「幽谷響子さん?」
だしぬけに聞こえてきたその呼びかけに飛び起きた。目を覚ましたとき、いつの間にやら私の身体には二重に毛布が巻かれていた。
すぐそばには見知らぬ女性の人がおり、かがんで私の顔を覗き込んでいた。その恰好をよく見てみると、どうやら警察官であるようだった。
「幽谷さんですか?」
「はい」
しゃがれた声でそう答えながら、私は探されていたのだな、と思った。ラジオでそのようなニュースを聞いたことは何度かあったが、私がそうなるとは考えもしていなかった。身体の震えは小さくなっていた。
差し出された小さなチョコを口にほうりこむ。甘いぬかるみの拡がっていく感覚が私の気持ちを緩ませた。そのあと様々なことを訊かれ、家出した理由についてもなんとか言葉にしながら話した──住職には伝えないでほしいとも言った。おそらくそれは私自身から伝えなければいけないことだった。女性は頷いてくれた。
女性はどこかと連絡を取り合っているようだった。それが済むと、私の手を引いて森の外へと案内した。道路には二台の車が停められており、うち片方には汚れた格好をした男性が乗っていた。
「転んだんだって」
女性はそう言って私を空いている方の車の後方に乗せ、自身は運転する席に座った。
「寒くない?大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
実際は止まらない身体の震えをにぎった毛布の感触でごまかすような状況であったのだが、とっさにそう答えていた。暗い車のなかでは白い息がよく目立って見えた。私は消えていく吐息を眺めながら、これからどうするかを考えていた。
「お父さんがもう待ってるから」
運転している女性が何気なくそう言った。はじめ誰のことを言っているのかわからなかったが、おそらく住職のことだろうと思った。しかし、住職に今回の騒動の理由をすべて伝えるのは難しいように思われた。
やがて車が目的地につくと、招き入れられた建物のなかで住職が待っていた。住職は私の姿を認めると長椅子から立ち上がり、まず女性にお礼を言った。次いで汚れた格好をした男性にお礼を言った。そしてそのあとに私の前に立った。
とりあえずは私の話にケリがついたとして、いちど寺に帰ることとなった。住職は私にヘルメットをかぶせ、自転車の後ろに乗せて走り出した。私は落ちないように住職に腕を回して抱きしめた。
振り返ってみるとまだ明るい街が遠くなっていくのが見えた。だんだんと辺りが暗くなっていって、寺に帰っているのだということを私に実感させた。ライトの円錐の光が地面に当たって潰れ、道を拓いていった。
私は住職に何か言おうとするのだが、うまくきっかけを掴めないまま話しあぐねていた。そのうちに自転車は大きな橋に差し掛かった。しかし橋の下にあるのは川ではなく、いくつも引かれた線路であった。それらは並んで立っている電灯の光に当たって鉄色に光っていた。
私がそれらに興味を惹かれ眺めていたところ、不意に向こうの方から大きな音とともに電車があらわれた。それはがたがたと大きな駆動音を響かせながら、誰のいるかもわからない暗闇にむけて銀色の車体を見せつけていた。そうして電車は私たちの足下を通り過ぎていき、すぐに走り去っていった。
「こんな時間に」
ふと私の口からそのような呟きがこぼれた。
「下りの最終だろう」
住職が答えるでもなく答えた。
たったそれだけの会話であったものの、少しだけ緊張がほぐれたような気がした。その背中に顔を預けると、ダウンジャケットのひんやりとした冷たさを頬に感じた。寺まではまだけっこう距離がありそうだった。そう考えると、住職がわざわざ迎えに来てくれたのが申し訳なくなった。
「軽率でした」
自然とそのような言葉がもれ出た。住職はとくに何も言わなかった。
橋を渡り切ったあたりで住職が私に訊いてきた。
「何か嫌だったのか」
おそらくそれは家出のことを訊いているのだろうと思った。
「いや、そんなことはなくて」
私は言葉に詰まった。どのようにすればいいのか迷った。
理由を伝えなければいけないのはわかっているのだが、それを素直に口に出すことが出来ない。軽はずみなことをしたのも併せて、それはまるで子どもが拗ねたようなものであることに気がついたからである。もっとよく考えていれば違っていたかもしれないなどと、今更そのような思いに思考を支配されていた。
「ただ、私が何もしてなかったから、それが嫌で、申し訳なくて」
途切れながらも何とか言葉にしていく。発すれば発するほど耐え難い想いが襲ってくる。考え足らずな自分を見つめざるを得なくなり、それがあんまり情けないので、伝えようという意志だけが先走って涙のこぼれ出すのも厭わずぐしゃぐしゃの声で話した。
嗚咽を抑えつつなんとかひととおり話し終えると、住職はぴたっと自転車を止めた。そして自転車を降り、私にも降りるように言った。目の前の道が上り坂であるので、ここからは押して歩いていくのだ。ここを上るともう寺のすぐそばの住宅街に出るはずだった。
カラカラと車輪だけが音を立てている。二人で並んで、しかも夜更けに歩いているというのはどこか奇妙な感じのするものであった。私はダウンジャケットを改めて着なおし、涙のあとを擦った。住職は自転車を押しながらもなにかをずっと考えているようであった。
坂道を上り終えても住職は自転車を押し続けた。車輪の転がる音が夜にこだまし、それがよく印象に残った。私は歩きながら寺に戻った後のことを考えてみたが、それは今まで行っていたそれと全く同じものであるように思えた。それで、変わらなければならないのは私のほうなのだと考えた。
何もしていないことに負い目を感じるのはやめることにした。きっとここでは私のこなすべき仕事がないのだ。おとなしくお世話になっているほうが住職にも迷惑をかけないだろうとも思った。私はこれから先も、ミートパイとゼリーを買って腹に入れて、図書館に通い続ける。それから先は今考えるべきことではなかった。
ここで生きていくとはそういうことなのだろうと思った。
冬の真っただ中のある日、居間で朝ご飯を食べているときに電話が鳴った。
私はテーブルから立ち上がって、ラジオから流れるニュースの音を消した。住職は電話口でずいぶん長いこと話していたが、そのうち何かに根負けしたかのようになり、静かに電話を切った。
「誰から」
私はそう尋ねてみた。話している最中にこちらを何度か見たのが気にかかったからである。知り合いからだ、と住職は答えた。そして少しだけ食事を続けてから、しばらくのあいだ出かけることになったと言った。つまり出張をすることになったということだ。
その間は他の知り合いのところに預けられてくれないかと言われ、もちろん私は了承した。住職は食事を終えてすぐに電話をかけ、その知り合いとおぼわしき人物に私のことを頼み込んでいた。私は黙々と食事を続けながら、図書館から借りていた本をそれまでに返さなければならなくなったことについて考えていた。
その日の夜、とある女性に預かってもらうことになった旨の話を受けた。その女性もこの寺で育った過去があるということで、それもあってこの事を受けてくれたということだ。相手にも都合があるので、くれぐれも迷惑をかけないようにと言われた。私はいつかの一輪の言葉を思い出した。あの時はあからさまな子ども扱いに反感を覚えたが、今はただかしこまるばかりであった。
住職が出かける準備を整えているあいだ、私はこれからどのような場所へ向かうのかという妄想にふけっていた。それは初めてのライブをした日の夜に、寝具のみの簡素な小屋で眠った過去を思い出させた──あの時私が冷めやらぬ興奮に襲われていたのは、歌の熱気に浮かされたというだけではなかった。寺を住処と定めて以来、それ以外の場所で眠ることは一種の悦びをもたらすものであった──もっとも、住処が確かであればの話なのだが。
それから何日か経ち、とうとう住職が出かける日となった。その日は朝早くから自動車が訪れた。私が中庭の掃除をこなしながらそれを眺めていると、運転席から女性が降りてきた。女性は焦げ茶色をした厚めのコートと手袋で防寒していて、片手にはコンビニで買ったと思わしき袋を下げていた。
「おはようございます」
私は挨拶しながら、この人が件の女性なのだろうと思った。女性はほほえんでおはようと返した。その見た目から年齢を推し量ることは出来なかったが、快活そうな人だなという印象を抱いた。
女性は勝手知ったるという風にずんずんと進んでいき、居間へと向かっていった。私は中庭の掃除をほどほどにして終わらせると、すぐにその後を追った。女性は持っていた袋の中身をテーブルの上にぶち散けていた。それは沢山の菓子パンやおにぎりたちであった。朝ご飯はこの中から好きに選んで食べろということだ。
私はその中にミートパイがないか探したがあいにく見当たらず、しかたなく紅しゃけとツナマヨのおにぎりを選んで食べた。それだけでは足りなかったのでホットドッグも食べた。私が腹を満たしているあいだ、女性は住職と話を続けていた。
「駅まで送るだけでいいですか」
ふとそのような女性の声が聞こえた。それで、たぶん私と住職は一緒に自動車に乗り、途中で住職だけを降ろしていくのだろうと思った。私は念入りに歯磨きをしたあと、部屋に行って掛けていたダウンジャケットを持っていった。住職もダウンジャケットを着ていて、右手には大きなボストンバッグ──懸賞で当たったものらしく、缶コーヒーの模様が大きく描かれている──を携えていた。
「もう出かけられるか」
住職が私にそう問いかけた。とはいえ持っていくものなど殆ど無いので、着替えが済んだ時点で準備は終わっているも同然だった。
私と住職は自動車の後ろの方の席に並んで座った。中央にはバッグが鎮座した。私が何の気なしにバッグを見ていると、それには缶コーヒーのおまけのキーホルダーがいくつもとり付けられていることに気がついた。今までそのような姿は見たことがなかったが、意外と缶コーヒーが好きなのかもしれないな、と思った。
自動車が発進し始めると、流れていく外の風景を眺めたり、キーホルダーを手でもてあそんだりして時間を潰した。前方にあるスピーカーからはパン屋でいつも聴いていたあの曲が流されていた。私は誰にも聞こえないくらいの小声でその歌を口ずさんだ。
そのうちに自動車は駅についた。駅は極めて大きく、駐車場には多くの自動車が停められていた。女性が道に寄せて自動車を停めると、住職は一人でさっさと降りて駅へと向かっていった。
「行ってらっしゃい」
「おう」
それだけの会話を交わした。私たちはいつもその時に必要な言葉だけで会話をする。
それから自動車は駅を離れ、街からもどんどん離れていった。多くの人で賑わっていた街はある地点を超えたあたりから急速にその姿を消し始め、次第に畑や田んぼが広範を占めるようになっていった。それらは街を侵食する好機を今か今かと待ち構えているようにも見えた。
「ここら辺から急に田舎になるのよね」
辺りには街とは比べるべくもない高さの家屋が、ぽつぽつとまばらに立ち並んでいた。人の気配などなく、今にも崩れ落ちてしまいそうな家も相まってまるで廃村である。時々どこかの犬がけたたましく吠えて、またそれに応えるかのようにして鳥の鳴き声が上がって、ようやく命の気配を感じ取れるほどだった。
道路はこのような場所にも引かれているのかなどと考えながら風景を眺めていると、しばらく走っていくうちに辺りは寺の周辺にあったような住宅街へと姿を変えていった。途中でガソリンスタンドに寄って、なおも道を進んでいくと、ようやく女性の住居についたようだった。そこは少しくたびれた感じのするマンションだった。すぐ近くには線路が引かれていて、踏切が点滅に合わせてかんかんと音を鳴らしていた。一両編成の電車が通り過ぎていって、上がった踏切を何台かの自動車が通り過ぎて行った。
女性は鍵を機械に差し込んで入口のガラス戸を開けると、私を招き入れた。それからエレベーターというもので九階へと上がった。初めてエレベーターに乗った私は、空に浮くときと似ているようで違う感覚を味わって妙な気分になった。
「一回マンションの外に出ると、誰かに開けてもらわないと入れないからね」
少なくともここに居るあいだ、図書館に行くことは出来ないようだった。
部屋の鍵が開けられ、私は中に招き入れられた。これからしばらくここで過ごすのだなと思うとやはり緊張した。なにしろ、今朝に会ったばかりの人の家なのである──ここに至るまでの道筋を思い返してみても、どうにも地に足のついていない感覚が拭えなかった。
玄関からはまっすぐに廊下がのびて、いくつかの部屋にその枝を分けながら、居間へと通じていた。私はまず寝るための部屋に通され、そこに脱いだダウンジャケットを置いておいた。居間は広く、テーブルやソファがゆとりを持って置いてあった。ラジオは置いていないようだったが、代わりに小さな棚に挟まれたテレビがあった。
女性はコートと手袋を脱いで身軽になったあと、おもむろにソファにおいてあった服に着替えはじめた。なんとなく気まずくなった私は窓からの景色を見ておくことにした。下を見ると、先ほどの踏切を超えた先には大きな公園があり、多くの子どもたちが遊具にむらがって遊んでいるのが見えた。
そのうちに衣擦れの音が止み、視線を戻すと、女性はいかにも部屋着といったラフな格好をしていた。コートのせいで分からなかったが、案外にほっそりとした体つきをしていることがわかる。女性はソファに腰を下ろすと、リモコンでテレビの電源を入れた。はじめにどこかのマラソンの様子が映し出され、それからすぐにニュースへと切り替えられた。
「そこに漫画あるよ漫画」
「あ、はい」
後ろの棚を見ると、ガラス戸からいくつも置かれた漫画が確認できた。その中から一つを取り出して、ソファに座って読み始めた。ニュースは淡々とどこかの小学校で行われた消防イベントについて読み上げていた。私は漫画から目を上げちらと女性の方を見てみたが、携帯に目をやって指を動かしているのみだった。ときどきテレビに視線をやっては、またその機械へと戻していた。
私はつとめて漫画を読もうと思ったが、どうにも集中力があたりに散ってしまい読み進めることが出来なかった。結果として同じところだけを繰り返して読んでいた。女性は手に持っていた携帯をテーブルに置いて立ち上がると、私に話しかけてきた。
「コーヒー淹れるけどいる?」
「あ、大丈夫です」
本当は喉が渇いていたものの、厚かましいように感じてしまって貰おうという気が起きなかった。すぐに流しのほうからコーヒーのよい匂いが漂ってきて、私も飲みたいなと思った。すると、女性は湯気の漂うコーヒーと一緒にペットボトル入りのジュースを持って来てくれた。私はそれをありがたく受け取り、一口だけ飲んだ。
そのあと、女性は読み上げられたニュースのうちのいくつかに自分の所見を述べたり、手に持った携帯でかわいい動物の動画をこちらに見せるなどしてきた。私はこれが彼女なりの距離の縮め方なのだなと思った。それに遠慮がちな対応をしてしまっている自分のことを申し訳なく思った。
窓の外が少しづつ紫紺色に染まっていくのを横目に眺めながら、私はまだ漫画に目を通したままでいた。テレビは時間が経つとともにその画面に映すものを変え続け、今は夕方のニュースを伝えているところだった。
「お腹空いた?」
不意に女性からそのような言葉がかけられた。実は私の腹はかなり前から空っぽになっていた。ほとんど考える間もないままに、うん、と返した。
「じゃあ、ご飯炊くから待ってね」
私は漫画を閉じてテーブルの上に置いた。なんとか読み進めてはいたものの、いざ読むのを止めるともうほとんどその内容を覚えていないことに気がついた。どのような話だったかを思い出そうとしたとき、ちょうど女性が台所から戻ってきた。
「これとこれだったらどっちがいい?」
女性は両手にコンビニの惣菜を持ってそう尋ねてきた。それらはハンバーグと鶏肉のトマト煮だった。私は少し迷ってから、鶏肉のほうを選んだ。
「こっちね」
確認を終えると、女性はまた台所に戻っていった。私はご飯が出来あがるまでのあいだ、ぼんやりとテレビを眺めていた。次々と映し出される人たちを見るともなく見ていると、彼らはテレビの中でだけその命を持っているかのように思えた。この人たちはテレビに映っていないあいだは一体何をしているんだろうと、取りとめもない疑問が浮かび上がってきた。そして不意に私は、寺のみんなのことを思い出した。
彼女たちは今なにをしているのだろうか?まだ私を探し続けているのだろうか?
今生の別れにするつもりこそないが、私からは何も出来ないことはもうとっくにわかっていた。あの理不尽な別れは、いったいどうして私に降りかかったのだろう──そのようなことを考え出すと、思わず涙が滲んできた。私は静かに目を閉じて、気持ちを落ち着かせた。
かちゃかちゃと、食器が台所で硬い音を鳴らしているのが聴こえる。私は今ここに居て、食事を始めようとしている。とりあえず、いま一番重要なことはそのことだった。
女性はまず小さなサラダを二つ持ってきてテーブルに置き、音を立てた電子レンジから鶏肉のトマト煮を取り出してきて並べた。テーブルの中央には深い器に盛られた蒸し野菜が置かれた。それから炊飯器が開かれると、自由の身となった湯気がもうっと立ち上がり、その熱気を伝えた。女性は器用にご飯を盛り、ちょっとしたかき氷のようなそれを私の前に置いた。
「いただきます」
「いただきます」
そうして食事が始まった。サラダにはノンオイルのごまドレッシングがかけられていた。買いたての野菜を使ってあったようで、しゃくしゃくという食感とほんのりとした甘い味、そしてごまドレッシングの濃い味がした。今まで食べたサラダは野菜がドレッシングの油に浸かったようなものばかりだったので好ましく思っていなかったが、こういうサラダなら悪くないなと思った。
蒸し野菜にはえのきと小さく切られた豆腐が入れられていた。漂ってきたぽん酢の香りがつんと鼻をつき、思わず箸をのばした。蒸された野菜はサラダとはまったく違った食感がした。あっさりとした味わいが口に広がり、美味しいなと思った。
鶏肉のトマト煮は黒いプラスチックの容器に盛られていた。ごろごろとした鶏肉とじゃが芋が、海上に顔を出した氷塊のようにしてトマトのなかに座している。トマトと大蒜の強い匂いが食欲を刺激する。じゃが芋を口に放り込んでみると、ややかたいものの、舌の上で 崩れる食感がする。口じゅうに芋の濃い風味が塗り込まれていくようなこの感覚は、寺の食事でもよく味わうものであった。しかし大蒜の風味については、そこではどうにも味わえないものであった。
次に鶏肉を食べてみた。ぎゅむっとした、よく締まった肉の食感がする。噛みしめるたびに肉そのものの美味さが広がっていく。このようにして鶏肉を味わっていると、差し入れとして送られてきた鶏肉を、聖に内緒にしながらみんなで食べたときのことを思い出す。今にして思えば隠して食べる必要などなかったのだが、そのときはなんとなく隠したほうがよいとみんなが思っていたのである。懐かしんでいると、また涙がすこし出そうになったので、ごまかすためにご飯を口にかきこんだ。
お腹が減っていたのもあって、出されたものたちはすぐに食べ終えてしまった。そのあとにハンバーグもいるかと聞かれたのでさすがに遠慮しておいた。後片付けをしようと思ったが、その前にひょいひょいと女性が全部持っていってしまった。すこし申し訳ない気持ちになった。
私たちは食事を終えたあと、お腹を休めるためにしばらくテレビを眺めていた。女性はざっとどのような番組があるか確かめたのちに、ニュースを見ることを選んだようだった。様々な事実を告げるそれを見て、私はその裏にいるであろう多くの預かり知らぬ人たちのことを考えた。そして、こちらの世界は広いのだなと思った。
「今からお風呂いれまーす」
ニュースが終わってから不意に女性はそう言って立ち上がり、浴室へと向かった。
脱衣所の奥が灯りに照らされて、部屋の中に奇妙な明暗を生み出していた。湯船を擦る音とともに、揺れ動く女性の影がそのなかに浮かび上がる。それはどこか昔話じみた情景であった。
そのうちどぼどぼという、湯船のノックされる音が響いてくるようになった。女性はかけられていたタオルで乱暴に手を拭いた。
「もう少し待ってね」
「はい」
女性は私の隣に腰を下ろした。また二人揃ってテレビを見ることとなったのだが、今映されているそれはニュースに比べると特に見る価値もないようなものであった。私は今なら少しは内容が入ってくるのではないかと思い、テーブルに置いたままでいた漫画を手に取ってみた。その予想は裏切られることなく、読んでいて自然に面白いと思えた。私は夢中になってその漫画を読み進めた。
ぴぴぴ、と不意に音が鳴った。どうやらもう風呂が沸いたらしかった。私は漫画を読むのを一度中断しなければならないことを残念に思いながらも、おとなしく本を置いた。女性は私を脱衣所へと案内した。
「あ、別にお風呂一緒でもいいよね?」
女性は上着を脱いでからそう尋ねた。私は構わないと答えた。
風呂場はそれほど狭くはなかったが、それでも二人で入るとすこし圧迫感を感じる。特に湯舟は二人で入るとお湯が零れてしまうほどだった。女性はどこか楽しそうにしていた。つられて私もちょっと楽しくなってきた。
こうして誰かと一緒に風呂に入っていると、自然と寺での風呂のことが思い出された。聖は風呂に入るときさえも修行の一環だとして、身体の洗い方などの細かい所作についても説教をした。とはいえ、普段から真面目にそのようなことに従っていたのは星くらいのものだった。私も含めた他の者らは、たまに聖が一緒に入浴するときがあって、そのようなときにだけやるくらいのものだった。
今にして思えば、そのような猪口才なものが彼女に通じるはずがなかった。おそらく気づいてはいたものの、口に出さなかったというだけであろう。
そのようなことを思い出していると、不意に女性が湯舟から上がり、椅子に腰を下ろした。そして時間をかけて髪を洗い終えると、少し自分の身体つきを気にするような素振りを見せたあと、徐にボディソープを掌に出した。
女性はほっそりとしていながらも肉感を感じる身体つきをしており、どこか聖にも似た雰囲気を漂わせていた。それで私は少なからず、聖と一緒に風呂に入っているかのような気持ちになっていた。私は聖の説いていた所作を出来るだけ細かく思い出しながら、女性の振る舞いを観察していた。そこで私は感動するべきものを見ることとなった。
それはあまりにも堂々とした身体の洗い振りであった。それは洗体というよりはむしろ、見事に彫刻のされた像を、その掌で撫でることで以て堪能しているかのようであった。泡立った掌が緩やかなスピードで身体のうえを滑るさまは、私の目を捕らえて離さないほどであった。私はここまで堂々とした身体の洗い方をするひとについぞ会ってこなかった。
「ん?」
私の視線を感じ取った女性が、不思議そうな目をこちらに向けた。とたんに私は恥ずかしくなった。不躾に見ていたこともさることながら、その洗体に目を奪われている姿を見られたくなかった。私は誤魔化すように湯舟から上がり、髪を洗い始めた。
ここに来てからもう二週間ほどが経った。棚に置かれていた漫画はほとんど読み終えてしまい、ここ最近はテレビを見ることのほうが多くなっていた。私たちはニュースを好んで見た。少なくともそれは不必要な情報をもたらさなかった。
ここに初めて来た日の、女性のあの洗体を見てからというもの、私は彼女に対して何か特別な親しみを抱かずにはいられなかった。私はこの女性に多少なりとも心を許している自分の存在を感じていた。それで今となっては、ここでの暮らしは私にとってくつろげるものになっていた。
昼のニュースを見ながら食事をしていたときのことだった。テーブルに置いてあった女性の携帯から音が鳴った。彼女はすぐにそれを手に取って耳に当てた。私はリモコンの消音のボタンを押した。
いくらか漏れてくる話し声を失礼に当たらないよう聞き流していると、不意に女性は驚いたような声をあげた。それから携帯に指を走らせたのちに、頭を抱えた。何かあったのだな、と一瞬でわかった。
女性は話を終えたあともしばらく頭を抱えていたが、やがて私のほうに顔を向けた。彼女は出張に行く予定があったことを忘れていたと話した。
「これからその用意しないといけないんだけどさ、響子さんはどうしようって」
私はほんの少し考えてから、一緒に行きたいと話した。どのようなところに向かうのかなどは聞かなかった。ただすすんで一人でこの部屋に留まる理由などなかったし、この女性と一緒にどこか知らない場所に行くというのは、今の私にはとても魅力的なことに思えた。
「じゃあ色々準備ね。海が近くて寒いから、厚着して行こう」
そうして、私はこれから海に近いところまで行くこととなった。
幸いなことに私たちの荷物はそこまで多くならず、替えの下着などを入れてもバッグ一つで収まるくらいだった。私たちは近くの駅まで歩いていったのち、目的地までの切符を買って待合所に座った。電車が来るまでまだ時間があったので、私はときどき席から立って、近くの自動販売機の内容を見たり、パンフレットを手に取って読んだりなどしていた。
海に近いところと聞いたとき、私はいまいちぴんと来ていなかった。海自体はずいぶん昔に目にしたことはあったのだが、時間の経った今となってはぼんやりとしたイメージが浮かぶのみだった。
今は座って文庫本に目を落としている女性は、寺に来たときと同じ焦げ茶色のコートを着て、傍らには小さな鞄を置いていた。それらは垂らされた長い黒髪と相俟って、落ち着きを感じさせるシルエットを描いていた。
もしかしたら、私がこの人から聖と似たような印象を覚えるのは、このような大人びた雰囲気を漂わせているからなのかもしれないと思った。下着のセンスや立ち振る舞いから、少女とは違う、年長者の冷静さといったものを感じずにはいられなかった。
彼女は袖をまくって腕時計を認めると、持っていた文庫本を鞄に入れて立ち上がった。私も手に持っていたパンフレットを元あったところに戻して、そのあとを追った。
無人の改札を通り抜けるとそこはもうホームだった。設置されているベンチには一つの影もなく、また立っている者もいなかった。女性は床に引かれた線にしたがって立ち、私がその横に立った。こうしてホームに立っていると、今からどこかへと向かうのだという意識が強くなり、拍動が強くなっていくのを感じた。
そのうちに錆びの浮いたスピーカーからひどい音質の放送が流れ、電車がホームに入ってくることを告げた。私は少しだけ身を乗り出し、向こうから迫ってくる電車の姿を見た。それは徐々に速度を緩めていきながら入場し、私たちの目の前で止まった。
ふと、いつかの夜に、橋の上から見た電車のことを思い出した。あるいはもしかしたら、これはその時の電車なのかもしれなかった。電車は開けた扉から何人かの乗客を吐き出したあと、私たちをその中へと誘った。
扉のすぐ隣りには二人用の席があり、私たちはそこに座った。上には網棚が設置してあり、そこに二人分の荷物を置いた。女性は席に着くとすぐに先ほどまで読んでいた本を広げた。私は背中のほうにある窓からぼんやりとホームを眺めていた。その間に何人かの人が電車に乗り込んできて、それぞれ思い思いの席に座った。
しばらくした後に運転士の声が響いて、それと同時に扉が閉められた。軋んでいるかのような駆動音が鳴り始め、徐々に風景が後ろへと流れていく。空を飛ぶときとはまるで違う感覚に、私は少し興奮を覚えていた。どんどんと移り変わっていく街並みを眺めるのは楽しかった。
電車は道中でいくつも小さな駅に停まった。そのたびに私は座った姿勢のまま、降りる人と乗り込んでくる人とを見比べた。その一人一人が全く未知の生物であるかのように思えて、なんとなく震える思いがした。私は目を凝らして、窓の外に広がる街並みを興味深く眺めた。そして、もし私がここに住んでいたらどうしていたのだろう、と想像した。
次第に車窓から街並みの姿は消えていき、それとともに駅に停まる間隔がどんどんと長くなっていった。電車が山間を通るときには不意に肌寒さを覚えた。もしかしたら海が近いのだろうかと思い、扉の前に立って手すりを握った。
すると、山の陰の向こうにちらりと、青いものが見えた気がした。もしかしてあれは海だろうかと思った。私は手すりの冷たい感触を掌に感じながら、じっと先ほどの一点を見据えた。冬だというのに、葉の生い茂った枝がいくつも重なって遠くを覆い隠した。
私は青がその姿を見せるのを待った。枝はまるで焦らしているかのように、密度を変えながらも巧妙に後ろにあるものを隠した。そうしているうちに電車はトンネルに入ってしまい、外の風景も見えなくなってしまった。
私は手すりを放して、もといた場所に腰を下ろした。トンネルのなかは残響に満ち、ごとごとという駆動音がいつまでも鳴っていた。隣を見ると、女性は本を閉じてその瞼を下ろしていた。どうやら読書に疲れて休憩しているようだった。
私は膝に掌をおき、何も考えないようにして、響いている駆動音に身を委ねた。トンネルはいつまでも続いているように思えた。力を抜いて座席にもたれかかると、すこし固いクッションの感触を背中に感じた。すると電車はトンネルを抜け、向かいの車窓には先ほどとは一転して町がのぞめるようになった。
私は振り返って後ろにある風景を見てみた。すると、そこには一面に広がる海があった。
私はその景色に見惚れてしまって、しばらく動くことが出来なかった。海を目にしたのは随分と久しぶりのことだった。自ずと頭の中には水蜜のことが思い出された。
水蜜はときどき海の話をした。海には何があるのか、海の近くには何があるのか、そういった話を私に聞かせてくれた。私も外にいた頃に海を見たことだけはあるが、山に住んでいたことから近くまで行ったことがないということを話すと、いつか一緒に行きましょうと言っていたことを覚えている。
思わず涙が出そうになり、手で拭いさった。私だけがこうして海を見ていた。
「もうすぐ着くよ」
女性は私にそう言った。本はもう鞄の中に入れてしまったようだった。手持ち無沙汰になった女性は私と同じように、背後にある海を眺めていた。
電車から降りたとたん、冷たい風がホームをごうっと抜けた。
私はすぐに手をダウンジャケットのポケットに入れた。晒されたままの頬に風が当たって、そこから体内に寒さが侵入してくるかのような感じを覚えた。
「行こうか」
女性はバッグを片手に持って改札まで歩いた。駅員の姿はなく、女性は置いてある箱に切符を捨てた。私もそれにならった。
駅の近くには寂びれた建物が多くあった。私は特にその中にあった海鮮を掲げる居酒屋が気になったのだが、女性はそれを気にかけることもなくさっさと歩いて行ってしまった。このまま泊まるホテルに行くのだと女性は言った。
私は辺りを見回しながら女性について行った。時おり女性がバッグを持つ手を変えているのを見て、私が持とうかと言ったが、大丈夫と返されてしまった。そのうち私たちが泊まるらしいホテルへと到着した。
ホテルはそこまで大きいものではなかった。ちらと見える駐車場にはぽつぽつと車が停められていた。私はどのような部屋なのか楽しみにしながら中に入った。
ホテルの中は暖かかった。私はロビーに置かれた長椅子に腰を下ろして、女性がカウンターと話をつけるのを待った。バッグの表面を撫でながらその背中を眺めていると、女性はすぐに鍵を受け取って戻って来た。
私たちの部屋は二階の端の方にあった。中にはテレビと大きなベッド、それからいくつかの細々とした家具があった。女性はバッグをベッドの上に置いて、今日の分の着替えが入ったレジ袋を取り出した。
私は部屋にどのようなものがあるかひと通り確認したあと、レジ袋をどけてベッドに横になった。どうやら少し疲れているようだった。意識していても知らぬ間にまぶたが下りてしまう。
「眠い?」
すぐに横になった私を見てか、女性がそのように語りかけてきた。私は正直に寝てしまいそうだと答えた。眠かったらそのまま寝ていいから、と女性は言った。既にまどろみかけていた私の意識は、もはやその言葉をほとんど聞いていなかった。
そうして後になって目を覚ましたときに、初めて自分が眠っていたことに気がついた。カーテンを開けて外を見ると、もうとっくに暗くなっていた。ベッドから出て大きくのびをしたのち、女性の姿がないことに気がついた。風呂場の方から水音が聞こえてきたので、おそらく入浴しているのだろうと思った。
棚の上にはコンビニで買ったものであろう食べ物が置いてあった。私が寝ているうちに女性がそこらで買ってきたのだろうと思った。それが今日の夕食になることは容易に察せた。
風呂場の明かりが消え、タオルで身を包んだ格好の女性が姿を見せた。どうやら私が部屋で眠っているうちに、女性は仕事を終わらせてきたようだった。
「よく寝たね。ご飯食べる?」
「食べる」
お腹が空っぽになってしまったかのような感じだった。カツサンドとメロンのジュースを押し込むようにお腹に入れると、それも多少落ち着いた気がした。それらの残骸をゴミ箱に捨てるとき、おにぎりの包み紙が捨てられているのが見えた。せっかくこのようなところまで来たのに、簡単な食事で済まさせてしまったことを申し訳なく思った。
女性はテレビの電源を入れながら、出張は明日までで明後日の電車で帰ると言った。
「明日も私は仕事だけど、響子さんはどうする?」
私はしばらく考えたあと、ここらを見て回りたいと正直に答えた。眠らなかったら今日のうちに見て回っていたのにな、と思った。女性はビニール袋から取り出した服を着たあと、そのままベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、明日はどこかで待ち合わせで。ホテルでもいいけど」
「うん」
それから私は歯を磨いて、再度ベッドにもぐった。布団はずっしりとしていたが、ふかふかとして心地よかった。女性は入ってすぐに寝息を立て始めたが、私は一度眠ったのもあってなかなか寝付けないでいた。
私は駅の近くに立ち並んだ、多くの建物たちのことを考えてみた。そこには海の近くでの生活が流れているはずだった。そこでどのようなものを見られるのか、私は少しわくわくしていた。それでもやはり、水蜜とともに見たかったという気持ちは消えなかった。
起きたときには女性はとっくに化粧を済ませていた。窓から見える景色は薄く曇っていて、ところどころにある雲の割れ目から日射しが漏れていた。
ベッドから起き上がってレジ袋のなかに残っていた食べ物を食べたあと、女性と話して待ち合わせの時間を決めた。一時くらいにまたこの部屋で落ち合うこととなった。女性は腕時計を私に預けたあと、鞄を持って部屋を出て行った。
私はしばらく窓から外の景色を見ていた。雨が降りそうで少し心配ではあったが、部屋を出て行くことにした。ダウンジャケットを着て鍵をポケットに入れた。ゴミを捨ててから行こうか迷ったが、どうせ戻ってくるからと思ってそのままにした。
階段を下ってロビーまで行き、そのまま出口から出ようとすると、カウンターから呼び止められた。部屋番号を言って鍵があることを示すと、行ってらっしゃいませと恭しく一礼された。これも旅行ならではかな、と思った。
まだ朝が早いからか曇っているからか、外はかなり冷え込んでいた。私はよりしっかりとダウンジャケットを着なおした。道を歩いていても他の人の姿を見ることはほとんどなかった。ただ、絶え間ない波の音が遠くから聞こえてくるので、やはり海の近くにいるのだなと感じた。
なにげなく腕時計を見ると針は八時前を指していた。こんな早い時間からあの人は仕事に行ったのか、と思った。これでは人が少ないのも当たり前だ──などと考えた矢先に、学生服を来た女性が向こうから歩いてくるのが見えた。なるほど、学生というのはこんなに早い時間から向かっているのか、と思った。
女性との距離が近づくにつれて、その顔が鮮明に見えるようになった。初めは見覚えのある顔だな、と思った。よく見るとそれはミスティアだった。
最初は誰だかわからなかった。彼女の髪から飛び出していたもふもふの耳はなくなっていた。柔らかな翼もだ。ジャンパーの下に纏っている服は学生服だった。彼女は一人の中学生になっていた。
『久しぶり。あなたも来てたんだ』と、機械的に私の口が動いて、そんな言葉を吐いた。とりあえず話をしようと、ミスティアは興奮気味に私を近くの喫茶店まで連れて行った。
ミスティアはブレンドコーヒーとチョコケーキを頼んで、私はカフェラテを頼んだ。その後にしばらく沈黙があった。私は意味もなくメニューを手に取ってぺらぺらめくった。おもむろにミスティアが話し始めた。
こっちに来てから色んなところを歩き回ったことや、途中で警察官につかまって色々訊かれたあげくに施設に送られたこと、今学校に通えているのはその施設のおかげだということ、学校に入ったあと外国人かどうか訊かれて答えに窮したこと、学校はそこまでは悪くないということ。
そんな話をするミスティアは、私が知っていた彼女からはかけ離れて過ぎていて、厭な隔たりを感じた。いちばん最初、私の口が機械的に動いた理由がなんとなく解った気がした。
それはきっと、彼女が前までとは違うものになってしまっていることを、一目見たときに気づいてしまったからだった。やりきれなくなった。私は彼女の話を、話半分に聞くに留めた。
「そういえば、学校行かなくていいの」
「少し遅刻するぐらいなら大丈夫よ、別に」
店員が頼んでいたものを運んできた。
私はカフェラテをストローでかき混ぜながら、学校に行かない選択をしたことを話した。するとミスティアはおもむろに、学校の冷水器以外から出る水はすべて消毒液を薄めた味がするといった話をした。そして、あなたの気持ちもわかると言った。
「ただね」
そこで彼女はいったんブレンドコーヒーを飲んで、口を湿らせた。
「学校には行ったほうがいい」
多分それは正しいのだろうと思った。
それからもいくらか話をつづけた。私は今の自分の状況について、色々な話をした。ミスティアは真剣な表情でそれを聴いてくれた。ここには女性につれて来てもらったことも話した。
「だから、ずっとここにいるわけじゃないの」
「そっか」
そう言ってミスティアは寂しそうな顔をした。その顔を見ると胸がずきんとした。
そして、頼んだものがすべて空になった頃に、ミスティアはそろそろ出ようかなと言った。私はどれくらい払うのか確認しようと、レシートを手に取ろうとした。財布にはいくらか小遣いが入れられていた。
すると、ミスティアが私が払うと言った。
「私が誘ったから」
「そう?」
私はためらった。それは罪悪感とかいうものより、ここでミスティアに払ってもらうと、ようやくわずかにつながった縁がまた切れるような気がしたからだった。それはどうしても嫌だったから、どうしても私も払うと言った。
「ありがとう。あんまりお金なかったから」
恥ずかしがるような笑顔でミスティアはそう言った。その言葉がまた胸にずきんときた。
前までの彼女は、店のお金で他の者にものを買ってあげたりしていた。ままごとであるかのようにお金を貸したりもしていた。余裕がないなんて言葉は、彼女に縁遠い言葉であるはずだった。厭だなぁ、と思いながら、ポケットから財布を取り出した。
支払いを終えて喫茶店を出ると、先ほどまでよりも強い風がびゅうと吹いた。思わず身体がぶるりと震えるほどだった。横を見るとミスティアも寒そうにしていた。
改めて、私はミスティアがここにいることが信じられなかった。実はこれは夢でしかなくて、目をつむれば今にも覚めてしまうのではないかと思うほどであった。しかし海から吹く風の冷たさが、私たちが間違いなくここにいることを伝えていた。
私たちはしばらく喫茶店の入り口近くから動こうとしなかった。お互いに相手が動き出すのを待っていた。なぜそうしているのか定かではなかったが、きっとそれは久しぶりに逢った同郷の者と離れたくなかったからだと思った。
本当ならミスティアに話さないといけないことはもっと沢山あった。しかし、こちらに来て変わってしまった彼女を見て、私はどこか近寄りがたいものを感じてしまっていた。前までのミスティアと同じように接することができなかった。
不意に私は涙が滲んでくるのを感じた。それはミスティアが変わってしまっていたことへの悲しみや、変わることを強制したこの世界へのいら立ちとかいったものからだった。こんなことひどい、と思った。じわじわと溜まっていく涙を私は乱暴に拭った。
すると、ミスティアが、私を優しく抱きしめた。
「逢えてよかった。ぜんぶ、変わっちゃったんじゃないかって……」
そう言うミスティアの声は震えていた。顔は見えなかったが、泣いていることがすぐにわかった。
「響子を見て、前と全然違って、どうしたのかなって……でも、なんにも変わってなかったから……」
その言葉で私は気がついた。
私もこの世界に来て変わっていたのだ。
そして、きっとミスティアも私と同じくらいに、そのことが厭だったのだ。
「私、変わった……?」
思わずそのような言葉が漏れ出た。
「うん、変わった。でも変わってない」
ミスティアはそんなことを言って、より強い力で抱きしめるので、私はぼろぼろと溢れる涙を抑えることができなかった。
二人してわんわんと泣きながら、よかった、よかったと言い続けるのを見て、きっと見た人たちは変に思っているのだろうな、と思った。そんなバカなことを思わないと、とうてい泣き止めそうになかった。
ようやく涙も落ち着いたとき、ミスティアは私に言った。
「あのね、ちょっと思うんだけど……私たち二人だけがこっちに来たんじゃなくて、もしかして、みんなもこっちに来てるんじゃないかなぁって……」
それを聞いて、私は目から鱗の落ちる思いであった。言われてみれば、私とミスティアだけがたまたまこちらにやって来たのではなくて、みんながこちらに来ているのだと考えたほうが私にとっては腑に落ちた。
だとしたら、私はこの世界のどこかで、再びみんなに逢うことができるのかもしれないと思った。そう考えると、俄然こちらで生きようとする意欲が湧いてくる気がした。
ミスティアはもう行かなくてはならなかった。別れ際、私に連絡先の書かれた紙を渡してくれた。
「携帯買ったら連絡してね。で、一緒にカラオケとか行こう」
そして、ミスティアは学校に向かっていった。私はその背中を見て、学校に行くことを決断した。これからのことを考えるとそうするべきだった。寺に戻ったとき、まず住職にそう言おうと思った。
それからしばらくの間ぶらぶらと町を歩いて、コンビニで買ったもので昼食を済ませたのちに、ホテルへ戻った。女性は近くのお店で買ったと思わしき海鮮丼を食べているところだった。
「おかえり」
「ただいま」
戻ったときにはすでにバッグに荷物がまとめてあり、あとは帰るだけの状況となっていた。女性は食べきれないからといって、まだ三割ほど残っている海鮮丼を私に渡した。持っていたお金の関係でコンビニでは少なめに買っていたので、嬉しく思った。
それから部屋の後始末などを終えてホテルを発ち、駅まで向かって歩いている途中、女性と色々なことを話した。
「ここら辺どんなのがあった?」
「あっちに喫茶店とか、学校とかあったよ」
「喫茶店いいね」
「あと友達もいた」
「マジで?」
そうしているうちに駅まで着いた。幸いにして切符を買ってすぐに電車が来たので、そのまま乗り込んだ。来たときと同じで、電車に乗っている人は少なかった。座席に腰を下ろして、窓から空を見てみると、そのうちに雲は晴れそうに見えた。
車が寺に着いたとき、細かな雪がちらほらと舞っていた。ずいぶんと遅い雪だなと思った。雪たちは地面に当たってはその姿をしみに変えて、辺りに斑点模様を広げていっていた。
「またね響子さん」
「またね」
そう言って女性は帰って行った。寺に帰る日が決まったとき、沢山の服が入った袋を渡された。その多くが今の私にはまだ大きいものだったが、いつか着るだろうということで受け取ったのだった。
ポケットから鍵を取り出して玄関を開けると、住職の靴があるのを確認した。私は服の入った袋を持っているのも構わずに居間へと駆け、やや乱暴にその戸を開けた。
驚いた顔をしてこちらを見る住職に畳みかけるようにして、学校に行きたいと私は言った。
外に出てからの響子の
帰りたくないわけじゃ決してないけど、かといってそのために何か行動するわけでもなく、
でも諦めたり達観して受け入れているのかっていうとそうでもなく、
なんとなく流されているようなある種の楽観や怠惰のような考え方が
感性としていまいち共感はできなかったものの、文章力でまあ……そういう考え方もあるかぁ……と読ませられたような印象を受けました。
この手の話の定番として、絶対に戻ると思っており、
そういう読み方(どう戻るのかそもそも何が原因で外に出たのかみたいな話だと思って読んでいた)をしていたので、いろんな意味でラストは驚いたと共にあ、終わったっていう感想が少しありました。
綺麗な文章表現と、少ない描写で見せる人の温かみのようなものは好きでした。
また、この作品を読み終えた率直な感想として、これ全部逆張りだったんじゃないんかなとか思っちゃいました。これは響子が偶然にも幻想郷から抜け出してしまい、戻れなくなってしまったという所謂現代入りと呼ばれる話ではあります。そういった最早、創想話辺りでは忌避されているような典型的な内容の話をどこまで上手く煮詰める事が出来るのかという枷を自身に課して勝負に出てみたような作品であるかに思えました。実際結末としては幻想郷に戻れなくなった響子が、その後戻れたかどうかは定かではないものの、少なくとも戻れなくても生きて行く決意をして終わった話であり、現代入りでの典型的な終わり方である幻想郷に帰還して丸く収めるという結末とは完全に異なるものでした。そういったことからも、ありふれたものを書きつつ、ただで終わらせてなるものかという気持ちの籠った作品に思えます。
評価としては個人的にもかなり迷ってる部分があって、現代の生活が事細かに書かれる事にあまり意味はなく、その現代の生活の中で幻想郷での思い出を思い出す事による響子の感傷が作品に意味を与えるものだと思いました。ただ前述したようにこの作品は響子が自分の状態を客観的に説明しているような冷静さを感じるような文章であり、それによって響子に対しての感情移入がしにくいような感覚もありました。文体自体は面白く読めたんですけど、そうした彼女の感情部分に対してどうしても遠いところから見ているような感覚に陥ってしまったと思いました。
しかし、結末の意外さや響子の感情表現に対して上手く納得がいくような描写の仕方、淡々と語られながらも続きが気になってしまう展開が非常に良かったと思いました。面白かったです。ありがとうございました。
降って湧いた理不尽な状況にどうしたらいいかわからず右往左往しながらも徐々に自分の日常を確立していってしまった響子に弱さと心細さを感じました
迷子の子供、に対する解像度があまりにも高すぎて読んでいて一緒になって不安になってしまいました
素晴らしかったです
「ちょっと待って」と呟き、
ラストシーンで変な声が出ました。
凄いです
それでも自分の出自とそこで結んだ縁は決して忘れ去られることはないだろうという、この話の結末はその確信が導いたものだったのだろうと思いました。
私たちはいつもその時に必要な言葉だけで会話をする。それゆえに響子の思いはなかなか声として現れない。ただ会話にしないからこそ伝わる生活感、例えば缶コーヒーの懸賞のバッグや女性の洗体、学校の冷水器のような存在のそばで生きることを決めた響子に対し、どうか行幸を、と願わずにはいられない作品でした。
外の世界の住人としての響子の生活が始まるという場面での幕引きはあまりにも秀逸でした。