

 木星は大きすぎて、なんとなく物怖じしたから寄らなかった。
 土星にはひとりぼっちの鳥が住んでいた。黒いからカラスかもしれない。彼は四六時中わめいていた。聞きなれない言葉だったのでもってきた辞書を開いた。真っ白なページに文字が浮かび上がる。「いやだいやだ、ここで朽ちるのはいやだ。たまらなく恐ろしい」
 とりあえず「なんで」と聞いた。それが伝わったかはわからないけど、彼は次々と言葉を吐いた。

「あの輪を見ろ。あそこは魔王が殺した死骸でできているのだ。魔王は執着が強いからぜったいあそこから出してはくれぬ。逃れることのできぬ連環だ。私もいずれあそこに組み込まれるのだ、ああいやだ」

 彼は巨大な輪を指さした。私には石ころにしか見えないけど、たぶん死骸なのだろう。なにがいやなのかよくわからないけど、まあ信仰している宗教と埋葬方法が違うんだと思う。私も土葬はいやだ。あれは臭くなる。

「そんなにいやなら燃やそうか、死ぬまで待つよ」

 指先で火をつけてみせると、鳥は怯えたように羽を動かして「わ、私を愚弄するのか、ひ、火の鳥め、私を太陽から逃げたいやしいバードと笑っているのか」と答えた。つばさなんて出してないけど私が火の鳥に見えるらしい。
 うろたえているようだが逃げるつもりはないらしく、またいやだいやだを繰り返しはじめた。疑心暗鬼というか、彼はむしろ絶望を望んでいるようだった。悩み続けるのはまあたぶん悪いことじゃない。でもここはたぶん楽しくない気がする。私は土星を後にした。


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 いやあこう日照り続きだとまいっちゃいますね。皿が渇くとハリもでない、あ、今のはですね、お皿、いわば皮膚の張りとレコードの針をかけているんです。うん、洒落にはなってなかったかもしれない。まあ日照りです。作物育たないって農家さんが困ってるのがありありと想像できます。いつぞやの大雨も困りましたが、わたくしにしてみればこっちのほうが深刻です。まあ嘆いても仕方ありません。我らのちんまい涙では大地を潤せません。笑いましょう。踊りましょう。では今日は音楽から。話題のヒップホップを、レミネムfeat.フランドレーで『Burn fire』。

「Let's go a new era.
(さあ新しい時代に火を灯そう)
Just one verse is enough to get up.
(寝ぼけたお前らを起こすなんてたったワンバースで十分だ)
Rhyming all night to get a million dollar.
(大金を得るために不夜城でライムしてやるよ)
Guest,The classical music played in theater was the best?
(舞台で鳴らされるようなクラシック音楽がサイコーだって)
That's about the time I was called pest.
(それは私が黒死病と呼ばれていた時代の話よ)
Times have changed,Defend yourself your nest.
(時代は変わったんだから自分の巣くらいは自分で守りな)
Wthru? My name is Remy. Fucking Sis like a prisoner. Remember Listener.
(お前だれって? 私の名前はレミィよ。そんでこの囚人みたいなのが親愛なる妹だ。おぼえとけ)」
「Oh yeah, new year, the game has begun.
(ええその通り、新しい年だ、ゲームが始まった)
You can't continue because it's only one night.
(一夜限りだからお前はコンテニューできないのさ)
weird that a vampire is exposed to the sunshine.
(吸血鬼が日の目を浴びるなんて変だな)
But in 496, a new era began.
(だが、496年目に新しい時代が幕を開けたのは事実よ)
Doesn't work if the bitch shoots a gun.
(ビッチが銃を撃ったって効かない)
I trained my body at the shelter until it was full metal.
(私の身体は地下室でフルメタルになるまで鍛えたからね)
Straight out the underground to drop a bomb, this is coup d'Etat!
(ボムを落としに地下から抜け出した、これはクーデターだ!)」


9

 小惑星のひとつに遊牧民が集まっていた。また話ができないんじゃないかと身構えたけど、考えてみるとこの辞書を使って、自分の話していることを相手の言語に翻訳すれば、ちゃんと会話ができるわけで、今まで思い至らなかった私は阿呆なんじゃないかと思った。
 モンゴル出身の彼らは馬を巧みに操り、星から星を移動しているらしかった。彼らの長は物知りで、私の「なんで」に丁寧に答えてくれた。私はネッシーが言っていた海の惑星がどこにあるのかを聞いた。

「ああ、海王星ならあっちだね。太陽と反対の方向にずうっと飛んでいかないといけない。とても遠いらしい。私たちもそのひとつ前の星までしか行けていない。だけどそこから見ただけでも美しかった。いつかまた訪れたいものだ」

 話を聞く限り、どうやら私はいつの間にか引き返していたらしい。土星を発ってから道も調べずにふらふら飛んでいたからだ。別にものすごく行ってみたいとかそういうわけじゃないけど、なんとなく萎えてしまった。かといって行きたい場所もない。どうしようか、この口元にひげの生えた聡明そうな長なら、なにかいいことを言ってくれるかもしれない、と思って抽象的にこう聞いた。

「なぜ旅をしているの」
「ああ、私たちは草と水を求めている。だから旅をするのだよ」
「でもここにはそんなものないわ」
「確かに、一本取られたな。わはは」

 顔をしわくちゃにしてひとしきり笑った後、長は青い血管の浮き出たごつごつした手を顎に当て、たっぷり蓄えたひげを弄びながら考え込むような仕草をした。

「ふむ、お嬢さん。私たちはね、生きていくだけならもう旅をしなくてもよくなったのだ。でも旅をしなくちゃいけない。ひとところに留まれないのは、ひとえに我らが肉体に流れている血のせいなのだ」

 ほかの人たちもうなずいていた。彼らは誇り高かった。たぶん、旅こそが彼らの正しい姿で、すべての自然に間借りするという壮大な生活に、敬意を払いたくなった。私もたいてい草枕だけど、彼らと比べてみると、どうにも故郷に未練がある。日本に、というかあの頃に帰りたい。そんな思いがぐるぐるめぐって、それが顔に出ていたのか、長は穏やかな声でテントの中へ入るよう言ってくれた。
 テントの中で温めたミルクを飲ませてもらった。数年ぶりに味のあるものを口に入れた気がする。腹が温まると、ささやかな幸せみたいなものを感じた。私はありがとうと伝えた。彼らはこれから木星に向かうらしい。馬たちが喜ぶのだとか。一緒に来るかと誘われたけど、断ってしまった。お礼に辞書と手記を渡した。彼らなら私よりも役立ててくれるだろう。私はもう帰るつもりだった。


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 未曽有の危機でございます。押し寄せてくるんです、波が。時代の波が。こう、ごうごうと。ここは海に近いですからね、地面に下りてみるとなんとちょっと湿ってる。潮騒が来ていたんですねー。近い将来この辺も海に呑み込まれるとか、外の世界の新聞に書いてましたけど、あっちは大混乱で。まあ、こちら側はいつもとあまり変わらずのんびりしてる印象ですが、それでも鬱々としてますね。元気がない。どこに行ってもしーんとしてる。いやー沈黙は怖いですね。この間久しぶりに友達の天狗と会ったんですけど会話がこう弾まなくて「元気」「うん」みたいな、変な間ができてしまったんですね。そんでまあ時間を埋めるために将棋を指したわけです。私も友達もよくやってましたから。そしたらもう饒舌に、お互いに盤上を眺めているわけですが口は勝手に動くんですな。しゃべってるのか将棋しているのかわかんなくなったんだよ。見つめ合うと素直におしゃべりできない。誰が歌ったか。わたくしはシャイですから、だからラジオでしゃべるわけですな。こう来たる波を見つめながら。
 さてお便りでも読みましょかね。最近数も減ってるんですよね。ラジオネームシップさん。

「沈む沈む沈む沈む沈みゆくは郷の光芒、波間に反射する木漏れ日の如く沈みゆくのです。溺死万歳溺死万歳溺死万歳溺死万歳水没こそ法水没こそ万物の法なり柏手をならせ鎮座する鐘の如く柏手をならせ金づちで釘を叩くが如く震えながら振り下ろせ力強く両の手を打ちならせ。南無と唱え無情と叫び酒で臓腑を潤しもう一度南無と唱えるのです」

 読んでから言うのもあれですけど、これはあれですね。性格の悪い奴ですね、なんか好きくないです。もしくはほんとに神のお告げが来たのかもしれません。まあいろんな人がいます、春ですしねー。続きましてラジオネームあまちゃんさん。

「最近、友人が妙にテンションが高くてちょっと煩わしいと感じてしまいます。お酒も飲んでないし、収入が増えたわけでもありません。その友人は元々ちょっと暗い奴で、だからテンション高いのはむしろいいことなんですけど、変なこととかしてないか心配です。いえ、あいつが悪いことしてようが私が困るわけではないのですが、浮き沈みの激しい奴なのでまあ自然現象かもしれませんが、そんな友人を煩わしいと思ってしまうのがなぜか引っかかるというか、すみません気持ちがまとまらないまま書いてます。あとちょっと酔ってます、えへへ」

 えへへ、じゃないんだよ! いいですねー。好きですよ。この酔っ払いの感じ。えー続きまして――


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 結局地球に戻って来た。ロケットが隕石にぶつかって壊れてしまったから、途中からは生身で泳いできた。やっぱり私は着の身着のままが性に合っている。帰り道はわからなかったけど、できるだけ何も考えないで飛んでいたらいつの間にか着いていた。やっぱりここが私の故郷だし、帰巣本能みたいなのがたぶんあって、それはおそらく消えないのだ。万物は正しいところに戻ってくると聞いたことがある。私は土星で会った鳥のことを思い出していた。
 濃い空気がまとわりついてきたのがわかった。私は今燃えていた。暑いのは慣れたものだけど、いい気分ではなかった。身体が宙を切って落ちていく感覚は、宇宙では味わえなかった。思い切り冷えた空気を吸い込むと、私はなんだか泣きそうになった。寒いし、息苦しいし、なのに暑いし、でもそれくらいじゃ泣かないはずなのに、目頭が熱かった。
 辺りは暗い。もう夜だ。灯りもない、当然だ。日本は沈んでいるのだから。落ちていくままに月の映る水面に飛び込んだ。その勢いに任せて深く潜った。息を止めて、目だけは開いて底へ底へと潜った。暗いし、目に海水がしみて痛いけど、宇宙に比べればなんてことない。たぶんきっとこの底に、行くべき場所があるはずなんだ。
 どんどん泳いで、海底に割れ目があったから、さらに深いとこへ進もうとしたところで、私の顔くらいの大きさのタツノオトシゴと出会った。普通より少し大きいのでちょっと怖かった。彼は表情どころか言葉さえも持たなかったが、まるで書物のように過去の記憶をみせてくれた。
 はるか昔、龍が天へと飛び立った。二柱が交わって生まれた日本という国が、ついに寿命を迎えたのだ。龍は弔いの大雨を呼び、その晩にこの地で育んできたとても穢れた記憶を、ひとつにして産み落とした。洪水被害はそれなりに大変だったみたいだけど、大変だったくらいのものだった。そして禊を終えた龍は、天へと帰っていった。
 無気力に浮いていた土地は、死によって溜まった穢れを一層濃いものにした。濁ったものは天地開闢の理によって、深く沈んでいく。初めに生まれた淡路島から順番に、しかしゆっくりと海に飲み込まれていった。それは確かな質量を持っていて、逃れようと足掻かない限り、落ちていくしかない。目の前の大きなタツノオトシゴは龍の記憶のその一部だとか。ここからさらに下には、もっと濃い記憶が渦を巻いていて、地の底をゆっくり巡っている。赤く、熱く、どろっとしたマントルこそがそれだ。彼は日本を引き連れて、そこを巡っているという。
 私もそこへ連れてって。
 タツノオトシゴは何も言ってくれなかった。当然だ。わかっている。彼はただの色褪せた思い出だ。普通なら自然とそこに行けるはずで、だけど私は生きながらその近くまで迷い込んでしまった。本当は私が帰る場所なんてないんだけど、それを認めるのは癪だったから、たぶんこんなふうにあてもなく彷徨ってしまう。


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 さあさ河童ラジオ第十万回目でございます。みなさん、方舟計画だそうですよ、ノアの箱舟。壮大ですね。乗り遅れるなと、だれ一人落とすものかと、そういうわけでございます。妖怪の山から神社にかけて、局所的な転移結界を張っているそうです。あなた方は期日までそこにおればよろしい。行先は知りませんが、まあなるようになるでしょうよ。聞くところによると空に浮かんでいるあのお月様だとか。まあこのラジオ塔は持ち込めないんですけどねあはは、このだらだら続いてきたラジオに終止符が、あはは。今のは自嘲的な笑いですよ。わかってますかみなさん。あ、今、どこでもしゃべれば同じだろうと、そう思いませんでしたか奥さん。わかってない、ラジオは土地に根付くんです。さながら土着信仰、わかりますか旦那さん。その証拠にこんなお便りいただいてます。
 ラジオネーム稗田の息子さん。正体丸わかりですね。

「DJスプラッシュさん、はじめまして。私はこのラジオの大ファンです。私は父と違って物覚えが悪いので録音して何度も聞いてます。最近は文字に書き起こすのが趣味になりました。というのも知っているかもしれませんが私の父は後天的なろう者でして、なんでも取材に行った障碍の神に耳を奪われたらしいのです。それでもどうしてもこのラジオを知ってほしくて書き起こしをはじめたんです。スプラッシュさんの言葉を見せると父は楽しそうに笑います。父曰く「妖怪は土地に根付くひとつの言語である」そうです。だとすればこのラジオは素敵な妖怪なのだと思うのです。今では家の人たちみんなで聞いています。だから、これからこのラジオが聞けなくなると思うと、さみしい気持ちでいっぱいです」

 なんだか温かい話ですね。嬉しいなぁ。そういえばいつだったか、どこぞの天狗がですね、ネタがないときこのラジオをそのまま記事にしてたりもしたなぁ。いやしてたんですよ、たまにね。まあいろんな人に届くのは喜ばしい限りです。記録が残るっていうのもうれしいものじゃないですか。おなじみになった証拠ってことでさ。
 さて普段ならこのまま音楽の流れですが、今日は趣向を変えて落語でも流してみましょうかね。まあ曲も落語も大して変わらんでしょ。というか古いレコードが出てきたんですよね。ほらいつだったか仙人たちが寄席で落語やるって話題になってたでしょう。古典のサゲ全部ぶっ壊して賛否両論だったやつ。ろうそくの火が消えたあとゾンビ化して復活する……おっとネタバレか。それでは、三代目快楽亭歌仙で「死神」


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 海底の割れ目に無理やり身体をねじ込んで、潰されながらさらに奥へと潜った。手足が思うように動かないけど、とにかく進んだ。マグマにぶち当たって熱かったし、動いている緑色の岩石が頭からつま先までをぐちゃぐちゃにしてくるし、痛いし苦しいけど、でもたまに覚えのある景色が見えたりもするから、なんというか、良かった。ラジオも聞こえる。なんだか懐かしい声だ。そして慧音もいた。相変わらず教鞭を振るっていて、酔うとやたらと語り出す。たくさんのものがあちこちにあって、ぱちぱちと火が燃える音、ラジオから流れる曲、そして彼女の声が私にはよく聞こえていた。
 慧音は「私のことなんて忘れてくれ」と、はにかんで言った。「私は歴史になるつもりはない、願わくばまた次の歴史を望みたい、その時にまた会おう」今の私に向けて言っているわけじゃなくて、確かに昔そう言っていたことを思い出したんだと思う。慧音はいつも誠実だった。それは欠点のない傑物とか底抜けに優しい天使とか、そういうことじゃなくて、なんというか、化け物と人間とがあって、その間にいるひとが正しい在り方をしようとすれば、きっと慧音になるんだと思う。ずっと私のことを心配してたし。心配しなくてもいいようなこと、ご飯だったりお風呂だったり、私がめんどくさそうにすると慧音は怒るけど、その後「これは私のエゴなのかもしれない、すまない」とか言ってみたりして、そのくせまた同じように心配して。
 いくつもの記憶を見てふとある言葉を思い出した。「妖怪とはひとつの言語だ」これも慧音が言ったんだと思うけど、らしくないから、もしかすると私が吐いた台詞かもしれない。私らしくもないけど。あるいは誰かまったく別の人の言葉だったか。とにかく真理的で堅い言葉は全部慧音が言った気がしている。もしかすると今まで会ったことのある聡明な人物は、みんな生まれ変わりだったのかもしれない。だけど私にとって慧音は慧音だけだ。憎悪の相手がずっと変わらないように……
 同じ夢ばかり見る。やっとわかった気がした。幻想とはいつでもそこにあって、強く求めたのなら、たとえばラジオのように周波数を合わせようとしたのなら、たまに見えるもの。たぶんそうだ。少なくとも私の求める幻想は一緒くたになってここにあった。ただ私はそこには混ざれない。私は死なないから。過去は見るだけで、帰れない。清きものは天へ、穢れたものは地へ、私はどうなんだろう。少なくとも綺麗じゃないからここがいい。別に遠いところなんて、もう行きたくもない。旅もいいや、うん、私はたぶん汚れている。意地汚いしみすぼらしいし、全然明日に向かってない。後ろばかり見て歩いている。だからここまで来れたんだ。そしてここは暖かい。私はそれなりに充足している。
 ――だけど、だとすればあいつは、あいつがずっと高いところにいるのは変じゃないか。実家は確かにあっちかもしれないけど、あいつだって汚いもんだ。喧嘩を売りに行きたいけれど、いつも私が行ってばっかりだ。あいつだって本当は帰る場所なんてないくせに、ずるい奴だ。戻って来いよ、地球にさ。たまには。昔からそうだ。私がたまには差し入れでもしてやろうと思って遣いの兎に団子を預けた時も、あいつは何も言わなかったし、じゃあ悪態でもつくのかと思っていたら、私が喧嘩売りに行ったときにぽろっとありがとうとかおいしかったわとか抜かしやがったんだ。
 ああ、なんでこんなにおぼえているんだ。捨てられたらいいのに。くそう、ほかは結構忘れているのに。考えたくもないのに。


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 あーあー聞こえてる人いるかな。さあ始めていきましょう河童ラジオ。何回目だか忘れちゃった。どうにもね、ここが気に入っちゃったんだよねー。錆びてきてさ、いい色なんだこれが。思い出すよ、これを作った日のことを。山に建てようかと思ってたら邪魔だって天狗とか山童とか神様にどやされて、しょうがないからどんぶらこと何年もかけて資材を運んでさ、そんでえっちらおっちら組み立てて、完成しそうになったら崩れかけて。で、ここたぶん端っこ側だから電波も届きづらくて、高くすりゃあ何とかなるって思ってだいぶ無茶しましたけど、いやはやよくここまで持ってくれたもんだ。たいした奴だ。
 まあのんびりくっちゃべってますが避難勧告も出ております、まだ間に合うそうですよ。速やかに神社へお逃げなさい。わたくしは残ろうと思います。なんてね。最近練習してんだよね。塩水に浸かるの。こうぴりぴりきてさ、あんまり気持ちよくはないんだけど、くせになる、いややっぱり嘘、全然よくない。だけどさ、そこから動けない奴っているんだよねー。終われない奴、このラジオがずっと続くってそう思ってる奴がさ、私なんだけど、うん、さびしいのっていやだもんね。

「なに言ってるのよ、終わらないものなんてないわ。終わって始まってくるくる回るのよ」

 おや特別ゲストが来てくれました。厄神さんです。どうしたんです。こんな夜更けに。

「別にどうしたもこうしたも、私は海に流されてるもの。何回も。立ち寄ってみただけよ」

 え、じゃあ行っちゃうの。

「行かないわ、あっちに行くとほら、爆発するから」

 そいつはたいへんだ。たいへんよろしくない。行くとこがないわけだ。同類ですな。まあまだ時間はあるし、おしゃべりしましょうよ。どうせなら最後まで。

「あなたしゃべっててよ。私、聞いてるから」

 えー。じゃあ、考えときますんで、とりあえずは本日の曲行ってみましょう、懐かしいロックメロディをお聞きください。鳥獣伎楽で「踊り念仏」





第二幕 リバース・リビルド・リボルバー

1

 ここ百年ほどは無為に戦争が続いているせいで、私は急ごしらえの野戦病院にしょっちゅう駆り出される。どこも人手が足りないのだ。医療者は戦士に比べ圧倒的に数が少ない。というのも基本的に兎は血を見るのが嫌いである。私はかなり耐性があるほうだが、たいていは小心者だから弾痕のような生傷は苦手である。ではなぜ兵士になれるのかというと、月の兎は普通の生き物に比べて凄まじく楽天家だからである。やたらと暗示にかかりやすいし、痛みが生じるまで恐怖を感じない。中には傷を負っても、自己暗示をかけて戦い続ける猛者もいる。しかも理由がわからずとも主の命とあらば剣を持つ。従順でかつ献身的、なのにぼんやりとしていて聡くない。兵士にはもってこいだ。いったいどういう進化をすればこんな歪にふわふわした生き物が生まれるのだろう。

「急患だ! 頼む」

 腹を撃たれた玉兎が担ぎ込まれてきた。うめき声をあげていたので、私は彼女の目をのぞき込み、波長を狂わせた。こと玉兎に限って、狂気の瞳は麻酔として極めて有効である。静かになったところで傷を確認した。ちょうど臍の真上辺りだ。小腸は傷ついているが、出血さえ気をつければ命に別状はないだろう。こびりついていた血と腸液をふき取りながら、クリッピングで止血し、鑷子で銃弾を取り除いた。クーパーで周囲を剥離し、断端を引き寄せた。そうこうしているうちに組織が修復されていく。玉兎は肉体の自己修復が早いから楽だ。最後にやけどした皮膚組織をデブリして、弾痕に薬を塗りこむ。この薬には接着剤も含まれているから、変に縫合するよりきれいにくっつくのだ。もちろん師匠の手製である。本当は輸血もできればいいんだけど、ここにはない。薬だけじゃなくガーゼも鑷子も足りてない。全員傷口を洗ったらあとは治るまで床に雑魚寝するだけである。闘病環境は劣悪そのものに思えるが、幸いなことに空気が澄んでいるから、ほとんどは元気に復活する。

「はいおしまい、あとはゆっくり寝てくださいね」
「ありがとうございます。け、穢れは残りませんか、大丈夫なんですか」

 傷病兵を運んできた玉兎が心配そうに聞いてきた。

「大丈夫ですよ、幸いなことに脳波も安定してます。そうとう訓練されたんですね」

 まれに瘢痕が残った兎とかは、トラウマを負ってルナティックになる例もある。そうなると、ペットになれるほどの美麗な容姿でなければ、収容所に連れていかれる。少なくとも彼は大丈夫そうだ。
 ルナティックになるのは、穢れが肉体を侵した際に脳が浄化を試みたことによる副作用とされているが、詳しいところはよくわからない。そもそも穢れという概念を定義できる者が果たしているのだろうか。月の民は昔からこの言葉が大好きだが、私は穢れというフレーズを思想統一のために浸透させているのだと思っている。倫理や道徳をひとつにまとめ、宗教は拠り所ではなくあくまで集団の名称として扱う。穢れは対義語がない絶対的な価値基準であり、それを忌避することにより秩序と安寧を生み出している。
 この戦争もその枠組みのひとつに過ぎない。証拠に死人はあまり出ない。あたりまえだ。戦争と名前がついているが、実際はあくまで訓練の延長上、つまりは遠征なのだ。領主たちが私兵を定期的に戦わせて兵力を消耗させ、バランスを取っているのだ。師匠なんかは皮肉っぽく「舞台上の戦争」と呼んでいる。

「おい、こっち何とかしてくれ! こいつ息してないんだ!」

 呼ばれたほうに行ってみるとヘルメットに穴の開いた兎が横たわっていた。呼んだ兎がむやみに人工呼吸をしようとしたので「ちょっと待って」と制した。
 呼吸周期がおかしい。チェーンストークス呼吸だ。これは脳波異常だから波長コントロールである程度治せる。ただ、原因がわからないとまた再発するだろう。とりあえず戦線離脱したほうがいい。そう伝えたが、誰も動けない兎を運ぼうとはしなかった。
 いつからか月の重力が狂い始めた。周回軌道も歪んだせいで、あと千年もすれば地球と衝突するという。対策どころか原因すらわかっていないのが現状だ。都は混乱に陥る……わけでもなく存外穏やかである。一部の学者たちが水面下であたふたしているだけで、のんきな民は眼前の敵を討つのに忙しいのだ。その怱忙による仮初の平穏の一端を担っているのが、この戦争である。そんなつまらない秩序に巻き込まれる哀れな同氏を救うために、私は奮闘しているわけである。


2

 純狐さんとの交流はもはや仕事だった。いや仕事と言われると腹が立つけど、それ以外に言い表せないし、私の意思だけでやってるわけでもないから、そう言うほかない。五時間ほど歩いて、ようやくついた。小さくて何もない空間に、ぽつんと佇む木造の一軒家、藁の屋根がいかにも過去の遺産という感じだ。地獄の女神さまが鬼たちに頼んでこしらえたそうで、純狐さんが昔住んでいた家に近いらしい。
 純狐さんの住む仙界に行くには、私の住まいがある月の都からわざわざ幻想郷を経由しなければならない。距離的な問題ではなくて、住み分けである。今の幻想郷は一応特異点というか、あらゆる時空のラグランジュポイントというか、そういう役割を担っている。冥界だったり天界だったり、そういうところに行くには郷を中継する必要があった。結界の影響らしい。難しい理屈はわからないけど、すべてにおいて中立という立場をとっている。昔はそうでもなかったらしいけど、月に移住する際に密約があったとかなんとか。
 扉を叩くと「はーい」という間延びした声が聞こえてきた。きしんだ音を立てて扉が開くと純狐さんがいつもと変わらない表情で立っていた。

「あらいらっしゃい」
「お久しぶりです」
「立ち話もなんだし、どうぞ上がって」
「ええ」

 このやり取りはいったい何度目だろうか。このまま居間まで行って、お茶を出してもらって、私が何かしら話すのを純狐さんが聞く、その流れが延々と続いている。数年おきに行っても、連日通い詰めても、私が余計なことをしなければ変わらない。わかったのは、たぶん純狐さんは敵でなければ誰に対しても同じ対応をするということ。このもてなしは、ずっと昔から体に染みついてきた行為であり、純狐さんはほとんど何も考えていないということ。それが寂しいわけじゃないけど、なんとなくいやだった。

「最近はどこも忙しいですよ、ニュース見ましたか。なんでも地球と月の重力均衡が壊れて世界が滅亡するとかなんとか。都はパニックですよ、だいぶ落ち着いてきましたけど」
「へえーそうなの、知らなかったわ。大変なのねぇ」

 ただ、それとは別に、純狐さんとここでおしゃべりするのは楽しかった。心が安らぐのだ。たとえ純狐さんの波長が一切揺れなくとも。
 ここ数百年、純狐さんは穏やかだという。確かに言葉を選ばなくてもよくなったというか、月とか嫦娥という単語を聞いても取り乱さなくなった。それでも定期的に襲撃してるけど。師匠曰く、怒りとか憎しみというのは不安定なもので、そもそも純化されるようなものではないそうだ。なんとなくわかる。診療のたびにわけもなく怒ってる患者はいるけど、たいてい放っておくと落ち着く。純狐さんは特別なのだそうで、それがずっと続いているわけだけど、現状穏やかだということは、いずれ彼女の怒りは霧散し、害のない抜け殻になるだろう、と師匠は踏んでいる。また、逆に言えばたとえ復讐を果たしたとしても、恨みそのものが独り歩きしている状態だから矛先を失った分、厄介になるとも。とにかく、時間が解決するまで何千年も待つしかないのだそうだ。それまでたいへんなことが起きないように、私が精神安定剤になっているのである。これも傍から言われると癪だけど、事実だ。
 たくさん話をして、時計を見るとすでに三時間も経っていた。きっとこの空間は時間の流れが外と違うのだろう。

「あ、いい時間ですね。そろそろお暇させていただきます」
「あらそう。もっとお話し聞きたかったわ。またいらっしゃってね」

 帰り際、純狐さんは本当に寂しそうな顔をする。波長は揺れていない。だから染みついた演技というか、たぶん過去のリフレインに過ぎないのだろうけど、でも私はいつも泣きそうになる。


3

 技術はずっと停滞している。確か、すでに千年前に科学の発展が臨界点を迎えたとか、学者がそんな見解を出していた。残された夢である精巧なクローンとか、未来予知とか、過去改変とか、そういったものは穢れと定義されて、発展の道を閉ざされた。本当にできないわけじゃないと思う。革命に必要なのは議論でも観測でもなく、一発の弾丸だ。安寧を維持するエネルギーが膨大過ぎるから、そんな余裕がないのだろう。これだけ戦争をしておいて、まったく進歩がないというのは、はっきり言って異常である。興隆衰亡が自然の摂理のはずだけど、月の都はそれがいやで仕方がないらしい。
 ちなみに私は完璧なクローンである。師匠がやったのだ。公に発表すれば技術革新が起こるだろうが、師匠はずっと秘匿しているので、誰も再現できない。同じ肉体を作って、記憶を埋め込むまではできるが、すべて廃人になってしまうのだ。曰く、魂をいじらないといけないのだそう。
 いつだったかしてくれた説明を、私のすり減った歯でなんとか噛み砕いて要約すると、最初に魂に色を付けるらしい。死ぬと肉体は朽ちて、魂が離れる。魂魄は裁かれて、地獄だったり別の場所だったりで罪やらを流し、真っ白な状態で輪廻に戻る。そして次の肉体に入っていく。その循環に割り込むべく師匠は魂に染色して、消えないようにしたのだ。そしてクローン体を作成し、そこに記憶を埋め込んで、同じ色を付けておく。すると唯一の目印を見つけた魂はそれを目指すようになるらしい。とはいえ無数の輪廻転生が繰り返されているので、うまくいくためには私自身ある程度そのことを意識してなくちゃいけない。正確には私の魂が同じ体に戻ることを望む必要がある。だから懇切丁寧に説明してくれたらしい。今のとこ失敗はしてないそうで、だとすると私はどれだけ生き汚いのだろう。
 是非曲直庁に目を付けられないかと聞いたら「あそこも結構財政難だったりいろいろ大変らしいのよ」とのこと。まあうまく懐柔したのだろう。とりあえずクローンの実験対象は私だけなので、まあ気に入ってもらえてはいるのだと思う。そう思いたい。というかたぶん私が一番貢献してるはず。行商、派遣、診療所での介助、あとたまに幻想郷への情報提供、戸惑いまくってるし、いつもいやだないやだなって思ってるけど、それでもなんやかんやでこなしているのだ。もっと自信を持て、私。
 私の仕事は主に薬売りで、場所を問わずあちこち回っていた。野戦病院に駆り出されるのもその一環である。時間が余れば純狐さんのところに行っていた。忙しいけど、しかし、まあ、経験を積んだおかげで私は俯瞰ができるようになった、と思う。ふとした拍子で起こるフラッシュバックみたいなものはほとんどなくなった。その分、嫌味な癖は残った。余計なことを考えて、考えるだけばかばかしくなってくる。そんな癖。だから私は行商で歩き回って、へとへとになってから眠るようにしていた。睡眠こそ最良のメンテナンスである。薬なんて全部嘘だ。私は嘘を売り歩いている。ほらこういうこと考えるのが良くないんだって。


4
 今日は珍しく重症患者が少なかったので、早めに休憩をとることにした。満員の休憩室の隅に陣取り、床に腰を下ろしてぼんやりとしていると、傷病兵の電波兎が声をかけてきた。他に比べて耳が一回り大きく、その代わりに背丈は低い。そのせいか手や足の動作が小刻みだが素早く、せわしない印象を受けた。電波兎とは周波数を繰ることに長けた者である。彼女らは雑兵だったりペットだったりと様々な役職についているごく普通の玉兎なのだが、放送局の電波や、もしくは兵隊ならば上官からの指示を受け取り、大勢に伝達する中継ぎの役目も負っている。別に私の耳でも直接受信できるのだけど、電波兎が間にいるのといないのでは、その音質や精度は雲泥の差だ。
 彼女はおずおずと口を開いた。

「あの、その、もらいたいものが」

 玉兎が私に恥じらうように聞いてくる場合、たいていはホルモン剤を所望している。周期の安定剤か中絶薬だ。彼女が欲しているのは、においと波長の揺れからするに後者だろう。許可なく子を成すことは禁じられているが、まあ玉兎がそんなにお利口なわけないし、かといって精神共鳴による穢れのない交わりは時間がかかりすぎる。肉体をぶつけるのが一番早いし、それに戦いの場において最後に役に立つのは、遺伝子に刻まれた本能である。エロスとタナトスが消え失せたら、光合成すらしない植物が誕生してしまう。それでは良くないので、これらの薬は必須だ。私は薬箱からリインカーネーションというラベルの瓶を取り出して、そのうち一錠を手渡した。

「ありがとう」
 すぐさまそれを飲み下した彼女は、話題を切り替えようとしたのか、放送を聞かないかと勧めてきた。放送局にいる電波兎たちが自分の目に映ったものや耳で聞いた音を、ほかの玉兎たちの耳に共鳴させることで広域にテレパシーを発信するのである。ついでにいうと人間たちは着脱式の耳を買って、放送を受信している。いわゆるラジオだ。月には兎がいるから廃れたが、幻想郷ではまだAMラジオだって現役だ。なんでも波長がくっきりしてないから霊とかへんなのが入り込む余地があるのだとか。

「なんか偉いひとたちの討論が始まるみたいだよ。なんでも今の重力場のゆがみについて専門家が話すんだって」

 今日がその討論の放送日なのは知っている。師匠も呼ばれたが、遠いし忙しいからということで投書だけしたそうだ。別に師匠は特権で綿月様管轄の転移陣を自由に使えるから、遠いなんてことはないはずだけど、まあ面倒なのだろう。師匠はすごい人だからあちこちから声がかかる。でも政治とか文明とか、そういうのは畑違いだと思っているみたいで、あまり関わろうとしない。とはいえ長年生きてると立場は自然に上がるもので、流れに身を任せているうちに様々な役職を引き受けてしまっていた。幻想郷では十賢者のひとりだし、月の都では薬学の名誉教授という名の科学全般の博士だし、とにかく偉いのである。兎たちは八意と聞くと最敬礼するくらいだ。基本的には診療所に籠っているからそういうお偉いさんたちの相手をすることはないのだけど。
 私は「そうね聞くわ」と答えた。久しぶりに耳のスイッチを入れた。
 進行役らしき張りのある声が聞こえてきた。

「現在、月は公転軌道を大きく外れ、制御を失っております。このままでは地球の重力に引き寄せられていずれは接触してしまうでしょう。軌道の変化が観測されたのはおおよそ一月前です。原因ははっきりしていませんでしたが、ログに残っていたとある映像がその原因究明の鍵を握っているのではないかと推測されます。それではモニターをごらんください」

 今は余裕あるし、どうせならと映像の波長にも同期した。頭の中に直接モニターの映像が流れてきた。
 --あいつじゃん。思わず声を出しそうになった。見知った顔が大気圏に突入し、そのまま水面に落ちた。司会はこれを不思議な形をした隕石と呼んだ。どう見たら隕石に見えるのだろうか。
 映像は立体グラフィックに切り替わった。地表とマントルのモデルの中に、ピコピコ光る点が映し出され、その点がゆっくりと動きまわっていた。

「えー地球に落下したこの隕石はまるで意思を持ったかのように沈み続け、ついにはマントルの内側にまで入り込みました。それがどのような影響をもたらしているのか、重力機構の専門家であるN教授の意見を伺いたく存じます」
「おそらくワームホールを踏んだのでしょう。映像を見る限りではね。地球と月を直接つなぐ手段はいくつかありますからな。この隕石は軌道が不自然だ。多量の穢れを秘めていると推測できる。スーパーノヴァに等しいエネルギーは空間を容易くゆがめてしまうだろう。その証拠にあまりに強い重力は時空連続体ですら支配が及ばないことは承知の事実であるが、万が一それが」
「ありえない、そういった能力や技術はすべて封じているはずです。ワームホールはすべて外部からのエネルギーをシャットアウトするように定められている。監査委員会はなにをやっているんだ。移動全般に関しては綿月家の管轄ではないか」
「まあまって。昔の文献によると妖怪たちは湖に浮かんだ月を静かの海とつないだそうだし。昔から存在する技術なんだからさ、古代遺跡のように、つないだ穴だけが残っていても不思議じゃないんじゃないか」
「私はN教授に聞いているのです。それにそのことは存じています。だから調査団が調べつくして、そういった危険因子はすべて封じたはずと言っているのです」
「だとすればそれが甘かった、もしくは塞いだせいで変にねじれてしまったのではないかね」
「ええ、ここで八意様の見解を預かってきておりますので読み上げさせていただきます。今回の事象に関しましては医学的見地から申しますと、非常に厄介極まりない災厄であると認識しております。重力場の乱れは生理機能に直結しうるのです。単純にシナプス密度が変性してしまえば体内時計や平衡感覚の狂いが生じるだけでなく、脳そのものの委縮すら起こり得ます。抑うつ、異常行動、強い強迫観念をはじめとしたさまざまな症状がきわめて不可逆的に進行しうると予測します。現在は臨床試験段階ではありますが狂気の瞳による逆位相を用いた治療法を検討している次第であります」
「そんなはずがない! 諸君らは科学的見解というものに傾倒し過ぎて騙されている。これは神の定めた必然なのだ。天を支えるアトラスがヘカテーに篭絡されたに違いない。千年も昔、我らは一度ヘカテーを追い払った。とうの昔に逆鱗に触れていたのだ。ああ! 来るは破滅だ」
「くだらんニヒリズムに浸る前に君も学者ならば厳粛な意見を述べたまえよ――」
「いいかねそもそも反重力場の制御を須臾の羽衣が可能にした時点で九次元的観測が――」
「見解などどうでもいい! 秩序のためには早急な対応が必要だ、さっさとアンチフェノメノン(舌禍装置)を起動したらどうかね――」

 ああもうだめだ。言葉が混線してわけわかんなくなってきた。こんなん頭に叩き込まれたらめまいがすると思うけど、目の前の電波兎は涼しい顔をしていた。まあ聞こえてくる単語はちょっとかっこいいから、聞き流すにはちょうどいいかもしれない。どのみちこの手の議論は百年も昔に交わされているはずなのだ。こういった話は民衆に伝えても問題ないとみなされるまで、徹底的に水面下で行う。地上人がはじめて月に降り立ってだいぶ経つが、こんにちまで月の都そのものが発見されずに済んでいるのは、こういった月の隠ぺい気質によるものだろう。


5

 近頃は慢性的な頭痛だ。魂の適応障害である。クローン体だから仕方がないとはいえ、こればかりは耐えがたい。時折吐き気さえしてくる。重力の影響もあるのだろうか、やたらと頭が濁っている。そのせいで、ついつい純狐さんに愚痴を吐いてしまう。何も変わらないことがわかっているから、ここにいる時だけ言葉の意味がなくなるのだ。出された麦茶を飲み干して、ほうとため息を吐いた。

「もうね、つかれましたよ」
「どうしたの」
「なんか面倒なことばっかりで、おかしいですよね。平穏に暮らしたいし、ほかの兎だってみんなそう言うのに、戦争ばっかで、なんで私たちが巻き込まれなくちゃいけないんですかね」

 管理された死人の少ない戦争は、もはや秩序だ。そして純狐さんもそのシステムに組み込まれていた。私も含めて。兵士たちは各々の主の命で訓練と遠征の日々を過ごし、時たま都を純狐さんが襲撃し、その時だけ団結して追い返す。それがずっと繰り返されている。正直ものすごくいやだ。純狐さんの恨みは晴らすどころか利用されているし、それに間接的に加担している自分もいやだった。

「私が何をしたっていうんですか、あ、何もしてないから面倒なことになってるのか、もっと勉強しとけばよかったのかなぁ」
「よくわからないけれど、いまからでも遅くはないんじゃない」
「そうなんですけどねー、つかれてるとやる気も起きないと言いますか」
「わかるわー。ずっとこうやってお話しできていたらいいのにね」
「またまた純狐さんたら」

 今日も変わらない。純狐さんの言葉は、まるで私のためにあるかのように錯覚してしまう。 手持ち無沙汰にコップに残っていた氷を口に含み、がりがりとかじった。やたらと美味しく感じたので、たぶん貧血だ。今日の話が終わったら、あとで薬を飲もう。


6

 この頃はめっきりと戦争が減った。月の民はこの未曽有の危機に対し、あきらめるという決断を下したらしい。それで立ち上がったのが遷都計画だ。現存する中で最も巨大な救命船である「阿弥陀」に加え、造船所では大型光子船「迦楼羅」が何隻もつくられている。玉兎たちはそちらの作業に従事していた。
 野戦病院へ駆り出される機会が減った分、永遠亭に来る患者は増えた。師匠の危惧していた通り、重力変化による肉体への影響が表れ始めたのだ。とはいえ逆位相の薬も完成していたから、大きな問題も特になく、私はのんびりと問診を取る日々を過ごしていた。

「体中痛くて、狭いとこで何十時間も作業してるものだから……」
「腰ですか、肩ですか」
「全部です、全部」

 男性、船のメンテナンス業務、中肉中背、全身痛訴えあるが歩様はまったく問題なし。打診でも特に強い訴えなし。透過画像も骨折線なし。波長の乱れありと、たぶんただの疲労だろう。次。

「息が苦しいんです」
「じゃあ検査しますね」

 女性。事務職。肺、心臓共に異常なし。呼吸音正常、肺雑音聴取できず。心因性のものと思われる。
 こんな感じで私が問診して簡単な検査をしたのち、調剤室に籠っている師匠にカルテを届ける。そこでざっと目を通し、患者に適合する薬を処方するのである。昔から師匠は薬による治療を好んでいるから、手術や入院はめったにさせない。診療所が幻想郷にあったころは師匠自ら診察したり、手術したりといろいろやってたけど、今は「あなたの勉強のため」とか言って、私がほとんどの患者をさばいている。
 永遠亭は一応月の都側にあるのだけど、綿月家の転移陣を利用して幻想郷からも患者が来れるようにしている。窓口は別だから交わることはない。がんがん穢れが持ち込まれているし、なんなら一部の戦争がいやになった脱走兵のタグを手術で取り除き、環境療法という名目で幻想郷に放つことさえある。どう考えても月の理念に反するのに、半ば黙認されている。そもそも治療という行為は命にかかわるものだから、自然治癒以外は穢れを発生させるはずだけど、なぜか八意印の薬は使っても清いままでいられるということになっている。

「処方です。お大事に」

 薬を手渡すと患者たちは薬包に八意の印が書かれているのを見て、安堵の表情を浮かべるのだった。ちなみに会計は発生しない。月ではとっくの昔に通貨が廃止されている。その者の地位や職務、あるいは穢れた行為は個別タグに記録されており、情報局が管理している。そしてその情報をもとに、利用できるサービスが制限されるのである。当然ながら私は、八意の威を借る越権階級である。まあそれなりに忙しくしているから妥当だとも思うけど。
 そろそろ外来を閉めようかと思ったあたりで一匹の玉兎がやって来た。軍服を着ており、髪が短く目が細い女性だった。どこかで見たことがある気がするけど思い出せない。彼女は妙に高い声で「まだやってますかぁ」と言った。

「はい大丈夫ですよ」
「良かった、滑り込みセーフ。いやあそれがね、あたし今五番艇の担当なんだけど、なんかやたらとチェック項目が多くてぇ、ほらわかるでしょ。それで仕事上ね、ちょっといろいろ診てもらいたいのよ。混んでるといけないから今来たんだけど正解だったわ」

 端折りすぎて何を言いたいのかよくわからない。五番艇というのはおそらく今作られている宇宙船のことだろう。私が「はあ」とあいまいに言うと彼女は首を傾げた。

「あれ、あなたレイセンよね、あたしほら蛇の海のときの」

 思い出した。名前は忘れたけど、確か彼女はあちこちの穢れを除去して回る衛生班のひとりだ。確か蛇の海周辺での戦争時にちょっと話した記憶がある。とはいえ聞き覚えのあるのはこの声だけだ。むしろよく私のことなんておぼえているものだ。確かに彼女にもリインカーネーションを渡した気がするけど。

「ああーその節はどうも」
「思い出した? まあいいんだけど、そう五番艇がね。特に念入りに監査しろって命令されて、なんか怪しいものでも憑いてるんじゃないかと思ったのよねぇ。妙に疲れたし、で念のため精査してほしいわけよ」
「いいですけど、そういうのはそちらが専門では?」

 衛生班はエリート中のエリートだ。それこそ電波兎なんて目じゃないくらい。浄化に関してはエキスパートである。

「そうだけど、見落としてるかもだし」

 口調は軽いが、意識は高いらしい。とりあえずレントゲンや採血、脳波チェックと位相の負荷試験まで順に案内した。部屋に案内するたびに彼女は「へえ、ほお」とか言いながら、その細い目であちこちを吟味するように見ていた。

「なるほどね、ああ気にしないで好奇心だから。あちらの部屋は。結界があるようだけど」
「そっちは隔離病棟、今は患者はいないのですがね」

 さすが鋭い。ちなみに隔離部屋のひとつ前は姫様の部屋である。今は誰も住んでないけど、師匠が時間停止と不可侵の結界を張っている。姫様が帰ってきた時に昔と変わらないようにしているのだとか。そんなことまでは説明しないけど。
 とりあえず様々な検査をしてみたけど、結果はまったくの健康体だった。拍子抜けしたが一応師匠に報告した。

「まあおそらく大丈夫でしょう」

 一応安定剤を出すとのことだった。結果を伝えてから薬を渡すと、彼女は納得したように頷いて帰っていった。
 戸締りをした後にふと思ったのだが、もしかすると彼女はこの診療所を監査しに来たのかもしれない。というか絶対そうだ。ただの好奇心であんなにじろじろ見るはずがない。隔離室に興味を示したのだって怪しいものだ。なんですぐに思い至らなかったのだろう。フランクだから無警戒に話し過ぎてしまった。
 とはいえ気にすることもない。グレーなことはしているが、黙認されているはずだ。少なくとも師匠がいる限り、口をはさむことはできないだろう。まあでも確かに、このところ師匠は研究室に籠って表に出てこないから、良からぬことを企んでいるとみなされても仕方ないのかもしれない。


7

 姫様は都にいる。一応便宜上幽閉されているが、禊の儀式を行い、罪は許されたことになっている。師匠も様々な役職に就くことで償い続けている、という扱いらしい。正直、禊をしたくらいで穢れが払えるわけないし、蓬莱の薬の効果は残っているから、たいそうな大義名分を立てて、なあなあにしているだけだと思う。このふたりは月に好かれ過ぎているから、手放せるわけがないのだ。知恵や能力の恩恵があまりに大きすぎるというのもある。都の民など潔癖症を装った生臭ばかりだ。真に清いものなんていやしない。
 さて、最近姫様は文通に凝っているらしく、師匠とのやりとりはすべて手紙である。会わないことで侘びさびが極まるというのは姫様の談で、ふたりは五十年くらい顔を合わせていない。師匠はちょっと寂しがっている。本日の私の仕事は文字通り伝書バトであった。
 ルナティックの掃きだめこと『手水舎』は、静かの海の傍にある監獄で、完全にだめになった兎たちはここに連れてこられる。牢に入ると、もう清めた水しか飲ませてもらえない。仕事もなければ、娯楽もない。だからしだいに何も考えられなくなり、脱走を企てる脳すら溶けてしまう。姫様はなぜかここにいる。ほかにもっと、悪趣味だけど実験施設的な「ユートピア」とか、嫦娥様がいる(とされている)「月桂樹」とか、ましな監獄があるのだけど。
 柄杓のマークがついた門の前で名を告げると、生体スキャンの後にぎぎぎと仰々しく扉が開いた。中は妙にまぶしい。入り口付近の事務室では、看守が人の形に似た観葉植物に水をやっていたので適当にあいさつしてから、牢屋の並ぶ通りを抜けた。牢の兎はまだ元気だ。私を威嚇したり、呪詛の言葉を吐いたりする。完全に清められた兎は最奥の広いフロアに連れていかれるのだ。
 そのフロアに着いた瞬間、白い塊が私の足元にまとわりついてきた。

「わ、わ、ちょっと離れてよ」追い払っても無駄なのだが。

 フロアは千人規模で収容できるかなり広い空間で、床はやわらかいゴムみたいな素材だが辺り一面灰色で、兎たちが跳ね回っている。私はここが苦手だ。ここには音しかない。言葉や思考を失った兎たちが初めから持っていた音が延々と奏でられている。自分と同じ見た目の者が、ぴよぴよとさえずっているのを見るとどうにも気分が悪くなる。
 姫様はいつもここの兎と戯れている。広いけど目立つからすぐにわかる。

「あ、姫様」

 手を振ると気づいたのか、てとてとと嬉しそうに駆けてきた。

「久しゅうございます、姫様。師匠より手紙を預かってきました」
「ありがとね、イナバ。私も書いたのあるから部屋まで来てくれないかしら」
「ええ」

 このフロアの端に姫様の部屋がある。小屋みたいだけど入り口は襖だ。中に入って畳の上に腰を落ち着けた。六畳間の狭い和室だが、不便はしていないそう。安物の花瓶があるかと思えば、やたらと高い茶器が出てきたり、統一感がないせいでむしろ普通という印象だ。姫様は箪笥から手紙を取り出して渡してきた。

「じゃあお願いね」
「はい、ところで姫様。これからどうするんです」

 私はぼんやりと尋ねた。今日はこれを聞きたくて来たのだ。都は遷都先を決めあぐねているようだけど、少なくともこの場所は見捨てられるだろう。

「ここに残るわ、あいつが呼んでるみたいだけど、行ってあげない。幽閉されてるしね」

 ああ、やっぱり姫様はわかっていたか。やはりあの隕石は妹紅だ。かつての、なんだろう友人? 喧嘩相手? まあ深い関係の人物だ。そしてなんとなく思っていたことが的中したらしい。妹紅は姫様を引き寄せているのだ。理由はわからないけど、とにかく強い力で月ごと呼んでいる。

「ほんと寂しがりよねー」

 そう言って姫様はくすくすと笑った。妖艶で一見邪悪なのに、どこまでも純朴なそんな笑み、これに誰もが魅了されてしまう。そして姫様はすべての人々に愛されていると本気で信じているのだ。赤子が乳を求めて泣くように、己を害するものなどあるはずがないという調子で、物怖じすることなく振舞うのだ。

「やっぱりそうですよね、都ではみんな隕石だって言うんですよ」
「見えるわけないわ。あいつのこと誰にも言ってないもの。隕石だってみんな信じてるからそう見えるの」
「行かないんですか」
「行かない。ふふ、女は座して気長に待つものよ。なんてね」

 意地なのか、それとも気質なのか。動くつもりはないようだ。例えばだけど、姫様を追放すれば月の軌道はもとに戻るのではないか。月の都に大々的にこの事実を公表すれば、あるいは。いやだめだ。姫様がそれを望まない限り、師匠が許さないだろう。私にできることなんてない。

「なんで誰も気づかないんでしょう」
「たぶんずっと、わからないわ。本気で殺し合いをしないと、わからないわ」

 姫様はただ嬉しそうに微笑んでいた。


8

 遷都計画の大まかな目途が知らされた。金星に移住するらしい。あそこは美の神様が住んでいるから、空気が澄んでいて穢れがないそうだ。本当かそれ。火星という案もあったが、何百年か前に地上人がテラフォーミングをしようとして失敗したので、余計な穢れだけ残っているのだとか。
 というか患者や師匠の話を聞く限り、遷都計画は百年も昔からあったそうで、大方予想通り、重力場の狂いが観測されてからずっと秘密裏に進められていたらしい。
 着々とそれぞれの準備が整ってきている中、私はずっと悩んでいた。やはり公表するべきではないか。姫様をあいつのもとに送れば、この馬鹿げたスケールの危機も去るかもしれない。すでに遷都計画は固まってきたみたいだけど、まだ考え直す余地はあるのではないか。しかし、しかし、私はそれを望んでいるのだろうか。いや、事実を隠すのが気持ちよくないだけで、そんなことしたくない。はっきり言って滅亡なんてどうでもいい。どうせ私は死なないのだ。師匠にさえ逆らわなければ生きていけるし、それをする理由もない。月に愛着がないと言えばうそになるけど、姫様や師匠のほうがもっと大事だ。ああきっと私は怯えているのだ。何も考えたくない。なのに考えてしまう。こういうのがだめなんだ。利口でもないくせに四の五の考えるのは馬鹿のすることだ。
 何か、答えみたいなものが欲しくて、姫様の手紙を渡すときに師匠に尋ねた。これから何をするべきなのか、どうしたらよいかを。手紙に目を通した師匠は、戸棚から瓶を取り出して、そこに入っていた錠剤を一粒くれた。

「そうね、これでも飲みなさい。月の日周期が乱れて疲れているのだわ」
「そうでしょうか」

 とりあえずもらった錠剤を飲み下した。ちょっと甘かった。

「落ち着いたかしら」

 なんとなく落ち着いた気がする。

「はい」
「あらよかった。速効性はないはずだけど、プラシーボかしら」
「えぇー」

 まあ、愚かなほど薬はよく効く。はじめから答えがもらえるなんて期待してないし、それっぽいこと言われてもたぶん私の中の天邪鬼が喚くだけだろう。聞き方を変えた。

「師匠、実際どうなんですか。あの隕石。私には妹紅にしか見えませんし、なんで空から降って来たのかもさっぱりですし」
「マスドライバーにでも巻き込まれたんじゃないかしら。とはいえ蓬莱人は宇宙空間でも活動できるはずだし、それで戻って来たんじゃない?」
「まあ不慮の事故だったとしても、そもそもあいつがこの現状を引き起こしているなんて信じられません」
「説明してもいいけど、うーん、専門じゃないし」
「師匠の言葉ならわかるかもしれません」
「あ、そう、ええと、じゃあ、あなたに答えを授けるわ」

 師匠は白衣の襟を正して、にやりと笑った。それは悪戯を企む子供のようなあどけない顔だった。

「言ってしまえば蓬莱人の引力ね。これは一般的な万物理論を当てはめた推測なんだけど。まず前提として、すべての物体に重力が発生している。それは微弱で、基本的には電磁力などにかき消されてしまうわけだけど、それは余剰次元にその力の大半を隠しているからなの。私たちがぎりぎり観測できるのは素粒子の一桁前の10⁻¹⁵、つまりは須臾までだけど、超弦理論だと重力子を発生させてる閉じた弦は少なくとも10⁻³⁵以下のサイズになっているわ。光子扇子なんて武器があるけど、あれは観測できないくらい小さく分解できたからそう言ってるだけで、素粒子レベルまで分解されたかを証明する方法は今のところないわ。でも実は超次元に干渉できる例は多々あるのよ。たとえば夢というか無意識と記憶の領域は五次元的とも言えるし、あと地獄は部分的に四次元を跨いでいるという説がある。地続きで行けるようになってるけど、実は誰もその空間を外から観測できてないのよ。四次元は広すぎて見えない、五次元以降は小さすぎて見えない。知ってたかしら。偶然入り口を見つけて利用してるだけなのよね。月と地球をつなぐワームホールもそう。偶々、湖に浮かんだ月に四次元的な干渉ができただけなのよ。地獄なんかはそこに落ちた者に長い寿命を与えているけど、それは時空が歪んでいるから。一番下の無間地獄、あそこに行くと確か一中劫(三百京年)生き続ける羽目になるし、あと長い夢から覚めても全然時間が経ってなかったりするでしょ。まあこれが証明されちゃうと妖怪とかの在り方が変わっちゃうわけだけど。わからないことをわからないままにしておくことも大事というわけね。話がそれたわね。蓬莱の薬だけど、これは余剰次元に干渉してるわ。極限まで弦の振動を狂わせて、余剰次元から重力子を引っ張り込んできて定着させる。魂と肉体の結合を強い力ではなく、より強大な重力によって行うわけね。もちろんこれは後付けの理論よ。作った当初はもっと感覚的な実態だけがあるものだったわ。肉体をより健康的な状態に細胞分裂させる薬と、姫の力を合わせたらどうなるか試しただけなの。できちゃったのよねぇ私天才だから」
「そうですね」
「ねえ、あなた最近あいづちが冷たくなったわ。すごいですとか、さすがですとか言ってくれたほうが気持ちよくしゃべれるんだけど」

 最近の師匠はちょっとめんどくさくなった。昔は献身と研究しか興味ないみたいな、ナチュラルに他を見下してる感じだったのに、今はこんなふうにちょくちょく素直な天才アピールを挟んでくる。発作的に。もちろん私の前だけなのだが、思い返してみると師匠をほめる役割は姫様が担っていたかもしれない。世間ではとてつもない名声を得ているんだけど、赤の他人の評価より、身内に認められたいという気持ちはよくわかる。わかるというか私がそうだ。知り合い以外からどう思われようとそれほど気にしない。だから私みたいな感情を師匠でも持ってるんだなって、そう思うとなんか少し嬉しくて、意地悪く振舞ってしまう。

「さすがです、続きが聞きたいなぁ」
「むう。ええと、つまりだけど、蓬莱人は魂と肉体がくっついてるわけだけど、その結合部はその余剰次元にあるわ。重力のほとんどはそこに逃げているからね。だからどちらかが三次元的に破損しても、余剰次元からクォーツをその強力な重力で以て引っ張り出してきて、元の形に組み立てなおしてしまうわけ。細胞分裂ではなく、形状記憶といったほうがいいわね。光子レーザーとかで破壊しても、エネルギーは別次元に逃げるだけだから、殺せない。あなたのクローン技術にも応用してるのだけど、あなたの染色はいたって三次元的だから再現性はあるのよ。で、ここからが本題。元に戻ると言ってもまったく変化しないわけじゃない。再生は無意識の記憶に依存しているわ。とにかく最良の状態に戻そうとするのよ。零に戻る力ね。これが穢れの大元よ。成長が止まるのはそのせいね、若いほうがいいに決まってるもの。あと新しいことをおぼえたり、筋力を鍛えたりできるのはそれがより良いことだと超自我が認識しているから。それはちょっと意識したって変えられないわ。さて、あの隕石だけど、妹紅は強力な重力によって月を引き寄せようとしている。なぜそうしてるのかはわからないけど、意識的にできるはずがない。重力子を思いのままに操る方法はないのだから。だから偶然が重なったとみるべきね。なんでそうしてるのかはわからないけど、地球のどこかにある超次元の入り口にアクセスしてしまったとみるのがよさそうね。まずなんでそこにいるのかはわからないけど、マントルの中なんて圧力と熱で永遠に死に続けるわ。幾度となく三次元と余剰次元を行き来するわけだから、境目がねじれてあいまいになったのかもしれない。死ぬとき一瞬で走馬灯を見るでしょ、魂が離れそうになる瞬間に普段は操れない記憶領域をこじ開けるわけ。霊体は四次元以降に干渉できるなんて古い論文があるけど、それはたぶんそこからきてるわね。まとめるけど余剰次元には強い重力があって、それにちょっとでも干渉できるとすれば、そう、なんでも引き寄せることができる」
「つまりはブラックホール化したってことですか」
「ちょっと違うわ。ブラックホールに意識があるかはわからないけど無節操だし、あれは質量が大きすぎて三次元にある重力だけでも強すぎる。妹紅の場合はもっと局所的なのよ。月をピンポイントで狙えているのはおそらく同じ蓬莱人がいるからでしょうね。あなたの染色にも言えるけど、魂に強い結合構造を持つものは少ないわ。同じ色同士、微弱ながら引き寄せ合うようになっているのよ。重力子は唯一ブレーンに囚われることなく動けるから、物理的な距離は関係ない。無意識と記憶の領域はすべての人種が共有しているという話もあるし、そこから干渉してるのかもね」

 とりあえずなんとなくわかったようなそんな気がした。ただ私としてはどちらかというと仕組みよりは、別のことが気になっている。

「なるほど。ええと、じゃあなんで妹紅が隕石に見えるんですかね」
「そうね、なぜかしら。まあ玉兎に限らず月人は認知プロセスにおいて目よりも波長でものを捉える癖があるし、知っての通り蓬莱人の波長は非活動時は無機物のそれに近い。だからそう見えたんじゃないかしら。たとえば「ユートピア」でパレイドリア現象に関するこんな実験があったわ。ひとりのルナティックを被検体として隔離し、膝までを土に埋め、水だけを与えるようにした。両隣にはオリーブを植え、まったく同じ環境で育てたの。最初はしゃべったり動いたりしていたんだけど、だんだんと活動性が落ちて最後は植物になったわ。正確には植物と同じ波長に。その子は今は手水舎の入り口に植えてあるのだけど、誰も疑問を抱かなかったそうよ。あなたは気づいたかしら」
「そう言えば、いえ、まったく」
「まあ月人の目なんてそれほどあてにならないわ。いまだに幽霊を信じてない学者だっているし。さっきも言ったけど極小の超弦は目に見えない。蓬莱人は魂と肉体が余剰次元に紛れ込んでるから、三次元からは中途半端にしか観測できないわ。そんなもんよ、脳なんて認識ひとつで変わってしまう。私たちが妹紅に見えると言っても、それは彼女を昔から知っているからであって、見た目と波長が似ているただの岩という可能性だってあるわ。それに、百年前の映像よ。電波兎を通して受け取った映像は必ずバイアスがかかるわ。むしろ隕石と定義することが狙いじゃないかしら。活動しない人間なんて岩と変わらないし、人面岩なんてそこら中にあるし、逆にあれが人に見えるといったところで今度は逆にシミュラクラ現象で錯覚しているだけ、と思われるでしょうね」

 一息に話し切ると、師匠はふうと息を吐いてコーヒーを飲んだ。そしてやおら嬉しそうな表情を浮かべた。

「ふふ、こういう話をあなたに伝えるのに千年を要したわ。言葉にかみ砕くの大変なのよ」

 千年というのは冗談だと思うけど、もしかすると、もともと今回の事象に関して師匠なりに考えていたのかもしれない。そして実は、誰かに話す機会をうかがっていた。そう考えて良いだろう。今の師匠の波長は、昔話をして気分が良くなっている患者と似ているのだ。

「さすがです。舌を巻きました」
「むう、いつからそんなに素直じゃなくなったのよ」
「元からですよたぶん」

 私は根本から捻くれている。少なくともそこらの玉兎よりは。手水舎に行ってから余計そう思うようになった。だから生き残ってるんだろうけど。

「ところで師匠、あいつが引き寄せてるのなら、もしもですよ、もしもなんですけど姫様を追放したりしたら、この現象も終わるんじゃないですかね、なんて」
「却下ね。確実じゃないわ。妹紅は月ごと呼びよせているのかもしれない。あるいは嫦娥や私もターゲットに含まれているかもしれない。さっきも言ったけど、あれは妹紅っぽいただの岩でなにも関係ないかもしれない。それに加速度を考慮して、逆位相の力を加えたとしても、もうすでに引力のつり合いは取れてないから接近は免れないでしょう」

 私のおどけたような質問に対して、間髪入れずに答えた。はじめから全部否定するつもりだったらしい。まあ当然だ。そういう計画があったとしても、止めるように動くだろう。逆に姫様が拒否するのならば、地球を破壊する術を考えるだろう。

「それにね、今のは一般論に当てはめただけの推測よ。未解決事件において誰もが引き金を引いた犯人が欲しいように、観測できる範囲の事象を組み合わせて、因果に納得しようとしただけ。目に見えるもの、あるいは数字以外を信用しない答えであって、私の思うものとは若干違うわ。これは古い考えだけど、どうあっても月は落ちるのよ。なぜなら月はもう穢れているから」
「穢れですか、よくわからないですが」

 私は首を傾げた。とにかく月の民は穢れという言葉が好きだ。なんでも結び付ける癖がある。師匠も本質的には変わらないだろう、自覚している分、俯瞰できるだけだ。

「そもそもなんだけど、穢れとは何かしら」
「そうですね、生死とか強い喜怒哀楽とか、なんでしょう、言われてみるとよくわからないですけど」

 言葉にはできない。だけど何となくわかる。においみたいなもので、感覚的にわけることならできる。

「そう、今はそうなの。だけど昔は違ったわ。名前がつく前は薬効やエネルギーと同じで良し悪しはなく、強い弱いでしかないものだったわ。穢れとはさっきも言ったけど、零に戻る逆位相の力よ」
「どういうことです」
「たとえば人が成長したり老いたりする過程で幼児返りが起きるけど、究極的には母体に帰依しようとしているわけよ。もちろん輪廻転生だけの話じゃないわ、アポトーシスとか帰巣本能とかもそう。とにかく元に戻ろうとする力、収縮のエネルギー、それは生物だけじゃない。ただのエネルギーだから、すべてに適応されるわ。天地開闢もそうだし、大陸プレートの移動にも関与している。ただ決して零には戻らない。それがすべてに生じるとビッグクランチが起きて宇宙が崩壊しまうから。昔の月の民はその膨張と反対の力を観測し、傲慢にも穢れと名付けた。悪しきものと定義したのよ。破滅へ向かうエネルギーだと考えたわけね。そしていつしか忌み嫌うものすべてを穢れと呼ぶようになり、いまでは感覚的に穢れと定義したものを忌避するようになったわけよ」
「それって重力とかじゃないんですか」
「地上の科学者はその力の一端を重力と呼ぶわ。定義も範囲も違うけど、観測した現象は同じでしょうね」

 なるほど?

「穢れは想いや死で強まるというのは本当のこと。思い出や愛着が強ければそれだけ穢れが増して空を飛べなくなるし、故郷から離れなくなる。昔、幻想郷もとい日本が沈んだけど、あれは寿命を迎えていたのよ。穢れで満ちた龍は身体を禊いで高天原に帰り、もとは地底から染み出た油だった土地は内側へ、つまりは地球の核へと返還しようとした。今回のことだって同じことが言えるわ。月は元々地球から分かれた兄弟星だもの。ただ離れようとする力と、穢れのつり合いがとれていた、正確には若干膨張の力が強かったから安定していたの。だけど今の月は穢れが以前より確実に強くなったわ。そうね如実に強まったのは月面着陸の時からかしら。もしくはいつだったか銀河をめぐる遊牧民がなぜか結界を越える方法を知っていて、都に侵入してきた時かもしれないわ。もちろん浄化しようとしたけど、それは根本的には意味をなさない。都を隠匿したぶん余計に結束や思い入れが強まったわ。我らの月を守るのだと。その時点で、月はとっくに穢れて重くなっているのよ。私や輝夜、あと幻想郷をまるごと受け入れたのも、そういう意味では悪手ね。徹底的に排斥するべきだった。どちらにせよ今の月の民は長く同じ場所に居続けたわ。月を故郷と定めてしまったのよ。だからどうやっても月は穢れ、最後には地に落ちる。それがいつかというだけ」
「だとすると、私たちは、なにもできないんですかね」
「長い目で見ればね」

 それきり師匠は黙ってしまった。


9

 声を上げるべきではないのか。私の見た光景はおそらく真実なのだ。ほかの人にはわからないとしても。だとすれば、せめて真実を叫ぶのが、それを知ったもの義務ではないのだろうか。私たちのテレパシーは、耳によって特殊な電磁波をキャッチするわけだけど、実は狂気の力で波長を無理やり拡大すると、耳を持たない者にも映像や音を伝えることができる。無意識の領域をみんなが共有しているからだ。やると投獄されるけど、とはいえできないわけじゃない。
 だが、やる意味もない。師匠が言ったとおり、因果を知ったところで、今更何をしても手遅れだ。地球への接近速度は加速している。この前、情報局から聞いた話によると、地球でも一般人が異常を感じ取り始めたらしい。波が高くなったとか、その程度。なんにせよ、もう月には住めない。守るべきものは、全部船に積み込まれている。迷うことなど何もない。なのに私は、吐きそうだ。
 だけど私の口からは、たいした台詞など出てこない。純狐さんと交わす言葉は、もっとありふれたものだった。

「もうちょっとしたら、引っ越ししなくちゃいけないんですよね、忙しくなりそうだなぁ。純狐さんは荷物少ないから楽かもしれませんけど」
「私はどこにもいかないわ」
「えーだってなくなっちゃうんですよ、都が。純狐さんだって困るじゃないですか」
「そんなこと言っても、私はここにいたいもの」
「私だってそうですよ」

 そう答えたが、それが本心ではないような気がした。うまく言えないけど。そうこうしているうちにラジオから声が聞こえてきた。「定刻となりましたのでとりあえずはじめます」純狐さんの家にはテレビも電話もないけどラジカセはある。地獄の女神様がくれたらしい。
 今日は幻想郷の定例会議である。賢者たちが集まって会合するのだが、秘密裏に動くもの以外はたまにラジオ放送される。賢者と言っても表向きの為政者集団で、幻想郷設立にかかわった本来の賢者はたいてい隠居している。表面的に動いているのは博麗の巫女と山の神と、八雲の下っ端くらいだ。その八雲が話し始めた。

「現在幻想郷は未曽有の危機を迎えている。かつて月に移り住む前にも似たような事態に陥ったが、今回は状況が違う。月よりもはるか遠くへ移住しなくてはならない」

 幻想郷が滅びかけた時のことなど、昔過ぎておぼえてないけど、歴史の資料としては残っている。こんな感じだ。プレートテクトニクスの影響で日本国土は長い時をかけてバラバラになり、最終的には海に沈んだ。普通に計算すると国ひとつが沈むまで百万年はかかるため、驚異的な速度であるが、それを説明できる理論は存在せず、重力場の局所的なひずみが偶然強くなったと結論付けられていた。
 日本が完全に沈み切る前に、八雲紫は幻想郷そのものを月の都に転移させようとした。これまで何度も戦争を仕掛けていたから、月のほうも妖怪という存在を近しいものとして受け入れる準備ができていたのだ。妖怪とは、民に害を与えるうえ、追い払っても戻ってきてしまう面倒な存在であり、普段見えないだけで確かにそこにいるもの、と認識された。計画は順調に進み、海が幻想入りする前には転移結界が完成した。

「そこで八雲の見解としては火星が良いのではないかという結論が出た。あそこには彼らがいる。水があるし、環境も昔より地球に近くなった。理想的だ、まずは水中に拠点を作り、酸素を補給することができれば問題なく移住可能だ。竜宮計画とでも名付けるか」
「いや、だめね。まだあそこは未完成なんでしょ、紫が言ってたし。変に移動しないほうがいいんじゃない。木星の衛星はどう? たぶん空さえ飛べれば大丈夫なんでしょ」
「待ってくだされ博麗殿、人間はどうなる。空を飛べるものはごくわずかだ」
「そりゃ、あれよ月の技術をもらって、ほら永遠亭からとか」
「無理だな、あそこは中立というか、医療以外は我関せずというか」
「はぁ? なんでよ、非常事態なんだから言うこと聞かせたらいいでしょ」
「まあまあ、巫女殿そう怒りなさんな。取り乱したような言い方をして申し訳ない。我々とて何も考えてないわけではない。里はなにぶん無知な者が多い故、混乱を招きやすいのですよ。空や水中など新しい生活を強いられるのはとても耐えきれません。彼らが月の重力に慣れたのもここ最近と聞いております。環境が一気に変わると狂ってしまいます。そこで八雲殿、どうでしょう方舟計画の再始動をなされては」
「……それをどこで聞いた」
「へえ、それは」
「私が教えたのです」

 山の神が言い淀んだところで、聞いたことない声が割って入った。こういう討論に顔を出すのは、あとは天狗くらいしか思いつかない。顔が見えないから、ラジオは不便だ。

「どのみち言わねばならないのだから、何も問題はないでしょう。この世界そのものを流動する結界で被い、空を揺蕩うひとつの星に変える計画があったと聞いております」
「はあ、一応説明しますがね、計画自体はありましたし、理論上は可能なのですが、膨大な労力と妖力と、とにかく資材が足りないのです」
「なぜですか、こんなにもこの土地は豊かではありませんか」
「それは繁栄の意思が飽和していないからです。秩序の維持に努めればこそなのですよ」
「秩序ねぇ、あいつはもっと野心家って感じがするんだけど」
「またあなたはそうやって勝手な印象論で――」

 そんな感じで、話はまとまらずにそのまま終わってしまった。当然だ。会議はすでに決まっていることに決をとるか、踊るかしかない。この間の討論とたいして変わらない。だけど月に比べて、なんとなくのんきな印象を受けた。私は思わず純狐さんにこう溢した。

「こういう会話って意味あるんですかねぇ」
「どうかしら。少なくとも毒ではないと思うけど」
「確かに」 

 薬にもならないけど。
 

10

 幻想郷側も結局は月に都に寄生する形で移動することになった。それとは別で住民の半数は他の星を開拓しに行くそうだ。郷そのものを独立したスペースコロニー化するという方舟計画も進めているらしい。
 結局なにもしないまま時間は過ぎて、遷都計画はついに大局を迎えた。すでに数千万人規模が収容できるコロニー「曼荼羅」が周回している。そこを拠点にマスドライバーで資材を運び出し、また移送船をそのまま連結させ、コロニーをさらに建造する。そして住民と資材が十分に確保できたら、金星の大気中に浮遊都市「八咫」を建国する。同時に大気圏のスーパーローテーションを安定化させるため、都市の外殻に敷き詰めた鏡に天照を降ろし、太陽光をコントロールする。ゆくゆくはテラフォーミングまでを視野に入れた気の遠くなるような計画だ。作業するのは当然玉兎なわけだが、彼らは羽衣ひとつで濃すぎる大気中を飛び回ることになる。過酷な環境に耐えられるよう、訓練と称して感覚遮断や無重力戦闘を繰り返してきたのだ。兵力の育成、資材の確保と技術革新、そして統率、百年の戦争は、すべてこの時のためだという。大一大万大吉、すべては歯車で、何ひとつ欠けてはならなかったなんて、そんなの信じられないけど、自分がぐだぐだ生きていることがみじめに思えてきた。
 さて、いくらこの百年で鍛え上げたとはいえ、労力というものは事故や精神の摩耗でいつ壊れるかわかったもんじゃない。だから医療者は優先して月を発つのだが、肝心の師匠は、頑なに檻を出ない姫様に対し、説得を試みていた。徒労に終わることがわかっていても、そうせずにはいられないのだ。

「姫様、どうしてもここに残るのですか」
「ええそのつもりだけど」
「なぜです」
「ちょっと遊びたいのよ。でも行くのも面倒だし」
「感心しませんねぇ」

 こんな覇気のないやりとりを何度も目にしてきた。だけど今日で最後だ。次の便に師匠は乗り込む。もちろん私も。すでに荷物や器材は積み込んだ。

「じゃあね。迎えに来てよ、私が飽きたら、ね」

 姫様が悪戯っぽく笑うと、観念したかのように師匠は言った。

「わかりました。わかりましたとも」

 きっとこの魔性の笑みが月を狂わせたのだろう。すべてそれで説明できるような気がした。私たちは手水舎をあとにした。
 船に向かう道中、私はなにげなく言った。

「やっぱりだめでしたね」
「あの子は月そのものです。望む望まないに関わらず、ただ暗闇の中に光を注ぐの。月明かりは太陽と違って平等ではありません。魅入られた者は呪いをかけられてしまう。だから仕方ないのです」

 師匠のよどみない台詞は、自分に言い聞かせているようなぎこちなさがあった。最後のやりとりは、思い通りにいかないことを確かめるような会話だったけど、きっと踏ん切りはついたのだろう。表情はいつも以上に穏やかだった。

「私も同じよ。あの子に勝手に全部与える。でもいらないんじゃしょうがないわ。ふふ、医者っぽいでしょう。まあ、ちゃんと話ができたから、よかったわ」

 私はどうしようか、まだ師匠のように割り切れていない。なにも伝えていない。

「師匠、私もちゃんと話がしたいです。純狐さんと」

 師匠はずいぶんと考え込んだようだった。そして少し歩いてから、おもむろに言った。

「好きになさいな」

 まるで諦観のような響きを孕んだその優しい言葉は、私のなかにすんなりと収まった。表情はよくわからない。怒っているわけでも、励ましてくれているわけでもない。ただ、全部見透かされているようで、気恥ずかしかった。

 
11

 竹藪のなかを歩きながら、考えた。純狐さんになにを言いたいのか、なぜこんなに考えてしまうのか、そもそも私はなにがしたいのか。一緒に居たい、楽しく過ごしたい、そんな心地よい響きの理由をつけてもしっくりこないし、腹の奥の熱が引かないので、ようやく確信した。
 私は怒りたかったのだ。たぶんこの世界に強い怒りを抱いていて、だけどそれを吐露できなかったのだ。言葉にしてしまえば、なんと明瞭なことだろう。ただただ気に入らないのだ。純狐さんが都の制御下にある現状が、煮えたぎるような情念を清い水で薄められている事実が、許せないのだ。彼女は歯車なんかじゃない。悲しみを背負い、ついには涙も枯れ果てた真っ赤な瞳の奥底で、すべてを失うまで滾る焔のようにくすぶり続けている狂気は、決して踏みにじられてはならないのだ。落ち着いたなんて嘘だ。ただ、なにもさせなかったんだ。なにもしなければ重力に従って落ちていくのが必然で、跳べるくせに跳ばないのは堕落だ。なんということだ。私は堕落に酔っていたのだ。薬が必要だ。ジギタリスのように鼓動を高める狂気を、たったひと匙でいい。
 竹藪を抜けた。幻想郷はあまり変わってないように感じた。何度も行商で来てるけど、じっくりと土を踏むのは久々だった。緑豊かな景色、雨あがりのにおいとぬるい風、心地よい気だるさが胸に去来した。私の原風景は戦場のはずで、なのにこの郷はあまりにも懐かしく思えてしまう。よくよく見てみると昔とは全然違う。けもの道は明らかに整備されているし、今や鉄塔もそこらに建っている。だけど、感想は「なにも変わらないな」だった。ひりひりとした気配がない。どんよりと曇った焦燥もない。かといって空気が澄んでいるかと言われたら、それは違う。都に比べて呆れるほど平和なのに、血のにおいとか、いろんなものが混ざっている。おそらく住民は遷都に合わせて、これから避難するのだろう。少しは混乱が起きるかもしれないけど、それもたぶん歴史のほんの一幕に過ぎないのだろう。そういう土地だ。
 居心地はいいけど、いまの私にはちょっと合わないかもしれない。自然と早足になっていた。
 兎は跳ねるべきなのだ。キジも鳴かずばなんて言うけど、兎は撃たれることを承知で跳ねるのだ。献身を、空腹の老人にその身をささげたかつての逸話のように、ありったけを施すのだ。それでこそ玉兎と言えるだろう。哀しみを癒すのはそれよりも深い絶望だけで、純狐さんは誰よりも哀しい目をしていた。傍にいた私はずっと救われていた。だからこの身を返すのだ。
 気がつくと仙界へ着いていた。玄関を開けると純狐さんはいつもみたいにそこにいて、いらっしゃいと言った。

「どうぞあがって」

 居間へ向かおうとする純狐さんを制して、私は言った。

「純狐さん、これからどうするのです。幻想郷も引っ越しを進めてますよ」
「どうしようかしら」

 違う。どうする、じゃない。いまの純狐さんはなにも望んでない。私がどうしたいかを言わなくちゃ。

「一緒に来ませんか、仙界ごとは無理ですけど、あっちに着いたら似たような家を建てましょう」
「いいかもね」

 違う。そんな仮定の話じゃない。

「あそうだ、どうせなら襲撃しましょう。都もわたわたしてますし、船に乗れば警備も少しは薄くなるでしょう。絶好のチャンスです。ぜひそうしましょう。そして落ち着いたらあっちに行ってのんびりしましょう」

 少しだけ波長が乱れた。それは動揺だ。誰もがありえないと断じる現象、私だけ、私だけだ。私だけは純狐さんに触れられる。

「どうしたの、あなた少し変だわ。おかしいわ」
「変でもいいです。私の目を見てください」

 手を取って、目をのぞき込む。深淵なんてとんでもない。きれいな紅だ。私よりちょっと濃くて、少しくすんでいる。それだけだ。言える、この世界は変えられないけど、私はあなたを変えられる。

「純狐さん、今こそです。なにも不足はありません。私を使ってください。痛みがあるなら傷が癒えるまで傍にいます。あなたが武器を欲するなら、私が弾丸となります。風穴をあけてやりましょう」

 言った。言えた。これでも足りないくらいだ。じっと見る。純狐さんの体温がわずかに上がったような気がした。

「ええ、そう、そうね。今度こそ――」

 背筋が震えた。純狐さんの纏う空気が、かつてのどす黒さを取り戻したように思えた。

「今度こそは! 貴様の喉笛を噛みちぎり、臓物を吐き散らせ、ただ醜く惨殺してくれる! 嫦娥、嫦娥よ! 胡坐を掻いて待つが良い、最も穢れた死を以て終幕としよう!」

 それは慟哭だった。遠吠えはどこまでも響き渡る。彼女の波長は弾いた弦のように震えていた。終わらせる。どんな幕引きでも、千秋楽まで付き合いますとも。


12

 それから私は作戦を練った。
 遷都計画は主に船で住民を移住させるわけだが、当然優先順位がある。はじめは現地調査と連絡のため学者と兵隊といった少数で構成されている。航路の確保が目的だ。そして次は重鎮を乗せる。本来なら師匠はそこで行くはずだったが、患者をほっとけないという理由で後に回った。そして次、第三弾から大移動だ。ちなみに師匠は一番艇、そして嫦娥様はおそらく五番艇に乗っている。五番艇は囚人やらモルモットやらを運ぶのだが、他の船と比べてみると明らかに整備が行き届いている。下手すると薬搗きや一般兵よりも待遇が良い。これは患者として運ばれてきた船の整備士に聞いた話だ。もちろんそれだけが根拠ではない。積み荷は囚人含めすべてタグ付けされ管理されているが、情報局のデータベースで確認したところ、五番艇にのみ詳細不明の、しかも「月桂樹」から運び出された積み荷が登録されているのである。第一便から遡ってみても、詳細不明なのはこれだけだ。さらにはその荷が運び込まれる第八ユニットとかいう部屋は、やたらと頑強かつ救命ユニットも兼ねているという好待遇っぷりである。
 船は金星につき次第、コロニーと連結してしまうから襲撃のタイミングは移送中しかない。嫦娥様クラスであれば転移陣で移動していてもおかしくはないが、ポータルの記録を見た限りではその形跡はなかった。
 さてここからが作戦だが、今回は戦争というよりは暗殺を目標として動く。船内には兵士がいるが、それは囚人の暴動を抑制する目的で配置されている。クローズドサークルにおいて最も恐ろしいのは混乱である。だから純粋な戦闘力というよりは、電波兎を筆頭に波長のコントロールに長けた者が選ばれる。だから戦闘も最小限であれば潜り抜けられるだろう。武器は持ち込めないだろうが、それは現地調達だ。そのくらいのリスクは侵さなければ。
 すでに船は飛び立っているが問題ない。転移陣を使うからだ。船には非常口用の転移陣が設置されている。侵入は容易いのだ。逆に言えば逃げ道が用意されているわけだから、派手な襲撃は得策とは言えないだろう。使用には申請が必要だが、私は治療を理由にすればどこへでも行けるパスポートを持っている。ちなみにデータベースを覗けるのも、転移陣のポータルを使えるのも、八意の特権である。私ほどスパイに向いた兎もいないだろう。
 さて侵入してからだが、純狐さんにはルナティックになった玉兎に成りすましてもらう。彼女の搬送という名目で乗り込むのだ。
 とりあえず耳をつけてもらう。私の前回のクローン体からはぎ取ったものだ。あと制服も。波長はまったく動じていないけど、少し窮屈そうにしていた。違和感はあるが、優秀な玉兎は基本的に顔よりはその相手の波長を見て判断する傾向があるから、私が少し調整すれば、今の静かな純狐さんなら間違いなくルナティックとみなされるだろう。そもそも仙霊は生死が希薄だから、殺意さえ隠し通せば偽装すら必要ないかもしれない。あわよくば誰にも気づかれず嫦娥様の元にたどり着けないだろうか。
 純狐さんの髪を梳かしつつ、耳を編み込んだ。私は計画を繰り返し言葉にした。頭の中にあるだけでは、たぶん忘れてしまうだろうから。私は恨みなど何もないのだ。

「ねえ、こんなまどろっこしいことしないで、乗り込んだ瞬間から私が動いたほうが効率的じゃないかしら」
「だめですよ、それは最後の手段です」

 それでは破滅的過ぎる。本気で暴れたら間違いなくその船は沈むだろうが、転移陣がある限り取り逃がすリスクがある。そもそも転移陣が嫦娥様の部屋にないとも限らない。むしろその可能性のほうが高いだろう。沈む船に取り残されて無窮の藻屑になる、そんな幕引きはごめん被りたい。
 それにこれは私情なんだけど、できるなら囚人やら兵も含めて、ほかの乗務員を巻き込みたくない。彼らも純狐さんほどじゃないけど、同情に値する傷を持っているのだ。だから暗殺、これしかない。まあどのみち私は捕まるんだろうけど。

「明日、決行か」

 私はまるで他人事のようにつぶやいた。実感が湧かない。私は今までずっと逃亡者だったのだ。こちらから仕掛けることは、長い生涯を思い返してみても一度もなかった気がする。戦うのはそんなに好きじゃないし、痛いのは大嫌いだ。慣れてるだけで。
 気持ちの高ぶりは、計画を立てるほどに沈んでいった。狂気は消耗品である。熱が治まらないうちに動かないと、私はまた安寧に逃げてしまうだろう。

「私にも、髪を撫でさせて」

 唐突に純狐さんが言った。いつの間にか私の手は止まっていた。

「いいですよ」

 櫛を渡して、背中を向ける。髪がほぐれる感触があった。手のひらから体温が伝わってくる。戦化粧なんて柄じゃないけど、少しだけ頑張ってみようと思った。


13

 転移陣の手続きはあっさり済んだ。係員も杜撰な感じで、八意の者だと伝えただけで使用許可が下りた。お偉いさん方の移送が終わっていたのも大きいだろう。純狐さんにつけた耳も役に立った。どうやらこの耳の個別ナンバーはまだデータベースに残っているらしく、行方不明者として登録されていた。しかも永遠亭で献身的に師匠に尽くしていたという記録があるから、それなりにいい待遇を受ける立場にあった。八意さまさまである。
 転移陣に乗ると身体が光で包まれた。まばゆさが消えると、目の前には監視役らしき玉兎がいた。敬礼をしていたので軽く頭を下げて、そそくさと通り過ぎると、あっけなく侵入することができた。船は雲のような不定形の構造で、航海中は粒子に対する避弾経始のために徐々に伸びていき細長い流線型になる。そして転移陣は船尾にある。端から端まで歩くなら数時間かかるほど広いが、船そのものにフェムト繊維が織り込まれているためわずかに時間が狂っており、そのおかげでむしろ移動時間は短縮できる。また、コロニーとの連結時に位相を繰り、わずかなずれを修正できるようになっている。
 見取り図は大体頭に入っている。嫦娥様は中心部の最下層、第八ユニットにいるはずだ。ここからそれほど遠くはない。周波数をわずかに歪め、かつおどおどせず、あくまでも医療班を装って歩いた。途中ですれ違う兎たちは整備士や清掃員ばかりで、兵隊らしきものは見かけなかった。

「楽勝ですね、純狐さん」

 純狐さんはずっと口をつぐんでいた。つい話しかけてしまったが、今の純狐さんは廃人となった八意の兎という設定だ。気を引き締めなければ。
 少し歩き、多数の檻が見えてきた。囚人たちはこのフロアにいる。目の前の檻にはルナティックばかりが収容されているらしく、ほとんどはぼんやりと虚空を見上げているか眠っていた。さて、武器の調達だ。どこかに看守がいるはずだ。背後を取れたらそのまま制圧、見つかってしまったら純狐さんを収容する檻を探していた、と言って隙を伺おう。頭の中で行動を言葉にしながら、あたりをぐるりと回った。
 見覚えのある人影があった。

「あ、レイセンじゃない」
「げ」
「げとはなによ」

 反射的に声を出してしまった。いつぞやの妙に声が高い衛生班だった。どうにも彼女は苦手だ。確かに五番艇の監査をしたと言っていたが、彼女も第三便だったのか。

「積み荷の点検ですか」
「そう、あなたは?」
「彼女を案内しているんです。彼女、あまり記憶がないというので、いろいろ見て回ると刺激になるかと」

 我ながら苦しい言い訳だ。しかしポーカーフェイスは保てている。純狐さんはペコリと頭を下げた。波長もまったくぶれていない。一瞬彼女から武器を奪えるかもしれないとよぎったが、衛生班はエリートだ。用心するに越したことはない。

「確かに、気配が薄いね。別に咎める気はないけど、このあたりは何もないよ。まあ怪我だけはしないでね」

 そう言うと彼女は手を振ってどこかへ行ってしまった。私たちはしばらく動けずにいた。かつんかつんという靴の音が消えてから、静寂があたりに広まった。懸念を振り払うように、ひとつ深呼吸をした。

「行きましょうか」

 怯えて進めないのは言語道断だ。私たちはまた息を潜めて歩を進めた。
 少しすると看守らしき影が見えた。ちょうど私たちが背後を取れる位置だ。波長をさらに平坦になるよう調整しながら、あとをつけた。ここだと少し広い上に、囚人たちが少しうるさい。入り口付近のルナティックばかりがいる場所まで移動した。

「よし、純狐さん。ここで待っていてください」
「ええ」

 距離を詰めながら、息を整える。大丈夫だ、昔を思い出せ。訓練は身体に染みついているはず。背後から手を取り、少しひねりながら足払い、倒れたところで関節を極める。ごくごく初歩的な捕縛術だ。
 大股で三歩、そこまで近づいたところで私は地を蹴った。看守は気配に気づいたようだがもう遅い。右手首をつかむ、そしてそのまま反時計回りのひねりを加えて――あ。だめだ、手首が外れてしまった。いや外された。看守は逆方向に腕をひねりながらしゃがみ込み、そのまま私の手を掴みながら背後をとった。

「があああ!」

 身動きが取れなくなり、痛みに耐えかねた私は地べたに突っ伏してしまった。まずい、失敗した。どうする、せめて正面さえ向ければ……

「何者だ! 個別ナンバーを見せろ! さもなくば――ぐっ」

 一瞬痛みが和らいだ。締めが緩んだのだ。私は横に転がり仰向けになった。看守が純狐さんのほうを向いていた。馬乗りの状態で形勢は不利だが、何はともあれチャンスだ。

「こっちを見ろ!」

 看守が振り向いた瞬間、私は狂気の瞳を最大出力で使った。相手も対抗してきたが、こればかりは私のほうが上だ。何年麻酔かけてきたと思ってるんだ。目論見通り、数秒で看守はころりと眠った。

「はあはあ」

 腕が痛い。指は動くが、肘がめきめきと変な音を立てている。たぶん折れてはいないが、しばらく続きそうだ。慢心の代償だ。ひとりで勝てると思っていた。なのに身体が全然思うように動かなかった。どうやら私はとっくの昔に力を失っていたらしい。
 よく見ると小さな石片のようなものがひとつだけ転がっている。看守の背中にも傷があった。これは純狐さんの弾幕だ。殺傷力のない、遊びの武器。それが功を奏した。ここで看守を殺していたらおそらく穢れが発生し、すぐに応援が来るだろう。二重に助かった。

「ありがとうございます、純狐さん」
「どういたしまして、これどうする?」
「とりあえずしばらくは起きないと思います、かなり強めにかけましたから」

 手こずってしまったが、予定通り武器の調達だ。

「え、なにこれ」

 看守のホルスターにはリボルバーが一丁あった。銀色の銃身に木製のグリップ、ただ火薬で銃弾を打ち出す旧世代の産物。間違いない、これは地上の古い銃のレプリカだ。試しにシリンダーを振り出してみると弾は入っていなかった。しかも思念弾やらを打ち出せるような改造すら施されていない。なんだこの看守、趣味でぶら下げているだけじゃないか! どおりで私を捕らえた時に取り出しすらしなかったわけだ。確かにこういった旧世代の銃やら剣やらのレプリカは都にも出回っているけど、たいていは中身が現代に対応している。訓練用の銃剣なんかはまさしくそうだ。これじゃ、まともな戦闘には使えそうにない。せめて弾がないかと、懐を漁ってみると一応銃弾は六発あったので装填した。他には捕縛縄、警棒、檻のパス、包装紙に包まれた角砂糖三つ、懐中時計、そして遷都計画の日程表が入っていた。とりあえず縄と銃と砂糖を頂戴した。本当は催涙弾とかナイフあたりが欲しかったけど、まあ贅沢は言えない。ともかく、戦闘は避けたほうがいい。こんな銃でも脅しくらいには使えるはず。とにかく進むしかない。嫦娥様のいるところまではもう少しだ。肘がずきずきと痛むが、仕方がない。私の慢心の代償だ。持ってきたモルヒネの錠剤を飲み下し、拝借した角砂糖をひとつかじった。
 収容部屋を抜けると廊下の先に扉が見えた。あの先が第八ユニットだ。荷物を積んでいるだけのはずなのに、なぜか切り離し機構と、救命装置が備え付けてある。おそらく嫦娥様がいるからだ。それ以外に考えられない。
目標は眼前だが、純狐さんは思いのほか穏やかで、因縁に決着がつくようには思えなかった。純狐さんに気を配りながら足を進めていると、音もなく扉が開いた。

「しまった」

 守衛だ。何人も、しかも銃剣を構えて、ゆっくりと近づいてきた。明らかに臨戦態勢だ。一人二人はいるだろうと思っていたけど、十は超えている。想像より厳重だった。いや、そうじゃない。十中八九、衛生班が報告したのだろう。看守が起きたにしては早すぎる。さすがに誤魔化しきれなかったか。見逃したのも考えてみれば当たり前だ。あの場で一戦交えるより、あえて袋小路まで追い込んで叩いたほうが良いに決まっている。
威嚇の意味を込めて、私も銃を構えた。鉄の冷たい感触は妙に手になじんだ。さて、どうするか、私の力では制圧は難しい。かといって純狐さんが動くと蹂躙だ。最後はそれしかないのだけど、せめてあの扉をくぐるまでは時間をかけたくない。あの先にあと何人いるかわからないし、ちょっとでも時間を稼がれたら逃げる隙になってしまう。
 少し考えて、ある手段を思いついた。血を見るが仕方ない。不意打ちで正面突破だ。私は純狐さんに耳打ちした。

「もう耳は捨ててください。私が隙を作ります。一直線に扉へ向かってください。あの先におそらく嫦娥様がいます」

 純狐さんは頷いて、耳を外した。その瞬間、殺意のようなどす黒い波長が膨れ上がるのを感じた。私は銃を構えながら、半身でゆっくりと歩を進めた。

「ふうぅぅぅぅ、ふううううう」

 息が荒くなる。思い付きにしては蛮勇で粗末な作戦だ。指先が震えている。覚悟、覚悟が必要だった。

「とまれ! 武器をおろし、直ちに降伏せよ」

 兵士の言葉を合図に私はゆっくりと左手から上げた。右手の銃はまだ放していないから相手だって緊張しているはずだ。事実、兵士たちの視線は私の動きに釘付けだった。見せつけるように左前腕、その真ん中の動脈を避ける位置に銃口を当て、銃の引き金を引いた。

「痛っ!」

 ばんという小さい音が身体を通り抜ける。それと同時に灼熱が全身へ伝播した。ここからだ、私は狂気の力で己の波長を、できるだけ広く共鳴させた。強制テレパシーだ! 傷はつかないが、痛みや灼熱は伝わるはずだ。

「ううううう!」

 痛い、思っていたより痛い! めまいも吐き気もする。だが、どうだ、敵兵もうずくまっている。ひいいと喚く者もいた。情けないことに玉兎は痛みに弱いのだ、傷にも。その点、私は慣れている。圧倒的に。痛みはひどいが、何とか動ける。左上腕に縄を巻き付け、口と右手で思い切り引き絞って止血した。

「純狐さん!」

 辺りを見回してもどこにもいなかった。よし! よし! 成功だ。きっとあの扉をくぐったのだろう。左手はもう使えないが、足は動く。出血も致死量じゃない。疼く痛みを堪えながら、扉に向かった。

「ぐっ、効くものか、行かせるかぁ!」

 さすがに全員はだめか。そりゃそうだ。実際に傷はない。相手は兵士だ。私なんかよりもよっぽど訓練している。効くのは一瞬で、心を強く持てば、簡単に私の波長などはねのけてしまうだろう。だが、もう手遅れだ。純狐さんを止められなかったのだから。私の勝ちだ。たぶん私はここで捕まって、牢に入れられる。この私はそれで終わって、次の私が生まれるだろう。だから勝ち逃げだ。
 純狐さんの咆哮が聞こえた。ようやく宿敵と対峙したか、あるいは勝利の雄たけびかもしれない。なんにせよ私の役目は終わったのだ。
 そう思った瞬間、船が一度だけがくんと揺れた。初めは力が抜けたのかと思ったがどうやら違う。扉が閉まり、けたたましいブザーが鳴り始めた。

「警告、警告、これより第八ユニットの切り離しに移ります」

 まずい、罠だ、罠だったんだ。嫦娥様はとっくに逃げていて、侵入者を流刑に処すために誘い込んだんだ! いや、本当にそうか、緊急避難装置が勝手に作動しただけかもしれないし、ああそんなことはどうでもいい、純狐さんが宇宙に流されてしまう。それが問題だ。発信機は……だめだ、さっき耳は捨ててしまった。ユニット自体に救命装置はあるかもしれないが、たいてい承認コードを要求されるし、純狐さんが使えるはずがない。どうする、どうしたら助けに行ける。扉を破る力はないし、ぐずぐずしていると私が捕まってしまう。
 起き上がった兵士たちがこっちに向かってきた。どうすればいい、左手は動かない、武器はリボルバーだけ、なんとか謝って誤魔化してすぐに師匠に連絡して、捜索艇を出してもらうとか……「あ」思いついたと同時に私は銃口を咥えた。自傷してばかりだな、とか他人事みたいに思った。引き金を引くと、耳だけが心音を最後まで捉えていた。


14

 目が覚めた。クリーム色の天井と白いシーツ、背中に伝わる硬い感触は良く知るものだった。
 成功だ。さすがは師匠、いや当然だ、不慮の事故に備えてクローン体のスペアを作っていないはずがない。ちゃんと左指が動く。まだ馴染んでいないから身体がだるいし、気持ち悪いけど、ともかく戻って来た。どれくらい時間が経っただろうか、時計とかは見当たらない。早く助けに行かないと。

「ぐぉ、おえ、うう」

 起き上がろうとして、吐いてしまった。空の胃から酸が逆流する感覚は余計に動く気力を奪った。まだ魂の適合が上手くいってないのだ。

「はい、ドクターストップ」

 ぽんと私の頭に掌が乗った。いつの間にか師匠がいた。

「まだ動けないでしょう、休んでなさいな。もうすぐ着くわ、リハビリはコロニーに移ってからでいいでしょ」

 どうやらここは船の中で、まだ金星のコロニーに向かう途中らしい。月から発ってせいぜい百時間あまり。この船のあとに五番艇が発っているはずだから、だとすればたいして時間は経っていない。

「し、師匠、その! 純狐さんが」
「落ち着きなさいな、無事よ。ヘカーティアが迎えに行って、切り離された救命船ごと地獄へ連れ帰ったわ。仙界をつくりなおして、落ち着いたら顔見せるって」

 師匠があまりにしれっと答えるので、私はあやふやに相槌を打つことしかできなかった。

「あ、そ、そうなんですね……」
「考えてもみなさいな。穢れの塊みたいな純狐を乗せているんだから船は地球へ向かうわ、焦らなくても座標なんて簡単に割り出せるわよ。ついでに一応答え合わせだけど、あの船には荷物と、嫦娥の肉体のクローンが積んであったのよ。物言わぬ影武者ね、まあ私が携わってないから命はないけど。本物の嫦娥はね、ずっと輝夜の部屋にいたのよ。永遠亭の。最初に姫が牢に入れられるときに入れ替わる形でね、だからこの船に乗っているわ。詰めが甘いわね」
「そ、そんな」
「部屋を封印してたのはそういうわけ。念入りよね、仰々しい警備や記録はダミーだったわけよ。衛生班も知らない話。そのせいで私もあまり外に出られなくなったけど。変な因果よねえ、警護を任せた人の身内が敵とつながっているなんて。まあ、あなたは別に嫦娥に恨みもないでしょう。私もないし」

 全部掌の上だ。師匠というより月の都の。跳ね回っても所詮は盤上の駒だったのだ。私の小さな革命はひとりの死傷者さえ出さなかった。いや私は初めからそれを望んでいたのかもしれない。師匠の穏やかな語りを聞くほど、私が、そして純狐さんが誰の命も奪わなかったことに安堵してしまう。とっくにこの手は穢れているはずなのに。内側にあった使命感みたいなものが完全に霧散して、力が抜けてしまった。

「あ、そうそう、船の中で純狐はずいぶん穏やかに待っていたそうよ。憑き物が落ちたみたいにだって。女神様からの言伝だけど「私の友人を救ってくれてありがとう」ですって。頑張ったじゃない」

 なにげないねぎらいは、空の胃を鉛で満たしたみたいに入り込んできた。ともすれば熱で膨張しそうなのに、今はずっと冷えている。ただ重かった。ふと目線を逸らすと、窓の外に美しい星が見えた。


第三幕 火鳥のコーダ

 今日は大気の循環が穏やかなので、星がよく見える灯台に純狐さんを連れて行った。この時間は誰もが空を見て、ぼんやりと星を願う。たくさんの穏やかな周波数があたりに満ちている。

「晴れてますよ、今日は綺麗に見えるんじゃないですかね」

 純狐さんは微笑んでいた。復讐は未だに果たされていないけれど、私が引き金を引いたあの日から緩慢に、純狐さんは言葉を失っていった。私はというと事故も含めて十回くらい転生を繰り返していた。勉強して知識も重ねたし、治療の腕だって磨き続けている。物理とか宗教は専門外だからわからないけど、医療は進歩し続けていて、私はなんとか食らいついていると思う。古いものは消えて新しいものがたくさん生まれる。代謝は常に起きていて、それはすべてに適応される。言葉だってそうだ。言葉は土地に根付くものだから、新しい星の新しい言語が形作られていく。だけど私や純狐さんの使う言語は地球のものだ。私は金星の大気に生まれたから故郷はここなんだけど、それでも私の海馬と言語野は、あの土地にいたことを忘れてくれない。空を見たがるのはそのせいだ。
 まあ、でも、私は怱忙に飲み込まれて、いずれこの望郷すら忘れていくのだとは思う。あまり頭が良くないし、大事なものは全部近くにあるから。ただ、純狐さんは別だ。心はいつも地球にあって、ずっと同じ月を見ている。だからこそ代謝についていけず、少しずつ変わっていくように見える。傍にいると、衰弱を目の当たりにしているようでとてもいたたまれないのだけれど、師匠は、これも純化の兆候だからまっすぐ受け止めなさいという。完全に純化された恨みは肉体に留まらず、空あるいは大地にわずかながら近づきがたい聖域を作るだろう。その瞬間、仙界は消える。そして純狐さんは思い出だけをその身に残し、穏やかに生きていくという。それが自然なのだと、師匠はまるでおとぎ話のように語っていた。
 まだ目は生きている。耳はわからない。普通は最後まで耳が生きているはずだから、私はたくさん話しかけるようにしていた。

「あ、見えますよ、目を凝らすとほら」

 今日は地球と金星が最も接近する日だ。地球の周りには砕け散った月が円環を成していた。月が接近する際、互いの引力で崩れたのだ。月の欠片は、少しずつマグマの地上に落下し続けているという。決して安定せず、膨張と収縮を繰り返しながら、それでも壊れることはなく、地球は赤く染まっていた。誰かが言っていた。あの炎は弔いなのだと。穢れて彷徨うだけの記憶を清める浄火。あそこでたぶん姫様たちは今も喧嘩している。その現象は伝承を経て、永遠性を示すひとつの神話になりつつあった。
 私と師匠は別の真実を知っている。だからこそ永遠なんてないと思う。いつだって残火は燃え尽きる瞬間を待っている。あの喧嘩だっていつかは終わる、どうせまた始めるだろうけど。
 純狐さんのほうを見た。波長はずっと穏やかで、なのに相変わらず哀しい目をしていた。

「純狐さん、見えますか」

 瞳から涙がひとしずく、零れ落ちていた。その目に映る星はまだ燃えている。
読んでいただきありがとうございました。銃はS&W M29のイメージです。
灯眼
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100削除
面白かったです。話のスケールのデカさに度肝抜かれました。
4.100東ノ目削除
日本沈没していたり地球と月が衝突していたり比喩抜きにこの世の終わりみたいな事象が起こっている裏で幻想郷の空気感は割といつも通りというところに安心感を覚えました。特に、にとりのゆるーい感じ。だからこそ作中で例外的にと言っていいほど変わってしまう結末を迎える純狐さんが切なかったのですが。とても面白かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
いろんな不滅が見られた
結局何もかも不滅なんすかね
6.100南条削除
とても面白かったです
あとでない妹紅の旅といい、意地でラジオを続けるにとりといい、鈴仙のやけっぱちのような抵抗といい
どこを取っても最高でした
なんでこの前半と後半で話がつながるんだろう
7.100名前が無い程度の能力削除
感想が纏まりませんが、毛色の違う物語を繋ぎ合わせて更に深みが増していくのがとても面白かったです。
8.100きぬたあげまき削除
穢れの蓄積が重力になり、物事を地球の方へ沈めていく。土地から逃げない、ということがこの3人の共通点なのかもしれないと思いました。月へと移ることを拒んだにとり、地球へと戻った妹紅、金星へ移ることを拒んだ鈴仙、終わりが待っていることが分かっていても自分の望みに正直な選択をした彼女たちが胸を打つ話でした。
9.100夏後冬前削除
世界の終わりとラジオの親和性ときたら何なんでしょうかね。僕も明日世界が終わっても良いようにラジオを買っておこうかと思いました。
SFとしての面白さって胡乱な説明と物語の根幹とが相互にくっついたり離れたりする情報の洪水にあるんじゃないかなーなんて思っていて、そういうもみくちゃにされるような感覚がとても心地よかったです。
10.100めそふ削除
とても面白かったです。この話は前半の妹紅編と後半の鈴仙編で分かれていたのですが、特に妹紅の部分が好きでした。まず文体がめっちゃ好みで、妹紅がそれなりに明るく生きていながらも、それでも過去を大事な物として忘れられず、結局彼女の多くが幻想郷がまだ地球にあった頃で構築されているのが寂しさを感じられて良かったです。加えて、間に挟まれるにとりのラジオが本当に好きで、幻想郷が地球から無くなるまでの過程とその雰囲気をあえて明るく知れるのが余計に情緒的に感じました。結局幻想郷の奴らは地球での生活が終わることに対して割と冷静でいつもとそこまで変わらないような穏やかさであったけれども、それでも元気がなくて鬱々としているのが見てとれてしまう。それがラジオという媒介を通して見れるものだから余計に終末感が漂ってきました。
鈴仙編では穢れというものに対しての答えが出ていてそれが面白いなと感じました。零に戻る力が穢れであり、重力とは穢れの一つである。そうしてその穢れは想いや愛着で増えるわけだから、過去で形作られ、かつ蓬莱人である妹紅の穢れはとんでもないことになっていたのだろうと思います。故郷と思い出とそこにある愛着がこの話のテーマだったのかなと感じました。ありがとうございました。
11.100名前が無い程度の能力削除
一生懸命に終わる世界を生きている三人がとても魅力的でした。
12.100ケスタ削除
あてのない永遠というものが感じられるすごい作品でした。なんというかまぁ、こんなの書かれてしまってはかないませんね。
15.100バームクーヘン削除
話の壮大さに、ただただ圧倒されました。良かったです!