「……今ちょうど、無限に薄っぺらい紙からなる、無限に薄っぺらい経典について考えていたんです。そしてそれは既に校了したものがここに存在しています――いるはずです。その経典は常にそこにあるし、どこにもないし、誰にでも読めるし、読む必要すらない……」
そんな調子のことをほざきながら怠業行為を働いて(奇妙な言い回しだ)いた頃を思うと、この辺鄙な土地の川岸に飛ばされて、うつらうつら舟漕ぎをしているくらいが、自分にはちょうどいい立場の気はする。
「“渓ニ縁リテ行キ、路ノ遠近ヲ忘ル。”……」
小野塚小町はうたうように呟き、そして舟底に寝転がる。舟はぐらりと揺れたが、そのおぼつかなさも面白い。そういう事も楽しめる少女だった。
「――こら」
すぐそばの葦原から、声をかけられた。
「また、怠けているのですね」
起き上がってみると、上長の閻魔自らが出向いてきていて、説教をくれるようなので、さすがに舟をそちらの岸辺に寄せ、居住まいを正した。
「おはようございます」
「こんにちは、小町」
「はい、お日柄もよろしく……髪型変えました?」
「朝に出仕してこのかた誰も指摘してくれなかった事を、真っ先に言ってくれるのは嬉しいのですが……」
四季映姫・ヤマザナドゥはため息をついた。本当に嬉しくはあるのだが、それとこれとは話が別だ、という表情でもある。
「どうもつまらなさそうじゃないですか。本庁の編集部で忙しかった頃が懐かしいのではないですか?」
「どうでしょうね。煩瑣な作業ばかりで、新しい事はなにもしませんでしたし、させてもらえませんでしたから」
あそこではなにも新しい事は起こっていません、と小町は続けた。
それは映姫も知っていた。官庁広報に付録されている新刊案内に目を通してみても、その停滞ぶりはよくわかっていた。みだりがわしいだけの豪華版、反対に無造作な普及版、意味のない新装版、埃を更にかぶせるだけの再販、無用の重版、すべてが外注任せの絵入り版などなど、ただ一冊の経典の為だけに、面白みのない変化が、だらだら反復されているのみだった。
もちろん、それらの作業が全く楽な仕事だとは言わない――むしろ新たな書物を作る以上に作業量が増える部分もあるだろう――が、それを退屈な仕事に思う感性も存在していいだろうし、やる気を失って怠け続け編集部から追い出された、目の前の死神に同情してみたくもなる……しかし、それとこれとは話が別というものだ。
映姫は言った。
「日報が何日分も滞っています」
「報告すべき出来事を探すところから始めなければなりませんからね」
「別に特別な事件が起きなくてもよいのです。ただ何時何処で何人の死者を案内したとか、そんなものでいい」
「つまらんですね」
そう言って、小町はまた船底に寝転がった。
「ま、つまらんのも正直嫌いではないんですが……」
部下のその言い様に、川岸の映姫は呆れ返っていたが、憤りまではいかない。自分も、いずれはこういった生意気な部下を叱りつける事ができるようになるだろうか、などとのんきに考えてしまう。
「……言いつけられた仕事は一応こなしてますよ。一応ね」
「それは知ってます」
映姫も認めざるをえない。要領は良い子なのだ。むしろ、こんな僻地の閑職に詰め込まれているには似つかわしくないくらいだ。怠けてばかりだが仕事はこなしているというのは、手際が良い事の言い換えにすぎないし、日報は遅れがちだが見事な書式で記されていて、まさに簡にして要を得るといった感じだった。
「……これだけできるなら、私の方から中央への復帰の運動なりしてもいいのですが」
なんて、つい――完全に余計なお世話で――言ってしまった事もある。それに対して彼女は苦笑いしながら肩をすくめて、
「宮勤めなんて良い事ありませんからね」
と言った。
「それにあたいは、この土地の気風というか、水が合っていると思います。とにかく仕事はさほど多くないし、何も起こらないのでのんびりおねむができる」
なにも起こらないのがつまらないと言ったり、良いと言ったり、まったくいいかげんな女だ……しかしお気に入りのつまらなさというものもあるかもしれない。
「――で、説教はそこまでですか?」
小町はそう言って、また目を瞑ったが、急に舟の揺れがおかしくなった。どうやら閻魔様が舟に飛び乗ってきたようなので、ちらりとそちらに視線を向けて呟いた。
「人を乗せてしまったら、規則通り舟を動かさにゃならないじゃないですか……庁舎まで送りますよ」
ゆっくり起き上がったところに、映姫はまったく予想外の言葉をかけた。
「いいえ、帰ってはいけません。私の指示通りに漕ぎなさい」
言われるまま漕ぐほどに、舟は川面を進み、やがて霧深い葦原の中へと入っていった。葦が生い茂る小島の隙間を、ちょこちょこ縫って進んでいく。葦は総じて、小町が腕を上に伸ばしたより、更に背が高い。その影が、濃霧の中で、ぼんやりした壁のよな生きてるよな、なにか不定形の存在に見えて、しかし映姫は冷静に指示を出し続けた。
だが小町は沈黙に耐えられなくなり、いつものくせで世間話のように口を開いた。
「……閻魔様はどう思っています? この土地を」
「どういう言葉を求められているのでしょう」
「そりゃあ、面白いとか面白くないとか、退屈だとか退屈しないだとか……」
「二元論的ですね」
「二元論的な話をしたい気分ですからね」
「しかしそういう、対立する二項として論じるのは気に入らない。面白い事もあるし面白くない事もある、退屈な事もあれば退屈しない事もある――つまらない答えですが、こんなところでどうでしょう」
「ふむ。最近はどんな事が面白くないですか」
「変な怠け者の部下ができました」
「……では、どんな事が面白かったですか」
「変な怠け者の部下ができました」
湿気がたっぷり含まれている空気を、映姫は痙攣のように吸った。
舟が進むにつれて世界は昏くなってきているが、これは夕闇の暮れ方ではない。光を失いながら空気が濁ってくるような、もっとどんよりした暮れ方だった。
「……地獄下りですか」
映姫は答えない。
ついに両脇の葦原も見えなくなってしまうような暗闇の中で霧が晴れたとき、彼女たちが乗る舟は、いつの間にか地底の海に漂う一枚の木の葉だった。
ぬるい雨が降っている、その向こうに目を凝らすと、うっすら下唇のような陸地が広がっていた。
「進みなさい。河口を探しましょう」
聡明で勘のいい少女が必ずそうであるように、映姫は理屈を一切述べず、そっけない指図だけを小町に与えた。近づく陸地は、礫が寄り集まった丘が退屈な起伏を形作っていて、どこを向いても再帰的な自己相似形からなる地形だった。小町も地獄の吏員なので、この殺風景さは別に目新しくもないが、初めて見たとしても退屈な場所だと思っただろう。
小町は腕を動かし続けている。口もよく回った。
「あーあ。こう、距離をつづめたりのばしたりを、自由自在にできれば、なあ」
「あなたのような怠け者には絶対に持たせてはいけない能力ですね」
それでも指示通りに舟を漕いでいくと、だらだら続く地形の中に隠れるように、たしかに小さな河口が見つかった。
「ここを遡上すると、旧地獄に繋がります」
旧地獄、と小町がおうむ返しに呟くと、口の中でなぜか金物を転がすような味がした。
「かつて是非曲直庁が手を引いた土地です」
「何が起きたか察しはつきますよ」
地獄の縮小化という名目で行われた領土の放棄は、それくらいありきたりで、各地で起きていた事態だった。ありきたりすぎて、これを法治主義の敗北、彼らの失政と言えるかすら怪しいものだ。ただ、すべての生き物がいつか死ぬのと同じように、組織が疲弊を起こして、機能不全に陥っただけの話だった。冥府は腐り始めた器官を切り離して、機関の延命を図った。
そして切り落とされた器官のひとつが、旧地獄と呼ばれるようになった。
「よくある事です」
「ただし是非曲直庁が手を引いた後も、旧地獄の管理は必要でした。……この地域には灼熱地獄が存在していて、そのうえ地上でだって、妖怪たちがなお威勢よく活動していますから」
「のんきに見えて難しい土地なのはわかってますよ」
上長の苦労は理解できるが、彼岸の渡し風情にはあまり実感のない部分でもある。
「我々は、灼熱地獄の管理を一介の妖怪に託さなければならなくなりました」
言ったあとで付け加える。
「……もちろん、人格的にも信頼できる方ですよ。現地で採用されて、仕事ぶりを認められた方でした」
「へー」
これもまた、ありがちな話だ。そもそも是非曲直庁は、他の地獄の政庁と比べて、かなり門戸が開かれた政治機関だった。そこには慢性的な人員不足というやむにやまれぬ事情もあったのだが、現地採用の吏員も少なくなかったし、その内訳は人妖の別なく、実力さえあれば登用された。
「参議篁の妖怪版ですね」
小町は、人間出身の伝説的な能吏の名前を出した。伝統的にそうした政庁なのだ。野の妖怪に、放棄された土地の管理を託していたとしても、驚くにはあたらない。
「この地域はそもそもの風土が大雑把なせいか、彼らに自治を認めた事すら、なかば忘れてしまっていたようですが」
「良いことだと思いますよ。“大国ヲ治ムルハ、小鮮ヲ烹ルガ若シ。”って言いますし。つつき回さず、忘れるくらいがちょうどいいんですって」
「のんきな事を言いますね……ですが、火加減は常に気をつけておかなければいけません。灼熱地獄の火の加減ならなおさらね」
映姫がそんな事を言うので、小町も舟を進める両岸を、ちらと眺めた。目的地はまだまだ遠いらしく、動くもの一つない単調な反復が連なっている。
「――旧地獄で、統治者の交代が起こりました。しかも政変という形で」
だしぬけに映姫が口を開いた。
「我々が旧地獄一帯の統治を委託していたのは、姉と、妹でした。そして妹が姉を廃立し、追放し、みずからがその後釜に座った。それだけは聞き及んでいます」
ありがちな話だ、と小町は嘆息しながら思った。骨肉相食む政争とは、ありがちで、陳腐で、だからこそ厄介だ。
「……“本是レ同根ヨリ生ズ。相煎ルハ何ゾ太ダ急ナル。”、か」
どうやら自分たちは大火事の火元に向かっているようだった。
川の遡航はようやく変化のきざし。
「……なにか聞こえませんか?」
小町が棹の先で指し示した方角は、川がうねる曲線の大外、うずたかい砂礫の丘が三日月形の堤になっていて、状況がよくわからない。しかも聞こえてくるのは、自然の音なのか、それとも生き物の声なのかもよくわからない、奇妙な喚叫だった。
「……私はこの土地が平らかに治められていると言いましたが、この認識は、ある程度はばを見ておいた方が良い」
「わかってますよ」
小町だって、妖怪たちに完璧な統治ができているとは、ちいっとも思っていない。
「見てきましょうか」
と舟を岸に近づける。反復ばかりの旅程に、心底退屈していたという事もある。
棹の先端を岸に引っかけて、力任せに引き寄せた。そのまま上陸して、力強い脚力で砂丘の斜面を駆けあがると、瞬時に血相を変えて取って返してきて、飛び込むように舟に乗り込み、力限りに棹を漕いで岸辺を離れる。映姫は多く尋ねようとしなかったし、小町自身それどころではなかった。
真っ赤に焼けた砂を運ぶ風はやがて堤防を乗り越えて川にまで至り、雨粒を地面に落ちる前に蒸発させて、音と蒸気、それと奇妙に雨上がりに似た匂いを水面に漂わせながら、そのまま川を横切っていった。
舟の上の二人は、どこからか出てきた濡れ毛布を頭からかぶって、砂塵をやり過ごしている。
「……お互い不用心すぎましたね。この地域の気象が色々むちゃくちゃだというのは聞いていたんですが」
「ところでその毛布はどこから……」
尋ねた小町がばつが悪そうな様子なので、映姫はいい気味だといったふうに微笑む。
「私だって、職場の備品が二重底に改造されていることに気がつけないような鈍副子ではありませんよ――しかし色々ありますね。文庫本、花札、化粧道具入れ、救急箱、裁縫箱、釣り竿、干し柿、筆箱、野帳、縦バラの富鬮、豆馬券、投資信託の案内。そして大量の酒――酒!」
舟底の隠し場所を覗き込んだ映姫は、わざとらしく、しかし嫌味の分量は案外少なめに叫んだ。
「密輸でもしていたんですか?」
「……底荷の代わりですよ。こういう舟は重心が高くなりがちですもんね。お仕事の知恵」
「ふうん。まあいいです」
映姫は焦げ痕だらけになった毛布をばたばたと振り、砂を払い落とす。
「先に進みましょう」
そんなふうに、つい今しがた起きた事象をすっかり忘れてしまったかのように、命じた。
雨はどんどんと粒子を細かくしていって、やがて水分の多い濃い靄のようになってしまった。
「やたらと汁気が多くなってきましたね」
小町は濡れた額をこすりながら、艫に腰かけている映姫に向かって言った。その微動だにしない鼻の頭に、はなたれ小僧のように水滴が大きくできているのが、なんだかおかしい。しかし、それがいよいよ大きく見苦しくなってきたので、いかにも古来より定められた随身員の行儀らしく振る舞いながら、映姫の鼻の下にふやけた懐紙をすいと差し出して、水を吸わせる。
「……失礼しました」
「ありがとうございます」
川を遡り続けていると、流れに緩急がある。はなはだしい急流に対しては、舟に縄索をくくって、岸から曳いて上っていくしかない。そういうときは映姫も舟から降りて、小町の後ろをついて歩いた。
「手伝いましょうか?」
「いや……」
映姫からの提案を小町は断り続けたが、それはただ上下関係からくる遠慮ではないような気がした。なんとなく、この閻魔に、そうした力仕事をさせたくなかった。
「あたい一人でどうにかできますよ」
「しかし舟が不安定です。岩場なんかに突っ込んだら、ばらばらになってしまいますよ」
「うまくやりますって」
なんやかやと言い合いながら急場を凌ぐと、また開けた場所に出る。かすかに流れはあるが、凪いだような川面だ。水温が高く、靄とも湯気ともつかない蒸気が濃い。その向こうに、明らかな人工物の影があった。川の両岸に渡しかけている橋らしい。その下をくぐりながら、その桁と脚の構造とを、どこか背徳的な気分で見上げつつ、一目でわかる異常があった――橋板がすべて外されている。
「戦でもあったんでしょうか」
「いえ。単に打ち捨てられているだけですね。橋は朽ちていますが、戦乱による損傷は無いように見えます。それに両岸どちらも、なにものかが伏せられているというような、良からぬ雰囲気すらありません」
映姫はそう言いながら頭上の橋桁に手を伸ばしてみたが、さすがに届かない。
「橋の幅はちょうど七十二尺あります。かつて、私たちが定めた規格通り――“匠人国ヲ営ムニ、方九里、旁ゴトニ三門アリ。国ノ中ハ九経九緯。経涂ハ九軌ナリ。”」
小町はちょっとくびを傾げてから、思い当たることがあるように言った。
「……うちのカイシャが、各地に行政府を敷いた際の都市計画ですね。周礼の古式に則り、九里四方を城地の面積とする、その正方形の各一辺に、それぞれ三つの門を設け、東西・南北で直角に交差するそれぞれ九条の主要道路を張り巡らせる。道路の幅は当時の馬車の軌間規格の九倍……つまり七十二尺とする」
「その頃の構造がそのまま残っているのも珍しい」
川の水温は遡るごとにどんどんと熱を増した。
橋を抜けると、濃い蒸気の向こうにまた橋が見える。人工物すらも反復的で、きりがないのかと、小町は絶望した。
真っ白な靄の中、音だけが知覚できる世界の全てになる瞬間があった。小町は自分が堂々巡りさせられているように感じる。自分は、最初居眠りしていたあの葦原の霧の中でまだぼんやりしていて、今までの事はただ一場の夢だとか、そんな考えを起こしたくもなる。
「いよいよ何もわからなくなってきましたね」
「あなたはそこにいる」
それだけが確かなことだと言いたげに、すぐそばで映姫の声が聞こえた。小町はひそかに、ほっとさせられるものを感じた。
「……しっかし、こうもまっちろけだと、こないだ地上で見かけた天狗同士の諍いを思い出しますね。あのときも、鴉天狗どもがこんなふうに樹海一帯に霧の煙幕を張りやがりましてね。こっちは仕事をこっそり脱け出しての戦見物だったのに、見せてくれないなんて、わかっていない連中でしたよ」
「小町」
「はい?」
「訓告ならびに一ヶ月の減俸処分」
「……ただ、普段なら鴉天狗を援けるはずの白狼天狗の眼と耳と鼻とが、その時は敵でしょ。あいつら五里霧中でどうするつもりなのかと思っていたら、霧の中からうるさいくらいの音楽が聞こえてきて、それと同時に発光やら爆発やらがあって、方々からぐわちゃぐわちゃと」
その音や光だけでも、きっと白狼天狗たちの鋭敏な感覚には耐えられないものだったろうが、それ以上に思いがけなかったのは、霧に飛び込んでいった鴉天狗たちは、なぜか騒々しいにもかかわらず整然と機動して、濃霧の中なのに極めて統制が取れた行動で、相手の陣地をおし包むよう展開した事だった。
「拍子と音律、調性によって、集団行動を規定したんですね」
「表向きには踊りや音曲の練習と偽って、突貫で調練したらしいですよ」
小町は三本指をすとんと落下させる身振りをした。高高度から地上へ、霧をかき回さないようゆっくり降下していく天狗たちの姿を思い出していたのだ。
「戦争なんて盲将棋よ」
指揮者の大天狗は、配下の管狐の尻を小突き回して采配しながら言ったそうだ。
「だから、盤面の隅々まで見えていると信じ、うぬぼれている連中を出し抜くのなんて、あまりにもたやすいのさ」
やがて霧が晴れた時、鴉天狗たちによる包囲は完了していて、形勢は決まっていた。ある鴉天狗の一族のお家騒動に便乗した白狼天狗の叛乱は、そのようにして鎮圧された。
小町はそういった事件を地上で見物した事がある。
「ま、地の上も下も、血の気が多い事ですわ」
「それでも、彼らは秩序によって混乱を治めようと努力しています。悪いことではない」
映姫のそんな言葉を聞いて、小町は視線をよそに外した。
「……自分らが秩序をもたらしてやろうとは思わないのですね」
理屈の上では、それは可能だった。もちろん、それはどこまでも理屈でしかなくて、実情を考えると――
「私たちにはもう不可能でしょう」
映姫は言った。
「この土地では、彼ら自身が、彼らなりの秩序を見出していくほかない」
二人の付き合いはきわめて浅かったが、それでもわかる事はあった。
四季映姫・ヤマザナドゥは、政治的な芸ができる人物ではないだろう。あくまで文治に徹する官僚の類いで、もっと言ってしまえば事務員のような雰囲気だった。物静かで、仕事ぶりは平凡。華々しい名裁きがあるわけでもなく、息を吸っているのか吐いているのかわからないような顔をしながら、淡々と死者を裁いていく。特筆すべき部分があるといえば、ちょいとばかし説教臭いことくらい。
そんな彼女の、気まぐれな下向の目的はなんだろう、と小町は思ってしまう。
案外、尋ねてみたら気楽に話してくれるかも……。そう思っていると、視界の端にちらり、青白い光が横切った。濃霧の中では本当に一瞬の光芒だ。
「……怨霊かなんかですかね?」
「たしかに彼らが放つ燐光に近いもののようですが――」
言いかけたときには、映姫は立ち上がっていた。
青白い光が右から左から飛び交い、そして両岸から声が――川幅が特に狭隘になっている地形らしく、左右ともに妙に近い喚声が――上がった。声はさんざめくような調子で、攻撃的ではあったが、同時にひどく陽気でもある。
「おそらく妖精です、石合戦です、これは――」
「あの、それよりせめて座って。頭を下げて……」
たしかに、こんな馬鹿げた遊びを楽しげにするのは、妖精くらいのものだろう。川を遡る二人の舟は、いまや焼けた硫黄と燐塊が飛び交う合戦ごっこの間に、するりと滑り込んでしまっていた。
「こんな……」
小町がなにか――どのような卑語を発そうとしたのかは忘れてしまった――言いかけた瞬間、映姫の頭に燃えた硫黄がぶつけられて、髪の毛にさぁっと炎が移った。慌てたのはむしろ小町の方で、棹を放り、足元に置いていたずぶ濡れの毛布を拾うと、飛びつくように映姫の頭にかぶせる。
「だから伏せてくださいって!」
「そんな事より棹を持ちなさい。さっさと先に進むのです」
「顔が燃えたんですよ」
「このままでは舟も燃えますよ」
船底に転がった燃える硫黄の塊を、小町は素手で引っ掴んで川水に投げ捨てた。そのようにどたばたとした舟上の寸劇が終わると、ようやく周囲を見渡す余裕が生まれ、川岸が見えるくらいまで靄が薄くなっている事に気がついた。
妖精たちも、さすがに石合戦を自然に中断して、割り込んできた舟をぼんやり見つめていた。一目見て彼らが異様なのは、その表情だ。目のふちや口のはたがほのかに光っていて、おそらく有毒の燐を化粧の真似事のように顔に塗っているからだ。それらの燃える火が、口や眦が裂けているかのように光っている。だが、それらのぼうとした輝きよりも、彼ら自身の爛れた目口のぎらつきの方が、よほど鋭い。
小町がたじろいでいると、映姫が舟の舳先に立った。
「あの……?」
「棹を持ってください。先に行きましょう」
小町はなにか言いたげな表情になったが、やがて言われた通りにした。
それから、ずっとついてきている。
妖精たちが、だ。彼らは川の両岸にぞろぞろと揃って、遡航していく小舟を陸伝いに追いかけてきている。単なる好奇心からだろうと、初めは小町も思っていた――自分たちが奇妙な旅行者なのは理解している――が、やがて、それだけではないのではないか、とも思い始めていた。
それから、彼女は映姫の背中を見た。
「四季様」
「大丈夫です」
と、前を向いたまま返事をされたが、小町だって、閻魔の焼けた髪が放つ、伽羅のような芳しい香りについて話すつもりはない。
「あなたの心配じゃありませんよ」
失礼な物言いになってしまったが、映姫がまったく気にするふうもないので、話を続ける。
「いったい、どうしてこんな場所に下ってきたんです?……いや。色々と推測できるところはあるんですがね、それにしたってこんな気まぐれに、あたいだけを連れてくるような真似をして」
「政変が起こったと言ったでしょう。もはや是非曲直庁が介入できるような状況ではありませんが、新しい主に、私的に挨拶にうかがうくらいは良いでしょう」
「……それだけ?」
「ええ。それだけです。本当に」
噓くせぇ……といった感情が小町の顔にはあからさまに顕われていたが、映姫は前を向き続けて、なにも言わない。
「でも、あたいまで連れてきちゃって。こっちは公務中だったんですよ」
「ふん。居眠りするのが公務だと言い張るなら、今だって公務中かもしれませんね」
「……いつになったら旧都とやらにたどり着くんです」
小町は話を逸らしながら棹を水面から引き抜き、大きく振ってしずくを飛ばす。その一滴が、映姫の頭にぴしゃりと当たった。それだけの事で、なぜか両岸の妖精たちがざわりとたじろいだが、映姫自身は動じない。
「退屈する気持ちもわかりますが、そんなにいらいらしない方が良いですよ。たとえば湯沸かしをする時、どうすれば最も早く沸騰させられるでしょうか」
「簡単でしょう。火力を最大にすればいい」
変な謎かけをする人だと思いながら、小町はそう答えた。だが映姫の答えは人をからかったようなものだった。
「半分までは正解ですね。完全な正答は、火力を最大にして、その上で湯加減なんか知らないというふうに、そっぽを向いておくことです。そうすれば、無視された湯沸かしは怒り狂って、最速で沸く」
もしかすると彼女は――というより是非曲直庁は、のんきに忘れたなどと言っておいて、あえて旧地獄が沸きあがるのを待っていたのかもしれない。この火をかけられた鍋のような世界と、どう付き合えばいいのかという問題に、自分たちは直面しているのだ。
その音に真っ先に気がついたのは、小町でも映姫でもなく、川の両岸に今や何百と集まって付き従う妖精たちだった。それが波のように身を屈めて、石ばかりの川原に跪き始めた。
「――音です」
映姫も、それを聞きつけて頭を巡らせた。小町にも聞こえてきている。
一聴しただけで、それが音楽だという事はわかった。霧深い陸地からかすかに聞こえてくる、鐘と鼓の音。しかもきちんと調律された音曲だ。この殺風景な景色には似つかわしくない調べで、整然と、小気味よく、上品ささえある旋法だった。
「かつて本庁が採用していた六十律の音階に似ています」
映姫は少したかぶった様子で呟いた。
「そして、ここまで澄んだ鐘の音は、整えられる者が限られている。金属の質の問題もありますからね。特に重要なのは銅・銀・錫の配合で――」
「ですね」
小町もその音律の正確さには驚いていたが、同時にあやしむ心もある。どこの誰が、こんな場所に、このように壮麗な奏楽を伴って、やってくるのか……
やがて黄色っぽい霧の向こうに、集団の影が幅広くぼんやり見える。
「あたい、ちょっと見てきます」
「いえ。一緒に行きましょう。相手は礼を尽くしています。こちらが何者なのか知っているのでしょう」
そう言って岸に船を寄せさせると、映姫はさっさと陸に跳び移ってしまった。
従うしかない小町は、乗ってきた舟を最寄りの崩れ橋の下に引き込んで、橋脚にもやう。
「一応、閻魔様の随身ってことになるんでしょ。見てくれだけはしっかりしときますよ。もうちょっとしっかりした化粧道具を持ってきとけばよかった……」
小町が唇に薄く紅を指しながらぼやく。
映姫は向こうで、妖精たちの有毒物質まみれの顔をじっと眺めていて、
「お化粧というのはそういうものじゃありませんよ」
と一匹を捕まえ、懐から自分の小さな化粧道具を取り出し、くどくどと化粧を教えてやっている。こんな時も変わらぬ説教好きだった。
そのうちに身だしなみを整えた小町は、ずっと舟底に放りだしっぱなしにしていた大鎌を手に取った。こういったものを地獄の吏員が携えているのは、当節の流行だったが、西洋風の文物をこうも無造作に取り入れるところに、是非曲直庁の下級役人たちの、よく言えば開明的、わるく言えばどこか移り気な気風が感じられなくもない。
鎌の長い柄に艶出しの蝋をさっと擦りつけて、随行の準備を整えてから、こっそりと、舟底の酒瓶に手を伸ばしたとき、首を傾げた。
「……あれ?」
「それにしても、その大鎌を見ていると毎回思うのですが……」
「あの、四季様。もしかして私のお酒飲みました?」
「担いでいて、肩や背中をざっくりいかないんですかね」
「あの……」
「絶対に危ないと思うんですけど」
「お酒……」
随身といっても、やるべき事は難しいものではない。いつもよりしゃんとした歩き方をして、映姫の影を踏まぬように十歩の距離を置いて付き従うだけのことだ。
やがてやってきたのは、動物の群れだった。種々雑多で、牛や馬、犬猫、狐狸狢だけでなく、このあたりでは見られない、珍しく貴重な獣たち――虎、獅子、羊、象、犀、麒麟、といったもの――まで見える。これほどの雑然とした内訳にもかかわらず、彼らが整然とした方陣を組み、等速で進むことを実現しているのは、最初に聞こえてきた奏楽によって巧みに統御されているからだろう。完璧な進退を指図している音曲は、ひときわ巨大な亀の背中に望楼を――三階建てだ――建てて、その最上階で奏でられている。
「厳密には六十律ではないようですね」
目の前の統制が取れた集団行動をほれぼれ眺めていると、映姫が言った。
「三分損益法の発展から得られる音階は、正確には五十三律です。たしかにそちらの方が正しい」
やがて動物たちは彼女たちの前で歩みを止めた。
望楼から何者かがするりと降りてくる。少女だった。映姫と小町の足元まで、彼女がゆるゆると歩き、十歩の位置で跪いて、地に額をこすりつけながら三歩の位置までにじり寄ってくるまで、背後の動物たちは一つの唸りも上げず、主と同じように地に伏していた。
「……こんな二人を迎えるためだけにご苦労様ですね」
ただ、小町だけが、つい、ぼやくように言ってしまった。
それに応じたわけではないのだろうが、少女が言う。
「北辰の方角に兆しが見えましたので、お迎えに上がりました」
夜空も無い地下風情に北辰もなにもないだろう、と小町はぼんやり思った。
旧都への道のりは象の背中の天蓋つきの輿の上で、眠たくなる乗り心地だった。
「こういう乗り物には慣れていないんで、落ち着かないんだよ」
小町は腰の据わりが悪いとでも言いたげに、頻繁に尻を浮かせつつ言った。
「わかりますよ」
主人役の少女は二人の前に座して、にこにこしている。胸元に浮かぶ瞳がくりくり動いた。
名前を古明地こいしと名乗った。
「名前は知っています。古明地さとりの妹ですね」
と言ったのは映姫だ。こいしの笑顔に苦いものが混じった。
「切りこむような話題の出し方ね」
「どうせあなたは心が読めるのです。地霊殿の主が代わった挨拶のついで、古明地さとり追放の件について、我々が事情の把握にやってきた事くらいはわかるでしょう」
映姫がそう言い終わった時には、こいしは先ほどの笑顔をもう回復していて、ちらりと輿の外を眺める。なにかを警戒しているのか、虎狼は地上に美しい積分曲線を描きながら周回していた。
「……いまだ地底は平らかではないの。いずれわかるわ」
直接的には答えず、それだけ、ぽつりと言った。
沈黙が流れて、例によって会話の間を嫌った小町が、適当な話題を引き出してくる。
「それにしても、まあ見ていて飽きないですね。この……ええと……珍獣たちは」
「彼らのいくつかは本土固有の生き物ではありませんね」
「四季様、今はそういう――」
「この子には思ったことをさっさと言っておいた方がいい」
止めかけた小町を映姫は振り切って、こいしはクスッと笑った。
「別に構わないわ。……地底はつながっている。こういった動物を輸入できないわけではないし、あなたがたが咎める話でもない。――今、従者の方が、この状態を利用した違法な小遣い稼ぎを、瞬時に十二通りほど思いついた」
「……是非曲直庁が資金繰りに困ったら使っていいですよ」
「私は六十通りほど考えていました」
小町が言い訳がましく釈明するのと、映姫が悪びれもせず表明するのは同時だった。
「そして、そのうち九割がたを、話にもならない手法だと棄却しました。我々のような法曹が法の抜け道を検討する事は、悪事でもなんでもありません」
「なにより、空想を罪にする事はできないものね」
こいしは、それだけはちょっと愉快そうに言った。
「なにかあったようですね」
動物の自発的な鳴き声――狼の遠吠えがした方角に向かって、映姫が首を振った。もちろん、そちらだって真っ白な霧だ。
同時に、こいしが素早く輿から飛び降りて、動物たちの背を島にして渡り、湯けむりの向こうの亀の背の望楼に、身軽にするする登っていく。群れの中で多少の動揺があったのはごく一部で、大半の動物たちは慌てもしておらず、整然と列を作って進んでいた。
こいしの背中を見送りながら、映姫はぽつりと呟いた。
「……彼女はこの地底の情勢が平らかではない、と言った。それについてどう思います?」
小町は、そんな質問をされても、困る。
「わかりませんよ。是非曲直庁がこの土地を放棄してから数百年なんでしょ――その数百年はなんでも起こり得る時間です。……なにも、着任したばっかりのあたいに聞かなくたって」
という恨み言しか、小町の口からは出ない。出しようがない。
群れの道行きは道路に合流していた。道路の幅は非常に広く、整備も重厚で、しっかり下地を搗き固めた上に丹念に敷き詰められた石畳と、煉瓦造りの胸壁で構成されていて、それが霧の向こうにずっと続いている。それだけなら壮観なのだが、さすがに整備が滞っているようで、この旧地獄の環境の中で、石畳の隙間からぼそぼそとした下生えが、小さくもたくましく生育していた。
が、今やそれらの草は牛馬などの家畜動物たちの口の中で咀嚼されている。そんな食事も音楽によって統御されていて、望楼から聞こえる鐘の音の調性が変わるとともに、先頭の一列が速度を緩めて自然に退き、その直後を進んでいた第二列がそのまま先頭に出て、また草を食み始める。
「この道路は私たちが作ったものではありませんね」
動物たちの動きの巧みさはまるきり無視して、映姫が言った。
「さっきも言ったように、私たちは道路の幅員の規格を七十二尺に定めていましたから。この道路の幅は、その三倍から四倍はあります」
「数百年もすればそんなものでしょうね」
こいしがまた動物たちの背中を、飛び石のように身軽に戻ってくる。
「たいしたことではなかったわ。ちょっと落盤がね」
「落盤?」
小町は不安げに頭上の岩盤を仰いだ。分厚い雲と靄の下ですっかり忘れていたが、ここは地底なのだ。
「ええ、落盤。たまにある事ですし、全然小規模なものよ。何百年も前の戦いでは、旧市街の南半分が丸ごと潰されちゃいましたけど」
喋るこいしにとっては、その惨事はもはや過ぎ去った過去になっているようで、なんてことの無いように言った。しかし、そんな話を聞かされた客人の戸惑いも、敏感に読み取っている。
「私たちは昔の杞人のように、天地が崩れ墜ちる事を憂う羽目になっちゃったわけです。もちろん頭の上ばかり警戒するわけにもいかない。今度は底を抜かれる可能性だってある。――でも、あまり心配しすぎるのもよくないわ。こういうのって神経をすり減らしちゃうし……」
「何百年も同じ敵と戦っているわけではないと思いますが――」
「ええ。その頃の敵はもういないわ。でも私たちが反撃したわけじゃなくって……だいたい、このあたりの戦争って、正規の武力衝突にはなりにくいのよね。まず始まるのは大義名分を叫ぶ公式声明、次に大演習による示威行動、それを大々的に宣伝し、時には相手勢力を買収・調略する必要もある……。不利な勢力は士気が低いから、はなから戦闘を避けがち。万が一衝突が起きたとしても、小競り合い以上にはならない。双方、完全な勝利も敗北も不可能で、逃散した勢力は政治的に介入不可能な地域へ逃げ込む。そうすると新しい勢力がやってきて、空白地帯を穴埋めする。それがもう数百年。……これが慢性的な戦争状態なのか、むず痒い平和なのか、その境界は非常に難しい」
こいしは神経質に肩を揺らしながら言った。映姫はまつげの上に凝結した霧の水滴を光らせ、そっけなく答えた。
「……ですが、私はあなた方の平和には興味がありません。あなたたちが秩序を獲得できているかどうか、そこにだけ興味があります」
「気に食わない言いぐさだけど、正しい」
思わず甲高い笑い声をあげたこいしは、ちらりと小町の方を見た。
「あなたの上司はとんだ石地蔵よ」
「良いところもあるんだよ。ほんとに」
せめてもの弁護のつもりで小町は言ったが、映姫は相変わらずむっつりとしていた。
ひときわ高く鼓が鳴らされたのは、隊列が城門をくぐったからだ。
それまでは「市街に入りました」とこいしに言われても、道路の胸壁が消えただけでぴんとこない鄙びた郊外の風景ばかりだったが、さすがに門を通過すると違う。大路は広く、建造物は整然と並んでいた。
「ちょっと北側の市に寄るわ」
こいしがそう言って、隊列が旧都の旧市街(なんだか入れ子構造の言い回し)に踏み入ったときも、その境界がすぐにわかった。大路の幅員が明らかに狭まって、道路の舗装にも古くさい形式が遺されていたからだ。
「……あなた方の都市計画が、私たちの旧都の雛型になっている事は認めるしかありません」
誰かしらの心の動きを読んだのか、こいしは“私たちの旧都”をあえて強調しながら言った。
「ただ、それが実情にはそぐわない計画だったのも確かよ。あなたたちの計画は人工的すぎ儀礼的すぎ思想的すぎた。……べつにその失敗を論うつもりは無いけど」
「余人はとやかく言いますが、ものごとの明確な整理によって、たしかな秩序を見せつけなければならない時代でした。四角四面な計画は良し悪しでは無く、必要に迫られて行われた事です」
北の市は名ばかりのがらんとした広場でしかなく、今は例によって、旧地獄特有の濃い靄に満たされていた。その中央には、なにか白い薪のようなものがうずたかく積まれていた。
「昔はちゃんとした市場でもあったんだけど、都市の拡張によって経済機能は移動しちゃったの。今は刑場になってる」
「……刑場?」
小町はきょろきょろと周囲を見回す。死のにおいは既に無かったが、少ない人通りは足早だ。霧に湿った地面は黒々としていて、なんだか別のものに濡れているような連想をさせる。彼女たちを輿に載せた象はそのまま広場を離れて行こうとしているが、他の動物たちの多くが後に残って、白いものの山を崩し始めた。
「……彼らには処刑された動物たちの骨を回収する仕事があります」
こいしは素っ気なく言って、象を先に進ませた。
御殿の影が、白んだ先に見えた。門が開いている。こいしが前もって先遣をやって、開かせていたのだろう。内部は庭園が広く、そこから建物に上がっても奥座敷までの廊下が、更にだらだらと長い。
このもったいぶった距離感は少し面白いな、と小町はこっそり思うが、ふと視線を浮かせるとこいしがニヤリと笑いかけてきて、微妙な気分になった。
奥座敷では、鬼が待っている。
「……こいしちゃん、今度はどんな動物を拾ってきたの?」
呆れたような口調で彼女は言った。こいしは答える。
「閻魔様と、その部下の死神よ」
「ふうん。色々拾ってくるのはいいけど、ちゃんと世話するんだよ」
「……あたいら、エンマサマとシニガミっていう珍獣だと思われているんじゃないすか」
小町がぼそりと呟き、映姫は構わず、こいしの頭越しに言った。
「鬼ですか。たしかに地獄の妖怪を統率する格としては十分ですね」
「強そうですもんね」
「なんだ、犬猫の類いじゃなかったんだ」
鬼は苦笑いしながら、囁いただけのくせに妙にはっきりした声音を、珍獣二人の耳に伝えた。
「失礼しました。ここが元は閻魔様が治めていた土地だったと聞いていたけれど、なるほどね。ご苦労様です」
「このたび、旧地獄の支配者の交代が起きたと風の噂に聞きましたので、ご挨拶に参りました」
「支配者、ね」
鬼は、ちょっと視線を逸らした。心が読めなくても彼女の複雑な感情はわかる。自分が妖怪たちを束ねる格式だけに利用されていて、実質の支配者ではないというのは、複雑な感情ではあるだろう。
その感情を、心を読める古明地こいしは、どう思っているのだろうか。
星熊勇儀と名乗った鬼は、しかし渦巻く感情をあくまで表面上はさっぱり処理できる人物のようだった。やがて饗応の準備が彼らの周囲でとんとんと整っていき、客二人は料理にありついた。
「……まあ、ゆっくりしていってよ。このあたりは温泉もあるしさ、おすすめの穴場でも教えてやろうか?」
「なんだか旅館街の案内所みたいですね」
皮肉にもならないくらい軽薄に言ったのは、こいしだった。
熱い。
湯の話だ。小町はさっきから、ひたすらそればかり考えている。そうして、顔が茹ったように真っ赤にして湯に浸かっているので、映姫もさすがに心配し始めていた。
「……小町」
「これでも熱い湯は好きな方なんですけどね……」
「この温泉も広いですし、向こう側はよその湧水が混じって、ぬるくなっているそうですよ。そっちに行ったらどうです?」
「そうはいっても、あたいはあなたの随身なのでねえ……」
朦朧とした意識でそれだけを言って、ぐったりと岩場の縁にすがりついている。
「のぼせて使い物にならない方がよほど困りますよ。さあさ、あっち行きなさい」
追い払う意図がわかりやすすぎたかなと思いつつも、湯を上がった小町が温泉の向こう側にふらふら歩いていったのを、映姫は見送った。
「……私も、正直に言うとぬるま湯の方が好きなの」
古明地こいしは顔を真っ赤にしながら笑って言った。
「鬼だって、こんなところはそう入らないわ」
「熱い方が気持ちいいじゃないですか」
「感性の違いね」
と、こいしは温泉の一段高い場所に足組んで腰かけて、上半身の素肌をいくらか涼しい空気に曝した。
「あなたって、世間一般からだいぶズレてる人なのよ」
「かもしれませんね。でも私の事なんてどうだっていいでしょう」
映姫は湯の上に腕を浮かべた。みずみずしい肌はとろりとした鉱泉をはじいて、ほんのり赤く色づいている。
「……あなたはどうしてお姉さんを追放したのです?」
「話題の振りかた下手くそですか?」
とはいえ不快ではないふうな笑い方をして、こいしは足を組みかえる。映姫は目を逸らした。
「でも私は、古明地さとりが――お姉ちゃんが嫌いなわけじゃなかったのよ。それだけは信じて」
「信じましょう。たとえ姉妹の個人的な仲が良くても、他の要因から相争う羽目になる事は可能です」
こいしは舌打ちをしながら風呂から足を抜き出して、膝を抱えこむように座る。
「……私たちがやったのは、世間一般の姉妹喧嘩ではないわ。……いえ、でも、“さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化すること”、それがあんたらの仕事なのね」
「相違を心に留めておくことも重要です。我々は矛盾した作業を同時に行っている」
「うん。でも理屈の話はここまでにしておきましょ。問題は、私とお姉ちゃんの間になにが起きたか、だもんね。結局姉妹喧嘩みたい」
こいしは笑いながらあられもなくあぐらをかいたが、映姫はもう目を逸らさなかった。
「話してください。何が起こったんです?」
「私はお姉ちゃんを罰して、追放したの。でもあれはお姉ちゃんじゃない。なにか……怨霊かなにかに憑りつかれて、おかしくなって。だから私は、彼女の手足をくくり、目と口とを縫い合わせて、川に流した」
「ぬっる……」
小野塚小町は温泉の熱くない方まで歩いて、さすがに湯温が低すぎたので少し戻り、また進み、ちょうど良い温度の湯を探そうと、行ったり来たり右往左往していた。
「中間ってもんがないのかいここは……」
ぶつくさ言いながら、ちょうど湯かき棒らしき物体を見つけて、水と湯が交わっているらしい境界のあたりをかき混ぜ、なんとか良いようにして湯に浸かると、全身から力を抜いて仰ぐ。もちろん星などあるはずもないのだが、はるか頭上、岩盤の天蓋には、夜光性の鉱石かなにかが含まれているのか、ちらちらと光っていた。
この温泉は、本当に穴場といえる場所らしい。小町たちの一行以外には誰もいない様子だ。
「……ま、あっちのお二方がお堅い話をしている間、こっちは温泉旅行気分だわ」
口に出してそう言ってしまったのは、やはり懸念があるからだろう。
思い返すのは、刑場で処刑された動物たちの事だった。彼らは古明地さとりの与党で、主人が追放された後に不穏な動きがあったため粛清したのだと、こいしは語った。処刑後その肉体は丁寧に捌かれて、腸は焼かれ、骨は一定期間刑場に晒し、肉は塩漬けにして自分に従ってくれた者たちに振る舞ったとか。
「“夏、漢、梁王彭越ヲ誅シ、之ヲ醢ニシ”……か」
なんとも血なまぐさい権力闘争の顛末だが、意外なことに話を聞いた映姫は、良しとも悪しとも言わなかった。
この超然とした態度は是非曲直庁の高級官僚によくある傾向だったが、下っ端吏員の小町には浮世離れしすぎていて、気に食わない部分でもある。
といって、その態度に非を唱える事ができないのも、わかってはいる。この世界は自分たちの制御を離れているのだ。自分たちにできる事は少ない。それでも、何か手を差し伸べて、導いてやりたい気持ちもあった(導けるような立場か?)。今の旧地獄の情勢は、間違いなく間違っていた――しかしその断定は正しいだろうか? たぶん違うだろう。感情が、言葉にしたとたんに不明瞭で、自信無いものになっていた。その次に思いついた、歯痒いという言い回しも、散文的で妙だ。もっと即物な表現が欲しい。
しかし思い通りの言葉が上手く出てこないまま、物思いはすぐそばにやってきた人物に邪魔された。
「……ちぇっ、ここはちょうどいい湯加減ってのがないのかしら」
少女はそんな事をぼやきながら、湯の中に身を滑り込ませる。素早く、波も立てないなめらかさだ。しかしその後の行状は少々行儀が悪くて、頭まで湯に浸かり、温泉の中を泳ぎ始めていた。小町もじろじろと眺めるつもりはなかったのだが、黒髪が湯の中に浮かんでいるのが、視界の端に見えた。わざわざ声をかけてまで窘めるつもりはないが、気になる。
見なかった事にして端唄でもやっていようと、小町は思った。
「三番目のすずめのいうことにゃ、と――」
そのとき、水中の少女が、ざばあっと、みずみずしいばかりの体を水面に曝した。黒い毛髪に白い肌、丸い腰つき。その上をすべり落ちていく水が、真っ赤に染まっている。
小町はぎょっとして、湯を眺めた。赤いものは自分の手元にもじわじわと、薄いながらも確実に近づいてきている。それまで鉱泉由来だと思っていた鉄くさい匂いも、途端に気になってきて、そこに生ぐさい磯くささまで混じった。
彼女はそのまま勢い良く湯から飛び出て、歩き去っていった。
「なんだいありゃあ……」
後には血で穢されただけの温泉が残った。
温泉を出た後の道中は、三人とも言葉が少ない。
会話が弾まない最大の原因は、古明地こいしが完全に湯にのぼせてしまった事だった。おしゃべり係がぐったりしていると、あとの二人も口を開く気が起こらなかった。彼らはそのまま、動物たちの群れに乗って運ばれていく。その揺れの中で、小町もうとうと、舟を漕ぎ始めた。
映姫だけがものうげに起きていて、旧地獄の移動していく風景を眺めていた。靄は晴れていたので、そう遠くない場所に灼熱地獄跡の威容を見る事もできる。地底の中でもいっそう昏く陰になった場所に、赤く燃える光だけが地面を焦がしている。その方角から、悲鳴のようにも地鳴りのようにも聞こえる空気のふるえが、びいんと伝わってきた。
映姫は鼻で笑うようなため息をついた。こんなもの、地獄にありがちな、典型的で、類型的な光景だ。恐れる必要はない。
「……そう。“恐れなくていいわ。この場所にはあらゆる騒音が満ちているけれど、恐れる必要はない”」
こいしが、少し体調を持ち直したようで、身をよじって起きながら言った。
「私だって、初めてここに来た時はこの土地が嫌でしょうがなかった。でも、次第に、嫌いじゃなれなくなった。恋みたいにね。閻魔様は恋をしたことはおあり?――ねえのかよ、つまんねえ」
自問自答のようにすらすらと、最後には地金が出たように、ぶっきらぼうになった。
「でも、嫌いだろうが嫌いじゃなかろうが、最初の頃はそれどころじゃなかったわけよ。旧都に入城した私たちにはやるべき仕事がたくさんあったし、集団としての課題もあったしね」
こいしはそう言ってしばらく黙り込んだ。吐き気がこみあげてきたのか、輿から身を乗り出して、嘔吐する。吐いたものは豚が食った。
「……まずひとつ。私たちは是非曲直庁にこの土地を託されましたが、ここは様々な妖怪が流れ着く場所でもあった。――私たちさとり風情なんぞに、彼らをまとめる格は無かったわ。格式は超大事よ。雑多な連中が集まって、それを束ねる事ができるのは、鬼の星熊勇儀だけだった」
彼女とは互いに支え合い、多くを助けられました、とこいしは言った。
「旧都の統治がある程度落ち着いたとき、私たちは彼女を推し立てて、灼熱地獄に引っ込むつもりだったし、事実そうしました。ですが、私たち姉妹は彼女の与党から常に警戒され続けた」
心を読めると、そのあたりの気苦労は大変でしょう、と映姫はぼんやりと思った。こいしは微笑む。
「そう。彼らはただ、そう思っていただけ。別に本気で害するつもりは無かったでしょうし、私たちだってそこは心得ていた。空想を罪にすることはできないし、こちらだって事を荒立てるつもりはなかった……」
こいしはそこで口をつぐむと、それ以上の打ち明け話をやめて、着いたわと言って輿を降りた。
彼女たちは灼熱地獄跡の真上に建つ館に至ったのだ。
「小町」
映姫は同乗者を起こそうと声をかけたが、小野塚小町は目を覚まさない。ゆすってもはたいても起きないので、唇をその耳元に寄せて、なにごとかをぽそぽそと囁いた。
「ふゎ?」
小町は飛び起きた。その後でぼんやりと首筋を撫で、わずかな間を空けて、はっと言う。
「……あの、なんか今、ものすごくやらしい事しました?」
「なんの話です?」
映姫がとぼけながらさっさと輿を降り始めたので、小町も追いかけて地面に降り立ち、屋敷の様式を眺めて言った。
「西洋風ですね」
この種の建築の知識はさっぱり無いが、それくらいはわかる。
「ですが伝統的なものではないですね。全体としてはむしろ、仏教寺院を西洋風に解釈したものと表現した方が近い」
「詳しいんですか?」
「以前、庁舎建て替えの際に、施設を古代ギリシャ風にしようだなんて開明派の意見がありましてね。見積もり担当が私でした。予算を提示して突っぱねてやりましたよ」
映姫は、めずらしく個人的感情を覗かせるようにニヤリと笑った。
「それはともかく……まあ見てください。柱礎の形式は独特、上部構造も独自の解釈がなされていて、ドーリア式建築のトリグリフの間にある、メトープとアバクスの違いも分からないような人々が模倣しようとした事は明らかです」
「手厳しいっすね……まあ、形から入るのは悪いことではありませんよ」
「特に意味もなく大鎌を担いでいるあなたが言うと、だいぶ説得力がありますね。……それ、本当に怪我しないんですか?」
アーチ状の入り口をくぐって屋内に入ってみると、ほんのり暖かい。どうやら下の階層にある灼熱地獄跡から、排熱をひいて暖房にしているらしい。
「形式としてはよくあるものですが、あの熱をそのままひいてくるわけにはいきませんよね。温度管理はどうやっているのでしょう。いくつか方法は考えられますが――」
映姫がぶつぶつ呟く横で、小町はもうちょっと曖昧な感心をもって、エントランスの調度を眺めていた。広く、薄暗く、だが荘厳さは少なめに。装飾にはごつごつとした野趣もある。たしかにごった煮だ、と思った。古明地姉妹の好みは、かつての旧都のような古式に則った四角四面の正確さではなく、このごちゃついた文化の混沌の方だったのだろう。
そうした調度をあれこれ眺めて、さほど待たされたという不満もないうちに、こいしが戻ってきた。
「獣くさい屋敷で申し訳ありません」
と小さく頭を下げる様子は、年若い少女の見た目にしては老成しすぎて、物腰も低すぎた。
「不満もあるでしょうけれど、今日はこの、地霊殿に宿泊していただきます」
「蚤虱が出なければ、あたいは文句言いませんよ」
「うちの部下は皮膚が繊細らしいです」
「ええ。その部下からあなたは、“この方は鉄面皮ですから、蚊にも刺されないでしょうけれど”……って思われているわ」
映姫にひと睨みされた小町は知らん顔して、床に嵌め込まれたステンドグラスを、考え深げに眺め始めた。
「……今日のところは休ませてもらいましょう。お湯に浸かりながら、かしこまって会議する以上の事を話せましたし」
「なるほど。温泉外交」
「結局、全部取っ払った裸のつきあいが外交に必要なこともありますからね」
「いかがわしい意味ではなく、ね」
こいしは笑いながら言って、映姫と小町を客室に案内しかけて、振り返って尋ねた。
「――ところで、宿泊は別々でよかったです……よね?」
「あたいらは別に裸のつきあいとかありませんからね」
「今日のところはもう、彼女の減らず口は聞きたくありませんね」
別々の客室に案内された小町と映姫だったが、彼女たちが入った室内で目にしたもの――部屋の構造、ベッド、サイドテーブル、物書き机、ランプ、暖房装置、クローゼット、壁に掛かった絵画など――は、ほぼ同じだった。
なにはともあれ、小町はベッドに倒れ込む。マットレスが柔らかすぎ、体が大きく沈み込んだ。
なにはともあれ、映姫は壁をなぞり調度を揺すり、最後に床に顔を伏せて、絨毯に残っている僅かな足跡を、気が済むまで透かし見た。
小町はベッドの上で寝返りを打った。
映姫はベッドの上に用意されていたナイトガウンに着替えると、椅子に腰かけて、じっと考えにふけり始めた。
どこかで時計の鐘が鳴り、またふたたび時計の鐘が鳴るまで、映姫は考え続けていた。
一方の小町は、柔らかすぎるマットレスに慣れず、ベッドから転げ落ちる。
しばらく絨毯の上をごろごろしていた小町だったが、やがて現実を受け入れて起き上がるしかなくなる時がきた。
「……どれだけ寝られたんだろう」
どれだけとは、単純な睡眠の量ではなく、質の問題だった。深い眠りだった気もするし、ごく浅く、うなされるようなまどろみだけだった気もする。中途半端な眠り方をしてしまった確信だけが残った。
うんざりと身を起こし、大きく伸びをしてベッドサイドに寄りかかると、あらためて部屋を見回した。なんだか息苦しくて、窓を開けたかったが、外に通じるものは、窓やベランダはおろか排気孔すら無い。灼熱地獄の熱波のせいだろう。
サイドテーブルにあった水差しを半分ほど空にした後で、ひんやりした空気が廊下から流れ込んできているのを敏感に感じとって、ドアを開けた。
「……みぎ、ひだり、みぎ。」
右側が映姫に割り当てられた客室――右、right、Right。あの人はいつも正しい。
小町は廊下に出た。別に拘束されているわけでもないのだし、遠慮する必要もあるまい。
暗い廊下の向こうで、ふぁんと、澄んだ金属音のよう。かすかな、しかし断続的に続く音が聞こえたので、小町はその根源を探り、まだ夢の中といった歩調で進んだ。
夢見心地は、音と空間がそうさせている部分もあるだろう。廊下は薄暗く、曖昧で、構造としては建物の体裁をとっているものの、ある一歩から床材が羊毛のカーペットではなく、足を踏み出すごとに沈み込んでいくような感触になった。どうしてだろうと手で探ると、何重にも敷き詰められた毛皮だった。嫌な予感に襲われそうになったが、できるだけなにも考えないようにした。
全体的に、下へ下へと沈むように降りていく道行きだったと思う。たどり着いたのは石造りの一室で、そこから小さく、かん高い鐘の音が漏れ聞こえている。部屋の壁には六段九列の架台が備えつけられていて、そこに五十三の鐘がぶら下がっていた。古明地こいしはこちらに背を向けて、静かに、もったいぶった動きで鐘を鳴らしている。
「……別に見ちゃいけないものじゃないわ」
踵を返して、毛皮の道をこっそりと帰ろうとした小町だが、そう呼び止める声には、素直に反応するしかなかった。
「……ごめんよ。探検していたら道に迷っちゃった」
「あなたは別に迷っていないわ。ただ、屋敷内を、道があるように進んだだけ。もっとも偉大な迷宮とは入り口も出口も無い広大な荒野ですから」
そう言いながら、石室の隅にそっけなく並べられていたテーブルと二脚の椅子を指し示して、座るように促した。
「話し相手になってちょうだい……最近寝不足なのよ。この鐘の音を聞いてからおねむになると、ちょっとは寝られるんだけど……」
「ふうん。この手の金属音は魔除けとして使われていた、というのがあたいらの理解だけど」
だから妖怪にとっては天敵の音のはずだ。
「一般的にはそう言われるけれど、あれは金気のみを恐れたわけではないわ。耳障りな、粗野な金属たちだから恐れた。私たちはちょっと感受性が強すぎたのよ」
こいしはそう主張しながら、爪の先でちんちんとはじくように鐘を鳴らす。
「――この辺の鉱脈からは、質の良い金属が出るのよね。少なくとも楽器としては。とても綺麗で、澄んだ音が出る。音のばらつきも少なくて、精度がいい」
「五十三律なんて煩瑣な音律を作れるくらいなんだから、そうなんだろうね」
小町は、映姫の言を思い出しながら話を合わせた。ついでに、三分損益法の無限の繰り返しによって、音階を無限に分割しようとする試みについても考えてみた。そうして、音階が実用的でなくなってもやり続ける。そういえば昔、似たような想像をしたことがあったっけ。
「“……今ちょうど、無限に薄っぺらい紙からなる、無限に薄っぺらい経典について考えていたんです。そしてそれは既に校了したものがここに存在しています――いるはずです。その経典は常にそこにあるし、どこにもないし、誰にでも読めるし、読む必要すらない……”」
こいしは心を読んだのか、ぽつりと言った。意外そうな口ぶりだった。
「昔は印刷屋さんだったんですか」
「お役所内の編集部だよ。あまり仕事はさせてもらえなかったけどねえ……」
「実用的でない夢想をするからですよ」
「返す言葉もございません……」
「でも、そういう妄言のたぐいも嫌いじゃないわ。“予レ嘗ニ女ノ為ニ之ヲ妄言セン。女、以テ之ヲ妄聴セヨ。”……大切なことだと思うもの」
こいしは、嫌いではないといったふうに笑う。どんなに整えられた鐘の音よりも透き通った、ゆらぎのある笑い声だったが、当人はその鐘に向き直って、ふと尋ねる。
「……是非曲直庁の官庁広報の段組みは、どんなものですか?」
「ん?……まあ場合によるけど、基本的には縦書きで、複数の段組み」
「行の動きは、右から左、そして上から下へ?」
「そうでない場合は、あまり見たことがない」
「確かに。この際だから様々な例外は捨てた方がいい」
そう言いながら、こいしは六段九列、五十四の架台に掛かっている五十三の鐘を眺め続け、そのうち一つを気まぐれのように移動させた。
「……ああ、それにしても。雲に隠れた夜半の月は、どこに行ったのでしょう」
そう言ったまま、こいしが飛び出していった毛皮の階段を呆然と眺めていると、その暗闇から、ナイトガウン姿の四季映姫・ヤマザナドゥが、つかつかと降りてきた。
「ふうん。ここが例の鐘室ですか」
と言うので、何かしらの事情は知っているらしい。小町は呆れ果てたように言った。
「……変人ですね。彼女は」
「すっかり狂ってしまっています」
小町が穏当な表現に留めようとしたところを、映姫は断言した。
「ですが無理もありません。肉親を追放して、子飼いの郎党まで粛清する羽目になれば、そうならない方がおかしい神経というものです」
「いったい何が起きたのやら」
「原因に関してはあまり教えてもらえませんでしたが、おおかたの予想はつきます。勢力の分裂、方針の食い違い、自分を支える家の子らからの突き上げ。全てがおかしな方向に転べば、こうなる」
「血なまぐせえ」
小町は伝法調に吐き捨てた。
「地獄みたな土地だ」
「旧地獄です」
映姫はさっと訂正してから、ぽつりと
「彼女たち姉妹の、なにが、どう間違ったのでしょうか……」
そう呟いた時だけは、映姫の一私人としての嘆息が混じっているように思えたが、直後には気を取り直して、古明地姉妹に何が起きたのか、事実としてわかる範囲のみを語り始めた。
・是非曲直庁から旧地獄の管理を委託された古明地姉妹は、旧都方面の統治は星熊勇儀に任せて、鬼という妖怪の元締めが持つ、確かな格式によって、この土地に集まる雑多な妖怪たちを統制しようとした。
・そうして勇儀を擁立しつつ、古明地姉妹らは灼熱地獄跡に引っ込み、その管理をもっぱら行いながら、私的な相談役として勇儀を扶ける事で、旧都への影響力を維持し続けた。
・だがこの方法は、星熊勇儀と古明地姉妹の力関係に奇妙なねじれを生じさせる事につながった。
・仮にこの状態を本人たちが納得しようとしても、彼女たちそれぞれにまとわりつく与党がそれを許さない。
・この微妙な力関係の中で、いつだって意見の一致を見せていたはずの古明地さとりと古明地こいしの間に、なにか、どうしようもない方針の食い違いが生じた。
そんなある日、二人が野で馬に乗って遊んでいた折、その手綱が偶然、さとりの体にくるりと絡まった。それ自体は笑い話のような情景だ。しかし次の瞬間、古明地こいしは閃きを得たように、自由を失った姉に無我夢中で飛び掛かり、相手の全身を手綱で引っ括る。そのまま彼女は姉を地下の部屋に引きずり込み、この鐘の前で跪かせると、三つの瞼と口までぴっちり縫合して、追放してしまった。
「それがこの鐘室で起きた事件だそうです」
「うーむ、“長楽ノ鐘室ニ斬ラル”……」
「ですが古明地さとりは斬られていません。手足を括って川に流したとはいえ、あくまで命だけは助けた」
「肉親の情があったのかも」
「だとすれば愚かな話ですね」
本気で愚かと思っているのか、わからない口ぶりで映姫は言った。
「まず、実の姉を手にかけようとしたのがそもそも愚かです。その後で気まぐれに助命した事は、更に愚かです。これはめちゃめちゃで、道理に合わない話ですよ」
でも、そんな程度の情緒的な矛盾、市井の事件でもいくらだって起きていますよ……などとは小町も言わない。
映姫は言葉を続けた。
「ただひとつ、彼女は気になる事を言っていました。怨霊かなにかが、姉を借りて悪さをしていたのだと。だからこうする羽目になったのだと」
「……あたいには、妹ちゃんの方がよほど怨霊に憑りつかれているように見えますがね」
「そういう見方もできます。あるいは、姉の物狂いをそのように表現しただけなのか」
「だとすればかなり人間風の表現っすね」
わからない事だらけです、と映姫は言った。
「こんな情勢下で、なぜか彼女は私を旧地獄に招待しました」
「あ、やっぱり呼ばれていたんだ……」
「最初は、私と顔を合わせる事で地霊殿の新当主であることを内外に見せつけるつもりなのかと思いました。……実際に、星熊勇儀とも会見させられましたからね。でも、なにか違和感がある」
なまで見る古明地こいし自身の態度が、映姫にはどうしても引っかかるのだと言った。小町は小さくうつむく。
「……政治的には必要だとわかっていても、嫌々やってるんでしょ。よくある話ですよ。そりゃ、あんな女の子が――というのは可哀想ですけれどね」
「いずれにせよ、もう一方の証人として古明地さとりを探す必要がある」
四季映姫・ヤマザナドゥがそう言ったので、小町はぎくりとした。
「是非曲直庁が故地の紛争に介入するんですか?」
「というわけにもいきません。あくまで個人でできる範囲で、ですね。そもそも私たちには探すあてが無い――古明地こいしに教えてもらわなければ」
「教えてくれるでしょうかねぇ」
「もしかすると、すでに示唆はなされているのかもしれない」
映姫は正面を見据え続けている。視線の先にあるのは鐘をかけてある台だ。
「ふむ。五十四の架台に五十三の鐘ですか。そして途中、なぜか一箇所だけ歯抜けにさせられている」
「さっき気まぐれに動かして行きましたから――」
言いかけて、小町はふと考え直した。
「……その後で、なぜか是非曲直庁の官報の話になりました。文章の段組みの話。複数の段からなっていて、縦書きの行が、右から左、上から下へと流れる」
そう言って、小町もまた、六段九列の架台に向き直る。
隣の映姫は、思考そのままに言葉を出力しているかのように囁いた。
「なるほど。その法則をこの架台に照らし合わせると、空けられた一つは四十五番目になります。……五十四といえば源氏物語ですね。源氏の第四十五帖は?」
小町は舌を鳴らしてから、唇だけささやかに動かして答えた。
「“橋姫”」
翌朝、小町は朝食の前に地霊殿から逐電してしまっていた。
「あっそ、まあいいわ」
古明地こいしは食堂にやってきた映姫に告げられて、あっさりとそれを受け入れた。
「この館にうんざりしたのかもしれませんね」
「無理ないわ、私だってうんざりよ。――ところで、そのへんから一匹選んでちょうだい」
と言うのは、この食堂の床には牛・豚・鶏から始まって、たくさんの家畜がうろうろとたむろしていたからだ。それにしても、お世辞にも飼育環境が良いとは言えない。映姫の足元にも彼らの排泄物が堆積していた。
「そいつを潰して朝ごはんにしましょう」
「……私は、強いて乞われでもしなければ、好んで肉食はしませんので」
「へー。別にいいけど。――じゃあ私はその鶏にしましょ」
こいしが無造作に指し示した鶏が厨房に連れて行かれるのを、映姫はじっと見つめながら口を開いた。
「……小町は橋姫を探すようです」
「いいんじゃない。彼女は難しい人だけれど、別に悪人じゃないよ」
こいしは食堂の高い天井を眺めながら、また呟いた。
「でもさ……悪いこともしていないのに落ちぶれたりおかしな事になるから、人は嫉妬するし、壊れもするのよ。まともぶっているあんたらって、そこらへんわかってんの?」
同じ頃、小野塚小町はせめて朝飯くらい食べてから逃げ出せばよかった、と後悔していた。
「“もっとも偉大な迷宮とは入り口も出口も無い広大な荒野”……」
目の前に広がる土地を見て、足元のごろごろとした石に躓きながら、古明地こいしの言葉をぽつりと思い出す。確かにそうだ。ここは地獄で、果てない迷宮だ。空中に飛び上がって見回しても、蒸気が分厚くて見通しは良くない。古明地こいしが率いる隊列は、その迷宮の中を整然と行き、道路から外れて無人の野を行っていた。どうして彼らはあの霧の中で迷わなかったのだろう? どうせなにか、そうした感覚の聡い動物が、地磁気とかなんとか、とにかく何かしらを感知しているのだろうけれど……
雨まで降ってきている。涙のようになまぬるい雨だった。
そもそもの話、橋姫を探すこと自体、正しい行動なのかわからない。古明地こいしになぶられているのではないかとも思った。一方がもう一方を排撃する事すらした姉妹が、相手を見つけ出す手掛かりを提示してくれるとは、小町には思えなかった。
しかし、四季映姫・ヤマザナドゥには、なにか確信するものがあるようだった。その確信を否定する自信がない小町としては、気持ちが強い相手に押し切られるしかない。
「とはいえ、もうちょっと計画を練ってから飛び出せばよかった……」
「いいえ。あなたは今すぐ地霊殿から出立するべきです」
記憶の中の映姫がそう言った。
「彼女はもう、十分な手掛かりを与えてくれたのでしょう。あなたはただ一つだけ得た手掛かりのみで、古明地さとりを探し出す事がきっと可能です」
「そりゃ、橋姫を探せばいいだけなら、そうかもしれませんが……」
「なんです?」
「そうしようにも、私たちではこの土地は不案内です。旧都に協力を求める事になりますよね。でも彼らと今の地霊殿の関係はどうも――」
「自分で答えを言っているじゃないですか。他者の協力なんて必要ありません。右も左もわからない私たちでも、たった一つの手がかりだけで古明地さとりを発見する事は可能です」
映姫は、じっと小町の顔を見据えながら、きっぱりと言った。
「忘れてならないのは、古明地こいしが狂っていようが病んでいようが、とても信じられなくても、彼女を信じることです。ただ信じ抜くことです」
小町は大きくため息をついた。だが、あの地霊殿に漂う狂気からさっさと逃げ出せて安心したことも、また事実だ。
「あんな場所に居残るのと、こうして迷子になっているの、どちらが辛いか……」
案外、自分は楽な道を選んだのかもしれない、とも思った。
とにかく考えを巡らせてみる。
橋姫が川にいるとは限らない。橋というものは、河川や渓谷、海峡の両岸に渡される建築だけではない。あちらとこちらの境界という観念的なものかもしれない。あちらとこちらの世界を繋げるものという思想的なものかもしれない。橋姫だから川のはたに住んでいるに決まっているという考えは、独りよがりな想像でしかない……
それでも小町には確信があった――本当に、古明地こいしが古明地さとりを自分たちに探して欲しいのなら、橋姫をそんな象徴の中に紛れ込ませるはずがない。
だとしても、現実にある川の道行きもまた、気まぐれに伸び入り組んでいる。複雑かつ膨大な分岐と合流があるだろう。これもまた天然の迷宮だ。そんな地帯のどこを探せばよいのか。思慮分別のある人間ほど、難しく考えてしまうかもしれない……
それでも小町には確信があった――本当に、古明地こいしが古明地さとりを自分たちに探して欲しいのなら、橋姫をそんな解明不可能な複雑さの中に隠すはずがない。
だから、自分が辿るべきは単純な迷路。多少曲がりくねってはいても、一本道からなる迷路に違いない。でなければこの謎かけは破綻している。たしかに映姫が言った通りだ。これは、古明地こいしを信じることで初めて成立する謎かけだった。
小町は立ち止まる。
目の前には小川が流れていた。地霊殿の、灼熱地獄跡近くにある小さな流れ。他にも似たものは見かけたが、これよりか細く、すぐ枯れてしまいそうなものだったり、あるいはすぐ近くの地熱にあてられて、濛々たる湯煙を上げていた。
彼女が探し求めていた条件――ほどほどの幅と深さを持つ、ほどほどの水温の川は、探す限りではこの辺りでこれだけだった。
ここでいいのだろうと、小町はなかばなげやりに考えながら、手にしていた大鎌を足元に突き立てた。おそらく、古明地さとりは目と口とを縫い合わされ、手足をくくられて、この川に流されたのだ。もう、とりあえず、そういう事でいいだろう。
小野塚小町はそこに身を投じた。
ぬるい河水で、思わずぼんやりしてしまうようなのろのろした流れだったが、間違いなく小町は流されていた。
仰向けに、顔を水面に出す形でぼんやり流れていく。手足の力を抜いて、だらんとしていたが、ふと、その手を川の底へと伸ばす。川底を這う水流を指先がとらえて、素早く彼女の指の股をすり抜けていく。
底流――と思った瞬間、小町はすとんと、底が抜け落ちたような流れに巻き込まれていた。
思わず息をつめて、身をすくめた。目を開く勇気はなかった。そうしていれば、ひどいことになっても気がつかないと信じたし、事実そうだった。ふやけた耳が、ごつごつした岩壁にざっくりと切り裂かれたのにも気がつかなかった。髪の毛がひとつかみ、同じように絡まって引っこ抜かれてしまった事に気がついたのも、あとの事だ。だが、その銭禿は後までしばらく残った。
気がつくと熱波の中に身を焼かれて、全身にまとわりつく水分が一瞬で蒸発した。髪の毛先と眉が焦げ、まぶたの向こうが真っ赤に燃えていて、目口を開いていなくて良かったと思う……開いていれば、一瞬で視界を潰され、喉を焼かれていただろう……そう考えているうちに、気がつくと、小町は最初と同じように、のんびりぷかぷか、ぬるい川の流れに浮いている。それまでの冒険など無かったとでも言わんばかりだ。ただ、ひたすらに全身が痛む。
「……あら」
と川岸から声がした。その遠く底抜けの調子からして、はば広い河川に出た事がわかった。
「珍しいものが浮かんでいるわ」
なにか大きな力につままれるように、岸に引き寄せられた。
耳元の切り傷はようやく血が固まったが、髪の毛も一緒に巻き込んでしまっている。
「ひどい事になってるけど、それでもツラの皮を引っぺがされなくてよかったね」
そう言いつつ、傍らの革の道具入れから小刀を出された時にはどきりとしたが、巻き込んだ髪の毛を切られただけだった。
小町を岸にあげた少女は、うんうんと頷いた。
「……ま、こんなもんでしょ。あの湧泉はたまに変なものが湧くみたいだけど、大抵は死骸になって出てくるのに」
「ほとんどの場合、殺されてから流されたんだろ」
「かもしれませんね――雲山、キャプテンを呼んできて……はぁ、また風呂行ってんのあいつ?」
呆れながら立ち上がった少女は、一緒に小町の手も引きつつ、にっかり笑った。
「こっち来て。……うちの船長はちょっと神経質で、海神が所有するすべての水や、アラビヤ中の香水を使っても、体にしみついた血の臭いが取れやしないと思い込んでいるような御仁で――本当に取り寄せてやろうとして、この地下世界の大海に漕ぎ出だした事すらあったっけ。一応封印されている身なのにね」
「慣習法的には問題ないさ」
「あなた、法曹関係の人なの?」
「最近よくわからなくなってきてるけどね」
答えを聞いて笑った少女は、雲居一輪と名乗った。
「色々あって地底に封印されております」
「ワケ有りの事情を根掘り葉掘り聞くつもりはないよ」
やがて二人は濛々と蒸気が噴き出す小川の、石だらけの中を進んだ。足元をちょろちょろ流れる水に赤茶色が混じっているので、含鉄泉なのだろう。
「雲山は――さっきの入道のおっちゃんですが――こういうとき、さっぱり役に立たないの。私たちの素っ裸を遠慮するのね。別に見たって減るもんじゃないでしょうに」
「そっちがそう思っていても、おやじさんは減るものの存在と価値を知ってるんだよ、きっと」
「なにそれ」
一輪は鼻で笑うが、蔑んだ感じではない。天然の陽性なのか、なにかを軽んじても軽やかさだけが鼻腔から出ていって、侮蔑や嘲りといったものが混じりにくい性質のようだった。
「ま、いいや。なにをしに来たのでしょう。……まさかあんなふうにやってきて、観光ってわけじゃないと思うけど」
「ちょっと所用があってね。橋姫を探しにきた」
「へー」
歩みはよどみなく、一輪の様子に動揺は無い。
「……正確には、古明地さとりを探しに」
相変わらず一輪は歩き続けていたが、ただ頭をぽりぽりと掻いた。
「……って事は、旧都の連中の面倒くさい抗争に、私たちを巻き込むつもり?」
「とは言わないよ。というか、あんたらがあたいを勝手に拾っただけだろ」
「そうなのよね……人助けをするべきじゃないと言うつもりはないけれど、少なくとも間の悪い瞬間って確実に存在する」
「同情するわ」
間が悪いのはお互い様だ。
しかし、道を遡った先の含鉄泉に身を沈めていた村紗水蜜は、事情を聞くと鷹揚に対応して、言った。
「こいしちゃんの関係者ですか」
と、かえって地霊殿との関係を匂わせさえしながら、小町に向かって、同じ湯に裸で浸かるように示す。小町はとりあえず、言いたい事を言った。
「……昨日、温泉で会ったよね、あんた」
そう言うと、相手も口の端をにっと上げた。
「あそこがお気に入りの密会現場なのは否定しないよ。――じゃ、ここの外交術は知っているでしょう? 吐くまで飲むか、温泉に浸かって裸のつきあいをするか……」
「うちのカイシャも政治上のえぐい饗応をする事はあるけど、そこまでやった事はないよ」
「ここではやるんですよ、是非曲直庁の不思議な役人さん」
水蜜はふてぶてしく笑って、続けた。
「郷に入っては郷に従えと言うでしょ?」
「そう言ってくると思った」
と、小町はさっぱり服を脱ぎ始めている。横にいる一輪がかえって慌てたくらい、躊躇のない脱ぎっぷりだった。
「――あんたにも雲山の気持ちがわかっただろ? お嬢さん」
「まあ、なんとなくは、うん」
一輪に向かって言ったあとで小町は、湯の中でくつろぐ。
「……で、あたいは橋姫を探してんだ」
「でしょうね。古明地さとりはそこに避難している」
水蜜の言葉に驚いたのは、小町よりも一輪の方だった。
「待ってよキャプテン。その話知ってたの?」
「ごめん、黙ってた。あいつの消息を知っている事がうちらに利するかというと、だいぶ微妙な話だし」
「それでも話して欲しかったわ」
急にぐだぐだと始まった内輪の口論を、小町はいい湯加減にひたりながら聞き流した。ただ、この辺りに漂っている独立勢力の身の振り方にも、古明地姉妹の対立と追放は影響を与えているのだなぁ、とぼんやり実感するだけだ。
二人の言い合いがある程度収まった後で、ぽつりと呟いた。
「……なにはともあれ、あたいよりは事情を知っていそうだね」
「事情ねえ……古明地姉妹が旧都勢力に対抗しようとして、別の軍閥と裏で結ぼうとしている、って噂とか?」
小町は眉をひそめる。降って湧いた、真偽も定かでない話なのはともかく、問題はそんな情報が気楽に話題に出てくる事だった。
「……それ、もしかしてこの辺りでは周知の話?」
「誰もがとは言わないけど、そうですね。彼女たちの微妙な関係を知っているなら、そう考える者も多いでしょう……同時に、知らぬふりをしている、見なかった事にしようとしている者も多い」
だって、どうせ何も変わらないんですからね、と横合いから一輪が言った。
「この土地では、敵も味方もその場限りで、ひたすら疲弊しながら戦い続けているだけです。とても法輪をもたらせるような環境ではありません」
私たちに言わせると。
と目の前の彼女たちは言った。
「ひどくなったのは、是非曲直庁がこの土地から手を引いて以降です。彼らが法を敷く以前もひどいもんだったろうけど」
あんたらは逃げた。遁走した。地獄の縮小だなんておためごかしを使って、尻尾巻いて逃げた……とまでは言われなかったが、つまるところはそういう事だろう。
「……手厳しい事を言ってすみませんね。はっきり言って、私たちだってあなたがた官吏を信用しているわけじゃありませんし」
「ですよねー」
ふと、映姫らの官僚的な態度を思い出して、それも仕方のない事だと小町は嘆息した。
「あなた個人は嫌いじゃありませんよ」
「嬉しいよ」
答えながら、小町は立ち上がった。
「どちらに?」
「ここが地獄だろうがなんだろうが、あたいはやるべき事をやる。古明地さとりを探して、地霊殿に帰し、姉妹それぞれの意見を聞いて、それから判断する」
「なるほど。理にかなっていて、秩序だっていますね」
「こっちだって腐っても官吏だからね。秩序の徒なのさ」
「でも行動は秩序からは程遠かったわ」
「とにかく行くよ――」
そうして温泉から出ようとしたところを、ぐいと引き留められた。湯の中に引きずり込まれて、数秒間もがいているうちに湯の底に沈められてから、水面に出された。鼻と口から鉄臭い水を吐いて、叫ぶ。
「なにすんだよ!」
「頭を冷やしてもらおうと思いまして」
「風呂の湯の中じゃ冷やすもなにもないだろ!」
「たしかに……」
一輪が言った。彼女も、水蜜の乱暴な行状には困惑しているらしい。
「それでも私は頭を冷やしていただきたかったんです。今、この一帯の入り組んだ水道を行くのは非常に危険です」
「なに……?」
戸惑ったのは一輪の方だった。
「どういうこと……」
「だから、今さっき言った話。古明地姉妹と関わりのあった勢力が、旧都へ目がけて進軍中です。……このあたりは渡渉すべき河川も多いので、旧都勢力の察知を避けて移動するのは時間がかかるでしょうけれど、とにかくこの一帯を航行するのは危険です。……古明地姉妹の片割れを探しているならなおさら」
ここまで、小出し小出しにあんまりな情報の暴露を行われてしまった事で、小町と一輪の間には妙な絆が生まれていた。彼女たちは目を合わせて頷き合った。
「……あー! また黙ってたんだー!」
「だから! お風呂で考えをまとめてから話すつもりだったんだってば!」
二人の言い合いをぼんやり聞きながら、四季様は今頃どうしているだろうかと、小町はふと思った。
四季映姫・ヤマザナドゥは、たっぷり何時間もかけた挙げ句ついに朝食か昼食かもわからなくなった古明地こいしの食事に、依然として付き合わされていた。
「最近食が進まないのよ。あっという間に羹は冷めるし、膾はぬるぬるし始める。……温め直して、作り直してもらわなきゃ」
ぶつぶつと呟きながら給仕を呼び出そうと、小さな鈴に手を伸ばしたが、うっかり落としてしまった。床にぶつかっても音はしない。豚の糞の中に埋まってしまったからだ。
「……そっか。ここを掃除してくれる子たちも殺しちゃったんだっけ」
始めて気がついたように(しかし最初からわかっていたのだ)、ぽつりとそれだけを呟くと、こいしは席を立って食堂からふらふらと出ていってしまった。
映姫はそれに従ったが、屋敷の主人が広間にあるロッキングチェアで午睡し始めたのを見て、食堂に取って返した。こいしの食べ残しを厨房へと引っ込め、食堂に散乱している家畜の汚物を掃いて掃除しながら、家畜たちを逃がすように追い立て始めた。
「逃げなさい」
と屋敷じゅうを駆け回り、地霊殿の正門を開け放しながら言った相手は、家畜だけではなく、古明地こいし以外のすべての動物たちに対してだった。
「道のわかるものが導いて、旧都へ行きなさい。身柄を受け入れてくれるでしょう……あなたたちの主人は、私に任せなさい」
あまりに唐突で、あまりに型破りな申し出だったが、そのためにかえって、動物たちは映姫の言葉を信じた。彼女の落ち着いた、きっぱりした雰囲気が、奇妙な説得力で動物たちを揺り動かした。――しかし説得力よりなにより、動物たちにとって、あの地霊殿の新しい主が、恐ろしくて仕方がなかったのも大きい。
古明地こいしが午睡から目覚める頃、地霊殿はからっぽの犬小屋よりむなしいものになってしまっていた。
「どういうこと――?」
周囲にちっとも心の声の気配がない事に気がついたこいしは、やがて映姫が現れて、その心の内を躊躇なく曝け出したのを読み取って、大笑いした。
「そう! あなたはそういう戦い方をするつもりなのね!」
「あなたのような者に対抗するには、即興で、その場の思いつきだけで物事を積み上げていくしかない」
映姫は、家畜用の雑穀を煮炊きしただけの粥を持ってきて、自分で食しながら言った。
「あなたが眠った後で、ふと思いついたんです。あなた方が飼っていた動物たちは、もうこの屋敷には必要ありません。いても互いの対決の邪魔になるだけで、そのうえあなたを恐れてすらいる。だから、逃げてもらいました」
映姫は心底つまらなさそうに説明しながら、味がしない煮えた粥をもそもそ食っていく。
「あなたは全てを失いました。あとは、小町が古明地さとりを連れてくるだけです。あなたたちは私を介して、ようやく対等にものを話せる」
「……あんたは間違ってるよ」
こいしはぶっきらぼうに言う。
映姫は動じなかった。
「私が間違っていようと、いいのです。小町は私が正しいと信じている。たとえ私が自分の正しさを信じられなくなっても、彼女が私を正しいと信じてくれる限りは、彼女ならきっとやってのける」
「ふん、それで次の手はどうすんの?」
こいしにそう尋ねられて、映姫は即興的にものごとを考え、即興的に答えた。
「……あなたの身の回りの世話は必要です。私はあなたの下僕として仕えましょう」
そう言うと、自分の衣服から閻魔の身分や官位を示すしるしを、乱暴に剥ぎ取り始めた。
地底には昼も夜も無いが、それでもなんとなくの生活周期というものがある。むしろ日月の光がないぶん、それに従おうとする原理が働くらしい。
「……というか、両岸に見張りすらいないんじゃないか?」
「霧深い夜で灯火もなければこんなもんですよ」
言い合うのは、船の甲板に身を伏せている小野塚小町と村紗水蜜だった。
「こっちは目立たないよう、帆柱まで引っこ抜かして下ろしてんだ」
「雲山、どう?」
これは一輪の声だ。尋ねた相手は無口だが、ぼそぼそとした応えはあったらしい。
「……いいわ、いける。そもそも上流の方は、奴らの渡渉地点になっていないみたい。……となると、古明地の姉さんの確保なんて、考えられてもいないみたいね」
「政治的な人質にされていないだけでも幸いだよ」
小町は呟くと同時に、姉妹の対立とこの旧都への進軍が関係しているとすれば、この無視は奇妙だとも思った。
「……いったい、その軍閥とやらは、古明地姉妹とどういう縁があったんだ?」
「さあね? 私もあまり知りませんが、何度か彼らの間に立って、動物の輸入を仲介した事があります」
「動物」
「珍しい動物たち」
これは一輪の言葉だ。
「その他は特に贅沢もないし、姉妹で慎ましく暮らしてたっぽいけど、やっぱりどこかで欲は出てくるものなのね。孤独だったのかも」
そうして手に入れた動物たちが、地霊殿の子飼いの勢力になっていたのだから、たしかに強い結びつきと言えるかもしれない。――だが、その程度の繋がりでしかないと言う事だって、できる。
「……本当に、彼女たちは旧都と対抗するために結びついていたのかな?」
「まあ、下衆の勘繰りでしかないのは認めます。……でも、どう見られているか、というのは重要ですよ」
「確かに。さとりって妖怪は、特にそういうのに敏感そうだもんね。たとえ空想を罪にすることができないとしても」
彼女たちが探している橋姫は、他の妖怪たちとは違い定住を拒み、川の上下をうろうろとしながら生きているのだという。
「地上に帰りたいんだよ」
「そこらへんは私たちと一緒ね」
水蜜と一輪が言い合ったのを聞いて、小町も理解を示すようにゆっくり頷いた。
「……いずれさ、あんたたちが地上に戻れる機会があれば、どこまで力になれるかはわからないけど、お上の裏に手を回すくらいの工作はしてあげるよ」
「また言ってるよ」
水蜜はクスクス笑った。
「是非曲直庁に恩を売りたいのは認めるけど、とりあえず貸借の無い手助けでいいって言ってんのに」
「なんとなくだけど、あんたらとは貸し借りの関係があった方がこじれない気がする」
「別に約束手形があるわけでもなし、互いにそういう気持ちでいればいいんじゃないですかね」
一輪が互いの意見を取りまとめるように言った。
船は、静かに、濃霧の中を滑るように遡っていく。
「……“月舟霧渚に移り”――」
小町は甲板に寝そべりながらぽつりと呟く。地底に月はないが、今はこの船自身が月のようだった。その三日月は雲に隠れて、静かに川を遡っていく。小町は、この地獄で、ようやく詩情らしきものに浸る事ができる気がしてきた。
「こうしてみると、悪かない土地じゃないか」
「どうせ住んだらうんざりし始めるわ」
「そりゃどこだって一緒だよ」
三人はそのまま、うとうとしてしまった。小町は夢見心地の中で、とりとめもない連想を、まるで世間の公式のように考えていた。“雲がくれにし夜半の月”、雲居一輪……雲居の雁……貸し借りの雁が一輪だとしたら、菓子は村紗水蜜だ……なるほど水蜜桃は水菓子……といったふうに。
その水蜜桃が、がばと跳ね起きて舷側に体を出した。雲山が飽和して船体を霧の中に隠してくれているが、不自然さは否めなかった。
「……まずい、さすがに怪しまれている。臨検が来るわ」
「この場合は臨検とは言わないよ。むしろ海洋法的に言えば――」
「なに寝ぼけた事言ってんのよ」
「それに月は雲間から出るものだろ。扇をちょいともてあそんで、“隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば”……」
「どのみち、あんたが身柄を拘束されたらそこまでよ」
小町は一輪に小突かれた。
「考えはある」
と言ったのは水蜜だった。
「一芝居打つ必要があるけどね……叫び、合唱、喧嘩、いくつか選択肢があるけど、ここは一番どぎついやつがいい」
やがて危機が去り、蜜蝋で作ったかさぶたや爛れを唇から剥がしながら、小町は一息ついた。その目元は化粧道具で作った隈でじっとり重苦しく、同じく蝋で作った目やにが、べっとり涙の痕になっている。爛れて滲んだ血のように赤く見えるのは消毒液、膿に擬された黄色いものは船倉の隅に生息していたなにかの幼虫を潰したもの。重病人特有の饐えた臭気をどうやって再現したかについては、書くのもはばかられる。
「あたいも、今度なにかまずいものを密輸する時は真似してみるよ……」
「糜爛性の重篤な感染症がどうこうみたいな、テキトーな説明をしたら、近づこうともしなくなったよ」
と、臨検の対応にあたった船長が言った。
「感染症を装うなら、ここを遡上するのも自然だしね」
「……上流に医者でもいるの?」
「逆。流行り病を操る土蜘蛛」
一輪は荒っぽい水夫の演技がまだ抜けきっていないのか、ぶっきらぼうに言った。
「だから嫌われそうなもんだけど、人付き合いがけっこう上手くてね。旧都に背かない、地霊殿と険悪なわけでもない。そのへんを世渡りできている一人よ」
そういう者もいる。
「……そいつはこの土地で変事があったとして、どう動くのかしら」
「さあね。みんな、身の振り方を考えなきゃいけないんだろうけど、しかし」
水蜜はそこで、つと言葉を切った。ふらりと甲板から舟の舳先に立って、上流から流れてくるものを、目を細めながら見つめた。
「あれはなに?」
尋ねたのは小町だ。異様な光景だが、旧地獄の住人なら知っているものだろうと考えていたのだ。
「わからない」
二人は答えた。
大河の幅いっぱいに広がって、降るように上流から流れてくるのは、無数の藁人形だった。
――いやな予感がする。
と咄嗟に判断したのは、船長の、神経質なくらいの勘だった。
「回避するわ! あんたも手伝いなさい」
「……あたい病人だよ?」
小町はおどけながら蝋のかさぶたを見せて、義務を拒絶しようとする。
「ふざけとる場合か!……いや、まだ接触までに時間はある。一輪、雲山に訊いて。“あのけったいな藁人形の群れは、どれほど続いてる?”」
「……向こう五百尋はぎっちり!」
「ああ、こんなとき聖輦船があればなあ!」
「なにそれ?」
「説明するにはうちらの身の上話が長くなりますが、よろしいでしょうか」
「じゃあいいです」
「ざっくり申しますと」
一輪は小町の拒否を無視した。
「とある偉大な聖人の法力によって、空を飛ぶ事を可能にした船です」
「……あったところで、封印されている身でそんなおいたしちゃいけないよ」
「そうでしたねお役人様」
意外にのんきしているやりとりを交わしていた小町と一輪に対して、船長はそれぞれ左右の両弦を見るように指示した。
「……ひとつひとつの間隔は、船幅よりいくらか大きい。すり抜けられます」
「結局気合で避けんのね……」
それからの数刻は、単純で、慎重さだけは必要とされる、うんざりした動作の連続だった。それでいて途中、水流が急になったり、突然緩やかになる地点があって、それでも村紗水蜜は船をよく操舵したし、両弦の状況を注意する二人もよく助けた。
その間に、小町が人形をひとつ、棹を伸ばして取ろうとしてみたが、水蜜に止められた。
「やめといた方がいいよ。絶対に呪物かなにかだもん」
「しかし引っかかるわね。いったい誰が、誰に対してそんな……」
一輪はぼやきかけて、すぐに頭が回ったのか、他二人の表情を見比べた。
「……あ、そういう事?」
「さっき土蜘蛛は流行り病を操ると言いましたが、彼女はその能力を使って、この下流域をも実質的に支配しています」
水蜜が小刻みな転舵を行いつつ小町に解説した。
「下流では川の渡渉が開始しているだろうし、数刻もあればあの人形どもはそれにぶつかる」
「どういう意図が込められているにせよ、悪意によるものだろうね」
旧都に攻め込もうとしているという軍閥とやらがどういう勢力なのか、小町はいまいちわかっていないが、嫌われているものだな、と小町は思った。
藁人形が流れてくる事はその後もぽつぽつとあったが、第一波にあった壁のような押し寄せではなかった。
「それにしても、探し人はなかなか見つからないね」
「橋姫が上流で匿っているというのも、思い当たる節はありますが、ちょっと根拠の薄い推理ですからね」
「今更それ言っちゃう……?」
ともあれ、事情に反して穏やかな舟航だった。今まさに、この川の下流で軍事が起こりつつあるとは、とても思えない……。
「……寝るか」
「のんきなもんだね」
「寝られる時に寝ておく性分でね」
小町はそう言って、甲板にごろりと寝転がりながら、しかし心がけ通りにすぐ眠る事はできず、ぐずぐずとした夢想にふけってしまう。
今まで劇的な出来事はいくつもあったが、旅程のほとんどは退屈だった。景色や状況が、ぽんぽん変わるわけではない。ただ、漫然と、流れに沿っている。自分の小舟で川を遡り(事が済んだら、あの舟も回収しに行かなきゃいけないな、とぼんやり思った)、古明地こいし率いる動物たちの隊列の背に乗って道路を行き、水の流れに身を任せ、そして今も、村紗水蜜の操る船に乗って、進んでいる。そうして過ごす十のうち九は、やはり退屈だ。
「散文の良いところは、そういう退屈な部分を、ばっさり端折ったり、逆にしつこくだらだらと書けるところですね。誠実にしろ不誠実にしろ、本当に厳密に記された文章なんて存在しませんから。……書くというのは、あちらとこちらの距離を、極限まで縮めたり引き伸ばしたりする編集作業なんですよ」
そんな調子のことをほざきながら怠業行為を働いていた(やはり奇妙な言い回しだ)、是非曲直庁編集部の頃を考えると、また妙な次第になったな、と小町は思う。
「“渓ニ縁リテ行キ、路ノ遠近ヲ忘スル。”……」
次に川の両岸に背高く伸びた葦原の中で叩き起こされたとき、小町はあの最初の場所に戻ってしまったような錯覚をおぼえて、その後でようやく、それよりも低い背丈の、金髪緑目の少女の姿を認めた。
「彼女たち、こいしちゃんがたまに使っている水運業者でしょ」
葦をかき分けながら先を案内する橋姫が言った。道行きの目印のつもりなのか、一つかみの葦が、足元で一定間隔に編み込みにされているのに気がつく。
「らしいね」
小町は一日ぶりのしっかりした地上を踏みしめながら歩こうとしたものの、どろどろした湿地に足を突っ込んでしまった。
「あんたは何者?」
「是非曲直庁の方から来た者です」
足を泥土の中から引っこ抜きながら、小町は言った。
橋姫は鼻で笑った。
「悪徳業者みたいな事を言うのね……言っておくけれど、私は古明地さとりを、あくまで人質として確保しているだけだからね」
「取引材料かい」
「そうよ……でも駆け引きは好きじゃないから、率直に言うわ。私は地上に帰りたい」
「そういうウワサは聞いているよ」
「望みを隠そうともしていなかったからね。……でも、本当はなかば諦めていたのよ。期待させやがって、妬ましい」
相手側の主張はともかく、小町自身はそういった交渉事の窓口ではないということを、できるだけわかりやすく説明しなければならなかった。
「……だから、あたいの役目は、地霊殿にさとりのお姉さんを帰すというだけです」
「それでどうなるの。あんたに従ったら、私は地上に行けるの?」
と、立ち止まり、後ろを振り返って微笑む。口が裂けているように見えた。
小町は肩をすくめる。
「……さあね。確かにあたいは、あんたの事情なんて何も考えていない」
橋姫は舌打ちをした。
古明地さとりが匿われている場所は、葦原の中のぐるり一丈ほどを刈り、刈ったものは床に敷き詰め、周囲の背の高い葦の頭頂を結んで作っただけの、簡素と言うのもはばかられるような粗末な菴だった。
「私を責めないでよ」
橋姫は言った。
「彼女がこれでいいって言ったの」
「これくらい不便な方が、いいんです」
と、菴の中から声がした。舌足らずの、しゃがれた声だった。
「この不便さに私は助けられたんです。だって、皮膚を焦がされたわけでも、耳に融けた銅を流し込まれたわけでも、鼻に焼け火箸を突っ込まれたわけでもありませんでしたから。たとえ目を縫いつけられて心が読めなくても、それでも私は肌と耳と鼻とで、じゅうぶん世界を感じることができました。それさえできなければ、たしかに狂ってしまっていたでしょうけれど」
小町がもの問いたげに振り返ると、橋姫が顎で促す。身を屈めて葦の屋根の中をくぐると、なんとなく獣くさかった。古明地さとりは地面に敷き詰められた葦の上に腰かけている。
唇は抜糸後の経過が良くないのか、痛々しく膿んでいる。瞼はまだ閉じられっぱなしだった。
「悪いけど、私はこいつに心なんか読まれたくないのよ」
橋姫が、ばつが悪そうに言った。
「気持ち、わかるでしょ」
「ええ、しょうがない事です。……それに私自身、これが自分の罰として上等だと思いますし」
小町が答えにくそうにしていると、さとりが床の隅に膿を吐き捨てて、また続けた。
「……さて、なにから話せばいいでしょうか。まだ言葉もうまく発せませんが」
「その割にはめっちゃくっちゃ喋るじゃないか……」
「今となっては喋るだけが取り柄ですから」
「“喋れ、喋れ、それだけ取り柄さ”」
古明地こいしは、朝食を摂った後、地霊殿の周りをふらふらと逍遥していた。おぼつかない足取りで、ごろごろとした石の野の中で頻繁につまずき、こけていたために、膝はもうすっかり皮が擦り剝けてしまっている。かつてのような動物たちの供回りも無く、いま従っている者は、是非曲直庁の高官としての地位を捨てた四季映姫だけ。
「……でも、私とお姉ちゃんにはお喋りは必要なかった。……無言でも、誰のどんなお喋りよりも意味のあるやりとりができた」
「羨ましい事です」
「勝手に喋るな下僕」
こいしはくるりと振り向くと映姫の胸倉を掴み、引きずり、這いつくばらせて、そのまま犬のように四つに這ってついてこいと命じた。
映姫は顔色一つ変えず命令に従う。地面はごつごつとして、焼けるように熱かった。そのうちこいしと同じように膝が擦り剝け、来た道にはふた筋の赤黒い痕が薄くできたが、彼女は苦痛の表情すら見せなかった。
「――で、私とお姉ちゃんは分かり合えていた。少なくとも二人の間だけは分かり合えていたつもりだし、それだけでも幸せだなんて思っていた」
彼女のお喋りは気まぐれだ。映姫を憐れに思い、立たせてくれたのも気まぐれだった。二人は血まみれの膝を並べて歩いた。
「もちろん、分かり合えない相手もいたわ。旧都の人たちには恐れられて、怖がられて、警戒された。私たちの、忌々しい目ん玉に喰らわせたいなんて思うやつらもいっぱい。でもそれは仕方がないし、私は彼らの恐れだって理解できちゃった。……みんな、恐かったんだよね。誰も信用できないし、わからないし、頼っていいのかも――あ、これじゃあ同じことを言っているばかりだわ。まったく、私は繰り返しばかり言うの」
こいしが目的地のように立ち止まった場所は、小さな川岸で、映姫にも見覚えのある大鎌が突き立てられていた。
「そして私はここでお姉ちゃんを捨てた――喜べ! あんたの部下は正答を選んだよ!」
「当たり前です」
奴隷の四季映姫は図々しく発言したが、今度は咎められない。
「私が信じた彼女の行動です」
それが本心からの返答だったので、こいしはただ、大鎌を拾っていけとだけ指示して、地霊殿へと戻り始めた。映姫は鎌を担いだが、しかし慣れていないために、大きな刃によって肩が裂け、湾曲した刃先で背中を突かれる。
映姫自身は、やはりこれは不便なものなのですねとしか思わなかった。
「……なので、私は妹に合わせる顔がないし、地霊殿に戻るつもりもありません」
と古明地さとりは言った。
「ちょっと待ってよ!」
小町の焦りは妥当なものだった。
「どうして。あたいはあんたを連れて地霊殿に帰らなきゃ――」
「今の言いで、全部説明できませんでしたかね?」
「まったく!」
「誰かにものを伝えるという行為は、本当に難しい。心が読めないとこうなりますか」
さとりは頭を掻いた。
「まず、私とこいしは旧都の人々に疑念を抱かれていました」
「うん」
「特に、畜生界の軍閥との繋がりは、警戒されてもしょうがなかったのでしょう」
「……畜生界か」
小町は頭を掻いた。地獄の公務員にとっては既知の単語。それがいかに厄介な存在であるかも、伝え聞きではあるが知っていた。
「あんたら、めんどくさい奴らと結んだもんだね」
「私たちも関係を作るつもりはありませんでした」
さとりは苦笑いし、信じてもらえるかはわかりませんが、と前置きして説明した。
「知らずのうちに関係していたのです。……表面上はただ、商社を介して珍しい動物の輸入を融通してもらっただけ。奴らは何重もの経路を介してその会社を経営していたようで、背後関係は完璧に隠蔽されていました。最初から私たちの読心能力を踏まえて、調略するつもりで接近していたんでしょうね」
「幽霊会社方式か。らしいやり口だよ」
「そして、私たちが隠された背後関係を知ったのは、旧都の、星熊勇儀さんのところに遊びに行った時です。なぜか彼女たちが真っ先に情報を掴んでいた。元々警戒されていた身ではありますが、そんな木っ端業者にまで深く探りを入れられるほどではありません。おそらく意図的に洩らされたのでしょう」
「“空気のように軽いものでも、嫉妬する者には聖書ほどの、手がたい証拠となる。”」
菴の外で話を聞いていたのか、橋姫がぽつりと呟いた。それは皮肉っぽいが、鼻歌でも歌い出しそうに楽しげだった。
「みんな何もないところから、勝手に恐れすぎで面白いわ」
「もうちょいおしゃれな包帯の巻き方にしてくれない?」
地霊殿に戻った映姫は、そんな言葉をこいしにぶつけられていたが、先ほどのような衝動的な暴力はなく、ただわがままなだけのようだった。
しかし映姫は文句を無視して淡々とこいしの膝に包帯を巻いていき、最後にちょこんと、申し訳程度のリボン結びを作って、相手の要求を叶えたつもりになった。
「……ま、これでいいわ。あなたも膝の皮がべろべろじゃない。手当したげるわ」
「自分でやりますので」
「あっそ。じゃあ私は話の続きをするわ。……私たちは旧都に疑われたって言ったけれど、勇儀さん自身は、あくまで渦巻く猜疑に抗っていた。元より複雑な感情を私たちに向けている人だったけれど、そこから更に疑念を深めるような事はせず、彼女の信念だけが、私たちと旧都との間を、かろうじて取り持っていた」
映姫は、そういう者も社会には必要だろうと思いながら、毛抜きをあやつり、自分の脚に深く食い込んだ砂利を、ひとつひとつ除き去っていった。
「私たちを疑っている連中なんかは、もう私たちから隠れるようになって、顔も見せなくなった。そりゃ心を読まれたくなんかないもんね。……でも、そういう態度をされたらさ、私たち自身は別に構わないんだけど、動物たちの群れの長としては、ちょっと困った事になるわけ」
こいしはちょっと言葉を切って、かたわらにある救急箱の中を探った。
「動物たちの多くは、向こうの業者にしつけられた段階で、なにか意識の下にこっそり仕込まれていたんだと思うわ。――たとえば主人への忠誠、共同体への帰属意識、立場の違う存在に対する同情の無さ、他者を害す事に躊躇のない攻撃性、不信と猜疑……」
映姫は自分の膝に石炭酸をぶっかけながら、静かにこいしの話を聞き続けた。
「そんな連中を抱えこんだままだと、組織はどうなるかしら?……私たちは、いつの間にかどん詰まりに追い込まれかけていた。今はまだそうでなくても、ゆくゆくはそうなる。私たちは変わる必要があったけれど、難しかった。……冷静な思考を行いつつ自分たちの失策を認知することは、誰にとっても凄まじい精神的負荷になるわ。その上で思考を続ける事もね。だから普通は、変われない。変わらないまま滅びるか破綻する。あなたたちだって変われなかったんでしょ? 自分たちの命数より、統治構造の寿命の方がずっと早く尽きたから」
「……それだけが全ての原因ではありませんが、是非曲直庁が失敗した理由のひとつではあるでしょう」
映姫は認めながら、こいしの手によって救急箱から縫合針が取り出されて、その穴に糸を通されるのを、じっと見つめていた。
「……みんな、変われないのよね。人間みたいには」
こいしは第三の眼を愛おしげに撫でてから、ぷつり、とそのまぶたに針を刺しながら言う。
「あなた、人間という存在についてどう思う?」
「どういう言葉を求められているのでしょう」
「そりゃあ、優れているとか優れていないとか、愚かだとか愚かではないだとか……」
縫い糸が、第三の眼のまぶたの皮膚を突き抜け、きゅきゅきゅとかすかな摩擦音を立てながら通っていく。
「二元論的ですね」
「二元論的な話をしたい気分よ」
「しかしそういう、対立する二項として論じるのは気に入らない。優れている部分もあるし優れていない部分もある、愚かな部分もあれば愚かでない部分もある――つまらない答えですが、こんなところでどうでしょう」
「どんな部分が優れていると思う?」
「変わることができる部分でしょう」
「どんな部分が愚かだと思う?」
「変わることができる部分でしょう」
目の前で行われる外科手術を眺めながら、映姫は痙攣のように空気を吸った。
五針ほど縫ったところで、こいしは一旦手を止めた。
「……そうね。彼らは他の動物たちと比べても、特段賢い存在ではない。むしろ目先の事に執着しすぎ、移り気で、愚かよ。ただでさえ短い寿命の中、しょっちゅう内輪揉めを起こして、やらかしてる」
こいしは気まぐれのように立ち上がった。しかしどこに行くつもりでもなかったのか、座る。
「でも、彼らは短命であるために、しょっちゅう社会構造を変える事ができる。代替わりするたび、自分たちの都合の良いように先例を解釈し、図々しく、厚顔無恥に変わり続けることができる。変わった後も相変わらず愚かなので、やはりその後も変わり続ける事ができる。……もちろん、この変化にしたところで、大きな尺度ではつまらない反復にしか見えないけれど、寿命が短いあいつらには関係ない。だから、この先にたとえ破滅が待っているとしても、最後まで変わり続けようともがき続けるのでしょうね」
眶からは、縫いかけの糸と針が垂れ下がってぷらぷら揺れていた。
映姫はそれを見つめながら頷く。
「だから、あなたたちは変化を起こすため、人間たちの代替わりを模倣した。よからぬ謀を巡らせていた姉を、反対していた妹が放逐して、それから危険と思われる与党を全て粛清した――という政変の物語を作って、演出した」
「ちなみに思いついたのはお姉ちゃんだったと思う。……いや、私の発想だったかしら? 私たちって、どちらが思考や思想の主体だったのか、わからなくなるのよね」
こいしは弱々しく微笑んだ。
「心を読みあって、合わせ鏡みたいになっちゃう。だから私がめちゃめちゃになってもお姉ちゃんの中に私が生きているし、お姉ちゃんがめちゃめちゃになっても私の中にお姉ちゃんは生きている」
なるほど、と映姫は言った。
「互いを保存するためには、どちらかを切り捨てるのも厭わないわけですか」
「私はそこまで割り切れなかったけどね、裁判官さん」
「これで私は全て説明できたかしら?」
小町は、古明地さとりが籠っている菴から、よろよろと這い出した。
いつの間にか橋姫も姿を消していた。ただ葦がさらさらとそよいでいる。
「……頭おかしいのかこいつら」
古明地姉妹が選んだ解決方法は、正気の沙汰ではない。
しかしさとりは、語り終えた後で小町の内心を(綴じられた第三の眼ではなく感覚で)読み、次のように述べた。
「でも、それ以上に正気の沙汰ではない行為を、動物たちはやり続けているではないですか。彼らは自分より優れているかも正しいかも、なにもかもわからない後継者に賭けて、全ての後事を託すでしょう。それよりはずっと上等な手段です」
要するに……と小町は葦原をさまよいながら考えた。一連の簒奪は隠居と継承の儀式だったのだ。保身のために、姉の眼と口を、一針一針縫い合わせて綴じ、川に流す事が。
古明地こいしが狂うのも当たり前だ。ここは地獄だった。
「どうだった?」
岸に戻ると、そう話しかけてきた水蜜たちは、船の上に帆柱を立て、縄索を張り始めていた。
「帰る」
「古明地姉は?」
これは一輪の質問。
「知らないよもう、あんなやつら」
「ふうん。まあいいけど、こっちはもうちょっと時間がかかるんでね。雲山は手先が器用な方じゃないから」
言いながら帆を繕う彼女の手が持つ、長くて太い針が、ひどく不吉なものに見えてしまう。
「……ちょっと散歩してくるよ」
小町がそう言って船から遠ざかり、岸を遡っていった後で、一輪と水蜜がこそこそと言い合った。
「会談は不首尾だったみたいね」
「まあ、なんとなくは予想できていたけど……どうしよ」
「どうしようとは?」
「あれ」
水蜜は小町の背中を指した。
「あれを畜生界の連中に突き出したら、なにか――いや、話がややこしくなるだけね。やめとくか」
「あんたねえ……」
一輪の声には心底の嫌悪があった。水蜜は慌てる。
「いやなにちょっと思いついちゃっただけよ。……あんたは嫌いだろうね、こういう発想は。でも――」
「ちょっと」
踵を返して戻ってきた小町に声をかけられて、二人はどきりとして、跳ねるように振り返った。
「……あんたら、古明地姉妹の動物の取り引きを仲介した事がある、って言ってたよね」
「え、ええ。まあね」
「その取引相手、どんな感じだった?」
「そんなの、もう……普通だよ。ただの商人。お仕事の関係」
真実を語っているだけなのに、後ろめたさから、水蜜はつい余計な事を付け足してしまった。
「……言っとくけどね、私たちだって、自分らが紹介してしまった連中が畜生界に関係していたと知ったのは、随分あとの事よ? そりゃ、あれが、古明地姉妹が疑われる原因になったんだろうな、っていうのはなんとなく察してたけどさ。でも――」
「咎めるつもりはないよ」
小町は明るく言った。
「“過チヲ宥スニ大トスルナク、故ヲ刑スルニ小トスルナシ。”さ。……ありがとう! 正直に言ってくれて!」
そう言って、ふたたび上流に向かってふらふらと歩いていった死神の背中を見ながら、水蜜と一輪はため息をついた。
「……なんか弱みを握られた気がするわ」
「気のせいよ。彼女はそこまでする奴じゃないと思う。あんたと違って」
一輪の慰めはきっぱりとしていたが、さすがに毒があった。
ともかく、この天然自然の景勝を楽しもう。
小町はきっぱりと気分を変えて、河原をほっつき歩いていた。
もはやそれだけが彼女にとっての救いだったが、風景は例によって再帰的で、うんざりとさせられるほど代り映えしなかった。それでも自分が先に進んでいるという実感だけが幾分かましな気分にさせてくれた頃、葦原の岸がようやくごつごつとした洞窟の岩場になっていき、景色が変わった。
「――これはまた」
岩盤に穿たれた壮大な縦穴と、その針先で突いた穴のような光を、ぼんやり見上げた。あまりの高度に、水流も水滴と化して散らばってしまうのだろう、地上の河川から降り注いでくる滝は、もはや雨のような水飛沫だ。
小町は顔を濡らしながら言った。
「あの小さな光が、地上かい?」
と質問した彼女の足元には、橋姫が膝を抱えてうずくまっていて、原っぱから抜いてきたらしい長い葦を一本手の内にもてあそびながら、なにかを待っているようだった。
「……そ。定期的に、便りが流れてくる……一方通行の。私は返事もできない」
「双方向に分かり合えていても、引き裂かれてしまえばつらいばかりさ」
そう言われた橋姫は、眠そうな、じとんとした眼差しを小町へと向ける。
「なに? 遠距離恋愛の話?」
あまりに少女っぽい反応だったので、小町はつい噴き出してしまったが、なるほど自分の発言には、そういう含みも感じられる。
「……こう見えて恋多き女だし、中央から左遷された身なのは否定しないけれど、今はまったく別の話さ」
たしかに、別にかつての恋人の事など考えなかった――あんな破局は単に距離の問題。つのる想いが物理的な隔たりに細まり、引きちぎれたというだけの問題だった。
「わかったわ。古明地姉妹のことを考えていたのね」
それでも、うっかり過去の追憶に耽りかけていると、橋姫が歯を見せて笑う。歯並びが良い。
小町は尋ねた。
「あんたはあの姉妹をどう思う?」
「ばっかみたい」
吐くように言った。
「全部が馬鹿みたいな顛末。ああして眼を閉じたままなのを許してくれているのも、いじけているだけよ――あっ」
と橋姫が高い声を上げたので、小町もそれを見た。雨のような滝の中に、くるくるくる、滑るように落ちてくる円盤がある。藁で編まれたものらしく、ゆっくり、しかし着実に降下してくる。それが着水して流れてくるのを、橋姫は長い葦で引き寄せた。
流し雛だった。
「……それが地上からのお便り?」
「そ。名前も顔も知らない相手だけどね」
そんな由縁もない者からの便りを――便りと言っていいのかもわからないものを、地底生活の心の拠り所にしている様子を見て、小町は目を逸らした。
「憐れまないで」
とも言われたが、小町は憐れんですらいなかった。誰かが拾うとも思っていないものを流し続けている川上の者と、それを拾って便りと思っている川下の者という関係を、ただ面白いと思うだけだ。
「でも、私はそれだけの関係でいいのよ。たとえ分かり合えていたとしても、遠く隔てられた距離の両端では、ただ分かり合えない二人にしかならないでしょ」
「そりゃそうね、そりゃあ……」
言いかけて、考え込むように口に手を当てて、指先で唇をもてあそんだ。
「じゃあ、あんたらはどうして――」
「え?」
「どうしてさとりは、あんたや土蜘蛛を使って、川に藁人形なんか流させたんだい?」
「ああ、それは姉貴の方に頼まれた事じゃないわ。こいしちゃんから伝えがあって――」
みなまで聞かず、小町はくるりと踵を返した。そのまま、確信のある足取りで船へと戻り、革を折りたたんだ道具入れを借りてきて、葦原に行く。足元の編み込まれた葦の目印を辿って、さとりが隠遁している菴に戻ると、ずかずかとその中に踏み込んだ。
「……あら、どうしたんです?」
「ちょっと思うところがあってね。あたいもこんな手術は初めてだけど……」
と、小町は道具入れを地面に広げ、そこから研ぎ澄まされた小刀を取り出しながら言う。それを見て、ついてきていた橋姫や船の二人は、顔を見合わせた。
「やっぱり、あんたはその便利な目を見開き、世界を把握すべきだよ」
古明地こいしは着実に自分の第三の眼の瞼を縫い合わせていったが、一針通すたびに覚悟が必要なのか、世界が昏くなっていく事への不安からか、次第にのろのろした動きになってきた。
「このまま無限のパラドックスが起きて、最後の一針がいつまでも通らなかったらどうしましょう」
と冗談を言ったが、映姫は笑わなかった。
「私にも、ひとつだけわからない事があるのですが――」
「なあに? こっちも、もう半分くらいあんたの心が読めないのよ。ちゃんと言葉にして言って」
「あなたが考えていた事はわかります。あなたがた姉妹の間で共有されていた筋書きは、悪い姉を良き妹が除いた……それだけの事ですが、単純であるだけに、真相は逆だった、という帰結に持ち込むのも容易い」
本当は、善良な姉が、狡猾な妹に陰謀の濡れ衣を着せられて、除かれた。
「そう言いのける事も、じつに簡単でしょう。実際、あなたはそういう事にしようとしている」
「だってそうでしょ。私自身、ここまで色んな子を殺しちゃったんだから。こっちが悪者になった方が話として丸いわ」
「ですが、どうしてさとりさんはあなたの発想に気がつかなかったのでしょう」
「そうね……お姉ちゃん自身の発想だったからかもしれないわ。それも、もしもの懸念としてちらりとよぎった、無意識に近い思いつきだった。――で、その思いつきが私と共有された。でもそれって、自分の思いつきにすぎないでしょ。元々がぼんやりした考えだったから、意識の死角になって、無視しちゃったんじゃない」
そう言ったあとで、震え始めた自分の手を見つめて、映姫の手を取ると、針を持たせた。
「ごめん。私、もう自分じゃ無理よ。このままあなたが最後までやって。私のまぶたを、つらぬいて、そしてもう後戻りできなくさせて」
四季映姫はさすがに眉を吊り上げた。
「後戻りできないと言いますが、そんな事はないでしょう。古明地さとりも同じような仕打ちを受けたのですよ。……彼女は目だけでなく、口まで綴じられた」
「ええ。でもお姉ちゃんは強い人だもの。きっと耐え抜くわ。でも私には無理。私は弱かった、私は狂ってしまう、私は、わたしは……」
こいしはそのまま、衝動的に自分の眼を針で突こうとした。さすがの映姫も、それを力ずくで阻止しようとする。……しかし、そのまま、こいしは映姫の手を取りながら、自分の瞼をふたたび縫い合わせ始めた。
「気にするこたぁないわ。あんたはなにも悪くない。私の罪は私自身のものよ」
だがそう思っていない事は明白だ。映姫が抗おうとしても果たせないほどの力で、こいしは他人の手を借り、着実で、確信ある手つきで針を動かし続ける。
映姫は言った。
「落ち着きなさい、これは罪とか罰とか、そんなものですらありません。これは――」
「あなたが私のお姉ちゃんじゃないのが悪いのよ!」
だしぬけの言葉に、映姫の手からは抗う力が抜けてしまった。
「あんたの考える事がわからない。……お姉ちゃんならわかるかもしれないのに。なんでここにいるのは、お姉ちゃんじゃなくてあんたなの、なんで……」
どうせ古明地さとりがいたとしても、きっとわかってはくれませんよ……と映姫は冷たく思ったが、幸か不幸かその思考が読み取られる事はない。
「……たしかに、私はあなたのお姉さんにはなれません。それでも」
「心が読めなくなれば、誰だってお姉ちゃんよ!」
古明地こいしは、四季映姫の手を借りて、第三の眼を完全に綴じてしまっていた。
縫合糸を切られた古明地さとりのまぶたには、素人の外科仕事のせいで小さな傷がぽつぽつとできていて、目尻には血が滲んでいた。傷も残るかもしれない。
「帰ろう」
小町は言った。
「地霊殿に帰ろう、古明地さとり。あんたら姉妹はなにも分かり合えてない」
言われたさとりは呆然として、小町をはじめとした人々の顔を眺めていた。
「……みなさん、わかってたんですか?」
「最初から仕組まれていたとは思わなかったけれど……あんたが追放されてからのこいしちゃんの評判を聞くに、こうなるんじゃないかなぁ、とは……」
と言ったのは橋姫だ。
「私はあんたら姉妹にそこまで興味ないですから」
「言い方よ」
水蜜の言いを一輪がたしなめたが、その微妙な気分を否定はしなかった。
「むしろあたいは、あんたが思い至らなかった事の方が意外だよ」
小町が呆れ顔で言いながら、ふと誰かの言葉を思い出した。“盤面の隅々まで見えていると信じ、うぬぼれている連中を出し抜くのなんて、あまりにもたやすい”……。
その思考を、傷だらけの眼で読んだのだろう。古明地さとりは不満げに顔を歪めた。
「……こいしは、そんなに?」
「今のあいつは便所鼠より狂ってやがる」
断言した小町だったが、直後にさとりが発した冷ややかな反応には、耳を疑った。
「ふうん」
彼女は化膿した唇から膿をぷっと吐き、言った。
「意外だわ……あの子、そんなに心が弱かったのね。がっかり」
小町は、その言葉に怒りを覚えて手を出しかけてしまったが、それより先に背後から押しのけられて、さとりの膝元につぶされてしまった。
「てめえ今なんつった?」
「あんたそれでもお姉さんなわけ?」
「だいたいそれもこれも、あの子なりにけじめをつけようとして――」
彼女たちの物言いは、小町が言いたかった事を全体的に代弁してくれているので、とりあえず文句はなかったのだが、どうもごちゃごちゃしすぎている。
「……あの子には荷が重かったと、そう言ってるのです」
さとりは、三人が騒いでいるにしては妙にはっきり聞こえるしゃがれ声で言った。
「みなさんの言う通りです。私のせいです。あの子がそこまで弱い子だとわかっていなかった、私の責任です。だから私は帰らなければいけない。今までは、あの子の立場を立てるために、この場所で息を潜め、ひっそりと朝露を飲んで生き延びていれば、それでよかったでしょう。でもそうはいかなくなった」
もう誰も抗議の声を上げていない。
それにしても、と古明地さとりだけが言葉を続けた。
「妹の身を案じてくれている方がたが、こんなにいてくれたとは意外でした。あなたたちが力を貸してくれるなら、きっと事態の収拾は可能でしょう」
……ここは話に乗っかるべき。
と瞬時に判断した小町は、後ろの三人を押しのけるように起き上がると、言った。
「その通り! 彼女たちの力を借りれば、きっと地霊殿への帰還は可能です! 既になんちゃら、色々取り返しがつかなさそうな大事になっていますが、地霊殿の主が――本来の主が戻れば、きっと道はあります! なによりあたいには、四季様からの下命がある! あたいは――いや、あたいたちは! この一身を捧げて、古明地さとりを地霊殿まで送り返しましょう!」
さとりは、開き方が不完全な目と歪んだ口とで、ニヤリと笑った。
背後から返ってきた反応は三者三様。
「はぁー……」
「めんどくさ……」
「聞かなかった事にできないかな、これ」
気持ちとしては大差なかったが、誰にも微妙な負い目があった。
四季映姫は天竺木綿の古カーテンを寝具代わりに体に巻き、部屋の隅で休んでいた。
古明地こいしは地霊殿から立ち去っていた。自分の第三の眼を閉じた後で、ふらふらと歩いて出ていって、それきりだ。
映姫は追わなかった。ただ、悲しそうに目を逸らして、眠った。
起きると、灼熱地獄跡や怨霊の管理がある。地霊殿の取るに足らない職の一つだが、同時にこの施設に特徴的な仕事でもあった。その火焔や怨霊がふわふわ漂っている様を、ぼんやり眺めるだけの仕事をしていると、足元に猫が擦り寄ってきていた。
「あなたは逃げなかったのですか?」
映姫は、この旧地獄の深部に潜ってようやく、この地霊殿の居残りに気がつき、言った。
「そうして、怨霊をいつも見張っていたんですね。ありがとうございます」
礼を言って、彼女は怨霊の監視をこの地獄猫に託し、自分は灼熱地獄跡のゆらめく炎を、瞳から水分が失われるまで見つめるだけの仕事をしていると、その肩に鴉が降り立つ。
「あなたも逃げなかったのですか?」
映姫は驚いたように肩をすくめた。
「そうして、この火焔地獄の火加減をいつも見守っていたんですね。ありがとうございます」
礼を言って、灼熱地獄跡の監視をこの地獄烏に託すと、映姫自身は仕事を失ってしまった。そのあとで見つけた仕事は、地霊殿の内部を掃き清めることだけ。
途中、旧都からやってきた星熊勇儀がこのがらんどうに立った事で、掃除は一旦中断された。
地霊殿のエントランスの高い天井を眺めながら、星熊勇儀は言った。
「昨日、そっちからたくさんの動物が逃げ出してきたのよ。だから、来てみた」
「あなた一人でやってきたのですか」
映姫は、それだけは意外に思って訊いた。相手は、むずがゆいものがあるようにはにかむ。
「いんや、外で待たせているよ。こうして一人で入っていくのだって、周りからうるさく言われたけどね。しかし――こいしちゃんだってひとりぼっちだ。たとえあんたがいようとね」
「彼女はもういませんよ」
「どうして」
「世界を拒絶して、本当にひとりぼっちになっちゃいましたから」
最悪だ、と勇儀はぽつりと呟いた。
「……彼女たちとはけっして良い関係を築けていたと言えないけど、それでも――」
「なので、小町が――私と一緒にやってきたあの死神が、古明地さとりを連れて帰り、彼女にこの混乱を収拾させます」
映姫が確信ありげに言いきった。勇儀は目をぱちくりとさせたが、そこでようやく緊張をわずかに緩ませる。
「そうなればいいんだけどね。……こっちもそれどころじゃない。これから畜生界の連中と戦争よ」
「戦争ですか。是非曲直庁もそちらの方面は常に警戒しておりますし、動きがあるという話も聞き及んではいましたが……しかし本当にそうなるとは」
「あんたらが来たから、こうなったと考える事もできるんだよ」
他人事のように呟いた映姫に対して、勇儀が不機嫌そうに言った。敵意とも言えない微妙な感情をかわして、映姫は微笑んだ。
「北の方角からやってきた私たちが、よくないものを連れてきた、と」
勇儀はその笑顔に当てられてうつむき、また天井を見上げた。
「私はそう思ってはいないけれど、思う者もいる。呼び込んだのが古明地こいしだと思うやつもいるだろう。だからこの地霊殿は直ちに接収するし、君は――」
「よろしい。ならば私が矢面に立って戦いましょう」
「話が早い」
勇儀は思わず笑ってしまったが、すぐに真顔になる。
「……だけど、ひとりぼっちで?」
「私はひとりぼっちじゃありません。私は世界を拒絶していません。なにより小野塚小町という部下がいます――いました。彼女が古明地さとりを連れて帰ってくるまで、時間を稼いでください」
今や古明地こいしの奴隷にまで堕ちている四季映姫は、それでも威厳たっぷり、超然と、きっぱりした態度で言った。
「いいわ」
勇儀もあっさりと同意した。
「こちらの流れに引き込む事ができれば、どうとでも時間稼ぎはできるわ。対陣しても、使者の行き来に口合戦から始まって――」
「私はそういった主義主張には興味ありませんね。しかし……そうですか。考えることができました」
「考えること?」
「ええ、音楽についてです」
勇儀は多くは聞かず、屋敷の外にひしめいていただろう彼女の郎党を地霊殿の中に引き込む。古明地姉妹によって丁寧に残されていた、全ての文書資料が押収されるだろうが、それらはあわれな彼女たちの無実を証明するものでしかない。
その混乱の中で、映姫はひとまず箒を手に取り、鼻歌まじりに屋敷の掃除を再開した。
ひとつかみほどの群れをなした妖精たちは旧地獄の荒野をぶらついていたが、あるとき突発的な砂嵐を避けるために、破れ橋の下に避難した。数日前、奇妙な少女たちがやってきて置いて行った舟がある、あの場所だ。
あのとき、妖精たちは彼女らがたくさんの動物の群れに乗って消えていく後ろ姿をぼんやり見送り、なにか名残り惜しいものを感じつつ、その場から解散した。こうした集合離散は妖精たちの常で、なにか核になる存在が出現すれば、それにぞろぞろ付き従っていく。そういう、習性と言っていいものがあった。集団の核になる要素は様々だが、ざっくりと言ってしまえば、個人が漂わせる不思議な魅力というものに、全ては換言できる。
そこから数日、この荒涼とした土地に生きる妖精たちにとって、退屈な時間が過ぎた――もっとも、面白くない時間は百年以上も続く場合だってよくある。その間、適当に時間を潰す遊びくらいは知っていたが、自分たちで何かを起こす才能というものだけは、どうにも欠けていた。妖精たちは何かを待ち続けているが、何を待ち望んでいるのかまでは、さっぱりわかっていなかったのだ。
ともかく、数日後には、また別の面白そうなものが出現したのだから、旧地獄も風雲急を告げていると言えた。
「ここに来るまでの道は、平坦なようにも、急坂のようにも思えた。……そして海の唸りまで聞こえる――きっとここは海岸の断崖の上だわ!」
全身に野花を纏ってやってきた少女が、そうわめいたあとに身を投げるように飛び込んできて、ぐわんぐわんと舟を揺らしたが、やがて少女はひょっこりと起き上がり、言った。
「……不思議ね。私は死んでいない」
そうして今頃気がついたかのように、あたりにいる妖精の群れを見回した。
「……そうか。考えてみれば、私の瞳は三つとも塞がれていたわけではなかった。普段使っていなかった、動物的な二つの目の方を使えばいいのか」
独り言を呟いて、独りよがりに人懐こく笑う。妖精たちは恐れと興味深さを同時におぼえたように、首をすくめた。
「でも心配ね。開いている方の目が、閉じた方の目を嘲笑わなければいいのだけれど」
彼女はそのまま暫く黙り込む。やがて妖精たちも、この奇妙な闖入者を、頭の調子はおかしいが(誰がどう見たっておかしい)害はない、調律が狂ったぼろぼろの管楽器みたいな存在だと思うようになった。ちょっと気を遣いはするけれど、別にここにいてもいい。
やがて妖精たちも少女を気にすることなく動き始めて、舟底に酒を見つけたので、勝手に開けた。
あっという間になくなってしまった。砂嵐はまだ収まりそうにない。
誰か一匹がまだまだ舟底を漁っていて、おもちゃになりそうなものを見つけた。小町が全部は持っていけないと残しておいた、化粧道具入れだ。白粉、赤土や瑠璃の粉、孔雀の羽――その中に、臙脂の口紅を見つけて、自らの口に塗ってみる。妖精には少々大人っぽすぎる色だが、その大人な感じがよかった。数日前にこの舟に乗ってやってきた、まだ成熟しきっていない、ひょろりとすぐに折れてしまいそうな葦のような少女たちは、それなのに奇妙に大人っぽかったからだ――おそらく化粧だけでなく、礼に倣った立ち姿のせいもあるのだろうが。
妖精たちの中には、そういう少女的で、かつ微妙に大人的なものに憧れる者もあった。
そうして、口紅が妖精から妖精へと回されてあっという間に消費されてしまっていくのを、気が狂っている少女は眺めていたが、最後に自分にそれが回されてきたのを見て、意外そうにした。
「……私の手は、この赤よりも血に染まっているのよ」
妖精たちには知ったこっちゃない。
少女は渋々と口紅を受け取ったが、そのぬらぬらとした赤を見て、ぼそりと言った。
「私たちのぶよぶよの目ん玉に蹴りを喰らわせた奴らだけは、許しておけないわ」
そう言うと、立ち上がり、舟から降りる。
砂嵐は止んでいた。
少女は――古明地こいしは歩き始めた。歩きながらなにか、ぶつぶつと歌をやっていた。妖精たちはそれに惹かれて、ついていく。いつの間にか最初の群れだけでなく、偶然行き合った他の者たちもつられるように、集団は雪だるま式にふくれあがっていた。
こいし自身は、そんな事には気がついていない。
「“うらぶれた道を、
恐れ戦きながら歩み、
一度は振り返るも、
二度目は無理だった。
なぜかっていうと、ぞっとするような友が、
迫っていたからね”」
そう言って突然振り返ったので、着いてきた妖精たちはびくりと体を震わせた。こいしの焦点の合わない眼差しは、彼らの顔をひとつひとつ値踏みするようだった。
やがて言う。
「さとりを探して」
それにしても、この土地はそこまで魅力的なものなのだろうか。
吉弔八千慧は、殺風景な湿原に行軍の足を取られて難渋したここまでを、ぼんやり思い返している。
「古明地のなんとかなんて、あのまま外圧かけて操り人形にしておけばそれでよかったのに。もったいないのよ」
そうぼやいた饕餮尤魔は、無造作に駒を動かした。
二人は砂丘の上に卓を設けて盤を開き、将棋をやっている。ちょっと前まで湿地帯かと思えば、小川ひとつ隔てるとからからに乾いた大地とは、むちゃくちゃな風土だ。
「……こっちとしても、一番のノロマに足並み揃えてやる義理はないっての」
「だけれども、軍事行動っていうのはそういうものでしょう……あのやくざ者ども」
八千慧も理解のある物言いをしつつ、弁護までするつもりはない。
「結局、畜生界でちまちま抗争してるだけが能の奴らなんですよね。大軍を動かすとなると――」
と言いかけたとき、ようやく一隊が旧地獄の焼けた砂煙とともに追いついてきて、その長が砂丘を駆けあがってくる。
「驪駒早鬼! ただいま着陣!」
「……うるせえ」
「ま、ちょっとは期待できる奴がやってきましたね。先駈けとして」
「鉄砲玉の間違いでしょ」
「ともかく、ケツの詰まりはどうなっているんですか驪駒よ」
「腐った沼みたいに止まっているわ。……河水の風土病で倒れた奴らなんか、後詰めに任せて置いていけばいいのにな」
「そんな判断ができるのは、この寄り合い所帯でもあんただけしょうね」
八千慧は責めるように言いつつも、この場合は早鬼の判断が正しいような気がしている。内部勢力間でもくだらない調略は横行していて、病を得て脱落した早鬼の配下が別勢力に買収されている可能性は高いが、彼女はそんな連中を迷わず切り捨て、構わず前進していた。
もはや進むしかない状況なのだ――それも早急に。
「なのになんですか、この歩みの遅さは」
「知らねえよ、私だって聞きてえよ」
言いながら、尤魔が盤上の駒を進めた。このように彼女がぶっきらぼうに言いながら指した時は、なにか読みがある時だ。そういう女だった。
だが、その思慮も盤面止まりだ。
早鬼が二人に背を向けて、丘の向こうに遠く目を細めた。
「……見なよ。もう、旧都が望めるわ」
「知っています」
「だから早く来いってんのよノロマ野郎ども」
現実に反して、将棋の方は早指し気味の流れだ。
「こっちはもう本隊を無視して、勝手に使者でも送ろうかと考えてるよ」
「……メンツだけは大事のからっぽどもが黙っちゃいないよ」
「うるせえ」
「知らねえ」
八千慧と尤魔は息ぴったりに言い返した。
「今から使者を送るとしても遅いんですよ。送ったところで、たとえば向こうが五日間饗応してくれたら、こっちも同じ日数、今度はあちらからの使者を招いて、饗応し返さなきゃいけません。都合十日間は時間稼ぎされる……まああくまで礼儀の事ですし、そこで打つ手もありますが、クソボケアホバカどもがそんな芸当考えているはずもなし」
「それと、うちらに配られるはずの日極めの給料が停滞してから、何日目?」
「……三日目」
「でしょ。いればいるほどやる意味のない喧嘩になるって寸法ですよ。畜生界で戦ってきただけのやくざどもには、それすらわからないでしょうが」
「八千慧だってここまでの戦争はした事ないだろ」
「それでも頭の中で」
言われた八千慧は、自分のこめかみのあたりを指先でこつこつ叩いて言った。
「想定できることはたくさんあります。――ああ、なんで連中こんなに遅いの? 老いぼれすぎて、盲いた、肝臓に寄生虫を抱えた、腐りかけの、亀!……じゃあるまいし」
文節をことさら強調して芝居がかったふうに言ったあとで、八千慧は早鬼の表情をじっと見つめた。
「なに青鯖みてえに浮かねえ顔してるんですか驪駒よ」
「いや、感心している顔よ」
早鬼はそう言うと、ちょっとの間をおいて、ぷっと噴き出した。
「……あんたらももうちょいちんたらしていたら、いいものが見られたんだけどね。ありゃ痛快だったわ」
と言うのは、後方でようやく渡河にかかろうとした本隊の陣中に駆け込んで詫びを入れにやってきた、土蜘蛛の話だった。
「そいつが言うには、川の上流に追放された古明地の姉だか妹だかが潜んでいて、そこに住んでる土蜘蛛どもを頼りに挙兵したらしいんだけど、なんか色々あったみたいでね。こっちとよしみを結びたくなる事情ができたみたい。……で、それはいいとして、そいつがすさまじい勢いで本陣までやってきて、頭を下げて、誰も状況を把握できずにぽかんとしている間に、そんなわけで自分は勢力の維持で手一杯だから、旧都侵攻にも加われないしこっちに兵を遣ったら殺すとかなんとかいって、またすさまじい勢いで帰っていったのが、なんだか面白くって。土下座に来て謝罪風の威嚇をして帰っていっただけと言っちゃえばそれまでだけど、臆病者のまっ白けの肝臓持ちにはできない芸当だよ、あれは」
話を聞いたあとには、八千慧も尤魔も盤面上の戦いには興味を失っていた。やがて八千慧が盤を蹴飛ばし、ばらばらと散らばった駒が砂の中に埋もれていく。
「笑とる場合かーっ!」
「あーあ……ま、驪駒も来てくれた事だし、もう一人誰か来たら麻雀でもやるか。――ねえ吉弔よ、癇癪起こしたところでどうにもならないって。とりあえず使者はこっちで勝手に送ろう」
話題の土蜘蛛が自分の領地に戻ったとき、古明地さとりが潜んでいた葦原は、橋姫の付け火によって、もうすっかり焼け野原になってしまっていた。
「……さとりは?」
「わからない」
そう答えたのは、煙がまだ燻ぶる川端でぼんやりしている橋姫だ。
「焼け死んだかもしれないし、船に乗って逃げおおせたかもしれない。あなたにはわからない」
「うわ……私ってさとりちゃんから信用されてないのかなぁ」
「そういう方針でしょ。各々が、自分勝手に、考えついた通りの事をやる。逆に信用されているのよ」
「そういうものかねぇ。……ところであんた」
「うん?」
「今なら地上に出て行ったって、誰も気にしやしないよ。こんな土地、うんざりなんでしょ」
土蜘蛛にそう言われて、橋姫は高く遠くにある地上の光を仰ぎ見た。あの光はいかにも羨ましいものに見えるが、取り戻したところでやはり不満に思うこともあるだろう。彼女にも、自分の愚痴っぽさはわかっている。
そして、笑って言った。
「……ま、一連の顛末がどうなるか、気になるからね」
同じ頃、駆けるように川を下っていく船が、渡河中の畜生界の軍勢の目の前を、まっすぐに突っ切っていった。
「あーあ、なんでこんな事になっちゃったかなぁ!」
村紗水蜜はぼやきながら急流の中で一本くっきり筋を残している航跡を振り返り、苦々しく言った。
「私、古明地姉妹に与する義理なんて全然なかったよね!」
「どうかしら」
雲居一輪は意外に素っ気ない様子で言った。
「少なくとも、利敵する意味はもっと無いと思うわ」
「そこまでご贔屓にされてたわけでもないのになぁ」
「……でも、古明地さんちのこいしちゃんは、あんたを信じたんでしょ」
「どうなんでしょう。たしかに、急に使いのペットがやってきてあの温泉に呼ばれて、例の湧泉のある場所で数日くらい待っていてくれとは頼まれたけど……でも、あの死神さんはあまりに薄い線を辿って、古明地さとりを探しにやってきたわけじゃん。一から十までむちゃくちゃよ」
「どんなにむちゃくちゃに見えても、こいしちゃんは私たちに何かを感じて、それを信じたのよ」
「私にはわかんないよ。……全て仕組まれていたのか、ただ偶然の巡り合わせか。正気の中で出てきた計画か、あるいはただ狂っていただけなのか」
追われつつあることも忘れ、ぼんやり呟いた水蜜だったが、急に、身を取り巻く情勢に気がついたかのように、かぶりを振った。
「なにもわからない」
「……それにしても、こう一本の跡しか残せないのは、目くらましの陽動としては効率が悪いわ。船を捨てましょう」
「船を捨てる?」
考えもしていなかった発想で殴り込んできた一輪に、水蜜は信じられないものを見る顔になった。
「ええ。ただ船に乗って逃げ回るより、このあたりの沼沢に古明地さとりが潜んだという偽情報を流しながら転戦すれば、より効果的に混乱させられるわ」
「言うだけ簡単ですね……」
「それに、この手の攪乱にはうってつけの人材がいるじゃない」
「……あの、自称鵺のえせ者ですか」
彼女たち共通の知人だった。
「そう言ってやらないでよ。気位が高いようで、意外に安いやつだったよ」
「あいつ、そう見せてるつもりか知らないですけど、私の顔を使っているみたいで気色悪いんですよ」
「気に入られているのよ。私は、あんたが奴に気に入られているという直感を信じて頼る」
そう言った一輪の顔をじっと見据えて、水蜜はため息をついた。
「……今すぐ降りて、このあたりに潜伏していてください。私は最後までこの船を利用してやりたいから、やる事が残ってる」
「りょーかい! 行くよ! 雲山!」
一輪は即決で船の舷側から身を投げ出すと、そのまま相棒の大きく柔らかな手の内に収まって、消えた。
水蜜はそれを見送って、それより少し先にある開けた河水まで至ると、ここでよかろうと返し付きの巨大な鈎針に縄索をくくりつけて、するする下ろした。
「……船を捨てるなんてだめな船長でごめんね」
帆柱を撫でながらぽつりと呟いた後で、自分自身も錨を担ぎ、そして東に伏し拝み、西を向いて念仏を――とやりかけたが、信心はしていても経をよく覚えているたちでもなかったので、とりあえずふと思い浮かんだ
「……“妙法蓮華経薬王菩薩品、如子得母如渡得船”」
とだけ唱えて、身を投げた。
水の中は澱んでいて、深い。そのまま船から垂らしている縄索に従って潜っていき、水上のぼんやりとした光すらも届かなくなったところで、担いだ錨を手に取った。
そのまま川底に生息する巨大な古代魚を、出会い頭に錨でぶん殴って気絶させると、その鰓に鈎針を引っかけた。ついで、活を入れてやって下流へ追い立てると、主を失った幽霊船は、すさまじい速さで曳かれて、海へと下っていった。
もっとも重要な二人が、もっとものろまな二人だった。
「……すみませんね。私が衰弱していないなら、もう少しましな速さだったでしょうに」
さとりは、あの葦屋での隠棲の中ですっかり脚を萎えさせてしまっていた。じき治るものだろうが、当面は小町が背負うしかない。
「いいさ、これくらい苦労しなきゃ。他の、巻き込んじゃったみんなに悪いくらいだもの」
小町はそう言いつつ、この背中の人物の驚くような軽さを感じていた。
「……この旧地獄にやってきた最初の頃、こうやってこいしをおんぶした事がありますよ」
さとりが耳元で語り始めた思い出話は、笑い話のつもりらしい。口調でわかる。
「私たちは是非曲直庁の方々から資料を引き継いでいましたが、それでも灼熱地獄跡の調査をしなければいけませんでした。それで、ある死火山に登っていたとき、あの子はうっかり火口に転げ落ちちゃった」
小町の耳元で鳴る笑い声は、古明地こいしの鈴の鳴るような声音より、いささかがらがらとしていた。
「別にぶきっちょな子ではないんだけど、どこかぼんやりしているところがあったのよね。……ぼんやり? 違うわ。夢想的というか、夢見がちというか……」
「あたいもそういうところあるから、気持ちはわかるよ」
ただひたすら、左右が切り立った薄暗い洞窟を歩いて、下流へと向かっている。村紗水蜜と雲居一輪が下っていったものとは違う川の支流を辿っているのだ。あの荒野の何も無さも大概だが、こちらのじめついた感じもひどい。
「それにしても、ここはとんでもない土地だね。あたしゃもううんざりだよ」
「本当に。畜生界の方々も、どうしてこんな場所に惹かれたのやら」
そう笑って、言葉を続けた。
「反対に、こんな世界は捨ててこちらから畜生界に攻め込んでやればよかったのでしょうか」
小町はそういう話を聞きながら、歩き続ける。歩くというよりは、前に倒れ続けているような調子だ。それでも倒れはしない。
「……でも、この土地に生きている方々のこと、私はけっこう好きなんですよね」
いつの間にか傍らについてきてくれている妖精たちが、ぼろぼろにすりきれた小町の服の裾を引っ張り、支えながら、彼女たちを導き始めた。
やがて後方で積み重なっていく問題を報告に聞くたび、吉弔八千慧はそのいらだちを募らせるばかりだった。
「周辺の諸勢力は一向に帰参しないし、逆に嫌がらせばっかり喰らってるじゃないですか……誰ですか、旧都と微妙な距離感にある連中も少なくない、なんて言った奴ら……」
「……ま、話に聞くだけと実際に見るのとじゃ、そりゃ事情が違うわ」
驪駒早鬼も、さすがに普段の単純明快さをやや翳らせている。
互いの陣地の外れに、一本だけぽつんと立っている節くれだった枯れ木があった。ふたりはその下にしゃがみ込んで、ぼそぼそと愚痴をやっているのだ。
「文句があるなら、あんた自身でもっと外交をして、内情を探っていりゃよかったのよ」
「ですが、私には古明地姉妹を陥れる心算がありました。表立って外交官になんてなれませんよ」
「そこよ。あんたほんとえっぐい事したよねえ」
「たしかに旧都勢力は強大ですが、旧地獄内の周辺勢力との連携が無ければ砂上の楼閣ですよ。地霊殿の切り崩しは当然の策でした」
「当然なんて言葉、詭道ばかり用いるやつは使っちゃいけないんだわ」
言いながら、こいつにだけは絶対に心を開くのはやめよう、とこっそり思う早鬼であった。
と、そこに饕餮尤魔が、配下を引き連れて通りかかった。
「……おー? お前ら連れションでもしてんの?」
「違わいっ!」
「そう面白く反応しちゃうからいじられるんじゃないかい吉弔……」
早鬼が呆れ顔で言うが、尤魔はまあまあ上機嫌の様子で言葉を続けた。
「ともかく使者は送ったよ。向こうさんも自陣営の意見を統一しきれていないっぽいね」
「なんでわかんのよ」
「そういう空気は、場数を踏まなきゃ読めないでしょうね、驪駒」
八千慧が、砂煙かも霧かもわからない旧都の向こうを透かし見ながら言った。
「場の雰囲気を読むのは、畜生界でやっていくには大切な技能の一つですよ」
「力こそ正義だのといきがっているくせして、結局大事なのは、それよ」
と、尤魔も早鬼に教えを説く。
「むしろ獣の論理であればこそ、そうよ。陣営が強大だろうがなんだろうが、ちょっとでも均衡を崩せば袋叩きにされるんだものね……それだけは覚えておいた方がいいよ」
「……で、どうするのよここから」
「そこ。自分らさ、なんか三人でできて、いい感じに賭けが盛り上がる遊び知らないかな? 最初は麻雀のつもりだったんだけどね、驪駒のあとが一向に来る気配なしだもん」
尤魔の口調は大真面目だった。
「各勢力の首領による対抗賭け麻雀大会を開催して、みんなの懐から金を吸い上げて給料に充てる計画だったのに」
「社会だなぁ」
「あんたそのうち見放されるよ」
「そこは愛嬌でどうにかするさ」
尤魔はにっかりと笑う。たしかに、愛嬌だけが彼女たちの武器になりつつあった。
「はっ! 結局、最後は個人の資質がものを言うのですよね驪駒――待て、あれはなんです?」
八千慧が指したのは、旧地獄の荒野を、よろよろと行く集団だった。旗印も無く、当然、遅れに遅れている遠征軍の一部隊でもない。よろよろと陣形も無く歩みは遅いが、旧都へまっすぐ進んでいた。
「妖精の群れね」
「戦争となれば流民のたぐいが現れるのは奇妙ではないけれど――」
早鬼と尤魔が言う横で、八千慧は一人自陣に駆け戻っていた。
「……吉弔?」
「兵を出します! あれだけは旧都入りを止めなければいけません! 止めなければ――」
「待ちなよ、こっちは使者を送ったばかりだよ! こんな時に交戦なんかしたら……」
「あんたとこの使者なんざ、勝手に死なせておけばよろしい!」
八千慧はきっぱり言った。
「どうせのらくら躱される戦時交渉です。決裂した方が、向こうの時間稼ぎの選択肢も狭められる! 使者の命なんて捨ておきなさい!」
「まあ……そうだな」
「こればかりは吉弔が正しいよ。だって――」
早鬼もまた、自慢の精鋭を繰り出しつつあった。
「あれは古明地さとりだ!」
歩き続けているうちに、自分たちが妖精たちの大集団の先頭に立って旧都へと導かれている事に、小町とさとりは気がついていた。
「いつの間に手懐けたっけ、こんな連中……」
と首を傾げながら、その一匹の顔を見た。彼らの唇には、酸化鉄――弁柄らしき赤茶けた顔料が、不器用に塗りたくられている。
「……ま、なんでもいいや。ようやく、あそこに旧都が」
「そしてあちらもなにやらざわついております」
さとりは小町の背で首をひねり、言った。
「……ああ、ここは戦場のど真ん中なのですね」
と言ったさとりの声は、案外泰然としていた。
「ふふ、今頃気がついたのかい」
「いいえ。ずっと前から気がついていたのに、うっかり目を逸らし耳を塞いでいました」
「手遅れになる前に受け入れられたようでよかった」
二人は妖精たちを引き連れ、歩き続ける。それでも畜生界の陣地から追手が出撃すれば、やがては追いついてしまうだろう。
「……ねえ、死神さん」
「わかってるよ」
さとりに声をかけられて、小町はさすがにいらいらと言葉を返した。
「それでも歩かなきゃいけないよ。あたいはあんたを地霊殿に帰さなきゃいけないんだ。四季様にそう命令されて――」
「いえ、違うんです」
意固地に前だけを向いて進み続けていた小町も、さすがにはっと振り返った。
「追手は来ません……」
さとりは、目が見える者なら誰にでもわかる事を言った。たしかに、小町やさとり目がけて駆けてこようとしていた追手は、旧都からやってきた、ただ一人の少女を前にして、進撃を止めていた。
「……行きましょう」
魅せられたように立ち止まっていたのは短い間だっただろうが、今ではその寸秒も惜しい。
やがて小野塚小町と古明地さとり(そして何千もの妖精たち)が旧都の郊外に敷かれた陣地からの出迎えと合流したとき、身一つで相手方の追跡に立ちはだかり阻止したのが何者だったのか、ようやく判明する。
四季映姫だった。
「古明地こいしから言伝があります!」
八千慧も早鬼も尤魔も、目の前のみすぼらしい姿の少女など蹴倒し、踏み潰して行ってしまえばよかったのかもしれないが、不思議とそうはできなかった。
「なに?」
と言いながら、早鬼はその身なりをじろりと値踏みした。ぼろきれのような衣服に、饐えた匂い。
「使者の割には物乞いのような見た目ね」
「この程度の使者でよろしいという、こいし様の思し召しでしょうね」
「あんた、この場で殺されても文句は言えねえぞ」
「ふふふ、味方の使者の命さえころりと切り捨てられる方々にそんな事を言われても、かえって緊張感がありません」
その笑顔には心底からの感情が乗っている気がして、早鬼は内心恥じ入ってしまった。
「……使者だというなら」
と言ったのは八千慧だ。いつも通り、なだめすかすようなあの声音。
「どういった用事ですか? 言伝と聞きましたが、こちらは饗応の準備もまだできていません。それに――」
「古明地姉妹は旧都と和解しました。――見なさい。古明地さとりを旧都の軍勢が出迎えているでしょう。地霊殿は旧都と共に戦います。旧地獄はあなた方を絶対に受け入れようとはしないでしょう」
言葉は乱暴な拒絶ではなく、静かに、落ち着いた調子で述べられた。それだけに八千慧は鼻の奥に酸いものを感じながら相手に詰め寄りかけたが、同時に相手の臭気の原因にも気がつく。
「――失礼」
八千慧はしゃがみ込んだが、うっかり跪いたりして、上下関係をはっきりさせる礼の形にならないようにだけは、気をつけている。
使者の膝から下は爛れて擦り剝け、鬱血して黒くなり、どろどろとした膿も赤黒くなっていた。
「今の私は死人も同然です」
相手が言うのにも構わず、八千慧はその傷が本物である事を確かめるために、もっと鼻を近づけて、舌を伸ばして傷口を舐めた。
「……すみません、無礼な事をしました。さすがに謝りますよ」
と立ち上がり、膿まじりの唾を吐きながら言うしかない。
「たしかにあなたは使者だ。同時にほとんど死者でもある」
「なので私を害しても、なにも意味はありません」
「言うてる間に、古明地さとりには追いつけなくなったよ。これ以上は意味のない戦闘だ」
二人のやりとりのはたで尤魔が言った。内心、ほっとしている。自陣から出した使者を見殺しにしたとあっては、たとえ理に適った行動だろうと外聞が悪い。自分たちに鉄の統制など無く、その程度の気分しか持てない集まりでしかないのは、よくわかっていた。
「こいつは死士だ。死士を討ったってなんの足しにもなりゃしない。戻って本隊の到着を待とう……あんたは帰りな」
という声音には、労わりと畏敬すらあった。
「それもいいでしょう。ですが、そうですね……」
使者は――四季映姫は、三人の顔を順に見比べた。
「ちょうど四人いる事ですし、麻雀でもやってから帰りましょうか……なにも賭けませんからね?」
旧都の最前線と合流を果たした小町とさとりは、真っ先に護送されていた。
「まるで、罪人を送るみたいだね」
「みたいじゃありません。周囲も警戒半分ですよ。私たちはまだ、なにも許されていません」
さとりはため息をついて言った。
「……結局、私たちはそういう扱いなんですよね。旧都の皆さんと、わかり合えるわけがない。首を斬られるかもしれない」
「あんたはうじうじしすぎだね」
小町はおしとやかに笑った。
「心を読む力を、あんたは他者を疑うために使っていて、妹さんは信じるために使っていたようだ」
「あの子の信じ方はちょっと放埓すぎます」
「たしかにね。あたいもそう思う」
小町はおしとやかに笑い続ける。
「でも、おかげであたいはあんたを見つけ出す事ができた……どうだい?」
「あの子がむちゃくちゃすぎるだけですね。……こいしはみんなを信じていたとあなたは言いますが、だとしても、それは捨て鉢な信頼だったと思いますよ」
「だろうね。あんな回りくどい謎かけをしやがったんだ。手掛かりが伝わらず、旧地獄がばらばらになって滅んでも、それはそれで構わんと思ってただろうさ……でも、だからこそ、あたいはこの世界の団結を信じるようになったよ。そういう効能だけはたしかにあった」
「複雑な子です、本当に複雑な子です。それを信じた閻魔様も、あなたも、おかしい」
「だけどこいしちゃんは、あたいが四季様を信じると信じたし、四季様があたいを信じると信じた。……その結びつきは、あんた個人で完結していた思い込みよりも強いんじゃないかな」
さとりは困ったように笑いながら、ふと、考え深げに傷だらけの眼を細めた。
「……どのみち、私たちと旧都との関係を、今一度はっきりさせなければならない事だけは確かです」
「ちょうど邪魔をする身内も無しだよ。あんたの妹がみんな排除してくれた」
「それはまたお優しい嫌味ですね」
旧都の中枢に辿り着いて星熊勇儀の前にお目通りした時、さとりは足に力が入らなかったが、問題は無かった。顔を伏せ、膝行する形で勇儀の足元まで行く。臣従の礼だった。
そののろのろとした進みを待ちながら、勇儀が、ちらと小町の方を見た。そんな相手を、小町自身どんな表情で見つめ返したか、よくわかっていない。
「……私たちは、互いにすれ違う事が多かった」
さとりが申し訳を述べ立てる前に、勇儀はあの妙によく通る声で言った。それだけで既に異例の事が起きていたが、さらにそこで身を屈め、さとりと目線を合わせて言った。
「でも、旧都と地霊殿の関係は、まだ破綻していないと思う。あなたが抵抗を続けながらここまで戻ってきた事は知っているわ」
「……あなた以外に旧都を治められる者はいません。ここ数百年の仕事ぶりには尊敬していました」
さとりは顔を上げて率直に言っていた。勇儀もそれに対応して言う。
「あなた以外に灼熱地獄跡を管理できる者もいない。現在地霊殿を接収している状況は、非常措置にすぎないわ」
そのやりとりで、彼女たちの対等な互助関係が決定した。
結局のところ、それは星熊勇儀と古明地さとりの、善意と信任によってのみ担保されている関係にすぎない。
だが、当人らはその事もきちんと認識していた。
「それが認識できている間は、私たちは共に立っていられます」
「素晴らしい事だと思うね」
一時的に旧都によって接収されていた地霊殿の、事務的な返還作業が終わった後で、さとりと勇儀は言った。
「……とはいえ、様々な事が思いもよらないふうに進んでいるみたいですね。この際、政治機能の一部を上の階層に移す事には私も賛成です。しかし遷都だけは絶対にしてはいけません。ここが以前の主――是非曲直庁から受け継がれた、正統性のある土地である限り、私たちはこの地で戦うべきです」
「相変わらず話が早くて助かるよ……」
様々な者の心を器用に読み比べたさとりは、とりあえず一人一人の情報の共有を始めていた。
「――四季様がぁ?」
最も驚いたのは小野塚小町だった。
「そうです。あなたの上司の四季映姫・ヤマザナドゥは、今や私の妹の奴隷となって、四季映姫・ヤマザナドゥのヤマザナドゥ抜きです」
「洒落てる場合じゃないよ」
小町は勢い言ってどこかへと足が向かいかけたが、どこに向かうつもりなのか。反射的な行動でしかなかった。
「……それにしても、こいしはやはり、そのようになってしまいましたか」
「あのエンマサマに聞いただけだけれどもね。でも本当らしいな。地霊殿をどう捜索しても、見つからなかったんだからね」
「大丈夫かしらこいしは……もともと聡いけれど、そのへんの小石にも蹴躓くようなうっかり屋なんですよ。第三の眼を閉じた今となっては――」
「“私にはもう道なんてなくて、したがって瞳も必要ない。見えていた時の方が躓いていた”」
聞き覚えのある、鈴のような声音がどこからか聞こえて、さとりも、勇儀も――小町でさえ、はっと顔を見合わせた。
「“よくあることだけれども”」
半荘が終わったところで、八千慧も、早鬼も、尤魔も、次の局を始める気分は失せていた。
別に、映姫が目覚ましく麻雀が強かったというわけではない。この奇妙な相手は、ただ着実に打ち、ときには思いきった切り方をしていただけだ。その思いきりのよさにしても、別に博徒的な大勝ちを期したものではない。小さく勝つために大胆な選択さえできた。それだけの着実な積み重ねで最終的に大勝ちしていた映姫に、他の三人は当惑していた。
「――では、私は帰らせていただきますね」
「待てよ」
卓から立とうとする映姫を呼び止めたのは、尤魔だった。
「今、最後に言った言葉はどういうつもりだい……」
「……そうですね。意図は説明しておきましょうか。そちらの方が卑怯ではありませんし」
卑怯、という言葉を聞いて、八千慧がこっそり嫌な顔をする。
映姫は腐った脚を引きずり、よろよろと卓の周囲を回りつつ言った。
「先ほどの提案は、あなた方が古明地姉妹を陥れたやり方の、完全な意趣返しです。……しかし、あなた方三人にもたしかに利はある」
早鬼が、伏せていた眉をぴくりと動かした。
「あなたたちは、畜生界の軍勢の中でも特に統率が取れ、戦慣れしている。行軍のなめらかさ、陣の敷き方、竈や用水の様子を見るだけでも、それは明らかですね――ですので私は提案しました。畜生界は、現在のこまごましすぎる群雄割拠では、少々目が細かすぎます。あなた方三者が特に並び立ち、鼎立すべきです」
「……それが悪魔のささやきのつもりかい」
八千慧は鼻で笑いながら言った。
「乗らないよ。そんな外交戦術――」
「そうでしょうね。では」
映姫は刻々と悪くなっていく脚を引きずりながら、三人の陣地から出ていき、旧都へと戻っていった。
「……殺しておくべきだったかな?」
「麻雀で負けた腹いせにですか?」
力なく苦笑いしたのは、八千慧だった。
「無理ですよ。情けなさすぎるわ」
「しかし、嫌なことを言ってきたねあいつは。こんな戦中に」
「“万歳”、 饕餮尤魔! 畜生界の東の主よ」
「ああいうそそのかしは、気にしないが吉ですよ」
「“万歳” 、吉弔八千慧! 畜生界の南の主よ」
「少なくとも、この戦役を終わらせてから考える話ね」
「“万歳”、 驪駒早鬼! 畜生界の西の主よ」
当の三人だけは気がついていなかったが、彼女たちの周囲の者には、奇妙な予言めいた少女の声が、なんとなく無意識の中に刷り込まれていた。
「“あなたの勇気の栓を、いっぱいまでひねるのよ”!」
さとりは返還された地霊殿に戻り、そのエントランスのがらんとした雰囲気を見て、少し寂しそうに笑った。その様子を見て、小町はどう慰めたものか迷いながら言った。
「旧都に逃げた動物たちは、もう帰ってくる気はないみたいだね」
「おぞましい事件が起きた場所ではありますからね。――あっ」
と、奥から飛んでやってきた鴉と猫にじゃれつかれて、すってんころりと倒れてしまった。
「あなたたちは残っていたのですね!」
と言いつつ、それでもペットたちの喜びを体で受け止めた。
「……主従の感動的な再会かい」
小町の言葉には、嫉妬ではないにせよ羨望のようなものが漂っていた。四季映姫が敵陣に出向き、なにがしかの交渉を行っているという事までは知っていた。
数時間後、映姫がそのまま麻雀対決にまで勝利し、悠然と帰ってきたという事までは、まだ知らない。知ったのは、そのまま彼女が地霊殿に送られて、さらに何千という妖精たちを引き連れてきた末の事だった。
「……かなり、ぼろっかすみたいっすね」
「お互い様ですがね」
小町と映姫は、数日振りの再会にお互いの変わりようを見ていた。そういえば、小町自身もお世辞にもましな見た目とは言えない。
「その足の傷はなんすか」
「経過が悪いのです。きっと、今から行おうとしている事が、悪業となってふりかかっているのでしょう」
「行おうとしている事ですか」
小町は、映姫から漂う腐った膿の臭いに、無遠慮にも鼻をつまみながら尋ねた。
「ええ。戦争です」
「戦争!」
「是非曲直庁の歴史を顧みても久方ぶりの戦争です――もっとも、記録には残らないでしょう。今の私は官位など失っていて、古明地こいしに拾われたただの奴隷にすぎませんから」
「それでいいんですか?」
「そうでなければいけない……まあ、非常時のための身の証しも持っていますよ」
映姫はそう言うと、ぼろ着の襟裏をめくり、そこに縫い込まれた小さな徽章を見せた。
「……ですが、これにしたって最後の最後でしか使えない非常措置です。こんな身分の者が向こうに捕らえられれば、どうなってしまうでしょう」
「死にはしないでしょうけれど、政治的おもちゃでしょうね」
「そういった誹りを受けるのは私だけでいい」
映姫は小町の顔を見て言った。
「ですから小町、あなたはここにいなくてもいい。私がどうなったかを伝える者は必要かもしれませんが――」
「“我ただひとり逃れ、汝に告げんとて来れり”!」
背後のロッキングチェアが不自然にギコギコと動いたが、映姫と小町は構わず話を続けた。
「あなたは地獄の吏員にすぎないのです。こんな戦争に関わらなくてもいい」
「あたいはあなたと一緒にいます」
小町はきっぱり言った。
「たしかに、あたいは是非曲直庁の木っ端文官にすぎませんよ……しかしこの国の官僚には、古くからこんな訓示だって残っている。“凡ソ政ノ要ハ軍事ナリ”……文武の別にかかわらず官人には戦う覚悟があるべきですし、あたいにだってそれはありますよ」
「……私は、本当、どうしようもない部下を持ちました」
映姫は苦笑いしていたが、そんなやりとりを古明地さとりは優しい眼差しで眺めていて、近寄って話しかけた。
「しかしどうしましょう。地霊殿は旧都勢力につくと言いましたが、しかし私自身の現有戦力はご覧の通り。猫一匹と鴉一羽にすぎませんよ」
「自分たちで戦うと言った手前、兵をねだるという事もできませんね」
「ええ。私たちは、なにも無い場所から自分たちの手足になる兵を作らないければならない」
さとりはそう言ってから、映姫の反応は置いておいて、小町につつと寄って、尋ねた。
「……閻魔様がなにをどうするつもりか、私は心を読んでわかっておりますが、どうです?」
「きっとびっくりしないよ。あたいは」
「どうでしょうね」
二人の眼の前にいる映姫は、にんまり笑ってくるりと振り返り、何千と地霊殿に集まってきた妖精に向かって、叫んだ。
「みんなー! おねいさんと一緒に、遊っそびーましょー!」
「――ざけてんじゃねえぞ」
八千慧は、普段の慇懃な物腰の柔らかさをもはや保ちきれなくなって、陣中に届いた後方からの連絡を投げ捨てた。
「古明地さとりは間違いなく、私たちの目の前を横切って、旧都に合流したのに! どうして後方の沼沢地に逃れて、本軍を攪乱しているなんて話が出てくるんですかね!」
「お互い見えてるものが違うんだからしょうがないだろ」
早鬼は未だに到着しない本隊よりも、八千慧の苛立ちの方にいらいらしながら言った。
「というか、古明地さとりの移動速度が速すぎたんだな」
尤魔は、机上に広げられたこの土地の地図を、ぼんやり眺めながら言った。
「いつ、どの段階で旧都への帰還を開始したかはわからないけどね。あのあたりはもつれるように複雑な河川が入り組んでいるし、かと思えば一歩外れれば岩石の野だ。だから、その足で半日とかからず戻ってきたなんて話が、後方の奴らには疑わしく聞こえるんじゃないの」
「空を飛ぶなりなんなり、どうとでも解決方法がある問題ですね。発見されることを避けたいのなら、地道に歩いた方がいいのは確かですが……しかしこんな旧地獄の天候です。紛れる手段だっていくらでもあります」
「まあな」
尤魔は首をひねり続けていた。
「空を飛んで一直線に戻ろうが瞬間移動しようが、現実に起こったという話の前では大差無いわな……」
しかしながら、と小町はぼんやりしつつ書類仕事に追われている。
戦争とはいえ、やる事は公文書の作成か決裁ばかりだったが、時折映姫に呼び出されて、妖精たちを使って練兵とも遊びともつかないものに勤しんでいるのを手伝う羽目になった。
「……まず、この小町おねいさんについていって、こっちの旗からあっちの旗、次に向こうの旗まで、ぐるぐる回ってみましょおーっ!」
などと、妖精の縦隊の先頭に立されて、目印の旗をいくつも立てた荒れ野を歩き回る羽目になるのは、まだいい。妖精たちは素直に命令を聞き、単純な機動ならば案外物覚えもよく、動作はきびきびとしていた。たしかに彼らを自分たちの爪牙として使うのは、判断としては有りなのだろう。
だが、問題は映姫のちびっ子相手に戯れるお姉さんのような朗らかさで、どうしても笑ってしまうのだ。しかもその明るさにもかかわらず、彼女の脚は、膝から下がどんどん悪くなっている。もう壇を設けて椅子に座ったまま指示を出すしかなくなり、立つ事すらできなくなっている。それでも映姫自身は、足が腐り落ちようとも、それはこれから自分がやろうとしている行為の、罪業の前借りでしかないのだと言っていた。自分は是非曲直庁の閻魔にも関わらず、これから非道を行おうとしているのだから、しょうがないと。
「……バカみたいな人だね」
小町は眠気と疲労と単調さに、まぶたを痙攣させながら思った。みたいじゃなくて単にバカなだけかもしれないが、一応は尊敬する上司だ。
「手が止まっていますよ」
向かい側から、古明地さとりにたしなめられた。
「居眠りしている間もありません。私たちはあと数刻中に、あの方の着想をまとめなければいけないんです」
「あれを着想なんて言葉で表現して、いいのかねえ。夢みたいな空想だよ」
小町は、常の五倍ほどの努力を払って、ふたたび手を動かし始めた。
「……あたい、自分の方がよほど夢想家だと思っていたのに」
「要領よく夢想できる方もいるって話ですね」
映姫のあの、息を吸っているのか吐いているのかわからないような顔を、小町はふと思い出した。あの面の裏で、彼女はこんな事ばかり考えているのだろうか。
バカだ。
「……ま、眠るに眠れないよ。騒がしいあいつら――」
と苦情を言うのは、映姫がこれだけは必要だと旧都から貸し出してもらった軍楽隊が、それぞれの楽器を調律している音だった。ちっとも寝られていない今では、音楽も騒音にしか聞こえない。
「あれは眠りの質を落とすよ」
ともかく、小町はただ一つだけわがままを言い、さとりの周りをうろついていた猫や鴉を、追っ払ってくれるように頼んだ。
「気が散るんでね。ごめんね……」
さとりに命じられて、灼熱地獄跡の管理に向かっていく忠実な彼女たち――どちらも牝だった――の背中に、小さく詫びをかける。
「……それにしても、あの子たちだけは地霊殿にずっと残っていたんだね」
「一番の古株なんですよ」
さとりは言った。
「もう、とうに妖獣になって、変化なんかができたっておかしくないのですが、どうも情緒が幼いままというか……本人らも、私の膝を温めるか、毛づくろいをするかくらいの役目しかできない無能だと、気にしているみたいです」
「ふうん。……ま、どんな子でも、まっすぐ育っているなら慌てない事だね」
「そうそう。慌てない慌てない」
やがて、どうにか体裁を整えてまとめられた軍事計画の書類を、外で調練している映姫と軍楽隊のもとに持ちゆく。
計画書のほとんどは楽譜だった。
「……よろしい。現実的な運用に落とし込むなら、これくらい単純なものにするしかないでしょうね」
と、さらさらさらと書類に目を通して言ったあとで、続けて言った。
「あなたのおかげで、簡単な機動くらいはどうにか仕込む事ができましたからね。“小町おねいさん”」
「自分で蹴上げた鞠を、自分で蹴り返しているような気分でしたよ。……文書作業の人員とか、もうちょいどうにかならなかったんですかね?」
小町の抗議は無視され、映姫が口を開いた。
「今から妖精のみなさんに訓示を行います。小町は私の後ろに立ちなさい」
背後に立ち、私を支えてくれ、という意味だ。
映姫は体重をすべて預けてきた。
「みんなー! ちょっと聞いてくれるかなぁー?」
映姫の肺の動きまでを胸いっぱいに感じながら、小町はやはり背後でくっくと笑ってしまって、腰帯を持って相手を支えようとする腕が、ずり落ちそうになった。
「……うん! すぐ静かになったね! いい感じ! ありがとー! 私はこれから、あなたたちに自分の運命を預けて、あなたたちと共にあり、戦い、絶対にこの戦争を遂行します。以上」
訓示はそれだけ。それだけを大声できっぱり言うと、次に丹の顔料をなみなみたたえた甕を持ってこさせる。
この奇妙な軍集団の血盟の儀式は、まず映姫が自分の親指の腹を噛みちぎって、流れた血を甕の中にぽたぽたと垂らすところから始まった。その血のにおいが、嗅覚ではなく視覚によって拡がるものであるかのように、何千の妖精たちは、血が垂れ落ちる様子を静かにじっと見つめている。以前、川で石合戦をやっていた時の彼らの瞳のぎらつきを、小町は思い出した。
次に映姫は甕の中にある顔料に手を真っ赤にひたして、言った。
「来なさい。順番に」
背後から、軍楽の鼓がどろどろと小刻みに轟き始めて、場の進行を促した。なんとなくその場に整列していた妖精たちは、なんとなくの空気で、自発的に動き始める。小町の疲労にぼやけた目には、それがなんとなく文字に見えた。流れる文章の、文字一つ一つの行進。
一匹一匹、目の前にやってきた妖精たちの顔へ、映姫は自らの血染めの手で触った。頬の柔らかさをいとおしむように触れ、血のように丹い顔料を塗りたくっていく。その様子はけして綺麗とはいえないが、戦場の化粧としては上等だ。
そして、それら一匹一匹すべてに、映姫は声をかけた。それぞれの個体を生まれた時から知っていたかのように、親しげに語りかけて、もしものときには私と一緒に死んでくださいと囁いた。そのように告げられた妖精は、間違いなく目を輝かせる。
小町は今にも脚が崩れそうな上司を支えながら、たしかにこれは罪業の深い行為だと思った。
「本隊到着! 本隊到着!」
「はしゃいでんじゃねえですよ」
八千慧は早鬼をたしなめた。
「……饕餮のヤローが更迭されるてえのはマジですか?」
「独断で使者を送ったのがまずかったんだろーかねぇ」
早鬼のような単純な者にとっては、ただ共に肩を並べている一軍閥の長の失脚にすぎないようだった。
「もう配下の指揮権も取り上げられて、病気って建前で今日明日には後方送りさ」
「それなら、見舞いを名目に面会できますね」
「あ、私も行こうかな……」
早鬼がそう言ったのを、八千慧は押し止めた。
「別々に行きましょう。私たちはあいつと懇意だし、他にどうこう思われたくない」
とは言うが、その実は早鬼が本隊の連中と通じている事を恐れているだけだ。
「ああ、それがいい」
早鬼もあっさり言った。
「私も陣を移動しなきゃいけないしさ。別方面だよ、地霊殿攻めのね……やっぱ嫌われてたのかな私……まあ本隊ほったらかしで早着しちゃったのは確かだけど」
三者、綺麗に分断されてしまったものだと八千慧は塞ぎ込むしかないが、そのとぼとぼした足で、尤魔の見舞いに向かった。
ちなみに、饕餮尤魔の“病名”は、食い過ぎという事だった。
「なんだか屈辱よ……」
「でも流行り病とかではなくてよかったです。おかげでこうして面会できるんですからね」
塞ぎ込んでいる尤魔に対して、八千慧は慰めた。それがどれほど珍しい事かは、彼女たち自身がよくわかっていた。
「……ま、私も嫌われたもんさ。吉弔も気をつけな」
「しかし配置転換ならともかく、更迭とは。いくらなんでも……」
「私が思うに、こりゃ離間の計ってやつだね」
「言われんでも」
八千慧にもわかっていた。これは、あのとき古明地こいしの奴隷女――その正体は四季映姫――が言っていた“意趣返し”だ。ただ予想外だったのが、そうして陣中に注ぎ込まれたらしい猜疑心という毒の、異常な回りの速さだった。
「いくら疑われるといっても、おかしいよこれは」
「元より私たちを蹴落としたい輩がいたのでしょう。よくある事ですよ」
「しかし、戦争中の前線でやる事かな?」
どうにも違和感がある。
「やるかやらないかという段階は、既に過ぎているんですよ饕餮。連中はやり始めているんです。……ところで更迭というのは、畜生界の本土までですか?」
八千慧の質問に、尤魔は少し考えて、答える。
「いんや。どうにも人材不足みたいでね。後送されるけど、結局はやる仕事があるでしょうよ」
「……もしもの時のために、後方の意見をまとめておいて欲しいのです」
八千慧はこの、もしもの時という言葉に、どうとでも受け取れる微妙な空気をにおわせておいた。
「承知したわ」
尤魔は一諾する。そのあとで、少し面白がって笑った。
「……にしても、まさかあんたが、他人に事を託して行動しようとするなんてね」
尤魔は、この、人を信じず策ばかり多い女のことを、そのためにちんまりせせこましい悪事しかなせない畜生界のやくざ者どもの典型例だと、そう思っていたのだ。
「失敬ですね」
相手の内心を知ってか知らずか、八千慧は憮然とした。
対峙した二勢力は遅かれ早かれの会戦を控えているが、それだけにかえって、お互いの陣中には奇妙にゆったりとした時間が流れていた。
「……どうして古明地姉妹を信じようと思ったのかって?」
旧都側の陣では、世間話の流れでそのような問いが聞かれて、星熊勇儀は苦笑いしながら答えた。
「単純な話よ。……どんな力があっても、こんな地獄みたいな世界で生きていくには、どこかの段階で誰かを信じ、頼らなければいけない時が来るもの。……それなら、手遅れになる前に信じるに足ると思ったやつを見出し、そいつをただ信じ続けるのがいい。だから私は古明地姉妹を信じると最初から決めていた。それだけの事よ」
そんなふうにさっぱり言い切って、続けた。
「……まあ、信じる相手だけはしっかり見極める事ね。そこで判断を腐らせた者は死ぬわ」
星熊勇儀は平凡な政治能力の割に、旧地獄を治める非凡な資質があったが、その根本には、どうやらそうした原理原則だけがあるようだった。
饕餮尤魔が更迭され、驪駒早鬼は別方面に配置転換させられていく中で、吉弔八千慧も安泰な立場だったわけではない。
まず、当初布陣していたやや小高い丘陵地を、別の部隊に取り上げられた。彼女の陣が移動させられているのは、機動がきかず、まとまった部隊行動も難しい、入り組んだ岩塊の野だった。
同時に、彼女の立場は、戦術的に見ても浮遊したものになっていた。一応遊撃部隊のような扱いのようだが、ひとたび全体の敗勢が決まれば、よほど逃げ足を早く回転させなければ、この悪魔の遊び場で追い詰められて、圧し潰されてしまうだろう。反対に、この畜生界の寄せ集め軍閥が、万が一にも勝利を収めて旧都になだれ込む事ができたところで、功少ない配置だ。
もっとも、八千慧自身、自分たちが勝つとはもはや思っていない。せめて自分たちが先に場所取りしていた丘陵地に、後から布陣した軍集団が優秀ならば、やりきれない気持ちも少しは慰められたのかもしれないが、竈や排水路などの生活基盤の組み立て方のまずさを見ただけで、その質の悪さが彼女にはわかった。
「……見切りをつけますか」
呟いたあとで、そんな無意識の発言を、我ながら不用心だと思った。
地霊殿は、旧都の縁をぐるりと回り込んだ裏口にある。これ以外の方面は、灼熱地獄跡の広大な焼けた台地が広がっていて、現実的には攻め口が二か所しかないも同然だった。
八千慧がこの陣に訪問したとき、驪駒早鬼は、このぼんやりと微熱的な土地がよほど鬱陶しいのか、普段の陽気さすら萎えかけている。
「あ、吉弔。表側の情勢はどうよ」
「結局、ぎりぎりまで使者のやりとりに時間を使っちゃったみたいですね。こっちも態勢は整ったけれど、それは向こうも一緒」
「……それについてどう思うんだい、軍師様は」
「敗着」
八千慧はきっぱりと言った。
「率直に言って敗着です。私たちは攻撃の時期を逸し、自分たちの背後すら満足に平定できず、この土地に完璧に嫌われています。古今東西、こんな状況で利益を得た軍隊を、私は知りません」
「だろうな」
ものうげに鼻を鳴らす早鬼は、少し前までたしかにあった戦場での勘や嗅覚すらも、もはや鈍らされているようで、やがてぐずぐずと鼻をかんだ。相手のそんな様子にも八千慧は興味を失っていて、敵陣の方から聞こえる、奇妙な音に耳を傾けていた。
「ところで、あれは――?」
「そこよ。私はあんな軍隊、今まで一度もお目にかかった事がない」
地霊殿の前にうずくまるように布陣していたのは、よく見かけるような、形の定まった陣形のたぐいではなかった。ただ、幾つもの点のような小集団――彼女自身は六十個と数えた――が、規則正しい間隔で配置されている。その点の配列の中央には本陣があり、陣幕が張られているが、そこから小刻みな鼓の音が聞こえた。
「ちょうど交代の時間よ」
早鬼が隣で言った通り、鼓の音に合わせて、六十個の小部隊と同数の集団が前線にするすると出てきて、各々の配置を交代する。軍楽隊の方でも交代は行われていて、彼らが先導しつつ、元いた者たちは地霊殿へとしずしず退いていった。
音楽の拍子に合わせた規則正しい進退――と八千慧が眺めていると、ひときわ大きい鼓の音が響いた。
それを合図に、六十に単位分けされた新しい小集団が、一斉に動き出す。直線運動を行う集団、曲線運動を展開する集団、ときに横に薄く伸び、ときに縦に細く狭まるそれぞれの小隊は、各単位が相互に連関するように、各々の動きを絶え間なく繰り返し、遠目には幾何学的な群舞のようにしか見えない。この見惚れてしまう機動を実現しているのは、陣の中心から鳴らされている軍楽だった。
行動と音楽にどのような法則性があるのまではわからないが、この異様な集団行動が、これらの拍子と和音、旋律の連なりによって規定されている事は間違いなかった。
そして八千慧には、この演舞にも近い集団行動の心当たりが、わずかながらあった。
「むう、あれは秦王破陣楽の舞……」
「知っているのか吉弔」
早鬼が尋ねた。
「……ええ。秦王破陣楽とは、唐の太宗が秦王の頃、辺境の四方を征伐した時期に、その武勇を称え、民間で流行ったという舞曲です。しかし後に太宗自身がそれを整え、宮中の雅楽にまで価値を高めたという由緒があります。初演時には百二十人からなる壮大な舞曲で、甲冑を纏い戟を持って舞われた」
八千慧は、目の前で行われている集団の展開と収束の理想形に、それ以上のものを感じつつも説明を続けた。
「……で、その舞はただ壮大な舞曲というだけでなく、軍事的な含意まで込められていたという意見があるのです。“蓋シ兵法ハ意ヲ以テ授ク可ク、語デ伝ウ不可ラズ。朕破陣楽ノ舞ヲ為ルモ、唯卿ノミ以テ其ノ表ヲ暁ルカナ。”と。……整然とした伎楽や舞踏に見せかけつつ、そこには兵の進退の神髄が込められていて、鼓と管弦によって兵を手足のように動かし統御する方法……」
思わず、うっとりと言ってしまったような気がする。
「へっ」
早鬼は鼻をすすって痰を吐き捨てた。
「言うだけなら簡単な話だ」
「え、ええ。あなたの言う通りです……実際、舞はやがて数人規模の演舞に縮小されて、軍事的な含意とやらの方は、完全に失伝していますし――いや、元々あったものかすらも怪しい」
そんな程度の与太話だ。
だが、もしかすると……こんな辺境の、人ならざる者たちの世界だからこそ、残っているものもあるのではないか……
八千慧は苦い顔をして微笑んだ。
「一つだけわかる事は――驪駒、どうもあんたの敵さんは、一筋縄ではいかない相手みたいですよ」
驪駒早鬼には、他にも患いがある。配置転換で地霊殿攻めに回される以前からの、尤魔にも八千慧にも教えていない患いだ。
不眠だった。
立場上、豪快な果断の人といった気立てに見せようと努めてはいるが、神経が太い方ではない。特に環境の変化には敏感だった。なので、この旧地獄攻めに参加する際も、誰より遅く出撃して、誰より速く行軍して、そのまま旧都に突入する企図を描いていたのだ。
だが、そうはいかなかった。畜生界のやくざ者同士の単純な諍いなら話は違ったのだろうが、これは戦争だったのだ。
「……馬鹿にするなよ」
八千慧が帰った後、早鬼は忌々しそうな顔で地霊殿の前の布陣を一瞥してから毒を吐き、陣の奥へと引っ込み、戎装のまま寝床に転がる。これも、彼女の繊細な神経にはわずかながら負担になっていた。
「まあ、これも戦だしね」
と頭ではわかってはいるのだが、砂っぽくなった寝床は、つらいばかりだった。
例によって寝つけぬ時間ばかりがごろごろと過ぎていくが、そのうち陣中に、鈴の鳴るような声が響く。
「……まさか吉弔が話していたやつか」
最近、遠征軍の陣中で蔓延している怪談は、八千慧から聞いていた。陣中で、時々奇妙な歌が聞こえる――それだけの単純な話だ。歌の言いははっきりしないが、ただ声だけが鈴の音のように、綺麗で不気味なのだと。……でも、その声が望郷の歌ならば、この戦争もきっと終わってしまうのにと、早鬼はこっそりうらめしく思う。……もっとも、これは願望の分量が多すぎる考えだった。畜生界の弱肉強食を心から懐かしんでいる者など、多少の理性があればありえなかった。
とはいえ、自陣にそうした怪異が現れたならば、指揮官としては強くあらねばならない。この、あらねばならないという気持ちが、早鬼には常にやや多めにある。豪胆な気風の割に、損なところのある女だった。
「“あしたはみんな死ぬ”」
寝所を出たところで、そんな声を聞いた。ちょうど風に巻き起こされた砂塵がひどく、はっきり聞こえたわけではないが、とにかく早鬼にはそのように聞こえた。
「……なんだ?」
と、そんな幻聴に耳を傾けてしまった事自体が、彼女が統率の取れた軍団の長ではなく、異常が起きれば自ら出向かなければ気が済まない、ただのやくざ者の長にすぎなかった事をあらわしている。
「“ロバは飢えて”」
陣の中をさまよいながら、早鬼にはそんな声が聞こえた。誰がロバだって?
「“王様は退屈で”」
たしかに、この戦争の十中八九は、退屈だった。だが、そんな事よりも……と声の主を探して、気がつけば自陣の果てまで来ていて、地霊殿があるはずの向こうが、見えないほどの砂嵐の真っ只中である事に、気がついた。
「“私は”――」
声はまだ聞こえていたが、どうでもよかった。砂塵の向こうに目を奪われていた。
今だ。今ならあの陣形は突き崩すのは容易いだろう。なぜか早鬼はそう思っていた。
思わず周囲を見回すと、その衝動を後押しするように、彼女の両翼に布陣していた、別の部隊の兵がよろめくように突撃し始めている。それを見て、自分たちも遅れを取るまいとした。
「――いや、だけど」
追い詰められた精神のぎりぎりの線で、そう自制しようとする精神が芽生えたのが、拙速と即断に富むとのもっぱらの評価であった彼女に秘められた、真の資質だったが、気がついた時には手遅れだった。
驪駒早鬼は、衝動に任せて突撃していく自軍の配下の群れに突き飛ばされ、転がされて、下手をすればそのまま踏み潰されるところだった。
それでも、ぼろぼろの戎装のまま、砂塵に呑まれていく自軍を追いかけていくしかない。
「――小町!」
四季映姫は、地霊殿の正面に設けた指揮所で、おすまし顔で椅子に座りながら怒鳴った。
「よく寝たでしょう。発令します。戦闘開始です」
どんな状況であろうと睡眠を取る事ができるらしい映姫の部下は、上司に再度どやされて、即座に言い返した。
「……こんな、ものすごい砂嵐の中ですよ」
指揮台に立っているだけでも、砂塵で肺を痛めてしまいそうだ。
「構いません。休息させている予備も投入しましょう。私にはわかります。奴らは来ます!」
小町はその命令を聞いて、背後で小休止を取っていた軍楽隊に合図を送る。
彼女たちは想像する。……点々としていた六十の妖精たちの小隊は、相互に干渉しない運動を経て、花弁のように組まれた六つの方陣と、その中で柔軟な旋回を行う一つの円陣になるだろう。なるはずだ。
「“四度、五度”」
自軍にどうにか追いすがり、その突出を食い止めようとしていた早鬼は、そんな声を聞いた。
「“短調に落ち、長調に引き揚げられる”!」
なぜか相手の軍楽は、砂嵐に吹き飛ばされるどころか、いっそう圧を増すばかりだった。
統制はなく、音楽と砂嵐ばかり、ここは果たして戦場と言えるのか……?
疑問を抱きながらようやく自軍の尻に追いつくと、見る間に乱戦の景色がひらけたが、客観的に認識できるのは、先頭が敵陣に接触しているらしいという、それだけの曖昧な状況だ。次にわかったのは、ただ自分たちが、敵陣に随時送り込まれて、小柄でひ弱だが剽悍に戦う妖精たちの集団という、巨大な歯車に即座に擂り潰されていく様だった。
砂嵐も落ち着いた頃、映姫は音楽の調子を落とすように、後ろに従える楽隊に指示した。
「終わりました」
目の前に広がる妖精たちの犠牲など――たとえそのうち復活するものだとしても――、どうでもいいと言わんばかりに、映姫はあっさり言った。
小町は皮肉っぽく答える。
「あまりいい気分はしませんね」
「戦争がいい気分になれる行為なら、もっと流行っていいものです」
映姫の皮肉の方が痛烈だった。
「……それにしても、私としても至らないところが多い戦でした」
と反省するが、もちろん、その部分まで織り込み済みの戦闘だった。
「私たちは自滅寸前で、疲弊した敵に、決死の覚悟で一当たりして、勝てばいい。それでこの方面の戦いはおしまいです」
あの音楽を基にした陣法も、理論こそ体系立てられてはいたものの、実のところはこけおどしにすぎない。全ての行動は、ただひたすら、妖精たちを魅了し、死地に叩き込むという目的に収束していた。
「……戦後処理はどうします?」
小町の質問を聞いた映姫は、さとりが飼っている猫と鴉が生き生きと死体漁りをしているのを眺めながら、答えた。
「あとは彼女たちに任せておきましょう」
地霊殿方面の敗戦で離散した者たちは、ぽつぽつと旧都前に布陣する本軍に逃げ戻ってきているが、そこに驪駒早鬼の姿は無かった。
たとえ帰陣できたとしても、陣中の状況の変化に呆然としていただろう。吉弔八千慧が失脚し、後送されるべく牢車に繋がれて辱めを受けているという話を聞いて、むしろ我が身の危険を感じて自分から身を隠したかもしれない。
八千慧を陥れたのは、軍の中で広まっている単純な噂――吉弔・驪駒・饕餮が旧都と通じて畜生界に背き、この三名で畜生界を鼎立しようと目論んでいる――にすぎなかった。その中でも八千慧の扱いは特に苛烈だったわけだが、これは狡猾で策が多いという彼女の性向を、元々警戒されていたと言える。どんな道があったにせよ、八千慧は間違いなく破滅する運命だった。
……それなのに、あるとき、気がつくと、彼女を縛めている手枷が外れていて、見張りの兵は刺されて死んでいた。
立ち上がり、陣中をこそこそと歩く。軍紀は早くから乱れに乱れていたが、だからといって今の彼女の姿ほどには乱れてはいない。隠れて進むしかなかった。
その手には匕首が握られている。既に血にまみれているのは、死んだ番兵の背に刺さっていたからだ。……いや、その後で、既に誰か、衝動的に殺していたかもしれない。記憶は曖昧だ。
いずれにせよ、どうでもよかった。
記憶を頼りに本陣に辿り着くと――自陣営の長を罰したというのに反乱の警戒もしていないとは、不用心な首脳たちだった――、少女に声をかけられた。
「“さあ、にっこりしろよ。明日よりは今日がましだ。”」
その少女の手は、既に血にまみれている。本人の血ではないらしい。
「あんたは――」
八千慧は呆然と言った。目の前の彼女と会った事は無いが、誰なのかは、なんとなくわかる。
古明地こいし。
「全部あなたのせいよ」
こいしは相手が手に持つ血がしたたる刃物を見て、にんまりと笑う。
「私はもう、自分の手を汚して誰かを殺すのは、やめた……で、あんたは私と違って、これからもっともっと誰かを殺す事になる。かわいそうに」
そして、優しい手つきで八千慧の頬をぺたぺたと触り、べっとり血まみれにした。
「ざまあみろ」
数時間後、畜生界の軍閥連合から送られてきた和睦の使者に、星熊勇儀は戸惑っていた。
「……偽りの退却ではないよな?」
「違いますね。本当に、心底から撤兵を提案しています。なんの策略もありません」
隣でそう答えたのは、古明地さとりだった。地霊殿方面の戦役が早々に終わったこと、戦果の報告、それと借りていた軍楽隊の返却に訪れていたのだ。
勇儀が疑い半分で和睦の使者を饗応しようとするなかばで、さとりはもう一つ、ちらりと言った。
「同時に、講和はしなくていい。使者を早々に返して、すぐさま奴らに反撃の一突きを食らわせるのです」
勇儀は顔色を変えた。
「それは非道ではないかしら」
「いいえ。ただ連中が力負けを感じて、勝手に退くだけの事です。あんな奴ら、今こそ叩けるだけ徹底的に叩き、勢力を減じさせ、畜生界に押し込んでおくに限ります」
「禍根にならないかな」
「なったとしても完全な逆恨みです。従う者は少ないでしょう」
「妹を陥れられたという、君の私怨ではないかい」
「もちろん怨みはあります。しかし利に背いているわけではありません。むしろあなたの方が、そうした認知によって目を曇らせている」
旧都の主は嫌な顔をしたが、献策は理にかなっていた。
「……使者を叩き返し、即座に追撃を始めなさい」
勇儀が意見を強く拒絶できなかったのは、この容赦の無い発想が、本当は自分自身の考えから出たものである事を知っていたからだ。
「言いたい事はわかりますよ。私はそれだけは得意な女なので」
そう、さとりは他者の言いたい事がわかるのだ。適切だが言い出しにくい事、正しいけれども忌々しい事を、さも自分の考えのように、さらりと言ってくれる。周りもそれを心得ていれば、気味が悪いと思いつつも、この、言い出しにくい事を言ってくれた者に感謝する。
「ま、こういう性分なので、行政組織では重宝されていたんですよね」
「でしょうね」
間。
「……あ、そういえば、エンマサマとシニガミってどうなったの?」
「帰りました」
家にひょいと上がり込んできた客が、それと同じ気軽さで辞去したくらいの軽さで、さとりは言った。
「もう、彼女らにできる事は無いそうですので」
「ふうん。……変わった奴らだったなぁ。地獄の官僚って、みんなあんな感じなの?」
いえ……と、さとりが肩をすくめる。
「それについては、彼女たちが特別変わってるだけでしょうね」
勇儀とさとりがのんきに雑談をしている間も、畜生界の軍閥は悲惨な退却を続けている。
「ともかく、後方にいる饕餮のところまで退きましょう……」
元々の首脳陣を誅殺して軍閥全体を掌握した吉弔八千慧は、夢見心地のように言った。
どうして自分は死んでいないのだろう、とも思った――もちろん理由ははっきりしている。失脚したとき、彼女の手勢の大半は本隊の中核に組み込まれていたが、変事が起こるや、彼らは即座に親衛隊となって彼女の足下に馳せ戻り、武力でもって事態を収拾したのだ。彼女は痴呆にでもなったかのように、ぼんやり、戦場の最前線で起こった政争の逆転劇を眺めているだけだった。
背後から旧都の追い打ちがやって来ていると聞いた時も、どこか呆けている。
「そう……」
殿軍の采配などは周囲に任せた。
やがて、後方の河水でがんばっていて欲しかった饕餮尤魔が、後方の兵員をまとめてさっさと畜生界に帰ってしまったという話を聞いた時も、怒りすら湧かなかった。
八千慧たちは孤立した。退却する軍隊は、八夜あれば八度夜襲を受け、襲撃が来るとはわかっていても、そのつど敗走した。こんな有り様で、どうして部下たちは私についてきてくれるのだろうと、そちらの方が疑問だった。
ようやく明日には河水に辿り着くというところで、取り残された者を集めて合流してくれた勢力がある。
驪駒早鬼だった。
「……あーあ、すっかりしょぼくれちゃってまあ」
そう言う当人も、ぼろぼろの有り様だった。
「ま、いいや。さっさと帰ろうぜ。ともに饕餮をぶん殴りましょう。あいつも、逃げ帰った身では全体の意見を牛耳れやしない。私とお前で今すぐ戻れば、まだ畜生界鼎立の目はある」
八千慧は目を丸くした。畜生界を三つに分ける?
「待ってください。それは私たちを陥れようとした旧地獄の策略で……」
「今となっては、そこはどうでもいいんだよ。確かにそんな噂を軍の中に流されたおかげで、ちょいと迷惑したけれど、おかげで救いも残されているわ。……吉弔、あんたまさか、自分がえらいから部下が従ってくれているだなんて思っているの? んなわけないでしょ。奴らは、ただ単におこぼれに預かりたい一心でお前を援けているのよ」
らしくない弁だと思いつつも、早鬼はまくしたてた。
「連中には欲望しかないの。畜生界の勢力を驪駒・吉弔・饕餮の三名で分けるという、私たちを陥れる策謀の中で生まれた、ウソから出たマコトに釣られているんだよ。あんたの部下は、そんな雑い野望を抱いているあんたを信じている。今ならやりようで、どうとでも捨て駒になってくれるぜ」
それと同時に、自分が殿軍を引き受けようと早鬼は言った。
「さすがに追手の気分ものんびりしてきているわ。ここで一撃当てて、追撃を鈍らせる事は可能よ」
「驪駒……」
「そんな愁嘆場みたいな声を出しちゃって。私がやられるわけないでしょ。バカか?」
「そこは疑っていません。バカはそっちです」
八千慧は不機嫌そうに言い返した。
「追撃を鈍らせるだけではだめです。前面にも河水があり、水上勢力にいいようにされているのですよ」
「じゃあどうするのよ」
「私自身も殿軍に加わります」
八千慧は言った。
「あなたが言った通り、追撃はどんどん手ぬるいものになってきている。そちらの方が軽く撃退できるでしょう。そのうちに、殿軍以外の各部隊を、上流から下流まで分散させ、様々な地点で渡河を行わせて、相手を奔走させる」
要するに、後尾が足止めをしているように見せかけて、先を行く者たちを目くらましの囮にすると言うのだ。
「これが現状の最善手でしょう……ああ、それと饕餮のやつをどうどつき回してやろうか、今から考えておきますか」
「あんたらしい考えだよ! 調子が戻ってきたね!」
早鬼はそう感嘆しながら、やっぱりこいつを心底から信用するのだけはやめようと思った。
結局、吉弔八千慧と驪駒早鬼は畜生界への帰還を果たし、饕餮尤魔の一人勝ちに掣肘を加えることには成功した。だが彼女たちは力を失いすぎていて、三つの勢力が綺麗に鼎立したとも言い難く、そのために畜生界内部での抗争に終始するしかないという、互いに食い潰し合うにすぎない状況も作ったと言える。
当初は協力関係にあって尤魔にあたっていた八千慧と早鬼も、それぞれの勢力がまとめ上げられていく中で、やがては袂を分かった。
「こんなはずじゃなかった……というのは、ひとかどの勢力の長になっても、言えるのでしょうかね」
後年になって、歴史的な三頭会談(という名の宴会)のなかで、ぼそりと吉弔八千慧は呟いた。
「当時は畜生界と旧地獄の境目も、本当は曖昧だったのです。確かに二つの世界はあったけれど、全てが曖昧な時代だった。そこに、なぜか突然境界線が引かれた――たしかに慣れない大規模な軍事行動でしたが、対外戦争自体はよくある事でした。それを仕掛けたってだけの認識だったのにね、不思議な話ですよ。……ま、今となってはどうでもいい話ですか」
「ですが、これからは違います」
地霊殿正面の戦いが終わった直後に、話は戻る。四季映姫・ヤマザナドゥは、小野塚小町の肩にすがりながら言った。小町は上司と大鎌――結局こんなもの、使いもしなかった――を背負って、旧地獄の荒野を歩いていた。
「なぜなら、彼女たちが“これからは違う”と言いのけたからです。……ですが、彼女たちが言い張るだけでは心もとない。……だから私が一つの基準を作って、白と黒、こちらとあちら、味方と敵とを、半永久的に分け隔てた。私だけがそれを判断できた。今回の戦いだって、本当はこの土地で何百年と続いていた侵攻と蹂躙にすぎなかったでしょうにね」
「……今回敵になっちまった連中は、かわいそうですね」
「間が悪かったという事でしょう」
同情しているのかしていないのかもわからない口調で、映姫は言った。
「この線引きを行うのは、できれば居丈高な権威も無い方が良かった。私は一時的に、是非曲直庁の官位のすべてを失う必要があった」
小町は、そこで上司の声色がわずかにやわらかくなったのを感じた。
「あとはこの地に住む彼ら次第です」
「……あなたはよくやりましたよ」
「いいえ。将来、私より上手くやってのける、私以上にむちゃくちゃな調停者が、この世界に現れるかもしれません。私の場合は、元よりあった閻魔という立場が重すぎた」
そんな反省会を交わしながら、旧地獄の荒れ野を行く。彼女たちの背後には無数の妖精たちが、ぞろぞろ付き従ってきていた。しかし、それに注意を払おうとするような余力は、小町にも映姫にも無かった。
「……それにしても、いいんですか? 彼らが本当に、自分たちなりの秩序を獲得できるのか、心配じゃないんですか?」
「信じましょう! ただ信じましょう!」
映姫は朗らかに言った。
「そして彼らが失敗したとしても、けして失望しない事です! どうせ長い目で見れば、全て破綻する運命なのです」
小町にしてみれば、そんな諦観混じりの悲観主義は、映姫の小さな口から聞きたくない。なので聞かなかった事にして、それにしても……と話題を変える。疲労は極まっていて、もはや話題に脈絡がなかった。
「おもしろいものが見られました。四季様と妖精たちのやりとり……“みんなー!”って」
「やっていて、さすがに私らしくなかったとは思います……でも、ちょっとくせになったりしてね」
「笑っちゃいますよあれ。もうやめておいた方がいい」
「まあ、もうやる事は無いでしょうね。……がんばってー、小町おねいさんー」
「やめてくださいて」
背負っている耳元で囁かれるぶん、よけいにむずがゆい。
「こまちー」
「だからやめてって。……あーあ。こう、距離をつづめたりのばしたりを、自由自在にできれば、なあ」
「今の私たちにこそ必要な能力ですね」
やがて彼女たちは崩れ橋のたもとに至った。
数日前、小町がもやっていた舟がある。状態を確認してみると、さほど荒らされた雰囲気は無い――ただ、酒と化粧道具だけはすっかり無くなっていたが。
「四季様、私たち帰れますよ……」
と小町が言った時には、映姫はもう船端にぐったりと体を折り曲げ、気を失っている。
小町は無言で自分の腰紐を解いて、互いの身体と舟を結びつけると、そのまま抱き合って横になり、舟はゆっくり地底の海へ向けて流され始める。
それに従って川に身を投げた妖精たちは、何百匹にも及んだ。
死のうと思っていた。
が、灼熱地獄跡の淵に立ってじりじりと肌を焼かれていると、そんな気分も萎えた。あとはただ、姉に再会する気恥ずかしさだけが残っている。
いいや、それでも、やっぱり死のう。
とも思う。自分は悪い事をしたのだ。姉を騙し飼っている動物たちを殺した――その他の人々も害した事に関しては、たいして気にしなかった。そこが古明地こいしの利己の限界だ。身内思いではあったが、そこから外れたものに対しては、残忍な苛烈さがある人物だった。
ただ、自分が気にしないでも、姉に気分を引きずられる事もある。さとりは、不敵な顔をしながら周囲に気を遣い、相手の弱みを握りつつも、そのくせ弱みに寄り添うところがある。そういう、姉と自分に流れている気質の微妙な差異を、こいし自身も少し鬱陶しく思っている部分はあった。
……ともかく今は、死ぬか、死なないかの問題だ。
「こいし」
背後からさとりが声をかけて、妹の手を引いた。
その瞬間、こいしはもう、先ほどまでの逡巡を忘れてしまっていた。彼女は狂気の中で、主体性というものを失っていた。だから、地獄の淵から一歩退いた。
「おうちに帰りましょう」
さとりが優しく言うと、姉妹は手をつないで、靴底を焦がしながら焼けた地面の中を降りていく。
小町が顔を上げると、ひんやりした霧が頬を撫ぜた。
「……四季様!」
と叫びながら起き上がり、人事不省の上司の手を取りながら、様子を見る。――部下の心配をよそに、映姫はすやすやおだやかな寝息を立てていた。よく見ると、その膝はまだ赤く剥けているが、どす黒い壊死はやや薄れ、薄く皮が再生しつつあった。
小町はほっとして、そのまま棹を水面に差して、ちゃぷちゃぷ漕ぎゆく。ここは地上だろうか、おそらくそうだ。このゆるやかな流れを下っていけば、たしか中有の道があったはずだ。
……と、背後でばっちゃんばっちゃんと派手な水音がして、そこでようやく、何百という妖精たちがついてきてしまっている事に気がついた。彼らはこの透き通った新天地の空気を吸って、さっそく大騒ぎを始めていた。
「おやまあ……」
妙なものを連れてきてしまったかなと思ったが、彼らはもう、生まれ変わったかのように小町や映姫のことなど忘れているので、地上に生息している妖精たちと、のんびり交わっていくのだろう。
が、思わぬところに影響が出た。
「……人を通勤の足に使うなんていい度胸っすね」
「いいでしょう。私と小町の仲じゃないですか」
「あたいら、いつの間にそんなカンケーに……?」
朝、そんな調子で舟に跳び移ってきた上司を乗せて、川を渡り始める。
「あーあ、今日もいいお天気だし、のんびりお仕事しよおっと」
「上司を隣に乗っけて言うセリフとは思えませんね」
「いいでしょう。私と四季様の仲じゃないっすか」
「……だいたいですね、あなた最近、そのお仕事の方も、変な能力を身につけて、色々手を抜いているそうじゃないですか」
「あっ、やだ。説教だ。聞きたくない。さっさと向こう岸につけよう……」
「じゃあ話を変えます。社内報や地域向け無料冊子の原稿が上がってこないのは仕方がありません。みんなそれぞれの仕事のついでで、忙しいですからね。……でも、編集長のあなたからいっこうに原稿の催促がやってこないせいで、逆に書く側が不安になって相談に来るなんて事態、前代未聞ですよ」
「納期を定めて人を急かすっていう行為が、先天的に苦手で……」
「どうして本庁では編集部なんかに配属されていたんですかね?」
そういったやりとりをしている横の、川のほとりで、妖精たちが遊んでいた。遊び自体はよくある戦争ごっこのようだったが、彼らは妙に統制が取れていて、きびきびとした動きで隊列を編み、変化し、時には旋回しつつ、巧みに進退している。
これも地上では日常の光景になりつつあった。
そんな調子のことをほざきながら怠業行為を働いて(奇妙な言い回しだ)いた頃を思うと、この辺鄙な土地の川岸に飛ばされて、うつらうつら舟漕ぎをしているくらいが、自分にはちょうどいい立場の気はする。
「“渓ニ縁リテ行キ、路ノ遠近ヲ忘ル。”……」
小野塚小町はうたうように呟き、そして舟底に寝転がる。舟はぐらりと揺れたが、そのおぼつかなさも面白い。そういう事も楽しめる少女だった。
「――こら」
すぐそばの葦原から、声をかけられた。
「また、怠けているのですね」
起き上がってみると、上長の閻魔自らが出向いてきていて、説教をくれるようなので、さすがに舟をそちらの岸辺に寄せ、居住まいを正した。
「おはようございます」
「こんにちは、小町」
「はい、お日柄もよろしく……髪型変えました?」
「朝に出仕してこのかた誰も指摘してくれなかった事を、真っ先に言ってくれるのは嬉しいのですが……」
四季映姫・ヤマザナドゥはため息をついた。本当に嬉しくはあるのだが、それとこれとは話が別だ、という表情でもある。
「どうもつまらなさそうじゃないですか。本庁の編集部で忙しかった頃が懐かしいのではないですか?」
「どうでしょうね。煩瑣な作業ばかりで、新しい事はなにもしませんでしたし、させてもらえませんでしたから」
あそこではなにも新しい事は起こっていません、と小町は続けた。
それは映姫も知っていた。官庁広報に付録されている新刊案内に目を通してみても、その停滞ぶりはよくわかっていた。みだりがわしいだけの豪華版、反対に無造作な普及版、意味のない新装版、埃を更にかぶせるだけの再販、無用の重版、すべてが外注任せの絵入り版などなど、ただ一冊の経典の為だけに、面白みのない変化が、だらだら反復されているのみだった。
もちろん、それらの作業が全く楽な仕事だとは言わない――むしろ新たな書物を作る以上に作業量が増える部分もあるだろう――が、それを退屈な仕事に思う感性も存在していいだろうし、やる気を失って怠け続け編集部から追い出された、目の前の死神に同情してみたくもなる……しかし、それとこれとは話が別というものだ。
映姫は言った。
「日報が何日分も滞っています」
「報告すべき出来事を探すところから始めなければなりませんからね」
「別に特別な事件が起きなくてもよいのです。ただ何時何処で何人の死者を案内したとか、そんなものでいい」
「つまらんですね」
そう言って、小町はまた船底に寝転がった。
「ま、つまらんのも正直嫌いではないんですが……」
部下のその言い様に、川岸の映姫は呆れ返っていたが、憤りまではいかない。自分も、いずれはこういった生意気な部下を叱りつける事ができるようになるだろうか、などとのんきに考えてしまう。
「……言いつけられた仕事は一応こなしてますよ。一応ね」
「それは知ってます」
映姫も認めざるをえない。要領は良い子なのだ。むしろ、こんな僻地の閑職に詰め込まれているには似つかわしくないくらいだ。怠けてばかりだが仕事はこなしているというのは、手際が良い事の言い換えにすぎないし、日報は遅れがちだが見事な書式で記されていて、まさに簡にして要を得るといった感じだった。
「……これだけできるなら、私の方から中央への復帰の運動なりしてもいいのですが」
なんて、つい――完全に余計なお世話で――言ってしまった事もある。それに対して彼女は苦笑いしながら肩をすくめて、
「宮勤めなんて良い事ありませんからね」
と言った。
「それにあたいは、この土地の気風というか、水が合っていると思います。とにかく仕事はさほど多くないし、何も起こらないのでのんびりおねむができる」
なにも起こらないのがつまらないと言ったり、良いと言ったり、まったくいいかげんな女だ……しかしお気に入りのつまらなさというものもあるかもしれない。
「――で、説教はそこまでですか?」
小町はそう言って、また目を瞑ったが、急に舟の揺れがおかしくなった。どうやら閻魔様が舟に飛び乗ってきたようなので、ちらりとそちらに視線を向けて呟いた。
「人を乗せてしまったら、規則通り舟を動かさにゃならないじゃないですか……庁舎まで送りますよ」
ゆっくり起き上がったところに、映姫はまったく予想外の言葉をかけた。
「いいえ、帰ってはいけません。私の指示通りに漕ぎなさい」
言われるまま漕ぐほどに、舟は川面を進み、やがて霧深い葦原の中へと入っていった。葦が生い茂る小島の隙間を、ちょこちょこ縫って進んでいく。葦は総じて、小町が腕を上に伸ばしたより、更に背が高い。その影が、濃霧の中で、ぼんやりした壁のよな生きてるよな、なにか不定形の存在に見えて、しかし映姫は冷静に指示を出し続けた。
だが小町は沈黙に耐えられなくなり、いつものくせで世間話のように口を開いた。
「……閻魔様はどう思っています? この土地を」
「どういう言葉を求められているのでしょう」
「そりゃあ、面白いとか面白くないとか、退屈だとか退屈しないだとか……」
「二元論的ですね」
「二元論的な話をしたい気分ですからね」
「しかしそういう、対立する二項として論じるのは気に入らない。面白い事もあるし面白くない事もある、退屈な事もあれば退屈しない事もある――つまらない答えですが、こんなところでどうでしょう」
「ふむ。最近はどんな事が面白くないですか」
「変な怠け者の部下ができました」
「……では、どんな事が面白かったですか」
「変な怠け者の部下ができました」
湿気がたっぷり含まれている空気を、映姫は痙攣のように吸った。
舟が進むにつれて世界は昏くなってきているが、これは夕闇の暮れ方ではない。光を失いながら空気が濁ってくるような、もっとどんよりした暮れ方だった。
「……地獄下りですか」
映姫は答えない。
ついに両脇の葦原も見えなくなってしまうような暗闇の中で霧が晴れたとき、彼女たちが乗る舟は、いつの間にか地底の海に漂う一枚の木の葉だった。
ぬるい雨が降っている、その向こうに目を凝らすと、うっすら下唇のような陸地が広がっていた。
「進みなさい。河口を探しましょう」
聡明で勘のいい少女が必ずそうであるように、映姫は理屈を一切述べず、そっけない指図だけを小町に与えた。近づく陸地は、礫が寄り集まった丘が退屈な起伏を形作っていて、どこを向いても再帰的な自己相似形からなる地形だった。小町も地獄の吏員なので、この殺風景さは別に目新しくもないが、初めて見たとしても退屈な場所だと思っただろう。
小町は腕を動かし続けている。口もよく回った。
「あーあ。こう、距離をつづめたりのばしたりを、自由自在にできれば、なあ」
「あなたのような怠け者には絶対に持たせてはいけない能力ですね」
それでも指示通りに舟を漕いでいくと、だらだら続く地形の中に隠れるように、たしかに小さな河口が見つかった。
「ここを遡上すると、旧地獄に繋がります」
旧地獄、と小町がおうむ返しに呟くと、口の中でなぜか金物を転がすような味がした。
「かつて是非曲直庁が手を引いた土地です」
「何が起きたか察しはつきますよ」
地獄の縮小化という名目で行われた領土の放棄は、それくらいありきたりで、各地で起きていた事態だった。ありきたりすぎて、これを法治主義の敗北、彼らの失政と言えるかすら怪しいものだ。ただ、すべての生き物がいつか死ぬのと同じように、組織が疲弊を起こして、機能不全に陥っただけの話だった。冥府は腐り始めた器官を切り離して、機関の延命を図った。
そして切り落とされた器官のひとつが、旧地獄と呼ばれるようになった。
「よくある事です」
「ただし是非曲直庁が手を引いた後も、旧地獄の管理は必要でした。……この地域には灼熱地獄が存在していて、そのうえ地上でだって、妖怪たちがなお威勢よく活動していますから」
「のんきに見えて難しい土地なのはわかってますよ」
上長の苦労は理解できるが、彼岸の渡し風情にはあまり実感のない部分でもある。
「我々は、灼熱地獄の管理を一介の妖怪に託さなければならなくなりました」
言ったあとで付け加える。
「……もちろん、人格的にも信頼できる方ですよ。現地で採用されて、仕事ぶりを認められた方でした」
「へー」
これもまた、ありがちな話だ。そもそも是非曲直庁は、他の地獄の政庁と比べて、かなり門戸が開かれた政治機関だった。そこには慢性的な人員不足というやむにやまれぬ事情もあったのだが、現地採用の吏員も少なくなかったし、その内訳は人妖の別なく、実力さえあれば登用された。
「参議篁の妖怪版ですね」
小町は、人間出身の伝説的な能吏の名前を出した。伝統的にそうした政庁なのだ。野の妖怪に、放棄された土地の管理を託していたとしても、驚くにはあたらない。
「この地域はそもそもの風土が大雑把なせいか、彼らに自治を認めた事すら、なかば忘れてしまっていたようですが」
「良いことだと思いますよ。“大国ヲ治ムルハ、小鮮ヲ烹ルガ若シ。”って言いますし。つつき回さず、忘れるくらいがちょうどいいんですって」
「のんきな事を言いますね……ですが、火加減は常に気をつけておかなければいけません。灼熱地獄の火の加減ならなおさらね」
映姫がそんな事を言うので、小町も舟を進める両岸を、ちらと眺めた。目的地はまだまだ遠いらしく、動くもの一つない単調な反復が連なっている。
「――旧地獄で、統治者の交代が起こりました。しかも政変という形で」
だしぬけに映姫が口を開いた。
「我々が旧地獄一帯の統治を委託していたのは、姉と、妹でした。そして妹が姉を廃立し、追放し、みずからがその後釜に座った。それだけは聞き及んでいます」
ありがちな話だ、と小町は嘆息しながら思った。骨肉相食む政争とは、ありがちで、陳腐で、だからこそ厄介だ。
「……“本是レ同根ヨリ生ズ。相煎ルハ何ゾ太ダ急ナル。”、か」
どうやら自分たちは大火事の火元に向かっているようだった。
川の遡航はようやく変化のきざし。
「……なにか聞こえませんか?」
小町が棹の先で指し示した方角は、川がうねる曲線の大外、うずたかい砂礫の丘が三日月形の堤になっていて、状況がよくわからない。しかも聞こえてくるのは、自然の音なのか、それとも生き物の声なのかもよくわからない、奇妙な喚叫だった。
「……私はこの土地が平らかに治められていると言いましたが、この認識は、ある程度はばを見ておいた方が良い」
「わかってますよ」
小町だって、妖怪たちに完璧な統治ができているとは、ちいっとも思っていない。
「見てきましょうか」
と舟を岸に近づける。反復ばかりの旅程に、心底退屈していたという事もある。
棹の先端を岸に引っかけて、力任せに引き寄せた。そのまま上陸して、力強い脚力で砂丘の斜面を駆けあがると、瞬時に血相を変えて取って返してきて、飛び込むように舟に乗り込み、力限りに棹を漕いで岸辺を離れる。映姫は多く尋ねようとしなかったし、小町自身それどころではなかった。
真っ赤に焼けた砂を運ぶ風はやがて堤防を乗り越えて川にまで至り、雨粒を地面に落ちる前に蒸発させて、音と蒸気、それと奇妙に雨上がりに似た匂いを水面に漂わせながら、そのまま川を横切っていった。
舟の上の二人は、どこからか出てきた濡れ毛布を頭からかぶって、砂塵をやり過ごしている。
「……お互い不用心すぎましたね。この地域の気象が色々むちゃくちゃだというのは聞いていたんですが」
「ところでその毛布はどこから……」
尋ねた小町がばつが悪そうな様子なので、映姫はいい気味だといったふうに微笑む。
「私だって、職場の備品が二重底に改造されていることに気がつけないような鈍副子ではありませんよ――しかし色々ありますね。文庫本、花札、化粧道具入れ、救急箱、裁縫箱、釣り竿、干し柿、筆箱、野帳、縦バラの富鬮、豆馬券、投資信託の案内。そして大量の酒――酒!」
舟底の隠し場所を覗き込んだ映姫は、わざとらしく、しかし嫌味の分量は案外少なめに叫んだ。
「密輸でもしていたんですか?」
「……底荷の代わりですよ。こういう舟は重心が高くなりがちですもんね。お仕事の知恵」
「ふうん。まあいいです」
映姫は焦げ痕だらけになった毛布をばたばたと振り、砂を払い落とす。
「先に進みましょう」
そんなふうに、つい今しがた起きた事象をすっかり忘れてしまったかのように、命じた。
雨はどんどんと粒子を細かくしていって、やがて水分の多い濃い靄のようになってしまった。
「やたらと汁気が多くなってきましたね」
小町は濡れた額をこすりながら、艫に腰かけている映姫に向かって言った。その微動だにしない鼻の頭に、はなたれ小僧のように水滴が大きくできているのが、なんだかおかしい。しかし、それがいよいよ大きく見苦しくなってきたので、いかにも古来より定められた随身員の行儀らしく振る舞いながら、映姫の鼻の下にふやけた懐紙をすいと差し出して、水を吸わせる。
「……失礼しました」
「ありがとうございます」
川を遡り続けていると、流れに緩急がある。はなはだしい急流に対しては、舟に縄索をくくって、岸から曳いて上っていくしかない。そういうときは映姫も舟から降りて、小町の後ろをついて歩いた。
「手伝いましょうか?」
「いや……」
映姫からの提案を小町は断り続けたが、それはただ上下関係からくる遠慮ではないような気がした。なんとなく、この閻魔に、そうした力仕事をさせたくなかった。
「あたい一人でどうにかできますよ」
「しかし舟が不安定です。岩場なんかに突っ込んだら、ばらばらになってしまいますよ」
「うまくやりますって」
なんやかやと言い合いながら急場を凌ぐと、また開けた場所に出る。かすかに流れはあるが、凪いだような川面だ。水温が高く、靄とも湯気ともつかない蒸気が濃い。その向こうに、明らかな人工物の影があった。川の両岸に渡しかけている橋らしい。その下をくぐりながら、その桁と脚の構造とを、どこか背徳的な気分で見上げつつ、一目でわかる異常があった――橋板がすべて外されている。
「戦でもあったんでしょうか」
「いえ。単に打ち捨てられているだけですね。橋は朽ちていますが、戦乱による損傷は無いように見えます。それに両岸どちらも、なにものかが伏せられているというような、良からぬ雰囲気すらありません」
映姫はそう言いながら頭上の橋桁に手を伸ばしてみたが、さすがに届かない。
「橋の幅はちょうど七十二尺あります。かつて、私たちが定めた規格通り――“匠人国ヲ営ムニ、方九里、旁ゴトニ三門アリ。国ノ中ハ九経九緯。経涂ハ九軌ナリ。”」
小町はちょっとくびを傾げてから、思い当たることがあるように言った。
「……うちのカイシャが、各地に行政府を敷いた際の都市計画ですね。周礼の古式に則り、九里四方を城地の面積とする、その正方形の各一辺に、それぞれ三つの門を設け、東西・南北で直角に交差するそれぞれ九条の主要道路を張り巡らせる。道路の幅は当時の馬車の軌間規格の九倍……つまり七十二尺とする」
「その頃の構造がそのまま残っているのも珍しい」
川の水温は遡るごとにどんどんと熱を増した。
橋を抜けると、濃い蒸気の向こうにまた橋が見える。人工物すらも反復的で、きりがないのかと、小町は絶望した。
真っ白な靄の中、音だけが知覚できる世界の全てになる瞬間があった。小町は自分が堂々巡りさせられているように感じる。自分は、最初居眠りしていたあの葦原の霧の中でまだぼんやりしていて、今までの事はただ一場の夢だとか、そんな考えを起こしたくもなる。
「いよいよ何もわからなくなってきましたね」
「あなたはそこにいる」
それだけが確かなことだと言いたげに、すぐそばで映姫の声が聞こえた。小町はひそかに、ほっとさせられるものを感じた。
「……しっかし、こうもまっちろけだと、こないだ地上で見かけた天狗同士の諍いを思い出しますね。あのときも、鴉天狗どもがこんなふうに樹海一帯に霧の煙幕を張りやがりましてね。こっちは仕事をこっそり脱け出しての戦見物だったのに、見せてくれないなんて、わかっていない連中でしたよ」
「小町」
「はい?」
「訓告ならびに一ヶ月の減俸処分」
「……ただ、普段なら鴉天狗を援けるはずの白狼天狗の眼と耳と鼻とが、その時は敵でしょ。あいつら五里霧中でどうするつもりなのかと思っていたら、霧の中からうるさいくらいの音楽が聞こえてきて、それと同時に発光やら爆発やらがあって、方々からぐわちゃぐわちゃと」
その音や光だけでも、きっと白狼天狗たちの鋭敏な感覚には耐えられないものだったろうが、それ以上に思いがけなかったのは、霧に飛び込んでいった鴉天狗たちは、なぜか騒々しいにもかかわらず整然と機動して、濃霧の中なのに極めて統制が取れた行動で、相手の陣地をおし包むよう展開した事だった。
「拍子と音律、調性によって、集団行動を規定したんですね」
「表向きには踊りや音曲の練習と偽って、突貫で調練したらしいですよ」
小町は三本指をすとんと落下させる身振りをした。高高度から地上へ、霧をかき回さないようゆっくり降下していく天狗たちの姿を思い出していたのだ。
「戦争なんて盲将棋よ」
指揮者の大天狗は、配下の管狐の尻を小突き回して采配しながら言ったそうだ。
「だから、盤面の隅々まで見えていると信じ、うぬぼれている連中を出し抜くのなんて、あまりにもたやすいのさ」
やがて霧が晴れた時、鴉天狗たちによる包囲は完了していて、形勢は決まっていた。ある鴉天狗の一族のお家騒動に便乗した白狼天狗の叛乱は、そのようにして鎮圧された。
小町はそういった事件を地上で見物した事がある。
「ま、地の上も下も、血の気が多い事ですわ」
「それでも、彼らは秩序によって混乱を治めようと努力しています。悪いことではない」
映姫のそんな言葉を聞いて、小町は視線をよそに外した。
「……自分らが秩序をもたらしてやろうとは思わないのですね」
理屈の上では、それは可能だった。もちろん、それはどこまでも理屈でしかなくて、実情を考えると――
「私たちにはもう不可能でしょう」
映姫は言った。
「この土地では、彼ら自身が、彼らなりの秩序を見出していくほかない」
二人の付き合いはきわめて浅かったが、それでもわかる事はあった。
四季映姫・ヤマザナドゥは、政治的な芸ができる人物ではないだろう。あくまで文治に徹する官僚の類いで、もっと言ってしまえば事務員のような雰囲気だった。物静かで、仕事ぶりは平凡。華々しい名裁きがあるわけでもなく、息を吸っているのか吐いているのかわからないような顔をしながら、淡々と死者を裁いていく。特筆すべき部分があるといえば、ちょいとばかし説教臭いことくらい。
そんな彼女の、気まぐれな下向の目的はなんだろう、と小町は思ってしまう。
案外、尋ねてみたら気楽に話してくれるかも……。そう思っていると、視界の端にちらり、青白い光が横切った。濃霧の中では本当に一瞬の光芒だ。
「……怨霊かなんかですかね?」
「たしかに彼らが放つ燐光に近いもののようですが――」
言いかけたときには、映姫は立ち上がっていた。
青白い光が右から左から飛び交い、そして両岸から声が――川幅が特に狭隘になっている地形らしく、左右ともに妙に近い喚声が――上がった。声はさんざめくような調子で、攻撃的ではあったが、同時にひどく陽気でもある。
「おそらく妖精です、石合戦です、これは――」
「あの、それよりせめて座って。頭を下げて……」
たしかに、こんな馬鹿げた遊びを楽しげにするのは、妖精くらいのものだろう。川を遡る二人の舟は、いまや焼けた硫黄と燐塊が飛び交う合戦ごっこの間に、するりと滑り込んでしまっていた。
「こんな……」
小町がなにか――どのような卑語を発そうとしたのかは忘れてしまった――言いかけた瞬間、映姫の頭に燃えた硫黄がぶつけられて、髪の毛にさぁっと炎が移った。慌てたのはむしろ小町の方で、棹を放り、足元に置いていたずぶ濡れの毛布を拾うと、飛びつくように映姫の頭にかぶせる。
「だから伏せてくださいって!」
「そんな事より棹を持ちなさい。さっさと先に進むのです」
「顔が燃えたんですよ」
「このままでは舟も燃えますよ」
船底に転がった燃える硫黄の塊を、小町は素手で引っ掴んで川水に投げ捨てた。そのようにどたばたとした舟上の寸劇が終わると、ようやく周囲を見渡す余裕が生まれ、川岸が見えるくらいまで靄が薄くなっている事に気がついた。
妖精たちも、さすがに石合戦を自然に中断して、割り込んできた舟をぼんやり見つめていた。一目見て彼らが異様なのは、その表情だ。目のふちや口のはたがほのかに光っていて、おそらく有毒の燐を化粧の真似事のように顔に塗っているからだ。それらの燃える火が、口や眦が裂けているかのように光っている。だが、それらのぼうとした輝きよりも、彼ら自身の爛れた目口のぎらつきの方が、よほど鋭い。
小町がたじろいでいると、映姫が舟の舳先に立った。
「あの……?」
「棹を持ってください。先に行きましょう」
小町はなにか言いたげな表情になったが、やがて言われた通りにした。
それから、ずっとついてきている。
妖精たちが、だ。彼らは川の両岸にぞろぞろと揃って、遡航していく小舟を陸伝いに追いかけてきている。単なる好奇心からだろうと、初めは小町も思っていた――自分たちが奇妙な旅行者なのは理解している――が、やがて、それだけではないのではないか、とも思い始めていた。
それから、彼女は映姫の背中を見た。
「四季様」
「大丈夫です」
と、前を向いたまま返事をされたが、小町だって、閻魔の焼けた髪が放つ、伽羅のような芳しい香りについて話すつもりはない。
「あなたの心配じゃありませんよ」
失礼な物言いになってしまったが、映姫がまったく気にするふうもないので、話を続ける。
「いったい、どうしてこんな場所に下ってきたんです?……いや。色々と推測できるところはあるんですがね、それにしたってこんな気まぐれに、あたいだけを連れてくるような真似をして」
「政変が起こったと言ったでしょう。もはや是非曲直庁が介入できるような状況ではありませんが、新しい主に、私的に挨拶にうかがうくらいは良いでしょう」
「……それだけ?」
「ええ。それだけです。本当に」
噓くせぇ……といった感情が小町の顔にはあからさまに顕われていたが、映姫は前を向き続けて、なにも言わない。
「でも、あたいまで連れてきちゃって。こっちは公務中だったんですよ」
「ふん。居眠りするのが公務だと言い張るなら、今だって公務中かもしれませんね」
「……いつになったら旧都とやらにたどり着くんです」
小町は話を逸らしながら棹を水面から引き抜き、大きく振ってしずくを飛ばす。その一滴が、映姫の頭にぴしゃりと当たった。それだけの事で、なぜか両岸の妖精たちがざわりとたじろいだが、映姫自身は動じない。
「退屈する気持ちもわかりますが、そんなにいらいらしない方が良いですよ。たとえば湯沸かしをする時、どうすれば最も早く沸騰させられるでしょうか」
「簡単でしょう。火力を最大にすればいい」
変な謎かけをする人だと思いながら、小町はそう答えた。だが映姫の答えは人をからかったようなものだった。
「半分までは正解ですね。完全な正答は、火力を最大にして、その上で湯加減なんか知らないというふうに、そっぽを向いておくことです。そうすれば、無視された湯沸かしは怒り狂って、最速で沸く」
もしかすると彼女は――というより是非曲直庁は、のんきに忘れたなどと言っておいて、あえて旧地獄が沸きあがるのを待っていたのかもしれない。この火をかけられた鍋のような世界と、どう付き合えばいいのかという問題に、自分たちは直面しているのだ。
その音に真っ先に気がついたのは、小町でも映姫でもなく、川の両岸に今や何百と集まって付き従う妖精たちだった。それが波のように身を屈めて、石ばかりの川原に跪き始めた。
「――音です」
映姫も、それを聞きつけて頭を巡らせた。小町にも聞こえてきている。
一聴しただけで、それが音楽だという事はわかった。霧深い陸地からかすかに聞こえてくる、鐘と鼓の音。しかもきちんと調律された音曲だ。この殺風景な景色には似つかわしくない調べで、整然と、小気味よく、上品ささえある旋法だった。
「かつて本庁が採用していた六十律の音階に似ています」
映姫は少したかぶった様子で呟いた。
「そして、ここまで澄んだ鐘の音は、整えられる者が限られている。金属の質の問題もありますからね。特に重要なのは銅・銀・錫の配合で――」
「ですね」
小町もその音律の正確さには驚いていたが、同時にあやしむ心もある。どこの誰が、こんな場所に、このように壮麗な奏楽を伴って、やってくるのか……
やがて黄色っぽい霧の向こうに、集団の影が幅広くぼんやり見える。
「あたい、ちょっと見てきます」
「いえ。一緒に行きましょう。相手は礼を尽くしています。こちらが何者なのか知っているのでしょう」
そう言って岸に船を寄せさせると、映姫はさっさと陸に跳び移ってしまった。
従うしかない小町は、乗ってきた舟を最寄りの崩れ橋の下に引き込んで、橋脚にもやう。
「一応、閻魔様の随身ってことになるんでしょ。見てくれだけはしっかりしときますよ。もうちょっとしっかりした化粧道具を持ってきとけばよかった……」
小町が唇に薄く紅を指しながらぼやく。
映姫は向こうで、妖精たちの有毒物質まみれの顔をじっと眺めていて、
「お化粧というのはそういうものじゃありませんよ」
と一匹を捕まえ、懐から自分の小さな化粧道具を取り出し、くどくどと化粧を教えてやっている。こんな時も変わらぬ説教好きだった。
そのうちに身だしなみを整えた小町は、ずっと舟底に放りだしっぱなしにしていた大鎌を手に取った。こういったものを地獄の吏員が携えているのは、当節の流行だったが、西洋風の文物をこうも無造作に取り入れるところに、是非曲直庁の下級役人たちの、よく言えば開明的、わるく言えばどこか移り気な気風が感じられなくもない。
鎌の長い柄に艶出しの蝋をさっと擦りつけて、随行の準備を整えてから、こっそりと、舟底の酒瓶に手を伸ばしたとき、首を傾げた。
「……あれ?」
「それにしても、その大鎌を見ていると毎回思うのですが……」
「あの、四季様。もしかして私のお酒飲みました?」
「担いでいて、肩や背中をざっくりいかないんですかね」
「あの……」
「絶対に危ないと思うんですけど」
「お酒……」
随身といっても、やるべき事は難しいものではない。いつもよりしゃんとした歩き方をして、映姫の影を踏まぬように十歩の距離を置いて付き従うだけのことだ。
やがてやってきたのは、動物の群れだった。種々雑多で、牛や馬、犬猫、狐狸狢だけでなく、このあたりでは見られない、珍しく貴重な獣たち――虎、獅子、羊、象、犀、麒麟、といったもの――まで見える。これほどの雑然とした内訳にもかかわらず、彼らが整然とした方陣を組み、等速で進むことを実現しているのは、最初に聞こえてきた奏楽によって巧みに統御されているからだろう。完璧な進退を指図している音曲は、ひときわ巨大な亀の背中に望楼を――三階建てだ――建てて、その最上階で奏でられている。
「厳密には六十律ではないようですね」
目の前の統制が取れた集団行動をほれぼれ眺めていると、映姫が言った。
「三分損益法の発展から得られる音階は、正確には五十三律です。たしかにそちらの方が正しい」
やがて動物たちは彼女たちの前で歩みを止めた。
望楼から何者かがするりと降りてくる。少女だった。映姫と小町の足元まで、彼女がゆるゆると歩き、十歩の位置で跪いて、地に額をこすりつけながら三歩の位置までにじり寄ってくるまで、背後の動物たちは一つの唸りも上げず、主と同じように地に伏していた。
「……こんな二人を迎えるためだけにご苦労様ですね」
ただ、小町だけが、つい、ぼやくように言ってしまった。
それに応じたわけではないのだろうが、少女が言う。
「北辰の方角に兆しが見えましたので、お迎えに上がりました」
夜空も無い地下風情に北辰もなにもないだろう、と小町はぼんやり思った。
旧都への道のりは象の背中の天蓋つきの輿の上で、眠たくなる乗り心地だった。
「こういう乗り物には慣れていないんで、落ち着かないんだよ」
小町は腰の据わりが悪いとでも言いたげに、頻繁に尻を浮かせつつ言った。
「わかりますよ」
主人役の少女は二人の前に座して、にこにこしている。胸元に浮かぶ瞳がくりくり動いた。
名前を古明地こいしと名乗った。
「名前は知っています。古明地さとりの妹ですね」
と言ったのは映姫だ。こいしの笑顔に苦いものが混じった。
「切りこむような話題の出し方ね」
「どうせあなたは心が読めるのです。地霊殿の主が代わった挨拶のついで、古明地さとり追放の件について、我々が事情の把握にやってきた事くらいはわかるでしょう」
映姫がそう言い終わった時には、こいしは先ほどの笑顔をもう回復していて、ちらりと輿の外を眺める。なにかを警戒しているのか、虎狼は地上に美しい積分曲線を描きながら周回していた。
「……いまだ地底は平らかではないの。いずれわかるわ」
直接的には答えず、それだけ、ぽつりと言った。
沈黙が流れて、例によって会話の間を嫌った小町が、適当な話題を引き出してくる。
「それにしても、まあ見ていて飽きないですね。この……ええと……珍獣たちは」
「彼らのいくつかは本土固有の生き物ではありませんね」
「四季様、今はそういう――」
「この子には思ったことをさっさと言っておいた方がいい」
止めかけた小町を映姫は振り切って、こいしはクスッと笑った。
「別に構わないわ。……地底はつながっている。こういった動物を輸入できないわけではないし、あなたがたが咎める話でもない。――今、従者の方が、この状態を利用した違法な小遣い稼ぎを、瞬時に十二通りほど思いついた」
「……是非曲直庁が資金繰りに困ったら使っていいですよ」
「私は六十通りほど考えていました」
小町が言い訳がましく釈明するのと、映姫が悪びれもせず表明するのは同時だった。
「そして、そのうち九割がたを、話にもならない手法だと棄却しました。我々のような法曹が法の抜け道を検討する事は、悪事でもなんでもありません」
「なにより、空想を罪にする事はできないものね」
こいしは、それだけはちょっと愉快そうに言った。
「なにかあったようですね」
動物の自発的な鳴き声――狼の遠吠えがした方角に向かって、映姫が首を振った。もちろん、そちらだって真っ白な霧だ。
同時に、こいしが素早く輿から飛び降りて、動物たちの背を島にして渡り、湯けむりの向こうの亀の背の望楼に、身軽にするする登っていく。群れの中で多少の動揺があったのはごく一部で、大半の動物たちは慌てもしておらず、整然と列を作って進んでいた。
こいしの背中を見送りながら、映姫はぽつりと呟いた。
「……彼女はこの地底の情勢が平らかではない、と言った。それについてどう思います?」
小町は、そんな質問をされても、困る。
「わかりませんよ。是非曲直庁がこの土地を放棄してから数百年なんでしょ――その数百年はなんでも起こり得る時間です。……なにも、着任したばっかりのあたいに聞かなくたって」
という恨み言しか、小町の口からは出ない。出しようがない。
群れの道行きは道路に合流していた。道路の幅は非常に広く、整備も重厚で、しっかり下地を搗き固めた上に丹念に敷き詰められた石畳と、煉瓦造りの胸壁で構成されていて、それが霧の向こうにずっと続いている。それだけなら壮観なのだが、さすがに整備が滞っているようで、この旧地獄の環境の中で、石畳の隙間からぼそぼそとした下生えが、小さくもたくましく生育していた。
が、今やそれらの草は牛馬などの家畜動物たちの口の中で咀嚼されている。そんな食事も音楽によって統御されていて、望楼から聞こえる鐘の音の調性が変わるとともに、先頭の一列が速度を緩めて自然に退き、その直後を進んでいた第二列がそのまま先頭に出て、また草を食み始める。
「この道路は私たちが作ったものではありませんね」
動物たちの動きの巧みさはまるきり無視して、映姫が言った。
「さっきも言ったように、私たちは道路の幅員の規格を七十二尺に定めていましたから。この道路の幅は、その三倍から四倍はあります」
「数百年もすればそんなものでしょうね」
こいしがまた動物たちの背中を、飛び石のように身軽に戻ってくる。
「たいしたことではなかったわ。ちょっと落盤がね」
「落盤?」
小町は不安げに頭上の岩盤を仰いだ。分厚い雲と靄の下ですっかり忘れていたが、ここは地底なのだ。
「ええ、落盤。たまにある事ですし、全然小規模なものよ。何百年も前の戦いでは、旧市街の南半分が丸ごと潰されちゃいましたけど」
喋るこいしにとっては、その惨事はもはや過ぎ去った過去になっているようで、なんてことの無いように言った。しかし、そんな話を聞かされた客人の戸惑いも、敏感に読み取っている。
「私たちは昔の杞人のように、天地が崩れ墜ちる事を憂う羽目になっちゃったわけです。もちろん頭の上ばかり警戒するわけにもいかない。今度は底を抜かれる可能性だってある。――でも、あまり心配しすぎるのもよくないわ。こういうのって神経をすり減らしちゃうし……」
「何百年も同じ敵と戦っているわけではないと思いますが――」
「ええ。その頃の敵はもういないわ。でも私たちが反撃したわけじゃなくって……だいたい、このあたりの戦争って、正規の武力衝突にはなりにくいのよね。まず始まるのは大義名分を叫ぶ公式声明、次に大演習による示威行動、それを大々的に宣伝し、時には相手勢力を買収・調略する必要もある……。不利な勢力は士気が低いから、はなから戦闘を避けがち。万が一衝突が起きたとしても、小競り合い以上にはならない。双方、完全な勝利も敗北も不可能で、逃散した勢力は政治的に介入不可能な地域へ逃げ込む。そうすると新しい勢力がやってきて、空白地帯を穴埋めする。それがもう数百年。……これが慢性的な戦争状態なのか、むず痒い平和なのか、その境界は非常に難しい」
こいしは神経質に肩を揺らしながら言った。映姫はまつげの上に凝結した霧の水滴を光らせ、そっけなく答えた。
「……ですが、私はあなた方の平和には興味がありません。あなたたちが秩序を獲得できているかどうか、そこにだけ興味があります」
「気に食わない言いぐさだけど、正しい」
思わず甲高い笑い声をあげたこいしは、ちらりと小町の方を見た。
「あなたの上司はとんだ石地蔵よ」
「良いところもあるんだよ。ほんとに」
せめてもの弁護のつもりで小町は言ったが、映姫は相変わらずむっつりとしていた。
ひときわ高く鼓が鳴らされたのは、隊列が城門をくぐったからだ。
それまでは「市街に入りました」とこいしに言われても、道路の胸壁が消えただけでぴんとこない鄙びた郊外の風景ばかりだったが、さすがに門を通過すると違う。大路は広く、建造物は整然と並んでいた。
「ちょっと北側の市に寄るわ」
こいしがそう言って、隊列が旧都の旧市街(なんだか入れ子構造の言い回し)に踏み入ったときも、その境界がすぐにわかった。大路の幅員が明らかに狭まって、道路の舗装にも古くさい形式が遺されていたからだ。
「……あなた方の都市計画が、私たちの旧都の雛型になっている事は認めるしかありません」
誰かしらの心の動きを読んだのか、こいしは“私たちの旧都”をあえて強調しながら言った。
「ただ、それが実情にはそぐわない計画だったのも確かよ。あなたたちの計画は人工的すぎ儀礼的すぎ思想的すぎた。……べつにその失敗を論うつもりは無いけど」
「余人はとやかく言いますが、ものごとの明確な整理によって、たしかな秩序を見せつけなければならない時代でした。四角四面な計画は良し悪しでは無く、必要に迫られて行われた事です」
北の市は名ばかりのがらんとした広場でしかなく、今は例によって、旧地獄特有の濃い靄に満たされていた。その中央には、なにか白い薪のようなものがうずたかく積まれていた。
「昔はちゃんとした市場でもあったんだけど、都市の拡張によって経済機能は移動しちゃったの。今は刑場になってる」
「……刑場?」
小町はきょろきょろと周囲を見回す。死のにおいは既に無かったが、少ない人通りは足早だ。霧に湿った地面は黒々としていて、なんだか別のものに濡れているような連想をさせる。彼女たちを輿に載せた象はそのまま広場を離れて行こうとしているが、他の動物たちの多くが後に残って、白いものの山を崩し始めた。
「……彼らには処刑された動物たちの骨を回収する仕事があります」
こいしは素っ気なく言って、象を先に進ませた。
御殿の影が、白んだ先に見えた。門が開いている。こいしが前もって先遣をやって、開かせていたのだろう。内部は庭園が広く、そこから建物に上がっても奥座敷までの廊下が、更にだらだらと長い。
このもったいぶった距離感は少し面白いな、と小町はこっそり思うが、ふと視線を浮かせるとこいしがニヤリと笑いかけてきて、微妙な気分になった。
奥座敷では、鬼が待っている。
「……こいしちゃん、今度はどんな動物を拾ってきたの?」
呆れたような口調で彼女は言った。こいしは答える。
「閻魔様と、その部下の死神よ」
「ふうん。色々拾ってくるのはいいけど、ちゃんと世話するんだよ」
「……あたいら、エンマサマとシニガミっていう珍獣だと思われているんじゃないすか」
小町がぼそりと呟き、映姫は構わず、こいしの頭越しに言った。
「鬼ですか。たしかに地獄の妖怪を統率する格としては十分ですね」
「強そうですもんね」
「なんだ、犬猫の類いじゃなかったんだ」
鬼は苦笑いしながら、囁いただけのくせに妙にはっきりした声音を、珍獣二人の耳に伝えた。
「失礼しました。ここが元は閻魔様が治めていた土地だったと聞いていたけれど、なるほどね。ご苦労様です」
「このたび、旧地獄の支配者の交代が起きたと風の噂に聞きましたので、ご挨拶に参りました」
「支配者、ね」
鬼は、ちょっと視線を逸らした。心が読めなくても彼女の複雑な感情はわかる。自分が妖怪たちを束ねる格式だけに利用されていて、実質の支配者ではないというのは、複雑な感情ではあるだろう。
その感情を、心を読める古明地こいしは、どう思っているのだろうか。
星熊勇儀と名乗った鬼は、しかし渦巻く感情をあくまで表面上はさっぱり処理できる人物のようだった。やがて饗応の準備が彼らの周囲でとんとんと整っていき、客二人は料理にありついた。
「……まあ、ゆっくりしていってよ。このあたりは温泉もあるしさ、おすすめの穴場でも教えてやろうか?」
「なんだか旅館街の案内所みたいですね」
皮肉にもならないくらい軽薄に言ったのは、こいしだった。
熱い。
湯の話だ。小町はさっきから、ひたすらそればかり考えている。そうして、顔が茹ったように真っ赤にして湯に浸かっているので、映姫もさすがに心配し始めていた。
「……小町」
「これでも熱い湯は好きな方なんですけどね……」
「この温泉も広いですし、向こう側はよその湧水が混じって、ぬるくなっているそうですよ。そっちに行ったらどうです?」
「そうはいっても、あたいはあなたの随身なのでねえ……」
朦朧とした意識でそれだけを言って、ぐったりと岩場の縁にすがりついている。
「のぼせて使い物にならない方がよほど困りますよ。さあさ、あっち行きなさい」
追い払う意図がわかりやすすぎたかなと思いつつも、湯を上がった小町が温泉の向こう側にふらふら歩いていったのを、映姫は見送った。
「……私も、正直に言うとぬるま湯の方が好きなの」
古明地こいしは顔を真っ赤にしながら笑って言った。
「鬼だって、こんなところはそう入らないわ」
「熱い方が気持ちいいじゃないですか」
「感性の違いね」
と、こいしは温泉の一段高い場所に足組んで腰かけて、上半身の素肌をいくらか涼しい空気に曝した。
「あなたって、世間一般からだいぶズレてる人なのよ」
「かもしれませんね。でも私の事なんてどうだっていいでしょう」
映姫は湯の上に腕を浮かべた。みずみずしい肌はとろりとした鉱泉をはじいて、ほんのり赤く色づいている。
「……あなたはどうしてお姉さんを追放したのです?」
「話題の振りかた下手くそですか?」
とはいえ不快ではないふうな笑い方をして、こいしは足を組みかえる。映姫は目を逸らした。
「でも私は、古明地さとりが――お姉ちゃんが嫌いなわけじゃなかったのよ。それだけは信じて」
「信じましょう。たとえ姉妹の個人的な仲が良くても、他の要因から相争う羽目になる事は可能です」
こいしは舌打ちをしながら風呂から足を抜き出して、膝を抱えこむように座る。
「……私たちがやったのは、世間一般の姉妹喧嘩ではないわ。……いえ、でも、“さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化すること”、それがあんたらの仕事なのね」
「相違を心に留めておくことも重要です。我々は矛盾した作業を同時に行っている」
「うん。でも理屈の話はここまでにしておきましょ。問題は、私とお姉ちゃんの間になにが起きたか、だもんね。結局姉妹喧嘩みたい」
こいしは笑いながらあられもなくあぐらをかいたが、映姫はもう目を逸らさなかった。
「話してください。何が起こったんです?」
「私はお姉ちゃんを罰して、追放したの。でもあれはお姉ちゃんじゃない。なにか……怨霊かなにかに憑りつかれて、おかしくなって。だから私は、彼女の手足をくくり、目と口とを縫い合わせて、川に流した」
「ぬっる……」
小野塚小町は温泉の熱くない方まで歩いて、さすがに湯温が低すぎたので少し戻り、また進み、ちょうど良い温度の湯を探そうと、行ったり来たり右往左往していた。
「中間ってもんがないのかいここは……」
ぶつくさ言いながら、ちょうど湯かき棒らしき物体を見つけて、水と湯が交わっているらしい境界のあたりをかき混ぜ、なんとか良いようにして湯に浸かると、全身から力を抜いて仰ぐ。もちろん星などあるはずもないのだが、はるか頭上、岩盤の天蓋には、夜光性の鉱石かなにかが含まれているのか、ちらちらと光っていた。
この温泉は、本当に穴場といえる場所らしい。小町たちの一行以外には誰もいない様子だ。
「……ま、あっちのお二方がお堅い話をしている間、こっちは温泉旅行気分だわ」
口に出してそう言ってしまったのは、やはり懸念があるからだろう。
思い返すのは、刑場で処刑された動物たちの事だった。彼らは古明地さとりの与党で、主人が追放された後に不穏な動きがあったため粛清したのだと、こいしは語った。処刑後その肉体は丁寧に捌かれて、腸は焼かれ、骨は一定期間刑場に晒し、肉は塩漬けにして自分に従ってくれた者たちに振る舞ったとか。
「“夏、漢、梁王彭越ヲ誅シ、之ヲ醢ニシ”……か」
なんとも血なまぐさい権力闘争の顛末だが、意外なことに話を聞いた映姫は、良しとも悪しとも言わなかった。
この超然とした態度は是非曲直庁の高級官僚によくある傾向だったが、下っ端吏員の小町には浮世離れしすぎていて、気に食わない部分でもある。
といって、その態度に非を唱える事ができないのも、わかってはいる。この世界は自分たちの制御を離れているのだ。自分たちにできる事は少ない。それでも、何か手を差し伸べて、導いてやりたい気持ちもあった(導けるような立場か?)。今の旧地獄の情勢は、間違いなく間違っていた――しかしその断定は正しいだろうか? たぶん違うだろう。感情が、言葉にしたとたんに不明瞭で、自信無いものになっていた。その次に思いついた、歯痒いという言い回しも、散文的で妙だ。もっと即物な表現が欲しい。
しかし思い通りの言葉が上手く出てこないまま、物思いはすぐそばにやってきた人物に邪魔された。
「……ちぇっ、ここはちょうどいい湯加減ってのがないのかしら」
少女はそんな事をぼやきながら、湯の中に身を滑り込ませる。素早く、波も立てないなめらかさだ。しかしその後の行状は少々行儀が悪くて、頭まで湯に浸かり、温泉の中を泳ぎ始めていた。小町もじろじろと眺めるつもりはなかったのだが、黒髪が湯の中に浮かんでいるのが、視界の端に見えた。わざわざ声をかけてまで窘めるつもりはないが、気になる。
見なかった事にして端唄でもやっていようと、小町は思った。
「三番目のすずめのいうことにゃ、と――」
そのとき、水中の少女が、ざばあっと、みずみずしいばかりの体を水面に曝した。黒い毛髪に白い肌、丸い腰つき。その上をすべり落ちていく水が、真っ赤に染まっている。
小町はぎょっとして、湯を眺めた。赤いものは自分の手元にもじわじわと、薄いながらも確実に近づいてきている。それまで鉱泉由来だと思っていた鉄くさい匂いも、途端に気になってきて、そこに生ぐさい磯くささまで混じった。
彼女はそのまま勢い良く湯から飛び出て、歩き去っていった。
「なんだいありゃあ……」
後には血で穢されただけの温泉が残った。
温泉を出た後の道中は、三人とも言葉が少ない。
会話が弾まない最大の原因は、古明地こいしが完全に湯にのぼせてしまった事だった。おしゃべり係がぐったりしていると、あとの二人も口を開く気が起こらなかった。彼らはそのまま、動物たちの群れに乗って運ばれていく。その揺れの中で、小町もうとうと、舟を漕ぎ始めた。
映姫だけがものうげに起きていて、旧地獄の移動していく風景を眺めていた。靄は晴れていたので、そう遠くない場所に灼熱地獄跡の威容を見る事もできる。地底の中でもいっそう昏く陰になった場所に、赤く燃える光だけが地面を焦がしている。その方角から、悲鳴のようにも地鳴りのようにも聞こえる空気のふるえが、びいんと伝わってきた。
映姫は鼻で笑うようなため息をついた。こんなもの、地獄にありがちな、典型的で、類型的な光景だ。恐れる必要はない。
「……そう。“恐れなくていいわ。この場所にはあらゆる騒音が満ちているけれど、恐れる必要はない”」
こいしが、少し体調を持ち直したようで、身をよじって起きながら言った。
「私だって、初めてここに来た時はこの土地が嫌でしょうがなかった。でも、次第に、嫌いじゃなれなくなった。恋みたいにね。閻魔様は恋をしたことはおあり?――ねえのかよ、つまんねえ」
自問自答のようにすらすらと、最後には地金が出たように、ぶっきらぼうになった。
「でも、嫌いだろうが嫌いじゃなかろうが、最初の頃はそれどころじゃなかったわけよ。旧都に入城した私たちにはやるべき仕事がたくさんあったし、集団としての課題もあったしね」
こいしはそう言ってしばらく黙り込んだ。吐き気がこみあげてきたのか、輿から身を乗り出して、嘔吐する。吐いたものは豚が食った。
「……まずひとつ。私たちは是非曲直庁にこの土地を託されましたが、ここは様々な妖怪が流れ着く場所でもあった。――私たちさとり風情なんぞに、彼らをまとめる格は無かったわ。格式は超大事よ。雑多な連中が集まって、それを束ねる事ができるのは、鬼の星熊勇儀だけだった」
彼女とは互いに支え合い、多くを助けられました、とこいしは言った。
「旧都の統治がある程度落ち着いたとき、私たちは彼女を推し立てて、灼熱地獄に引っ込むつもりだったし、事実そうしました。ですが、私たち姉妹は彼女の与党から常に警戒され続けた」
心を読めると、そのあたりの気苦労は大変でしょう、と映姫はぼんやりと思った。こいしは微笑む。
「そう。彼らはただ、そう思っていただけ。別に本気で害するつもりは無かったでしょうし、私たちだってそこは心得ていた。空想を罪にすることはできないし、こちらだって事を荒立てるつもりはなかった……」
こいしはそこで口をつぐむと、それ以上の打ち明け話をやめて、着いたわと言って輿を降りた。
彼女たちは灼熱地獄跡の真上に建つ館に至ったのだ。
「小町」
映姫は同乗者を起こそうと声をかけたが、小野塚小町は目を覚まさない。ゆすってもはたいても起きないので、唇をその耳元に寄せて、なにごとかをぽそぽそと囁いた。
「ふゎ?」
小町は飛び起きた。その後でぼんやりと首筋を撫で、わずかな間を空けて、はっと言う。
「……あの、なんか今、ものすごくやらしい事しました?」
「なんの話です?」
映姫がとぼけながらさっさと輿を降り始めたので、小町も追いかけて地面に降り立ち、屋敷の様式を眺めて言った。
「西洋風ですね」
この種の建築の知識はさっぱり無いが、それくらいはわかる。
「ですが伝統的なものではないですね。全体としてはむしろ、仏教寺院を西洋風に解釈したものと表現した方が近い」
「詳しいんですか?」
「以前、庁舎建て替えの際に、施設を古代ギリシャ風にしようだなんて開明派の意見がありましてね。見積もり担当が私でした。予算を提示して突っぱねてやりましたよ」
映姫は、めずらしく個人的感情を覗かせるようにニヤリと笑った。
「それはともかく……まあ見てください。柱礎の形式は独特、上部構造も独自の解釈がなされていて、ドーリア式建築のトリグリフの間にある、メトープとアバクスの違いも分からないような人々が模倣しようとした事は明らかです」
「手厳しいっすね……まあ、形から入るのは悪いことではありませんよ」
「特に意味もなく大鎌を担いでいるあなたが言うと、だいぶ説得力がありますね。……それ、本当に怪我しないんですか?」
アーチ状の入り口をくぐって屋内に入ってみると、ほんのり暖かい。どうやら下の階層にある灼熱地獄跡から、排熱をひいて暖房にしているらしい。
「形式としてはよくあるものですが、あの熱をそのままひいてくるわけにはいきませんよね。温度管理はどうやっているのでしょう。いくつか方法は考えられますが――」
映姫がぶつぶつ呟く横で、小町はもうちょっと曖昧な感心をもって、エントランスの調度を眺めていた。広く、薄暗く、だが荘厳さは少なめに。装飾にはごつごつとした野趣もある。たしかにごった煮だ、と思った。古明地姉妹の好みは、かつての旧都のような古式に則った四角四面の正確さではなく、このごちゃついた文化の混沌の方だったのだろう。
そうした調度をあれこれ眺めて、さほど待たされたという不満もないうちに、こいしが戻ってきた。
「獣くさい屋敷で申し訳ありません」
と小さく頭を下げる様子は、年若い少女の見た目にしては老成しすぎて、物腰も低すぎた。
「不満もあるでしょうけれど、今日はこの、地霊殿に宿泊していただきます」
「蚤虱が出なければ、あたいは文句言いませんよ」
「うちの部下は皮膚が繊細らしいです」
「ええ。その部下からあなたは、“この方は鉄面皮ですから、蚊にも刺されないでしょうけれど”……って思われているわ」
映姫にひと睨みされた小町は知らん顔して、床に嵌め込まれたステンドグラスを、考え深げに眺め始めた。
「……今日のところは休ませてもらいましょう。お湯に浸かりながら、かしこまって会議する以上の事を話せましたし」
「なるほど。温泉外交」
「結局、全部取っ払った裸のつきあいが外交に必要なこともありますからね」
「いかがわしい意味ではなく、ね」
こいしは笑いながら言って、映姫と小町を客室に案内しかけて、振り返って尋ねた。
「――ところで、宿泊は別々でよかったです……よね?」
「あたいらは別に裸のつきあいとかありませんからね」
「今日のところはもう、彼女の減らず口は聞きたくありませんね」
別々の客室に案内された小町と映姫だったが、彼女たちが入った室内で目にしたもの――部屋の構造、ベッド、サイドテーブル、物書き机、ランプ、暖房装置、クローゼット、壁に掛かった絵画など――は、ほぼ同じだった。
なにはともあれ、小町はベッドに倒れ込む。マットレスが柔らかすぎ、体が大きく沈み込んだ。
なにはともあれ、映姫は壁をなぞり調度を揺すり、最後に床に顔を伏せて、絨毯に残っている僅かな足跡を、気が済むまで透かし見た。
小町はベッドの上で寝返りを打った。
映姫はベッドの上に用意されていたナイトガウンに着替えると、椅子に腰かけて、じっと考えにふけり始めた。
どこかで時計の鐘が鳴り、またふたたび時計の鐘が鳴るまで、映姫は考え続けていた。
一方の小町は、柔らかすぎるマットレスに慣れず、ベッドから転げ落ちる。
しばらく絨毯の上をごろごろしていた小町だったが、やがて現実を受け入れて起き上がるしかなくなる時がきた。
「……どれだけ寝られたんだろう」
どれだけとは、単純な睡眠の量ではなく、質の問題だった。深い眠りだった気もするし、ごく浅く、うなされるようなまどろみだけだった気もする。中途半端な眠り方をしてしまった確信だけが残った。
うんざりと身を起こし、大きく伸びをしてベッドサイドに寄りかかると、あらためて部屋を見回した。なんだか息苦しくて、窓を開けたかったが、外に通じるものは、窓やベランダはおろか排気孔すら無い。灼熱地獄の熱波のせいだろう。
サイドテーブルにあった水差しを半分ほど空にした後で、ひんやりした空気が廊下から流れ込んできているのを敏感に感じとって、ドアを開けた。
「……みぎ、ひだり、みぎ。」
右側が映姫に割り当てられた客室――右、right、Right。あの人はいつも正しい。
小町は廊下に出た。別に拘束されているわけでもないのだし、遠慮する必要もあるまい。
暗い廊下の向こうで、ふぁんと、澄んだ金属音のよう。かすかな、しかし断続的に続く音が聞こえたので、小町はその根源を探り、まだ夢の中といった歩調で進んだ。
夢見心地は、音と空間がそうさせている部分もあるだろう。廊下は薄暗く、曖昧で、構造としては建物の体裁をとっているものの、ある一歩から床材が羊毛のカーペットではなく、足を踏み出すごとに沈み込んでいくような感触になった。どうしてだろうと手で探ると、何重にも敷き詰められた毛皮だった。嫌な予感に襲われそうになったが、できるだけなにも考えないようにした。
全体的に、下へ下へと沈むように降りていく道行きだったと思う。たどり着いたのは石造りの一室で、そこから小さく、かん高い鐘の音が漏れ聞こえている。部屋の壁には六段九列の架台が備えつけられていて、そこに五十三の鐘がぶら下がっていた。古明地こいしはこちらに背を向けて、静かに、もったいぶった動きで鐘を鳴らしている。
「……別に見ちゃいけないものじゃないわ」
踵を返して、毛皮の道をこっそりと帰ろうとした小町だが、そう呼び止める声には、素直に反応するしかなかった。
「……ごめんよ。探検していたら道に迷っちゃった」
「あなたは別に迷っていないわ。ただ、屋敷内を、道があるように進んだだけ。もっとも偉大な迷宮とは入り口も出口も無い広大な荒野ですから」
そう言いながら、石室の隅にそっけなく並べられていたテーブルと二脚の椅子を指し示して、座るように促した。
「話し相手になってちょうだい……最近寝不足なのよ。この鐘の音を聞いてからおねむになると、ちょっとは寝られるんだけど……」
「ふうん。この手の金属音は魔除けとして使われていた、というのがあたいらの理解だけど」
だから妖怪にとっては天敵の音のはずだ。
「一般的にはそう言われるけれど、あれは金気のみを恐れたわけではないわ。耳障りな、粗野な金属たちだから恐れた。私たちはちょっと感受性が強すぎたのよ」
こいしはそう主張しながら、爪の先でちんちんとはじくように鐘を鳴らす。
「――この辺の鉱脈からは、質の良い金属が出るのよね。少なくとも楽器としては。とても綺麗で、澄んだ音が出る。音のばらつきも少なくて、精度がいい」
「五十三律なんて煩瑣な音律を作れるくらいなんだから、そうなんだろうね」
小町は、映姫の言を思い出しながら話を合わせた。ついでに、三分損益法の無限の繰り返しによって、音階を無限に分割しようとする試みについても考えてみた。そうして、音階が実用的でなくなってもやり続ける。そういえば昔、似たような想像をしたことがあったっけ。
「“……今ちょうど、無限に薄っぺらい紙からなる、無限に薄っぺらい経典について考えていたんです。そしてそれは既に校了したものがここに存在しています――いるはずです。その経典は常にそこにあるし、どこにもないし、誰にでも読めるし、読む必要すらない……”」
こいしは心を読んだのか、ぽつりと言った。意外そうな口ぶりだった。
「昔は印刷屋さんだったんですか」
「お役所内の編集部だよ。あまり仕事はさせてもらえなかったけどねえ……」
「実用的でない夢想をするからですよ」
「返す言葉もございません……」
「でも、そういう妄言のたぐいも嫌いじゃないわ。“予レ嘗ニ女ノ為ニ之ヲ妄言セン。女、以テ之ヲ妄聴セヨ。”……大切なことだと思うもの」
こいしは、嫌いではないといったふうに笑う。どんなに整えられた鐘の音よりも透き通った、ゆらぎのある笑い声だったが、当人はその鐘に向き直って、ふと尋ねる。
「……是非曲直庁の官庁広報の段組みは、どんなものですか?」
「ん?……まあ場合によるけど、基本的には縦書きで、複数の段組み」
「行の動きは、右から左、そして上から下へ?」
「そうでない場合は、あまり見たことがない」
「確かに。この際だから様々な例外は捨てた方がいい」
そう言いながら、こいしは六段九列、五十四の架台に掛かっている五十三の鐘を眺め続け、そのうち一つを気まぐれのように移動させた。
「……ああ、それにしても。雲に隠れた夜半の月は、どこに行ったのでしょう」
そう言ったまま、こいしが飛び出していった毛皮の階段を呆然と眺めていると、その暗闇から、ナイトガウン姿の四季映姫・ヤマザナドゥが、つかつかと降りてきた。
「ふうん。ここが例の鐘室ですか」
と言うので、何かしらの事情は知っているらしい。小町は呆れ果てたように言った。
「……変人ですね。彼女は」
「すっかり狂ってしまっています」
小町が穏当な表現に留めようとしたところを、映姫は断言した。
「ですが無理もありません。肉親を追放して、子飼いの郎党まで粛清する羽目になれば、そうならない方がおかしい神経というものです」
「いったい何が起きたのやら」
「原因に関してはあまり教えてもらえませんでしたが、おおかたの予想はつきます。勢力の分裂、方針の食い違い、自分を支える家の子らからの突き上げ。全てがおかしな方向に転べば、こうなる」
「血なまぐせえ」
小町は伝法調に吐き捨てた。
「地獄みたな土地だ」
「旧地獄です」
映姫はさっと訂正してから、ぽつりと
「彼女たち姉妹の、なにが、どう間違ったのでしょうか……」
そう呟いた時だけは、映姫の一私人としての嘆息が混じっているように思えたが、直後には気を取り直して、古明地姉妹に何が起きたのか、事実としてわかる範囲のみを語り始めた。
・是非曲直庁から旧地獄の管理を委託された古明地姉妹は、旧都方面の統治は星熊勇儀に任せて、鬼という妖怪の元締めが持つ、確かな格式によって、この土地に集まる雑多な妖怪たちを統制しようとした。
・そうして勇儀を擁立しつつ、古明地姉妹らは灼熱地獄跡に引っ込み、その管理をもっぱら行いながら、私的な相談役として勇儀を扶ける事で、旧都への影響力を維持し続けた。
・だがこの方法は、星熊勇儀と古明地姉妹の力関係に奇妙なねじれを生じさせる事につながった。
・仮にこの状態を本人たちが納得しようとしても、彼女たちそれぞれにまとわりつく与党がそれを許さない。
・この微妙な力関係の中で、いつだって意見の一致を見せていたはずの古明地さとりと古明地こいしの間に、なにか、どうしようもない方針の食い違いが生じた。
そんなある日、二人が野で馬に乗って遊んでいた折、その手綱が偶然、さとりの体にくるりと絡まった。それ自体は笑い話のような情景だ。しかし次の瞬間、古明地こいしは閃きを得たように、自由を失った姉に無我夢中で飛び掛かり、相手の全身を手綱で引っ括る。そのまま彼女は姉を地下の部屋に引きずり込み、この鐘の前で跪かせると、三つの瞼と口までぴっちり縫合して、追放してしまった。
「それがこの鐘室で起きた事件だそうです」
「うーむ、“長楽ノ鐘室ニ斬ラル”……」
「ですが古明地さとりは斬られていません。手足を括って川に流したとはいえ、あくまで命だけは助けた」
「肉親の情があったのかも」
「だとすれば愚かな話ですね」
本気で愚かと思っているのか、わからない口ぶりで映姫は言った。
「まず、実の姉を手にかけようとしたのがそもそも愚かです。その後で気まぐれに助命した事は、更に愚かです。これはめちゃめちゃで、道理に合わない話ですよ」
でも、そんな程度の情緒的な矛盾、市井の事件でもいくらだって起きていますよ……などとは小町も言わない。
映姫は言葉を続けた。
「ただひとつ、彼女は気になる事を言っていました。怨霊かなにかが、姉を借りて悪さをしていたのだと。だからこうする羽目になったのだと」
「……あたいには、妹ちゃんの方がよほど怨霊に憑りつかれているように見えますがね」
「そういう見方もできます。あるいは、姉の物狂いをそのように表現しただけなのか」
「だとすればかなり人間風の表現っすね」
わからない事だらけです、と映姫は言った。
「こんな情勢下で、なぜか彼女は私を旧地獄に招待しました」
「あ、やっぱり呼ばれていたんだ……」
「最初は、私と顔を合わせる事で地霊殿の新当主であることを内外に見せつけるつもりなのかと思いました。……実際に、星熊勇儀とも会見させられましたからね。でも、なにか違和感がある」
なまで見る古明地こいし自身の態度が、映姫にはどうしても引っかかるのだと言った。小町は小さくうつむく。
「……政治的には必要だとわかっていても、嫌々やってるんでしょ。よくある話ですよ。そりゃ、あんな女の子が――というのは可哀想ですけれどね」
「いずれにせよ、もう一方の証人として古明地さとりを探す必要がある」
四季映姫・ヤマザナドゥがそう言ったので、小町はぎくりとした。
「是非曲直庁が故地の紛争に介入するんですか?」
「というわけにもいきません。あくまで個人でできる範囲で、ですね。そもそも私たちには探すあてが無い――古明地こいしに教えてもらわなければ」
「教えてくれるでしょうかねぇ」
「もしかすると、すでに示唆はなされているのかもしれない」
映姫は正面を見据え続けている。視線の先にあるのは鐘をかけてある台だ。
「ふむ。五十四の架台に五十三の鐘ですか。そして途中、なぜか一箇所だけ歯抜けにさせられている」
「さっき気まぐれに動かして行きましたから――」
言いかけて、小町はふと考え直した。
「……その後で、なぜか是非曲直庁の官報の話になりました。文章の段組みの話。複数の段からなっていて、縦書きの行が、右から左、上から下へと流れる」
そう言って、小町もまた、六段九列の架台に向き直る。
隣の映姫は、思考そのままに言葉を出力しているかのように囁いた。
「なるほど。その法則をこの架台に照らし合わせると、空けられた一つは四十五番目になります。……五十四といえば源氏物語ですね。源氏の第四十五帖は?」
小町は舌を鳴らしてから、唇だけささやかに動かして答えた。
「“橋姫”」
翌朝、小町は朝食の前に地霊殿から逐電してしまっていた。
「あっそ、まあいいわ」
古明地こいしは食堂にやってきた映姫に告げられて、あっさりとそれを受け入れた。
「この館にうんざりしたのかもしれませんね」
「無理ないわ、私だってうんざりよ。――ところで、そのへんから一匹選んでちょうだい」
と言うのは、この食堂の床には牛・豚・鶏から始まって、たくさんの家畜がうろうろとたむろしていたからだ。それにしても、お世辞にも飼育環境が良いとは言えない。映姫の足元にも彼らの排泄物が堆積していた。
「そいつを潰して朝ごはんにしましょう」
「……私は、強いて乞われでもしなければ、好んで肉食はしませんので」
「へー。別にいいけど。――じゃあ私はその鶏にしましょ」
こいしが無造作に指し示した鶏が厨房に連れて行かれるのを、映姫はじっと見つめながら口を開いた。
「……小町は橋姫を探すようです」
「いいんじゃない。彼女は難しい人だけれど、別に悪人じゃないよ」
こいしは食堂の高い天井を眺めながら、また呟いた。
「でもさ……悪いこともしていないのに落ちぶれたりおかしな事になるから、人は嫉妬するし、壊れもするのよ。まともぶっているあんたらって、そこらへんわかってんの?」
同じ頃、小野塚小町はせめて朝飯くらい食べてから逃げ出せばよかった、と後悔していた。
「“もっとも偉大な迷宮とは入り口も出口も無い広大な荒野”……」
目の前に広がる土地を見て、足元のごろごろとした石に躓きながら、古明地こいしの言葉をぽつりと思い出す。確かにそうだ。ここは地獄で、果てない迷宮だ。空中に飛び上がって見回しても、蒸気が分厚くて見通しは良くない。古明地こいしが率いる隊列は、その迷宮の中を整然と行き、道路から外れて無人の野を行っていた。どうして彼らはあの霧の中で迷わなかったのだろう? どうせなにか、そうした感覚の聡い動物が、地磁気とかなんとか、とにかく何かしらを感知しているのだろうけれど……
雨まで降ってきている。涙のようになまぬるい雨だった。
そもそもの話、橋姫を探すこと自体、正しい行動なのかわからない。古明地こいしになぶられているのではないかとも思った。一方がもう一方を排撃する事すらした姉妹が、相手を見つけ出す手掛かりを提示してくれるとは、小町には思えなかった。
しかし、四季映姫・ヤマザナドゥには、なにか確信するものがあるようだった。その確信を否定する自信がない小町としては、気持ちが強い相手に押し切られるしかない。
「とはいえ、もうちょっと計画を練ってから飛び出せばよかった……」
「いいえ。あなたは今すぐ地霊殿から出立するべきです」
記憶の中の映姫がそう言った。
「彼女はもう、十分な手掛かりを与えてくれたのでしょう。あなたはただ一つだけ得た手掛かりのみで、古明地さとりを探し出す事がきっと可能です」
「そりゃ、橋姫を探せばいいだけなら、そうかもしれませんが……」
「なんです?」
「そうしようにも、私たちではこの土地は不案内です。旧都に協力を求める事になりますよね。でも彼らと今の地霊殿の関係はどうも――」
「自分で答えを言っているじゃないですか。他者の協力なんて必要ありません。右も左もわからない私たちでも、たった一つの手がかりだけで古明地さとりを発見する事は可能です」
映姫は、じっと小町の顔を見据えながら、きっぱりと言った。
「忘れてならないのは、古明地こいしが狂っていようが病んでいようが、とても信じられなくても、彼女を信じることです。ただ信じ抜くことです」
小町は大きくため息をついた。だが、あの地霊殿に漂う狂気からさっさと逃げ出せて安心したことも、また事実だ。
「あんな場所に居残るのと、こうして迷子になっているの、どちらが辛いか……」
案外、自分は楽な道を選んだのかもしれない、とも思った。
とにかく考えを巡らせてみる。
橋姫が川にいるとは限らない。橋というものは、河川や渓谷、海峡の両岸に渡される建築だけではない。あちらとこちらの境界という観念的なものかもしれない。あちらとこちらの世界を繋げるものという思想的なものかもしれない。橋姫だから川のはたに住んでいるに決まっているという考えは、独りよがりな想像でしかない……
それでも小町には確信があった――本当に、古明地こいしが古明地さとりを自分たちに探して欲しいのなら、橋姫をそんな象徴の中に紛れ込ませるはずがない。
だとしても、現実にある川の道行きもまた、気まぐれに伸び入り組んでいる。複雑かつ膨大な分岐と合流があるだろう。これもまた天然の迷宮だ。そんな地帯のどこを探せばよいのか。思慮分別のある人間ほど、難しく考えてしまうかもしれない……
それでも小町には確信があった――本当に、古明地こいしが古明地さとりを自分たちに探して欲しいのなら、橋姫をそんな解明不可能な複雑さの中に隠すはずがない。
だから、自分が辿るべきは単純な迷路。多少曲がりくねってはいても、一本道からなる迷路に違いない。でなければこの謎かけは破綻している。たしかに映姫が言った通りだ。これは、古明地こいしを信じることで初めて成立する謎かけだった。
小町は立ち止まる。
目の前には小川が流れていた。地霊殿の、灼熱地獄跡近くにある小さな流れ。他にも似たものは見かけたが、これよりか細く、すぐ枯れてしまいそうなものだったり、あるいはすぐ近くの地熱にあてられて、濛々たる湯煙を上げていた。
彼女が探し求めていた条件――ほどほどの幅と深さを持つ、ほどほどの水温の川は、探す限りではこの辺りでこれだけだった。
ここでいいのだろうと、小町はなかばなげやりに考えながら、手にしていた大鎌を足元に突き立てた。おそらく、古明地さとりは目と口とを縫い合わされ、手足をくくられて、この川に流されたのだ。もう、とりあえず、そういう事でいいだろう。
小野塚小町はそこに身を投じた。
ぬるい河水で、思わずぼんやりしてしまうようなのろのろした流れだったが、間違いなく小町は流されていた。
仰向けに、顔を水面に出す形でぼんやり流れていく。手足の力を抜いて、だらんとしていたが、ふと、その手を川の底へと伸ばす。川底を這う水流を指先がとらえて、素早く彼女の指の股をすり抜けていく。
底流――と思った瞬間、小町はすとんと、底が抜け落ちたような流れに巻き込まれていた。
思わず息をつめて、身をすくめた。目を開く勇気はなかった。そうしていれば、ひどいことになっても気がつかないと信じたし、事実そうだった。ふやけた耳が、ごつごつした岩壁にざっくりと切り裂かれたのにも気がつかなかった。髪の毛がひとつかみ、同じように絡まって引っこ抜かれてしまった事に気がついたのも、あとの事だ。だが、その銭禿は後までしばらく残った。
気がつくと熱波の中に身を焼かれて、全身にまとわりつく水分が一瞬で蒸発した。髪の毛先と眉が焦げ、まぶたの向こうが真っ赤に燃えていて、目口を開いていなくて良かったと思う……開いていれば、一瞬で視界を潰され、喉を焼かれていただろう……そう考えているうちに、気がつくと、小町は最初と同じように、のんびりぷかぷか、ぬるい川の流れに浮いている。それまでの冒険など無かったとでも言わんばかりだ。ただ、ひたすらに全身が痛む。
「……あら」
と川岸から声がした。その遠く底抜けの調子からして、はば広い河川に出た事がわかった。
「珍しいものが浮かんでいるわ」
なにか大きな力につままれるように、岸に引き寄せられた。
耳元の切り傷はようやく血が固まったが、髪の毛も一緒に巻き込んでしまっている。
「ひどい事になってるけど、それでもツラの皮を引っぺがされなくてよかったね」
そう言いつつ、傍らの革の道具入れから小刀を出された時にはどきりとしたが、巻き込んだ髪の毛を切られただけだった。
小町を岸にあげた少女は、うんうんと頷いた。
「……ま、こんなもんでしょ。あの湧泉はたまに変なものが湧くみたいだけど、大抵は死骸になって出てくるのに」
「ほとんどの場合、殺されてから流されたんだろ」
「かもしれませんね――雲山、キャプテンを呼んできて……はぁ、また風呂行ってんのあいつ?」
呆れながら立ち上がった少女は、一緒に小町の手も引きつつ、にっかり笑った。
「こっち来て。……うちの船長はちょっと神経質で、海神が所有するすべての水や、アラビヤ中の香水を使っても、体にしみついた血の臭いが取れやしないと思い込んでいるような御仁で――本当に取り寄せてやろうとして、この地下世界の大海に漕ぎ出だした事すらあったっけ。一応封印されている身なのにね」
「慣習法的には問題ないさ」
「あなた、法曹関係の人なの?」
「最近よくわからなくなってきてるけどね」
答えを聞いて笑った少女は、雲居一輪と名乗った。
「色々あって地底に封印されております」
「ワケ有りの事情を根掘り葉掘り聞くつもりはないよ」
やがて二人は濛々と蒸気が噴き出す小川の、石だらけの中を進んだ。足元をちょろちょろ流れる水に赤茶色が混じっているので、含鉄泉なのだろう。
「雲山は――さっきの入道のおっちゃんですが――こういうとき、さっぱり役に立たないの。私たちの素っ裸を遠慮するのね。別に見たって減るもんじゃないでしょうに」
「そっちがそう思っていても、おやじさんは減るものの存在と価値を知ってるんだよ、きっと」
「なにそれ」
一輪は鼻で笑うが、蔑んだ感じではない。天然の陽性なのか、なにかを軽んじても軽やかさだけが鼻腔から出ていって、侮蔑や嘲りといったものが混じりにくい性質のようだった。
「ま、いいや。なにをしに来たのでしょう。……まさかあんなふうにやってきて、観光ってわけじゃないと思うけど」
「ちょっと所用があってね。橋姫を探しにきた」
「へー」
歩みはよどみなく、一輪の様子に動揺は無い。
「……正確には、古明地さとりを探しに」
相変わらず一輪は歩き続けていたが、ただ頭をぽりぽりと掻いた。
「……って事は、旧都の連中の面倒くさい抗争に、私たちを巻き込むつもり?」
「とは言わないよ。というか、あんたらがあたいを勝手に拾っただけだろ」
「そうなのよね……人助けをするべきじゃないと言うつもりはないけれど、少なくとも間の悪い瞬間って確実に存在する」
「同情するわ」
間が悪いのはお互い様だ。
しかし、道を遡った先の含鉄泉に身を沈めていた村紗水蜜は、事情を聞くと鷹揚に対応して、言った。
「こいしちゃんの関係者ですか」
と、かえって地霊殿との関係を匂わせさえしながら、小町に向かって、同じ湯に裸で浸かるように示す。小町はとりあえず、言いたい事を言った。
「……昨日、温泉で会ったよね、あんた」
そう言うと、相手も口の端をにっと上げた。
「あそこがお気に入りの密会現場なのは否定しないよ。――じゃ、ここの外交術は知っているでしょう? 吐くまで飲むか、温泉に浸かって裸のつきあいをするか……」
「うちのカイシャも政治上のえぐい饗応をする事はあるけど、そこまでやった事はないよ」
「ここではやるんですよ、是非曲直庁の不思議な役人さん」
水蜜はふてぶてしく笑って、続けた。
「郷に入っては郷に従えと言うでしょ?」
「そう言ってくると思った」
と、小町はさっぱり服を脱ぎ始めている。横にいる一輪がかえって慌てたくらい、躊躇のない脱ぎっぷりだった。
「――あんたにも雲山の気持ちがわかっただろ? お嬢さん」
「まあ、なんとなくは、うん」
一輪に向かって言ったあとで小町は、湯の中でくつろぐ。
「……で、あたいは橋姫を探してんだ」
「でしょうね。古明地さとりはそこに避難している」
水蜜の言葉に驚いたのは、小町よりも一輪の方だった。
「待ってよキャプテン。その話知ってたの?」
「ごめん、黙ってた。あいつの消息を知っている事がうちらに利するかというと、だいぶ微妙な話だし」
「それでも話して欲しかったわ」
急にぐだぐだと始まった内輪の口論を、小町はいい湯加減にひたりながら聞き流した。ただ、この辺りに漂っている独立勢力の身の振り方にも、古明地姉妹の対立と追放は影響を与えているのだなぁ、とぼんやり実感するだけだ。
二人の言い合いがある程度収まった後で、ぽつりと呟いた。
「……なにはともあれ、あたいよりは事情を知っていそうだね」
「事情ねえ……古明地姉妹が旧都勢力に対抗しようとして、別の軍閥と裏で結ぼうとしている、って噂とか?」
小町は眉をひそめる。降って湧いた、真偽も定かでない話なのはともかく、問題はそんな情報が気楽に話題に出てくる事だった。
「……それ、もしかしてこの辺りでは周知の話?」
「誰もがとは言わないけど、そうですね。彼女たちの微妙な関係を知っているなら、そう考える者も多いでしょう……同時に、知らぬふりをしている、見なかった事にしようとしている者も多い」
だって、どうせ何も変わらないんですからね、と横合いから一輪が言った。
「この土地では、敵も味方もその場限りで、ひたすら疲弊しながら戦い続けているだけです。とても法輪をもたらせるような環境ではありません」
私たちに言わせると。
と目の前の彼女たちは言った。
「ひどくなったのは、是非曲直庁がこの土地から手を引いて以降です。彼らが法を敷く以前もひどいもんだったろうけど」
あんたらは逃げた。遁走した。地獄の縮小だなんておためごかしを使って、尻尾巻いて逃げた……とまでは言われなかったが、つまるところはそういう事だろう。
「……手厳しい事を言ってすみませんね。はっきり言って、私たちだってあなたがた官吏を信用しているわけじゃありませんし」
「ですよねー」
ふと、映姫らの官僚的な態度を思い出して、それも仕方のない事だと小町は嘆息した。
「あなた個人は嫌いじゃありませんよ」
「嬉しいよ」
答えながら、小町は立ち上がった。
「どちらに?」
「ここが地獄だろうがなんだろうが、あたいはやるべき事をやる。古明地さとりを探して、地霊殿に帰し、姉妹それぞれの意見を聞いて、それから判断する」
「なるほど。理にかなっていて、秩序だっていますね」
「こっちだって腐っても官吏だからね。秩序の徒なのさ」
「でも行動は秩序からは程遠かったわ」
「とにかく行くよ――」
そうして温泉から出ようとしたところを、ぐいと引き留められた。湯の中に引きずり込まれて、数秒間もがいているうちに湯の底に沈められてから、水面に出された。鼻と口から鉄臭い水を吐いて、叫ぶ。
「なにすんだよ!」
「頭を冷やしてもらおうと思いまして」
「風呂の湯の中じゃ冷やすもなにもないだろ!」
「たしかに……」
一輪が言った。彼女も、水蜜の乱暴な行状には困惑しているらしい。
「それでも私は頭を冷やしていただきたかったんです。今、この一帯の入り組んだ水道を行くのは非常に危険です」
「なに……?」
戸惑ったのは一輪の方だった。
「どういうこと……」
「だから、今さっき言った話。古明地姉妹と関わりのあった勢力が、旧都へ目がけて進軍中です。……このあたりは渡渉すべき河川も多いので、旧都勢力の察知を避けて移動するのは時間がかかるでしょうけれど、とにかくこの一帯を航行するのは危険です。……古明地姉妹の片割れを探しているならなおさら」
ここまで、小出し小出しにあんまりな情報の暴露を行われてしまった事で、小町と一輪の間には妙な絆が生まれていた。彼女たちは目を合わせて頷き合った。
「……あー! また黙ってたんだー!」
「だから! お風呂で考えをまとめてから話すつもりだったんだってば!」
二人の言い合いをぼんやり聞きながら、四季様は今頃どうしているだろうかと、小町はふと思った。
四季映姫・ヤマザナドゥは、たっぷり何時間もかけた挙げ句ついに朝食か昼食かもわからなくなった古明地こいしの食事に、依然として付き合わされていた。
「最近食が進まないのよ。あっという間に羹は冷めるし、膾はぬるぬるし始める。……温め直して、作り直してもらわなきゃ」
ぶつぶつと呟きながら給仕を呼び出そうと、小さな鈴に手を伸ばしたが、うっかり落としてしまった。床にぶつかっても音はしない。豚の糞の中に埋まってしまったからだ。
「……そっか。ここを掃除してくれる子たちも殺しちゃったんだっけ」
始めて気がついたように(しかし最初からわかっていたのだ)、ぽつりとそれだけを呟くと、こいしは席を立って食堂からふらふらと出ていってしまった。
映姫はそれに従ったが、屋敷の主人が広間にあるロッキングチェアで午睡し始めたのを見て、食堂に取って返した。こいしの食べ残しを厨房へと引っ込め、食堂に散乱している家畜の汚物を掃いて掃除しながら、家畜たちを逃がすように追い立て始めた。
「逃げなさい」
と屋敷じゅうを駆け回り、地霊殿の正門を開け放しながら言った相手は、家畜だけではなく、古明地こいし以外のすべての動物たちに対してだった。
「道のわかるものが導いて、旧都へ行きなさい。身柄を受け入れてくれるでしょう……あなたたちの主人は、私に任せなさい」
あまりに唐突で、あまりに型破りな申し出だったが、そのためにかえって、動物たちは映姫の言葉を信じた。彼女の落ち着いた、きっぱりした雰囲気が、奇妙な説得力で動物たちを揺り動かした。――しかし説得力よりなにより、動物たちにとって、あの地霊殿の新しい主が、恐ろしくて仕方がなかったのも大きい。
古明地こいしが午睡から目覚める頃、地霊殿はからっぽの犬小屋よりむなしいものになってしまっていた。
「どういうこと――?」
周囲にちっとも心の声の気配がない事に気がついたこいしは、やがて映姫が現れて、その心の内を躊躇なく曝け出したのを読み取って、大笑いした。
「そう! あなたはそういう戦い方をするつもりなのね!」
「あなたのような者に対抗するには、即興で、その場の思いつきだけで物事を積み上げていくしかない」
映姫は、家畜用の雑穀を煮炊きしただけの粥を持ってきて、自分で食しながら言った。
「あなたが眠った後で、ふと思いついたんです。あなた方が飼っていた動物たちは、もうこの屋敷には必要ありません。いても互いの対決の邪魔になるだけで、そのうえあなたを恐れてすらいる。だから、逃げてもらいました」
映姫は心底つまらなさそうに説明しながら、味がしない煮えた粥をもそもそ食っていく。
「あなたは全てを失いました。あとは、小町が古明地さとりを連れてくるだけです。あなたたちは私を介して、ようやく対等にものを話せる」
「……あんたは間違ってるよ」
こいしはぶっきらぼうに言う。
映姫は動じなかった。
「私が間違っていようと、いいのです。小町は私が正しいと信じている。たとえ私が自分の正しさを信じられなくなっても、彼女が私を正しいと信じてくれる限りは、彼女ならきっとやってのける」
「ふん、それで次の手はどうすんの?」
こいしにそう尋ねられて、映姫は即興的にものごとを考え、即興的に答えた。
「……あなたの身の回りの世話は必要です。私はあなたの下僕として仕えましょう」
そう言うと、自分の衣服から閻魔の身分や官位を示すしるしを、乱暴に剥ぎ取り始めた。
地底には昼も夜も無いが、それでもなんとなくの生活周期というものがある。むしろ日月の光がないぶん、それに従おうとする原理が働くらしい。
「……というか、両岸に見張りすらいないんじゃないか?」
「霧深い夜で灯火もなければこんなもんですよ」
言い合うのは、船の甲板に身を伏せている小野塚小町と村紗水蜜だった。
「こっちは目立たないよう、帆柱まで引っこ抜かして下ろしてんだ」
「雲山、どう?」
これは一輪の声だ。尋ねた相手は無口だが、ぼそぼそとした応えはあったらしい。
「……いいわ、いける。そもそも上流の方は、奴らの渡渉地点になっていないみたい。……となると、古明地の姉さんの確保なんて、考えられてもいないみたいね」
「政治的な人質にされていないだけでも幸いだよ」
小町は呟くと同時に、姉妹の対立とこの旧都への進軍が関係しているとすれば、この無視は奇妙だとも思った。
「……いったい、その軍閥とやらは、古明地姉妹とどういう縁があったんだ?」
「さあね? 私もあまり知りませんが、何度か彼らの間に立って、動物の輸入を仲介した事があります」
「動物」
「珍しい動物たち」
これは一輪の言葉だ。
「その他は特に贅沢もないし、姉妹で慎ましく暮らしてたっぽいけど、やっぱりどこかで欲は出てくるものなのね。孤独だったのかも」
そうして手に入れた動物たちが、地霊殿の子飼いの勢力になっていたのだから、たしかに強い結びつきと言えるかもしれない。――だが、その程度の繋がりでしかないと言う事だって、できる。
「……本当に、彼女たちは旧都と対抗するために結びついていたのかな?」
「まあ、下衆の勘繰りでしかないのは認めます。……でも、どう見られているか、というのは重要ですよ」
「確かに。さとりって妖怪は、特にそういうのに敏感そうだもんね。たとえ空想を罪にすることができないとしても」
彼女たちが探している橋姫は、他の妖怪たちとは違い定住を拒み、川の上下をうろうろとしながら生きているのだという。
「地上に帰りたいんだよ」
「そこらへんは私たちと一緒ね」
水蜜と一輪が言い合ったのを聞いて、小町も理解を示すようにゆっくり頷いた。
「……いずれさ、あんたたちが地上に戻れる機会があれば、どこまで力になれるかはわからないけど、お上の裏に手を回すくらいの工作はしてあげるよ」
「また言ってるよ」
水蜜はクスクス笑った。
「是非曲直庁に恩を売りたいのは認めるけど、とりあえず貸借の無い手助けでいいって言ってんのに」
「なんとなくだけど、あんたらとは貸し借りの関係があった方がこじれない気がする」
「別に約束手形があるわけでもなし、互いにそういう気持ちでいればいいんじゃないですかね」
一輪が互いの意見を取りまとめるように言った。
船は、静かに、濃霧の中を滑るように遡っていく。
「……“月舟霧渚に移り”――」
小町は甲板に寝そべりながらぽつりと呟く。地底に月はないが、今はこの船自身が月のようだった。その三日月は雲に隠れて、静かに川を遡っていく。小町は、この地獄で、ようやく詩情らしきものに浸る事ができる気がしてきた。
「こうしてみると、悪かない土地じゃないか」
「どうせ住んだらうんざりし始めるわ」
「そりゃどこだって一緒だよ」
三人はそのまま、うとうとしてしまった。小町は夢見心地の中で、とりとめもない連想を、まるで世間の公式のように考えていた。“雲がくれにし夜半の月”、雲居一輪……雲居の雁……貸し借りの雁が一輪だとしたら、菓子は村紗水蜜だ……なるほど水蜜桃は水菓子……といったふうに。
その水蜜桃が、がばと跳ね起きて舷側に体を出した。雲山が飽和して船体を霧の中に隠してくれているが、不自然さは否めなかった。
「……まずい、さすがに怪しまれている。臨検が来るわ」
「この場合は臨検とは言わないよ。むしろ海洋法的に言えば――」
「なに寝ぼけた事言ってんのよ」
「それに月は雲間から出るものだろ。扇をちょいともてあそんで、“隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば”……」
「どのみち、あんたが身柄を拘束されたらそこまでよ」
小町は一輪に小突かれた。
「考えはある」
と言ったのは水蜜だった。
「一芝居打つ必要があるけどね……叫び、合唱、喧嘩、いくつか選択肢があるけど、ここは一番どぎついやつがいい」
やがて危機が去り、蜜蝋で作ったかさぶたや爛れを唇から剥がしながら、小町は一息ついた。その目元は化粧道具で作った隈でじっとり重苦しく、同じく蝋で作った目やにが、べっとり涙の痕になっている。爛れて滲んだ血のように赤く見えるのは消毒液、膿に擬された黄色いものは船倉の隅に生息していたなにかの幼虫を潰したもの。重病人特有の饐えた臭気をどうやって再現したかについては、書くのもはばかられる。
「あたいも、今度なにかまずいものを密輸する時は真似してみるよ……」
「糜爛性の重篤な感染症がどうこうみたいな、テキトーな説明をしたら、近づこうともしなくなったよ」
と、臨検の対応にあたった船長が言った。
「感染症を装うなら、ここを遡上するのも自然だしね」
「……上流に医者でもいるの?」
「逆。流行り病を操る土蜘蛛」
一輪は荒っぽい水夫の演技がまだ抜けきっていないのか、ぶっきらぼうに言った。
「だから嫌われそうなもんだけど、人付き合いがけっこう上手くてね。旧都に背かない、地霊殿と険悪なわけでもない。そのへんを世渡りできている一人よ」
そういう者もいる。
「……そいつはこの土地で変事があったとして、どう動くのかしら」
「さあね。みんな、身の振り方を考えなきゃいけないんだろうけど、しかし」
水蜜はそこで、つと言葉を切った。ふらりと甲板から舟の舳先に立って、上流から流れてくるものを、目を細めながら見つめた。
「あれはなに?」
尋ねたのは小町だ。異様な光景だが、旧地獄の住人なら知っているものだろうと考えていたのだ。
「わからない」
二人は答えた。
大河の幅いっぱいに広がって、降るように上流から流れてくるのは、無数の藁人形だった。
――いやな予感がする。
と咄嗟に判断したのは、船長の、神経質なくらいの勘だった。
「回避するわ! あんたも手伝いなさい」
「……あたい病人だよ?」
小町はおどけながら蝋のかさぶたを見せて、義務を拒絶しようとする。
「ふざけとる場合か!……いや、まだ接触までに時間はある。一輪、雲山に訊いて。“あのけったいな藁人形の群れは、どれほど続いてる?”」
「……向こう五百尋はぎっちり!」
「ああ、こんなとき聖輦船があればなあ!」
「なにそれ?」
「説明するにはうちらの身の上話が長くなりますが、よろしいでしょうか」
「じゃあいいです」
「ざっくり申しますと」
一輪は小町の拒否を無視した。
「とある偉大な聖人の法力によって、空を飛ぶ事を可能にした船です」
「……あったところで、封印されている身でそんなおいたしちゃいけないよ」
「そうでしたねお役人様」
意外にのんきしているやりとりを交わしていた小町と一輪に対して、船長はそれぞれ左右の両弦を見るように指示した。
「……ひとつひとつの間隔は、船幅よりいくらか大きい。すり抜けられます」
「結局気合で避けんのね……」
それからの数刻は、単純で、慎重さだけは必要とされる、うんざりした動作の連続だった。それでいて途中、水流が急になったり、突然緩やかになる地点があって、それでも村紗水蜜は船をよく操舵したし、両弦の状況を注意する二人もよく助けた。
その間に、小町が人形をひとつ、棹を伸ばして取ろうとしてみたが、水蜜に止められた。
「やめといた方がいいよ。絶対に呪物かなにかだもん」
「しかし引っかかるわね。いったい誰が、誰に対してそんな……」
一輪はぼやきかけて、すぐに頭が回ったのか、他二人の表情を見比べた。
「……あ、そういう事?」
「さっき土蜘蛛は流行り病を操ると言いましたが、彼女はその能力を使って、この下流域をも実質的に支配しています」
水蜜が小刻みな転舵を行いつつ小町に解説した。
「下流では川の渡渉が開始しているだろうし、数刻もあればあの人形どもはそれにぶつかる」
「どういう意図が込められているにせよ、悪意によるものだろうね」
旧都に攻め込もうとしているという軍閥とやらがどういう勢力なのか、小町はいまいちわかっていないが、嫌われているものだな、と小町は思った。
藁人形が流れてくる事はその後もぽつぽつとあったが、第一波にあった壁のような押し寄せではなかった。
「それにしても、探し人はなかなか見つからないね」
「橋姫が上流で匿っているというのも、思い当たる節はありますが、ちょっと根拠の薄い推理ですからね」
「今更それ言っちゃう……?」
ともあれ、事情に反して穏やかな舟航だった。今まさに、この川の下流で軍事が起こりつつあるとは、とても思えない……。
「……寝るか」
「のんきなもんだね」
「寝られる時に寝ておく性分でね」
小町はそう言って、甲板にごろりと寝転がりながら、しかし心がけ通りにすぐ眠る事はできず、ぐずぐずとした夢想にふけってしまう。
今まで劇的な出来事はいくつもあったが、旅程のほとんどは退屈だった。景色や状況が、ぽんぽん変わるわけではない。ただ、漫然と、流れに沿っている。自分の小舟で川を遡り(事が済んだら、あの舟も回収しに行かなきゃいけないな、とぼんやり思った)、古明地こいし率いる動物たちの隊列の背に乗って道路を行き、水の流れに身を任せ、そして今も、村紗水蜜の操る船に乗って、進んでいる。そうして過ごす十のうち九は、やはり退屈だ。
「散文の良いところは、そういう退屈な部分を、ばっさり端折ったり、逆にしつこくだらだらと書けるところですね。誠実にしろ不誠実にしろ、本当に厳密に記された文章なんて存在しませんから。……書くというのは、あちらとこちらの距離を、極限まで縮めたり引き伸ばしたりする編集作業なんですよ」
そんな調子のことをほざきながら怠業行為を働いていた(やはり奇妙な言い回しだ)、是非曲直庁編集部の頃を考えると、また妙な次第になったな、と小町は思う。
「“渓ニ縁リテ行キ、路ノ遠近ヲ忘スル。”……」
次に川の両岸に背高く伸びた葦原の中で叩き起こされたとき、小町はあの最初の場所に戻ってしまったような錯覚をおぼえて、その後でようやく、それよりも低い背丈の、金髪緑目の少女の姿を認めた。
「彼女たち、こいしちゃんがたまに使っている水運業者でしょ」
葦をかき分けながら先を案内する橋姫が言った。道行きの目印のつもりなのか、一つかみの葦が、足元で一定間隔に編み込みにされているのに気がつく。
「らしいね」
小町は一日ぶりのしっかりした地上を踏みしめながら歩こうとしたものの、どろどろした湿地に足を突っ込んでしまった。
「あんたは何者?」
「是非曲直庁の方から来た者です」
足を泥土の中から引っこ抜きながら、小町は言った。
橋姫は鼻で笑った。
「悪徳業者みたいな事を言うのね……言っておくけれど、私は古明地さとりを、あくまで人質として確保しているだけだからね」
「取引材料かい」
「そうよ……でも駆け引きは好きじゃないから、率直に言うわ。私は地上に帰りたい」
「そういうウワサは聞いているよ」
「望みを隠そうともしていなかったからね。……でも、本当はなかば諦めていたのよ。期待させやがって、妬ましい」
相手側の主張はともかく、小町自身はそういった交渉事の窓口ではないということを、できるだけわかりやすく説明しなければならなかった。
「……だから、あたいの役目は、地霊殿にさとりのお姉さんを帰すというだけです」
「それでどうなるの。あんたに従ったら、私は地上に行けるの?」
と、立ち止まり、後ろを振り返って微笑む。口が裂けているように見えた。
小町は肩をすくめる。
「……さあね。確かにあたいは、あんたの事情なんて何も考えていない」
橋姫は舌打ちをした。
古明地さとりが匿われている場所は、葦原の中のぐるり一丈ほどを刈り、刈ったものは床に敷き詰め、周囲の背の高い葦の頭頂を結んで作っただけの、簡素と言うのもはばかられるような粗末な菴だった。
「私を責めないでよ」
橋姫は言った。
「彼女がこれでいいって言ったの」
「これくらい不便な方が、いいんです」
と、菴の中から声がした。舌足らずの、しゃがれた声だった。
「この不便さに私は助けられたんです。だって、皮膚を焦がされたわけでも、耳に融けた銅を流し込まれたわけでも、鼻に焼け火箸を突っ込まれたわけでもありませんでしたから。たとえ目を縫いつけられて心が読めなくても、それでも私は肌と耳と鼻とで、じゅうぶん世界を感じることができました。それさえできなければ、たしかに狂ってしまっていたでしょうけれど」
小町がもの問いたげに振り返ると、橋姫が顎で促す。身を屈めて葦の屋根の中をくぐると、なんとなく獣くさかった。古明地さとりは地面に敷き詰められた葦の上に腰かけている。
唇は抜糸後の経過が良くないのか、痛々しく膿んでいる。瞼はまだ閉じられっぱなしだった。
「悪いけど、私はこいつに心なんか読まれたくないのよ」
橋姫が、ばつが悪そうに言った。
「気持ち、わかるでしょ」
「ええ、しょうがない事です。……それに私自身、これが自分の罰として上等だと思いますし」
小町が答えにくそうにしていると、さとりが床の隅に膿を吐き捨てて、また続けた。
「……さて、なにから話せばいいでしょうか。まだ言葉もうまく発せませんが」
「その割にはめっちゃくっちゃ喋るじゃないか……」
「今となっては喋るだけが取り柄ですから」
「“喋れ、喋れ、それだけ取り柄さ”」
古明地こいしは、朝食を摂った後、地霊殿の周りをふらふらと逍遥していた。おぼつかない足取りで、ごろごろとした石の野の中で頻繁につまずき、こけていたために、膝はもうすっかり皮が擦り剝けてしまっている。かつてのような動物たちの供回りも無く、いま従っている者は、是非曲直庁の高官としての地位を捨てた四季映姫だけ。
「……でも、私とお姉ちゃんにはお喋りは必要なかった。……無言でも、誰のどんなお喋りよりも意味のあるやりとりができた」
「羨ましい事です」
「勝手に喋るな下僕」
こいしはくるりと振り向くと映姫の胸倉を掴み、引きずり、這いつくばらせて、そのまま犬のように四つに這ってついてこいと命じた。
映姫は顔色一つ変えず命令に従う。地面はごつごつとして、焼けるように熱かった。そのうちこいしと同じように膝が擦り剝け、来た道にはふた筋の赤黒い痕が薄くできたが、彼女は苦痛の表情すら見せなかった。
「――で、私とお姉ちゃんは分かり合えていた。少なくとも二人の間だけは分かり合えていたつもりだし、それだけでも幸せだなんて思っていた」
彼女のお喋りは気まぐれだ。映姫を憐れに思い、立たせてくれたのも気まぐれだった。二人は血まみれの膝を並べて歩いた。
「もちろん、分かり合えない相手もいたわ。旧都の人たちには恐れられて、怖がられて、警戒された。私たちの、忌々しい目ん玉に喰らわせたいなんて思うやつらもいっぱい。でもそれは仕方がないし、私は彼らの恐れだって理解できちゃった。……みんな、恐かったんだよね。誰も信用できないし、わからないし、頼っていいのかも――あ、これじゃあ同じことを言っているばかりだわ。まったく、私は繰り返しばかり言うの」
こいしが目的地のように立ち止まった場所は、小さな川岸で、映姫にも見覚えのある大鎌が突き立てられていた。
「そして私はここでお姉ちゃんを捨てた――喜べ! あんたの部下は正答を選んだよ!」
「当たり前です」
奴隷の四季映姫は図々しく発言したが、今度は咎められない。
「私が信じた彼女の行動です」
それが本心からの返答だったので、こいしはただ、大鎌を拾っていけとだけ指示して、地霊殿へと戻り始めた。映姫は鎌を担いだが、しかし慣れていないために、大きな刃によって肩が裂け、湾曲した刃先で背中を突かれる。
映姫自身は、やはりこれは不便なものなのですねとしか思わなかった。
「……なので、私は妹に合わせる顔がないし、地霊殿に戻るつもりもありません」
と古明地さとりは言った。
「ちょっと待ってよ!」
小町の焦りは妥当なものだった。
「どうして。あたいはあんたを連れて地霊殿に帰らなきゃ――」
「今の言いで、全部説明できませんでしたかね?」
「まったく!」
「誰かにものを伝えるという行為は、本当に難しい。心が読めないとこうなりますか」
さとりは頭を掻いた。
「まず、私とこいしは旧都の人々に疑念を抱かれていました」
「うん」
「特に、畜生界の軍閥との繋がりは、警戒されてもしょうがなかったのでしょう」
「……畜生界か」
小町は頭を掻いた。地獄の公務員にとっては既知の単語。それがいかに厄介な存在であるかも、伝え聞きではあるが知っていた。
「あんたら、めんどくさい奴らと結んだもんだね」
「私たちも関係を作るつもりはありませんでした」
さとりは苦笑いし、信じてもらえるかはわかりませんが、と前置きして説明した。
「知らずのうちに関係していたのです。……表面上はただ、商社を介して珍しい動物の輸入を融通してもらっただけ。奴らは何重もの経路を介してその会社を経営していたようで、背後関係は完璧に隠蔽されていました。最初から私たちの読心能力を踏まえて、調略するつもりで接近していたんでしょうね」
「幽霊会社方式か。らしいやり口だよ」
「そして、私たちが隠された背後関係を知ったのは、旧都の、星熊勇儀さんのところに遊びに行った時です。なぜか彼女たちが真っ先に情報を掴んでいた。元々警戒されていた身ではありますが、そんな木っ端業者にまで深く探りを入れられるほどではありません。おそらく意図的に洩らされたのでしょう」
「“空気のように軽いものでも、嫉妬する者には聖書ほどの、手がたい証拠となる。”」
菴の外で話を聞いていたのか、橋姫がぽつりと呟いた。それは皮肉っぽいが、鼻歌でも歌い出しそうに楽しげだった。
「みんな何もないところから、勝手に恐れすぎで面白いわ」
「もうちょいおしゃれな包帯の巻き方にしてくれない?」
地霊殿に戻った映姫は、そんな言葉をこいしにぶつけられていたが、先ほどのような衝動的な暴力はなく、ただわがままなだけのようだった。
しかし映姫は文句を無視して淡々とこいしの膝に包帯を巻いていき、最後にちょこんと、申し訳程度のリボン結びを作って、相手の要求を叶えたつもりになった。
「……ま、これでいいわ。あなたも膝の皮がべろべろじゃない。手当したげるわ」
「自分でやりますので」
「あっそ。じゃあ私は話の続きをするわ。……私たちは旧都に疑われたって言ったけれど、勇儀さん自身は、あくまで渦巻く猜疑に抗っていた。元より複雑な感情を私たちに向けている人だったけれど、そこから更に疑念を深めるような事はせず、彼女の信念だけが、私たちと旧都との間を、かろうじて取り持っていた」
映姫は、そういう者も社会には必要だろうと思いながら、毛抜きをあやつり、自分の脚に深く食い込んだ砂利を、ひとつひとつ除き去っていった。
「私たちを疑っている連中なんかは、もう私たちから隠れるようになって、顔も見せなくなった。そりゃ心を読まれたくなんかないもんね。……でも、そういう態度をされたらさ、私たち自身は別に構わないんだけど、動物たちの群れの長としては、ちょっと困った事になるわけ」
こいしはちょっと言葉を切って、かたわらにある救急箱の中を探った。
「動物たちの多くは、向こうの業者にしつけられた段階で、なにか意識の下にこっそり仕込まれていたんだと思うわ。――たとえば主人への忠誠、共同体への帰属意識、立場の違う存在に対する同情の無さ、他者を害す事に躊躇のない攻撃性、不信と猜疑……」
映姫は自分の膝に石炭酸をぶっかけながら、静かにこいしの話を聞き続けた。
「そんな連中を抱えこんだままだと、組織はどうなるかしら?……私たちは、いつの間にかどん詰まりに追い込まれかけていた。今はまだそうでなくても、ゆくゆくはそうなる。私たちは変わる必要があったけれど、難しかった。……冷静な思考を行いつつ自分たちの失策を認知することは、誰にとっても凄まじい精神的負荷になるわ。その上で思考を続ける事もね。だから普通は、変われない。変わらないまま滅びるか破綻する。あなたたちだって変われなかったんでしょ? 自分たちの命数より、統治構造の寿命の方がずっと早く尽きたから」
「……それだけが全ての原因ではありませんが、是非曲直庁が失敗した理由のひとつではあるでしょう」
映姫は認めながら、こいしの手によって救急箱から縫合針が取り出されて、その穴に糸を通されるのを、じっと見つめていた。
「……みんな、変われないのよね。人間みたいには」
こいしは第三の眼を愛おしげに撫でてから、ぷつり、とそのまぶたに針を刺しながら言う。
「あなた、人間という存在についてどう思う?」
「どういう言葉を求められているのでしょう」
「そりゃあ、優れているとか優れていないとか、愚かだとか愚かではないだとか……」
縫い糸が、第三の眼のまぶたの皮膚を突き抜け、きゅきゅきゅとかすかな摩擦音を立てながら通っていく。
「二元論的ですね」
「二元論的な話をしたい気分よ」
「しかしそういう、対立する二項として論じるのは気に入らない。優れている部分もあるし優れていない部分もある、愚かな部分もあれば愚かでない部分もある――つまらない答えですが、こんなところでどうでしょう」
「どんな部分が優れていると思う?」
「変わることができる部分でしょう」
「どんな部分が愚かだと思う?」
「変わることができる部分でしょう」
目の前で行われる外科手術を眺めながら、映姫は痙攣のように空気を吸った。
五針ほど縫ったところで、こいしは一旦手を止めた。
「……そうね。彼らは他の動物たちと比べても、特段賢い存在ではない。むしろ目先の事に執着しすぎ、移り気で、愚かよ。ただでさえ短い寿命の中、しょっちゅう内輪揉めを起こして、やらかしてる」
こいしは気まぐれのように立ち上がった。しかしどこに行くつもりでもなかったのか、座る。
「でも、彼らは短命であるために、しょっちゅう社会構造を変える事ができる。代替わりするたび、自分たちの都合の良いように先例を解釈し、図々しく、厚顔無恥に変わり続けることができる。変わった後も相変わらず愚かなので、やはりその後も変わり続ける事ができる。……もちろん、この変化にしたところで、大きな尺度ではつまらない反復にしか見えないけれど、寿命が短いあいつらには関係ない。だから、この先にたとえ破滅が待っているとしても、最後まで変わり続けようともがき続けるのでしょうね」
眶からは、縫いかけの糸と針が垂れ下がってぷらぷら揺れていた。
映姫はそれを見つめながら頷く。
「だから、あなたたちは変化を起こすため、人間たちの代替わりを模倣した。よからぬ謀を巡らせていた姉を、反対していた妹が放逐して、それから危険と思われる与党を全て粛清した――という政変の物語を作って、演出した」
「ちなみに思いついたのはお姉ちゃんだったと思う。……いや、私の発想だったかしら? 私たちって、どちらが思考や思想の主体だったのか、わからなくなるのよね」
こいしは弱々しく微笑んだ。
「心を読みあって、合わせ鏡みたいになっちゃう。だから私がめちゃめちゃになってもお姉ちゃんの中に私が生きているし、お姉ちゃんがめちゃめちゃになっても私の中にお姉ちゃんは生きている」
なるほど、と映姫は言った。
「互いを保存するためには、どちらかを切り捨てるのも厭わないわけですか」
「私はそこまで割り切れなかったけどね、裁判官さん」
「これで私は全て説明できたかしら?」
小町は、古明地さとりが籠っている菴から、よろよろと這い出した。
いつの間にか橋姫も姿を消していた。ただ葦がさらさらとそよいでいる。
「……頭おかしいのかこいつら」
古明地姉妹が選んだ解決方法は、正気の沙汰ではない。
しかしさとりは、語り終えた後で小町の内心を(綴じられた第三の眼ではなく感覚で)読み、次のように述べた。
「でも、それ以上に正気の沙汰ではない行為を、動物たちはやり続けているではないですか。彼らは自分より優れているかも正しいかも、なにもかもわからない後継者に賭けて、全ての後事を託すでしょう。それよりはずっと上等な手段です」
要するに……と小町は葦原をさまよいながら考えた。一連の簒奪は隠居と継承の儀式だったのだ。保身のために、姉の眼と口を、一針一針縫い合わせて綴じ、川に流す事が。
古明地こいしが狂うのも当たり前だ。ここは地獄だった。
「どうだった?」
岸に戻ると、そう話しかけてきた水蜜たちは、船の上に帆柱を立て、縄索を張り始めていた。
「帰る」
「古明地姉は?」
これは一輪の質問。
「知らないよもう、あんなやつら」
「ふうん。まあいいけど、こっちはもうちょっと時間がかかるんでね。雲山は手先が器用な方じゃないから」
言いながら帆を繕う彼女の手が持つ、長くて太い針が、ひどく不吉なものに見えてしまう。
「……ちょっと散歩してくるよ」
小町がそう言って船から遠ざかり、岸を遡っていった後で、一輪と水蜜がこそこそと言い合った。
「会談は不首尾だったみたいね」
「まあ、なんとなくは予想できていたけど……どうしよ」
「どうしようとは?」
「あれ」
水蜜は小町の背中を指した。
「あれを畜生界の連中に突き出したら、なにか――いや、話がややこしくなるだけね。やめとくか」
「あんたねえ……」
一輪の声には心底の嫌悪があった。水蜜は慌てる。
「いやなにちょっと思いついちゃっただけよ。……あんたは嫌いだろうね、こういう発想は。でも――」
「ちょっと」
踵を返して戻ってきた小町に声をかけられて、二人はどきりとして、跳ねるように振り返った。
「……あんたら、古明地姉妹の動物の取り引きを仲介した事がある、って言ってたよね」
「え、ええ。まあね」
「その取引相手、どんな感じだった?」
「そんなの、もう……普通だよ。ただの商人。お仕事の関係」
真実を語っているだけなのに、後ろめたさから、水蜜はつい余計な事を付け足してしまった。
「……言っとくけどね、私たちだって、自分らが紹介してしまった連中が畜生界に関係していたと知ったのは、随分あとの事よ? そりゃ、あれが、古明地姉妹が疑われる原因になったんだろうな、っていうのはなんとなく察してたけどさ。でも――」
「咎めるつもりはないよ」
小町は明るく言った。
「“過チヲ宥スニ大トスルナク、故ヲ刑スルニ小トスルナシ。”さ。……ありがとう! 正直に言ってくれて!」
そう言って、ふたたび上流に向かってふらふらと歩いていった死神の背中を見ながら、水蜜と一輪はため息をついた。
「……なんか弱みを握られた気がするわ」
「気のせいよ。彼女はそこまでする奴じゃないと思う。あんたと違って」
一輪の慰めはきっぱりとしていたが、さすがに毒があった。
ともかく、この天然自然の景勝を楽しもう。
小町はきっぱりと気分を変えて、河原をほっつき歩いていた。
もはやそれだけが彼女にとっての救いだったが、風景は例によって再帰的で、うんざりとさせられるほど代り映えしなかった。それでも自分が先に進んでいるという実感だけが幾分かましな気分にさせてくれた頃、葦原の岸がようやくごつごつとした洞窟の岩場になっていき、景色が変わった。
「――これはまた」
岩盤に穿たれた壮大な縦穴と、その針先で突いた穴のような光を、ぼんやり見上げた。あまりの高度に、水流も水滴と化して散らばってしまうのだろう、地上の河川から降り注いでくる滝は、もはや雨のような水飛沫だ。
小町は顔を濡らしながら言った。
「あの小さな光が、地上かい?」
と質問した彼女の足元には、橋姫が膝を抱えてうずくまっていて、原っぱから抜いてきたらしい長い葦を一本手の内にもてあそびながら、なにかを待っているようだった。
「……そ。定期的に、便りが流れてくる……一方通行の。私は返事もできない」
「双方向に分かり合えていても、引き裂かれてしまえばつらいばかりさ」
そう言われた橋姫は、眠そうな、じとんとした眼差しを小町へと向ける。
「なに? 遠距離恋愛の話?」
あまりに少女っぽい反応だったので、小町はつい噴き出してしまったが、なるほど自分の発言には、そういう含みも感じられる。
「……こう見えて恋多き女だし、中央から左遷された身なのは否定しないけれど、今はまったく別の話さ」
たしかに、別にかつての恋人の事など考えなかった――あんな破局は単に距離の問題。つのる想いが物理的な隔たりに細まり、引きちぎれたというだけの問題だった。
「わかったわ。古明地姉妹のことを考えていたのね」
それでも、うっかり過去の追憶に耽りかけていると、橋姫が歯を見せて笑う。歯並びが良い。
小町は尋ねた。
「あんたはあの姉妹をどう思う?」
「ばっかみたい」
吐くように言った。
「全部が馬鹿みたいな顛末。ああして眼を閉じたままなのを許してくれているのも、いじけているだけよ――あっ」
と橋姫が高い声を上げたので、小町もそれを見た。雨のような滝の中に、くるくるくる、滑るように落ちてくる円盤がある。藁で編まれたものらしく、ゆっくり、しかし着実に降下してくる。それが着水して流れてくるのを、橋姫は長い葦で引き寄せた。
流し雛だった。
「……それが地上からのお便り?」
「そ。名前も顔も知らない相手だけどね」
そんな由縁もない者からの便りを――便りと言っていいのかもわからないものを、地底生活の心の拠り所にしている様子を見て、小町は目を逸らした。
「憐れまないで」
とも言われたが、小町は憐れんですらいなかった。誰かが拾うとも思っていないものを流し続けている川上の者と、それを拾って便りと思っている川下の者という関係を、ただ面白いと思うだけだ。
「でも、私はそれだけの関係でいいのよ。たとえ分かり合えていたとしても、遠く隔てられた距離の両端では、ただ分かり合えない二人にしかならないでしょ」
「そりゃそうね、そりゃあ……」
言いかけて、考え込むように口に手を当てて、指先で唇をもてあそんだ。
「じゃあ、あんたらはどうして――」
「え?」
「どうしてさとりは、あんたや土蜘蛛を使って、川に藁人形なんか流させたんだい?」
「ああ、それは姉貴の方に頼まれた事じゃないわ。こいしちゃんから伝えがあって――」
みなまで聞かず、小町はくるりと踵を返した。そのまま、確信のある足取りで船へと戻り、革を折りたたんだ道具入れを借りてきて、葦原に行く。足元の編み込まれた葦の目印を辿って、さとりが隠遁している菴に戻ると、ずかずかとその中に踏み込んだ。
「……あら、どうしたんです?」
「ちょっと思うところがあってね。あたいもこんな手術は初めてだけど……」
と、小町は道具入れを地面に広げ、そこから研ぎ澄まされた小刀を取り出しながら言う。それを見て、ついてきていた橋姫や船の二人は、顔を見合わせた。
「やっぱり、あんたはその便利な目を見開き、世界を把握すべきだよ」
古明地こいしは着実に自分の第三の眼の瞼を縫い合わせていったが、一針通すたびに覚悟が必要なのか、世界が昏くなっていく事への不安からか、次第にのろのろした動きになってきた。
「このまま無限のパラドックスが起きて、最後の一針がいつまでも通らなかったらどうしましょう」
と冗談を言ったが、映姫は笑わなかった。
「私にも、ひとつだけわからない事があるのですが――」
「なあに? こっちも、もう半分くらいあんたの心が読めないのよ。ちゃんと言葉にして言って」
「あなたが考えていた事はわかります。あなたがた姉妹の間で共有されていた筋書きは、悪い姉を良き妹が除いた……それだけの事ですが、単純であるだけに、真相は逆だった、という帰結に持ち込むのも容易い」
本当は、善良な姉が、狡猾な妹に陰謀の濡れ衣を着せられて、除かれた。
「そう言いのける事も、じつに簡単でしょう。実際、あなたはそういう事にしようとしている」
「だってそうでしょ。私自身、ここまで色んな子を殺しちゃったんだから。こっちが悪者になった方が話として丸いわ」
「ですが、どうしてさとりさんはあなたの発想に気がつかなかったのでしょう」
「そうね……お姉ちゃん自身の発想だったからかもしれないわ。それも、もしもの懸念としてちらりとよぎった、無意識に近い思いつきだった。――で、その思いつきが私と共有された。でもそれって、自分の思いつきにすぎないでしょ。元々がぼんやりした考えだったから、意識の死角になって、無視しちゃったんじゃない」
そう言ったあとで、震え始めた自分の手を見つめて、映姫の手を取ると、針を持たせた。
「ごめん。私、もう自分じゃ無理よ。このままあなたが最後までやって。私のまぶたを、つらぬいて、そしてもう後戻りできなくさせて」
四季映姫はさすがに眉を吊り上げた。
「後戻りできないと言いますが、そんな事はないでしょう。古明地さとりも同じような仕打ちを受けたのですよ。……彼女は目だけでなく、口まで綴じられた」
「ええ。でもお姉ちゃんは強い人だもの。きっと耐え抜くわ。でも私には無理。私は弱かった、私は狂ってしまう、私は、わたしは……」
こいしはそのまま、衝動的に自分の眼を針で突こうとした。さすがの映姫も、それを力ずくで阻止しようとする。……しかし、そのまま、こいしは映姫の手を取りながら、自分の瞼をふたたび縫い合わせ始めた。
「気にするこたぁないわ。あんたはなにも悪くない。私の罪は私自身のものよ」
だがそう思っていない事は明白だ。映姫が抗おうとしても果たせないほどの力で、こいしは他人の手を借り、着実で、確信ある手つきで針を動かし続ける。
映姫は言った。
「落ち着きなさい、これは罪とか罰とか、そんなものですらありません。これは――」
「あなたが私のお姉ちゃんじゃないのが悪いのよ!」
だしぬけの言葉に、映姫の手からは抗う力が抜けてしまった。
「あんたの考える事がわからない。……お姉ちゃんならわかるかもしれないのに。なんでここにいるのは、お姉ちゃんじゃなくてあんたなの、なんで……」
どうせ古明地さとりがいたとしても、きっとわかってはくれませんよ……と映姫は冷たく思ったが、幸か不幸かその思考が読み取られる事はない。
「……たしかに、私はあなたのお姉さんにはなれません。それでも」
「心が読めなくなれば、誰だってお姉ちゃんよ!」
古明地こいしは、四季映姫の手を借りて、第三の眼を完全に綴じてしまっていた。
縫合糸を切られた古明地さとりのまぶたには、素人の外科仕事のせいで小さな傷がぽつぽつとできていて、目尻には血が滲んでいた。傷も残るかもしれない。
「帰ろう」
小町は言った。
「地霊殿に帰ろう、古明地さとり。あんたら姉妹はなにも分かり合えてない」
言われたさとりは呆然として、小町をはじめとした人々の顔を眺めていた。
「……みなさん、わかってたんですか?」
「最初から仕組まれていたとは思わなかったけれど……あんたが追放されてからのこいしちゃんの評判を聞くに、こうなるんじゃないかなぁ、とは……」
と言ったのは橋姫だ。
「私はあんたら姉妹にそこまで興味ないですから」
「言い方よ」
水蜜の言いを一輪がたしなめたが、その微妙な気分を否定はしなかった。
「むしろあたいは、あんたが思い至らなかった事の方が意外だよ」
小町が呆れ顔で言いながら、ふと誰かの言葉を思い出した。“盤面の隅々まで見えていると信じ、うぬぼれている連中を出し抜くのなんて、あまりにもたやすい”……。
その思考を、傷だらけの眼で読んだのだろう。古明地さとりは不満げに顔を歪めた。
「……こいしは、そんなに?」
「今のあいつは便所鼠より狂ってやがる」
断言した小町だったが、直後にさとりが発した冷ややかな反応には、耳を疑った。
「ふうん」
彼女は化膿した唇から膿をぷっと吐き、言った。
「意外だわ……あの子、そんなに心が弱かったのね。がっかり」
小町は、その言葉に怒りを覚えて手を出しかけてしまったが、それより先に背後から押しのけられて、さとりの膝元につぶされてしまった。
「てめえ今なんつった?」
「あんたそれでもお姉さんなわけ?」
「だいたいそれもこれも、あの子なりにけじめをつけようとして――」
彼女たちの物言いは、小町が言いたかった事を全体的に代弁してくれているので、とりあえず文句はなかったのだが、どうもごちゃごちゃしすぎている。
「……あの子には荷が重かったと、そう言ってるのです」
さとりは、三人が騒いでいるにしては妙にはっきり聞こえるしゃがれ声で言った。
「みなさんの言う通りです。私のせいです。あの子がそこまで弱い子だとわかっていなかった、私の責任です。だから私は帰らなければいけない。今までは、あの子の立場を立てるために、この場所で息を潜め、ひっそりと朝露を飲んで生き延びていれば、それでよかったでしょう。でもそうはいかなくなった」
もう誰も抗議の声を上げていない。
それにしても、と古明地さとりだけが言葉を続けた。
「妹の身を案じてくれている方がたが、こんなにいてくれたとは意外でした。あなたたちが力を貸してくれるなら、きっと事態の収拾は可能でしょう」
……ここは話に乗っかるべき。
と瞬時に判断した小町は、後ろの三人を押しのけるように起き上がると、言った。
「その通り! 彼女たちの力を借りれば、きっと地霊殿への帰還は可能です! 既になんちゃら、色々取り返しがつかなさそうな大事になっていますが、地霊殿の主が――本来の主が戻れば、きっと道はあります! なによりあたいには、四季様からの下命がある! あたいは――いや、あたいたちは! この一身を捧げて、古明地さとりを地霊殿まで送り返しましょう!」
さとりは、開き方が不完全な目と歪んだ口とで、ニヤリと笑った。
背後から返ってきた反応は三者三様。
「はぁー……」
「めんどくさ……」
「聞かなかった事にできないかな、これ」
気持ちとしては大差なかったが、誰にも微妙な負い目があった。
四季映姫は天竺木綿の古カーテンを寝具代わりに体に巻き、部屋の隅で休んでいた。
古明地こいしは地霊殿から立ち去っていた。自分の第三の眼を閉じた後で、ふらふらと歩いて出ていって、それきりだ。
映姫は追わなかった。ただ、悲しそうに目を逸らして、眠った。
起きると、灼熱地獄跡や怨霊の管理がある。地霊殿の取るに足らない職の一つだが、同時にこの施設に特徴的な仕事でもあった。その火焔や怨霊がふわふわ漂っている様を、ぼんやり眺めるだけの仕事をしていると、足元に猫が擦り寄ってきていた。
「あなたは逃げなかったのですか?」
映姫は、この旧地獄の深部に潜ってようやく、この地霊殿の居残りに気がつき、言った。
「そうして、怨霊をいつも見張っていたんですね。ありがとうございます」
礼を言って、彼女は怨霊の監視をこの地獄猫に託し、自分は灼熱地獄跡のゆらめく炎を、瞳から水分が失われるまで見つめるだけの仕事をしていると、その肩に鴉が降り立つ。
「あなたも逃げなかったのですか?」
映姫は驚いたように肩をすくめた。
「そうして、この火焔地獄の火加減をいつも見守っていたんですね。ありがとうございます」
礼を言って、灼熱地獄跡の監視をこの地獄烏に託すと、映姫自身は仕事を失ってしまった。そのあとで見つけた仕事は、地霊殿の内部を掃き清めることだけ。
途中、旧都からやってきた星熊勇儀がこのがらんどうに立った事で、掃除は一旦中断された。
地霊殿のエントランスの高い天井を眺めながら、星熊勇儀は言った。
「昨日、そっちからたくさんの動物が逃げ出してきたのよ。だから、来てみた」
「あなた一人でやってきたのですか」
映姫は、それだけは意外に思って訊いた。相手は、むずがゆいものがあるようにはにかむ。
「いんや、外で待たせているよ。こうして一人で入っていくのだって、周りからうるさく言われたけどね。しかし――こいしちゃんだってひとりぼっちだ。たとえあんたがいようとね」
「彼女はもういませんよ」
「どうして」
「世界を拒絶して、本当にひとりぼっちになっちゃいましたから」
最悪だ、と勇儀はぽつりと呟いた。
「……彼女たちとはけっして良い関係を築けていたと言えないけど、それでも――」
「なので、小町が――私と一緒にやってきたあの死神が、古明地さとりを連れて帰り、彼女にこの混乱を収拾させます」
映姫が確信ありげに言いきった。勇儀は目をぱちくりとさせたが、そこでようやく緊張をわずかに緩ませる。
「そうなればいいんだけどね。……こっちもそれどころじゃない。これから畜生界の連中と戦争よ」
「戦争ですか。是非曲直庁もそちらの方面は常に警戒しておりますし、動きがあるという話も聞き及んではいましたが……しかし本当にそうなるとは」
「あんたらが来たから、こうなったと考える事もできるんだよ」
他人事のように呟いた映姫に対して、勇儀が不機嫌そうに言った。敵意とも言えない微妙な感情をかわして、映姫は微笑んだ。
「北の方角からやってきた私たちが、よくないものを連れてきた、と」
勇儀はその笑顔に当てられてうつむき、また天井を見上げた。
「私はそう思ってはいないけれど、思う者もいる。呼び込んだのが古明地こいしだと思うやつもいるだろう。だからこの地霊殿は直ちに接収するし、君は――」
「よろしい。ならば私が矢面に立って戦いましょう」
「話が早い」
勇儀は思わず笑ってしまったが、すぐに真顔になる。
「……だけど、ひとりぼっちで?」
「私はひとりぼっちじゃありません。私は世界を拒絶していません。なにより小野塚小町という部下がいます――いました。彼女が古明地さとりを連れて帰ってくるまで、時間を稼いでください」
今や古明地こいしの奴隷にまで堕ちている四季映姫は、それでも威厳たっぷり、超然と、きっぱりした態度で言った。
「いいわ」
勇儀もあっさりと同意した。
「こちらの流れに引き込む事ができれば、どうとでも時間稼ぎはできるわ。対陣しても、使者の行き来に口合戦から始まって――」
「私はそういった主義主張には興味ありませんね。しかし……そうですか。考えることができました」
「考えること?」
「ええ、音楽についてです」
勇儀は多くは聞かず、屋敷の外にひしめいていただろう彼女の郎党を地霊殿の中に引き込む。古明地姉妹によって丁寧に残されていた、全ての文書資料が押収されるだろうが、それらはあわれな彼女たちの無実を証明するものでしかない。
その混乱の中で、映姫はひとまず箒を手に取り、鼻歌まじりに屋敷の掃除を再開した。
ひとつかみほどの群れをなした妖精たちは旧地獄の荒野をぶらついていたが、あるとき突発的な砂嵐を避けるために、破れ橋の下に避難した。数日前、奇妙な少女たちがやってきて置いて行った舟がある、あの場所だ。
あのとき、妖精たちは彼女らがたくさんの動物の群れに乗って消えていく後ろ姿をぼんやり見送り、なにか名残り惜しいものを感じつつ、その場から解散した。こうした集合離散は妖精たちの常で、なにか核になる存在が出現すれば、それにぞろぞろ付き従っていく。そういう、習性と言っていいものがあった。集団の核になる要素は様々だが、ざっくりと言ってしまえば、個人が漂わせる不思議な魅力というものに、全ては換言できる。
そこから数日、この荒涼とした土地に生きる妖精たちにとって、退屈な時間が過ぎた――もっとも、面白くない時間は百年以上も続く場合だってよくある。その間、適当に時間を潰す遊びくらいは知っていたが、自分たちで何かを起こす才能というものだけは、どうにも欠けていた。妖精たちは何かを待ち続けているが、何を待ち望んでいるのかまでは、さっぱりわかっていなかったのだ。
ともかく、数日後には、また別の面白そうなものが出現したのだから、旧地獄も風雲急を告げていると言えた。
「ここに来るまでの道は、平坦なようにも、急坂のようにも思えた。……そして海の唸りまで聞こえる――きっとここは海岸の断崖の上だわ!」
全身に野花を纏ってやってきた少女が、そうわめいたあとに身を投げるように飛び込んできて、ぐわんぐわんと舟を揺らしたが、やがて少女はひょっこりと起き上がり、言った。
「……不思議ね。私は死んでいない」
そうして今頃気がついたかのように、あたりにいる妖精の群れを見回した。
「……そうか。考えてみれば、私の瞳は三つとも塞がれていたわけではなかった。普段使っていなかった、動物的な二つの目の方を使えばいいのか」
独り言を呟いて、独りよがりに人懐こく笑う。妖精たちは恐れと興味深さを同時におぼえたように、首をすくめた。
「でも心配ね。開いている方の目が、閉じた方の目を嘲笑わなければいいのだけれど」
彼女はそのまま暫く黙り込む。やがて妖精たちも、この奇妙な闖入者を、頭の調子はおかしいが(誰がどう見たっておかしい)害はない、調律が狂ったぼろぼろの管楽器みたいな存在だと思うようになった。ちょっと気を遣いはするけれど、別にここにいてもいい。
やがて妖精たちも少女を気にすることなく動き始めて、舟底に酒を見つけたので、勝手に開けた。
あっという間になくなってしまった。砂嵐はまだ収まりそうにない。
誰か一匹がまだまだ舟底を漁っていて、おもちゃになりそうなものを見つけた。小町が全部は持っていけないと残しておいた、化粧道具入れだ。白粉、赤土や瑠璃の粉、孔雀の羽――その中に、臙脂の口紅を見つけて、自らの口に塗ってみる。妖精には少々大人っぽすぎる色だが、その大人な感じがよかった。数日前にこの舟に乗ってやってきた、まだ成熟しきっていない、ひょろりとすぐに折れてしまいそうな葦のような少女たちは、それなのに奇妙に大人っぽかったからだ――おそらく化粧だけでなく、礼に倣った立ち姿のせいもあるのだろうが。
妖精たちの中には、そういう少女的で、かつ微妙に大人的なものに憧れる者もあった。
そうして、口紅が妖精から妖精へと回されてあっという間に消費されてしまっていくのを、気が狂っている少女は眺めていたが、最後に自分にそれが回されてきたのを見て、意外そうにした。
「……私の手は、この赤よりも血に染まっているのよ」
妖精たちには知ったこっちゃない。
少女は渋々と口紅を受け取ったが、そのぬらぬらとした赤を見て、ぼそりと言った。
「私たちのぶよぶよの目ん玉に蹴りを喰らわせた奴らだけは、許しておけないわ」
そう言うと、立ち上がり、舟から降りる。
砂嵐は止んでいた。
少女は――古明地こいしは歩き始めた。歩きながらなにか、ぶつぶつと歌をやっていた。妖精たちはそれに惹かれて、ついていく。いつの間にか最初の群れだけでなく、偶然行き合った他の者たちもつられるように、集団は雪だるま式にふくれあがっていた。
こいし自身は、そんな事には気がついていない。
「“うらぶれた道を、
恐れ戦きながら歩み、
一度は振り返るも、
二度目は無理だった。
なぜかっていうと、ぞっとするような友が、
迫っていたからね”」
そう言って突然振り返ったので、着いてきた妖精たちはびくりと体を震わせた。こいしの焦点の合わない眼差しは、彼らの顔をひとつひとつ値踏みするようだった。
やがて言う。
「さとりを探して」
それにしても、この土地はそこまで魅力的なものなのだろうか。
吉弔八千慧は、殺風景な湿原に行軍の足を取られて難渋したここまでを、ぼんやり思い返している。
「古明地のなんとかなんて、あのまま外圧かけて操り人形にしておけばそれでよかったのに。もったいないのよ」
そうぼやいた饕餮尤魔は、無造作に駒を動かした。
二人は砂丘の上に卓を設けて盤を開き、将棋をやっている。ちょっと前まで湿地帯かと思えば、小川ひとつ隔てるとからからに乾いた大地とは、むちゃくちゃな風土だ。
「……こっちとしても、一番のノロマに足並み揃えてやる義理はないっての」
「だけれども、軍事行動っていうのはそういうものでしょう……あのやくざ者ども」
八千慧も理解のある物言いをしつつ、弁護までするつもりはない。
「結局、畜生界でちまちま抗争してるだけが能の奴らなんですよね。大軍を動かすとなると――」
と言いかけたとき、ようやく一隊が旧地獄の焼けた砂煙とともに追いついてきて、その長が砂丘を駆けあがってくる。
「驪駒早鬼! ただいま着陣!」
「……うるせえ」
「ま、ちょっとは期待できる奴がやってきましたね。先駈けとして」
「鉄砲玉の間違いでしょ」
「ともかく、ケツの詰まりはどうなっているんですか驪駒よ」
「腐った沼みたいに止まっているわ。……河水の風土病で倒れた奴らなんか、後詰めに任せて置いていけばいいのにな」
「そんな判断ができるのは、この寄り合い所帯でもあんただけしょうね」
八千慧は責めるように言いつつも、この場合は早鬼の判断が正しいような気がしている。内部勢力間でもくだらない調略は横行していて、病を得て脱落した早鬼の配下が別勢力に買収されている可能性は高いが、彼女はそんな連中を迷わず切り捨て、構わず前進していた。
もはや進むしかない状況なのだ――それも早急に。
「なのになんですか、この歩みの遅さは」
「知らねえよ、私だって聞きてえよ」
言いながら、尤魔が盤上の駒を進めた。このように彼女がぶっきらぼうに言いながら指した時は、なにか読みがある時だ。そういう女だった。
だが、その思慮も盤面止まりだ。
早鬼が二人に背を向けて、丘の向こうに遠く目を細めた。
「……見なよ。もう、旧都が望めるわ」
「知っています」
「だから早く来いってんのよノロマ野郎ども」
現実に反して、将棋の方は早指し気味の流れだ。
「こっちはもう本隊を無視して、勝手に使者でも送ろうかと考えてるよ」
「……メンツだけは大事のからっぽどもが黙っちゃいないよ」
「うるせえ」
「知らねえ」
八千慧と尤魔は息ぴったりに言い返した。
「今から使者を送るとしても遅いんですよ。送ったところで、たとえば向こうが五日間饗応してくれたら、こっちも同じ日数、今度はあちらからの使者を招いて、饗応し返さなきゃいけません。都合十日間は時間稼ぎされる……まああくまで礼儀の事ですし、そこで打つ手もありますが、クソボケアホバカどもがそんな芸当考えているはずもなし」
「それと、うちらに配られるはずの日極めの給料が停滞してから、何日目?」
「……三日目」
「でしょ。いればいるほどやる意味のない喧嘩になるって寸法ですよ。畜生界で戦ってきただけのやくざどもには、それすらわからないでしょうが」
「八千慧だってここまでの戦争はした事ないだろ」
「それでも頭の中で」
言われた八千慧は、自分のこめかみのあたりを指先でこつこつ叩いて言った。
「想定できることはたくさんあります。――ああ、なんで連中こんなに遅いの? 老いぼれすぎて、盲いた、肝臓に寄生虫を抱えた、腐りかけの、亀!……じゃあるまいし」
文節をことさら強調して芝居がかったふうに言ったあとで、八千慧は早鬼の表情をじっと見つめた。
「なに青鯖みてえに浮かねえ顔してるんですか驪駒よ」
「いや、感心している顔よ」
早鬼はそう言うと、ちょっとの間をおいて、ぷっと噴き出した。
「……あんたらももうちょいちんたらしていたら、いいものが見られたんだけどね。ありゃ痛快だったわ」
と言うのは、後方でようやく渡河にかかろうとした本隊の陣中に駆け込んで詫びを入れにやってきた、土蜘蛛の話だった。
「そいつが言うには、川の上流に追放された古明地の姉だか妹だかが潜んでいて、そこに住んでる土蜘蛛どもを頼りに挙兵したらしいんだけど、なんか色々あったみたいでね。こっちとよしみを結びたくなる事情ができたみたい。……で、それはいいとして、そいつがすさまじい勢いで本陣までやってきて、頭を下げて、誰も状況を把握できずにぽかんとしている間に、そんなわけで自分は勢力の維持で手一杯だから、旧都侵攻にも加われないしこっちに兵を遣ったら殺すとかなんとかいって、またすさまじい勢いで帰っていったのが、なんだか面白くって。土下座に来て謝罪風の威嚇をして帰っていっただけと言っちゃえばそれまでだけど、臆病者のまっ白けの肝臓持ちにはできない芸当だよ、あれは」
話を聞いたあとには、八千慧も尤魔も盤面上の戦いには興味を失っていた。やがて八千慧が盤を蹴飛ばし、ばらばらと散らばった駒が砂の中に埋もれていく。
「笑とる場合かーっ!」
「あーあ……ま、驪駒も来てくれた事だし、もう一人誰か来たら麻雀でもやるか。――ねえ吉弔よ、癇癪起こしたところでどうにもならないって。とりあえず使者はこっちで勝手に送ろう」
話題の土蜘蛛が自分の領地に戻ったとき、古明地さとりが潜んでいた葦原は、橋姫の付け火によって、もうすっかり焼け野原になってしまっていた。
「……さとりは?」
「わからない」
そう答えたのは、煙がまだ燻ぶる川端でぼんやりしている橋姫だ。
「焼け死んだかもしれないし、船に乗って逃げおおせたかもしれない。あなたにはわからない」
「うわ……私ってさとりちゃんから信用されてないのかなぁ」
「そういう方針でしょ。各々が、自分勝手に、考えついた通りの事をやる。逆に信用されているのよ」
「そういうものかねぇ。……ところであんた」
「うん?」
「今なら地上に出て行ったって、誰も気にしやしないよ。こんな土地、うんざりなんでしょ」
土蜘蛛にそう言われて、橋姫は高く遠くにある地上の光を仰ぎ見た。あの光はいかにも羨ましいものに見えるが、取り戻したところでやはり不満に思うこともあるだろう。彼女にも、自分の愚痴っぽさはわかっている。
そして、笑って言った。
「……ま、一連の顛末がどうなるか、気になるからね」
同じ頃、駆けるように川を下っていく船が、渡河中の畜生界の軍勢の目の前を、まっすぐに突っ切っていった。
「あーあ、なんでこんな事になっちゃったかなぁ!」
村紗水蜜はぼやきながら急流の中で一本くっきり筋を残している航跡を振り返り、苦々しく言った。
「私、古明地姉妹に与する義理なんて全然なかったよね!」
「どうかしら」
雲居一輪は意外に素っ気ない様子で言った。
「少なくとも、利敵する意味はもっと無いと思うわ」
「そこまでご贔屓にされてたわけでもないのになぁ」
「……でも、古明地さんちのこいしちゃんは、あんたを信じたんでしょ」
「どうなんでしょう。たしかに、急に使いのペットがやってきてあの温泉に呼ばれて、例の湧泉のある場所で数日くらい待っていてくれとは頼まれたけど……でも、あの死神さんはあまりに薄い線を辿って、古明地さとりを探しにやってきたわけじゃん。一から十までむちゃくちゃよ」
「どんなにむちゃくちゃに見えても、こいしちゃんは私たちに何かを感じて、それを信じたのよ」
「私にはわかんないよ。……全て仕組まれていたのか、ただ偶然の巡り合わせか。正気の中で出てきた計画か、あるいはただ狂っていただけなのか」
追われつつあることも忘れ、ぼんやり呟いた水蜜だったが、急に、身を取り巻く情勢に気がついたかのように、かぶりを振った。
「なにもわからない」
「……それにしても、こう一本の跡しか残せないのは、目くらましの陽動としては効率が悪いわ。船を捨てましょう」
「船を捨てる?」
考えもしていなかった発想で殴り込んできた一輪に、水蜜は信じられないものを見る顔になった。
「ええ。ただ船に乗って逃げ回るより、このあたりの沼沢に古明地さとりが潜んだという偽情報を流しながら転戦すれば、より効果的に混乱させられるわ」
「言うだけ簡単ですね……」
「それに、この手の攪乱にはうってつけの人材がいるじゃない」
「……あの、自称鵺のえせ者ですか」
彼女たち共通の知人だった。
「そう言ってやらないでよ。気位が高いようで、意外に安いやつだったよ」
「あいつ、そう見せてるつもりか知らないですけど、私の顔を使っているみたいで気色悪いんですよ」
「気に入られているのよ。私は、あんたが奴に気に入られているという直感を信じて頼る」
そう言った一輪の顔をじっと見据えて、水蜜はため息をついた。
「……今すぐ降りて、このあたりに潜伏していてください。私は最後までこの船を利用してやりたいから、やる事が残ってる」
「りょーかい! 行くよ! 雲山!」
一輪は即決で船の舷側から身を投げ出すと、そのまま相棒の大きく柔らかな手の内に収まって、消えた。
水蜜はそれを見送って、それより少し先にある開けた河水まで至ると、ここでよかろうと返し付きの巨大な鈎針に縄索をくくりつけて、するする下ろした。
「……船を捨てるなんてだめな船長でごめんね」
帆柱を撫でながらぽつりと呟いた後で、自分自身も錨を担ぎ、そして東に伏し拝み、西を向いて念仏を――とやりかけたが、信心はしていても経をよく覚えているたちでもなかったので、とりあえずふと思い浮かんだ
「……“妙法蓮華経薬王菩薩品、如子得母如渡得船”」
とだけ唱えて、身を投げた。
水の中は澱んでいて、深い。そのまま船から垂らしている縄索に従って潜っていき、水上のぼんやりとした光すらも届かなくなったところで、担いだ錨を手に取った。
そのまま川底に生息する巨大な古代魚を、出会い頭に錨でぶん殴って気絶させると、その鰓に鈎針を引っかけた。ついで、活を入れてやって下流へ追い立てると、主を失った幽霊船は、すさまじい速さで曳かれて、海へと下っていった。
もっとも重要な二人が、もっとものろまな二人だった。
「……すみませんね。私が衰弱していないなら、もう少しましな速さだったでしょうに」
さとりは、あの葦屋での隠棲の中ですっかり脚を萎えさせてしまっていた。じき治るものだろうが、当面は小町が背負うしかない。
「いいさ、これくらい苦労しなきゃ。他の、巻き込んじゃったみんなに悪いくらいだもの」
小町はそう言いつつ、この背中の人物の驚くような軽さを感じていた。
「……この旧地獄にやってきた最初の頃、こうやってこいしをおんぶした事がありますよ」
さとりが耳元で語り始めた思い出話は、笑い話のつもりらしい。口調でわかる。
「私たちは是非曲直庁の方々から資料を引き継いでいましたが、それでも灼熱地獄跡の調査をしなければいけませんでした。それで、ある死火山に登っていたとき、あの子はうっかり火口に転げ落ちちゃった」
小町の耳元で鳴る笑い声は、古明地こいしの鈴の鳴るような声音より、いささかがらがらとしていた。
「別にぶきっちょな子ではないんだけど、どこかぼんやりしているところがあったのよね。……ぼんやり? 違うわ。夢想的というか、夢見がちというか……」
「あたいもそういうところあるから、気持ちはわかるよ」
ただひたすら、左右が切り立った薄暗い洞窟を歩いて、下流へと向かっている。村紗水蜜と雲居一輪が下っていったものとは違う川の支流を辿っているのだ。あの荒野の何も無さも大概だが、こちらのじめついた感じもひどい。
「それにしても、ここはとんでもない土地だね。あたしゃもううんざりだよ」
「本当に。畜生界の方々も、どうしてこんな場所に惹かれたのやら」
そう笑って、言葉を続けた。
「反対に、こんな世界は捨ててこちらから畜生界に攻め込んでやればよかったのでしょうか」
小町はそういう話を聞きながら、歩き続ける。歩くというよりは、前に倒れ続けているような調子だ。それでも倒れはしない。
「……でも、この土地に生きている方々のこと、私はけっこう好きなんですよね」
いつの間にか傍らについてきてくれている妖精たちが、ぼろぼろにすりきれた小町の服の裾を引っ張り、支えながら、彼女たちを導き始めた。
やがて後方で積み重なっていく問題を報告に聞くたび、吉弔八千慧はそのいらだちを募らせるばかりだった。
「周辺の諸勢力は一向に帰参しないし、逆に嫌がらせばっかり喰らってるじゃないですか……誰ですか、旧都と微妙な距離感にある連中も少なくない、なんて言った奴ら……」
「……ま、話に聞くだけと実際に見るのとじゃ、そりゃ事情が違うわ」
驪駒早鬼も、さすがに普段の単純明快さをやや翳らせている。
互いの陣地の外れに、一本だけぽつんと立っている節くれだった枯れ木があった。ふたりはその下にしゃがみ込んで、ぼそぼそと愚痴をやっているのだ。
「文句があるなら、あんた自身でもっと外交をして、内情を探っていりゃよかったのよ」
「ですが、私には古明地姉妹を陥れる心算がありました。表立って外交官になんてなれませんよ」
「そこよ。あんたほんとえっぐい事したよねえ」
「たしかに旧都勢力は強大ですが、旧地獄内の周辺勢力との連携が無ければ砂上の楼閣ですよ。地霊殿の切り崩しは当然の策でした」
「当然なんて言葉、詭道ばかり用いるやつは使っちゃいけないんだわ」
言いながら、こいつにだけは絶対に心を開くのはやめよう、とこっそり思う早鬼であった。
と、そこに饕餮尤魔が、配下を引き連れて通りかかった。
「……おー? お前ら連れションでもしてんの?」
「違わいっ!」
「そう面白く反応しちゃうからいじられるんじゃないかい吉弔……」
早鬼が呆れ顔で言うが、尤魔はまあまあ上機嫌の様子で言葉を続けた。
「ともかく使者は送ったよ。向こうさんも自陣営の意見を統一しきれていないっぽいね」
「なんでわかんのよ」
「そういう空気は、場数を踏まなきゃ読めないでしょうね、驪駒」
八千慧が、砂煙かも霧かもわからない旧都の向こうを透かし見ながら言った。
「場の雰囲気を読むのは、畜生界でやっていくには大切な技能の一つですよ」
「力こそ正義だのといきがっているくせして、結局大事なのは、それよ」
と、尤魔も早鬼に教えを説く。
「むしろ獣の論理であればこそ、そうよ。陣営が強大だろうがなんだろうが、ちょっとでも均衡を崩せば袋叩きにされるんだものね……それだけは覚えておいた方がいいよ」
「……で、どうするのよここから」
「そこ。自分らさ、なんか三人でできて、いい感じに賭けが盛り上がる遊び知らないかな? 最初は麻雀のつもりだったんだけどね、驪駒のあとが一向に来る気配なしだもん」
尤魔の口調は大真面目だった。
「各勢力の首領による対抗賭け麻雀大会を開催して、みんなの懐から金を吸い上げて給料に充てる計画だったのに」
「社会だなぁ」
「あんたそのうち見放されるよ」
「そこは愛嬌でどうにかするさ」
尤魔はにっかりと笑う。たしかに、愛嬌だけが彼女たちの武器になりつつあった。
「はっ! 結局、最後は個人の資質がものを言うのですよね驪駒――待て、あれはなんです?」
八千慧が指したのは、旧地獄の荒野を、よろよろと行く集団だった。旗印も無く、当然、遅れに遅れている遠征軍の一部隊でもない。よろよろと陣形も無く歩みは遅いが、旧都へまっすぐ進んでいた。
「妖精の群れね」
「戦争となれば流民のたぐいが現れるのは奇妙ではないけれど――」
早鬼と尤魔が言う横で、八千慧は一人自陣に駆け戻っていた。
「……吉弔?」
「兵を出します! あれだけは旧都入りを止めなければいけません! 止めなければ――」
「待ちなよ、こっちは使者を送ったばかりだよ! こんな時に交戦なんかしたら……」
「あんたとこの使者なんざ、勝手に死なせておけばよろしい!」
八千慧はきっぱり言った。
「どうせのらくら躱される戦時交渉です。決裂した方が、向こうの時間稼ぎの選択肢も狭められる! 使者の命なんて捨ておきなさい!」
「まあ……そうだな」
「こればかりは吉弔が正しいよ。だって――」
早鬼もまた、自慢の精鋭を繰り出しつつあった。
「あれは古明地さとりだ!」
歩き続けているうちに、自分たちが妖精たちの大集団の先頭に立って旧都へと導かれている事に、小町とさとりは気がついていた。
「いつの間に手懐けたっけ、こんな連中……」
と首を傾げながら、その一匹の顔を見た。彼らの唇には、酸化鉄――弁柄らしき赤茶けた顔料が、不器用に塗りたくられている。
「……ま、なんでもいいや。ようやく、あそこに旧都が」
「そしてあちらもなにやらざわついております」
さとりは小町の背で首をひねり、言った。
「……ああ、ここは戦場のど真ん中なのですね」
と言ったさとりの声は、案外泰然としていた。
「ふふ、今頃気がついたのかい」
「いいえ。ずっと前から気がついていたのに、うっかり目を逸らし耳を塞いでいました」
「手遅れになる前に受け入れられたようでよかった」
二人は妖精たちを引き連れ、歩き続ける。それでも畜生界の陣地から追手が出撃すれば、やがては追いついてしまうだろう。
「……ねえ、死神さん」
「わかってるよ」
さとりに声をかけられて、小町はさすがにいらいらと言葉を返した。
「それでも歩かなきゃいけないよ。あたいはあんたを地霊殿に帰さなきゃいけないんだ。四季様にそう命令されて――」
「いえ、違うんです」
意固地に前だけを向いて進み続けていた小町も、さすがにはっと振り返った。
「追手は来ません……」
さとりは、目が見える者なら誰にでもわかる事を言った。たしかに、小町やさとり目がけて駆けてこようとしていた追手は、旧都からやってきた、ただ一人の少女を前にして、進撃を止めていた。
「……行きましょう」
魅せられたように立ち止まっていたのは短い間だっただろうが、今ではその寸秒も惜しい。
やがて小野塚小町と古明地さとり(そして何千もの妖精たち)が旧都の郊外に敷かれた陣地からの出迎えと合流したとき、身一つで相手方の追跡に立ちはだかり阻止したのが何者だったのか、ようやく判明する。
四季映姫だった。
「古明地こいしから言伝があります!」
八千慧も早鬼も尤魔も、目の前のみすぼらしい姿の少女など蹴倒し、踏み潰して行ってしまえばよかったのかもしれないが、不思議とそうはできなかった。
「なに?」
と言いながら、早鬼はその身なりをじろりと値踏みした。ぼろきれのような衣服に、饐えた匂い。
「使者の割には物乞いのような見た目ね」
「この程度の使者でよろしいという、こいし様の思し召しでしょうね」
「あんた、この場で殺されても文句は言えねえぞ」
「ふふふ、味方の使者の命さえころりと切り捨てられる方々にそんな事を言われても、かえって緊張感がありません」
その笑顔には心底からの感情が乗っている気がして、早鬼は内心恥じ入ってしまった。
「……使者だというなら」
と言ったのは八千慧だ。いつも通り、なだめすかすようなあの声音。
「どういった用事ですか? 言伝と聞きましたが、こちらは饗応の準備もまだできていません。それに――」
「古明地姉妹は旧都と和解しました。――見なさい。古明地さとりを旧都の軍勢が出迎えているでしょう。地霊殿は旧都と共に戦います。旧地獄はあなた方を絶対に受け入れようとはしないでしょう」
言葉は乱暴な拒絶ではなく、静かに、落ち着いた調子で述べられた。それだけに八千慧は鼻の奥に酸いものを感じながら相手に詰め寄りかけたが、同時に相手の臭気の原因にも気がつく。
「――失礼」
八千慧はしゃがみ込んだが、うっかり跪いたりして、上下関係をはっきりさせる礼の形にならないようにだけは、気をつけている。
使者の膝から下は爛れて擦り剝け、鬱血して黒くなり、どろどろとした膿も赤黒くなっていた。
「今の私は死人も同然です」
相手が言うのにも構わず、八千慧はその傷が本物である事を確かめるために、もっと鼻を近づけて、舌を伸ばして傷口を舐めた。
「……すみません、無礼な事をしました。さすがに謝りますよ」
と立ち上がり、膿まじりの唾を吐きながら言うしかない。
「たしかにあなたは使者だ。同時にほとんど死者でもある」
「なので私を害しても、なにも意味はありません」
「言うてる間に、古明地さとりには追いつけなくなったよ。これ以上は意味のない戦闘だ」
二人のやりとりのはたで尤魔が言った。内心、ほっとしている。自陣から出した使者を見殺しにしたとあっては、たとえ理に適った行動だろうと外聞が悪い。自分たちに鉄の統制など無く、その程度の気分しか持てない集まりでしかないのは、よくわかっていた。
「こいつは死士だ。死士を討ったってなんの足しにもなりゃしない。戻って本隊の到着を待とう……あんたは帰りな」
という声音には、労わりと畏敬すらあった。
「それもいいでしょう。ですが、そうですね……」
使者は――四季映姫は、三人の顔を順に見比べた。
「ちょうど四人いる事ですし、麻雀でもやってから帰りましょうか……なにも賭けませんからね?」
旧都の最前線と合流を果たした小町とさとりは、真っ先に護送されていた。
「まるで、罪人を送るみたいだね」
「みたいじゃありません。周囲も警戒半分ですよ。私たちはまだ、なにも許されていません」
さとりはため息をついて言った。
「……結局、私たちはそういう扱いなんですよね。旧都の皆さんと、わかり合えるわけがない。首を斬られるかもしれない」
「あんたはうじうじしすぎだね」
小町はおしとやかに笑った。
「心を読む力を、あんたは他者を疑うために使っていて、妹さんは信じるために使っていたようだ」
「あの子の信じ方はちょっと放埓すぎます」
「たしかにね。あたいもそう思う」
小町はおしとやかに笑い続ける。
「でも、おかげであたいはあんたを見つけ出す事ができた……どうだい?」
「あの子がむちゃくちゃすぎるだけですね。……こいしはみんなを信じていたとあなたは言いますが、だとしても、それは捨て鉢な信頼だったと思いますよ」
「だろうね。あんな回りくどい謎かけをしやがったんだ。手掛かりが伝わらず、旧地獄がばらばらになって滅んでも、それはそれで構わんと思ってただろうさ……でも、だからこそ、あたいはこの世界の団結を信じるようになったよ。そういう効能だけはたしかにあった」
「複雑な子です、本当に複雑な子です。それを信じた閻魔様も、あなたも、おかしい」
「だけどこいしちゃんは、あたいが四季様を信じると信じたし、四季様があたいを信じると信じた。……その結びつきは、あんた個人で完結していた思い込みよりも強いんじゃないかな」
さとりは困ったように笑いながら、ふと、考え深げに傷だらけの眼を細めた。
「……どのみち、私たちと旧都との関係を、今一度はっきりさせなければならない事だけは確かです」
「ちょうど邪魔をする身内も無しだよ。あんたの妹がみんな排除してくれた」
「それはまたお優しい嫌味ですね」
旧都の中枢に辿り着いて星熊勇儀の前にお目通りした時、さとりは足に力が入らなかったが、問題は無かった。顔を伏せ、膝行する形で勇儀の足元まで行く。臣従の礼だった。
そののろのろとした進みを待ちながら、勇儀が、ちらと小町の方を見た。そんな相手を、小町自身どんな表情で見つめ返したか、よくわかっていない。
「……私たちは、互いにすれ違う事が多かった」
さとりが申し訳を述べ立てる前に、勇儀はあの妙によく通る声で言った。それだけで既に異例の事が起きていたが、さらにそこで身を屈め、さとりと目線を合わせて言った。
「でも、旧都と地霊殿の関係は、まだ破綻していないと思う。あなたが抵抗を続けながらここまで戻ってきた事は知っているわ」
「……あなた以外に旧都を治められる者はいません。ここ数百年の仕事ぶりには尊敬していました」
さとりは顔を上げて率直に言っていた。勇儀もそれに対応して言う。
「あなた以外に灼熱地獄跡を管理できる者もいない。現在地霊殿を接収している状況は、非常措置にすぎないわ」
そのやりとりで、彼女たちの対等な互助関係が決定した。
結局のところ、それは星熊勇儀と古明地さとりの、善意と信任によってのみ担保されている関係にすぎない。
だが、当人らはその事もきちんと認識していた。
「それが認識できている間は、私たちは共に立っていられます」
「素晴らしい事だと思うね」
一時的に旧都によって接収されていた地霊殿の、事務的な返還作業が終わった後で、さとりと勇儀は言った。
「……とはいえ、様々な事が思いもよらないふうに進んでいるみたいですね。この際、政治機能の一部を上の階層に移す事には私も賛成です。しかし遷都だけは絶対にしてはいけません。ここが以前の主――是非曲直庁から受け継がれた、正統性のある土地である限り、私たちはこの地で戦うべきです」
「相変わらず話が早くて助かるよ……」
様々な者の心を器用に読み比べたさとりは、とりあえず一人一人の情報の共有を始めていた。
「――四季様がぁ?」
最も驚いたのは小野塚小町だった。
「そうです。あなたの上司の四季映姫・ヤマザナドゥは、今や私の妹の奴隷となって、四季映姫・ヤマザナドゥのヤマザナドゥ抜きです」
「洒落てる場合じゃないよ」
小町は勢い言ってどこかへと足が向かいかけたが、どこに向かうつもりなのか。反射的な行動でしかなかった。
「……それにしても、こいしはやはり、そのようになってしまいましたか」
「あのエンマサマに聞いただけだけれどもね。でも本当らしいな。地霊殿をどう捜索しても、見つからなかったんだからね」
「大丈夫かしらこいしは……もともと聡いけれど、そのへんの小石にも蹴躓くようなうっかり屋なんですよ。第三の眼を閉じた今となっては――」
「“私にはもう道なんてなくて、したがって瞳も必要ない。見えていた時の方が躓いていた”」
聞き覚えのある、鈴のような声音がどこからか聞こえて、さとりも、勇儀も――小町でさえ、はっと顔を見合わせた。
「“よくあることだけれども”」
半荘が終わったところで、八千慧も、早鬼も、尤魔も、次の局を始める気分は失せていた。
別に、映姫が目覚ましく麻雀が強かったというわけではない。この奇妙な相手は、ただ着実に打ち、ときには思いきった切り方をしていただけだ。その思いきりのよさにしても、別に博徒的な大勝ちを期したものではない。小さく勝つために大胆な選択さえできた。それだけの着実な積み重ねで最終的に大勝ちしていた映姫に、他の三人は当惑していた。
「――では、私は帰らせていただきますね」
「待てよ」
卓から立とうとする映姫を呼び止めたのは、尤魔だった。
「今、最後に言った言葉はどういうつもりだい……」
「……そうですね。意図は説明しておきましょうか。そちらの方が卑怯ではありませんし」
卑怯、という言葉を聞いて、八千慧がこっそり嫌な顔をする。
映姫は腐った脚を引きずり、よろよろと卓の周囲を回りつつ言った。
「先ほどの提案は、あなた方が古明地姉妹を陥れたやり方の、完全な意趣返しです。……しかし、あなた方三人にもたしかに利はある」
早鬼が、伏せていた眉をぴくりと動かした。
「あなたたちは、畜生界の軍勢の中でも特に統率が取れ、戦慣れしている。行軍のなめらかさ、陣の敷き方、竈や用水の様子を見るだけでも、それは明らかですね――ですので私は提案しました。畜生界は、現在のこまごましすぎる群雄割拠では、少々目が細かすぎます。あなた方三者が特に並び立ち、鼎立すべきです」
「……それが悪魔のささやきのつもりかい」
八千慧は鼻で笑いながら言った。
「乗らないよ。そんな外交戦術――」
「そうでしょうね。では」
映姫は刻々と悪くなっていく脚を引きずりながら、三人の陣地から出ていき、旧都へと戻っていった。
「……殺しておくべきだったかな?」
「麻雀で負けた腹いせにですか?」
力なく苦笑いしたのは、八千慧だった。
「無理ですよ。情けなさすぎるわ」
「しかし、嫌なことを言ってきたねあいつは。こんな戦中に」
「“万歳”、 饕餮尤魔! 畜生界の東の主よ」
「ああいうそそのかしは、気にしないが吉ですよ」
「“万歳” 、吉弔八千慧! 畜生界の南の主よ」
「少なくとも、この戦役を終わらせてから考える話ね」
「“万歳”、 驪駒早鬼! 畜生界の西の主よ」
当の三人だけは気がついていなかったが、彼女たちの周囲の者には、奇妙な予言めいた少女の声が、なんとなく無意識の中に刷り込まれていた。
「“あなたの勇気の栓を、いっぱいまでひねるのよ”!」
さとりは返還された地霊殿に戻り、そのエントランスのがらんとした雰囲気を見て、少し寂しそうに笑った。その様子を見て、小町はどう慰めたものか迷いながら言った。
「旧都に逃げた動物たちは、もう帰ってくる気はないみたいだね」
「おぞましい事件が起きた場所ではありますからね。――あっ」
と、奥から飛んでやってきた鴉と猫にじゃれつかれて、すってんころりと倒れてしまった。
「あなたたちは残っていたのですね!」
と言いつつ、それでもペットたちの喜びを体で受け止めた。
「……主従の感動的な再会かい」
小町の言葉には、嫉妬ではないにせよ羨望のようなものが漂っていた。四季映姫が敵陣に出向き、なにがしかの交渉を行っているという事までは知っていた。
数時間後、映姫がそのまま麻雀対決にまで勝利し、悠然と帰ってきたという事までは、まだ知らない。知ったのは、そのまま彼女が地霊殿に送られて、さらに何千という妖精たちを引き連れてきた末の事だった。
「……かなり、ぼろっかすみたいっすね」
「お互い様ですがね」
小町と映姫は、数日振りの再会にお互いの変わりようを見ていた。そういえば、小町自身もお世辞にもましな見た目とは言えない。
「その足の傷はなんすか」
「経過が悪いのです。きっと、今から行おうとしている事が、悪業となってふりかかっているのでしょう」
「行おうとしている事ですか」
小町は、映姫から漂う腐った膿の臭いに、無遠慮にも鼻をつまみながら尋ねた。
「ええ。戦争です」
「戦争!」
「是非曲直庁の歴史を顧みても久方ぶりの戦争です――もっとも、記録には残らないでしょう。今の私は官位など失っていて、古明地こいしに拾われたただの奴隷にすぎませんから」
「それでいいんですか?」
「そうでなければいけない……まあ、非常時のための身の証しも持っていますよ」
映姫はそう言うと、ぼろ着の襟裏をめくり、そこに縫い込まれた小さな徽章を見せた。
「……ですが、これにしたって最後の最後でしか使えない非常措置です。こんな身分の者が向こうに捕らえられれば、どうなってしまうでしょう」
「死にはしないでしょうけれど、政治的おもちゃでしょうね」
「そういった誹りを受けるのは私だけでいい」
映姫は小町の顔を見て言った。
「ですから小町、あなたはここにいなくてもいい。私がどうなったかを伝える者は必要かもしれませんが――」
「“我ただひとり逃れ、汝に告げんとて来れり”!」
背後のロッキングチェアが不自然にギコギコと動いたが、映姫と小町は構わず話を続けた。
「あなたは地獄の吏員にすぎないのです。こんな戦争に関わらなくてもいい」
「あたいはあなたと一緒にいます」
小町はきっぱり言った。
「たしかに、あたいは是非曲直庁の木っ端文官にすぎませんよ……しかしこの国の官僚には、古くからこんな訓示だって残っている。“凡ソ政ノ要ハ軍事ナリ”……文武の別にかかわらず官人には戦う覚悟があるべきですし、あたいにだってそれはありますよ」
「……私は、本当、どうしようもない部下を持ちました」
映姫は苦笑いしていたが、そんなやりとりを古明地さとりは優しい眼差しで眺めていて、近寄って話しかけた。
「しかしどうしましょう。地霊殿は旧都勢力につくと言いましたが、しかし私自身の現有戦力はご覧の通り。猫一匹と鴉一羽にすぎませんよ」
「自分たちで戦うと言った手前、兵をねだるという事もできませんね」
「ええ。私たちは、なにも無い場所から自分たちの手足になる兵を作らないければならない」
さとりはそう言ってから、映姫の反応は置いておいて、小町につつと寄って、尋ねた。
「……閻魔様がなにをどうするつもりか、私は心を読んでわかっておりますが、どうです?」
「きっとびっくりしないよ。あたいは」
「どうでしょうね」
二人の眼の前にいる映姫は、にんまり笑ってくるりと振り返り、何千と地霊殿に集まってきた妖精に向かって、叫んだ。
「みんなー! おねいさんと一緒に、遊っそびーましょー!」
「――ざけてんじゃねえぞ」
八千慧は、普段の慇懃な物腰の柔らかさをもはや保ちきれなくなって、陣中に届いた後方からの連絡を投げ捨てた。
「古明地さとりは間違いなく、私たちの目の前を横切って、旧都に合流したのに! どうして後方の沼沢地に逃れて、本軍を攪乱しているなんて話が出てくるんですかね!」
「お互い見えてるものが違うんだからしょうがないだろ」
早鬼は未だに到着しない本隊よりも、八千慧の苛立ちの方にいらいらしながら言った。
「というか、古明地さとりの移動速度が速すぎたんだな」
尤魔は、机上に広げられたこの土地の地図を、ぼんやり眺めながら言った。
「いつ、どの段階で旧都への帰還を開始したかはわからないけどね。あのあたりはもつれるように複雑な河川が入り組んでいるし、かと思えば一歩外れれば岩石の野だ。だから、その足で半日とかからず戻ってきたなんて話が、後方の奴らには疑わしく聞こえるんじゃないの」
「空を飛ぶなりなんなり、どうとでも解決方法がある問題ですね。発見されることを避けたいのなら、地道に歩いた方がいいのは確かですが……しかしこんな旧地獄の天候です。紛れる手段だっていくらでもあります」
「まあな」
尤魔は首をひねり続けていた。
「空を飛んで一直線に戻ろうが瞬間移動しようが、現実に起こったという話の前では大差無いわな……」
しかしながら、と小町はぼんやりしつつ書類仕事に追われている。
戦争とはいえ、やる事は公文書の作成か決裁ばかりだったが、時折映姫に呼び出されて、妖精たちを使って練兵とも遊びともつかないものに勤しんでいるのを手伝う羽目になった。
「……まず、この小町おねいさんについていって、こっちの旗からあっちの旗、次に向こうの旗まで、ぐるぐる回ってみましょおーっ!」
などと、妖精の縦隊の先頭に立されて、目印の旗をいくつも立てた荒れ野を歩き回る羽目になるのは、まだいい。妖精たちは素直に命令を聞き、単純な機動ならば案外物覚えもよく、動作はきびきびとしていた。たしかに彼らを自分たちの爪牙として使うのは、判断としては有りなのだろう。
だが、問題は映姫のちびっ子相手に戯れるお姉さんのような朗らかさで、どうしても笑ってしまうのだ。しかもその明るさにもかかわらず、彼女の脚は、膝から下がどんどん悪くなっている。もう壇を設けて椅子に座ったまま指示を出すしかなくなり、立つ事すらできなくなっている。それでも映姫自身は、足が腐り落ちようとも、それはこれから自分がやろうとしている行為の、罪業の前借りでしかないのだと言っていた。自分は是非曲直庁の閻魔にも関わらず、これから非道を行おうとしているのだから、しょうがないと。
「……バカみたいな人だね」
小町は眠気と疲労と単調さに、まぶたを痙攣させながら思った。みたいじゃなくて単にバカなだけかもしれないが、一応は尊敬する上司だ。
「手が止まっていますよ」
向かい側から、古明地さとりにたしなめられた。
「居眠りしている間もありません。私たちはあと数刻中に、あの方の着想をまとめなければいけないんです」
「あれを着想なんて言葉で表現して、いいのかねえ。夢みたいな空想だよ」
小町は、常の五倍ほどの努力を払って、ふたたび手を動かし始めた。
「……あたい、自分の方がよほど夢想家だと思っていたのに」
「要領よく夢想できる方もいるって話ですね」
映姫のあの、息を吸っているのか吐いているのかわからないような顔を、小町はふと思い出した。あの面の裏で、彼女はこんな事ばかり考えているのだろうか。
バカだ。
「……ま、眠るに眠れないよ。騒がしいあいつら――」
と苦情を言うのは、映姫がこれだけは必要だと旧都から貸し出してもらった軍楽隊が、それぞれの楽器を調律している音だった。ちっとも寝られていない今では、音楽も騒音にしか聞こえない。
「あれは眠りの質を落とすよ」
ともかく、小町はただ一つだけわがままを言い、さとりの周りをうろついていた猫や鴉を、追っ払ってくれるように頼んだ。
「気が散るんでね。ごめんね……」
さとりに命じられて、灼熱地獄跡の管理に向かっていく忠実な彼女たち――どちらも牝だった――の背中に、小さく詫びをかける。
「……それにしても、あの子たちだけは地霊殿にずっと残っていたんだね」
「一番の古株なんですよ」
さとりは言った。
「もう、とうに妖獣になって、変化なんかができたっておかしくないのですが、どうも情緒が幼いままというか……本人らも、私の膝を温めるか、毛づくろいをするかくらいの役目しかできない無能だと、気にしているみたいです」
「ふうん。……ま、どんな子でも、まっすぐ育っているなら慌てない事だね」
「そうそう。慌てない慌てない」
やがて、どうにか体裁を整えてまとめられた軍事計画の書類を、外で調練している映姫と軍楽隊のもとに持ちゆく。
計画書のほとんどは楽譜だった。
「……よろしい。現実的な運用に落とし込むなら、これくらい単純なものにするしかないでしょうね」
と、さらさらさらと書類に目を通して言ったあとで、続けて言った。
「あなたのおかげで、簡単な機動くらいはどうにか仕込む事ができましたからね。“小町おねいさん”」
「自分で蹴上げた鞠を、自分で蹴り返しているような気分でしたよ。……文書作業の人員とか、もうちょいどうにかならなかったんですかね?」
小町の抗議は無視され、映姫が口を開いた。
「今から妖精のみなさんに訓示を行います。小町は私の後ろに立ちなさい」
背後に立ち、私を支えてくれ、という意味だ。
映姫は体重をすべて預けてきた。
「みんなー! ちょっと聞いてくれるかなぁー?」
映姫の肺の動きまでを胸いっぱいに感じながら、小町はやはり背後でくっくと笑ってしまって、腰帯を持って相手を支えようとする腕が、ずり落ちそうになった。
「……うん! すぐ静かになったね! いい感じ! ありがとー! 私はこれから、あなたたちに自分の運命を預けて、あなたたちと共にあり、戦い、絶対にこの戦争を遂行します。以上」
訓示はそれだけ。それだけを大声できっぱり言うと、次に丹の顔料をなみなみたたえた甕を持ってこさせる。
この奇妙な軍集団の血盟の儀式は、まず映姫が自分の親指の腹を噛みちぎって、流れた血を甕の中にぽたぽたと垂らすところから始まった。その血のにおいが、嗅覚ではなく視覚によって拡がるものであるかのように、何千の妖精たちは、血が垂れ落ちる様子を静かにじっと見つめている。以前、川で石合戦をやっていた時の彼らの瞳のぎらつきを、小町は思い出した。
次に映姫は甕の中にある顔料に手を真っ赤にひたして、言った。
「来なさい。順番に」
背後から、軍楽の鼓がどろどろと小刻みに轟き始めて、場の進行を促した。なんとなくその場に整列していた妖精たちは、なんとなくの空気で、自発的に動き始める。小町の疲労にぼやけた目には、それがなんとなく文字に見えた。流れる文章の、文字一つ一つの行進。
一匹一匹、目の前にやってきた妖精たちの顔へ、映姫は自らの血染めの手で触った。頬の柔らかさをいとおしむように触れ、血のように丹い顔料を塗りたくっていく。その様子はけして綺麗とはいえないが、戦場の化粧としては上等だ。
そして、それら一匹一匹すべてに、映姫は声をかけた。それぞれの個体を生まれた時から知っていたかのように、親しげに語りかけて、もしものときには私と一緒に死んでくださいと囁いた。そのように告げられた妖精は、間違いなく目を輝かせる。
小町は今にも脚が崩れそうな上司を支えながら、たしかにこれは罪業の深い行為だと思った。
「本隊到着! 本隊到着!」
「はしゃいでんじゃねえですよ」
八千慧は早鬼をたしなめた。
「……饕餮のヤローが更迭されるてえのはマジですか?」
「独断で使者を送ったのがまずかったんだろーかねぇ」
早鬼のような単純な者にとっては、ただ共に肩を並べている一軍閥の長の失脚にすぎないようだった。
「もう配下の指揮権も取り上げられて、病気って建前で今日明日には後方送りさ」
「それなら、見舞いを名目に面会できますね」
「あ、私も行こうかな……」
早鬼がそう言ったのを、八千慧は押し止めた。
「別々に行きましょう。私たちはあいつと懇意だし、他にどうこう思われたくない」
とは言うが、その実は早鬼が本隊の連中と通じている事を恐れているだけだ。
「ああ、それがいい」
早鬼もあっさり言った。
「私も陣を移動しなきゃいけないしさ。別方面だよ、地霊殿攻めのね……やっぱ嫌われてたのかな私……まあ本隊ほったらかしで早着しちゃったのは確かだけど」
三者、綺麗に分断されてしまったものだと八千慧は塞ぎ込むしかないが、そのとぼとぼした足で、尤魔の見舞いに向かった。
ちなみに、饕餮尤魔の“病名”は、食い過ぎという事だった。
「なんだか屈辱よ……」
「でも流行り病とかではなくてよかったです。おかげでこうして面会できるんですからね」
塞ぎ込んでいる尤魔に対して、八千慧は慰めた。それがどれほど珍しい事かは、彼女たち自身がよくわかっていた。
「……ま、私も嫌われたもんさ。吉弔も気をつけな」
「しかし配置転換ならともかく、更迭とは。いくらなんでも……」
「私が思うに、こりゃ離間の計ってやつだね」
「言われんでも」
八千慧にもわかっていた。これは、あのとき古明地こいしの奴隷女――その正体は四季映姫――が言っていた“意趣返し”だ。ただ予想外だったのが、そうして陣中に注ぎ込まれたらしい猜疑心という毒の、異常な回りの速さだった。
「いくら疑われるといっても、おかしいよこれは」
「元より私たちを蹴落としたい輩がいたのでしょう。よくある事ですよ」
「しかし、戦争中の前線でやる事かな?」
どうにも違和感がある。
「やるかやらないかという段階は、既に過ぎているんですよ饕餮。連中はやり始めているんです。……ところで更迭というのは、畜生界の本土までですか?」
八千慧の質問に、尤魔は少し考えて、答える。
「いんや。どうにも人材不足みたいでね。後送されるけど、結局はやる仕事があるでしょうよ」
「……もしもの時のために、後方の意見をまとめておいて欲しいのです」
八千慧はこの、もしもの時という言葉に、どうとでも受け取れる微妙な空気をにおわせておいた。
「承知したわ」
尤魔は一諾する。そのあとで、少し面白がって笑った。
「……にしても、まさかあんたが、他人に事を託して行動しようとするなんてね」
尤魔は、この、人を信じず策ばかり多い女のことを、そのためにちんまりせせこましい悪事しかなせない畜生界のやくざ者どもの典型例だと、そう思っていたのだ。
「失敬ですね」
相手の内心を知ってか知らずか、八千慧は憮然とした。
対峙した二勢力は遅かれ早かれの会戦を控えているが、それだけにかえって、お互いの陣中には奇妙にゆったりとした時間が流れていた。
「……どうして古明地姉妹を信じようと思ったのかって?」
旧都側の陣では、世間話の流れでそのような問いが聞かれて、星熊勇儀は苦笑いしながら答えた。
「単純な話よ。……どんな力があっても、こんな地獄みたいな世界で生きていくには、どこかの段階で誰かを信じ、頼らなければいけない時が来るもの。……それなら、手遅れになる前に信じるに足ると思ったやつを見出し、そいつをただ信じ続けるのがいい。だから私は古明地姉妹を信じると最初から決めていた。それだけの事よ」
そんなふうにさっぱり言い切って、続けた。
「……まあ、信じる相手だけはしっかり見極める事ね。そこで判断を腐らせた者は死ぬわ」
星熊勇儀は平凡な政治能力の割に、旧地獄を治める非凡な資質があったが、その根本には、どうやらそうした原理原則だけがあるようだった。
饕餮尤魔が更迭され、驪駒早鬼は別方面に配置転換させられていく中で、吉弔八千慧も安泰な立場だったわけではない。
まず、当初布陣していたやや小高い丘陵地を、別の部隊に取り上げられた。彼女の陣が移動させられているのは、機動がきかず、まとまった部隊行動も難しい、入り組んだ岩塊の野だった。
同時に、彼女の立場は、戦術的に見ても浮遊したものになっていた。一応遊撃部隊のような扱いのようだが、ひとたび全体の敗勢が決まれば、よほど逃げ足を早く回転させなければ、この悪魔の遊び場で追い詰められて、圧し潰されてしまうだろう。反対に、この畜生界の寄せ集め軍閥が、万が一にも勝利を収めて旧都になだれ込む事ができたところで、功少ない配置だ。
もっとも、八千慧自身、自分たちが勝つとはもはや思っていない。せめて自分たちが先に場所取りしていた丘陵地に、後から布陣した軍集団が優秀ならば、やりきれない気持ちも少しは慰められたのかもしれないが、竈や排水路などの生活基盤の組み立て方のまずさを見ただけで、その質の悪さが彼女にはわかった。
「……見切りをつけますか」
呟いたあとで、そんな無意識の発言を、我ながら不用心だと思った。
地霊殿は、旧都の縁をぐるりと回り込んだ裏口にある。これ以外の方面は、灼熱地獄跡の広大な焼けた台地が広がっていて、現実的には攻め口が二か所しかないも同然だった。
八千慧がこの陣に訪問したとき、驪駒早鬼は、このぼんやりと微熱的な土地がよほど鬱陶しいのか、普段の陽気さすら萎えかけている。
「あ、吉弔。表側の情勢はどうよ」
「結局、ぎりぎりまで使者のやりとりに時間を使っちゃったみたいですね。こっちも態勢は整ったけれど、それは向こうも一緒」
「……それについてどう思うんだい、軍師様は」
「敗着」
八千慧はきっぱりと言った。
「率直に言って敗着です。私たちは攻撃の時期を逸し、自分たちの背後すら満足に平定できず、この土地に完璧に嫌われています。古今東西、こんな状況で利益を得た軍隊を、私は知りません」
「だろうな」
ものうげに鼻を鳴らす早鬼は、少し前までたしかにあった戦場での勘や嗅覚すらも、もはや鈍らされているようで、やがてぐずぐずと鼻をかんだ。相手のそんな様子にも八千慧は興味を失っていて、敵陣の方から聞こえる、奇妙な音に耳を傾けていた。
「ところで、あれは――?」
「そこよ。私はあんな軍隊、今まで一度もお目にかかった事がない」
地霊殿の前にうずくまるように布陣していたのは、よく見かけるような、形の定まった陣形のたぐいではなかった。ただ、幾つもの点のような小集団――彼女自身は六十個と数えた――が、規則正しい間隔で配置されている。その点の配列の中央には本陣があり、陣幕が張られているが、そこから小刻みな鼓の音が聞こえた。
「ちょうど交代の時間よ」
早鬼が隣で言った通り、鼓の音に合わせて、六十個の小部隊と同数の集団が前線にするすると出てきて、各々の配置を交代する。軍楽隊の方でも交代は行われていて、彼らが先導しつつ、元いた者たちは地霊殿へとしずしず退いていった。
音楽の拍子に合わせた規則正しい進退――と八千慧が眺めていると、ひときわ大きい鼓の音が響いた。
それを合図に、六十に単位分けされた新しい小集団が、一斉に動き出す。直線運動を行う集団、曲線運動を展開する集団、ときに横に薄く伸び、ときに縦に細く狭まるそれぞれの小隊は、各単位が相互に連関するように、各々の動きを絶え間なく繰り返し、遠目には幾何学的な群舞のようにしか見えない。この見惚れてしまう機動を実現しているのは、陣の中心から鳴らされている軍楽だった。
行動と音楽にどのような法則性があるのまではわからないが、この異様な集団行動が、これらの拍子と和音、旋律の連なりによって規定されている事は間違いなかった。
そして八千慧には、この演舞にも近い集団行動の心当たりが、わずかながらあった。
「むう、あれは秦王破陣楽の舞……」
「知っているのか吉弔」
早鬼が尋ねた。
「……ええ。秦王破陣楽とは、唐の太宗が秦王の頃、辺境の四方を征伐した時期に、その武勇を称え、民間で流行ったという舞曲です。しかし後に太宗自身がそれを整え、宮中の雅楽にまで価値を高めたという由緒があります。初演時には百二十人からなる壮大な舞曲で、甲冑を纏い戟を持って舞われた」
八千慧は、目の前で行われている集団の展開と収束の理想形に、それ以上のものを感じつつも説明を続けた。
「……で、その舞はただ壮大な舞曲というだけでなく、軍事的な含意まで込められていたという意見があるのです。“蓋シ兵法ハ意ヲ以テ授ク可ク、語デ伝ウ不可ラズ。朕破陣楽ノ舞ヲ為ルモ、唯卿ノミ以テ其ノ表ヲ暁ルカナ。”と。……整然とした伎楽や舞踏に見せかけつつ、そこには兵の進退の神髄が込められていて、鼓と管弦によって兵を手足のように動かし統御する方法……」
思わず、うっとりと言ってしまったような気がする。
「へっ」
早鬼は鼻をすすって痰を吐き捨てた。
「言うだけなら簡単な話だ」
「え、ええ。あなたの言う通りです……実際、舞はやがて数人規模の演舞に縮小されて、軍事的な含意とやらの方は、完全に失伝していますし――いや、元々あったものかすらも怪しい」
そんな程度の与太話だ。
だが、もしかすると……こんな辺境の、人ならざる者たちの世界だからこそ、残っているものもあるのではないか……
八千慧は苦い顔をして微笑んだ。
「一つだけわかる事は――驪駒、どうもあんたの敵さんは、一筋縄ではいかない相手みたいですよ」
驪駒早鬼には、他にも患いがある。配置転換で地霊殿攻めに回される以前からの、尤魔にも八千慧にも教えていない患いだ。
不眠だった。
立場上、豪快な果断の人といった気立てに見せようと努めてはいるが、神経が太い方ではない。特に環境の変化には敏感だった。なので、この旧地獄攻めに参加する際も、誰より遅く出撃して、誰より速く行軍して、そのまま旧都に突入する企図を描いていたのだ。
だが、そうはいかなかった。畜生界のやくざ者同士の単純な諍いなら話は違ったのだろうが、これは戦争だったのだ。
「……馬鹿にするなよ」
八千慧が帰った後、早鬼は忌々しそうな顔で地霊殿の前の布陣を一瞥してから毒を吐き、陣の奥へと引っ込み、戎装のまま寝床に転がる。これも、彼女の繊細な神経にはわずかながら負担になっていた。
「まあ、これも戦だしね」
と頭ではわかってはいるのだが、砂っぽくなった寝床は、つらいばかりだった。
例によって寝つけぬ時間ばかりがごろごろと過ぎていくが、そのうち陣中に、鈴の鳴るような声が響く。
「……まさか吉弔が話していたやつか」
最近、遠征軍の陣中で蔓延している怪談は、八千慧から聞いていた。陣中で、時々奇妙な歌が聞こえる――それだけの単純な話だ。歌の言いははっきりしないが、ただ声だけが鈴の音のように、綺麗で不気味なのだと。……でも、その声が望郷の歌ならば、この戦争もきっと終わってしまうのにと、早鬼はこっそりうらめしく思う。……もっとも、これは願望の分量が多すぎる考えだった。畜生界の弱肉強食を心から懐かしんでいる者など、多少の理性があればありえなかった。
とはいえ、自陣にそうした怪異が現れたならば、指揮官としては強くあらねばならない。この、あらねばならないという気持ちが、早鬼には常にやや多めにある。豪胆な気風の割に、損なところのある女だった。
「“あしたはみんな死ぬ”」
寝所を出たところで、そんな声を聞いた。ちょうど風に巻き起こされた砂塵がひどく、はっきり聞こえたわけではないが、とにかく早鬼にはそのように聞こえた。
「……なんだ?」
と、そんな幻聴に耳を傾けてしまった事自体が、彼女が統率の取れた軍団の長ではなく、異常が起きれば自ら出向かなければ気が済まない、ただのやくざ者の長にすぎなかった事をあらわしている。
「“ロバは飢えて”」
陣の中をさまよいながら、早鬼にはそんな声が聞こえた。誰がロバだって?
「“王様は退屈で”」
たしかに、この戦争の十中八九は、退屈だった。だが、そんな事よりも……と声の主を探して、気がつけば自陣の果てまで来ていて、地霊殿があるはずの向こうが、見えないほどの砂嵐の真っ只中である事に、気がついた。
「“私は”――」
声はまだ聞こえていたが、どうでもよかった。砂塵の向こうに目を奪われていた。
今だ。今ならあの陣形は突き崩すのは容易いだろう。なぜか早鬼はそう思っていた。
思わず周囲を見回すと、その衝動を後押しするように、彼女の両翼に布陣していた、別の部隊の兵がよろめくように突撃し始めている。それを見て、自分たちも遅れを取るまいとした。
「――いや、だけど」
追い詰められた精神のぎりぎりの線で、そう自制しようとする精神が芽生えたのが、拙速と即断に富むとのもっぱらの評価であった彼女に秘められた、真の資質だったが、気がついた時には手遅れだった。
驪駒早鬼は、衝動に任せて突撃していく自軍の配下の群れに突き飛ばされ、転がされて、下手をすればそのまま踏み潰されるところだった。
それでも、ぼろぼろの戎装のまま、砂塵に呑まれていく自軍を追いかけていくしかない。
「――小町!」
四季映姫は、地霊殿の正面に設けた指揮所で、おすまし顔で椅子に座りながら怒鳴った。
「よく寝たでしょう。発令します。戦闘開始です」
どんな状況であろうと睡眠を取る事ができるらしい映姫の部下は、上司に再度どやされて、即座に言い返した。
「……こんな、ものすごい砂嵐の中ですよ」
指揮台に立っているだけでも、砂塵で肺を痛めてしまいそうだ。
「構いません。休息させている予備も投入しましょう。私にはわかります。奴らは来ます!」
小町はその命令を聞いて、背後で小休止を取っていた軍楽隊に合図を送る。
彼女たちは想像する。……点々としていた六十の妖精たちの小隊は、相互に干渉しない運動を経て、花弁のように組まれた六つの方陣と、その中で柔軟な旋回を行う一つの円陣になるだろう。なるはずだ。
「“四度、五度”」
自軍にどうにか追いすがり、その突出を食い止めようとしていた早鬼は、そんな声を聞いた。
「“短調に落ち、長調に引き揚げられる”!」
なぜか相手の軍楽は、砂嵐に吹き飛ばされるどころか、いっそう圧を増すばかりだった。
統制はなく、音楽と砂嵐ばかり、ここは果たして戦場と言えるのか……?
疑問を抱きながらようやく自軍の尻に追いつくと、見る間に乱戦の景色がひらけたが、客観的に認識できるのは、先頭が敵陣に接触しているらしいという、それだけの曖昧な状況だ。次にわかったのは、ただ自分たちが、敵陣に随時送り込まれて、小柄でひ弱だが剽悍に戦う妖精たちの集団という、巨大な歯車に即座に擂り潰されていく様だった。
砂嵐も落ち着いた頃、映姫は音楽の調子を落とすように、後ろに従える楽隊に指示した。
「終わりました」
目の前に広がる妖精たちの犠牲など――たとえそのうち復活するものだとしても――、どうでもいいと言わんばかりに、映姫はあっさり言った。
小町は皮肉っぽく答える。
「あまりいい気分はしませんね」
「戦争がいい気分になれる行為なら、もっと流行っていいものです」
映姫の皮肉の方が痛烈だった。
「……それにしても、私としても至らないところが多い戦でした」
と反省するが、もちろん、その部分まで織り込み済みの戦闘だった。
「私たちは自滅寸前で、疲弊した敵に、決死の覚悟で一当たりして、勝てばいい。それでこの方面の戦いはおしまいです」
あの音楽を基にした陣法も、理論こそ体系立てられてはいたものの、実のところはこけおどしにすぎない。全ての行動は、ただひたすら、妖精たちを魅了し、死地に叩き込むという目的に収束していた。
「……戦後処理はどうします?」
小町の質問を聞いた映姫は、さとりが飼っている猫と鴉が生き生きと死体漁りをしているのを眺めながら、答えた。
「あとは彼女たちに任せておきましょう」
地霊殿方面の敗戦で離散した者たちは、ぽつぽつと旧都前に布陣する本軍に逃げ戻ってきているが、そこに驪駒早鬼の姿は無かった。
たとえ帰陣できたとしても、陣中の状況の変化に呆然としていただろう。吉弔八千慧が失脚し、後送されるべく牢車に繋がれて辱めを受けているという話を聞いて、むしろ我が身の危険を感じて自分から身を隠したかもしれない。
八千慧を陥れたのは、軍の中で広まっている単純な噂――吉弔・驪駒・饕餮が旧都と通じて畜生界に背き、この三名で畜生界を鼎立しようと目論んでいる――にすぎなかった。その中でも八千慧の扱いは特に苛烈だったわけだが、これは狡猾で策が多いという彼女の性向を、元々警戒されていたと言える。どんな道があったにせよ、八千慧は間違いなく破滅する運命だった。
……それなのに、あるとき、気がつくと、彼女を縛めている手枷が外れていて、見張りの兵は刺されて死んでいた。
立ち上がり、陣中をこそこそと歩く。軍紀は早くから乱れに乱れていたが、だからといって今の彼女の姿ほどには乱れてはいない。隠れて進むしかなかった。
その手には匕首が握られている。既に血にまみれているのは、死んだ番兵の背に刺さっていたからだ。……いや、その後で、既に誰か、衝動的に殺していたかもしれない。記憶は曖昧だ。
いずれにせよ、どうでもよかった。
記憶を頼りに本陣に辿り着くと――自陣営の長を罰したというのに反乱の警戒もしていないとは、不用心な首脳たちだった――、少女に声をかけられた。
「“さあ、にっこりしろよ。明日よりは今日がましだ。”」
その少女の手は、既に血にまみれている。本人の血ではないらしい。
「あんたは――」
八千慧は呆然と言った。目の前の彼女と会った事は無いが、誰なのかは、なんとなくわかる。
古明地こいし。
「全部あなたのせいよ」
こいしは相手が手に持つ血がしたたる刃物を見て、にんまりと笑う。
「私はもう、自分の手を汚して誰かを殺すのは、やめた……で、あんたは私と違って、これからもっともっと誰かを殺す事になる。かわいそうに」
そして、優しい手つきで八千慧の頬をぺたぺたと触り、べっとり血まみれにした。
「ざまあみろ」
数時間後、畜生界の軍閥連合から送られてきた和睦の使者に、星熊勇儀は戸惑っていた。
「……偽りの退却ではないよな?」
「違いますね。本当に、心底から撤兵を提案しています。なんの策略もありません」
隣でそう答えたのは、古明地さとりだった。地霊殿方面の戦役が早々に終わったこと、戦果の報告、それと借りていた軍楽隊の返却に訪れていたのだ。
勇儀が疑い半分で和睦の使者を饗応しようとするなかばで、さとりはもう一つ、ちらりと言った。
「同時に、講和はしなくていい。使者を早々に返して、すぐさま奴らに反撃の一突きを食らわせるのです」
勇儀は顔色を変えた。
「それは非道ではないかしら」
「いいえ。ただ連中が力負けを感じて、勝手に退くだけの事です。あんな奴ら、今こそ叩けるだけ徹底的に叩き、勢力を減じさせ、畜生界に押し込んでおくに限ります」
「禍根にならないかな」
「なったとしても完全な逆恨みです。従う者は少ないでしょう」
「妹を陥れられたという、君の私怨ではないかい」
「もちろん怨みはあります。しかし利に背いているわけではありません。むしろあなたの方が、そうした認知によって目を曇らせている」
旧都の主は嫌な顔をしたが、献策は理にかなっていた。
「……使者を叩き返し、即座に追撃を始めなさい」
勇儀が意見を強く拒絶できなかったのは、この容赦の無い発想が、本当は自分自身の考えから出たものである事を知っていたからだ。
「言いたい事はわかりますよ。私はそれだけは得意な女なので」
そう、さとりは他者の言いたい事がわかるのだ。適切だが言い出しにくい事、正しいけれども忌々しい事を、さも自分の考えのように、さらりと言ってくれる。周りもそれを心得ていれば、気味が悪いと思いつつも、この、言い出しにくい事を言ってくれた者に感謝する。
「ま、こういう性分なので、行政組織では重宝されていたんですよね」
「でしょうね」
間。
「……あ、そういえば、エンマサマとシニガミってどうなったの?」
「帰りました」
家にひょいと上がり込んできた客が、それと同じ気軽さで辞去したくらいの軽さで、さとりは言った。
「もう、彼女らにできる事は無いそうですので」
「ふうん。……変わった奴らだったなぁ。地獄の官僚って、みんなあんな感じなの?」
いえ……と、さとりが肩をすくめる。
「それについては、彼女たちが特別変わってるだけでしょうね」
勇儀とさとりがのんきに雑談をしている間も、畜生界の軍閥は悲惨な退却を続けている。
「ともかく、後方にいる饕餮のところまで退きましょう……」
元々の首脳陣を誅殺して軍閥全体を掌握した吉弔八千慧は、夢見心地のように言った。
どうして自分は死んでいないのだろう、とも思った――もちろん理由ははっきりしている。失脚したとき、彼女の手勢の大半は本隊の中核に組み込まれていたが、変事が起こるや、彼らは即座に親衛隊となって彼女の足下に馳せ戻り、武力でもって事態を収拾したのだ。彼女は痴呆にでもなったかのように、ぼんやり、戦場の最前線で起こった政争の逆転劇を眺めているだけだった。
背後から旧都の追い打ちがやって来ていると聞いた時も、どこか呆けている。
「そう……」
殿軍の采配などは周囲に任せた。
やがて、後方の河水でがんばっていて欲しかった饕餮尤魔が、後方の兵員をまとめてさっさと畜生界に帰ってしまったという話を聞いた時も、怒りすら湧かなかった。
八千慧たちは孤立した。退却する軍隊は、八夜あれば八度夜襲を受け、襲撃が来るとはわかっていても、そのつど敗走した。こんな有り様で、どうして部下たちは私についてきてくれるのだろうと、そちらの方が疑問だった。
ようやく明日には河水に辿り着くというところで、取り残された者を集めて合流してくれた勢力がある。
驪駒早鬼だった。
「……あーあ、すっかりしょぼくれちゃってまあ」
そう言う当人も、ぼろぼろの有り様だった。
「ま、いいや。さっさと帰ろうぜ。ともに饕餮をぶん殴りましょう。あいつも、逃げ帰った身では全体の意見を牛耳れやしない。私とお前で今すぐ戻れば、まだ畜生界鼎立の目はある」
八千慧は目を丸くした。畜生界を三つに分ける?
「待ってください。それは私たちを陥れようとした旧地獄の策略で……」
「今となっては、そこはどうでもいいんだよ。確かにそんな噂を軍の中に流されたおかげで、ちょいと迷惑したけれど、おかげで救いも残されているわ。……吉弔、あんたまさか、自分がえらいから部下が従ってくれているだなんて思っているの? んなわけないでしょ。奴らは、ただ単におこぼれに預かりたい一心でお前を援けているのよ」
らしくない弁だと思いつつも、早鬼はまくしたてた。
「連中には欲望しかないの。畜生界の勢力を驪駒・吉弔・饕餮の三名で分けるという、私たちを陥れる策謀の中で生まれた、ウソから出たマコトに釣られているんだよ。あんたの部下は、そんな雑い野望を抱いているあんたを信じている。今ならやりようで、どうとでも捨て駒になってくれるぜ」
それと同時に、自分が殿軍を引き受けようと早鬼は言った。
「さすがに追手の気分ものんびりしてきているわ。ここで一撃当てて、追撃を鈍らせる事は可能よ」
「驪駒……」
「そんな愁嘆場みたいな声を出しちゃって。私がやられるわけないでしょ。バカか?」
「そこは疑っていません。バカはそっちです」
八千慧は不機嫌そうに言い返した。
「追撃を鈍らせるだけではだめです。前面にも河水があり、水上勢力にいいようにされているのですよ」
「じゃあどうするのよ」
「私自身も殿軍に加わります」
八千慧は言った。
「あなたが言った通り、追撃はどんどん手ぬるいものになってきている。そちらの方が軽く撃退できるでしょう。そのうちに、殿軍以外の各部隊を、上流から下流まで分散させ、様々な地点で渡河を行わせて、相手を奔走させる」
要するに、後尾が足止めをしているように見せかけて、先を行く者たちを目くらましの囮にすると言うのだ。
「これが現状の最善手でしょう……ああ、それと饕餮のやつをどうどつき回してやろうか、今から考えておきますか」
「あんたらしい考えだよ! 調子が戻ってきたね!」
早鬼はそう感嘆しながら、やっぱりこいつを心底から信用するのだけはやめようと思った。
結局、吉弔八千慧と驪駒早鬼は畜生界への帰還を果たし、饕餮尤魔の一人勝ちに掣肘を加えることには成功した。だが彼女たちは力を失いすぎていて、三つの勢力が綺麗に鼎立したとも言い難く、そのために畜生界内部での抗争に終始するしかないという、互いに食い潰し合うにすぎない状況も作ったと言える。
当初は協力関係にあって尤魔にあたっていた八千慧と早鬼も、それぞれの勢力がまとめ上げられていく中で、やがては袂を分かった。
「こんなはずじゃなかった……というのは、ひとかどの勢力の長になっても、言えるのでしょうかね」
後年になって、歴史的な三頭会談(という名の宴会)のなかで、ぼそりと吉弔八千慧は呟いた。
「当時は畜生界と旧地獄の境目も、本当は曖昧だったのです。確かに二つの世界はあったけれど、全てが曖昧な時代だった。そこに、なぜか突然境界線が引かれた――たしかに慣れない大規模な軍事行動でしたが、対外戦争自体はよくある事でした。それを仕掛けたってだけの認識だったのにね、不思議な話ですよ。……ま、今となってはどうでもいい話ですか」
「ですが、これからは違います」
地霊殿正面の戦いが終わった直後に、話は戻る。四季映姫・ヤマザナドゥは、小野塚小町の肩にすがりながら言った。小町は上司と大鎌――結局こんなもの、使いもしなかった――を背負って、旧地獄の荒野を歩いていた。
「なぜなら、彼女たちが“これからは違う”と言いのけたからです。……ですが、彼女たちが言い張るだけでは心もとない。……だから私が一つの基準を作って、白と黒、こちらとあちら、味方と敵とを、半永久的に分け隔てた。私だけがそれを判断できた。今回の戦いだって、本当はこの土地で何百年と続いていた侵攻と蹂躙にすぎなかったでしょうにね」
「……今回敵になっちまった連中は、かわいそうですね」
「間が悪かったという事でしょう」
同情しているのかしていないのかもわからない口調で、映姫は言った。
「この線引きを行うのは、できれば居丈高な権威も無い方が良かった。私は一時的に、是非曲直庁の官位のすべてを失う必要があった」
小町は、そこで上司の声色がわずかにやわらかくなったのを感じた。
「あとはこの地に住む彼ら次第です」
「……あなたはよくやりましたよ」
「いいえ。将来、私より上手くやってのける、私以上にむちゃくちゃな調停者が、この世界に現れるかもしれません。私の場合は、元よりあった閻魔という立場が重すぎた」
そんな反省会を交わしながら、旧地獄の荒れ野を行く。彼女たちの背後には無数の妖精たちが、ぞろぞろ付き従ってきていた。しかし、それに注意を払おうとするような余力は、小町にも映姫にも無かった。
「……それにしても、いいんですか? 彼らが本当に、自分たちなりの秩序を獲得できるのか、心配じゃないんですか?」
「信じましょう! ただ信じましょう!」
映姫は朗らかに言った。
「そして彼らが失敗したとしても、けして失望しない事です! どうせ長い目で見れば、全て破綻する運命なのです」
小町にしてみれば、そんな諦観混じりの悲観主義は、映姫の小さな口から聞きたくない。なので聞かなかった事にして、それにしても……と話題を変える。疲労は極まっていて、もはや話題に脈絡がなかった。
「おもしろいものが見られました。四季様と妖精たちのやりとり……“みんなー!”って」
「やっていて、さすがに私らしくなかったとは思います……でも、ちょっとくせになったりしてね」
「笑っちゃいますよあれ。もうやめておいた方がいい」
「まあ、もうやる事は無いでしょうね。……がんばってー、小町おねいさんー」
「やめてくださいて」
背負っている耳元で囁かれるぶん、よけいにむずがゆい。
「こまちー」
「だからやめてって。……あーあ。こう、距離をつづめたりのばしたりを、自由自在にできれば、なあ」
「今の私たちにこそ必要な能力ですね」
やがて彼女たちは崩れ橋のたもとに至った。
数日前、小町がもやっていた舟がある。状態を確認してみると、さほど荒らされた雰囲気は無い――ただ、酒と化粧道具だけはすっかり無くなっていたが。
「四季様、私たち帰れますよ……」
と小町が言った時には、映姫はもう船端にぐったりと体を折り曲げ、気を失っている。
小町は無言で自分の腰紐を解いて、互いの身体と舟を結びつけると、そのまま抱き合って横になり、舟はゆっくり地底の海へ向けて流され始める。
それに従って川に身を投げた妖精たちは、何百匹にも及んだ。
死のうと思っていた。
が、灼熱地獄跡の淵に立ってじりじりと肌を焼かれていると、そんな気分も萎えた。あとはただ、姉に再会する気恥ずかしさだけが残っている。
いいや、それでも、やっぱり死のう。
とも思う。自分は悪い事をしたのだ。姉を騙し飼っている動物たちを殺した――その他の人々も害した事に関しては、たいして気にしなかった。そこが古明地こいしの利己の限界だ。身内思いではあったが、そこから外れたものに対しては、残忍な苛烈さがある人物だった。
ただ、自分が気にしないでも、姉に気分を引きずられる事もある。さとりは、不敵な顔をしながら周囲に気を遣い、相手の弱みを握りつつも、そのくせ弱みに寄り添うところがある。そういう、姉と自分に流れている気質の微妙な差異を、こいし自身も少し鬱陶しく思っている部分はあった。
……ともかく今は、死ぬか、死なないかの問題だ。
「こいし」
背後からさとりが声をかけて、妹の手を引いた。
その瞬間、こいしはもう、先ほどまでの逡巡を忘れてしまっていた。彼女は狂気の中で、主体性というものを失っていた。だから、地獄の淵から一歩退いた。
「おうちに帰りましょう」
さとりが優しく言うと、姉妹は手をつないで、靴底を焦がしながら焼けた地面の中を降りていく。
小町が顔を上げると、ひんやりした霧が頬を撫ぜた。
「……四季様!」
と叫びながら起き上がり、人事不省の上司の手を取りながら、様子を見る。――部下の心配をよそに、映姫はすやすやおだやかな寝息を立てていた。よく見ると、その膝はまだ赤く剥けているが、どす黒い壊死はやや薄れ、薄く皮が再生しつつあった。
小町はほっとして、そのまま棹を水面に差して、ちゃぷちゃぷ漕ぎゆく。ここは地上だろうか、おそらくそうだ。このゆるやかな流れを下っていけば、たしか中有の道があったはずだ。
……と、背後でばっちゃんばっちゃんと派手な水音がして、そこでようやく、何百という妖精たちがついてきてしまっている事に気がついた。彼らはこの透き通った新天地の空気を吸って、さっそく大騒ぎを始めていた。
「おやまあ……」
妙なものを連れてきてしまったかなと思ったが、彼らはもう、生まれ変わったかのように小町や映姫のことなど忘れているので、地上に生息している妖精たちと、のんびり交わっていくのだろう。
が、思わぬところに影響が出た。
「……人を通勤の足に使うなんていい度胸っすね」
「いいでしょう。私と小町の仲じゃないですか」
「あたいら、いつの間にそんなカンケーに……?」
朝、そんな調子で舟に跳び移ってきた上司を乗せて、川を渡り始める。
「あーあ、今日もいいお天気だし、のんびりお仕事しよおっと」
「上司を隣に乗っけて言うセリフとは思えませんね」
「いいでしょう。私と四季様の仲じゃないっすか」
「……だいたいですね、あなた最近、そのお仕事の方も、変な能力を身につけて、色々手を抜いているそうじゃないですか」
「あっ、やだ。説教だ。聞きたくない。さっさと向こう岸につけよう……」
「じゃあ話を変えます。社内報や地域向け無料冊子の原稿が上がってこないのは仕方がありません。みんなそれぞれの仕事のついでで、忙しいですからね。……でも、編集長のあなたからいっこうに原稿の催促がやってこないせいで、逆に書く側が不安になって相談に来るなんて事態、前代未聞ですよ」
「納期を定めて人を急かすっていう行為が、先天的に苦手で……」
「どうして本庁では編集部なんかに配属されていたんですかね?」
そういったやりとりをしている横の、川のほとりで、妖精たちが遊んでいた。遊び自体はよくある戦争ごっこのようだったが、彼らは妙に統制が取れていて、きびきびとした動きで隊列を編み、変化し、時には旋回しつつ、巧みに進退している。
これも地上では日常の光景になりつつあった。
混沌とした世界の中でそれでもなお信じることをやめなかった映姫達が最高にイカしてました。
さとりとこいしも苦しいのに頑張っていたし、一輪と村紗もファインプレーでした。
八千慧や驪駒たちも限られた条件の中で想像以上に健闘していてすごかったです。
映姫も終始超然としていてさすがは閻魔だと思いましたし、小町おねいさんも練兵がうまい。
めいめいが好き勝手やっていて、それでも(内輪や身内ではない)他者との距離感について引き伸ばそうか、それとも縮めようか考えているから旧地獄という世界は成り立っているのだと。