「Phí chỗ ở」
「え、だからこれでしょ? ほら、カードよ?」
蓮子はホテルの主人と、ずっと言い争っている。この蓮子の台詞を聞くのも何度目だろうか。言葉が通じないのは、お互いもう分かっているだろうに、二人とも母語で喋るのを一向に止める気配がない。
「Nếu bạn không có tiền, bạn không thể ở lại」
ホテルの主人は険しい表情をしながら、首を横に振っている。
「ねえ蓮子? 翻訳アプリとかは使えないのかしら?」
「圏外で使えないの。よく分からないけど、やっぱり現金しか受け取ってもらえないみたい」
蓮子はもう一度、カードをホテルの主人に差し出してみた。
「Vui lòng thanh toán phí ăn ở」
主人の表情がより一層硬くなり、陽に焼けた肌や顔中の盛り上がった皺は、鉱山に露出した岩石を思わせた。より強い語気で発せられた言葉が、南国特有の開けっ広げなコンクリート製のピロティで反響する。馴染みのない言語の予期せぬタイミングでの強勢や、近くを通るバイクやトラックのクラクションが、私の背筋をぞくりとさせる。
そもそも出発前に、空港で両替をしておくべきだったのだ。しかし案の定、蓮子は大遅刻をして私たちは大急ぎで飛行機に飛び乗った。蓮子は「着いてから両替すれば大丈夫よ」と呑気なことを言っていたが、いざ着いてみると両替所は何処にも無かったのだ。せっかくの大学生の夏、南国の小さな島にでも行ってバカンスをと思っていたが、このままだと野宿をすることになるかもしれない。
さすがに蓮子も困ってしまったのか、二人で途方に暮れていると、カウンターの奥の方から甲高い叫び声が聞こえてきた。叫んでいたのは、またよく陽に焼けた女性で、どうもこのホテルの主人の奥さんらしかった。
その奥さんは主人の横に来ると、私たちの目の前で何やら言い合いを始めてしまった。時々、途方に暮れた私たちの方に目線を送るので、言い合っているのは私たちの事についてらしかった。しかしあまりに声が大きいので、それが通常の会話なのか喧嘩なのか、言葉の分からない私たちには判別が付かなかった。
その時、言い合いの声を聞いたのか、ホテルの前に大型のバイクに乗った人がやって来た。顔つきからして明らかに地元の人だが、服装に他の人と違った重厚感がある。服はカーキ色で、肩にはモバイルバッテリーほどに分厚い肩章が付けられていて、胸元には博物館の展示品のように勲章がずらりとぶら下げられていた。この人はきっと身分の高い軍人さんに違いない。
その軍人さんはバイクを降りると、すぐさまホテルの夫婦の言い合いに割り込んでいった。小さな街で互いに顔見知りなのか、その三人はずいぶんと砕けた話し方をしているように見えた。言い合いの訳を理解したのか、軍人さんからも私たちに向かって鋭い視線が向けられる。
「ちょっとちょっとメリー、これマズイかな? こっそり逃げよっか」
「このタイミングで!? 絶対あの軍人さんっぽい人に追っかけられるでしょ」
二人でこそこそ話していたら、ついに奥さんと目がバッチリ合ってしまった。奥さんは南国の果実のように丸い目をクリクリさせて、私たちのもとに歩み寄ってくる。
「đi với tôi」
私たちは奥さんに手を捕まれ、ホテルの入口の脇に止めてあった別のバイクの所へと連れていかれてしまった。奥さんは、やはり聞き取れない言葉で叫びながら、バイクの椅子をバンバンと叩く。座れと言うことか。私たちは何処かへ連れて行かれてしまうのか!?
とっさに蓮子が叫ぶ。
「待って待って、どういうことよ!? どこに行くって言うのよ!?」
叫び声を聞いて、軍人さんがこちらに振り向いた。やはり視線が鋭かったが、突然ニコリと笑った。目尻に現れた皺の数が、この人の朗らかさを物語っていた。
「ゴールドショップ! オンリー・ウェイ・エクスチェンジ・マニー!」
私たちは連れられるまま、バイクに乗って街中へと走り出した。徐々に交通量が増えて来て、道は他のバイクで埋め尽くされていた。この街では雨の代わりにバイクが降っていて、それが川になって海まで流れているのではないかと思える程だった。
その川の中でも、ホテルの奥さんはどんどんと速度を上げる。私たちのバイクは三人も乗せているのに、加速も小回りも他のバイクより格段に効いていた。他のバイクやトラックの間を縫って、強引に突き進んで行く。
奥さんはより一層甲高い声を上げながら、バイクを更に加速させる。砂埃の混じった空気が肌にぶつかって、それまでにかいていた汗が全て吹き飛んで行くようだった。
突然、支え合いながら座っていた蓮子が、声を上げる。
「アハハハハハ!! 何よこれ、すっごく楽しいじゃない!! ねえ、もっと速度出してよ!!」
蓮子は腕を力一杯前へ突き出した。すぐに意図を理解したのか、奥さんも片腕を突き上げて、エンジンを更に吹かす。
エンジンが限界まで回転し、ラジコンのような高周波音を立て始めた。金属部品のぶつかる音までして、バイクは今にも崩壊するんじゃないかとさえ思った。蓮子と私はお互いにしがみ付き合いながら、急加速・急旋回するバイクに重心を合わせて走り続けた。
バイクをかわしながら突き進むテクニックは、さながらシューティングゲームの主人公を思わせた。バイクと激流を共にするトラックが
重低音のビートを刻み、クラクションが鳴る度に曲の流れが転調する。夜のネオンランプとヘッドライトの流れは、光り輝く弾幕そのものだった。
「メリー! 南国のバカンスっていいわね!」
風にバタバタとなびく蓮子の声が聞こえる。
「なによ、元はと言えば蓮子のせいなんだからね!」
「あははは、そうだったっけ?」
私も必死に叫んで蓮子にツッコミを入れる。寝坊しなければこんな苦労は無かったんだから。
それでも私は、蓮子の体をぎゅっと抱きしめた。ここは灼熱の南国だけれども、強風が吹き付ける中で感じる蓮子の体温は、とても心地が良かった。
結局私たちは無事に両替を済ませて、もといたホテルまで帰ってきた。チェックインを済ませて、用意された部屋へと向かう。
「あ、蓮子、ちょっと待って」
私はカウンターへと戻り手元の現金から少し取って、ホテルの夫婦の二人にチップを渡した。すぐに蓮子も理解して、私たちは一緒に手を合わせて感謝していることを示そうとした。言葉は分からないけれども、なんとか意図は伝わったらしい。夫婦は私たちに笑ってくれた。
「ね、蓮子? 現金は不便だけど、そんなに悪くもないみたいよね?」
「え、だからこれでしょ? ほら、カードよ?」
蓮子はホテルの主人と、ずっと言い争っている。この蓮子の台詞を聞くのも何度目だろうか。言葉が通じないのは、お互いもう分かっているだろうに、二人とも母語で喋るのを一向に止める気配がない。
「Nếu bạn không có tiền, bạn không thể ở lại」
ホテルの主人は険しい表情をしながら、首を横に振っている。
「ねえ蓮子? 翻訳アプリとかは使えないのかしら?」
「圏外で使えないの。よく分からないけど、やっぱり現金しか受け取ってもらえないみたい」
蓮子はもう一度、カードをホテルの主人に差し出してみた。
「Vui lòng thanh toán phí ăn ở」
主人の表情がより一層硬くなり、陽に焼けた肌や顔中の盛り上がった皺は、鉱山に露出した岩石を思わせた。より強い語気で発せられた言葉が、南国特有の開けっ広げなコンクリート製のピロティで反響する。馴染みのない言語の予期せぬタイミングでの強勢や、近くを通るバイクやトラックのクラクションが、私の背筋をぞくりとさせる。
そもそも出発前に、空港で両替をしておくべきだったのだ。しかし案の定、蓮子は大遅刻をして私たちは大急ぎで飛行機に飛び乗った。蓮子は「着いてから両替すれば大丈夫よ」と呑気なことを言っていたが、いざ着いてみると両替所は何処にも無かったのだ。せっかくの大学生の夏、南国の小さな島にでも行ってバカンスをと思っていたが、このままだと野宿をすることになるかもしれない。
さすがに蓮子も困ってしまったのか、二人で途方に暮れていると、カウンターの奥の方から甲高い叫び声が聞こえてきた。叫んでいたのは、またよく陽に焼けた女性で、どうもこのホテルの主人の奥さんらしかった。
その奥さんは主人の横に来ると、私たちの目の前で何やら言い合いを始めてしまった。時々、途方に暮れた私たちの方に目線を送るので、言い合っているのは私たちの事についてらしかった。しかしあまりに声が大きいので、それが通常の会話なのか喧嘩なのか、言葉の分からない私たちには判別が付かなかった。
その時、言い合いの声を聞いたのか、ホテルの前に大型のバイクに乗った人がやって来た。顔つきからして明らかに地元の人だが、服装に他の人と違った重厚感がある。服はカーキ色で、肩にはモバイルバッテリーほどに分厚い肩章が付けられていて、胸元には博物館の展示品のように勲章がずらりとぶら下げられていた。この人はきっと身分の高い軍人さんに違いない。
その軍人さんはバイクを降りると、すぐさまホテルの夫婦の言い合いに割り込んでいった。小さな街で互いに顔見知りなのか、その三人はずいぶんと砕けた話し方をしているように見えた。言い合いの訳を理解したのか、軍人さんからも私たちに向かって鋭い視線が向けられる。
「ちょっとちょっとメリー、これマズイかな? こっそり逃げよっか」
「このタイミングで!? 絶対あの軍人さんっぽい人に追っかけられるでしょ」
二人でこそこそ話していたら、ついに奥さんと目がバッチリ合ってしまった。奥さんは南国の果実のように丸い目をクリクリさせて、私たちのもとに歩み寄ってくる。
「đi với tôi」
私たちは奥さんに手を捕まれ、ホテルの入口の脇に止めてあった別のバイクの所へと連れていかれてしまった。奥さんは、やはり聞き取れない言葉で叫びながら、バイクの椅子をバンバンと叩く。座れと言うことか。私たちは何処かへ連れて行かれてしまうのか!?
とっさに蓮子が叫ぶ。
「待って待って、どういうことよ!? どこに行くって言うのよ!?」
叫び声を聞いて、軍人さんがこちらに振り向いた。やはり視線が鋭かったが、突然ニコリと笑った。目尻に現れた皺の数が、この人の朗らかさを物語っていた。
「ゴールドショップ! オンリー・ウェイ・エクスチェンジ・マニー!」
私たちは連れられるまま、バイクに乗って街中へと走り出した。徐々に交通量が増えて来て、道は他のバイクで埋め尽くされていた。この街では雨の代わりにバイクが降っていて、それが川になって海まで流れているのではないかと思える程だった。
その川の中でも、ホテルの奥さんはどんどんと速度を上げる。私たちのバイクは三人も乗せているのに、加速も小回りも他のバイクより格段に効いていた。他のバイクやトラックの間を縫って、強引に突き進んで行く。
奥さんはより一層甲高い声を上げながら、バイクを更に加速させる。砂埃の混じった空気が肌にぶつかって、それまでにかいていた汗が全て吹き飛んで行くようだった。
突然、支え合いながら座っていた蓮子が、声を上げる。
「アハハハハハ!! 何よこれ、すっごく楽しいじゃない!! ねえ、もっと速度出してよ!!」
蓮子は腕を力一杯前へ突き出した。すぐに意図を理解したのか、奥さんも片腕を突き上げて、エンジンを更に吹かす。
エンジンが限界まで回転し、ラジコンのような高周波音を立て始めた。金属部品のぶつかる音までして、バイクは今にも崩壊するんじゃないかとさえ思った。蓮子と私はお互いにしがみ付き合いながら、急加速・急旋回するバイクに重心を合わせて走り続けた。
バイクをかわしながら突き進むテクニックは、さながらシューティングゲームの主人公を思わせた。バイクと激流を共にするトラックが
重低音のビートを刻み、クラクションが鳴る度に曲の流れが転調する。夜のネオンランプとヘッドライトの流れは、光り輝く弾幕そのものだった。
「メリー! 南国のバカンスっていいわね!」
風にバタバタとなびく蓮子の声が聞こえる。
「なによ、元はと言えば蓮子のせいなんだからね!」
「あははは、そうだったっけ?」
私も必死に叫んで蓮子にツッコミを入れる。寝坊しなければこんな苦労は無かったんだから。
それでも私は、蓮子の体をぎゅっと抱きしめた。ここは灼熱の南国だけれども、強風が吹き付ける中で感じる蓮子の体温は、とても心地が良かった。
結局私たちは無事に両替を済ませて、もといたホテルまで帰ってきた。チェックインを済ませて、用意された部屋へと向かう。
「あ、蓮子、ちょっと待って」
私はカウンターへと戻り手元の現金から少し取って、ホテルの夫婦の二人にチップを渡した。すぐに蓮子も理解して、私たちは一緒に手を合わせて感謝していることを示そうとした。言葉は分からないけれども、なんとか意図は伝わったらしい。夫婦は私たちに笑ってくれた。
「ね、蓮子? 現金は不便だけど、そんなに悪くもないみたいよね?」
バイクで連れていかれる蓮子たちが痛快でした