剛欲同盟の人材不足はもはや致命傷の域に達しかけていた。
それはもう足りなくて足りなくて、サークル参加者だけで回してる同人即売会かよと揶揄されるくらいに足りなかった。
『同盟長……何とかしやがっていただけますと非ッ常~~~ッに嬉しいのですが、お考えはありやがるんでしょうな?』
地底の奥底、石油のように黒ずんだ不気味な液体が広がる血の池地獄。既に心身共に限界のオオワシ霊が怒気を全く隠さずに迫る。彼(?)は畜生界の極道組織、剛欲同盟の一構成員でしかない下っぱ霊だが、これでダメなら脱退か死ぬかのデッド・オア・ダイの覚悟であった。とっくに死んでいるが。
「ああうん、何かその、ごめんて。流石に放ったらかしすぎたと反省してる」
その同盟長、饕餮尤魔は配下の凄みに感心してか素直に頭を下げる。地獄で上手くやっていくならそれぐらいの度胸は必要だ。まして地獄の中でも狂獣が集まってしのぎを削る畜生界では。
「あー、気になってはいたんすよね。同盟長なのにこんな所で油飲んだりして油売ってていいのかって。やっぱり火の車だったんだ」
彼女は天火人ちやり。最近になって尤魔と盟友の契りを結んだ、一応は剛欲同盟の一員である。一応というのは、お互いにこう思っていたからだ。
『ああ、ちやり(私)ってスパイだったけどまだ同盟メンバーなんだ。じゃあそれでいいよ』と。
「この際だからぶっちゃけても構わんぞ。ちやり的にウチの人員が少ない理由って何だと思う?」
「んんー……そりゃまあ、何すりゃ良いのか分からないからじゃ?」
「やっぱそれかー」
尤魔は羊毛のようなもこもこの頭をボリボリと掻いた。
各々が組織の利となるよう行動すべし。それを剛欲同盟のモットーとして、尤魔を始めた同盟員それぞれが勝手に動くのが強みであり、しかし弱みでもあった。世の中の生き物は大半が最低限の事だけして生きていたい怠惰なものだ。
暴走天馬、驪駒早鬼のワンマン経営に付いて行けば良い勁牙組。怜悧な暴君、吉弔八千慧の駒となっていれば良い鬼傑組。それらに比べて自分の考えで貢献するのは無能な怠け者にとって荷が重い。
『ちなみに我ら猛禽一族まで抜けたらいよいよ同盟は終わりです。同盟長とそこの新入りと、あとは影武者の坊ちゃんとバビルサファミリーくらいです』
「バビルサって、伸び曲がった牙が自分の頭を貫いて死ぬっていうあの珍獣の? やべーな、死のカウントダウン始まってるじゃん。とっくに死んでるけど」
「バビルサもテンカジンにだけは珍獣とか言われたくなかろうがな。いや、そもそもお前ってムジナだっけ?」
「あ、自分は今チュパカブラキャラで行くことにしてるんで。ムジナなんて流行らないし」
「あん? じゃあチュパカブラちやりに改名か。売れない芸人みたいだが」
「んー、でも自分テンカジンなんで天火人・チュパカブラ・ちやり、みたいな……」
『そんな事はどうだっていいんですよ!』
危機感無くのんきに喋る二人を怒鳴り付ける、オオワシの瞳には血涙が浮かんでいた、ように錯覚した。幽霊には血も涙も無いので実際に流れるはずがない。
「……そんなに死にそうな顔するぐらいなら、お前達も抜けるか?」
『くっだらない事言わないでくださいよ! 私らが同盟長の事どれだけ慕ってるか知ってるくせに!』
「お、おう。すまん、心にもない事を言った。許せ」
『いいです。とにかく、我々は組織として経理とか事務で手一杯なんで! だから同盟長は人事をお願いしますよ! 新入りも一緒に!』
捲し立てるだけ捲し立てると、オオワシはその名の所以たる大翼を羽ばたかせて本部へと戻っていった。
「……行くか? スカウト活動」
取り残された尤魔とちやりは苦笑するしかなかった。格なら圧倒的に下の一幽霊にガミガミと叱られ、血の池地獄にぽつんと立っている自分たちの間抜けな姿。見た目だけなら悪い事をして玄関の前に立たされている子供に近い。
「行くのは良いんですけどね、今更入れと言って入ってくれる霊なんているんです? 大体もう驪駒か吉弔の配下じゃ?」
「そりゃやり方はいくらでもあるさ。吉弔の手だから好かんが親兄弟の名前を出すとか、馬鹿っぽい方法なら人材獲得デスマッチなんてのもな」
「あ~、いかにも驪駒が好きそうな……」
「吉弔も割と楽しそうだったぞ」
かつてはこれで八千慧を溶岩の海に投げ落としたり、早鬼を馬乗りで分からせてやったものである。まだ組織が若かったから許された事だ。
「しかし今さらこんな泥舟に乗り続けたい奴がいるとも思えん。お前だって入ったばかりだ……降りたっていいんだぞ?」
「だからさあ、らしくない事言うなよ。伊達で剛欲なんて名乗ってるわけじゃないんだろ。ダチなんだから付き合うって」
「そうか……そうだな」
地上侵略作戦が無駄に終わったり、かつての仲間が式神に成り下がっていたりと、少し感傷的になっていたようだ。私らしさとは一体何だ。いいや目の前にあるじゃないか。
尤魔は辺り一面で沸き立っている血の海に巨大な匙を突き刺し、まるで意思を持っているかのようにどろりと匙に纏わりつく赤黒い液体を、浴びるように大口で飲み干した。血とは単なる体液ではない。その生き物が死ぬまでに貯めこんできた記憶や感情、生命力の結晶であり、それを無限に吸収してきた彼女は滅びても再生を繰り返す、紛う事無き怪物なのだ。
「クク、やっぱエネルギー補給はこいつに限る。じゃあ、行くとするか」
「ういす。驪駒か吉弔か、どっちから殴り込むんで?」
「カカカ、それも悪くないがな。一杯飲んだら思い出したんだよ、ちょうどいい奴らをさ」
人材を募集したい時、建前としては合法な手段で何があるだろうか。広告、コネクション、スカウト等。どれも悪くは無いが、尤魔が考えたのはもっと地獄に相応しい方法だ。
すなわち、職業安定所である。
「お帰り願います。つまらない事で残無様の貴重なお時間を奪わないで」
安定所員、もとい案内人の返事は取り付く島もないものだった。
ストーキングを趣味とする地獄のキャッチ、その名を豫母都日狭美(よもつ ひさみ)という。死後の世界に落ちた者を必要以上に地獄へ導く事に定評のある黄泉醜女だが、そんな彼女でも本当に無節操な案内をしているわけではなかった。日狭美なりの利があるからこその掟破りであり、つまり尤魔のお願いなど聞く義理は無いのである。
「んー、でもなあ……驪駒と吉弔にはあの初々しくて食いごたえのある犬と猿をやったんだろう? なら私にも雑魚の百匹や二百匹ぐらい紹介した方がバランスが取れると思わないか。なあ残無、様ァ?」
「阿呆抜かせ。そこの天火人で十分すぎる程釣りが出たじゃろうに」
「私もこいつもそれなりに年季が入ってるんでな、もっとフレッシュな若手が欲しいんだよ」
「新鮮味のある死者が欲しければ屠殺場にでも行け。豚でも牛でも鳥でも選り取り見取りじゃろう」
地獄の深部から彼女は全てを見透かしていた。日白残無(にっぱく ざんむ)は今回の畜生抗争を地の底からコントロールしていた人鬼だ。地上進出を目論んだ三勢力の戦力を拮抗させて共倒れさせる、という策を講じていたのだが、その必要も無くなった現在は元通り地獄の管理者に戻っていた。
そんなバランサーの彼女であれば弱体した我らの同盟を放っておけないだろう、という甘い期待の下で蜜をすすりに来た訳である。
「……おい日狭美、地獄に来たやつ全部私の所に案内しろ。そんな勝手な事すりゃきっと残無様は怒髪天だろうぜ」
「それは……ふむ、一理有りますわね」
「無いわバカモン。極道ならもっと極道らしく悪巧みせんかい」
日狭美の行動原理は非常に単純である。勝手に慕っている残無からお褒めの言葉かお仕置きを賜れるなら何でもする、だ。
地獄の猛者共を掌の上で転がすカリスマにも御しきれない者が居る。それが日狭美のような好意の暴走から理にかなわない行動をするタイプなのだった。
「残無様よ、ぶっちゃけ要らんから畜生界に落としたい奴とかいるだろう? それをこっちに流してくれれば良いわけだよ」
「落としたいのなら儂のすぐ横に居るがな。どうせ送ったところで帰ってきよるじゃろ」
「ああん、残無様ってば意地悪。でもそういう所も」
「それに地獄の何処行きかは閻魔の管轄じゃ。勝手な真似をすると特に映姫の奴が煩くてな」
既に日狭美が追放された体で残無は話を続ける。どうせ放っておいても都合良く解釈して勝手に悶えてくれるので。
「あのお堅い閻魔か。小町ちゃんの爪の垢でも煎じてやりたいもんだぜ」
「逆じゃ逆。第二の花映塚異変が起きるわ。とにかく、畜生道に落ちるべくして落ちる奴以外はそっちに行かせんぞ」
「残無様さあ、聞いた話だと畜生界が変な埴輪に占領された時は何もしてくれなかったそうじゃないすか。ちょっと冷たくない?」
「いいぞちやり、言ってやれ言ってやれー」
「その時はこの場に居る全員居なかったじゃろうが。滅多(めた)な事を言わせるな!」
話は一向に平行線であった。人材寄越せ、やらんの繰り返し。もっとも、極道の一組織だけに肩入れしろなど、身内を人質にでも取られなければ断って当然なのだが。
「ああもう面倒臭いのう……日狭美、あれ!」
「はい残無様、あれでございますね。この方なら手始めにこの辺りから……」
「それじゃないわ大ボケが。はあ……」
残無は口調に見合うゆったりとした動作でよっこらせと立ち上がった。バラ鞭を握った日狭美の横を素通りし、拾い上げたのは地の底にまで辿り着いていた流木である。
「結局の所、なるようにしかならん。終わるようなら饕餮とはその程度だったまで。これでも持って畜生界に帰るんじゃな」
さらに筆を手に取ると、板状の木に達筆で文字を書き込んでいくのであった。
『おいアレ……饕餮じゃ?』
『バカお前、様を付けろ。喰われるぞ……』
摩天楼が乱立する日の当たらぬ場所、畜生界のメトロポリス。畜生同士の血みどろの争いなど日常茶飯事でしかないこの地に、そんな畜生ですら狼狽える光景が展開されていた。
「えー……剛欲同盟~、剛欲同盟をヨロシクお願いしまぁ~ッス……」
「もっとハキハキ喋らんかい! 今のお前は看板背負ってるんだぞ」
饕餮尤魔と、その子分らしいよく分からない妖怪が文字通り看板を背負っている。キャッチセールス自体はそう珍しいものではない。しかし尤魔がメトロポリスを練り歩いている事がもはや珍事件なのである。剛欲同盟の饕餮と言えば、なんか存在しているらしいけど居ない奴。あろう事か剛欲同盟員の一部にすらそのような認識が広まっていた人物なのだから。しかもそれが自ら「新人大募集」の立て看板を持って声を上げている。もはや天変地異である。
「今なら私が着ているこの剛欲同盟シャツも付いてくるぞ~。なんと、あの日白残無様の手書きっすよ~」
ちやりのシャツの背中側には、これまた達筆で剛欲同盟の四文字が書かれていた。言うまでもなく先程書かれたこの一枚しかない貴重品なのだが、まあサイン会という事で押しかければ残無も書かざるを得ないだろうとの見込みだ。
「……誰も釣れませんね。やっぱりポケットティッシュぐらい付けた方がいいんじゃないすか?」
「それじゃうちの組織が鼻紙と同程度の価値に思われるだろうが! 剛欲同盟が誇りを失ったらお終いだぞ」
「んー、自分は特に誇りとか無いかなあ。毎日血を吸いつつ誰かをビビらせれば満足なんですけど同盟に居ても良いんです?」
「良いよ! 今更そんな事言うなよお前!」
ちやりのマイペースさが災いし、勧誘と言うより漫才と化している。不尽の剛欲にして不死身の化け物と評される饕餮が見せる前代未聞の姿に、衆人も掛けるべき言葉を失っていた。
「声出してたらなんか腹減ってきましたね。影武者の坊ちゃんがやってるスシ屋ってこの辺でしたっけ」
「おおそりゃいい……いや駄目だからな? アイツだってバイトにやらせてる所以外全部ワンオペで回してるんだから、私が食いに行ったら死ぬわ」
「へえ、饕餮も意外と優しいよな」
「饕餮様か同盟長、な。私とお前の仲でも場所は選ぼうな」
何やらほっこりした雰囲気を出していても労働環境が地獄な事には変わりない。今だってその影武者坊やは一人で社員の仕事をヒーヒーやっているのである。その為にもこんな間抜けなやり取りは早く切り上げて、同盟長らしいカリスマに溢れた姿を見せ付けたい尤魔なのであったが──。
「……私の見間違いじゃなければ尤魔よね。ついにそこまで落ちぶれたの?」
よりによって今一番会いたくなかった人物とご対面してしまった。
「げっ、鬼傑組のサイコパス組長」
「失礼な事を言わないで! そっちは戦いを恐れて逃げ回ってる腰抜け同盟長のくせに!」
吉弔八千慧と鬼傑組の新人、孫悟空の生まれ変わり(自称)こと孫美天。こちらは美天に畜生界を案内して回っている最中の出来事であった。ただでさえレアキャラ扱いの饕餮に加えて鬼傑組の組長まで揃ったとあって、危険に敏感な一般通過畜生達も二人を囲うような丸い空間を自然に作っていた。
「あーっと、人違いだ。私はただ同盟長の影武者をやっているだけの一般羊霊……」
「自分を影武者だってバラす馬鹿がいるもんですか。ま、こっちはこの美天と求心力の落ちた誰かさんのおかげで人材も潤った事だし、礼でも言いましょうか?」
「ケッ、そんなの抱えて誇るようだからお前は雰囲気インテリなんだよ。裏切り者はまた裏切るぜ」
『うっ』
睨み合っていた新人同士が息を詰まらせた。こちらも策を持たされて残無と組を行ったり来たりしていた二人である。尤魔の言葉はそのまま彼女達にも突き刺さるのだった。
「あの、吉弔様! 私は貴方のこと見捨てたりしませんから!」
「分かってる分かってる」
「同盟長、それを言われちゃ否定できんけど私は……」
「お前は別腹だからいいんだって」
うっかり発言からの部下のフォローで、緊迫した空気はどこかへ流れてしまった。子分が落ち着いたのを見計らってから長同士は咳払いを一つ、改めて向かい合う。
「……そんなに危ないの? 今の状況って」
「はん、らしくも無い心配とは、お前こそ偽者なんじゃねえか? 埴輪とやり合ってた時の方がキレてたぜ」
「気になっただけ。骨まで貪られると分かっててお前に掛ける情けなんか無いわ」
「理解が深くて何よりだ。ああそうだよ手下が居ない。だがな、そこに都合良くお前が居るとなりゃ、結局他所を潰して奪うのが一番早いよなあ……?」
総てを喰らい尽くす災いとされる饕餮が、ぐにゃりと笑んで鋭い牙を剥き出す。人の形を保っていた瞳が獣のそれへとぎょろり変貌する。捕食されるという極めて単純で逃れられない死の恐怖に抗える者は少ない。それは味方であるちやりすらも寒気を覚える程に、周囲を震え上がらせるのだった、が。
「そんな気分じゃないわ。お前だって実はそうなんでしょう?」
「……ったく、その通りだよ。お互い残無の毒気にやられたようだな」
その中でも流石は組長である。尤魔が醸し出す禍々しいオーラなどどこ吹く風を装って本心を見抜けるのは、本能で動くそこらの動物霊には出来ない芸当だ。
「もういいよ、お前だって通りすがりなんだろ。勧誘の邪魔だからどっか行け。行っちまえ」
「そうさせてもらうわ。ああ、精々早鬼には会わないよう気を付けなさい。あいつが見たらここぞとばかりに馬鹿にするでしょうから」
「そりゃ、そうだろうが。じゃあ何だ、お前は馬鹿にしてないってのか?」
「部下として是が非でも欲しい相手に嫌われるメリットがどこにある? 尤魔の勧誘が失敗に終わる事を私は心から願ってるわ」
八千慧は笑みに皮肉を込めて尤魔の横を素通りした。その後を美天も慌てて追いかけていく。畜生だらけの畜生界で敵に背を向けて去るなど普通はあり得ない。それでも彼女がそうした理由は、背部の甲殻への絶対の自信と、敵として何度も見えた尤魔という人物に対してのある種の信頼である。
「けーっ、気持ち悪い奴だな。饕餮があんな亀もどきの部下に収まるタマかってんだよ」
「まあそう言うな。確かにあいつの下に付く気はサラサラ無いが、今総合的に一番強い組は間違いなく吉弔の所だろうしな」
搦め手を好む鬼傑組だが、組員も皆搦め手仕様の貧弱揃いというわけではない。及第点の戦闘力に頭を使う事を覚えた動物霊達は、ただ真っ直ぐ突っ込むだけの頸牙組よりも遥かに厄介な相手だ。そもそも組長自体が絡め手も好きなだけで結構な武闘派なのである。
「ふーん……でもな、成り行きで入ったようなもんだけど、私は剛欲同盟が最強だって信じてるぞ。何たって私と饕餮が居るんだから」
「カカ、そりゃ違いないな。じゃあそんなお前の為にももうちょっと頑張っちゃうか」
尤魔は再び募集中の看板を高々と掲げた。八千慧との邂逅で張り詰めていた空間も元の喧騒へと返っていく。
途中、案の定もう一人の組長ともニアミスして事件が発生しかけたが、彼女はお馬鹿なので一般羊霊の振りをする事で何とか誤魔化せたのだった。
だが、果たしてこんな活動に意味があるのだろうか、同盟長自ら募集するほど追い込まれた組織に入りたがる畜生などいるのだろうか。そんな不安に駆られる彼女らに唯一縋れる希望があるとすれば、それはこの行動が日白残無の提案である事だ。
これでダメなら饕餮とはその程度だったまでと彼女は言った。逆に言えばその程度でなければこれで上手く行くはずなのだ。それでも、尤魔一人では恥に耐えられずやる気を失っていたかもしれない。しかし尤魔よりもっとダラけた奴が横に居るおかげでそこを踏み止まれた。適当に見繕った人材でありながら、残無は最も剛欲同盟に必要な人物を的確に選んでいた、のかもしれない。
『あ、同盟長。今日は珍しくこちらにお帰りで』
とぼとぼと事務所に戻ってきた二人を出迎えたのは、冒頭でお説教をかましたオオワシ霊であった。彼の発言は嫌味でも何でもなく、本当に尤魔が事務所に居る事すらレアなのである。最近はもっぱら血の池地獄で飲んだくれているか遊んでいるかだ。
「……すまん。結局、誰一人釣れなかった」
『釣りィ? 確かに魚霊も狙いどころかもしれないですが、こっちは同盟長の最終承認待ちで詰まってるんですよ』
「へ?」
『新入りですよ新入り。いや、出戻りも結構いますね。流石にそいつらを私の一存で許可できないんでさっさと処遇を決めてください』
オオワシ霊がバサバサと羽ばたいて尤魔を急かす。話は分かる。分かるが、彼女の頭には疑問が浮かんでいた。応募があったならば勧誘の効果が出たのだろう。だがなぜこっちに。私に直接言えばいいじゃないか。
いや、現に来ているのだから今は言われた通りさっさと行くべきか。尤魔は合理的にそう判断して応接室に足を運んだ。
『た、食べないでください!』
開口一番、畜生霊の言う事はそれであった。
「喰わねえっちゅーの。うちに入りたいんじゃないのかよお前達」
『だって饕餮様、自分の組員も食べてたって目撃情報が……』
「ありゃゲームだから、遊びだから! ちゃんと終わったら吐き出してるっての」
「あー……やっぱりそういう事なんすね」
当然の権利と言わんばかりに応接室まで付いて来ていたちやりが、こびりついた血でごわごわの頭をぼりぼりと掻いた。何を考えているか分からないけどとりあえず喰われそうで怖い。それが尤魔の第一印象である。緊張感の無いちやりですらそう感じるのだから他者は尚更、本人には直接言いづらい事この上無かったのだ。
「まあこちとらスジモンだから怖がられるのは本懐だがな、それでもウチが良いってんだろ? 何だっていいけど一応理由は聞いとくぜ」
『えーと、そちらの緩いTシャツの人と一緒の所を見たんです。こんな緩い人でも饕餮様とやっていけるなら、僕でも大丈夫かなって……』
ヌートリア霊はおどおどと俯いて答えた。地獄の血の池がそのまま珠になったような赤黒い瞳に見つめられ、怯えているのが手に取るように分かる。それでも第一歩を踏み出せた最大の要因が、ぽかんとした顔で自身を指差した。
「それってつまり、私のおかげってことすか?」
「お前のせいと言いたい所だが、まあおかげか……」
あの恐怖の饕餮が変な珍獣と緩い漫才をやっている姿は、それ程に驚愕の光景だったのだ。それは抗争にはあまり興味無いがどこかに属さないと安心できない、そういった層に響いたのである。
「そっちのカラス共も、ちょっと前までウチの同盟だったはずだな。やっぱり他は居づらかったか?」
『お、覚えてくれてたんですね……ええ、吉弔に言われました。ウチは剛欲同盟じゃないから饕餮臭い奴はそっちに帰れ、って』
「……フン、何が饕餮臭いだよ。面倒臭いのはどっちだっちゅーに」
本心がどこにあるかは知れないが、八千慧は自分の所に来ていた同盟員をきっちり追い返していたのである。その上で会ったらしっかりと嫌味だけは残していくのだから、尤魔にとっては一生似ても焼いても食えない奴なのだ。
『酷いんですよ驪駒も。ああ分かったって返事するけど全然人の言うこと理解してなくて……』
いかにも神経質そうな面持ちのリスが、何かをカリカリ鳴らしながら切実に訴える。
「ん、ああそうだぞ。あいつの『分かった』は『後で考える』の意味だからな、馬鹿だから結局分からんが。それで私が恋しくなったか」
同盟を出ていった畜生達も、それぞれ流れ着いた先でいろいろ有ったらしい。この時尤魔は、再び残無の言葉を思い出していた。結局はなるようにしかならないのだと、最後は落ち着くべき場所に落ち着くのだと。
「それで、どうするんすか同盟長。まあ半分終わったようなもんだけど」
「あー分かっとる分かっとる。同盟の為に働け。もしくは私の為でもいい。それさえ出来るなら後は好きにしな。と、あー……何すりゃ良いのか分からなかったら、私かオオワシか、そこの緩い奴でもいいから聞け。いいな?」
『はい!』
新入りと出戻り達の声が綺麗に揃った。しかし、これで何とかなりそうだとほっとしていたちやりも、最後の一言には流石に目を見開く。
「……え、私にも相談させるんすか?」
「みんな私よりそっちの方が言い易いんだろ。お前だって普段ぶらぶらしてるんだから分からん奴ら纏めて私の所に来い」
一番ぶらぶらしてるのは饕餮だろ、と言ってやりたいちやりだが、流石にその程度の空気を読む能力はあった。
「……あー、私は一応チュパカブラやってる天火人ちやりだ。よろしく頼んます」
『えーと、何でチュパカブラなのに天火人名乗ってるんですか?』
「いや、そのハイブリッドというか、チュパ火人というか天カブラというか……」
「それはもういいっつーの。まあこんなんでも私の大事な盟友だから頼んだぞ。本気でやりあったらインチキみたいな強さなんだからな」
なるように、なる。
その後も尤魔とちやりのだらけた宣伝活動を見て来た者や、他の組織に馴染めなかった者等々がぽつぽつと訪れ、同盟はどうにか再び組織として胸を張れるまでの人員獲得に成功した。
そうは言っても剛欲同盟とは我が強い集団だ。各々が好き勝手に動いて連絡すら取れない者がざらに居る事も依然変わりない。それでも唯一変わった事と言えば、数日不在も当たり前だった饕餮が、毎日一度は同盟本部へ顔見せするようになった。やる事と言えば承認のハンコを押す程度のものだったが、それで良いのだ。
『あ、同盟長! 偵察の帰りにお菓子買ってきたんですかいかがですか⁉』
「おー、食う食う。ありがとな」
『饕餮様、肩揉みましょうか⁉』『饕餮様、埴輪一体ぶっ壊して来たんで褒めてください!』『同盟長、新入りの歓迎会やるので是非ともご参加を!』
「待て待て、私は一人なんだから順番に来いっつーの」
「饕餮~、血ぃ飲みに行かないすか~」
「だからお前は様を付けろ変なTシャツヤロー!」
剛欲同盟とは我が強くて、尤魔こそが完璧で究極の長だと慕う畜生の集まりなのだから。
「……あのー、残無様~? そろそろ足が痺れてきたのですが~?」
ところでこちらは地獄のとある場所。残無の縄張りからは少し離れた、黄泉の国との境界に近いエリアである。
そこで日狭美は縄でぐるぐる巻きのまま正座させられていた。理由は言うまでもなく、残無がやれと言わなかった事を勝手にやったからである。
「残無様~。私、ご命令に背いて各地の死者を畜生道に落としちゃいました~。これってとってもいけない事ですよね~? だからイケナイ事して欲しいですわー、なんて」
日狭美の懇願は暗闇に吸い込まれていった。死者の世界に光など差さないのだから当然である。
『尤魔とちやりのだらけた宣伝活動を見て来た者や、他の組織に馴染めなかった者等々』の『等々』の部分。要するにここが問題だった。この等々には、日狭美が案内した何も知らない幼気な霊魂も結構な割合で混ざっていたのだ。あのようなグダグダの宣伝で来る者や、裏切った先でまた裏切って戻る者など多いはずがない。
やるなと言われたらやれの合図、それはマゾヒスト界隈ではもはや常識レベル。日狭美には全く迷いなど無く、どうせやらかすと予想していた残無はお約束として拘束を施した。
「残無様~! 放置プレイも悪くはありませんが、そろそろ御顔を見れないと寂しくて死んじゃいそうですわ~⁉」
そしてやかましいので声の届かない場所に放置したのだった。
「残無様~、この前はどうもあざっしたー」
そんな日狭美の惨状を知ってか知らずか、人員配置で忙しい尤魔の名代として地獄の底にパシらされた珍獣が一匹。言葉遣いもシャツもユルユルなチュパカブラこと天火人ちやりだ。
「ふむ、お前か。もう少し早く来るかと思ったのじゃがな」
残無は相変わらず岩に腰掛けてふんぞり返っていた。前回と異なるのはやたらと湿度の高い付きまといが居ない事だけだ。
「いやー、私も新入りの面倒を見させられたり大変で。まあお陰様で何とかなったんでお礼参りしてこいって饕餮がな」
「お前らがお礼参りと言うと別の意味になるじゃろがバカモン。普通にお礼で良いわ」
「現代日本語って難しいなあ。まあいいや、これはうちの同盟長からっす」
ちやりが持参した包みに入っていたのは一本の黒い一升瓶。何の飾りもラベルも無く、かろうじて液体が入っている事だけは透けて見える無骨な一品だ。
「まさかとは思うが血とか石油とかじゃなかろうな。儂をお前らのようなゲテモノ喰いと一緒にするなよ」
「どうだか。だって残無様、うちらにお礼を言われるような事は何もしてないだろ?」
「……くく、その通りじゃな。儂がヤクザの人材補充になど力を貸すわけが無い」
残無は鬼らしく剛力で瓶の栓を引っこ抜き、中の液体を手酌で確認した。鼻腔を刺激する、果実の甘い匂い。一舐めすれば様々な香りのエッセンスが喉を通り抜けていく。血と言うには黒く、石油と言うには赤みを帯びたこの液体は、間違いなく酒だ。それもここには居ない誰かを思わせる、葡萄から作られた物だった。
「ほう、年代物じゃな。どうじゃ、お前も一口。中々美味いぞ」
「良いんすか? じゃあゴチになりまーす」
ワイングラスなどここには無いのでちやりも残無に倣い、両手を器にして差し出した。行儀作法も有ったものではないが、どうせここに居るのは鬼と妖怪で逸脱者のみだ。ほんの一滴も溢してなるものかとちやりは豪快に仰け反って酒を飲み干した。赤黒い酒で口元の汚れた彼女は、紛れもなく吸血怪獣そのものであった。
「うわあ、饕餮ってばこんな美味い酒を隠してたのかよ。何だよ水臭い……いや、あいつは血生臭いだな」
「違いない。地獄で生臭くない奴などおらんわな」
生臭坊主どころではない今の自分を客観視した残無が失笑する。もっとも、残無に過去を悔いる気持ちなどは微塵も無い。暴力にせよ知力にせよ、世を動かすのは何らかの力を持つ者。残無も自らの力を自覚して地獄を選んだ、ただそれだけの事だ。
「あ、これは私の勘なんだけど、きっとこの酒は残無様だけで飲んじゃいけない酒だと思う。だからそろそろ放ったらかしも止めたらどうだ?」
「儂を動かそうなどと百垓年早いわ。だが、そうじゃな。一人酒も良いが酌をしてくれる者が居るのも悪くはないか」
残無がゆったりとした動作で立ち上がる。誰を呼びに行くのか、いや開放しに行くのかは言うまでもない。
「そんじゃブツは届けたし私もこれで。ああ、最後に一応言っとくか。本当にありがとうな」
「何じゃい急に。礼を言われるような事などしとらんと言ったじゃろ」
「饕餮の事だよ。いろいろ有ったけどあいつは最高の友人だ。それを紹介したのは貴方だろ」
「それこそ礼を言われる筋合いなど無いな。貴様が策に丁度良いから利用したまでの事よ。だが、まあお似合いだと思っとるぞ」
尤魔の横にはちやりが居る。まだ日は浅いがそれが当然の光景になるのもそう遠くないのだろう。
それに比べて儂の横に居るのはいっつも奴一人かと、今頃は痺れた足に耐えきれずごろごろとのたうち回っているだろうストーカーの姿を想像し、残無は思わずため息をつくのであった。
それはもう足りなくて足りなくて、サークル参加者だけで回してる同人即売会かよと揶揄されるくらいに足りなかった。
『同盟長……何とかしやがっていただけますと非ッ常~~~ッに嬉しいのですが、お考えはありやがるんでしょうな?』
地底の奥底、石油のように黒ずんだ不気味な液体が広がる血の池地獄。既に心身共に限界のオオワシ霊が怒気を全く隠さずに迫る。彼(?)は畜生界の極道組織、剛欲同盟の一構成員でしかない下っぱ霊だが、これでダメなら脱退か死ぬかのデッド・オア・ダイの覚悟であった。とっくに死んでいるが。
「ああうん、何かその、ごめんて。流石に放ったらかしすぎたと反省してる」
その同盟長、饕餮尤魔は配下の凄みに感心してか素直に頭を下げる。地獄で上手くやっていくならそれぐらいの度胸は必要だ。まして地獄の中でも狂獣が集まってしのぎを削る畜生界では。
「あー、気になってはいたんすよね。同盟長なのにこんな所で油飲んだりして油売ってていいのかって。やっぱり火の車だったんだ」
彼女は天火人ちやり。最近になって尤魔と盟友の契りを結んだ、一応は剛欲同盟の一員である。一応というのは、お互いにこう思っていたからだ。
『ああ、ちやり(私)ってスパイだったけどまだ同盟メンバーなんだ。じゃあそれでいいよ』と。
「この際だからぶっちゃけても構わんぞ。ちやり的にウチの人員が少ない理由って何だと思う?」
「んんー……そりゃまあ、何すりゃ良いのか分からないからじゃ?」
「やっぱそれかー」
尤魔は羊毛のようなもこもこの頭をボリボリと掻いた。
各々が組織の利となるよう行動すべし。それを剛欲同盟のモットーとして、尤魔を始めた同盟員それぞれが勝手に動くのが強みであり、しかし弱みでもあった。世の中の生き物は大半が最低限の事だけして生きていたい怠惰なものだ。
暴走天馬、驪駒早鬼のワンマン経営に付いて行けば良い勁牙組。怜悧な暴君、吉弔八千慧の駒となっていれば良い鬼傑組。それらに比べて自分の考えで貢献するのは無能な怠け者にとって荷が重い。
『ちなみに我ら猛禽一族まで抜けたらいよいよ同盟は終わりです。同盟長とそこの新入りと、あとは影武者の坊ちゃんとバビルサファミリーくらいです』
「バビルサって、伸び曲がった牙が自分の頭を貫いて死ぬっていうあの珍獣の? やべーな、死のカウントダウン始まってるじゃん。とっくに死んでるけど」
「バビルサもテンカジンにだけは珍獣とか言われたくなかろうがな。いや、そもそもお前ってムジナだっけ?」
「あ、自分は今チュパカブラキャラで行くことにしてるんで。ムジナなんて流行らないし」
「あん? じゃあチュパカブラちやりに改名か。売れない芸人みたいだが」
「んー、でも自分テンカジンなんで天火人・チュパカブラ・ちやり、みたいな……」
『そんな事はどうだっていいんですよ!』
危機感無くのんきに喋る二人を怒鳴り付ける、オオワシの瞳には血涙が浮かんでいた、ように錯覚した。幽霊には血も涙も無いので実際に流れるはずがない。
「……そんなに死にそうな顔するぐらいなら、お前達も抜けるか?」
『くっだらない事言わないでくださいよ! 私らが同盟長の事どれだけ慕ってるか知ってるくせに!』
「お、おう。すまん、心にもない事を言った。許せ」
『いいです。とにかく、我々は組織として経理とか事務で手一杯なんで! だから同盟長は人事をお願いしますよ! 新入りも一緒に!』
捲し立てるだけ捲し立てると、オオワシはその名の所以たる大翼を羽ばたかせて本部へと戻っていった。
「……行くか? スカウト活動」
取り残された尤魔とちやりは苦笑するしかなかった。格なら圧倒的に下の一幽霊にガミガミと叱られ、血の池地獄にぽつんと立っている自分たちの間抜けな姿。見た目だけなら悪い事をして玄関の前に立たされている子供に近い。
「行くのは良いんですけどね、今更入れと言って入ってくれる霊なんているんです? 大体もう驪駒か吉弔の配下じゃ?」
「そりゃやり方はいくらでもあるさ。吉弔の手だから好かんが親兄弟の名前を出すとか、馬鹿っぽい方法なら人材獲得デスマッチなんてのもな」
「あ~、いかにも驪駒が好きそうな……」
「吉弔も割と楽しそうだったぞ」
かつてはこれで八千慧を溶岩の海に投げ落としたり、早鬼を馬乗りで分からせてやったものである。まだ組織が若かったから許された事だ。
「しかし今さらこんな泥舟に乗り続けたい奴がいるとも思えん。お前だって入ったばかりだ……降りたっていいんだぞ?」
「だからさあ、らしくない事言うなよ。伊達で剛欲なんて名乗ってるわけじゃないんだろ。ダチなんだから付き合うって」
「そうか……そうだな」
地上侵略作戦が無駄に終わったり、かつての仲間が式神に成り下がっていたりと、少し感傷的になっていたようだ。私らしさとは一体何だ。いいや目の前にあるじゃないか。
尤魔は辺り一面で沸き立っている血の海に巨大な匙を突き刺し、まるで意思を持っているかのようにどろりと匙に纏わりつく赤黒い液体を、浴びるように大口で飲み干した。血とは単なる体液ではない。その生き物が死ぬまでに貯めこんできた記憶や感情、生命力の結晶であり、それを無限に吸収してきた彼女は滅びても再生を繰り返す、紛う事無き怪物なのだ。
「クク、やっぱエネルギー補給はこいつに限る。じゃあ、行くとするか」
「ういす。驪駒か吉弔か、どっちから殴り込むんで?」
「カカカ、それも悪くないがな。一杯飲んだら思い出したんだよ、ちょうどいい奴らをさ」
人材を募集したい時、建前としては合法な手段で何があるだろうか。広告、コネクション、スカウト等。どれも悪くは無いが、尤魔が考えたのはもっと地獄に相応しい方法だ。
すなわち、職業安定所である。
「お帰り願います。つまらない事で残無様の貴重なお時間を奪わないで」
安定所員、もとい案内人の返事は取り付く島もないものだった。
ストーキングを趣味とする地獄のキャッチ、その名を豫母都日狭美(よもつ ひさみ)という。死後の世界に落ちた者を必要以上に地獄へ導く事に定評のある黄泉醜女だが、そんな彼女でも本当に無節操な案内をしているわけではなかった。日狭美なりの利があるからこその掟破りであり、つまり尤魔のお願いなど聞く義理は無いのである。
「んー、でもなあ……驪駒と吉弔にはあの初々しくて食いごたえのある犬と猿をやったんだろう? なら私にも雑魚の百匹や二百匹ぐらい紹介した方がバランスが取れると思わないか。なあ残無、様ァ?」
「阿呆抜かせ。そこの天火人で十分すぎる程釣りが出たじゃろうに」
「私もこいつもそれなりに年季が入ってるんでな、もっとフレッシュな若手が欲しいんだよ」
「新鮮味のある死者が欲しければ屠殺場にでも行け。豚でも牛でも鳥でも選り取り見取りじゃろう」
地獄の深部から彼女は全てを見透かしていた。日白残無(にっぱく ざんむ)は今回の畜生抗争を地の底からコントロールしていた人鬼だ。地上進出を目論んだ三勢力の戦力を拮抗させて共倒れさせる、という策を講じていたのだが、その必要も無くなった現在は元通り地獄の管理者に戻っていた。
そんなバランサーの彼女であれば弱体した我らの同盟を放っておけないだろう、という甘い期待の下で蜜をすすりに来た訳である。
「……おい日狭美、地獄に来たやつ全部私の所に案内しろ。そんな勝手な事すりゃきっと残無様は怒髪天だろうぜ」
「それは……ふむ、一理有りますわね」
「無いわバカモン。極道ならもっと極道らしく悪巧みせんかい」
日狭美の行動原理は非常に単純である。勝手に慕っている残無からお褒めの言葉かお仕置きを賜れるなら何でもする、だ。
地獄の猛者共を掌の上で転がすカリスマにも御しきれない者が居る。それが日狭美のような好意の暴走から理にかなわない行動をするタイプなのだった。
「残無様よ、ぶっちゃけ要らんから畜生界に落としたい奴とかいるだろう? それをこっちに流してくれれば良いわけだよ」
「落としたいのなら儂のすぐ横に居るがな。どうせ送ったところで帰ってきよるじゃろ」
「ああん、残無様ってば意地悪。でもそういう所も」
「それに地獄の何処行きかは閻魔の管轄じゃ。勝手な真似をすると特に映姫の奴が煩くてな」
既に日狭美が追放された体で残無は話を続ける。どうせ放っておいても都合良く解釈して勝手に悶えてくれるので。
「あのお堅い閻魔か。小町ちゃんの爪の垢でも煎じてやりたいもんだぜ」
「逆じゃ逆。第二の花映塚異変が起きるわ。とにかく、畜生道に落ちるべくして落ちる奴以外はそっちに行かせんぞ」
「残無様さあ、聞いた話だと畜生界が変な埴輪に占領された時は何もしてくれなかったそうじゃないすか。ちょっと冷たくない?」
「いいぞちやり、言ってやれ言ってやれー」
「その時はこの場に居る全員居なかったじゃろうが。滅多(めた)な事を言わせるな!」
話は一向に平行線であった。人材寄越せ、やらんの繰り返し。もっとも、極道の一組織だけに肩入れしろなど、身内を人質にでも取られなければ断って当然なのだが。
「ああもう面倒臭いのう……日狭美、あれ!」
「はい残無様、あれでございますね。この方なら手始めにこの辺りから……」
「それじゃないわ大ボケが。はあ……」
残無は口調に見合うゆったりとした動作でよっこらせと立ち上がった。バラ鞭を握った日狭美の横を素通りし、拾い上げたのは地の底にまで辿り着いていた流木である。
「結局の所、なるようにしかならん。終わるようなら饕餮とはその程度だったまで。これでも持って畜生界に帰るんじゃな」
さらに筆を手に取ると、板状の木に達筆で文字を書き込んでいくのであった。
『おいアレ……饕餮じゃ?』
『バカお前、様を付けろ。喰われるぞ……』
摩天楼が乱立する日の当たらぬ場所、畜生界のメトロポリス。畜生同士の血みどろの争いなど日常茶飯事でしかないこの地に、そんな畜生ですら狼狽える光景が展開されていた。
「えー……剛欲同盟~、剛欲同盟をヨロシクお願いしまぁ~ッス……」
「もっとハキハキ喋らんかい! 今のお前は看板背負ってるんだぞ」
饕餮尤魔と、その子分らしいよく分からない妖怪が文字通り看板を背負っている。キャッチセールス自体はそう珍しいものではない。しかし尤魔がメトロポリスを練り歩いている事がもはや珍事件なのである。剛欲同盟の饕餮と言えば、なんか存在しているらしいけど居ない奴。あろう事か剛欲同盟員の一部にすらそのような認識が広まっていた人物なのだから。しかもそれが自ら「新人大募集」の立て看板を持って声を上げている。もはや天変地異である。
「今なら私が着ているこの剛欲同盟シャツも付いてくるぞ~。なんと、あの日白残無様の手書きっすよ~」
ちやりのシャツの背中側には、これまた達筆で剛欲同盟の四文字が書かれていた。言うまでもなく先程書かれたこの一枚しかない貴重品なのだが、まあサイン会という事で押しかければ残無も書かざるを得ないだろうとの見込みだ。
「……誰も釣れませんね。やっぱりポケットティッシュぐらい付けた方がいいんじゃないすか?」
「それじゃうちの組織が鼻紙と同程度の価値に思われるだろうが! 剛欲同盟が誇りを失ったらお終いだぞ」
「んー、自分は特に誇りとか無いかなあ。毎日血を吸いつつ誰かをビビらせれば満足なんですけど同盟に居ても良いんです?」
「良いよ! 今更そんな事言うなよお前!」
ちやりのマイペースさが災いし、勧誘と言うより漫才と化している。不尽の剛欲にして不死身の化け物と評される饕餮が見せる前代未聞の姿に、衆人も掛けるべき言葉を失っていた。
「声出してたらなんか腹減ってきましたね。影武者の坊ちゃんがやってるスシ屋ってこの辺でしたっけ」
「おおそりゃいい……いや駄目だからな? アイツだってバイトにやらせてる所以外全部ワンオペで回してるんだから、私が食いに行ったら死ぬわ」
「へえ、饕餮も意外と優しいよな」
「饕餮様か同盟長、な。私とお前の仲でも場所は選ぼうな」
何やらほっこりした雰囲気を出していても労働環境が地獄な事には変わりない。今だってその影武者坊やは一人で社員の仕事をヒーヒーやっているのである。その為にもこんな間抜けなやり取りは早く切り上げて、同盟長らしいカリスマに溢れた姿を見せ付けたい尤魔なのであったが──。
「……私の見間違いじゃなければ尤魔よね。ついにそこまで落ちぶれたの?」
よりによって今一番会いたくなかった人物とご対面してしまった。
「げっ、鬼傑組のサイコパス組長」
「失礼な事を言わないで! そっちは戦いを恐れて逃げ回ってる腰抜け同盟長のくせに!」
吉弔八千慧と鬼傑組の新人、孫悟空の生まれ変わり(自称)こと孫美天。こちらは美天に畜生界を案内して回っている最中の出来事であった。ただでさえレアキャラ扱いの饕餮に加えて鬼傑組の組長まで揃ったとあって、危険に敏感な一般通過畜生達も二人を囲うような丸い空間を自然に作っていた。
「あーっと、人違いだ。私はただ同盟長の影武者をやっているだけの一般羊霊……」
「自分を影武者だってバラす馬鹿がいるもんですか。ま、こっちはこの美天と求心力の落ちた誰かさんのおかげで人材も潤った事だし、礼でも言いましょうか?」
「ケッ、そんなの抱えて誇るようだからお前は雰囲気インテリなんだよ。裏切り者はまた裏切るぜ」
『うっ』
睨み合っていた新人同士が息を詰まらせた。こちらも策を持たされて残無と組を行ったり来たりしていた二人である。尤魔の言葉はそのまま彼女達にも突き刺さるのだった。
「あの、吉弔様! 私は貴方のこと見捨てたりしませんから!」
「分かってる分かってる」
「同盟長、それを言われちゃ否定できんけど私は……」
「お前は別腹だからいいんだって」
うっかり発言からの部下のフォローで、緊迫した空気はどこかへ流れてしまった。子分が落ち着いたのを見計らってから長同士は咳払いを一つ、改めて向かい合う。
「……そんなに危ないの? 今の状況って」
「はん、らしくも無い心配とは、お前こそ偽者なんじゃねえか? 埴輪とやり合ってた時の方がキレてたぜ」
「気になっただけ。骨まで貪られると分かっててお前に掛ける情けなんか無いわ」
「理解が深くて何よりだ。ああそうだよ手下が居ない。だがな、そこに都合良くお前が居るとなりゃ、結局他所を潰して奪うのが一番早いよなあ……?」
総てを喰らい尽くす災いとされる饕餮が、ぐにゃりと笑んで鋭い牙を剥き出す。人の形を保っていた瞳が獣のそれへとぎょろり変貌する。捕食されるという極めて単純で逃れられない死の恐怖に抗える者は少ない。それは味方であるちやりすらも寒気を覚える程に、周囲を震え上がらせるのだった、が。
「そんな気分じゃないわ。お前だって実はそうなんでしょう?」
「……ったく、その通りだよ。お互い残無の毒気にやられたようだな」
その中でも流石は組長である。尤魔が醸し出す禍々しいオーラなどどこ吹く風を装って本心を見抜けるのは、本能で動くそこらの動物霊には出来ない芸当だ。
「もういいよ、お前だって通りすがりなんだろ。勧誘の邪魔だからどっか行け。行っちまえ」
「そうさせてもらうわ。ああ、精々早鬼には会わないよう気を付けなさい。あいつが見たらここぞとばかりに馬鹿にするでしょうから」
「そりゃ、そうだろうが。じゃあ何だ、お前は馬鹿にしてないってのか?」
「部下として是が非でも欲しい相手に嫌われるメリットがどこにある? 尤魔の勧誘が失敗に終わる事を私は心から願ってるわ」
八千慧は笑みに皮肉を込めて尤魔の横を素通りした。その後を美天も慌てて追いかけていく。畜生だらけの畜生界で敵に背を向けて去るなど普通はあり得ない。それでも彼女がそうした理由は、背部の甲殻への絶対の自信と、敵として何度も見えた尤魔という人物に対してのある種の信頼である。
「けーっ、気持ち悪い奴だな。饕餮があんな亀もどきの部下に収まるタマかってんだよ」
「まあそう言うな。確かにあいつの下に付く気はサラサラ無いが、今総合的に一番強い組は間違いなく吉弔の所だろうしな」
搦め手を好む鬼傑組だが、組員も皆搦め手仕様の貧弱揃いというわけではない。及第点の戦闘力に頭を使う事を覚えた動物霊達は、ただ真っ直ぐ突っ込むだけの頸牙組よりも遥かに厄介な相手だ。そもそも組長自体が絡め手も好きなだけで結構な武闘派なのである。
「ふーん……でもな、成り行きで入ったようなもんだけど、私は剛欲同盟が最強だって信じてるぞ。何たって私と饕餮が居るんだから」
「カカ、そりゃ違いないな。じゃあそんなお前の為にももうちょっと頑張っちゃうか」
尤魔は再び募集中の看板を高々と掲げた。八千慧との邂逅で張り詰めていた空間も元の喧騒へと返っていく。
途中、案の定もう一人の組長ともニアミスして事件が発生しかけたが、彼女はお馬鹿なので一般羊霊の振りをする事で何とか誤魔化せたのだった。
だが、果たしてこんな活動に意味があるのだろうか、同盟長自ら募集するほど追い込まれた組織に入りたがる畜生などいるのだろうか。そんな不安に駆られる彼女らに唯一縋れる希望があるとすれば、それはこの行動が日白残無の提案である事だ。
これでダメなら饕餮とはその程度だったまでと彼女は言った。逆に言えばその程度でなければこれで上手く行くはずなのだ。それでも、尤魔一人では恥に耐えられずやる気を失っていたかもしれない。しかし尤魔よりもっとダラけた奴が横に居るおかげでそこを踏み止まれた。適当に見繕った人材でありながら、残無は最も剛欲同盟に必要な人物を的確に選んでいた、のかもしれない。
『あ、同盟長。今日は珍しくこちらにお帰りで』
とぼとぼと事務所に戻ってきた二人を出迎えたのは、冒頭でお説教をかましたオオワシ霊であった。彼の発言は嫌味でも何でもなく、本当に尤魔が事務所に居る事すらレアなのである。最近はもっぱら血の池地獄で飲んだくれているか遊んでいるかだ。
「……すまん。結局、誰一人釣れなかった」
『釣りィ? 確かに魚霊も狙いどころかもしれないですが、こっちは同盟長の最終承認待ちで詰まってるんですよ』
「へ?」
『新入りですよ新入り。いや、出戻りも結構いますね。流石にそいつらを私の一存で許可できないんでさっさと処遇を決めてください』
オオワシ霊がバサバサと羽ばたいて尤魔を急かす。話は分かる。分かるが、彼女の頭には疑問が浮かんでいた。応募があったならば勧誘の効果が出たのだろう。だがなぜこっちに。私に直接言えばいいじゃないか。
いや、現に来ているのだから今は言われた通りさっさと行くべきか。尤魔は合理的にそう判断して応接室に足を運んだ。
『た、食べないでください!』
開口一番、畜生霊の言う事はそれであった。
「喰わねえっちゅーの。うちに入りたいんじゃないのかよお前達」
『だって饕餮様、自分の組員も食べてたって目撃情報が……』
「ありゃゲームだから、遊びだから! ちゃんと終わったら吐き出してるっての」
「あー……やっぱりそういう事なんすね」
当然の権利と言わんばかりに応接室まで付いて来ていたちやりが、こびりついた血でごわごわの頭をぼりぼりと掻いた。何を考えているか分からないけどとりあえず喰われそうで怖い。それが尤魔の第一印象である。緊張感の無いちやりですらそう感じるのだから他者は尚更、本人には直接言いづらい事この上無かったのだ。
「まあこちとらスジモンだから怖がられるのは本懐だがな、それでもウチが良いってんだろ? 何だっていいけど一応理由は聞いとくぜ」
『えーと、そちらの緩いTシャツの人と一緒の所を見たんです。こんな緩い人でも饕餮様とやっていけるなら、僕でも大丈夫かなって……』
ヌートリア霊はおどおどと俯いて答えた。地獄の血の池がそのまま珠になったような赤黒い瞳に見つめられ、怯えているのが手に取るように分かる。それでも第一歩を踏み出せた最大の要因が、ぽかんとした顔で自身を指差した。
「それってつまり、私のおかげってことすか?」
「お前のせいと言いたい所だが、まあおかげか……」
あの恐怖の饕餮が変な珍獣と緩い漫才をやっている姿は、それ程に驚愕の光景だったのだ。それは抗争にはあまり興味無いがどこかに属さないと安心できない、そういった層に響いたのである。
「そっちのカラス共も、ちょっと前までウチの同盟だったはずだな。やっぱり他は居づらかったか?」
『お、覚えてくれてたんですね……ええ、吉弔に言われました。ウチは剛欲同盟じゃないから饕餮臭い奴はそっちに帰れ、って』
「……フン、何が饕餮臭いだよ。面倒臭いのはどっちだっちゅーに」
本心がどこにあるかは知れないが、八千慧は自分の所に来ていた同盟員をきっちり追い返していたのである。その上で会ったらしっかりと嫌味だけは残していくのだから、尤魔にとっては一生似ても焼いても食えない奴なのだ。
『酷いんですよ驪駒も。ああ分かったって返事するけど全然人の言うこと理解してなくて……』
いかにも神経質そうな面持ちのリスが、何かをカリカリ鳴らしながら切実に訴える。
「ん、ああそうだぞ。あいつの『分かった』は『後で考える』の意味だからな、馬鹿だから結局分からんが。それで私が恋しくなったか」
同盟を出ていった畜生達も、それぞれ流れ着いた先でいろいろ有ったらしい。この時尤魔は、再び残無の言葉を思い出していた。結局はなるようにしかならないのだと、最後は落ち着くべき場所に落ち着くのだと。
「それで、どうするんすか同盟長。まあ半分終わったようなもんだけど」
「あー分かっとる分かっとる。同盟の為に働け。もしくは私の為でもいい。それさえ出来るなら後は好きにしな。と、あー……何すりゃ良いのか分からなかったら、私かオオワシか、そこの緩い奴でもいいから聞け。いいな?」
『はい!』
新入りと出戻り達の声が綺麗に揃った。しかし、これで何とかなりそうだとほっとしていたちやりも、最後の一言には流石に目を見開く。
「……え、私にも相談させるんすか?」
「みんな私よりそっちの方が言い易いんだろ。お前だって普段ぶらぶらしてるんだから分からん奴ら纏めて私の所に来い」
一番ぶらぶらしてるのは饕餮だろ、と言ってやりたいちやりだが、流石にその程度の空気を読む能力はあった。
「……あー、私は一応チュパカブラやってる天火人ちやりだ。よろしく頼んます」
『えーと、何でチュパカブラなのに天火人名乗ってるんですか?』
「いや、そのハイブリッドというか、チュパ火人というか天カブラというか……」
「それはもういいっつーの。まあこんなんでも私の大事な盟友だから頼んだぞ。本気でやりあったらインチキみたいな強さなんだからな」
なるように、なる。
その後も尤魔とちやりのだらけた宣伝活動を見て来た者や、他の組織に馴染めなかった者等々がぽつぽつと訪れ、同盟はどうにか再び組織として胸を張れるまでの人員獲得に成功した。
そうは言っても剛欲同盟とは我が強い集団だ。各々が好き勝手に動いて連絡すら取れない者がざらに居る事も依然変わりない。それでも唯一変わった事と言えば、数日不在も当たり前だった饕餮が、毎日一度は同盟本部へ顔見せするようになった。やる事と言えば承認のハンコを押す程度のものだったが、それで良いのだ。
『あ、同盟長! 偵察の帰りにお菓子買ってきたんですかいかがですか⁉』
「おー、食う食う。ありがとな」
『饕餮様、肩揉みましょうか⁉』『饕餮様、埴輪一体ぶっ壊して来たんで褒めてください!』『同盟長、新入りの歓迎会やるので是非ともご参加を!』
「待て待て、私は一人なんだから順番に来いっつーの」
「饕餮~、血ぃ飲みに行かないすか~」
「だからお前は様を付けろ変なTシャツヤロー!」
剛欲同盟とは我が強くて、尤魔こそが完璧で究極の長だと慕う畜生の集まりなのだから。
「……あのー、残無様~? そろそろ足が痺れてきたのですが~?」
ところでこちらは地獄のとある場所。残無の縄張りからは少し離れた、黄泉の国との境界に近いエリアである。
そこで日狭美は縄でぐるぐる巻きのまま正座させられていた。理由は言うまでもなく、残無がやれと言わなかった事を勝手にやったからである。
「残無様~。私、ご命令に背いて各地の死者を畜生道に落としちゃいました~。これってとってもいけない事ですよね~? だからイケナイ事して欲しいですわー、なんて」
日狭美の懇願は暗闇に吸い込まれていった。死者の世界に光など差さないのだから当然である。
『尤魔とちやりのだらけた宣伝活動を見て来た者や、他の組織に馴染めなかった者等々』の『等々』の部分。要するにここが問題だった。この等々には、日狭美が案内した何も知らない幼気な霊魂も結構な割合で混ざっていたのだ。あのようなグダグダの宣伝で来る者や、裏切った先でまた裏切って戻る者など多いはずがない。
やるなと言われたらやれの合図、それはマゾヒスト界隈ではもはや常識レベル。日狭美には全く迷いなど無く、どうせやらかすと予想していた残無はお約束として拘束を施した。
「残無様~! 放置プレイも悪くはありませんが、そろそろ御顔を見れないと寂しくて死んじゃいそうですわ~⁉」
そしてやかましいので声の届かない場所に放置したのだった。
「残無様~、この前はどうもあざっしたー」
そんな日狭美の惨状を知ってか知らずか、人員配置で忙しい尤魔の名代として地獄の底にパシらされた珍獣が一匹。言葉遣いもシャツもユルユルなチュパカブラこと天火人ちやりだ。
「ふむ、お前か。もう少し早く来るかと思ったのじゃがな」
残無は相変わらず岩に腰掛けてふんぞり返っていた。前回と異なるのはやたらと湿度の高い付きまといが居ない事だけだ。
「いやー、私も新入りの面倒を見させられたり大変で。まあお陰様で何とかなったんでお礼参りしてこいって饕餮がな」
「お前らがお礼参りと言うと別の意味になるじゃろがバカモン。普通にお礼で良いわ」
「現代日本語って難しいなあ。まあいいや、これはうちの同盟長からっす」
ちやりが持参した包みに入っていたのは一本の黒い一升瓶。何の飾りもラベルも無く、かろうじて液体が入っている事だけは透けて見える無骨な一品だ。
「まさかとは思うが血とか石油とかじゃなかろうな。儂をお前らのようなゲテモノ喰いと一緒にするなよ」
「どうだか。だって残無様、うちらにお礼を言われるような事は何もしてないだろ?」
「……くく、その通りじゃな。儂がヤクザの人材補充になど力を貸すわけが無い」
残無は鬼らしく剛力で瓶の栓を引っこ抜き、中の液体を手酌で確認した。鼻腔を刺激する、果実の甘い匂い。一舐めすれば様々な香りのエッセンスが喉を通り抜けていく。血と言うには黒く、石油と言うには赤みを帯びたこの液体は、間違いなく酒だ。それもここには居ない誰かを思わせる、葡萄から作られた物だった。
「ほう、年代物じゃな。どうじゃ、お前も一口。中々美味いぞ」
「良いんすか? じゃあゴチになりまーす」
ワイングラスなどここには無いのでちやりも残無に倣い、両手を器にして差し出した。行儀作法も有ったものではないが、どうせここに居るのは鬼と妖怪で逸脱者のみだ。ほんの一滴も溢してなるものかとちやりは豪快に仰け反って酒を飲み干した。赤黒い酒で口元の汚れた彼女は、紛れもなく吸血怪獣そのものであった。
「うわあ、饕餮ってばこんな美味い酒を隠してたのかよ。何だよ水臭い……いや、あいつは血生臭いだな」
「違いない。地獄で生臭くない奴などおらんわな」
生臭坊主どころではない今の自分を客観視した残無が失笑する。もっとも、残無に過去を悔いる気持ちなどは微塵も無い。暴力にせよ知力にせよ、世を動かすのは何らかの力を持つ者。残無も自らの力を自覚して地獄を選んだ、ただそれだけの事だ。
「あ、これは私の勘なんだけど、きっとこの酒は残無様だけで飲んじゃいけない酒だと思う。だからそろそろ放ったらかしも止めたらどうだ?」
「儂を動かそうなどと百垓年早いわ。だが、そうじゃな。一人酒も良いが酌をしてくれる者が居るのも悪くはないか」
残無がゆったりとした動作で立ち上がる。誰を呼びに行くのか、いや開放しに行くのかは言うまでもない。
「そんじゃブツは届けたし私もこれで。ああ、最後に一応言っとくか。本当にありがとうな」
「何じゃい急に。礼を言われるような事などしとらんと言ったじゃろ」
「饕餮の事だよ。いろいろ有ったけどあいつは最高の友人だ。それを紹介したのは貴方だろ」
「それこそ礼を言われる筋合いなど無いな。貴様が策に丁度良いから利用したまでの事よ。だが、まあお似合いだと思っとるぞ」
尤魔の横にはちやりが居る。まだ日は浅いがそれが当然の光景になるのもそう遠くないのだろう。
それに比べて儂の横に居るのはいっつも奴一人かと、今頃は痺れた足に耐えきれずごろごろとのたうち回っているだろうストーカーの姿を想像し、残無は思わずため息をつくのであった。
新参なはずのちやりが古参みたいな立ち位置していて見ていて楽しかったです