幻想郷の人里の市場には、果物も魚も並ぶ。
果物や魚は里の外でしか得られない。人里の問屋たちは、里の外で農業や漁業を営む者たちから商品を買い付けて、市場で人々に行き渡らせていた。
市場は、人里の中心地、人々が行き交う場所にある。
その市場の片隅で、一人の青年が、団子屋の軒先に設けられた長椅子に座っていた。もうどれくらいその位置に居座っているのだろうか。団子屋の店主が、つきたての新しい団子が乗った皿を運んでくる。そして、そのついでと、青年の傍らに置かれていた、5枚ほど重なった皿を片付けていく。青年は、人々が各商店の店先を流れていく様子へじっと視線を注ぎ続けていた。
「お客さん、熱心ですねえ。ずっと市場の様子を見てて」
髪を二つ結びにした団子屋の店主が、青年に声をかける。青年は振り返って笑い返した。それからいくつか言葉を交わし、話ついでに、青年が市場を見ていた理由を話していく。
「そろそろ仕事を決める歳になので、問屋になろうと思うんです。それで仕事の様子を見てて」
「そうなんですねえ。なにか、憧れた理由とかあるんですか?」
「ほら、問屋って、里の内と外を繋げる窓口みたいなものじゃないですか。だから、なんか良いなって」
青年がそう語ると、団子屋の店主はふふ、と微笑んだ。
「良いですねえ。お客さんが話してる様子を見てると、本当に良い仕事だって思ってるんだなって伝わってきます」
店主に言われて青年は思わず微笑み返す。どこか心地よい気恥しさも覚えて、曖昧な相槌だけで店主に応えた。そうして店主が店先に戻っていった後、青年はまた、市場の様子へ目を向けた。
店が立ち並んでいる。人々が行き交っている。そうやって青年の視線は、市場の道が伸びていく先、遥か遠方へ向いていった。その時、青年の表情は、一段と和らいでいた。
市場の道を進んだ先に続く、里の外。青年は目には映らないその場所を、ただただじっと見つめていた。
東方project二次創作
『里の外』
青年は、まず手始めに商品を買い付ける相手を探そうと思い立った。どういう商品を扱うかは、実際にそれを採る様子を見て決めたい。そう考えて、青年は人伝に聞いた、里の外にある人間の居住地を巡ろうと考えた。
しかしいくら居住地があると聞いた場所を巡っても、そこには何もなかった。陽が昇り始めたころに里の外へ出てから、どこを巡っても、荒れた野が広がっているだけだった。
もう太陽が一番強く照り付ける時間はとうに過ぎ、少しずつ日が低くなりだしたころのことだ。青年は、ある土地で地面に埋もれかけた岩に躓いた。その岩をよくみると、表面に浮かぶ凹凸が人の顔のように見えて、青年にはやたら不気味に思えた。
けれども、その岩の凹凸は、妙に青年の心に引っかかった。しばらく青年は足元の岩を見つめていた。やがてしゃがみ込み、その岩の表面へ指先を伸ばし、なぞりはじめた。指先に岩の感触が伝わる。
――ああ、確かに人の形のような、凹凸がある。
青年はそう感じ取った。
それから、青年は不意に、自分が問屋に憧れた理由を思い出した。
「……そういえば、人里の外をここまで見ることが出来たのは、今日がはじめてか?」
そんな言葉が青年の口から漏れて出てきた。
青年は、ずっと人里の中ばかりで暮らしてきた。だから、里の外からやってくるモノに興味があったのだ。
見知らぬ場所から、自分が住む土地では手に入らないものを荷台に乗せて、遥々運んでくる者たち。自分の住む場所とは異なる暮らしを営む者たち。思えば、青年は幼いころからそういう存在に惹かれていた。
いったい、どうやったら、あの見知らぬ場所からやってくる人たちと繋がることが出来る? 気が付けば、それが青年の関心ごとだった。だから、仕事を決めるような年頃になったとき、問屋という仕事に興味持ったことに、青年はまるで違和感を感じていなかった。
もう一度、青年は岩の表面をなぞった。確かに、指先からは岩の感触が伝わってきた。そこには岩があった。
――自分は、いま、得体の知れない不気味な岩に触れている。
そういう思いが、青年の胸に静かに浮かび上がってきた。青年はもう一度、視界の先に広がる荒れ果てた野を見た。
――里の外の、景色だ。どういう景色が広がっているのだろうと、幼いころから想像し続けた景色だ。その正体が、目の前にある。
青年の体が、微かに震えた。けれどもそれは、どこか体の根から産声が湧きたつような、力のこもった震えだった。
青年の唇は、かすかに持ち上がった。
……… …… … …… …… … …… ………
陽が沈んでいく。もう少しすると、夜が降りてくる。青年は肌に冷ややかな空気を感じて、里へ戻る足取りを急いだ。そうして里に帰るにつれて、青年の頭には、先ほど見た景色の奇妙さばかりが目立つようになった。
――居住地があると聞いた場所をいくら巡っても、何処にも、何もなかった。これはどういうことだ?
どうもおかしいと思った青年は、人里の問屋たちにその話をした。しかしどの問屋も、青年の話を聞いたところで、大口を開けて笑うだけだった。
「お前が馬鹿なだけだ。道も分からんのか」
もう何度目のことか、ある問屋からそうやって一笑に付されたとき、青年はムキになって言い返していた。
「俺が見たモノが間違いだっていうのか? そんなはずはない、本当に何も無かったんだ!」
しかしその問屋は、青年をまるで相手にしなかった。
「じゃあ商品を卸してくれるあの人たちは、どこへ帰ってくんだ? いいか、馬鹿なことを考えるな。里の外によ、居住地はあるんだ。そうに決まってんだよ……」
そう言って、その問屋はそれ以上青年の話に耳を貸すことはなかった。余計なことは考えたくない。まるでそう物語るように、年月を重ねたであろう問屋の目蓋は、重たげに半分閉じかかっていた。
けれども青年は納得しなかった。だから、里の外から問屋に荷物を運んでくる者をつけてみようと考えついた。
――そうだ。もっと正体を知ろう。真実を見てみよう。
いつしか、青年は頭の中で、里の外からくる者のことと、里の外のことばかりを考えるようになっていた。そしてあくる日、ちょうど空が高く晴れて、雲も一つとして無く、太陽を高々に見上げられる日に、青年はその想いを実行した。
青年が動き始めたのは、ちょうど、昼を少し過ぎたころのことだ。太陽は一番高いところから、真っすぐに白い光を人里に射していた。
里の外から品物を運んできた者は、里での用事を終え、軽くなった荷台を引きながら野へ出ていった。青年は、その後を慎重に距離を窺いながら追っていった。そして里の外の者が進み、青年が辿り着いた場所は、以前青年が聞いていた居住地とは、まるで違う場所だった。そこは木々が立ち並ぶ暗い森だった。
青年は不審に思った。それで、遠方から注意深く相手を見ていた。しかし、ある木々の隙間を里の外の者が通った時のことだ。里の外の者の姿は、木々の隙間の向こう側にたどり着くことなく、どこかへすっと消えてしまった。
ヒッ。
状況へ思い巡らせるよりも速く。目に映った光景への反射として青年の口から声が漏れる。
青年は見た。里の外のモノがどこへ消えたのか、ではない。ただ、里の外のモノが消えた木々の隙間に、無数の目が浮かんでいた有様を、見たのだ。
青年の脳に、暗闇に無数の目だけが浮かぶ光景が、焼き付いて消えない。青年の頭と胸に、言いようのない感覚が押し込まれていく。今はもう、木々の隙間に何も見えない。けれども。
――ああ。あの目は。あの目は……。
青年は、暗闇に浮かんでいた目は、青年をじっと視ていたように思った。
――得体の知れないモノがいた。得体の知れないことが起こった。
そういう思いが、青年の脳と、肺を、押しつぶそうとしていた。
苦しい。胸が、苦しい。
しかし同時に、奇妙な感覚も生じていた。青年の頭と胸に入り込み、脳と肺を押し潰そうとしているその感覚は、確かにそこに在るように思ったのだ。気の持ちよう、気のせいなどではない。確かに、青年の頭と胸に、異物が入り込んでいる。そういう感覚があった。きっと頭蓋を砕くか、胸を裂くかして、手を内側に入れたのなら、脳や臓物ではない何かに触れてしまう。青年には、そういう確信があった。
なにかが、どこかから入り込んできた。
そして、その感覚が、首と顎を上り……あるいは、目と鼻を下り……唇に達して。青年の唇の形を、歪めるのだ。ぐにゃりと。唇は、形を歪めて、また一つの、いままでとは異なる形を成り立たせた。
青年には、その歪んだ唇の形の感覚に、覚えがあった。
――真っ暗だった。でも、明るかった。だから、外へ出てみたいと思った。
幼いころの記憶。青年がはじめて親の言いつけを破ったときのことだ。夜に野外へ出た時、何も見えなかった黒いだけの視界の中、空に、一つだけ月陰が灯っていた。その光景を見上げた時の、唇の感覚だ。
今、青年が感じている唇の感覚は、その時の感覚と、よく似ていた。
その幼い時分、青年は思っていた。
――ああ、夜空は人里の外なんだ。ずっと遠くに灯る月は、あんなに美しいんだ。
幼いころの夜、はじめて青年は、そのことに気が付いた。
……… …… … …… …… … …… ………
青年は慌てて人里に帰った。
どうやって走ったのか、体の感覚はめちゃくちゃだった。青年の脳の中で、一つの観念が懸命に駆け巡っていた。
――里の外は何が在るか分からない。妖どもの土地だ。居てはならない。いけない。
そういう観念が駆け巡っていた。
だから、人里に入った時は生き返った心地がした。それでも、青年は自分の見たモノが本当に恐ろしくって、そのままの勢いで稗田の屋敷に駆け込んだ。人里一番の知識人に、自分が見たモノを伝えないではいられなかった。
稗田の屋敷の女中に、青年が自分が体験したことを伝えると、すぐに当主の御阿礼の子の前に通された。
御阿礼の子は青年の訴えを熱心に聞くと「それは大切なことを伝えてくれました。ありがとう。少し待っていただいてもいいですか」と告げた。青年が頷くと、御阿礼の子はすすと立ち上がった。しかし、そこで青年の口から、咄嗟に言葉がついて出てきた。
「ええ、稗田様。でも、できるだけはやくお戻りになってください。あなたがどう思うのか……ご意見を聞きたいのです。私が視たあのモノを、稗田様はどう見るのか、意見を交わしたいのです」
御阿礼の子は、青年のその言葉を静かな瞳で受け止めると、ちょっと頷き返した。そして、襖を開けて、その先へ境を跨ぎ、また襖を閉めていった。
青年は落ち着かなかった。けれども呆然としたように頭が何も働かなかった。
人里に戻る観念をかき鳴らし続けた脳は、焼け落ちてしまったかのように静かだった。それでいて、なにかが、青年の頭の中にぼうっと膨らみ、脳を融かして、溶け合おうとしているような心地がした。それから、胸には肺の代わりに何か靄や霧のようなものが満ちて、それが空へ浮かぶような心地を全身に循環させているような気持がした。
そして、そういう状態の中で気が付いた。
御阿礼の子が閉じていった襖だ。少し、空いている。ほんの少しだけ、隙間が、空いている。そこまで気づいて、それから。
ヒッ、ヒッ。
またそんな音が青年の口から漏れた。隙間が、空いている。その隙間から、いくつもの目が、青年を、見ている。それを、青年はいま、見ている。
その光景が、目を通じて、青年の頭の中に、入りこんでくる。
――ああ、視ている。視ている。俺は視た。あれを視た。
そんな言葉が、青年の頭の中で反響する。
――だから、あれも、俺を視て、離さない。もう離さない。いいや、違う。俺が視たから、あれも俺を視た。俺が先だ。すべては俺がはじめ。だから、俺が視て離さないから、あれも俺を視続ける。視ていて離さないのは、俺か? あれ? あれ。あれ、とは? あれとは。
あれ。目。目だ。目玉。無数の目玉。
空いた襖の隙間から、大気が流れ込んでくる。それは口を通して、青年の胸の中に、入りこんでくる。青年の中に満ちてくる。目玉が入ってくる。青年の中に入ってくる。近づいてくる、近づいていく……。青年か、目玉か。そして、目玉は青年の中でその存在を大きくしたかと思うと、その境界を曖昧にした。
青年は気がつくと、いつの間にか土の上にいた。木々が地面から突き出しているのが見える。外か。いままで御阿礼の子の屋敷にいたはずなのに? あたりは薄暗くてよく見えなかったが、森の中のようだった。
わけがわからなかった。青年はどうしたらいいのかも分からず、呼吸の仕方も忘れてしまった。胸が苦しい。喉が蛆虫になってしまったかのようにのたうち回っている。頭の中は消し墨を燃やし続けるように熱しきっていた。顔の形は跳ねては窪み、瞳からは涙が溢れ出てくる。
「ねえ、これは食べてもいい人間?」
そんな声が聞こえてきた。そう思うと、途端に視界が真暗くなった。
ヒッ、ヒッ、ヒッ。
もはや痙攣のように青年の口から恐怖が漏れ出てくる。
「ええ、それは食べてもいい人間よ」
ヒッ。
そんな声が聞こえた。
それで、青年は気づいた。木々の立ち並ぶ土。薄暗い景色。ここは、人里の外か。
外か。人里の。ここが。この状況が。
そこまでわかると、青年の頭と胸は、平静となった。
青年の口から、うめき声が漏れる。ただただ漏れ続ける。
これが、空気の振動が、喉を通る、ということなんだ。青年は、その感覚を確かめる。
頭には、満ちている。もう、満ちていた。胸にも、満ちていた。もういっぱいに満ちていた。だから、青年の体には、胸から循環するそれが指先に至るまで巡っていたし、青年が、視て、聴いて、嗅ぎ、味わい、触れる、それらは、青年の中に抵抗なく滑り込んできた。
人里の外はどうなっているのだろう。ずっと、知りたいと思ってきた。人が農業や漁業を営んでいる。どんな有様なんだろう。ずっと、分かりたいと思っていた。そして、いま、青年は、人里の外にいる。触れている。味わっている。嗅いでいる。聴いている。視ている。人里の外の暗闇を、視ている。
青年は思い出す。暗闇に一つ灯っている、月の美しさ。
それから、一つの目玉が青年を見つめてきた気がして、その後には、もう青年には何も視えなくなった。
数日後のことだ。
稗田の屋敷がわざわざ手助けをしたその葬式は、故人の生前と比べると多少豪勢になった。供物として果物の盛籠がふんだんに送られ、参列客には精進落としとして新鮮な魚を使った寿司が振る舞われた。
里の外からの、手向けだった。
里の外(了)
果物や魚は里の外でしか得られない。人里の問屋たちは、里の外で農業や漁業を営む者たちから商品を買い付けて、市場で人々に行き渡らせていた。
市場は、人里の中心地、人々が行き交う場所にある。
その市場の片隅で、一人の青年が、団子屋の軒先に設けられた長椅子に座っていた。もうどれくらいその位置に居座っているのだろうか。団子屋の店主が、つきたての新しい団子が乗った皿を運んでくる。そして、そのついでと、青年の傍らに置かれていた、5枚ほど重なった皿を片付けていく。青年は、人々が各商店の店先を流れていく様子へじっと視線を注ぎ続けていた。
「お客さん、熱心ですねえ。ずっと市場の様子を見てて」
髪を二つ結びにした団子屋の店主が、青年に声をかける。青年は振り返って笑い返した。それからいくつか言葉を交わし、話ついでに、青年が市場を見ていた理由を話していく。
「そろそろ仕事を決める歳になので、問屋になろうと思うんです。それで仕事の様子を見てて」
「そうなんですねえ。なにか、憧れた理由とかあるんですか?」
「ほら、問屋って、里の内と外を繋げる窓口みたいなものじゃないですか。だから、なんか良いなって」
青年がそう語ると、団子屋の店主はふふ、と微笑んだ。
「良いですねえ。お客さんが話してる様子を見てると、本当に良い仕事だって思ってるんだなって伝わってきます」
店主に言われて青年は思わず微笑み返す。どこか心地よい気恥しさも覚えて、曖昧な相槌だけで店主に応えた。そうして店主が店先に戻っていった後、青年はまた、市場の様子へ目を向けた。
店が立ち並んでいる。人々が行き交っている。そうやって青年の視線は、市場の道が伸びていく先、遥か遠方へ向いていった。その時、青年の表情は、一段と和らいでいた。
市場の道を進んだ先に続く、里の外。青年は目には映らないその場所を、ただただじっと見つめていた。
東方project二次創作
『里の外』
青年は、まず手始めに商品を買い付ける相手を探そうと思い立った。どういう商品を扱うかは、実際にそれを採る様子を見て決めたい。そう考えて、青年は人伝に聞いた、里の外にある人間の居住地を巡ろうと考えた。
しかしいくら居住地があると聞いた場所を巡っても、そこには何もなかった。陽が昇り始めたころに里の外へ出てから、どこを巡っても、荒れた野が広がっているだけだった。
もう太陽が一番強く照り付ける時間はとうに過ぎ、少しずつ日が低くなりだしたころのことだ。青年は、ある土地で地面に埋もれかけた岩に躓いた。その岩をよくみると、表面に浮かぶ凹凸が人の顔のように見えて、青年にはやたら不気味に思えた。
けれども、その岩の凹凸は、妙に青年の心に引っかかった。しばらく青年は足元の岩を見つめていた。やがてしゃがみ込み、その岩の表面へ指先を伸ばし、なぞりはじめた。指先に岩の感触が伝わる。
――ああ、確かに人の形のような、凹凸がある。
青年はそう感じ取った。
それから、青年は不意に、自分が問屋に憧れた理由を思い出した。
「……そういえば、人里の外をここまで見ることが出来たのは、今日がはじめてか?」
そんな言葉が青年の口から漏れて出てきた。
青年は、ずっと人里の中ばかりで暮らしてきた。だから、里の外からやってくるモノに興味があったのだ。
見知らぬ場所から、自分が住む土地では手に入らないものを荷台に乗せて、遥々運んでくる者たち。自分の住む場所とは異なる暮らしを営む者たち。思えば、青年は幼いころからそういう存在に惹かれていた。
いったい、どうやったら、あの見知らぬ場所からやってくる人たちと繋がることが出来る? 気が付けば、それが青年の関心ごとだった。だから、仕事を決めるような年頃になったとき、問屋という仕事に興味持ったことに、青年はまるで違和感を感じていなかった。
もう一度、青年は岩の表面をなぞった。確かに、指先からは岩の感触が伝わってきた。そこには岩があった。
――自分は、いま、得体の知れない不気味な岩に触れている。
そういう思いが、青年の胸に静かに浮かび上がってきた。青年はもう一度、視界の先に広がる荒れ果てた野を見た。
――里の外の、景色だ。どういう景色が広がっているのだろうと、幼いころから想像し続けた景色だ。その正体が、目の前にある。
青年の体が、微かに震えた。けれどもそれは、どこか体の根から産声が湧きたつような、力のこもった震えだった。
青年の唇は、かすかに持ち上がった。
……… …… … …… …… … …… ………
陽が沈んでいく。もう少しすると、夜が降りてくる。青年は肌に冷ややかな空気を感じて、里へ戻る足取りを急いだ。そうして里に帰るにつれて、青年の頭には、先ほど見た景色の奇妙さばかりが目立つようになった。
――居住地があると聞いた場所をいくら巡っても、何処にも、何もなかった。これはどういうことだ?
どうもおかしいと思った青年は、人里の問屋たちにその話をした。しかしどの問屋も、青年の話を聞いたところで、大口を開けて笑うだけだった。
「お前が馬鹿なだけだ。道も分からんのか」
もう何度目のことか、ある問屋からそうやって一笑に付されたとき、青年はムキになって言い返していた。
「俺が見たモノが間違いだっていうのか? そんなはずはない、本当に何も無かったんだ!」
しかしその問屋は、青年をまるで相手にしなかった。
「じゃあ商品を卸してくれるあの人たちは、どこへ帰ってくんだ? いいか、馬鹿なことを考えるな。里の外によ、居住地はあるんだ。そうに決まってんだよ……」
そう言って、その問屋はそれ以上青年の話に耳を貸すことはなかった。余計なことは考えたくない。まるでそう物語るように、年月を重ねたであろう問屋の目蓋は、重たげに半分閉じかかっていた。
けれども青年は納得しなかった。だから、里の外から問屋に荷物を運んでくる者をつけてみようと考えついた。
――そうだ。もっと正体を知ろう。真実を見てみよう。
いつしか、青年は頭の中で、里の外からくる者のことと、里の外のことばかりを考えるようになっていた。そしてあくる日、ちょうど空が高く晴れて、雲も一つとして無く、太陽を高々に見上げられる日に、青年はその想いを実行した。
青年が動き始めたのは、ちょうど、昼を少し過ぎたころのことだ。太陽は一番高いところから、真っすぐに白い光を人里に射していた。
里の外から品物を運んできた者は、里での用事を終え、軽くなった荷台を引きながら野へ出ていった。青年は、その後を慎重に距離を窺いながら追っていった。そして里の外の者が進み、青年が辿り着いた場所は、以前青年が聞いていた居住地とは、まるで違う場所だった。そこは木々が立ち並ぶ暗い森だった。
青年は不審に思った。それで、遠方から注意深く相手を見ていた。しかし、ある木々の隙間を里の外の者が通った時のことだ。里の外の者の姿は、木々の隙間の向こう側にたどり着くことなく、どこかへすっと消えてしまった。
ヒッ。
状況へ思い巡らせるよりも速く。目に映った光景への反射として青年の口から声が漏れる。
青年は見た。里の外のモノがどこへ消えたのか、ではない。ただ、里の外のモノが消えた木々の隙間に、無数の目が浮かんでいた有様を、見たのだ。
青年の脳に、暗闇に無数の目だけが浮かぶ光景が、焼き付いて消えない。青年の頭と胸に、言いようのない感覚が押し込まれていく。今はもう、木々の隙間に何も見えない。けれども。
――ああ。あの目は。あの目は……。
青年は、暗闇に浮かんでいた目は、青年をじっと視ていたように思った。
――得体の知れないモノがいた。得体の知れないことが起こった。
そういう思いが、青年の脳と、肺を、押しつぶそうとしていた。
苦しい。胸が、苦しい。
しかし同時に、奇妙な感覚も生じていた。青年の頭と胸に入り込み、脳と肺を押し潰そうとしているその感覚は、確かにそこに在るように思ったのだ。気の持ちよう、気のせいなどではない。確かに、青年の頭と胸に、異物が入り込んでいる。そういう感覚があった。きっと頭蓋を砕くか、胸を裂くかして、手を内側に入れたのなら、脳や臓物ではない何かに触れてしまう。青年には、そういう確信があった。
なにかが、どこかから入り込んできた。
そして、その感覚が、首と顎を上り……あるいは、目と鼻を下り……唇に達して。青年の唇の形を、歪めるのだ。ぐにゃりと。唇は、形を歪めて、また一つの、いままでとは異なる形を成り立たせた。
青年には、その歪んだ唇の形の感覚に、覚えがあった。
――真っ暗だった。でも、明るかった。だから、外へ出てみたいと思った。
幼いころの記憶。青年がはじめて親の言いつけを破ったときのことだ。夜に野外へ出た時、何も見えなかった黒いだけの視界の中、空に、一つだけ月陰が灯っていた。その光景を見上げた時の、唇の感覚だ。
今、青年が感じている唇の感覚は、その時の感覚と、よく似ていた。
その幼い時分、青年は思っていた。
――ああ、夜空は人里の外なんだ。ずっと遠くに灯る月は、あんなに美しいんだ。
幼いころの夜、はじめて青年は、そのことに気が付いた。
……… …… … …… …… … …… ………
青年は慌てて人里に帰った。
どうやって走ったのか、体の感覚はめちゃくちゃだった。青年の脳の中で、一つの観念が懸命に駆け巡っていた。
――里の外は何が在るか分からない。妖どもの土地だ。居てはならない。いけない。
そういう観念が駆け巡っていた。
だから、人里に入った時は生き返った心地がした。それでも、青年は自分の見たモノが本当に恐ろしくって、そのままの勢いで稗田の屋敷に駆け込んだ。人里一番の知識人に、自分が見たモノを伝えないではいられなかった。
稗田の屋敷の女中に、青年が自分が体験したことを伝えると、すぐに当主の御阿礼の子の前に通された。
御阿礼の子は青年の訴えを熱心に聞くと「それは大切なことを伝えてくれました。ありがとう。少し待っていただいてもいいですか」と告げた。青年が頷くと、御阿礼の子はすすと立ち上がった。しかし、そこで青年の口から、咄嗟に言葉がついて出てきた。
「ええ、稗田様。でも、できるだけはやくお戻りになってください。あなたがどう思うのか……ご意見を聞きたいのです。私が視たあのモノを、稗田様はどう見るのか、意見を交わしたいのです」
御阿礼の子は、青年のその言葉を静かな瞳で受け止めると、ちょっと頷き返した。そして、襖を開けて、その先へ境を跨ぎ、また襖を閉めていった。
青年は落ち着かなかった。けれども呆然としたように頭が何も働かなかった。
人里に戻る観念をかき鳴らし続けた脳は、焼け落ちてしまったかのように静かだった。それでいて、なにかが、青年の頭の中にぼうっと膨らみ、脳を融かして、溶け合おうとしているような心地がした。それから、胸には肺の代わりに何か靄や霧のようなものが満ちて、それが空へ浮かぶような心地を全身に循環させているような気持がした。
そして、そういう状態の中で気が付いた。
御阿礼の子が閉じていった襖だ。少し、空いている。ほんの少しだけ、隙間が、空いている。そこまで気づいて、それから。
ヒッ、ヒッ。
またそんな音が青年の口から漏れた。隙間が、空いている。その隙間から、いくつもの目が、青年を、見ている。それを、青年はいま、見ている。
その光景が、目を通じて、青年の頭の中に、入りこんでくる。
――ああ、視ている。視ている。俺は視た。あれを視た。
そんな言葉が、青年の頭の中で反響する。
――だから、あれも、俺を視て、離さない。もう離さない。いいや、違う。俺が視たから、あれも俺を視た。俺が先だ。すべては俺がはじめ。だから、俺が視て離さないから、あれも俺を視続ける。視ていて離さないのは、俺か? あれ? あれ。あれ、とは? あれとは。
あれ。目。目だ。目玉。無数の目玉。
空いた襖の隙間から、大気が流れ込んでくる。それは口を通して、青年の胸の中に、入りこんでくる。青年の中に満ちてくる。目玉が入ってくる。青年の中に入ってくる。近づいてくる、近づいていく……。青年か、目玉か。そして、目玉は青年の中でその存在を大きくしたかと思うと、その境界を曖昧にした。
青年は気がつくと、いつの間にか土の上にいた。木々が地面から突き出しているのが見える。外か。いままで御阿礼の子の屋敷にいたはずなのに? あたりは薄暗くてよく見えなかったが、森の中のようだった。
わけがわからなかった。青年はどうしたらいいのかも分からず、呼吸の仕方も忘れてしまった。胸が苦しい。喉が蛆虫になってしまったかのようにのたうち回っている。頭の中は消し墨を燃やし続けるように熱しきっていた。顔の形は跳ねては窪み、瞳からは涙が溢れ出てくる。
「ねえ、これは食べてもいい人間?」
そんな声が聞こえてきた。そう思うと、途端に視界が真暗くなった。
ヒッ、ヒッ、ヒッ。
もはや痙攣のように青年の口から恐怖が漏れ出てくる。
「ええ、それは食べてもいい人間よ」
ヒッ。
そんな声が聞こえた。
それで、青年は気づいた。木々の立ち並ぶ土。薄暗い景色。ここは、人里の外か。
外か。人里の。ここが。この状況が。
そこまでわかると、青年の頭と胸は、平静となった。
青年の口から、うめき声が漏れる。ただただ漏れ続ける。
これが、空気の振動が、喉を通る、ということなんだ。青年は、その感覚を確かめる。
頭には、満ちている。もう、満ちていた。胸にも、満ちていた。もういっぱいに満ちていた。だから、青年の体には、胸から循環するそれが指先に至るまで巡っていたし、青年が、視て、聴いて、嗅ぎ、味わい、触れる、それらは、青年の中に抵抗なく滑り込んできた。
人里の外はどうなっているのだろう。ずっと、知りたいと思ってきた。人が農業や漁業を営んでいる。どんな有様なんだろう。ずっと、分かりたいと思っていた。そして、いま、青年は、人里の外にいる。触れている。味わっている。嗅いでいる。聴いている。視ている。人里の外の暗闇を、視ている。
青年は思い出す。暗闇に一つ灯っている、月の美しさ。
それから、一つの目玉が青年を見つめてきた気がして、その後には、もう青年には何も視えなくなった。
数日後のことだ。
稗田の屋敷がわざわざ手助けをしたその葬式は、故人の生前と比べると多少豪勢になった。供物として果物の盛籠がふんだんに送られ、参列客には精進落としとして新鮮な魚を使った寿司が振る舞われた。
里の外からの、手向けだった。
里の外(了)
ヒヤリとしたものを感じました。
面白かったです。
青年が狂っていく姿が怖くて震えました