残無は岩の上に腰掛けていた。腰掛ける以外の術を知らないかのように。
否、今の磁石に吸い付けられた砂鉄の如く岩の上で姿勢を変えるだけの日々からは想像もつかないが、彼女が岩から離れようと試みたこともかつてはあった。
きっかけは博麗神社の巫女だった。ちょうどよい広さの空
いた宴会場を提供してくれるので神社とは懇意になっていた(と思っているのは残無の側だけで、霊夢の方は毎度露骨に嫌そうな顔をしていたことは言うまでもない)のだが、霊夢の方からいつも岩に坐しているのは疲れているからなのかと聞かれた。そこで自分の怠惰さに気が付いたが、最初のうちは自分の有能さに対するほんの少しの瑕疵にすぎないと、特に気にも留めなかった。
しかし、霊夢の心配が次第に運動不足をなじる罵倒に変わったところでこれは改善せねばならぬと、一日一時間は岩から立ち視界にも入れないことを習慣づけることとした。もっとも地獄には時計も、時間を定義づける天体の回転も存在しないからこの一日一時間というのは残無の主観でしかなく、実際には二日に三分だったり月に二十分だったりだったが、それでも運動したぞという感覚だけで彼女のNarcissismは満たされたのだった。
あのときの自分は実に健康的だったのだろうと残無は思った。実のところ結構サボっていて客観的には半年ほど細々運動していたというのが成果だったのだが、彼女としては三日坊主で終わったという感覚で、しかもそれすらも懐かしく思うくらいには最近は岩にべったりなのだ。
まあいいかと残無は自分を納得させるかのように呟いた。生前人間だったのだから自分は文字通りに人の子だった、というだけのことだ。自分自身すらも掌の上にあると確信して疑わないこの人鬼にとっては自らの怠惰も想定の範囲内に過ぎなかった。結果出力されるのが「明日頑張れば問題ない」という夏休み中の小学生並みの結論なのは、それはそれである。
いや、そもそも頑張る必要あるか? と残無は首をかしげた。自分は実質的な新地獄の管理者として散々頑張っているではないか。その責務の重さを思えばちょっと運動不足なことくらい甘えるべき甘えとして許されるに決まっている。大体、運動しないのは不健康だというのは定命の者の価値観であり、我ら地獄の民は別に運動しなくても死にやしないというかもう死んでいるのである。百歩譲って健康というステータスが地獄にもあったとして、そりゃ肉体的には運動していた時期の方が健康だっただろうが、精神的にはどう考えてもこの比類なき座り心地の岩に身を沈めている今の方が百倍健康で、この精神的優位をもってすれば肉体の少々の差など容易に覆せる。
儂は今最高に幸せだ。岩だけでそう断言できる。なんといってもこの触り心地。手のひらにしっとりと吸い付いて、その上で岩肌自体は滑らかなのでベタつかない……。
待て、滑らか? 残無は今一度、自分が今座っている岩を直視した。
座るように適切に加工されたその岩は、身体にフィットするように意図的に残されたもの以外は全ての凹凸が廃されて、無論骨の類も一切埋まってはおらず……。
これは、儂がずっと座っていた岩ではないな?
***
「ほう、座る用の岩が欲しい」
「ええ。旧地獄の石工さんは良質な岩を取り扱っていると耳にしまして」
「そりゃ私としても鼻が高いね。まあ座る用の岩なんて注文、流石にあんまりないんだけどね。露天風呂の外周を作る用の岩が近いかな。これなんてどうだい?」
「黄土色に近い茶系の岩ですわね」
「地表と地底を結ぶ風穴の岩だ。地表側から剥がれて落ちたのが土蜘蛛の網にかかるのを集めている。数多の巫女や魔法使いが落ちてくる岩の直撃をくらい命を落としたという伝説も残っているんだ」
「恐ろしいですわね。そんなものを普段使いに?」
「伝説はあくまで伝説だよ。魔法使いはともかく巫女は数多なんて数そもそもいない。それに、この岩は実のところ結構柔らかいんだ。大量に当てれば巫女が使う妖怪退治用の針や札でも壊すことができる」
「そういう伝説が?」
「いんや。本当にそうやって地底まで降りてきた巫女がちょっと前にいたんだ。にわかには信じがたいだろうが」
「……いえ、私は信じますわ」
「あんた、巫女の被害者か。そりゃご愁傷様だ」
「被害者、だけではないですね。あの巫女のおかげで私は残無様に……。おっと、我を忘れるところでした。その岩でお願いします」
「はいよー。しかし、椅子にするとなると、身体に岩を合わせるために採寸しないといけないねえ。姉ちゃん、ちょっとすまないが計らせてはくれないかね」
「いえ、贈呈用なのです。ご心配なく。送るお相手の大きさは身体の各部に至るまで、一寸一分(一分は一寸の十分の一)の単位まで把握しております!」
「……。そうかい。追求はしないでおくよ。人様のプライベートに首を突っ込むのは石工の仕事じゃねえや」
***
伊吹萃香に博麗の巫女、豫母都日狭美
。これぞ我が心にかなわぬもの。
「日狭美の仕業か」
残無は毒づいた。
「はい!」
明るくも湿度のある声が後ろから聞こえてきたが、残無は振り返らなかった。
「お前はいて欲しいときにもいて欲しくないときにもいるな」
「うふふ。それで、岩の方はお気に召しましたか? 召しませんでしたか?」
「召す召さない以前にだ。儂の骨格にこれほどにまで合わせて削った岩を、一切儂に気取られることなくすり替える。どうやって成し遂げたのか末恐ろしいものだな」
「あら。何も特別なことはしておりませんわ。残無様自身こうおっしゃっていたではありませんか。『それがどうした? こんなご時世だ、罠なんてそこら中にあるぞ?』と」
日狭美がする残無の声真似は、イントネーションも話す早さも、呼吸の置き方すら残無と瓜二つ。声帯だけが日狭美のものに置き換わった残無が話しているかのような。その域に達するのに、彼女はどれだけの時間を練習に費やしたのか。
それに、日狭美が引用した台詞を残無が言った場、八千慧との戦いの場に、日狭美はいなかったと認識していた。なのに日狭美が発言を知っているということは、実際には日狭美はあの場に居合わせていたのだ。しかも声が聞こえるほど近くに。
残無は背筋が凍る感覚に身震いした。
「う、うむ」
「もう一度お聞きしますわ。岩の方はお気に召しましたか? 召しませんでしたか?」
「召さなかったな。儂は岩を替えてくれなんて一言も頼んではおらん。勝手に岩を替えた上に、替えた後の岩は一度座ったら最後二度と立てなくなる呪いの装備ではないか。実にけしからん!」
日狭美が用意した岩に坐した結果として残無が骨抜きになったのは、岩の質の高さ以上に残無の元僧侶らしからぬ自身への甘々さが原因である。だが残無はこの世の悪の原因全てが日狭美であるかのように彼女をなじった。
「呪いの装備ですか。言い得て妙ですね。しかし、これを用意して下さった石工さん曰く、岩は比較的柔らかいそうですよ。残無様ほどのお力があれば、髑髏の錫杖でこんな岩ごとき、気に入らなかったのならいともたやすく粉砕してしまえるではございませんか」
「そしてその錫杖で私めを……」と日狭美は続けたような気がしたが、残無は気が付かなかったふりをして身をかがめた。
「ああ。お前が言うように壊そうという気になれば儂はこんな岩など簡単に壊せるのだろうな。だがな」
残無は忌々しげに毒を吐いた。
「そもそも壊そうという気にならんのだ。地獄の連中が束になってかかってきたとしたらさしものの儂も倒れようが、現実にはそうはならないというのと同じ原理だ。倒そうという意志すら起こさせないというのは最も強い防禦である。お前も体験してみろ。実に厄介だぞ、これは」
「なんだ、やっぱりお気に召しているじゃあないですか。手配した甲斐がありましたよ」
日狭美は残無の岩の両脇を這わせるように山葡萄の蔓を伸ばした。
「岩を取り替える直前の一週間。残無様は一万と八十分中七千四百三十九分しか地獄におりませんでした。率にして七割三分八厘です。私めは実に寂しい想いをしていたのですよ。それが、岩を替えたことで、今では週に九千八百三十八分、九割七分六厘まで伸びました。良い傾向です」
「地獄
でどうやって時計を……」
「残無様、末永く私と一緒にいましょう。逃しはしませんよ……」
「自機狙い」の蔓が残無の胸を刺す軌道で全周から迫ってくる。
「破ぁ!」
普通に動くだけでは最早避けられない。そう覚悟を決めた寺生れの残無は、魔を払う雄叫びを挙げて、すっくと立ち上がった。
「日狭美よ。儂が、鬼が、常に人の期待を裏切り万象を掌の上で転がす種族であるということ、よもや忘れたわけではなかろうな? この日白残無、貴様の浅ましい願望を完膚なきまで叩き潰してやろう! その仮面に隠れた目を出して、網膜にしかと焼き付けるがよい!」
錫杖を一本、右腕で掴み岩へと深々と突き刺した。岩は木っ端微塵に砕け、その上に乗っていた残無は地獄の荒涼とした大地へと落下した。
「おお……。流石残無様。お見後にございます」
「くっ……」
立ち上がり岩に錫杖を叩きつける流れ、特に岩の誘惑を振り切る部分で気力のほとんどを使い尽くした残無は無様に膝をついた。
「生まれたての子鹿のような」という比喩があるが、子鹿は生まれた直後から立つことができる。今の自分は子鹿にも負けるのだなと、残無は笑うしかなかった。
「あらあら。お手を貸しましょうか?」
日狭美はそう言いつつ、明らかに手を貸す以上のことをしようと残無の臀部に手を回した。残無はその動きを必死に払い除け、払う身体の回転と錫杖の支えを使ってどうにか立ち上がった。
「しかし……」
残無は「こうするしかないのだろうなあ」とぼやき、ついに日狭美の方を向いた。
「新しい岩を探さなければいけないな。日狭美よ、手伝ってくれるか?」
日狭美は破顔した。
***
残無は岩の上に腰掛けていた。今の彼女は腰掛ける以外の術も知っている。
今の岩の座り心地はあまりよろしくはない。しかし、冷静に考えて、人を駄目にするほど座り心地の良い岩なんて明らかに異常存在である。岩なんてもの、ゴツゴツしてて座り続けていたら身体のあちこちが痛くなるくらいが一番上等なのだ。
普通が一番。普通が一番落ち着く。残無は岩に坐しながら、背後から常時刺してくる一人分の視線を極力意識しないように努めつつ、静かに瞑想するのだった。
否、今の磁石に吸い付けられた砂鉄の如く岩の上で姿勢を変えるだけの日々からは想像もつかないが、彼女が岩から離れようと試みたこともかつてはあった。
きっかけは博麗神社の巫女だった。ちょうどよい広さの空
いた宴会場を提供してくれるので神社とは懇意になっていた(と思っているのは残無の側だけで、霊夢の方は毎度露骨に嫌そうな顔をしていたことは言うまでもない)のだが、霊夢の方からいつも岩に坐しているのは疲れているからなのかと聞かれた。そこで自分の怠惰さに気が付いたが、最初のうちは自分の有能さに対するほんの少しの瑕疵にすぎないと、特に気にも留めなかった。
しかし、霊夢の心配が次第に運動不足をなじる罵倒に変わったところでこれは改善せねばならぬと、一日一時間は岩から立ち視界にも入れないことを習慣づけることとした。もっとも地獄には時計も、時間を定義づける天体の回転も存在しないからこの一日一時間というのは残無の主観でしかなく、実際には二日に三分だったり月に二十分だったりだったが、それでも運動したぞという感覚だけで彼女のNarcissismは満たされたのだった。
あのときの自分は実に健康的だったのだろうと残無は思った。実のところ結構サボっていて客観的には半年ほど細々運動していたというのが成果だったのだが、彼女としては三日坊主で終わったという感覚で、しかもそれすらも懐かしく思うくらいには最近は岩にべったりなのだ。
まあいいかと残無は自分を納得させるかのように呟いた。生前人間だったのだから自分は文字通りに人の子だった、というだけのことだ。自分自身すらも掌の上にあると確信して疑わないこの人鬼にとっては自らの怠惰も想定の範囲内に過ぎなかった。結果出力されるのが「明日頑張れば問題ない」という夏休み中の小学生並みの結論なのは、それはそれである。
いや、そもそも頑張る必要あるか? と残無は首をかしげた。自分は実質的な新地獄の管理者として散々頑張っているではないか。その責務の重さを思えばちょっと運動不足なことくらい甘えるべき甘えとして許されるに決まっている。大体、運動しないのは不健康だというのは定命の者の価値観であり、我ら地獄の民は別に運動しなくても死にやしないというかもう死んでいるのである。百歩譲って健康というステータスが地獄にもあったとして、そりゃ肉体的には運動していた時期の方が健康だっただろうが、精神的にはどう考えてもこの比類なき座り心地の岩に身を沈めている今の方が百倍健康で、この精神的優位をもってすれば肉体の少々の差など容易に覆せる。
儂は今最高に幸せだ。岩だけでそう断言できる。なんといってもこの触り心地。手のひらにしっとりと吸い付いて、その上で岩肌自体は滑らかなのでベタつかない……。
待て、滑らか? 残無は今一度、自分が今座っている岩を直視した。
座るように適切に加工されたその岩は、身体にフィットするように意図的に残されたもの以外は全ての凹凸が廃されて、無論骨の類も一切埋まってはおらず……。
これは、儂がずっと座っていた岩ではないな?
***
「ほう、座る用の岩が欲しい」
「ええ。旧地獄の石工さんは良質な岩を取り扱っていると耳にしまして」
「そりゃ私としても鼻が高いね。まあ座る用の岩なんて注文、流石にあんまりないんだけどね。露天風呂の外周を作る用の岩が近いかな。これなんてどうだい?」
「黄土色に近い茶系の岩ですわね」
「地表と地底を結ぶ風穴の岩だ。地表側から剥がれて落ちたのが土蜘蛛の網にかかるのを集めている。数多の巫女や魔法使いが落ちてくる岩の直撃をくらい命を落としたという伝説も残っているんだ」
「恐ろしいですわね。そんなものを普段使いに?」
「伝説はあくまで伝説だよ。魔法使いはともかく巫女は数多なんて数そもそもいない。それに、この岩は実のところ結構柔らかいんだ。大量に当てれば巫女が使う妖怪退治用の針や札でも壊すことができる」
「そういう伝説が?」
「いんや。本当にそうやって地底まで降りてきた巫女がちょっと前にいたんだ。にわかには信じがたいだろうが」
「……いえ、私は信じますわ」
「あんた、巫女の被害者か。そりゃご愁傷様だ」
「被害者、だけではないですね。あの巫女のおかげで私は残無様に……。おっと、我を忘れるところでした。その岩でお願いします」
「はいよー。しかし、椅子にするとなると、身体に岩を合わせるために採寸しないといけないねえ。姉ちゃん、ちょっとすまないが計らせてはくれないかね」
「いえ、贈呈用なのです。ご心配なく。送るお相手の大きさは身体の各部に至るまで、一寸一分(一分は一寸の十分の一)の単位まで把握しております!」
「……。そうかい。追求はしないでおくよ。人様のプライベートに首を突っ込むのは石工の仕事じゃねえや」
***
伊吹萃香に博麗の巫女、豫母都日狭美
。これぞ我が心にかなわぬもの。
「日狭美の仕業か」
残無は毒づいた。
「はい!」
明るくも湿度のある声が後ろから聞こえてきたが、残無は振り返らなかった。
「お前はいて欲しいときにもいて欲しくないときにもいるな」
「うふふ。それで、岩の方はお気に召しましたか? 召しませんでしたか?」
「召す召さない以前にだ。儂の骨格にこれほどにまで合わせて削った岩を、一切儂に気取られることなくすり替える。どうやって成し遂げたのか末恐ろしいものだな」
「あら。何も特別なことはしておりませんわ。残無様自身こうおっしゃっていたではありませんか。『それがどうした? こんなご時世だ、罠なんてそこら中にあるぞ?』と」
日狭美がする残無の声真似は、イントネーションも話す早さも、呼吸の置き方すら残無と瓜二つ。声帯だけが日狭美のものに置き換わった残無が話しているかのような。その域に達するのに、彼女はどれだけの時間を練習に費やしたのか。
それに、日狭美が引用した台詞を残無が言った場、八千慧との戦いの場に、日狭美はいなかったと認識していた。なのに日狭美が発言を知っているということは、実際には日狭美はあの場に居合わせていたのだ。しかも声が聞こえるほど近くに。
残無は背筋が凍る感覚に身震いした。
「う、うむ」
「もう一度お聞きしますわ。岩の方はお気に召しましたか? 召しませんでしたか?」
「召さなかったな。儂は岩を替えてくれなんて一言も頼んではおらん。勝手に岩を替えた上に、替えた後の岩は一度座ったら最後二度と立てなくなる呪いの装備ではないか。実にけしからん!」
日狭美が用意した岩に坐した結果として残無が骨抜きになったのは、岩の質の高さ以上に残無の元僧侶らしからぬ自身への甘々さが原因である。だが残無はこの世の悪の原因全てが日狭美であるかのように彼女をなじった。
「呪いの装備ですか。言い得て妙ですね。しかし、これを用意して下さった石工さん曰く、岩は比較的柔らかいそうですよ。残無様ほどのお力があれば、髑髏の錫杖でこんな岩ごとき、気に入らなかったのならいともたやすく粉砕してしまえるではございませんか」
「そしてその錫杖で私めを……」と日狭美は続けたような気がしたが、残無は気が付かなかったふりをして身をかがめた。
「ああ。お前が言うように壊そうという気になれば儂はこんな岩など簡単に壊せるのだろうな。だがな」
残無は忌々しげに毒を吐いた。
「そもそも壊そうという気にならんのだ。地獄の連中が束になってかかってきたとしたらさしものの儂も倒れようが、現実にはそうはならないというのと同じ原理だ。倒そうという意志すら起こさせないというのは最も強い防禦である。お前も体験してみろ。実に厄介だぞ、これは」
「なんだ、やっぱりお気に召しているじゃあないですか。手配した甲斐がありましたよ」
日狭美は残無の岩の両脇を這わせるように山葡萄の蔓を伸ばした。
「岩を取り替える直前の一週間。残無様は一万と八十分中七千四百三十九分しか地獄におりませんでした。率にして七割三分八厘です。私めは実に寂しい想いをしていたのですよ。それが、岩を替えたことで、今では週に九千八百三十八分、九割七分六厘まで伸びました。良い傾向です」
「地獄
でどうやって時計を……」
「残無様、末永く私と一緒にいましょう。逃しはしませんよ……」
「自機狙い」の蔓が残無の胸を刺す軌道で全周から迫ってくる。
「破ぁ!」
普通に動くだけでは最早避けられない。そう覚悟を決めた寺生れの残無は、魔を払う雄叫びを挙げて、すっくと立ち上がった。
「日狭美よ。儂が、鬼が、常に人の期待を裏切り万象を掌の上で転がす種族であるということ、よもや忘れたわけではなかろうな? この日白残無、貴様の浅ましい願望を完膚なきまで叩き潰してやろう! その仮面に隠れた目を出して、網膜にしかと焼き付けるがよい!」
錫杖を一本、右腕で掴み岩へと深々と突き刺した。岩は木っ端微塵に砕け、その上に乗っていた残無は地獄の荒涼とした大地へと落下した。
「おお……。流石残無様。お見後にございます」
「くっ……」
立ち上がり岩に錫杖を叩きつける流れ、特に岩の誘惑を振り切る部分で気力のほとんどを使い尽くした残無は無様に膝をついた。
「生まれたての子鹿のような」という比喩があるが、子鹿は生まれた直後から立つことができる。今の自分は子鹿にも負けるのだなと、残無は笑うしかなかった。
「あらあら。お手を貸しましょうか?」
日狭美はそう言いつつ、明らかに手を貸す以上のことをしようと残無の臀部に手を回した。残無はその動きを必死に払い除け、払う身体の回転と錫杖の支えを使ってどうにか立ち上がった。
「しかし……」
残無は「こうするしかないのだろうなあ」とぼやき、ついに日狭美の方を向いた。
「新しい岩を探さなければいけないな。日狭美よ、手伝ってくれるか?」
日狭美は破顔した。
***
残無は岩の上に腰掛けていた。今の彼女は腰掛ける以外の術も知っている。
今の岩の座り心地はあまりよろしくはない。しかし、冷静に考えて、人を駄目にするほど座り心地の良い岩なんて明らかに異常存在である。岩なんてもの、ゴツゴツしてて座り続けていたら身体のあちこちが痛くなるくらいが一番上等なのだ。
普通が一番。普通が一番落ち着く。残無は岩に坐しながら、背後から常時刺してくる一人分の視線を極力意識しないように努めつつ、静かに瞑想するのだった。
日狭美の愛が怖かったですが、それをスッといなす残無が妙にこなれていてよかったです