Coolier - 新生・東方創想話

かわらけ

2023/10/09 23:09:20
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 通り雨に降られ、慌てて家に帰ったのはもう半刻も前のことだった。僅かに湿り気を帯びた袖が纏わりつき、肴を用意するのにも煩わしい。
 普段なら典に用意させていたのだが、あの神は二人きりで酒を呑もうと誘ってきたのだから仕方がない。一方で、干物に花の実とあれこれ揃えてみても彼女が気に入った試しはなかった。それを思い出すと、近頃寝不足である龍の頭痛は酷くなるばかりだった。
 龍がアビリティカードの流通を担っていた間、彼女と顔を合わせる際には機嫌を損ねないように随分と気を回していた。折角の商売道具は、神の不興を買ってしまうだけで紙屑と成り果ててしまうのだから。
 けれども、市場の崩壊後も交流を続けたことで分かったことが一つ。

「──雨が降っているなら、今日じゃなくても良かったでしょうに」
 千亦は些か面倒な女である、と。

「……こんなに長引くとは、私も思っていなかったのですよ」
 小さくため息を吐いて、調理場から目を離す。その姿を目にする前から何となく予想は出来ていたのだが、やはり千亦は浴室をまた勝手に使っていたようだ。雨に降られていたのならと思う気持ちも幾らかはあったのだが、彼女の細い首にかけられた浴巾が目に入って仕舞えば、それもたちまち失せた。勿論、浴巾は千亦のものではない。龍にとっては良く見慣れたそれは、はてさてどこにしまっていたのか。
 呆れをぐっと抑え込んでいる間に、千亦は勝手知ったる他人の家を歩き始めてしまった。
「まだ肴の用意は出来ていませんよ」
「後から持ってくれば良いでしょう。今日は何を作ったの?」
 客間へと続く回廊の真ん中で、振り返った紫紺が龍の手元をじっと見つめる。趣向を凝らしては突き返されることが続いていたから、今回はだし巻き卵を作ってみたのだ。おかげさまで、龍の料理の腕前は上達するばかりだった。
 さあ、今日もケチを付けるかと思われたが、千亦はふうんと言って目を逸らした。飾り方が汚いだとか、どうして葱を入れないんだとか、そう言った言葉が出て来ないだけでも御の字である。
「大分甘い味になりましたが、きっと貴方好みの味付けだろう」
「なら、これとも相性が良さそうですね」
 千亦は腰に引っ提げていた、小さな酒瓶を見せながら言った。それが辛口であると十分に知っていた龍の口元も、思わず緩んでしまう。甘味はあまり好んで口にしないのだが、今日はきっとそうならないはずだ。

 大天狗の屋敷ともなれば、その広さはかなりのものである。大人数が入っても問題ない客間もあるのだが、二人で呑むのに丁度良い八畳程の部屋も設けられていた。その中央にある炬燵に酒瓶と小皿を一つずつ置くと、すぐさま千亦が入り込んだ。
 随分と冷え込んでいるからか、手のひらを擦り合わせて暖を取ろうとしている。庶民的な行動だったが、その様は小動物のようにも見えた。思わず龍が鼻で笑ってしまったのを見て、彼女はつんと言い放った。
「お前が酌をしないなら、呑まないつもりよ」
 それでも視線は卵の方にちらちらと向けられている。どうやら、せっつかれているらしかった。
「あと幾つか、持って来ましょう。その後は幾らでも次いで差し上げよう」
 にこりと微笑んでから立ち去ったが、千亦が追ってくる気配はしない。酒を呑もうとする素振りも見せなかった。まあ、箸もなければ杯もないのだから、できることと言えば炬燵に潜ることぐらいしかないのだが。
 龍が肴と一升瓶──蟒蛇である龍にとっては、あの程度の酒しかないのは物足りなく思えたので──を持ってくると、千亦の姿は見えなくなっていた。
「……火傷にはお気をつけて」
 ぺろりと炬燵に被せた青い布団を捲ると、呻き声を上げる千亦が顔を出した。外気に触れてしまったのが不満だったようで、眉が上がっている。
 けれどもその顔も酒肴の匂いを嗅ぎつけると、ふっと和らいだ。
「柚子を使ったのね」
「ええ、大根に振りかけてあります。他にも用意しましたから、好きなものからどうぞ」
「……その前に、これも注いで」
 こんこんと机を叩きながら指差したのは、彼女が持って来た酒瓶。自分が酌をしなければ呑むつもりはないと言っていたことを慌てて思い出す。と同時に、皿の上に置かれた柚子の実が目に入り、これが悪趣味な茶番劇であることにも気づいた。
 これに乗ってやるのもまた一興かと思い、龍は持って来た杯を一つ手に取った。そして千亦にまじまじと見つめられながら注いだそれを、溢さぬようにそっと手渡す。
 感心したようでいて、どこか落ち着かない様子の千亦だったが、長い沈黙の後に漸く口を開いた。
「──昔の人の香りがするのは、どうしてでしょうね?」
「さあ、それは分かりませんが……今はまだ、花橘は咲いていない。貴方が懐かしんでいる人は、皐月にでもなれば現れるでしょう」
 余裕綽々に答えると、意外にも千亦は笑顔を返して来た。龍の予想では、悔しさを押し隠しきれずに悪態をつくのだろうと思っていたが。
 とはいえ、何も言わないでいるのも性分ではないのだろう、千亦の口は閉じていないのだ。
「お前の言う通りかもしれませんね。その人は“まめ”ではなかったから」
 不誠実を詰られてしまえば、流石の龍も答えようがなかった。事実であるが故に、否定する言葉も見当たらない。
 だからと言って、黙って受け入れるわけにもいかなかった。柚子の実を口に咥え、酸味に顔を顰めている千亦に向けて問いかけた。
「そう言えば、ご存知ですか?」
「新しい市場の話ですか?」
「いいえ、橘の起源。大昔に常世の国から持ち帰ったものだそうですよ。この山の橘は……誰が植えたのか、もう忘れてしまいましたがね」
 その瞬間、千亦の顔はみるみる歪んでいった。勿論、柚子の強烈な酸味によるものではなく、誰かを思い出してのものだろう。その誰かのことは、さっぱり見当もつかないが。
「柑橘をそのまま食べるのは、褒められたものではないと思いますよ」
「だ、だって……けほっ、しょうがないじゃない! 他の食べ方が思いつかないんだもの」
「そんなことなら、私に聞けば良かったのですよ」
 千亦の細い背中をさすってやりながら、龍は初めに用意していた、だし巻き卵を差す。
「あれにかけようと思って準備していたのに……ほら、どうぞ」
 柚子の実を絞っただけではなく、一口程の大きさに切り分けた上に、それを千亦の口まで運ぶ。我ながら甘いことだなと思いながら、龍は彼女の顔をじっと見つめた。どうせ仏頂面だろうと思っていたのに、なんと千亦は満面の笑みを浮かべて、美味しそうに食んでいる。
「お前が作ったものの中で、一番美味しいわ」
 おまけに、素直に美味しいと言っている。
 ここまで来ると、龍も何かがおかしいと思い始めた。大方酒の飲み過ぎだろうと思って杯の中を除けば、すっかり空になっていた。それだけでなく、酒瓶も残り僅かになっているのだから、呆れる他ない。
「身体を壊したら、元も子もないでしょうに」
「たった一日のことですよ? それに、雨が止むまでは短いのですから」
 雨が上がれば、虹がかかる。そうすれば千亦は市場を開くために、ここを出ていくだろう。
 ……いっそのこと、雨が止まなければ良いのに。自身の中で昏く弾けた感情に目を背けながら、龍は酒を飲み始めた。
「短いと言ったって、またここに来れば良い話だ。酒さえあれば、いつでも歓迎しましょう」
「そうですね……でも今日は、随分と長く降っています。まだ暫くは止みそうにありませんね」
 ちらりと龍の顔に向けられた視線が、少し下がって手元に向いていた。

 酷い雨の音で、もう何と言っているのかも分からない。確かなのは、雨が上がって屋敷に虹がかかるまではあと数刻かかるだろうと言うことだけだった。──それまで、虹は地に伏しているのだろう。
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コメント



0.150簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100夏後冬前削除
ちまちゃんめんどくさい女ですがこういう女がニッコリしちゃうと嬉しくなっちゃう気持ちわかっちまいます
4.100南条削除
面白かったです
柚子を丸かじりして苦しんでいる千亦に笑いました
7.100名前が無い程度の能力削除
千亦のキャラと、それを甘やかしてしまう龍の関係性が良かったです。
8.100名前が無い程度の能力削除
好き
9.90東ノ目削除
千亦が龍を振り回す方向性のめぐちま、意外と見ないので貴重なものを見たという気分でした。面白かったです
10.100名前が無い程度の能力削除
いい雰囲気でした。特に最後の一文、良かったです。