○ ○ ○ ○ ミスティア・ローレライの開店
夕暮れの中で明かりが灯る。
ぱちぱちという炭の音。鼻孔をくすぐる肉の焼ける匂い。
それから眼球に刺激を加える僅かな煙。
ざり。
その中から聞こえた足音に、隠れる必要はないのだが、こっそりと意識を向ける。
立地柄、妖怪の足音であろうそれが、こちらを向いているのか、行き過ぎるのか。続く次の音を待つ。
焦らされるような、募る期待感はじりじりと積もり、暖簾の下に靴が見えたところで、とある確信に変わる。
この人はお客だ。
私はこの瞬間が好きだ。確かに高揚する気持ちと、それを連れてきたお客に感謝を込めて、手が分け入って来た瞬間に私は声をかけてやる。
いらっしゃい。
○ ● ○ ○ ミスティア・ローレライの常連
先客用の身に串を通していると、ひとりぶんの土をにじる音が聞こえた。
目線を下ろせば、下駄の類いではない、ブーツの履物が見えた。様相からして女性であろう。
見当をつけていると、暖簾を捲る細い手が伸びてきた。
「どうも。やってる?」
先客に串焼きを出してそちらを見ると、常連の土蜘蛛妖怪の顔が覗いていた。
日が落ちて、人間の時間から妖怪の時間となる頃。まだ月は昇っていないが、彼女は確かにいきいきとしてきたのか、快活な笑顔のまま自分の座る席があるかを確認する。
手元の串を返しながら、適当な挨拶を考える。
「どうも。ちゃんとやってるよ」
それから先約は無く、空き席は自由だと回答してやる。
しめたという風に破顔した彼女は指先で襟を広げて、ぱたぱたと扇ぎながら入ってきた。
皐月の末となる今日この頃は、雨は降らず湿気もそう多くない。それでも地面は昼間の日光を蓄え、今現在、日の落ちた時刻でも生ぬるさを感じさせる。
馴染みの彼女は暑さのためか、普段よりも多くの髪を結わえ上げている。半袖に黒いベスト姿の格好だが、裾の広がったスカートは普段のままだ。
「よいしょと」
それでも彼女は器用に手で裾を纏めて、四つある丸椅子に座り込む。
先客から一つ空け、角席に当たる位置だ。
彼女は湿気に気取られたのか一度ポケットを触り、諦めたような顔してから、指先で首元の汗を拭った。
「今日はお一人?」
普段は私の知っている妖怪や知らぬ妖怪と来ることが多い彼女だが、今日は後に誰も続かない。
「そうそう。この後新月会があるんだけど、一人じゃすることなくてね。ああっと、ヤツメの方で」
私は注文を聞きながら、カウンターの下に並んだ瓶から『黒谷ヤマメ』の名が入ったものを手繰り寄せる。三分の一くらい中身の入ったそれを持ち上げて、正面にいる客の前に、グラスと一緒に置いてやる。
「八ツ目鰻ね。ちょい待ち」
「あ、あと味噌漬けがいいなあ」
「はいはい」
おおよそ普段通りの注文だったので、手早く用意してやろうと背後のスペースへ身を向ける。ふと目線を正面に戻すと、壁に留めた日めくりカレンダーと目が合った。
人里製のそれは真ん中に大きく日付を示し、少し小さく月と曜日を示しているタイプのものだ。外来品か内製品かは分からないが、私達妖怪にとっては日付や曜日よりも、隅に小さく記載された月齢の方が感覚の当てになる。
私が皿をひと拭いしていると、背後の客席からなぜか来客を喜ぶ声が聞こえた。
「いらっしゃいませえ」
続けてヤマメの唸るような「うおう」という声が聞こえる。
当然、ヤマメに声をかけたその人は店員ではない。小さな屋台なのだから、業者は居れど店員は私一人だ。
振り返れば、ヤマメは出てくる味噌漬けに意識を向けつつも、隣から聞こえてきた声に柔軟に応対している。
「お姉さん、やってるね」
ヤマメはよそ見をしながら器用に酒を注いで、先客の方へ体を向ける。右肘を着く格好になって、私が出したつまみも横向きのまま、左手で箸を伸ばす。
味噌漬けを一口噛み始めてから、ヤマメは思い出したかのように酒と摘みに向き直り、手早く「いただきます」と発声した。
「なんだか今日は楽しそうね」
体を向けたついでに、ヤマメがこちらに向かって小さく発する。
自然と私が目線を送った先客の彼女は、既にそこそこの時間を店で過ごしていた。
彼女の前に置かれた徳利は、ほぼほぼ空になっているだろう。並んだ二つの御猪口に傾けられた時、注文を聞いてやるのが丁度いいか。
彼女が一人飲みで時間を消費していたのかといえば、そうではない。
入道使いと名乗る彼女は背後に重量感のある雲を漂わせて入店し、酒と御猪口二つを要求した。私が不思議に思っていると、自分の背後に滞留させた入道が髭を蓄えた男性の顔を形作り、お供か友人であるらしいその入道と飲み進め、あれよあれよという間に双方とも赤くなっていった。
何やら今日は酒の進む要因があったらしく、二人の酒気は十分に高まっており、今や店員の真似事、さらにはその反省会を始める気性となっていた。
「だめだめ、聞こえないよ雲山。もっと元気よく」
女は発声練習の講師のように、自らの背後に漂う入道に指を立てる。
続くのは、低い唸り声。
雲山と呼ばれた入道は腕組みをする男性を形作り、困ったような間を開けた。
自然と私たちの目線を集めることになった入道は、やがて決心したような胸の膨らみの後、小さく大気を揺らす。
ぱちぱちと。
重なるように炭が立てた音と煙に阻まれて、残念ながら私に声は聞こえなかった。
「よし雲山頑張った! 女将、こっち八ツ目鰻」
笑顔の後、開いた手をこちらに向ける彼女。背後では酒だけではなく、赤面の進んだ入道が御猪口を傾ける。
私は少しだけ納得しないまま、串に通したものを焼き始める。
「旦那も頑張ったねえ、ごくろうさん」
ヤマメが調子を合わせ、グラスを雲山とやらに向けて掲げる。
ぐいと喉を通した後、蒲焼きがまだ来ていない事を思い出したのか。箸で器用にすくい上げて、胡瓜を二枚まとめて口に運ぶ。
ぼりぼりと塩気を補充しながら、ヤマメは一つ空けて座る客の姿を眺める。
「ていうかその手……格好もそうだけど、もしかしてお姉さんって尼さん?」
ヤマメはグラスを持つ手の人差し指で逆の手首を指し、彼女がかけている数珠のことを示す。問われた女の方と言えば、にんまりと満足げに笑い、頭の重みを感じさせるように、大きく一度頷いた。
「そうよ、由緒正しき命蓮寺よ」
誇張し虚偽を語るような顔色はない。
由緒正しい、の根拠は分からないが、妖怪の信者を増やしているらしい寺の名には私も聞き覚えがあった。
女は機嫌を良さそうに続ける。
「貴女妖怪でしょう? その気があるのならうちに来るといいわ」
「土蜘蛛でも、入信できるもんかい」
「種族は関係ないわ。精進と慈愛の心があれば、貴女もきっと」
そこで言葉を区切り、勧誘中とは思えない態度で、ぐいと酒を煽る。それからヤマメへ向き直ると後の言葉が面倒になったのか、「うん」とだけ頷いた。
「ははあ。“つて”ってのはこういうところで作るもんだね」
ヤマメの方はといえば、言質を得たという顔してニヤリとした目線をこちらへ向ける。
その様子からヤマメの修行僧姿を想像しようとして、早期に諦める。
そういえば以前、ヤマメはどこぞの宗教に入信を企てたと言っていた。結局のところ、教えに関心を覚えたわけでもないため門前払いを食らったというのが話の落ちなのだが、それが命蓮寺だったのか、私は知らないままだ。
「ただ、結局ヤマメには合わないかもね。酒や肉は禁止が基本らしいし」
「え、宗教ってそういうものなの。楽しくなさそう」
彼女は不満げに声を上げ、酒を飲む。楽しくないという感想の時点で、宗教は向いていない気もするが。
手元の鰻をひっくり返す。
「んん、酒が駄目なの? じゃあさ」
ヤマメは浮かんだ疑問を直接訊ねようとして憚られたのか。言葉を止め、隣の女の顔をまじまじと見つめる。
疑問の内容は分かる。
今まさに酒気に赤らんでいる彼女は違うのかと。
私が補足するより先に、女がこちらに向き直った。
直前まで煮物をほぐしていた彼女はちょうど覚醒したらしく、温度差はあるが、ヤマメの疑問に直接回答してくれるようだ。
「姐さんが間違ってる!」
「んお?」
「姐さんは型に嵌まりすぎてる。昔は欲だ不浄だと片端から絶って美徳としても、酒は今の妖怪にとっては素直になる立派な手段の一つなの」
「おお、おう」
膝に手を置き話し始めた僧の様子に気圧されたのか。思わずヤマメが向き直る。
チラとこちらに目線を投げられたが、鰻の付け合せのために視線を逸らした。
「無くても分かり合えるのは素晴らしいでしょうね。それでも今は、理に理に適った行為なの。いたずらに過去に捕らわれて絶ち続けるべきとは思えないの」
「思えないのか」
「そう。教えは大事にしたまま、時代と共に、絶えず変化すべきであると思うわ」
「なるほどね」
相槌を打って、ヤマメは瓶を持つ。試しにという顔色で、彼女の前でグラスに酒を注いで口へ運ぶ。
それを見てから、女は徳利から酒を注ぎ、そのまま空にする。
あまりに自然な様子にヤマメは少し驚いたようだった。
「なんというか、面白いお客さんだね」
私にむけた言葉に黙って頷きつつ、徳利を回収しに向かう。
女は人差し指を立てて要求を示しつつ、ヤマメの質問への回答準備をする。
「食肉は?」
「酒の席は別よ、美味しく頂かれるなら本望でしょう」
呆気からんと答える様子に、ヤマメは再び驚いたようだった。前髪のかからない部分から、眉が動いたのが見える。
「そっか、そうかい」
「それだけじゃない。姐さんは気づいてないの」
ヤマメがグラスを置きに向き直るのと、彼女が話し始めるのはほぼ同時だった。
端から見れば、間が悪い。
「いや姐さんだけじゃない。みんな気が付かないの。なんてったって、私にとって大事な」
女が肘を着いて少し項垂れた後、再びヤマメへ向き直る気配を見せたところで。
「ほい八ツ目鰻」
焼き上がったもの二皿、それぞれの前に出してやる。
二人とも自分の注文と確認するような間の後、席へ向き直り串を掴んだ。
果たしてこれは、間が悪い行動だろうか。
が、仕方ない。ヤマメが腹を空かせているし、私だってこの話は三回目だ。一回くらい逸してもみたくなる。
考えていると、新たな足音が暖簾の向こうに現れた。
片手間に、意識をそちらへ向ける。
○ ● ○ ● 黒谷ヤマメの意見
氷の入ったグラスを傾けながら、隣の尼の背景を想像する。不満を垂れるわりに寺を出ないのには、何か退っ引きならない理由がありそうだ。
次に話を振られたとき掘るべきか掘らないべきか。頭の片隅で考えながら身を咀嚼していると、ミスティアの声が耳に届いた。
「いらっしゃい」
左に首を回すと、小さい手が暖簾の下の方を分け入るのが目に入った。
反射的に布越しに客の輪郭を思い描く。しかし、入ってきたその姿は予想より遥かに小さかった。顔に向けるつもりだった目線が一段落ちる。
白いフリルのワンピースに、肩まで伸ばした明るい栗色の髪。二つに縛られた髪は太陽を模した髪飾りで留めている。
体躯の小ささからして、妖精だ。
「こんちわーっす」
「あ、誰かと思ったら悪戯妖精じゃない」
にこにこした妖精の挨拶と対照に、ミスティアの顔が陰る。少し不満そうな声からして、常連ではなさそうだ。
妖精が気に止める様子はない。
「一人なら空いてる、よね。よいしょ」
足の間を通すように丸椅子を跨ぎ、服の裾を押さえながら前傾で座り込む。
そのまま両手を椅子について覗き込みながら、棚の奥に並んだ和洋揃った酒瓶に首を伸ばしている。
「どうしよっかなあ。じゃあ、レモンのお酒で」
高揚するように、二対の羽根が揺らいだ。
有色透明の薄い羽根。やはり、妖精だ。
「それはいいけど、あんた、お金あるの?」
ミスティアは言葉を選びながら冷静に確認する。人間の文化にあやかっている妖怪ならまだしも、妖精が現金を持ち合わせているのか。疑問に思うのはもっともだ。
それを聞いたオレンジ色の妖精は不安を一蹴するかのように笑ってみせ、懐から効果音付きで紙幣を取り出した。
失礼を承知で言えば、意外な行動だった。
「今日のサニーちゃんはひと味違うわよ!」
ミスティアに突きつけられたそれは、確かに現在人間の間で使用されている紙幣に見える。
紙幣に印刷された“弐”の文字を読んだのか、自らがはにかんだ擬音なのか。妖精は「にっ」と声に出して笑うとそこに紙幣を置き、自らの注文を繰り返した。
「さあさ、レモンなサワーと、ヤツメじゃない方で」
ううんと唸り。危うく照明にかざしそうになるまで、ミスティアは紙幣に細い目を向ける。
やがて使用可能であると判断したのか、はたまた出所が何処であろうと関係ないと判断したのか。目を瞑って息を吐くと、サニーという妖精に紙幣を返した。
「ま、払うお金があるならいいわ」
「当然。私は良識あるものね」
その会話を聞きながら私は念のため、ポケットの上から財布に触れた。
やがてサニーという妖精にアルコールが出され、ミスティアは手早く串を返し始める。
客席に僧と、妖精と、妖怪が並んだ。
「かんぱーい」
サニーが目の前にジョッキを持ち上げ、自分宛に音頭を発する。悪絡みする気はなかったが、何気なく、こちらもグラスを持ち上げて応える。
「乾杯」
「乾杯ね」
同程度の声量で、反対側からも声が聞こえた。
サニーは口元にジョッキを抱え、両隣をキョロキョロと見る。それから察したように笑い、もう一度「かんぱい」と発した。
私はそのまま口元に運んで、少し考え事をしてからグラスを置く。横を見れば、妖精は満足気な顔をして、既に喉を通し終わった後のようだった。
方や奥の女は御猪口を掲げて「もう一回行くかい」とでも言いたげな顔をしている。別に、煽り合いはしないぞ。
「妖精が飲み屋に顔出すなんて珍しいじゃないか。何か良いことあったかい」
片肘を付きながら投げかけた質問に、妖精は面倒臭そうな顔はしなかった。むしろ嬉々として、自分の出来事を話し始める。
「今日はイタズラ成功日よ」
ほお、祝杯は良い。
祝杯はその日の行動のひと区切りとなるし、成功体験の増幅にも繋がる。悪事を積極的にしていた頃は、毎日のように友人と酒盛りをしていた気もする。
「だから今日は、奮発しちゃうハッピー日よ」
「私はショック日」
物憂げな僧の声は気になるが、聞こえなかったことにした。
「一応聞くが、さっきの金銭は関係ないだろうな」
私のふざけ半分の質問に、妖精はとんでもない、と首を振る。
「まさか。妖精社会は忙しいから人間なんかに構ってる余裕はないのよん」
意味不明な理論で胸を張り、サワーを流し込む妖精。まあ、妖精ならこれぐらい無根拠で明るいほうが健全なのかもしれない。
遠くから鳥の羽ばたく音がしたので目線を走らせてみると、一羽の烏がカウンターの向こう側、女将の方に留まっているのが見えた。脚には伝書鳩のように何か紙が結ばれている。配達なのか予約なのか、ミスティアはそれを広げて中身を確認している。
「嬉しそうに奮発するから、記念日か何かかと思ったわ」
反対側に座る尼の声だった。
そちらへ目線を戻すと、幾ばくか気分は立て直したのか、悪絡みにならないよう距離感を図りながらも明るく妖精へ言葉をかけていた。
やはりこの僧、かなり呑み慣れている。
「記念日かあ。祭日くらいしか覚えてないなあ」
「分かる。年始と彼岸くらいだわ」
私の相槌に妖精はうんうんと頷き、何やら指折り勘定をし始める。
「言われてみれば友達結成日も覚えてないなあ。気がついたら一緒にいたし」
「金星取った日とかは?」
「ぜんぜん。気分は良いけど思い返してても前に進まないもの」
「誕生日とか」
「誕生日なんて、私にすれば毎日誕生日みたいなもんよ」
会話の中で出てきた言葉に思わず背景を想像し、一人でクスリと笑ってしまう。
「それって三百回以上休みになったことがあるっていう、妖精ジョーク?」
サニーはぱちぱちと瞬きをして考えてから、意図を理解してにこりと笑った。
「いいねそれ、今度どっかで使おう」
それからサワーを口に運び、喉を潤してから言葉を続ける。
「でも実際は、いつ起きたのか覚えてらんないっていうのがあるんだけどね。皆が言う記念日も、毎日ハッピーにしてれば関係ないし」
ふと目線を正面に戻すと、ミスティアはオーダーの内容か何かを考えながら串に身を通していた。
白く透き通った野菜。それに連なった豚肉のメニュー。
見ているうちに口寂しさを感じ、たまらず葱と豚の串を注文し、一緒に焼いてもらうことにする。
「妖怪って一回休みとかないんでしょ。そういう日、覚えてるの?」
妖精は手元のグラスを揺らして氷を鳴らしながら、左右を見る。
私と命蓮寺の僧は顔を見合わせ、私の方が先に答える。
「全然、覚えてない」
「私はちゃんと覚えてる」
続いた彼女の言葉に、妖精と二人して驚いてしまう。さらに「周りの子のも覚えてるわよ」というものだから、もう一度感嘆の声を上げる。
「適当言ってて、時たま誕生日変わる妖怪いない?」
「いるけど、都度更新してる」
三度目の感嘆の声は、グラスに唇を付けていたためにくぐもったものになった。
「適当でも、その日に記念日を持ってたいってことでしょう? ならこちらもちゃんと、祝ってあげたいのよ」
律儀というか、なんというか。
僧が皆こうなのか、彼女の特徴なのかは、分からない。
視界に動きが少ないので意識をやると、視線の間に座る妖精がなにやら考えている。先の言葉に、何か意見があるのだろうか。
赤い頬をした横顔を眺めていると、グラスを置いて膝に手を揃える。
「ねえねえ、あたし疑問に思ってたんだけどさ」
サニーは一言前置いてから、両隣に座る私達に交互に顔を向けた。
「誕生日って、そんな特別に祝わなきゃいけないものなの?」
○ ● ● ● 雲山の俯瞰
サニーという妖精の言葉に、視線が集まる。
その様子は悪意やいびりの含みはなく、子供特有の純粋な疑問、といった風だ。
「別に、誕生日しか祝っちゃいけないわけじゃないでしょう。気が向いた時に、好きに祝えばいいじゃん」
「成る程、妖精にしては深い言葉だ」
僅かな静寂の後、納得の言葉を漏らしたのは女妖怪の方だった。
眼下の我が友は予想外の言葉に少し狼狽えたのか、指で宙をなぞりながら「しかし、しかしだな」言葉を探す。
無理して言葉を繋ぐ理由もないと思うのだが、大人とは気難しいものよな。
それとも傷心の乙女心からだろうか。
「その通りであれば、特別性がないじゃない」
「特別性」
鸚鵡返しにしたのは女妖怪の方だ。
「そう。年に一度、確実に訪れるその人の日。この日は私が主役っていうのが保証されてるのは、価値があると思わない?」
妖怪も妖精も、完全な同意は示さなかった。両者で一度顔を見合わせてからこちらに向き直る。
「日単位でもらってもなあ。人間ならまだしも、私らの尺度で言ったら刹那じゃない、刹那」
「あ、良いこと考えた。月単位で主役貰っちゃいなよ。今の三十倍よ」
「そんな厚かましいこと、できないわ!」
「かああ。人間の目を気にしなくちゃいけない派閥は厄介だねえ」
女妖怪が大袈裟に頭を振る。
それに怯まず、刹那は大前提として、と我が友が言葉を紡ぐ。
「誕生日って、周りが声をかけて、普段話さない人とも交流するじゃない?」
「微妙」
「え、そこから違うの?」
妖怪からの予想外の相槌に、我が友は素っ頓狂な声を上げながら箸を起き、手を挙げて二人の注目を集める。
「え待って待って、周りの誕生日祝う人、手挙げて」
視線の先の妖精と妖怪はこちらの方を眺めたまま、手を挙げない。
「ほんとに?」
背後に漂う儂は当然祝う派と思われているのか、あるいは失念されたのか。振り返って確認もしてくれない様子は、まるで蚊帳の外である。
少し物寂しい。
「じゃあ何、人の誕生日、祝わないってわけ?」
身を乗り出して怪訝そうに訊ねられた言葉に、女妖怪はしばし考えてから、はっきりとした言葉を発する。
「私は、祝わない派だな」
自然と妖怪に目線が集まる。
彼女は視線の中グラスを傾けて唇を潤し、カウンターに肘を着いて語る。
「妖怪の中には生まれに後ろめたさや後悔を持つ輩だって少なくない。種族も違えば、尚更だ。下手に地雷踏んだり嫌な思いさせてもつまんないだろう。特に最近の妖怪は体裁を気にしてか意志薄弱か、無理して笑って受け取っちゃう奴も居る。だから私は無闇に祝わわず普段通り、だな」
それから目線に含まれる意図に気が付いたのか、「流石に友達に祝ってと言われればちゃんと考えるさ」と補足した。
「じゃあ、自分のはどうなの?」
我が友の言葉に、腕を組み直しながら答える。
「うーん、誕生月も気にしてないなあ」
「それじゃ年齢不詳じゃない!」
「それで困ることがあるかい?」
彼女は屁理屈を言う様子はなく、既に固まった自分の思想を語っているようだ。言われた方はといえば、続く言葉に詰まってしまっていた。
半ば悟りきってすらいる表情で、女妖怪は手を広げてみせる。
「何歳だ何十周年だと気にするのは、人間か若造くらいなもんよ」
確かに妖怪の言うことにも一理ある。
命蓮寺に集まった妖怪の中には出生がはっきりしている者もいれば、ふとした時に自意識が芽生えていた妖怪も居る。そうした集団の中で全てを祝ってかかるか、全て祝わない方に揃えるのか。彼女たち二者の違いはそこなのだろう。
聞く側に回っていた妖精が沈黙をこらえきれなくなったのか、手を挙げて宣言する。
「はい! 私は毎日ハッピーにしてれば関係ないと思うので特に改めては祝いません!」
「そうね、さっき聞いた」
思考中らしい我が友は妖精の声を軽く流し、唇を尖らせて顎を上げる。
意見の逆転は諦めたが納得はしていない、といった様子だった。
「私少数派なの? 女将さんどっち派?」
声をかけられた店主の方はといえば配達用か保存用の串を焼いている最中であまりこちらの話を聞いていないようだった。
手元のパックに串を移しながら、一拍遅れて何の話かと確認を取る。
「誕生日を覚えてるかってのと、祝うべきかって」
女妖怪からの補足を受け、彼女少し視線を持ち上げて考える。
「私は、誕生日決まってるなら覚えててあげたいかなあ。自分のは後からキリ良く決めちゃったタイプだけど」
我が友が拳を高々と上げ、妖怪が軽く拍手してみせる。
「話題になるからじゃないけど、ちゃんとお祝いはしてあげたいからね。ただ、近くなったら念の為言っといてほしいかな。ノートとか取らないと分かんなくなっちゃうかも」
「じゃあ近くなったら女将さんとこに宣言しに来よう」と機嫌を戻した声に続いて「得できるっていうんならピンチの時にしようかな」「私の毎日制度はだめかな」と便乗する声が上がる。
お主らは違うであろうに。
一方眼下の我が友は少し安心したのか、記憶を辿るように冷静な声を出す。
「そうね、話題のきっかけか。そういうのもいいかも。顔馴染みが多くて忘れちゃってけど」
それから指先で遊ばせていた御猪口を傾けると、少し姿勢を崩してだらしなく猫背になった。
「でもやっぱり理想は、言わなくてもやってくれる間柄が良いと思うのよね。毎回約束とかせずとも、長い付き合いなら特にさ」
「なーんか、やけに具体的だね」
愚痴の吐くような言葉に、端の席から訝しむような声が続く。
それから僅かして。よく通る女妖怪の声がこちらへ飛んできた。
「もしかしてお姉さん、誕生日忘れられたりしたん?」
その一言に、眼下の後頭部の揺れがぴたりと止まった。
丸めた背中で表情は伺えないが、か細く否定してみせようと「いや」であるとか「別に」といった切れ切れの言葉がこぼれ落ちては消える。
しばしの間、網で鰻の焼かれる音だけが暖簾の内側に響く。
語るまでもないと判断されたのか、女妖怪は酔いの回った声で大笑いする。片や妖精は同情ではなく本心からの明るい声で「そんな時期もあるってー!」と肩に手を置く。
「別に周りに祝ってもらえなくても、自分で祝えば良いじゃん」
妖精は単純ながら、寺に無かった新しい目線で言葉をかける。
「蜘蛛のお姉さんよりましよ、最低限、自分は覚えてるじゃない」
「うう、私今妖精に慰められてる……」
「ハッピーバースデー、トゥーミーって」
「沈みそうな歌だなあ」「惨めさに泣きそう」と言葉が続き、酒の席の話題は混沌と化す。
「じゃあじゃあ、末尾を変えて、ハッピバースデーマイセルフ」
「語呂が悪い」「より物悲しい」との声が飛び交う。
「じゃあユアセルフ」
誰から誰へだ。私から私へだ。等盛り上がりを見せているが、議論が集約する気配は何処にも見あたらない。
「こんな気持ちになるならいっそ、誕生日を大々的に祝うことを禁止する。それが平等なんじゃないかしら」
とうとう、本末転倒ではないか。
○ ● ● ● ミスティア・ローレライの転換
客席が盛り上がっている音を聞きながら、鼻歌交じりに手を動かす。
後で引き取りに来る客の串を分けていると、背後から声をかけられる。
「まいど」
聞こえた声に振り向くと、業者の一人、藤原妹紅が屋台の裏手にやってきていた。
後ろに流した長い髪に、動きやすいシャツの軽装。加えて業者としてやってくる際はお決まりの、木製の籠を下げていた。
「ああどうも。炭、持ってきてくれたの?」
「客だったら暖簾くぐってるよ」
おや。
普段の口調でひょいひょいと歩み寄る妹紅だが、今日はどこか印象が異なる。
程なくして、荷物が一つ多いことに気がついた。普段は炭を運ぶ籠を斜めに掛けているだけなのだが、今日は反対側の肩からも白い荷物を下げている。それぞれが妹紅に襷のようにぶら下がり、体の正面にバッテン印を作る。
「どうしたのその白いの」
片方は妹紅特製の炭がカラカラ音を立てているとはいえ、白い箱の方は十分に質量がありそうだ。
足取りがふらつくような重さではないようだが、膝の曲げ方と、重心の位置からそれが推測される。
「“あいすぼっくす”って保冷箱。まあ、ちょっとね」
妹紅は言葉を濁しながら歩み寄り、客の注意を惹かないためか、私の背後側に立った。
とにかく、彼女が炭を持ってきてくれたことに変わりはない。
「お代はその棚の上、そこから持って行っちゃって」
手元が離せないために、傍らの食器棚に乗った瓶を目線で示す。瓶の中には売上と釣銭用に小銭が詰められ、ここ最近は小銭の処理を億劫に感じる有様だった。
妹紅が「ん」と了解の声を出すと、売上が詰まった瓶を開けにかかる。手汗で滑ったのか、服の裾で一度手の平を拭って蓋を掴み直した。
「大将、サワーと焼き鳥おかわり!」
「大将でも鳥でもないって言ってるでしょうが」
客席からの声に顔を上げる。帰って来たジョッキに対して、気持ち適当に、酒を作る。
そうこうしているうちに妹紅が会計を終えたようだ。片手にお金を見せながら、私の足元に籠を置いた。
彼女の手が握り込まれ、小銭の部分がじゃらりと音を立てた。
「こっちが回収用?」
妹紅は一つ確認してから、隣にあった灰用の籠を手に取る。炭の販売と同時に妹紅が灰の回収も行ってくれるため、私は未だに、正しい灰の処理の仕方を覚えていない。
「いつも悪いね」
「なあに、込みの代金いただいてますから」
手が空いたところで傍らを見ると、既に妹紅が屋台の外に灰を運び出しているところだった。
底に敷いてあった新聞紙の隙間から灰が溢れ、足元に僅かな跡を残す。
背後では燃料を再充填した妖精を中心に、順に各々の意見を語り合う場が出来上がりつつあった。
妹紅は私の手が空いたのを確認する。それから服の隙間に突っ込んであった小道具を、指で回して遊んでから私に差し出した。
「それと、“着火さん”。そろそろ限界の時期だろう」
「わあ、ちょうどつかなくなった時だったのよ。ありがとう」
ほらほら。と。妹紅に現状を示すように現行の着火さんを手に取り、指に力を入れる。
私の流れではそこでカチカチと不発を知らせる音が鳴るはずだったのだが、意外にも、着火さんは一回目で煌々と灯を点した。
気まずくはないが、眉根はぐいと寄る。この、気まぐれなやつめ。
「ま、限界が近いのは違いない」
妹紅は肩を竦めてから、取っておけと言うように手を振った。
「便利になったよねえ。手軽に火がつけられるようになって、保冷も楽になって」
「火がつけられるのは、妹紅も同じでしょう」
それこそ着火さんのように、指先で炎を踊らせる様を見たことがある。この炭も、妹紅が楽に火を使えるから量産しているのだろう。
便利だから教えてよう。
私がねだると、妹紅は呆れるような、返事に困ったような顔をした。
「お前、本当に妖怪だよな」
真っ向から投げ掛けるには、あんまりな言葉だ。
私が頬を膨らませて返事の代わりにすると、妹紅は頭を掻いて息を一つ吐き、話を変える。
「あと今日は、これ」
肩に掛けていたもう一つの荷物。白いプラスチックの箱をどかりと下ろし、片手で指して言葉を止める。
迷ったように宙を手でなぞった後、もう一度だけ頭を掻いた。
「それ、猪の肉。獲れたから、後で食いな」
なんと。
手元で作業をしながら、喜びから目が輝く。
夜雀の身分では、狩るのにも一苦労する代物だ。
私が素直に礼を言うと、妹紅は満更でもなさそうな顔をして表の客席へ向かい始める。
私の頭の中では客席の話題はすっかり抜け落ち、猪肉の風味と味付けに占領されていた。
「じゃあじゃあ、早速火にかけちゃおうね」
すると妹紅が立ち止まり、切り返すように言葉を挟んだ。
「忙しいだろ。ゆっくり、自分で食べな」
「でもせっかく取ってくれたのに」
「いや、いい。今日は鰻を食べに来たんだ」
強くはないがはっきりと言われ、反射的に「あらそう」と口にする。
口が猪肉でないのならば、しょうがない。別に落胆の念にまみれた「あらそう」ではない。
紅妹がぐるりと屋台を回り込み、角席に座る。防犯のためか、灰の籠は隣の入道使いとの間ではなく、一番外側に置いた。
「升酒と鰻の方、頂戴」
「あいあい、了解」
妹紅が肘を着いて待つ間、先の三人が議論を続けつつも声量を絞り始めたのが少し可笑しかった。
● ● ● ● 藤原妹紅の意見
今日は楽しく盛り上がっているな、というのが第一印象だった。
空いていた端の席に座った私の隣から順に、僧と入道、妖精、妖怪と並んでいる。明るい妖怪で騒がしいのは普段のことだが、この屋台はこれほどまでに多様な交流の場だっただろうか。
隣の集団は私が着いたからだろうか、少し音量を下げ、何やら議論に花を咲かせているようだった。
盗み聞きする気はなかったが環境によるだとか、祝福する気があるなら根は優しいだとかが聞こえてきた。なんだろうな、僧も居るし道徳でも説いているのだろうか。
カウンターの内側、時計の隣にかけられた日めくりカレンダーを眺めながら升酒を舐めていると、程なくして数本の串焼きが出てきた。
「ほいおまち」
酒で熱くなった喉と口内に意識を向け、頬の内側を舌で撫でてみる。高揚する気持ちからやはり間違いなく鰻の気分だったようで、目の前の好物に思わず唾を飲み込んだ。
いただきます。
手を合わせてから利き手を汚さないように串を持ち、身に食らいつく。
脂が垂れないように皿の上に顔を出していると、隣の客に出された枝豆のざるが横を通り過ぎる。
何となく動くものを目で追った拍子に、隣の客と目が合った。
彼女はすぐに他の客との話に戻ったが、逡巡した後、思い直したようにこちらに顔を向けた。
「ごめんね、別に絡むわけじゃはなくて、あたしらのどれかに一票を入れてほしいんだけどさ」
喉の奥で適当に発声し、返答に替える。
狭い屋台だ。顔見知りでない者に話しかけられるのもさほど驚くことではない。
「誕生日って、祝うべきだと思う?」
うん?
予想よりも話の背景が読めなかった。
ちらりと女の後ろに目をやれば、妖精と妖怪も会話を止めてこちらに目線を向けている。私が何と言うのか気にしている様子だが、こちらとしては、目が潤んだのか、顔を擦ったのか。手前の女の化粧が気になる。
長い説明が始まる気配がしたため、経緯を辿る気にはならなかった。問に対して一瞬だけ考え、ぱっと纏まった答えを口に出す。
「別に、普段通りでいいんじゃないか。誕生日なんて、年が経つにつれてやがて意味が薄れてくものだろう」
発してから、少しばかり後悔をした。水を差すようなことを言ってしまっただろうか。
人の目を警戒するように、半身に気を向ける。しかし、そんな私の不安をよそに三者は「それ見たことか」「やはり私の説法は受け入れられないのか」「いいや普段から祝う気持ちなら私と同意見だ」などと更なる盛り上がりを迎えている。
外れた視界の外で、一人考える。
記憶に結びついた記念日は、必ず風化していく。概ね時間と正比例に。
人間同士ならまだしも、成熟した妖怪や私のような立場にとっては誕生日も「そんなこともあったね」程度の事だ。
だとしても。
「それでも誰かに祝ってもらうに越したことはないと思うけどさ」
長い千年間。自分の手元を他者と比較して、他人の人生に嫉妬したり、逆に蔑んで過ごした時期もあった。
その物差しとなる曖昧な幸福感という言葉は貨幣と違って形がなく、他者から奪うことが出来ず、減らすことしか出来なかった。逆に、自らの持ち分を減らさずに増やしてやることはできた。
幸福の絶対量が多くて困ることは、絶対にない。
三者の中間点を探そうとして、妥協のような言葉が漏れる。残念ながら宥めるために発した筈の言葉は声量が足りず、皆の耳には届かなかったようだ。
不思議と不満の念は湧き上がらない。
誰が聞いていなくても構わない。千年かけて腑に落ちた、私なりの幸福論だ。改めて口に出してみても、間違っているとは思えなかった。
自分の思考を整理しながら、片手で持った升を傾ける。それから何気なく照明へ目線を動かすと、煙の向こうの女将と目が合った。
彼女は私の発言が聞こえていたのか、そうでないのか。
きょとんとした顔で、ただこちらを眺めている。
● ○ ○ ○ ミスティア・ローレライの閉店
先程まで会話の場だった席が空いていき、人が散って行く。片付ける際は、やはり少しだけもの寂しい。
土蜘蛛はこれから地底で宴会があるらしく、そちらに向かうべく適当なところで出ていった。妖精は昼の充電が尽きたのか、子供のように目を擦り、眠たそうに出ていった。
入道使いは最後まで妹紅に語りを尽くしていたが、やがて肘を着き舟を漕ぎ始め、財布を抱えて突っ伏してしまった。後ろの雲妖怪も形が曖昧になりこくりこくりと揺れる様。閉店間際にどうしたものかと思っていたところ、寺の者だという鼠妖怪が現れ、彼女達を回収して帰っていった。
「ありがとうございましたあ」
小さな体躯を感じさせない、慣れた様子で肩を支える背中を見送り、なんとなくいつもの見送りの言葉をかける。
「さて」
暖簾を戻り、布巾を絞って静かになった店内を見渡す。
伝書烏の後にやってきた妖怪に持ち帰りの品は渡したし。残っている仕事はなかったはず。
角の席に一人残った妹紅は壁の時計を眺めながら、僧の残したつまを頂いていた。
彼女は私が見送りを終えたことに気が付くと、箸を置き、升を一気に傾けた。
「もう店じまいかい」
「ちょっと、近々仕込みの予定があってね」
妹紅は「そうかい」とだけ答えて席を立ち、ポケットに手を突っ込む。
それから探るように目線を動かした後、無造作に取り出した紙幣と小銭を卓上に置いた。
「ごちそうさま。今日は夜ふかししないで寝ろよ」
夜雀に何言ってんのさ。暖簾を下ろし、振り返りながら言った言葉は背中を丸めた妹紅を掠める。
片手に灰の詰まった籠を持ち、背を戻しながら立ち上がる。
「その持ち上げ方、腰痛めるぞう」
「体が弱くなる一方の妖怪は辛いねえ」
妹紅にその話題はまずかったか。
僅かに後悔したが、声色は機嫌が良い時のものだった。むしろ妹紅の方が一瞬固まってから振り返り「あー悪い、嫌な言い方だったな」と普段のさっぱりした笑顔を見せた。
「それじゃ、またね」
新月に照らされた彼女の背中を見送り、今度こそ全ての皿を引き上げる。
カウンターを拭った後の布巾を絞りながら顔を動かすと、ふと視界の隅のカレンダーが目に留まる。
じっと眺めて、違和感の正体に気がついた。
日付と一緒に記載されている月齢予報が新月を示していない。どうやら日めくりを忘れてしまっていたらしい。
無造作に破り捨てるのは纏めて千切れる原因となるため、水分を切った指先でカレンダーを押さえ、ゆっくりびりびりと引き剥がす。
おや?
新月の記載を目指して2枚ほど紙を剥がすと、赤インクで記された手書きの丸が見えた。
水無月初日の日付に、丸が付いている。
これは私が付けた丸印だ。自分のために定めた、キリの良い日付の、後決め誕生日。
紙の中心、丸印と共に記載された数字から少し目線を動かす。
隅の月予報は、間違いなく新月を示していた。
少し記憶を遡る。
今日ヤマメが参加を話していたのは、確か新月会ではなかったか。ならば、カレンダーのこの用紙が、今日の用紙ということになる。赤い丸が付いているのも、今この日。
すると、芋づる式に結論が出る。
「私の誕生日、今日だったわ」
紙の前で首をかしげて、誰にともなく報告してみる。それから瞬きを数度して、一人で可笑しくなって吹き出した。
以前から紙に印まで付けて、あんな回答をしておいて。実際は日付を間違えるほどに曖昧ではないか。
嗚呼、可笑しい。
これは当分の話題ができてしまった。
頬を緩ませながら机に布巾を走らせていると、視界の端に映ったものに意識を吸われ、手を止めた。
カウンター下に置かれ、誰かに開けられるのを待つクーラーボックス。中身はたまたま取れたという、猪の肉。
もしかするならば。
指先に油が付いていないことをよく確認してから、そっと蓋を開けてみる。中から溢れた冷気が手のひらを撫でる。
水とは違う、氷特有のにおい。
それに包まれていたのは白目を剥いた猪でもなく、ぶつ切りにされた毛皮付きでもなく。画に描いたように切り揃えられた、厚みのある、僅かに脂の乗った肉だった。
少し考えた後、予定を変更することにした。一人用の網を暖めながら、彼女の手間に鼻息を吐く。
「急に獲れた猪を、こんな綺麗に捌くわけないじゃない」
素直じゃないんだから、かわいいところもあるじゃない。そう言ったなら、また肩を小突かれるだろうか。
不意にやってきた誕生日に、鼻唄がこぼれた。
ハッピーバースデー・トゥー・ミー。
夕暮れの中で明かりが灯る。
ぱちぱちという炭の音。鼻孔をくすぐる肉の焼ける匂い。
それから眼球に刺激を加える僅かな煙。
ざり。
その中から聞こえた足音に、隠れる必要はないのだが、こっそりと意識を向ける。
立地柄、妖怪の足音であろうそれが、こちらを向いているのか、行き過ぎるのか。続く次の音を待つ。
焦らされるような、募る期待感はじりじりと積もり、暖簾の下に靴が見えたところで、とある確信に変わる。
この人はお客だ。
私はこの瞬間が好きだ。確かに高揚する気持ちと、それを連れてきたお客に感謝を込めて、手が分け入って来た瞬間に私は声をかけてやる。
いらっしゃい。
○ ● ○ ○ ミスティア・ローレライの常連
先客用の身に串を通していると、ひとりぶんの土をにじる音が聞こえた。
目線を下ろせば、下駄の類いではない、ブーツの履物が見えた。様相からして女性であろう。
見当をつけていると、暖簾を捲る細い手が伸びてきた。
「どうも。やってる?」
先客に串焼きを出してそちらを見ると、常連の土蜘蛛妖怪の顔が覗いていた。
日が落ちて、人間の時間から妖怪の時間となる頃。まだ月は昇っていないが、彼女は確かにいきいきとしてきたのか、快活な笑顔のまま自分の座る席があるかを確認する。
手元の串を返しながら、適当な挨拶を考える。
「どうも。ちゃんとやってるよ」
それから先約は無く、空き席は自由だと回答してやる。
しめたという風に破顔した彼女は指先で襟を広げて、ぱたぱたと扇ぎながら入ってきた。
皐月の末となる今日この頃は、雨は降らず湿気もそう多くない。それでも地面は昼間の日光を蓄え、今現在、日の落ちた時刻でも生ぬるさを感じさせる。
馴染みの彼女は暑さのためか、普段よりも多くの髪を結わえ上げている。半袖に黒いベスト姿の格好だが、裾の広がったスカートは普段のままだ。
「よいしょと」
それでも彼女は器用に手で裾を纏めて、四つある丸椅子に座り込む。
先客から一つ空け、角席に当たる位置だ。
彼女は湿気に気取られたのか一度ポケットを触り、諦めたような顔してから、指先で首元の汗を拭った。
「今日はお一人?」
普段は私の知っている妖怪や知らぬ妖怪と来ることが多い彼女だが、今日は後に誰も続かない。
「そうそう。この後新月会があるんだけど、一人じゃすることなくてね。ああっと、ヤツメの方で」
私は注文を聞きながら、カウンターの下に並んだ瓶から『黒谷ヤマメ』の名が入ったものを手繰り寄せる。三分の一くらい中身の入ったそれを持ち上げて、正面にいる客の前に、グラスと一緒に置いてやる。
「八ツ目鰻ね。ちょい待ち」
「あ、あと味噌漬けがいいなあ」
「はいはい」
おおよそ普段通りの注文だったので、手早く用意してやろうと背後のスペースへ身を向ける。ふと目線を正面に戻すと、壁に留めた日めくりカレンダーと目が合った。
人里製のそれは真ん中に大きく日付を示し、少し小さく月と曜日を示しているタイプのものだ。外来品か内製品かは分からないが、私達妖怪にとっては日付や曜日よりも、隅に小さく記載された月齢の方が感覚の当てになる。
私が皿をひと拭いしていると、背後の客席からなぜか来客を喜ぶ声が聞こえた。
「いらっしゃいませえ」
続けてヤマメの唸るような「うおう」という声が聞こえる。
当然、ヤマメに声をかけたその人は店員ではない。小さな屋台なのだから、業者は居れど店員は私一人だ。
振り返れば、ヤマメは出てくる味噌漬けに意識を向けつつも、隣から聞こえてきた声に柔軟に応対している。
「お姉さん、やってるね」
ヤマメはよそ見をしながら器用に酒を注いで、先客の方へ体を向ける。右肘を着く格好になって、私が出したつまみも横向きのまま、左手で箸を伸ばす。
味噌漬けを一口噛み始めてから、ヤマメは思い出したかのように酒と摘みに向き直り、手早く「いただきます」と発声した。
「なんだか今日は楽しそうね」
体を向けたついでに、ヤマメがこちらに向かって小さく発する。
自然と私が目線を送った先客の彼女は、既にそこそこの時間を店で過ごしていた。
彼女の前に置かれた徳利は、ほぼほぼ空になっているだろう。並んだ二つの御猪口に傾けられた時、注文を聞いてやるのが丁度いいか。
彼女が一人飲みで時間を消費していたのかといえば、そうではない。
入道使いと名乗る彼女は背後に重量感のある雲を漂わせて入店し、酒と御猪口二つを要求した。私が不思議に思っていると、自分の背後に滞留させた入道が髭を蓄えた男性の顔を形作り、お供か友人であるらしいその入道と飲み進め、あれよあれよという間に双方とも赤くなっていった。
何やら今日は酒の進む要因があったらしく、二人の酒気は十分に高まっており、今や店員の真似事、さらにはその反省会を始める気性となっていた。
「だめだめ、聞こえないよ雲山。もっと元気よく」
女は発声練習の講師のように、自らの背後に漂う入道に指を立てる。
続くのは、低い唸り声。
雲山と呼ばれた入道は腕組みをする男性を形作り、困ったような間を開けた。
自然と私たちの目線を集めることになった入道は、やがて決心したような胸の膨らみの後、小さく大気を揺らす。
ぱちぱちと。
重なるように炭が立てた音と煙に阻まれて、残念ながら私に声は聞こえなかった。
「よし雲山頑張った! 女将、こっち八ツ目鰻」
笑顔の後、開いた手をこちらに向ける彼女。背後では酒だけではなく、赤面の進んだ入道が御猪口を傾ける。
私は少しだけ納得しないまま、串に通したものを焼き始める。
「旦那も頑張ったねえ、ごくろうさん」
ヤマメが調子を合わせ、グラスを雲山とやらに向けて掲げる。
ぐいと喉を通した後、蒲焼きがまだ来ていない事を思い出したのか。箸で器用にすくい上げて、胡瓜を二枚まとめて口に運ぶ。
ぼりぼりと塩気を補充しながら、ヤマメは一つ空けて座る客の姿を眺める。
「ていうかその手……格好もそうだけど、もしかしてお姉さんって尼さん?」
ヤマメはグラスを持つ手の人差し指で逆の手首を指し、彼女がかけている数珠のことを示す。問われた女の方と言えば、にんまりと満足げに笑い、頭の重みを感じさせるように、大きく一度頷いた。
「そうよ、由緒正しき命蓮寺よ」
誇張し虚偽を語るような顔色はない。
由緒正しい、の根拠は分からないが、妖怪の信者を増やしているらしい寺の名には私も聞き覚えがあった。
女は機嫌を良さそうに続ける。
「貴女妖怪でしょう? その気があるのならうちに来るといいわ」
「土蜘蛛でも、入信できるもんかい」
「種族は関係ないわ。精進と慈愛の心があれば、貴女もきっと」
そこで言葉を区切り、勧誘中とは思えない態度で、ぐいと酒を煽る。それからヤマメへ向き直ると後の言葉が面倒になったのか、「うん」とだけ頷いた。
「ははあ。“つて”ってのはこういうところで作るもんだね」
ヤマメの方はといえば、言質を得たという顔してニヤリとした目線をこちらへ向ける。
その様子からヤマメの修行僧姿を想像しようとして、早期に諦める。
そういえば以前、ヤマメはどこぞの宗教に入信を企てたと言っていた。結局のところ、教えに関心を覚えたわけでもないため門前払いを食らったというのが話の落ちなのだが、それが命蓮寺だったのか、私は知らないままだ。
「ただ、結局ヤマメには合わないかもね。酒や肉は禁止が基本らしいし」
「え、宗教ってそういうものなの。楽しくなさそう」
彼女は不満げに声を上げ、酒を飲む。楽しくないという感想の時点で、宗教は向いていない気もするが。
手元の鰻をひっくり返す。
「んん、酒が駄目なの? じゃあさ」
ヤマメは浮かんだ疑問を直接訊ねようとして憚られたのか。言葉を止め、隣の女の顔をまじまじと見つめる。
疑問の内容は分かる。
今まさに酒気に赤らんでいる彼女は違うのかと。
私が補足するより先に、女がこちらに向き直った。
直前まで煮物をほぐしていた彼女はちょうど覚醒したらしく、温度差はあるが、ヤマメの疑問に直接回答してくれるようだ。
「姐さんが間違ってる!」
「んお?」
「姐さんは型に嵌まりすぎてる。昔は欲だ不浄だと片端から絶って美徳としても、酒は今の妖怪にとっては素直になる立派な手段の一つなの」
「おお、おう」
膝に手を置き話し始めた僧の様子に気圧されたのか。思わずヤマメが向き直る。
チラとこちらに目線を投げられたが、鰻の付け合せのために視線を逸らした。
「無くても分かり合えるのは素晴らしいでしょうね。それでも今は、理に理に適った行為なの。いたずらに過去に捕らわれて絶ち続けるべきとは思えないの」
「思えないのか」
「そう。教えは大事にしたまま、時代と共に、絶えず変化すべきであると思うわ」
「なるほどね」
相槌を打って、ヤマメは瓶を持つ。試しにという顔色で、彼女の前でグラスに酒を注いで口へ運ぶ。
それを見てから、女は徳利から酒を注ぎ、そのまま空にする。
あまりに自然な様子にヤマメは少し驚いたようだった。
「なんというか、面白いお客さんだね」
私にむけた言葉に黙って頷きつつ、徳利を回収しに向かう。
女は人差し指を立てて要求を示しつつ、ヤマメの質問への回答準備をする。
「食肉は?」
「酒の席は別よ、美味しく頂かれるなら本望でしょう」
呆気からんと答える様子に、ヤマメは再び驚いたようだった。前髪のかからない部分から、眉が動いたのが見える。
「そっか、そうかい」
「それだけじゃない。姐さんは気づいてないの」
ヤマメがグラスを置きに向き直るのと、彼女が話し始めるのはほぼ同時だった。
端から見れば、間が悪い。
「いや姐さんだけじゃない。みんな気が付かないの。なんてったって、私にとって大事な」
女が肘を着いて少し項垂れた後、再びヤマメへ向き直る気配を見せたところで。
「ほい八ツ目鰻」
焼き上がったもの二皿、それぞれの前に出してやる。
二人とも自分の注文と確認するような間の後、席へ向き直り串を掴んだ。
果たしてこれは、間が悪い行動だろうか。
が、仕方ない。ヤマメが腹を空かせているし、私だってこの話は三回目だ。一回くらい逸してもみたくなる。
考えていると、新たな足音が暖簾の向こうに現れた。
片手間に、意識をそちらへ向ける。
○ ● ○ ● 黒谷ヤマメの意見
氷の入ったグラスを傾けながら、隣の尼の背景を想像する。不満を垂れるわりに寺を出ないのには、何か退っ引きならない理由がありそうだ。
次に話を振られたとき掘るべきか掘らないべきか。頭の片隅で考えながら身を咀嚼していると、ミスティアの声が耳に届いた。
「いらっしゃい」
左に首を回すと、小さい手が暖簾の下の方を分け入るのが目に入った。
反射的に布越しに客の輪郭を思い描く。しかし、入ってきたその姿は予想より遥かに小さかった。顔に向けるつもりだった目線が一段落ちる。
白いフリルのワンピースに、肩まで伸ばした明るい栗色の髪。二つに縛られた髪は太陽を模した髪飾りで留めている。
体躯の小ささからして、妖精だ。
「こんちわーっす」
「あ、誰かと思ったら悪戯妖精じゃない」
にこにこした妖精の挨拶と対照に、ミスティアの顔が陰る。少し不満そうな声からして、常連ではなさそうだ。
妖精が気に止める様子はない。
「一人なら空いてる、よね。よいしょ」
足の間を通すように丸椅子を跨ぎ、服の裾を押さえながら前傾で座り込む。
そのまま両手を椅子について覗き込みながら、棚の奥に並んだ和洋揃った酒瓶に首を伸ばしている。
「どうしよっかなあ。じゃあ、レモンのお酒で」
高揚するように、二対の羽根が揺らいだ。
有色透明の薄い羽根。やはり、妖精だ。
「それはいいけど、あんた、お金あるの?」
ミスティアは言葉を選びながら冷静に確認する。人間の文化にあやかっている妖怪ならまだしも、妖精が現金を持ち合わせているのか。疑問に思うのはもっともだ。
それを聞いたオレンジ色の妖精は不安を一蹴するかのように笑ってみせ、懐から効果音付きで紙幣を取り出した。
失礼を承知で言えば、意外な行動だった。
「今日のサニーちゃんはひと味違うわよ!」
ミスティアに突きつけられたそれは、確かに現在人間の間で使用されている紙幣に見える。
紙幣に印刷された“弐”の文字を読んだのか、自らがはにかんだ擬音なのか。妖精は「にっ」と声に出して笑うとそこに紙幣を置き、自らの注文を繰り返した。
「さあさ、レモンなサワーと、ヤツメじゃない方で」
ううんと唸り。危うく照明にかざしそうになるまで、ミスティアは紙幣に細い目を向ける。
やがて使用可能であると判断したのか、はたまた出所が何処であろうと関係ないと判断したのか。目を瞑って息を吐くと、サニーという妖精に紙幣を返した。
「ま、払うお金があるならいいわ」
「当然。私は良識あるものね」
その会話を聞きながら私は念のため、ポケットの上から財布に触れた。
やがてサニーという妖精にアルコールが出され、ミスティアは手早く串を返し始める。
客席に僧と、妖精と、妖怪が並んだ。
「かんぱーい」
サニーが目の前にジョッキを持ち上げ、自分宛に音頭を発する。悪絡みする気はなかったが、何気なく、こちらもグラスを持ち上げて応える。
「乾杯」
「乾杯ね」
同程度の声量で、反対側からも声が聞こえた。
サニーは口元にジョッキを抱え、両隣をキョロキョロと見る。それから察したように笑い、もう一度「かんぱい」と発した。
私はそのまま口元に運んで、少し考え事をしてからグラスを置く。横を見れば、妖精は満足気な顔をして、既に喉を通し終わった後のようだった。
方や奥の女は御猪口を掲げて「もう一回行くかい」とでも言いたげな顔をしている。別に、煽り合いはしないぞ。
「妖精が飲み屋に顔出すなんて珍しいじゃないか。何か良いことあったかい」
片肘を付きながら投げかけた質問に、妖精は面倒臭そうな顔はしなかった。むしろ嬉々として、自分の出来事を話し始める。
「今日はイタズラ成功日よ」
ほお、祝杯は良い。
祝杯はその日の行動のひと区切りとなるし、成功体験の増幅にも繋がる。悪事を積極的にしていた頃は、毎日のように友人と酒盛りをしていた気もする。
「だから今日は、奮発しちゃうハッピー日よ」
「私はショック日」
物憂げな僧の声は気になるが、聞こえなかったことにした。
「一応聞くが、さっきの金銭は関係ないだろうな」
私のふざけ半分の質問に、妖精はとんでもない、と首を振る。
「まさか。妖精社会は忙しいから人間なんかに構ってる余裕はないのよん」
意味不明な理論で胸を張り、サワーを流し込む妖精。まあ、妖精ならこれぐらい無根拠で明るいほうが健全なのかもしれない。
遠くから鳥の羽ばたく音がしたので目線を走らせてみると、一羽の烏がカウンターの向こう側、女将の方に留まっているのが見えた。脚には伝書鳩のように何か紙が結ばれている。配達なのか予約なのか、ミスティアはそれを広げて中身を確認している。
「嬉しそうに奮発するから、記念日か何かかと思ったわ」
反対側に座る尼の声だった。
そちらへ目線を戻すと、幾ばくか気分は立て直したのか、悪絡みにならないよう距離感を図りながらも明るく妖精へ言葉をかけていた。
やはりこの僧、かなり呑み慣れている。
「記念日かあ。祭日くらいしか覚えてないなあ」
「分かる。年始と彼岸くらいだわ」
私の相槌に妖精はうんうんと頷き、何やら指折り勘定をし始める。
「言われてみれば友達結成日も覚えてないなあ。気がついたら一緒にいたし」
「金星取った日とかは?」
「ぜんぜん。気分は良いけど思い返してても前に進まないもの」
「誕生日とか」
「誕生日なんて、私にすれば毎日誕生日みたいなもんよ」
会話の中で出てきた言葉に思わず背景を想像し、一人でクスリと笑ってしまう。
「それって三百回以上休みになったことがあるっていう、妖精ジョーク?」
サニーはぱちぱちと瞬きをして考えてから、意図を理解してにこりと笑った。
「いいねそれ、今度どっかで使おう」
それからサワーを口に運び、喉を潤してから言葉を続ける。
「でも実際は、いつ起きたのか覚えてらんないっていうのがあるんだけどね。皆が言う記念日も、毎日ハッピーにしてれば関係ないし」
ふと目線を正面に戻すと、ミスティアはオーダーの内容か何かを考えながら串に身を通していた。
白く透き通った野菜。それに連なった豚肉のメニュー。
見ているうちに口寂しさを感じ、たまらず葱と豚の串を注文し、一緒に焼いてもらうことにする。
「妖怪って一回休みとかないんでしょ。そういう日、覚えてるの?」
妖精は手元のグラスを揺らして氷を鳴らしながら、左右を見る。
私と命蓮寺の僧は顔を見合わせ、私の方が先に答える。
「全然、覚えてない」
「私はちゃんと覚えてる」
続いた彼女の言葉に、妖精と二人して驚いてしまう。さらに「周りの子のも覚えてるわよ」というものだから、もう一度感嘆の声を上げる。
「適当言ってて、時たま誕生日変わる妖怪いない?」
「いるけど、都度更新してる」
三度目の感嘆の声は、グラスに唇を付けていたためにくぐもったものになった。
「適当でも、その日に記念日を持ってたいってことでしょう? ならこちらもちゃんと、祝ってあげたいのよ」
律儀というか、なんというか。
僧が皆こうなのか、彼女の特徴なのかは、分からない。
視界に動きが少ないので意識をやると、視線の間に座る妖精がなにやら考えている。先の言葉に、何か意見があるのだろうか。
赤い頬をした横顔を眺めていると、グラスを置いて膝に手を揃える。
「ねえねえ、あたし疑問に思ってたんだけどさ」
サニーは一言前置いてから、両隣に座る私達に交互に顔を向けた。
「誕生日って、そんな特別に祝わなきゃいけないものなの?」
○ ● ● ● 雲山の俯瞰
サニーという妖精の言葉に、視線が集まる。
その様子は悪意やいびりの含みはなく、子供特有の純粋な疑問、といった風だ。
「別に、誕生日しか祝っちゃいけないわけじゃないでしょう。気が向いた時に、好きに祝えばいいじゃん」
「成る程、妖精にしては深い言葉だ」
僅かな静寂の後、納得の言葉を漏らしたのは女妖怪の方だった。
眼下の我が友は予想外の言葉に少し狼狽えたのか、指で宙をなぞりながら「しかし、しかしだな」言葉を探す。
無理して言葉を繋ぐ理由もないと思うのだが、大人とは気難しいものよな。
それとも傷心の乙女心からだろうか。
「その通りであれば、特別性がないじゃない」
「特別性」
鸚鵡返しにしたのは女妖怪の方だ。
「そう。年に一度、確実に訪れるその人の日。この日は私が主役っていうのが保証されてるのは、価値があると思わない?」
妖怪も妖精も、完全な同意は示さなかった。両者で一度顔を見合わせてからこちらに向き直る。
「日単位でもらってもなあ。人間ならまだしも、私らの尺度で言ったら刹那じゃない、刹那」
「あ、良いこと考えた。月単位で主役貰っちゃいなよ。今の三十倍よ」
「そんな厚かましいこと、できないわ!」
「かああ。人間の目を気にしなくちゃいけない派閥は厄介だねえ」
女妖怪が大袈裟に頭を振る。
それに怯まず、刹那は大前提として、と我が友が言葉を紡ぐ。
「誕生日って、周りが声をかけて、普段話さない人とも交流するじゃない?」
「微妙」
「え、そこから違うの?」
妖怪からの予想外の相槌に、我が友は素っ頓狂な声を上げながら箸を起き、手を挙げて二人の注目を集める。
「え待って待って、周りの誕生日祝う人、手挙げて」
視線の先の妖精と妖怪はこちらの方を眺めたまま、手を挙げない。
「ほんとに?」
背後に漂う儂は当然祝う派と思われているのか、あるいは失念されたのか。振り返って確認もしてくれない様子は、まるで蚊帳の外である。
少し物寂しい。
「じゃあ何、人の誕生日、祝わないってわけ?」
身を乗り出して怪訝そうに訊ねられた言葉に、女妖怪はしばし考えてから、はっきりとした言葉を発する。
「私は、祝わない派だな」
自然と妖怪に目線が集まる。
彼女は視線の中グラスを傾けて唇を潤し、カウンターに肘を着いて語る。
「妖怪の中には生まれに後ろめたさや後悔を持つ輩だって少なくない。種族も違えば、尚更だ。下手に地雷踏んだり嫌な思いさせてもつまんないだろう。特に最近の妖怪は体裁を気にしてか意志薄弱か、無理して笑って受け取っちゃう奴も居る。だから私は無闇に祝わわず普段通り、だな」
それから目線に含まれる意図に気が付いたのか、「流石に友達に祝ってと言われればちゃんと考えるさ」と補足した。
「じゃあ、自分のはどうなの?」
我が友の言葉に、腕を組み直しながら答える。
「うーん、誕生月も気にしてないなあ」
「それじゃ年齢不詳じゃない!」
「それで困ることがあるかい?」
彼女は屁理屈を言う様子はなく、既に固まった自分の思想を語っているようだ。言われた方はといえば、続く言葉に詰まってしまっていた。
半ば悟りきってすらいる表情で、女妖怪は手を広げてみせる。
「何歳だ何十周年だと気にするのは、人間か若造くらいなもんよ」
確かに妖怪の言うことにも一理ある。
命蓮寺に集まった妖怪の中には出生がはっきりしている者もいれば、ふとした時に自意識が芽生えていた妖怪も居る。そうした集団の中で全てを祝ってかかるか、全て祝わない方に揃えるのか。彼女たち二者の違いはそこなのだろう。
聞く側に回っていた妖精が沈黙をこらえきれなくなったのか、手を挙げて宣言する。
「はい! 私は毎日ハッピーにしてれば関係ないと思うので特に改めては祝いません!」
「そうね、さっき聞いた」
思考中らしい我が友は妖精の声を軽く流し、唇を尖らせて顎を上げる。
意見の逆転は諦めたが納得はしていない、といった様子だった。
「私少数派なの? 女将さんどっち派?」
声をかけられた店主の方はといえば配達用か保存用の串を焼いている最中であまりこちらの話を聞いていないようだった。
手元のパックに串を移しながら、一拍遅れて何の話かと確認を取る。
「誕生日を覚えてるかってのと、祝うべきかって」
女妖怪からの補足を受け、彼女少し視線を持ち上げて考える。
「私は、誕生日決まってるなら覚えててあげたいかなあ。自分のは後からキリ良く決めちゃったタイプだけど」
我が友が拳を高々と上げ、妖怪が軽く拍手してみせる。
「話題になるからじゃないけど、ちゃんとお祝いはしてあげたいからね。ただ、近くなったら念の為言っといてほしいかな。ノートとか取らないと分かんなくなっちゃうかも」
「じゃあ近くなったら女将さんとこに宣言しに来よう」と機嫌を戻した声に続いて「得できるっていうんならピンチの時にしようかな」「私の毎日制度はだめかな」と便乗する声が上がる。
お主らは違うであろうに。
一方眼下の我が友は少し安心したのか、記憶を辿るように冷静な声を出す。
「そうね、話題のきっかけか。そういうのもいいかも。顔馴染みが多くて忘れちゃってけど」
それから指先で遊ばせていた御猪口を傾けると、少し姿勢を崩してだらしなく猫背になった。
「でもやっぱり理想は、言わなくてもやってくれる間柄が良いと思うのよね。毎回約束とかせずとも、長い付き合いなら特にさ」
「なーんか、やけに具体的だね」
愚痴の吐くような言葉に、端の席から訝しむような声が続く。
それから僅かして。よく通る女妖怪の声がこちらへ飛んできた。
「もしかしてお姉さん、誕生日忘れられたりしたん?」
その一言に、眼下の後頭部の揺れがぴたりと止まった。
丸めた背中で表情は伺えないが、か細く否定してみせようと「いや」であるとか「別に」といった切れ切れの言葉がこぼれ落ちては消える。
しばしの間、網で鰻の焼かれる音だけが暖簾の内側に響く。
語るまでもないと判断されたのか、女妖怪は酔いの回った声で大笑いする。片や妖精は同情ではなく本心からの明るい声で「そんな時期もあるってー!」と肩に手を置く。
「別に周りに祝ってもらえなくても、自分で祝えば良いじゃん」
妖精は単純ながら、寺に無かった新しい目線で言葉をかける。
「蜘蛛のお姉さんよりましよ、最低限、自分は覚えてるじゃない」
「うう、私今妖精に慰められてる……」
「ハッピーバースデー、トゥーミーって」
「沈みそうな歌だなあ」「惨めさに泣きそう」と言葉が続き、酒の席の話題は混沌と化す。
「じゃあじゃあ、末尾を変えて、ハッピバースデーマイセルフ」
「語呂が悪い」「より物悲しい」との声が飛び交う。
「じゃあユアセルフ」
誰から誰へだ。私から私へだ。等盛り上がりを見せているが、議論が集約する気配は何処にも見あたらない。
「こんな気持ちになるならいっそ、誕生日を大々的に祝うことを禁止する。それが平等なんじゃないかしら」
とうとう、本末転倒ではないか。
○ ● ● ● ミスティア・ローレライの転換
客席が盛り上がっている音を聞きながら、鼻歌交じりに手を動かす。
後で引き取りに来る客の串を分けていると、背後から声をかけられる。
「まいど」
聞こえた声に振り向くと、業者の一人、藤原妹紅が屋台の裏手にやってきていた。
後ろに流した長い髪に、動きやすいシャツの軽装。加えて業者としてやってくる際はお決まりの、木製の籠を下げていた。
「ああどうも。炭、持ってきてくれたの?」
「客だったら暖簾くぐってるよ」
おや。
普段の口調でひょいひょいと歩み寄る妹紅だが、今日はどこか印象が異なる。
程なくして、荷物が一つ多いことに気がついた。普段は炭を運ぶ籠を斜めに掛けているだけなのだが、今日は反対側の肩からも白い荷物を下げている。それぞれが妹紅に襷のようにぶら下がり、体の正面にバッテン印を作る。
「どうしたのその白いの」
片方は妹紅特製の炭がカラカラ音を立てているとはいえ、白い箱の方は十分に質量がありそうだ。
足取りがふらつくような重さではないようだが、膝の曲げ方と、重心の位置からそれが推測される。
「“あいすぼっくす”って保冷箱。まあ、ちょっとね」
妹紅は言葉を濁しながら歩み寄り、客の注意を惹かないためか、私の背後側に立った。
とにかく、彼女が炭を持ってきてくれたことに変わりはない。
「お代はその棚の上、そこから持って行っちゃって」
手元が離せないために、傍らの食器棚に乗った瓶を目線で示す。瓶の中には売上と釣銭用に小銭が詰められ、ここ最近は小銭の処理を億劫に感じる有様だった。
妹紅が「ん」と了解の声を出すと、売上が詰まった瓶を開けにかかる。手汗で滑ったのか、服の裾で一度手の平を拭って蓋を掴み直した。
「大将、サワーと焼き鳥おかわり!」
「大将でも鳥でもないって言ってるでしょうが」
客席からの声に顔を上げる。帰って来たジョッキに対して、気持ち適当に、酒を作る。
そうこうしているうちに妹紅が会計を終えたようだ。片手にお金を見せながら、私の足元に籠を置いた。
彼女の手が握り込まれ、小銭の部分がじゃらりと音を立てた。
「こっちが回収用?」
妹紅は一つ確認してから、隣にあった灰用の籠を手に取る。炭の販売と同時に妹紅が灰の回収も行ってくれるため、私は未だに、正しい灰の処理の仕方を覚えていない。
「いつも悪いね」
「なあに、込みの代金いただいてますから」
手が空いたところで傍らを見ると、既に妹紅が屋台の外に灰を運び出しているところだった。
底に敷いてあった新聞紙の隙間から灰が溢れ、足元に僅かな跡を残す。
背後では燃料を再充填した妖精を中心に、順に各々の意見を語り合う場が出来上がりつつあった。
妹紅は私の手が空いたのを確認する。それから服の隙間に突っ込んであった小道具を、指で回して遊んでから私に差し出した。
「それと、“着火さん”。そろそろ限界の時期だろう」
「わあ、ちょうどつかなくなった時だったのよ。ありがとう」
ほらほら。と。妹紅に現状を示すように現行の着火さんを手に取り、指に力を入れる。
私の流れではそこでカチカチと不発を知らせる音が鳴るはずだったのだが、意外にも、着火さんは一回目で煌々と灯を点した。
気まずくはないが、眉根はぐいと寄る。この、気まぐれなやつめ。
「ま、限界が近いのは違いない」
妹紅は肩を竦めてから、取っておけと言うように手を振った。
「便利になったよねえ。手軽に火がつけられるようになって、保冷も楽になって」
「火がつけられるのは、妹紅も同じでしょう」
それこそ着火さんのように、指先で炎を踊らせる様を見たことがある。この炭も、妹紅が楽に火を使えるから量産しているのだろう。
便利だから教えてよう。
私がねだると、妹紅は呆れるような、返事に困ったような顔をした。
「お前、本当に妖怪だよな」
真っ向から投げ掛けるには、あんまりな言葉だ。
私が頬を膨らませて返事の代わりにすると、妹紅は頭を掻いて息を一つ吐き、話を変える。
「あと今日は、これ」
肩に掛けていたもう一つの荷物。白いプラスチックの箱をどかりと下ろし、片手で指して言葉を止める。
迷ったように宙を手でなぞった後、もう一度だけ頭を掻いた。
「それ、猪の肉。獲れたから、後で食いな」
なんと。
手元で作業をしながら、喜びから目が輝く。
夜雀の身分では、狩るのにも一苦労する代物だ。
私が素直に礼を言うと、妹紅は満更でもなさそうな顔をして表の客席へ向かい始める。
私の頭の中では客席の話題はすっかり抜け落ち、猪肉の風味と味付けに占領されていた。
「じゃあじゃあ、早速火にかけちゃおうね」
すると妹紅が立ち止まり、切り返すように言葉を挟んだ。
「忙しいだろ。ゆっくり、自分で食べな」
「でもせっかく取ってくれたのに」
「いや、いい。今日は鰻を食べに来たんだ」
強くはないがはっきりと言われ、反射的に「あらそう」と口にする。
口が猪肉でないのならば、しょうがない。別に落胆の念にまみれた「あらそう」ではない。
紅妹がぐるりと屋台を回り込み、角席に座る。防犯のためか、灰の籠は隣の入道使いとの間ではなく、一番外側に置いた。
「升酒と鰻の方、頂戴」
「あいあい、了解」
妹紅が肘を着いて待つ間、先の三人が議論を続けつつも声量を絞り始めたのが少し可笑しかった。
● ● ● ● 藤原妹紅の意見
今日は楽しく盛り上がっているな、というのが第一印象だった。
空いていた端の席に座った私の隣から順に、僧と入道、妖精、妖怪と並んでいる。明るい妖怪で騒がしいのは普段のことだが、この屋台はこれほどまでに多様な交流の場だっただろうか。
隣の集団は私が着いたからだろうか、少し音量を下げ、何やら議論に花を咲かせているようだった。
盗み聞きする気はなかったが環境によるだとか、祝福する気があるなら根は優しいだとかが聞こえてきた。なんだろうな、僧も居るし道徳でも説いているのだろうか。
カウンターの内側、時計の隣にかけられた日めくりカレンダーを眺めながら升酒を舐めていると、程なくして数本の串焼きが出てきた。
「ほいおまち」
酒で熱くなった喉と口内に意識を向け、頬の内側を舌で撫でてみる。高揚する気持ちからやはり間違いなく鰻の気分だったようで、目の前の好物に思わず唾を飲み込んだ。
いただきます。
手を合わせてから利き手を汚さないように串を持ち、身に食らいつく。
脂が垂れないように皿の上に顔を出していると、隣の客に出された枝豆のざるが横を通り過ぎる。
何となく動くものを目で追った拍子に、隣の客と目が合った。
彼女はすぐに他の客との話に戻ったが、逡巡した後、思い直したようにこちらに顔を向けた。
「ごめんね、別に絡むわけじゃはなくて、あたしらのどれかに一票を入れてほしいんだけどさ」
喉の奥で適当に発声し、返答に替える。
狭い屋台だ。顔見知りでない者に話しかけられるのもさほど驚くことではない。
「誕生日って、祝うべきだと思う?」
うん?
予想よりも話の背景が読めなかった。
ちらりと女の後ろに目をやれば、妖精と妖怪も会話を止めてこちらに目線を向けている。私が何と言うのか気にしている様子だが、こちらとしては、目が潤んだのか、顔を擦ったのか。手前の女の化粧が気になる。
長い説明が始まる気配がしたため、経緯を辿る気にはならなかった。問に対して一瞬だけ考え、ぱっと纏まった答えを口に出す。
「別に、普段通りでいいんじゃないか。誕生日なんて、年が経つにつれてやがて意味が薄れてくものだろう」
発してから、少しばかり後悔をした。水を差すようなことを言ってしまっただろうか。
人の目を警戒するように、半身に気を向ける。しかし、そんな私の不安をよそに三者は「それ見たことか」「やはり私の説法は受け入れられないのか」「いいや普段から祝う気持ちなら私と同意見だ」などと更なる盛り上がりを迎えている。
外れた視界の外で、一人考える。
記憶に結びついた記念日は、必ず風化していく。概ね時間と正比例に。
人間同士ならまだしも、成熟した妖怪や私のような立場にとっては誕生日も「そんなこともあったね」程度の事だ。
だとしても。
「それでも誰かに祝ってもらうに越したことはないと思うけどさ」
長い千年間。自分の手元を他者と比較して、他人の人生に嫉妬したり、逆に蔑んで過ごした時期もあった。
その物差しとなる曖昧な幸福感という言葉は貨幣と違って形がなく、他者から奪うことが出来ず、減らすことしか出来なかった。逆に、自らの持ち分を減らさずに増やしてやることはできた。
幸福の絶対量が多くて困ることは、絶対にない。
三者の中間点を探そうとして、妥協のような言葉が漏れる。残念ながら宥めるために発した筈の言葉は声量が足りず、皆の耳には届かなかったようだ。
不思議と不満の念は湧き上がらない。
誰が聞いていなくても構わない。千年かけて腑に落ちた、私なりの幸福論だ。改めて口に出してみても、間違っているとは思えなかった。
自分の思考を整理しながら、片手で持った升を傾ける。それから何気なく照明へ目線を動かすと、煙の向こうの女将と目が合った。
彼女は私の発言が聞こえていたのか、そうでないのか。
きょとんとした顔で、ただこちらを眺めている。
● ○ ○ ○ ミスティア・ローレライの閉店
先程まで会話の場だった席が空いていき、人が散って行く。片付ける際は、やはり少しだけもの寂しい。
土蜘蛛はこれから地底で宴会があるらしく、そちらに向かうべく適当なところで出ていった。妖精は昼の充電が尽きたのか、子供のように目を擦り、眠たそうに出ていった。
入道使いは最後まで妹紅に語りを尽くしていたが、やがて肘を着き舟を漕ぎ始め、財布を抱えて突っ伏してしまった。後ろの雲妖怪も形が曖昧になりこくりこくりと揺れる様。閉店間際にどうしたものかと思っていたところ、寺の者だという鼠妖怪が現れ、彼女達を回収して帰っていった。
「ありがとうございましたあ」
小さな体躯を感じさせない、慣れた様子で肩を支える背中を見送り、なんとなくいつもの見送りの言葉をかける。
「さて」
暖簾を戻り、布巾を絞って静かになった店内を見渡す。
伝書烏の後にやってきた妖怪に持ち帰りの品は渡したし。残っている仕事はなかったはず。
角の席に一人残った妹紅は壁の時計を眺めながら、僧の残したつまを頂いていた。
彼女は私が見送りを終えたことに気が付くと、箸を置き、升を一気に傾けた。
「もう店じまいかい」
「ちょっと、近々仕込みの予定があってね」
妹紅は「そうかい」とだけ答えて席を立ち、ポケットに手を突っ込む。
それから探るように目線を動かした後、無造作に取り出した紙幣と小銭を卓上に置いた。
「ごちそうさま。今日は夜ふかししないで寝ろよ」
夜雀に何言ってんのさ。暖簾を下ろし、振り返りながら言った言葉は背中を丸めた妹紅を掠める。
片手に灰の詰まった籠を持ち、背を戻しながら立ち上がる。
「その持ち上げ方、腰痛めるぞう」
「体が弱くなる一方の妖怪は辛いねえ」
妹紅にその話題はまずかったか。
僅かに後悔したが、声色は機嫌が良い時のものだった。むしろ妹紅の方が一瞬固まってから振り返り「あー悪い、嫌な言い方だったな」と普段のさっぱりした笑顔を見せた。
「それじゃ、またね」
新月に照らされた彼女の背中を見送り、今度こそ全ての皿を引き上げる。
カウンターを拭った後の布巾を絞りながら顔を動かすと、ふと視界の隅のカレンダーが目に留まる。
じっと眺めて、違和感の正体に気がついた。
日付と一緒に記載されている月齢予報が新月を示していない。どうやら日めくりを忘れてしまっていたらしい。
無造作に破り捨てるのは纏めて千切れる原因となるため、水分を切った指先でカレンダーを押さえ、ゆっくりびりびりと引き剥がす。
おや?
新月の記載を目指して2枚ほど紙を剥がすと、赤インクで記された手書きの丸が見えた。
水無月初日の日付に、丸が付いている。
これは私が付けた丸印だ。自分のために定めた、キリの良い日付の、後決め誕生日。
紙の中心、丸印と共に記載された数字から少し目線を動かす。
隅の月予報は、間違いなく新月を示していた。
少し記憶を遡る。
今日ヤマメが参加を話していたのは、確か新月会ではなかったか。ならば、カレンダーのこの用紙が、今日の用紙ということになる。赤い丸が付いているのも、今この日。
すると、芋づる式に結論が出る。
「私の誕生日、今日だったわ」
紙の前で首をかしげて、誰にともなく報告してみる。それから瞬きを数度して、一人で可笑しくなって吹き出した。
以前から紙に印まで付けて、あんな回答をしておいて。実際は日付を間違えるほどに曖昧ではないか。
嗚呼、可笑しい。
これは当分の話題ができてしまった。
頬を緩ませながら机に布巾を走らせていると、視界の端に映ったものに意識を吸われ、手を止めた。
カウンター下に置かれ、誰かに開けられるのを待つクーラーボックス。中身はたまたま取れたという、猪の肉。
もしかするならば。
指先に油が付いていないことをよく確認してから、そっと蓋を開けてみる。中から溢れた冷気が手のひらを撫でる。
水とは違う、氷特有のにおい。
それに包まれていたのは白目を剥いた猪でもなく、ぶつ切りにされた毛皮付きでもなく。画に描いたように切り揃えられた、厚みのある、僅かに脂の乗った肉だった。
少し考えた後、予定を変更することにした。一人用の網を暖めながら、彼女の手間に鼻息を吐く。
「急に獲れた猪を、こんな綺麗に捌くわけないじゃない」
素直じゃないんだから、かわいいところもあるじゃない。そう言ったなら、また肩を小突かれるだろうか。
不意にやってきた誕生日に、鼻唄がこぼれた。
ハッピーバースデー・トゥー・ミー。
着火さんがどんなのか見てみたい……
面白かった
ハピバ
飲みに行きたいなぁ
高評価ありがとうございます。
山とオチを探して、事件が起きないのもいいのかと思い悩みながらの投稿でした。お気に召したなら幸いです。ありがとうございます。
>きぬたあげまき 様
駆け足気味だったので少し違和感が出てしまったかもしれません……それにしても「一輪」はうっかりしてました! 早々に直させていただきました。
内面描写ができていたなら幸いです。ありがとうございます。
誕生日についてみんなそれぞれ独自の考えがあってとてもよかったです
オチもミスティアらしくて素晴らしかったです
正直不慣れな日常もの、楽しんでいただけて良かったです。
皆さんハッピーバースデーです。
>のくた様
屋台はほぼ行ったことがないので理想半分、良いとこ半分です。
やはり幻想郷と酒は切っても切り離せないと感じます。
>6様
中盤で盛り上げる話でもなく、こうなったら読後感重視で、としていたので
そのお言葉がうれしいです。お気に召して幸いです。
>南条様
改まってする会話でもないので、住民同士でも結構認識が違いそう。
一抹の不安はありましたがうまくオチてたようでよかったです。
>夏後冬前様
やさしいせかい。
永夜抄風神録ぐらいの面々は暖かい話に落としやすい気がするのは、世代バイアスでしょうか。
>東ノ目様
少し目まぐるしいかなと思いましたが、読みやすかったのなら幸いです。
キャラの書き分けに関して、とてもうれしいお言葉です。
ほっこりしてよかったです。
ミスティアかわいい、ハッピーバースデー!