絵の具で描いたような真っ青な空に、大きな入道雲の白が映える。
その高い空の下、四方を青々とした山に囲まれた広大な畑の中を、碌に舗装されてない道が一本通っている。その道を、一台の軽トラが低いエンジンの音を鳴らしながら、よたよたと走っていた。
軽トラはところどころ塗装が剥がれたり凹んだりしていて、見るからに年季が入っていた。実際古い車種なのか、自動で窓を開くスイッチはなく、代わりにぐるぐると手で回して窓を開くハンドルが付いている。
荷台には、紺色の髪の少女、依神紫苑が座っていた。その長い髪は、光の加減では青にも黒にも映る。
運転席ではその妹であるオレンジ色の髪の少女、依神女苑がハンドルを握っている。ノースリーブの服を着て、開きっぱなしにした窓から吹き込む風に身をさらしている。
その窓に顔を傾けて、彼女は姉に声をかけた。
「姉さん、気分はどう?」
「うーん、まあ楽になったかな」
先程まで車酔いしていた紫苑は、軽トラの荷台からそう返した。エンジンの音に負けないよう、普段よりも心なしか声を張っている。
長時間助手席に座っていたら車酔いして気持ち悪くなったので、車内よりは幾分かマシだろうと、荷台に乗ることにしたのだった。
「そりゃ良かった」
そう相槌を打つと、女苑は右手でハンドルを握りながら、左手でポシェットからタバコの箱とライターを取り出す。彼女は器用に左手だけで、タバコに火をつけた。
まだ夏真っ盛りというわけではないのだが、既に蝉が大合唱している。
紫苑の首筋から汗が一筋垂れる。荷台は流石に少し暑かったが、軽トラの空調が壊れているので車内もそう大差はない。湿度が低いカラっとした天気なのと、風が吹いているお陰か、それほど苦になるような暑さではなかった。
どちらかといえば道がデコボコしているせいで、車体が揺れる方が気になるかもしれない。一応ござを敷いているとはいえ、尻の肉が薄い自分には、振動がモロに響く。紫苑はそう感じていた。
「そういや女苑って運転免許持ってるの?」
「持ってるわけないじゃん。まあこんだけ何もない田舎なら、事故る危険もないし大丈夫でしょ」
「いやさっきは普通に街中運転してたじゃない」
「私ゲーセンでレースゲームよくやってたし。確かに最初はちょっとヤバかったけど、慣れたら全然平気だわ」
よく事故を起こさなかったなと、と紫苑は息を長く吐き出した。自分たちにしては珍しく幸運だったのではないかと柄にもないことを考える。
空を仰ぐと、頭がコツンと運転席側にぶつかった。
「ていうか今更無免許がなんだってのよ。そんなこと言ったら盗難車よコレ」
言われてみればそうだったなと紫苑は思い直した。あまりに長閑な光景の中を走り続けたものだから、自分たちが今朝方、修羅場を掻い潜ってきたのを忘れてしまっていた。
「今頃血眼に探してるかな、あのヤクザさんたち。軽トラまでパクっちゃったし」
姉の「ヤクザさんたち」という言い回しが面白かったのか、女苑は軽く吹き出した。
「こんなオンボロの軽トラ盗まれても痛くも痒くもないだろうけどね。そもそも私たちがパクる前から盗難車っぽいし……でもまあ面子は潰しちゃったからなぁ」
「えっ、これ元々盗難車なの?」
「ホトケさん運んだりバラしたりするのに使いそうな道具積んでる割には、荷物入れるところに可愛いウサギの人形入ってたけど、アレ元の持ち主のものかなって」
空調の横の、よく車検証などが入れられている収納スペースに、二人は先ほどウサギの人形を見つけていた。
「わかんないよー。可愛いもの好きのヤクザだっているかもしれないじゃん」
紫苑がちょっとふざけて真剣な口調でそう言うと、その冗談が気に入ったらしく、妹はからからと笑った。
その後会話が少し途切れると、女苑は長くため息をついた。
「しっかしもう、あの街には戻れそうもないわねぇ」
「あんな大立ち回りしちゃったらね。でもまあ、私はちょっとスッキリしたよ。女の子たちにあんな酷いことするおじさん、ムカつくもん」
「そりゃ良かった」
女苑は少し寂しげに微笑む。騒々しいあの街の雰囲気が嫌いではなかったからだろう。
今日の騒動は紫苑にしてみれば痛快だったが、彼女にとってはあまり良い思い出ではないのかもしれない。記憶を体から追い出すように、女苑はタバコの煙をふーっと吐き出した。
「そういえば、今ってどのへん?」
紫苑が話題を変える。
必死になって逃げていたため、二人は自分たちがどこに向かって走っているかもよくわかっていなかった。
「んー……」
タバコを備え付けの灰皿に押し付けて消すと、彼女はハンドブレーキの近くに落ちていた地図を手にした。三つ折りになったパンフレット状の地図だ。
女苑は右手で地図を窓の外へ差し出すように車体の外側に押し付ける。風に飛ばされそうなそれを、紫苑は身を乗り出して受け取った。そして地図を開く。
「……日本地図じゃん。大きすぎて意味ないよ」
念の為裏返してみると、裏面は世界地図になっていた。
「世界から見ればちっぽけなもんよねぇ、私たちなんて」
「そーゆーのはいいから」
わざとらしくしっとりとしたトーンで呟く妹を、姉はざっくり切り捨てた。
「今まで見た標識からすると群馬っぽいけど、どの辺りかまでは……細かい地名はよくわかんないや」
「アバウトだなぁ」
「あ、ちょっと待ってて」
軽トラが急停止し、車体が揺れる。大した速度は出ていなかったが、油断していた紫苑は少し後頭部を座席側にぶつけた。
車外に出た女苑が勢い良くドアを閉じる。軽トラのドアは立て付けが悪く、閉めるには思い切り閉める必要があった。
紫苑が荷台から身を乗り出してあたりを見渡すと、畑の中に一件の民家がポツンと立っていた。
そこに住んでいると思われる腰の曲がった高齢の女性が、座り込んで庭いじりをしていた。
その老婆に女苑が愛想良く話しかける。
「おばあちゃん、ちょっと良い?」
紫苑の位置からだと、会話の内容は聞き取れたり聞き取れなかったりするくらいの微妙な距離だった。
最初は警戒するような素振りを見せた老婆は、女苑が話しかけている内に、あっという間に警戒を解いて笑顔になった。
自分の妹ながら、こういうところは大したものだなと紫苑は呆れまじりに感心する。
長話になりそうな雰囲気だったので、紫苑は荷台に座り直し、ぼーっと空を仰いだ。
街にいるときよりも、空が大きく感じた。一面に広がる青色、そして地平線からのぞく巨大な入道雲。あの大きさなら雲の上に王国があるという御伽話を人々が抱く気持ちもわかる。
雲は一刻一刻と形を変えていく。紫苑はその様子をずっと眺めていた。最近は街に居たので忘れていたが、こうした時間を過ごすのも悪くはない。
紫苑はこうやってぼうっと時間を過ごすのが得意だった。逆に妹はせかせかと常に何かをしていないと落ち着かない性分だった。姉妹でどうしてこうも正反対なのだろうと、紫苑は不思議に思う。
それから一体、どのくらい雲を眺めていたのかはよく分からない。
気がつけば話を終えた女苑がそばに来ていて、ソーダのアイスキャンディーを差し出していた。細い円柱状の水色はみずみずしく、何だかキラキラ輝いているようにさえ見えた。
「はい、姉さんの分」
「……お婆ちゃんがくれたの?」
「うん。あとこれも」
そう言って女苑は大きな麦わら帽子を紫苑に被せた。
「荷台に乗ってたんじゃ、暑いだろうって」
「随分と巻き上げたねぇ……」
「人聞きが悪いな。自然とこうなるんだから仕方ないじゃない」
女苑はため息をついた。
疫病神の権能というより、単に人に気に入られやすいという性格なのかもしれないな、と紫苑は思う。
疫病神の力が財布の紐を緩めるところまでだとするなら、女苑が自分に貢がせるのは、彼女自身の力に依ることになる。
「雨が降って畑仕事ができない日に、手慰みに自分で作るんだって。すごいわよね」
セリフの最後の方は、アイスを頬張りながら言うものだから、「すほいはよね」といった具合になっていた。
女苑は姉に背中を向け、老婆と二言三言交わすと、運転席に戻って行った。そしてまたエンジンの振動で車体が揺れ始めた。
軽トラはもどかしいくらいゆっくりと走り始めた。
老婆が、こちらに向かって手を振っていた。孫と別れるような、名残惜しい表情をしている。ちょっと話しただけで気に入られすぎだろうと紫苑は苦笑した。
アイスをご馳走になっただけでなく、麦わら帽子までもらったのだから、ちょっとは愛想良くしようと、紫苑は老婆に向かって手を振った。すると老婆は一層嬉しそうに目を細めるのだった。悪い気分はしなかった。
それから数刻の間、紫苑は軽トラに揺られていた。麦わら帽子のおかげなのか、先ほどよりも涼しく感じる。
アイスキャンディーはすぐに食べ切ってしまい、紫苑は名残惜しむように、アイスの棒をがじがじと齧っていた。
そしてようやく、そもそも何故車を止めたかを紫苑は思い出した。
「あ、結局ここってどの辺なの?」
「さあー……良くわかんない。聞きなれない地名だったから忘れちゃった」
さっぱりとした調子で妹がそう言うのを聞いて、姉はため息をついた。とはいえどうせ地名を聞いたところで、持っているのが日本地図では役に立つまい。そう思い紫苑は麦わら帽子を目深に被り直した。
「まあ目的地があるわけでもないし、どこでも良いか……ていうか、どうしよっか。どこに行く?」
「疫病神と貧乏神としてはやっぱ、田舎より街の方が良いんじゃない」
金はやっぱ田舎には集まらないわけだし、と女苑は続けた。
「でも目をつけられちゃったし、東京の方には戻れないよね」
「そうねぇ。いっそ国外まで逃げるか……と言えるほどお金は持ってないしなー。あとは久々に大阪あたりに戻るとか。そこまで行けるかわかんないけど」
後半はほとんど独り言のようになっていた。
何となく、妹の声の調子から、さほど何処かの街に行きたいと思ってはいないのではと紫苑は思った。
疫病神と貧乏神の組み合わせなので、二人は今回のように事件がなくても、いずれ嫌われて次の土地へという生活を続けてきた。ずっとそうやって土地を転々と移動してきた。
最初から嫌われ者の自分はそれで構わないが、妹は違う。彼女は好かれやすい性格をしている。故に好かれてから嫌われるという、上げてから落とされるのを繰り返しているのだ。あまり良い気持ちはしないだろう。
そういった暮らしに、内心うんざりしてるのではないだろうか。
気がつけば日も傾いてきた。山の稜線が茜色の光を帯び始めている。
「ああ、そういや群馬の南西の方って言ってたかな?」
「ふーん」
何の気なしに日本地図を広げてみる。
東京から進んできたことを考えると、大きな道は概ね長野の山間部の方に続いているように見える。
そして紫苑はある話を思い出した。
「結構前にさ、秋の神様に会ったじゃない」
「あー、あの金髪の姉妹の奴らね」
「あの子達……信仰が薄れてきたから幻想郷ってところに行くって言ってたけど、確かこっちの方って言ってなかったっけ」
「忘れられたものたちが向かう先だっけ?しゃばい話よねぇ」
女苑は鼻で笑った。
神々や妖怪は、人類が科学という光を手に入れ闇を克服したことで、行き場を失いつつある。一方で疫病と貧乏を克服することは未だ叶っていない。
人々にご利益を与えるありがたい神様たちは、二人のことを卑しい何の役にも立たない穢らわしい神と見下してきた。そんな彼らがかえって苦境に立たされて、立場が逆転しているのだ。性が悪い話だが、愉快に思う部分もあるだろう。
「幻想郷って名前がまず胡散臭いわ。そういう名前のお店ありそうじゃない?」
「いやぁ……確かにありそうだけど」
紫苑は苦笑する。
「理想郷とか、そういうニュアンスに聞こえるけど……そんなもの、地上のどこにもあるわけないのにね」
女苑はまたタバコを咥えた。そして吐き捨てるように、紫煙を口から吹き出す。
「……」
幻想郷に対して、女苑は良いイメージを持っているわけではないようだ。このまま大阪のような大きな繁華街がある場所に行くのも別に構わない。この提案は引っ込めてしまおうか。紫苑はそう思ったが、どこか後ろ髪を引かれる気持ちもある。
流れは悪かったが、一応口にしてみることにした。
「……私たちもちょっと行ってみるのはどうかなって、幻想郷。別に信仰には困ってないけどさ」
「あー……」
女苑は肯定とも否定とも取れない、曖昧な相槌を打った。その後、特に二の句は紡がれず、二人とも無言になる。
車体が悪路に揺られる音と、エンジンの音に意識がいく。蝉の声はどこか遠くのもののように聞こえた。
長い沈黙の後、女苑は紫煙を再び、ふーっと長く吐き出し口を開いた。
「行ってみよっか、幻想郷」
「本当っ?」
姉は車体から身を乗り出して運転席の方を覗き込んだが、妹の表情は窺えなかった。
ただ何となく、柔らかい雰囲気を感じた。
「いつもどおり街で稼ぐのも飽きてきたっていうか……たまには違うことした方が面白いかなって」
大きな声ではなかったが、明るい声色だった。
あの長い沈黙の間で色々考えたのだろうが、それが彼女の出した答えだった。
何を考えてその結論に至ったのかは紫苑にはわからない。でも、何となくわかるような気もした。
「でもさぁ、幻想郷って具体的にどこにあんの?ていうか結界みたいなのあるらしいけど」
「……さあ?」
「ノープランかよ」
女苑は愉快そうに、声を出して笑った。
「まあ何とかなるよ」
「貧乏神のくせに楽観的ねぇ」
「疫病神に言われたくないよ」
はいはい、と女苑は楽しそうに微笑み、灰皿に灰を落とした。
「まあ見つかったらめっけもん、くらいのつもりで行くかぁ」
日が傾き西日が眩しくなってきたのか、女苑はサングラスをかけた。その表情はどこか柔らかい。
紫苑も何だか嬉しい気持ちになって、頬が緩んでいた。黒猫のぬいぐるみを両腕で抱きしめる。
いつも逃げるように移動している二人にとって、行く先が楽しみというのは久しぶりかもしれなかった。
夕日が運転席の妹と、麦わら帽子を被ったその姉を茜色に染め上げる。車体の影が長く伸びていた。
山に囲まれ畑以外何もない道を、一台の軽トラがのろのろと走っていく。
ゆっくりではあるが確実に、二人は幻想郷に向かって近づいていた。
体験したことのない懐かしさのような雰囲気がありました。
依神姉妹と軽トラと田舎というのが雰囲気的に相性がいい反面、
あんまり東方は感じなかったなぁと(幻想郷に行く前なので当然かもしれませんが)。
最初は読んでて「?」となったのですが、読み進めていく内に全てが明らかになっていって「なるほど!」と思わされました。漫画の方でもストーリーが面白いとは思っていたのですが、これだけ面白い小説が書けるならば納得です。
それにしても、依神姉妹って軽トラ似合いますよね。
二人のやり取りが読んでいて楽しかったです。
軽トラが妙に似合う不思議な神様だと思いました
あんまり切羽詰まったようにも見えないところがそれらしくてよかったです