墨のように黒々とした闇が世界を塗りつぶしていく中、ある荒れ果てた岩場の片隅にて、一本の灯火がチロチロと燃えていた。その弱々しい灯りのそばにて日白残無はすりきれたゴザの上に臥し、一冊の書物をかたわらに置きうつらうつらとしていた。
風が吹いている。荒漠極まる地獄の虚空を意味のない強さで吹き渡っている。残無は無心になってただその音に耳をそばだてていた。自身の心をその冴えた風に溶かそうとしていた。次第に強まりゆく眠気。まぶたが随分と重くなり意識の照明もまた途切れ途切れとなっていく……
粘っこい女の声が静寂を破った。
「残無様、アア、残無様……」
残無はまぶたを開き、体を起こした。そして声の方を見た。そこには、この世のものと思えぬほどうつくしくなまめかしい女体が灯火によりぼんやりと照らし出されていた。その女は、腰まで届くほどの長くつややかな黒髪を振り乱していた。肌は白くきめ細やかで、胸にも尻にも柔らかそうな媚肉がたっぷりと実っており、腰の位置が高く手足はスラリと長い。理性を溶かし獣欲を煽り立て、魔界の淵へと引きずりこむための甘やかで豪奢な女体。並みの男なら見ているだけで脳が蕩けただろう。胸がつぶれて血潮が煮立っただろう。その女体はそれほどにも蠱惑的な魔性を醸していたのである。
加えてその女の顔つきは恋慕にとろけている。溢れんばかりの情欲と切ないほどの思慕によってふつふつとゆだち、汗ばんでいる。女はなまめかしく腰をくねらせ、痺れるほどの期待に指先をぎこちなく震わせながら残無のそばへと歩み寄ってくる。
けれども、冷たく乾いた制止の声が――豫母都日狭美の足を止めた。
「それは、無為じゃ」
残無はまぶたを固く閉ざしたままぽつりとそう呟いた。
「風の音を聞け。土壌から湧き上がる唸りに耳を澄ませ。そうすれば、心は安らぐ」
残無はおだやかな声音で日狭美をそう諭した。けれど日狭美は烈しくかぶりを振ってその言葉を拒絶した。彼女は次第に高まり荒ぶってゆく口調でこう答えた。
「私には……できません。あなたを諦めることなどかないません。風も土も、私には窮屈な牢獄としか思えないのです。どうしようもなく、そうなのです……」
「……そうか」
残無は立ち上がった。日狭美に背を向け歩きはじめた。日狭美は必死になってその背中を追跡したが、無意味だった。残無は駆けてさえいない。いたって普通の歩調で歩いている。なのに届かない。追いつくことができない。必死になって追えば追うほどその背中は遠ざかり小さいものとなっていく……
「アア、アア……そんな…………」
日狭美は嘆きの言葉を漏らしながら崩れ落ち、膝をついた。そして湿っぽい嗚咽の声をあたりに撒き散らした。虚無的なまでの地獄の静寂の中、彼女の泣き声は極めて長い時間にわたって延々と響き渡りつづけた。
日白残無の眼は、澄み渡っている。それは一見赤色をしているように見えるが実際のところ色など塗られていない。そこには人間らしい熱も光もない。虚空を久遠に渡りつづける地獄の風同様どこまでも澄み切っている。残無の魂の在り様はがらんどうそのものだ。自由そのものだ。四海の穢れを受けつけることのないわらべのような純真無垢なこころ。それでいて生死といういとなみについては、深淵そのもののように奥深い知恵をその小さな頭の内奥に蔵してもいる。日狭美には残無と対峙する際、自分が自然そのものと相対しているように感じられることが数限りなくあった。そして言うに及ばぬことだが人間だろうと妖怪だろうと自然という無限を掌中へと収めきることはできない。たったの一瞥で燃えるような恋情も玉のように艶めかしい肢体も久遠の時の中でいてついてしまう。残無が日狭美を本当の眼で見るということはいつまでたっても起こり得ない。残無はすべてから解き放たれていた。情も我執も性愛も、そのすべてが残無にとっては等しく意味がない。他愛ない他人事に過ぎない。
それでもやはり日狭美は、残無のことを忘れることができないのだ。その理由はあっけないくらいに単純明快だった――恋だ。実ることがないとは知っている。いくら時が経とうと、胸苦しいほどの思慕がただただ募りゆくだけ。けれど――忘れてしまうことなどできるはずがない。日狭美は心の底から残無を愛している。残無のために自分の魂を捧げることさえできる。躰だろうと魂魄だろうとすべてを焼き尽くしてしまうことができる。それは素晴らしいことだ。恐ろしいほどのことのはずだ。それでも残無に揺らぎはない。無愛想でも親しくもない、日狭美に対する空無そのものの無関心を保ちつづけるのみ。残無はあまりにも聡い。愛と執の仕組みをあまりにもよく知悉している。そんな人に恋心を抱いてしまい、いったい誰が陋態を晒さずにいられるというのか? 恋を嗤う者は生について無知だ。生というのは無上の美だ。しかしそれゆえ価値がない。恋というのは無上の火だ。しかしそれゆえ価値がない。世界の終わりがやってくるまで延々つづく無限の反復。生と死の永劫の連環、そして空無。
血の産湯に浸かる。爪先からてっぺんまで血だまりの中に沈めてしまう。身も心も素っ裸になって、自身で自身の寂しい肉体を力を込めて抱擁しつつ……無為だとは知っているがそれでもやめることができない。募りすぎた慕情の奴婢に堕ちるのみ。終わりとはじまりがぴったりと癒着した自涜にひとしい無意味な試み。いつだってひと時で終わってしまう浅はかで卑小で快感。それでも日狭美はその身を沈めてしまう。生ぬるくよどんだ血だまりの中へと頭まで浸かってしまう。息苦しいほどに熱く強く燃え上がる恋情のやり場を求めて……
新地獄にも血だまりはある。地層を少し剥がしてみればいくらでも湧いて来る。血というのはつまるところ限りなく渇きに似た潤いのことだ。地獄という風土にどこまでもあつらえ向きの物質であり、表象だ。地獄にてそんなものに不自由するというのは到底ありえぬことだ。
やるせない感傷があまりに募りすぎると日狭美はそこを訪れてしまう。どうしようもなくそこに引き寄せられる。人間ひとりをすっぽりと収められる血で満たされた土壌の壺中へとその身を浸さんとする。
やはりフラフラと、どこかおぼつかないしぐさで衣服を脱ぎ去っていく。眩暈によってうつろにぼやける視界。ぎこちなくこわばりながらも一つ一つが無意味に烈しく荒々しい所作。胸の奥底にて痛いほどにじんじんと熱く火照る心……日狭美は赤裸の姿となった。そして酸鼻かつ生臭い血だまりの中の水浴をはじめんとした。
爪先からてっぺんまで血に満たされるやいなや――脳味噌がゆだった。痺れるような快感のあぶくが脳の皺の奥ではじけつづける。窒息の苦しみにくらんでいく視界。肉体を千々に裂かれるような凄絶な痛苦、しかしその精髄ではおびただしい数の快楽の萌芽がびっしりつらなりもぞもぞと蠢動してもいる。倒錯の極致における快と苦の一致。ガラガラと荒い音を立て廻りつづける快苦の車輪。
――残無様、残無様、アア……残無様……
クリームのように溶け崩れていく理性。炉のように火照る双眸と溢れ出す熱い涙。表皮と内部が裏返るような死とも再生ともつかぬ奇怪な肉体感覚。うつろいゆくそれらの現象のただ中で刹那に閃く蒼白い虚像。恋慕が織りなす想い人の面影。それはあまりにもうろんであやうい、はかない意識の染みのようなもの。それでも抱きしめんとする。せつなさにあえぎ、身もだえしつつ両の腕を伸ばし力強い抱擁をかわさんとする。けれどもやはり、確固たる感覚が、人間ひとり分の肉の反発が伝わってくることはない。ただ無意味にぬるい血を掻いたのみ。
――アア、アア、アアアアア……
衝動が脳天を刺す。恥毛の茂みをかき分け凝り固まった肉芯を力強く摘まむ。犯すような荒々しさで自身の乳房を執拗に揉みしだく。なまめかしく腰をくねらせ、甘ったるい吐息をつき、やるせない懊悩によりその端正な顔立ちを歪め……血だまりの底で身もだえつづける一人の狂女の姿……油然とした快楽によりその白い肉は雪にように融け崩れ輪郭を失っていく。そのようにして彼女の肉体はそれを包む生ぬるくよどんだ血液との境界を喪失していく。凄絶なまでにかき乱されていく心。情と痴と快と苦と愛とが血の淀みと混じり合って唸りを上げ渦を巻く……
後方にて扉の開く音が、時間と意識の節目を為した。
日狭美は身の毛のよだつような思いをした。それは起こりえぬはずのことだったからだ。赤黒い血とそこに秘められし想いの殻の中に、自分とはまるっきり違う何者かが闖入してくるというのは……
そして、扉から現れたそれは、遠慮会釈なくぶしつけな言葉を吐いた。
――なあ、なあ、お前、たまっているのだろう? アレが欲しいのだろう
いつのまにか、血の泥粥とは正反対の、狭霧のような冷たい闇が彼女の周囲に立ち込めていた。
――貴様は、誰だ?
憎悪と敵意、そして一片の恐怖がこもったまなざしで日狭美はそれをねめつけんとする。しかし正体を見極めることは叶わない。その像は霞のような闇の衣で全身を蔽い尽くし、自身の姿を隠匿してしまっているからだ。
――私は、神だ。闇の中で嗤う神だ。貪り、剥蝕い尽くし、貪滅する者だ。すべてを揶揄い、阿諛し、この荒漠な世界にて舞い狂うことを、その享楽を、味わいつづける神だ。
神は、日狭美の躰に腕を回してきた。冷たい吐息がうなじに吹きかかるほど顔を近づけて、神は囁いた。
――私は摩多羅隠岐奈、日白残無を嘲る神だ。
拒絶的な冷たさの闇の中で、硬く冷えた、ゴツゴツした五本の指が汗ばむ乳房をまさぐりもてあそぶ。カサカサした感触がただただ不愉快なだけの、おぞましいくちづけが彼女のくちびるを奪う。日狭美は泣き叫んで抗おうとする。けれどもその涙は、流れるはしから、乾ききった舌先により舐め取られていくばかり。その叫びもまた幾重にも折り重なった闇の層によって、あっさりと吸い取られ立ち消えていく。残無のそれとは比較することもはばかれるような、いやらしい策慮に満ちた卑劣な空無。犯されれば犯されるほどに乾き、しなびていく。蹂躙に対する拒絶感ばかりがただただ無意味に募っていく。日狭美は抵抗することも敵わず、自分の女の部分が緩慢にすりつぶされていくのをただ虚しく受け入れざるをえない。あらゆる凌辱の中でも最悪の部類に属する凌辱、獣的な欲動ではなしに、残忍な狡智によって行われる虚無的な強姦……
――残無様、残無様、残無様……
日狭美は涙を流しながら心の中で、祈るようにその人の名を唱えた。そうすることによって、素肌を這いずる幾千幾万の細かで冷たい触手の感触を忘れようとした。けれど神はどこまでもなく遠慮会釈なく、彼女の人格をすり潰さんとしてくる。耳元で「ソソロニソ ソソロソ」、「シシリニ シシリシ」という卑猥な呪文を囁く声が繰り返される。その神は単に肉を犯すだけでなく意識の深層にまで浸透しようと試みてくる。削がれてゆく気力、衰弱していく抵抗への意志、芯まで冷え切っていく躰……気づけば神の指は乳房から離れ、ヘソのあたりをくすぐるようにして愛撫しつつ、更にその下へと下っていこうとしていた……
けれども、その寸前のことだった。すべてを見計らっていたかのように、まさにその時に――光が差した。
日狭美の上方から、ぽつりと、つぶやく声が下りてくる。
――失せよ
尖鋭なる光の刃による闇の幕が千々に裂かれていく。暗中に満ちていた拒絶的な冷気もまた冴えた風により吹き清められていく。不愉快な嗤いもつぶやきもたちまち消え失せ、光輝なる静寂がその場に蘇生せんとする。
――障碍なぞ……虚無には及ばぬ
空間は、溢れんばかりの光によって満たし尽くされた。その光の中で秘神は、自分の周囲にわずかばかりの闇の霧を集めることでかろうじてその正体を隠匿しようとしていた。
その刹那だった。日狭美は霧のような闇の中、真紅の瞳が燃え上がらんばかりの赫々とした眼光を放つのを見た。その瞳は凄絶なまでの憎悪と敵意を燃料として照り輝いていた。けれど、それさえも無意味だった。次の瞬間、蒼白い輝きを放つ一本の槍が正確無比にその瞳を貫いた。それで神は抗う気力を完全に阻喪した。用意周到に残しておいた一条の蜘蛛の糸――後戸を出現させるやいなやただちに開扉して、ネズミのようなすばしっこさで扉の向こうへと遁走してしまった。
残無はあえて秘神を追うような真似はしなかった。扉が閉じるのを見届けるやいなや彼女は能力を解いた。たちまち光の洪水は収まっていきすべてが元の通りとなった。寂寞とした地獄の風景がその場に恢復した。
残無は、無残な裸体を晒しつつ荒野に横たわる日狭美を見ると、「着物を着るとよい」と言った。けれど日狭美はその言葉を拒んだ。というよりかは、そんな言葉が頭に入る余地はなかった。彼女は裸のままよろよろと立ち上がると、残無のそばへと歩み寄っていた。
残無の小柄な躰をそっと見下ろしながら、日狭美はややしゃがれた声音で問いかけた。
「どうして、私のようなものを助けてくれたのですか?」
強い感情の張り詰めた重々しい言葉だった。残無はその言葉を聞くと目をつむり、小さくうなずくような仕草をした。そのあとで彼女の問いかけに答えた。
「日狭美よ、儂はお前のことを嫌っているわけではない。拒んでいるわけでもない。儂は儂なりにお前のことを理解しておるつもりじゃ。けれど、儂らの関係性というものを理解しているからこそ、儂はお前ののぞみを叶えてやることができない」
「けれど、あなたは今日、私のために戦ってくれました。あの忌まわしい神を逐ってくれました。それが、私にはよくわかりません……」
日狭美は言葉を接いだ。呪いのように粘っこい思いのにじんだ言葉だった。危うい予兆の言霊を孕んだ「醜女」らしい言葉の塊だった。
「私には、自分ののぞみというものがよくわかりません。ただただ……想いがあるだけなのです。私は、あなたに……ただ恋をしているだけなのです。それ以外のことは何一つ言えません……」
残無は知っていた。日狭美の胸のときめきを知っていた。知っていたけれど、これまでは見て見ぬフリをしてきた。珍しいシワが残無の眉間に寄った。かすかばかりの苦悩の感情がその顔ににじんだ。けれどその影はすぐに追われてしまい、彼女らしいおだやかな表情がそこには蘇った。
残無は思っていた。日狭美のぶつけてきた言霊に対し、自分もまた相応の力を持った言霊を返さねばならないと。いくら残無が無礙の体現者といえど、時には、言霊のことわりが魂魄に絡みつくことくらいはあるだろう。
「日狭美よ、儂はかつてある書物にて、興味深い話を呼んだ。それは断食芸人にまつわるものじゃ。断食芸人というのは檻の中に入り、四十日の間食事を断ちつづけることを自身の芸とする者じゃ。彼の芸は一時は人気を博し多くの客を集めたものの、流れゆく時の中でその人気は次第に衰えていった。それでも彼は芸をやめようとはしなかった。彼はサーカスの一座と契約しそこで芸を披露した。しかし珍しい動物を見に来た客たちが、彼に興味を示すことはなかった。彼はすっかり忘れ去られてしまった。けれどかれはそれを幸いとして、誰にもとめられることなくいつまでも断食をしつづけた。そんな中サーカスの監督がたまたま彼の存在に気づく。やってきた監督に対し断食芸人は「自分は断食しかできない。それは自分が、うまいと思うものを見つけることができなかったからだ。うまいものさえ見つけることができれば、きっと他の人間たちのように腹いっぱい食っていただろうよ」、そう言って息絶えてしまう。その後断食芸人がいた檻には豹が入れられる。檻の中にいようと、豹は不自由を残念がっているようには全く見えない。うまいものを好きなだけ貪り、その高貴な肉体と、そこから放たれる生命の炎熱によって多くの観客を魅了しつづける……」
残無は何かなつかしむような目つきをしながら、おだやかな口調で日狭美に話を語りつづけた。
「仏僧というのはつまるところこの断食芸人のようなものではないか、そんな想いが儂の中にはあるのじゃ。それに比べお前のような美しい女人は、この豹にどこか似ていると思うのじゃ。儂はお前と同じく自分が運命の虜囚であることを知っておる。ただ儂の場合は、それを諦めているというだけじゃ。そしてそうして体得した自由にはたしかに、ほのかな空腹にも近い寂寞の感が漂ってもおる……豹の生と断食芸人の生、いったいどちらを選ぶことが正しいのか、それは儂にも決めかねることじゃ……」
言い終えた途端、日狭美は残無の華奢な躰をめいっぱいの力を込め固く抱きしめた。命の熱に燃え上がる、熱いくちびるを想い人のくちびるへと重ねた。残無が日狭美の接吻を拒むことはなかった。ただしずかに瞑目しその行為を受け入れるのみだった。それはどうしてか――抗うことのあたわざる「時」の存在というものを、残無が知っていたからだった。
永い間、ふたりは互いの胸の鼓動に、魂のさざめきに耳をそばだてつづけた。そのあとでふたりはようやくくちびるを離した。そのころには、日狭美のうつくしい顔は涙のつゆによってすっかりおおわれていた。
残無は踵を返し、日狭美へと背を向けた。そして歩きはじめた。残無も日狭美も、もはや二人は一緒にいられないということを痛いほど強く理解していた。だから日狭美も去りゆく想い人の背を追うことはなかった。ただその場に泣き崩れ嗚咽の声を漏らすばかりだった。
虚空を吹き渡る冴えた風の中で、二人は別れた。それは永遠の訣別だった。それでもなお、くちづけのぬくもりの名残は、ふたりの胸にいつまでも残りつづけた。そのぬくもりに如何様な意義があるのか、それは残無にも日狭美にも、ハンケチで涙をぬぐいつつ、ふたりの別れをこっそり眺めていた摩多羅神にもわかることではなかった。
風が吹いている。荒漠極まる地獄の虚空を意味のない強さで吹き渡っている。残無は無心になってただその音に耳をそばだてていた。自身の心をその冴えた風に溶かそうとしていた。次第に強まりゆく眠気。まぶたが随分と重くなり意識の照明もまた途切れ途切れとなっていく……
粘っこい女の声が静寂を破った。
「残無様、アア、残無様……」
残無はまぶたを開き、体を起こした。そして声の方を見た。そこには、この世のものと思えぬほどうつくしくなまめかしい女体が灯火によりぼんやりと照らし出されていた。その女は、腰まで届くほどの長くつややかな黒髪を振り乱していた。肌は白くきめ細やかで、胸にも尻にも柔らかそうな媚肉がたっぷりと実っており、腰の位置が高く手足はスラリと長い。理性を溶かし獣欲を煽り立て、魔界の淵へと引きずりこむための甘やかで豪奢な女体。並みの男なら見ているだけで脳が蕩けただろう。胸がつぶれて血潮が煮立っただろう。その女体はそれほどにも蠱惑的な魔性を醸していたのである。
加えてその女の顔つきは恋慕にとろけている。溢れんばかりの情欲と切ないほどの思慕によってふつふつとゆだち、汗ばんでいる。女はなまめかしく腰をくねらせ、痺れるほどの期待に指先をぎこちなく震わせながら残無のそばへと歩み寄ってくる。
けれども、冷たく乾いた制止の声が――豫母都日狭美の足を止めた。
「それは、無為じゃ」
残無はまぶたを固く閉ざしたままぽつりとそう呟いた。
「風の音を聞け。土壌から湧き上がる唸りに耳を澄ませ。そうすれば、心は安らぐ」
残無はおだやかな声音で日狭美をそう諭した。けれど日狭美は烈しくかぶりを振ってその言葉を拒絶した。彼女は次第に高まり荒ぶってゆく口調でこう答えた。
「私には……できません。あなたを諦めることなどかないません。風も土も、私には窮屈な牢獄としか思えないのです。どうしようもなく、そうなのです……」
「……そうか」
残無は立ち上がった。日狭美に背を向け歩きはじめた。日狭美は必死になってその背中を追跡したが、無意味だった。残無は駆けてさえいない。いたって普通の歩調で歩いている。なのに届かない。追いつくことができない。必死になって追えば追うほどその背中は遠ざかり小さいものとなっていく……
「アア、アア……そんな…………」
日狭美は嘆きの言葉を漏らしながら崩れ落ち、膝をついた。そして湿っぽい嗚咽の声をあたりに撒き散らした。虚無的なまでの地獄の静寂の中、彼女の泣き声は極めて長い時間にわたって延々と響き渡りつづけた。
日白残無の眼は、澄み渡っている。それは一見赤色をしているように見えるが実際のところ色など塗られていない。そこには人間らしい熱も光もない。虚空を久遠に渡りつづける地獄の風同様どこまでも澄み切っている。残無の魂の在り様はがらんどうそのものだ。自由そのものだ。四海の穢れを受けつけることのないわらべのような純真無垢なこころ。それでいて生死といういとなみについては、深淵そのもののように奥深い知恵をその小さな頭の内奥に蔵してもいる。日狭美には残無と対峙する際、自分が自然そのものと相対しているように感じられることが数限りなくあった。そして言うに及ばぬことだが人間だろうと妖怪だろうと自然という無限を掌中へと収めきることはできない。たったの一瞥で燃えるような恋情も玉のように艶めかしい肢体も久遠の時の中でいてついてしまう。残無が日狭美を本当の眼で見るということはいつまでたっても起こり得ない。残無はすべてから解き放たれていた。情も我執も性愛も、そのすべてが残無にとっては等しく意味がない。他愛ない他人事に過ぎない。
それでもやはり日狭美は、残無のことを忘れることができないのだ。その理由はあっけないくらいに単純明快だった――恋だ。実ることがないとは知っている。いくら時が経とうと、胸苦しいほどの思慕がただただ募りゆくだけ。けれど――忘れてしまうことなどできるはずがない。日狭美は心の底から残無を愛している。残無のために自分の魂を捧げることさえできる。躰だろうと魂魄だろうとすべてを焼き尽くしてしまうことができる。それは素晴らしいことだ。恐ろしいほどのことのはずだ。それでも残無に揺らぎはない。無愛想でも親しくもない、日狭美に対する空無そのものの無関心を保ちつづけるのみ。残無はあまりにも聡い。愛と執の仕組みをあまりにもよく知悉している。そんな人に恋心を抱いてしまい、いったい誰が陋態を晒さずにいられるというのか? 恋を嗤う者は生について無知だ。生というのは無上の美だ。しかしそれゆえ価値がない。恋というのは無上の火だ。しかしそれゆえ価値がない。世界の終わりがやってくるまで延々つづく無限の反復。生と死の永劫の連環、そして空無。
血の産湯に浸かる。爪先からてっぺんまで血だまりの中に沈めてしまう。身も心も素っ裸になって、自身で自身の寂しい肉体を力を込めて抱擁しつつ……無為だとは知っているがそれでもやめることができない。募りすぎた慕情の奴婢に堕ちるのみ。終わりとはじまりがぴったりと癒着した自涜にひとしい無意味な試み。いつだってひと時で終わってしまう浅はかで卑小で快感。それでも日狭美はその身を沈めてしまう。生ぬるくよどんだ血だまりの中へと頭まで浸かってしまう。息苦しいほどに熱く強く燃え上がる恋情のやり場を求めて……
新地獄にも血だまりはある。地層を少し剥がしてみればいくらでも湧いて来る。血というのはつまるところ限りなく渇きに似た潤いのことだ。地獄という風土にどこまでもあつらえ向きの物質であり、表象だ。地獄にてそんなものに不自由するというのは到底ありえぬことだ。
やるせない感傷があまりに募りすぎると日狭美はそこを訪れてしまう。どうしようもなくそこに引き寄せられる。人間ひとりをすっぽりと収められる血で満たされた土壌の壺中へとその身を浸さんとする。
やはりフラフラと、どこかおぼつかないしぐさで衣服を脱ぎ去っていく。眩暈によってうつろにぼやける視界。ぎこちなくこわばりながらも一つ一つが無意味に烈しく荒々しい所作。胸の奥底にて痛いほどにじんじんと熱く火照る心……日狭美は赤裸の姿となった。そして酸鼻かつ生臭い血だまりの中の水浴をはじめんとした。
爪先からてっぺんまで血に満たされるやいなや――脳味噌がゆだった。痺れるような快感のあぶくが脳の皺の奥ではじけつづける。窒息の苦しみにくらんでいく視界。肉体を千々に裂かれるような凄絶な痛苦、しかしその精髄ではおびただしい数の快楽の萌芽がびっしりつらなりもぞもぞと蠢動してもいる。倒錯の極致における快と苦の一致。ガラガラと荒い音を立て廻りつづける快苦の車輪。
――残無様、残無様、アア……残無様……
クリームのように溶け崩れていく理性。炉のように火照る双眸と溢れ出す熱い涙。表皮と内部が裏返るような死とも再生ともつかぬ奇怪な肉体感覚。うつろいゆくそれらの現象のただ中で刹那に閃く蒼白い虚像。恋慕が織りなす想い人の面影。それはあまりにもうろんであやうい、はかない意識の染みのようなもの。それでも抱きしめんとする。せつなさにあえぎ、身もだえしつつ両の腕を伸ばし力強い抱擁をかわさんとする。けれどもやはり、確固たる感覚が、人間ひとり分の肉の反発が伝わってくることはない。ただ無意味にぬるい血を掻いたのみ。
――アア、アア、アアアアア……
衝動が脳天を刺す。恥毛の茂みをかき分け凝り固まった肉芯を力強く摘まむ。犯すような荒々しさで自身の乳房を執拗に揉みしだく。なまめかしく腰をくねらせ、甘ったるい吐息をつき、やるせない懊悩によりその端正な顔立ちを歪め……血だまりの底で身もだえつづける一人の狂女の姿……油然とした快楽によりその白い肉は雪にように融け崩れ輪郭を失っていく。そのようにして彼女の肉体はそれを包む生ぬるくよどんだ血液との境界を喪失していく。凄絶なまでにかき乱されていく心。情と痴と快と苦と愛とが血の淀みと混じり合って唸りを上げ渦を巻く……
後方にて扉の開く音が、時間と意識の節目を為した。
日狭美は身の毛のよだつような思いをした。それは起こりえぬはずのことだったからだ。赤黒い血とそこに秘められし想いの殻の中に、自分とはまるっきり違う何者かが闖入してくるというのは……
そして、扉から現れたそれは、遠慮会釈なくぶしつけな言葉を吐いた。
――なあ、なあ、お前、たまっているのだろう? アレが欲しいのだろう
いつのまにか、血の泥粥とは正反対の、狭霧のような冷たい闇が彼女の周囲に立ち込めていた。
――貴様は、誰だ?
憎悪と敵意、そして一片の恐怖がこもったまなざしで日狭美はそれをねめつけんとする。しかし正体を見極めることは叶わない。その像は霞のような闇の衣で全身を蔽い尽くし、自身の姿を隠匿してしまっているからだ。
――私は、神だ。闇の中で嗤う神だ。貪り、剥蝕い尽くし、貪滅する者だ。すべてを揶揄い、阿諛し、この荒漠な世界にて舞い狂うことを、その享楽を、味わいつづける神だ。
神は、日狭美の躰に腕を回してきた。冷たい吐息がうなじに吹きかかるほど顔を近づけて、神は囁いた。
――私は摩多羅隠岐奈、日白残無を嘲る神だ。
拒絶的な冷たさの闇の中で、硬く冷えた、ゴツゴツした五本の指が汗ばむ乳房をまさぐりもてあそぶ。カサカサした感触がただただ不愉快なだけの、おぞましいくちづけが彼女のくちびるを奪う。日狭美は泣き叫んで抗おうとする。けれどもその涙は、流れるはしから、乾ききった舌先により舐め取られていくばかり。その叫びもまた幾重にも折り重なった闇の層によって、あっさりと吸い取られ立ち消えていく。残無のそれとは比較することもはばかれるような、いやらしい策慮に満ちた卑劣な空無。犯されれば犯されるほどに乾き、しなびていく。蹂躙に対する拒絶感ばかりがただただ無意味に募っていく。日狭美は抵抗することも敵わず、自分の女の部分が緩慢にすりつぶされていくのをただ虚しく受け入れざるをえない。あらゆる凌辱の中でも最悪の部類に属する凌辱、獣的な欲動ではなしに、残忍な狡智によって行われる虚無的な強姦……
――残無様、残無様、残無様……
日狭美は涙を流しながら心の中で、祈るようにその人の名を唱えた。そうすることによって、素肌を這いずる幾千幾万の細かで冷たい触手の感触を忘れようとした。けれど神はどこまでもなく遠慮会釈なく、彼女の人格をすり潰さんとしてくる。耳元で「ソソロニソ ソソロソ」、「シシリニ シシリシ」という卑猥な呪文を囁く声が繰り返される。その神は単に肉を犯すだけでなく意識の深層にまで浸透しようと試みてくる。削がれてゆく気力、衰弱していく抵抗への意志、芯まで冷え切っていく躰……気づけば神の指は乳房から離れ、ヘソのあたりをくすぐるようにして愛撫しつつ、更にその下へと下っていこうとしていた……
けれども、その寸前のことだった。すべてを見計らっていたかのように、まさにその時に――光が差した。
日狭美の上方から、ぽつりと、つぶやく声が下りてくる。
――失せよ
尖鋭なる光の刃による闇の幕が千々に裂かれていく。暗中に満ちていた拒絶的な冷気もまた冴えた風により吹き清められていく。不愉快な嗤いもつぶやきもたちまち消え失せ、光輝なる静寂がその場に蘇生せんとする。
――障碍なぞ……虚無には及ばぬ
空間は、溢れんばかりの光によって満たし尽くされた。その光の中で秘神は、自分の周囲にわずかばかりの闇の霧を集めることでかろうじてその正体を隠匿しようとしていた。
その刹那だった。日狭美は霧のような闇の中、真紅の瞳が燃え上がらんばかりの赫々とした眼光を放つのを見た。その瞳は凄絶なまでの憎悪と敵意を燃料として照り輝いていた。けれど、それさえも無意味だった。次の瞬間、蒼白い輝きを放つ一本の槍が正確無比にその瞳を貫いた。それで神は抗う気力を完全に阻喪した。用意周到に残しておいた一条の蜘蛛の糸――後戸を出現させるやいなやただちに開扉して、ネズミのようなすばしっこさで扉の向こうへと遁走してしまった。
残無はあえて秘神を追うような真似はしなかった。扉が閉じるのを見届けるやいなや彼女は能力を解いた。たちまち光の洪水は収まっていきすべてが元の通りとなった。寂寞とした地獄の風景がその場に恢復した。
残無は、無残な裸体を晒しつつ荒野に横たわる日狭美を見ると、「着物を着るとよい」と言った。けれど日狭美はその言葉を拒んだ。というよりかは、そんな言葉が頭に入る余地はなかった。彼女は裸のままよろよろと立ち上がると、残無のそばへと歩み寄っていた。
残無の小柄な躰をそっと見下ろしながら、日狭美はややしゃがれた声音で問いかけた。
「どうして、私のようなものを助けてくれたのですか?」
強い感情の張り詰めた重々しい言葉だった。残無はその言葉を聞くと目をつむり、小さくうなずくような仕草をした。そのあとで彼女の問いかけに答えた。
「日狭美よ、儂はお前のことを嫌っているわけではない。拒んでいるわけでもない。儂は儂なりにお前のことを理解しておるつもりじゃ。けれど、儂らの関係性というものを理解しているからこそ、儂はお前ののぞみを叶えてやることができない」
「けれど、あなたは今日、私のために戦ってくれました。あの忌まわしい神を逐ってくれました。それが、私にはよくわかりません……」
日狭美は言葉を接いだ。呪いのように粘っこい思いのにじんだ言葉だった。危うい予兆の言霊を孕んだ「醜女」らしい言葉の塊だった。
「私には、自分ののぞみというものがよくわかりません。ただただ……想いがあるだけなのです。私は、あなたに……ただ恋をしているだけなのです。それ以外のことは何一つ言えません……」
残無は知っていた。日狭美の胸のときめきを知っていた。知っていたけれど、これまでは見て見ぬフリをしてきた。珍しいシワが残無の眉間に寄った。かすかばかりの苦悩の感情がその顔ににじんだ。けれどその影はすぐに追われてしまい、彼女らしいおだやかな表情がそこには蘇った。
残無は思っていた。日狭美のぶつけてきた言霊に対し、自分もまた相応の力を持った言霊を返さねばならないと。いくら残無が無礙の体現者といえど、時には、言霊のことわりが魂魄に絡みつくことくらいはあるだろう。
「日狭美よ、儂はかつてある書物にて、興味深い話を呼んだ。それは断食芸人にまつわるものじゃ。断食芸人というのは檻の中に入り、四十日の間食事を断ちつづけることを自身の芸とする者じゃ。彼の芸は一時は人気を博し多くの客を集めたものの、流れゆく時の中でその人気は次第に衰えていった。それでも彼は芸をやめようとはしなかった。彼はサーカスの一座と契約しそこで芸を披露した。しかし珍しい動物を見に来た客たちが、彼に興味を示すことはなかった。彼はすっかり忘れ去られてしまった。けれどかれはそれを幸いとして、誰にもとめられることなくいつまでも断食をしつづけた。そんな中サーカスの監督がたまたま彼の存在に気づく。やってきた監督に対し断食芸人は「自分は断食しかできない。それは自分が、うまいと思うものを見つけることができなかったからだ。うまいものさえ見つけることができれば、きっと他の人間たちのように腹いっぱい食っていただろうよ」、そう言って息絶えてしまう。その後断食芸人がいた檻には豹が入れられる。檻の中にいようと、豹は不自由を残念がっているようには全く見えない。うまいものを好きなだけ貪り、その高貴な肉体と、そこから放たれる生命の炎熱によって多くの観客を魅了しつづける……」
残無は何かなつかしむような目つきをしながら、おだやかな口調で日狭美に話を語りつづけた。
「仏僧というのはつまるところこの断食芸人のようなものではないか、そんな想いが儂の中にはあるのじゃ。それに比べお前のような美しい女人は、この豹にどこか似ていると思うのじゃ。儂はお前と同じく自分が運命の虜囚であることを知っておる。ただ儂の場合は、それを諦めているというだけじゃ。そしてそうして体得した自由にはたしかに、ほのかな空腹にも近い寂寞の感が漂ってもおる……豹の生と断食芸人の生、いったいどちらを選ぶことが正しいのか、それは儂にも決めかねることじゃ……」
言い終えた途端、日狭美は残無の華奢な躰をめいっぱいの力を込め固く抱きしめた。命の熱に燃え上がる、熱いくちびるを想い人のくちびるへと重ねた。残無が日狭美の接吻を拒むことはなかった。ただしずかに瞑目しその行為を受け入れるのみだった。それはどうしてか――抗うことのあたわざる「時」の存在というものを、残無が知っていたからだった。
永い間、ふたりは互いの胸の鼓動に、魂のさざめきに耳をそばだてつづけた。そのあとでふたりはようやくくちびるを離した。そのころには、日狭美のうつくしい顔は涙のつゆによってすっかりおおわれていた。
残無は踵を返し、日狭美へと背を向けた。そして歩きはじめた。残無も日狭美も、もはや二人は一緒にいられないということを痛いほど強く理解していた。だから日狭美も去りゆく想い人の背を追うことはなかった。ただその場に泣き崩れ嗚咽の声を漏らすばかりだった。
虚空を吹き渡る冴えた風の中で、二人は別れた。それは永遠の訣別だった。それでもなお、くちづけのぬくもりの名残は、ふたりの胸にいつまでも残りつづけた。そのぬくもりに如何様な意義があるのか、それは残無にも日狭美にも、ハンケチで涙をぬぐいつつ、ふたりの別れをこっそり眺めていた摩多羅神にもわかることではなかった。
ねっとりとした描写の中に、日狭美の燃えるような想いを感じました
隠岐奈は何しにきたのだ