Coolier - 新生・東方創想話

科学世紀に花束を -Relic of Rothschild-

2023/06/06 14:05:45
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 もう十余年も昔のこと。『科学世紀』と嘯かれた二十一世紀末の京都のことを、わたしは今でも目の前のことのように思い出せる。
 初めて上京したとき――酉京都大学に合格して浮かれていたわたしは、足取りを軽やかにこれから住まう学生街の四つ角を行ったり来たりしていた。半世紀以上もまえに打ち捨てられた半導体工場群が解体されて、代わりに大学の別棟や学生たちの集うカフェが次々建てられ始めていた時分だった。
 水晶体に埋め込まれた拡張現実が、真ッ白にペンキを塗りたくった建築物を古都のおもむきへと彩っていく。かと思って少し郊外に足を運べば、薄汚れた廃ビルが混交している。
 若者たちはレトロスペクティブな書生服に袖を通し、象牙の塔は天地へめいっぱいに手を広げる。
 紀元は二千七百年と五十余り。神州秋津洲は国際的にも科学世紀の先達で、神国の中心たる酉京都はその最前線。
 あの街は確かにわたしの原風景だったのだ。あの街で間違いなくわたしはメリーに出会ったのだ。

 こんにちは。わたしの科学世紀。わたしたちの科学世紀。
 さようなら。わたしの科学世紀。わたしたちの科学世紀――――――――

 ◆

 自分で揃えたわけでもない、格調高い調度品に囲まれて宇佐見蓮子は憂鬱だった。
 仕切りのない広いリビングとダイニングを備えたアメリカ式の邸宅にもすっかり慣れたはずなのだが、あるいは21世紀最後の年末を異郷の地で迎えることを嘆く人間性が蓮子に残っていたのだろうか。
(私としたことが、三十路を前にしてホームシックか? はッ……メリーに笑われるわね)
 人口削減を是とした科学世紀を迎えてなお人が住むには手狭な島国の、かつてケチをつけた酉京都大学の学生宿舎のスケールが懐かしい。部屋が広ければ己の身体の占める割合も減っていく。その一方で意識は部屋中に拡散していくから、アメリカという国ではどうにも自我というものが希薄になる。
 蓮子は文様をえがくように空中で指を動かす。"スイッチオン"のジェスチャーをセンサーが認識して、拡張現実のテレビジョンがニュースを伝える。蓮子はソファに沈み込みながら、重要なニュースだけを務めて拾った。
『アゾレス諸島でのカンファレンスでは月面拓殖の国境線策定で合意。歴史的偉業――』『イングランド政府は8年ぶり9度目のデフォルト宣言――』『コード・ウラシマはどこへ消えたか。酉京都大学学長が異例の記者会見――』『南米で人体工学関連の大規模法改正、サイバネか、オーガニックか――』
 アンドロイドのキャスターたちが読み上げるニュースに基づいて、蓮子が電子デバイス上で飼っている情報分析用擬似人格スクリプトが量子ネットの与太話たちをスクリーニングしていく。
「蓮子サマ。情報ノ資料化、ガ、完了シマシタ!」
「ご苦労様。それと朝食をお願い。メニューはいつも通りね」
 擬似人格が片言であるのは蓮子の趣味だ。ピピーガガーッとレトロな駆動音を立てながら、まとめられた情報が紙媒体に印刷される。

 焦げたバターがほとばしり香り立つステーキとほかほかの白米。赤味噌の汁物に、茄子の漬物。典型的な和食にステーキを付け合せた朝食は蓮子という人間のありようをあらわにする。とはいえこの食事もすべて化学的に成形されたものであり、天然素材は一つも使われていない。
 分子ガストロノミーの極北とオートメーション化された家電製品の祝福された結婚は科学世紀に新たな食文化を産みだした。『粉』と呼ばれる、澱粉に必須栄養素を加えて化合した万能素材を『調理鍋』という器具に突っ込む。あとは食べたい料理を指定するだけで『鍋』は『粉』をその料理通りの見た目に形成して味付けまでしてくれる。つまるところ完全食の究極系だ。ちなみに従来の合成食材と『粉』は似ているようでまるで違うものである。合成食材は天然食材とまったく同じDNA構造、分子配列と栄養成分をしているのに対して、『粉』はDNA構造も栄養もまるきり違うのに味も見た目も本物にそっくりになるのである。
 あぶらぎったステーキを食おうが山盛りのサラダを食おうが、素材が『粉』であるのだから栄養に偏りは起きない。となれば毎回の食事内容のほうがどんどん偏ってきて、蓮子はどうにも、食事の選択によって己の想像力の限界――ひいては人間性の限界を突き付けられている気がしてならなかった(メニューを乱数によってランダム化する機能もあるのだが)。
 『粉と鍋』は蓮子が大学を卒業したあたりに市販され始めた技術だ。それまではニッチな専門店しかこの技術を取り扱っていなかった。天然(あるいは合成)素材の料理と『粉』料理の違いなんてほとんどの人間はわからないし、むしろ科学的に調整された後者のほうが味・匂い・見た目の三点で優れていたから、この8年ちょっとで食文化は急激に変化した。しかし蓮子がもっとも強く影響を受けたのは食生活上の変化より、己と科学技術の相対的な距離――己の中の科学技術そのものの位置づけに関することだった。
 科学世紀と謳われる時代に産まれてこのかた、蓮子は陳腐化したテクノロジーにしか触れてこなかった。幼少から弄り続けてきたあらゆるデバイスに代わり映えはなく、周りを取り囲む情報はかわらず量子ビットによって構成されていた。もちろん、例えばニュースで一般人の月面旅行開始とか宇宙開発の最前線とかについて聞いたことはあったし、最新鋭の軍事技術の日進月歩についても仕事柄いやというほど詳しい。それでも毎朝ベットから這いずりでるときは低血圧に襲われるし、いつも食後のコーヒーはインスタントで、毎日学校や職場に通わなくてはいけなかった。つまり科学技術が日常を夢のようにきらめかせることはなかった。近未来を夢見た旧世紀の人々に想いを馳せ「ああ今こそは彼らの夢見たサイエンスフィクションだ」と口にするのは容易いけれど、結局のところ自己実現と幸福をもたらすのは高度に成熟した精神でしかなく……その悟性こそが科学世紀なのだろうか? という失望、あるいは葛藤を覚えない思春期を過ごした人間には知性がない。
 なればこそ『粉』は衝撃だった。科学は日夜進歩しているという実感が現実のものとなった。そして進歩とはデジタルで段階的なものではなくフィジーで漸進的なのであり、アナログな直線……その延長線上に現在があり、その現在に己がいるというパラダイムシフトが齎された。蓮子のなかの科学世紀という観念がコペルニクス的転回を起こしたのだ。

 ピッ、と電子音が鼓膜を叩く。応答のジェスチャーに反応して通話アプリが展開される。
『グッドモーニング、ミス・ウサミ。緊急です』
 ブロンド髪のヒスパニック系の女性の顔が拡張現実のテレビジョンを通して映し出される。彼女は蓮子がアメリカに渡ってここ一年仕事上のパートナーとしている女性だった。
「オーケー、いい朝ねマーシャ。悪いけどわたしも緊急の案件……お酒を飲んで二度寝するって用事があるの。年末休みに出勤命令なんて倫理委員会に査問されるわよ? コインが何枚並んでもお断り、バイバーイ――」
『本国からの!』
 通話を切ろうとする蓮子を制するように、マーシャと呼ばれた女性は声を張る。
『あなたの本国、ニッポンからの命令です。直ちにロスに向かってください。特急券は手配済みです』
 蓮子は露骨に舌打ちをした。
 銀行の残高を確認する。ここ最近の放蕩が重なって、あまり気持ちのいい数字は並んでいない。さすがに働かないとまずいだろう。
 体内インプラントからバイタルを確認する。不摂生な睡眠周期に翻って体調に問題なし。ホメオスタシス医療工学さまさまである。
 デバイスで時刻を確認する。日付は12月30日、米国東部標準時で午前五時を回るころ。
(やれやれ、長い大晦日になりそうだわ)
 蓮子は重たい腰を上げるのだった。

 ◆

 時刻は午前5時22分。蓮子が転がり込むように乗車するのは、東海岸はワシントンから西海岸ロサンゼルスを繋ぐアメリカの新たな大動脈、8時間44分約2800マイル……アメリカ独立記念300周年ちょうどに建設された、全米鉄道旅客公社(アムトラック)悲願の大陸横断新幹線『インディペンデンス・リミテッド』直通便である。
「それでミッションは?」
『昨日未明、世紀末の乱痴気騒ぎに託けてロス東南の海上にある『レッドオリジン』社の宇宙港が正体不明の武装集団に占拠されました。国防問題というので差し止められたそうですが』
「……大胆ね」
 諜報機関から上がってきたレポートを読み込みながら、蓮子は個室の寝台に寝転んだ。インディペンデンスの半パノマラビューの構造とカレイドスクリーンが雄大な自然を視界いっぱいに映し出す。
 蓮子はアメリカの牧歌的な情景のなかに、しかし霊峰富士の面影を見出した。というのもインディペンデンスにカレイドスクリーンの技術提供を行ったのは、他ならぬ卯酉新幹線『ヒロシゲ』を作った日本なのだ。映し出される風景が違っても、リアリティと区別がつかぬ、しかし洗練されて意図されたヴァーチャル性がもたらす刺激が、かつて蓮子が乗車したヒロシゲのそれを思い出させたのである。
『わたしは鉄道が好きではありません……それはアメリカ的なアイデアではない』
 マーシャは雑談を持ちかけた。彼女はおしゃべりが好きな女性だった。蓮子はレポートに集中したかったが、年末に仕事をさせられているという不本意な状況への反骨が集中を妨げたので、彼女に付き合うことにした。
「そう? 東西を横断する鉄道なんてアメリカン・ドリームかくあれかしって気がするけれど」
『USAは自動車の国ですよ! 鉄道なぞに後れを取りましたが、いまや巻き返しの時です』
 二十一世紀の中頃、エネルギーの脱炭素化の潮流に伴ってアメリカにおける個人所有の自動車は急速に衰退していった。電気エンジンや水素エンジンといったアイデアはしかし、より高度な政治的案件によって否定された。議会において強力なプレゼンスを持っていた自動車産業界や石油企業は、第三次と第四次世界大戦の愛国法を通じて解体された。代わりにアメリカで産声をあげたのは大規模な公共交通機関の拡充である。
 都市部の郊外には偏執的な鉄道網が、センターピボットの広がる地方には無人バスや無人タクシーが完備されていった。世界大戦後の資産のだぶつきはそれをつよく後押しした。交通網の整備は、土地と投資先を余らせたアメリカにおける強力な福祉セクターとして強靭化の一途をたどった。
『二酸化炭素を迸らせる不健康なガソリンと油の匂い! 手に馴染むハンドルゴムの質感! アメリカ人の誇りとはですね……それで……鉄道には人の温もりが欠けています』
「あ、そう」
 マーシャはもはや絶滅危惧種と言ってもよい科学世紀の反動主義者であり、苛烈な根本主義者でもある。彼女はまたヘンリー・フォードやトーマス・エジソンの信奉者であり、勤労こそが人を豊かにすると断じてやまなかった。蓮子は彼女に一種の感嘆すら覚えていた。
 それから、レポートを一通り読み終えた蓮子は首をかしげる。
「首謀者の情報も上がってこないなんて。FBIは年末休暇中かしら。もっと気になるのは動機ね。どこにでもある飛行場を占拠して何になる? 政治的主張も要求もないんでしょ? それに目的を成し遂げたとしてどう逃げるっての?」
『ホワイダニットを調べるのも我々の仕事ですよ。占拠された飛行場はすでに空海軍及び宇宙軍の厳重な監視下にあります。逃げ出すのはまず不可能ですから、ゆっくりやりましょう』
「残業代は出るのかしらね……やれやれ」

 カレイドスクリーンには晴れた夜明け前の東雲が広がる。蓮子は寝台を抜け出て、軽い飲食を提供するラウンジに足を運んだ。
「旧型酒のバーボン、あるかしら? 気付けがほしいの」
 今どきのアメリカではマイノリティな、コーカソイド系でブロンドの従業員の女性はにっこりと笑ってグラスを差し出す。
「オールド・クロウでよろしいですか? 旧型の取り扱いは少なくって……」
 ラウンジではカレドイスクリーンの目に入れても痛くのない朝日が輝いている。ロックアイスに光が乱反射して、女性の長髪が綺麗に見えた。
「年末なのに仕事、大変ね」
「ロスについたらそのまま休暇なんです。年末年始はディズニーランドでホテルを予約してて」
「あらクラシカル。一人なんでしょ?」
 蓮子はちらと彼女の左薬指に目をやった。バーボンのアイスがカラリと音を立てる。
「ふふ、わたし、口説かれてます? 三が日は空いてますよ……」
「あいにく、私は仕事がいつ終わるかわからないのよね。年が明けるまでに済んだら、迎えに行くわ」
 蓮子はカウンターに寄りかかって、カレイドスクリーンの空を見上げる。西の空にはまだ星と月が見える。作り物の夜空には蓮子の『目』は反応しない。
 太陽光パネルを携えた無数の宙空発電所も、旧世紀から積み上げられたスペースデブリも、スペースデブリを喰らいながら遊覧する『宇宙クジラ』も浮かばない作り物の空。人工物のない綺麗な空。カレイドスクリーンから取り除かれたオブジェクトたちは見栄えを考えるデザイナーたちにとって、あるいはアメニティの提供によって収益を考える新幹線を運営する公社にとって――ひいては合衆国そのものにとって不都合な事実なのだ。不都合だから消し去る。コンセンサスを得た都合の良いものだけを映し出す。ヴァーチャルは得てしてそういうものだ。
「……今頃『マクスウェル』はアメリカの上空を飛んでいるのでしょうね。新世紀の夢をのせて。次なる世紀の青写真を描くために……」
 従業員の女性は静かに呟いた。随分と詩的な表現だ(それは従業員としての役割が発する言葉としても、あのステーションの内実を考えても)と蓮子は思った。
 『ISS・マクスウェル』とは2096年に新造されたばかりの大規模宇宙ステーションのことだ。従来のISSのような宇宙開発用拠点としての役割だけでなく、国際会議場としての機能を持つ人類の宇宙進出を象徴する建築物。内部には宇宙開発関連の国際機関や各国省庁のための施設が詰め込まれ、つまるところそれは"政治用の宇宙への入り口"なのだ。
 大西洋のアゾレス諸島では現在進行形で月面拓殖に関する国際会議が行われている。そこでは各国政府の首脳たちがあれこれ身綺麗なお題目を並べて利権の切り分けをおこなっているが、その実務協議は地上ではなく宇宙――『マクスウェル』の宙空総会議場で、各国官僚たちをはじめ民間の有識者や資本家たちも交えて行われているのだという。
 新世紀の夢などと形容するには、あの宇宙ステーションは欲と権力に塗れ過ぎている。
 蓮子は白い歯を輝かせて言葉を並べた。
「ロマンチストな物言だわ」
 ロックアイスが再びカラリと音を立てた。

 二人がカレイドスクリーンの夜明けを眺めていると、風景に一本の黒いノイズが走る。
「あら?」
 ノイズは即座に激しくなり、画面を覆っていく。次いで、ラウンジの空調や照明を調整するためのデバイスの空中スクリーンがシャットダウンする。
「おかしいですね。お客様、大変申し訳ありません。ただのシステムエラーだと思いますのですぐ復旧するかと」
 蓮子はすぐさまコートのポケットからデバイスを呼び出すが、反応しない。CIAが支給する通信機が起動すらしないことは、蓮子に一つの解をもたらした。
「エラーじゃない。電磁パルスだわ」
「え?」
 蓮子が絞り出すように呟いた瞬間、車内は真っ暗闇に包まれる。数秒しないうちに予備電源の薄暗い灯りが復旧する。ラウンジの客たちは驚いてワッと悲鳴をあげた。
(他のデバイスも全滅してる、相当強力なEMPだわ。どこからの攻撃? 飛行場の占拠とは別件? 車両そのものが止まっていないのは指向性のある電磁パルスを使ったから。単に交通網を麻痺させたいならトンネルを崩した方が手っ取り早い。この新幹線を無傷で止める必要があった? ハイジャック目的か。それこそなぜ?)
 慌てふためく乗客たちと、落ち着くように制する従業員たちをよそ目に、蓮子は伏せて床に耳を当てた。
 新幹線の高度な静音技術というのも考えものだ。車両が急減速しても乗客にはまったくわからない。慣性もまるで感じないのである。しかし蓮子の耳は不自然な駆動音を聞き取った。仮にハイジャック犯が外から侵入しようとするならば、新幹線の静音を保つ気密状態を解いてどこかの扉を開けないといけないのだから。
(ビンゴだわ)
 蓮子は急いで武装を確認する。
 銃なし。ナイフなし。新幹線に武器は持ち込めないので当たり前だ。蓮子は顔を顰めた。
 電磁パルスが始まるまえに確認した時刻は東部時間8時36分。中部時間に換算して7時36分。
 蓮子は声を潜めて、ブロンドの従業員に話を聞くように促す。
「あ、あの。お客さま? どうか落ち着いて……」
「いえ失礼。わたしは合衆国国務省外交保安局外局『アディトゥム課』所属、エージェント・レンコ・ウサミです。現在、本列車はテロ攻撃を受けている可能性があります。ご協力をお願い申し上げます」
 蓮子は懐から手帳を取り出して見せるのだった。

 ◆

 強化装甲服とレーザーライフルで武装した30名余りの集団がトンネル内の陰に潜む。
「列車の完全停止は15秒だ。それまでに車内に乗り込め。チャンスは二度ない……3、2、1。行け!」
 号令に従って、開かれた車両の入り口に滑り込んでいく。超伝導電磁石によって推進するインディペンデンスのトンネル内部には車体浮上のための超強力な磁力が常に発生している。整備用のトンネルから線路に不用意に飛び込めば、己の身を守るはずの強化服が磁力に引き寄せられ壁に叩きつけられる危険もあった。
 部隊が無事に侵入したことを確認すると、指揮官の女も慎重に車内に滑り込む。インディペンデンスは再加速を始めた。
「第一小隊は車両中央の内部制御室の制圧。第二、第三小隊は乗客を制圧し車両後方の貨物室に移動させろ。第四小隊はオブジェクティブの確保だ。各部隊は状況終了次第、第二第三小隊の手助けに回れ。ブリーフィング通りに事を進めろ。アウト」
 部隊は迅速に展開する。指揮官の女は網膜に映し出されたデータリンクの戦況図を眺めながら、それぞれの隊へ指示を飛ばしていく。

 その武装集団は、南米大陸に位置する『バルベルデ共和国』のPMCである『黒いバナナ守』社だった。
 2070年代の『南米の奇跡』と呼ばれた好景気はもはや遠く、行き詰まった祖国の経済構造と産業、故郷のギアナ高地は衰退し続けるばかり。そんな彼らの手元にあったのは、第四次世界大戦の引き上げ時に取り残された多くの銃火器である。彼らはその遺産とノウハウを駆使して、多くの紛争地域を渡り歩いてきた。イングランド内戦、ベラルーシ革命、フランドル継承戦争……それらは故郷のギアナに多くの富をもたらした。
 だからこそ指揮官の女は考える。「なにが科学世紀だ」と憤る。カントが永続平和を夢見て三世紀、フクヤマが歴史の終わりを唱えて一世紀。未だ戦火に終わりは見えず、人類は競争と痛みに満ちた俗界を彷徨い歩いているにもかかわらず。
(科学世紀の到来を唱えた先進諸国は、人類の叡智と歴史がある一つの段階に達したかのように振る舞った。ポジティヴなアイデアは恒久的に持続しうると信じ、ネガティヴなアイデアは否定された。旧世紀から何も変わらない。先進国が途上国に負債を押し付け、俗なる政治と戦争を押し付けているというのに…………それでなにが科学世紀なものかよ!)
 そう考えていたからこそ、今回の仕事は僥倖だった。鼻持ちならない科学世紀の立役者たちに、大きく一撃をかましてやる仕事だ。依頼主には感謝しなくてはならない。
 彼女たち『バナナ守』のミッション・オブジェクティブは『ロートシルトの鍵』と呼ばれる一つの爆弾。忌々しい科学世紀の先達、日本国で開発されたと言われる新兵器だった。
 不用意にも(あるいは政治的諸事情があるのかもしれないが、彼女たちは預かり知らないが)公共交通機関を用いて、つまりインディペンデンス・リミテッドを用いて輸送される『鍵』を強奪し、然るべき場所まで運ぶこと。それが彼女たちに課せられた任務だ。
(くたばれ、アメリカ。くたばれ、ニッポン。くたばれ、アゾレス会議! 連中の世紀末に、綺麗な花火を添えてやる。科学世紀の墓標に、花束を添えてやるってんだ)
 女が意気込むあいだにも、部隊からはそれぞれ無線連絡が飛んでくる。
『こちら第一小隊。内部制御室クリア。外部制御システムとの接続完了。オーバー』
『第十六から第十一までの座席車クリア。抵抗した乗客三名殺害。オーバー』
『貨物室から後部スタッフ室クリア。給仕を四名殺害。オーバー』
『こちら第四小隊。オブジェクティブ確保。運び手は殺害。繰り返す、オブジェクティブ確保』
「コピー! よくやった、私は内部制御室に移る。第四小隊はオブジェクティブを持ってこい。それとあまり殺しすぎるなよ、相手は無辜の市民なんだからな……状況継続。アウト」
 車両をいくつか移り、列車中央に位置する内部制御室に女は足を運ぶ。通常の超伝導電磁石式新幹線はその構造上、運転制御を外部から行えるようになっているが、緊急時のための内部制御室も存在する。ロサンゼルス・ユニオン駅に位置する外部制御室は別働隊がすでに制圧しており、それによって彼女たちはインディペンデンスに途中乗車することができたのだ。
(ここから外部との通信を切断してやれば……よし。これで、この列車はもはや外からの影響を受けない。乗員約五百名を乗せた暴走特急というわけだ……しかしなんてノイズの多い計器だ、これが合衆国が信託する新幹線かよ?)
 女は自動運転にロックを掛ける。元より直通便、さして面倒な操作は存在しない。
 インディペンデンスは最高速に達し、ロサンゼルスへ向けて走り続ける。

 ◆

「ええと、レンコさん? テロっていったい」
「詳しい話は後! 私を信用して。それよりどこかにスタッフルームがあるわよね? 一番近いのはどこ?」
「五号車が二階構造になっていて、その地下がそうです」
「ありがと! ついてきて!」
 蓮子はラウンジのキッチンからステンレス製の容器をかっぱらいながら、五号車へと進む。
(さっきの駆動音からすると、敵は後部車両から乗り込んできた。おそらく後ろから前へ順々に制圧してくるはず。読みが外れたらデットエンド。ハッ、いつも通りのことね)
 スタッフルームに転がり込んだ蓮子は瞬時に索敵すると、付属の通信機器を試して舌打ちした。
「クソっ、ここの通信機もダメか。固定機材なら対EMP加工がされてると思ったんだけど」
「そろそろお話してくれませんか? 何が起きてるんです……」
 蓮子は自身の推測を矢継ぎ早に語りながら、非常灯で薄暗い無人のスタッフルームから武器になりそうなものを探す。見つけられたのは『調理鍋』くらいのものだった。
「わたしがやることは二つ。外部へ連絡を取ること。テロリストを無力化・捕縛して目的を聞き出し、可能ならば制圧すること。従業員さん、あなたは――」
「マリーです。マリー・マリトン」
「オーケー、マリーさん。信じがたいと思うけれど、私の推測が正しいならもうすぐ――」
 ――瞬間、上の方からパシュンパシュンと乾いた音が響く。次いで、ゴムが焦げる匂いが一気に鼻腔を突く。二人はさっと血の気の引いた思いがした。
 数世紀に渡って乱射事件を耐えがたい隣人としてきた合衆国市民ならば、すぐさまその音と匂いがなんなのかを察するだろう。上階の乗客室でレーザーライフルが発射されたのだ。
「テロリストが降りてきます。物陰に隠れて!」

「手を挙げろ。騒げば殺す。この列車は我々がハイジャックした……もう一人隠れているな? ででこい、我々に従って前方車両に移ってもらおう」
 蓮子はおとなしく手を挙げて観察に徹する。上階から降りてきた兵士が着込むのは全身装甲の強化服――軍産企業オーメル・サイエンス・テクノロジー社が開発した69式特殊強化装甲、通称『マッカーシー』。彼の顔はヘルメットによって見えないが、隠れたマリーを即座に見つけたのは赤外線センサーを合成した視覚補助によるものだろう。マッカーシーは兵器としては型落ちした相当古い強化服だが、生身で歯向かうのは無謀な程度には頑強である。
「ひっ。わ、わかりました。でもその前にそこの調理器具を停止してもらってもいいですか? 放置しておくと煙が出て火災報知器が反応しちゃうの」
 蓮子はそういって『調理鍋』を指さす。兵士は露骨に舌打ちしながらライフルを突き付けて、動くなよと蓮子を改めて制する。
「そう、その『鍋』の一番ボタンを押すの。それから容器の蓋を開ければいいから――マリーさん伏せて!」
 『鍋』の蓋が開けられた途端、小さな爆発が起きてテロリストが吹き飛んだ。倒れた兵士に蓮子はすぐに馬乗りになって気絶させる。
「きゃぁっ! な、なにが起きたんです、レンコさん!」
「『調理鍋』のちょっとした応用よ。さっきラウンジから盗んだ容器とこの部屋で手に入れた清掃用洗剤とスポンジを組み合わせて、『鍋』に突っ込んで特定の調理を指定するとこうなるの……っと、それより急がなきゃ。こいつらのヘルメットは映像を指揮官とリンクさせてる。今のでここに私がいるって向こうにバレちゃったわ。マリーさん、あなたはここを動かないでじっとしてなさい」
 制圧した兵からレーザーライフルを奪い取る。古い型式でセキュリティも敷かれていない。識別コードがなくても使用できることとマガジンのエネルギーゲインを確認する。万事問題なし。
(反撃開始ね)
 蓮子は上階へダッと走り出す。

 ◆

 想定されうる最悪の事態は、混乱する乗客に巻き込まれて身動きが取れなくなることだ。
 上階に昇った蓮子は客席が無人になっていることを確認した。
(乗客を移動させた? テロリスト共が人質を統制しようとすれば前方か後方の一車両に乗客を押し込むのが一番合理的だものね。これは私にとっても好都合だわ)
 遠慮なく暴れられる。まずは指揮官を叩いて敵の指揮システムを破綻させるべきだ。いるとすれば中央の走行制御室。
 ライフルを構えながら駆けこんでいく。
 しかし、制御室のドアをぶち破った彼女が見たのは驚くべき光景だった。
「!?」
 装甲服を着込んでたたずむ指揮官。そしてその指揮官にライフルを突き付けられ、怯えて拘束されている――先ほど蓮子が後方に置いてきたはずのマリー・マリトンの姿がそこにあった。

「……なぜ? わたしは最速でこの部屋まで走り抜けてきた。どこかから回り道したとしても間に合うはずがない……あ、ありえない」
「ありえない? ありえないなんてこたぁ、ありえないね。そう言ったのはお前だろ、レンコ・ウサミ。久々の再開に乾杯だ」
 指揮官の女はヘルメットを外し、痛んだ金の長髪と褐色の肌をさらけだす。その容姿を見た瞬間、蓮子は走馬灯のように8年前のことを思い出していた。
「あんたは『リトル・キャヴェンディシュ』――バナナ守の残党か!」
 ベラルーシ。キャヴェンディシュ。バナナ守。それは蓮子にとって淡い思い出を構成する一部品だ。

 かつて大学を卒業したばかりのころ、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは世界が自分たちのためにあるのだと確信していた。二人は世界中の不思議を暴き、秘匿を破り、境界をぐちゃぐちゃにする旅を続けていた。二人はすぐさま国際的に指名手配され、しかし『秘封倶楽部』は伝説的なテロ組織として名を馳せた。誰も二人を止めることはできなかった。彼女たちはあまりに優秀すぎた。多くの冒険があり、物語があった。サスペンス、バイオレンス、カーチェイス。蓮子にとっての黄金時代は酉京都の日々ではなく、二人でセカイを駆け巡ったあの日々なのだ。
 世界中の諜報機関が秘封倶楽部を追った。彼女たちはあざ笑うように世界中の各所に現れた。そのとき訪れた国の一つがあの革命内戦下のベラルーシだった。二人はチェルノブイリへの旅路のさなかスモレンスクを抜け、モギリョフへ徒歩で渡ろうと画策していた。PMCである『黒いバナナ守』はあのとき政権側に雇われていて、蓮子たちは政権と敵対していた。
 蓮子とメリーはそのとき知り合った少女と彼女の父親を助けるためバナナ守と正面から激突した。ひまわり畑での激しい銃撃戦は鮮烈に焼き付く思い出だった。蓮子とメリーはバナナ守のなにもかもを殺しつくした。持ち込んだ銃火器をぶッ放し、弾丸が尽きれば敵から擲弾を奪い、最後にはまるきり全部を使い果たして、指揮官の男と壮絶な殴り合いの果てに打ち勝った。あのとき殺し損ねた副指揮官の女こそ、目の前にいるリトル・キャヴェンディシュその人に他ならない。
「あのときお前に撃たれた顎がな。まだ痛むんだよ。外科的にはすっかり綺麗になったけどな。シミ一つない綺麗な肌だ、現代医療さまさまだァ……けど痛いんだよ。あたしの同胞を、兄貴をぶっ殺した秘封倶楽部が憎くて憎くて……テメェらを死ぬほどファックしなきゃ、痛みが引かねぇんだ。なァ、レンコォ!」
 キャヴェンディシュはニタニタと笑って、おどけるように喚き散らした。しかしその目はしっかり座っていて、蓮子への殺意をたぎらせているようだった。装甲服によって強化された握力が人質であるマリーの腕をぎゅっと握りこんだ。マリーはうめき声をあげた。
「その人を放しなさい! わたしへの復讐が目的なら――」
「復讐? 復讐、復讐。ああ、甘美な響きだな……お前ってわたしのこと馬鹿だと思ってないか? 誰がお前一人のために横断鉄道をハイジャックするかよ。お前が居合わせたのは偶然だぜ、こりゃ。マジでぶっ飛んだ偶然だ。ところでマエリベリー・ハーンはどうした? この従業員はあの女の代わりか? ええ? お前をここでファックしたらあの気持ち悪い目の女は助けにきてくれたりするのか?」
「メリーは……いないわよ。もう数年連絡を取ってない。どこの国にいるかも知らないわ」
「おいおい! なんだお前ら、あれだけ比翼連理みたいにぴよぴよ囁きあってたのに、別れちまったのか!? ……え? マジで別れたのか。じゃあこの女はマジでアイツの"代わり"か! ちょうど白人でブロンドだしな。ハハ、ウケる」
「その人は! 今日たまたま知り合っただけ。わたしの近くにいたから巻き込んでしまったの。私をファックでもなんでもしていいから、彼女は解放しなさい」
「カタギに手出さねぇよ馬鹿。お前も殺さん。ロスに着くまで大人しくしてくれりゃ、こっちも人質を取らなくて済む」
 キャヴェンディシュは吐き捨てるように言うと、蓮子の持つライフルを蹴り上げて遠くに追いやる。
 そして通信機を起動すると
「――おい、制御室に四人くらいよこせ。前後車両にも何人かおいて囲め」
 と仲間に連絡して、マリーを惜しげもなく解放すると余裕そうに座席にどっかりと座ってしまった。もう話すことはなにもない、大人しくしていろと言外で語って押し黙っている。これに困惑したのは蓮子のほうだ。
「……はっ? ちょ、ちょっと。そもそもあんたら、なんでハイジャックなんか? もし政治的主張や要求があるなら、私が合衆国政府に取次ぎを――」
「だあ。うるさい。黙ってろ。ウサミさぁ、あたしらのことをテロリストかなんかだと勘違いしてやないか? こちとらPMCだぞ。雇い主がいて、ドンパチやる! あたしらはそれだけだ! 戦争屋なんだよ!」
「なおさらわからないわね。今の合衆国相手に大陸鉄道のハイジャック? テロリストでもなけりゃ、そんなのやる雇い主がどこにいる!」
 キャヴェンディシュはどこからか持ち込んだのか、『調理鍋』から作り出したローストビーフを薄切りにして一枚ずつぺろりと胃に押し込みながら、蓮子に反論した。
「それがいるってことさ! この"科学世紀"に不満を持つやつなんてごまんとな……まぁ聞けよ。あたし言わせりゃ、科学世紀ってのは虚と実だ。実在を問う哲学はプラトンに始まり反復されてきたテーゼだった。工学が一つの段階に達するたびに、人は自身が生きていた実存性、いってしまえば現実を問われることを続けてきた。ただ自分が時代遅れのご老体に成り下がっただけのことをツァイトガイストだのと大きくしくさるのは、旧世紀からの人文学者の十八番だろ?」
「それは……私たちの世代では、例えば合成食材がそうだったわ。あるいは今私たちを囲んでいるカレイドスクリーンが。単なる技術革新の一つにすぎないものが、それまでの価値観を揺さぶるから? だからって!」
「過去という現実が未来という幻想に近づいて薄められる。人は戸惑って、論壇であれこれ理屈を並べ立てる。科学世紀とは屁理屈に過ぎないのさ。事実、どうだ? 合成食材という"虚"はどうなった? 『粉と鍋』という新たなイノベーションによって合成食材産業は斜陽にある。人が幻想のように思ったそれは、新たな幻想によって……いいや、より強力な現実によって打ち砕かれる。社会科学というアカデミズムの虚業は問題を生み出すが、解決策を提示する能力を持たず、いつの世も応用科学と工学という実業がそれを打ち砕いてしまうのさ!」
「だから科学世紀も虚にすぎないと? だとしてもそこを現実として暮らす人々がいるのよ。彼らを暴力で否定することは、許されない――」
「許されない!? ははは、誰が許したり許さなかったりする権利を持ってるってんだ? そりゃお前……あたしのことさな。くっくっく。いいじゃないかァ。科学世紀のディース・パテルはこのリトル・キャヴェンディシュさまだ。見てろよウサミ。この素晴らしき22世紀の幕切りに、あたしが科学世紀を台無しにしてやる。ぎゃは、ぎゃはははは!」
「それで? この車両から連絡が途切れてることに公社はとっくに気が付いているはずよ。ロスの駅じゃ特殊部隊がわんさかアンタたちを待ち構えてるでしょうね。どうする気?」
「心配ご無用。あたしらのオブジェクティブはこのインディペンデンスを用いて輸送されていた『ロートシルトの鍵』だ。知ってるか? 『ハーンの遺産』に繋がる道しるべ……おっと、『ロートシルトの鍵』より『コード・ウラシマ』と言ったほうがわかりやすかったか」
「……コード・ウラシマ!? あれはロンドン条約で解体が決まって――合衆国め! 解体したってのは嘘か! 自分たちだけはひそかに保有してたのね!」
 すっかり蚊帳の外であることを察して押し黙っていたマリーが声をあげた。
「蓮子さん。ロートシルトの鍵ってなんです? コード・ウラシマ?っていうのはニュースで聞いたことありますけど」
 コード・ウラシマという兵器について蓮子は嫌と言うほど知悉している。なにせそれは自分が所属していた研究室で開発された兵器なのだ。落とした単位の補習テスト代わりにあの構造体のスクリプトを徹夜で打たされたり、シミュレーション実験をやらされたことは今でも鮮明に思い出せる。
 怪物染みた研究者たちの伏魔殿である酉京都大学。伸びすぎて北極星に届いてしまいそうな高さの象牙の塔では世界を軽く滅ぼせるような兵器や科学技術が両の手では数え切れないほど開発されては封印されるのが日常茶飯事だった。そのなかでも選りすぐりの『超統一物理学研』が生み出してしまった悪夢の兵器、コード・ウラシマ。あれの厭らしいところは、ギリギリ封印指定を免れる程度には危険性が低く、陳腐化した技術体系に基づいた兵器であるところだ。それが偶然にも(本当に偶然であったかどうか、蓮子は強く疑いを抱いている)外部に流出してしまい、果てには紛争地帯において実際に使用までされてしまった。そのような経緯を経てコード・ウラシマは無事国際条約によって禁止及び廃棄が決定されたのである。あったのだが。
「ええと、それで。コード・ウラシマっていうのは特殊な爆弾よ。物質ではなく、時の流れをぐちゃぐちゃに壊してしまう致命的な爆弾。簡単に言うと、それが爆破すると周りの時の流れが遅くなって、時間の流れがおかしくなるの。同じ地平に立っている二人が違う時間の流れに巻き込まれる……」
「……え? そういうのって、その、物理学とか、そういうの的にありえるんですか?」
「ありえないわよ? だから禁止されたの。危険すぎるってね。それがなんでまた」
 狼狽する蓮子を見てキャヴェンディシュはくすくすと笑い声をあげる。その顔が見たかったと言わんばかりに、彼女は"べー"と舌をだして時計を指さす。
 蓮子は壁に掛けられた時計を見る。山岳部時間にして時刻は14時36分。太平洋時間に換算して13時36分。ロサンゼルスが近づいてきていた。
「……時間が経ちすぎている。そうか。わたしがスタッフ室から最速で制御室まで向かったのに、着いたころにはマリーさんがここで囚われていたのは――」
「そういうこった。ホントに馬鹿な話だろ。元はと言えばお前らニッポン人が作った兵器、茶番にもほどがあらァな。とにもかくにもこの爆弾がある限り地上戦力はお話にはならない。その特殊部隊とやらが時間の渦に巻き込まれてるあいだにスタコラサッサ。こいつァあたしだけの白兎の懐中時計ってわけさ」
 そういってキャヴェンディシュはアタッシュケースから取り出した構造体をもてあそぶ。蓮子はたしかにその構造体に見覚えがあった。
(あれは……アメリカが保有していたロットじゃない? イングランドで流出したロットは全部回収したはず……なら追加生産された? いや、ウラシマは境界の向こうの知識がないと作れない代物だ。いやな予感がする。まさか、『教授』が――)
 散々ぱら蓮子を嘲弄して恍惚の表情を浮かべたキャヴェンディシュは、そろりそろりと再び構造体を起動させる。蓮子が止める間もなく――

 時間が飛んだ――

「太平洋時間11時6分……途中停車を挟んだくせにちょうどのお着きだ。こちらの小鳥さんは人質代わりに頂いていくぜ。ハッピー・ニュー・イヤー――」

 ◆

「マーシャ、マーシャ! 状況はどこまで把握してる?」
『ご無事でしたか。鉄道がバナナ守にハイジャックされたこと、主犯の部隊がワープか高速移動のような手段で海軍基地へ向かったところまでは』
「ワープじゃない、コード・ウラシマよ……海軍基地ですって? やっぱり宇宙港占拠と繋がりがあるの? マーシャ、わたしが列車内にいた間に新情報は?」
『はい、それはもう。今回の案件、どうも今回は諜報部の動きが遅すぎましたね。筋をゆすったところ、ペンタゴンからの圧力と吐いてくれました。曰く、件の飛行基地では米宇宙軍の指導で反動推進型エンジン主機の試作機を作っている、らしいのですが』
「反動推進? そんな旧世紀の技術をなんで……ああそうか! 国防問題。くそッ、くそくそくそッ! だから私が呼ばれたのか。マーシャ、今すぐ基地から打ち上げて乗れる衛星軌道を洗ってちょうだい。藪蛇だわ、まったく! 最初からそういうことは言えッてんだッ!」
 カーン! と道で稼働していた自動清掃機を蹴り上げる。痛い。
『……もし?』
「お、おほん……敵の狙いはISSマクスウェルよ。目的はわからないけど、孤立した空間に世界各国のお偉いさんは煮るなり焼くなりってもんね」

 宇宙開発における、宇宙船の推進方式問題。これは科学者たちを悩ませ続けた問題だ。
 旧世紀の宇宙ロケットはあまりに非効率的だった。使い捨ての推進装置。限りある推進剤。宇宙という広大な空間に、有限の資源で対抗するのは無謀であるように思われた。ならばどうすればいい? 様々な方法が考え出された。どのアイデアも魅力的で、一時期の宇宙開発市場は多様な推進装置の開発で賑わった。
 だが最後にはたった一つの推進方式だけが生き残った。それは放射圧による推進。ソーラーセイルだ。それ以外の推進装置は国際条約によって禁止された。ソーラーセイルによる推進は宇宙船の航路を規制することができる唯一の方法だったからだ。
 物に光が当たるとき、物は光を反射する。その際変化した運動量はどこへ行くのか? 光を反射した物質に反作用として圧力を生じるのだ。これが放射圧である。ソーラーセイルとは巨大な鏡を宇宙船の帆のように広げ、そこに太陽光をあてることで推進力を得る方式なのである。
 かつて開発されていたソーラーセイルは鏡の帆を巧みに操ることで、太陽光を自在に反射させ、推進力を望んだ方向へ発生させることを意図した。ではそれを逆にしたらどうなるだろうか。
 つまり話はこういうことだ。太陽系のある場所に集光装置を置く。その集光装置は太陽光を集め、宇宙空間を航行する船に向けて反射する。その船は光をまた反射することで推進力を得る――。
 この方法を取ると、宇宙船の航路は集光装置の位置と制御によって固定されることになる。広大無辺な宇宙でも、宇宙船の進退を一つ残らず秩序だって管理することができるのだ。SF小説にでも出てくるような宇宙海賊、無法者たちを開発市場から締め出すことのできるこのアイデアは、あらゆる企業と国によって喝采された。

(そんななかで一人コッソリ反動推進の開発を続けてました、なんて……アメリカ、やはりそういう国か!)
 蓮子は下唇を噛む。反動推進装置を持った宇宙船と、コード・ウラシマ。それらが組み合わさればどうなるか。それは米軍による巡航ミサイルを時計の針一つ動かして悠々と回避し、ソーラーセイルの航路など無視して宇宙空間のどこにでも飛んでいける宇宙船の登場だ。そしてその狙いは先ほど蓮子が口にした通りなのである。
『ああ、マクスウェル……すべて合点がいきました。それとゲームオーバーかもしれません。たった今、宇宙港から打ち出されたみたいですよ』
 マーシャがアプリ越しに映像をシェアする。昔ながらの、マスドライバーにも軌道エレベーターにも寄らない打ち上げ方式。歴史の授業で見たような化学燃料の噴射だ。
「まだよ。まだ終わりじゃない。どうせ反動推進の宇宙船はまだあるんでしょう。わたしが行くわ」
『しかし。敵はウラシマを持っているのでしょう? 対抗策がおありで?』
 蓮子はじっと目を伏せて笑った。あれを回収したのは誰だと思っているのか。まぁ公的な歴史からは抹消されているのでマーシャが知らないのも当然ではあるが。
「私にはね、『目』があるのよ……足と武器、それと戦術礼装を用意してちょうだい」
『目、ですか? ……礼装の術式は?』
「マヤ文明、チェチェン・イッツァ。宇宙にいくならあやからなくっちゃね」

 ◆

 仕立てあげられたばかりの礼装――お値段数千万ドル(支払いは国務省持ち)、古代マヤの呪術が編み込まれただけの丈夫な黒スーツだ――に腕を通す。
 拳銃二丁。昔ながらの実弾銃。弾丸は13mm炸裂徹鋼弾。本来なら反動で腕が吹っ飛ぶ代物だが、戦術礼装の補助で誤魔化せる。
 無骨なパイロット席に蓮子は坐する。
「宇宙旅行はさすがに初めてね……ああいや、トリフネで一回あったか」
『トリフネ? なんです、それ。ヴァーチャルゲームとかですか?』
「ふふ、ひ・み・つ。それよりマクスウェルにアプローチするまでどれくらいかかるのかしら」
『およそ二時間半になります。反動推進ですから多少のGが……っと、礼装がありましたね』
 時計を確認する。日付はまだ12月30日。太平洋時間23時8分。蓮子を打ち上げるための許可をペンタゴンが渋り続けたのと礼装を準備するので相当時間を取った。当然のごとくマクスウェルはバナナ守によってとっくに占拠されている。
 全世界放送でマクスウェルの要人たちが人質に取られたことが通達されたのち、バナナ守たちは沈黙を続けている。その目的は依然として不明だ。
『――まもなく打ち上げです。テンカウントに入ります。10。9。8。7。6。5。4。3。2。1――』
 発射。爆音。Gは感じない。宇宙旅行の始まりである。

 静穏のなか、蓮子は自然と口を開いた。
「あいつらの雇い主、まだ尻尾はつかめないの?」
『依然として。いまさらアゾレス合意に叛意を持つ勢力なんてとんと思いつかないものですが』
「そう、かしらねぇ……」
 21世紀末の総決算。科学世紀に別れを告げ、来るべき新世紀を迎えるためのカンファレンス。アゾレス合意。
 月面への拓殖。国境の開放。人類が一歩先へと歩むための採択。マクスウェル議決。
 それは確かに人類史に刻まれるべき輝かしい成果だ。だが例えば日本にとってもそれは同じだろうか? 
 20世紀末葉から叫ばれ始めた資源の枯渇、少子高齢化。様々な社会問題を知恵と理性によって解決し、現代資本主義の成熟期に入ったと謳われた神国日本。少子化のリスクを国の繁栄にうまく転換し、結界省の設立とともに日本という国の科学世紀におけるプレゼンスは不動のものとなった。
 蓮子は思うのだ。アゾレス合意が日本にとっての『科学世紀の終わり』の喇叭に思えて仕方がないのだ。物質主義の超克によって科学世紀に先鞭をつけた我が祖国。俗世より一抜けしたはずの懐かしき神国が、宇宙植民競争という時代の趨勢に足を取られ、政治という悪魔の大口に引きずり込まれていくのではないか。
「宇宙探査の必要性、研究の有用性は否定しない。けれどそれは貪欲で数字を増やすことを目的とした開発競争とは一致しない……俗悪で醜悪、貪欲な利益追求主義の手によって、ダークマターの海に沈められたパンドラの箱を開いてしまわないのか。わたしはそう思う――」
『要領を得ないお話ですね。そのパンドラの箱とやらの具体例があげられない限りは。宇宙とはフロンティア、我々はフォーティナイナーズですよ』
 マーシャの話を聞いていると、なんだか昔の自分を思い出すようだった。人類は宇宙へ進出して然るべき。そこには無限の資源と空間がある。それを手にしないというのは、立派な二本の脚を持ちながら前に進まないのと同じことだ。そう考えていた。
 現実は違う。人類は地球資源だけで十分に暮らしていける。発電技術の果てのない向上は事実上に無限の電力を供給し、リサイクル技術と代替資源、採掘技術の進歩は資源枯渇を過去のものとした。医学、工学、社会科学はあらゆる側面から暮らしの豊かさを後押ししてくれている。
『だから宇宙に出る必要がないと? 例えば……地球物理学はいまだに噴火のタイミングを正確に予想できません。大火山の噴火による、突然の大量絶滅が起こらないと確信できますか? 人類種の存続という面から見れば宇宙進出は必要です』
「むっ。的を得てるわね」
 蓮子は一層考え込んだ。なら自分はなぜ宇宙開発を嫌悪しているのだろうか?
『当てましょうか。宇宙という未知が既知へと切り替わっていくのに耐えられないのですよ、あなたは』
 思わず苦笑した。そしてそれは正解であるように思えた。
 ――そうか、自分はそれほど老いたか。
 マエリベリー・ハーンと別れて何年経つ。公僕に成り下がって何年経つ。CIAのパラミリ、内調、結界省特務、米国務省アディトゥム課。渡り鳥のようにころころと飛び回ってきた。
 今の自分はなんのために生きているのか。そんな単純な質問を問い直すべき年齢なのかもしれない。
「降参、いじめないで。最終アプローチに入るわ」

 自動オペレーションシステムの誘導に従って機体が向きを変える。
 宇宙船がマクスウェルのポートに入港するまで妨害はなかった。マクスウェル内部のシステムをバナナ守たちが掌握していなかったにしろ蓮子の接近に気が付かなかったというのは考えにくい。周囲には警備も見受けられない。いやな感じだ。この手触りはかつて何度も味わったことがある。あの人のやり方に似ている。
(おそらく本丸は『中空議場』……構造図によればマクスウェルの中央にそれはある)
 遠心力によって人工重力を実現しているマクスウェル内部において、唯一の無重力空間は回転の中心に存在する中空議場だ。人質の政府高官たちも、攫われたマリーも、キャヴェンディシュも――そしてあの人も、あそこにいる。
 コツコツコツと議場に向かう廊下を歩いていく。不思議な感覚だ。進めば進むほど重力が弱まっていくのを感じる。まるで地球圏から宇宙へ歩いている、そんな感覚に陥るようだ。
(……ここからは警備がいるのか。やるか)
 腰から拳銃を抜く。さぁ、ドンパチ開始だ。

 ◆

 あいも変わらず古臭い真っ黒な装甲服に身を包んだバナナ守たちは、まるで悪の銀河帝国の兵士たちのようだ。レーザーライフルを構え、議場への道を厳重に警備している。
 蓮子は軽い足取りで彼らの前に姿を現す。恐れることはなにもない。慣れた仕事だ。
 彼らは蓮子を見ると各々が構造体を起動する。コード・ウラシマである。
「ごめんなさいね。それ、わたし効かないのよ」
 大きく腕を広げて天を仰ぐ。天蓋には空気の層を通さない満天の星空が広がる。

 ――蓮子の目が妖しげに光る。JST、日本標準時18時33分。

 結界の向こうのオーバーテクノロジーによって作られた、人類が手を出すべきでない技術。シンギュラリティ・ワン、コード・ウラシマ。
 それは自分がいるべき時間の流れを錯乱させ、水時計の迷宮を彷徨わせる乙姫の旧い業だ。だが、時の流れに錨をおろせるとしたらどうだろう? 蓮子はその『目』によって星を見れば、自分が本来いるべき時間を正確に把握することができる。つまり宇佐見蓮子はコード・ウラシマを無力化する能力を持つこの世でたった一人の人間なのである。
(ま、星が出てるところでしか無効化できないんだけど……ISSなんておあつらえ向きね)

 レーザーライフルの飛び交う戦場を蓮子は駆ける。彼女の戦闘術は近代火器戦闘にカラテと数学的合理性を取り入れた最新鋭の理論に基づくものだ。統計的に弾道に当たらない位置取り、回避というものが存在する。
 進むにつれさらに重力は弱まる。蓮子はその重力減衰すらもその場その場で再演算して戦闘を進める。その肉体のしなやかさはもはや地球上では実現しえない。それは戦場を舞う一匹のレイヴン。
「なんで、なんで当たらない!? これがヒフウクラブのレンコ・ウサミか!」
「あの女一人でいったい何人殺しやがった! バケモノが、イレギュラーが!」
 一人一人。確実に撃ち殺す。13ミリの炸裂徹甲弾が装甲を粉砕する。
「兵士諸君、任務ご苦労」

 ――鏖殺である。

 ◆

 皆殺しの地獄を終えて扉を開けると、そこには地獄が広がっていた。
「……わお」
 無重力の議場はひどいありさまだ。人質にされていた政府高官たちはみな殺されている。まろびでた内臓や鮮血が議場をふよふよと漂っている。
「派手にやったわね、キャヴェンディシュ」
「ああ。お前があたしの仲間を惨殺してくれたようにな。安心しろよ、お前のハニー……マリー・マリトンとか言ったか? 彼女はこの通り無事さ」
 そういって議席の一つに縛り付けられたマリーを指さす。彼女は目の前の惨劇がショックで声も出ないようだった。

「キャヴェンディシュ、あんたのやりたかったことって、これだったの? 科学世紀の立役者たちをぶっ殺せて満足?」
「ああ。満足した。あたしの故郷はこのクソ共にぶっ壊されたんだ……そんで、あたしの兄貴はテメェが殺したんだ!」
 大口径のレーザーバズーカが向けられる。無重力のこの空間では避けるのはたやすくない。議場の影を利用して蓮子は絶えず移動し続けた。
「あんたはただの雇われの戦争孤児よ! 故郷? 家族? あんたはなんのために戦っている! 闇雲に科学世紀を否定して、死んだあんたの同胞は喜ぶのか!?」
「知った口を! あたしらをオルフェンズと呼ぶな……戦災孤児と終わらせるなァ! なんの力もなかったから弟たちを飢え死にさせちまったんだ。コード・ウラシマがあったから科学世紀を作った奴らに仕返しができた! 人類がソラに出なけりゃぁ星になった弟たちは平穏無事で過ごせるんだ!」
「そういう負の活力を吸って科学世紀は邁進する! 憎まれ口はやめなさい、キャヴェンディシュ! どうあがいたっていずれ人は宇宙に進出する! その命の力を逃げるために使うな、生きるために使えッ!」
「できるわけないッ!」
「できるッ!」
「う、うるさい、うるさいうるさいうるさい! みんな死んじまえェェェッ!」
 その時、声を上げたのはマリーだった。
「死にたくありませんっ! 死にたくない、死にたくない! あたし、まだ恋もしてないッ!」
「う、ああああッ!」
 キャヴェンディシュは動揺して、バズーカを乱射しながら体を乗り出した。
 一発の銃声。蓮子が撃ち出した弾丸がキャヴェンディシュの脳天を貫く。
「また、また殺した。それでわたしが生き残った……これが、これが科学世紀の実態? こんなものが……! くっ、マリーさん、今助けます!」
「蓮子さん、まだです。まだ、もう一人います!」
 マリーはチラと議場の中央、議長席を見た。
「!」

 パチパチパチ、と乾いた音が議場に響く。鮮血に塗れた議場と同じような、馬鹿みたいな真っ赤なコート。真っ赤な髪。真っ赤な目。

「やっぱり黒幕はあんたかよ――岡崎夢美!」

 ◆

「答え合わせをしてあげるわ。あなたの推理を聞きましょう」
 クツクツと笑って、椅子の上のふんぞり返って彼女はそう言った。蓮子は困惑よりも苛立たしい気持ちが勝った。なんなんだと声を張り上げた。
「ここまで来れた報酬をあげよう、と言っているのよ。なぜわたしが今回の騒動を起こしたのか。なにが目的だったのか。知りたくないのなら話はおしまい。わたしは今すぐ帰って、事件の真相は闇の中で終わらせてもいい」
「本当にあんたは……8年前から変わっちゃいない! 自分のために人を陥れて! 利用して! リトル・キャヴェンディシュだって、ここで死ぬべき女ってわけでもなかった!」
 それは違う、と夢美は指を振った。
「彼女は……わたしは彼女の夢をかなえてやった。失った兄弟、家族たちの復讐。彼女はなにもかもを憎んでいた。わたしがいなければ彼女は夢を――」
「お前が唆したッ!」
 蓮子が銃弾を放つ。吸い込まれるように夢美の顔面へと飛翔したそれは、彼女の右半面をえぐり取った。しかし。
「ッ……機械ッ……」
 えぐり取られた半面から覗いたのは、無数のチューブと機械仕掛け。古典的なアンドロイドだ。夢美だったものは喉からスピーカーを引っ張り出して話をつづけた。
「当然、ここにいるのは岡崎夢美本人ではない。その思考を転写したもの。わたし本人は忙しいのよ。続けましょう。キャヴェンディシュにはチャンスをくれてやった。宇佐見蓮子という女に復讐するチャンスすら。その末路は残念だった……」
「どうせ、すべては研究のためでしょう。あんたはそれしか頭にない。今度はなんだ。質量破壊兵器か、生物兵器か! 次は何を殺す、何を壊す!」
「人を死の商人か何かと勘違いしていないかしら? わたしの専門は比較物理学。非統一魔法世界論入門講義、忘れた? どれだけあなたの卒論に目をかけてやったか!」
「それが……それがなぜマクスウェルに繋がる!? この惨状に繋がる!? 必要が――」
 蓮子の言葉に重ねるように、スピーカー越しに凛と彼女は言った。
「必要があった。人類の月面進出は少し早すぎた。月の『あれら』には今の国連の軍事力では『ちょっと』足りない。半世紀ほど足りない。だから植民はやめてもらった。まぁわたしならあんな連中単騎で滅ぼせるけどね。それが目的のその壱。じゃあその弐は? 当然わたしの研究テーマよ。『可能性空間移動船』。むしろ今回の騒動はその船の錨を作るためのものだった」
「錨……?」
「広大無辺で未知の大海を渡るために必要なのは、推力装置なんかじゃない。目的地を指し示す『コンパス』と意図しない風に流されない『アンカー』よ。それはまるで引き合わされるかのように、わたしの目の前に二つセットでやってきた。世界の物理法則、統一理論のテクスチャが引いた境界線を越えるための『シュレディンガーのコンパス』。巨大な世界の重力によって荒れるディラックの海を流されないための『ニュートンのアンカー』。ここまで言えばわかるわよね」
「……メリーの目と、わたしの目……」
 ご明察、と彼女は笑った。
「異世界に行くためのシュレディンガーのコンパス。マエリベリー・ハーンの瞳から鋳造したそれはハーンの遺産と呼ばれるようになった。コード・ウラシマはコンパスとアンカーを繋ぐロートシルトの鍵。まさしくめぐりあわせ。すべては我が大望のため。あなたは無防備にも星のない地下鉄で、星のあるマクスウェルで、ウラシマの起動下で何度も何度も戦ってくれた。データはすべてそろった。これでこそゲームエンドよ。ついにわたしは統一理論を打ち破り、約束の地へと飛び立つのだ! はは、はははは!」

 蓮子は俯いて、何度か首を振った。くだらない。こいつには自分しか見えていない。そこには他者への尊重、人としてあるべき人倫というものがまるでない。見るに堪えない。
「もういい。もうお前は黙れ。ここではないどこかへ好きに飛び立てばいいのよ」
 蓮子は銃を構える。残弾がなくなるまで打ち尽くすと、夢美の人形は跡形もないスクラップへと変わる。
 悪は消え去った。蓮子は乱れた息を整える。終わった……。
 同時に爆発が起きた。キャベンディシュが撃ったバズーカが機関炉でも壊したか。
 最後が爆発オチというのは慣れたものだ。秘封倶楽部の旅でも、それ以降のスーパースパイとしての活動でも、ドンパチをやらかしたあとはたいてい爆発で終わるというのがお決まりだ。
 問題なのはここが宇宙空間だということか。さすがにISSに爆発されたら打つ手がない。

「ごめんなさい、マリーさん。巻き込んでしまって」
「いえ、構いません。ディズニーランドへ行けなかったのは残念でしたが」
 そういってマリーは蓮子の腕のなかでクスと笑った。
 今日という日こそいよいよ詰みかもしれない。センチメンタルに追い詰められた二人はぎゅっと抱きしめ合った。
 蓮子はふと窓の外を見る。満天の星空。蓮子の目が光る。

 ――日本標準時0時00分。
 日付が変わった。一月一日。新世紀だ。
 ああ、科学世紀が終わったのだ。わたしが生まれ、育ってきた世紀が。みなが夢を抱き、天に空を伸ばしてきた世紀が。
 蓮子は目を閉じた。爆発が連鎖し、臨界へと至る。光が蓮子とマリーを包む。

 ああ、どうか。科学世紀に、花束を――

 ◆

 ふと気が付くと、蓮子とマリーは重力のある地面に立っていた。
「え?」
「あれ?」
 お互いに見合って、おかしそうに笑う。なにが起きたというのか。
 蓮子はふと空を見上げる。日本標準時0時1分。場所はロサンゼルスの郊外。
(マクスウェルから、ロサンゼルスまで一瞬で飛んだ……? 何が起きて……)
 いや。この一瞬で跳躍する感覚はどこかで味わった覚えがある。アイツの目を使ったときの感覚だ。
(最初から最後まで、見守られていた、ということ? ……となるとまずいな、わたしがマリーさんを口説いてるとこも見られてたか)
「……蓮子さん! ディズニーランド! ここ、ディズニーランドですよ! どういうことでしょう。わたしたち、天国にいるのかしら――」
「いや、どうにもそういうわけではないみたい。ふっ、まぁいいわ。一緒にプーさんのハニーランドに乗りましょう。わたしの元カノが妬くくらい遊びつくすのよ」
「えー? それってどういう……」
 蓮子は考えるのをやめて目の前の女と遊びつくすことにした。
 新世紀の夜は長い。
もしハリウッドが秘封倶楽部を映画化したら?みたいなコンセプトです。往年のセガール作品っぽさを目指しました。あとSF要素をぽいぽい。
蓮子はメリーとは別れてるし、なんかメリーにところどころ似てるヒロインたちが登場して蓮子はそれを口説いていくみたいな。ヒロインに作劇上の存在理由があんまりないのがハリウッド味。
反省点は殴り合いを入れ忘れたことです。泥臭い殴り合いで決着させるのを忘れてました。脳内保管でキャヴェンディシュと殴り合ったことにしといてください。
あるちゃん
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
ワードチョイスと世界観に圧倒されました。一から十までずっと面白かったです!
3.100夏後冬前削除
脳みそ焼けるくらい楽しかった!!!!!
4.100きぬたあげまき削除
ワードが頭いいのに展開全部阿呆で本当に笑ってました
5.100南条削除
とても面白かったです
膨大な量のSFワードからのガンアクションがたまらなくよかったです
蓮子や敵のノリが素晴らしかったです