「昼間の空は青ばかりが目に入るのだけど、夜空では青い星が最も少ないように見えるんだ。不思議だろう?」
はあ。そのなんとも気の抜けた返事に目の前の大天狗は呆れたような表情を浮かべたが、また直ぐに夜空を見上げる。彼女の常闇と同化してしまいそうな暗い紺碧の髪が、僅かな風に吹かれているのだけが辛うじて見えた。
射命丸文は、星なんかに全く興味はなかった。それどころか、夜は主戦場ではないからと外出するのも面倒だと思っていた。では何故今日は部屋から出ているのかというと、至極単純な理由で、上司──飯綱丸龍から直々に命じられたからである。当然、逆らえる筈もなかった。
「お前も星を見れば、全てが分かるわ」
「そんな芸当、大天狗様以外の者にはできませんって……。大体、何故私を選ばれたのですか? 大天狗様との夜半の逢瀬であれば、喜んで手を挙げる天狗は大勢いるでしょうに」
「何故って、それは……そうね」
困惑した、というよりかは答えを言葉にしにくいといった顔をして、龍は顎に手を当てながら唸り出した。それから十秒もしない内に、ああと呟く。
「確かに、他の者でも良かったのかもしれない。けれど、お前を選んだのはね、私によく似ていると思ったからだ」
「……はあ」
文の返答は先程と全く同じ声色で、その上、表情すらほぼ変わっていない。龍の方をちらと見ると、今度は呆れるどころか凪いだ瞳をしている。赤碧玉のように些少の濁りを帯びた目が、文には日中のそれより陸離として見えるのであった。
どちらも天狗社会の外れ者ではあるが、片や優れた手腕で繁栄を齎すと共に慈悲深さによって信仰まで受ける大天狗、片や自由を好んで天狗らしさに欠ける鴉天狗。一体どこに、共通点などあろうか。全く納得できなかった文は──相手が大天狗であっても率直に疑問をぶつけようとする所もまた天狗らしくないのだろうが、一切躊躇うことなく口を開いた。
「私には、似ているとは思えませんが。大天狗様はどのようなお考えで、そう仰ったのでしょうか」
「……似ていると思ったのは、在り方だった。だが、今は違うと思っているよ」
ぽつりと漏らした言葉は彼女にしては珍しく、言い切るような口調ではなかった。伝えることへの迷いすら感じられた。
文の疑問はどうにも膨れ上がるばかりで、滝のように湧き出るそれらを一つずつ言葉にする。
「在り方とは? 貴女のように、天狗社会へ多大な忠義を尽くしてきた訳ではございません」
「だったら私も同じだ。天魔様以外の何者も、真に尽くしたとは言えないわ。……でも」
一度言葉を切ると、龍は後ろにいる文の方へと振り返る。僅かな沈黙が、息苦しく感じられる。
「私もお前も、やはり同じかもしれない。他の誰も、きっとそうではないだろうね」
「……はあ」
「振る舞いだけはすっかり天狗らしさを失っているけれど、本質的には誰よりも天狗らしい。私も星を見るまでは気付かなかったから、お前もそうなのかと思ってね。あの時から私は、天狗らしくない手法を使ってでも、山を守り抜くと決めたわ。……射命丸、お前はどうする? このまま、天狗社会の爪弾き者として生きてみるのも悪いことではないわ」
唐突に投げかけられた質問は、文の心を酷く揺さぶる。天狗として生きてきたことの全てを、急にひっくり返されてしまったような気がした。すぐに答えられる筈もなかった。
「今は……まだ、私の答えを出せるとは、思えません」
「それはそうでしょう。代わりと言っては何だけど、少しだけ私の話を聞いてくれる?」
黙って頷くその姿を見て、龍の顔に優しげな笑みが浮かぶ。皆、こうして誑かされたのかもしれないと、文はぼんやりと思った。
呆然と立っているだけの文の肩を叩き、龍は空の方を指差した。
「何でも良いから、赤い星を見つけてご覧」
「赤い星と言いましても、そこら中にありますが」
「ああ、きっと夜空で一番多い星の色は赤だろうね。私は、あれらをまるで自分のような星だと思っている。永い寿命をただ、燃え尽きるために消費するだけ。炎と同じ理屈で、赤星もまた低温だろうから」
お前も見たことはあるでしょう?
そう言われて、文の目を見つめたままの龍の瞳が、爛々と輝いていることに気が付いた。成程、星に喩えるのもよく分かると文も納得してしまう。
「──ええ、確かに」
一面に広がる星空を眺めてから、静かに肯定の言葉を呟いた。
※ ※ ※
「……技術の発展は目覚ましいな。いつかは私も大覚の向こうの星を間近に見られるかもしれない──そうは思わないか、射命丸よ」
「…………お気付きでしたか」
後ろからひっそりと忍び寄っていたのに。どうやら静閑な森林では、文の忍び足など意味をなさないらしいと悟った。
逢魔が時に妖怪の山から里を見下ろすことは天狗の特権だが、龍は全く山下の様子など気にならない様子だった。そうして、いつもの三脚──新人の鴉天狗が頭に喰らって悶絶していた──を肩に乗せたまま、背後の文に振り向く。
「ええ。それはそうと、知っている? 大覚は今はアンドロメダ大星雲とも呼ばれているらしいわ」
「存じております」
向けられたのは、以前と同様の柔らかな笑みだ。天狗達は千年前から大きく様変わりし、目の前の大天狗とてその変化の渦に巻き込まれていただろうに、相変わらずの堂々とした歩みだった。
夕陽に照らされて一層暗く見える後ろ姿に、昔、無理やり連れて行かれた山頂への道のりが自然と思い浮かぶ。あの頃ですら極一部の天狗しか通っていなかった山道は、今や殆ど整備されずに荒れ果てていた。あまりの歩きにくさに苦戦する文を見かねて、龍は道を変えようと言ってくる。
「私もここを通るのは久しいが……別の道なら良いでしょう。ちょうど昨日、典を遣わせたばかりの所がある」
「その必要はございません」
龍の差し出した手を振り払うようにして、足を運ぶ。大天狗への反抗とも取られかねない行動ではあるが、わざわざ目くじらを立てて激怒するような手間をかけるほど暇な人ではないと、文は知っていた。期待通り、龍はそうとだけ言うと、また普段の自信に満ち溢れた表情に戻った。
それから山頂に辿り着くまでの間、二人の間に一切の会話はなかった。何も話さなくても不便しないぐらいの長い付き合いだからか、もしくはどちらも話すような気にはならなかっただけなのかもしれない。何れにせよ、龍が望遠鏡の位置を決めてから、最初に口を開いたのは文の方だった。
「貴女が千年前に教えてくださった赤い星、今では赤色矮星と呼ばれているそうですね」
「……お前が、わざわざそれを調べたの?」
「貸本屋に伝手がありまして、偶々紹介された本にそう記述されていたのです」
本当は自分で探したのだが、文はどうにも言い出しにくくて止めてしまった。実際、貸本屋には知り合いがいると言うのも間違いではない。ただ、もう随分前に亡くなってしまった御阿礼の子と共に、訪ねたことがあるというだけであって。
「外の世界では宇宙のことが研究されて、広く民衆にも知られている。私も同じものを読んだけれど、この狭い世界でも不思議なことはあるものだ。……射命丸、お前はあれを読んで、どう思ったの?」
「私が……ですか」
どうやら龍は、文自身の意思で選択させることを好んでいるようだった。組織を纏める存在の一人として、人材の育成は最重要事項だと繰り返し宣言し続けてきたことも知っていたから、文もなんとなくそうと気づき始めていた。
けれど、育ち切った天狗相手には根気強く教えることもしないのだろう。彼女は私達が思っているより、私達のことを理解しようとしてくれないのだから。だからこそ何気ない日常の言葉の一つ一つで、あっさりと進退が決められてしまう。大天狗の振るう権力は私利を齎しやしないが、龍のそれは公益のためだけに使われているのだ。未だに彼女の与える選択肢は、文を警戒させる。
「天文学には明るくありませんが」
「私以上に星を見ている者はいないのだから、当然だ。遠慮せずに話してごらん」
「はあ。では……率直に申し上げますと、あれは私の役に立つとは思えませんでしたが、一つ、学びがございました」
「ほお、それは?」
とっぷりと日が暮れ、闇空の中で龍の瞳が赤く光る。硝子に砂を混ぜたような濁り。艶やかに伸ばされた紺の髪とは対照的に、何もかもを見通してしまいそうな光。赤い瞳はまるで、映したもの全てに破滅を恵んでいるようだ。
怯むことなく、文はその光と真正面から向き合った。
「一千年前、貴女はこう仰いました。『赤星をまるで自分のような星だと思っている』と」
「ああ、確かにそう言ったわ」
「当時の私はそうではないと思いながらも貴女の言葉を肯定しましたが、件の書物を読んだ後は納得せざるを得ませんでした」
そこで一度、深呼吸をする。続けてまた話し出した。
「赤色矮星は低温の星ではありますが、それでも周辺は非常に高温で近付くことすらままならない。その上、他の星と比べても非常に長命であると」
「……その二点で、私と似ていると思ったのね」
「ええ。ただ、宇宙ではありふれているために、個々を観測することは難しいそうですが……巨大で強く輝いているものは、埋もれずに発見されやすい、とか」
やや自信なさげに言ったものの、龍は酷く動揺した。唇の端だけを吊り上げる笑い方は、まるで驚きを押し込めようとしているように見える。普段の彼女なら、或いは典を飼い始めてからの彼女が一切見せることのなかった表情だった。
「成程、お前は私をある種の特別な存在だと思っているのね。それは事実ではある、けれど……」
龍は不意に、人差し指を空へ向ける。赤く光る小さな星をなぞるようにして。
「恒星はいずれ寿命を迎えるもの。例え元は赤色矮星だったとしても、気付かぬ内に巨星へと移り変わっているかもしれない」
人差し指をすっと左下に滑らせると、今まで赤く光っていた小さな星がみるみると白く輝きだし、光を広げ切った途端に消えてしまった。無数の星の中にあっても一際強く煌めいていたそれは、文の目にも確かに映っていたのに。
「……赤色巨星になってしまったことに気付かず、勘違いしていただけじゃないの?」
「それ、は……」
最盛期を過ぎて、もう間もなく消えてしまうような、それかもしれない。
だが、黙り込んでしまった文に見向きもせず、先程下げられた龍の指は再び元の位置を指した。その瞬間、またしても現れたのは、何も変わらない赤星。
「或いは、見ていたものは初めから赤色巨星だったのではないか? ……射命丸、どうやら勉強不足だったみたいね。詳しい理屈は省くけれど、赤色巨星は自己の重力で収縮する際に核融合を起こし、その熱によって外層が膨張する。この時、周囲にあった惑星をも飲み込むことだってある」
「……つまり」
「答えを言わなくても分かるでしょう?」
にこりと微笑んだまま、龍は望遠鏡を覗き始めた。
繰り返し勘違いしていた、かもしれない。遅れて文はその事実を理解した。穏やかなだけの人ではないと知っていたのに、野心を欠片も持ち合わせていないなんて、どうしてそう思ってしまったのだろう?
間もなくして龍は立ち上がると、裾の土を手で払った。三脚を仕舞おうとはせず、ただの小休憩といった様子だった。
けれど、文は確かに見たのだ。彼女が答えを待ち望んでいるかのような視線を向けていたことを。
「──飯綱丸様」
「おや、どうしたの」
「……私はまだ、貴女を赤色矮星だと思っております」
「そうか。だとしても、いつかは確実に赤色巨星へと変わるだろう。……そうね、お前ならどうすれば良いと思う?」
それは、想定通りの質問だった。だから文は、躊躇わずに答える。
「非常に珍しい事例ではありますが、恒星同士の衝突も、極稀に起こるそうです」
でも、打つかるのは同じ赤色矮星でもなければ、より強大な巨星でもないだろう。近くにあったブラックホールに飲み込まれるのは、以ての外。
「────その星は、夜空では最も少ない、青の星かもしれませんね」
文は羽団扇を口元に寄せながら、唇の端だけを釣り上げた。その様がまさしく天狗のそれだと、自覚しないままに。
はあ。そのなんとも気の抜けた返事に目の前の大天狗は呆れたような表情を浮かべたが、また直ぐに夜空を見上げる。彼女の常闇と同化してしまいそうな暗い紺碧の髪が、僅かな風に吹かれているのだけが辛うじて見えた。
射命丸文は、星なんかに全く興味はなかった。それどころか、夜は主戦場ではないからと外出するのも面倒だと思っていた。では何故今日は部屋から出ているのかというと、至極単純な理由で、上司──飯綱丸龍から直々に命じられたからである。当然、逆らえる筈もなかった。
「お前も星を見れば、全てが分かるわ」
「そんな芸当、大天狗様以外の者にはできませんって……。大体、何故私を選ばれたのですか? 大天狗様との夜半の逢瀬であれば、喜んで手を挙げる天狗は大勢いるでしょうに」
「何故って、それは……そうね」
困惑した、というよりかは答えを言葉にしにくいといった顔をして、龍は顎に手を当てながら唸り出した。それから十秒もしない内に、ああと呟く。
「確かに、他の者でも良かったのかもしれない。けれど、お前を選んだのはね、私によく似ていると思ったからだ」
「……はあ」
文の返答は先程と全く同じ声色で、その上、表情すらほぼ変わっていない。龍の方をちらと見ると、今度は呆れるどころか凪いだ瞳をしている。赤碧玉のように些少の濁りを帯びた目が、文には日中のそれより陸離として見えるのであった。
どちらも天狗社会の外れ者ではあるが、片や優れた手腕で繁栄を齎すと共に慈悲深さによって信仰まで受ける大天狗、片や自由を好んで天狗らしさに欠ける鴉天狗。一体どこに、共通点などあろうか。全く納得できなかった文は──相手が大天狗であっても率直に疑問をぶつけようとする所もまた天狗らしくないのだろうが、一切躊躇うことなく口を開いた。
「私には、似ているとは思えませんが。大天狗様はどのようなお考えで、そう仰ったのでしょうか」
「……似ていると思ったのは、在り方だった。だが、今は違うと思っているよ」
ぽつりと漏らした言葉は彼女にしては珍しく、言い切るような口調ではなかった。伝えることへの迷いすら感じられた。
文の疑問はどうにも膨れ上がるばかりで、滝のように湧き出るそれらを一つずつ言葉にする。
「在り方とは? 貴女のように、天狗社会へ多大な忠義を尽くしてきた訳ではございません」
「だったら私も同じだ。天魔様以外の何者も、真に尽くしたとは言えないわ。……でも」
一度言葉を切ると、龍は後ろにいる文の方へと振り返る。僅かな沈黙が、息苦しく感じられる。
「私もお前も、やはり同じかもしれない。他の誰も、きっとそうではないだろうね」
「……はあ」
「振る舞いだけはすっかり天狗らしさを失っているけれど、本質的には誰よりも天狗らしい。私も星を見るまでは気付かなかったから、お前もそうなのかと思ってね。あの時から私は、天狗らしくない手法を使ってでも、山を守り抜くと決めたわ。……射命丸、お前はどうする? このまま、天狗社会の爪弾き者として生きてみるのも悪いことではないわ」
唐突に投げかけられた質問は、文の心を酷く揺さぶる。天狗として生きてきたことの全てを、急にひっくり返されてしまったような気がした。すぐに答えられる筈もなかった。
「今は……まだ、私の答えを出せるとは、思えません」
「それはそうでしょう。代わりと言っては何だけど、少しだけ私の話を聞いてくれる?」
黙って頷くその姿を見て、龍の顔に優しげな笑みが浮かぶ。皆、こうして誑かされたのかもしれないと、文はぼんやりと思った。
呆然と立っているだけの文の肩を叩き、龍は空の方を指差した。
「何でも良いから、赤い星を見つけてご覧」
「赤い星と言いましても、そこら中にありますが」
「ああ、きっと夜空で一番多い星の色は赤だろうね。私は、あれらをまるで自分のような星だと思っている。永い寿命をただ、燃え尽きるために消費するだけ。炎と同じ理屈で、赤星もまた低温だろうから」
お前も見たことはあるでしょう?
そう言われて、文の目を見つめたままの龍の瞳が、爛々と輝いていることに気が付いた。成程、星に喩えるのもよく分かると文も納得してしまう。
「──ええ、確かに」
一面に広がる星空を眺めてから、静かに肯定の言葉を呟いた。
※ ※ ※
「……技術の発展は目覚ましいな。いつかは私も大覚の向こうの星を間近に見られるかもしれない──そうは思わないか、射命丸よ」
「…………お気付きでしたか」
後ろからひっそりと忍び寄っていたのに。どうやら静閑な森林では、文の忍び足など意味をなさないらしいと悟った。
逢魔が時に妖怪の山から里を見下ろすことは天狗の特権だが、龍は全く山下の様子など気にならない様子だった。そうして、いつもの三脚──新人の鴉天狗が頭に喰らって悶絶していた──を肩に乗せたまま、背後の文に振り向く。
「ええ。それはそうと、知っている? 大覚は今はアンドロメダ大星雲とも呼ばれているらしいわ」
「存じております」
向けられたのは、以前と同様の柔らかな笑みだ。天狗達は千年前から大きく様変わりし、目の前の大天狗とてその変化の渦に巻き込まれていただろうに、相変わらずの堂々とした歩みだった。
夕陽に照らされて一層暗く見える後ろ姿に、昔、無理やり連れて行かれた山頂への道のりが自然と思い浮かぶ。あの頃ですら極一部の天狗しか通っていなかった山道は、今や殆ど整備されずに荒れ果てていた。あまりの歩きにくさに苦戦する文を見かねて、龍は道を変えようと言ってくる。
「私もここを通るのは久しいが……別の道なら良いでしょう。ちょうど昨日、典を遣わせたばかりの所がある」
「その必要はございません」
龍の差し出した手を振り払うようにして、足を運ぶ。大天狗への反抗とも取られかねない行動ではあるが、わざわざ目くじらを立てて激怒するような手間をかけるほど暇な人ではないと、文は知っていた。期待通り、龍はそうとだけ言うと、また普段の自信に満ち溢れた表情に戻った。
それから山頂に辿り着くまでの間、二人の間に一切の会話はなかった。何も話さなくても不便しないぐらいの長い付き合いだからか、もしくはどちらも話すような気にはならなかっただけなのかもしれない。何れにせよ、龍が望遠鏡の位置を決めてから、最初に口を開いたのは文の方だった。
「貴女が千年前に教えてくださった赤い星、今では赤色矮星と呼ばれているそうですね」
「……お前が、わざわざそれを調べたの?」
「貸本屋に伝手がありまして、偶々紹介された本にそう記述されていたのです」
本当は自分で探したのだが、文はどうにも言い出しにくくて止めてしまった。実際、貸本屋には知り合いがいると言うのも間違いではない。ただ、もう随分前に亡くなってしまった御阿礼の子と共に、訪ねたことがあるというだけであって。
「外の世界では宇宙のことが研究されて、広く民衆にも知られている。私も同じものを読んだけれど、この狭い世界でも不思議なことはあるものだ。……射命丸、お前はあれを読んで、どう思ったの?」
「私が……ですか」
どうやら龍は、文自身の意思で選択させることを好んでいるようだった。組織を纏める存在の一人として、人材の育成は最重要事項だと繰り返し宣言し続けてきたことも知っていたから、文もなんとなくそうと気づき始めていた。
けれど、育ち切った天狗相手には根気強く教えることもしないのだろう。彼女は私達が思っているより、私達のことを理解しようとしてくれないのだから。だからこそ何気ない日常の言葉の一つ一つで、あっさりと進退が決められてしまう。大天狗の振るう権力は私利を齎しやしないが、龍のそれは公益のためだけに使われているのだ。未だに彼女の与える選択肢は、文を警戒させる。
「天文学には明るくありませんが」
「私以上に星を見ている者はいないのだから、当然だ。遠慮せずに話してごらん」
「はあ。では……率直に申し上げますと、あれは私の役に立つとは思えませんでしたが、一つ、学びがございました」
「ほお、それは?」
とっぷりと日が暮れ、闇空の中で龍の瞳が赤く光る。硝子に砂を混ぜたような濁り。艶やかに伸ばされた紺の髪とは対照的に、何もかもを見通してしまいそうな光。赤い瞳はまるで、映したもの全てに破滅を恵んでいるようだ。
怯むことなく、文はその光と真正面から向き合った。
「一千年前、貴女はこう仰いました。『赤星をまるで自分のような星だと思っている』と」
「ああ、確かにそう言ったわ」
「当時の私はそうではないと思いながらも貴女の言葉を肯定しましたが、件の書物を読んだ後は納得せざるを得ませんでした」
そこで一度、深呼吸をする。続けてまた話し出した。
「赤色矮星は低温の星ではありますが、それでも周辺は非常に高温で近付くことすらままならない。その上、他の星と比べても非常に長命であると」
「……その二点で、私と似ていると思ったのね」
「ええ。ただ、宇宙ではありふれているために、個々を観測することは難しいそうですが……巨大で強く輝いているものは、埋もれずに発見されやすい、とか」
やや自信なさげに言ったものの、龍は酷く動揺した。唇の端だけを吊り上げる笑い方は、まるで驚きを押し込めようとしているように見える。普段の彼女なら、或いは典を飼い始めてからの彼女が一切見せることのなかった表情だった。
「成程、お前は私をある種の特別な存在だと思っているのね。それは事実ではある、けれど……」
龍は不意に、人差し指を空へ向ける。赤く光る小さな星をなぞるようにして。
「恒星はいずれ寿命を迎えるもの。例え元は赤色矮星だったとしても、気付かぬ内に巨星へと移り変わっているかもしれない」
人差し指をすっと左下に滑らせると、今まで赤く光っていた小さな星がみるみると白く輝きだし、光を広げ切った途端に消えてしまった。無数の星の中にあっても一際強く煌めいていたそれは、文の目にも確かに映っていたのに。
「……赤色巨星になってしまったことに気付かず、勘違いしていただけじゃないの?」
「それ、は……」
最盛期を過ぎて、もう間もなく消えてしまうような、それかもしれない。
だが、黙り込んでしまった文に見向きもせず、先程下げられた龍の指は再び元の位置を指した。その瞬間、またしても現れたのは、何も変わらない赤星。
「或いは、見ていたものは初めから赤色巨星だったのではないか? ……射命丸、どうやら勉強不足だったみたいね。詳しい理屈は省くけれど、赤色巨星は自己の重力で収縮する際に核融合を起こし、その熱によって外層が膨張する。この時、周囲にあった惑星をも飲み込むことだってある」
「……つまり」
「答えを言わなくても分かるでしょう?」
にこりと微笑んだまま、龍は望遠鏡を覗き始めた。
繰り返し勘違いしていた、かもしれない。遅れて文はその事実を理解した。穏やかなだけの人ではないと知っていたのに、野心を欠片も持ち合わせていないなんて、どうしてそう思ってしまったのだろう?
間もなくして龍は立ち上がると、裾の土を手で払った。三脚を仕舞おうとはせず、ただの小休憩といった様子だった。
けれど、文は確かに見たのだ。彼女が答えを待ち望んでいるかのような視線を向けていたことを。
「──飯綱丸様」
「おや、どうしたの」
「……私はまだ、貴女を赤色矮星だと思っております」
「そうか。だとしても、いつかは確実に赤色巨星へと変わるだろう。……そうね、お前ならどうすれば良いと思う?」
それは、想定通りの質問だった。だから文は、躊躇わずに答える。
「非常に珍しい事例ではありますが、恒星同士の衝突も、極稀に起こるそうです」
でも、打つかるのは同じ赤色矮星でもなければ、より強大な巨星でもないだろう。近くにあったブラックホールに飲み込まれるのは、以ての外。
「────その星は、夜空では最も少ない、青の星かもしれませんね」
文は羽団扇を口元に寄せながら、唇の端だけを釣り上げた。その様がまさしく天狗のそれだと、自覚しないままに。
なんだかんだ文も食えないこと言うなあ、と最後の一文で思わされました。
二人のやり取りが妙に雅でよかったです